20180728
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
現在は中国領ですが、アフガニスタン、パキスタンとの国境地帯、言いかえれば、アフガニスタンのカブール回廊入口の要衝にTa Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石頭城、石城山)があります。
他にも幾つかありますが、ユーチューブで【新疆】タシュクルガンの石頭城、【中国】タシュクルガンの石頭城へやってきた。などと検索すればかなりの記事が出てきて鮮明な画像が確認できます。
さて、話をさらに進めます。故)百嶋由一郎氏によれば、 “この一帯の人々(トルコ系匈奴)が、列島に侵入し「石頭城」「石城山」と言った地名を持ち込んでいる…。”それは、”熊本県玉名市と宮崎県西都市に同じ地名がある”とまで言われていました(これらについては後述します)。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
百嶋神代系譜の緑枠で囲った部分の金越智=ウマシアシカビヒコヂ~大山祗~大己貴(+神大市=罔象女神ミヅハノメ+木花咲耶姫)の系統こそが列島に入って来たトルコ系匈奴と考えられていたようです。
ちなみに、本物の神武天皇の本物のお妃であったアイラツヒメも金山彦と大山祗トルコ系の神大市=罔象女神の間に産れたプリンセスであるためトルコ語の月=アイラールからアイラツ姫と呼ばれたのです。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
中国領 塔什庫爾干=タシクルガン(石頭城、石城山)は、現在、ウイグル人(トルコ系とされる)が住み着いていますが、キルギス人もいるようです。このキルギスも、ギリシャに「キルキス」と言う都市名があり、元々はギリシャ系ではないかとも思うのですが、どうせこの辺りはトルコ系、ペルシャ系、ギリシャ系、ユダヤ系…の混血が進んでおり議論しても意味はないのでしょう。
写真は現代のウイグル人美女(良過ぎますかね)。
いずれにせよ、かつてこの地はシルクロードの東西交易の要衝であり、塔什庫爾干の石城山は誇り高いこの地のシンボルだった時代があったのです。
どうも、この中国表記の=石頭城、石城山が熊襲=トルコ系匈奴と共に列島に入っているようなのです。
以前から気にしていたのが長崎県川棚町石木(イシキ)、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町石動(イシナリ)、鹿島市の石木津(イシキヅ)…でした。当時は奇妙な地名だなあ…程度だったのですが、故)百嶋由一郎氏がはっきり言われたのが、熊本県玉名市の石貫(石貫穴観音横穴や石貫ナギノ横穴群外多数の横穴式石室を持つ古墳群)、宮崎県西都市の石貫神社(オオヤマツミとコノハナノサクヤを祀る神社)であり、正面の西都原第 二古墳群に伝大山祗の墓=柄鏡型前方後円墳があるのです。
また、大分県にもあります。旧石城川村(湯布院と高崎山の間の山中の村)です。この由布市から大分市に向かう谷間の一帯も山神宮外大山祗~大己貴祭祀が濃厚なエリアです。
この外にも、山口県光市の石城山神籠石、愛媛県越智郡上島町岩城(イワギ)は平安時代に「石城」の表記で記録のある地名で、そもそも大山祗を祀る瀬戸内海の大三島は愛媛県にあるのです。
さらに、東北の福島県の石城郡、いわき市・南相馬市の相馬の馬追を思い出して下さい。
いわき市のいわきは石木、岩木、磐城=タシクルガンなのです。
そして、出羽三山の湯殿山、羽黒山にも岩木山がありますね、ここも大山祗祭祀が非常に濃厚なところなのです。
当然にも甲州騎馬軍団が跋扈した山梨県にも無いはずはありません。石和温泉の石和(今は笛吹市ですか)です。
ここからコノハナノサクヤを祀る富士山の河口湖一帯に掛けて、石尊神社が数多く拾えますが、これも、まず、大山祗=月読命なのです。まだまだありますが、このように実際にトルコ系の民族が入っているようなのです。
