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284 北北東に進路を取れ! ④ 石川県鶴来町の白山比咩神社

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 284 北北東に進路を取れ! ④ 石川県鶴来町の白山比咩神社

20151220

久留米地名研究会 古川 清久

 

今回は足早の長距離調査旅行ですので18日午後4時には京都府舞鶴市を出発し、福井県、石川県を抜け、20日夜には富山の東の端にまで到達していました。

さらに、明日中には新潟を抜け、できれば山形まで進むつもりでいます。

この間、既に二十数社の神社を見ていますが、元より全てを書くことなど到底できませんが、順番を飛ばして書きたいものから順次リポートを書いて行く事にしたいと思います。

まずは、本日、訪問した神社をご紹介することにします。


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白山本宮 加賀一ノ宮 白山比咩神社 カーナビ検索 石川県白山市三宮町ニ105-1 TEL 076-272-0680

 

今回の「北北東に進路を取れ!」神社トレッキングにおいては、京都府舞鶴市内の主な神社を訪問し、舞鶴市内の知人宅で一泊し(といっても車中泊です)、翌日、夕方から東に向かったのですが、その後も敦賀市内と福井市内の二か所の某温泉センターで車中泊となったのでした。

筑前市、鯖江市、福井市など早朝から数社を巡り、上天気の中、早くも石川県に入りました。

石川県(加賀)と言えば、直ぐに頭に浮かぶのは白山比咩神社です。

加賀一の宮を素通りも勿体ない上に申し訳も立たないため、急遽、軌道を修正し白山比咩神社に向かいました。

石川県に入った辺りから南には雪山が見えるようになってきます。天気も良い事からより一層映え、白山姫とは良く言ったものだと再認識したところです。



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白山信仰圏は広く東北地方まで広がっていますが、この神様=白山比咩が一体誰なのかあまりお分かりになっていないようです。

当然のことながら白山比咩こそが主神なのでしょうが、由緒書を見ても一向に要領を得ません。

しかし、私の住む佐賀県でさえも白坊様(シロンボサン)などと呼ばれ、山岳修験と繋がった小規模な信仰圏がある事を知っています。

多くの神社のリポートを書く必要がある事から結論を急ぎましょう。

これについても百嶋先生のお話は明瞭でした。

実は、天御中主命その人なのです。

通説では、中性神扱いになっていますが、ウマシアシカビヒコヂという御主人を持つ女性の神様であり、久留米で言えば、水天宮の女神様でもあるのです。

今回も白山比咩神社にそのウマシアシカビヒコヂの痕跡を探して見たのですが、亀甲の神紋により大幡主の領域に祀られている事以外探り出すことはできませんでした。

なお、御主人のウマシアシカビヒコヂ神は、今年、話題になった出雲大社の最上階=客人の間に鎮座して居られる事をお知らせしておきます。

出雲大社も亀甲紋章でしたね。出雲も同族の博多の櫛田神社の大幡主の領域だからなのです。


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285 北北東に進路を取れ! ⑤ 石川県七尾市のクマカブトアラカシヒコ神社

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 285 北北東に進路を取れ! ⑤ 石川県七尾市のクマカブトアラカシヒコ神社

20151222

久留米地名研究会 古川 清久

 

 石川県と言えば、能登半島の和倉温泉からもそれほど遠くないところに鎮座する久麻加夫都阿良加志比古神社が頭に浮かんできます。

 能登に入ったのは三十年も前の話ですから、当然にも初見の神社となります。

 今回の「北北東に進路を取れ!」神社トレッキングにおいても、往路復路のどちらかで見ようと考えていました。

 新潟県の弥彦神社を見せて頂き、秋田県は男鹿半島の真山神社(赤神社)まで足を伸ばそうとまでは考えては見たのですが、夜間のそれも雨の中でさらに350キロの大遠征になることから気力を失い、引返すことにしました。

 カーナビの不調(ホンダのディーラー2店舗でもどうにもならなかったものを、何とか自力でリセットし、回復させましたが…)、パソコンの不調、インターネット・ワイファイの不調もあり、気分が萎えてしまったことが、山形を前に撤退して来た理由です。

 再び、糸魚川静岡構造線を越え、越中富山まで戻る頃には天気も回復し、越前から丹波、丹後辺りの調査への気力も蘇ってきました。


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ひととおり見学させて頂いたあとには陽が指してきました

 

「クマカブト」の意味については、「クマ」は隈=→熊であり熊本県の熊を意味しており、「カブト」も甲を意味しており、熊本市の南の甲佐神社の「甲」なのです。

ここの祭神は「速瓶玉命」と不当に貶められていますが、阿蘇国造神社の主神であり、本来は、阿蘇神社の主神とされる健磐龍命よりもよほど格式の高い神様なのです。

阿蘇の神様が何故…とお考えになられる向きもあるでしょうが、有明海=天草沖から船出すれば、一気に朝鮮半島南岸に到達できるのであり、半島から船出すれば、敦賀、能登に容易に移動できたのです。

ついでに言わせて頂ければ、アラカジ(シ)ヒコは朝鮮半島のアラ伽耶の舵取り=船乗りの意味なのです。

古代に於いて、半島と列島とは一衣帯水であり、オオヤマクイ、ハツクニシラススメラミコト、シイネツヒコと三代続けて舵取り=船長だったことになるのです。 


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百嶋由一郎最終神代系譜からの切り出し

 

この神社の祭神に関しては、これまでにも「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)「阿蘇国造神社と甲佐神社の祭神」 ①~③ に於いて繰り返し書いていますので、改めて書くことはしませんが、

宗像大社の市杵島姫と阿蘇高森の草部吉見神(ヒコヤイミミ)との間に産まれたのが、久麻加夫都阿良加志比古=大山クイ=日吉神社=松尾大神=佐田大神(猿田彦では断じてない)=山王宮=日枝神社…であり、そのお子さんが、さらに同社の高い所に鎮座している摂社加茂神社(恐らく上賀茂神社の主祭神である贈崇神天皇=ツヌガノアラシト)なのです。

神殿の千木は平切りされていて女性神を意味していますが、これは同格の大山クイ神の母神である市杵島姫かお妃の鴨玉依姫を意味している可能性も考えられそうです。

この神社が成立した当時は、まだまだ、お妃方の家系の方が圧倒的な権威を持っていたことが垣間見えた思いがしています。

残念な事に神紋が確認できません。

ともあれ、同社を自分の目で確認できほっとしています。

アリバイ的にも見ておく必要があったことから、三十年ぶりの能登への旅は意義深いものでした。

今年は、暖冬でもあり、北風も弱く、能登半島により北風が遮られた七尾湾は静かな海でした。

そのかわり、氷見(ヒミ)には一向に寒ブリが上がらないそうですが…。

藤原により第10代と偽装された贈)崇神ツヌガノアラシトの敦賀湾と言い、湧浦=和倉の海と言い、古代に於ける彼らにとっても天然の良港だったのです。

さて、氷見も能登も海士族が付けた二音地名です。経験的に海士族が付した地名には二音地名と、後ろに「見」(美、海、水…)を付けた地名、後ろに「間」(馬、真…)を付した地名があると理解しています。

この、「氷見」は二つの要素が重なっており、典型的な海士族が持ち込んだものと言えるでしょう。

「氷見」は、二見、宇佐美、熱海、渥美、安曇、久美、富海、遠見、速水、伊美、宇美、江見、花見…と多くの類型海岸地名の一つです。

 詳しくは、ひぼろぎ逍遥 045「花見潟墓地」の衝撃 でも書いていますので、そちをご覧ください。


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286 北北東に進路を取れ! ⑥ 新潟県彌彦村の彌彦神社

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286 北北東に進路を取れ! ⑥ 新潟県彌彦村の彌彦神社

20151229

久留米地名研究会 古川 清久


神社研究者にとって越後(新潟)の神社と言えば、彌彦神社が頭に浮かびます。

 ただ、直江津より北に行ったことの無い者にとっては当然ながら初見の神社になります。そのような新参者がこのような大それた話をするのはお気に召さない方がおられる事は重々承知していますが、ここでは同社をご紹介すると同時に、百嶋神社考古学の立場から彌彦神社をどのようなものと理解していたかをお知らせするということでご了解頂きたいと思います。


彌彦神社(いやひこじんじゃ、常用漢字体:弥彦神社)は、新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にある神社式内社名神大社)、越後国一宮旧社格国幣中社で、現在は神社本庁別表神社

正式には「いやひこ」だが、地名などが全て「やひこ」と読む関係で、一般には「やひこ」とも呼ばれる。

ウィキペディア(20151229 2000による

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まずは、敬愛する「玄松子」氏のHPから見て頂きましょう。


天香山命
あめのかぐやまのみこと
別名
天香語山命/天香吾山命:あめのかごやまのみこと
手栗彦命:たくりひこのみこと
高倉下:たかくらじ……

天忍穂耳尊の御子である天火明命の御子神。母は天道日女命。尾張連等の遠祖。
『先代旧事本紀』では
饒速日命の子となっており、天火明命=饒速日命とする。饒速日命に従って大八洲国に降り、紀伊国熊野邑に坐した。后神は熟穗屋姫命。…

HP「玄松子」による


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しかし、天香山命(伊矢日子大神)とは如何なる神様なのでしょうか?

ようやく百嶋先生のお話をお聴きしなくても多少は見当が付くような気がしてきました。

ここで彌彦神社社務所発行の縁起書「おやひこさま」の一部をお読み頂きましょう。


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丸分かりとまでは言わないものの、天香山命が山幸彦であることを暗示していますね。

まず、伊、井、今、射…何々と表記される神は 山幸彦=ニギハヤヒ=五十猛…と考えて見る価値があります。また、当地名研究会グループの主筆 福永晋三氏(「真実の仁徳天皇」不知火書房刊、『九州王朝の論理―「日出ずる処の天子」の地』古田武彦/福永晋三/古賀達也)による天香具山(金も採れる銀も採れる採銅所…)とは豊前の香春町香春岳のことであり、決してなにも採れない奈良の辺鄙な小丘の事ではないのです。その香春岳の香春神社の主祭神こそ、山幸彦=ニギハヤヒのお妃である辛国息長大姫大目命=伊勢外宮の豊受大神(ちゃんと豊と書かれていますね…)であり、天香山命とは香春岳の支配者であり、豊受大神の夫である事を擬えた神名なのです。

百嶋先生の音声データとその口述記録を見て頂きましょう。


「山幸彦の別名はおおやひこ、弥五郎どん、北陸の弥彦神社もみんな山幸彦である。」

久留米地名研究会百嶋由一郎先生講演 201125


神社伝承から見る古代史百嶋由一郎先生の世界--- もう一つの神々の系譜 ---牛島稔太のHPより


百嶋先生は明快でした。

 気になるのは多くの摂社、末社の神々です。乙子神社の建諸隈命を始めとして、「天」「建」の名が付された神々(大水口、大矢口…など)のオンパレードです。海人族、物部氏の神々ばかりと思いますが、妃神の熟穂屋姫命と併せ保留しておきます。

 弥彦村は新潟市の少し南にあります。山形を通過し秋田は男鹿半島の真山神社まで足を伸ばそうと思ったのですが、さらに350キロ近く走ることにもなり、記憶が鮮明なうちにリポートを書きたいとの気持ちが高まって来たせいか、徐々に制動へと心が動き始めていました。

というよりも、フィールド・ワークとは小さな変化を受け止め地域との関連を理解しながら進める必要があるからで、この点と点を結ぶ調査の危うさを強く意識始めたからです。

 今回は、直江津より北に進出したことだけで十分満足しました。

 近いうちにもドライバーを二人用意し、単座ではなく複座の長距離調査に訪れたいと思っています。


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232日本型姥捨ての薦め

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232日本型姥捨ての薦め

2007021620150812再編集)

久留米地名研究会 古川 清久


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はじめに

そもそも、昔は長生きできる人は稀で、現在のように九十代の老人がぞろぞろいるなどという事はなかったのですが、どの時代にもそれなりの老衰の問題はあったでしょう。
ただ、あえて矛盾する表現が許されれば、巷間、謂われるところの「高齢者福祉」「老人問題」などは存在しませんでした。
それは、高齢の概念をそれなりの時代のものに修正したとしても、かつて、これ程までに大量の高齢者の一群が明確な形で形成された事がなかったからです。
少子化、無産化(確かに貧乏にもなっていますが、ここでは少産化の延長の意味です)、高齢者医療の拡充による絶対量の増大が同時に進んだために、私達の社会の人口構成に劇的な変化が生じたためと言えるでしょう。
も ちろん、近世以前においてもそれなりの高齢者はいたはずですが、飢饉や災害などにより一村がそのまま壊滅するというような事はあっても、群としての高齢者 それ自体が顕在化した事は聞きません。例えば徳川封建体制下においても、旧知的障害者、身体障害者などを含めて、養育、介護の問題は最終的に「村役人」 「町役」を通じて、村落共同体や町衆で解決する事が義務付けられていました。もちろん、何をもって“老人”と考えるかもその時代が決定してきた事だったで しょう。
一般的に、老人が異常に多い社会というものは旧厚生省による過剰なキャンペーン(「空気」作り)を割り引いたとしても、急速に、そして、特殊に物質的「豊かさ」を手にした(実は伝統的家族を解体した事をもって成立した)社会、特有の問題であるとも考えられます。
これに似た問題としては、地域振興、産業振興、企業誘致、それに、いいかげん聞き飽きた「町興し」、「村興 し」などの立場から、いわゆる「過疎」が地域社会全体の問題として語られるのですが(旧通産省、自治省・・・)、どのように考えてみても、現在のような少 子化の時代に大量の青壮年が山間僻地に戻って来るとは考えられません。
  地域のコミュニティーを考える上で最も重要な問題は、決して人口そのものを増やす事ではないでしょう。むしろ、その人口構成(子供から老人までの)を安定 させ、増加はできないまでもその地域社会が存立し得る程度の次世代を維持し、その基礎になる人口構成(年齢バランス)を維持する事であり、その点にこそ重 点を移すべきなのです。
明治以降の人口の漸増と大正末期から昭和にかけての「産めよ増やせよ」運動(旧内務省=厚生部局)によっ て、現場の農村では農業が極限まで集約化され、山間僻地までも異常なまでに多くの人口を抱え込みました(当時子供の数は、労働力の意味もあったのですが、 六人以上があたりまえでした)。
  現在、地場の土建屋や議員(最近は同じですが)などが主張する「多いのがあたりまえ」ではなく、その時代の人口がもともと「過密」だったのであり、発想を 変えて見れば、「過疎」は「適粗」(てきそ=一部の社会学者が使う用語で、単に視点を変えるだけの意味しかないものですが)であり、重要なのは地域社会を 維持できる程度の人口構成(子供や老人の比率)の維持なのです。
た だし、社会の歴史的発展の中で長期的にもそれが可能なのかは、なお、不鮮明であり、架空の話とも言えるのですが、企業社会が今後も続くとした場合、企業そ れ自体に行政が持つ権能を分離分割して付与していく(ちょうど幕藩体制化の村役人に与えたように)ことも選択肢の一つになるのかもしれません。
こ の場合は、社会の仕組みをかなりいじる必要がありますが、企業の移転(改封にも似て)、合併、工場の再配置などによって一族郎党(老人、子供)がそのまま 移動する事も考えられるのです(これは大企業による独占や寡占が進んだ場合、または社会主義のもとでは可能になるかも知れないと言った程度の話であり、当 面は問題にならないでしょうが)。

