スポット187(前) 赤村の超巨大古墳 ⑨僭越ながらも卑弥呼の墓とお考えの方々に対して(上)
20180530
太宰府地名研究会 古川 清久
先に、スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”外をオンエアしています。
再掲
現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。
=2018/03/20付 西日本新聞朝刊=
今般の赤村の前方後円墳としか思えない巨大古墳状丘陵に関して、町興し村興し宜しく「卑弥呼の墓」といった噂が飛び交っているやにも聴き及んでいます。
古代史の世界に多少とも関わった者として、地域振興のためのマヌーバとして、一時的に「卑弥呼の墓」…といったデマに近い話が流れる事が全くの悪い事だとは思いませんが…(絹も鉄も出土しない奈良県桜井市の巻向遺跡や巻向古墳を卑弥呼の大城とか埋葬墓などとするような大嘘よりは余程真面なのですから)、この実に素人臭い卑弥呼の墳墓説には多少の気恥ずかしさを越え暴走にしか思えません。
これについては通説派の考古学協会なども“どうせ素人ですから…”などと馬鹿にしきっている事でしょう。
行政や教育委員会や文化庁…といった悪の牙城が、これまで敵視続けて来た「九州王朝論」の探究などに踏み込むはずはなく、いずれはうやむやにしてしまい何時しか消されてしまう事でしょう。
ただ、卑弥呼の墓などといった説で大騒ぎしてしまう事は、通説派の揚げ足取りに手を貸す事にしかならないため、少しクール・ダウンの意味からグループのメンバーである石田さんのお話をご紹介する事にしました。古田史学の会系の方なのですが、実際には下部組織の東海の会で活動されておられるようです。
直接は元より、ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)からも入れますのでお試し下さい。
1 はじめに
卑彌呼の冢(ちょう)の形状や規模については、古くて新しいテーマです。一般的には卑彌呼の墓といいますね。
最近でも卑彌呼の冢について、依然として前方後円墳の円部とみなす通説がメディアで報道されています。こうした通説の問題点や新たな視点について述べたいと思います。
しばらく、お付き合いください。
2 「径」についての確認
卑彌呼の冢に関して『三國志』烏丸鮮卑東夷傳倭人条(以下『魏志』倭人伝と表示)に次のとおり記されています。
卑彌呼以死,大作冢,徑百餘歩,徇葬者奴婢百餘人。
(中華書局版『三國志』魏書、烏丸鮮卑東夷傳、857頁)
卑彌呼、以て死す。大いに冢を作ること、径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人。
(読みは筆者による。以下同じ)
この記述にもいろいろ疑問点があります。例えば、「以て死す」とは何を以て死すというのかとか、「徇葬」(徇は原文では獣偏)は、本来は「殉葬」だけどなにか違うのかなど、細かい疑問はとばしていきます。
焦点は「径」です。
この「径」は、円形のさしわたしを言いますから直径を示すと思います。また、「冢」とは、その周囲の地面より、こんもりと丸く盛り上がった場所を指しますので、まず間違いなく円墳の直径を表していると思われます。
しかし、『三國志』における語句について、現代の常識だけで理解しようとするのは危険です。古代では、現代の常識とは異なる語句の使い方があります。ですから現代人の思い込みにより古代史を誤ることが多々あります。そこで、本当に「径」は円の直径を表しているのか、まず間違いないと思いますが、念のため『三國志』魏書から「径」の語句の使われ方について、次回事例を確認したいと思います。
従来説
3 卑彌呼の冢についての従来説 2018/5/12(土) 午後 11:41
卑彌呼の冢の規模についての従来説は、古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』(ミネルヴァ書房、2010年)にまとまっていますので、まずは、その関連部分を抜粋します。
倭人伝中「卑弥呼以て死し、大いに冢(ちょう)を作る、径百余歩」の記事があることはよく知られている。
従来、この「百余歩」は「約百五十メートル」等だ、とせられた。
⑴ 百五十メートル説 - 笠井新也「卑彌呼の冢墓と箸(はし)墓」
