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邪馬壹国ってどこにあった? 正しい邪馬台国への理解の為に

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邪馬壹国ってどこにあった?

正しい邪馬台国への理解の為に

はじめに

 筆者はここ数年、鹿児島県大隅半島の歴史季刊誌「大隅」(大隅史談会発刊)に論考を掲載させていただいている。このところブログの執筆をさぼっていたので、この5月に発刊されたお「大隅」に掲載された「卑弥呼」「邪馬壹国」に関する論考を二回に分けて読者に届けたい。特に新しいことは書いていないが、まとまった形なので参考になれば幸いだ。

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相変わらず古代史フアンの間では「邪馬台国と女王・卑弥呼」についての関心が高いようだ。外国の史書だけに記され、『日本書紀』(以下『書紀』)では偽られている「謎の女王」だから、当然と言えば当然だろう。みんな、ロマンと古代史に関して何がしかの知識を持ちたいと思う心のうちはよくわかる。

これまでにも全国組織のグループがいくつも結成されていて、小生の知人の何人かもそれぞれの地域の「地域長」を務めている。

知人らはそれぞれ自分で研究し、勉強をしているのだが、なかなか発表の機会に恵まれない。勉強の結果をみんなに知らせたがっている。そんな人たちに機会を与えようというのも会の目的のひとつだろう。

もちろん、なかには「ロマンだから七面倒くさい『事実や証拠』などどうでもよい」と思っている人もいるだろう。が、多くの人はとても真剣だ。

でもこうした人々に共通して言えるのは、さまざまな〝専門家〟の著書などをベースにしてそれぞれの地域の伝承やデータを判断しようとしているのだが、えてして地域にこだわりすぎ、冷静な判断ができなくなり、ひいき倒しになってしまっているケースが多いことだ。

問題になるのは、判断のベースとした「専門家の知識、意見」がどこまで信頼していいのかということだ。これが実にあやしい。なぜならそこには純粋に学問的な追及が行われておらず、先生や同僚、仲間への「配慮」が先行するという日本人的な風土が学界や大学の中で支配的であるからだ。

「先生」に気に入ってもらえるよう、「多くの必要な事実」に目をつぶり、見て見ぬふりをして論文や意見の発表をまとめようとする。先生が作った枠(わく)から絶対に大きくはみ出さないように配慮を重ねる。

枠を外れた意見を公表したら大変だ。研究者として一生冷や飯を食わされる。優秀な研究者がそんな憂き目に会っているのを多く目にしてきた。

「邪馬台国の卑弥呼」が九州や関西、そして四国などあちこちに飛んでしまい、未だに収拾がつかない原因はそこにある。逆に「素人(しろうと)」が大活躍する素地もそこにあろう。しかし小生は、「ロマンは事実をもとにわからないことに思いをはせるものであって、事実を離れた妄想ではしかたがない」という意見である。

 今回は多くの「邪馬台国論争」(注1)から欠如していると思われるいくつかの事実やデータをお知らせしたい。論議や考察の一助になれば幸いだ。


①「隠されてきた」の認識が大事


一般に言う「邪馬台国」は、日本の古代史をつづったという『古事記』や『書紀』には記録されていない。
01
『書紀』には「神功皇后」紀のなかに、中国の史書『三国志・魏書』(魏志)倭人伝に記録された「女王。卑弥呼」について、割注を設けて写真の様に書いている(写真 新潮社刊『日本書紀』)。

「『書紀』の割注を読めば、読者は、邪馬壹国の女王・卑弥呼」は『魏志』にいう二世紀から世紀に生きていた人でなく、四世紀後半の人であろう「神功皇后」のことだと勘違いするように仕立て上げられているのだ。


