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557 古川という家系について ② “服部英雄著「景観にさぐる中世」から”

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557 古川という家系について ② “服部英雄著「景観にさぐる中世」から”

20180124

 太宰府地名研究会 古川 清久


「肥前風土記」の中に「郡の西の方に温泉の出る巌(いわや)あり、…」と記された武雄温泉(旧柄崎温泉)があり、武雄市の中心地にもなっています。

ただ戦前までは、この武雄町よりも船が揚がる高橋の津がある高橋宿の方が賑わっていたとも言われています(JR佐世保線の下りは高橋駅の次が武雄温泉駅)。

 実は、古川家の本家も廻船業に便利なこの高橋の津にあったようで、事実、当家の菩提寺も墓地もこの高橋にあるのです。


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現在、国土交通省による一級河川の流域指定によって本流の潮見川を六角川とし昔の呼び名を消していますが、武雄町から東流する武雄川、北流する本流の潮見川(現六角川)、南流する高橋川の三本の河川が集中するのが高橋~鳴瀬辺りなのです。事実上は古有明海の干潟の澪筋であり、古くは上下8メートルもあった干満の度に、一気に潮が上がり一気に潮が引く場所が「高橋」であって、六角川右岸の「鳴瀬」(円内)だったのです。この潮+水が一気に集中する時の轟音が鳴り響く土地だったが故に「鳴瀬」と呼ばれたのでした。現在、水田として利用されている農耕地の大半も、古代には有明海の潮が上がっていた干潟だったのであり、事実、大日堰では近年の調査でもフグが確認されており、この鳴瀬からほんの一、二キロ下った所でも江戸期に10メートル程度のコク鯨が捕獲されているのです(「多久の殿様日記」)。

557-2絶滅した克鯨
 一九九九年(平成一一年)七月五日付「西日本新聞」に、"幻の鯨六角川をさかのぼった!?"多久市に伝わる江戸中期の絵図「絶滅した克鯨」と推定 という記事があります。

 多久市に伝わる江戸時代中期の絵図「鯨図」に描かれた鯨について、長崎大水産学部の柴田恵司名誉教授(七四)=長崎市石神町=が「日本近海では絶滅した(こくくじら)と推定される」と鑑定した。絵図は有明海に注ぐ六角川を河口から約一二㌔さかのぼった地点で描かれており、柴田さんは「回遊性のある克鯨が迷い込んだのだろう。川に上がった鯨の絵図は全国でも例がないはず」と語り、近く海事史研究史で発表するという。
 この絵図は、多久市郷土資料館が所蔵する「新橋江筋入込候鯨図」(縦約五十二㌢、横約百十㌢)墨書きで、一七三九(元文四)年作。場所は旧志久村(現在の北方町)の六角川上流との添え書きがある。旧多久藩の「多久御屋形日記」にもこのときの記述として「大魚が入り込んだ」と記されている。

太宰府地名研究会 「杵島」より


 武雄市を貫通する佐世保線の南側は標高が低い干潟起源の土地であって、現在でも人家が少ない事に示されるように、元々住み着くべきではない土地なのです(つまり大規模な干拓堤防の決壊が起これば本来海没する)。このような場所で私のご先祖様は生き抜いてきたのであって、杵島山、高橋、鳴瀬辺りを拠点に水運、海運に携わって生活していたのだと考えられるのです。

そこで、古川家のルーツが見えて来るのです。

鎌倉期辺りを考えた時、この一帯の穀倉は杵島山の西麓一帯だったのです。

 それが、元九州大学大学院におられた民俗学者であり地名の研究者でもあった服部教授の著書に書き留められているのです。


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556 古川という家系について ① でも取り上げたように、鎌倉期からこの一帯に住み着いたのが橘 公業の一族だったのです。

最終的にこの名族はこの地を守り抜くことに失敗し、一流は長崎県の波佐見に、一流は肥後の菊池氏の傘下に、一流は滅ぼした後藤氏の傘下に入ったようですが、源 頼朝の配下として東北を転戦した後、伊予から望んでこの地に入って来ている事の背景には、橘一族の故地の一つがこの杵島山一帯であった事にあった事を知っていたとも考えられるのです。

そう思わせるものに、泉 式部 参内への話があるのですが、それは太宰府地名研究会「杵島」の4、6などをお読み頂ければと思います(式部は橘 道貞の妃となっている)。

 勿論、天御中主命、白川伯王以来の白族の本願地は熊本県の八代から氷川に掛けて、そして熊本の中心部だったようなのですが、武装商船隊を率いていたと考えられる大幡主系の人々は有明海の対岸の湾奥地の杵島山一帯をも支配地にしていたはずなのです。

 その事は、今後公開予定のひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ版をお読み頂きたいと思います。

ひぼろぎ逍遥でもダブル公開とします。


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火の君とは歴代の橘一族だった ③ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “橘氏とは白族だった!”