参考
「石貫神社」について ○創建:天平5年(733年)と伝えられています。○御祭神:コノハナサクヤヒメの父神のオオヤマツミノカミ。○オオヤマツミノカミ:山の神で、「天神」・「国神」・「海神」の三神の大神。○大祭日:11月29日。石貫神社から169段の階段を上った西都原古墳群内の『大山祇塚(おおやまつみづか)』の前方部前で神事が挙行されます。 西都市観光協会
先にひぼろぎ逍遥 641 タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu として石頭城、石城山を取り上げ、この地名が列島に大量に持ち込まれていると言う事を書きましたが、当然にもこの地名は中国本土にもかなり拾えるのです。
勿論、占領されているとは言えタシクルガン自体は今尚中国共産党の支配地ですが、ここではそれ以外のタシクルガンをご紹介したいと思います。
恐らく、列島の十倍以上はあるのではないかと考えていますが、なにぶんにも中国語に対応できていないネット上から分かる範囲で探して見る事にしました。
きっかけになったのは故)百嶋由一郎氏が残された手書きメモに石頭塞があることに気付いたからでした。勿論、支那(シナ)という地名が残る麗江の南の石頭塞です。
その前に南京に石頭城がある事を思い出しました。
石頭城(せきとうじょう)は、中華人民共和国江蘇省南京市鼓楼区、清涼門の北に位置している城址。六朝の都である建康の西面を守る城塁であった。後漢末の212年(建安17年)に孫権により築城され、1988年1月13日、国務院により全国重点文物保護単位に指定された。現在は城壁の一部が残り、その城壁の模様が鬼の顔に見えるということから、別称を鬼顔城とも称す。
清涼山の自然地形を利用して土と石で築城し、西と北の両面は長江に近接し、地勢はけわしかった。石頭城西南には烽火楼があり、長江上流と連絡を通じあった。またここには水軍の駐屯地で、長江最大の波止場であり、船舶1000艘を停泊させることができた。
石頭城から城壁に沿って北側は六朝の頃の城壁で、南に行けば清涼門である。石頭城の城壁の上を歩く場合は国防園に入る必要がある。
ウィキペディア(20180730 15:15)による
石头城(shítóuchéng)
戦国時代,周顕王三十六年(前333年)に楚が越を滅ぼした。この 時楚の威王が金陵邑を今の南京に建設した。同時に、今の 清凉山と呼ばれるところに城を築いた。秦始皇帝二十四年(前223年),楚を滅ぼし、金陵邑を秣陵?とした。三国時 代,孫権は、秣陵を建業と改称、清凉山 に石頭城を建設した。当時、長江は清凉山下流を流れていて、石頭城の軍事的重要性は突出していた。呉では、水軍もっ とも重要な水軍基地とし、以後数百年 間、軍事上の要衝となった。南北朝時代、何度も勝負の帰趨に大きな役割を果たした。
石 頭城は清凉山の 西の天然の障壁をなし、山の周囲に築城したもの。周囲7里(現在の6里)あり 北は大江に接し南は秦淮河に接している。南向きに二つ門があり、東に向かって一つ,南門の西に西門があった。内部に は石頭庫、石頭倉と呼ばれる倉庫があっ た。高所には烽火台があった。呉以降南朝でも重要性は変わらなかった。
ネット上の「旅行日記」による
「三国志」がお好きな孫権とか周瑜ファンの方には魅力的な所だと思うのですが、「旅行日記」にはこのように続けられています。
写真は、城壁の拡大写真。上端部分が、明代の磚築部分。六朝時代の城壁部分(真ん中の大きめの煉瓦部分)も、一応日干し 煉瓦を埋め込んだような構造となっている。磚築となったのは、東晋末と考えられる。東晋時代は、全土、主に城門だけが磚築となり、城壁は版築だった。南斉に至り、各城 で城壁が磚築となったと考えられている。それまでは土墻(版築城壁)と竹籬(竹を編んだ城門)だった。
