extra023 宮地嶽神社と安曇磯羅 ③ “安曇磯羅とは何者なのか?”
20150215
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
「決 して安曇磯羅が祀られているのではない!」というのが当方の見解なのですが、にも関わらず安曇と宮地嶽神社の関係が取沙汰される理由は、一部に、その鎮座 まします神=九州王朝の大王=高良玉垂命の若き姿(ワカヤマトネコヒコ)を安曇磯羅とする説とまでは言えないものの、ネット上でかなり影響力を持った見解 (九大の故真鍋大覚からblog「ひもろぎ逍遥」)が存在するからと思われます(一例ですが、以下…)。
高良大社(高良玉垂宮)(Ⅱ) こうらたいしゃ(こうらたまたれぐう)
玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神 高良山にはカペラの伝承があった
「玉垂(たまたれ)」について気になる事があって社務所に電話で尋ねた事があります。
それは合気道の開祖の植芝守平の本『合気神髄』に「高良の神」の事が載っていたからです。
植芝守平氏はNHKドラマの『坂の上の雲』とちょうど同じ時代の人です。
明治から昭和を生きた人です。
その人の語録集に合気道の呼吸について述べる時の象徴として「玉垂」が出てくるのです。玉依姫は白玉で潮干珠(しおひるたま)、豊玉姫は赤玉で潮満珠(しおみつたま)、その玉を使いこなすのが高良玉垂の神。
このような内容が合気道の本に書いてあったのでびっくりして、高良大社にお尋ねしたところ、やはり、玉垂とはこの干珠(かんじゅ)、満珠(まんじゅ)を指すとの事でした。
ほんのこの前まで、玉垂のことについては、常識だったのでしょうか。
「玉垂」が干珠満珠だとすると、高良玉垂命とは潮の満ち引きを司る神と言う事になります。
人は潮が引くときに、息を引き取ります。潮が満ちる時に生まれます。潮の満ち引きは月のなせる技です。
ですから、月の神様とも言われる訳です。これが御神徳の「延命長寿」にもつながってきます。
「玉垂」をよく考えると「玉を垂れる」という事ですから「玉垂命」とは「珠を与える神」という意味になります。では、それは誰でしょう。海神です。志式神社の神楽でそれを見て来たばかりです。
高良玉垂の神が海神だとすると、名前は綿津見(わたつみ)神という事になります。
まず、宗像が権勢を振うまで(それほど古いものではなくたかだか八世紀半ば以降か…)宮地嶽神社が、海神族、志賀島海人族、安曇族の上に君臨していたことは容易に想像できます。
その上で、「高良玉垂命の若き姿が分離され投影された姿が宮地嶽神社」との見解を繋げば、宮地嶽神社と安曇磯羅の関係が多少は浮き上がってくる事にはなるのですが、事はそう単純ではないのです。
「高良玉垂の神が海神」との等式=彩杉仮説に容易には乗れないからなのです。
ただ、ここではその論証を後回し(当面放棄?)にして結論だけを申上げておく事にします。
宮地嶽神社は海神安曇磯羅を臣下とした高良玉垂命の若き姿(ワカヤマトネコヒコ)=後の第9代開化天皇を分離し投影させたものという事になります。
※ 注)武内宿禰=安曇磯羅説もありますが、その否定はもとより、当方は高良玉垂命=武内宿禰説とも考えていません。
では、安曇磯羅とは一帯何者なのでしょうか?漠然としか見えていなかったのですが、ようやくその姿が多少見えるようになってきました。
百嶋神社考古学では、安曇磯羅をウガヤフキアエズをと父とし鴨)玉依姫を母としており、その父のウガヤフキアエズは、彦火々出見=山幸彦を父としヤタガラスの子である豊玉姫を母として生まれている。
その母の鴨)玉依姫はヤタガラス=豊玉彦と櫛稲田姫=イカコヤヒメの間に生まれたものとすることから、ヤタガラス=豊玉彦から見れば、いわば孫と子と子の子の関係、当の安曇磯羅から見れば父と母が甥と伯母の関係になっているエリートと言えるでしょう。
但し、高良玉垂命(第9代開化天皇)=ワカヤマトネコヒコとの関係を見れば一切なく、山幸彦の血統を取り込んだ極めて有力な臣下である博多の櫛田神社の主祭神、大幡主の一族といった表現になるのです。
従って、海神族の本体が八幡神の元祖大幡主と考えられる事から、安曇磯羅が海神族=海人族の長であるとすることは正しいのですが、高良玉垂命が単に海神族の王とだけは言えない事から、九大の故真鍋大覚からblog「ひもろぎ逍遥」の思いは思いとして無理があるのです。
ただ、九大の故真鍋大覚は菅原道真の流れを汲む歴法家の一族であり、道真が大幡主…ヤタガラスを先祖とする事から、彼の思いが海神族の長に延びた事は先祖への憧れと尊崇だったとは言えるのです。
では、ワカヤモトネコヒコ=後の第9代 開化天皇=高良玉垂命とは如何なるものなのかといった話になるのですが、宮地嶽神社の大王には海を支配する海神族の長としての性格だけではなく、陸を支配 する大地の王としての性格が重なっているのです。それは、孔子が理想とした中国ナンバー・ワン周王朝の流れを持つ呉の太伯の末裔として姫氏(後の表現では 紀氏)の姿が投影されていたのです。
それこそが、倭(人)は呉の太伯の末裔として多くの大陸系史書に書きとめられた栄えある流れだったのですが、ここでは、宮地嶽神社に海神族の大王としての 相島の積石塚群や安曇族の長としての姿だけでなく、背後の巨大石室を持つ古墳から出土した馬具や奴山古墳群に認められるように、同時に陸を制した大王の姿 があることを考えるべきではないかとだけしておきます。