 

厚生年金幻想


戦時下に成立した「厚生年金」の仕組みは、実際には戦費調達のために国家が導入した空手形のようなものでし た。起動時点の話では、“厚生年金に加入した人間は安心して老後を迎える事ができる”とされていたのであり、政府もそのように宣伝していたのです。そし て、今や、それは、ほぼ、全く見込みがないものである事が明らかになってしまいました。
  元々、十分な老後の資金があるのであれば、資本主義社会では全てが商品に変えられていく社会である訳ですから(マルクス『資本論』)、医療はもとより、介 護さえも商品として全て購入できる事になるはずです。このため、金さえ潤沢にあれば、つまり、金持ち連中には“老人介護”などの問題は一切存在しないのです。
たとえ、主義主張はどうであれ、現実の日本は階級社会なのであり、「超大金持ち」、「大金持ち」に老人介護の問題が存在しないのは自明です(彼らには三交替制の美人看護婦を専属で雇うことも可能なのです)。
 「年金制度の危機」そして「介護保険」、「ゴールドプラン」へと騒がれ、また騒がなければならなかった事それ自体が、実は長期的年金政策の結果的破綻を意味していただけなのです。
 旧厚生省自体が高齢化社会を騒ぎ始め、大規模なキャン・ペーンを張り始めたのは二十五年ほど前からでしたが、当時、彼らは年金制度の破綻を前にして超高齢化社会の危機を過剰に煽ったのです(もちろん、煽っただけで対策は一切やって来なかった)。
 本来、年金の支給開始年齢を引き上げ、同時に高齢者雇用を進めさえすれば済む事だったのであり、実態は旧厚生省と旧労働省の省益を優先しただけだったのです。
  もっとも、これほどの超高齢化、特に非婚化、少子化の同時的発生は、当時の国民社会の誰もが予見し得なかったのであり、一概にその一事だけを持って政府を 批判する事はできないのですが、結果として表れたものを見れば、やはりそのように評価せざるを得ないのでしょう。それを裏付けるかのように、生命保険がら みの個人年金(例えば日生のナイスミディ、古いですか?)、外資系生命保険、年金の販売が好調であると言われています(世界的株式の暴落、アメリカ国債の デフォルト、為替相場の激変などによって非常にハイ・リスクなものになりつつあるのですが)。
  何よりも「介護保険制度」を税金(かつて、ドイツ統合の中で東独系の旧共産党もドイツの「介護保険」を税金で賄うべきであると主張したのですが)の増額で はなく、保険制度として新たに導入せざるを得なかった事は(これには選挙対策上、単に税金という名称を使いたくなかっただけというふざけたペテンも含まれ ていたのですが)、本来は事実上の年金制度の破綻として理解するべきかと思われます。この事は、介護保険導入によって、より一層鮮明になって来ました。
  当初、介護保険は福島県のある町で試験的にスタートし、直ぐに農協も具体的に介護サービスの単価設定、商品化、実働に乗り出して行きました。また、タク シー業界、外食産業、九州ではタクショク、ヨシケイなどに象徴される食材の宅配サービス会社、住宅産業(ナショナル住宅など)小口では独立系の“便利屋” などが参入しました。この結果、実は「福祉」が単なる商品でしかない事が明らかになり、老人問題というものは、結局、「所得の問題」でしかなく、国家的に 見た場合は、「所得の再配分」の問題でしかない事も明らかになって来たかと思われます。
前述したとおり、本来、資本主義社会では、親子、夫婦、家族などへの愛や、親族や地域社会への帰属意識などでオブラートされていたものの一切が商品に変えられて行く(マルクス)社会なのですが、実際にもその様に進んでいるようです。
  例えば、ほんの三十年ほど前までは、職場や地域の人々などに頼んで行なわれていた「引越し」や「葬式」は、「お引越しのサカイ」や「セレモニーなになに」 などの手によって行われる事になりましたし、母親が早起きしてこしらえてくれていた運動会の巻き寿司なども、“ほっかほっか亭”などの弁当チェーンに買い に行くものに成り下がってしまっているのです(これも無意味なGDPの増大にカウントされていますが、実は、社会が、より一層貧しくなっているのです)。
地域社会の共助を意味した漁村部、下町の惣菜の「おすそわけ」(現在ほとんど死語になりつつありますが)は、お隣のおばあさんの顔色を気にしながら、毒物検査の必要や「O157」への恐怖から、もらったふりしてゴミ箱に処分し、自分たちはファミリー・レストランにこっそり出掛けるか、冷凍食品に頼る事になっているのです。当然ながらこの傾向はさらに一層進む事になるでしょう。
 親子の関係を悪くしたくないと願うバカ親(親バカはまだ許されるが)は、躾の代行業や、叱りの代行業を頼みかねません(実は母子家庭では現実のものになりつつあるのですが)。
 この点、「福祉」はいわば聖域でした。県や国の「厳格」?な審査と監督下に置かれ(もちろんその中から綾福祉グループも形成されたのですが)、また、かなりのものがそれなりに日本的な宗教色を帯びて、一般の金儲け主義の企業とは一線を画されてきました。
しかしながら、福祉のビッグバンともいうべき「介護保険」の導入は、これまでそれなりの「神聖性」を帯びていた福祉の外被を全面的に引き剥がし、奉仕の精神とか宗教的な「愛」とか「慈悲」に基づく行為の一切が金銭、点数に換えられて行く事になったのです。
介護保険制度は基本的に老人を対象にしていますから、「サービスの消費者」としての感覚は若者のそれとは異 なりますので、余裕のある老人は、まだ福祉施設が良いと考えるかもしれません。しかし、所得の少ない老人は、結局、在宅のサービスがそれなりに安く(当初 は有利な単価設定によって参入を促すでしょうが、すぐに競争原理を導入するはずであり、過剰参入によって利益率が低減する事になるでしょう/逆に規制を入 れて参入を制限すれば利権の温床になってしまいます)提供されるとすればそちらを選択していく事になり、福祉施設、社会福祉法人はさらなる競争に曝される 様になります。
実はこの事こそが、三浦文雄氏などの学者が主張していた事に携って行く事になるのです。「福祉は人間のため にあるのであり、金儲けの手段にすべきではない」、原点に還って「社会福祉法人」にはそれなりの位置付けがなされるべきであると主張されたのです。もちろ ん、ここでは旧厚生省の「岡光被告」や「綾福祉グループ」の存在には目を瞑って述べられているのですが。
  これを正しく翻訳すれば、福祉一般の、一部はともかくその全てを経済原則、市場原理だけで割り切る事はすべきではないのであり、規制の緩和は必要ではある が、その全面解除は行うべきではない」であろうかと思われます。しかし、問題は少し複雑であり、単純にはそう言えないのです。その聖域性があったが故に、 福祉は医療法人、社会福祉法人の独占状態に在ったわけであり、結果として現場から不正が露見した事が何を意味するかが重要なのです。
結局、現実に登場したものは、かつての神聖性によって蓄積された資本が、さらに貪欲に、新たに出現した市場、つまり、高齢者福祉、介護と言う市場に領域を拡大した事になるのです。
これが「資本主義社会では一切のものが商品に置き換えられて行く」と最初に引用した理由なのです。
私は、深部において社会福祉法人の任務は終わっていないが、現実の存在としての役割は終わらされたのではないかと思っています(もちろん存続するのですが)。
これは、高度に情報化された資本主義社会の発展過程の最終局面、最近の言葉では「後期資本主義社会」(都立 大の宮台真司助教授やジャーナリスト宮崎哲弥/「正義の見方」の著者などは後期資本主義社会=高度に情報化された資本主義という用語を使っていますが、も ちろんマルクス主義者ではありません)においては、社会福祉法人=金儲けはしてはならないが、実態は金儲け団体にならざるを得ないといった中間的な存在を 社会が許容できないのではないかと思うものです。さらに換言すれば、このような中間的な存在を許す経済的社会的弾力性が失われつつあるのではないかと思う ものです。
従って、三浦文雄氏の熱弁にもかかわらず、競争に曝されていく「社会福祉法人」の防衛的色彩を帯びた悲痛の 声になるのです。彼の主張などに代表される、多少とも一九世紀的色彩を帯びた「福祉の原点」とかいった主張(赤十字社に象徴される博愛とやらの精神も)が 今後の残された最後のテリトリー、居留地の防衛の論理となっていく事でしょう。
しかしながら、最も重要な事は、もしも、老人「福祉」がただの「商品」であるのならば、「保険」ではなくて「年金」の充実、拡充もしくは再編成で済むはずなのであり、それで対応できない部分は、障害者福祉なり生活保護なりの従来の制度の再編成で対応できるはずなのです。
ここには旧厚生省年金局の現状維持政策があったのです。恐らく年金を介在させない介護保険制度の導入は、最終的にはただの利権の温床となっていく可能性が高いのではないかと思われます。


日本型「姥捨て」について


 かつて、国際政治学者とかいうフレコミの舛添 要一氏が「日本の特老は姥捨山だ」などと主張していましたが(舛添は福祉を巡って、結構、シンポジウムや講演に多々顔を出していました)、まあ、それはともかくとして、「姥捨て」の話をしようと思います。

 我が日本民俗学の創始者である柳田国男には文字通り巨大な一連の著作群がありますが、その中でも最も有名な「遠野物語」の中に、東北地方における習俗としての“姥捨て”にふれている箇所があります。

もちろん、これは“姥捨て”伝承そのものを問題にしたものではなく、あくまでも習俗や伝承の採集の一環として収録したものです。

 一般的に「姥 捨て」と言うと、映画「楢山節考」が公開された事もあり、いわば寓話として誇張された形の「姥捨て」の話が語られるのが常のようです。ご存じのように、こ れは、「山に連れて行かれる母親が、息子の背中から、捨てに行く息子が帰りの道に迷わないようにと枝を折って行った・・・その事によってその後姥捨ては終 わった・・・」という例の話の再構成なのですが、このような直接に奥山に置き去りにして死に至らしめる「姥捨て」では到底理解できない様な、いわば制度と しての「姥捨て」が存在したのではないかという研究が一部の民俗学者の中から出されています。

 こう主張するのは赤坂憲雄氏(「東北学/東北ルネッサンス」など著書多数)です。民俗学者と言うのは、やたらと著作が多いのですが、これは、採録した資料をそのま

ま残す部分が多いためなのです。柳田国男の流れを汲む宮本常一にしてもその体系たるや実に巨大で/「失われた日本人」など無数の著作群があります)。参考のために「遠野物語」を引用しておきます。


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 「111山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡(ひわたり)、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともに、ダンハナという地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野(れんだいの)という地あり。昔は六十を越えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣るの習(ならひ ありき。老人はいたずらに死んで了(しま)うこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊(ぬら)したり。そのために今も山口土淵辺にては朝(あした)に野らに出づるをハカダチといい夕方野らより帰ることをハカアガリといういえり。 ○ダンノハナは壇の塙なるべし。すなわち丘の上にて塚を築きたる場所ならん。境の神を祭るための塚なりと信ず。蓮台野もこの類なるべきこと『石神問答』中にいえり。」(「遠野物語、山の人生」岩波文庫/68P

 

赤 坂憲雄氏が主張したのは、遠野市などの「姥捨て伝承のある集落の周辺に、決まって蓮台野(京都にこの名前がありますが)と呼ばれる地名が存在し、等しく 「デンデラノ」、「デンデラーノ」と呼ばれていると言うのです。そして、ここには「一定の年齢に達した老人が家族の世話を受けないで、死期を迎えるまでの 短い時間を集団で生活していた」のではなかったかと言うのです。

 つまり、「姥捨て」をすると言うにはあまりにも近過ぎる場所(集落の中心地から一.ニ~四.五キロ程度の場所)にその地名が分布している事や、日和の良い日には里に降りて来て農作業を手伝って何がしかの食料を山に持ち帰ったという伝承が存在する事から推測されているのです。

ここでは、一定の年齢に到達した老人達がそのコロニーを最期の居住地として移動する事を「ハカダチ」と呼び、「ハカアガリ」と呼ぶなど、制度化された、いわば「習俗」としての「姥捨て」が存在した形跡があると主張されているのです。

 当然に病や障害や老衰や息子の死などにより、働けなくなった(孫の世話さえできなくなったような)老人たち が順送りに「ハカアガリ」し、比較的元気な老人が必要な老人の世話をしながら里からの粗末な援助によって順送りに集団で死期を待つという風習=習俗が存在 したと思われるのです。

もちろん、これは、民俗学による推定でしかありません。元来、民俗学という学問で到達できるのは推定であり、事実であったか否かなどといった事は全く確定させられません。しかし、私も恐らくそれは事実であったと思っています。


老人は老人を介護できるのか


 江戸幕府は儒学(その中でも非常に観念的で特殊な朝鮮経由の朱子学)を言わば国学(事実上の国教)として扱 い、武士階級を中心に日本の習俗の上に儒学(儒教)を覆い被せた訳であり、あたかも親の面倒は最期まで子が見ていたかのような錯覚があるのですが(もちろ ん少なくとも西日本の武家はそうだったのですが)、日本人の習俗の基層には、このような、地域特有の「老人介護の風習」とか特殊な「葬送儀礼」も存在した と思われるのです。

 そして、私がこれにこだわるのは、必ずしも日本全体と言えないまでも、場合によっては西日本を除外した東日 本全域の主として農村の非(被)支配階級の中に、この様な習俗がかなりの頻度で普遍的に存在したと推定する事が可能であれば、これは今日にも演繹できる性 格をもっているのではないかと考えるのです。

 ちろん、健全な地域社会が存在している事が前提になるのですが、現代でも地方の小都市や都会の下町の様に、それなりに安定した世代構成や所得構成をもった地域においては、老人が老人の世話をする事が可能であり、また、必要であると思うからです。

体 力のない老人に老人の介護はできないのであり、それが不可能だという方がおられれば、「老人の概念規定をお改め下さい」とだけ言えば良いはずなのです。現 代の七〇歳はかつての五八歳程度の体力を保持していると言われます。本来、老人が増えたのではなく、「老人と呼ばれている健康な人々」が増えただけの事な のです。一定の教育を受けて働き、子を育て、かつてよりはるかに長い間健康で生きて居られるようになった事が、決して社会のマイナスであるはずがないので す。むしろその逆の方がよほど恐ろしい事でしょう。

  従って、そのシステムに組み込む年齢を、地域の実情に併せて自由に設定すれば良いだけなのです。場合によっては有閑マダムの中から、生まれて始めて生き甲 斐を見い出し、ボランテア的に参加する人さえ現れるかも知れません。ましてや、現在でも全ての老人に介護が必要になっている訳ではないのです(例えば七〇 歳で一、二割か)、彼らは、旧労働省の調査でも六五歳までは働きたかったと答えているのです。

