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スポット040 朝倉~飯塚にタノカンサーを探るトレッキングを行います 

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スポット040 朝倉~飯塚にタノカンサーを探るトレッキングを行います 

20160709

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


現在、神社考古学研究班では「神社トレッキング」を強化しています。

読者の皆さんの中にも、どのような形で行われているかに関心をお持ちの方も居られると思いますので、今回、トレッキング資料を全葉公開する事にしました。

以前に、終了したトレッキング資料を公開したことがありますが、今回は今から行う資料を公開する者です。

従って、変更がない限り盆明けの828日日曜日に実施する予定ですので、これを見た読者による飛び込みでのトレッキング参加も歓迎します(企画書次葉)。


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鹿児島限定と考えられている田神様(タノカンサー)については、これまでにも「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)として、083タノカンサーの正体とは何か?“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市甘木から”217 甘木に二つ目のタノカンサーを発見した!(共 通掲載)として書いていますが、二つ目、三つ目の田神社を発見したことから、今回改めて「福岡県神社誌」上中下を調べてみると驚愕すべき事実に直面したの でした。ざっと目を通しただけの荒いカウントですが、「田神社」として幟を揚げた神社は甘木インター南の朝倉市甘木草水に一社(旧村社)が存在しているも のの、愕くことに、無格社として朝倉郡に40社近くが拾えたのでした。通説に沿い、鹿児島のタノカンサーが甘木朝倉になどあるはずがない!とお思いの方は多いと思いますが、百嶋由一郎先生は“「田神様」(タノカンサー)は大幡主と大山秖の二神による擬神体を成していた”と言われていました。

今回の朝倉郡内に40社 近い無格社の田神社を発見した事によってその実体がある程度掴めた事にはなるのですが、その先にどう考えても隠されている(九州王朝の発展期に於ける南九 州経営の事績か?)のではないかという新たな謎が浮上してきたのでした。朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名 が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。

大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命と は大幡主以外は考えようがありません。ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき 事実が痕跡を留めているのです。藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。文献、フィールド、考 古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。し かし、フィールドはさらに凄いことを教えてくれます。625日 に行った玄海、太宰府合同地名研究会トレッキング(甘木朝倉にタノカンサーを探る!)に於いて、中島 茂氏の案内により、筑前町(旧夜須町)の大己貴神社 に近い弥永にある田神社(天神社)を訪れましたが、同社が、大国主命が贈られた日隅宮の痕跡である事が分かってきました。やはり、出雲神話の舞台は九州 だったのです。詳報については次号。また「ひぼろぎ逍遥」を!



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南九州のタノカンサーは甘木、朝倉の田神様

(実は博多の櫛田神社の主神=大幡主と大山祇命)が起源!


結論を先に申上げますが、この神様の正体は、現在、博多の櫛田神社の主祭神になっている大幡主(オオハタヌシ)と大山祇命の混合神(当方が急造した言葉ですが)であるとされていたようです。


そ うすると神武のご巡幸をまとめた博多くしだ神社の神様のご一統はたいしたもんだったと私は思います。そのとき櫛田神社の神様に協力なさった方が大幡主と大 山祇、トルコ系とアーリア系ですけれども、縁組によって、全くの兄弟である。鹿児島では、現在、お二人を一つにして田の神様(タノカンサー)という擬神体 となっている。タノカンサーの兄が大幡主、弟が大山祗である。


「神社伝承から見る古代史(百嶋由一郎先生の世界)--- もう一つの神々の系譜 ---牛島稔太のHPより


1) 朝倉市草水 田神社


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朝倉郡内唯一の村社格(消されなかった)田神社
カーナビ検索 福岡県朝倉市草水244 


祭神:菅原神、埴安神 境内社:五穀神社(埴安命)、雷神社(意加美神)厳島神社(宗像三女神)

2)朝倉市下浦 王子神社



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王子神社 カーナビ検索
福岡県朝倉市下浦796


久留米周辺に数多く存在する九躰皇子を祀る高良皇子(高良玉垂命と神功皇后の皇子)神社の一つ


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祭神:斯禮賀志命、朝日豊盛命、暮日豊盛命、淵志命、谿上命、那男美命、坂本命、安志奇命、安楽應寶秘命


由緒(甘木市史より)正歴元年八月、筑後国御井郡阿志岐村より王子の神を勧請(中略)… 

聞き慣れない御祭神は高良大社、高良玉垂命の子供達らしい。

高良大社の御祭神、高良玉垂命は武内宿禰との説もあるが、九州王国の首長
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だったとの説もあり、詳細は不明。八女地方御子孫がいらっしゃるとの説も・・・周辺には高良姓の氏子さんも多く高良大社との関わりが色濃く残るところ。     
より

3)飯塚市小正(オバサ)の田神社


飯塚市下三緒の田神社は現在確認できないため「福岡県神社誌」で旧穂波村の無格社とされる田神社を。

「オバサ」とは奇妙な地名ですが、M音B音の入れ替わり現象と考えれば良く分かります。

この地に侵入した氏族(民族)はM音が苦手で、「オマサ」を「オバサ」と発音する事が出来なかったのでしょう。



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田神社 カーナビ検索
福岡県飯塚市小正138  隣接地 ひばり保育園(小正99 ℡: 0948-24-4647) 


無格社 祭神:宇賀魂神、埴安神 「福岡県神社誌」による


神社移転新築記念碑

「当田神社は従来大字小正字天神脇に鎮座ありしも、日鉄潤野炭鉱の鉱害と氏子部落より遠隔の地にあり日常参詣の不便と管理の不行届のため 大字小正字本村一三八番地を最適の地と定め 移転新築して旧慣に依り春秋の祭祀を厳修し 以て報本反始の誠を捧げんとす」昭和六十二年十月吉日

宮司 秀村利休馬 禰宜 秀村長康


4)飯塚市馬敷の大山祗神社


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大山祗神社 カーナビ検索 飯塚市馬敷(字薬師の前) 以下不詳(馬敷公民館を目印に)


村社 祭神:木花佐久屋姫命、大山祗命 「福岡県神社誌」による


字寺田に各々別に二社あったものを昭和13年に合祀したもの

境内神社: 本社 大山祗神社(木花咲耶姫命) 

末社 大山祗神社(大山祗命)大山祗神社(木花咲耶姫命)


最近のフィールド・ワークで非常に興味深いと思ったのは、福岡県の中央部の飯塚市の馬敷地区に大山祇命を主神として祀る神社がある事でした。

 「そんなものどこでもあるのではないか…」と言われる方はおられるでしょう。

 確かに飯塚市と朝倉市の一帯には大山祇命を主神として祀る神社はかなり認められます。

 旧筑穂町弥山君ケ畑、同じく桑曲、同じく大根地山、筑紫野市本通寺…の大山祇神社

 それも、朝倉地名と対応したものと考えていますが、熊本の益城、朝倉の甘木(実はウマシキ)と北への移動に加えたさらなる北上を確認できなかったからでした。

 地名だけの対応は説得力もなく地名の移動のベクトルも探れないのですが、背後にある集落の伝承とか神社の縁起、伝承などにより、経験を積めばある程度の推測ができるようになるからです。

 元々、この飯塚市の馬敷地区は、豊前の田川~香春から太宰府へと抜ける古代九州王朝の官道が通じていた場所であり、筑前大分(大分八幡宮)を経て太宰府へと米の山峠へと向かう要衝の地なのです。


5)飯塚市山口 若八幡宮


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村社若八幡宮 カーナビ検索 飯塚市山口字中村


村社 祭神:仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰 「福岡県神社誌」による

摂社:五穀神社(宇賀魂命)末社:天満神社、大山祗神社、大行事社、稲荷神社

筑前大分から延びてきた古代官道の延長上に米の山峠があり九州王朝の最大拠点太宰府があるのです。

トレッキング注意事項

玄海、太宰府合同地名研究会(トレッキング)実際には55ポイントを巡りますが、どなたもどこかの神社には心惹かれるものがあると思います。最近は神社の祭事、経営が非常に難しくなっています。   お賽銭を準備の上安全に留意され参拝して下さい。神社に関して何かご質問があれば 09062983254 古川までご連絡下さい。

参加申込等:090-52892994 (中島


315 人吉盆地の懐深く最高格式神社に再訪  “熊本県多良木町の王宮(オウグウ)神社“

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315 人吉盆地の懐深く最高格式神社に再訪  熊本県多良木町の王宮(オウグウ)神社“

        20160404

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


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王宮神社 カーナビ検索 熊本県球磨郡多良木町黒肥地1278


人吉盆地の神社を考える時、真っ先に頭に浮かんでくる神社は青井阿蘇ではなくこの多良木町黒肥地の王宮神社です。

 十年ほど前、この人吉盆地の最深部を走り回り、天子宮(天子社、天子神社)と呼ばれる奇妙な神社群を調べていました。

 実は、この王宮神社も天子宮が同町の久米地区から移動してきたものなのですが(以前はその表示板が存在した)、天子宮に関してはひぼろぎ逍遥(跡宮)で独立したリポートを掲載中であるためここでは触れません。

 まず、熊本県南半部には〇〇木という(恐らく半島系)地名が数多く拾えます。

  球磨川の左岸には白木、久多良木(百済木川が球磨川に注ぐ)もあり、隣町の錦も含め多良木もその一つと考えられるのですが(そもそも百済はペクチェであり クダラと呼んではいないが、新しい多良に対して旧い多良が「百済」クダラと呼ばれたとしたのは「百済の王統と日本の古代」を書いた兼川 晋氏でした…)、 この神社の性格がそれに繋がるかどうかも、なお、不透明です。

 ただ、そういった背景には関わらず、社殿の美しさ、気品、古代を感じさせる神秘性…の一切が閉じ込められ、多少とも相良以前を感じさせるのがこの王宮神社です。 


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例によって「熊本県神社誌」(264p)を見ると抑制気味ながらもこの神社が唯ならぬものであることが読みとれるのです。

 まず、黒肥地神宮(王宮)と大書(ボウルド)され祭神も神武天皇の一柱とされているのです。

 社殿(神殿)に打たれた神紋も五七桐であり、祭神と神紋はすっきりと一致を示しています。

 ましてや、神武僭称第10代崇神(ハツクニシラススメラミコト)の片鱗など欠片もないのです。

 この神社が、高原町の狭野神社と並ぶ本物の神武(カムヤマトイワレヒコ)天皇を祀る数少ない神社であることは、まず、間違いないでしょう。

 そして、前述のように「太郎・田部忠綱当郷に来たって久米蓑毛に住し、帝廟を勧請して王宮大明神と崇祀った。その後現在地に遷座」と書かれているのです。

 そこで、久米に現在も残されている久米熊野座神社(多良木町久米1098)の祭神及び久米に在る境外摂社五社の配神を見ることにしましょう。

 まず、久米は神武の戦闘集団(海兵隊と言うよりさしずめ古代の海軍陸戦隊)でした。


忍坂(おさか)の 大室屋(おほむろや)に 人多(ひとさは)に 来入り居り 人多に 入り居りとも厳々(みつみつ)し 久米の子が 頭槌(くぶつつ)い 石槌(いしつつ)い持ち 撃ちてし止まむ
厳々し 久米の子らが 頭槌い 石槌い持ち 今撃たば宜し


 忍坂の大きな室屋の中に人がたくさん来ている。人がたくさん入っていても、勢い盛んな久米部の者たちの頭槌・石槌を持って、敵を撃たずにはおくものか。勢い盛んな久米部の者たちの頭槌・石槌を持ち、今撃てばよいぞ


315-3
HP
より引用

 この久米が付された土地ですから、単に勇壮さに肖って付された地名とも思えず、古代の何らかの関係者(例えば大友旅人の隼人征伐にも参加した久米族の末裔の残留者…)が住み着いた土地ではないかとも思えるのです。

 では、この久米郷の摂社を「熊本県神社誌」からご覧ください。


 久米熊野座神社  熊野三神          白族

 若宮神社     健磐龍命外二神       阿蘇系(多少疑問?)

 治頼神社     相良治頼          相良氏(実体はニギハヤヒ系ではないか?)

 菅原神社     菅公            菅原系(白族かスサノウ系か?)

 年神社      大年、御年、若年神     草部吉見系

 八坂神社     素戔嗚尊・櫛稲田姫     スサノウ系


確かに戦闘集団の形跡があるのですが、今後、丹念にこの6社を見せて頂く事にしたいと思います。

 では、社殿をご覧ください。


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確かに神日本磐余彦命を祀る宮である事を表すかのように、五七桐の神紋が打たれています。

なお、境内社として健磐龍とされた若宮が、源嶋社(当方未確認)二社が置かれていますが、由緒を見る限り、玉依姫命、健磐龍命、比売命なる三神が加えられており、「熊本県神社誌」とは異なっています。

これは、多分、阿蘇系三神が後に追加されたものと思います。

本来、人吉盆地一帯は阿蘇系の領域ではないはずなのです。

それは、人吉、球磨地方全域の神社の配置を見れば明らかで、青井阿蘇も本来は阿蘇系神社ではないはずなのです。

少なくとも、王宮神社は単に初代神武=神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコ)を単独で祀る神社であったはずで、相良侵入以前の古い神域を表す貴重かつ、人吉郡内最高高格式の神社が、この多良木の王宮神社だと思うのですが、“皆さんにも青井阿蘇から足を延ばしてご参拝頂きたい“と思ってやみません。



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316 山岳修験の聖域彦山北宮の豊前坊再訪  “福岡県添田町高住神社“

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316 山岳修験の聖域彦山北宮の豊前坊再訪  福岡県添田町高住神社“

        20160408


久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


まず、北部九州において彦山の説明は不要でしょうが、北宮となると多少説明が必要になるでしょう。

ケーブル・カーで参内できる彦山中宮は知られていますが、そこから北宮と考えるとどこにあるかの見当が着かなくなるのです。この北宮はあくまでも彦山山頂の上宮から見た北宮=豊前坊の意味なのです。

この豊前坊の出先が佐賀県杵島郡白石町(旧有明町)にも稲佐神社に隣接して存在しますが、全国の山岳修験の震源地がここであった考えています。


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高住神社の主祭神は豊日別命といい、豊前と豊後の国を人格化させた神であるとされています。五穀豊穣、牛馬安全などの国造りの基盤となる農耕の神の一面を持ち、また一説では猿田彦神と同一神であるともされてい
316-2ます。
しかしこの主祭神以上に有名なのは、日本八大天狗の一人であり、九州の天狗の頭目とされる豊前坊天狗であり、この神社に祭神の一柱として祀られています。神社のある英彦山は九州随一の修験道の修行場であり、その関連から天狗の住む聖地とされたと考えられます。

