20180122
太宰府地名研究会 古川 清久
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
これまでにも何度か申し上げてきた事ですが、博多の櫛田神社と佐賀県神埼市の櫛田神社とは社名は同じものの、性格を全く異にしています。
スサノウのお妃となった櫛稲田姫は博多の櫛田神社の大幡主の妹である埴安姫と天下の金山彦との間に産まれています。これを理解するには多少は思考が必要になります。
まず、博多の櫛田神社とは櫛稲田姫の母方を祀る神社であり、これに対して佐賀県神埼市の櫛田神社とは父方の金山彦=カグツチが櫛稲田姫を祀る神社になるのです。
このため、佐賀市側栗並の子安神社にもこれらの事が反映されており、金山彦、大幡主、大山祗という三派の神々ががっちりとスクラムを組んだ中で、通常は大山祗とコノハナノサクヤヒメを祭神とする子安神社さえも唐津市七山の大幡主=白族系の人々を配慮してか、博多の櫛田神社の大幡主の直系のヤタガラスの姉に当たるアカルヒメ=実は磐長姫が、大山祗と共に祀られ、逆に、西の唐津市七山の桑原の子安神社では大山祗ならぬ金山彦とコノハナノサクヤヒメといった祭神が祀られ、唐津市と佐賀市と玄界灘側と有明海側を繋ぐ東西の交易路の両方にある子安神社を祀る風習さえも存在していたのではないかとまで考えるのです。これで、この佐賀市富士町栗並の子安神社の祭神が何故かコノハナノサクヤではなくアカルヒメ=磐長姫が祀られているという不思議さを解読するための一つの作業仮説を立てる事になりました。
これが、正しいかどうかは分かりません。もう少し謎解きへのピースが揃えば正確な分析が可能になるのですが、将来、修整する必要が出て来るかも知れません。
注意して頂きたいのは、スサノウにとってみれば、アカルヒメ=磐長姫も櫛稲田姫もともに相次いで妃となっているのであって、この事が関係している様にも思えます。今後の課題です。
なお、全く、父、母ともに異なるコノハナノサクヤと櫛稲田姫とが、何故、姉妹であると言われているのかについては過去何度か述べて来ました。
詳しく説明すると反って混乱が大きくなりますので、父も母も全く異なる他人同士が、相互の両親が婚姻関係を深め九州王朝を支えた姻族としての金山彦、大幡主、大山祗というスクラムを形成し、この三者が義理の各々兄弟の様な関係になっている事から、その娘同志も、互いに姉妹と言えない事はないとまでは言えそうなのです。そこで、敢て百嶋神社考古学の立場から際どい説明を行うならば、まずコノハナノサクヤヒメはニニギと別れた後、鹿児島県溝辺町に移動し名を前玉姫と換え(前玉神社)、後に富士山周辺(富士山浅間神社)から最終的には北関東埼玉県の「埼玉」の語源となる前玉神社の祭神にまで高まっているのです。そして、コノハナノサクヤは後にヤタガラス(大幡主の子)と一緒になっているのです。
そのヤタガラスの姉がアカルヒメなのですから、現在の家庭生活でも兄の奥さんをお姉さんと呼ぶことは良くあることで、ヤタガラスのお妃ともなったコノハナノサクヤがアカルヒメを姉と表現しても決して奇妙とは言えないのです。その意味で、九州からはコノハナノサクヤは消えており、代わりにアカルヒメが祀られた可能性を考える事もあり得るかも知れません。
百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)
参考
大串神社
佐賀県佐賀市富士町大字大串701(櫛田神社)
出典資料から記載. 祭神神功皇后武内大臣藤原広嗣源義経由緒創立不詳といえども、三瀬山の杉神社と同時の鎮座で、祭神も同体である。杉神社は小城山大宮司嘉村左京進宗章が筑前香椎宮から分霊を勧請したと伝えられている。祭日 10月初旬秋祭り。氏子 67戸。敷地面積 601坪。建物20.25坪。出典:富士町史下396p
栗並(恐らく栗ノ見の意味)の子安神社は登載されていませんが、桑原の子安神社は「佐賀県神社誌要」に搭載されています。
現在の祭神と大きく異なる事はお分かり頂けるでしょう。
ご覧の通り、一般的な子安神社の祭神である大山祗とコノハナノサクヤの親神だけは痕跡を留めているのです。
この内、コノハナノサクヤがいつしか消された可能性も考えておくべきでしょう。
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