 この事は、小学校程度の距離に「託老所」(昼間だけ預ける)とか「老人施設」(入所型)を建設できれば、老 人による老人の介護が十分に可能になると思うのです。必要なのはコンピュータによる二四時間体制の調整(誰が誰を何時から何時まで世話をするかを決める) を行える若い(別に老人でもかまわないのですが)オペレーターと、若干の食材や資材の提供さえあれば十分なのであり、近くに温泉でもあれば、入浴設備はな くても良いのです(どうしても入浴に半介助が必要な人のためには、そのためだけの浴室だけが有れば良いのですから)。そのキー・ステーションで判断して、 食事は作らないとすればそうすれば良いのです(老人たちは、料理を作るのが好きなのであり、この問題は杞憂かもしれません)。後は月末に互いの年金をやり 取りするだけであり、事実上、年金のキャッチボールをするだけで運営が可能になるのです。これでも老人問題はかなり軽減できるはずです。そして本当に医療 が必要な場合と、特殊な事情(全盲、重度障害など)により施設入所などが必要な場合だけ、行政が関与してやれば済むのです。初期段階での基礎的資金整備と システム作りさえできれば、後は行政の過度の介入は一切行う事なく(逆に厚生省の役人共を排除せよ)地域の自主性に任せるのです。

 障害があるような本当の重度の要介護者は別として、かなりの程度までこのシステムがカバーできるのではないかと思うのです。

 そして、何歳からこのシステムに登録し参加するかは、地域の実情によって異なるはずであり、年金の精算にし ても地域に任せればよいのです。その方式をあらかじめ全国的に統一する必要はないと思います。また、介護をする側の老人にしてもフル・タイムで働きたい人 もあれば、夏だけ働きたい人もいるはずであり、夜だけ手伝いたい人もある事でしょう。中には全く働きたくない人もいるでしょう。しかし、これも地域の自主 性に任せれば良い事なのです。

お よそ、厚生省の考える全国一律の介護水準、介護基準(要介護認定)ぐらい馬鹿げたものはないでしょう。農村、漁村、山村、東北、南九州、島嶼部、離島、下 町、商人町、職人町といった地域性、旧細川領、会津領とかいった伝統によっても、介護や老人に対する考え方は地域によって各々異なるはずなのです。

あくまでも、旧厚生省が全国一律の介護水準、介護基準に拘ったのは、そうしなければ、彼ら官僚の依って立つべき根拠が失われ、統制権が奪われる事と、利権の温床である調整能力が失われるからなのです。

こうして制度の自発性と柔軟さ(フレキシビリティー)は失われ、利権だけが目的の、極めて画一化した効率の悪い不自由な制度が作られる事になったのです(厚生省おすすめの広域制度はその象徴です)。

  話を戻しますが、前述したモデルは、全く地域に関係なく企業や宗教団体で実施しても良いのです。要するに老人自らが自らの判断で自らの帰属する、帰属した い共同体の介護システムを選択して参加すれば良いのであり、行政はそのための(古い表現になりますが)「音頭」をとるコンダクター、コーディネーターを養 成すれば良いのです(都市の再開発や土地改良事業の換地士のようないわば助言者)。行政は馬鹿げたシンポジウムや講演会を連発するのではなく、早急にこの ような地域システムの建設に動くべきなのです(これも、と、言うか、これこそが真のソフト事業でしょう)。

 これらについては、結局、帰属意識の強いO真理教、統一教会などといった宗教団体や山岸会といった半宗教的共同体、創価学会といった教団付属団体から先行して現れてくるのかも知れません。

 この組織のキー・ステーションについては廃校になった都会の小学校とか、いまや徐々に利用しなくなりつつあ る図書館敷地とかいったものを提供し、税金を免除し、建設費を公共事業として投下すれば良いのです。自治体の長、議員、土建屋といった連中は、寄って集っ てランディング・コストや後の利用を無視して、これらの利便性のある土地に何の価値もない、くだらない「女性センター」とか「コンサートホール」とか「記 念館」といったいわゆる箱物を造り上げ、住民に膨大な「ツケ」を残して税金を食い物にして来ました。このため、かなりの土地が本当に必要なもののために使 われないで浪費されてしまったのです。しかし、いずれまた少子化の延長には、どちらか一方の家が消え去り、自然に余った土地は出てくる訳ですから、希望は 捨てないようにしましょう。 

もはや行政はあてにせずに、彼らを無視して小さな共同体の中からシステムを組む事からスタートした方が良いのかも知れません。

 問題なのは、現在の老人関係諸施設や障害者関係諸施設が、がんじがらめの基準だとか監査に縛られて健常者のバリバリの勤労世代によって運営されている事でしょう。

 これは、ちょっと聞くと正しいように聞こえるのですが、医師や看護婦のケアが何人必要だとか、研修を受けた 職員でなければならないとか、部屋の広さはどうしなければならないとか、しかも設備、機材まで基準を設けて、息のかかった業者(たいていは天下り先)に納 入させる制度が既にできあがっているのです。

確 かに、特殊で専門的な技術、技能を要求される医療に関しては一定容認できるものの、それ以外にまで拡大して(特養、障害者福祉、老健)いわば聖域として扱 い、排他的独占的に税金を回収するという仕組みは、支払いするものが国家であり最も安全な収益が保証された事になるのです。

 結局のところ、社会福祉法人といっても医療法人の母体であるものも多く、特養、老健の上がりで大病院の新築費用が捻出されている事は常識です。

 老人介護にまでこの傾向が延長される場合は、国家は財政マヒに陥る事は必定なのであり、せめて老人介護に関してだけは、この傾向が排除される事を望みたいと思います。

 まず、人は全て老人になるのであり、最終的には誰もが衰弱し最後には死を迎える訳です。そして、本来、専門 的研修など受けていない家族や共同体の成員によって行われて来たのです(本来、家族制度が機能している場合は、祖父母を介護する母親の姿を見ながら育つ事 こそが最良の子供たちへの研修なのです)。

 この事は、少なくとも老人介護(場合によっては障害者介護も)には技能などは要らないはずなのであり、このように制度を利権がらみで排他的に仕組むのではなく、開放的に誰でもが携わる事を許す方向で仕組むべきなのです。

 こうすれば、介護単価を低減できるのであり、無駄を省き役人の数も減らせるはずなのです。

 恐らく現状の「介護保険制度」では将来巨大な赤字を抱え込み、十年を経ずして大規模な修正を必要とするか、破綻を招く事になると思われます。

最期は利権の温床となり、同時に赤字を生み続ける「舟上の塩吹き臼」となるでしょう。

 我が憎むべきミルトン・フリードマンが三十年も前に述べた言葉ですが、人 は「自分の金を他人に使う場合」が一番慎重で、「自分の金を自分に使う場合」が二番目に慎重になり、その次が「他人の金を自分のために使う場合は甘くな り」、最もいい加減な金の使い方をするのが「他人の金を他人のために使う場合」なのです。前述した「老人による老人の介護システム」は「自分の金を他人に 使う場合」と「自分の金を自分に使う場合の中間型」に近いのですが、公共事業や措置費は事実上最後のケースである事を考えておくべきなのです(上方言葉の 「割り前」)。

 公的介護保険制度が今後ともうまく機能するか否かはわかりませんが、年金のキャッチ・ボウルを介在させない制度はいずれ行き詰まる事になると思います。

 私は、公的介護保険制度に反対する立場でも推進させようとする立場でもありませんでした。

もともと既存の医療制度、福祉制度そのものの制度疲労と一部の利権化とを強く意識していましたので、本来、公的介護保険制度導入に際して、長期的展望に立った医療、医療保険、年金、障害者(精薄)福祉、高齢者福祉、雇用を根本的に仕組み直す必要があったと考えています。

 しかし、既存の福祉の制度を擁護する意志はありませんし、根本的制度の見直しはいつの時代でも破綻無くしてはできなかったものです。

容易に予測される公的介護保険制度の崩壊によって唯一新たな体系的制度への道が築かれるべきであると思っています。

  現在、老人介護は社会福祉法人、医療法人などが税金を食い物にする形で維持されています。そして、賃金の低い若い労働力によって運営するために、バリバリ の若者に行った事もない集落に住む全く世代のかけ離れた縁もゆかりもない老人を介護する形になっています。多くの事件や事故や乱暴な扱いが生じる原因もそ こに存在するのです。

私 が介護保険導入以前から主張していた仮称「老老介護」は小さなコミュニティー、地域で仕組むために、誰もが誰もを知っている中で、しかも、考え方、行動様 式、嗜好性の近い者に介護を担わせるために、このような問題も生じ難くなると思うのですが、国家、社会、共同体の全面的解体なくしては現実にはならないも のと考えています。 


この文書は介護保険制度の導入を巡り十年前に書いていたものですが、今回、部分的に手を加えて掲載する事にしました。

実は、当時、労働省も一部にこれに近い構想を持っていたようですが、社会福祉法人、医療法人が介護保険を食い物にしようとする構想の中で全く顧みられませんでした。旧労働省など、旧厚生省の敵ではなかったのです。


どうやら地名研究会研修所もそれらの拠点になりそうですね!



232-4


287 北北東に進路を取れ! ⑦ 敦賀市の気比神宮への道

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287 北北東に進路を取れ! ⑦ 敦賀市の気比神宮への道

20151230

久留米地名研究会 古川 清久


 敦賀と言えば、ツヌガノアラシトこと気比大神の気比神宮を無視できません。

 舞鶴を午後3時には出立したのですが、当然ながら福井県敦賀市に入るのは夕方になります。

 冬至に近い時候の事、気比神宮に向かうには遅すぎる事から、参拝は翌朝に回すこととしてその日は敦賀湾東岸を東尋坊に向けて走る事にしました。

 それもこの地には敦賀湾奥の金ケ崎、黒崎、岡崎という北部九州と言うより、志賀島から宗像に掛けての海人族が持ち込んだとしか考えられない地名が順番に並んでいることからこの目で確認したいと考えたからでした。


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鐘ケ崎、岡崎、黒崎は文句なく北部九州の玄界灘沿岸の地名です。

その上に、阿蘇、江良という阿蘇氏に関係のある地名があるのですから、対馬海流の流れる方向から考えて、九州からこの地に移動して来たとしか考えようがないのです。

ちなみに西の天の橋立の内側の海は阿蘇海でしたね。赤崎は北九州市若松区の赤崎ですね。

 江良は阿蘇氏の同族の恵良惟澄などが頭に浮かんできてしまいます。


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敦賀湾東岸は狭い海岸沿いの土地に多くの漁師集落と越前ガニを名物にした多くの観光宿がへばりつく様に軒を並べています。

 今年は松葉ガニ、紅ズワイガニ、越前ガニと不漁のようですが、これは周期的なものであり、また、越前大クラゲが大量に入ってくれば良いだけのことなのです。

 中国大陸の海洋汚染と共にクラゲの異常発生がその時だけ煽られ報道されますが、決まっ て数年後にはカニの豊漁が訪れる訳で、対馬海流に乗って日本海に入って来た大クラゲもカムチャッカまで流れて行く訳ではなく、いずれは海水温の低下によっ て死滅し海底に沈んで行くことになるのです。

 そこに待ち構えているのがほとんど同種のこれらの美味しいカニなのです。

 結局、食物連鎖とは見えないところにも存在している訳で、そもそも毎日毎日貴重なカニを誰も彼もが腹いっぱい食べようと言うのが誤った考えなのです。

 話が逸れてしまいましたので、気比神社については次のブログに回すとして、ちょっとした奇妙な体験をした事をお話したいと思います。

 結局、その日は、この一帯のとある温泉センターに入って体を休めて車中泊して、翌朝、気比神宮に向かう事になりました。

久留米地名研究会でも百嶋神社考古学研究班では、メンバーの多くがネット上の神社調査を行うばかりか日常的に数多くの神社を見て回っています。

この内にも、外にもかなりの数の霊能者と呼ばれる方がおられるのですが、かと、言って個人的には全く理解できない世界でしかなく、無視はしないものの、やはり本気では信じられないといった気持は続いています。

 ともあれ、これだけ神社を見て回っていると、それなりに事故や怪我はするもので、近年でも熊本県甲佐町の甲佐神社の写真を撮りに行った際に、平地の参道の石畳みで転倒し、鎖骨と肋骨を4本折った事もありました。

 実は、この阿蘇系の神社の祭神は、速瓶玉命と呼ばれて入るのですが、実は阿蘇の草部吉見神(ヒコヤイミミ)と宗像大社の市杵島姫との間に産まれた大山クイ=佐田大神(断じて猿田彦ではない)=松尾大神=日吉神社=松尾神社=日枝神社なのです。

 このため、この系統の神様とはどうも相性が悪いと言うコンプレックスを持っているのですが、今回もどうもそのような事が起こってしまったような気がしています。

というのも、これまで一度もトラブルを起こした事の無いホンダ・フィット・シャトルHBの純正カーナビゲーションが、気比神社で検索すると、車の現在地表示はキチンと行っているものの、現地案内のルート探索からガイドを行わなくなってしまったのです。

 現地は分かり易い事から、問題はありませんでしたが、以後、どこをセットしても全く案内してくれなくなってしまったのでした。

 以後、二日間ほどカーナビが使えず、福井県内のホンダのディーラーを二店舗廻ったのですが、リカバリーできず、東北遠征を前に非常に憂鬱になってしまったのでした。

 最後は、モーター・ショップで安物のカーナビを買おうかとも思ったのですが、意を決し、自分でカーナビのリセットを行い出荷時の初期化を行ったところ、案内してくれるようになったのでした。

 これで、済めば、只の偶然だったんだ!で済んだのですが、帰路、再び気比神宮周辺でルート探索を行うと、またもや同じトラブルに嵌ってしまい、早々に敦賀を逃げ出し、数十キロ離れた所で再度リセットするとカーナビが復活したのでした。

こうなると、“これはただ事ではない、敦賀は鬼門”と思うようになってしまったのでした。

 敦賀のツヌガノアラシトとは、速瓶玉こと大山クイ神の子であり、藤原により第10代天皇と格上げされたハツクニシラススメラミコト=偽装天皇 贈)崇神天皇なのであり、大山クイ~崇神への流れは、近畿大和朝廷の本質を探る禁断の地への探査だけに、妨害、障害が発生するのは仕方がないのかも知れません。

 こういう事が重なると、霊能者の話もあながち聞けない事も無いとは思うようになってくると言うものです。

 学会通説に尾を振る畿内説論者、国史学者は皆嘘つきなのですから、自分の目と自分の知識だけを信じるしかないと思うばかりです。

 と、書いては見たのですが、冷静に考えれば、ここは、昨今の国際情勢下、日本海側の密 入国最前線と言える敦賀の事、何らかの探索電波、妨害電波、多くのセンサーが交錯する地帯である事から、敵味方(私は加担しませんが)を問わず、そのどれ かが影響を与えてカーナビの不調を齎したと考えるのが正しいのではないかと思う事にしているところです。お粗末。

早朝の気比神宮前の交差点(下)


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さて冒頭に、敦賀湾沿岸には玄界灘沿岸の地名と阿蘇の地名があるという話をしましたが、

下の百嶋最終神代系譜(部分)を見て下さい。

この気比神宮に祀られている主神と見ているツヌガノアラシトこと贈)崇神天皇とは、阿蘇の草部吉見神社の主神ヒコヤイミミ=海幸彦との間に産まれた大山咋と、豊玉彦(ヤタガラス)と櫛稲田姫との間に産まれた鴨玉依姫との間に産まれた神なのです。


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288 北北東に進路を取れ! ⑧ 敦賀市の気比神宮 1/2

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288 北北東に進路を取れ! ⑧ 敦賀市の気比神宮 1/2

20151231

久留米地名研究会 古川 清久


 敦賀と言えば、まず、気比神宮が頭に浮かびます。

 30年前にこの神社の前を通過した事がありますが、参拝は今回が初めてとなります。


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最初に目に飛び込んできたのは左ではなく右三つ巴の神紋と五七の桐の神紋でした。