東林寺天満宮神主ブログより


 英彦山と書いて、「ひこさん」と読み、天照大神の御子・天忍骨尊(日の御子)を祀る神社。昔は「彦山」のみを用いていたが、享保十四年(1729)、霊元法皇よ
316-3り、天下に抜きん出ている霊山として「英」の美称を許され、英彦山と書かれるようになった。創祀年代は不詳だが、一説に、継体天皇二十五年(531)、魏の国の僧善正が、山 中で修行中、猟師・藤原恒雄と遭い、殺生の罪を説き聞かせた。だが、恒雄は、その戒めを聞かず猟を続け、一頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現し、鹿 に檜の葉に浸した水を与えると、鹿は蘇生して逃げ去った。その光景を見た恒雄は、鹿が神の化身であったと悟り、善正の弟子となって上宮三社を建立したとい う。その後、当社は衰退していた、弘仁十年(819)、法蓮が、ある日この山で、飛来した鷹の
316-4落とした羽に「日子を彦と改めよ」と記されているのを見、勅命を得て、当山を再興した。以後、西国修験道の拠点として、「嶺に三千人の仙人あり」と呼ばれるほどの霊場となったが、明治の神仏分離に際し修験道廃止となり、英彦山神社と改称。昭和五十年、英彦山神宮となった。

神紋は、「鷹の丸に二引」。開山説話や中興説話に登場する鷹が用いられているのだろうか。


英彦山神宮略誌 

御由緒

英彦山は、古来から神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神の御子、天忍穂耳命であるところから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました。
 嵯峨天皇の弘仁十年(八一九)詔により「日子」の二字を「彦」に改められ、次で、霊元法皇、享保十四年(一七二九)には、院宣により「英」の一字を賜り「英彦山」と改称され現在に至っています。
英彦山は、中世以降、神の信仰に仏教が習合され、修験道の道場「英彦山権現様」として栄えましたが、明治維新の神仏分離令により英彦山神社となり、昭和五十年六月二十四日、天皇陛下のお許しを得て、戦後、全国第三番目の「神宮」に改称され、英彦山神宮になっています。

御神徳

天照大神の御神勅により、この地に降臨された天忍穂耳命は、農業生産の守護神として、また鉱山・工場などの産業の守護神として崇敬されています。

敬愛する「玄松子」による


恐縮ながら、長々と引用を続けさせて頂きましたが、彦山中宮と北宮(高住社)の性格が把握できず、自問自答を繰り返し苦悶しています。


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同社縁起


神紋はどちらも鷹丸に二引で足利尊氏が彦山を支配した時代の名残を残しています(?)。

彦山中宮は天忍穂耳(天忍骨尊)を主祭神としますが、一方の高住神社は上記のとおり五柱の神が祀られています。

勿論、百嶋神社考古学をご存知の方には、四柱目の「火須勢理命」=海幸彦=阿蘇高森の草部吉見神

であり、彦山大神宮中宮の天忍穂耳命と同一神である事はお分かりのはずです。

 従って高住神社の五柱の一神は中宮と対応している事になるのです。

 さらに掘り下げれば、豊日別大神は豊玉彦(博多の櫛田神社の大幡主=白日別の御子でありヤタガラス)であり、天照大神、天穂明命(山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦)、少名毘古那命の配神となっているのです。

 また、五柱の中央に「天穂明命」が配されており主祭神とも見えるため、東林寺天満宮神主ブログ氏が、また一説では猿田彦神と同一神であるともされています。」と書かれている事とも対応するように見えるのです。

 結局、海幸系(中宮)、山幸系(北宮)の対抗関係も認められそうですが、まだまだ謎解きは端緒に着いたところでしかありません。


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神殿は岩窟の奥深く納められているのでしょう


 今回一つだけ理解できたことは、岩窟の中に神殿を設ける事に気付いたことでした。

「玄松子」氏も、「魏の国の僧善正が、」…北魏僧・善正が開山の意味)と書かれていますが、熊野権現も北魏渡来ともされています。勿論、『彦山流記』によれば、彦山は「北魏」から震旦国の王子晋が彦山の磐窟に下り、四十九窟を開き金剛童子をおいたとします。四十九窟の痕跡は未確認ですが、中国敦煌莫高窟からのイメージが蘇り、豊前の耶馬渓を含め、シルクロードの石窟寺院様式の延長上に、鮮卑系の豊前の石窟様式を確認し納得したところです(ただし、それ以前にも草部の彦山は存在したはずです…)。

しかし、四~六世紀の北魏の時代に彦山が成立したとするのは大間違いで、北魏の影響は上から覆い被さって来たもので、既に海幸山幸の時代(百嶋神社考古学では二~三世紀)以前には何らかの勢力が教線を張っていただろうことは想像に難くないところです。


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※クリックで拡大表示されます


百嶋由一郎最終神代系譜(みたらし団子)高住神社の五神をご確認ください。少名毘古那命は大己貴の隣にあってもよさそうですが、何故か、百嶋神代系譜には登場しません。ただ、大幡主の影響下にあった人である事はこの配神からも多少は分かります。



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※クリックで拡大表示されます

百嶋由一郎手書きデータ 初期014ファイル(DVD)「善正善見」より


神紋の「鷹丸に二引」の「鷹羽」(高場、田川…)はシルクロード上空の天を遊弋する「鷹」をシンボルにしていることが見えてきました。

この辺りに来ると、百嶋先生の知識の奥深さに敬服せざるを得ません。

生前、「大学教授の話が幼稚園程度にしか見えない」と言われていた事が思い出されます。

スポット 041(前) 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! ①

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スポット 041(前) 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! ①

20160626


久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 6月末の集中豪雨の間隙を縫って、太宰府地名研究会、玄海地名研究会合同の神社トレッキングを行いました。

 梅雨の期間中のトレッキングは野外の環境から天候に左右される事が多く、実際に決行できるかどうかは直前まで分かりません。

 このため本気で案内する事も出来ず、大雨の中、傘を刺してでも参加しようという意志堅固な参加者がいれば良いと少人数を覚悟し取り組みました。

 それほど案内はしていませんでしたが、15人規模の「田神社探訪トレッキング」が始まりました。


以下は、その時配布したトレッキング用の資料です。

 基本的にはカーナビで廻れるように住所を明記し車での移動中に交差点などでグループが切断されたり、行方不明が出て逸れても目的地に到達できるようにしています。


ところが、ところが、同行の企画責任者であるN氏からの提案により二つの田神社が加えられたため、急遽、予定のコースを逸れて二つの田神社を加える事にしたのですが、筑前町、朝倉市の境界に近い大己貴神社(朝倉郡筑前町弥永6973)の傍にある田神社(天神社)で衝撃的な事実を知ることになったのです。これは、その伏線になりますので、そのつもりで読んで下さい。

 しかし、その前に新たに分かってきた事実を先行してお伝えする事にします。

 次にご覧に入れるのは現段階での、7月用のチラシであり、トレッキング資料です。

 遠方の方にはどのような場所か見当が付かないと思いますので、付近の地図を出しておきます。



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田神社の祭神である大幡主+大山祇の第二世代(子)が大国主命であり、その本拠地がここなのです

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sp41-4鹿児島限定と考えられている田神様(タノカンサー)については、これまでにも ひぼろぎ逍遥(跡宮)として、083タノカンサーの正体とは何か?“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市甘木から”217 甘木に二つ目のタノカンサーを発見した!(共通掲載)として書いていますが、二つ目、三つ目の田神社を発見したことから、今回改めて「福岡県神社誌」上中下を調べてみると驚愕すべき事実に直面したのでした。


sp41-5ざっと目を通しただけの荒いカウントですからその範囲で理解して頂きたいのですが、「田神社」として幟を揚げた神社は甘木インター南の朝倉市甘木草水に一社(旧村社)が存在しているだけなのですが、愕くことに、無格社として朝倉郡を中心に同郡だけでも40社近くが拾えたのでした。

今回はこのリストを公開する紙面がありませんので村社として掲載されている一社を紹介するだけに留めますが、これを基礎資料として今後の調査を考えたいと思っています。

鹿児島のタノカンサーが甘木朝倉になどあるはずがない!とお思いの方は多いと思いますが、詳しくは、blogひぼろぎ逍遥(跡宮)のバックナンバーをお読み頂くとして、百嶋由一郎先生は“「田神様」(タノカンサー)は大幡主と大山秖の二神による擬神体を成していた”と言われ
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ていました。

今回、朝倉郡だけでも40社近い無格社を発見した事によってその実体がある程度掴めた事にはなるのですが、その先にどう考えても隠されている(九州王朝の発展期に於ける南九州経営の事績か?)のではないかという新たな謎が浮上してきたのでした。

朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。

大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。

ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。

九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき事実が痕跡を留めているのです。

藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。

文献、フィールド、考古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。

中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。


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百嶋神社考古学勉強会、太宰府、玄海合同地名研究会のスケジュールについてはblog「ひぼろぎ逍遥」に公開します。




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sp41-11右は朝倉市甘木公園の金毘羅宮参道に鎮座する田神社です。これが一社だけなら見過ごすのですが、実は朝倉市小隈の原田八幡宮にも同様の田神社が確認できるのです。故)百嶋先生は南九州のタノカンサーは、博多の櫛田神社の大幡主と大山祇の二柱の神が田の神様の正体とされていました。

その実体の確認が今回のテーマです。併せて、佐田大神こと大山咋神の安心院からの転勤地である朝倉市佐田町の高木神社の摂社に「瀛津比売」の表記が確認できますので皆  で確認しましょう。ここにも忌部、卜部、役の人々が住み着いていたのです。


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南九州のタノカンサーは甘木、朝倉の田神様

(実は博多の大幡主と大山祇命)が起源!


 原田八幡宮(朝倉市小隈560or648?


同社は、嘉麻市大隈に対応するような印象を与える小隈集落に鎮座する八幡宮です。

表面上は宇佐八幡宮が幅を利かせるようになる鎌倉以降(1200年~)の八幡宮と考えられますが、その基層には別の神様がおられるようです。付近には平塚川添遺跡がある事から、この重要な遺跡に関与するする集落であることは容易に想像が付きます。付近には古墳もあります。

ネットには何も出て来ません。当方のリポートがそのうち出てくる程度で、あまり注目されていない神社であることは分かります。だからこそ田神社が残されているのかも知れません。

「福岡県神社誌」によれば、祭神は神功皇后、応神天皇、武内大臣とあり、田神様の片鱗もありません。

それどころか、境内社摂社としても三柱神社(イザナギ、天忍穂耳尊、イザナミ)、高木神社(高皇産霊尊)、菅原神社(菅原神)とあり、田神様の痕跡は全く拾えないのです。

にも拘らず、ここには田神様が祀られているということはどういう事でしょうか?

一つの可能性として、圃場整備の際に合祀された可能性ですが、社を構えた移転も一般的には考えにくいことから、田神様の信仰圏の存在は否定できないように思えます。

そして、思わぬことに三つ目の田神様が、追加で入れた松尾神社がそれであったことが分かってきたのです。


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スポット 041(後) 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! ①

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スポット 041(後) 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! ①


 松尾神社(朝倉市古賀203)無格社


祭神 大山咋神 元和の初、肥後国菊池郡貴野村の松尾大明神を勧請せし故に貴野大明神と号す。

「神社由来によると、醸造の神である京都松尾大社の分霊が大同2(807)に肥後国に遷座された。」とも。NET地図には「田神社」と表示されているものもあり、これも田神社=タノカンサーの可能性がある。

「肥後国菊池郡貴野村の松尾大明神を勧請せし故に貴野大明神と号す。とありますが、この神社こそ、松野鶴平、頼三、頼久…と続く菊池山鹿の松野党の本拠地、山鹿市菊鹿町木野の旧鶴平宅に隣接する松尾神社(坂本宮司)を勧請したものとは思いもよりませんでした。

熊襲の北上は内部で静かに検討されていますが、それと関係があるのか?それとも南北朝争乱期に起こった事なのかまずは興味津々といったところです。

「福岡県神社誌」を見ていますが、どうも搭載されていないようで使えません。

これについては、もう少し周辺調査を行わない限りこれ以上の事は言えないように思います。

逆に、情報を求めたいと思います。

ただ、松尾の神と佐田大神は同神であり、佐田川、旧佐田村の起源は相当に古いものと考えられることから、単に山鹿の松尾神社の勧請の前にも同種の神社があったように思えるのですがいかがでしょうか?

あくまでも、ここでは佐田川と松尾神社が対応している事だけを確認してもらいたいと思います。


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祭神が大山咋神である以上、この神様の別名は、佐田大神であり松尾大神であり、日吉神社、日枝神社でもあることは確実なのです。だからこそ、東には佐田川が流れているのです。


金毘羅宮(朝倉市甘木公園朝倉市菩堤寺342



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旧甘木市の中心地にあるのが甘木公園ですが、その高見に鎮座するのが金毘羅宮です。


結論を先に申上げますが、この神様の正体は、現在、博多の櫛田神社の主祭神になっている大幡主(オオハタヌシ)と大山祇命の混合神(当方が急造した言葉ですが)であるとされていたようです。


そ うすると神武のご巡幸をまとめた博多くしだ神社の神様のご一統はたいしたもんだったと私は思います。そのとき櫛田神社の神様に協力なさった方が大幡主と大 山祇、トルコ系とアーリア系ですけれども、縁組によって、全くの兄弟である。鹿児島では、現在、お二人を一つにして田の神様(タノカンサー)という擬神体 となっている。タノカンサーの兄が大幡主、弟が大山祗である。


「神社伝承から見る古代史(百嶋由一郎先生の世界)--- もう一つの神々の系譜 ---牛島稔太のHPより


 高木神社(朝倉市佐田2953


先に優良ブログの「日本の歴史と日本人のルーツ」からお読みいただきましょう。


高木神社(嘉麻市小野谷1580番)(参考)

祭 神 高御産巣日神、神武天皇が東遷時ここにやってきて高皇産霊神を祀った。福岡県神社誌には、「本村は往昔、英彦山神社の神領地なりし依て英彦山に於いて は当社を英彦山四十八大行事社の中にして本社はその首班に位せり。各地にある大行事社今は皆高木神社という。」とある。以下はその高木神社であろう。


sp41-18高木神社田川郡添田町大字津野6717番の1

高木神社田川郡添田町落合3583

高木神社田川郡添田町津野2227

高木神社田川郡大任町大行事118

高木神社田川郡大任町大行事2496-1

高木神社嘉麻市熊ヶ畑1075

高木神社嘉麻市桑野2588

高木神社嘉麻市小野谷1580

高木神社嘉麻市桑野1399

高木神社嘉麻市平217

高木神社久留米市田主丸町豊城1088

高木神社宮若市黒丸1572

高木神社京都郡みやこ町犀川上伊良原字向田308

高木神社京都郡みやこ町犀川下伊良原字荒良鬼1594

高木神社築上郡築上町船迫字水上1133

高木神社筑紫野市大石字上ノ屋敷569

高木神社筑紫野市天山字山畑241

高木神社朝倉郡東峰村小石原鼓978-8

高木神社朝倉郡東峰村宝珠山24

高木神社朝倉郡東峰村小石原655

高木神社朝倉市佐田377

高木神社朝倉市黒川1806

高木神社朝倉市黒川3328

高木神社朝倉市佐田2953

高木神社朝倉市江川1201-1

高木神社朝倉市杷木白木172

高木神社朝倉市杷木赤谷744

高木神社朝倉市杷木松末2784

高木神社朝倉市須川1683


sp41-19高木神社の分布は筑後平野の東側に押しやられた分布


高樹神社(たかきじんじゃ)(参考) 福岡県久留米市御井町神篭石121 旧筑後国御井郡


祭神高皇産靈神 式外社 高樹神 久留米市高良山中高樹神社

由緒 祭神は高皇産霊神(造化の三神の一)。古くは「高牟礼権現」と称し、高良山の地主神と伝 えられる。この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史に名の現れる神社)で、「三代実録」元慶二年(八七八)十一月十三日の条に「筑後国高樹神ニ従五位 ヲ授ク」とあり、やがて正五位下に進んだことが、天慶七年(九四四)の「筑後国内神名帳」によって知られる。

もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石を築いて結界(区画を定め出入を禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに鎮座するに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのも、この神の名に因むものである。


高皇産霊尊:たかみむすびのみこと 別名 高御産巣日神:たかみむすびのかみ 高木神:たかぎのかみ

高魂尊:たかみむすびのみこと高御魂命:たかみむすびのみこと天高御魂乃尊:あめのたかみむすびのみこと別高皇産霊尊:わけたかみむすびのみこと高御牟須比命:たかみむすびのみこと高御産巣日神が天孫降臨神話等、天照大御神を中心とした「高天原系の神話伝承」に多く登場し、神産巣日神は、須佐之男命、大国主神を中心とした「出雲系の神話伝承」に天神として数多く登場するのが特徴。


ここには貞任の一族が入っているようです。佐田村の佐田も「貞任」の置換えとまで言われていますが、それは誤りで、百嶋先生の説に沿い、あくまでも、佐田大神の滞在が起源と考えています。

当方は大分市の七瀬にお住いで、昨年、「豊後安倍氏の伝承」を書かれた宗任の直系から直接お話を聴いており、この地に何故孝元天皇の大彦の流れを引く人々が住み着かれたかについては、どのように考えても久留米高良大社との関係が考えられそうです。

この地は“安倍貞任の末子を、血を絶ゆさぬように“…と宗任に託され逃れた一族の定着した隠棲地と聞き及んでいます。

それを伝えるかのように、今も一族の名の刻まれた石柱が静かに立っています。

こちらの安倍一族は、木和田、地下両地区に十戸ほどおられ、アベでも「安陪」の字を使っておられます。

一般的に“宗任配流は史実だが、貞任は死んでいるため貞任の一族が住み着いていると言う話は信憑性がなくあり得ない”とするのが通説ですが、貝原益軒先生も「此故に貞任より十三代を現人神に祝い木像十三あり、伝々」と書いていることからご存じだったようです。


しかし、我々神社考古学のものは、その背後、基層、深層を探るのを常としており、やはり、脇殿に配(廃)された須賀神社(スサノウ)こそ、本来の氏神ではなかったかと考えるのです。


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文献でとはほとんどありません。これも、フィールド・ワークの賜物です。

さて、この高木神社には摂社が4社置かれています。

「瀛」が秦の始皇帝と金山彦との縁組により許された名誉ある表記であることについては以前も触れましたのでここまでとします。関心をお持ちの方は、ひぼろぎ逍遥 156「秦の始皇帝と市杵島姫」外をお読み下さい。

トレッキング注意事項

玄海、太宰府合同地名研究会(トレッキング)

実際には55ポイントを巡りますが、どなたもどこかの神社には心惹かれるものがあると思います。

最近は神社の祭事、経営が非常に難しくなっています。お賽銭を準備の上安全に留意され参拝して下さい。神社に関して何かご質問があれば 09062983254 古川までご連絡下さい。

参加申込等:090-52892994 (中島)

317 列島の「朝倉」地名コレクション  “狗那国拡散の痕跡地名か?“

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317 列島の「朝倉」地名コレクション  狗那国拡散の痕跡地名か?“

        20160410

久留米地名研究所(準備中) 古川 清久


「朝倉」という印象的な地名があります。

どうやら、これが孤立した地名ではなく、ある民族が移動して行った痕跡地名ではないかと言う気がしてきました。

まあ、のっけからこのような事を書くと鼻から「とんでも」説扱いされるのが堕ちですが、98パーセントとか言われる単一民族国家を本気で信じ込んでおられる従順なポチ型思考の方は元より対象としていませんのでサッサと撤収されるなり馬鹿にされるなりされて一向に構いません。

まず、この話に入るには幾つかの切っ掛がありました。

ⅰ 「邪馬台国と狗奴国と鉄」(彩流社)を書いた菊池 秀夫と接触したことがありました。

同氏は、益城町の南に朝来山があり(地元ではチョウライサンとも呼ばれますが)、この山が古くは「アサクナ」山と読まれていたことを知り、ここに狗奴国の痕跡を見出していたのです。


317-1


菊池会で配布された資料から

菊池秀夫氏により書かれた「邪馬台国と菊池一族の謎」にあった注目すべき点について触れて見たいと思います。以下・・・


⑥ 狗奴(クナ)の名称が残る地名には「白川と緑川の間に朝来山(あさこやま)がある。古くは朝来名(あさくな)の峰」と呼ばれた。(『続日本紀』『肥前国風土記』)」と書かれていたのです。


 ⅱ HP「九州の山と伝説」

菊池地名研究会の元メンバー牛島稔太氏による「九州の山と伝説」においても、以下のように朝来那山と書き留めています。

「景行天皇、130年頃、 益城郡朝来那山の賊征伐」



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朝来那山は朝倉山ではないのか?


太宰府地名研究会のあるメンバーが、益城が甘木だと言った途端、「では、朝来那は朝倉ですね!」と呟きました。

「アサクナ」が「アサクラ」に転化するとの話は、単純には載れなかったのですが、単純に否定するのではなく、一応は受け入れ検証してみることにしました。

もし、これが正しいとなると、狗奴国の北上、即ち筑前への進出と言う仮説に結びつきかねないのです。


狗奴国は山鹿だったとも!

『翰苑』かんえん(唐の張楚金)には 又南(みなみ)、邪馬嘉(ヤマカ)国に至る と。山鹿は、『和名抄』にも出ている古い地名これを邪馬台国とした論者もある。 しかし、狗奴国とも考えられる。

引用元:魏略(逸文4)翰苑卷三十

其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

その南に狗奴国があり、男性を王と為し、官には狗古智卑狗があり、不属女王に従属していない。郡より女王国に至るには一万二千余里である。


『三国志魏書』倭人伝

女王之南又有狗奴國 以男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也

女王の南、また狗奴國あり。 男子を以って王と爲す。 其の官を拘右智卑狗という。女王に属さぬなり。

『三国志魏書』倭人伝

其八年、太守王到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告之。

『三国志魏書』倭人伝

卑彌呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬する奴婢は百余人。更新して男の 王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人を殺した。再び卑彌呼の宗女「壹與」を立てる。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定し た。張政らは檄文を以て壹與を告諭し、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らを送り届けたによって、臺(皇帝の居場所)に詣で て、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。


狗奴国とは

菊池(秀夫)想定は、当然ながら「あさくなのみね」のクナと狗奴が音通しているとの観点に基づくものです。当方も、仮に「魏書」東夷伝の記述が正しければ、邪馬台国を筑後川流域以北と想定している以上、「狗奴国」はその南のどこかにあったはずなのです。

ただし、漢音で読むとすれば、「コウド」呉音で読むとすれば「クヌ」になり、それに中古音、上古音までも踏み込む必要はありそうであり、単純に「クナコク」とも「クナコク」でないとも決めつけることはできないという意識を保留したままの試みでした。

さらに言えば、当時の呉の太伯の裔とする倭人が漢字を知らなかったとか読めなかったなどとする考えは、 大和を国の中心とし倭人を国の外れの蛮族扱いする畿内説論者による考え方の延長上にあるもので、漢字を知っていたとすれば、当然にも自らと自らの周辺国家 の国名を記述して持ち込んでいる可能性も決して否定はできないのであり、多くの要素を考慮に入れ作業しなければ探索はできないことになります。それどころ か、むしろ、大陸の最も賢い人々の亡命地が列島であったと考えるべきなのです。

しかし、そのような事を頭に入れたものとしても、狗奴国=朝来山(アサクナ)説は面白い提起でした。

 そもそも、菊池秀夫氏の朝来山=狗奴国想定に対して、故)百嶋由一郎からは熊本県益城町をウマシキと読むべきとして→福岡県旧甘木市想定を温めていたのです。


朝倉、朝来を探して


 そこで、「朝倉」地名の拾い出し作業をすることにしました。


 鹿児島県鹿屋市輝北町諏訪原朝倉

 宮崎市内に朝倉寺あり

 熊本県益城町に朝来山在り

 大分県豊後大野市朝地町朝地朝倉

 大分県国東市安岐町朝来

 福岡県朝倉

 山口県山口市朝倉

 島根県鹿足郡吉賀町朝倉

 島根県益田市美都町朝倉

 島根県出雲市大津朝倉

 兵庫県養父市八鹿町朝倉

 兵庫県朝来

 広島県福山市内に朝倉神社在り

 愛媛県今治市朝倉 東予地方に旧朝倉村あり

 香川県木田郡三木町朝倉

 高知県高知市朝倉

 京都府京都市中京区朝倉

 奈良県桜井市朝倉

 和歌山県西牟婁郡上富田町朝来(アッソ)

 福井県福井市内に一乗谷朝倉氏遺跡在り

21 京都府舞鶴市朝来

22 福井県敦賀市に朝倉氏の金ヶ崎城が在った

23 愛知県知多市朝倉

24 岐阜県不破郡垂井町に朝倉公園在り

25 千葉県山武郡芝山町朝倉

26 群馬県前橋市朝倉

27 宮城県登米市米山町善王寺朝来

28 福島県喜多方市山都町朝倉

29 秋田県横手市朝倉


 沖縄、北海道は無視しても構わないと考えますが(実際ないようですが)、沖縄、奄美にも敗散により九州から移動した氏族(平氏、安徳、赤松…)がある可能性はあるのです。

318(前) 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ① “ここにも忌部=瀛(イン)氏がいた!”

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318(前) 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ① “ここにも忌部瀛(イン)氏がいた!”

        20160417

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


春になりスケジュールが過密になって来ましたが、下記の関係団体のスケジュールで行動すれば、ほぼ、四、五日おきにどこかで何かがあることになります。


 久留米地名研究会(久留米大学公開講座)

 太宰府地名研究会(トレッキング)

 菊池(川流域)地名研究会

 玄海地名研究会(宮地嶽神社)不定期

 百嶋由一郎神社考古学勉強会(サブ研究会)

提携団体

 菊水史談会

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 久留米大学公開講座(古代史)九州王朝論


 このスケジュールの合間を縫って、懸案としていた安芸太田周辺の神社を見に行く事にしました。

 勿論、この一帯には過去何度か入っています。

 ただ、そのころの関心は民俗と温泉探訪でしかなく、神社に絞り込んだフィールド・ワークはやっていませんでした。

 しかし、アングルが変わると見えてものが違って来るものです。

 ともあれ、熊本人工地震の五日前の昼過ぎには大分県日田市の天瀬温泉五馬高原研修所を出発し、中津市経由で関門トンネルを目指しました。

 夜9時には山口手前の小郡インターから中国自動車道に入り11時にはパーキング・エリアで車中泊する事にしました。

 車中泊には快適な季節になりました。車内でパソコンを起動させネットから安芸太田周辺の下調べしながらいつしか眠りに就きました。

 翌朝も6時半には高速を走り7時半には広島県北西部の戸河内インターを降りていました。

 高速泥棒公団にはできるだけ金を廻したくないことから極力深夜での移動を心がけ今回も2200円 に抑えましたが、料金が高すぎるため産業用の車両が高速道を利用せずに(トラック協会の一幹部からも「これほど高い高速料金を払っていたら商売にならない ので一般国道をしか利用できない…」といった声が聞えてくるのです)国民の役に立たないまま劣化だけが等しく進んでいるのです。

 こんなものは、国民や国家の財産ではなく税金(国富)を一部の利権集団が吸い込むブラック・ホールでしかないのです(就中、不便で利用されない中国自動車道は既に厄介者でしかないのです)。

 さて、安芸太田の「太田」はオオタタネコの「大田」を思わせます。


世界大百科事典 第2版の解説 おおたたねこ【大田田根子】

記紀の伝承で三輪氏や賀茂氏の始祖とされる人物。《日本書紀》は大物主神(おおものぬしのかみ)の子と記すが《古事記》では4世の子となっている。オオは〈大〉,ネコは尊称,タタは〈田〉を意味するか。《古事記》によると,崇神天皇の代に災害や疫病が続いたときオオモノヌシが天皇の夢枕に示現してオオタタネコに我を祭らせよと語った。そこで託宣のとおりにしたところ災いは去ったという。このオオタタネコは夫なくしてはらんだ玉依姫(たまよりひめ)の子であるが,その異常な誕生のいきさつを語った説話が三輪山伝説である。 HP「コトバンク」による


神々の祭祀と三輪の伝説

崇神天皇の時、疫病が大流行して多くの人々が亡くなったという。
天皇はこの事態を愁き嘆いて、床にお休みになった。その夜に大物主大神(オオモノヌシ大神。書記の一書ではオオクニヌシ<
前述>と同神としているが三輪山の祭神と考えた方が無難)が夢の中に現れていうには、「この疫病は私の意志によるものだ。意富多々泥古をして私を祭らせるなら、神の祟りによる病も起こらず、国もまた安らかになるだろう」と神託をくだされた。(夢での神託=夢託)

そこで崇神天皇は早馬を四方に遣わしてオオタタネコを探し求めたところ、河内にいることがわかり、天皇のもとに呼ばれた。天皇が「お前は誰の子か」とお尋ねになると、オオタタネコは「私は大物主大神が陶津耳命の娘である活玉依毘売を娶って産んだ子、名は櫛御片命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子で、私は意富多々泥古です」と申し上げた。(つまり大物主神の五代目の後裔)
天皇は大いに喜んで「これで天下は安らかになり、人民は栄えるだろう」とおっしゃって、早速、オオタタネコを祭り主として、三輪山の大物主神を拝み祭った。


 書記では疫病を静めるために崇神天皇自らが天神地祇に謝罪し、これまで祀っていた天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと=前述=崇神の娘)に託し、日本大国魂神を淳名城入姫(ぬなきのいりびめのみこと=前述=崇神の娘)に託した。しかし、しばしの災害に見舞われるため、やそよろずの神々を集めて問うたところ、倭迹迹日百襲姫命(やまととどひももそひめ=前述)に大物主神が乗り移り「私を祭れば、天下は平穏になる」と仰せらた。しかし天皇が祀ったが一向に効験が現れず、もう一度問うと大物主神は「私の子である大田田根子をして祭らせよ」と仰せられたという。


いずれにせよ、オオタタネコが大物主神を祀った。又、伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)に命じて神聖な土器を造り天神地祇を祭る神社を定めることによって国は平穏になったという。

HP「神々の祭祀と三輪の伝説」による


この安芸太田の中筒賀支所の隣に「これは!」と思わせるものがありました。「大瀛和上の墓」です。

当方も本願寺派の浄土真宗の門徒であることから、多少は同派に対する事は知り得る立場に在るため安芸門徒の中興の祖とされる「大瀛和上」(三業惑乱)の名だけは知っていましたが、その生まれた地がここだったとは全く思いも及びませんでした。

「三業惑乱」は浄土真宗本願寺派内部の教義論争(形式的には当方も同法同行の輩になります)でしかありませんので関心をお持ちの方は「三業惑乱」で検索すれば概要は分かるでしょう。


318-1


浄土真宗殉教の僧、大瀛和上は宝暦九年(一七五九年)この地森家(現在の役場屋敷)に生まれ、幼少より当地西方寺の義諦師に仏法を学び、十一歳の時僧となる。
 後学僧として名高き広島報専坊の慧雲師につき宗学を究め、やがて私塾芿園社を開き、後進を指導した。
時に宗義の大本たるべき本願寺において智洞能化により異説が唱えられ三業惑乱という本願寺一大宗難が起こった時、在野の和上は正論の旗手となり重病の身にむち打ち、江戸寺社奉行所において智洞能化と対決すること数度、遂にこれを論破し真宗の本義は護られるに至った。
 しかし為に病状悪化し文化元年(一八〇四年)五月四日四十六歳にて示寂、江戸築地御坊において葬し、遺骨は同年六月二十二日、可部勝円寺に納め、分骨して筒賀に奉持森家裏山に墓所を設け納骨した。

昭和五十二年十月十日
筒賀村 同心会


本願寺派西方寺 安芸太田町大字中筒賀1730-1


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安芸太田町筒賀支所 カーナビ検索 広島県山県郡安芸太田町中筒賀


318(後) 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ① “ここにも忌部=瀛(イン)氏がいた!”