しかし、『書紀』が記された八世紀の人や、少しでも勉強している現在の人ならば、百年以上も違う時代に生きた人が同じ人だなどと思う人はいないだろう。

 それもあって『書紀』はおそらく、わざとであろう、『魏志』の記述を変えて紹介している。

まず十九年の「景初二(二三八)年」を景初三(二九)年己未」に「卑弥呼の使者難升米?を難米」に「帯方郡太守の劉夏」の名を「夏」に四十年の項も「正始元(二四〇」年、太守弓遵、建中校尉梯儁を遣わし」を「正始元年、建中校尉梯携を遣わし」と太守の名を削除したり、建中校尉の名前も違わせている。四十三年の項も大夫の名を違わせるなど「誤引」だらけだ。

しかし、『書紀』の筆者はそこらあたりの素人ではない。筆者であるとみられる「紀の清人」や「三宅の藤麻呂」らも当代きっての学者、歴史家であろう(注2)。これほど間違った誤引を連発することは一〇〇%考えられない。

『日本書紀』で「九州倭(い)政権」や「卑弥呼」の存在を削除するように命じた藤原不比等への物言わぬ反抗だろう。わざと間違えてみせ、読者が疑問を抱くように仕立てていると考えられる。「本当はそうじゃないんです。わかってください」というわけだ。『書紀』のいろんな場所に散りばめられている「事実解明への暗号」のひとつだろう。

不比等は邪馬壹国や九州倭政権の存在を隠して「大和政権こそ古来日本列島を支配してきた唯一の政権である」という虚構を読者や世間に認めさせようとしているようだ。『書紀』はとんでもない歴史の偽書と言えよう。当時の世相から見れば編纂を命じたのは彼しかいない。合わせて自分の一族を権力の中枢に据えようと考えたのであろう。

 「大和政権」は開元の初め(七一三)年に派遣した中国・唐への使節団に「なるべく多くの中国史書を買ってこい」と命じたらしい。中国は『(旧)唐書』日本伝に、「日本の使者らは(我々の天子が送った有難い)品々をことごとく金に換え、市場で大量の文籍を買い込み、海に浮かんで帰った。」と、「まったく失礼な連中だ」と言わんばかりの記録を残している。

 買って帰った「文籍」のなかに『魏志』があったことは間違いなかろう。『書紀』のなかの割注や天皇の言葉、歴史上の人物の発言のほとんどが、中国史書のなかの文言をそのまま、あるいは脚色して使われている秘密がここにある。


②中国の「正史」を呉音で読むのは間違い

文部科学省は、小、中、高校の教科書のすべてにこの「倭」に「わ」とルビをふるよう「指導」していて、一般の人は「ぎしわじんでん」が正しい読み方だと思い込み、定説化している。多くの古代史フアンの頭もこの読みに占領されている。文字通り「三つ子の魂百までも」状態だ。
023しかし、この読みは誤りであり、「倭」は正しくは「ヰ(い)」と読むべき漢字である。
従って「魏志倭人伝」は「ぎしいじんでん」と読むべきである。また「奴」も「ナ」でなく「ト」の音しかない。

「倭奴」を正しく「ゐ(い)ど」と読まなくては我が国の古代史の解明は不可能、あるいは錯誤に陥ってしまうことになる。

この件は拙著『卑弥呼と神武が明かす古代』(2007年ミネルヴァ書房)や、小生のブログでも扱った。煩雑だが骨格だけでも再録しよう。

福岡県教委などが、『魏志』に記録された「奴国」は博多湾岸の「那(な)の津」を指すなどと言っているが、これは大嘘、といえる。「ナ国」という国は存在しない。

一度でも中国に行き、中国人と話をした事がある人なら、自分が勉強した中国語がほとんど通じない場面に遭遇したことがあるだろう。上手、下手は別として、南方と北方とでは同じ漢字でもまったく発音が違うからだ。

現在どうなっているかは知らないが、小生が中国に通っていた二十年ほど前までは、テレビドラマの下部には役者のセリフを全部漢字にしてテロップで流していた。そうでもしなかったら、出演者が何をしゃべっているのかわからない人がたくさんいたのだ。