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まずは、同社の公式HPからご覧ください。


御祭神 御神徳


伊奢沙別命(いざさわけのみこと)    ※衣食住・海上安全・農漁業・交通安全
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)     ※無病息災・延命長寿・武運長久
神功皇后(じんぐうこうごう)      ※安産・農漁業・海上安全・無病息災・延命長寿・武運長久・    

音楽舞踊
応神天皇(おうじんてんのう)      ※海上安全・農漁業・無病息災・延命長寿・武運長久

主祭神 伊奢沙別命は御食津大神(みけつおおかみ)とも称し食物を司り、また古くより海上交通、農漁業始め衣食住の生活全般を護り給う神として崇められている。神 功皇后、応神天皇はまた漁業に対する御神徳著しく、古来五穀豊穣、海上安全、大漁祈願が行われ、現に農漁海運業者の崇信が極めて篤い。神功皇后は安産の神 として霊験あらたかである。仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・武内宿禰命は無病息災延命長寿、また神功皇后・玉妃命は音楽舞踊の神である。


由緒沿革


伊奢沙別命は、笥飯大神(けひのおおかみ)、御食津大神とも称し、2千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境(ひもろぎい わさか)の形態を留めている。上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座さ れている。仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は天皇の勅命により御妹玉姫命(たまひめのみこと)と武内宿禰命 (たけのうちのすくねのみこと)を従えて筑紫より行啓せられ参拝された。文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。明治28326日、神宮号宣下の御沙汰により氣比神宮と改められた。延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に「越前國敦賀郡氣比神社七座並名神大社」とあり、中古より越前國一ノ宮と定められ、明治28年、 官幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなった。当神宮の神領は持統天皇の御代より増封が始まり、奈良時代を経て平安朝初期に能登国の沿海地帯は当 神宮の御厨(みくりや)となった。渤海使(ぼっかいし)が相次いで日本海沿岸に来着したので神領の氣比の松原(現国定公園・日本三大松原)を渤海使停宿の 処として、天平神護2年(766)勅によって松原客館が建設され、これを、氣比神宮宮司が検校した。南北朝争乱の延元元年(1336大宮司氏治は、後醍醐天皇を奉じ金ヶ崎城を築いて足利軍を迎え奮戦したが利あらず一門ことごとく討ち死し、社領は減ぜられたが、なお、二十四万石を所領できたという。元亀元年(15704月大神司憲直等一族は越前国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、天筒山の城に立籠り大激戦を演じたが、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し、48家の祠官36坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至った。慶長19年(1614)福井藩祖結城秀康公が社殿を造営されると共に社家8家を復興し、社領百石を寄進された。この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治39年国宝に指定されたが戦災(昭和20712日)により境域の諸建造物とともに惜しくも焼失した。その後、昭和25年御本殿の再建につづき同37年拝殿、社務所の建設九社之宮の復興を見て、祭祀の厳修につとめたが、近年北陸の総社として御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、昭和57年 氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、拝殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の 御代に至って御大典記念氣比の杜造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新。更に国家管理時代の社務所が昭和20年の戦火で焼失し、その後敦賀区裁判所の庁舎を移築、長く利用してきたが、老朽化により已むなく解体、平成236月大社に相応しい格式ある総木造社務所が新築落成した。

以上同社縁起


では、日本武尊、応神天皇、玉姫命、武内宿禰命が合祀(?)される前に祀られていた伊奢沙別命=笥飯大神とは如何なる神(人物)でしょうか?これが、今回のテーマです。

始めに結論を申上げておきます。この気比神宮に祀られている気比大神とは、ツヌガノアラシト後の贈)崇神天皇だと考えられます。故百嶋由一郎氏も以下のように話されていました。


…草部吉見の呼び方は草部(かやべ)と呼ぶが、伽耶即ち、朝鮮半島との関係はその出自としての関係はまったくございません。ゼロです。それは草壁吉見(支那津彦、海幸彦)さんが、縁組によって高木の大神の配下・系統に入ったからです。それで伽耶、朝鮮半島にも当然行かれた。そしてこの方のお子さんである大山くい(佐田大神)のみことのお名前は、くまかぶとあらかしひこ(熊甲安羅加志ヒコ)です。この名前を解説すると、“熊甲”は熊本県甲佐、“安羅”は日本のいくつものグループが安羅に任那としての出先を持っていた安羅は地名です。 “加志”は梶取のことです。すなわち、熊本の甲佐出身の安羅にいる舵取という意味です。そして海幸彦(支那津彦、草部吉見)、大山くい(熊甲安羅加志ひこ)、さらに大山くいのお子さんが敦賀の式内社気比神宮にお祭りされているツヌガアラシト(天の日槍、素戔鳴尊、贈崇神天皇)です。近くではそれを見ようと思えば、久山町山田にある審神者神社です。船の航海を天に御伺いするシャーマンで船の舵取りです。すなわち、海幸彦(草部吉見、支那津彦)、大山くい(熊甲安羅加志ひこ)、贈崇神天皇(ツヌガアラシト、天日槍、素戔鳴)と3代に渡って朝鮮半島と縁のある方々で、舵取りをなさっている。…


「神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界--- もう一つの神々の系譜 ---」 牛島稔太のHPから


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では、敬愛する「玄松子」氏からも教えを請いましょう。


笥飯(けひ)の宮、笥飯大神とも呼ばれた神社。主祭神・氣比大神は、別名・伊奢沙別命といい、また、御食津大神とも言われている。
『古事記』仲哀記には、以下の記述がある。
建内宿禰命が、太子(誉田別命、後の応神天皇) を連れて、禊に訪れた時。当地に坐した伊奢沙和気大神が、夜の夢に出現し、「吾が名を御子の御名に易へまく欲し」と告げた。さらに、「明日の旦、浜に幸す べし。名を易へし幣献らむ」。翌朝、浜へ行くと、鼻の傷ついたイルカが浦いっぱいに集っていた。これを見て太子は、「我に御食の魚を給ひき」、つまり、神 が太子のために、食料の魚を下さったと感激した。そして、その神の名を称えて、御食津大神と名づけ、それが気比大神である。鼻の傷ついたイルカによって、浦が血で臭かったので、その浦を「血浦」と呼び、角鹿(つぬが)となった。
『日本書紀』垂仁天皇の条には、意富加羅国の王子・
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、またの名、于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)が、当地、笥飯(けひ)の浦に到着し、角鹿と名づけたとある。
都怒我阿羅斯等は、白石から生れた姫神を追って日本へ来たともあり、その姫神は、比売語曽社に祀られている。
『古事記』・応神記では、
天之日矛(天日槍)が、阿加流比売という赤玉から生まれた姫を追って来たとあり、都怒我阿羅斯等は、天日槍と同一視されている。
これらの伝承により、主祭神・氣比大神に関しても、
仲哀天皇説や、都怒我阿羅斯等説、さらに天日槍説などの異説がある。
以上のことから、氣比大神は、海人族による朝廷への服従のシンボル、特に、海の幸の献上から、食物の神霊を祀った神であったものが、海人族を通して、半島との交流が盛んになると、半島神へと、その性格を変えていったと見ることもできるだろう。
大宝2年(702)、勅命により、
仲哀天皇神功皇后を合祀し、後に、日本武命(東殿宮)、応神天皇(総社宮)、玉妃命(平殿宮)、武内宿禰(西殿宮)の本殿四隅に四ノ宮として祀られ、祭神七座となった。
ここで、玉妃命(神功皇后の妹)が、白玉の姫を追った都怒我阿羅斯等、赤玉の天之日矛を連想させる。
社伝では、氣比大神が、この玉妃命に神懸り、神託によって、神功皇后が三韓平定を行なったとある。

境内にある角鹿神社祭神は、都怒我阿羅斯等であるが、角鹿国造の祖・建功狭日命であり、都怒我阿羅斯等とは無関係とする説もある。
また、境内の遺址である土公については、当社の東北方向に、聳えている天筒山(171m:祭神の霊跡)の遥拝所であり降臨地。あるいは祈祷所。あるいは当社の古殿地。あるいは古墳。あるいは経塚など、
諸説あって、よくわからない。
霊亀元年(715)。藤原武智麻呂が、霊夢により氣比神宮寺を建立した。これが、神宮寺の初見と言われている。
祭神を、天日槍と考えると、但馬國一宮・出石神社との関連が考えられる。
ともに、日本海側の大社であり、半島に関係がある。神紋も、同じ。

以上「玄松子」

同社縁起には702年以前のこととして(当然ですが701年以前の九州王朝の時代です)、仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は天皇の勅命により御妹玉姫命(たまひめのみこと)と武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を従えて筑紫より行啓せられ参拝された。文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。」と書いています。

登場人物は、高良玉垂命の正妃である神功皇后を筆頭に全て九州王朝の臣下です。

だからこそ、「神功皇后は天皇の勅命により御妹玉姫命(たまひめのみこと)と武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を従えて筑紫より行啓せられ参拝された。」と書かれているのです。

権力に思いっきり尾を振る学会通説派は、欠史8代は架空とするのが権威者の条件とばかりに義務とさえ理解していることからこれも容易には理解されない事は十分承知していますが、「天皇の勅命により」の部分も、仲哀死後の神功皇后を正妃とした高良玉垂命事藤原により勝手に第9代とされた開化天皇以外考えようがありません。というよりも、むしろ良く残されていた史実にさえ思えます。

 なお、右は久留米高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)の一部です。

 特に、これには神功皇后の二人の妹の話が出て来るのですが、「豊姫」と呼ばれており、気比神宮の「玉姫」とは名前が異なっています。

しかし、ここでは正史に記述の無い神功皇后の妹の話が登場するだけでも、この気比神宮に残された伝承が真実である事を意識せざるを得ないのです。

 何故なら北部九州から豊の国(古代に於いては周防から豊前豊後が豊だったのです)に掛けては神功皇后伝承に満ち溢れているからです。

 「玄松子」氏は、「主祭神・氣比大神に関しても、仲哀天皇説や、都怒我阿羅斯等説、さらに天日槍説などの異説がある。と、客観的かつ冷静に保留されていますが、我々、百嶋神社考古学に触れた者には、「意富加羅国の王子・都怒我阿羅斯等とは、大伽耶からやって来た、後に藤原により格上げされた後の第10代贈)崇神天皇=都怒我阿羅斯等であり、気比大神と考えています。

 生前、百嶋先生は、“崇神は遥かに年下の高良玉垂命=第9代開化天皇、神功皇后御夫婦に九州で仕えていた…”と話しておられたのです。

 そして、九州から進出した安曇(宗像)系、阿蘇系の人々がいた事は 287 北北東に進路を取れ! ⑦ 敦賀市の気比神宮への道 で書いた通りです。

 これまでにも、五七の桐、三五の桐は開化天皇、神功皇后(仲哀天皇の妃が神功皇后だとされている事だけで鼻から否定される方はお読みになる必要性も価値は一切ありませんので…)御夫婦の神紋であることはこれまでにも何度も書いてきました。

 さて、初期(つまり、近畿大和朝廷が幅を効かせる前)の気比神宮においても宇佐神宮同様に九州王朝の影響下にあったはずであり、どうもその痕跡らしいものがあるようなのです。

 それには、境内摂社などを詳しく検討する必要がありますが、初見の神社では簡単な作業ではありません。

しかし、遠方からも、気比神宮解読のための切っ掛けとなりそうな部分を次のブログで提案させて頂きます。

 その前に、一つだけ頭に入れておいて頂きたい事があります。

 それは、兵庫県豊岡市の出石に気比神社が、また、筑豊のど真ん中、福岡県飯塚市の幸袋に許斐神社(このみや)があることです。

 この二つの神社も恐らく敦賀の気比神宮と同じ性格を持った神社だと考えられるのです。

豊岡市の気比神社の天日槍命(アメノヒボコ)はスサノウの事であり、飯塚市の許斐神社も主祭神は本来、スサノウのはずなのです。

 しかし、神話が輻輳しというか混乱し、スサノウとも五十猛=ニギハヤヒ=山幸彦とも解釈できるように扱われているような印象は絶えず着き纏います。

スサノウは新羅の王子様ですし、百嶋神代系譜から言えば、スサノウと、大山祇大幡主の妹である埴安姫との間に産まれた神大市姫との間に産まれた伊勢外宮の豊受大神をお妃としたニギハヤヒ=山幸彦は、スサノウの権威を惹く神とは言える事から、スサノウ、ニギハヤヒが同一視されたのは考えられそうな事ではあるのです。


気比神社 兵庫県豊岡市出石町宮内99

出石八前大神、天日槍命


許斐神社 福岡県飯塚市赤坂430 

祭神 素盞嗚命、大己貴命、稻田姫命、大屋津姫命、五十猛命、抓津姫命

いずれも敬愛するHP「神奈備」による

このため、敦賀の気比神宮の主神とされる伊奢沙別命(イザサワケノミコト)とはスサノウの命を意味しているはずですが、それを摂社として排除し(と言っても消すことはできない)、その領域の最後の支配者となったのは、やはり第10代とされた贈)崇神天皇ではないかと考えるのです。


288-5



289 北北東に進路を取れ! ⑨ 敦賀市の気比神宮 2/2

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289 北北東に進路を取れ! ⑨ 敦賀市の気比神宮 2/2

20151231

久留米地名研究会 古川 清久


289-1

奇妙な(面白い)事に、この気比神宮には都怒我阿羅斯等命を祀るとする摂社=角鹿神社とイザナミを祀る兒宮(コノミヤ)、オオナムチ=大国主を祀る大神下前神社という二つの末社が鎮座しています。

角鹿神社とされる社がツヌガノアラシト=後の贈)崇神天皇のものとすると、気比神宮がツヌガノアラシトを祀る神社であるとする事と多少の齟齬を来すことになります。

「境内にある角鹿神社祭神は、都怒我阿羅斯等であるが、角鹿国造の祖・建功狭日命であり、都怒我阿羅斯等とは無関係とする説もある。」との「玄松子」氏のコメントもありますが、このように考えました。

元々、気比神宮とはその 名の通り九州王朝の神宮であり、九州王朝の臣下に過ぎないツヌガノアラシトの宮(地方長官の宮)もあったが、最終的に8世紀初頭に九州王朝が滅び、贈)崇 神を奉祭する大幡主系白族と阿蘇草部吉見系氏族の連合体大山咋系の一族が気比神宮=敦賀一帯を支配した。…と。


289-2

境内三摂社、末社の縁起(飯塚市幸袋の許斐神社」が「このみや」と呼ばれる事と対応しますね


従って、気比神宮には今も高良玉垂命=開化天皇の神紋である五七の桐の神紋が付されている(本来この神宮の主は高良玉垂命であったし、それを臣下のツヌガノアラシトが守っていた)と考えるべきなのです。

イザナミを祀る兒宮(コノミヤ)の存在も重要です。

 百嶋由一郎神社考古学を知る者にとっては、イザナギと短期間で別れた後のイザナミは博多の櫛田神社の主祭神の正妃となられ、その御子が豊 玉彦=ヤタガラスなのです。そしてその娘が鴨玉依姫であり、ツヌガノアラシト=後の贈)崇神天皇の母で父、大山咋=クマカブトアラカシヒコの正妃にあたる からです。

 ついでに、何故、兒宮(コノミヤ)と呼ばれているかも考えてみましょう。

 百嶋神代系譜によれば、イザナミは金山彦の妹であり、秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ瀛(イン)氏ヘブライ系氏族=胡人(ペルシャ系を胡人ともしますが…)なのです。

 それが、兒宮(コノミヤ)と呼ばれている理由だと考えられそうです。

 同じ様に、中津市の古要神社、中津市の東、吉富町の古表神社も古くは、胡要神社であり、胡表神社なのです。

オオナムチ=大国主を祀る大神下前神社も、九州王朝の重要な臣下であり、宗像大社の本当の祭神が大国主命なのであり、市杵島姫、田心姫をお妃としているのであり、当然に見えます。

どうも、この一つの摂社、二つの末社は、古い時代の敦賀を今に留めている様に見えますね。

 そう考えた理由は、冒頭に掲げた写真の鳥居に、九州の彦山、国東半島に特に目立つ浮輪状の飾りがはめ込まれているのを見たからでした。

 これは、彦山の中宮などにあるもので、彦山の天忍穂耳命(アメノオシホミミ)、「古事記」の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命とは阿蘇の草部吉見=ヒコヤイミミであり、ツヌガノアラシトの祖父に当たるからなのです。

 では、九州王朝の痕跡はどこにあるのでしょうか?

