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556(後) 古川という家系について ① “古川とは何か?”

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556(後) 古川という家系について ① “古川とは何か?”

20180124

 太宰府地名研究会 古川 清久


その事を証明するように、この奈良麻呂の変の立太子(廃太子)道祖王の墓が現在でも杵島山の麓の武雄市橘町楢崎の一角に残されています。これもひぼろぎ逍遥のバック・ナンバーをお読み頂きます。

020 佐賀県に奈良麻呂の変(743)の廃太子道祖王の墓がある 奈良麻呂の変の廃太子道祖王の墓地


556-5

杵島山周辺でも、最も重要なポイントが、この道祖王の墓地でしょう。

現在の天皇制が確立するのは、橘 諸兄の死と、その後の奈良麻呂の変による橘氏の中級公家への零落が契機となっているように思えます。

ここから事実上の藤原天皇制が確立したのであり、以後、現在までその専横は続いているのです。

では、なぜ、この地に廃太子とされた道祖王の墓地があるのでしょうか?

それは、ここが橘氏の拠点であったからに他ならないのです。


757(天平宝字元)年3月、孝謙天皇は、道祖王が喪中にも関わらず侍童と密通したとして、皇太子を廃太子にしました。 
 4月、孝謙天皇(25歳)は、新しい皇太子を公募しました。右大臣藤原豊成は、道祖王の兄である塩焼王を推薦しました。左大弁大伴古麻呂は、池田王(舎人親王の子)を推薦しました。
 藤原仲麻呂は、孝謙天皇が選ぶべきと進言しました。孝謙天皇は、不行跡の道祖王の兄である塩焼王は不適当でり(ママ)、池田王は親不孝であり、大炊王(舎人親王の子)は悪い噂を聞かないので皇太子に立てると提案し、群臣も賛同しました。
 大炊王は、藤原仲麻呂の長男である真従(早世)の未亡人粟田諸姉を妻としており、仲麻呂邸に同居していました。大炊王の立太子は仲麻呂の強い希望であったことがわかります。
 7月、橘諸兄(74歳)が亡くなると、その子奈良麻呂(37歳)は実権を失いました。仲麻呂の台頭に不満を持った奈良麻呂は、大伴古麻呂らと挙兵し、仲麻呂殺害・孝謙天皇廃位、塩焼王・道祖王らの即位を計画したとして、密告され、殺害されました。この計画に連座したとして、古来の名門である大伴氏や佐伯氏らが逮捕されました。
 前皇太子の道祖王も謀反の容疑をかけられ、藤原永手らの拷問を受けて、獄死しました。これを橘奈良麻呂の乱といいます。
 8月、孝謙天皇が譲位し、大炊王が即位して淳仁天皇(25歳)となりました。

hp「エピソード日本史」より

概略は以上のようなものですが、橘 諸兄は縣(橘)犬養三千代の子であり、奈良麻呂は、また、その子、三千代の孫になります。

では、なぜ、道祖王の墓(ドウザノボチ←ドウソオウサマノボチ)がこの地にあるのでしょうか?橘諸兄が太宰の権帥のとき、配下にいたのは吉備真備でした、諸兄の後に真備が太宰の帥になっていますので、真備に匿われた可能性はあるでしょう。

何よりも、奈良麻呂の変の時期にも、和泉式部参内の時期にもこの杵島山一体と中央には残存橘氏のルートが存在していたと思われ、もしかしたら、橘氏の本貫地の一つであったのかも知れません。

こうして見てくると、この万葉の杵島山の周辺は古代において重要な領域であったようです。

だからこそ百済の王族らの亡命避退を受入れ、九世紀に於いても恵果阿闍梨から万巻の伝授を受けた空海が密かに帰国上陸したのでした。

さらに言えば、通常、古代の基諱郡(佐賀県基山町)と見られていますが、橘一族(紀氏)が拠点としていたからこそ杵島と呼ばれたのではないでしょうか、そうでなければ道祖王の墓があるはずはなく、その正面の潮見神社に橘 諸兄や河童が祀られるはずもないのです。

また、この橘氏の伝承があったからこそ、明治期に橘村と付されたのであり、和泉式部も中央に参内できたのではないでしょうか?

