スポット209 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (下)
20180723
太宰府地名研究会 古川 清久
ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の右のリンケージ・サイトに未知の駅 捄フサがあります。
千葉県在住の女性によるものですが、非常に質の高いトップ・クラスの歴史、地名、神社研究…のブログです。当グループと提携してまだ一年にもならないのですが、我々が最も重視している、千葉、茨城の東関東から福島(阿武隈山系)をカバーして頂ける素晴らしい研究者と期待しています。
私の予備知識は多摩地区、埼玉(元は前玉)の東としての玉前(前は崎、先でもあり東の意味もあるのです 豊後の国東と同様)程度です。
このエリアでは、のお二人が百嶋神社考古学の立場を理解された上で研究を進められていますが、新たに強力なスタッフが加わられたと考えています。
さて、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の ビアヘロ060 天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 ②”を掲載しました。
天照と神武が同時代などと言えば通説派の方々は笑い飛ばされるでしょうが、百嶋神社考古学では、呉の太伯の後裔列島大率の子である神武の腹違いの姉大日孁貴(オオヒルメノムチ)が後に対外的にも卑弥呼と呼ばれ、最後に天照大御神と祀上げられた事を知っているのです。
このため、天照大御神の母神を祀る播磨の佐用都比売神社の境内摂社を取り上げたことから、無理を承知で、神武天皇の母神(我々は神玉依姫と呼びますが)を祀る玉前神社のリポートをお願いしたところ、一週間程度で素晴らしいい報告をして頂きました。
既に、オンエアされていますので、皆さんも彼女による 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 を他稿と併せお読み頂きたいと思います。
悠久の昔、山の神である鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)が海の神である玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を見初め、契りを結ばれました。そしてお生まれになった神武天皇をはじめとする神々は、海までつながっていると伝えられる井戸から水路を通って、九十九里浜まで流れていかれました。
(同社HPによる)
では、部分的に重複しますが後篇をお読み頂きましょう。
すごい彫刻と男千木以下Wikipediaより永承3年(1048年)八斗村太夫野に大国主大神を勧請し奉祭したことが当社の創祀という。その後、大治元年(1126年)里人が海岸で潮を汲んでいると南方沖より白亀が漂着し、その甲羅の上に白蛇がわだかまっていた。
霊感を感じた里人が「神様ならお登り下さい」と潮汲みの柄杓を差し出すと柄を登ってきたので、これを神と崇め八斗村太夫野の社へ合祀したと伝えられている。
久安3年(1147年)に現鎮座地の関へ遷祀し、治承元年(1177年)千葉氏の祈願所と定められ、宝永5年(1708年)には正一位の極位を授けられ白子大明神の社号を賜った。
近世南白亀郷12ヶ村の総鎮守であり社号は白子町の町名の起こりである。
宝暦12年(1762年)再建の現本殿と、矢大神(随神像)は、白子町の有形文化財に指定されている。
また境内の樹木群は白子町の天然記念物に指定されている。
甲羅の上に白蛇がわだかまっている白亀なんて、まんま玄武ですね。白子神社の側を流れる川の名前も伝説にちなみ、「南白亀川ナバキガワ」といいます。
玄武は北斗星信仰の妙見神と関わりが深いです。
千葉神社の妙見神は童子の姿で玄武に乗った姿で顕現したといいます。
白子神社の北辰大帝は北極星を神格化した神様で星空で唯一動かない星であることから、大陸では皇帝を表す「天皇大帝」と呼ばれました。
他にも「太一」や「妙見菩薩」とも同一視されています。白子神社では「北辰大帝」と称しています。
この「北辰大帝」こそ神玉依姫のダンナさんである「呉の太伯君」ではないかと考えています。
県内にたくさん星信仰の神社がありますが北辰大帝を奉斎する神社はいまのところ白子神社しか知りません。
そして「白子町」という町名の由来にもなった「白子」です。白族出身である神玉依姫に縁があるとしか思えないネーミング。白族の子孫の住む地、という意味でしょうか。
そして白子町を中心に広がる、ある小字の存在に驚きました。一宮の玉前神社から九十九里町まで、海岸線から内陸約1キロ付近に同じぐらいの間隔をあけて八大龍王が祀られています。
