569(前) 佐賀市(旧富士町)の子安神社と唐津市(旧七山村)の子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト ⑦
20180122
太宰府地名研究会 古川 清久
以前、ひぼろぎ逍遥 487~492 として、安産の里無津呂の神々として以下の6本を書きました(現在、オンエアが始まっています)。従って、本編もその続編となります。
安産の里無津呂の神々 下無津呂の乳母神社(下) ジネコ神社協賛プロジェクト ⑥ |
安産の里無津呂の神々 下無津呂の乳母神社(中) ジネコ神社協賛プロジェクト ⑤ |
安産の里無津呂の神々 下無津呂の乳母神社(上) ジネコ神社協賛プロジェクト ④ |
安産の里無津呂の神々 上無津呂の淀姫神社 ジネコ神社協賛プロジェクト ③ |
安産の里無津呂の神々 子安神社に隣接する鹽甞地蔵について ジネコ神社協賛プロジェクト ② |
安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト ① |
子安神社という九州では見かけない二つの神社が、何故か佐賀県の北西部の山中に峠を挟んでひっそりと鎮座しています。
再掲載
487 安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト ①
佐賀市と言っても遠方の方には“九州の佐賀県”と言わないとなかなか理解されないのですが、平成の大合併によって新たに佐賀市に編入された旧富士町の領域に子安神社という九州では珍しい名の神社があります。
この神社が、何故、子安神社と呼ばれていたかについての説明をする事は一応可能でしょう。
簡単に言えば、大山祗の娘である木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)が、邇邇芸命(ニニギノミコト)と出会い身篭るのですが、ニニギは一夜で身ごもった事から国津神の子ではないかと疑います。
そこで、この疑いを晴らすためコノハナノサクヤは誓を立て産屋に入り「天津神のニニギの子なら何があっても無事に産めるはず」と産屋に火を放ちその炎の中でホデリ(ホアカリ?)、ホスセリ、ホオリの三柱の子を産むとされているのです(「古事記」)。
この猛火の中でも多くの神々を出産したとの神話からコノハナノサクヤを祀る神社が安産の神様として信奉を集め子安神社が成立したと考えられます(特に北関東に多く分布を示す)。
ただ、百嶋神社考古学はその一般的なストーリーの下に隠された古層の探究を目的としている事から、それで良いかと言うと単純には乗れないのです。
その話は後段に回すとして、まずは、この神社のご紹介から入ります。
あくまでも一般的にですが、最も有名な子安神社と言えば、伊勢の子安神社になるでしょうか?
それほど多くはないのですが、それなりに有名なものを拾い出して見ましょう。
子安神社 /三重県伊勢市宇治館町1 祭神=木花開耶姫神(コノハナノサクヤヒメ)
子安神社 /東京都八王子市明神町4-10-3 祭神=木花開耶姫命 天照大御神 素盞鳴尊 大山咋命 奇稲田姫命
杉田子安神社 /富士宮市杉田215 祭神=木花之開耶姫
櫻井子安大神 /千葉県旭市櫻井1264 祭神=木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメノミコト)、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト) …以下省略
ご覧の通り、木花之開耶姫が主神としてされている事がお分かり頂けるでしょう。
ところが、旧「富士町史」によれば、“祭神 大山祇神 磐長姫命 保食神 源義経 安産の神”としているのです。
何故、このように通りの悪い、通説と全く異なる祭神としているのでしょうか?
勿論、大山祇神は木花之開耶姫の父神なのですから、多くの神社がそうしている様に、磐長姫命を木花之開耶姫へと祭神入れ替えをしてさえいれば済んでいたはずなのですが、それが行われていない事に逆に信憑性を感じてしまうのです。
当方も、大山祇神が祭神とされている以上、木花之開耶姫が正しかったのではないか…これは只の誤りではないかなどと安直に結論を出す事は容易いのですが、そうとも言えないのです。
子安神社 カーナビ検索 佐賀市富士町大字栗並586-1(左) 唐津市七山池原乙555(右)
佐賀県の神社を調べるには、非常に使い難い「佐賀縣神社誌要」(大正15年)に頼らざるを得ないのですが、実はこれにはこの子安神社は搭載されていません。
また、佐賀県唐津市七山池原乙555にも同名の子安神社があることからこれも頭に入れておいて下さい。
旧富士町栗並の子安神社から西にひと山越えた七山村桑原にもう一つの子安神社があります。
外の資料を探すとしても容易ではないため、とりあえずネット検索を行うと、に以下の記述があります。
二十年ほど前に「大和町史」は目を通していましたが「富士町史」はパスしていました。
祭神 大山祇神磐長姫命 保食神 源義経 安産の神
由緒 栗並地頭栗並因幡守子孫永久の大願で承久(1219~22年)のころ勧請の由古老の口碑に伝え、神殿、拝殿ともその後の再建といわれている。
祭日 1月元旦祭、9月風祭、彼岸祭、刃の日祭、神宝 古刀1振、法螺貝
敷地面積 632坪。建物22坪。氏子 75戸
