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580 雪深い島根の山奥には大山祗祭祀が幾らもある “島根県吉賀町下高尻大山祗神社”

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580 雪深い島根の山奥には大山祗祭祀が幾らもある “島根県吉賀町下高尻大山祗神社”

20180221

太宰府地名研究会 古川 清久



今回の調査の最初の泊地は中国自動車道六日市インターに近いむいかいち温泉 ゆ・ら・ら (島根県吉賀町)としました。と言っても温泉に二度は入り、16時から22時まで休憩室でブログを書き温もった体で車中泊に入るのですから快適この上ありません。

 早朝から、と言ってもラッシュも無ければ人混みも全く無い中、三十センチを超える雪の残る谷へと車を進めます。

 吉賀町は旧六日市町と旧柿木村の合併による新行政単位ですが、その真ん中辺りから匹見町へと貫ける県道42号線を北東方向へと入る事にしました。

 スタッドレスは履かせてはいるものの、もとより山越えは不可能と思っていましたので、とりあえずは行けるところまで行ってみようと思い踏み入る事にしました。

 幸いなことに県道であるため除雪だけは行われています。この除雪というものは相当に高い単価が設定されているようで、地場の土建屋の法外な稼ぎ口となっています。

土建業者数名から聴き込んでいますので、ほぼ、半分に下げても引き受ける連中はいるはずなのです。


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豪雪から一週間は経過しておりかなり溶けていますが、いまだ圃場は数十センチの雪に覆われています。


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ほんの僅かな参拝者のためなのでしょうが、神社への参道だけはきちんと雪掻きが行われているようです。これも神社への思い入れを感じさせます。

 さて、旧柿木村~旧六日市町に掛けて数多く拾える三島、三嶋神社とは何だかお分かりになるでしょうか?

 言うまでもなく愛媛の大三島の大山祗神社の事であり、大山祗の名を憚って三島神社と呼ばれているのだと思われます。


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 この大山祗=月読命とはトルコ系匈奴であると考えていますが、それについてはここでは触れません。

 ひぼろぎ逍遥 トルコ系匈奴 でダブル検索をされれば幾つも出てくると思いますので試みて下さい。

恐らく吉賀町の半分である柿木村の柿木もトルコ系匈奴の後裔が残した痕跡地名と考えています。


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吉賀町には島根県神社庁の資料だけでも五つの三島神社が拾えます。

 ただ、三十社近い神社があるにも拘わらず、大半の祭神が神社庁のリストでも明らかではありません。

 十社程度しか分からないのですから最大勢力であったことは間違いないでしょう。

恐らく吉賀町の半分である柿木村の「柿木」もトルコ系匈奴が残した痕跡地名と考えています。

 これは多くの土地で多くの地名と多くの大山祗系神社を見た帰納演繹的解読方法によるもので、多くの類型を知らない人には凡そわからない話なのですが、恐らく「柿木」とは「石城山」(山口県田布勢町~光市の神籠石)と同様の意味、石木、石ノ城、石貫、岩城、石垣…で、「柿木」も九州全域でも最低10件は拾えます。

これらがシルクロードのタシクルガン=中国表記の石頭城、石城山の置換えである可能性が高く大山祗系氏族が好んで付す地名のようなのです。

 それは、大山祗命を追い求めていると不思議と「石」の付された地名、神社名に出くわすことを何度も経験しているからです。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)のバックナンバーをお読み頂く必要があります(以下)。

179 天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 ④ “西都原に大山祗命の痕跡がある!”