北方の長安や洛陽地域の音を「漢音」、南方の音を「呉、音」という。「呉音」は中国南部の「呉」や「越」の地域一帯、すなわち江蘇省南部、浙江省、福建省、広東省などで使われていた読みである。「倭」は呉音では「uwa:(わ)」と発音されていた(注3)。お互い外国語のようだ。古代には特に顕著だったろう。だから日本の漢字辞典も必ず「漢音」と「呉音」をきちんと区別して記している。

『魏志』倭人伝など中国の「正史」はすべて「漢音」地域で書かれ、読まれたものである。『三国志』のなかの≪魏志≫が著述されたのは三世紀末、場所は中国西北部、西晋の都であった洛陽である。編者は西晋の著作郎であった陳寿(二三三~二九七年)だ。

陳寿らが使っていた字音は「正音」、すなわち「漢音」であり、読者である西晋の天子や官僚たちはもちろん「漢音」を使っていた。疑問の余地はない。漢を引き継いだ魏、晋朝は、天子と官僚のトップが代わっただけで、官僚たちは漢時代と同じ人たちだったからだ。

しかし、言葉は時代によって変遷していく。従ってより正確に言うと『三国志』(魏志倭人伝など)は「三世紀末、洛陽で使われた漢音」で読まなければ正確な情報は得られない。

『魏志』は、正始八(二四七)年、「邪馬壹国」を訪れた帯方太守・王頎一行や、十六年もの長い間、軍事顧問として「邪馬壹国」に滞在したという張政らが、倭(い)の人から聞き取った国名や官職名、人名を、音がよく似た「三世紀末、洛陽で使われた漢字、特に卑字」を使って表記したのである。

だから理解しようと思ったらきちんと「漢音」で読まなくてはならない。そうしなければ、書かれている国々とか人の名前はわかりっこないのだ。

しかし、中国大陸から九州に漂着してきて全国に展開していった人々の大半は、「呉音」を使っていた南方の人が圧倒的に多い。熊曾於族しかり、紀氏しかり、ニニギの天族しかりだ。

だから日本語の漢字の読みは、初めから「呉音」なのだ。決して何十年かに一回、日本の使節団が中国に行って習ってきたからではなかろう。もちろん「倭人伝」は漢音で読まなくてはならない。

ところが、国史学者をはじめ、古代史の世界ではこのことにまったく無頓着だ。自分らが日常使っていた「呉音」で読んでしまうから勢い、でたらめ状態になってしまう。

国史学者らは『日本書紀』に頼って日本の古代を知ろうとするから、その辺のことがまったくわからない。かつ市民に寄り添うより、権力に尻尾を振ろうと努めるケースが多いから、勢い「大和政権一元論」に立ってものを言ったり書いたりする。


③『説文解字』が明かす日本の古代国家名

では「三世紀末に使われた漢音」が如何なるものであったか。その資料としては最も適当と考えられるのは、西晋の前代である後漢の長安で著述された『説文解字』であろう注4

許慎が著した『説文解字』の原典は失われているが、宋代から清に至るまで多くの研究者によってその復元研究が続けられてきた。清の段玉裁の『説文解字注』などはその到達点との評価がされる。

しかし、はっきりと『魏志』を『説文解字』で読むべきだとする研究者
03は今のところ、岩波文庫の『新訂 魏志倭人伝』和訳を担当した石原道博以外多くはない。最も適当な「字典」だと考えられるのだが、どうしたことだろうか。この「字典」を持ち出せば、自説に都合が悪い、と考えて避けているのであろう。国史学界のいい加減さ、恐ろしさが感じられる。