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318(後) 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ① “ここにも忌部瀛(イン)氏がいた!”

 20160417

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


さて話はここからです。

 この大瀛和上(ダイエイワジョウ)の(イン)という名が如何なる経緯で付されたものかは不明ですが、考えている事は、上人自信が瀛(イン)氏=忌部、卜部、陰陽師の流れを汲む人であり、安芸太田町の井仁(イニ=多分「瀛」の置き換え)に何らかの繋がりのある人物ではないかと思っているのですが、今のところ繋がりを見出せないでいます。

 大瀛和上(ダイエイワジョウ)と呼ばれ(読まれ)ていますが、朝鮮半島の済州島は古くは州(ヨンジュ)=エイ州と呼ばれていた訳で、とりあえずは、秦の始皇帝の姓がは嬴(エイ)、は趙(チョウ)、は政(セイ)とされているように、エイと中国風の読みをしている訳です。

 少なくとも、この瀛(イン)をさんずい偏の無い(エイ)と同じ読みをしている事は、瀛と嬴が区別された同字であることを意味しています。

 この文字を使う人、使うことが許された人、この文字を使うことに正統性を見出した人々とは非常に限られた一族であり、これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)054 秦の始皇帝と市杵島姫 ひぼろぎ逍遥(跡宮)106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”、ひぼろぎ逍遥 230白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”をお読み頂きたいのですが、簡単に言えば、この一族が、この安芸の山中に居た事を確認できるのではないか、そして、その一族が物部の本体とは考えませんが(慎重に分離している)、何らかの関係を持っているものと思うのです。


以下、ひぼろぎ逍遥(跡宮)054 から秦の始皇帝と市杵島姫」一部を再掲載


1.  【始皇帝(しこうてい)】秦朝の皇帝。姓は(えい)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝(シーフアンティ) または秦始皇(チンシーフアン) と称される。 元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上はじめて皇帝を称した


318-3と、ネット上の「
Weblio辞書」は極めて簡潔明瞭に書いてくれています。

ところが、この秦の始皇帝(えい)政(せい)氏と似た文字を使った名を持つ古代史のスーパー・スターがいるのです。

宗像大社の瀛津嶋姫命(オキツシマヒメノミコト)=市杵島姫命です。

そんなことは初めて聞いた…といった方のために、敬愛する「玄松子」氏のHPから引用させて頂きます。



318-4市寸島比売命
いちきしまひめのみこと
別名
狭依毘売命:さよりびめのみこと
瀛津嶋姫命:おきつしまひめのみこと
市杵島姫命:いちきしまひめのみこと
市岐嶋毘賣命:いちきしまひめのみこと
中津島姫命:なかつしまひめのみこと

筑前地方の海人豪族である宗像氏(胸形)らが奉齋する航海の守護神、宗像三女神の一柱。


一方、ウィキペディアによれば、隋の行政単位として瀛州があるとしています。


瀛州(えいしゅう)は、

古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱方丈)の一つ[1]

転じて、日本を指す[2]。「東瀛(とうえい)」ともいう[3]。日本の雅称である[4]

魏晋南北朝時代487から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。


では、なぜ、市杵島姫命はこの用例がほぼ存在しない「瀛」という文字を使っていたのでしょうか。

これについても百嶋先生はお話をされていました。


古い古い歴史を有するお宮さん、菊池川流域を連想してください。金金賛(かなさ)大神このかたのことを意味しています。菊池川の水源、阿蘇外輪山ですね、そして菊池川の終点は目の前に雲仙嶽の見える場所、玉名市大浜です。その間における一番古いお宮さんというのは、来民地方に ある円天角地に十字剣の紋章の神社さんが、最も古い歴史をもったこの地区に鎮座しているお宮さんです。この紋章はどこから持ってきた紋章かというと地中海 から持ってきた紋章です。民族的にはヘブライ人です。ヘブライであっても、最も格式の高いイスラエル人です。イスラエル人の家来がユダヤ人です。ごっちゃ まぜになさるでしょう、イスラエルとユダヤ、全く違います、元々は。ともかく、一番格式の高いのはモーゼ、それを連想なさったら、それに縁のある人はイス ラエル人です、それが一番格式が高い。それに次のがユダヤ人です。ユダヤ12部族といいますね。いくつもの部族が存在した。それが、日本にごっそり着たというわけではありませんが、たくさんやってきております。ついでヘブライのことをもう少しお話しておきます。ヘブライ人が最初に日本に到達したのは5000年 昔とお考え下さい。これはヘブライ人と言ってましたが別の表現がございます。それはですね、皆様もご存知と思いますが、ついこないだまで、お祭りの夜店に 行かれましたら神農様の御札を置いていました。私は神農様の農場まで行ってきました。場所は天山山脈です。天山山脈のもうそこはパキスタンだよというとこ ろです。この方が、ある時期のヘブライの頭領として金金賛(かなさ)大神がおられます。ある時期という意味は、この方の場合新しいほうの渡来人であって、 アレキサンダー大王に追われて逃げてこられた、現在から2300何年か前を年表でご覧になってください、アレキサンダー大王のことが書いてあります。アレ キサンダー大王に追われて逃げてこられたかたの内に、また、この方々がでてきます。『氵嬴』、日本発音“えい”ですね、音は“いん”です。そして、これはからくりがありまして、これ《氵(さんずい)》を消しますと、秦の始皇帝の苗字『嬴』になります。ところでこの方は、中国に逃げてこられた時に秦の始皇帝と縁組をなさっています。天下の名門、秦の始皇帝以上の天下の名門、モーゼを思い出してください。ともかくモーゼというのは、紀元前においては天下のモーゼだったんです。あの始皇帝がモーゼの系統と縁組をやっているのです。そして自分の苗字である『嬴(いん)』を縁組をした彼等に与えているのです。そしてこの人たちは海を渡りましたから《氵(さんずい)》がついているのです。これ以上、『氵嬴イン』について述べますと時間がかかるので、ここでストップします。

相 良観音におまいりされた方はいらっしゃいますか?さっきの『氵嬴イン』の頭領の金山彦、ここでは金金賛(かなさ)大神、この人の本当のご職業は、九州王朝 第1期親衛隊長でした。最初の九州王朝はこのヘブライ人によって守られていました。どこに住んでいたかというと福岡市の隣の糸島市にソネ丘陵地がありま す。ともかく、昔も今も住むのには一等地です。いかなる洪水が押し寄せてもへっちゃらです。それからといって下に近いのですよ。まさに、殿様御殿。ここに 住んで居られたアマテラスオオミカミ及び神武天皇のお姉弟を守っておられた九州王朝親衛隊長だったんです。それがある程度の年齢になってから、嫁さんをも らって、どこで誰が生まれたかを申し上げます。この金金賛大神ですよ、この土地では金山彦になっています。紋章はこれ“円天角地に十字剣”ですよ。相良観 音、当時は相良観音はありませんよ。相良の土地でアイラツ姫をお生みになりました。そして今度はお后が変わりまして、おんなじ近くの、清浦圭吾が生まれた うちの近くに、これ“円天角地に十字剣”が残っていまして、ここではクシナダ姫をお生みになりました。この金金賛大神の下にアイラツ姫がのっています。右 下にクシナダ姫がのっています。現地をわざわざ訪問なされなくとも、地図をご覧になれば現在も稲田村が印刷されています。そして、稲田村のそばには、皆さ んも全く気づかなかったよととおっしゃる宮地嶽教団がございます。ご覧になったことがありますか?近くにありながら皆さん全くご存じない。宮地嶽というの は日本最大の秘密のお宮さんです。日本最高の格式のお宮さんでありながら、蓋をされたお宮さんです。九州全土をお回りになったら、あっちにこっちに宮地嶽 神社、宮地嶽神社ってのがあります。しかも、高いところにあります。それなのに秘密になっています。そういう独特の天皇をお祭りした神社です。天皇のお名 前で申しますと開化天皇です。この開化天皇が宮地嶽神社の本当の神様です。ところが福岡の宮地嶽神社は現在それを隠しております。それはどうしてそうなっ たかというと、神社庁自体が、神社庁の内部が喧嘩しているのです。神社庁の、そこに勤めている連中同士が喧嘩しあいまして、全く、意見が対立して合わない のですよ。要するに、ヘブライ人系の神主と中国人系の神主、全く話が合いませんよ。それで、今は、開化天皇を消す方向の勢力が強いのです。

以上、元菊池(川流域)地名研究会メンバー牛島稔太のHPより


お分かりいただけたでしょうか?

百嶋先生は、漢籍は文句なく読め、中国語も分かられたため、中国、朝鮮でのフィールド・ワークからこの嬴(えい)と瀛(えい)の問題に気付かれたのだと思います。

紀元前、西方から製鉄などハイテク技術を持ったヘブライ系氏族が中原に移動してきたのです。彼らはその支配者であった始皇帝の一族と通婚し、彼らの姓を名乗ることを許されたのだと考えられます。

その後、その嬴の姓を許された人々は列島に移動し、自ら区別するためか、嬴を憚ってか、それとも渡海したからか?三水偏を付し瀛」を姓としたのでしょう。

ツングース系の満州族の満州(マンチュリア)は、かつて、満洲と表記されていました。それは、彼らが漁労の民でもあったからとされています。なにやらそれに似た話ですが。

この「瀛」の文字(姓)を許された瀛氏の一族、金山彦、イザナミ(イザナギは新羅系の昔氏)の一族(百嶋先生が言う新ヘブライ)が列島に入って来ているのです。


ところが、市杵島姫(スセリ姫)はこのイン族ではありません。天御中主(白山姫)、白川伯王の流れを汲む中国大陸にいたヘブライ系白(ペイ)族の大幡主の子豊玉(ヤタガラス)の姉アカル姫の子なのです。

 ただ、氏の金山彦は白族の埴安姫と通婚し櫛稲田姫(クシナダヒメ)が生まれ、その櫛稲田姫はさらに白族の豊玉姫(ヤタガラス)と通婚し関係を深めますので、その姉のアカル姫の子である市杵島姫も瀛津嶋姫命との表記ができたのだと考えられます。

 一般には、宗像三女神は三姉妹などと楽しい話がされていますが、例えば豊玉姫(タゴリヒメ)は白族の豊玉彦と許氏の高木大神の系娘の豊秋ツ姫の間の政略結婚によって生まれており、年齢も5、6歳しか離れていないのですが、民族を越えた関係で姉妹などではないのです。

 日本は中国大陸と異なる島国である上に、なおかつ、襞の多い山に囲まれた地形であったことから互いの民族が干渉しあわずに共存できた平和な環境だったのです。

 政略結婚は戦国時代にも行われましたが、各々異なった民族の属性もなお残されていたように思います。


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スポット 042 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! ②

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スポット 042 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! ②

20160626

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 

トレッキングの当初の予定ポイントは以下の通りでした。

  原田八幡宮(朝倉市小隈560)田神様を確認すべし!素晴らしい絵馬を奉納したのもこの人々!

  松尾神社(甘木バイパス沿線) 佐田大神がいた佐田から流れる佐田川沿いに松尾神社が鎮座する!

  金毘羅宮(朝倉市甘木公園) 田神様を確認すべし!金毘羅宮も贈)崇神による乗っ取りか?

  高木神社(朝倉市佐田町)  朝倉市佐田村は大山咋神の転勤地、「瀛津比売」は母神にあたる。


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大己貴神社からも近い筑前町弥永の田神社(天神社)

今 回のトレッキングの責任者であるN氏の提案で②と③の間に探訪ポイントを追加し、朝倉市の卑弥呼ロマンの湯に近く街中の別天地とも言うべき、湧水池傍の田 神社を見た後、甘木公園の田神社を確認したのですが、次の提案を入れ、③と④の間に筑前町弥永の大己貴神社からも遠くない弥永の田神社(天神社)を訪問す る事にしたのです。しかし、そこにはとんでもない事実がある事が分かってきたのでした。

 

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地番不詳 カーナビ検索 筑前町弥永 地元の方に田神社とお尋ね下さい


 そもそも、出雲神話の大スターである大国主命を祀る神社が何故この筑前町に存在するのかについて、どなたか説明して頂けないかと以前から思っておりました。

 まさか、出雲大社からの勧請とか分社などとは一度も聞いたことがないことから、日向の一の宮が何故高千穂とか霧島にはならずに都濃神社であり、その主祭神が出雲の神様とされる大国主命であるのか?