(『考古学雑誌』32-7)、小林行雄『女王国の出現』(国民の歴史Ⅰ)
⑵ 百八十メートル説 - 斎藤忠「統一国家成立前の社会」(『古
墳文化と古代国家』所収) (ただし、結論としては誇張説)
⑶ 七、八十メートル説 - 榎一雄『邪馬台国』、原田大六『邪馬台
国論争』(七十メートル)(この場合、「大人のじっさいの歩幅」と考えるようである)
ために、一方では、“三世紀には、このように大きな古墳はありえぬ”として、この記事の信憑性を疑う学者があった(先の斎藤説)。
他方では、“この一事をもってしても、卑弥呼の国は九州に求めることはできぬ。このような大古墳は、近畿にのみ、これを求めることができる”とみなす学者もあった(右の笠井説)。
古田武彦(1926~2015年)があげられた考古学者の笠井新也(1884-1956年)は、邪馬壹國の分析から着手して「邪馬臺国は大和である」(『考古学雑誌』1922年)とした上で、「卑弥呼の冢墓と箸墓」(『考古学雑誌』1942年)において卑弥呼を倭迹迹日百襲姫に比定し、卑弥呼の墓は奈良県桜井市の箸墓古墳であるとの説を初めて提唱しました。
笠井は、邪馬壹國を大和とする理由として、①大和と邪馬臺の語音一致、②繁栄した遺跡の存在、③行路・行程の一致の3点を掲げています。
しかし、①原文は邪馬臺(やまだい)ではなく邪馬壹(やまいち)であり語音は不一致であること、②遺跡は全国に存在し近畿だけを繁栄地とするのはあたらないこと、③『魏志』倭人伝の行路・行程は邪馬壹國が九州北部に位置することを示しており、いずれも事実誤認です。
とりわけ投馬國、邪馬壹國の比定については自分勝手な原文改定を行っており、自分の説が正しいとする我田引水の最たるもので全くよろしくありません。
先述のとおり「径」は円の直径ですから卑彌呼の冢を箸墓古墳のような前方後円墳とするのは理屈が通りません。したがって、笠井の箸墓古墳比定説は成立しないと思います。
しかしながら、一般的には、この笠井説が主流であって、宮内庁が孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を3世紀中~後期の築造と想定し、卑彌呼の冢とみる研究者が多いようです。
全長約280mの前方後円墳で、後円部に当たる部分が直径約150mであるので、その時期と後円部の大きさを根拠にして箸墓古墳を卑彌呼の冢とされています。
これに引きずられてマスメディアは、先に示した赤村の前方後円墳形状についても、あたかも卑彌呼の墓ではないかとしますが、こうした風潮の積み重ねは、日本の古代史の理解を混乱させる一因です。
また、後世に名を残している笠井などの一流の学者が、平然と原文改訂を行う遣り口には、大いに問題があります。古田武彦は、こうした笠井説などに対して安易な原文改訂を批判するとともに、卑彌呼の冢の大きさや形状について疑問を投げかけたのです。
笠井新也の論理
3 卑彌呼の冢についての従来説 (つづき) 2018/5/14(月) 午前 0:42
笠井新也は、「卑弥呼の冢墓と箸墓」の論考の「五 墳形の問題」において次のとおり記します。
橋本博士等の主張は、要するに、「径」とあるから円墳であるといふのである。併しこの主張には、大きな無理があると思ふ。「径なる文字は常に円形の大さ(ママ)を示す場合に於てのみ使用せらるゝ」といふのは先づ可いとしても、(これにも異議はあるが如く差へえる)、それだからといって、径とあるから円墳であるとは、如何して云へるのだらうか。例へば、「径八寸の鏡」とある場合「これは径とあるから円鏡である、断じて柄鏡ではあり得ない」といへるだらうか。
・・・・<中略>・・・・
方円式古墳の前方部は、勿論鏡や団扇の柄部とは、その形態・意義に於て相違するけれども、その主要部に対する附属的施設であることに於いては同一である。
最初の橋本博士とは、邪馬壹國九州北部説を主張する東洋史学者の橋本増吉(1880~1956年)であり、「必ずしも事実上卑弥呼の冢が円塚なりしことを確証するものではないといふ異論も生じ得ることであろうが、たとひその異論を許すとしても、だからといつて卑弥呼の冢墳が前方後円墳であったといふ何等の確証も存在しない」(『史学』2-3,4,大正12年の「邪馬臺国の位置に就いて」)とされます。
事実、『魏志』倭人伝の記事をもって円墳の可能性は大いにありますが、前方後円墳とは認められません。
