extra28 宮地嶽神社と安曇磯羅 ⑧ “宮地嶽神社とは如何なる性格を持たされた神社なのか?(上)”
20150222
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
「宮地嶽神社と安曇磯羅」というテーマで雲を掴むような話を書いてきましたが、ここで、この神社に対する現時点での評価を推定も交え概括しておきたいと思います。
まず、全国に3000社近く存在すると言う宮地嶽神社の総本山という事実があることから、全国津々浦々にその神威が広がったことの背景に古代から海人族が奉祭していた事が見て取れます。
このことは、単に現地の伝承といったものからも見て取れるのですが、宮地嶽神社の境内に残る元宮から西へと一線として延びる参道ラインは相島(新宮町)の250基に上る多くの積石塚群のある点に延びており、定まった時期に正確に太陽が沈んでいく事からも推定できるところです。
一方、宮地嶽神社の奥の院とも言うべきハート・ランドに置かれた不動神社には、5メートルを超す巨石を組み合わせて造られた全長23メートルという大規模な石室を持つ古墳があるのですが、ここからは、馬具、刀装具・瑠璃玉など300点の副葬品(玄室外から出土)が発見され、うち10数点が重要国宝に指定されるという、まさに大王級の墓なのです(宗像徳善の君とか臣下の墓などチャンチャラ可笑しい)。
さらに、幻の宮廷舞とも言われる「筑紫舞」や「筑紫神舞」が、今尚、舞われ続けているのです。
特に「筑紫舞」は宮地嶽古墳の玄室(岩屋=不動洞窟)において謎の芸能集団クグツにより秘かに伝えられていたことが古代史研究者の古田武彦氏によって明らかにされた事は、尚、記憶に新しい事です。
現在、この舞は神社の努力により復興され、幻の宮廷舞「筑紫舞」、「筑紫神舞」として毎年10月22日に本殿正面で奉納され続けています。
これらの舞の存在は、弥生時代より3~4世紀に掛けて(実際には8世紀初頭まで)北部九州を中心とした非常に大きな文化とそれを支える大きな権力が存在したことを証明するものでしょう。
これらの事だけからも、この神社が単に海を支配した海士族、海神族のものだけではなく、陸をも支配した大王のものであった事が見て取れるのです。
さて、ここまでは言わば物証の伴う推定ですが、以後は思考の冒険とも言うべき領域であり、限られた情報から神社の性格を読みとる作業になります。
まず、宮地嶽神社と言う社名ですが、一般的に「嶽」が付されたものにはそれだけで山岳修験や神仏習合を思わせ、仏教も呑み込んだ古代の神道の流れを見て取ることができます。
このことからも、宮地嶽神社が単なる海人族の神社ではないと言えるのですが、まず、同社のシンボルとも言うべき三階松の神紋に目が行きます。
この三階松は、時折、老松神社などでも見掛けるものですが、「松」に象徴されるものの古層には中国ナンバー・ワン周王朝の一族の姓である「姫」が見えてくるのです。
「倭(倭人)は呉の太伯の裔」とは、多くの中国系史書(「翰苑」「魏略」「梁書」「史記」…)に認められ一般にも良く知られるところですが、この姫氏が後には「木」「紀」を姓とし、宮地嶽神社とも最も関係が深いと考えている久留米市の高良大社に残る「高良玉垂宮神秘書」でも高良の一族は「紀」を姓としたことが書き留められています。
これは、古代史研究者の内倉武久氏の言うところですが、松、松野、松原、松木、松尾…といった多くの松を冠する氏族には、紀氏の後裔としての誉れ(松=木+公 キミ=つまり姫氏)が伝えられており、今となっては意識されてはいないものの「姓」やその紋章として留められていると考えられるのです。
そして、この栄えある三代連続した紀氏の流れを象徴しているのが三階松であり、「九州王朝でも第7代孝霊、第8代孝元、第9代開化として表現された紀氏系の正統皇統九州王朝の大王の流れである」としたのは旧草ケ江神代史研究会の後期の主宰であった故百嶋由一郎氏でした。
勿論、何故か都合が良いように初代神武(カムヤマトイワレヒコ)だけを除き、第2代から第9代までの天皇は元より、北部九州に多くの伝承を残している神功皇后さえも全て架空としているのが国史学会の通説である事は承知の上で申上げているのですが、それこそが九州王朝の正統皇統(初代神武、第4代懿徳を含め第16代仁徳で最後となる九州王朝の天皇)に、後に近畿大和王朝の重要な臣下となって行く事となった祖神に、別王、贈王として天皇に仕立てて挿入したのが、藤原が捏造した架空の神代系譜だった!としたのも故百嶋氏でした。
このため、正しい古代史像を掴むには、「古事記」「日本書紀」によって固定された観念から離脱することが必要とされるのですが、それは、通説から独立した思考を追求し続けているとする九州王朝論者に於いてさえもままならぬものであり、哀れな事ですが利権集団と化した学会通説のプロの学者には期待すべくもなく、今後とも我々の手で追求し続けて行かなければ開けてこない苦難の道と言えるでしょう。