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578古川という家系について ⑤ “橘氏系図補足”

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578古川という家系について ⑤ “橘氏系図補足”

20180218

太宰府地名研究会 古川 清久


武雄の橘家の流れについて

2018.2.17 宮原秀範


元九州大学名誉教授の、服部英雄氏の著書『景観にさぐる中世』に記載された史実に基づいて、武雄市の橘一族の系図を説明します。

『吾妻鏡』によると、治承4年(1180)平家の盛家の家人であった橘公長がその子公忠(長男)・公業(二男)をつれて弓の試合を行った事で知られている。

しかし、公の通字を持つ橘一族の多くは平家と共に没落したが、公長は平家の盛家をみかぎり源治方に鞍替えして没落を免れたようだ。                平家滅亡(元暦2年)1185

その後、橘公業は家督を継ぎ、鎌倉幕府の頼朝の御家人として、奥州征伐へ行き恩賞として出羽国秋田郡小鹿島を領地として与えられ、小鹿島を名乗る。   (一部の橘一族が土着する)文治5(1189)

嘉禎2年(1236)四国の宇和郡の領土を、西園寺氏に取られ替地として、九州の4箇所を与えられた。

(肥前国長嶋床庄佐賀県武雄市)・肥後国久米郷(熊本県あさぎり町)・大隅国種子島・豊前の副田庄

橘公業は、一族郎党を率いて肥前国長嶋庄へ嘉禎3年(1237)に入部して、4年後には亡くなっている。

橘一族の家督は、公義(きみよし)が兄で十男、公員(きみかず)が弟で十一男、末子相続で公員が嫡子に定められていたが、のちに公義が嫡流を主張して3年後の寛元元年(1243)に幕府は長嶋庄の事実上の領主と認めています。

しかし服部教授は、公員やその子公綱は、肥後国久米郷を所有し、肥前長嶋庄も所有して京都でも活動していた為、公員こそが嫡流ではなかったかと言われています。

長嶋庄の公員の領地は、上村で河上村・大崎村・大渡村であった。公義は、下村を所領し渋江・中村・牛島等の今日の橘町一帯であった。以下の図面に所領地や系図を記載する。

その後公義の所領は下村を三家に分ける。公義は、渋江家の祖となり、公茂は牛島家の祖となり、公光は中村家の祖となった。公員は、公綱→公資(宮原彦次郎)→公高(宮原左衛門四郎)→公次→公忠(宮原公忠)八代の宮原城主とつづき宮原氏の祖となった。


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578-9メンバーの宮原秀範さんから資料を頂き大変有難く思っております。

 中近世は私のジャンルではありませんので、難儀していましたが橘一族研究のスペシャリストの秀範さんから救っていただきました。

 宮原一族は、公忠(キンタダ)の流れと聴いていましたので、てっきり公長の長男の事だと思い込んでいましたが、この公忠はあまり記録がなく、宮原一族も含めてやはり次男の公業(キンナリ)を数代経た公員(キンカズ)の後裔の公資(キンスケ?)から始まっているということなのです。

 ただ、公義(キンヨシ)の時点で渋江、牛島、中村に別れている事から、宮原姓はその後の成立とは考えなかったのでした。ひぼろぎ逍遥+跡宮のいずれからも「橘氏の末裔」にアクセスできます。


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