「倭」と「奴」のそれぞれの字音について、段玉裁の『説文解字注』(図1,2)はこう記す。

倭は形(つくり=委)に従う。倭と委の意味はほぼ同じである。委は従うの意。『広韻』は慎む形に作る。人に従う。委声。於為の(反)切(owi音はすなわち烏(wu)と何(he)の切に転じた。詩に「周の道は曲がりくねり、遅々として進まない

と記す。()内、 。、は筆者

すなわち、オと発音する口の形をしてウイと言いなさい、と言う。日本語では「ヰ」に相当する。「委員」の委だ。「委や倭遅(ヰジ)」の「ヰ」であり、後に「we」に転じたとする( 『説文解字注』」の「倭」と「奴」の記述。『許慎撰 清 段玉裁注』 (上海古籍出版社)より。大意と発音の部分のみ掲載。用例部分はカットした)


「奴」の読みについてはこうだ。

奴は奴婢にして皆、古の罪人。『周礼』には奴男子は辠(官営の牢)に入り、隷(身分の卑しい)女はつきワラつき役にされる。駑馬はのろまな(馬)なり。その字皆、奴に作る。皆(駑)から引伸ばした意味である。乃(dai)と都(do)の(反)切(do)である


とし、「奴」は「駑馬(ドバ)」の「駑」の音(do)であるとする。

「奴隷」のド、「匈奴」のドである。ただ、北方の音には本来濁音はない。息を激しく吐く有気音と息をださない無気音だけだ。「do」は日本語では「ト」に近い音である

現在『魏志倭人伝』に記す「奴国」を「ナ」と呼んで、福岡市中央区の「奴(ナ)ノ津」に当てる説が定説化している。もちろんこれは誤りである。「ナ」と読む読みは「切韻」による「呉音」であり、「倭奴国」は正しくは、「ヰド国→『魏志』の伊都国」と読まなければならない。「ワのナ国」などという読みは『魏志倭人伝』など中国史書の読み方としては有りえない読みである。

一方、「呉音」というのは「いわゆる呉の地域独自の読みではなく、東晋(AD三一七~四一九年)の首都であった建康(現在の南京)で使われた読みをいうのだ」と、奇妙なことを主張する研究者もいる(注5)。だが、この主張ははっきりと誤りであると思われる。

なぜなら東晋は、さまざまな失政や北方の匈奴の侵入によって首都・洛陽を追われた西晋(AD二六五~三一六年)の天子や官僚たちが南に逃げ、建康を首都とした経緯がある。

しかも西晋の滅亡によって多くの人々が南に逃げたという。その数九十万人。世界史的に見ても稀に見る「民族大移動」であったという(注6)。

「呉音」地帯に「漢音」地域の人々がなだれこみ、「呉音」「漢音」は双方とも大きな影響を受けたことは間違いなかろう。が、東晋政府が使っていた漢字の読みは決して「呉音」ではなかっただろう。

いきなり「漢音」とは全く違う「呉音」を使うことは不可能であるからだ。東京で育った人が東北や鹿児島に移り住んでもその地域の言葉が全く使えないのと同じである。

 この主張は国史学者らに媚び、通説を正当化しようとするいかがわしい意見とのひとつと考えられる。


04
④「奴国」は二カ所あった

『魏志倭人伝』には「奴(ト)国」が二つあったと記されている。ひとつは「伊都国から東南陸行百里の奴国」、もう一つは「邪馬壹国の境界が尽きるところ」で「南には狗奴(コード)国がある所にある奴国」である。大方の古代史家がこのことに気づかず、あるいは気づかないふりをして勝手な論陣を張っている。現在定説化している「ナ国」の推定地は福岡市中央区や春日市周辺一帯の一ヵ所しかない。『魏志倭人伝』の記載と合わず、場所的にも疑問がある。拙著『卑弥呼と神武が明かす古代』(2007年)で詳述した。