 摂社の分析を進めれば分かると思いますが、初見では何ともしがたく、ここでは保留しておきますが、通常見えない、摂社が居並ぶ一角から垣間見える神殿敷地内に、神殿から離して存在する謎の摂社があることに気付いたのです。


289-3

 繰り返しますが、五七の桐は高良玉垂命の神紋なのであり、崇神天皇は朝鮮国旗宜しく一つ巴の神紋でしかないのです。

 宇佐神宮に於いても、通常人目に触れない神殿敷内に三つの摂社、住吉、北辰、春日が残されており、

これが、8世紀の転換点の勢力配置を示している可能性があり、天下の気比神宮も同様だろうと想像できるのです。

自信は半々と言ったところですが、この摂社に祀られている神の名が、もしもワカヤマトネコヒコ=開化天皇であれば、高良玉垂命その人であり、 気比神宮がかつては九州王朝の神宮であった事の証明の一部にはなるのですが、どうせ、神社庁が本当の事を話すとは考えられず、永久の謎として残ることで しょう。

  と言うよりも、誰ひとり問題にもせず、間の抜けた万世一系の日本民族の皇統神話を宣伝し続け人々の信頼を失い続け馬鹿にされる存在として一層堕落して行く事になるでしょう。

むしろその方が良いのかも知れません。彼らの選択に任すことにしましょう。

下賀茂神社や丹生川上神社中社…のように、少しは信憑性のある本当の事を一部でも出して行かなければ、神社も生き残れないと思うものです。

ただでさえ、氏子の尊崇を失い全国の鎮守の社がどんどん消滅して行きつつあるのですから何時まで旨い汁が吸えるかは分かりそうなものではないですか。

個人的に、現在の神社庁による全国の神社の支配状況に関しては、信仰心など片鱗もないためどうでも良い事かも知れません。

以下の、摂社についても見当がつくもの、全く分からないもの、解明しなければならないものがぞろぞろあるのですが、初見で云々するのは軽薄の誹りを免れないので、これまでとさせて頂きます。今でも十分すぎるほど勝手な解釈と言われる事でしょうから。


289-4



290 北北東に進路を取れ! ⑩ 但馬の山奥で発見した若宮八幡宮について

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290 北北東に進路を取れ! ⑩ 但馬の山奥で発見した若宮八幡宮について

20160101

久留米地名研究会 古川 清久

 

今回の調査旅行は、往きこそ下関から姫路東まで山陽自動車道を使い播磨から舞鶴に入りましたが、帰路は、山形の手前から舞鶴に戻り、福知山市の高良神社一社を確認し、兵庫県朝来市から養父市へ、さらに鳥取市へと国道9号線で九州へ戻りました。

気比神社、白山神社、彌彦神社と何やら大社ばかりを周っている様に思われるかも知れませんが、本当にヒントを得られるのはそのような大社ではなく、地域以外には見向きもされない様な良社(妙な表現ですが外に適当な言葉もないため)です。

兵庫県養父市から国道9号線で鳥取市に向かうと、北の妙見山、南の氷ノ山(伯耆大山と同じ様にヒョウノセンと呼びます)山系の高丸山、瀞川山などの鞍部を越えることになります。

「夢千代日記」で有名なと言っても最近はご存知ない方が多いでしょうが、但馬でも高級旅館が軒を並べる高温泉の名湯湯村温泉の少し手前(九州への帰路)に村岡温泉、小代温泉があります。

どちらにしてもどこかの温泉では休憩するつもりでしたから、今回は小代温泉で一泊(と言っても車中泊ですが)することにしました。


290-1

今回は良いロケーションの温泉に遭遇しました。森が守られているため(林野庁による売れもしない針葉樹林が少ないためですが)、二日間の雨にもかかわらず、泥水ではなく透明な水の川が維持されていました。好い加減に事実を認めて新規造林の中止と危険で無駄な針葉樹の撤去による広葉樹林の拡大へと転換(放置すれば良いだけ)させて欲しいものです。林野庁の縮小も当然ですが。


290-2
 

雨の上がった翌日、鳥取に向かって走り始めたところ、カーナビの表示を見ていると、国道9号線との邂逅部である長板地区に若宮八幡宮があることに気付きました。

但馬地区には何度も足を踏み入れているために見当がつくのですが、八幡とは宇佐八幡宮の威光と権勢を受け容れ、面従腹背の姿勢をとった石清水八幡系の橘一族の領域だった事を示しているのです。

その事に気付いたのは、氷ノ山北麓のスキー場が集中する鉢伏高原に別宮と言う地区があり、そこに石清水八幡宮の別宮を見出したからでした。

当時、随行者の内倉武久氏と朝からその別宮を参拝し、この一帯には物部氏、橘氏の一族が大量に入っていると考えた事を思い出します。

この小代、長板地区もそうした物部系の集落であった事が徐々に見えて来たのでした。

周辺には、大田、大野、大谷、八坂、吉井、八井谷、黒田、福岡、矢田、安井、水間、鍛冶屋、勿論、鉢伏そのものから、和田、奈良尾といった安曇族を思わせる地名がぞろぞろ拾えます。

そう考えると、若宮八幡宮の意味は、偽装八幡でしかなく、実際には高良玉垂宮の若宮、つまり、高良皇子神社=九体皇子神社か、その筆頭、斯礼賀志命(シレカシノミコト)=仁徳天皇を祀る神社である可能性が高そうなのです。

それらの興奮を抑え、集落の高台への狭い道を登りつめ、早朝から若宮八幡宮を参拝させて頂きました。


290-4

若宮八幡宮という社名だけで判断した様に思われても仕方がないのですが、社殿の規模からは不釣り合いなほどの覆いの掛けられた居並ぶ境内摂社は圧巻で、大山祇神社、松上神社(これは不明)、金毘羅神社、荒霊神社、愛宕神社、稲荷神社、大国主神社とこれほどの神々を臣下として従えるのは高良玉垂命の若宮である仁徳天皇(高良皇子神社の長男=斯礼賀志命)としか考えられないのです。


290-5


左から大山祇神社、松上神社(これは不明)、金毘羅神社、荒霊神社、愛宕神社、稲荷神社、大国主神社

 

 玉垂宮史料によれば、初代玉垂命は仁徳七八年(三九〇)に没しているので、倭の五王最初の讃の直前の倭王に相当するようだ。『宋書』によれば倭王讃の朝貢記事は永初二年(四二一)であり、『梁書』には「晋安帝の時、倭王賛有り」とあって、東晋の安帝(在位三九六~四一八)の頃には即位していたと見られることも、この考えを支持する。
 さらに現地(高良山)記録にもこのことと一致する記事がある。『高良社大祝旧記抜書』(元禄十五年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。この記事の示すところは、玉垂命の次男が跡目を継ぎ、その子孫が累代相続しているということだが、玉垂命(初代)を倭王旨とすれば、その後を継いだ長男は倭王讃となり、讃の後を継いだのが弟の珍とする『宋書』の記事「讃死して弟珍立つ」と一致するのだ。すなわち、玉垂命(旨)の長男斯礼賀志命が讃、その弟朝日豊盛命が珍で、珍の子孫がその後の倭王を継いでいったと考えられる。この理解が正しいとすると、倭の五王こそ歴代の玉垂命とも考えられるのである。
 この仮説によれば、倭王旨の倭風名や倭の五王中、讃と珍の倭風名が判明する。さらに推測すれば、三瀦地方の古墳群(御塚・権現塚・銚子塚)が倭の五王の墳墓である可能性も濃厚である。

〔高良玉垂命と九人の皇子(九躰皇子)〕

高良玉垂命(初代)――――― 斯礼賀志命(しれかし)→ 隈氏(大善寺玉垂宮神職)へ続く
物部保連(やすつら)  ―― 朝日豊盛命(あさひとよもり) →草壁(稲員)氏へ続く
            ―― 暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
            ―― 渕志命(ふちし)
            ―― 渓上命(たにがみ)
            ―― 那男美命(なをみ)
            ―― 坂本命(さかもと)
            ―― 安志奇命(あしき)
            ―― 安楽應寳秘命(あらをほひめ)
              ※読みは「草壁氏系図(松延本)」によった。

九州王朝の築後遷宮 玉垂命と九州王朝の都(『新・古代学』古田武彦とともに 第4集1999年新泉社)  古賀達也


290-6
 

久留米高良大社を中心に多くの若宮神社がありますが、これらは、高良玉垂命の若宮であり、久留米市山川町の高良皇子神社の意味であり、九体皇子を(高良玉垂命と神功皇后の間の5人の皇子と、年嵩となる仲哀の連れ子)祀っているのです。

290-7

「高良玉垂宮神秘書」の一部


29-8実は、もう一つ「これは…」と思った事がありました。

それは集落で見掛けた土蔵に付された家紋で、高良玉垂宮の裏紋でもある木瓜紋が、この長板集落でもかなりの数確認できたからでした。

帰りを急いでいたので、次回ゆっくり見て回るつもりですが、目に触れた集落の5~6軒の土蔵で立て続けに木瓜紋を見たのです。

もはや疑う余地はありません。長板の若宮八幡宮とは、高良玉垂命=第9代開化天皇と神功皇后との間に産まれた若宮=第14代仁徳天皇を祀る神社だったのです。

 

291 北北東に進路を取れ! ⑪ 但馬から伯耆へ、鳥取県岩美町岩井温泉の御湯神社

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291 北北東に進路を取れ! ⑪ 但馬から伯耆へ、鳥取県岩美町岩井温泉の御湯神社

20160102

久留米地名研究会 古川 清久


帰路、9号線で兵庫県から鳥取県に入ると、そこは岩美町ですが、これも石見の国(島根県西部)の置き換えと考えれば分かり易いかもしれません。

伯耆の国の中の石見の国といったところです。当然にも、太田、大谷といった地名が拾えます。

ここに、岩井という地名があり、湯かむりの奇習の残る岩井温泉があり、三十年ほど前に某旅館に泊まった事もありますが、それ以来、この地には何度も足を向けるようになりました。

そもそも、久留米にとって岩井という地名は岩井の乱(磐井の乱)の逆賊磐井を思わせるからです。


291-1

さて、ここには御湯神社という非常に気になる神社があります。


カーナビ検索 鳥取県岩美郡岩美町岩井141  御湯神社


291-2


この神社が、兵庫県養父市大屋町を中心に10社ほど分布する御井神社(兵庫県養父市大屋町宮本字高尾481、豊岡市日高町土居字天神228、豊岡市宮井字大門215…)という神社群と同じ系列の神社であると気付いたのは五年ほど前でした。

勿論、そのルーツは、久留米高良山那、高良大社のお膝元、味水御井神社以外には考えようがありません。

それは、大国主命を出雲の人と考える「古事記」による近畿大和朝廷のトリックを見破らない限り不可能なのですが、大国主命は宗像大社の本当の祭神であり、九州王朝の中期を支えた重要な臣下であったあった事を知ること無くしては理解できない世界かも知れません。


291-3


あくまでも、出雲の国は国譲りの結果移動した転勤先の様なものであり、本来の活動領域は九州だったのです。


291-4


同社由緒書


祭神は御井神(大国主命の御子)、大己貴命(大国主命の別名)、八上姫命(御井神の母神)、猿田彦命(天孫降臨の先導役の神)とありますが、ここで、百嶋由一郎最終神代系譜をご覧いただきましょう。

関係者を出しましたので、お考えいただきたいと思います。

「古事記」でも大国主命には多くのお妃がいることになっており、それを真に受けるかはともかくとして、同社縁起によれば八上姫命と大国主命との間の御子が御井神とされています。

この八上姫命は「嫡妻の須勢理比売命を畏れた」女神とされますが、百嶋由一郎神代系譜(阿蘇ご一家)では、八上姫は市杵島姫(須勢理比売)と書かれています

少し分かり難いのですが、「古事記」は5%しか信用できないとする百嶋神社考古学としては、その「古事記」の記述そのものに引きずられる必要はありません。

御 井神の候補者を下照姫とするか、その入婿のウガヤフキアエズと考えるかはありますが、同社縁起に猿田彦が出てくる以上、百嶋先生は、猿田彦は山幸彦=彦 火々出見=ニギハヤヒとしますので、先妻の異父男子と後妻との実娘と併せ四柱が祭神とされており、整合が認められることになります。

また、境内社の藤ケ森神社の別雷神も直ぐに贈)崇神天皇=ツヌガノアラシトと丸分かりですから、阿蘇草部吉見=海幸彦系にも配慮した配神とも見えるのです。

普通は、境内社を排除された本来の神と考える事が多いのですが、この場合、むしろ勝利者側(近畿大和朝廷)への水路を開いた崇神系が敗者とは思えないため、ここでは本来の神々が近畿大和朝廷から最も遠い僻陬の地で奇跡的に残されていたと考えたいのです。


291-5

まず、御湯神社とは数多くある温泉神社の類ではないかと思われる方も多いのではないかと思います。

事実、名湯岩井温泉があるのですからもっともであり、温泉神社の祭神を五十猛=山幸彦と理解している事から縁起の猿田彦とも繋がりそうです。

ただ、養父市大屋町の御井神社との繋がりを考える方がより分り易いため、その方向で仮説を進めて行きたいと考えています。

言う、行くは「イウ」「ユウ」、「イク」「ユク」とも読み(呼び)変えられます。

これは、母音が連続するのを回避するために子音の「Y」音が入れられたものですが、 どちらが古い形かと言えば、御井(ミイ)母音を重ねる方だと考えられそうです。その後、母音の重なりを嫌う民族、氏族の言語の支配力が高まり、御井(ミ イ)から御湯(ミユ)への変化が起こったものと考えます。




