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742 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(上)“駅館川河口を見下ろす川上神社”

742 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(上)“駅館川河口を見下ろす川上神社”

20190327

太宰府地名研究会 古川 清久


 この話は以前文章化してネット上にも公開していたような認識を持っていたのですが、いくら探しても出てきませんでした。

結局、書くつもりで放置していたようで、今般、人吉のひろっぷ女史から「南」姓についての照会があった事から宇佐の金屋地区に於ける「南」姓の集中の話で答えたのですが、思考を具象化するためには文章化しなければならないという訳で、ブログがなければと新たに書くことにしたものです。

今月も何とかブログ30本を書き上げ多少ネタ切れでもあった上に天気も良かったことから、60キロほどの宇佐からさらに現地までプラス10キロ弱(一時間余り)の移動で、再々度の訪問としたのでした。

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恐らく、艦攻、艦爆が飛び交っていたいた宇佐空(大日本帝国海軍宇佐航空隊)が存在していた戦前戦中まではかなり賑わい景気が良かった地区ではないかと思います。

 凡そ長洲駅より海側はだいたい自然陸化と干拓地なのであって、恐らく日豊線の内側までが古代の陸域であったはずです。さらに言えば川向うの柳ケ浦もその名の通り浅い沼沢地だったことでしょう。

近世以来、大型船も入るウォーター・フロントの港湾地域がこの地区です。

航空隊の誘致以来、戦前には相当に賑わっていた地域だったようです。

これから、もう78年前に宇佐の神社を調べていてこの金屋地区に迷い込み遭遇した神社の話をしたいと思います。


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神額には牛頭天王とあり普通はスサノウとか八坂とか祇園社とされる神社かと考えられそうです


川上神社 カーナビ検索 大分県宇佐市金屋980


それほど衝撃的な印象を受けた神社ですが、駅館川右岸の丘陵地と言うよりも崖の上に民俗学で言うところの町(農家の集落ではない)が存在し、川岸には醸造業者(酒、味噌、醤油)や港湾荷役や船食などの産業の痕跡がある小都市というほどのものではありませんが、それなりの街並みが広がっているのです。

この山手の一角に川上神社があります。どう見ても川下なのですが、この点は、佐賀県の嘉瀬川の太古はウォーター・フロントだったと思われる地に川上神社(淀姫神社)が存在している事を思いだします。

勿論、牛頭天皇はともかくとして本来の祭神も特定できていないため(現在、大分県にお住いの「一つあがりのカフェテラス」氏に頼んで調べて頂いています)軽々には言えませんが、川上神社と言えば淀姫か奈良県の丹生川上上中下社…となる訳で、いずれこの社名を含め正体を突き止めたいと思っています。

ただ、今回の話は神社そのものではなくこの神社を支えた氏族に関わるものであり、全く想像の域を出ませんが少し思考の冒険に踏み込んで見たいと思います。

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左が川上神社で右が川上社の右手上方、後方に牛頭天皇社があります


左手に川上神社の参拝殿神殿があり、右手の高台のしかも後方に牛頭天皇社が置かれています。

このため、普通に考えれば、牛頭天皇社が上位で格上の神社に見えるのです。


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牛頭天皇社から見下ろすと川上神社が…

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私もグーグル・マップで確認しましたが、確かにこの三社は直線状に並んでいます。

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上は放生会の和間宮の沖宮ですが、同社の浮殿の上をラインが通過しているのが分かります


川上神社は非常に分かり難い場所に在るからでしょうが、ネット上にもほとんど情報が出て来ません。ただ、「邪馬台国と大和朝廷を推理する」氏の資料にこの川上神社が出てきます。

和間神社は熊襲を放つ放生会(私もたまたま15年前の放生会の祭礼の日に訪問しましたが)で知られた神社ですし豊後高田の若宮八幡宮も既にひぼろぎ逍遥(跡宮)で取り上げた九州王朝の古代官道と推定勅使門の可能性を持つ神社ですので、どう見ても熊襲絡みの神社の可能性もあり、九州王朝の時代に成立した神社群です。従ってラインで繋がるように思えるのです。若宮八幡神社については以下をお読み下さい。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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20178月豊後高田トレッキング ① 若宮八幡神社(豊後高田市)