 また、熊本市の西里周辺や薩摩は吹上浜に、かなり立派な大己貴神社が存在しているのかを統一的に説明して頂きたいと思い続けているのです。

 目を北に転じると、宗像大社の主祭神とは大国主命ではないのかという話が付き纏い、付近の遠賀川左岸の岡垣町手野にも大国主神社が鎮座している事に気付くのです。

 それ以上に驚愕すべき事実としては、春日市の商工会議所の敷地には、オオナムチの幼名であるオオナビコを祀る伯玄社が存在している事を考えて頂きたいのです。

 これについては、ひぼろき逍遥(跡宮)024 大国主は九州で生まれた “オオナビコ”(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社“をお読み下さい。

  ここまでくると、筑前町の大己貴神社が非常に気になってくるのですが、百嶋神社考古学の洗礼を受けた者は、大国主命が実際に活動したのは九州であるという 認識を持っており(現出雲の国は近畿大和朝廷が創ったテーマ・パーク)、そのポジションからも、この大己貴神社をクローズ・アップせざるを得なくなるので す。

 田神社が大己貴、大山祗の二神による擬神体であるという百嶋説に基づく調査ですから、大国主命が無視できないのです。

 理由は簡単で、百嶋神社考古学の立場からは、田神社=タノカンサー=大幡主+大山祗の第二世代が大国主命=大己貴だからです。


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 さて、大国主命の国譲りの話はどなたも良くご存知ですが、国を空け渡し高木大神(高皇産霊尊)から天日隅宮を建ててもらい、天穂日命に祀らせたとされています。

 百嶋神社考古学では、この天穂日命こそ田神様のお一人の大幡主(埴安命)の息子であるヤタガラスになりますので、それだけでも話が繋がってきますね。

「天穂日命」がヤタガラスであることについては、ひぼろき逍遥 175 「天穂日命(アメノホヒノミコト)とは」を併せてお読みください。

以前から、何故、筑前町と旧甘木市との境に縣社クラスの大己貴神社が置かれていたのかが分からずに奇妙に思ってきました。

普通なら、一定の領域の中心部若しくはその背後の高台といったところに置かれるはずなのですが、筑前町が朝倉市(旧甘木市)に突き出した先端のような場所に置かれているのです。

してみると、大国主命の転居先が、故地(古地)が見える隣町(隣国)に置かれたと考えればすんなりと理解できるのです。

では弥永の田神社の新旧の神社縁起をお読みください。

お読みになれば分かるように、まず、筑 前町大字弥永に日隅宮という字があった(元々そこに大国主命の社があったと考えられそうですが、それが、国譲りの元宮があったという名残を持つ地名なの か?それとも国譲り以前の宮があったという痕跡地名なのかは今のところ分かりません)事はまちあいないようです。

そうなると、やはり、甘木、朝倉の一帯が国譲りに関わる故地であったようです。

最低でも、この筑前町弥永の田神社からそう遠くない所に本当の出雲の日隅宮(大国主の国譲りに関わる重要な地名)とも考えられる重要な内容を積極的には触れたくないようです。

「出雲の国譲りの話が九州であるはずがない…」と言う通説になびくお役人の発想です。

普通なら、使えるものなら何でも利用して町興しと村興しと大はしゃぎで使いそうなのですが、「日本書記」、朝廷、天皇…に繋がるとなると、既存の権力に尾を振り自己規制してしまうのでしょう。

結局、九州王朝論の立場に立つものしかこの驚愕の事実を掘り下げる事はできないのです。


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出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。

大国主神は国譲り に応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述 べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)

高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)

所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)神魂命が「「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)

崇神天皇607月、 天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って 献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を 謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)

ウィキペディア (20160629 23:00)による


「八束水臣津野命の国引き給いし後に、天下(あめのした)造らしし大神の宮を奉らんとして、諸々の皇神(すめがみ)等、宮処(みやどころ)に参集(まいつど)ひて、杵築(きづき)給ひき。」

「出雲国風土記」 楯縫郡 郡名由来

「神魂命(かみむ すひのみこと)詔りたまひしく、「五十足(いた)る天日栖宮(あめのひすみのみや)の縦横の御量(みはかり)は、千尋(ちひろ)の栲紲(たくなは)持ち て、百八十(ももやそ)結びに結び下(た)れて、此の天(あめ)の御量(みはかり)持ちて、天下(あめのした)造らしし大神の宮を造り奉(まつ)れ」と詔 りたまいて・・・。」

記紀によれば、国譲りにより葦原中つ国を天孫に 奉還した大国主命が、退いて幽冥(かくりよ)主宰の神となるにあたり、大神の住まう宮殿を造るよう求め、天照大神が諸々の神に命じ造営させたとあります が、「出雲国風土記」によれば、八束水臣津野命の国引き事業の後に神魂命(かみむすひのみこと)の命により、天御鳥命(あめのみとりのみこと)が造営した とあります。

いずれにせよ、風土記でも日本書紀でも古事記でも、豪壮・荘厳な宮だと記しています。

・・・平安初期の天禄元年(970年)に源為憲の著わした「口遊(くちずさみ)」にも、「雲太、和二、京三」と詠われています。 

 「出雲太郎、大和二郎、京三郎」の略で、大きい建物の順を説明するものだそうです。

「雲太」が、出雲国杵築明神神殿(出雲大社)で、「和二」が大和国の東大寺大仏殿、「京三」とは京都の宮城内にある大極殿だとされています。

大社の宮前の町に入る宇迦橋の所に、日本一高い大鳥居があり、町を通り抜けた所にある祓橋(はらいのはし)を渡ると、鬱蒼とした松原の続く長い長い参道があります。参拝者は参道の端を歩かなくてはいけません。真中は神々の通り道だからです。

参道の終わりに手水処があり、胴囲が六尺ある青銅の鳥居をくぐると境内です。境内にはこの正門と、東西それぞれに三つの門があり、古来から「七口門」と呼ばれています。

正面にある拝殿にかかる「注連縄(しめなわ)」 は豪壮で、参拝者の目を奪い、「出雲大社といえば・・」と言われるシンボリックなものです。 出雲大社のシメ縄は、世の神社とは唯一正反対になっていま す。即ち、一般の神社では、綯始(ないはじめ)・・・[縄を綯う始め] を社殿に向かって右にし、綯終(ないおわり)を左にします。祭式としては、左右尊 卑本末論に合致しますが、出雲大社のそれは左右が逆なのです。その由来は、どこにも書き記されていませんので「謎」です。


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これから、日隅宮を探す作業に入らなければならないようです。

 勿論、もし、小字日隅宮が国譲り以前の宮の名称でもあるのならば、現在の大己貴神社が鎮座している場所も含めて再検討する必要があるでしょう。まずは小字日隅宮を探す作業から入りたいと思います。


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319 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ② “安芸太田町坂原の大歳神社”   

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319 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ② “安芸太田町坂原の大歳神社 

20160419

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


安芸太田といわず、概して広島県北部には大歳神社が多いのですが、高速を降りて二番目に足を運んだのが安芸太田町坂原の大歳神社でした。


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まず、祭神が何かですが、大歳ノ神、大歳神として皆さん納得されている様です。

 ただ、参拝殿の屋根の神紋を見ると三つ盛亀甲唐花が打たれており、これが祭神と無関係でなければ外の神も祀られているはずです。


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今のところ広島県までは「神社誌」を用意していませんので正確な祭神については確認できませんが、

一例として、大竹市の大歳神社が大歳神を主神とし副祭神に神大市姫、金山彦神、猿田彦神としていることから想像して頂きたいと思います。

 組合せは異なる可能性があるかも知れませんが、神大市姫(スサノウのお妃の罔象女神ミヅハノメ)、金山彦神(カグツチ)、猿田彦神(山幸彦=ニギハヤヒ)が絡んでいるはずです。

 この大歳神は私達百嶋神社考古学の者にはその正体が分かります。

 このことについてはこれまでにも多くの事を書いてきましたが(ひぼろぎ逍遥 033 阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? 支 那20数本)

簡略化した説明をすれば、阿蘇高森の草部吉見神社の主祭神(彦八井=ヒコハエミミ)であり、大歳神を含め、春日大神、武甕槌神、鹿島大神、海幸彦、支那ツ彦、天児屋根、天忍穂耳…と多くの名を持つ阿蘇系(雲南省麗江から海南島を経由して阿蘇に進出したビルマタイ系民族で列島民族のかなりの割合を占める阿蘇系重要氏族=多氏、宇治氏、阿蘇氏、品(科)氏…)。

 ここでは大歳神を奉祭する氏族(これは山幸系と融合し物部氏の中枢部分を形成する)がいた事を伝えているのです。


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  この集落(坂原)の背後には銅山という地名があり、神社の解説版に合祀を避けた経緯が書かれていますが、現在の合祀された大歳神社のある場所が梶原(鍛冶 屋が梶に置き換えられたものか)であることからこの一帯が製鉄、冶金に絡む氏族=物部氏と無関係とは言えない様に思うのです。

スポット043 富士山頂のUFO写真を公開します 

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スポット043 富士山頂のUFO写真を公開します 

20160708

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久



これは629日の夜10時頃にある女性(ヒーラー?霊能者?)から送られてきた画像です。

 撮影したのは別の女性(こちらもヒーラー?霊能者?)で、熊本から東京に出張する途中に富士山上空を飛んでいる途中に携帯電話で撮影した画像との事です。

 

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熊本発 羽田行 のJAL12時過ぎとの事でしたから、JAL628便で間違いないようです。

 前の席で左側の窓際に座っていたそうですから、最良の場所で撮影できたようです。

 当然、操縦席からも見えていたはずですが、UFOを見たと騒げば登場勤務から地上勤務に回されることから、当然ながら全員が口を噤み自主規制してしまうはずです。

 左の写真が先で、右の写真が後だそうです。4機のUFOと言っていましたが、確かに4つの光が映っています。


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当然、富士山上空のようですね


航空路線図を見ると確かに富士山の南側を通るようですね。

それにしても僅かなシャッター・チャンスを逃さず鮮明な画像を撮ることができるのはさすがです。

カメラの正確な撮影時刻などはいつでも分かるのですが、そこまでの必要もないでしょう。


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このような写真はテレビや本などでは良く見ますが、実際の撮影データが手に入るとは思いませんでした。


まさか、USAのようにメンイン・ブラックの黒づくめのブルース・ブラザースのような恰好をした国家権力の手先がくるとは思いませんが、個人的には昼間に有明海の上空を飛ぶ小さな光を二度ほど見たことがあるだけで、確実に見たと言う実感は未だに持っていません。

 ただ、奇妙な小さな光(ほとんど動かない)を見たことがあるだけです。

320 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ③ “安芸太田町梶原の大歳神社”  

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320 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ③ “安芸太田町梶原の大歳神社    

20160419

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


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大歳神社 カーナビ検索 広島県山県郡安芸太田町中筒賀

 

 前述したように、今のところ広島県(準備中)までは「神社誌」を用意していませんので正確な祭神については分かりません。

 筒賀神社とはされているものの、大歳神社である以上大歳神が祀られていることは分かりますが、他の神が祀られている事は、まず、間違いないでしょう。

 それは、神殿最上部などに打たれた神紋から推定できるのですが、それは、大歳神=草部吉見神が三つ盛り二重亀甲唐花紋を使用するとは考えられないからです。

 今回はテスト・ケースとして祭神が全く明示されていない状態からどれだけの推定が可能かと言う非常に乱暴な祭神探索の作業を行って見たいと思います。


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一般的に”亀甲紋は出雲大社がルーツ”などといった気楽な説がまかり通っていますが、とんでもない酷い間違いで、この神紋を使っていたのは博多の櫛田神社の主祭神である大幡主なのです。

 大山祇命の子である大国主命が大幡主の娘である瀛氏の市杵島姫(宗像三女神の瀛ツ島姫)をお妃とした(つまり瀛氏である大幡主への入婿)事を持って、その大幡主の配下となった事から大山祇命の子であるにも関わらず大国命と、という大幡の尊称が付されているのです。この点、百嶋由一郎氏は明確で、”その結果、大幡主の神紋である三つ盛り亀甲五七桐の亀甲紋が使用されている”と言われていました。

また、ネット上には、

 

祭神は「天真鶴命」と言われ、ここ旧筒賀村は「つるがの里」が転訛したもので在るといわれている。

 

HP巨樹、巨木巡礼による

が、拾えます。

 もし、これが本当であれば、この神社とのその背後に在る集落の性格が多少は見えて来るようです。

 「つるがの里」と「天真鶴命」

 筒賀=つるがの里とくれば、福井県敦賀の気比神宮の本来の祭神である、藤原により第10代とされた崇神天皇を奉祭する氏族が見えて来るのです。



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大雑把ですが、「天真鶴命」とは黄枠のツヌガノアラシトもしくはその子となる壱岐真根子か八坂入彦辺りになりそうですが、祭神の手掛かりとなった神紋に表現された大幡主系の中心人物は、忌部瀛(イン)氏を体現した大歳神のお妃となる宗像三女神のお一人となる市杵島姫=瀛ツ島姫になりそうです。

これで、ひぼろぎ逍遥 318 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ① “ここにも忌部瀛(イン)氏がいた!”忌部瀛(イン)氏との連結ができ、消えたミッシングリングの復元ができたことになりそうです。

この点に関しては、ひぼろぎ逍遥のバックナンバー287289を参照して下さい。


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また、この一帯には以前から九州王朝の一部であり、九州王朝滅亡後も最終的にその一族を支える事になる橘一族や紀氏を感じていました。

いつも参考にさせて頂いている紀氏の探索サイトのHP「紀氏の荘園・姓(国別 )」を見ると、案の定、山県郡にも紀氏が展開していました。

 

山県郡   

鎌倉時代の終わり頃(1331頃)大田川の上流、戸河内町に来栖という土豪がいてこの土居を中心に勢力を張った。郷内に各地に一族、庶家を分封して所領の確保をはかる、太田郷。

栗栖氏の先祖は京都の「栗栖野」(現在の山科区栗栖野)に住んでいたという説がある(栗栖氏の先祖は石清水八幡宮第32代神主の田中宗清の子となっている)「発坂城」は栗栖氏の総領家が代々本拠にしたといわれる。

この地方は古くから厳島神社の社領であり、栗栖氏は厳島神社の神主家である藤原氏の支配下の神領衆の一人とも言われている。

     ・1336 大内氏(石見国守護)が太田地方に攻め入った時、栗栖氏は抵抗はしたが、結局は大内氏の支配下に入る

     ・1394 大内義弘は大田郷「実祭寺」の寺領を安堵する

     ・1541 藤原氏系の厳島神主家が大内氏に滅ぼされることを契機に衰退

     ・1554 栗栖氏は毛利氏の侵攻を受けて没落したとみられる。

         その過程で実際寺も兵火にかかって焼け落ち、その後再建されたが、現在では無住となっている。

     ・1375-9-10 紀氏 栗栖帰源禅門 

               ・無為山「実際寺」(東福寺末葉)の開基

               ・雪舟(花押)画家の雪舟とは別人

         ・先祖:京都石清水八幡宮第32代田中宗清の子

               ・京都の「栗栖野」現在の山科区栗栖野に住む

 

「実際寺」臨済宗東福寺派臨済宗妙心寺派

      ・山号:無為山

      ・創建:1361 2代目来栖帰源 神領衆

      ・開基:僧侶 雪舟嘉猷(東福寺の住職を経験した高僧)