291-6

国指定史跡完全ガイドの解説いわいはいじとうあと【岩井廃寺塔跡】

鳥取県岩美郡岩美町岩井にある塔跡。蒲生川右岸の山裾に位置する白鳳(はくほう)期創建の廃寺塔跡である。旧岩井小学校の玄関前には巨大な凝灰岩製の心礎が残っており、地元の人たちはそれを「鬼の碗(わん)」と呼んでいる。これは三重塔の心礎で、長径3.64m、上面に11.4mの正方形の柱座がつくられ、その中央に直径77.5cmの柱孔があり、柱孔の底には直径20cmの舎利孔がうがたれている。この大きさから、塔の高さは31mにもおよぶと推定される。また、付近からは蓮華文の軒丸瓦(のきまるがわら)と布目瓦が出土している。塔心礎を中心に塔跡が、1931年(昭和6)に国の史跡に指定された。1985年(昭和60)に発掘調査が行われ、伽藍(がらん)の配置などの詳細は不明だが、金堂と法起寺(ほっきじ)伽藍配置の寺があったと考えられている。平安時代に当寺から移されたとされる木造薬師如来立像重要文化財)が、岐阜県延算寺にある。JR山陰本線岩美駅から日交バス「岩井温泉」下車、徒歩約10分。

「コトバンク」による


鳥取県(伯耆、因幡)には、淀江、岩井など白鳳期とされる多くの廃寺が確認されていることから、九州年号の「白鳳」期には既に九州王朝がここまで進出し、版図としていた!と、考えています。

それを今に伝えるかのように城之崎温泉のある豊岡市には今津、養父市には朝倉、小佐(日佐)…といった北部九州の地名が大量に拾えるのです。

そもそも、この岩美町の隣の兵庫県新温泉町には、二日市温泉、七釜温泉、赤崎、前原神社、香椎神社と九州の地名や九州の地名を残した神社が拾えるのですから。


291-7

兵庫県養父市大屋町の御井神社


兵庫県の但馬地方に御井神社があります。

この但馬という地名も宗像大社の大字田島の地名移動であることは、まず、間違いないでしょう。

神額に式内「御井神社」と書かれています。ただ、この神社がある場所をお分かりになる方はまずいないのではないでしょうか。

兵庫県の日本海側、但馬の国は養父市大屋町という奥まった山村です。

 この神社は旧養父郡内に相当数あり、大屋町という名の通り、中心的神社のようです。

この他にも、広く山陰一帯に美伊神社(余部)、御湯神社、(鳥取県岩井廃寺跡、岩井温泉)三井神社…といったものが分布しているのです。

 さて、九州王朝論者にとって「御井」と聞いて頭に浮かぶのは、公開講座が行なわれている久留米大学御井キャンパスの「御井」であり、近江八景「三井の鐘」の三井寺ですが、この三井寺さえも高良大社の麓、天台宗の古刹御井寺が移動したのではないかと考えています。

九州王朝の近江遷都が取り沙汰される中、但馬の御井神社が九州王朝と全く関係がないとは考え難いように思えます。

 そもそも、久留米市の目と鼻の先、佐賀県鳥栖市の中心部に養父町があり(明治には養父郡養父町)、現在でも旧三根、養父、基肄の三郡をもって成立した三養基郡が残っているのです。

そして、但馬が宗像大社の大字田島からの地名移動と分れば、志賀直哉の「城之崎にて」の城之崎温泉さえも、基山の一帯の人々の移動であり、それを支えたのが宗像の海人族ではなかったかと考えられるのです。

「ひぼろぎ逍遥」054 但馬の御井神社とは何か 以下をお読みください。


 この但馬地方に北部九州の地名が確認できるという事と御井神社の存在を中心に、故百嶋由一郎氏は“九州王朝が滅んだ後、かなりの人々が対馬海流に乗って日本海沿岸を北上し但馬に入っている。

 そして、それを援助したのが橘一族であった様だ…“といった話をされていました。

 考えれば、船以外に大量の兵員、物資輸送ができなかった古代において、但馬から男鹿半島、十三湊…は、奈良、大阪からは、九州より遥かに遠い避退するには最適の領域だったはずなのです。

 百嶋先生は、御井神社の事しか言われていませんでしたが、但馬の神社調査も頻繁に行われていた様で、多くの神社の祭神、摂社の配神からどのような氏族が入っているかを十分にお分かりだったようです。

 当方も遅れ馳せながら、但馬に二つの若宮神社を発見し、高良玉垂命の御子を祀っているものと考えており、今後、調査を進めたいと考えています。

 この九州王朝崩壊後の但馬以北への避退というテーマは、地名、言語、神社、廃寺…などを持って蘇らせることはある程度可能ではないかと考えています。

 既に、「数年前に九州王朝は但馬に避退した!」というテーマで長文を書いては見たのですが、まだ、納得が行かないため、地名研究会のHPにも、また、「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)の二本のブログとしてもオンエアしていません。

 いずれ、整理した上で公開したいと考えています。

 それまでの間、興味をお持ちの方、特に九州の方には、但馬と筑前、豊前、肥前の地名に多くの対応が認められることを検証されては如何でしょう。 


291-9


292 北北東に進路を取れ! ⑫ 伯耆岩美から石見の石見へ、島根県太田市の物部神社

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292 北北東に進路を取れ! ⑫ 伯耆岩美から石見の石見へ、島根県太田市の物部神社

 

20160102

 

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久

 

 

 

石見は太田の物部神社と言えば、戦艦石見が頭に浮かんできます。正確に言えば、巡洋戦艦か一等戦艦と呼ぶべきかも知れません。

 

その手の話は当ブログの任務ではありませんが、物部神社の主祭神である宇摩志麻遅命(ウマシマジ)が、戦艦石見の艦橋に飾る?祀られていたからであり、関係なしとは言えないのです。

 

 

 

石見(いわみ)は、かつて大日本帝国海軍に所属した前弩級戦艦である。艦名は現島根県西部にあった日本の旧国名石見国」に由来する。…

 

…本艦の前身はロシア帝国海軍ロジノ級戦艦オリョール(Орёл)」で、同国海軍の最新・最大の主力艦であった。バルチック艦隊の主力として日本海海戦に参加したが大破の末に降伏、日本海軍に鹵獲された。鹵獲時の本艦の浸水は酷く、日本海軍は1905530日に舞鶴海軍工廠へ回航させて応急修理を行いつつ本艦を6月に一等戦艦「石見」と改名した。その後、7月末から190711月にかけて呉海軍工廠で本格的な大修理と戦訓に基づいた改装を行い、190811月に艦隊へ編入させた艦である。


292-1

 

ボロジノ級戦艦3番艦として起工され竣工後すぐに第2太平洋艦隊(日本側の通称ではバルチック艦隊)に編入される。日本海海戦に参戦し19055月28に大破状態で降伏した。他の鹵獲艦は佐世保港に回航されるが、損傷の激しい本艦のみが舞鶴港に回航され応急修理が施されることになった。6月6付けで日本艦隊に編入され、「石見」と命名し一等戦艦に類別されたが1212日には等級が廃止され戦艦となった。本艦の守護神として島根県大田市にある物部神社 (大田市)から宇摩志麻遅命の神像が奉られていた。この神像は後に物部神社へ奉納された。     

 

ウィキペディア」20160102 2300 による

 冒頭から話が横道にそれましたが、今回は島根県太田市の物部神社のお話です。

 実は、頻繁に山陰に入っていながら、いつでも行けるとばかりに前を通過するだけで、参拝した事がない神社でした。

 今回、帰路でも帰り着くだけという開放感から、多少重苦しいテーマである物部神社に足を向ける事にしました。

 重苦しいと書いた理由は、まだ、物部氏の実体がつかめていないからなのです。

 勿論、物部氏とは多くの民族、氏族の融合体による職能集団の総称であり、この物部神社も必ずしも全体ではなく、一部だと思えるのです。

 スサノウ系、ニギハヤヒ系、阿蘇系、橘氏、紀氏、では、大国主系はどうなのか?

もしかしたら大幡主、ヤタガラス系もあり得ない話でもないのです。





292-2
 

御祭神宇摩志麻遅命は、物部氏の御祖神として知られております。御祭神の父神である饒速日命は十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯に天降り、御炊屋姫命を娶られ御祭神を生まれました。御祭神は父神の遺業を継いで国土開拓に尽くされました。

 

神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされましたので天皇より神剣韴霊剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、韴霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)

 

その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源)とされました。

 

次いで、御祭神は鶴に乗り鶴降山に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。(折居田の起源)

 

 

 

同社HPによる


292-3


292-4


スポット033 百嶋神社考古学(神代史)研究会の設立を!

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スポット033 百嶋神社考古学(神代史)研究会の設立を!

20160510

久留米地名研究会(神代史研究班)古川 清久


 日本の歴史学会、古代史学会、考古学会が単なる御用学でしかないという事実を知れば、九州王朝論者が多数派になることなどは決してありえないでしょう。

しかし書店を見ると、そこに並ぶ古代史本の大半は、最低でも邪馬台国九州説であり、九州王朝論に立つものが多数派であることは疑いようのない事実であり、この傾向はネット上の趨勢とも対応しています。

 NHKが畿内と九州をさも平等に扱っているかのように装い「邪馬台国は永遠の謎ですね!」などと歯の浮いたような嘘まみれの締めくくりをしようとすると、並行して行われたTVのdボタンによる視聴者参加・投票を行なうと、九州と考えている人が9割になるといった現象が存在し、在野では九州説が圧倒的多数派であることが分かります。

 それは、戦後史学に切り込んだ故古田武彦の初期三部作、中期三部作を筆頭に、それに連動する民間研究がかなりのところまで浸透したことが反映されているように見えるのです。

 それは、ミネルヴァ書房から出された古田全集とも言うべきものが万単位のベスト・セラーとなったことに象徴されているでしょう。

  ところが、これらを荷った九州王朝論の立場にある古代史研究者も「古事記」「日本書紀」(外にはないんだから…と通説派の用意した土俵でドン・キホーテ宜 しく素振りを始めるしかないのです)を基礎に九州王朝論の立場から解読し、なんとか整合性を求めようとする方々が大半なのです。

 このような中、人生の全てを神社研究に投入した九州王朝論者の百嶋由一郎氏の言説は衝撃的でした。

これは、古田武彦の「『邪馬台国』はなかった」「失われた九州王朝」…の登場の衝撃に匹敵するものでした。


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この65年間に亘る百嶋研究を僅かでも引き継ぐことが出来たことは幸運でした。

 「書記はチョコットは正しいことを書いているが…」「古事記の95%は嘘です」…

歴代天皇の中には多くの臣下が格上げされ取り込まれ(これは藤原氏が権力維持のために配下の氏族を取り込もうと捏造したもの)縦長に付けたし挿入し引き延ばされているのであって、それをコンピュータ解析と称して(当時の郷土史家はコンピュータと聞いただけで神にでも遭遇したように考える方ばかりだっただけの事ですが)天皇の平均在位年を空想し何とか整合性を追求する芸当(軽業)まで登場するに至って、氏は「京都の方で法螺を吹いていらっしゃる先生…」とのお話はさらに刺激的なものでした。

 最低でも欠史8代(これも良いとこ取りして何故か初代神武は実在としようとしているのですから恣意性は明らかですが…)、分かり易く、初代神武から第10代崇神までの10人は全て実在なのですが、そのうち九州王朝の王統は、神武、懿徳、孝霊、孝元、開化(高良玉垂命)であり、これ以外の第2代綏靖以下、開化天皇の臣下でしかなかった崇神など5代は、民族も、氏族も異なる臣下を挿入したものとした百嶋神社考古学は、漢籍を読みこなし、中国語を操り、中国大陸で400回飛行機に乗ったというフィールド・ワークから全国での徹底した神社調査によって九州の…という意味は列島の古代史像を浮き上がらせられていたのでした。

 そのベースとなっていたのは、久留米の高良大社に奇跡的に残された「高良玉垂宮神秘書」(次ページに一部を掲載)であり、これに基づいて九州の古代史(と言うことは列島倭国の古代史)を描かれたのでした。

 ここでお考えいただきたいと思います。

百嶋由一郎氏は自信を持って記紀の9割り方は嘘と明言されていました。


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これ以外にも、「神武東征の神武は初代ではなく神武僭称第10代崇神天皇の事績で、初代神武は全国巡行を西回りで行っている。」

 「16代仁徳天皇(「高良玉垂宮神秘書」では第17代とするこれは福岡県下の天皇の代数が一つ増えてることと対応し、神功皇后が天皇とされた可能性を示唆している)が九州王朝系の事実上最後の天皇(若宮神社の祭神)。」

  一旦このような世界を知れば、九州王朝論者の研究に於いても「記」「紀」を金科玉条の如く聖典として崇め拝跪し描かれた内容の大半が、所詮は藤原不比等の 仕組んだ罠(近畿大和に帰着するブラック・ホール)に始めから落ちていることになり、半ば、不比等の手のひらで踊らされていることになるのです。

  既に、古田武彦氏の人生を掛けた研究を踏まえ、現在、九州王朝論者でも孤高を守り抜いた佃収氏が古田武彦を凌駕する研究で最先端を走り続けておられます が、この事実を全く知らず、古田全集で満足されている九州王朝論者が非常に多く、やはり古代史の世界でも視野の狭窄を感じざるを得ません。

 やはり、天才とは市井に埋もれ表舞台には立てないものなのかも知れません。

 さて、ここまで分かってくると、近畿大和に邪馬台国が存在したなどとするアクロバットにも似たお伽話=デマは言うまでもなく、崇神の東征を神武の東征と考えた東遷説を含め、九州王朝論者にしても同時代に九州王朝系の傍系分派の畿内進出として描いているのですから、8世紀初頭まで存在した九州王朝本体を描き出したものの、崇神の畿内進出を九州王朝の高良玉垂命・神功皇后(皇宮皇后)の臣下による拡大とは考えられなかったのです。

 そして、百嶋神社考古学では、その後、仁徳による二度に亘る九州王朝東遷が行われるのですが、その後の展開は百嶋先生があの世に持っていかれ未だ謎に包まれているのです。

 既に、考古学、は考古学協会に体現される利権集団によって関西系公共工事の下請けと堕落し事業費の大半を畿内で消費することを目的に、邪馬台国九州説、九州王朝説を排斥し真実に蓋をしてしまっています。

 戦後、歴史研究のもう一つの柱とされた文献史学も九州のフィールドを無視し「記」「紀」を拝跪する構造では将来的展望は全く閉ざされています。

 久留米地名研究会は、地名研究を看板としていましたが、それは表向きで、実質、九州王朝論の立場からの古代史の研究会でした。

 しかし、これまでの事を理解するならば、次のステップ、次の研究に踏み出さない限り展望は一切開かれない状況に陥っているのです。

 百嶋講演を久留米、太宰府、菊池…で開始した当時、かく言う私自身、百嶋氏の話があまりにも荒唐無稽に思え重要性は感じたものの補足的な取り扱いに留め、従来の九州王朝論の立場からの古代史研究に追われていたのが実情でした。

 しかし、その間にも、百嶋研究の重要さを感じていた熱心な研究者が育っていたようで、百嶋神社考古学勉強会には、現在最も熱心に神社を調べようとする意欲と力量を付けて来た最良の人々が集結しつつあるようです。

 古代の九州は間違いなく列島の歴史の中心地でした。

そのため、現在もまだまだ調べる価値のある神社、神社伝承、文書が残されています。

 戦後、無視され放置されたが故に手つかずで残されている神社研究こそが、九州の、ひいては列島の古代史を解き明かす鍵を持っているものと考えられます。

従って、重要な部分で覆い隠されている古代の九州を描き出すためには、百嶋研究を武器に切開して行く以外に方策はないと考えています。

三年前に行なおうとして実現できなかった宮地嶽神社に於ける百嶋神社考古学研究会を行いたい!実現したい。それに先行してネット上に百嶋神社考古学(神代史)研究所を設立し、ブログ単位で多くの神社研究者を終結させたいと考えています。賛同される方は09062983254まで。