これに対して、笠井は「径」が円形を示すのはわかるが、円墳とはいえないであろうとされます。そして鏡に例えて、「径」とあれば円鏡とは言えず柄鏡の場合もあるのではないかとして、柄鏡の柄と前方後円墳の方部とは附属的という意味では同じであるから、前方後円墳の円部だけを指して「径」と言えるだろうとします。
この笠井の論は学者とも思えない屁理屈です。鏡の事例について『記紀』でも『三國志』でも鏡の大きさを径で示した記事はありません。まず、想定として全く当を得ていません。あえて鏡の大きさを示す例としてあげるとすれば、『日本書紀』にある「八咫鏡(やたのかがみ)」と『古事記』の「八尺鏡(やたかがみ)」があります。「八咫鏡」と「八尺鏡」は同じもので三種の神器のひとつであり、「八咫」や「八尺」については、大きい意味とする説と円周をあらわすとの説があります。
しかし、いずれにしても「径」ではあらわされておらず、しかも柄鏡でもありません。笠井はもっともらしく記すものの、具体的に記された事例がない架空の想定を述べて、難癖をつけているとしか思えません。
さらに鏡の柄と前方後円墳の方部はともに附属的とする笠井の主張もおかしいでしょう。古墳の方部を円部と切り離して附属的とするのは笠井の概念であって、その考えは正しくないと思います。鍵穴型や壺型とされる古墳の円部と方部は一体的であって、方部を附属的とするのは全くの個人的解釈です。
したがって、笠井の主張は妥当性を欠くと思います。
笠井新也の疑問 2018/5/15(火) 午前 0:12
3 卑彌呼の冢についての従来説 (つづき 2)
さらに、同書で笠井新也は次のように記されます。
一体墳墓の形式をやかましくいふのは、考古学者の事であって、考古学者ならぬ者に取つては、それが円式であらうと、方式であらうと、乃至は方円式であらうと、何等関心すべき問題とはならないのである。我が記録・風土記以下の国史・雑史の類を仔細に検閲しても、古代墳墓に関する記事は少なくないが、而も方円式古墳の形態を彷彿するが如き記載は皆無であることを見ても、思半に過ぎるものがあらう。されば、彼の魏代の史家に、卑弥呼の冢墓に関する資料を提供した者が、倭人であつたにせよ、韓人であつたにせよ、或いはまた魏人であつたにせよ、その報告者その者が既にその形式に就いて関心をもつてゐたかどうかは疑問であり、仮令関心をもつてゐたとしても、それを忠実に伝へたか否かは更に疑問である。況やそれを更に伝聞して記載した魏志或は魏略等の編者が、卑弥呼の冢墓の形式に就いて、明瞭な知識を持つてゐたか否やは、愈々疑問である。
(『考古学雑誌』32-7、笠井新也著「卑弥呼の冢墓と箸墓」)
笠井は、素人は古墳の形には関心が無いし、史料の編者が卑彌呼の冢の形に関する知識を持っていたのかは疑問であるとされます。
しかし、こうした疑問はすべて笠井の想像で述べられているにすぎません。素人であろうと古墳の形状に関心があったかもしれませんし、関心が無くても知っていたかもしれません。報告者は忠実に伝えたかもしれませんし、史料の編者は古墳に関する知識を十分に持っていたかもしれません。笠井のいう疑問は、そうかもしれないしそうでないかもしれないといった類のもので有意義ではありません。
また、『記紀』等の記事には方円式古墳の記述が皆無であることをもって前方後円墳の形状は特記されないという考え方はいかにも短絡的です。
『記紀』編者にとって前方後円墳を十分に承知しているのでその形状を特記されないこともあるでしょうし、逆に『記紀』に記されている古墳は前方後円墳ではないから特記されていないなど、多種多様な考えの可能性があることを理解すべきでしょう。
『魏志』倭人伝では、関心があるとかないとかではなく、倭人の生活や風習を詳細に記しています。万一、『魏志』倭人伝の記事そのものを笠井が疑問視し信用しないのであれば、卑彌呼の冢を論ずる以前の問題です。
中国史書では、墳墓の大きさについて記述するとき、墳墓の周縁部の長さを示したり、縦と横の各々の長さや高さを示しています。
こうした記述方法と同じように、前方後円墳の場合も同様の方法で大きさや形を示すことができたはずですが、なぜ卑彌呼の冢を表現するのに「径」の語句を使用したのか、笠井は素直に理解されたらよかったと思います。
また、卑彌呼の冢の形状を「径」のみで示し、それ以外には何の修飾や補足もなされていない点に留意すべきであったと思います。