      ・1375-9-10 栗栖氏一族の喜多太郎(帰源)が出家して 菩提寺として創建

      ・自らの名主職を有する土地を実際寺領に寄進し実際寺はその名主職を有する僧侶に宛行っ  

       たもので、かれらは現地にはおらず、現地の百姓が村落の代表者として管理と年貢の収納に当たった。

      1375-9-15 雪舟嘉猷 実際寺で入寂

      ・檀那:栗栖氏

          1541 栗栖氏は藤原系厳島神主家が大内内に滅ぼされたことを契機に衰退した。

          1554 毛利氏の侵攻を受け没落

      ・住所:山形郡安芸太田町大字土居


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      実際寺の門        

   

    「発坂城」=「岩田城」跡地

       ・栗栖氏の堅城

       ・住所:山形郡安芸大田(戸河内)土居

 

 -荘園ー

    ①0000「太田庄」

       ・郡名:山県郡加計町

       ・領主:不詳

       ・史料村郷名:不詳

       ・明治村字:戸河内・上筒賀・中筒賀・下筒賀・上殿河内

             下殿河内・加計・津浪・坪野・穴・長笹・戸谷

        出典:不詳

 

敬愛するHP「紀氏の荘園・姓(国別)」より


321 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ④ “広島県旧加計町中心部の着天神社”

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321 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ④ “広島県旧加計町中心部の着天神社

20160420

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久



安芸太田に入って以来多くの神社を見てきましたが、今回、一つだけはっきり分かった事がありました。

 それは、大田川が注ぎ、中国自動車道の加計スマート・インターが在る旧加計町の加計(カケ)という地名の意味が解ったことでした。

 その話は後に廻すとして、今回はこの旧加計町の着天神社のお話です。


加計町はかつて広島県山県郡に存在した町である。 2004101日に山県郡戸河内町および筒賀村と合併し、山県郡安芸太田町に移行したことに伴い消滅した。

ウィキペディア20160420による


321-1


加計町の長尾神社を見せて頂いた後、足早に次の神社を見ようと移動していると、市街地の小丘にもう一社見るべき社があることに気付き探訪させて頂きました。

先ず、着天神社とは奇妙な社名です。

色々と考えて見ましたが、石碑に書かれている以外全く見当が尽きません。



321-2

天神社由緒 御祭神 小名彦那神 菅原道真公


天神社の創社年代は不詳であるが往古よりの公伝 によれば当地開拓のみぎり、小名彦那神に事業の成功を祈願したところ霊験もあらたかに思いのままに、成就したので神の恵みに感激していると森畑という森の 老杉の枝に天より御幣が降りかかったという。皆々不思議の思いをして畏み奉り天より神の御着きなりと、その杉の根元に壱宇の祠を建て、その森を着の森と呼 び祠を着森天神と称した。小名彦那神は大国主神と共に国土開発経営に当たられた神で諸業成就医業の神として崇敬されている。御神体は束帯姿の木像で森畑の 老杉で彫んだと伝える。なお天神社の現在地は、宝永四年(1707)森畑より遷宮奉斎した地である。後代学問の神、菅原道真公の天満宮崇拝の念が広く世に拡まったので、当社の名にちなんで、公の神霊を配布祀して着天満宮とも唱えるに至った。平成四年年十月吉日 着天神社 (境内石碑


321-3

先行ブログで書いたとおり、元々「広島県神社誌」さえも持たずに探訪に入ることが無謀なのですが、その点は追々と改善するとして、一般的には小名彦那神 菅原道真公が同列で鎮座するという組合せは珍しい上に奇妙です。

 普通は、少彦名命は大国主命とセットで祀られる事が多いと言うより大半ですが、単独で祀られるケースにも過去何件か遭遇しています。

 これだけでもこの神社を見せて頂いた価値があると言えますが、この場合、この神社を奉祭する人々が、市杵島姫命が大国主命を受け容れる以前の大幡主系(白族)氏族であった事が想定できます。

 つまり、加計の人々がヤタガラス(豊玉彦)、アカルヒメ系の氏族だったという想定です。

そこで、いつも参考にさせて頂いている紀氏の探索サイトのHP「紀氏の荘園・姓(国別 )」を見ると、案の定、山県郡にも紀氏(厳島神社の神主家である栗栖氏)が展開していました。


山県郡   

鎌倉時代の終わり頃(1331頃)大田川の上流、戸河内町に来栖という土豪がいてこの土居を中心に勢力を張った。郷内に各地に一族、庶家を分封して所領の確保をはかる、太田郷。

栗栖氏の先祖は京都の「栗栖野」(現在の山科区栗栖野)に住んでいたという説がある(栗栖氏の先祖は石清水八幡宮第32代神主の田中宗清の子となっている)「発坂城」は栗栖氏の総領家が代々本拠にしたといわれる。

この地方は古くから厳島神社の社領であり、栗栖氏厳島神社の神主家である藤原氏の支配下の神領衆の一人とも言われている。


  これで、この加計町の地名の意味が判明しました。広島県の厳島神社のルーツであり、明治まで天皇家の宮廷祭事を司っていた白川伯王家の中心地であり、本来 は宗像大社よりも社格が高いはずの厳島神社が鎮座する福岡県飯塚市の鹿毛(カケ)、鹿毛馬神籠石のある鹿毛馬こそが旧加計町の「加計」の起源であり地名の 意味だったのです。

 なお、福岡県飯塚市の鹿毛の厳島神社については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”外をお読みください。


321-4

厳島神社 カーナビ検索 福岡県飯塚市鹿毛馬1088


非常に重要な神社=飯塚市鹿毛馬の厳島 神社があります。あまり知られていませんが、百嶋由一郎神社考古学研究の立場からは、本来、厳島神社、また、宗像大社よりも社格は高かい極めて重要な神社 だったと考えられます。神社を取り巻く情勢は明治維新前後で激変します。その一つに白川伯王家という明治維新前後まで天皇家の宮廷祭事を取り行っていた神 祇氏族が廃された事があります。この氏族は秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ白族、瀛族であり、実は、通常は出雲族と説明される大国主命もこの博多の櫛田神社 の主神である大幡主、豊玉彦の臣下になるのです。その証拠に、この神社の宮司家は「白土」様ですが、元々は「白王」=「王」と名乗る事を許された唯一の重 要氏族だったのです。しかし、明治維新後の吉田神道の急膨張時に当時の神祇官から「白王」姓を廃され「白土」(痕跡として[]が 付されています)と名乗らされたのです。この一族こそ「瀛」(イン)氏であり、宗像三女神とされる市杵島姫も、本来は「瀛島姫」(いつき立て祀る)姫なの であり、厳島神社の「厳」も「瀛」島なのです。「白土」という地名や「白土」姓は、九州では飯塚市を中心に、全国レベルでは常陸の国茨城県、福島県に強い 分布を示していますが、元々は、「白王」であったと考えられます。

以下「ウィキペディア」(210151215/11h)

…白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「」を名乗られたことである。「王」の身位天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。延信王は、万寿2年(1025)に源姓を賜り臣籍降下して、寛徳3年(1046)に神祇伯に任ぜられた。なお、当時の呼称は「源」または「王」であり、その後の時代に、「白川家」や「伯家」「白川王家」と呼ばれるようになる。延信王以後、康資王顕康王顕広王と白川家の人物が神祇伯に補任されているが[2]、この時期はまだ神祇伯は世襲ではなく、王氏、源氏及び大中臣氏が補任されるものと認識されており、事実先の四名の間に大中臣氏が補任されている。…


この神社については「吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流先行ブログ」というブログがあり非常に参考になります。

正しく、「あらまほしきは先達なり…」ですが、引用させて頂きます。

当面、「広島県神社誌」を入手するまでこれ以上の事は書かない方が無難なようです。


広島の少彦名神を祭る着天神社 No136

2010-08-15 15:17:25 | 日記

広島で少彦名神を祀る神社は数少ないようでネット検索でもなかなか見つからない。
広島県山県郡安芸太田町加計に着天神社という神社がある。
ここの祭神は少彦名神となっている。
地図での目印は吉水園の西150mのところになる。
この加計の町は四方を山に囲まれているところだが着天神社は神奈備の山を見守るような社殿となっている。
この加計の町にはもうひとつ長尾神社もある。
こちらは元は須佐之男命を祀っていて今は厳島神となっている。
非常に二社共に立派な社だったので気になって調べたらこの加計には加計隅屋鉄山があり江戸初期には潤っていたようだ。
佐々木氏という豪族がこの地を開いたようだ。
この着天神ももともと別のところに祀っていたとあるが佐々木家の氏神として祀ったものだろう。
由緒によると1707年に現在の地に遷宮したとある。
想像だが着天神社の目の前に見える神奈備の山からも鉄が取れたものと思われる。
須佐之男命を祭る長尾神社はこの町が鉄の生産地だったからと想像できるがなぜこの場所に少彦名神が祀られているのかについてはなんらかの祟りを封印したのではないかという気がする。
少彦名神には祟り封じの霊験もある。
場所は以下国土地理院地図の+印の位置
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343642&l=1321913

20100819
追記
この加計の加計隅屋鉄山は「もののけ姫」のモデル地との話もあるそうだ。
「もののけ姫」といえば鉄山たたらの開拓で森林伐採し環境破壊したおかげで山ノ神が祟るという話だけど、知人からの指摘でこの加計の地では過去に何度も鉄砲水、土石流や太田川の氾濫での大被害が多発しているそうだ。
http://sakurao.exblog.jp/i10/
http://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/plan2/pdf/0203.pdf
http://www.ootagawa-fan.net/flood47.htm
こう考えると着天神社の勧請目的は自然破壊による土石流による被害とその後の伝染病等の防止と死者の祟りを防ぐべく祈願したものと言えよう。

20140826
追記
上記太田川の下流の広島市安佐南の八木で山津波発生八木蛇落地悪谷とかつては呼ばれていたところで武将の香川勝雄の蛇退治の伝承が残る。
八木は八岐のことであるから八岐大蛇のことになる。



321-5

この太田川の上流の広島市佐伯区湯来町和田に湯の山温泉がある。
ここに湯山明神社があるがこの祭神等については佐伯郡社寺録によるとが正徳5年(1715)の建立で
御祭神は、少彦名命、大国主命、闇神となっている。


321-6


322 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑤ “広島県旧加計町中心部の長尾神社”

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322 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑤ “広島県旧加計町中心部の長尾神社

20160420

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


 長尾神社と呼ばれる一群の神社群があります。


その一つが加計町にあるのですが、表面に現れたものをそのまま信じられないのが神様の世界です。


322-1


長尾神社 カーナビ検索 広島県山県郡安芸太田町加計3303


神社の廊下に掲げられた「長尾神社略記」によれば、明暦元(1655)年に焼失した神社の本殿を再建した際に地名を冠して長尾大明神と号したと書かれています。



322-2


読みづらいため画質を処理しています


 さて、気になるのは祭神です。

 これが一連の長尾神社と同種のものであるかどうかが気になるところです。

 長尾神社は近畿圏に多いのですが、主なものを一つずつ見て行きましょう。


 岡山県倉敷市玉島長尾2287    品陀和氣命 天御中主神 宇賀御魂命 大物主命 玉依姫命 吉備津彦命 菅原神 高オカミ神 大宮姫命 闇オカミ命 大山咋命 猿田彦命 事代主命 闇戸命 天押帯日子命 息長帶姫命 市岐嶋比賣命 大山津見命               八幡宮

 岡山県赤磐市長尾971       大國主命               鴨長尾神社

 奈良県葛城市長尾471       

天照大神豊受大神、住吉、熱田、諏訪、水光姫命白雲別命  「長尾神社は葛下郡全体の総社」

④ 奈良県奈良市阪原町1625饒速日尊(寺院神社大事典大和紀伊、奈良県の歴史散歩)神速日命(社頭掲示、平成データ)

⑤ 奈良県北葛城郡當麻町長尾    水光姫命、白雲別命

⑥ 川崎市多摩区長尾3-10-1     国常立命、大己貴命、大日孁命、天忍穂耳命


 これだけバラつきがあると全く判断が尽きません。

 ここでは、先達の説に従う事として、判断を保留します。


この加計の町にはもうひとつ長尾神社もある。
こちらは元は須佐之男命を祀っていて今は厳島神となっている。


blog吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流より


322-3

同社参拝殿天井の絵馬


ここでは、見て頂きたい素晴らしい絵馬がありましたのでご紹介します。


まず、このためだけに訪問されても良いのではないでしょうか?

概して、広島県北部から島根県南部の神社を周るとこれは寺ではないかと思うものに多数出くわします。

 神仏習合の時代の名残なのか? 特有の建築様式(春日様式)なのか? 行政(といっても藩政時代のですが)が関与した結果なのかまだ見当が尽きません。


322-4



いずれにせよ、旧加計町から安芸太田一帯は物部氏を思わせるものが多数感じられます。

その本体が何であるかを判断する根拠の一つに厳島神社の一族=白族=大幡主=ヤタガラスが関係している事だけは確かです。


鎌倉時代の終わり頃(1331頃)大田川の上流、戸河内町に来栖という土豪がいてこの土居を中心に勢力を張った。郷内に各地に一族、庶家を分封して所領の確保をはかる、太田郷。

栗栖氏の先祖は京都の「栗栖野」(現在の山科区栗栖野)に住んでいたという説がある(栗栖氏の先祖は石清水八幡宮第32代神主の田中宗清の子となっている)「発坂城」は栗栖氏の総領家が代々本拠にしたといわれる。

この地方は古くから厳島神社の社領であり、栗栖氏は厳島神社の神主家である藤原氏の支配下の神領衆の一人とも言われている。

HP「紀氏の荘園・姓(国別 )」より

323 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑥ “広島県三次市の住吉神社に五七桐神紋が!”

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323 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑥ “広島県三次市の住吉神社に五七桐神紋が!

20160420

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久



安芸太田の神社探訪についてはブログに書いたもの以外にも多くの神社を見せて頂いていますが、全てを書く訳にも行かず、読んで頂いて面白いと思われるものを選んで取上げています。

 安芸太田から次に向かったのも広島県北部の三次市でした。

 まず、住吉神社と言えば住吉の神であり海人族の神社として海岸部にあるものとの固定観念があります。

 それは当方も同様ですが、海人族は川を通路として内陸部の奥深く入り、木材を切り出し筏も組み、船も造ります。

 その行き来の中で交易も行われるはずで、海人族は決して海岸部だけで移動を繰り返している訳ではないのです。


323-1


まず、この三次市の三次と言う地名ですが、江の川と馬洗川が複雑に合流するこの地こそ三次市、三次であり、どう考えても、この地名はこの地形から付されたものという思いを消せません。

 三次の次(ヨシ)も葦原の葦(ヨシ)であり、三吉野のという掛け言葉も含め考えざるを得ないのです。

 それはともかくとして、この住吉神社をご覧ください。


323-2


こじんまりとした簡素な神社ですが、はっとした事がありました。

 それは、参拝殿、神殿上部に打たれた神紋でした。


323-4

そこには鮮やかな唐花紋が打たれていたのです。

  我々九州王朝を意識している者にとって、通常目にする所謂住吉の左三つ巴紋ではなく唐花紋は高良大社の通常使われている木瓜紋とも異なり、高良大社の奥深 く保たれている剣唐花紋に近い紋であり、この神社は住吉三神でも底筒男命を祀る神社である事が一目で分かったのでした。

 そして、縁起を読むとその通りの事が書かれていたのでした。


323-5


 多くの方は住吉の神を、底筒男、中筒男、表筒男の住吉三神として恰も兄弟神でもあるかのように理解されている方もおられるのではないでしょうか?

