596 内倉武久ブログ“神功皇后は佐賀の山中で生まれた? 謎の〝女性天皇〟解明に新資料”の転載
20180313
太宰府地名研究会 古川 清久
久留米大学では、3月17~18日に掛けて九州王朝論に関する公開講座が行われました。
17日)福永晋三、内倉武久、18日)古賀達也、正木 裕、服部静尚の五人の論者です。
そこで、今回は内倉武久氏の講演についてご紹介する事に致します。
内倉武久氏は、三一書房とミネルヴァ書房から4著を公刊された朝日新聞の元記者ですが、古くからの九州王朝論者として現在も私達と共にフィールド・ワーク。調査、研究、講演へと飛びまわっておられます。
言わば、太宰府地名研究会の考古学顧問と言ったところでしょう。
今回、内倉先生は「神功皇后は佐賀で生まれた 息長氏とその展開」というテーマで講演されましたが、パワー・ポイントをそのままブログ化するのも大変ですので、そのさわりの部分を昨年の暮れに書かれたブログを転載する事にしました。
講演では神功皇后の陵墓を含めさらに展開されていますが、それは内倉ブログの最新稿などをお読み頂きたいと思います。
なお、スポット131 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた!“宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”20171010 でも公開していますので、内倉先生の目にはどう見えたのか?別の視点から何を見られたのか?をご紹介します。内倉ブログの続編も併せお読み下さい。
2017-11-27
神功皇后は佐賀の山中で生まれた? 謎の〝女性天皇〟解明に新資料
『記紀』(『古事記』と『日本書紀』)に記される神功皇后(息長帯比売=おきなが・たらしひめ)は古代史上謎に包まれた女性の〝天皇〟だ。4世紀後半に朝鮮半島の新羅(しらぎ)に攻め入り、戦わずして新羅王を屈服させたという。
いかがわしい古代史を説く国史学者らはこれまで、『日本書紀』の記述に惑わされて、「神功皇后(じんぐうこうごう)は大和にいた女性だ」と考え、さまざまな論議を交わし、発表してきた。
これまで再々述べているように『日本書紀』は事実あった事柄を捻じ曲げ、あたかも権力の中心は古来奈良・大和にあったという虚構を作り出した〝史書〟だ。
現在、われわれが目にする『古事記』は、本来のものにかなりな改作、削除が行われたものであろう。が、それでも『日本書紀』よりはまだ事実に近い歴史を綴っていると考えられる。
それでも『記紀』ともにこの女性については多くを語らず、もっぱら「朝鮮征伐」関連の話や「皇位奪還」の話だけを記している。
まず『記』によれば、この女性は夫の仲哀天皇(帯中日子=たらし・なかのひこ)とともに筑紫の香椎宮(かしいのみや=福岡市東区)、それ以前は穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや=山口県下関市)にいた。
仲哀が北部九州一帯にまで進出していた熊襲(熊曾於族)を駆逐しようと穴門の豊浦宮から出発し、香椎宮に移った。しかし「新羅を討て」という天照大神(あまてらすおおみかみ)のお告げに従わず、(あるいは熊襲の毒矢に当たって=『書紀』)死んでしまったという。
この場面になぜか「武・内宿祢」が登場する。「天照」のお告げを請うたのは彼である、と。
この話はちょっと辻褄が合わない。管見では「内の宿祢」は熊曾於族のトップにいた人である(当ブログNO.3参照)。すでに九州倭(ヰ)政権の中心にいた人だ。
皇后らが熊曾於族駆逐に失敗し、「内の宿祢」らと和睦した後の事情を考えてこういう話にしたのではなかろうか。
久留米市の「高良(こうら)玉垂(たまだれ)宮紙背文書」の言い伝えによれば、息長帯比売は夫の死後、博多(はかた)の住吉神や武・内宿祢とただならぬ男女関係を結んだらしい。女傑(じょけつ)の本領発揮だ。
これらの話を総合すると、「仲哀」は、本来熊曾於族とは別の氏族の出身なのであろう。山口県周辺は故岸俊男氏(京都大学)の研究でも知られるように「紀氏」が盤踞していた地域でもある。だからひょっとすると「仲哀」は「紀氏」系統の人である疑いも生じる。
『記紀』の著述からは、紀氏が熊曾於族と激しい主導権争いをしていた様子がうかがえる。神功皇后らも熊曾於族を目の敵にしていることが書かれている。
「松の連系図」(当ブロクNO.2参照)でも「紀氏」と「熊曾於族」とはある時点(4世紀ごろ?)に合体していたことを記している。
前置きが少し長くなったが、「新資料」の話をしよう。
佐賀県東端の山中に「野波(のなみ)神社」とその「下ノ宮」があり、そこに「神功皇后」と両親の「息長宿祢(おきながのすくね)王」、「葛城の高額(たかぬか)姫」が祭られているという。
精力的に当地一帯の神社の調査を進めている宮原誠一氏が自身のブログに書いているのを見てびっくりした。
神功皇后の出身地についてはこれまで確たるデータはまったくない。『日本書紀』から導かれる「畿内・大和政権の人である」という誤った考えから「滋賀県の湖東、伊吹山西麓に息長庄がある。そこではないか」とされていた。
