579 十種ケ峰の麓に金山彦が鎮座する “山陰 津和野の愛宕神社
20180221
太宰府地名研究会 古川 清久
今年の冬は尋常ではない寒さに震え、太宰府地名研究会の研修所(標高450m)も凍結防止のために毎日水を流しっぱなしにしておくしかありません。
勿論、源泉掛け流しの大浴場も僅かですが流しっぱなしなのですが、洗車用、洗面所から台所まで常時流しておかないと凍結から水道管破裂に繋がるため戦々恐々といったありさまなのです。
この酷寒の中で温泉に入り続けブログを書き続けていますが、少し天気が良くなるとやはり遠征に出かけたくなります。
九州内は簡単に移動できますが、関門海峡を渡るとなるとそれなりの心構えが必要になりますので、今回は但馬や丹後などへの遠征は止め、山口県と島根県の県境でも、あまりフィールド・ワークを行っていない領域に入る事にしました。
しかし、山陰の山中である事からかなりの雪が残っている事は覚悟の上の遠征になります。
近場とは言え凡そ700キロの調査旅行になりますので、「山口県神社誌」、島根や山口の道路マップを携えての雪中調査に踏み込みました。
今回は目立った発見はなかったのですが、それでも幾つか気付いた事があるので簡単なリポートをしておくことにしました。
現在でも時折皇室の神宝が運ばれる映像が報道されることがありますが、この三種の神器とは別に物部氏の神宝があります。
彼等のその後を追い求める人々にとって十草の神宝は良く知られていますが、この十種の宝はそれほど知られてはいません。
十種神宝とは
物部氏の祖、神饒速日命が天神御祖より授けられた宝は、羸都鏡(おきつかがみ)一、邊都鏡(へつかがみ)一、八握劔(やつかのつるぎ)一、生玉(いくたま)一、死反玉(まかるがえしのたま)一、足玉(たるたま)一、道反玉(みちがえしのたま)一、蛇比禮(おろちのひれ)一、蜂比禮(はちのひれ)一、品物比禮(くさぐさのもののひれ)一の十種の天璽瑞宝である。
これらを授けるときの教えが「布瑠之言」である。
汝命この瑞宝を以ちて 豊葦原の中国に天降り坐して 御倉棚に鎮め置きて 蒼生の病疾の事あらば この十種の瑞宝を以ちて 一二三四五六七八九十と唱へつつ 布瑠部由良由良と布瑠部 かく為しては死人も生反らむ
敬愛する「神奈備」による
まず、以前から気になっていたのが、山口県山口市徳佐町の徳佐とは「十草」のことではないのかと言う思いでした。
徳佐村 徳佐村(とくさそん)は、かつて山口県阿武郡の南東部に存在した村。
1955年(昭和30年)4月1日に新設合併で阿東町となり消滅した。現在は山口市阿東地区中部の一地域となっている。
ウィキペディア(20180221 10:20)による
山口市ではあるものの、それは平成の大合併の結果巨大山口市が成立した事から生じたものであって、山口の市街地からは島根への国境を過ぎた辺境のような地であることから「徳佐」とは物部氏の移動(通過)地ではないかと考えていました。ここから十キロも走ると直ぐに森鴎外の生地として著名な島根県津和野町に入ります。
さて、今回は津和野周辺の山口県旧阿武町、萩市の旧むつみ村~島根県吉賀町柿木村、六日市町といった辺境でも、これまでの入り込んでいない谷々を巡る事にしました。
ご覧のとおり、この辺境の地の真ん中に十種ケ峰があります
この津和野町から阿武町に貫ける道も以前はハードでなかなか通過する事もありませんでした。
だからこそ興味深いものに遭遇するチャンスは増えるものです。道路整備も進みかなり走り易くなったことから文化の消失と利便性の矛盾はあるものの、茅葺の神殿を残す立派な愛宕神社に遭遇しました。
この地区は林野行政の馬鹿げた針葉樹の人工造林の結果、頻繁に洪水に襲われていますが、何とかこの社殿だけは災害を免れたようです。
この茅葺の茅も正面の川辺で集められたのでしょうが、今回の道路整備と併せた河川改修の結果、この萱、茅の収集も今後はできなくなりいずれ失われてしまう事になるでしょう。実に愚かな話です。
この手の見せ掛けだけの親水性自然護岸(張ブロックを使っていないだけ)とは裏繰りにモルタルが充填されるため生物的再生が全く計れず、一方的に流速だけが上がり自然は再生しないのです(河川改修後)
それでもこの集落名賀(ナヨシ)の愛宕神社は心惹かれるものがありました。
概して顔の見えない(山陰では素性を隠した神社が多いため)神社が多い中、この神社には気品と風格が滲み出ており、図らずも金山彦の面影を拾うものとなりました。
さて、愛宕神社とは何かですが、当然ながら火の神 火之迦具土神(ヒノカグツチ)であり、初期の九州王朝を支えたイスラエル系の神金山彦の事なのです。
この神は同族であった秦の始皇帝と姻戚関係を結び、一足先に列島に海路移動して来た瀛氏(従ってサンズイ偏が付される)であり、昔(ソク)氏=イザナギ、白族=大幡主、越智族=大山祗と姻戚関係を形成するのです。
当然にも製鉄、冶金の神であり、物部氏の中心的な勢力として崇められる神なのです。
そこで、目を山に向けて見ました。
再び、道路に出て百メートルも走ると眼前に十種ケ峰が見えてきたのです。
無論、カーナビは十種ケ峰を示していました。
この神社自体がこの山を意識して建てられていたはずです。
この十種ケ峰とは物部の十種の神宝のトクサを意味しており、この山の裾野に物部氏が展開していたと考えるべきではないかと思うのです。
愛宕神社の由緒に登場する一族が金山彦を中心に形成されている事がお分かりになるでしょうか?
まず、イザナギはなくイザナミだけである事(実は別れた後に博多の櫛田神社の大幡主のお妃になられている)、その子がヤタガラスになるのです。
由緒の事代主は近年の合祀である事から無視して構いません。
ネット検索によると、十種ケ峰と物部を意識している方もおられるようです。
物部つながりで> ちなみに、山口・島根の県境に> 「十種ヶ峰」というさほど高くない山があります。別名長門富士> 「十種神宝」を埋めたという伝説があるとかないとか。物部氏の「十種神宝」リンク先見ると出雲の古墳の名前が出てくるんですが…黒曜石は夢見ている 番外編:出雲と物部 2
ようやく「徳佐」(合併により山口市となった)の意味が分かりました。
物部と言えばニギハヤヒとなりますが、元々は金山彦系氏族こそが物部の本体であるとわかるのです。古代には山、川、集落名といった「地名」複合をもってしか同族性が共有できなかった事が良く分かる事例でした。