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577(前)忘れ去られた明治の北白川宮能久親王の石碑について ”熊本県山都町長崎”

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577(前)忘れ去られた明治の北白川宮能久親王の石碑について ”熊本県山都町長崎”

20171212

太宰府地名研究会 古川 清久


思えば、列島の歴史においても明治とは大激震期でした。

日清戦争から台湾+澎湖島の併合(植民地化ではなく列島と同等の扱いをする)前後の話になります。


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北白川宮などといった聴きなれない話は本ブログの対象でも、精通したジャンルでもないのですが、問い合わせが来れば、「分かりません」とお断りするためにもそれなりの調べはしなければならないため、今回、思考の片隅にある範囲でお話しする事にしたものです。


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北白川宮(きたしらかわのみや)は、明治の初期に伏見宮邦家親王の第十三王子智成親王が創設した宮家。智成親王が兄宮嘉言親王から継承した聖護院宮(しょうごいんのみや)を改称したもの。

聖護院宮嘉言親王[編集]

先代嘉言親王は、1821年(文政4年)に誕生。天保2年出家し雄仁法親王を名乗った。同年光格天皇の猶子となり、天保3年に親王宣下。慶応4年還俗し聖護院宮を名乗るが、同年に薨去。聖護院宮は弟宮で元は同じ聖護院預かりとなっていた智成親王が継承した。

聖護院宮→北白川宮智成親王[編集]

初代智成親王は、1856年(安政3年)に誕生。慶応2年に親王宣下。聖護院に入る。出家し信仁入道親王と称した。明治維新によって還俗。照高院宮と名乗ったが、その後、兄宮嘉言親王から聖護院宮を譲られる。そののち、北白川宮に改称した。 1872年(明治5年)、17歳で薨去。兄の能久(よしひさ)親王を後嗣とするよう遺言した。

北白川宮能久親王[編集]

2代能久親王は伏見宮邦家親王の第9王子で、嘉言親王の弟宮、智成親王の兄宮に当たる。1848年(弘化4年)に誕生。1858年(安政5年)に仁孝天皇の猶子として11歳で親王宣下。上野の輪王寺に入寺得度し、公現入道親王と名乗る。戊辰戦争の時、幕府側に附く。彰義隊に担がれて上野戦争に巻き込まれ、その後 奥羽列藩同盟に擁立され仙台に赴いた(東武皇帝として即位したとする説あり)。維新後、蟄居・伏見宮家預りとなる。

1869年(明治2年)に許されて伏見宮に復帰する。1870年(明治3年)にドイツに留学。1872年に北白川宮を相続し、1877年(明治10年)に帰国した。帰国後は陸軍に勤務。 陸軍中将にまで進む。日清戦争では近衛師団長として出征。戦後、台湾守備の命令を受け、台湾征討軍の指揮にあたったが、1895年(明治28年)、現地で戦病死した。享年49。…

ウィキペディア(20171214 0945による


まず、何故、この地に北白川の宮の顕彰碑が存在しているのかと言う事からご説明させて頂きます。


明治26年(1893)馬見原町長崎で実施された陸軍第六師団の軍事演習で、検閲を行っていた北白川宮能久親王がこの松の枝に上着を掛けたとして検閲を行っていた北白川宮能久親王がこの松の枝に上着を掛けられたことに由来し、「服掛」という。

山都町指定文化財一覧による


要は、明治26年(日清戦争を想定した一年前)の陸軍の阿蘇での演習を北白川宮が閲兵した事実を後世に伝えようとした顕彰碑なのです。

ただし、我々、百嶋由一郎神社考古学の立場から言えば、「北白川」「聖護院」「奥羽列藩同盟」…といったフレーズからは、“南朝革命”(表向き現天皇家は南朝系とはしていませんが、戦時下でも皇居前の楠正成のブロンズ像が潰されなかった事や、帝国議会での南朝を正統とする天皇の裁可があったことなどから現在の皇室が北朝系でないことは推察が着きます)を体現した明治天皇制と消えた(消された?)宮家が「北白川」家という話は、それだけで興味をもつものです。

始めから脱線を覚悟で話しておきますが、何故、①熊本市内を貫流する大河が白川なのか?②京都の下賀茂=ヤタガラスの一族を奉斎する神社のルーツが八代の妙見神社~氷川町の火の国一帯であった…という事…③明治維新によって敗残した徳川幕府自体も概略三つ葉葵の紋章を使う下賀茂の流れを汲む人々(雲南省昆明~海南島~氷川~熊本~博多に入った白族=ペイツー)であった事を考えてしまいますが、それはこれまで書いてきた1500本のblogを読んで頂けなければご理解頂けないでしょう。

その話はしばらくおくとして…もう少し、この北白川について考えて見ましょう。まず、場所です。

お分かり頂けると思いますが、宮崎県五ヶ瀬町に近接する文字通りの阿蘇の最奥部になります。


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北白川の宮とは何か?


さて、ある程度歴史に精通した方であれば、「明治天皇すり替え説」についてはどなたもご存じだと思います。この事を知らない方は当ブログにはアクセスされていないと思いますが、一般的にはとんでも説とか、歴史を知らない輩として排斥される類の話になります。

まず、教育委員会とか神社庁(これとて公的機関ではなくただの民間団体でしかないのですが)とか学芸員とかいった利権絡みの方々は、真実の一端を感じてはいても避けて通る話であり、中には声高に排斥し権力に尾を振り忠誠を示すと言うさもしい振る舞いをする方も多々見掛ける事もあるのです。

まず、訳も分からず騒ぐだけの安物のさもしい宮司輩などは、鼻から知識が無いだけの方ですので相手にする必要もないでしょうが…。

さて、明治天皇すり替え説については、鹿島 昇の「裏切られた三人の天皇」で良く知られていますが、今や明治天皇=大室寅之介説は知らぬ人のない話として広く流布され、今や裸の王様状態になっています。


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特にユーチューブ上に公開されている、鬼塚英明氏の多くの話が全くの捏造とは思えず、最低でも、この「日本の真相」1 明治天皇すりかえ…以下十数本程度は は見られるべきで、その上で、ご自分の判断に任されるべきでしょう。

 ロスチャイルドに操られた明治維新の裏の姿が一気に浮き上がり、日清、日露を経て、第一世界大戦の火事場泥棒から、大東亜の敗戦も仕組まれ、今尚、日本の富がユダヤ金融マフィアに回収され続けている事、小○竹○偽「改革」以来、日本の国富の大半が米国金融資本に持ち出され続けている(最近のタカタ、東芝から、次はコベルコ…)背景が分かるでしょう。


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