さっそく電話をして詳しい話や現地の状況を聞こうとしたら、「ちょうど11月19日に当地一帯のトレッキングを計画しています。そこで現地を実見したらどうですか」とおっしゃる。さっそく参加させてもらうことにした。
「野波神社」(写真)があるのは佐賀県旧三瀬(みつせ)町(現佐賀市)、背振山脈の背に近い、北山(ほくさん)ダムの東側だ。
南北に糸島市や吉野ヶ里、神崎町、峠を越えると福岡市早良区に通じる。
熊曾於族の「武・内の宿祢」の生誕地もここから約30余キロ北西の佐賀県武雄市である可能性が高い(当ブログNO.68参照)。
由緒書き(下写真)によれば、この神社は元来ダムに沈んだ場所にあったのを現地に移したという。「下ノ宮」は以前から野波神社から約750メートル南の現在地にあった。
問題は母親の「葛城の高額姫」だ。「葛城」は氏(うじ)名か地名だ。「葛城」という所にいたからそう呼ばれていたのだろう。
実は背振山南麓一帯は古代「葛城」と呼ばれた地域であった。現地から約5キロ、地続きの神埼市には「桂木(かつらぎ)」という旧村(下写真)があり、古代豪族・葛城氏が奉祭していた「一言主(ひとことぬし)神」を祭る鹿路(ろくろ)神社(写真)もある。
同社の由緒書き(写真)の後ろから13行目には「この辺りは古代葛城の峯と言った」ことが明記してある。
さらに隣接のみやき町にはずばり「葛城神社」(板部バス停前)も現存している。博多駅前の街路案内石碑のひとつには「中世、山伏の修行場としての葛城山があった」旨の表示がある。背振山系のことを指している。
これらのデータから見て、神功皇后の母親がここにいたことはほぼ間違いないだろう。
では父親の「息長宿祢王」の方はどうか。「息長」というから鉄や銅の生産に関わった氏族の一員だろう。鞴(ふいご)に吹き入れる風のことを業界用語で「息」と表現している。それが長く続いてほしいという願いを込めた氏族の名だろう。
近くには「伊福(息吹く、か)」という出雲の鉄生産関連地名や姓に出てくる地名もある。みやき町の綾部神社は「風の神」を祭る神社で、その後背地からは多くの鉄滓が出土する。「風(息)」は鉄の製錬に使われる「野ダタラ」などに必要欠くべからざるものだ。
鉄の鉱脈をさぐる役目もしていたという山伏の修行場に背振山系が使われていったという博多の石碑の表記は納得できる。
太宰府地名研究会によるトレッキング
要は、背振山脈西側一帯は古代の鉄生産基地でもあったし、そこには葛城氏や息長氏一族が盤踞していたということだ。皇后の父親もここにいたことは想像に難くない。神社の縁起は事実を伝えていると考えられる。
息長氏の一部はその後、久留米市田主丸の耳納(美濃)山麓に移ったらしい。氏族の末裔を名乗り、ブログ「息長氏は秋永氏である」の筆者秋永祥治氏(大分・湯布院在住)はそう主張している。
滋賀県の「息長の庄」もおそらく北部九州にいた製鉄民・息長氏が進出した先であろう。故郷の伝説を氏族の誇りとして新しい故郷であったことにしたものと考えられる。
また、神功皇后が甥にあたる香坂(かごさか)王、忍熊(おしくま)王の二人を攻め、殺して皇位を奪ったという現場も北部九州であることは確実だ。『日本書紀』は地名を入れ替え、あたかも畿内で起きた事件のように仕立て上げている。まったくとんでもない〝史書〟だ。
神功皇后と武・内の宿祢はいわば「同郷の人」であったことがわかる。同じ佐賀弁(肥前弁)で話しすれば意気も通じたことだろう。
北部九州などの神社の多くが今、「大和政権一元論の古代史の常識」から外れてしまい、草はぼうぼう、建物も今にも壊れそうになっている。地域の人々がなんとか守っているが、存亡の危機にある。近い将来〝いかさま古代史〟の反証が消え去る日がくるのだろう。何とかならないものか。
古代史を語るうえで「神社と言えば式内(しきだい)社」とされ、重要視されるが、もちろんこれらの神社は「虚構の大和政権一元論」にとって都合のいい神社や変節を余儀なくされた神社である。
野波神社など草むして顧みられることがほとんどなくなった神社にも本当の歴史が隠されていることがわかる。(2017年11月)
神功皇后 応神天皇の母親 夫は仲哀天皇(足仲彦)
父は、息長宿祢王、母親は葛城の高額姫 『日本書紀』では熊襲(熊曾於)族を破った。夜須の羽白熊鷲、山門県の田油津姫を殺した。那珂川町で裂田溝を造った。
神がかりして新羅を討つことにした。人質として奈勿王の子未斯欣を 取る(390年)、応神を伴い、武・内宿祢と大和へ向かい、カゴ坂、忍熊両王を討つ。南加羅など7国を平定・治世69年(267年)に死去。狭城盾列陵に葬った。
少し分かり難かったかも知れませんが、佐賀県神埼市の旧背振村桂木には葛城氏の居留地があり、佐賀県佐賀市の旧三瀬村の野波には息長宿禰と葛城高額姫が住み、神功皇后も産まれ育っているのです。
通説派は否定されるでしょうが、全国に息長宿禰と葛城高額姫を単独で祀る神社があったらお教え願いたいと思います。その後、北山ダムとゴルフ場建設に伴い二度移転し、神功皇后以下を祀る野波神社は現在の地に移転していますが、奇跡的ながらその縁起には、ご両親を祀る下ノ宮に関する記述が残されていたのでした。これも一重に太宰府地名研究会の中島 茂氏のフィール・ドワークの成果です。