『倭人伝』のふたつの「奴国」に該当すると思われる地域のひとつは、福岡市の早良区と西区の境界を流れる室見川(むろみがわ)周辺。「山門(やまと)」という場所だ(注7)。もうひとつは有明海に流れ込む筑後川河口付近だ。ここは旧福岡県山門(やまと)郡(現みやま市)である。いずれも『倭名類聚抄』に「里」「郷」として記載されており、現在も地名として使われている。

室見川付近の「山門」は、中世の荘園文書には「山戸(やまど)」と記載される例がある。室見川の中流域には弥生時代前、中期の著名な遺跡「吉武高木遺跡」などがある。前漢鏡や銅戈、矛、玉など「三種の神器」を納めた甕棺の密集地帯であり、国の正殿を彷彿とさせる堂々とした建物が発見されている(写真 福岡市西区吉武で)。

もう一方の「山門」、筑後川は人も知る北部九州随一の大河川である。流域は筑後から筑紫、そして大分県日田を貫流して熊本県の山国にまで及ぶ。河口一帯を「国への口」と呼ぶにふさわしい。

いずれの「山門」もそれぞれ玄界灘と有明海側から内陸部(山)に入る「戸口」「門口」という意味であろう。『魏志』の筆者である陳寿は「戸の国」を卑字を使って「奴(ト)国」と表現したのだ。
05この「山」が「倭人伝」にいう「邪馬壹国」を意味している可能性は高いと思われる。「同じ国名の重出」とみる説もあるが、『魏志』が指し示す場所は全然違う(
 伊都(倭奴)国と二つの奴国想定位置図)。通説がいう福岡市中央区の「奴(な)国」の地は邪馬壹国そのものを勘違い、あるいは「関西説」を補強するために強引な解釈をしていると思われる。

「伊都」は現在は「イト」と清んで発音される場合が多いが、元来は「イド」である。この地は旧福岡県怡土(いど)郡であるからでもある。「怡土」とは「喜びの地」という意味である。ニニギら天族が初めて列島を代表する自分たちの国家を誕生させた「喜ばしい伊都(倭奴)国の地」という意味であろうか。

「倭」を「ワ」と読むか「ヰ」と読むかは、江戸時代に福岡県の志賀島で「漢委奴国王」と刻した金印が発見されて(注8)以来、「漢のワのナの国王」と「漢のイト国王」と読む両説がある(注9)。しかし、多くは現在のように考古学的成果が発見される以前の説であり、中国の印制とも合致しない。

中国の印制では金印が与えられるのは皇后、皇太子、丞相、大将軍御史大夫、諸候王、列候のみ。以下は位に応じて銀印、銅印が与えられる(梶山勝 大谷光男編『金印研究論文集成』所載「金印と東アジア世界」)新人物往来社 1994年など)

この「伊都(倭奴)国」に金印が与えられたのは当然だろう。「奴国」は名前を並べられた約三十ヶ国のなかの二つにすぎない。人口は多いが、日本を代表する国とは記されていない。その位置についても。考古学研究者の不断の努力によって明らかにされた成果をもとに新しく判断し直さなくてはならない。


⑤『魏志』の「一里」は七十六m前後だ
06『魏志倭人伝』は「末蘆国(唐津)→伊都国(糸島市前原)」間を「五百里」と記している。ここを車で走って距離を測ると約三十八㎞前後ある。

と言うことは『魏志倭人伝』の「一里」は、三万八千m÷五百里=七十六m。すなわち百mに満たない距離を「一里」と言っているらしい。通説の「四百六十㍍前後」とは全然違う。約六分の一だ。この距離記載を「短里」と呼び、通説を「長里」と呼んでいる。

また、「朝鮮半島(金海)―対馬」「対馬―壱岐」「壱岐―末蘆(唐津)」間(それぞれ約六十~四十㎞)をそれぞれ「千里」と記している。

「朝鮮半島―唐津」間は流れが急で大荒れする対馬海流を横切らなくてはならない。海流に逆らって航海しなければならないから、西に向かって進み、かなり大回りする必要があった。歩いて測ることもできない。それで地図上より長い「千里=七十六㌔」という表現になったと考えられる。