今回ご紹介するのは西都市の石貫神社です。


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以下、以前の記事から…西都原古墳群に近接(東側)して石貫神社があります。この石貫神社については地元では知られているようですが、北部九州にお住まいの方にもほとんど知られていません。この事には、そもそも「大山祇命」を直接祀る神社が九州北部には少ない事があり、コノハナノサクヤのお父さんといった事以外馴染みが少なく印象が薄い事があると思うものです。ただ、天高く、青空に誘われ日向の神社探訪」は、大国主と大山祇命の痕跡を辿ることがテーマですから、日向に幟を揚げた大山祇命のお社を見出したのは有難い限りです。さらに言えば、百嶋神社考古学の立場からは大山祇命(実は月読命)は大国主の父親であり、妹にあたるコノハナノサクヤはニニギと直ぐに別れ、豊玉彦(ヤタガラス)と一緒に古代の日向である溝部町に前玉(サキタマ)神社として祀られ後の埼玉県の地名の起源となった前玉神社になっているとするのです。

由緒

 当社は古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年(733)と伝える。社地は創建時の記録『日能若宮元元由来記』によれば、「大山祇命」(中略)阿佐久良山[木患]木原五百世山元筑波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺跡と伝える。往時は、社殿、境内、宏壮森厳で、真に筑波御殿の名に背かざるものであった。弘治二年(1556)六月の『古帳神社知行目録』によれば、神田十二町一反歩を有し、応永二十四年(1417)社殿改修に当たり神饌田が加増され、以来応永二十五年、二十六年、二十七年、永享二年(1430)等、幾度に渡り神饌田の増加の記録が現存する。しかし天正十五年(1587)豊臣秀吉、島津出兵の際、羽柴秀長、兵を率いて都於郡に陣営した時、当時の石貫神社の祠官が軍令に従わなかった事によって社地は没収された。

石貫神社の名は、大山祇命の娘の木花咲耶媛を嫁にほしいと云って来た鬼に、一夜で石造の館を造ればと命じた。鬼は夜明けまでに造ったが、大山祇命は窟の石一個を抜き取り、東の谷に投げ、未完成とした。これで鬼の要求をはねつけたと云うことによると伝わる。 敬愛するHP「神奈備」より


石貫神社が本物ではないかと考える理由は、この旧溝部町の前玉神社(ニニギと別れたコノハナノサクヤが祀られる)の存在があり、大山祗命の娘であるコノハナノサクヤが、埼玉は本より関東全域で桜姫と呼ばれている起源が、この神社の直ぐ東側を流れる桜川を起源にしているのではないかと考えるからです。

  HP580-9より


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この「石貫」地名は熊本県玉名市(玉名市石貫地区 横穴式石室を持つ古墳で有名)にもあり、故)百嶋先生は同民族の移動による痕跡地名とされていましたが、筑後川左岸(南岸)の久留米市田主丸町石垣地区、佐賀県嬉野市石垣地区など同種の地名があり、大山祗命=月読命の信仰圏でもあるのです。

 まず、石貫神社の「石貫」とは、「石ノ城」の置換えで(U音、O音の置換え)、「石城」「石垣」も「石ガ城」の置換えになるのです。佐賀県神埼郡吉野ヶ里町には「石動」(イシナリ)があります。これも半島系の吉野ケ里の「里」地名ですが、金官伽耶から進出してきた同系統の地名と考えています。これこそが、「石和」が「石尊」と通底していると言った理由なのですが、これらについても故)百嶋由一郎氏は答えを出しておられたのです。

 新疆ウイグルは勿論のことアフガニスタンにまで何度も入っておられたようで、このシルクロードの石頭城(タシクルガン)石頭山が「石城」とも表記され列島まで持ち込まれていると考えておられたのです。

 これまでにも何度も申し上げていますが、百嶋神社考古学では大山祗命=月読命はトルコ系匈奴で金官伽耶の金越智(ウマシアイカビヒコヂ)と天御中主の間に産れた、トルコ系匈奴の血を引くものとします。

さらに話を物部氏に広げます。それも「先代旧事本記」の筆頭に書かれた主力の二田物部との関係に踏み込みます。


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580-12最後にこの三島神社に着く前に発見した小さな小三島神社をご覧に入れます。

 これも神社庁のリストに登載されていない神社でしょう。

 これまで見ると、何やら情念の様なものさえ感じてしまいます。

 個人持ちの屋敷神とは思えないのですが、大山祗祭祀の濃厚さには感じ入ります。

百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください


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