さて、この神社川上神社の境内には寄進者による勧進者一覧表、記念碑が残されています。始めて訪問した折にもあまりにも多くの南さんがおられる事に驚きました。

寄進者には転出者もおられるかも知れませんが、今も相当数の南さんが氏子としてお住まいになっておられるようです。

さて、後には内倉武久氏を案内して同社を再訪した時にも話した事ですが、初参詣当時から思いついていたことがあります。

これほどの数の南さんが宇佐神宮のお膝元の重要港湾周辺に住んでおられたとすると、これは古代にまで遡る何らかの同族集団である可能性を否定できない様に思えるのです。

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改築記念なのか石盤には寄進者の名前が書かれており大半が南姓である事が分かります


突飛に思われでしょうが、考えついたのは卑弥呼の遣いとして派遣された難升米(ナシメなどと妙な読み方がされていますが…)で、邪馬台国ファンの皆さんは良くご存じの外交使節で大夫と称した人物です。

まず、中国ナンバー・ワン周王朝の士大夫という役職名を名乗り半島、大陸に移動でき、外交ができた人々であり、後の紀氏に繋がる一族の可能性を考えたいのです。すると丹生川上神社とも繋がりそうです。


難升米『三国志』魏書巻三十・東夷伝・倭人の条(魏志倭人伝)中に卑弥呼の使いとして登場する。

景初2年(238年)6月、卑弥呼は帯方郡に大夫の難升米と次使の都市牛利を遣わし、太守の劉夏に皇帝への拝謁を願い出た。劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送った。難升米は皇帝に謁見して、男の生口4人と女の生口6人、それに班布22丈を献じた。12月に皇帝は詔書を発し、遠い土地から海を越えて倭人が朝貢に来た事を悦び、卑弥呼を親魏倭王と為し、金印紫綬を仮授した。皇帝は難升米と都市牛利の旅の労苦をねぎらい、難升米を率善中郎将に牛利を率善校尉に為して銀印青綬を授けた。皇帝は献上物の代償として絳地交龍(コウジコウリュウ)の錦5匹、コウジスウゾクのケイ(けおりもの)10張、センコウ50匹、紺青50匹、紺地句文の錦3匹、細班華の(けおりもの)5張、白絹50匹・金8両・五尺の刀を2ふり・銅鏡100枚、真珠、鉛丹を各50斤の莫大な下賜品を与えた。朝貢は形式的な臣従の代償に、莫大な利益をもたらすものであった。なお

正始6年(245年)、皇帝は詔して、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を仮授した(帯方郡に保管された)。正始8年(247年)に邪馬台国と狗奴国の和平を仲介するために帯方郡の塞曹掾史張政が倭国に渡り、その際に難升米に黄幢と詔書を手渡している。

238年の遣使の際に魏から率善中郎将の官職を得ているが、これは243年の邪馬台国からの使者(掖邪狗ら)にも与えられている。こうした官職は外国からの使者に与える形式的な名誉職であり、魏の国内においても中郎将や校尉が黄巾の乱以後の戦乱の影響で任官が濫発されていたとは言え、245年に突然、(卑弥呼やそれを補佐する男弟ではなく)難升米に黄幢(魏の軍旗)と詔書が与えられていることは注目される。同時期、魏の帯方郡に対して、三韓が反乱を起こして帯方郡と楽浪軍の太守によって鎮圧される事件が発生しており、難升米に黄幢(魏の軍旗)と詔書が与えられたことの関連性が注目される。

京都大学教授だった内藤湖南の説では、難升米を垂仁朝に常世の国に使者として赴き景行朝に帰朝した田道間守としている。

また、皇帝から渡された黄幢は皇帝軍旗であり、それを受け取った難升米は魏人で、魏から卑弥呼の元に送られた諜報員と見る説もあるが、あまり信憑性は無い。

ウィッキペディア(20190328 1546による

一般的に南氏については藤原の北家との話はありますが、分布からは海洋民にしか見えませんね。

743 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(中)に続く


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