スポット190(前) 再び再び九州王朝論者の皆様に対して キリシタン史跡世界文化遺産登録から
20180530
太宰府地名研究会 古川 清久
先に、ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ059 キリシタン史跡世界文化遺産登録に狂奔する列島文化の堕落を撃て 外をオンエアしています。
そのほんの一部をお読み頂きますが、全体像を把握するには全文を、また、検索によって多くの情報が拾えますので、是非、自らの判断によりお読み頂きたいと思います。
日本の婦女子をバダビアに売り飛ばしていたイエズス会系ポルトガル宣教師と貿易商人
ほとんど知られてはいないのですが、肥前、肥後にとどまらず豊後も含め大量の日本人婦女子がポルトガル船の船倉に入れられバダビア(インドネシア)などに売り飛ばされていたという隠された事実があるのです。この問題は以前も取り上げましたが、再度、キリシタン史跡世界文化遺産登録 への狂奔に併せ取上げたいと思います。
多くの情報が出ていますので、ヤフーでもグーグルでも 「ポルトガル宣教師」「人身売買」などでダブル検索を試みて見て下さい。後は、ご本人の判断にお任せいたします。
こんなものはデマだとお考えになるのは結構ですが、そうだとしても自らが植えつけられているキリシタンへのイメージも所詮はマッカーサーの占領政府以来の事実上の検閲の結果与えられた餌のようなものでしかないはずなのです。
ポルトガルの奴隷貿易 アジア人の奴隷
ポルトガル人が日本人に1543年に初めて接触したのち、16~17世紀を通じ、ポルトガル人が日本で日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけるという大規模な奴隷交易が発展した。多くの文献において、日本人を奴隷にすることへの抗議とともに、大規模な奴隷交易の存在が述べられている。日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。国王セバスティアン1世は日本人の奴隷交易が大規模なものへと成長してきたため、カトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した。
ウィキペディア(20180630 19:16)による
実はカトリックの司祭ではなく新教の牧師さんも証言されているのです。以下一部ですが紹介します。
日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか? 2006年1月27日 金曜日
◆日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし
わたしは先に第4回「天主教の渡来」の中で、日本におけるキリシタンの目覚ましい発展と衰退の概略を述べました。しかし、ここではキリシタンがたどった土着化の過程について考察してみたいと思います。後で詳しく述ぺますが、わたしの先祖はキリシタンでありました。わたしは伊達政宗の領地であった岩手県藤沢町大籠(おおかご)地区での大迫害で生き残ったかくれキリシタンの末裔です。
今はプロテスタントの牧師ですが、わたしの中にはキリシタンの血が流れていると思います。三年前の夏、父の郷里藤沢町を初めて訪問してこの事実を知ってから、キリシタンについてのわたしの関心は以前より深くなりました。そしてキリシタンについての知識も少し増えました。四百年前のキリシタンを知ることが現代のわたしたちと深く関わってくると思いますので、先ず追
害の理由から始めたいと思います。
◆1.キリシタン遣害の理由
宣教師ルイス・フロイスが暴君と呼ぶ豊臣秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」を発したのは、1587年7月24日(天正15年6月19目)でした。これは天正(てんしょう)の禁令として知られる第1回のキリシタン禁止令です。それ以後徳川時代にかけて、次々に発せられた禁止令の理由をまとめると、次の五つになるでしょう。…中略…
(2)奴隷売買
しかし、アルメイダが行ったのは、善事ばかりではなく、悪事もありました。それは奴隷売買を仲介したことです。わた〕まここで、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」P249~257から、部分的に引用したいと思います。
「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。
キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。…以下も重要な話が書きつづられています。
長々と引用させて頂きましたが、この牧師が書かれた話は10年前にも読んだ記憶があります。
当時も今も最も良く整理されているものと考えますので、検索の末、以下も是非お読み頂きたいと思います。
マスコミも文部省も決して触れない歴史を探る
大西洋を挟む黒人奴隷の三角貿易の事は良く知られていますが、実は、太平洋側でもイエロー・モンキー扱いにされた日本の婦女子が火薬一樽と交換され、ポルトガル宣教師の手引きによって数十万人単位でジャワのバダビアなどに送り込まれるという(太平洋版三角貿易)が成立していたのです。
こんなことは、学校でも新聞でもテレビでも絶対に扱わないため誰一人知らされてはいないのですが、恐らく、信長も秀吉も家康も全て知っていたはずなのです。これこそが実に正しいキリスト教禁教の歴史だったのですが、知らぬは情報に溺れる現代人ばかりという有様なのです。
これこそが列島の近世史の隠された真実であり、それを表面に浮かびあがらせる事こそが歴史家、歴史研究者の使命と考えるのです。
これと同様に国家によって隠された古代史のベールを引っ剥がし、真実の歴史を探求せんとするはずなのが九州王朝論者のはずなのです。
これと凡そ逆のベクトルで動いているのが、行政主導の村興し町興し世界遺産登録運動(形を変えた国体明徴運動のようなもの)であり、それに協力しているのが愚かな俗流古代史ファンや郷土史会、史談会などの数を減らした老齢化した方々なのです。
従って、日本の真実の歴史を探究しようとする九州王朝論者を自認する方々であるのならば、これらの行政主導、行政誘導型の捻じ曲げられた文化運動を批判しうる目と頭を持つべきであるはずですし、最低でも独立性を保たなければならないと考えるのですが、どのようにお考えになるでしょうか?
