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300 北北東に進路を取れ! ⑳ 東舞鶴の大森神社=彌加宜(ミカゲ)神社

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300 北北東に進路を取れ! ⑳ 東舞鶴の大森神社=彌加宜(ミカゲ)神社

201601012

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


さすがに舞鶴地区の神社を全て見て回る訳にも行かないのですが、これは参拝しなければと思ったのが大森神社でした。


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祭神


御祭神:天御影大神 誉田別大神
境内社:須佐見神社 水神社 若宮稲荷神社 森光稲荷神社 縁結神社 三安神社 鹿島神社 八代神社


少し分かり難いため、手助けを求めましょう。


其の御祭神は天御影命(アメノミカゲノミコト)亦の名は天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)と申し神代において刀、斧等諸道具を造り始められた産業の始祖で、皇孫命に仕えて天孫降臨になった三十二神の内の一神にして、…


境内神社は参拝順に挙げますと 一、須佐見神社素戔嗚命 大己貴命 二、水神社美津波能賣命
三、若宮稲荷神社保食命 四、森光稲荷神社大宮網賣命 五、縁結神社大国主命
六、三安神社天照大神 七、鹿島神社武甕槌命 八、八代神社天照大神之御子 五男三女神

敬愛する「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」
より


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是非見たいと思った理由は、「大森」という物部を思わせる社名(地名)から来るものでした。

初見の神社であり横柄な事を申上げるつもりは毛頭ありませんが、祭神の誉田別大神は八幡神の権勢にひれ伏し受け容れたものでしかなく、天御影大神が何者であるかさえ分かればこの神社の性格は粗方把握できるように思えるのです。

と言うよりも、それ以外の事はある程度郷土史に通じていなければほんの僅かな事でも把握できないのです。狡猾この上ないのですが、周辺調査は後回しにして、結論だけ申上げておきます。天御影命とは、阿蘇の草部吉見神だったのです。

丹波道主の母である息長水依姫の母(方)とは辛国息長大姫大目命=豊受大神その人であり、その流れの祖父とは通常、海幸彦(先)、山幸彦(後)になりますが、百嶋神社考古学ではこの場合は海幸彦=草部吉見となるのです。

通常、物部と言えば、ニギハヤヒ(山幸彦)系を想定しそうですが、ここには草部吉見(海幸彦)系が盤居していたのでした(父と祖父の問題は残りますが…)

これで、境内社に鹿島神社=武甕槌命(実は阿蘇草部吉見)が置かれている理由も分かったのでした。


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百嶋由一郎細密神代系譜「金神」


舞鶴には再々再度訪問し調べたいと思っています。境内社ですが、水神社美津波能賣命もありました。

伊勢外宮=豊受大神 の母であり、スサノウの妃であり、息長水依姫の祖母になる方です。


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スポット036 某大手商社からの講演依頼 

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スポット036 某大手商社からの講演依頼 

20150606

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

皆さんは大手総合商社と聞けばどのような事をお考えになるでしょうか?

良く「ラーメンからミサイルまで」と言われますが、原材料、物流、金や情報からトータルなプラントの輸出入に絡む幅広い取引を対象に昼夜走り回り、日本資本主義の最先端で活動しているのが日本型総合商社です。

直ぐに、三菱商事、三井物産、住友商事、丸紅、伊藤忠、日商岩井…といった社名が頭に浮かんでくると思います。

ところが、このようなトップ中のトップの大手企業から地名研究会宛に講演依頼が飛び込んで来たのです。

差し障りがあると申し訳ないため、当然にも社名は伏せますが、この大手商社の九州ブランチからの講演要請だったのです。

既に、個人的にも会の事務局を通じても、会員である多くの研究者が講演に担ぎ出されてはいるのですが、このようなトップ・クラスの企業からもお呼びが掛かるとは、凡そ考えも及ばなかったことです。


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そろそろ、活動開始から10年近くになる久留米地名研究会グループですが、戦後雨後の竹の子の様に誕生した史談会、郷土史会、歴史研究会、谷川健一系日本地名研究所に連なる伝統的地名研研究会…といったものの一切が、高齢化の末に活動休止から解散へと進み、いつしか競合するこれらの一切の民間の研究団体が消失して行く構造にあるようなのです。

ともあれ、講演依頼の話は講演予定日の一ケ月前に舞いこみました。

とりあえず、どのようなお話を求めておられるかをお聴きして適当な方をお世話しようとしたのですが、テーマを指定されると準備には通常二カ月程度は欲しいため、準備が出来てる方にお願いするしかありません。

当方には、穴掘り考古学、万葉集、言語学、「古事記」「日本書紀」、民俗学、神社研究、古代史一般、邪馬台国研究、九州王朝論研究、古天文、地質学、地名研究…と多くの専門家を抱え込んでいます。

ただ、何の手がかりもなく講演者、講演内容を準備する訳にも行かないため早々にもお聴きすると、「熊本地震の直後ですから熊本と関連付けて…」といった話が返ってきました。

とりあえず、周辺のメンバーに当たりましたが、会長さえも何度電話を掛けても応答がないため、一ヶ月という時間的余裕しかないこと、目下の大手総合商社にとって焦眉の課題が、“中国貿易に対してどのようなポジションを取るのか…”であることから、結局、準備が出来ている私が「熊本と中国」“雲か山か呉か越か”というテーマでお話をすることにしてしまいました。

その翌日からパワー・ポイントの作成に取り掛かり、数日で何とか目鼻が付いたことから、ようやく月例の二つのblogの原稿作成に取り掛かることができたのでした。

日程が迫ってくるとさすがに緊張してきますが、いつもの事と考え恥をかかないようにだけ心掛けようと考えているところです。


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ともあれ、最近は、新聞社、放送局、FM局、行政機関、観光協会、大手寺院、大手神社…といったところからの引き合いが増えてきているのは事実です。

野鳥の会でさえ「野鳥の生息調査より、会員の生息調査をしなければならない…」という話が聞かれるほど、全ての民間の研究団体が消失しつつある時代なのです。

その背景にあるのは、小泉、竹中改革なる国民の富(国富)のアメリカへの売り飛ばしと、国民所得の半減によって、高級品が全く売れない買えない貧困層の増大、貧富の差の劇的な拡大により、国民が余暇を楽しみ、研究する余裕の一切を失った事、さらには学会通説に尾を振る権威主義で運営されてきた既存の組織の全てが、その権威主義故に後進を全く育成、養成できず、組織の老衰によって焼失しつつある事に起因していると考えるものです。

結果的には、通常の町興し村興しに巻き込まれること無く、教育委員会や文化庁の権威主義から独立性を保ち生き延びてきた独自の研究体制こそが、唯一、今の我々の健在を準備したものと理解しています。

さて、現在、静かに子供食堂が全国に広がりを見せています。

現在の日本にはそれほどまでに所得を失い、伝統的家族を失った人々が増え続けているのです。

既に、日本はOECD中最下位と言う所得水準にまで低下しています。

まともな教育どころか、まともな食事を大切な次世代にさえも提供できないつまらない国家に陥ってしまっているのです。

この富をアメリカに売り飛ばしたものこそ小泉、竹中とそれを担ぎ出した薄汚い官僚どもなのですが、国民に豊かな教育を与え、物事を自分の頭で考えさせるゆとりを与えない限り、このような文化的一切が今後とも消失し、AKBと芸人が蔓延る薄っぺらな国になって行く事でしょう。

そして、日本の最大の力の源泉である知的想像力と技術的イノベーション(正確には「技術革新」とイノベーションと言うべきか)の喪失は、いずれ日本をOECD以下どころかただの中流国家に誘うことになるでしょう。希望が閉ざされている以上、早く日本の無様な姿を確認して死にたいものだと思うこの頃です。どうせ文化的後退を押しとどめる事が出来ずに死ぬ事になるのなら薄汚い官僚どもを道連れに!

 

スポット037 首都圏の水甕に水がないという大笑い! “国土交通省の戦後の70年がこの事態を齎し

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スポット037 首都圏の水甕に水がないという大笑い! “国土交通省の戦後の70年がこの事態を齎した”

20160615

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


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読売新聞(YOMIURI ONLINE)より


利根川水系:16日から10%取水制限関東1都5県毎日新聞


sp37-3「首都圏の水がめ」とされる利根川水系8ダムの貯水率低下を受け、関東の1都5県(東京、茨城、千葉、栃木、埼玉、群馬)で16日午前9時から10%の取水制限が行われる。国土交通省関東地方整備局や6都県でつくる利根川水系渇水対策連絡協議会が14日、決定した。8 ...
(一部を掲載)



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梅雨の最中から取水制限というのですから驚きますが、首都圏では明日(616日)から1割の制限が始まるとの話が飛び交っています。

  気象予報士などは“五月でエルニーニョが終わり、ラニーニャが始まった…”とか、“梅雨前線が蛇行しているから雨が降り難い…”などと言って説明にならな い説明をしていますが(要は異常気象で説明したいのでしょう)、ほとんどの人々が気付かされていない現象、雨の親と言うか母と言うか、雨の素である南の海 からの湿った空気が、列島の背骨の中部山岳から北関東奥の山々まで入って行かない構造的環境変化が増々強まっていると考えられるのです。


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荒川水系、玉川水系は省略…


まず、何故、ダムは山に造られているかお分かりでしょうか?

勿論、人 が住んでいない所だから土地が得やすく用地買収もやり易いからではありますが、重要なことは、暖かく湿った気団(関東ならば小笠原気団でしたっけ)が海か ら移動してくると、平野の北の山々に持ち上げられ、温度が降ることによって水蒸気が水滴となり、雨となって山に降って来るからなのです。

ところが、最近は海に近い大都市で局地的豪雨が頻発している事はご存じの事と思います。

日本ではあまり馴染みのない竜巻の頻発とも関係しているのですが、その原因は「CO2による地球温暖化」という国家的大嘘(デマ)とは全く無関係で、巨大なヒート・アイランド現象が起こっているだけの事なのです。

繰り返しますが、元々、首都圏の水甕たる利根川(荒川、玉川…)水系のダムは、東京湾、駿河湾方面の海から運ばれた暖かく湿った空気が神奈川から首都圏の北にある山々に押し上げられ、大量の雨となり、それらを溜める水甕として受け取る事を想定して造られたものでした。

ところ が、海からの湿った気団の進入路である沿海部は日本でも最も発展し都市化が進んだ地域になっているのです。この一帯は、徹底的にコンクリートとアスファル トで固められ、地表には森は元より、土もなければ、水場もない言わば砂漠以上の“熱したフライパン”の状態と化しているのです。

ここでは、朝夕を問わず絶えず上昇気流が発生し続け、南から入ってくる大気を、良くて脇に逸らし(反らし)、跳ね返し続けるエアー・カーテン(空気のファイヤー・ウォール)状態となっているのです。

元々、列島は北東から南西方向に向かって横たわり、春から夏に掛けて南西方向から入ってくる湿った空気を弧状列島の背骨である中央の山岳地帯で受け止め豊かな水を受け続ける事ができる天恵の約束された大地だったのです。

しかし、 この恵まれた構造を徹底して破壊してきたのが戦後の河川~道路の土木工事であり都市開発であり港湾開発だったのです。そして、その総指揮をとったのが主と して国土交通省であった事を考える時、異常気象だ!とか、地球温暖化の影響だ!と、責任を他に求め、ダムに水がないとして大騒ぎし節水を求める姿は、それ 自体として愚かであり無様としか言いようがないでしょう。


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勿論、 ヒート・アイランド現象によって一気に持ち上げられた湿った空気が高空で一気に冷やされ豪雨となって降って来るのが最近頻発している都市型豪雨であり、そ の水は都市の水甕たる多くのダム群には一向に貯められず空しく目の前の海に還流していくだけという構造になっているのです。

もしもこ れを防ぎ、あれほど自然破壊を行いながら造られた多くの巨大なダム群に溜め込もうと思うのであれば(それ以外の選択肢もあるのですがここでは触れませ ん)、ヒート・アイランド現象を多少とも抑え長期的には止め、北部、西部の山間部まで湿った気団を送り込む構造を取り戻さなければならない事は明らかで しょう。

「大気中 の二酸化炭素濃度の上昇によって地球全体が温暖化しているのだからしょうがない…」とか、ホッケー・スティック疑惑があからさまになっても、気温上昇がこ こ十年以上止まっている事を、まだ“深層海水の温度の上昇に費やされたらしい…「地球温暖化の停滞現象(ハイエイタス)の要因究明」 ~2000年代の気温変化の3割は自然の変動”などと嘯く「ごまかし」は放っておくとして、国土交通省にはそのヒート・アイランド現象に対して責任があることを自覚してもわらなければならないのです。

戦後70年を掛けて極限まで拡大したヒート・アイランド現象の最大の原因は、関東平野の地表から水が消しさられた事によるのです

こんな簡単なことを逐一説明しなければならないのはうるさいの限りですので箇条書きにしますが、

 都市化により森が切られ、農地が潰され地表から土の部分が消えてしまった(シマッタ!)

 洪水を引き起こさないように…と、雨水をいち早く海に流すことだけを考え、全てをコンクリートで固め雨の時は雨どい状態、晴れればカラカラのコンクリートの滑り台といった保水性の全くない川に変えてしまった(シマッタ!)