 しかし、百嶋神社考古学では各々別の個性を持った神であり底筒男命こそ最高神として理解しているのです。

 先ず、福岡市の中心部にある住吉神社は中筒男(その実体は藤原が第10代と格上げした崇神天皇)を、下関の住吉神社は表筒男(その実体は山幸彦=ニギハヤヒの子であるウガヤフキアエズ)、そして、最高神としての大阪の住吉神社の主神こそ底筒男(その実体は高良玉垂命=第9代開化天皇)なのです。

 このことを百嶋先生からお聴きしていたのですが、図らずもその事を裏付けるかのような神社に広島県の山奥で遭遇するとは思ってもみない事でした。

 まさしく、犬も歩けば棒に当たるの云いの通り、フィールド・ワークの重要さを再認識した瞬間でした。



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スポット045 糸島市の桜井神社とは如何なる神社なのか? ① “マドゥルガダの岩戸神事“

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スポット045 糸島市の桜井神社とは如何なる神社なのか? ① “マドゥルガダの岩戸神事“

20160628

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


桜井神社は十年ほど前に一度参拝したことがあるのですが、72日の早朝(4:00~)に岩戸神事が行われるからと誘われ、実質的には初見の神社と言える桜井に熊本から二十名ほどで訪問する事にしました。

従って、これは事前の下調べのための作業ノートという事になります。


sp44-1


桜井神社とは一体如何なる神社なのか良く分からなかったのですが、現在、神直日大直日と八十枉津日神、天神地祗…を祀る神社とされています。

まず、「福岡県神社誌」中7375pには、「加之肥前藩よりの(恐らく佐賀川上の淀姫神社~/古川)奉賽者非常に多く現今(昭和19年当時/古川)も佐賀縣方面よりの参詣尚多し」「今を距る事三百十有余年、後水尾天皇の御宇寛永六年工を起し同九年に竣工せしものにして是即現在櫻井神社の建物なり。神位一位社号を與土姫大明神と崇称せしも明治二年櫻井神社と改称せり」とあるように、元は佐賀県の淀姫神社(川上の淀姫、三瀬村無津呂の淀姫外肥前国外に十数社)が筆頭社として含まれていた事が分かります。

 ただ、現在の配神を見る限り、境内社、摂社、末社にも淀姫の片鱗もなく、今は、この系統の神々(淀姫=豊姫、川上猛)が消されている事が分かります。

 驚かれたでしょうが、百嶋神社考古学では淀姫(豊姫)は逆賊河上タケルの妹としますので(これが明治期の県社昇格に絡んで消された理由と考えられそうです)この兄妹の父親は表筒男命=ウガヤフキアエズであることから、住吉三神の一神(表筒男命)として僅かに痕跡を留めているようです。

 恐らく、この神社の基層には先行して 末社扱いとなっている須賀神社の信仰圏があり、その上に、境内神社扱いとなっている岩戸神社(大綿積神)が、次に、春日神社(健御雷之男神、天児屋根 命…)が、次に金毘羅神社が、最期に、黒田によって武内宿祢系統が被せられていったものと思われます。

勿論、誰もが祀られている事から完全に消された淀姫、河上猛系統は別として、多くの権力の交代によって、実際には誰が祀られているのかが見えなくなっているようです。

 ただ、昭和63年現在でも主祭神は神直日神、大直日神とされていることから、これが如何なる神であるかが分からなければ、最も重要である桜井神社の基本的な性格は見えないことになります。



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百嶋由一郎最終神代系譜

詳しくは「福岡県神社誌」を読まれるとして、この神社の性格を考える上では、黒田入府以後の武内 宿祢以下…は除外して良いでしょう。重要なのは明治二年までは筆頭社が淀姫神社と呼ばれていた事です。従って、江戸時代までは“大和朝廷に逆らったとされ る逆賊河上猛の妹で安曇磯良(表筒男命)の夫である淀姫”を祀る事も許されていたという大らかさが見えるのです。

 この安曇磯良の父はウガヤフキアエズであり、そのまた父が山幸彦(ニギハヤヒ)であることを考えると、明治以後、何故か山幸系が排除されている事が見て取れるのです。

sp45-3 淀姫の夫であった表筒男命の父であるウガヤフキアエズのお妃こそが同社の主祭神である「神直日」(実は鴨玉依姫)という事になるのです(淀姫の義理の母親)。

 ただ、鴨玉依姫は、後に草部吉見神と宗像の市杵島姫との間に産まれた大山咋(阿蘇国造=速甕玉命)松尾大神=日吉神社=日枝山王権現を大恋愛の後次の夫とします。

この大山咋神(出雲佐田大社の佐田大神)こそがもう一人の主祭神とされる「大直日」になるのです。

ここまで見てくると、海幸系と山幸系の対抗関係まで浮き上がってくるのですが、この事については糸島半島に関わる非常に面白い神事が絡んでいる事から、関心をお持ちの方は、ひぼろぎ逍遥 152ヒョウカリイライ “福岡市西区 西浦(ニシノウラ)の白木神社”の「馮河黎来」をお読み頂きたいと思います。

また、“淀姫(佐賀市大和町川上)が逆賊川上猛の妹などという話は初めて聞いた”という方は、長文になりますが久留米地名研究会のHPから31「淀姫」をお読み頂きたいと思います。


sp45-4


糸島半島では、今も幾つかの神社で、馮河黎来(ヒョウカリイライ)の掛け声のもと、山幸彦(ニギハヤヒ=伊都の長官 爾支/ニキ)側の氏子から、海幸彦(阿蘇草部吉見)側を非難する神事が続けられています。

 両者のお妃であった鴨玉依姫の神霊を争う「玉競り」ですが、この半島からの玄関のような地は、神代の実力者同士(海幸、山幸)の確執があった領域と考えられるのです。

 そのことからも、両者の勢力は拮抗しており、その均衡の上に表看板を淀姫神社として山幸側の顔を立て、実体としては海幸系に寄った大山咋、鴨玉依の二神としていたバランス感覚も読み取れるのですが、神社誌を読む限りは、どの段階で昭和63年当時の祭神が成立していたのかは不明です。

 ただ、淀姫神社を筆頭とし、西宮神社、久保神社、谷熊野神社、末松神社、木浦神社、熊野神社、天満宮の8社の合祀集合により縣社桜井神社が成立した事が分かります。

 県社設立のために8つの神社の神事、祭事が持ち込まれ、結果的には分からなくなっていますが、その何れかに天岩戸神事が続けられていたのだと考えられそうです。

 なお、百嶋神社考古学の神髄である講演録音声CD、手書きデータDVDが必要な方は09062983254まで。

324 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑦ “県境に金山彦を探る!三次市の三つの迦具神社”

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324 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑦ “県境に金山彦を探る!三次市の三つの迦具神社

20160422

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


三次市の中心部を離れ、川の流れに沿って江の川大蛇行を見せる広島県三次市作木町に向かいました。

 ここには、門田(モンデ)中、神田、宮河と三つの迦具神社があります。

 勿論、名社、大社といったものではありませんが、このような地味な神社を見て多くのファクターを抑える事が神社解析の重要な要素なのです。


324-1


324-2


神社庁データや「古事記」「日本書紀」を真に受ける方は別として、情報は限られていますので、最低でも地域、社名が一致している三つの神社から共通性を見出し、帰納演繹(ひらめき+まとめ)作業を行う以外に方法はないのです。ましてや、物部氏の領域には通説は無力です。


香淀(神田)の迦具神社 三次市作木町香淀字神田460


324-3

不思議ですが、「迦具神社」なる社名の神社は広島県のこの一帯に限定されています。秋葉社愛宕神社…火之迦具土神と同種の神社と考えていたことから、迦具神社という社名でもかなりの地域に分布していると考えていたのですが、どうもそうではないようです。

まさか、天香具山命=山幸彦=ニギハヤヒ=…とは考えにくいため、金山彦を祀るものと思っていますが、三社を見た限り、決定的な要素は見いだすことができませんでした。

付近の人家には三五桐の神紋や木瓜紋が確認でき、金山彦を奉祭する氏族と考えられそうです。

鶴丸紋も物部氏と考えられており、納得できる所です。


まだ、フィールド・ワークを加える必要があるようです。


 宮河の迦具神社 三次市作木町香淀字宮河(地番不詳)


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この迦具神社の祭神は「火之迦具鎚」こと金山彦で良いと考えていますので、今後もその方向で探索を継続します。

「古事記」で火之迦具土(ホノカグツチ)、「日本書紀」で軻遇突智(カグツチ)とされる金山彦です。


金山彦神(かなやまひこのかみ)は、日本神話に登場するである。『古事記』では金山毘古神、『日本書紀』では金山彦神と表記する。金山毘売神(かなやまびめのかみ、金山姫神)とともに鉱山の神として信仰されている。

神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。

神名の通り「金山」(かなやま、鉱山)を司る神で、嘔吐物から産まれたとしたのは、嘔吐物の外観からの連想によるものと考えられる。鉱山を司どり、また荒金を採る神とされ、鉱業鍛冶など、金属に関する技工を守護する神とされている。岐阜県垂井町南宮大社(金山彦神のみ)、南宮御旅神社(金山姫神のみ)、島根県安来市金屋子神社宮城県石巻市金華山黄金山神社を始め、全国の金山神社で祀られている。

ウィキペディア(20160422 12:00による


なお、宮河の迦具神社からそう遠くはない場所に後鳥羽院御陵なるものがあります。




324-5


史跡は複数あるようですが、ここではご紹介のみに留めます。

 
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スポット046 糸島市の桜井神社とは如何なる神社なのか? ② “アマネセールの岩戸神事“ 実見

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スポット046 糸島市の桜井神社とは如何なる神社なのか? ② “アマネセールの岩戸神事“ 実見

20160703

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


桜井神社は十年ほど前に一度参拝したことがあるのですが、72日の早朝(4:00~)に岩戸神事が行われるからと誘われ、実質的には初見の神社と言える桜井に熊本を中心に二十名ほどで訪問する事にしました。

これは土曜日の朝まだきから夜明けに掛けての実見リポートという事になります。

現地集合のため、熊本市を12時半に出発し午前3時には着いていましたので神事が始まるには、まだ、十分な余裕がありました。

下の写真は神事が終わった後の夜が明け始めた時間帯ですが、真っ暗な中で、既に百人近い人が集まっていたのです。

なぜか、若い女性の参拝客が非常に多く、ハイヒールにボディコン・スーツといういでたちの方から明らかに何らかの小教団といったグループも居られ面食らってしまいます。


sp46-1


正直申し上げて、桜井神社の天の岩戸神事とは一体何なのか全く分かりませんでした。

天照大神、豊受大神が一段と高い桜井大神宮に祀られている事から、天照もいれば、明治期に縣社昇格のために周辺の神社をまとめた8社 の中に熊野神社もあることから、天の岩戸隠れの現場とも考えたのですが(言うまでもなく宮崎、鹿児島の神話は明治期に島津により捏造されたインチキ神話で すからと百嶋先生も言われていましたので…)、百聞は一見に若かずの謂いのとおり、神事が始まり神殿内に入ると、直ぐに、岩戸神社とは大型の古墳の玄室で あることが分かりました。

縁起を含む多くの掲示板があったことから見落としていたのですが、神事が終わって正面駐車場に正面の掲示板を見ると古墳である事も書かれていました。



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古墳を開帳し一般人も含め参拝させると言う事は宮地嶽神社の巨大玄室でも行われている事であり違和感はないのですが、1610(江戸幕府成立十年後の不安定な時期)年に古墳の入口が開いたと言うのも奇妙な話で、実際には黒田が自らのルーツ探しでもしたのではないかとも考えてしまいます。

桜井神社の岩戸神事が始まると、宮司から氏子に至るまでが岩戸(古墳)の前に正座し、暫くすると、暗闇の中で犬吠えが始まり、動座、遷座の儀式(祀り)が行われ、御霊が移されたのではないかと思います。

そして、榊を奉納(千円以上)した方々が入れ替わり立ち代わり岩戸の中に入って行かれます。

私達二十名ほどもかなり早い方で、岩戸の中に入らせて頂きました。非常に天井の高いことから熊本県氷川町の大野窟古墳を思い出してしまいましたが、古墳、発掘考古学に関する知識はほとんどないに等しいことからこれは真に受けないで下さい。

ただ、元々は淀姫神社であり、その代表例である佐賀大和インターからも近い、佐賀市の淀姫神社=河上神社の祭神を「佐賀県神社誌」で見れば、興止日女神+大明神の二柱とされています。

これについては、百嶋最終神代系譜でも淀姫の兄である逆賊河上 猛(ヤマトオグナの熊襲退治の河上タケル)とされており、熊襲を思わせる古墳の在り様はあながち間違いでも無いように思えるのです。

話が重複しますが、「福岡県神社誌」でも「…加之肥前藩よりの奉賽者非常に多く現今も佐賀縣方面よりの参詣尚多し。…」とあり、もしかしたら、熊襲タケルの御霊、後裔の御霊が祀られていた可能性がないとは言えないように思います。

「熊襲タケルは殺された事になっていますが、実際には佐賀県神埼市広滝で許され、その一族は福岡市早良区西陣に移動されています…」云々と百嶋先生も話されており、ドキュメントも残されています。

神事が終わり、参拝殿の反対側小丘に鎮座する桜井大神宮に向かいました。


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桜井大神宮 祭神:天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)


桜井神社の祭神は主祭神の神直日、大直日と八十枉津日神ですが、境内には岩戸神社と桜井神社があり、末社扱いの数社とは別に摂社として桜井大神宮 祭神:天照大御神(内宮)豊受大神(外宮)があるとされています。

と、言うことは、この二つの宮こそ伊勢の内宮、外宮の元宮であると考えられそうです。

また、この北側には伊勢の二見より大きな二見があり、この白い大鳥居と結んだ線が、この大神宮に乗ると言う話もあるのですが、実際に線を結ぶとどうも線は乗らず、天ケ岳山頂に向けられているようです。