546

火の君とは歴代の橘一族だった ② 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “雲南省~海南島~九州”

545

火の君とは歴代の橘一族だった ① 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の白族”


その事によって橘一族がこの杵島山一帯を重要な拠点としていた事がお分かり頂けるのではないかと思います。


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鳴瀬神社から内側の御船山、武雄市中心部を望む(写真提供:松尾紘一郎)


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話が逸れましたが、服部研究の「景観にさぐる中世」第Ⅲ部第六章には「肥前国長嶋庄と橘薩摩一族」についても書かれています。

 この杵島山西半部(服部教授の用語)の橘一族を辿る上で第一級の資料中の資料と考えられます。

 私自身は地元の郷土史家でもあった吉野千代次先生(元橘小学校校長)からこの橘一族について教えを頂いたのですが(妹も橘小学校に勤務していました)、現在、吉野千代次先生の講演録はユーチューブで全て公開されています。

 今でも橘町の吉野先生のご御自宅にお伺いし、橘一族や杵島山、常陸の国風土記の歌垣の話などお聴きした十数年前の事が思い出されますが、最も印象的だったのは、“中国の少数民族地帯の鳥居の上に実際に鳥の形をしたものが置かれていたのを見たが、実は杵島山の中の小さな祠の鳥居の上にも同じものを見たことがある…”と言った話でした。勿論、橘一族のルーツである白族も中国の少数民族地帯を起源としているのです。現在、故)百嶋由一郎氏の説を残すために、この橘一族が白族起源であることを展開しているのですが、これもその傍証であり、私が百嶋神社考古学に魅了された淵源もその辺りに有ったのではないかと思うものです。


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服部教授の著書には


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著書にもこの一帯が巨大な穀倉地であった事が出て来ますが、国土交通省による潮見川(現六角川)の河川改修工事の時に鎌倉期と思える古い河川土木工事の跡が発見されていたのです。

 これについても吉野先生から入府した橘 公業が土木工事を行い潮見川の河道を替えることによって干潟を乾田化させ、大きな耕地を生み出した可能性があるという話を聴いていました。


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それは、当時は杵島山の山裾を流れていた潮見川を西に振る事によって耕地を生み出すとともに、それを守る半ば防衛用の堀ともしたのではないかと思えるのですが、そこで、気付いたのが服部教授の著書487pにも登載されている地図Ⅴ-3 武雄市の条里制復元図でした。それに東川(古川)と書かれていたのです。

 一般的な地図には「東川」と書かれていましたし、吉野先生からも「東川」と聴いていましたので、「古川」とも呼ばれていたという話は初耳であり、これまで全く頭に入っていませんでした。

 もしも「古川」が旧潮見川の痕跡地名であったとすれば、これほどぴったりしたものはなく、自然の反乱によって河道が変わる事から「古川」という呼称が成立した延長上に、人工的に河道が換え(替え)られたものでも「古川」と呼ばれたものである事を示しているように思えます。

 その呼称の川が橘一族の本流と考えられる根拠地の東側を流れているとすれば、古くからこの地で廻船業を行ってきた古川の一族がこの旧河道の「古川」を誇りを持って自らの名としたとしても決しておかしくはない上に、私のご先祖様がこの傍に住んでいた事さえも想像させるのです。

 実は、この六角川の中流域の佐賀県江北町八町地区にも残留河川としての古川があります。


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始めはこちらが古川一族の拠点だったのではないかと考えたこともあったのですが、墓地の位置などを考えると、橘村(明治期に「橘村」とされた)の古川こそ相応しい事に気付いたのでした。


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この古川が橘氏本流の本拠地である館の付近を貫流している事を考える時、古川一族が橘一族の配下として動いていた事、橘 公業の時代以降(鎌倉期に同地に進出)の付け替えによって古川地名が成立していることから、それ以降の姓である事、橘一族さえもが渋江、牛島、中村、(中橋)の地名から自らの分家の姓を付していることから、古川もそれに倣ったのかも知れないといったことが…が見えて来たのでした。

 いずれにしても古川一族の本家の墓地を見ながら当家の墓の掃除に行っていたのですが、百年近く前から切石の盤石が敷き詰められ欄干付の塀に囲まれた大きな石塔の墓を見た時、ただならぬ一族であったとまでは承知していました。どうやら古川の一族も橘氏の下級の一族だった事が見えてきたのでした。

 特に面白いと思ったのは、潮見川、武雄川、東川(古川)、朝日川が集中する所に、樽正津、舟津があるのです。


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舵取りとは梶取(カジトリ、カンドリ)とも表記されますが、「勘取」と表記される例もあるようです。

恐らくこの地区に住み着いていたのだろうと思うのです。

以前、大牟田市で有明海に注ぐ小河川と言うか海水が入る小河川の樋門(古い時代の河口堰のようなもの)がある一帯を環境問題にかかわるテーマで諏訪川の関連河川を訪ねたことがありましたが、その樋門の傍に小さな祠が置かれていて地元の女性が「カンドリさん」と呼んでいたのを聴いた事がありました。

きっと、「舵取り」の意味だろうな…と思ったのでしたが、同時に地名でもあったのでした。

結局、航海の神様としての塩土翁(大幡主)かその子龍王=ヤタガラス、宮地嶽さん…といったもののいずれかだったのだと理解しています。

分からなくなってしまい既に舟玉様のような民間の土俗信仰に堕落してしまっているのですが、舟玉=舟魂さんも実は「玉」が付く豊玉彦の可能性が高いのです。

ただ、梶取=勘取町も大字、小字のような行政地名ではなく、古い時代の「しこ名」なのです。


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服部先生は潮見川の河道変遷についても再録されていましたのでご紹介しておきます。自然の河道変遷ばかりではなく、人為的な河道の付け替えによって生じた旧河川も「古川」と呼ばれていたのです。


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