 駐車場はコンクリートで固める事を裏では勧奨し、土も植物もない地表を拡大させた(開発認可、建 築認可の段階でこれを規制し、透水性舗装や舗装を限定する工法を取らせることは十分に可能だったはずだった)勿論、今からでも水を地下に浸透させないレイ ン・コート型舗装を禁止する事は可能

 下水道の整備により一切の水が河川に還流しない構造に変えられてしまった(シマッタ!)

 上水道は江戸の昔から開発が始まり、現在は何十キロも離れた所から地下の送水管で運ばれ地表の熱循環、水循環、大気循環には一切寄与していない

 都市での洪水を防止するとして整備される巨大な地下貯水槽も熱循環、水循環、大気循環にはほとんど寄与しない

 総じて首都圏の地表の面積のほとんどがコンクリートやアスファルトや何の意味もない無駄な太陽光パネル(太陽光発電はその元となる太陽電池を造り出すために投入された電力を以後30年稼働したとしても回収できない 儲かっているように見えているのは補助金が高額であるに過ぎない)…に覆われてしまっている

 こうして、都市の大気循環、水循環、熱循環に寄与できる地表の水は極僅かとなり、雨が降って来ない限り、地表は一方的に熱せられ続け、人は干上がり、熱中症で倒れ、エアコンを使い続け、竜巻は頻発し、貧乏人やホームレスは空を眺め絶望する

 そのような都市環境の変化を自分たちで引き起こし、結果として山のダムに水が貯まらなくなっているという因果関係への理解を全く持っていない

 気象予報士といったとぼけた人々は表面的現象と経験則でしか考えていないことから、この奇妙な現象についてはほとんど理解しておらず、相変わらずCO2の増加による「地球温暖化」などという原子力産業が流したデマに責任を転嫁し絡め取られている


北関東のダムに水が貯まっていないという奇妙な(ある意味で面白い)現象に対して、簡単なモデルを作って説明をしたつもりですが、不十分な話でお分かりいただけたかどうか疑問です。

ただ、太 平洋ベルト地帯と言われる都市化されヒート・アイランド化された帯から、時には巨大な柱として、時には巨大な壁として立ち塞がる上昇気流に阻まれ、夏季に は南の海から内陸部に送り込まれるはずの湿った大気が迂回し雲散霧消している事に自覚がない限り、このような現象は今後も続き、首都圏への水供給の危機は 解消されない事になるのです。

では、この国土交通省の無自覚と無責任によって引き起こされたヒート・アイランド現象を緊急に抑え、貧乏人やホームレスが絶望しないで済むような昔の江戸の環境に引き戻すことは可能なのでしょうか?

難題の様に見えますが、大量の資金を投入しなくても済む効果的な方法が一つだけあるのです。

それは、多くのビル群の屋上に浅いプールの設置を義務付ける事なのです。

水はたまにしか降らない雨でも溜めておけば水道料金もいらないのであり、雨漏りを心配するならば、防水モルタルで10センチ程のオーバー・フロー型のプールを造れば良いのです。

緊急にやろうと思えば、それこそ屋上にバケツを並べ風で吹き飛ばないようにするだけでも地表面積の半分は水で覆う事が可能になる訳であり、一気に都市の気温を数度は下げ、その水が気化して雨となって降って来ると言う江戸の夕立を復活させることが可能になるのです。


今や、ゴム製の防水シートやステンレス製のプレートでも材料は容易に手に入ります。

しかし、自らの70年の放置、無自覚、失政こそが、熱中症、真夏日、熱帯夜の連続、水に恵まれたはずの列島に於ける渇水と言う恥ずべき現象の原因であることに無自覚であれば、この馬鹿げた構造は永遠に続く事になるでしょう。

sp36-4そして、ヨーロッパ不良貴族の温床であり食い物と化しているオリンピックまでも、あきれたことに灼熱のヒート・アイランド砂漠の東京で、最悪の期間(2020724日から89日の開催)に何の意味もない愚かなお祭り騒ぎを開催すると言うのですから、心ある人々はオリンピックの期間には首都圏を脱出するでしょうし、例外なく海外からも不平不満が続出することでしょう。

しかし、肝心の国土交通省がどのように理解しているかは歴然としています。


冒頭に挙げた読売新聞(YOMIURI ONLINE)には続きがあり、


「同整備局によると、10%の取水制限だと水道水の勢いがわずかに弱まる程度という。8ダムの合計貯水量は14日午前0時現在、1億7165万立方メートルで、貯水率は37%(平年比46%)。冬の降雪量や、上流域の5月の降水量が少なかったことが原因とみられ、同時期で比較すると、全8ダムの運用が始まった1992年以降、最低となっている。今後も少雨が続き、貯水量が1億5000万立方メートルを下回った場合、制限は20%に引き上げられる見込み。」


「冬の降雪量や、上流域の5月の降水量が少なかったことが原因とみられ、…」と、自らが引き起こしたヒート・アイランド現象が原因であることに全く気付いておらず、危機感が全くないことは明らかです。

元々、国 土交通省に入る末端の土木系の人間は、成績が悪く、物理、化学が苦手で、大気循環、熱循環、水循環が分からない、ただの土建業思考の連中だから致し方ない としても、トップ・クラスの技術系官僚とは、国家百年の大計(管子の「終身之計」)を考え、長期的ビジョンと国民と国家のために働くために高額な給与が支 給され厚遇されているのであって、その場凌ぎの金儲けや天下り先確保のために雇われてはいないはずなのです。

日本のような高温多湿でしかも海に囲まれた島国では、どちらから風が吹いてきても弧状列島の背骨に衝突しその水分が高空に持ち上げられ地表に雨を齎します。

また、地表に水があれば熱せられた大気と水は膨張し高空に上り冷やされ冷たい雨となって地表の温度を下げます(夕立、スコールは空と大地との水のキャッチボールの事なのです)。

ところが国土交通省を筆頭とする戦後の平和な土建業は関東平野一帯を巨大なコンクリート砂漠に変えたに留まらず、上水道、下水道の一切を地下に持ち込み、僅かに降った貴重な真水である雨水さえも一気に海に落とし込み、地表から水を消し去ってしまったのです。

僅かに彼らの支配が及ばない明治神宮や皇居の一帯になどに土と水と緑が残るだけとなってしまった(シマッタ)のです。

少しでも 頭を使い、都市舗装を地下との水交換、熱交換が出来るように義務付けるとか、都市開発を規制するとか方法はいくらもあったはずなのですが、利権、私権を優 先する方が自らの利益に繋がる事から決して規制へのベクトルは生まれず、一方的に、ヒート・アイランドの野獣は野放しにされてしまったのでした。

こうして、関東平野は、夕立を失い、熱中症と竜巻と都市型ゲリラ豪雨と水不足のフライパンと化したのでした。

その責任 がどこにあるか、あったかは、どなたもお分かりになるはずで(本来は国に対する損害賠償請求に該当する)、国土交通省以下の官僚どもが国家のためにも国民 のためにも国土のためにも奉仕していない化け物集団(戦前の関東軍と同様)であることがお分かり頂けると思います。

砂漠にはほとんど雨が降りません。一方的に上昇気流が起こるだけで砂漠の嵐が起こされるのです。

同様に、 都市のコンクリート砂漠にも雨は降らず、海が近いために海岸部だけで南の海から持ち込まれた水蒸気起源の都市型豪雨が地下街を浸水させ、竜巻による多くの 家屋を倒壊させ、小学校の熱中症で運動会を中止させ、エアコンも節約する老人を絶望に追いやり、自分たちはエアコンの効いた室内で汗もかかずに、国土にも 国民にも国家にも役にも立たない私的利益追求を行っているのです。

あれほど点数取りの優秀な官僚を集めているのですから、この事が全く分かっていないとは思えないのですが(その証拠の痕跡が「打ち水大作戦」なる馬鹿騒ぎです)、自らの頭で考え、自らの意志で行動する癖を持たなければ、優秀な頭脳も宝の持ち腐れでしかなく、彼らの人生に何の意味もなかったことになることでしょう。


ヒート・アイランドは70年掛けて国土交通省が引き起こした反国家、反国民、反国土的現象

三面張り水路、下水道、上水道、道路舗装、地下河川…都会には土も森も川も存在しない!


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301 肥後に清少納言のお父さんの神社があるのをご存知ですか?

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301 肥後に清少納言のお父さんの神社があるのをご存知ですか?

20160310

久留米地名研究会(編集員)古川 清久



清 少納言については説明する必要も資格も能力もありませんが、肥後に彼女のお父さんを祀る神社があることをご存知の方はそれほど多くはないのではないでしょうか?

まず、「セイショウ ナゴン」ではなく、「セイ ショウナゴン」と呼んで頂きたいのですが、それはともかく、この平安の大歌人(九州王朝論者の一部では彼女が、本当に平安期の人かどうかさえも疑っているのです)のお父さんを祀る神社がJR熊本駅の付近にあるのです。


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新幹線乗り入れにより昔の風景が一変しつつありますが、北岡神社の裏手の直下といった一角に清 少納言の父とされる清原元輔を祀る小さな神社(祠)があるのです。

肥後に清 少納言…とは違和感を覚えられる方もおられるかも知れませんが、事実、肥後国司として赴任する父に同行して海路(宇土半島北岸沿い)を通り隈本に来る前に見た小さな島を詠っているのです。

以下は、七年ほど前に久留米地名研究会のトレッキングとして宇土の馬門石の採掘現場などの探訪を行った際に準備したサブ資料の一部です。

北岡神社が未踏の神社であった事から今回、同社と併せ清原神社をお知らせする事にしました。


有明海の名島たはれ島


島原の乱の談合島を除けば、島などないと思われている有明海ですが、宇土半島の北、海上保安庁が島原湾と呼ぶ有明海に、「枕草子」「伊勢物語」に讃えられた美しい島があることを知る人は少ないかもしれません。

フィールドワークの友として新潮社のカセット・ブック を愛用していますが、このシリーズにも「枕草子」「伊勢物語」があり、この「たはれ島」のことは知っていましたが、具体的にどこの島であるかは気にも留め ていませんでした。そのような中、読売が仕掛けた「大王の石棺」馬門石(ピンク石)搬送キャンペーンに違和感を覚え、現地の馬門に入り、住吉神社に訪れた のは、八年も前のことでした。

石棺の搬送と住吉の神に関係がないはずはないと、往古の住吉島山頂に鎮座する住吉神社に行き宮司から話を聴くうちに、ようやく「たはれ島」のことに気付いたのでした。

言うまでもなく、清少納言の父は平 清盛同様、肥後守に就いていますが(肥後で客死し神社まである)、少納言を連れて赴任する際、この沖を通っていたのです。

父について船から見た景色がよほど印象に残ったのでしょう。それが「枕草子」に記録されていたのです。

有明海から肥後に入るとして船を利用するとすれば、満潮を利用し宇土半島の直ぐ北を東に進むのが合理的ですが、当然、益城町の津守神社辺りに着いたのでしょう。

では、彼らは宇土半島北岸の有明海にどこからやってきたのでしょうか。

私には長崎から野母崎を廻り千々岩経由で宇土を目指したとは思えないのです。

満潮に肥後隈本に上陸しなければならないとすると、諫早の船越の駅(延喜式)を経由し、潮が引いていても船が出せる諫早の本名川辺りから船を出し、右回りの満ち潮を利用し古隈本湾に入ったと思うのです。

当然、大王の石棺(阿蘇ピンク石石棺はもとより、氷川、菊池川水系石棺も含め)もその逆ルートで有明海から畿内に搬送されたはずなのです。

古典文学を扱うサイトhttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7257/tabakojima.htmに以下が出てきます。何度も訪れ写真も撮っているのですが、なぜか、天候に恵まれず、なかなか良いものがありません。このためあまりにも良い写真でしたのでついつい使ってしまいました。(以下)


中央に風流島(たわれ島)


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引き潮時の有明海のたはれ島


遠くの山は金峰山 住吉灯台から見た たはれ島 土地の人は「たばこ島」と言っている


枕草子188段に
島は 浮島。 八十島。 たはれ島。みづ島。松が浦島。まがきの島。豊浦の島。なと島。

と書かれていますが、たはれ島は 現在たばこ島といわれ 風流島と書きます。
その島が有明海の住吉灯台の先に見える無人の小さな島です。
浮島は塩釜湾中の島

たわれ島は熊本県宇土市の有明海の島

みづ島は熊本県八代市

まがきの島は松島の中の一島で塩釜の浦の沖にある
豊浦の島は山口県下関市
下の島のうち、風流島とみづ島の位置は正確ですが他の島は正確ではないかもしれません。


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伊勢物語 61段 染河
むかし、 男、 筑紫(つくし)までいきたるけるに、「これは、色好むといふすき者」とすだれのうちなる人のいひけるを、聞きて、染河を渡らむ人のいかでかは色になるてふことのなからむ
女、 返し
  名にしおはばあだにぞあるべきたはれ島浪のぬれぎぬ着るといふなり
昔、男が、筑紫(筑前、筑後 又は九州一円をも言う)まで行った時に
「これは色事を好むとうわさの高い風流男ですよ。」と簾(すだれ)の中のにいた女がいったのを聞いて歌を詠む。
  染河をを・・・・・・(筑紫へ来れば染河を渡ることになりましょうが、
  この河を渡る人は、どうして色に染まるということなしにおられましょうか)
女が返した歌
  名にしおはば・・・(たわれ島だって「たわれ」などという名を持っておりますなら、浮気のはずでございましょう。でも、それは打ち寄せる浪にぬれて濡れ衣を着ているのだと人が申しておりますよ)
(注)
染河をわたらむ人というのは業平のこと?染河・・・染河は福岡県にあり大宰府後の近くを流れる。