本社は社名のとおり安産の神。ここの腹帯を妊婦が腹に巻くと安産と伝える。近くにある夫婦岩は良縁のシンボルといわれている。 出典:富士町史下p.398
改めてこの神社を考えると、この旧富士町の子安神社が本物中の本物の神社であり、東日本に偏在する子安神社の原型の可能性があるのではないかという印象を持ちます。
まず、旧富士町の子安神社の祭神が大山祇神、磐長姫命…である事はお気づきになったでしょう。
磐長姫命と言えば、天津神としての邇邇芸命に対して大山祇が木花開耶姫と共に妃として送ったものの醜かったことから返されたという曰くつきの嫌な話が伝わる女神様なのですが(木花開耶姫と共に有名な福岡県糸島市の細石神社の祭神)、その通説で大山祇の娘とされる磐長姫命が大山祇と共に祭神とされているのです。
この背後にはかなり大きな謎があるのですが、…
以上、明朝体は前回からの引用部分。
まず、唐津市七山桑原の子安神社は本来の祭神を入れ替えているのは明らかです。
応神を抱いた武内宿祢と神功皇后の姿を良く見かけますが、このことから応神は武内宿祢の子であるなどと下ネタ風の話をする愚か者まで出てくる始末でどうにもなりません。
このため、これらが子安神社の祭神としてこじ付けられない事もないのですが、明治期なのか、宇佐神宮が権勢を振るい始めた武家政権の時期なのか、結果として子安神社としては似つかわしくない配神とされているようです。
勿論、他の子安神社と見比べても一般的でない事は明らかでしょう。
ただ、現時点の祭神としては神功皇后、応神天皇としている訳で、それをどうこう申し上げるつもりはありません。
しかし、私達は古代史、神代史の深層を探索する者であって、この下には別の祭神が存在していたであろうと考えてしまうのです。
それは、この神社の氏子を見れば一目瞭然であって、半分以上が「加茂」姓の方々なのです。
加茂(中国風に発音すれば「チャマオ」ですが)は、「鴨」であり「賀茂」であり「蒲生」であり「鎌尾」…であり下賀茂、上賀茂神社に繋がる大幡主系~ヤタガラス~鴨玉依姫(決して
ウガヤフキアエズの妃などではない)の流れを汲む人々なのです(中国の少数民族白族=ペイツー)。彼らは漢族や鮮卑族と最後まで闘い続け、遂には山岳地谷追い込まれ、雲南省昆明から紅河を下り、海南島(現海南省)を経由し九州西岸に入って来ているのです(事実、海南島には「加茂」地名まであるのです)。では、氏子の加茂さんをご覧ください。
この氏族が別王ごときの応神を祀るはずはないのであって、本来の祭神は別にあった(ある)はずなのです。
さて、ひぼろぎ逍遥 487 安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト ① の最後尾に「この問題は、最低でも七山村の子安神社を訪問しないうちは結論など出せるはずがありません。」としました。
ところが、この唐津市桑原の子安神社の祭神を見て逆に混乱は一気に深まってしまいました。
それは、この桑原の子安神社の祭神が、一般的な子安神社としては全く異質だったからでした。
仲哀天皇、神功皇后、応神天神という祭神と全国の子安神社とはどう見ても結びつかないのです。
しかも、この地に住み着いておられる多くの「加茂」姓を持たれる方達が、博多の櫛田神社の主神である大幡主を支える白族の方達であることは疑いようがなく、この祭神は明らかに差し替えられているとしか思えないのです。
まず、子安神社という社名は何でしょうか?
子安とは子を“あやす”の事かも知れませんし、安産の神様かも知れませんし、子を安らか育てるの意味かも知れませんし、それ以前に子授けの神様なのかも知れません。
凡そ明治の頃まで、仮に20人の子が産まれたとしても、順調に育って二十歳を迎えられるのは七人程度だったと言われています。それほど生存率は低かったのです。
出産から育児まで極端に死亡率が高かった時代には、仏教系の子安観音、子安地蔵も繁盛していた訳で、少子化、無産化から未婚化、非婚化が進むとんでもない亡国への道を意図的に歩まされている列島(劣等)民族には子安神社の福音こそ必要になっているのです。
ともあれ、最も知られた伊勢神宮の内宮付近には明治期に排斥されつつも、大山祗とコノハナノサクヤが祀られている事から、これを子安神社のプロトタイプ(原型)と考える事は、一応、許されるでしょう。
と、すると、佐賀市富士町栗並の子安神社の祭神が、何故、大山祗とイワナガヒメとされている事に目が移ると言うよりもかなり強い違和感を持つのです。
この山を挟む二つの子安神社の解析を行うには、まず、この二つの地域がどのようなものであったかを理解する必要があるでしょう。
佐賀市側栗並の子安神社と唐津市側桑原の子安神社とは、現在こそ互いに離れている様に見えますが、それは国道323号線が新たに開削されたからであって、古くは樫原湿原を経由して互いに往来が出来る位置関係にあったようです。
唐津市七山村が圧倒的な博多の櫛田神社の主神である大幡主(白族)系の集落である事に対して、佐賀市富士町大串~栗並~杉山は、子安神社(大山祗+磐長姫)、大串神社=別名櫛田神社(櫛稲田姫、スサノウ)、白石神社(恐らく白山姫=天御中主命)…と金山彦、大幡主、天御中主、大山祗という強面の神々が揃い踏みする山岳修験のエリアである事を示しているのです。
そこでようやく大串地区とは佐賀県神埼町の櫛田神社の色濃いエリアである事が見えてきたのでした。