そのこと知っていたからこそ、頼朝の許しを得て橘 公業(キンナリ)は伊予から所替えするのです。

別の話になりますが、後にこの橘氏は渋江、牛島、中村の三家に分かれ、主要な渋江は肥後の菊池に移動しますが、それから先の話はまた別の機会に。

道祖王の墓地は普通では全く分からないところです。現地に行きたい方は、武雄市橘町の橘小学校付近まで行き、まず、おつぼやまの神籠石を見つけてください。神籠石の見学ポイントは通常二か所ですが、古川製陶所付近から東側にある神籠石入口付近まで進み、さらに東に三百メートル進んだ山際の長崎街道そばに現地があり掲示板があります。


当然にも橘諸兄公を祀る潮見神社もあります。


ひぼろぎ逍遥 

018  佐賀県に橘 諸兄を祀る神社がある 潮見神社


橘 公業(キンナリ)

武雄市橘町永島にある神社。旧郷社。祭神は上宮が伊ザナギ命・伊ザナミ命,中宮が神功皇后・応神天皇・武内宿禰・橘奈良麻呂・橘公業。下宮は今はないが,渋江公村・牛島公茂・中村公光を祀っていた。社伝によれば,往古この地は小島で島見郷と称し伊ザナギ・伊ザナミ2神を祀っていたが,その後橘奈良麻呂が恵美押勝との政争に敗れて当地に逃げのび土着したと伝える。

さらにその子孫の橘公業が嘉禎3年(1237)にこの地の地頭となって赴任し,奈良麻呂の父橘諸兄をも合わせ,その他諸神を配祀して鎮守社としたと伝える。平安期安元22月の武雄神社社憎覚俊解状(武雄神社文書/佐史集成2)に「御庄鎮守塩見社」と見え,武雄社と並んで長島荘の鎮守の1つとされていた。また同地の橘氏の流れをくむ武蔵橘中村家の文書,寛元元(1243)年96日関東御教書案(鎌遺6235)には,99日の流鏑馬を土地の者が勤めないとあり,この流鏑馬は潮見社の祭礼に関わるものと考えられる。

当社には昔肥後国菊池経直が祭礼の流鏑馬に落馬して葬られたと伝える墓がある。…(中略)…

当社は河童の伝承を有し,これは橘公業が当荘赴任の際に全国の河童がつき従って当地にやってきたためと言い伝えている。社蔵の御正体(市重文)は元禄51692)年の再興銘を持つが,その銘に「本興建久六乙卯九月一日」とある。以上、元地名研メンバー牛島稔大のhp「牛島さんたちのル-ツに迫る」


ここまで、読まれた方は、橘諸兄の一族が、杵島山の一帯にいたからこそ、和泉式部が中央の橘 道長の妻になることができたのだとお分かりになったのではないでしょうか。

時代は異なりますが、奈良麻呂の変の時の太宰帥は吉備真備でした。

そして、橘 諸兄が太宰帥の時の副官は吉備真備だったのです。このよしみから、敗北した橘一族の一部がこの杵島山一帯に匿われた可能姓は否定できません。

もし、それが正しかったとしたならば、潮見神社に橘 諸兄が祭られることも、廃太子としての道祖王の墓があることも、鎌倉期に橘 公業が伊予から入ってきたことも、合点が行くのです。

さらに言えば、奈良麻呂の子島田丸がなぜ兵部大輔に抜擢されたのかについても、別稿とするため詳しくは触れませんが思い当たることがあります。

それは、杵島山と筑波山の歌垣の存在です。現在でも中国の少数民族が歌垣を行い、また、鼓楼や呉橋を造ることは知られています。

彼らは現在でも、一切釘を使うことなくプレカットされた杉材で、一夜にして高楼に組み上げることができるのですが、その技術をもったビルマ・タイ系の技術者集団が、杵島山と筑波山一帯、少なくとも杵島山周辺にいたとして、また、島田丸がそれを束ねることができる立場にあったとすれば、兵主を使い、一夜にして春日大社を完成させることができた事も納得が行くのです。


556-7


556-8

そうです、後の橘氏にも繋がる一族は、古くからこの地にいた可能性があるのです。


この公業の流れが渋江、牛島、中村の三家と名を変え、公忠(兄)の流れが熊本県氷川流域に留まり後に宮原と姓を変え、宇土、人吉、その他に展開しているのです(公忠という名は別人も現れ要注意)。