後撰和歌集
たはれ島をみて 名にしおはゞあだにぞ思ふ戯れ島浪の濡衣いく世きつ覽        (以上)

同様に、住吉神社が置かれた小山も干拓によって宇土半島と繋がったもので、ここからの眺めも秀逸です。この写真も
というサイトhttp://imagic.qee.jp/sima4/kumamoto/tabakojima.htmlから借用させてもらいました。(以下)


熊本県の島>>風流島(たばこ島)/たはれ島


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風流島(たばこ島)/たはれ島
平安歌人も知る孤礁
住所/熊本県宇土市住吉町
周囲/約80m
人口/無人の岩礁
アクセス/熊本市内から車で約40
JR三角線]熊本駅住吉駅(23分)徒歩15


宇土半島の国道57号線を天草方面へ向う時に、最初 に海が見えてくる辺りを住吉と言います。海に突き出た小高い杜の上に祀られている住吉神社が地名の由来です。神社がある小さな半島はアジサイの名勝として 知られる住吉自然公園で、アジサイの花が咲く頃にはたくさんの人が訪れます。そしてここから海を眺めて最初に目に付くのが風流島(たばこ島)です。
地図には風流島(たばこ島)とあります。地元の人はたばこ島と呼んでいるようですが、平安時代にはたはれ島(たわれ島)と呼ばれていたようです。
島というより岩場で、周囲が0.1kmに満たないために「日本の島数」には数えられませんが、平安時代の伊勢物語や枕草子にも登場するという存在感のある島(岩場)です。
伊勢物語は平安初期に作られたもので、その第61段に男に対する女の返歌として「名にしおはば あだにぞあるべき たはれ島 浪の濡れ衣 着るといふなり」とあります。
枕草子は平安中期に清少納言によって執筆されたものだと言われています。その中の第190段に「島は 浮島。八十島。たはれ島。水島。松が浦島。籬の島。豐浦の島。たと島。」という行があり、いわゆるものはづくしの章ですが、たはれ島も趣のある島の中に含まれています。
たはれ=たわれ=戯れ=遊ぶ=好色=風流となるのだと思いますが、どうしてこの岩場がたはれなのでしょうか?波と戯(たわむ)れていたからでしょうか? さらにどうしてたばこ島なのでしょうか?横から見ると煙草のキセルに見えたからでしょうか?
昔から移動手段として船はよく使われていましたが、有明海を航行するときの目印になっていたのでしょう。何時建てられたのか分かりませんが、大岩のてっぺんには小さな鳥居があったりして、やっぱり風流島は趣きのある島です。(以上)


ただ、否定する異説もあることから判断は皆さんにお任せしましょう。

清原元輔という名の国司を祀る神社が鹿児島新幹線熊本駅から510分ほどの所に清 少納言の父とされる人の神社があることをお知らせしておきます。


清原神社

 清原元輔は、肥後の国司として寛和二年(986)から正暦元年(990)までの間肥後を治めていました。清少納言の父でもあり、三十六歌仙に数えられるほどの歌人でまた当時の肥後の歌人桧垣とも交流があったと伝えられており、鼓ケ滝や藤崎宮の歌等が家集に残っています。正暦元年に亡くなったときは八十三才

でした。


平成十年九月 熊本市

鎌倉時代に書かれた『無名草子』などに、「檜垣の子、清少納言」として母を『後撰和歌集』に見える「檜垣嫗」とする古伝があるが、実証する一級史料は現存しない。檜垣嫗自体が半ば伝説的な人物であるうえ、元輔が檜垣嫗と和歌の贈答をしていたとされるのは最晩年の任国である肥後国においてであり、清少納言を彼女との子であるとするには年代が合わない。

天延2年(974)、父・元輔の周防赴任に際し同行、4年の歳月を「鄙」にて過ごす。なお、『枕草子』における船旅の描写は、単なる想像とは認めがたい迫真性があり、あるいは作者は水路を伝って西下したか。この間の京への想いは、のちの宮廷への憧れに繋がったとも考えられる。

302 甘木に二つ目のタノカンサーを発見した!

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302 甘木に二つ目のタノカンサーを発見した!

20160310

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久



既に、ひぼろぎ逍遥 182、ひぼろぎ逍遥(跡宮)083 タノカンサーの正体とは何か?“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市甘木から”」に於いて福岡県甘木市に「田神様」(タノカンサー)が存在している事、それが大幡主(義兄)、大山祇命(義弟)の二神による擬神体であることをお知らせしましたが、フィールド・ワークを続けていると、“犬も歩けば棒に当たるの”云いの通り、それなりの成果は出て来るものです。朝倉市の八幡神社の摂社として田神様が鎮座されている事に気付いたのでした。


302-1


勿論、この神社は八幡宮です。それは、縁起からも明らかです。


302-3


ただしそれは、宇佐八幡宮の権勢が強まる8世紀以降か、そうでなければ、13世紀以降のはずで、それまでは八幡宮を祀っていたとは思えないのです。このことは摂社を見れば分かります。

そもそも「隈」地名は大幡主の領域を表すものであり、この小隈の集落の人々が奉祭していた神は大幡主であり大山祇命だったはずなのです。では、田神様をご覧ください。


302-4

左から 彦狭知命(山幸彦=ニギハヤヒ…)、屋船豊宇気姫命(伊勢外宮豊受大神=辛国息長大姫大目命=天鈿女命…)、屋船久久遅命(金山彦or)、手置帆負命(手力男命=スサノウ…)

問題は、「屋船久久遅命」と「彦狭知命…」とのバランスが悪い事です。組合せがしっくりこないのです。

屋船豊宇気姫命が伊勢の外宮様=豊受大神、手置帆負命=スサノウは良いのでしょう。

一応、提案してはおきますが、これについてはもう少し調べる必要があるようです。

神社考古学研究班のU女史は屋船久久遅命は山幸ではないか?と言われているのですが、どちらにしてもバランスが悪く、もしかしたら神社側が誤っている可能性もあるとまで話が進んでいるのです。

いずれにせよ、平塚川添巨大遺跡の直ぐそばの集落であり、筑後川がどのように氾濫しても浸からない古代においては最良の地なのです。

恐らく、古代においても最初に開発された土地に田神様(大幡主+大山祇命)を祀る集落があったのです。最後にこの一文を書いた後、第三番目の田神神社を発見したのですが、これについては別稿とします。


302-5

231 自ら観光資源を破壊する鹿児島県

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231 自ら観光資源を破壊する鹿児島県

2007031420150812再編集)

久留米地名研究会 古川 清久


はじめに


余りにも酷く、醜く開聞岳の景観が大規模に破壊されているのですが、見た目にも痛々しい景観破壊の話をすることにします。

人目に晒されるものでは、開聞岳東岸の花瀬望比公園なる施設があります。

一応はレイテ戦を始め悲惨な闘いの犠牲者を鎮魂し祀る施設のつもりなのでしょうが、その参道に大量の御影石の灯篭を破壊的に並べているのです。

こ れは、現地を見られれば一目瞭然と言うべきで、公共事業として行われているとすれば、予算消化のつじつま併せで並べたとしか考えられませんし、鎮魂のため として別団体が置いたのならば、サギまがいの遺族への集金活動の結果その一部を特定の人間が懐に入れると言うものでしょう。

仮に一基百万としても百個で一億の消化、施工業者には全体で空恐ろしい金が転げ込んだ事が想像できます。

これはテトラ・ポッド(一応商品名ですが)も同様で、開聞岳裾野にある小さな港の防波堤の外への直接的投入の話もあるのですが、今回は間接的に破壊しせっかくの絶景、景勝地を損なう行為が平然と行われている事をリポートすることにします。


開聞岳を見たくない


南国鹿児島の象徴として良く使われるものに、桜島と開聞岳がありますが、この開聞岳の景観が決定的に破壊されているのです。写真を見れば一目瞭然でしょう。


231-1


いかなる良心がこのようなデタラメな工事を行なわせるものなのか不思議でなりませんが、一旦、失われたものは容易には戻らないことは言うまでもありません。少なくとも私は二度と南薩に足を踏み入れたくなくなりました。


231-2


このような施設がなぜ必要なのか全く理由が分かりません。


詳 しく調べれば直ぐに分かる事ですが、この手の工事は海岸を保全するという美名のもとに、主に県営(一部直轄事業もある)で行われるもので、かつては、農水 省構造改善局、旧建設省、旧運輸省それに農水省の漁港整備が加わった四つのセクター、四つの所管による県営の海岸保全事業として無制限に自然海岸が破壊さ れてきたものです。

 やるに事欠いて、とうとうここまでやるとは、正直言って信じられなかったのですが、開聞岳への直接的な工事ではないため良しとされたのでしょう。

ま ず、必要性ですが、この写真を撮影した場所も背後には百メートルの丘陵、松林、海岸性樹木が茂る十分な土地があり、ようやく、開聞温泉(国民宿舎かいもん 荘とは別)と言う掛け流しの共同浴場があるのですが(現在は閉館=廃業)、全く海岸が崩れていると言った危機的状況にもないのです。

恐らく最終的には四キロの海岸線がこのくだらない事業のためにテトラとコンクリートのパラペット(波返し)で埋め尽くされる事になるでしょう。

なぜ、これほどの無意味な工事が行われるのか不思議に思う方も多いでしょうから、あえて踏み込みますが、なんの必要性もない場所に大量の税金を投入して喜ぶ人間とは誰かを考えれば直ぐ分かることです。 

直接的に事業を受注できるマリコンと地場のコンクリート関連業者が潤う事は言を待ちません。

しかし、それを計画し発注したのは行政の人間であり、その最大の責任が鹿児島県にある事は言うまでもありません。 

やはり、それを発注したい役人がいるのです。それは、発注することによって良いことがあるからに外なりません。実際、発注した役人が潤う構造があるのです。

理由は簡単で、一般的に言われている事は、一部の役人達には発注した事業を手土産に良い条件の天下り先が確保されているのです。

逆に言えば、このような事業を発注し、便宜を図ってやらなければ良い条件で天下りできない構造があるのです。

鹿児島県には多くの離島があり、宮本常一が情熱を掛けた離島振興法に基づく多くの港湾建設事業が行われ、所謂マリコン大手が事業を抱え込んでいます。

この当時の県幹部もマリコンのどこかに再就職し自分だけは良い思いをしたことでしょう。

しかし、普通はやってはならない事業であり、観光資源を決定的に破壊するこのような工事はまずやらないはずなのですが、既に、事業を投下するべき場所がなくなっていることを示しているのです。

特に事業を発注する側の人間の節操のなさは信じられないほどで、彼等は自分達の幸せのために、素晴らしい景観を破壊して良しとしているのです。

たまたま手にした二〇〇六年一二月三一日付けの南日本新聞には、宮崎県の話ですが、県外観光客9年連続減という96年から05年棒グラフ付きの記事が掲載されていました。さらに南に位置している鹿児島県も基本的な構造を考えれば傾向は同様で、新幹線による浮揚もサーカス的なブームに過ぎない一過性のもののはずです。

指宿温泉の観光業者などはこの気がふれたとしか思えない事業をなんとも思っていないのでしょうか?

少なくとも私は二度とこの海岸線は見たくもありませんし、鹿児島観光からは足が遠のく事は言うまでもありません。


宮崎県の県外からの入り込み客数が九年連続減少し、十年前に比べ約百二十万人も少なくなったことが、宮崎 県の二〇〇五年観光動向調査で明らかになった。旧来型の「見る観光」から脱却できず、観光客の志向をとらえきれなかったことが影響していると見られ、県は 観光王国復活に向け、官民共同の観光地づくりを模索している。

二〇〇六年一二月三一日付け「南日本新聞」


自分の手で掛けがえのない観光資源を破壊しているのだから世話がない!鹿児島県の観光課は愚か者の集まりか!