次は 阿蘇氏の故郷、雲南省麗江から北へ延びる茶馬古道の石頭城です。
これは、雲南省麗江の北の石頭城で、百嶋メモに出てくる「石頭塞」ではないようですが、「~茶馬古道をゆく~ 宝山石頭城」からご覧ください。
麗江市内からは車で約4時間、村の上方にある駐車場まで分乗車で向かいます。
その地形から、見下ろすことのできる景色にまず、息を呑みます。
長江の支流、金狭江の峡谷にある巨大な岩の上に築かれた集落は、3方向が断崖絶壁となっており、
城砦と呼ぶにふさわしい佇まいを見せてくれます。
宝山石頭城は元代の1277年から1294年の間に築城されたと言われています。
当時、宝山州と呼ばれたこの地は、自然により形成された難攻不落の砦で、
この地に居住していた少数民族・ナシ族はかつて戦乱を避けるため、山腹に沿うようにして村を築きました。
次は百嶋メモに出てくる雲南省麗江からずっと南の石頭塞です。
百嶋由一郎先生は生前、中国で400回飛行機に乗って8,000万円遣ったと言っておられましたが、西のタシクルガンばかりではなく、南の石頭塞にも足を運ばれていた事が分かります。
解放前の中国ですから苦労も多かったと思いますが、文字通り半島、北京からコーカサスへ、そして雲南省、四川省、貴州省まで調査に飛びまわれたようです。
以下は貴州省の「石頭塞」ですが、雲南省にも「石頭塞」があるようです。
非常に分かり難く、検索を続けて調べましたが、石头寨乡は云南省红河哈尼族彝族自治州红河と書かれており雲南省昆明辺りからベトナムのハノイ(ハロン湾)に注ぐ紅河の近くに石头寨乡もあるのでしょう。
パーモはインパール作戦に出てくるビルマのバーモでしょうし、木姐(ムセー)もビルマ領にあります。
従って、ここが百嶋メモに出てくる石頭塞ではなく、雲南省昆明のそれであり、さらに、中国迷爺爺の日記 中国好き独居老人の折々の思い というブログに出てくるプイ(布依)族の住む石頭塞もべつになります。このように、少し調べるだけでもかなり多くの石頭塞が拾えるのですが、現在の住民とこの地名を残した民族が一致している訳でもないと思います。結局、多くの石頭城型地名が確認できただけでした。
石头寨乡
百嶋手書きメモから
中国迷爺爺の日記 中国好き独居老人の折々の思い というブログがあります。
プイ族の住居 2010-02-01 12:11:46 | 中国のこと
2006年3月に貴州省の西南部を旅した時に、少数民族のプイ(布依)族の集落に立ち寄った。プイ族は人口300万人くらいで、主に貴州省の西南部(黔西南プイ族ミャオ族自治州)に居住しているが、貴州の各地にも散在し、ほかに雲南省や四川省の一部やベトナムにも住む。
訪れた村は石頭寨と言ったが、家々はすべて石造りで、このあたりのプイ族の集落の特徴らしかった。
入り口のゲート。いろいろな銘盤が嵌め込まれているが、中に「貴州省 文明風景名勝区」というのがあった。プイ族の集落の中でもよく保存されているものなのだろう。
事務室のような所に入ると、民族衣装姿の大柄な娘が出てきて、村の中の古い住居や住居跡を案内してくれた。ゲートから向かって左には小高い丘があり、そこに石造りの家が並んでいる。だいぶ古いものらしく頑丈な造りだが、住んでいない家もあった。
倉庫らしい建物 土地廟。村の神を祭る。道教でも仏教でもない、産土(うぶすな)神のような原始的な信仰ではないか。
石組み。鉄筋や漆喰は使っていないで見事に築かれている。
途中で村を一望できる場所があった。現在の家屋の多くは平地に造られているようだ。
上に行くほど古い住居があり、すべて廃墟になっている。どれもかなり大きなもので、このような高い場所にたくさんの石を運び建物を造ることは大変な労働だったのだろう。これらの多量の石材はどこから切り出されたものか。
廃墟の道 石頭寨の傍にあった池。貴州でよく見られるカルスト地形の山が遠望される。
石頭寨からの帰途の風景。この時期にはあちこちに菜の花畑がある。
百嶋由一郎手書きスキャニング・データより