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スポット188(後) 赤村の超巨大古墳 ⑩ 僭越ながらも卑弥呼の墓とお考えの方々に対して(中)

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スポット188(後) 赤村の超巨大古墳 ⑩ 僭越ながらも卑弥呼の墓とお考えの方々に対して(中)

20180530

太宰府地名研究会 古川 清久

「径」の事例2                            2018/5/11() 午後 6:26

(2)例2

 少しわかりにくいかもしれませんが、「径」が円の直径を表している二つ目の事例です。


 
太祖行酒,韋持大斧立後,刃徑尺,太祖所至之前,韋輒舉斧目之。
        
(中華書局版『三國志』魏書、二李臧文呂許典二龐閻傳、544)
 
太祖、行酒のとき典韋は大斧を持ち後ろに立つ。刃径は一尺あり、太祖が至る所の前(さき)、典韋はそのたびに斧を挙げてこれを睨む。

(読みは泉城、以下同じ)


 太祖とは曹操(そうそう)のことで、この記事は、曹操が荊州を討伐できたことを喜び、降伏した張繍(ちょうしゅう)やその将帥等を招いて宴会を催した際の話です。

 太祖・曹操が酒を注ぎに回る先々で、典韋(てんい)は大斧を持って曹操の後ろに立ち張繡らを睨みつけました。そのときに持ち上げた斧の刃径が一尺であったということです。


 問題は、この刃径です。

 古代中国の斧の形は、現在私たちが知っている長方形の形をした斧ではありません。イメージ図はこんな感じです。


<古代中国の斧>


sp188-7

ですからこの刃径を刃渡り、つまり刃の部分の長さを示していると捉えるのは間違いのようです。
 矛の中でも刃が長いものは「長矛」と記され、「大矛」とは記されません。
 如立大邏便,我必守境,利刃長矛以相待。
                      
(中華書局版『北史』列傳第八十七、突厥、3290頁)
 大邏便を立てるが如く、我々も必ず境を守り、よく切れる刃の長矛を以て相待つ。


 これは、突厥(とっけつ)の第4代の王、他鉢可汗(たはつかがん)が亡くなり、国中は第3代の王の子、大邏便(たいらへん)を可汗にしようとしたのに対して、大邏便の母が卑しい身分の出身だったので、菴羅(あんら)の従兄の攝圖(せつと)は、他鉢可汗の子の菴羅を推挙しました。

 この記事は、大邏便から菴羅を守るために攝圖が言った言葉です。

 ですから、相手への毅然とした態度を示すために、よく切れて、長い刃の矛を以て対峙すると言ったわけです。

 このように刃が長い武器の大きさを示すときには「長」を使います。しかし先の例2の記事では「長」ではなく「大」が使われ「大斧」とされます。したがって、「大斧」の刃の大きさを表すときには「刃長」ではなく「刃径」とされています。

 というのも、中国の文献では、刃の長さ、刃渡りを示すときには、「刃長寸」「刃長丈六尺」「刃長至一尺」「直刃長八寸橫刃長六寸」のように「刃長」と記され「刃径」とは記されません。「大斧」だからこそ刃渡りで示すのではなく「刃径」が使用されています。

 古代中国で使用されていた斧は、半月のような形の半円や、半月の刃が柄の両側にある両刃の形をしていますので、「刃径」とは、この半円や両刃の形を真円にたとえた場合の直径で表しているのです。

 ここでは斧の「刃径」を一尺とします。魏代の尺は約24㎝ですので、もし「刃径」を刃渡りとするならば、弦の長さが24㎝となりますから、やや迫力に欠ける気がします。この「刃径」を例えば半円の形と見立てた時の直径とすると、半円周は、πrの数式でしめされますので、半円の弦の長さは、半径約12㎝の3.14倍、つまり刃長は1.5倍以上の約38㎝弱になります。

 要するに、この記事の「刃径」は、斧の刃が丸い形状をしているので直径で表し、大きさを特定しているのだと思います。

 以上の2つの例、とりわけ例1の「珠」の記事は、卑彌呼の冢の大きさを表している「径」が前方後円墳の全体の長さや、後円部だけの一部分の長さを示したものではなく、円墳の直径を示していると理解すべきでしょう。卑彌呼の冢の「径」を前方後円墳の円墳部分と捉える恣意的な解釈は大いに問題です。

 卑彌呼の冢の記事では、冢の大きさが「径」と記され、これは直径のことを表していると理解されますから、卑彌呼の冢は円墳が妥当と考えます。


卑彌呼の冢 2018/5/9() 午後 9:55

1 はじめに

 卑彌呼の冢(ちょう)


卑彌呼  
 

「大いに」の続きの続き

中国史書において「大冢」と記述があるものには、秦武王を始め、前漢の明帝や周景王などの墳墓がありますが、具体的な規模がわかりません。
 「大墳」の例ではありますが、ほぼ確実に規模がわかる一例について次に示します。
  起大墳于縣城南,民號曰竇氏青山  
 (中華書局版『後漢書』冀州、安平國、3435)
  縣城南に大墳を起こす。民は號して竇氏青山と曰う。

 

河北省衡水市武邑県城南にある、前漢の文帝の皇后である孝文竇皇后(こうぶん・とうこうごう)の父の墳墓です。父は早くに亡くなっており、その墳墓は孝文竇皇后が皇太后となってから作られたものです。

 竇氏青山墓(とうしせいさんぼ)と名付けられ、別名を安成候墓といいます。

sp188-9

古い看板から

新しい石碑に


sp188-10

封土で作られ、高さ41.4m、周長が600m以上であったとされます。

 不整形であり円墳に相当すれば直径200m程度となります。(現在は高さ22.9m,周長490m,敷地面積36,582m2

ちなみに、文帝陵は、質素倹約のため自然の山を利用して陵墓にしており、先に示した呉や魏の皇帝の墳墓より、はるかに巨大です。

sp188-11

2018415日現在のネット・ワークです

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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では年間200300万件のアクセスはあるでしょう。


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