この現場を確認したい方は、今は廃業となった開聞温泉を探して海岸まで100メートルほど歩いて下さい。目を覆いたくなるような無残な海岸線が目に入ることでしょう。

何人ものご老人が風呂場でながながと寝ておられたこの公衆浴場は印象的で、過去、何度か入っていましたが、入浴後にはいつも海岸を見るために足を延ばしていました。


旧開聞温泉(含塩化土類食塩泉 源泉掛け流し)


231-3


画像は、手持ち写真が行方不明のためHP「温泉備忘録」を借用させて頂きました。

南薩北薩に入る時はいつも利用させて頂いている有難い温泉サイトです。


本小稿は「有明海臨海日記」に掲載予定で十年ほど前に準備したものでしたが、結局オンエアすることなくお蔵入りしていたものです。パソコンの整理をしていて見つけ出したものです。

時代遅れの感は否めませんが、佐賀県内の地方自治体職員として在職中に書いていたものです。

地方公務員が公務員を辞めると痴呆(地方)だけが残ると言われますが、現在、その防止のためにブログを書き続けている訳です。

技術的な問題だけで出さなかったものですが、今回、多少の修正校正を加えて陽の目を見せてやったことになります。

既に日本海側には自然海岸が残っていないと言われますが、パラペット(波返し)とテトラ・ポッドに覆われた海岸線は見るも無残です。

オランダの様に資材が乏しい(干拓地ばかりで土しかない)国であれば許されるかも知れませんが、工事が仮に必要としても日本の様な岩石だらけの国で、なぜ自然石を使わないのか信じがたい事です。

背後にはコンクリート産業とマリコンの事情があるからに相違ないでしょう。

確か口のシャクレタ副総理とかもこの手の産業の代表の様な方でしたが、いずれ日本列島の海岸線は全てコンクリートで固められてしまうことでしょう。

現在、このような情けない海岸線を持つのは、朝鮮半島の二つの破産国家と日本だけと言われています。

韓国の海岸線が北の侵攻に備えてと称して防衛用とかのテトラ・ポッドが大量に放り込まれているのは良く知られていますが、海外のテレビ番組などで海が出てくるとこれらの薄汚いコンクリート構造物があるかどうかを見て試しにカウントしてみて下さい(BBC,CNN,ABC…)。

日本のテレビ報道などでこのコンクリート構造物がどの程度の頻度で見とめられるかを一週間でも一ヶ月でもカウントすれば、日本は海外の百倍以上であることが分かるはずです。

世界でも最も美しい海岸線を持つと言われた日本の海岸線は、この薄汚いコンクリート産業と、マリコンによって徹底的に破壊されているのです。

日本人が海外旅行に行くようになったのは所得が増えたからではなく、この薄汚い海岸線を見たくないからかも知れません。

観光産業に力を入れ海外からの観光客を呼び込もうとする宮崎、鹿児島に大型クルーズ船が寄港しないと嘆いているようですが、このような事を野放しにしているのですから将来とも凡そ見込みはないでしょう。

まさに、日本の「列島」民族のやることには呆れかえるばかりです。


231-4


グーグルアースでも破壊の跡が多少は確認できます

環境問題を書き続ける


いまさら環境問題を書き続けることの意味を考え直したからといって、何らかの発展性を見出せる訳もないのですが、正直言って痛快さと苦しさが同居しています。

快感としても、緊張感を伴うものであり、文字どおり痛みが同居しているのです。

確かに痛快ではあるでしょう。戦前ならば差し詰め軍部が相手なのですから(国土交通省は最早国家内に存在する関東軍のようなもので既に制御不能になっているようです)、それを相手に批判する事に多少の心地良さがあるのは先ずは“男子の本懐”といったところでしょうか。

しかし、虚しさも伴います。それは、何度も言うようですが、恐らく、今後も環境は破壊され続けられると予想されるからです。

しかも、仮に住民側が部分的に止めたり変えさせたりできた場合でも、それは一時的な勝利でしかなく、しばらくすれば、また、形を変えて忘れた頃に再登場して来ると思われるからです。

良い例が諫早湾干拓事業です。これは長崎県南部総合開発事業(南総)が一旦潰れた後に装いを変えて再登場してきたものでした。

こうなると環境保護運動とは事実上はモグラ叩きでしかなく、職業としてやっている行政の側が勝つのは当たり前の事となるのです。

民衆、住民の側には絶えず不公平なルールで闘いを強いられるのです。

しかも、一時的に止めるか、仮に元に戻す事が出来たとしても、高々、現状が保たれるといったものであり、所詮、環境保護運動とは現状維持的で保守的な運動でしかなく、全く未来へ向けた夢がないのです。

問題は、このような愚かな環境破壊が繰り返される本質、根本的な問題、その根絶、社会構造の変革に切り込まなければ一向に解決し得ない事になるのです。

従って、環境問題を書き続ける事は重要ではあるのですが、それは、ただの警鐘の乱打(むしろ“負け犬の遠吠え”か)に過ぎず、それ自体としては決して十分ではないのです。


一般の人が味方にならない


「CO2 温暖化仮説」という国家規模のデマに踊らされ一喜一憂する人は増殖しているのかも知れませんが、これは、むしろ環境に対する科学的な理解力の喪失の結果で あって、わずかに、魚付き林のために広葉樹植林を進めている人はいるものの、むしろ、自分の直ぐ回りにある海、川、山を巡る環境の問題に対して本質的な理 解力を持っている人は逆に減り続けているのではないかという考えを持っています。

さらに、都市部を中心に環境に対する本質的な理解力を持っていない人間は明らかに増大しているようです。

少 し考えれば分かる事ですが、パジェロやランクルで向かうところは海や山ではなく、パチンコ屋で、勝ったら回転寿司屋で、負けたら家でカップ麺などといった 馬鹿げた生活スタイルの人間がおよそ自然環境を理解し、ましてや、自然環境を守ろうと運動する事などありえないからです。

一 般的に自然環境の破壊に対する抵抗運動が存在しうる基盤は、その自然環境から直接的恩恵を受けている事、間接的にもその事実が目に見え、自然環境が大切で あるという自覚、認識が広範に存在している事なのであって、まず、第一次産業としての農業、漁業に依存する人々が減少し続けている事、都市近郊、農、漁、 山村においても、環境の悪化から自然に触れ合う習慣が喪失してくると、自然環境の保全の必要性、有難さ、その喪失への危機感も喪失してしまうからです。

このため、今後とも行政一般を問わず、自然環境の保全、回復へのベクトルは弱まり続ける事が容易に想像できるのです。

つまり、本ホーム・ページ(HP「環境問題を考える」のサブ・サイト「アンビエンテ」内“有明海諫早湾干拓リポート”「有明臨海日記」)が書き続け、訴え続けている内容が伝わらず、たとえ伝わっても理解されず、理解されないために不当な攻撃を受けるという事を覚悟しなければならなくなると言う問題です。

303 玖珠の万年神社も高良玉垂の命を祀る神社だった!

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303 玖珠の万年神社も高良玉垂の命を祀る神社だった!

20160317

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


大分自動車道で東(別府)に向かうと、ギアナ高地のテーブル・マウンテンのような山々が見え、「日本昔話」に登場するような山(切株山)が見えてくるのはどなたもご存知だと思います。

 この万年山や切株山の裾野に鎮座し、しかも国道傍の町中にあることから直ぐに参拝できるのが万年神社です。


303-1


万年神社 カーナビ検索 大分県玖珠郡玖珠町塚脇2130


303-2以 前から気にはしていた神社の話です。宇佐八幡宮のお膝元である豊後の奥深くに見るべき神社などない…と軽視していた万年神社でしたが、日田市の大原八幡宮 が古くは高良玉垂命を祀る神社であった事に気付き、実際に日田の中心部に玉垂宮も見出した事もあったことから(これらについては、先行する「ひぼろぎ逍 遥」 164 豊後は日田の大社 大原八幡宮も元は高良玉垂命を祀る神宮だったのか!“2015新春日田三社詣りトレッキングより”、ひぼろぎ逍遥(跡宮)003 宇佐神宮のお膝元、豊後は日田市に高良玉垂宮がある! をお読みください)、今回、始めて見せて頂く事にしたのでした。

結果は、望外の発見に繋がりました。


303-3

正面に置かれた神社縁起(「寺山のおこり」)には、高良神社との関係が書かれており、直ちに高い階段を登り切り参拝殿に入ると、そこには「高良山」との神額が掛けられていたのです。


303-4

日田はおろか、豊後でも奥深い玖珠まで高良の神威が広がっていた事は明らかで、高良神社(実は高良玉垂命=第9代開化天皇を祀る神宮)が単に久留米の地方神などといったものでない事だけは明らかでしょう。

神殿の屋根の神紋(梅鉢、九曜星、五七桐)が鮮やかでした。

菅原、妙見、高良玉垂命を祀るものであることが見て取れます。


303-5


「大分県神社誌」が手元にない事から(あるかどうかも知らないのですが)地元のサイト「風の宿り~ブログ」を見せて頂くと祭神の一部は神殿の神紋と対応しており、大山祇、八幡系は摂社の方に鎮座しているようです。


御祭神


 ・大山津見神(おほやまつみのかみ)
 ・高良玉垂命(こうらたまたれのみこと) [ 筑紫國の國魂神 ]
 ・八幡大神(はちまんおほかみ)
 ・住吉大神(すみよしおほかみ)
 ・武内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)
 ・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

 ・菅原道真命(すがわらのみちざねのみこと)
303-6   




一部に高良玉垂命を武内宿禰命とする俗説がはびこっていますが、ここでは明らかに分離されており、俗説がまかり通る以前の認識が確認できるようです。

住吉大神については説明が複雑になりますが、住吉三神の底筒男命は高良玉垂命と同一神であり、この住吉はそれ以前のウガヤフキアエズを意味しているようにも思えます。

大山津見神は、戦国期以降、豊後森家が瀬戸内海の大三島から大山祇命を勧請した新しいものと見て一応は良いでしょう。

 いずれにせよ、この万年神社は高良玉垂命を祀るもので豊後では貴重な一社と言えるでしょう。

304 猫宮が新しくなりました!  “リニューアルした熊本県荒尾市中一部の「猫大明神」”

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304 猫宮が新しくなりました!  “リニューアルした熊本県荒尾市中一部の「猫大明神」”

20160317

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


ひぼろぎ逍遥 112「猫宮とは何か?」“熊本県荒尾市の猫宮”において猫宮(ねこみや)様、猫社(ねこじゃ)という奇妙な名前の神社があることはご紹介していますが、最近、新たに社殿が造りかえられ、地域と共にお祭りが行われたとお聴きしました。

この神社については、前ブログで書いた通り、第9代開化天皇(ワカヤマトネコヒコ)=高良玉垂命を祀るもの、もしくは離宮があった場所ではないか…との仮説を出させて頂いていました。

それについては、前ブログをお読み頂く事として、こ れについては、最近になりこの神社を以前からお守りされて来られた松尾家(お医者さんをされておられることから、宮司家とお呼びして良いかどうかは分かり ませんが…)の方から当方にご連絡頂き、“この神社の起源についてお教え頂きたい“との依頼をお受けしました。

元よりお尋ねにお答えできる力はないのですが、故)百嶋由一郎先生からお聴きしていた事からお答えできる(と言っても僅かですが)範囲でお答えした次第です。

始めてお読み頂く方もおられるでしょうが、国道501号線で熊本県荒尾市の中心部から島原へのフェリーの発着所がある長洲町方面(中一部)に向かうと、国道に「猫宮」という奇妙な名前のバス停があります。


304-1

このバス停から海とは反対方向の住宅地側に二百メートルも入ると右手に真新しい社殿が見えてきます。


304-2

304-3

猫宮 カーナビ検索 鹿児島本線南荒尾駅から国道501号線を南に数百メートルで猫宮バス停があります。そこから東に二百メートルほど入った住宅街に猫宮があります。


猫社を「猫じゃ」と呼ぶのは江戸の端唄として大流行した「猫じゃ」による影響からでしょうか、この「猫宮」の名が1700年近く伝えられている事には改めて新鮮な感動を覚えるものです。


<猫じゃ猫じゃ>


304-5

 猫じゃ猫じゃと おっしゃいますが 
     猫が 猫が下駄履いて絞りの浴衣で来るものか 
   *オッチョコチョイノチョイ オッチョコチョイノチョイ*
   蝶々蜻蛉や きりぎりす 
     山で 山でさえずるのは 松虫 鈴虫 くつわ虫   *くり返し*
   竹に雀は仲良いけれど 切れりゃ 
     切れりゃ仇の 切れりゃ仇の 餌差し竿   *くり返し*
   下戸じゃ下戸じゃと おっしゃいますが 
     下戸が 一升樽かついで前後もわからず 飲むものか …



猫宮については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)030 猫坂礎石群はワカヤマトネコヒコ(第9代開化天皇)の宮殿か“大野城市” についても併せお読み頂くとして、ここでは、この神社の生い立ちを考えるのに非常に重要な痕跡がある事に気付きました(といっても同行のI女史の指摘によるものですが…)。

それは、宮司からお聴きしていた御神体の石棺を確認できたからです。

これも、石棺があるとの話をお聴きしていた事から、穴掘り考古学に明るいI女史にご同行頂いて分かったのですが、御神体とはまさしく二つの石棺の縄掛け突起だったのです。

九州の事ですから溶結凝灰岩でも、ある程度判断が着く宇土の馬門石ではない様で、色から見て菊池川水系産出の石棺だろうとまでは見当を付けたのですが、それ以上の判断材料が無い事から家型石棺とも舟形石棺とも、どの地域、どの時代の物との特定など程遠く、これ以上の探索はできないところです。

ただ、この祭神(当方の推定はワカヤマトネコヒコ)と全く関係がなかったとは考えられず、どのような思い(情念)でこの縄掛け突起がこの猫宮に祀られたかの経緯には興味が尽きないところです。


304-6

神殿参拝殿に無造作に置かれたご神体石


四年ほど前でしたか、百嶋先生にもこの「猫宮」についてお尋ねしたことがありました。

失礼ながらこのようなオチャラケた名前の神社に、そのような大それたお答を頂くとは思っていなかったのですが、先生は十分にご存じだったようで、直ぐにお答え頂だきました。

ノートは取っていませんでしたので、先生が言われたことを、今、思い出せば、「猫宮はワカヤマトネコヒコ=第九代開化天皇を祀る宮ですよ、付近にはもう一つの猫宮もあったが、探せば見つかるはずですよ…」と言われたと思います。

 先生の意味をもう少し分かりやすく解説すれば、「古事記」では稚日本根子彦大日日尊(ワカヤマトネコヒ コ)と書く第九代開化天皇を意味し、「猫」は「根子」であり、ヤマトネコヒコクニクル=八代孝元天皇と内宮ウツシコメの第2子とされるもので、実は久留米 の高良大社に祀られる高良玉垂命の本来の祭神こそが俗称(愛称)猫様であり、その離宮がこの地にあったのではないかと言われたものと思うのです。

