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577(後)忘れ去られた明治の北白川宮能久親王の石碑について ”熊本県山都町長崎”

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577(後)忘れ去られた明治の北白川宮能久親王の石碑について ”熊本県山都町長崎”

20171212

太宰府地名研究会 古川 清久


この外にも多くの情報がオンエアされていますので、ご自分の判断で真相を把握されるべきでしょう。

そもそも西欧金融資本の援助を受け明治維新を実行した討幕派とは色々な思惑を持った野合勢力でしたが、最も不思議な事とされている薩長連合の成立(蛤御門の変では長州と会津、薩摩は敵味方になったのですから)の背景に“次の天皇は南朝方から出す…”という長州の木戸孝允(桂小五郎)の提案に薩摩の西郷隆盛(所詮は彼も工作員でしかないのです)が乗ったという有名 な話があるのです。

一般的に西郷は島津の下級藩士の指導者と思われていますが、南朝方として数世紀を闘いぬい
577-5た肥後の菊池氏、阿蘇氏、五条家…でも西郷の系統は菊池氏の早い段階での則隆の別れの後裔であり、現在でも熊本県菊池市七城町に西郷(熊本県菊池市七城町砂田西郷)があり、西郷隆盛の先祖の出身地とされているのです(右→写真)。

菊池氏は後に北朝方に追い落とされ、逃城としていた宮崎県西都市の東米良、西米良村一帯に生延び(白銀神社)、後に島津の傘下に入ったものと考えられています。

事実、安政の大獄に絡んで西郷隆盛は、勤皇僧の月照と共に錦江湾に身を投じた(これはどう考えてもおかしいですね)とされていますが、何故か蘇生し鹿児島の島津藩27代斉興の裁量によって幕府に対しては死亡したとの報告が行われ、菊池源吾と変名し奄美大島の龍郷に潜伏をしているのです。

このように薩長連合が成立した背景には、西郷に対して桂とか岩倉が“我々はこの南朝の御正系を立て王政復古する”と持ち掛けた事によって、本質的に南朝方であった西郷(菊池源吾)は賛同し、一気に薩摩が尊皇討幕に動いたと言われているのです。

一応、明治天皇はその名を睦仁親王といい孝明天皇の第二皇子として生まれているとされています。

ところが、この睦仁親王が殺され代わりに長州(萩だか多布施だかにいた)で囲い込まれていた南朝系の大室寅之祐と挿げ替えられたとの話が明治天皇すり替え説なのです(表天皇と裏天皇とが入れ替わったとの話もあるのですが)。

このように、幕末までは、南朝、北朝を問わず、実質的にないがしろにされていたのですが、北朝系の天皇家(孝明天皇~睦仁親王)である孝明天皇が消され、宮家や公家さえも一から創られ、鹿鳴館でワルツを踊っていた華族も大半急造された旧藩の名士だったりしたのであり、それらを隠すためにも皇居を京都から東京へと移し明治天皇も写真を撮らせなかったと言うのです。

事実、明治天皇のお妃であるはずの一条美子も、何故か昭憲「皇后」ではなく昭憲「皇太后」と呼ばれているのです。この事も睦仁親王が始めの明治天皇となり後に消されたため先の天皇の妃を「皇太后」と呼ぶ習わしが生きているのです(先の天皇のお妃が「皇太后」なのです)。

そこで、明治期には消された①明治天皇(睦仁親王)、続く②明治天皇(大室寅之祐)がいた事になるのですが、実はもう一人天皇を名乗った人がいたようなのです。それが、北白川宮能久親王なのです。

しかし、明治政府で親王として活躍されているではないか…と言われるかも知れません。


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そこで少し長い為恐縮ではありますが、「驚愕の日本史②北白川宮家の悲劇・幕末天皇は三人いた。伯家神道の予言。3.11の隠された意味 日本の滅亡 をお読み頂きたいと思います。


そのひとつは幕末 京都明治天皇が弑逆されたあと 東京明治天皇の他に擁立された天皇があったことです。輪王寺の宮 ⇒ 東武天皇です。このとき東北独立北日本政府独立の動きがあったのです。

結局 会津降伏の東京明治天皇側と和解が成立し 北白川能久親王 となられるのですが 日本政府は突然戦死を発表 息子の 成久王 は事故死 そのお子の 永久王 も事故死 このおふたりの死もとても奇妙です。そして北白川能久親王と永久王が靖国神社の最高のご祭神なのです。