純粋な研究目的で百嶋神社考古学に関する神代系譜、音声データ、手書き資料のスキャニング・データを必要とされる方は、同じく09062983254までご連絡ください(随時対応可能)


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293 北北東に進路を取れ! ⑬ 本来の目的地だった男鹿半島の真山神社について

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293 北北東に進路を取れ! ⑬ 本来の目的地だった男鹿半島の真山神社について

20160103

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


今回、東北を目指し、越後の彌彦神社を見て山形の手前までは進出したものの、何故か、残り300キロを走り抜ける気力を失い引き返したのは、“余りにも点と点を繋ぐような調査旅行は微妙な変化の連続性を把握できないことから、本来の姿ではない”との思いが、次第に高まって行ったからでした。

 マッカーサーの蛙跳び作戦宜しく、快調に飛んで来てみたものの、あまりにも安直な調査の在り方への嫌悪感が次第に増幅して来たのでしょう。

 次回は、移動は移動として、その周辺をじっくり見て回り、他の地域に色目を使わないと言うやり方を取りたいと考えています。

 それはともかく、最終目的地であった真山神社への思いは消せず、未踏ながら、予習として先行ブログを書くことにしました。

 フィールド・ワーカーが、ネット情報だけを頼りに好い加減な予見を交えた話を書くのは失礼である上に、違法ですらある事は重々承知の上ですが、所詮、その程度のものとして読んで頂く事はあながち悪いものでも無いかも知れません。

その最後の目標としていた神社とは秋田県の男鹿半島の先端中央にある真山神社でした。

一般的には秋田ナマハゲ神社として知られる真山(シンザン)神社です。


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真山神社に伝わる社伝によりますと…。

古事記・日本書紀に記される12代、景行天皇の御世 に、武内宿禰(たけのうちのすくね)が北陸北方地方視察のあと男鹿島に立ち寄った際、男鹿半島の秀峰、湧出山に登ったそうです。そのときに、武内宿禰が使 命達成、国土安泰、武運長久を祈願するために、この地に瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)の二柱を祀ったことが始まりだと言 われています。

御祭神

<主祭神>瓊瓊杵命(ににぎのみこと)武甕槌命(たけみかづちのみこと)

<合殿神>天照大御神(あまてらすおおみかみ)豊受大神(とようけのおおかみ)豊玉毘女神(とよたまひめのみこと)少彦名神(すくなひこなのみこと)大山咋神(おおやまくいのかみ)大名持神(おおなもちのみこと)

塞神三柱神(さえのみはしらのかみ)

※塞神三柱神とは…衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)、八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)の3柱の総称

同社ホームページから


 「この神社を何故最後の目的地にしていたか…」とお考えになる方も多いと思いますが、理由は到って簡単で、故)百嶋由一郎氏が話されていたからです。

 まず、“この秋田県の真山神社の神様が九州の神様とか阿蘇の神様である”などと言えば、まず、信用されない方が多いと思います。

 正直言って書いている本人も、「どうせ理解して頂く事はできないだろう…」と思いながら書いているのですが、周辺を調べると、やはり百嶋先生がおっしゃっていた事は正しかったのではないか…と考えているところです。

持って回った話を続けましたが、この神社の主神は武甕槌命(塚原卜伝が崇拝した後の春日大神)であり、その実体は、火の国(貶められた表記に変えられた分国以前の肥前、肥後)からの来訪者で崇神天皇の御世に常陸にやって来たとされる建借馬命(タケカシマノミコト)=阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミの事であり、東征軍として常陸にやって来る前は、火の国の実力者だったのです。

 以下も、良く読ませて頂いている「神社探訪 狛犬…」です。



この神社は男鹿半島の最高峰・本山(赤神の岳)山頂に鎮座しています。
 古くから山岳信仰の霊場として栄え、かつては本山山頂は女人禁制の場であり、
293-2赤神神社の本殿や薬師堂なども建っていましたが、1952年、航空自衛隊レーダー基地建設のために山頂から遷座されたという事です。
 ここには江戸時代に於ける秋田の有名な紀行家・菅江真澄も文化7(1810)に 訪れ、真澄記に「ここは本山の山頂赤神の嶽。石を積んで囲み、中に薬師如来の堂がある。東には森良山、森山、寒風山が連なり、八郎湖の中から突き出ている ように見える。戸賀の浦、根太島、鼻ケ崎、一の女潟などが良く見える。山陰に多くの鹿がいて、笹原の中を群れて一群で去っていった。」と記しています。
 また本山縁起には、「この赤神神社は、赤神、つまり、中国前漢の孝武帝を祀っており、漢では「火=赤」とされていたために、赤神といわれたのでしょう。またある記録には、景行天皇2年に、赤神が天から降りてきたと書かれています。日本書紀には、景行20年に武内宿禰を北陸道などを平定させるため派遣したと記載されており、後には満願上人が、この山に詣でて12神将を建立しました。12神将とは、薬師如来に従う鬼神、つまり夜叉のことです。延暦3(784)将道が赤神を日光山に勧請しました。貞観2(860)には慈覚大師が赤神山日積寺永禅坊を建立し、武帝飛来の図を描き、御神体と
しました。また智人上人のドクロから4cmほどの薬師像をつくり、瑠璃の箱に入れ、石の宝蔵にしまい、山頂の赤神社に安置しました。」とあります。

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現在、真山神社とは呼ばれていますが、この神社は、かつては「赤神社」or「赤神神社」と呼ばれていたようです。

この点に関心を持たれ、故)百嶋由一郎氏も同社宛に手紙を書かれ、その点を確認され、同社から“元は赤神社と呼ばれていたと連絡を頂いています…云々”と話しておられました。

事実、周辺にも赤神神社と呼ばれるものが数社存在しています。

以下は、百嶋先生の音声を文字化したものですが、元菊池(川流域)地名研究会のメンバーだった牛島稔太さんのサイトからの切出しです。


これは阿多で協議が成立した神武ご巡幸の出発点は阿多でしたが、形として残っているのは、鹿児島県川内市甑島です。甑島には鹿島という、鹿島大神(春日神社の神様の名前)、鹿島があります。そこではその神様の名前、大歳の神だから「トシドン」です。この方は、別の名前が「あか」さんだったんです。「まさかあか」又は「はえひあか」、これが、「あか」が残っているのが秋田県男鹿半島の「あか」神社、現在は真山(まやま)神社といっています。


「肥後翁のblog 民俗・古代史及び地名研究の愛好家」 牛島稔太のHPによる


「百嶋神社考古学」では、「神武東征」は贈)崇神(ハツクニシラススメラミコト)によるものでしかなく、神武の遠征はあったが、神武ご巡幸と呼ばれ、本物の神武(カムヤマトイワレヒコ)による日向からの東征は存在しなかったとします

その随行者として、若き日の草部吉見=大歳神=トシドン=正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、『紀』の正哉吾勝勝速日 天忍穂耳尊、『先旧事』の正哉吾勝々速日天押穂耳尊(マサカツアカツ…豊前の赤村のアカも…)=アカ神が存在し、実際に男鹿半島まで遠征している可能性を 否定できないのです。

さらに言えば、鹿児島県のいちき串木野、薩摩川内、阿久根…の沖に浮かぶ甑島には鹿島町(下甑島)があり、武甕槌命=鹿島大神が祀られています。

また、同地にも弧状列島を北上したとされるナマハゲ文化(仮面来訪神)が存在し、「トシドン」と呼ばれていました。草部吉見神の北上とこの赤神社、赤神神社のナマハゲと通底していることに故百嶋由一郎氏は気づかれたのだろうと思うのです。


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民俗学、民族学の世界ではこの仮面来訪神のルーツを遠く赤道辺りまで辿りうるものとします。

ただ、誰一人知らない者のない秋田ナマハゲを草部吉見神=ヒコヤイミミなどと考える事は、トンデモ説、荒唐無稽な話として顔を背けられそうですが、最低でもこの男鹿半島一帯には金ケ崎温泉、金崎、弁天崎、赤神神社、二田神社…といった九州の地名が直ぐに拾えます。

このニ田神社は、新潟県柏崎市の二田物部神社の二田であり、そのルーツも筑豊の物部25部族、筑前は鞍手郡二田郷の二田物部の移動(展開)にあるでしょう。

また、金崎、金ケ崎温泉の金ケ崎も福井県敦賀市の気比神社正面の朝倉氏の居城であった金ケ崎城の金ケ崎であり、筑前は宗像大社正面の鐘ケ 岬、鐘崎漁港の福岡県宗像市鐘崎の地名移動であり、弁天崎の弁財天様もこれまで何度も書いてきた宗像大社の市杵島姫であり、草部吉見系耳族、宗像大社(本 当の祭神は大国主命)を信奉する海人族が組織だって進出している事が認められるのです。

勿論、そのベクトルは対馬海流に乗った南から北であり、西から東であろうことは言うまでもないでしょう。


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赤神神社について男鹿半島の本山、真山に祭られている赤神は古くから「漢の武帝」であるとされています。これは、江戸時代に久保田藩士梅津利忠が撰した「本山縁起別伝」にあり、ほとんど通説になっているものです。


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「当山赤神は、前漢の孝武皇帝の祠なり。旧記にいわく景行天皇二年、赤神天より降れり、あるいはいわく、日本武尊化して白鳥となり、漢の武帝を迎う。武帝は白馬に駕し、飛車に乗り、赤旗を建て、西王母と此の嶋に至る。五鬼は化して五色の蝙蝠となりて之に従う。故に蝙蝠を以って使者となす。時に景行十年冬十月のことなり。天皇、武内宿禰をつかわして北陸道を巡視せしむ。宿禰、此の嶋に至り、神異を見てこれを奏せり。ここにおいて朝廷皇女をして行かしめ、これを祭る。号して赤神という。皇女はすなわち赤神明神という(後略)」(原漢文)また、菅江真澄翁の『牡鹿の嶋風』では「赤神山大権現縁起」という名称で、さらに鈴木重孝翁が著した『絹篩』でも「伝記」としてほとんど同じような内容で記述されています。

赤神神社HPから


と、ここまで書いてきましたが、これはただの事前調査に過ぎません。

「この前漢の孝武皇帝の祠なり」…も興味深いですね。再度調査旅行を思い立ちたいと考えています。


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294 北北東に進路を取れ! ⑭ 霊能者に行けと言われたパワー・スポット富山の皇祖皇大神宮

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294 北北東に進路を取れ! ⑭ 霊能者に行けと言われたパワー・スポット富山の皇祖皇大神宮

20160105

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


今度の北への調査旅行は、往路こそ下関から姫路東まで山陽自動車道を利用しましたが、往復3200キロのうち大半は一般道走行の1011日の調査旅行になりました。ブログに書いたのは、そのうちの一部でしかなく、全体では60社近くに参拝させて頂いたことになりますが、そのほとんどが初見の神社でした。

山形の手前まで行き、結局は里心がつき足早に戻ってきたのですが、今回はそのなかでも多少毛色の異なる神社をご紹介したいと思います。


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富山市内の一角にある古代には島か岬上の丘陵地と言った雰囲気を持った神通川沿いの所です。

遠くには市街地を越えて北アルプス連峰になるのでしょうか巨大な山の壁とも戸板とも言うべきものが立ちふさがっています。

直ぐに、富山とは戸山の意味ではないか、砺波平野は富山の「ト」と関係があるのではないかなどと軽いイメージが浮かんできますが、ただの通過者が軽々に判断すべきでもないでしょう。


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雪を頂いた大山脈と言うものはそれだけで神々しさを放っています。スケールは異なるでしょうが、中朝国境の白頭山(ペクチェ)や雲南省麗江の玉龍雪山も、きっとそのような神聖性を持っているのでしょう。


さて、今回の神社は私達が通常調査の対象としている神社とは異なるもので、一般的には霊能者やパワー・スポット巡りをされているある種異質な方々の中で有名な神社です。

 この神社は、北を目指していると話したところ、熊本の霊能者グループの某女王陛下から富山を通るなら(当然ですが)この神社に行って下さいと言われ足を延ばしたものでした。

当然ながら神社庁管理下にはないでしょうし、普通の神社とは異なる雰囲気を放っています。

 神社に近づくにつれ、どうもこの神社はその手のものである(決して侮蔑して申し上げているのではありませんので予めお断りさせて頂いておきます)と気付きだんだんと状況が呑み込めてきました。

仮に神社庁管理下にないとしても、それがどれほどの意味があるかと言えば実は何もないのです。

山陰に多い三宝荒神にしても大半はそうですし、神社庁による庇護と圧力妨害とは相殺すれば結局はなにもないのです。

本来信仰とはそのようなものであり、権力に尾を思いっきり振るだけで、恐らく国家、国土、国民への思いも、探究心は元より信仰心の欠片もない役人どもがどうこう言うようなものではないのです。

神社に近づくにつれ、現地には整備された駐車場さえないことに気付きました。

あらかた間違いないという所まで寄せ、付近の方にでも尋ねようと思うと、若い女性の二人組に男性も加わったやはりネット情報を頼りに初めて訪問すると言う三人連れ(どうやら四人連れだったようですが)に遭遇しました。

場所を尋ねると、「私達も同じところに行っているんです」とのお答えでした。

支援学校の裏口と言ったところですから、それほど恵まれたところではないのでしょうが、住宅地の奥まった場所に舗装もされていない同社への参道がありました。


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由緒書としてもすごいものですが、正直言って当方の乏しい理解力を遥かに超えるものです


同社の公式HPと思われるサイトがありますので、「皇祖皇太神宮資料館」と検索されれば同社の由緒を読むことができます。かなり長文ですが、一応、目を通させて頂きました。正直申し上げてお手上げです。


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「竹内文書」の存在は知られており、その手の教団があっても一向に違和感はありません。

当然ながら、関心を向けたのは30行ほど並べられた祭神名でしたが、半分ほどは見当が付くものの、残りは皆目わからない神様が多数並んでおられ、すごすごと撤退せざるを得ませんでした。

ここに行けと命じた?霊能者は「すごいパワーのあるところだ!」と言われたのですが、私にはそれを受け止めるアンテナが全くなくこれまた撤退せざるを得ませんでした。

しかし、帰る途中も何組かのグループが訪問されており、この手の参拝者の多さには何らかの意味があるのではないかとしみじみ考えさせられたのでした。


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祭神名の一部

初代神武、ウガヤフキアエズ、山幸、海幸、ニギハヤヒ、?、イザナギ、?、…ウアマシマジ、カミムスビ、タカミムスビ…と神様のオンパレードです。

295 北北東に進路を取れ! ⑮ 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した

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295 北北東に進路を取れ! ⑮ 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した

20160105

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


新潟の彌彦神社へと快調に走っている途中、有名な東京電力(株) 柏崎刈羽原発の辺りを通過していると、二田という地名と物部神社という表示がカーナビに飛び込んできました。

休憩も必要ですからこれ幸いでもあり、まずは見聞とばかりにハンドルを右に切りました。

場所はこれまた有名な出雲崎町の手前、柏崎刈羽原発の北東五キロほどの旧西山町です。


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これほどはっきりした幟を揚げた物部神社も珍しいと思いますが、この「二田」が筑豊の物部25部族(「先代旧事本記」)の移動先の一つである福岡県鞍手郡小竹町新多=二田(ニイタ)であることは疑いようがありません。