 猫に関わる地名は確かに多く、若宮町(現宮若市)の猫峠、猫塚、阿蘇五峰の根子嶽、八女市黒木町の猫城、 実は、「日本書紀」に登場する「裂田の溝」サクタノウナデ(神功皇后が三韓征伐の際当地にある現人神社の神田を灌漑するため造ったとの記述があり、福岡県 那珂川町安徳台の裂田神社付近に現存している)の付近にも猫城があるようなのです(ここは未確認)。

  那珂川町の「削田の溝」は1.5メートルほどの用水路が現存しており、百嶋先生によると、この猫城に開化天皇になる前の若きワカヤマトネコヒコと仲哀の死後に夫婦となる神功皇后の居所があった…と話しておられます(こちらは音声による記録が一部ですが保存しています)。

さらに、最近発見された太宰府市四王子山の猫坂遺跡も恐らく、「高良玉垂宮神秘書」でウガヤフキアエズが三種の神器をワカヤマトネコヒコに返還した場所ではないかと考えています。

 また、若宮インターの旧若宮町の若宮も、決して応神天皇や仁徳天皇などではなく、開化天皇になる前の若宮を意味していると思われるのです。

以前の関連ブログ再掲


今後、しばらくは猫宮も安泰となりひとまずは安心しましたが、再建された一族の思いとご努力には改めて敬意を表したいと思います。

当方としては、逆に古文書でも見せて頂き猫宮解明への糸口でも見出せるのではないかと思っていたのですが、現代の社会的諸制度の崩壊に伴い全国で進行する民間伝承、古文書、民俗の大消失に何とかブレーキを掛けなければ…と思い続けているところです。

幸いにしてこの神社は神社庁管理の神社ではありません。

神社庁の庇護は有難いと思われる方は多いと思いますが、実際には多くの規制があり単立神社の方が管理や運営がしやすく、地域の支えと守ろうとする意志さえあればどのような形でも守って行く事は出来るはずです。

一方、当然のことながら猫宮には、別系統の参拝客がいるようです。

勿論、本物の猫ファンによるものですが、彼ら彼女らの浄財を集めることができるならば、定期的に神社を補修する資金を集める事も不可能ではないでしょう。

  灯篭の明かりを猫目型にするとか、水木先生の「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する猫娘像を置くとか、交通事故で犠牲になり続けている猫の供養塔を置くとか、猫の 交通安全のお札をネット販売するとか…といった事です。研究会には神官、神職もおられる事から御協力はできるのですが、静かに「猫宮」を守る事もある訳 で、全ては一族のお考え次第という事になりそうです。


スポット038 EU残留派の女性議員へのテロについて 

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スポット038 EU残留派の女性議員へのテロについて 

20160614

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


既に、このブログがオンエアされる頃には結果が明らかになっているでしょうが、EU残留を支持する労働党の若手女性議員が、Britain First (ブリテン・ファースト)系とされる怪しげな男に殺されました。

これを持って直ちに離脱派によるテロと考えられる方は、伝えられた事をそのまま信じる事ができる幸せな方だと思います。

現段階では本当のところは何も分かりません。と言うよりも、古くはケネディ暗殺から9.113.11同様に永遠に分からない謎…というのが正しいでしょう。


sp38-1


sp38-2 EU残留派の英女性議員、銃撃され死亡 国民投票控え衝撃広がる

[バーストール(英国)/ロンドン 16日 ロイター] - 英国のウェスト・ヨークシャー州リーズ市近郊で16日、欧州連合(EU)離脱の是非を問う国民投票をめぐる集会の準備中に、野党・労働党の女性議員ジョー・コックス氏(41)が銃で撃たれ死亡した。英警察当局が明らかにした。

EU離脱の是非を問う23日の国民投票を一週間後に控えた英国では、事件の衝撃が広がっており、離脱派、残留派はともに同日の活動を中止した。

コックス議員はEU残留を支持していた。現地の報道によると、集会準備中に男性2人がもみ合いになり、コックス議員が仲裁。男性のうち1人が持っていたバッグから拳銃を取り出し2発発射した。議員は銃撃を受けた他、刺されたと報じられている。

地元警察によると、近くにいた警察官が52歳の男を逮捕し、拳銃を含む武器を押収。現時点では動機について語れる状況にはないという。

目撃者は銃撃犯は極右団体の名称である「ブリテン・ファースト(英国第一)」と叫んだとしている。

「女性がまるでビーチにいるかのように、腕をまっすぐ伸ばし、ひざを立てたまま、顔中血だらけで床に横たわっていた」と目撃者は語った。「彼女はどんな音も発していなかったが、明らかに苦しんでいた」

<「偉大なスターを失った」>

労働党のジェレミー・コービン党首はツイッターを通して「コックス議員の襲撃に衝撃を受けている」とコメントした。

スライドショー:EU残留派の女性議員が銃撃で死亡


 ただ、一般には衝撃的事件と映るこのテロ事件は、選挙直前という情勢下においては、残留派への支持や同情を招き、僅かな差を覆す劇的な効果を引き起こす可能性はあるのでしょう。

 これが、成功するかどうかは分かりませんが、離脱派が残留派を35%上回っていると伝えられる状況では、このような情緒的反応が知的レベルの低いB層に効果を発揮し、僅か1.52.5%を動かす余地は十分にあるのです。

  このため、犯罪捜査の手法から言えば、このテロはブリテン・ファーストを偽装した残留派によって引き起こされた直前のウルトラCといった読みが正しいので はないかと考えるのですが、コロンボ警部(実は警部補)なら認めるでしょうが、普通のマスメディアは自らの利害も絡みんでいることから決して真実へと向か う報道はしないことでしょう。

  既に、マスメディアそのものが権力により操られている事は知的な人々の間では常識なのであり、もう一歩進めれば、残留派と離脱派の対立そのものも、さらに 裏の権力によって操られている可能性さえ見ておく必要があるのです。 最低でもこの事件によって、短期的に株で一儲けした連中はいるはずなのです。


「各種の世論調査では残留派と離脱派が拮抗している。国民投票の行方を巡っては様々な調査会社が 世論調査を行っており、「残留」が優勢に出やすい調査、「離脱」が優勢に出やすい調査など千差万別だが、昨夏に欧州難民危機が深刻化して以降の全般的な傾 向としては、離脱派が勢いを増している。」


sp38-4EU離脱か残留か、イギリス国民投票の衝撃度」

田中 理 :第一生命経済研究所 主席エコノミスト


ただ、同床異夢の…とは言え、政権与党の保守党のキャメロンからから労働党のコックスまでがEU残留を主張している事そのものが既に無国籍、多国籍の資本家どもに政治が左右されている事を思わせるのです。

一先ずは、EUに残留してもらわなければ稼ぎが確保できない金融資本の意向が労働党の新鋭とされる議員にまで反映されていたと言えるのでしょう。

元々EUとは、宗教も言語も異なる多様な民族によって形成されている既存の民族国家の障壁を破るという統一国家、統一経済圏を造り出し、半ばアメリカにも対抗しようとしたドイツ、フランスという落ち目の資本主義国家群の野望を反映したものでした。

ただ、資本家による民族国家の障壁の突破(撤廃)は夢物語に過ぎないと思っており、それに失敗した姿が英国のEUからの離脱であり、今回、一時的に繋ぎとめられたとしても長期的には崩壊へと進EUの時限爆弾と見たいのです。

かつて、 新左翼系諸党派(といっても間の抜けたスターリ二スト系は別ですが)の内部では、EU構想を巡って、資本家によって民族国家の枠が突破できるか…といった 議論が展開されていた時代がありましたが、その主要な論点は次のようなものです。ほんの一部に過ぎませんが、以下…


「ヨーロッパ合衆国」のスローガンを出すべき時― 国際的討論のために トロツキー/訳 西島栄


「ヨーロッパ合衆国」というスローガンをヨーロッパにおける社会主義政党の共通スローガンにする という立場は、1914年の第一次世界大戦の勃発当初からのトロツキーの立場だった。当初は、レーニンもそうだったが、1915年の有名な「『ヨーロッパ 合衆国』のスローガンについて」という論文の中で、このスローガンの実現は社会主義革命後にしかなされないし、現在の資本主義のもとでは、帝国主義者によって悪用されるだけであるという理由で拒否された。そ れ以降、「ヨーロッパ合衆国」論は、ボリシェヴィキの中ではいわくつきのものとなり、一貫して無視ないし軽視されることになった。だが、トロツキーは、 1923年のこの論文で、かつて拒否されたスローガンを再び提起し、この提起はコミンテルン執行委員会によって基本的に受け入れられた。トロツキーはつい に、10年近くかけて、ボリシェヴィキを自分の立場の側に獲得したのである。…


まさしく、「帝国主義者による悪用」とその破綻を示す「最良」の出来事が、このEUへの残留か、離脱かという議論に象徴されているのです。

ギリシャを一時的には抑え込んだものの、アメリカが引き起こした大量の中東難民の流入という「ゲルマン民族の大移動」や「聖書物語」にも似た大変動にさらされ、欧州の傍流の金融資本家の夢であった統一ヨーロッパは大きな下り坂へと踏み出したように見えます。

離脱しようが残留しようが、最終的には統合エウロウパの夢は砕け散ることになり、さらに増幅された人類的危機に直面する事になりそうです。

そして、それさえもが金融マフィアの構想かも知れないのです。


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305 基山町に木花咲耶姫を探る!  “16年3月の太宰府地名研究会トレッキングから”

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305 基山町に木花咲耶姫を探る!  “163月の太宰府地名研究会トレッキングから”

20160317

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


 木花咲耶姫と言えば、櫛稲田姫、吾平津姫と並ぶ列島神話に登場するスター中のスターの一人ですが、基山町にこの女神様を祀る神社があるのです。


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確かに此花宮と書かれているようです



事実、大正15年発行の「佐賀縣神社誌要」にも搭載されていない事から、福岡県との県境に近い佐賀県基山町の山奥に、まさかコノハナノサクヤ姫を祀る神社があるとは思いもよりませんでした。


ただ、これも「佐賀縣神社誌要」に搭載されてはいない神社ですが、長崎県との県境そのものといっても良い様な太良町にもコノハナノサクヤ姫を祀る立派な神社があることを知っていることから、当然、有り得る事と思ったものでした。

 まず、佐賀県でも現鳥栖市の田代町に大山祇神社があるのですから、娘のコノハナノサクヤ姫を単独で祀る神社があってもおかしくはないのです。

 藤津郡でも同様に太良町の多良嶽神社に大山祇命が祀られているのですから、佐賀県の東西で同様の現象が認められるのです。

 このことが分かり易い例がありますので地元のサイトからお読みください。


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「契山(ちぎりやま)」の物語


基山(きざん)の西に、標高408mの「契山」という山があります。この契山には、実は基山(きやま)に住む人びとと神さまとの絆の物語が残されているのです。
 「天孫ニニギの降臨」として知られる邇邇芸命(ににぎのみこと)様と妻として迎えられる木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)様との結婚にまつわる物語です。
 邇邇芸命様は、そう御幸祭りで知られ式内社である荒穂神社の御祭神で、基山の人びとを愛し、基山の人びとに農耕の手ほどきをされたという言い伝えが残されている神様です。このご恩に感謝すべく、あるとき基山の人びとは邇邇芸命様にお嫁さんを探すことにしたのです。
 基山(きざん)の西の山々の最初の谷に、山の神である大山祗(大山津見 おおやまづみ)の神様がおられ、その神様のお嬢様に梅や桜の花よ りも美しい木花之佐久夜毘売(木花咲耶姫)様がおられました。そこで基山の人びとは、この木花咲耶姫様をお嫁さんにお迎えしては如何ですかという願いを、 邇邇芸命様に対し、毎日毎日、多くの人びとがしました。その願いを邇邇芸命様は聞き入れます。それを聞いた基山の人びとは大喜びで、木花咲耶姫様の父であ る大山祗様にお願いに行き、ついに聞き届けていただいたのです。
 お二人の契りの儀式(結婚式)が行われ、基山の人びとが幾日もお祝いをしたと伝えられる山が、この「契山」なのです。
 この契山を挟んで、東には邇邇芸命様をお祀りする荒穂神社が、西の谷、古屋敷には木花咲耶姫様をお祀りする古屋敷の山神社が、さらに西側の柿原には木花咲耶姫様の父であり山の神様である大山祗様をお祀りする柿原の山神社があります。


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  ただ、百嶋神社考古学の立場からは、荒穂神社の祭神もニニギではなくニギハヤヒ(山幸彦)としますし、コノハナノサクヤ姫もニニギとは直ぐに別れており、 博多の櫛田神社の祭神の大幡主の子であるヤタガラス(後の豊玉彦)の妃となり鹿児島県溝部町(前玉神社)に移動しているとしますので、契山はあるものの、 このあたりに、神代史の最大の隠された部分がありそうなのです。

 いずれにせよ、コノハナノサクヤ姫はニニギと別れ、南に移動した(実は本拠地に戻った)様なのです。

 それ以降、前玉姫は富士山浅間神社を経由し最後に埼玉県行田市に移るのです(これが前玉→埼玉)。


この辺りの事情については、ひぼろぎ逍遥 067 霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社にコノハナノサクヤヒメを探る ひぼろぎ逍遥(跡宮)023コノハナノサクヤヒメを祀る霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社再訪 他をお読みください。


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「古屋敷」という小集落にありますが、ツツジ寺として知られる大興神社からしばらく進んで下さい


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そもそも、大国主もコノハナノサクヤヒメも越智族の大山祇と白族の埴安姫(大幡主の妹)の間に生まれており、実力者の高木大神の子であるニニギが気に入らず、母方の従兄であるヤタガラス(ニニギと別れた後の豊玉彦)と一緒になったようです。

こう言うと、現地の方には申し訳ないのですが、美化された「契山」の話も色褪せたもの、後代のフレームアップにさえ思えてくるのです。

スポット039 古代史研究者、神社研究者の皆さん日田市天ケ瀬温泉五馬高原研修所を利用しませんか?