靖国神社の謎については過去記事をごらんください。⇒ こちら


①悲劇の北白川家

北白川宮能久(よしひさ)親王は幕末時の皇族である。幕末時に孝明天皇が急逝(殺されたとの説がある)、睦仁親王が擁立された。睦仁親王も間もなく急逝せしめられたとの説があり、長州が「成り代わりの睦仁親王」を明治天皇として即位させ、薩長同盟はこの明治天皇の朝儀を錦の御旗に掲げつつ幕末内戦に突入した。これについては「大室寅之祐→明治天皇考」で考察している。.....彰義隊は、「孝明天皇を殺して擁立した『成り代わり偽者の睦仁親王→京都明治天皇』などに従えるか」と反発して、輪王寺の宮(公現法親王)を擁立し東武天皇として押し立て対抗したことになる。これを輪王寺の宮から見れば、1868(慶応4).6.15日、 輪王寺宮公現法親王は、諱(い みな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東武皇 帝」に即位。この日を以て、「大政」元年と改元。東北決戦に於ける会津降伏の際に、「成り代わり偽者の睦仁親王」と輪王寺の宮が講和を結び、

1・睦仁親王が明治天皇になること、2・輪王寺の宮が還俗して北白川能久親王となることで生命及び身分が保障される、との条件で和睦した。

1870(明治3)年、輪王寺の宮は、還俗(げんぞく)して伏見宮に御復帰、能久親王として軍籍に就く。同年勅命によりプロシヤ国留学を命ぜられ、同国歩兵・砲兵聯隊、参謀学校等で兵学を学ぶ。1872(明治5)年、留学中、北白川宮を相続する。
 1894(明治28).1月、還俗していた北白川能久親王が近衛師団長に親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出征、台湾植民地化に赴いた。同10.28日、日本政府が突然「マラリヤにより台南に於て薨去した(享年49歳)」と発表した。表向きは「風土病で死んだ」とされたが、現地情報では、生番義民軍のゲリラによって負傷し、その後出血多量で戦死した、とされている。これは日本皇族の最初の海外戦死だった。

成久王は明治20(1887)年に誕生。わずか8歳で父宮の死去によって宮家を相続。成久王は陸軍閥の北白川宮家の伝統にのっとり、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。陸軍砲兵少佐となり、大正 6年には大勲位に叙せられた。しかし同12年、視察のために訪れていたパリで自動車事故により死亡。37歳の宮さまざかりであった。

 北白川宮第四代永久王は成久王の王子として明治43(1910)年に誕生、大正12年父宮の死去により宮家を相続。父宮 と同様に陸軍士官学校、陸軍大学校と進み、これまた父宮と同じ砲兵少佐の任に就いた。この間、ホ○ナベ元帥と交友を深める。昭和10年、尾張徳川の裔、男爵徳川義恕(よしくみ)の娘祥子(さちこ)と結婚。幸福な人生を歩むかに思われた。昭和なって蒙古へ参謀として派遣される。昭和15年、現地の日本軍が歓迎の閲兵(えっぺい)分列していた時、デモ飛行機の曲乗り中に故障して操縦士の操作が誤り臨席していた宮様にぶつかり死亡せしめられた(享年31歳)。「蒙彊方面で演習中、不時着した飛行機にひっかけられて死亡」とされている。父永久王の跡を継いだ第五代道久王は昭和22年、臣籍降下。北白川道久を名乗り、ここに宮家としての歴史を閉じる。道久王はその後東芝に勤めた。引用(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/sengodemocracy_yasukuni._goshintai.htm)




577-6による


私達にとっては、以下の方が興味深くこの白川伯王家こそが下賀茂上賀茂に繋がる大幡主、豊玉彦(ヤタガラス)の裏天皇とも言われる一族なのです。


②伯家神道の予言 白川伯王家とは?