八大龍王は天太玉命(豊玉彦)の別名で、神玉依姫は彼から見ると父の姉です。
注目したいのが、その鎮座地の地名なのです。
なんと「龍宮」という言葉が使われているのです。
地籍までは調べられなかったので正確な小字名が不明な鎮座地が多いのですが列記すると、一宮町新地甲字龍宮下 → 諏訪神社がある一宮町一宮字龍宮・下龍宮 → 八雲神社がある一宮町東浪見字龍宮台 → 八坂神社がある長生村一松丙字龍宮台に鎮座、ほか上龍宮・中龍宮 → 海神社長生村一松戊 → 龍宮神社白子町古所字龍宮下・龍宮後・龍宮台 → 龍玉神社白子町八斗字北龍宮台・南龍宮台・龍宮台・龍宮下 → 八龍神社白子町幸治字龍宮 → 八大龍神社白子町驚字龍宮下 → 面足神社がある白子町剃金字龍宮台 → 八龍神社白子町五井字龍宮台 → 八大龍神白子町浜宿 → 龍宮神社白子町南今泉 → 竜神神社白子町牛込字竜神下 → 龍野神社大網白里市北今泉字北龍輪・北龍輪下・南龍輪・南龍輪下・竜神後・竜神前 → 八大龍王九十九里町真亀 → 龍宮神社九十九里町細屋敷 → 龍神社九十九里町粟生 → 龍神神社・龍神社以上19カ所。龍に関係のない神名の神社は、もしかしたら境内社に龍神が祀られているかもしれません。
地図の青いマークをご覧ください。
これは古代の海岸警備地の跡なのではと感じました。
玉前神社が創建された頃ではなく、もっと後の時代の事だと思いますが、厳重な警備をしなければならない理由が白子神社にあったのかもしれません。
等間隔で警備員を置いた「龍宮台」、そこには守るべき「龍王」がいた、なんて想像するとワクワクしますね!!でも神社の創建より北辰大帝が祀られたのは後じゃない?という声が聞こえましたよ!私もそう思っていたのですが、とある事実を知り納得がいったのです。
それが「私幣禁断に類似する禁令」です。
以下Wikipedia。私幣禁断とは、一般には天皇家の祖霊を祀る伊勢神宮を天皇・皇后・皇太子以外が祀ることを禁じたことを言う。これに似た内容の禁令が以下のように出されている。
796年日本の天皇は北斗七星を祀ることを禁じた。罰則として 「法師は名を綱所に送り、俗人は違勅の罪に処せ」 と規定した(『類聚国史』 「延暦十五年」)。
799年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「京畿の百姓」 に 「北辰に灯火を奉る」 ことを禁じた(『日本後紀』 「延暦十八年九月」)。811年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」 を禁じた(『日本後紀』 「弘仁二年九月一日」)。
835年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「京畿」 での 「北辰に火を供えること」 を禁じた(『続日本後紀』 「承和二年八月二日」)。967年施行の 『延喜式』 は斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「九月一日より三十日まで、京畿内、伊勢、近江、等の国、北辰に奉灯し、哀を挙げ、葬を改むる」 ことを禁じた。なお、1811年伊勢神宮の私幣禁断は解かれたが、北極星および北斗七星の祭祀解禁の時期は不明である。このことからわかるのは①北辰信仰は一定の時期、禁止されていた②北斗七星への星信仰は長く禁止されていた③北斗信仰は天皇家の祖霊に繋がる?です。これを知って、あ~だから妙見信仰の粟飯原氏は千葉氏と手を組んだのか~とか、白子神社ももしかしたら隠して奉祀していた御祭神を完全にOKになってからやっと表に出したのかな~とか、表に出すために白亀と白蛇の話が生まれたのかな~とか、でも「白」に拘るところがやっぱり白族だな~とか、いろいろ考えてしまいました。白子神社本殿の神紋は忌部を現わす三光紋。それなのに祀られているのは大宜都姫ではなく男神。やはり神玉依姫のダンナさんの太伯君じゃないかなーと思うのです。そしてトドメの証拠なコチラ。玉垣神社睦沢町下之郷371現地取材に行けていないので画像がありません、スミマセン。
グーグルマップで見ていただきたいです(土下座)平城天皇が創建した六社の一つで元は若宮神社でした。御祭神はなんと「神日本磐余彦」なのです!神玉依姫の御子=若宮だから若宮神社だったのです!何時から玉垣神社に社名が変更になってしまったのか不明ですが、これも正体を隠そうとしての事だと思います。これまでに県内で何度か「神武天皇」の板碑や石碑は見たのですが、大きな神社で、しかも「神日本磐余彦」での奉斎は初めてです。玉垣神社と鵜羽神社は平城天皇が創建した六社及び現在上総十二社祭に参加している12社の中でも別格扱いです。この事実からも玉前神社と深く関係する神社であることが読み取れます。