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スポット039 古代史研究者、神社研究者の皆さん日田市天ケ瀬温泉五馬高原研修所を利用しませんか?

 

20160618

 

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 
 

 梅雨明けはまだまだ先ですが、このブログがオンエアされる頃には夏本番となっているかも知れません。

 地名研究者もおこしになりますが、関東、関西の古代史研究者、神社研究者の長期間の調査旅行の便を図るために開設したのが日田市天ケ瀬温泉五馬高原研修所です(温泉付き一泊素泊まり1000円)。

 会員の方を対象としていますので入会金が必要になりますが、一泊分は無料扱いになります。

 場所は、日田市の天ケ瀬温泉と一部熊本県に入る杖縦温泉の間の標高450mの高原地帯の別荘地の一角です。


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車でおこしになる場合は大分自動車道を日田ICで降り20分、高速バス利用の場合はJR博多駅隣のバスセンターから日田市行がありますので日田市の中心部までお迎えに上がることになります。

JR久大線を利用の場合は天ケ瀬温泉駅までお迎えに上がることになりますが、タクシーを利用すると距離が5キロになりますのでご相談に応じます。

これから夏秋の行楽シーズンに入りますが、神社研究としても古代史研究としても、本物はこの九州島にしかありません。

もしも、自らを古代史研究、神社研究を志さす者と多少とも思われているのであれば、九州島でのフィールド・ワークは欠かせません。

それをサボタージュしておきながら、天皇家成立以来の奈良~滋賀…の畿内周辺には9代までの天皇の具体的痕跡がないから全て架空であるとか、九州王朝を証明する具体的遺跡などどこにもない…などといった頓珍漢な話をしているのが邪馬台国畿内説論者とか頭から九州王朝論を否定しているただの利権集団なのです。

ただ、九州島への長期間の調査旅行となると経費が嵩むことになりますので、格安で泊まれるキャンプ地が必要になるでしょう。

これを目的に長期間利用できる研修所を用意していますので、思い立ったらいつでも携帯09062983254までご連絡ください。

3人でも並んで入れる大型浴槽には24時間源泉掛け流しの温泉が注がれていますし、夏ならば無理すれば十~十五人は泊まれます。勿論、自炊もできますし、長期の調査旅行に備え洗濯もできます。

ベランダで寝れば満天の星空の下で流れ星を数えながら眠ることもできるのです。

この研修所から大分県宇佐市までは70分程度、熊本県の菊池市、山鹿市までは60分程度、福岡県久留米市までも70分、筑豊の飯塚市、田川市へも70分程度で移動できます。

残念ながら、現在、こちらから阿蘇へは212号線を利用するか、東の方から57号線で入る以外方法がありません。

足が無い場合でも、当方が車でご案内できる場合にはご相談に応じます。


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多くの古代史研究者、神社研究者が集う情報交換の場として活用してもらいたいと思います。

車でおこしの方は何の問題もありません。お泊りの期間中は完全に空けますので自由にお使いになっても構いませんし、一緒に調査旅行に廻る事もご案内する事も可能です。

当然、Blogに書いている重要ポイントをご案内する事も可能です。

面識のない会員外の方でもご利用は可能です(入会金が必要になりますが、一泊分は無料扱いになります)。

 

なお、紙面の余裕がありますので、普段あまり出していない百嶋神代系譜の一部をご覧いただきます。


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百嶋由一郎神代系譜(極秘系譜)一部

 

純粋に研究目的で百嶋神代系譜及び音声講演録を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。



 

 

306 朝来地名とは何か? 

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306 朝来地名とは何か? 

20160317

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


現在、個人的に最も関心を持っているものに「朝倉」地名と「益城」地名の北への展開というテーマがあります。

306-1 元々、故)百嶋由一郎先生からは、“熊本市の南の益城(マシキ)町の「益城」は本来「ウマシキ」と読むべきで、福岡県朝倉市=旧甘木市の甘木(アマギ)と同一の地名であり、この地域の人々の北への移動と関係があります。”といった趣旨の話をお聴きしていました。

 その後「邪馬台国と狗奴国と鉄」を公刊した菊池秀夫氏と接触を持つ機会を得て、菊池地名研究会の中原 英(ヒデシ)先生と共に、同氏を益城町の朝来山(チョウライサン、アサゴヤマ)に案内したことがありました。

 菊池氏は“朝来山が古くはアサクナ山と呼ばれていた”とし、以て「狗奴国」との関連を模索しておられたのでした。

 同氏は「全国邪馬台国連絡協議会」なる組織を以て、活動中ですが、九州王朝論の立場からは、安本○○を担ぐ組織とは一線を画したいとの声が多い事から、会としては積極的には関与していないところでした。

 ただ、朝来山に注目された点は関心を持っており、この朝来(アサゴ)地名の北上が、筑後川北岸(右岸)の朝倉(アサクラ)市=旧朝倉町への地名移動と考えているところです。

 そして、さらにこの朝倉地名は、中国地方の日本海側、四国、北陸へと展開を見せているのです。


 山口県山口市朝倉町

 島根県鹿足郡吉賀町朝倉

 島根県益田市美都町朝倉

 島根県大田市朝山町朝倉

 島根県出雲市大津朝倉

 兵庫県養父市八鹿町朝倉(舞鶴の朝倉氏の故地とされている)

 兵庫県朝来市(天空の城の朝来山で有名)

 京都府京都市中京区朝倉町

 京都府舞鶴市朝来

 福井県舞鶴市(地名としては確認できないが、敦賀の金ケ崎城の戦国大名の朝倉氏は著名)

 秋田県横手市朝倉町

以下瀬戸内海側

 愛媛県今治市朝倉

 香川県木田郡三木町朝倉

 徳島県朝倉(土讃線)

 高知県高知市朝倉

 和歌山県西牟婁郡上富田町朝来(JR紀勢線朝来あっそ駅は知られている)

 奈良県桜井市朝倉(旧朝倉村は合併地名ですが何らかの背景が・・・)

 滋賀県米原市下丹生朝倉

 岐阜県関市朝倉町

 愛知県知多市朝倉町

21 千葉県山武郡芝山町朝倉

22 群馬県前橋市朝倉町


 恐らくこの朝来地名、朝倉地名を残した氏族(民族)は物部氏と関係があると思うのですが、織田徳川連合軍と死闘を演じた浅井、朝倉の朝倉氏が、物部から武士(モノノフ=物部)として蘇った人々に思えるのです。

では、朝倉、朝来の震源地は熊本市の南の益城(マシキ)で良いのでしょうか?

 結論に急ぐ前に、ある神社の縁起をお読み頂きたいのです。


由緒

 当社は古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年(733)と伝える。社地は創建時の記録『日能若宮元元由来記』によれば、「大山祇命」(中略)阿佐久良山[木患]木 原五百世山元筑波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺跡と伝える。往時は、社殿、境内、宏壮森厳で、真に筑波御殿の名に背かざるもので あった。弘治二年(1556)六月の『古帳神社知行目録』によれば、神田十二町一反歩を有し、応永二十四年(1417)社殿改修に当たり神饌田が加増さ れ、以来応永二十五年、二十六年、二十七年、永享二年(1430)等、幾度に渡り神饌田の増加の記録が現存する。しかし天正十五年(1587)豊臣秀吉、 島津出兵の際、羽柴秀長、兵を率いて都於郡に陣営した時、当時の石貫神社の祠官が軍令に従わなかった事によって社地は没収された。

 石貫神社の名は、大山祇命の娘の木花咲耶媛を嫁にほしいと云って来た鬼に、一夜で石造の館を造ればと命じた。鬼は夜明けまでに造ったが、大山祇命は窟の石一個を抜き取り、東の谷に投げ、未完成とした。これで鬼の要求をはねつけたと云うことによると伝わる。


306-2

石貫神社 カーナビ検索
宮崎県西都市三宅4615ロ石貫神社


以下はHP「神奈備」より



306-4鳥 居の西側に西都原古墳群へ行く広く高い石段がある。これを登って直進すると、女狭穂塚古墳・男狭穂塚古墳に行き当たる。木々が密集して生えているので、全 体像はつかみにくい。尚、女狭穂塚古墳は中百舌鳥古墳群の石津丘古墳(履中陵と呼ばれるがどうやら仁徳陵だろう)のきちんと半分にした相似形であり、河内 王権との密接な繋がりが窺われる。男狭穂塚古墳は誉田別古墳(応神陵とされる)の1/2の縮尺。即ち日向の諸県牛とその娘の髪長媛の墳墓ではないかと考えられる。


肝心の部分が欠字になっている様なのですが、大山祇命、木花咲耶姫を祀る神社として知られる西都市の石貫神社(熊本県玉名市にも「石貫」地名がありますね、恐らく西都市の「石貫」地名と関係しているものと思われるのです)の由緒に阿佐久良山が登場するのです。“玉名=土車の里に石貫が…”

この神社の成立は古く、大山祇命、大国主命に関係する神社なのですが、この阿佐久良山地名こそ朝倉、朝来地名のルーツに思えるのです(調査中)。

事実、この神社には大山祇命の墓への案内板までもが置かれているのです。


 宮崎県宮崎市金崎914 朝倉寺(曹洞宗)福岡県朝倉市にも朝暗(チョウアン)寺がありますね

これは敦賀の金崎城の金崎に繋がるものと思われます。

 鹿児島県鹿屋市輝北町諏訪原朝倉

 大分県豊後大野市朝地町朝地朝倉


百嶋神社考古学では狗奴国の乱後の戦後処理として各民族の配置換えが行われ、各々、①愛媛県(伊予)は大三島に大山祇命が祀られているように大山祇命系氏族(トルコ系匈奴)に、②大山祇命と埴安姫(博多の櫛田神社の主神である大幡主の妹)との間に生ま れた大国主命(各々の混血)を大幡主(白族)の傘下で島根県(出雲)に、③大幡主の子であるヤタガラス(白族)=豊玉彦を香川(讃岐)徳島(阿波)和歌山 (紀州)に移動させているとします。

この移動の反映こそ「朝倉」地名の移動と関係があるのではないかと考えているところです。

では、もう一つの地名「益城」(ウマシキ)も展開が認められるのでしょうか?

事実、益城町の隣町の嘉島町にも「北甘木」という地名もあるのです(出戻りの可能性あり)。

「益城」地名は「甘木」「天城」などのバリエーションが考えられますが、最近遭遇したのが福岡県飯塚市馬敷(マシキ)です。ここにも大山祇命を奉祭する人々が住んでいるのです。

この大山祇命こそモンゴル高原を闊歩していたトルコ系匈奴であり、江田船山古墳を造った、そして、埼玉県行田市の稲荷山古墳を造った人々ではないかと思うのです。


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カーナビ検索 福岡県飯塚市馬敷


なお、この石貫神社の前にはさくら川が流れ、さくら川町まであります。

これは後世擬えたものかもしれませんが、興味深い事ではあります。

関東ではコノハナノサクヤ姫がサキタマ姫と名を変え、「さらにさくら姫」と呼ばれる事になっているのはご存知のとおりです。

また、玉名市の石貫と西都市の石貫にも多くの地名対応がある事もお知らせしておきます。

これについては、稿を改めてお話する事にします。以下は「朝来」地名、大山祗命について書いたものです。


ひぼろぎ逍遥

144 「朝来」地名について ① “兵庫県朝来市の朝来山から”

145 「朝来」地名について ② “但馬、朝倉、養父、志波” 

146 「朝来」地名について ③ “朝倉氏と小佐氏”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

179 天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 ④ “西都原に大山祗命の痕跡がある!”


また、コノハナノサクヤヒ姫が早々とニニギと別れて旧鹿児島県溝部町に移動し前玉(サキタマ)姫と名を変えた事については、以下のブログをお読みください。


ひぼろぎ逍遥

067 霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社にコノハナノサクヤヒメを探る

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

023コノハナノサクヤヒメを祀る霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社再訪 


今のところ、大幡主、大山祗命の混成軍団こそ「朝来」地名を残した民族複合と考えています。

307 飯塚市馬敷に大山祇命を探る! 

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307 飯塚市馬敷に大山祇命を探る! 