白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の孫の延信王から始まり、古代からの神祇伯に伝えられた伝統を受け継いだ家柄である。 天皇家の祭祀を司どっていた伯家神道(白川流神道)の家元。 なお、花山天皇の子孫の源氏である花山源氏(かざんげんじ)に該当するのは、この白川伯王家のみであるため、両者は事実上同一のものである。 花山源氏と白川家 白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上家。花山天皇の孫延信王(のぶざねおう)が源氏となり神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を独占。神祇伯に就任してからは王氏に復することとなっていたために、別名「王家」も称される。 しかし、室町時代になって吉田兼倶が吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して神職の世界を支配するようになると白川家の権威は衰退。江戸時代に伯家神道を称するも、寺社法度が制定されて以降吉田家の優位は動かなかった。 家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった。 江戸時代の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。明治時代には王氏を称することを止められ、子爵。 白川家の成立 白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、伯就任とともに「王」を名乗れたことである。「王」の呼称の権利は天皇との血縁関係で決まり、本来役職に付随する性質のものではない(詳しくは皇族参照)。臣下でありながら、王姓の世襲を行えるのは白川家にのみ見られる現象であり、特異なことである。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。 万寿二年(1024)に花山天皇の孫である延信王が臣籍に下り、源姓を賜った後、永承元年(1046)に神祇伯に任ぜられた。白川家はこの延信王に端を発していると言われている。当時の呼称は「源」または「王」であり、「白川家」や「伯家」「伯王家」と呼ばれるのはもっと時代が下ってからである。神祇とは神を祭ることで、その責任者は天皇であるほどの、朝廷にとって最も重要な行為であった。神祇伯は神祇官の長であり、最上位の官職であるとともに、奉幣使としても重要な職務である。

神祇伯家学則にある神道の大要 「神道というものは、古今を通じて変わらない根本原則であり、いずれの国においても通用する大道であり、神道と武道(相撲を含む)は一つであり、身を修め、家を整え、国を治める といったことの要領も、古事記・日本書紀・古語拾遺等の皇典を研鑚するうちにわかる。」とある。


伯家神道は今でもあるの?

白川家は明治に入ってから途絶えた。代々口頭で教えを伝えてきたため、伯家神道も一家とともに失われたことになる。だが その教えは平田篤胤など、伯家神道の影響を受けた学者や神道の教団があるので、彼らを通じて現代にまで伝わっていると言える。どうして伯家神道が話題になるの?

2012年に日本が滅びる」という予言があるから。「伯家に伝えられた祝の神事を授けられない天皇の御世が百年続くと、日本の国体が滅亡してしまう」というもの。「祝の神事」とは伯家が代々の天皇に伝授する行法のこと。最後にこの「祝の神事」を受けたのが明治天皇で、大正天皇が即位した1912年から100年後が2012年にあたる。引用終了


これで、分かって良い部分の話の概略はお分かり頂けたと思います。

しかし、これ以上の浅酌は薄汚い偽権力の逆鱗に触れる恐れもありますので注意してお調べいただきたいと思います。世の中には大嘘がまかり通っています。どうでも良いような「邪馬台国畿内説」などと言った嘘は元より、たあいもない九州説も許容範囲なのですが、本当の歴史はいつの時代でも封殺され続けるのです。


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577-7百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 白川伯王家とは八代の妙見宮(天御中主命)氷川の火の国に端を発し、白川伯王を継承する博多の櫛田神社の大幡主、豊玉彦(ヤタガラス)と続く雲南省昆明から列島へと進出した白族を意味した熊野三山、下賀茂、上賀茂の一族であり(特に重要なのは飯塚市の厳島神社です)、熊本市の白川、白川水源、高森町の上色見熊野座神社、色見熊野座神社…に通じる天皇家に匹敵する大族なのです。

 今はこの宮家は消されました。期を一にするかのように明治まで天皇家の宮廷祭事を取り仕切ってきた白川神道も明治維新と共に表面的には消え去りました。

 奥羽列藩同盟に担がれたもう一人の明治天皇がこの北白川の宮だったのです。

 今は、これら百数十年前に起こった歴史の一齣も全く理解されない時代となってしまいました。いずれにせよ、北白川宮も翌年の日清戦争から台湾併合の激動の中で消されて行ったのでした。

 
577-9ほんの150年前まで公家、皇室を抑え込み独立性を保持した列島は国際金融集団によって開放させられましたが、その際持ち出され利用されたのが天皇制だったのです。これをどう評価するかですが、司馬遼太郎が描いた歴史観は誤りで、坂本竜馬などは金融資本のエージェントでしかなかったのです。まあバラ革命ならぬ日の本革命でしかないのです。


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