また『魏志』韓伝は、韓の地域を「方四千里」と記録している。半島から北方の帯方郡、南方の倭地の除いた場所が「韓」地(一辺の距離約三百キロ)だというから、やはり短里の「一里=七十六m前後」で記録している。

帯方郡から「女王の都するところ、すなわち邪馬壹国首都」間は「一万二千里余り」だという。晋の前後の国である漢や唐代の距離記載、すなわち通説の「一里=四百六十m」で計算すると「五千五百二十キロ」となる。日本列島をはるかに超えてしまう。「短里」だと約九百十二キロで、九州の西側が範囲に収まる(図)

この件についても通説派は、邪馬壹国近畿説に都合が悪いので、頬かむりを続けている。

「伊都国→奴(ト)国」間は「百里」(七・六㎞前後)と記録されている。伊都(倭奴)国、すなわち糸島市前原からいったん南東に向かい、「日向(ひなた)峠」を越えて、少し東へ行けば吉武高木遺跡がある。実に正確だ。歩いた歩数で計算しているのであろう。通説の「那の津」は伊都(倭奴)国(前原)から二十五キロ以上離れている。「長里」では「約四十六㎞前後」となる。通説でもぜんぜん合わない。


⑥漢音に「ワ」が登場する理由は?

十一世紀完成の字典『集韻』で「ヰ」の音に「ワ」が加わった事情については、『旧唐書』『新唐書』の記述と関係があるのではないかと考えられる。

『旧唐書』(九四五年完成)は日本について「倭国」と「日本」という二本立てで記載していて、「は古(いにしえ)の倭奴国である」「日本は倭の別種」である」と記載している。

「倭伝」の記事を通説は「はいにしえののナ国である」などと読んでいる。が、これでは「ワ」が重複していて文章になっていない。徹底的に簡素化した表現を目指している史書としては考えられない読みである。明らかにごまかしだ。

要するに『旧唐書』は、中国の歴代王朝がこれまで付き合ってきた、あるいは六六二年(『日本書紀』では六六三年)の「白村江の戦い」を戦った相手は「倭国」であり「日本」ではない。「日本」との付き合いが始まったのは「長安三(七〇三)年」(使者は粟田真人)からであると記載しているのだ。もちろん、「九州年号」の消滅、大和政権の年号(大宝)の開始(七〇一年)とぴたりと合っている。

一方、『旧唐書』に遅れること約百年後の一〇六〇年に完成した『新唐書』では、「倭国」の文字は消え、「大和政権(日本)の言い分」をほぼ全面的に取り入れて記録している。「日本はもともと倭国と言っていたのであり、名前を変えただけだ。倭国は我々の政権そのものであった」という大和政権側の主張(『旧唐書』に「疑わしい」と記載)をそのまま受け取って記録したと考えられる。

この時期は日本の平安時代に当たり、大和政権が全国の支配権を確固たるものにした時期である。中国側の担当者も代わり、それを認めてしまったのではなかろうか。通説派は『旧唐書』の記載も自説に都合が悪いので、もっぱら百年後に書かれた『新唐書』を用いている。まったくあきれた連中ではある。
07「大和政権」の「大和」は漢字の音としては決して「ヤマト」とは読めない漢字である。「だいわ」だ。「大」を美称とみると奈良県一帯は当時「和(わ)」と呼ばれていた地域である可能性がある。
奈良盆地を象徴する「三輪山」も、本来「美しいの山=美和山」という字義であったと考えれば納得もできよう。

要するに、『集韻』で「ヰ」の読みに呉音系統、すなわち日本語の読みである「ワ」が加わったのは日本列島の支配権を確立した近畿(大)和政権の主張によるものと考えられる。

次回「邪馬壹国 その2」に続く(2023年8月)


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