20160329

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


最近のフィールド・ワークで非常に興味深いと思ったのは、福岡県の中央部の飯塚市の馬敷地区に大山祇命を主神として祀る神社がある事でした。

 「そんなものどこでもあるのではないか…」と言われる方はおられるでしょう。

 確かに飯塚市と朝倉市の一帯には大山祇命を主神として祀る神社はかなり認められます。

 旧筑穂町弥山君ケ畑、同じく桑曲、同じく大根地山、筑紫野市本通寺…の大山祇神社

 それも、朝倉地名と対応したものと考えていますが、熊本の益城、朝倉の甘木(実はウマシキ)と北への移動に加えたさらなる北上を確認できなかったからでした。

 地名だけの対応は説得力もなく地名の移動のベクトルも探れないのですが、背後にある集落の伝承とか神社の縁起、伝承などにより、経験を積めばある程度の推測ができるようになるからです。

 元々、この飯塚市の馬敷地区は、豊前の田川~香春から太宰府へと抜ける古代九州王朝の官道が通じていた場所であり、筑前大分(大分八幡宮)を経て太宰府へと米の山峠へと向かう要衝の地なのです。


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飯塚市馬敷


十日ほど前でしたか、小雨模様ながら互いに傘をさして、内倉武久氏と共に豊の国古代史研究会のN氏に誘われ、馬敷の古墳と思しきものを見に行きました。

N氏は猿田彦の石塔がかなりあるので見て欲しいと同行を求めたのでした。

猿田彦の石塔が最も目立つのが肥後であり、中でも熊本県山鹿市の大宮神社に置かれた50基の大型石塔群は異様ですらありますが、この地も猿田彦=ニギハヤヒ=山幸彦の大信仰圏の一つであった事が分かります。


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この馬敷には馬敷神社と大山祇命を主神とする大山祇神社がある事を知りました。

 この二つの神社を崇める各々の集落があり、互いに対抗意識が認められるのですが、確かに大山祇命を祀る氏族が熊本の益城、朝倉市の甘木地名の移動と見える「馬敷」を携えてさらに北に展開した痕跡地名に見えるのです。


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大山祇神社 石塔の奉納の文字の上に桜の神紋が確認できますね


石塔の奉納の文字の上に桜の神紋が確認できますが、大山祇命の娘がコノハナノサクヤ姫で、関東ではさくら姫と呼ばれる事と通底している様に思えます。


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境内の一角には桜の模様の入った瓦の破片も確認できます。

 博多の櫛田神社の大幡主と大山祇命は擬神体を形成し、鹿児島では田神様(タノカンサー)と呼ばれていますが、桜はモンゴル高原でも咲くもので、彼らがどこからやって来たかを物語っているのです。

桜の原産地は、韓国でも、日本でも無く、ヨーロッパから西シベリア、日本、中国など北半球の温帯域に広く分布しているのです。


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308 熊本県氷川町の三宮神社(三神宮)初見! 

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308 熊本県氷川町の三宮神社(三神宮)初見! 

20160329

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久



地 名研究会のメンバーではないのですが、百嶋神社考古学勉強会に参加されているO女史から、“百嶋先生が話されていた八代の上の九州王朝の集落がどこかを探 そうと氷川町を調べていたら五七の桐の神紋を持った三宮神社があった…”と話しておられたことから、まだ見ぬ神社であることは間違いないと、人吉市の矢黒 神社、青井阿蘇神社、相良村の雨宮神社への再訪の道すがら足を延ばす事にしました。

  「白玉粉の工場とかお店とかから曲がる…」といった曖昧な情報だけで尋ねた事から、四キロほど手前の集落を探し廻っていた様で、ほぼ、一時間程度無駄にし たのですが、現地に詳しい方から「多分、宮原の三神宮の事だろう…」とアドバイスを受けようやく辿り着いたのは太陽が西に沈み始める頃でした。


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同社の由緒書を読むと確かに天照皇大神、国常立尊、神武天皇が祀られているようですが、ネット検索によると、


…三神宮は、天照皇大神(伊勢神宮内宮)、国常立尊(近江日吉宮)、神武天皇(山城下加茂神社)の三神をお祀りするのでこの名前が付けられたといいます。…

氷川町 / 熊本県による


…伊勢神宮内宮(天照大神)、日吉大社(国常立命)、下鴨神社(神武天皇)の3神を祀ったので三宮社と称した。…

ウィキペディア(20160330 19:45による


このような表現になっています。まず、天照皇大神(伊勢神宮内宮)は良いとしても、日吉宮の主神は大山咋であり、下鴨神社の主神はヤタガラス=豊玉彦なのであって、非常に違和感を覚えます。それでも、この二つの表現を理解しようと思えば、各々の神社に祀られている従神という程度の意味になります。

ともあれ、この三神の組み合わせは、白族に肩入れした三神を崇める神社と言えそうです。


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八代の妙見宮に近い事からか、国常立命(実は天御中主)が祀られているのはそれなりと思えますが、神殿の様式を見ると、上から見て十字型になっており、どうみても物部氏のそれに見えてしまいます。


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山門も素晴らしい造りですし、賽銭箱の五七桐も権威を示しています


百嶋先生が言われた「八代の妙見宮の上の方の九州王朝集落…」云々の話を彼女は北の方と想いこの一帯を探ったのでしょうが、私は妙見宮の上流の標高の高い所を探していたのでした。

ただ、この一帯は三号線の西側の干拓地であり、近世以降に陸化した事を考え合わせれば、氷川のもっと上流域から同社を携え移動して来た人々のように見えますね。

ここでは、国常立命が天御中主命であるという事をお知らせして一先ず終りにさせて頂きます。


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309 熊本県芦北町乙千屋の天子宮の境内社に鹿児島、宮崎のヤゴローどん が!

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309 熊本県芦北町乙千屋の天子宮の境内社に鹿児島、宮崎のヤゴローどん が!

20160330

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


前日、熊本県氷川町宮原の三神宮を見せて頂いた後、八代から水俣方向に南下し、芦北町の湯浦温泉で疲れを癒やす事にしました。

 湯浦地区に入ると国道3号線沿いに「岩の湯」という民間の共同浴場がありますが、今時、170円という格安の料金で交じりっ気なしの源泉掛け流しの良泉に入ることができるのですからこの上の物はありません。

疲れも取れた事から、古田史学の会のメンバーで、地元郷土史会「野坂の浦」の会員でもあるY先生のお宅にお邪魔して深夜まで話し込んだのですが、翌朝早々にも、芦北町桟敷の乙千屋(オトジヤ)の天子宮に向かいました。

球磨川流域の人吉盆地から八代芦北一帯には多くの天子宮、天子社、天子神社なる謎の神社群が存在していることから、古田史学の会の会報や同会のHP、その他で公開していますが、ほぼ、七年ぶりに現地に訪れる事にしました。

目的は天子宮そのものではなく、同社の境内社の自然石に「矢五郎」との文字が線刻されている事を確認し、その写真撮るためだったのです。

元々これは内倉武久氏を同社や付近の佐敷神社にご案内した際に、同氏が発見されていたものなのです。

 ただ、当時は、鹿児島県のヤゴローどん祭や、この正体に対して無関心だったっため写真 も撮っていなかったのですが、今回、Y先生にも同行して頂き、改めて「矢五郎」と書かれている事を確認し、これが鹿児島県に数多く分布する「ヤゴローどん 祭」に関係するヤゴローどん信仰の一部と確信したのでした。

 既に、このヤゴローどんに関しては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)220 鹿児島のヤゴローどんは 山幸彦(ニギハヤヒ)“鹿児島県曽於市の岩川八幡宮”として書いており、7月には公開の予定ですが、その中心地の一つとして有名な曽於市の岩川町岩川八幡宮のヤゴローどんをまずは見て頂きましょう。


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一般的には、熊襲の英雄とか、熊襲を征服した大男とか、九州南部を上手く治めた人物…といったイメージで理解されているのですが、この奉祭圏が肥後まで及んでいるとは全く考えられていません。

 しかし、これについても、故)百嶋由一郎氏は“ヤゴローどんはニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦ですよ“

と明言されており、現在、肥後で拾い出した、4社の祭神とどうやら対応しそうなのです。

 これについては、生前、百嶋先生に「矢具神社、矢黒神社があります…」とお伝えした事がありますが、先生もこの肥後の神社群について認識をお持ちではなかったようです。


ヒコホホデミ

ホオリ - 記紀に登場する神。山幸彦

ウィキペディア(20160330 10:30


野々矢具神社 熊本県合志市西合志町野々島4862  火火出見尊外二柱

矢具神社   熊本県田浦町3049         火火出見尊 豊玉姫命

矢具神社   熊本県田浦町波多浦24       火火出見尊 豊玉姫命

矢黒神社   熊本県人吉市矢黒町1765      伊瀬以下33


祭神は「熊本県神社誌」により確認したもの


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乙千屋の天子宮 カーナビ検索 熊本県葦北郡芦北町大字乙千屋6-9


では「矢五郎」どんの線刻をご覧ください


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「郎」は少し確認し難いのですが「矢五」は鮮明に見えますね

310 熊本県人吉市矢黒町の矢黒神社は ヤゴローどん が祀られているのではないか?

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310 熊本県人吉市矢黒町の矢黒神社は ヤゴローどん が祀られているのではないか?

20160331

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


朝から乙千屋の天子宮の境内社に、推定ヤゴローどん を確認し、次に向かったのは人吉盆地でした(これについては、前ブログ ひぼろぎ逍遥309 熊本県芦北町乙千屋の天子宮の境内社に鹿児島、宮崎のヤゴローどん が! を参照のこと)。

小雨模様の調査行です。いつもの事ながら、人吉盆地は山上の別天地といった雰囲気を持っています。それに格安温泉の宝庫というのですからそれだけでも心が沸き立ってきます。

この人吉盆地の入口に近い川向う(勿論球磨川ですが)の地区に矢黒町があり矢黒神社があります。


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この聞きなれない名の神社が鹿児島、宮崎の「ヤゴローどん祭」の主役のヤゴローどんを祀るものとする確たる根拠はありません。

 しかし、「ヤグ」、「ヤグロ」が「ヤゴローどん」の名を留めている可能姓は十分にあるでしょう。


野々矢具神社 熊本県合志市西合志町野々島4862  火火出見尊外二柱

矢具神社   熊本県田浦町3049         火火出見尊 豊玉姫命

矢具神社   熊本県田浦町波多浦24       火火出見尊 豊玉姫命

矢黒神社   熊本県人吉市矢黒町1765      伊勢以下33

「熊本県神社誌」による


故)百嶋由一郎先生は、このヤゴローどんを南下したニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦(新潟県弥彦神社の祭神でもある)とされていました。

 通説では山幸彦が彦火火出見尊 (ヒコホホデミノミコト)とされていることは異論のないところでしょうが、“神武天皇の祖父で 瓊瓊杵尊と木花開耶姫命の三男…木花開耶姫命が疑いを晴らすために産屋に火をかけて、その火の中で生んだ子の一人”などというのは藤原が捏造した大嘘であることは何度となくお話して来た「古事記」のインチキ神話の一部です。

 今のところ、「矢具」、「矢黒」が「ヤゴロー」とほぼ対応している事から、そう考えるのですが、祭神もヒコホホデミとあり(矢黒神社については伊勢以下33社とあり、詳しくは宮司にお尋ねするしかないでしょう)、百嶋先生が言われていたニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦に対応するのです。

 これまでも何度か書いていますが、九州(大分県北部の瀬戸内海側沿いを除く)では、標準語のO音がU音と入れ替わる場合が数多く認められます。

 「今日は大事(オオゴト)をしでかした」→(ウーゴト)、栂(トガ)→栂(ツガ)、ホウヅキ→フウヅキ、遊び呆(ホウ)ける→呆(フウ)ける…

 当然にも、ヤゴローはヤグロ、ヤグロウに置き換わっている事が自然に理解できます。

 と言うよりも、それこそが原型であり、古代には九州の言葉が標準語だったのであり、「ヤゴローどん」と呼んでいるのは、隼人を制圧した近畿大和の方言を話していた田舎者が、「ヤゴロー」と呼んだだけなのです。

 今のところ作業としてはここまでですが、宮崎、鹿児島限定と思われている“ヤゴローどん”の奉斎(祭)圏がかなり広がっている事が見えて来た事になりそうです

 では、社殿をご覧ください。


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まず、参拝殿は至って質素ですが、神殿の鞘殿の黄金の屋根は茅葺の多い人吉盆地ではど派手で目を惹きます。加えて鞘(サヤ)殿です。由緒書きでは覆屋様式とされています。



矢黒神社は ヤゴローどん を祀るものと考え、再訪している者としては、この鞘殿の様式(原子炉建屋のようですが)は、やはり、筑後物部氏のそれとの思いが走ります。


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タイミングが良ければ球磨川下りに出くわします



縁起を読む限りはあまりにも多くの神様が盛り込まれて判然としませんが(「熊本県神社誌」でも伊勢以下33社とそっけない)、香取(鹿島、香取は百嶋神社考古学では海幸、山幸です)が入っており辻褄は合うのです。

 ただ、やはりと思ったのは、境内社として別建ての伊勢稲荷が祀られており(実は伊勢外宮の豊受大神は山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦のお妃でもあるのです)、本当はこちらが格上の神様なのです。


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境内社として別建ての伊勢稲荷が祀られており(実は伊勢外宮の豊受大神は山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦のお妃でもあるのです)、本当はこちらが格上の神様なのです


最後になりますが、地名で関心を惹いたのは、この矢黒町には雨吹山があることです。まさか、アメノフキネノミコトを意識して付されたものではないと思いますが、今後の課題です。


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311 人吉盆地の雨宮神社(熊本県相良村)再訪 “悲劇の雨宮姫”

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311 人吉盆地の雨宮神社(熊本県相良村)再訪 “悲劇の雨宮姫”


ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載        20160401

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


川辺川ダムの建設中止が確定したか否かはなお不明ですが(国土交通省は、事業を廃止した訳ではなくほとぼりが冷めさえすればいつでもどんな理由を付けてでも再開するはずですから…)、人吉市の中心部から国道445号線五木村へと向かうと相良村川辺辺りに非常に印象的な小山を見出します。

