593 赤司八幡宮とは何か? “福岡県久留米市北野町赤司”
20180318
太宰府地名研究会 古川 清久
福岡県内の某大学の教授から“赤司八幡宮とはどういう神社なのか”という質問が持ち込まれました。
個人的には正八幡系を除いて八幡宮に関心が薄い上に、高良大社との関係もあるこの複雑な祭祀について、表面的にはともかく、その本質に踏み込んだ解読が極めて難しくこれまで取り上げてきませんでした。
簡単に言えばと言うか正直に言えば二の足を踏んでいたのでした。
実際、質問を受けた直後から、そう言えば、身近な赤司八幡宮については取り上げていなかったと再認識したのも事実でした。まずは、場所からご説明致しましょう。
まず、この赤司八幡宮を奉斎する一族が東進し兵庫県明石市に進出しているのではないかと考えています。
明石は数回踏んではいますが、交通渋滞が激しい場所でフィールド・ワークがやり難く数社しか廻っていないためネット検索で明石の神社を見た限りで済ませていますが、この赤司八幡宮の祭祀や祭神とそれを支えたと考えられる氏族とに対応する神社群が色濃く認められる事からそのように理解してきました。
まずは、明石海峡正面の林神社は贈)崇神系大分県佐賀関の速吸姫神社の置換えではないかと考えていますので、グループの「ひとつあがりのカフェテラス」氏の3稿をお読み頂きたいと思います。
大阪湾に蓋をしたように浮かぶ淡路島を越え、瀬戸内海西の九州、半島、大陸へと移動する事を考えた時、危険極まりない鳴門海峡を越えるならばいざ知らず、普通は明石海峡を通過せざるを得ないはずです。
実は、この狭隘な海峡を制圧しているのが明石の海人族であり、これらの人々が有明海の湾奥の出口で海上交通権を制圧していた水沼(三潴)の君の一族であったのではないかと以前から考えていました。
重要なのはこの氏族が水沼(三潴)の君の一族ではないかという可能性です。
百嶋神代系譜で考えるとその背景が良く見えてくるのですが、(ニニギとコノハナノサクヤの子である古計牟須姫)と(草部吉見とスサノウの娘である辛国息長大姫大目命=アメノウヅメの間に産まれた御年神)との間に産まれたのが武国凝別であり、その後裔氏族が水沼(三潴)の君の一族となるのです。
この海上交通権を掌握した一族が古久留米海の湾奥の赤司にも拠点を持っていたと考えるのです。
ただ、赤司の一族の明石への展開については思い付きでしかないため、いずれ誰かがやってくれないかと考えていますが、それは良いとして少しずつ赤司八幡宮に関する本来の祭神を探ってみたいと思います。
まず、「久留米藩社方開記」に遡る議論は「宮原誠一の神社見聞諜」の宮原誠一氏にお任せするとして、その前に、「福岡県神社誌」を確認しましょう。
この同書中巻 170p には極めてシンプルですが、上のようにしか書かれていません。
純然たる八幡宮であり(石清水八幡系)、境内神社にも神功皇后の片鱗は全くありません。
ところが、現在の赤司八幡宮は対外的には ◎ 輿止比咩命 高良大神 (武内宿禰) ◎ 道主貴 止譽比咩命 八幡大神 (応神天皇 ◎ 三女神 息長足姫尊(神功皇后) 住吉大神 としているのです。
直接的には神功皇后を祭神とはされていませんし、境内社にも神功皇后や淀姫に対応するものは一切なく、唯一、応神が祀られており「紀」が神功の子が応神としていることから、とりあえず取り込まれたと考える事は可能でしょう。
百嶋由一郎(八女ツ姫)神代系譜(部分)
一方、「高良玉垂宮神秘書」は神功皇后には二人の妹がおられ、一人は宝満大祝、一人は淀姫としていますが、何故かその輿止比咩命と止譽比咩命が前面に出されているのです。
これらを、本来、密かに隠されてきた淀姫とか豊姫といったものを、社伝なり宮司家伝に基づいてようやく表に出す事ができたのならば、その背景を知りたいと思うものです。
従って、「福岡県神社誌」が創られた戦前戦中に対して、戦後は全く異なる祭神に入れ替わっている事に何らかの根拠が存在するのかは始めに考える必要があるのです。
現在、表に掲げられた祭神の盛りだくさんぶりに目を奪われ、何やら多くの神々が祀られ、それが、高良大社をも凌ぐ凄い大社であるかのような印象までも受けるのですが、戦前、戦中辺りまで遡り、「福岡県神社誌」からさらに信頼性の於ける17世紀の「久留米藩社方開記」辺りを良く調べるとその実体は極めてシンプルで、十世紀前後で成立した石清水八幡系の八幡神であるという結論に納まるのです。
問題はこの赤司八幡宮の一族をどのように考えるかです。当方は、三沼(三潴)の君の後裔氏族と考えているのですが、現在の宮司家がどのようにお考えなのかは不明です。
前述の通り、現在の赤司八幡宮は対外的には ◎ 輿止比咩命 高良大神 (武内宿禰) ◎ 道主貴 止譽比咩命 八幡大神 (応神天皇 ◎ 三女神 息長足姫尊(神功皇后) 住吉大神 としています。
特に、本来の縁起にない「輿止比咩命」「止譽比咩命」という神功皇后の二人の御妹君が躍り出ている事に関心を向けずにはいられません。
この点、緊急ブログのスポット版で書いたスポット169~170 ①② 僭越ながらも某大学教授からのご質問に対して…過激な神社考古学場から赤司八幡宮を考える(作業仮説)をお読み頂きたいのですが、
「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)15pには、豊姫 玄孫大臣ハ、肥前国ニ留マリテ、豊姫ハ河上大明神トナリ玉フ、高良大明神 大祝日往子尊ハ、…
と、書かれていますし、17pにも…
皇后ノ御イモト二人ヲハシマス、一人ハ宝満大祝、一人河上大明神トナリ玉フ…
と、書いているのです。
この神功皇后の御妹のお二人のうち、豊姫 玄孫大臣ハ、肥前国ニ留マリテ、豊姫ハ河上大明神トナリ玉フ と書かれているのですが、私見ながら豊姫とは淀姫としか考えられないのです。
豊前、豊後を除き、九州全域ではO音が旧U音になる傾向があります。大事はウーゴトですね。
淀姫とはこの傾向の後付で、ヨドはユドだったのです。それを置き換えたのがユタ姫=豊姫だった可能性があるのです。それが現在の混乱に反映されているのかも知れません。
以下古川仮説(百嶋先生は全てを話してはおられませんので、現在も太宰府地名研究会内部の神社考古学研究班で取り組んでいます)。
淀姫神社とは何か?川上タケルの伝承は、淀姫神社の祭神を考察する上での重要な資料と考えています。
つまり、河上淀姫神社とは、滅ぼされた逆賊「川上タケル」を封じるために安曇磯羅=表筒男命の妃となった=川上タケルの妹豊(ユタ)=姫を合せ祀ったものであり(そのため河上の淀姫の本殿の千木は男神を示し大明神と二人の神が祀られているのです)、豊(トヨ)姫が混同されたのではないかという推測ができるのです。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
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