ただし一つ残念なのは、現在の玉前神社は元々の鎮座地ではないということです。
実はすでに安房国一宮安房神社、下総国一宮香取神宮も取材しているのですが、他の一宮に比較して規模が小さすぎる!!摂社末社も少ない!!おかしい!と思い玉前神社の歴史を調べたところ、永禄9年(1566)に里見氏と北条氏の対立による戦禍で一宮城が落城、玉前神社も焼失していることが判明。
この時社家を含む城兵300名余りが御神宝を奉じて海上郡守・海上刑部左衛門常忠を頼り飯岡に逃れます。なぜなら飯岡には玉之浦(現在の九十九里海岸)を挟んで一宮・玉前神社と対になる、もう一つの玉崎神社が鎮座していたからです。途中敵の襲撃を受け東金市田間にて草叢に隠れて一夜を明かしますが、闇の中御神宝が輝き里人に発見されました。
しかし事情を知った里人から情を受けて無事に飯岡へと向いました。
里人はこの出来事から当地に玉崎神社を勧請、村の名前も「玉村」となったといいます。(現在は「田間」になっています)その後、玉前神社の御神宝はしばらく飯岡の玉崎神社にありましたが天正5年(1577)に一宮町に戻ります。
しかしすでに宮地の所有権が変わっており困ったようですが、里見義頼が土地を寄進して復興できたといいます。(現宮地は義頼が寄進した地ではないそうです)では元はどこにあったかですが、私は城山公園付近に鎮座していたのではないかと考えています。
ということでFloodMapsで海の高さを+20mに設定した地図をごらんください。
見えますか?上総国一之宮玉前神社の文字。海の底ですね。海の高さを+20mにした根拠は、実はもう千葉県の一宮はすべて取材しているのですが、創建年代は古い順に書くと安房神社→玉前神社→香取神宮だと考えておりまして、安房神社で発見された古代海人の遺骨があった海蝕洞窟が海の側にあったとしてFloodMapsを調整すると+30mなのです。縄文海進は次第に海水が引いていったので、玉前神社では+20mとしました。
ちなみに玉垣神社と鵜羽神社はこうなります。
水際に鎮座する形になりますね。現・一宮町に神が上陸したのは釣ケ崎海岸であったと伝承は伝えます。
東京オリンピックではここがサーフィン大会の会場になるそうです。伝承ではこの海の沖に豊玉姫の化身の鰐鮫がいるとのこと、サーファーの人達を見守っておられるのでしょう。
釣ケ崎の地名由来は山幸彦が釣りをしたから、という「海幸山幸」の物語の舞台が当地ということになっています。九州の伝承がそのまま伝わっているところからも黒潮に乗って船で遥々やってこられたんだな~と感じます。「上総十二社祭」では当地に御神輿が集結します。千葉県では御神輿の御浜下りが普通なのですが、この神事も他の土地から船で渡ってきた祖霊を想っての儀式なんだろうなと思います。海を渡ってきた神々が水浴びをしたという地がこちら。
神洗神社一宮町綱田
こちらは玉前神社の元宮であると言われています。玉前神社の宮司さんも認めておりました。
神洗池長い船旅で塩でベトベトだったでしょうから、真水は嬉しかったでしょうね。
特に女性であれば猶の事。こちらは海の高さが+20mだと・・・
ちゃんと地上ですね。神々は上陸して割とすぐに真水を発見できたのでしょう。最後に玉前神社・白子神社の境内社を記載します。玉前神社の境内社本殿からは遠い場所にそれぞれ鎮座してました。
●十二神社・・・一宮町内にあった12社を合祀した神社愛宕神社 軻愚突智命八幡神社 誉田別命三島神社 事代主命白山神社 白山比売命日枝神社 大山咋命山神社 大山祇命浅間神社 木花開耶姫塞神社 八衢比古命・八衢比売命・久那斗命蔵王神社 大物主命粟島神社 少彦名命熊野神社 櫛御毛野命水神社 罔象女命
●三峯神社 不明
●稲荷社 不明 白子神社の境内社 本殿の後方、左右に鎮座。
●八幡神社 誉田別尊(本殿からみて右に鎮座) 仮安置 子安神社 木花咲耶姫大神
●面足神社 面足尊(本殿からみて左に鎮座) 仮安置 須勢理姫大神・事代主大神
オマケ 今回の取材で一番のオドロキ↑イケメン様!!!これからは面足尊をイケメン様とお呼びいたします。
お分かり頂けないかもしれませんが、息を呑むばかりのほぼ完璧なリポートを頂きました。
これで、この間頭の片隅に張っていた蜘蛛の巣が解消されました。一点、加えれば、「●三峯神社 不明」は北関東、埼玉は秩父市の三峰神社と考えます。浅田真央さんが御注進の神社で参拝客急増の神社で、三つ鳥居(殷の鳥居)から金山彦~長髄彦系の神社と思います。これについても、スポット110 三峯神社の殷の鳥居 ”金山彦系神社(埼玉県秩父市)”としてひぼろぎ逍遥に掲載しています。