 百嶋先生に出会う前、今から20年ほど前ですが、この印象的な森と神域に惹かれて同社を訪れています。

 当然、再訪ということになりますが、当時も「雨宮」とは何かを考えた事がありました。

 その後、雨宮姫を祀る神社や熊本市若葉の雨宮神社などに遭遇しましたが、百嶋神社考古学に触れ雨宮姫という名の神様がおられた事を知ると、この神域こそが雨宮姫を祀る神社ではないかとの思いが深まっています。


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雨宮神社 カーナビ検索 熊本県球磨郡相良村川辺5887


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「熊本県神社誌」によれば、川辺嚴島神社(市杵島姫命を祀る)の摂社とされ天御分神外四柱を祭神とするとあります。

 事実、同社の縁起によれば、天水分神(天御分神) 国立水分神久比邪持神 高於加美神 舟玉命 とあります。


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祭神 天水分神(天御分神) 国立水分神久比邪持神 高於加美神 舟玉命


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同社縁起(一部)


では、何故雨宮大明神と呼ばれていたのでしょうか?確かに相良為続公による雨乞い故事はあるのですが、雨宮姫が祀られていたものの都合が悪い事から隠された可能性もあるのではないかと考えています。

熊本市内の雨宮は、「熊本県神社誌」による建軍神社の摂社 雨宮神社(雨宮大神)、小山諏訪神社の 摂社雨の宮社(祭神不詳)がありますが、情報を得られず、今のところ探索はとん挫しています。


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以下は、故)百嶋由一郎による話です。高木大神の次女タクハタチヂヒメと草部吉見との間に生まれた阿蘇ツ姫=天豊ツ姫が雨宮姫の母なのですが、この女性は、神武天皇の子である懿徳天皇(藤原により第4代とされた本物の神武の子)の正室となります。

ところが、駆け落ちか略奪かは分かりませんが(百嶋説では皇后陛下略奪)、阿蘇の主神である健磐龍命の妻(妃)となり(後に寒川姫、杉山姫)産まれたのが雨宮姫なのです。

このように、傍目にも素性の良くない出生の秘密を持ったのが雨宮姫である事から、阿蘇家にとっても都合が悪い事は想像に難くなく、ために雨宮姫は隠された可能性が否定できないのです。

次の系譜には、雨宮姫の母は 天豊ツ姫→阿蘇ツ姫→天比里刀売→寒川姫→杉山姫 と名を変えた事が書かれています。

天比里刀売とは天の屁こき女の意味で罵倒する意味が込められているのですが、古代においても評判が悪かったのでしょう。

このため、“父である阿蘇高森の草部吉見は始末に困り、ヤタガラスに頼み込み引き受けてもらい、関東の寒川神社の祭神、寒川姫、寒川彦となっている。”とは百嶋先生の解説です。

それが舟玉命(豊玉彦)が雨宮神社縁起に登場する理由なのです。

この雨宮神社と雨宮姫は繋がっているはずです。最後に、現在の雨宮神社の祭神を見て頂きます。


天水分神(天御分神) 国立水分神
久比邪持神 高於加美神 舟玉命


天之水分神 国之水分神…は恐らく大幡主系の神と考えられそうで、雨宮姫の母、寒川姫、杉山姫としてこの阿蘇ツ姫を最終的に受け容れた豊玉彦=ヤタガラス系の神を祭神としている様に見えるのです。

このあたりの事情については、「熊本県神社誌」を書かれた上米良純臣氏(元青井阿蘇神社の宮司)も当の阿蘇家も本当はご存じではないかと思うのですが、今といなっては確認する術を持ちません。


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312 イワツバメの大群が飛び交う巨大鍾乳洞に鎮座する熊野座神社

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312 イワツバメの大群が飛び交う巨大鍾乳洞に鎮座する熊野座神社

        20160402

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


  過去、人吉盆地には何度となく踏み込んでいますが、高速道路が嫌いな上にトンネルが嫌いで、一般道でも狭い圧迫感のある道路も嫌いなため、人吉盆地に入る にも芦北まで南下し、白木、大野を経由して再度球磨村一勝地付近に抜ける遠回りなルートでばかり入る様にしていました。

 このため、何故か坂本村は通過しない迂回地として自分のフィールド・ワークからは欠落していたのです。

 多くの神社に足を運びながら、これほど特徴があり印象深い神社がある事をついぞ知らなかったのですから、しばし、自ら自らを恥じたほどでしたが、実に素晴らしい神社があったものです。

 やはり、道路から引っ込んでいるから気づかなかったと言えばそれまでですが、努力をしなくても向こうから参拝者がやって来ていた神社と言うものは努力をしないもので、そこに神社がある事を訴えようともしていないものなのです。


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解説版によると、1783年に現地を訪れた橘 南谿(儒医で紀行文を書いた…)タチバナナンケイも、イワツバメの大群を見た様で、「一足鳥」と書き留めているようです。

 まず、橘 南谿の時代よりは減ってはいるはずですが、それでも大量のイワツバメが群舞する姿はそれだけでも一見の 価値はあるはずで、高い入場料を払って付近の球泉洞にはいるのも良いでしょうが、多少お賽銭を奮発してもこの鍾乳洞に鎮座する熊野の神々を訪ねられるのも 良いかもしれません。

さて、私達が関心を向けるのはご利益とか願掛けとかではなく祭神です。

古代史に詳しい方でなくても、球磨川流域は熊襲の領域といった理解をお持ちの方が多いのではないでしょうか?

 司馬遼太郎でさえも、球磨川流域と鹿児島県大隅半島辺りを熊襲の本拠地と考えていた様ですから、一般の理解はそれに輪を掛けた「蛮族の領域」といった評価をされている方が多いのではないでしょうか?

 ところが、実際に現地を訪れれば分かるのですが、球磨川流域から人吉盆地にかけては、豊前市や菊池市、山鹿市などと並ぶ九州でも目鼻立ちのはっきりした人の多い、いわゆる美男美女の里なのです。

 それだけでも、熊襲とか隼人などが住む未開の地とするのは、近畿大和朝廷による畿内中心説を宣伝し、熊襲を貶める物でしかない事が見えて来るのです。


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同社縁起


同社祭神 伊邪那美、速玉男命、事解男命


まず、イザナミは祀られているものの、イザナギが祀られていない事にお気づきの方は勘の鋭い方と言えるでしょう。

ここにこそ熊野(=球磨)の神話の淵源があるのですが、それについては後回しにするとして、祭神

のイザナミは良いでしょうが、速玉男命、事解男命が誰かはお分かりではないのではないでしょうか?

百嶋神社考古学では、イザナミはイザナギと別れた後博多の櫛田神社の主祭神の大幡主のお妃になっているのです。

そして、阿波、紀州に本拠地を移した後の熊野では、熊野那智大社の主神(クマノフスミ)になっているのです。

 その事を物語るかのように、「日本書紀」の一書には「もう縁を切りましょう」とのフレーズが出て来るのです。

 神様の名前の多さに苦労しているのはどなたも同じでしょうが、その理由の一つに、政略結婚の繰り返しの度に前の配偶者を配慮して名を変える(死んだことにより蘇るという意味も・・・)という事があるようなのです。

事解男命

死んで黄泉国にいかれた伊邪那美神を、伊邪那岐神が追っていったところ、 すでに伊邪那美神の遺体は腐ってうじがたかり、遺体の各部に八雷神が生まれていた。
 『古事記』や『日本書紀』本文では、伊邪那岐神は慌てて逃げ帰ったと記されているが、 一書には、穏やかに「もう縁を切りましょう」と言い、「お前には負けないつもりだ」と言って唾を吐いた。 その唾から生まれた神が
速玉男命。次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男。

敬愛する「玄松子」


 では、速玉男命、事解男命とは誰なのかという話になるのですが、この速玉男命こそ博多の大幡主なのであり、熊野速玉大社の祭神でもあるのですが、もう一柱の事解男命は金山彦となるので。

では、熊野三山の中心熊野本宮大社の祭神は何なんだと言う方が居られますが、それこそ、スサノウが追って来たアカルヒメ(実は糸島市の細石神社の祭神磐長姫)になるのです。

それについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)064 博多の櫛田神社の祭神とは何か?他をお読みください。

 

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313 相良の産土神か?老神神社  “熊本県人吉市人吉城直下の老神神社“

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313 相良の産土神か?老神神社  熊本県人吉市人吉城直下の老神神社“

        20160402

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


 “人吉市と言えば青井阿蘇神社で決まり!”といった風潮がありますが、隠れ里の如き天上楽園の地である人吉盆地にはまだまだ興味深い数多くの神社が存在します。

その中でも、人吉城直下とも言うべき所謂官庁街の一角に老神神社が存在します。

もうかれこれ三度は参拝させて頂いていますが、ようやくこの神社の性格が見えて来たような気がしています。


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老神神社(おいがみじんじゃ)霧島神社を勧請したと伝えられるが、創立年代は不明。
現在の本殿は、江戸時代のはじめの寛永5(1628)、人吉藩主・相良長毎(ながつね)とその子・頼尚(よりなお)によって相良氏一族の産宮として再興されたいもの。
拝殿および神供所は元は茅葺きの鍵屋になっていたものを、近代に切り離したもの。

HP肥後国くまもとの歴史


老神神社とはその名からだけでも多少のおどろおどろしさ感じますが、逆にコンクリートで固めた草木一本無い神社は神秘性が欠け全く有難みが無くなる事も事実で人とは実にわがままな生き物とも言えるでしょう。

この神社の神殿も所謂鞘殿(人吉風に言えば覆屋様式)の形をとっており、それだけでも筑後物部氏の建築様式を感じさせます。



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「熊本県神社誌」によってもニニギ外五神とされており、縁起書と一致しています。

ほとんど知られた神々であることから説明は不要でしょうが、山幸彦(ニギハヤヒ=猿田彦)のお妃とされているのは豊玉彦(ヤタガラス)と高木大神の娘(豊秋ツ姫)の間に産まれたタゴリ・ミホ=タゴリヒメ(宗像三女神のお一人)である事を補足しておきます。


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ただ、霧島神宮同体との表記は薩摩(島津)への配慮か、鎌倉期に遠江国榛沢郡相良荘から入って来たとされる相良も島津同様の物部(実はモノノフ=武士)系の氏族だった可能性が高く、この六神の何れかの系統に端を発している可能性が高いものと考えられそうです。

 では、それ以前の先住氏族はと言えば、当然ながら、境内社に列せられた菅原系(道真に繋がるナガスネヒコor大幡主のいずれか)、厳島系(因部)、伏見稲荷(アメノウヅメ)、少名彦名命系となりそうです。

 地元の郷土史家S氏、M氏が言われていた事の受け売りでしかありませんが、“相良氏が鎌倉期に地頭として入府して以降それ以前の歴史が全て消されている”との話を聴き及んでいます。

 逆に言えば、現在も一三〇〇年以降の歴史は保存されているとは言えそうで、現地を周ると、建築様式を含め鎌倉を強く意識してしまいます。

 してみると、それ以前の神様を単独で祀る神社に出くわすと本物である可能性が見て取れそうです。

 人吉に行かれたら青井阿蘇にばかり足を向けるのではなく、このような相良侵入の歴史を感じさせる神社も見に行かれたら、より人吉盆地の歴史が見えて来るようになるのかもしれません。


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314 人吉の神社に相良以前の神社の古層を探って  “熊本県相良村の十島菅原神社“

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314 人吉の神社に相良以前の神社の古層を探って  熊本県相良村の十島菅原神社“

        20160402

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久



青井阿蘇神社、老神神社を巡るとどうしても相良氏侵入以前の神を祀る神社を見たくなります。

 勿論、人吉盆地に数多く分布する(恐らく10を越え20に 近づく)天子宮、天子社、天子神社はそれに先行するものと言えそうですが、このマイナーな神社群を除いて、実際、どの神社がそれに該当するかさえ見当もつ かないのです。「道真を祀れ!」との藤原の号令による菅原神社は、相良侵入以前の神社とは一先ず言えそうで、未見のそれを優先に菅原神社の代表的神社の一 つを見せて頂く事にしました。


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鎮座地はご覧のとおりですが、「十島」とは奇妙な…と思いながら参拝すると、確かに多くの島状の小地の一つに社殿が建てられていました。



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参拝殿は菅公を祀る神社らしく寺小屋風の造りになっています


しかし、「熊本県神社誌」でも熊野神社(熊野三神)、菅原神社(菅公)、浜神社(天御中主神)としか分からず、これ以上の探索は不可能です。

 やはり、相良が歴史を消し去ったとの話は本当に思えてきます。


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しかし、この人工の浮島に建てられた鞘殿様式の神殿は「美しいの」一言です。

人吉盆地の神社の中でも抜きんでた社殿ですが、青井阿蘇だけに参拝客が集中することが良い事かどうかは改めて考えさせられます。



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矢黒町の矢黒神社の黄金の鞘殿も印象的ですが、百年前まで

の神社は全てこの茅葺、檜肌葺きの社殿だったはずなのです


しかし、入口に鎮座する稲荷様は別の神社とされているのでしょうか?

「熊本県神社誌」を見ても相良村には単立の稲荷神社は無いのですが…。

いずれにせよ、古層の片鱗さえも発見する事が出来ずに撤退する事になってしまいました。

相良以前の神社相を探るのは極めて困難と言わざるを得ないようです。

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