当然にも、有名な天の橋立の籠神社、大江山皇大神宮、伊勢内宮、下宮の元宮だからこそ、二見があるのです。


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以下に前回ブログの一部を再掲しています。


現在、神直日、大直日と八十枉津日神、天神地祗…を祀る神社とされています。

まず、「福岡県神社誌」中7375pには、「加之肥前藩よりの(恐らく佐賀川上の淀姫神社~/古川)奉賽者非常に多く現今(昭和19年当時/古川)も佐賀縣方面よりの参詣尚多し」「今を距る事三百十有余年、後水尾天皇の御宇寛永六年工を起し同九年に竣工せしものにして是即現在櫻井神社の建物なり。神位一位社号を與土姫大明神と崇称せしも明治二年櫻井神社と改称せり」とあるように、元は佐賀県の淀姫神社(川上の淀姫、三瀬村無津呂の淀姫外肥前国外に十数社)が筆頭社として含まれていた事が分かります。



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ここにも、三重県の伊勢と同様に猿田彦神社がありました。

草部吉見=海幸彦と別れた伊勢外宮様=辛国息長大姫大目命は猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒと生涯添い遂げます。このため、桜井神社の傍にひっそりと、分離して物部の中心である山幸が隠されているのです。


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ただ、現在の配神を見る限り、境内社、摂社、末社にも淀姫の片鱗もなく、今は、この系統の神々(淀姫=豊姫、川上猛)が消されている事が分かります。

 驚かれたでしょうが、百嶋神社考古学 では、淀姫(豊姫)は逆賊河上タケルの妹としますので(これが明治期の県社昇格に絡んで消された理由と考えられそうです)この兄妹の父親は表筒男命=ウガ ヤフキアエズであることから、住吉三神の一神(表筒男命)として僅かに痕跡を留めているようです。

 恐らく、この神社の基層には先行して 末社扱いとなっている須賀神社の信仰圏があり、その上に、境内神社扱いとなっている岩戸神社(大綿積神)が、次に、春日神社(健御雷之男神、天児屋根 命…)が、次に金毘羅神社が、最期に、黒田によって武内宿祢系統が被せられていったものと思われます。勿論、誰もが祀られている事から完全に消された淀 姫、河上猛系統は別として、多くの権力の交代によって、実際には誰が祀られているのかが見えなくなっているようです。

 ただ、昭和63年現在でも主祭神は神直日神大直日神とされていることから、これが如何なる神であるかが分からなければ、最も重要である桜井神社の基本的な性格は見えないことになります。


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百嶋由一郎最終神代系譜


詳しくは「福岡県神社誌」を読まれるとして、この神社の性格を考える上では、黒田入府以後の武内宿祢以下…は除外して良いでしょう。重要なのは明治二年までは筆頭社が淀姫神社と呼ばれていた事です。

従って、江戸時代までは“大和朝廷に逆らったとされる逆賊河上猛の妹で安曇磯良(表筒男命)の夫である淀姫”を祀る事も許されていたという大らかさが見えるのです。

 この安曇磯良の父はウガヤフキアエズであり、そのまた父が山幸彦(ニギハヤヒ)であることを考えると、明治以後、何故か山幸系が排除されている事が見て取れるのです。

 淀姫の夫であった表筒男命の父であるウガヤフキアエズのお妃こそが同社の主祭神である「神直日」(実は鴨玉依姫)という事になるのです(淀姫の義理の母親)。

 ただ、鴨玉依姫は、後に草部吉見神と宗像の市杵島姫との間に産まれた大山咋(阿蘇国造=速甕玉命)松尾大神=日吉神社=日枝山王権現を大恋愛の後次の夫とします。

この大山咋神(出雲佐田大社の佐田大神)こそがもう一人の主祭神とされる「大直日」になるのです。

ここまで見てくると、海幸系と山幸系の対抗関係まで浮き上がってくるのですが、この事については糸島半島に関わる非常に面白い神事が絡んでいる事から、関心をお持ちの方は、ひぼろぎ逍遥 152ヒョウカリイライ “福岡市西区 西浦(ニシノウラ)の白木神社”の「馮河黎来」をお読み頂きたいと思います。

また、“淀姫(佐賀市大和町川上)が逆賊川上猛の妹などという話は初めて聞いた”という方は、長文になりますが久留米地名研究会のHPから31「淀姫」をお読み頂きたいと思います。



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糸島半島では、今も幾つかの神社で、馮河黎来(ヒョウカリイライ)の掛け声のもと、山幸彦(ニギハヤヒ=伊都の長官 爾支/ニキ)側の氏子から、海幸彦(阿蘇草部吉見)側を非難する神事が続けられています。

 両者のお妃であった鴨玉依姫の神霊を争う「玉競り」ですが、この半島からの玄関のような地は、神代の実力者同士(海幸、山幸)の確執があった領域と考えられるのです。

 そのことからも、両者の勢力は拮抗しており、その均衡の上に表看板を淀姫神社として山幸側の顔を立て、実体としては海幸系に寄った大山咋、鴨玉依の二神としていたバランス感覚も読み取れるのですが、神社誌を読む限りは、どの段階で昭和63年当時の祭神が成立していたのかは不明です。ただ、淀姫神社を筆頭とし、西宮神社、久保神社、谷熊野神社、末松神社、木浦神社、熊野神社、天満宮の8社の合祀集合により縣社桜井神社が成立した事が分かります。県社設立のために8つの神社の神事、祭事が持ち込まれ、結果的には分からなくなっていますが、その何れかに天岩戸神事が続けられていたのだと考えられそうです。


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なお、百嶋神社考古学の神髄である講演録音声CD、手書きデータDVDが必要な方は09062983254まで

325 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑧ “三次市日下の鹿島神社”

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325 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑧ “三次市日下の鹿島神社


ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160422

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


 ひぼろぎ逍遥 324 “県境に金山彦を探る!三次市の三つの迦具神社でとりあげた3つの迦具神社に移動する途中、由緒ありそうな鹿島神社を発見したのでおもむろに車を停め参拝させて頂きました。


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江の川、JR三江線に沿いに国道375線を北下(こんな言葉はないのですが)していると、日下(ヒゲ)と呼ばれる地区の中心部に鹿島神社を見出したのです。

  この神社が阿蘇の草部吉見(後には「日下」と書いて日下部と…)神社の祭神のヒコヤイミミを祀るものであると言えば、神社からも神社庁筋からもお叱りを被 る事は明らかですが、「記」「紀」を真に受けることの無い百嶋由一郎神社考古学の立場からは、ここでもその事の一端を多少とも解読できるのです。

 その話に入る前に、まずは、社殿をご覧ください。



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 まず、武甕槌命(鹿島大明神)は塚原卜伝が信奉した鹿島大神そのものであることはどなたも異論はないでしょう。

 一つ飛ばして、奥津日子神、奥津日女神は、スサノオと櫛稲田姫との間に産まれた「瀛」(イン)氏の長脛彦(ナガスネヒコ)と義理の娘となる奥津姫(鴨玉依姫=ヤタガラスの娘)の場合もあるのですが、天忍穂耳(実は阿蘇の草部吉見神=海幸彦)と宗像の市杵島姫との間に産まれた大山咋(オオヤマクイ)命と鴨玉依姫=ヤタガラスの娘である可能性もあるため現段階では判別できません。

 牛頭天皇=スサノウは良いとしてこの神社の場合、天水分神は阿蘇草部吉見神のお妃であった辛国息長大姫大目命=豊受大神=伏見稲荷=支那ツ姫=天大目(アメノウヅメ)で良いでしょう(多分、豊受大神が山幸彦のお妃となられた時点で境内摂社に移されている)。

 問題は、天穂姫命事代主命(春日神社)の解析です。

 私達、百嶋由一郎神社考古学の立場からは、通常、春日大社は藤原氏の一族を守るための軍神を求めて常陸の鹿島大社から鹿島大神=武甕槌命を勧請したとして説明をしていますが、実はその奥があり、本当の春日大社の祭神とはスサノヲと神大市姫(罔象女神)との間に産まれた辛国息長大姫大目命=豊受大神=伏見稲荷=支那ツ姫であり、さらに言えば、本当の奥の奥は母神である罔象女神を祀っているのですが(このことも春日大社はご存知のはずです)、表面的には武甕槌命(鹿島大明神)を祀っている事にされているのです。

 特にこの鹿島神社の場合、戦国期に威勢の良い軍神が勧請されていることから、前提として、女系の春日神社、つまり、辛国息長大姫大目命と罔象女神を祀る神社があったはずなのですが、それが物部氏とのの関係から隠され、大国主に国譲りを強いた天穂姫命(本当はヤタガラス)、事代主(国譲りに賛成した大国主の長男=帰順派)という奇妙な組合せの祭神に入れ替えられているようなのです。

 この点は、通説派による配神の解読も困難ではないでしょうか?

 縁起には武甕槌命の大国主命への国譲り交渉の話が書かれていますが、仮に出雲に侵攻するとなると三次を起点に江の川を下り出雲の手前に橋頭保を確保するのが一番合理的なルートであり、その事を意識した縁起になっているようです。

 ところが、百嶋由一郎由一郎氏は出雲神話の舞台は九州であり出雲ではないとします。

古事記神話は捏造、偽装の書なのです。

 しかし、興味深い一社でした。ただ、この祭神の解析になると対岸の粟屋駅付近の鹿島神社などと併せ判断するしかなく次回以降に廻さざるを得ません。

 いずれにせよ、この鹿島大神は九州の出身者=阿蘇草部吉見であるという事に関しては過去何度も書いてきていますので、今回は敢えて触れません。以下の ひぼろぎ逍遥 033042外をお読みください。


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さて、この鹿島神社が鎮座している地名「日下」(ヒゲ)について考えましょう。

 「日下」これは通常「クサカ」と読まれますが、漢字の読みだけからは普通「クサカ」とは読めません。

 しかし、多分、政治的な配慮から「クサカ」と読むことにしたのです。


『日本書紀』で「草香」という字を書いたのを、『古事記』ではその字を使わないで「日下」と書いて「くさか」と読ませたことに、これまで何人もの学者が思いをめぐらせてまいりました。・・・・・ たとえば「飛ぶ鳥」と書きまして、「飛鳥」を「あすか」と読ませることはご存知だと思います。それからまた「春の日」と書いて「かすが」と読ませる。これ は、「飛ぶ鳥の」というのは「あすか」の枕詞であったことから、「飛ぶ鳥」と書いて「あすか」と読ませるようになった。これらと同様に、「くさか」の枕詞 が「日の下」であったと推測できるのではないかと思われます。読み方は、「日の下の草香」は「ひのもとのくさか」が正しい読み方です。・・・・・「日の下 (ヒノモト)」という言葉は非常に古くからあり、「日の下の草香」という地名が存在した。そして「草香」を「日下」と書いて「くさか」と読ませるように なった。「日の下(ヒノモ上)という言葉は、物部氏の主力が畿内へ移動した二世紀頃からそろそろ始まったのではないかと思うわけです。

「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」谷川健一より


この点に関して、「百嶋由一郎神社考古学」の立場から考えれば、多少の解決の糸口を持っています。

百嶋先生は、“阿蘇高森の草部吉見神社の「草部」は「草部」(クサカベ)クサガベと読むのではなく伽耶部(カヤベ)カヤガベ、カヤカベと読まなければ祭神の意味が理解できない。”といった趣旨の事を話しておられました(先生が話されていたのはあくまでここまでですが…)。

つまり、阿蘇のヒコヤイミミの御先祖は、雲南省麗江から海南島を経由し熊本県の天草下島の苓北町を起点に阿蘇まで進出し、半島から高千穂(三田井)から島原(南北両高来郡)から北部から伽耶の支配者であった高木大神=高御産巣日神の次女をお妃として、高木大神の傘下に入った事を持って伽耶部の吉見=草部吉見と言われたとされているのです。

後に、恐らく藤原が権力 を握った段階で、この辺りの事情が政治的にまずいと判断した結果(何故ならば、藤原氏はこの阿蘇の草部吉見の流れから端を発して権力に登りつめたからなの です)、草部を伽耶ではなく日ノ本(日の下)の、つまり、掌握した日本国に従う意味で、草部を日下部(クサカベ)日下(クサカ)としたのです。

これを、国語学者、漢字学者、国史学者が寄って集ってトンチンカンな解読をしてこられたのですが、百嶋由一郎先生には既にここまでお見通しだったように思います。

逆に言えば、武甕槌命(鹿島大明神)を日下(ヒゲ)の集落の方が祀られている事が、武甕槌命が草部吉見神である事を裏付けているのです。

藤原は自らの家伝として草部吉見神が自らの祖先である事を知っており、「常陸国風土記」にも見られる軍神=建借馬命(ケカシマノミコト)を知っており、敵対勢力の橘氏に春日大社を建立させ、その強さを見せつけるかのように軍神=武甕槌命を勧請したのです。

 なお、市杵島姫と考えられる天水分神が神殿外に祀られている事も、市杵島姫が草部吉見=武甕槌命のお妃であった後に、大国主命のお妃にもなっておられる事から、多分、天穂姫命との関係上、同じ神殿から外されたものと判断できそうです。

 また、恐らく宮司家と思われる方の家紋が四ツ目であることを考える時、この家紋を使う一族が長崎県島原半島(南高来郡)の四面神社に関係する一族であり、高木(高来)大神であるため(島原半島は旧南高来郡ですね…)、草部吉見の初期のお妃が高木大神の次女の栲幡千千姫の系統である可能性を考えざるを得ないのです。



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326 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑨ “三次市布野の奥津神社”

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326 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑨ “三次市布野の奥津神社

20160422

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


 話が前後しますが、この神社も三次市作木の迦具神社や同じく日下の鹿島神社の探訪に行く前に脇道に入り見せて頂いた一社ですが、広島県神社誌にも目を通さずにどこまでの解析ができるか乱暴な探訪記となります。ネット上にも何の情報も出てきません。

しかし、この神社を見たいと言う気持ちは押さえられませんでした。

 勿論、このクラスの集落規模の神社となると、例え訪問しても神社縁起や神名どころか社名さえも確認

できないだろう事は想像に難くなく、ここでは社名だけを手掛かりに解読せざるを得ないのです。

 ともあれ神社は探し当てました。というよりも日本昔話に登場するかのようなのどかな田園に浮かぶかのような神社が待っていたのでした。


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社殿は簡素ですが、本来、一つ集落の鎮守様とはこのようなものなのです


さて、祭神ですが、金山彦、奥津彦、奥津姫で良いと思います。

この三次地方は古墳の集積地であり、同時に産鉄地帯でもあります。

そこに奥津(実は「奥津」は「瀛」の置き換え、安芸の宮島風に表現すれば厳島神社の「厳」の置き換え文字)であり、瀛氏=忌部=卜部=陰陽師でもあるのです(恐らく因島も同様)。

恐らく、金山彦を奉祭する製鉄集団の帰農集落が布野の戸河内と考えられます。

中国自動車道にも戸河内ICがありますが、あの一帯も瀛氏の拠点ですね。



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下は境内地より参道方面を望んだのどかな田園風景(百嶋由一郎手書きメモ)


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今回は祭神に関してコメントは加えません。百嶋由一郎氏の65年の神社調査に基づく神代系譜の一部で十分すぎるほどの解読が可能になるはずです。

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