同様の問題を宗像三女神の宗像沖ノ島世界遺産登録問題がありました。
これについても、ひぼろぎ逍遥(跡宮)458 宗像沖ノ島世界遺産登録といった愚行が半潰れになって多少はほっとした! として書いています。
結果的には、中間発表では部分的に見合わせの話まで進んだのですが、賄賂が贈られたのか、事実上丸呑みの形で認められると言う愚行がまかり通ったのでした。
現在、沖ノ島祭祀はみあれ祭として宗像大社が仕切っていますが、元々は津屋崎側の志賀島の安曇族側のエリア福津市の新原、奴山古墳群の一族が行っていた事を沖ノ島の発掘調査を初期段階から関わっていた小田富士夫が主張するに至り脆くも崩れ去っていたのでした(詳細は458号をお読み下さい)。
それも、日本の文化も伝統も、ましてや古代史も何も知らないヨーロッパ貴族の末裔どもによって是非が判断されると言う馬鹿げた現象が起こってしまったのでした。
以下一部を掲載します。
まずは、沖ノ島祭祀について小田富士夫氏の修整説を見て頂きましょう。
記事の内容は専門的で俄かには分かりづらいのですが、岩上祭祀から岩陰祭祀、半岩陰半露天、露天へと変遷してきた古代祭祀において、最も重要な後期の岩上祭祀に当たる沖ノ島21号祭祀遺跡の遺物と同時期の大首長墓(大王級)大型古墳である福津市勝浦峰の畑古墳(100m超前方後円墳)との間に対応が認められるとの見解が提出されているのです(2012年10月26日西日本新聞)。
このことは、長らく元九大(実は国士舘)の○ダニ氏などが主張してきたところの(最近修整せざるを得なくなったようですが)、沖ノ島古代祭祀だろうが、宮地嶽巨大古墳だろうが、何でも「近畿大和朝廷の傘下=影響下にあった地元土豪(ここでは後の宗像徳善の君に繋がる一族)が関係している」などといったほとんどデマに近い非常に怪しげなものであったことが鮮明になった瞬間でもあったのです。
古来、最低でも福津市のエリア(本来は神湊以南)は志賀島の安曇族のエリアと言われており、相島も含め、新原・奴山古墳群(津屋崎古墳群)に宮地嶽巨大古墳、さらには、昨年馬具一式が発掘され話題となった古賀市の船原古墳なども、全て宗像徳善の君に繋がる一族などのものではなく、安曇族を支配下に置いていた一族のものであるという(安曇族の大王の配下といった話もありますが、逆に陸軍に支配された海軍陸戦隊にさえ見えるのです)地元に通用する普通の考え方が再考できることになってきたのでした。
福津市勝浦峰の畑古墳(100m超前方後円墳)との間に対応が認められるとの見解が提出されている事は極めて衝撃的で、沖ノ島の古代祭祀は福津市、古賀市から福岡市にかけての人々が祭祀を行っていた、少なくとも志賀島側の海人族(安曇族)が関与していた可能性を示すものだったのであり、既に鼻息の粗かった沖ノ島宗像族祭祀(権)圏説が早くも崩れ去っていたのでした(実際は沖ノ島は九州王朝の宝物庫だったのです)。