562 佐賀県に阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)を祀る神社がある ?“佐賀県小城市牛尾神社”
20180103
太宰府地名研究会 古川 清久
一般的に山幸彦=ニギハヤヒを祀る神社は腐るほどあるのですが、海幸彦=草部吉見=ヒコヤイミミを祀る神社が数えるほどしか無いという事実は、神社に関心をお持ちの方にはある程度ご理解頂けるのではないのでしょうか?勿論、茨城の鹿島神社とか春日神社と言ったものは別の議論になりますが…。
その一つが宮崎県日南市の潮嶽神社であり、もう一つが、丁度、九州山地を挟んだ反対側とも言って良い佐賀県の小城市にあるようなのです。佐賀市の西隣り、古有明海の最奥部にある小城市の牛尾神社です。
「潮」と「牛尾」と文字が通底している事にも心が動かされますが、地元に居ながら、日南市の潮嶽神社を優先し小城市の牛尾神社を後回しにした理由は、同社正面が金毘羅神社であり、息子の大山咋神(=日吉神社=山王神社=日枝神社=松尾神社…)を祀るものであるとの認識を持っていたからでした。
ところが、ひぼろぎ逍遥の前ブログでご紹介した鏡山神社を参拝したこともあって、良い機会とばかりに同社にも足を延ばし同社の下まで行ってみました。
まず、若王子権現が気になります。通常、若王子とは熊野の若王子こと大幡主の王子たる豊玉彦=ヤタガラスを意味すると認識しており、どうも金毘羅宮が祀られる底流にはヤタガラスの祭祀が存在したようにも見えるのです。この問題は残すとして、まずは山頂の牛尾神社をご覧ください。
佐賀県では自然陸化の延長上に成立した広大な干拓地が拡がっています。まさに列島のオランダです。
江戸期より前の干拓(肥前の籠コモリ干拓)と幕藩体制化の干拓(肥前の搦カラミ干拓)とによって産みだされたこの一帯の土地の形成過程を考えると、同地は有明海の最奥部に突き出した岬状地の管制高地だったと認識せざるを得ないのです。
小城市と言えば、まず、須賀神社、男女神社、八天神社、松尾神社、天山神社…と、この牛尾神社が頭を過ります。
これらの特徴的な神社が確認できる中でも、小城市の全域には金毘羅神社を含め松尾神社=山王神社=日吉神社=日枝神社…といった大山咋系神社の数の多さを意識せざるを得ません。
これらの神社のかなりのものが江戸期以降のものとはしても、この地がその神社群の父神たる草部吉見=ヒコヤイミミ=牛尾神社の祭祀の流れを汲む事を理解するならば、自ずと見えて来るものがあるように思うのです。
牛尾神社の基層に如何なる神(金山彦orヤタガラス)が認められるかは今後の課題としても、「天之葺根命」が草部吉見(ヒコヤイミミ)=天児屋根命=表面的な春日大神=武甕槌の子神であり、後の藤原氏の祖である事についてはこの間何度もお伝えしてきました。
この事が、後の貿易拠点、重要港湾の傍には必ず春日神社が置かれると言う法則性のようなものを感じさせられるのです。
九州では、宇佐の駅館川の春日神社、唐津は松浦川の春日神社、春日市の春日神社、博多は息子の崇神を祀る住吉神社、熊本市も春日神社、小郡市の大中臣神社、八代市の球磨川沿いにも春日神社二社が…と正しく藤原による古代国家の利権の独占を見てしまうのです。
この神社は小城市の西外れに近く、多久市東多久町納所と川を挟んで東に鎮座しています。附近は牛尾梅林と呼ばれる景勝地で、梅の開花時期には、梅の香に誘われて大変な人が集まるそうです。
