554 淀 姫 ④ 平野雅廣「異説ヤマトタケル」+ みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について
20131122(20171227再編集)
太宰府地名研究会(日田市)古川 清久
平野雅廣「異説ヤマトタケル」ネットでも手に入らないものですので資料として公開させて頂きます。
ヤマトタケルの熊襲退治の舞台は、佐賀の大和のことで、討伐に来たオウスも肥後の熊襲であり、その神話を盗んだのが近畿大和王権であることが「松野連系図」により分る。
熊本県在住の九州王朝論者故平野雅廣氏
松野連系図
松野連系図は国立国会図書館ほかに所蔵されているが、熊本の松野一族(松野鶴平、雷蔵)と推定されている。「松」は木+公=木の君を意味し、呉王の姓=姫を意味する?
系図には取石鹿文が二人出てくる。誅伐された川上タケル方と名を貰った方のようである。
淀 姫 ④ 補足 “みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について” 20170610
五年ほど前に淀 姫(ヨドヒメ)という長文をネット上に公開していますが、これを公開した後に、福岡県みやま市の旧高田町江ノ浦に淀姫神社があることに気付きました。
最近でも、みやま市山川町甲田1949 に未踏の淀姫神社を見出だしたことから、改めて調査をやり直す必要を感じているところです。
この背景には、佐賀県の嘉瀬川以西が淀姫神社のエリアであるとの思い込みがあったからです。
思えば、京都の伏見に與杼(ヨド)神社(京都市伏見区淀本町167 075-631-2061)があり、それにちなんで新大阪の横を流れる川が淀川と呼ばれているのですから、酷い思い込みであった事を思い直しているところです。一応、伏見の淀姫神社も確認のため掲載しておきます。
與杼神社由緒
與杼(よど)神社は、淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神として鎮座しています。
祭神は、中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)向かって右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)向かって左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱であります。
この神社は、僧の千観内供が応和年間(961年~963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まるとある。しかし、延喜式(901年~)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。
元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。(当時は、ここを乙訓郡水垂村といった)
桂川河川敷の拡幅工事が実施されることになったので、本殿以下の建物は、明治33年5月24日付の神社移転許可により、明治34年7月移転工事に着工、翌年5月完成、明治35年6月21日、神社のすべてが現在の淀城址内に遷座されました。
なかでも本殿・拝殿は明治年間に移築・遷座が行われたにも拘らず、良く当初の建築様式を保存していたので、昭和46年6月22日(同年3月26日内定)に本殿(本殿内の木造狛犬一対を含む)と拝殿の二棟が国の重要文化財に指定されました。
しかし、残念ながら本殿は、昭和50年8月5日午後4時30分頃、未成年者達の花火(飛翔性花火)遊びにより国指定の貴重な重要文化財は全焼してしまいました。 同社HPによる
高田町の淀姫神社です。