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230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

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230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150418

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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百嶋由一郎先生から“飯塚市鹿毛馬の某神社が白川伯王の流れを汲む本家であり、厳島神社の元宮、白川伯王家の源流の一族の神社である”と聞かされていました。

 正面の鹿毛馬(カケノマ)神籠石については、過去何度か訪れていましたが、神籠石の踏査などをやると大抵はくたびれ果ててしまい、目の前の神社でさえ見に行こうなどとは中々思わないものです。

 また、飯塚市の中心部からもそれほど遠いところではないため、何時でも行けるとなると意外と足が向かわなかったのでした。とは言え何時かは時が訪れるものです。

今回は、筑豊でも香春神社(縁起式内社)の再撮影など田川郡内を走り回っていたのですが、急に思い立ってカーナビで距離を測ると、山越えルートで移動すれば15キロ、20分もあれば行ける事に気付き、天気も良い事から課題であったその某神社(百嶋先生は最後まで公表されませんでしたので)に向かう事にしました。

以前も触れた事がありますが、「白川神道」など聴いた事もないという方のためにも、学者の権威を無視するためにも、敢えて彼らが無視するウィキペディア(20150417 2030から紹介させて頂きます。


白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇 の皇孫の延信王 清仁親王 の王子)から始まり、古代 からの神祇官 に伝えられた伝統 を受け継いだ公家 である。皇室 祭祀 を司っていた伯家神道 (白川流神道)の家元

白川家(しらかわけ)は花山源氏 を出自とする堂上家 である。花山天皇 の皇孫の延信王 (のぶざねおう)が源姓 を賜り臣籍降下 して神祇官 長官 である神祇伯 に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲 するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯に就任してからは王氏 に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた。


白川伯王家の成立


白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「 」を名乗られたことである。「王」の身位 天皇 との血縁関係で決まり、本来は官職 に付随する性質のものではない。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。

…中略…

吉田家との地位逆転


室町時代 になると、代々神祇大副 (神祇官の次官 )を世襲していた卜部氏 吉田兼倶 吉田神道 を確立し、神祇管領長上 を称して吉田家 が全国の神社 の大部分を支配するようになり、白川家の権威 は衰退した。江戸時代 に白川家は伯家神道 を称して吉田家に対抗するも、寺社法度 の制定以降は吉田家の優位が続いた。


家格は半家 、代々の当主は近衛中将 を経て神祇伯になった。


江戸時代 の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。



王号返上と家系断絶


明治時代 になると王号を返上し、白川家の当主の資訓 子爵 に叙せられた。資訓の後を継いだ資長 には実子がなく、伯爵 上野正雄 北白川宮能久親王 庶子 )の男子の久雄 養子 に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶となる。


白川伯王が何かついては、既にひぼろぎ逍遥 159 秦の始皇帝と市杵島姫、173博多の櫛田神社の祭神とは何か? で説明していますので詳しい説明は省きます。

  ただ、簡略化して言えば、秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の一族が、始皇帝の姓である「臝」を許され「瀛」(イン)を名乗り、その一族と強固な姻戚関 係で結ばれた白族(白川伯王→博多櫛田神社の主祭神大幡主→豊玉彦=豊玉主=ヤタガラス)を含め強固な「瀛一族」が形成されたのです。

 この「瀛」という姓を名乗ることが許された神代の有名な人物に、宗像三女神の一人である市杵島姫=津島姫があるのですが、古代の社格について言えば、本当は宗像大社よりも上位の神社だったのです。

 その証拠に、九州王朝の巨大山城である鹿毛馬神籠石の正面に鎮座しているではないですか。

 ともあれ、社殿をご紹介致しましょう。

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神社縁起はご覧の通り宗像同様の配神(三女神)ですが、むしろ、宗像大社が、この厳島神社と同様だと表現する方が正しいはずなのです。ただ、これだけではこの神社の重要性は言い尽せない様に思います。

なお、牧野神社についても、もしかしたら百済の目支(マキ)国を意味しているかも知れません。

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筑前国総鎮守-櫛田神社

博多祇園山笠で有名な櫛田神社の神紋は上の通りです。勿論、祇園山笠の祇園は右の五花木瓜紋ですが、主祭神である大幡主は六角形の三盛り亀甲に五三桐をシンボルとしています。

 ここで、鹿毛馬の厳島神社神紋を見て頂きましょう。

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千木は女神である事を表していますが、三盛亀甲(これは剣付き唐花)


これだけでもこの厳島神社が大幡主の傘下にあったことが分かります。宗像も確認しましょう。

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楢紋は、宗像大社の神紋。大社の御神木である楢の木から。
 『神社名鑑』には、梶紋とあるが、電話で確認したら楢であるとのこと。 
「玄松子の記憶」より

これだけでは何とも…と言われる方は多いでしょう。その向きには次の写真をご覧いただきましょう。

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厳島神社の宮司家が「白土」を姓としている事が分かります、しかし、何故か土に「、」点が付いています


この厳島神社にも数軒の白土さんがおられる事が境内の氏子の名を見ても分かります。点のある白土さん、点の無い白土さんがおられるのですが、宮司家は明らかに点付きの「白土」様です。

 無論、点付きの「土」という文字はない訳で、普通ならこの理由は全く分からないはずです。

 しかし、百嶋先生は十分お分かりだったようで、明治期に当時の神祇官→神祇庁(原子力発電 地球温暖化 の原因となる温室効果ガス を排出しないため環境破壊に当たらない」[これ自体がデマであることは当方が20年前から繰り返し言ってきたところですが] として原発建設を支持表明し山口県の上関原発においても四代八幡宮を排斥した現在の伊勢の神社本庁の前身団体)が同社に押し掛け、千年以上続いた「白王」姓をけしからんとして変名を迫った結果であるとされていました。結果、白川伯王の「王」の横一棒を抜いた「土」へと変更したという歴史を留めるために痕跡としての「、」を残されたのです。 

川伯→白(土+)へと。 ※「、」は、栄えある王の横一文字を削らされた印ですね。

この「点」についての謂れを、ちょうど境内の掃除をされていた宮司(90歳)の息子さんにお尋ねしたところ、“五代前の宮司からそのように聴いています”とのお答えを頂きました。

白川伯王家の本流、源流であり御本家であるという意味がお分かり頂けたと思います。

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