「牛尾神社参道」の案内がある石柱から、北北東に延びた参道脇には「牛尾公民館」が建設され、40m程で「若王子大権現」の額が掛かる一の肥前鳥居に行き着きます。この後参道は石段となり、途中、左手に金毘羅神宮が祀られていたり、中程より上には右に中宮が祀られたりしています。更に石段を上がると、境内下に市指定重要文化財・慶長2年(1597)建立の肥前鳥居が立ち、すぐ左手には嘗て山伏の拠点だった別当坊が残されています。
境内に上がるとすぐに文化4年生まれの岩狛さんがおり、正面に唐破風付き入母屋造りの拝殿、流造の本殿が建立されています。又、境内右手奥には龍神、生田宮、辨財天等の石祠が纏められています。
創建から1200年余りの歴史を誇る古社で、源氏との関わりがある牛尾別当坊は、箱根・熊野山・鞍馬山と並ぶ日本四別当坊の一つとして、威勢を誇っていました。現在は梅林の奥に密やかに鎮座していますが、閑かな佇まいの、整備が整った気持ちの良い神社となっています。
御祭神:天之葺根命
祭礼日:春祭・4月15日、例祭・10月15日、秋祭・12月17日
境内社:金毘羅神宮、龍神、生田宮、辨財天、大日尊、石清水、天満尊、稲荷社等
由緒:当神社は延暦十五年九月九日大和国吉野の里良厳上人、桓武天皇の勅宣を賜い肥前国堡郡実万ヶ里(今に小城郡西郷という。)に下向ありて、山の頂上に若王子大権現を祭り、併せて一院を建て護国神宮寺福長寿院別当坊という、勅に依り日本四別当一に列す、(第一箱根山別当坊、第二熊野山別当坊、第三牛尾山別当坊、第四鞍馬山別当坊)之れなり。
当山は専ら西海道鎮護の御祈願所として九国安寧の御祈願を掌れり、その後この僻遠の一霊場が如何に朝野の信仰を博し得たかは延久元年八月欽名天皇の御後胤に当たらせられる大覚僧正、花山院第三の宮覚実僧正の御師弟が遥々熊野から降らせ給ふたことや、保元二年花山院家忠公が一時中絶していた別当坊を再興せられて、琳海親王を別当坊の院主に任ぜられたことによって伺はれる。寿永二年夏源頼朝公が神田二十余町を当山へ寄進せられ同日その臣北条、北畠二氏が各々願文を奉つたことは東鏡(鎌倉幕府日誌)に明記してある。文冶元年源平合戦の砌参河守範頼九州に渡り参州豊前の敵を征し筑前の敵を伐つに当たり琳海親王は当山衆徒兵三千余騎を以つて、熊野山湛僧坊と諜合して豊前日田まで出陣す。平家一族を壇の浦にて殲滅した後天下泰平の御祈願の為に源義経の使者亀井六郎重清を遣はして義経自筆の願文並に義経、弁慶の腰旗、砂金五百両を当山に奉納ありたり。元亀年中鍋島直茂公、大友宗麟の大軍を川上村今山に於いて夜襲の時別当坊琳信一山の衆徒兵を引具して公の軍に加はり名誉の御勝利ありしを以て、勝茂公代より神領十六石三斗七升御改付ありたり。
古来国主領主の崇敬極めて厚く、徳川時代に於いては旧佐賀藩主より華表並に社殿の造当修築等奉納のことはすべて藩費により支弁せられたり。
明治維新に際し神仏習合分離と共に若王子大権現を牛尾神社と改称す。
明治六年村社に列し、昭和十六年郷社に昇格し現在に至る。
この山上には牛尾梅林があります。梅のほころぶ三月にもトレッキングを行ないたいと思うものです。
「佐賀県神社誌要」によると、家津御子大神とは草部吉見と市杵島姫との間に産まれた大山咋神=松尾大神、山王宮…であり、だからこそ宗像三女神も書かれているのです。
ただ、社名、地名からは、その底流に草部吉見=ヒコヤイミミ祭祀が存在して様に見えるのです。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで
「佐賀県神社誌要」172~173p