ひぼろぎ逍遥 

020 佐賀県に奈良麻呂の変(743)の廃太子道祖王の墓がある 奈良麻呂の変の廃太子道祖王の墓地

による

美奈宜神社(みなぎじんじゃ)は、福岡県朝倉市林田にある神社。

祭神 今から1800年前、父君景行天皇の教えにそって、仲哀天皇は皇后と熊襲を征伐されたが、不幸病にかかり崩御された。皇后はこのことを秘し、その根幹新羅を討つべく、出師の計画を立て、兵員を集め、兵船・軍器を整え、神々を祭って日本最初の外征に肥前名護屋から出征していった。皇后は航海中船中で素戔嗚尊・大己貴命・事代主命の3神に戦勝を祈願された。

海上つつがなく船は新羅の港に到着し、戦端は開かれた。戦いは連勝し3カ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗・百済も来貢し、肥前・高橋の津に凱旋された。そのあと戦争に勝利を祈られた3神を祭られた。その神が美奈宜神社の3神である。

ウィキペディア(20180125 1012による


556-9朝倉市にはミナギ神社と呼ばれるものが二つあります。


福岡県朝倉市林田210(旧蜷城村)の美奈宜神社


一つは、朝倉市荷原2421(旧三奈木村)の 美奈宜神社で、もう一つは、今回、取り上げる朝倉市林田210(旧蜷城村)の美奈宜神社です。


「…戦いは連勝し三ケ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗、百済も来貢し、肥前、高橋の津に凱旋された。…」と、書かれていたのです。

…神功皇后新羅御討征ノ折船中ニ於いて大己貴命、素サ鳴命、事代主命ノ三神ニ勝軍ノ始要ヲ折ラレ異賊ヲ討チ肥前国杵島郡高橋ノ津ニ帰還東上ノ途中、宮ヲ造リ三神ヲ祭リ給フ。…

(同社御由緒)

083 朝倉市林田の美奈宜神社社伝に驚いた! 神功皇后は肥前の高橋津に上陸し武雄(柄崎)温泉で湯浴みした”                                 ひぼろぎ逍遥による


 話は変わりますが、台北の古川家は父を含む八人兄弟のうち病死の一人を除き、戦争でも一人も死んでいません。一方、母の北御門家は五人兄弟で二人が戦死しています。

 その背景には台湾が空襲も戦闘も行われなかった事と、祖父が有力者だった事が関係していたと思われるのです。所詮、個人の力ではどうにもならない運命と言ったものと同時に、不平等、不公平が共存している事が良く分かります。

 もう一つ、父が早い内地送還となった事については“台北と言う自由な環境で育った父は将校でありながら兵営で「聖書」を読んでいた事が咎められたことから重営倉(懲罰倉)に入れられた”という事でした(海軍兵学校でも敵性語の米英語教育廃止の機運が上がったというのですが、井上成美校長は反対したという戦後になって過剰に誇張された話もありますね…)。クリスチャンと言うほどの人ではなかったのですが、元々社会に適応できなかったのは私と同様であって、蛙の子は蛙でしか無い事が良く分かります。しかし、そのおかげで私も存在しているのであって、奇妙な縁であることはその通りです。

 従ってそうなると何故航空士官学校を志望したのかと言う問題に出くわします。

それは兄に続き早稲田を目指したのですが、祖父の銀行の経営が思わしくなくなり、学資が要らない道を選んだのでした。こうして、武官など全く向かない人物がシンガポールにまで行った事に不幸が招来したのでした。少なくとも、対米戦争に旗を振ったようなさもしい人物ではなかった事だけは間違いなかったようです(それが私の唯一の誇りではあります)。しかし、あの時代も人生を狂わされた人々は数百万と言わず出たのでした。空襲で家を焼かれた人々、財産の一切を失った人々には何の補償もないのです。

 その一方で、軍の秘密資金や物資の横流しで創られた不正資金で戦後の対米追従政権も成立しているのです。満州アヘン人脈…、M資金、CIA工作、東京裁判…そして、戦争で多くの将兵を死に追いやったとして自決した特攻の指揮官の大西瀧次郎や終戦の詔勅が出された後沖縄へと特攻へと出撃した五航艦の宇垣 纏…がいる一方で、直ちに占領軍に尾を振り米軍に協力した岸 信介(安倍○○の祖父)やCIAの試験を受けた中○根○弘も特高警察の最高幹責任者のような正○○太郎(某最大手新聞社社主)もいたのです。その延長上に米国による占領が続く日本の富は持ち出され続けているのです。


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