スポット190(後) 再び再び九州王朝論者の皆様に対して キリシタン史跡世界文化遺産登録から
20180530
太宰府地名研究会 古川 清久
世界遺産登録活動
「沖ノ島を世界遺産に」という声は2002年に行われた沖ノ島物語実行委員会による「宗像大社大国宝展」をはじめとする市民の活動から高まり始め、世界遺産登録を目指す動きへつながりました。そして沖ノ島(宗像大社沖津宮)、沖津宮遙拝所、宗像大社中津宮、宗像大社辺津宮、新原・奴山古墳群から構成される「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は2009年1月にユネスコの世界遺産暫定リストに記載されました。
現在、宗像市、福岡県、福津市、市民団体、経済団体、文化・教育団体等で構成する「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議を設立し、地域の人々によって受け継がれてきた遺産を人類共通の遺産として未来の世代に引き継いでいくことを目的に世界遺産登録活動に取り組んでいます。
そもそも、このような怪しげで根拠薄弱な背景の元動いていたのが宗像大社と宗像沖ノ島祭祀だったのですが、これに関する疑問は既に当方のグループばかりではなくネット上には飛び交っており、当然ながら諮問する側も多くの情報は収集しているはずで、ささやかながらも当方の見解も拾っているはずなのです。もしそうでなければ、表面の風評しか拾えない無能なウォッチャー、アナライザーとしか言いようがないのです。
恐らくこれらの事が文化庁、ユネスコにも多少は伝わったはずであり、当然、ダシとして利用されただけの形の古賀市、福津市の不満も伝わっていたはずなのです。
こうして、危うい事を避ける官僚の自己保身が働いたか…無難な沖ノ島祭祀のみの登録へと動いた可能性も考えられるのです。
ただ、IOCやFIFAのように一旦は脅しを掛け、結果、賄賂をよこせと言うメッセジである可能性も否定できない事から、最後まで、どんでん返しも考えておく必要はあるでしょう。
所詮は日本の伝統も文化も知らない、ましてや、列島の王権引いては古代史など一切知らない外国勢力の格付けやアドバイスなどどうでも良い事なのです。
冒頭で述べた如く、日本古来の文化伝統とその物証としての歴史的遺産をユネスコ如きのキリシタン伴天連の不良貴族の末裔どもに認定して頂くと言う奴隷根性は置くとしても、沖ノ島に限定された認定勧告は常識的な落としどころといったところで(本当はこんなくだらないミシュランまがいの格付けなど辞めるべきなのですが)、今のところ、表面的にはFIFAやIOCの様な賄賂話はなかったことから比較的クリーンな決着といった事になるのかも知れません(繰り返しになりますが、まさか賄賂をよこせと言うメッセジではないでしょうから…くれぐれも…両者の動きに注目し監視を続けようではありませんか)。
なお、これまで何度となく書いていますが、宗像大社の本来の祭神は大国主命であり、近畿大和朝廷(藤原)が捏造した現出雲は九州からの国譲りの結果成立した新出雲としてのテーマ・パークでしかないのです。
だからこそ、志賀島、宗像の沖に沖ノ島があり、現出雲の沖に隠岐の島があるのです。
これらの話については、ひぼろぎ逍遥 177 大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越ながらも…他多くを書いていますので内部検索を行い拾い読みして下さい。
なお、ネット上の中にかなり重要な証拠に近いものが発表されています。I女史作成のパワー・ポイントデータからご覧いただきましょう。
大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ、生没年不詳)は、『万葉集』の代表的歌人。大伴安麻呂と石川内命婦の娘。大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母で姑でもある。『万葉集』には、長歌・短歌合わせて84首が収録され、額田王以後最大の女性歌人である。
13歳頃に穂積皇子に嫁ぐが霊亀元年(715年)に死別。一説に宮廷に留まり命婦として仕えた。この頃首皇子(聖武天皇)と親交を持ったらしく、後年個人的に歌を奉げている。 その後に藤原麻呂の恋人となる。しかし、麻呂とも早くに死別し、養老末年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢と坂上二嬢を産んだ。しかし、彼とも33歳頃に死別したと思われる。その後は、任地の大宰府で妻を亡くした大伴旅人のもとに赴き、大伴家持、大伴書持を養育したといわれる。帰京後は佐保邸に留まり、大伴氏の刀自(主婦)として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切ったのだろう。その作風は多分に技巧的でありながらも、豊かな叙情性をも兼ね備えている。しかし、彼女の数多い男性との相聞歌は、恋の歌になぞらえて、彼らへの親しみを表したものであったり、実体験ではないのではないかとも言われている。
坂上郎女の通称は坂上の里(現奈良市法蓮町北町)に住んだためという。 「ウィキペディア」による
大友坂上郎女という重要人物の証言だけに非常に重い資料と言えるでしょう。最低でも、宗像大社の祭神は三女神などではなく出雲神話の神とされる「大国主命」「少彦名命」だったのです。
出雲神話の舞台は九州だったのではないか?とした仮説は俄かに信憑性が高まってきました。
きっかけは飯塚市桂川町に「出雲」という交差点があることに気付き、凡そ出雲神話など縁がないはずの九州各地に多くの大国主祭祀が拾えたからでしたが、さらに、日向の一の宮である都濃神社の主祭神が大国主であることや、宗像市、筑前町、熊本市、日置市、鹿児島市…にも大国主命を主神とする神社が存在している事を確認して行ったからでした。どうやら、「出雲」隠し「九州王朝」隠しの入口に入ってきたようです。今後とも、出雲神話の痕跡を探ることになりそうです。
「万葉集」に証拠が残っていたのです
これらの事からお分かり頂けるように、ユネスコだかユニセフだかの官製文化運動の馬鹿げた構造を理解し、独立性を保つところから本当の文化活動とか研究といったものが始まる事を肝に銘じるべきなのです。
2018年4月15日現在のネット・ワークです
本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。
この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。
人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。
なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。
ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量1100~1200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。