スポット185(前) 赤村の超巨大古墳 ⑦ から 朝倉市山田の長田大塚古墳「継体天皇陵説」の周辺(中)
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太宰府地名研究会 古川 清久
先に、スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”外をオンエアしています。今回は、九州王朝論者の大御所のお一人である内倉武久氏が提案されている朝倉市山田の長田大塚古墳継体天皇陵説について当時行った太宰府地名研究会主催のトレッキングのお話の延長上に継体天皇が如何なる人物であったのかについて迫ってみたいと思います。
赤村の超巨大古墳?はともかくも、九州にも大王クラスの古墳が存在した可能性があるという事について考えを進めていこうと思うものです。
再掲
現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。
赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。
丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。
また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。
=2018/03/20付 西日本新聞朝刊=
内倉武久氏は「うっちゃん先生の古代史はおもろいで」の初期のブログ
ブログ013 「継体天皇」の御陵は福岡にあった① ―杷木神籠石誕生に一役か―
ブログ014 「継体天皇」の御陵は福岡にあった② ―継体天皇も熊曾於族か―
において、朝倉市杷木町の大分自動車道山田パーキング下の長田大塚古墳継体天皇陵説を提出されています。
『古事記』『日本書紀』(『記紀』)に記す「継体天皇」と「磐井」の争いは、九州政権内の権力争いであろう、と考えている。 そうであればいより「継体天皇の御陵」も九州のどこかにあるはずだ。というか、なくては筆者の考えは大間違い。「ただの妄想」と受けとられかねないだろう。この 件についてどうしても読者にお知らせしておかなければならないと思う。というのも、「継体天皇の御陵が福岡県朝倉市にあるのを発見した」のだ。「断定」とまではいかないが可能性としては極めて高いと思える。…以下略
継体は三島の藍(アイ)に葬られたのです
ただ、この墳墓はもぬけの殻かも知れません
それは改葬され東に移動されている可能性があるのです それが、仁徳によるの州王朝東遷です。
これに呼応し、既にひぼろぎ逍遥223~225において、列島でも最大クラスの円墳である朝倉市杷木町山田の長田大塚古墳について以下を書いています。
225 | 内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ② |
224 | 雨に濡れながらの6.27太宰府地名研究会トレッキンング “長田大塚古墳=継体陵説を探る” |
223 | 内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ① |
詳細はこれらを読まれるとして、この古墳の概略を前ブログとは別の角度から説明したいと思います。
223内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ① 20150627
今年の久留米大学 公開講座 九州古代史 2015 において、常連の内倉武久(元朝日新聞記者)が「南九州の考古学 熊襲を中心に」という講演が行われました。
ところがこの講演の最後で、最新情報として驚愕の仮説が提案されたのです。
元より、九州王朝論の中で磐井と継体の問題は極めて重要なテーマであり、北陸の出身とか言われる継体がわざわざ九州まで足を延ばして土豪とする磐井を征伐したという話も奇妙な上に、たった一つの屯倉の引き渡しで話が着いたというのも奇妙奇天烈です。
当初、磐井の乱ではなく継体の反乱ではないか?いや磐井の乱そのものはなかったのではないか!とか、利権構造に胡坐をかく畿内説論者の嘘つき学者どもは別として、古代史を真面目に追及する側でも混乱を重ねていました。
これについては、十年前ぐらいから、「筑紫王朝」に対して「豊前王朝」の兄弟王朝が、「近畿大和王朝」の前身として存在したという大芝英雄による「大和朝廷の前身 豊前王朝」(同時代社)、室伏志畔による「日本古代史の南船北馬」(同時代社)の楕円国家論、福永晋三氏も独自の視点から豊前王朝を提案する(後に真実の仁徳天皇」/不知火書房を後に出版する)など、九州王朝内部の内乱であったが故に、屯倉一つをやり取りするぐらいで手打ちが行われた“といった説が提出され、研究はさらに進められてきました。
一方、継体天皇陵については、考古学会が高槻市の今城塚古墳を、宮内庁が茨木市の太田茶臼山古墳としています。
長田大塚古墳
俗に「磐井の乱」(石井)と言われる「継体の乱」を起こした継体の墓は、今回の集合場所である三連水車の里あさくらの直ぐ北(山田パーキングエリア南)にある長田大塚古墳ではないかと言いだしたのです。
地名で言えば、御陵者三嶋之藍御陵也の「三嶋」も「藍」も地名としては揃っている。…
以下「古事記」…。
此之御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。天皇御年肆拾參歳。【丁未年四月九日崩也。】御陵者三嶋之藍御陵也。
『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王(彦山は直ぐ裏ですね… 古川)、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀』では省略されており、辛うじて鎌倉時代の『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇)─若野毛二俣王─大郎子(一名意富富等王)─乎非王─汙斯王(=彦主人王)─乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。
「ウィキペディア」による。
その継体天皇陵については、現在、学会あげて今城塚古墳(郡家本町)としているのですが、宮内庁はいまだに太田茶臼山古墳(茨木市)=三嶋の藍の陵 を継体天皇陵とし続けています。
「和名抄」
下座(げざ)郡・甘木(あまぎ)市・三奈木(みなぎ)/上座(じょうざ)郡・朝倉町比良松(ひらまつ)・杷木(はき)町/御笠(みかさ)郡・大野城(おおのじょう)・四王寺(しおうじ)山
上座郡・下座郡は「和名抄」に次のように記録されています。
筑前国 下座(しもつあさくら)郡
馬田(むまた)・青木・鍛饗(くはへ)、三城(みなき)・美嚢・城邊・立石
同 上座(かむつあさくら)郡
把伎、壬生(にぶ)・広瀬・柞田・長淵・河東(何東)・三嶋
「明治15年全国小字調査」によれば、大字藍野、藍の澤、藍…四股名レベルでも「藍」がある。