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遠来の地であり軽々には語れないのは重々に分かっていますので、ここでは、筑後物部の筑豊への、さらには日本海側への展開の一例を発見したとだけとして、これ以上の深入りを止めておきますが、一目、社殿の造りは筑後物部の鞘殿の様式と見たいところです。

 ただ、雪深い土地柄ゆえの鞘殿かも知れないため単純な当て嵌めも危険かもしれません。

当然、ガラスの温室風の参拝殿も寒さ対策としての土地柄のもたらすものの可能性も考えておくべきでしょう。

ここで面白いと思ったものに、社殿に付された神紋がありました。これまた、一目、徳川葵の原型とも言うべきものに見えるのですが、注意すべきは、この神紋が中世の豪族の物であるのか、古代に入った物部氏の一派が使っていた物かが分からないのが残念な限りです。

ここら辺りになると地域の文化、歴史への体系だった知識の蓄積がなければ判断できない領域になるのです。

いずれにせよ、物部氏が後の武士階級に成長した可能性を示すものであり、その裏付けを発見したと言いたいところですが、当面は保留を余儀なくされそうです。

地元の郷土史家などとの接触も必要ですが、ただの物見遊山の旅人の質問においそれと耳を貸す識者もいないでしょう。

しかし、物部氏から「モノノフ」と言う言葉が生まれ武士が生まれたとするのは痛快な仮説ではあります。


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立ち葵から三つ葉葵さらに徳川葵への変化の一つを表すものであれば興味深いものです。

尻合わせ三つ葵紋は徳川氏=松平氏がその初期に使っていた形跡があるようで、面白くなって来ました。




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敬愛するHP「倭国九州王朝」より

 ここで、いつも参考にさせて頂いている「苗字と家紋」…


295-6に助っ人を頼みたいと思います。以下。

徳川家の三葉葵紋
 一般に徳川氏は葵紋であるのが定説化されている。水戸黄門で「頭が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか」という 決め台詞が有名だ。


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徳川家の三つ葉葵の原形は、二葉葵といわれている。この二葉葵を紋章とするのは、だいたいが加茂明神信仰から出て いる。二葉葵は京都の賀茂神社の神事に用いられてきやもので、別名カモアオイともいわれる。そして、加茂祭には 必ずこの二葉葵を恒例の神事よして用いたことから、この祭を葵祭という。
 このように葵は、加茂祭に用いた零草であるため、この神を信仰した人々がこの植物を神聖視し、やがて、 これを家紋としたことは当然のなりゆきと言える。『文永加茂祭絵巻』に、神事の調度に葵紋が用いられているのが 見られる。このころから家紋として用いたようだ。 ………
・写真:上賀茂神社の紋-二葉葵

295-8  葵紋が武家などの家紋となったのはかなり古い。『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・ 島田氏らが戦国時代前期ころから用いていたとある。このなかで、本多氏の場合「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」と『本 多家譜』にある。このことから、本多氏の祖先が賀茂神社の神官の出であることにちなんだことが知られる。
………
・家紋:立ち葵紋
 同じく、松平氏が葵紋を用いたのも加茂神社との関係に基づいたもののようである。松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は加 茂朝臣と称しており、加茂神社の氏子であったことがある。これは松平三代信光が、三河国岩津村の妙心寺本尊の胎内に納めた願文に「願主加茂朝臣信光生年二 十六歳」とあることでもわかる。このように、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた。その葵紋は二葉か三葉か確たるところはわからない。
 しかし、徳川氏の先祖と される新田氏の家紋は「大中黒」または「一引両」である。徳川氏が先祖の家紋を引き継ぐとすればさきのいずれかでなくてはならない。松平氏に婿入りしたた めにあえて新田の家紋を使わなかったのであろうと思われる。また、三代・信光の墓には剣銀杏の紋が付けられている。少なくとも信光の時代には、葵紋は定着 していなかったようにも思われる。


この点に関しては我が百嶋先生もお気づきだったようです。

新田は○に一文字(一引き)です。

徳川が、新多物部→二田物部→新田氏→徳川氏とすれば、面白いのですが、そのことをお示しするために、百嶋先生の資料から葵のヤタガラス神紋系譜をご覧いただきましょう。

これで、この二田(新多)物部からその延長が判れば良いのですが、結論を急ぐのは冷静に止めておきましょう。しかし、上賀茂=崇神の系統の可能性は高いのではないでしょうか?

スポット034 ネット上に百嶋神社考古学(神代史)研究所の設立を! ②

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スポット034 ネット上に百嶋神社考古学(神代史)研究所の設立を! 

20160510

久留米地名研究会(神代史研究班)古川 清久


 これは「ひぼろぎ逍遥」のここ一週間のアクセス件数(アメーバブログ)です。
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次は「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)ですが、週間のデータが出ないため、昨日のアクセス件数を表示します。

 どちらもアクセス件数が日量で500件以上になっています。

 二つのブログでようやく安定して日量1100件ぐらいになってきましたので、来年の今頃にはもしかしたら12001500件の間に上がっている(基礎データの絶対量は増え続けますので)かも知れません。

 ブログを二つに分割した理由は、プロバイダーなどからの圧力を多少は緩和でき、場合によっては、いつでも他に移行させるという体制を維持することによって、アクセス制限とか部分的に公開ストップといった不当な干渉(検閲)を牽制しようと考えているからです。

 ブログのスタートから二年ちょっとでこのレベルまで上がって来れたのは、一重に読者の皆さんのおかげと感謝していますが、日量1000件としても年間36万件のアクセスになるのですから、なんとか年間50万件のアクセスも照準に入ってきたようです(オンエア直前の状況では11001200の間に入っています)。

  地名、民俗学、古代史にシフトした「ひぼろぎ逍遥」と、神社研究に特化した「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)の二本立てのため多少は読者層が異なるのでしょうが、 この二つのブログをコアに百嶋神社考古学に関心を寄せる研究者のブログを集め、ネット上に神社考古学(神代史)研究所(会)を創りたいと考えています。

 内容は各々異なるでしょうが、多くの情報を集中させ将来的にはネット上で情報交換、意見交換もできる体制が取れたらと考えています。

 趣旨に賛同される方は、リンクを張るだけで研究室が提供できますので、ご連絡(09062983254)を頂きたいと思います。

 既に、幾つかのサイトから賛同を頂いていますが(現段階で12blog+HP)、将来的には神社考古学講演会、神代史研究会を行いたいと考えています。


神社考古学(神代史)研究所(会) → ○○研究室 → 各連携サイト、blog


 神社研究者の連合体がそのまま古代史研究とか九州王朝研究に繋がるとは考えていませんが、まずは、

神社を研究されておられる方々の緩いネットワークを創り、情報交換と交流を進め神社の引いては古代史の解明へと踏み込みたいと考えています。

百嶋先生は生前に、九州王朝論を多少とも理解した人でなければ、神社を研究しても意味がないし、話をする価値もないとおっしゃっていました。


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つまり、神社は二重、三重に権力交代の影響を受けており、神社の表層だけを見てもそこに祀られている神とそれを奉祭する氏族を見出すことはできず、その神社とその背景の本質は見えてこないのです。 

 また、私自身も九州王朝論研究はそれ自体で一つの完結性を持っており、古代史解明のための十分条件と考えていたのですが、神社を調べれば調べるほど、特に九州に於いては「記」「紀」と整合しない事に直面してきたのです。

 結局、九州王朝論は古代史研究の必要条件でしかなく、最低でも九州の神社の全体像が分かって初めて古代史の真実が浮かび上がってくるのです。

  神社研究者の方々も、単にセオリツヒメ(実は櫛稲田姫)が誰かを探し歩くとか、コノハナノサクヤヒメを追い求めるとか、アイラツヒメを探るといった個別の テーマで神社を探訪されている方はもとより、もう一歩九州の古代史を探るというところまで踏み込もうとされるのならば、ぜひ、百嶋神社考古学の世界まで飛 躍して頂きたいと思うものです。

 神社研究とは、表札に書かれた神々をそのまま覚え込む事でも、御朱印帳を増やすことでもありません。

神社の本当の神々を探り当て、その地に生きた人々の歴史知り、自らのルーツを発掘する事なのです。


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296 北北東に進路を取れ! ⑯ 伯耆の国三朝温泉の村上神社

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296 北北東に進路を取れ! ⑯ 伯耆の国三朝温泉の村上神社

20160106

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


話は前後しますが、但馬から因幡、石見と山陰を戻るのんびりとした帰路、久しぶりに伯耆の名湯、三朝温泉の朝風呂に入りしばらく休憩することにしました。

今年の春先(20153月中旬)にも東北を目指して国道9号線で因幡と但馬の境界まで進出しましたが、鳥取県岩美町岩井温泉の5キロ先辺りで雪のため進めなくなり断念し、諦めて三朝温泉まで逃げ帰り、それでも雪に閉じ込められ撤退することにしたことを思えば、山形の手前まで進み、それなりに成果を上げて帰ってきたのですから、帰路の神社は余裕でプラス・ワンと成る訳です。

しかし、休憩するとしても途中にめぼしい神社があるとなれば見過ごす訳にはいきません。


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これと言った大社でも、美しい社殿の神社でもありませんが、以前から気になっていた神社で、この三朝温泉の傍らの集落の性格が多少とも垣間見えた神社です。

場所は、倉吉市街地から三朝温泉へと続くカジカ鳴く天神川水系の小鴨川沿いの一角です。


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それでも、集落内の道路が狭いことから車で乗り入れるのは至難の業でした。

 しかし、気になっていたとおり感はズバリと当たり、ド偉い神様と遭遇することができました。

 その話に入る前に、参拝殿、神殿を見て頂きましょう。


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この神社の祭神は強固な結束の親族で形成されています。

 まず、非常に有難いことに、この神社の神様はハッキリと顔が見えます。

しかも、組み合わせから、この四柱が誤りのない、また、疑い余地が全くないものであることが分かります。

皆さんに少し分かり難いのは、主神と考えられる「土御祖之命」かも知れません。

「土」を「槌」の文字の置き換えと気付けば見当が付くのです。

そうです、「古事記」で、火之夜藝速男神(ヒノヤギハヤオ)火之炫毘古神(ヒノカガビコ)火之迦具土神(ヒノカグツチ=加具土命)と、「日本書紀」で、軻遇突智(カグツチ)火産霊(ホムスビ)とされる金山彦(カナヤマヒコ)=事解男 大神という最上位の神の事なのです。

勿論、「記」「紀」は神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた火の神としてごまかしていますが、百嶋最終神代系譜を見れば分かりますが、イザナギとイザナミとの間の子はスサノウなのです。

記紀は、やはりアマテラスの弟としておきたいようです。

と、ここまでは分かった気でいたのですが、どうも怪しいのです。

それは、「土御祖之命」を「金山彦」と考え場合、山陰に多い、白髭三宝荒神の「金山彦命」「奥津比古命」「奥津比女命」の三神に対応するからです(実際にはそれで良いと考えています)。

ただ、当会の百嶋神社考古学研究班でも最も百嶋先生の内容に精通している女史に尋ねたところ、“「土御祖之命」は、百嶋手書きデータの金神神代系譜の「大土御祖神」の事であり「大山祇神命」の別名になる”との事だったのです。

ただ、「大山祇神命」と「奥津比古命」「奥津比女命」の三神とすると、同族ではあるものの、組み合わせがおかしくなり、やはり、「土」を「槌」の文字の置き換えという最初の理解が正しいのではないか(神社側の誤りの可能性が高い)との結論に落ち着いたのでした。


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ウカノミタマは伊勢神宮外宮の主神、豊受大神その人ですが、百嶋神社考古学では、九州の方にはなじみの深い豊前は香春町の香春神社の主神である辛国息長大姫大目命(カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト)と同一人部であり、アメノウヅメノミコトの事なのです。


ウカノミタマは、日本神話に登場する神。『古事記』では宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)、 『日本書紀』では倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)と表記する。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。両書とも性別が明確にわかるような 記述はないが、古くから女神とされてきた。『日本書紀』に嚴稻魂女(厳稲魂女、イツノウカノメ)という神名もあるが、これはイズウカノメとも読まれる。

伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(ミクラノカミ)として祀られた。

ウィキペディア(20160106 1500


念のために敬愛する「玄松子」氏からも通説の立場を確認しておきましょう。


宇迦之御魂神 うかのみたまのかみ

別名 稲荷神/稲荷大神:いなりのかみ/いなりおおかみ 宇迦之御玉神:うかのみたまのかみ

宇賀能美多麻:うかのみたま 宇賀神:うかのかみ/うがじん 

若宇迦乃売命:わかうかのめのみこと 倉稲魂命:うかのみたまのみこと

…中略…

稲倉魂命:いなくらたまのみこと宇迦之御魂神は稲の精霊神だが、穀物の神としては他に、 保食神・大気都比売神、登由宇気神(豊受大神)、豊宇賀能売神、若宇加能売神、御食津神などがあり、 これら神々を同神と考える場合も多い。稲荷神とも同神と考えられ、また白蛇の姿で財宝神とも考えられた。 また、宇賀神として弁才天とも習合した。

宇迦之御魂神を稲荷大神とも呼ぶが、伏見稲荷大社では、 宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神の五柱で、稲荷大神としている。


では、残るお二人の御兄妹の神様も確認しましょう。


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百嶋手書き資料から 実際に金山彦ファミリーを祀る宮崎県川南町の白髭神社(左)同「系譜」(右)


「系譜」のスサノウとクシナダヒメの間に生まれた長髄彦も別名「奥ツ彦」なのですが、三宝荒神の場合は、「大山咋」=「奥ツ彦」とそのお妃である「鴨玉依姫」=「奥ツ姫」になりそうです。

このお二人は、スサノウの義孫になり白髭三宝荒神の神々にもなるのです。以下金神系譜を参照のこと。


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三朝館、万翠楼、斎木別館、大橋旅館…と名ホテル、名旅館が軒を並べる三朝温泉の一景、手前も高級ホテル「依山楼岩崎」、橋の下には露天の共同浴場も… 

297 北北東に進路を取れ! ⑰ 西舞鶴の大川神社

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297 北北東に進路を取れ! ⑰ 西舞鶴の大川神社

201601010

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


今回の話は思いつくまま、イメージが湧くに合わせ書いているため舞台が頻繁に移動しますが、これも本格的に東日本に進出する前、舞鶴地区の十社近くを見て回っていた時に惹きつけられた神社の一つです。

場所はその名の通り、西舞鶴のもう一つ西側の入江を流れ下る由良川の辺であり、その西は天橋立、宮津湾でありその奥には大江山の皇大神宮が鎮座しているのです。


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大川の意味は、正面を流れる由良川の事と考えて良いのでしょう。

まず、舞鶴湾の出口には「金ケ崎」があり、大川神社正面には由良川に支流の「福井川」が東から注ぎ、その少し下流の右岸には「水間」(久留米市三潴)という地名が拾えます。

これらは、普通の道路地図で拾い出したものですが、書かれている地名の絶対量が少ない中で、直ぐにこれらが拾えることは、この一帯にも地名が成立する程度の遠い古代、九州からの移民、逃亡者、植民、冒険者達が大量に入っているだろうことを思わざるを得ません。

大川と言えば、筑後川河口の福岡県大川 市の大川かと短絡しそうですが、その神社の祭神からは、大川の一の宮とも言うべき風浪宮の神々とは対応しないことから、安曇族が入ったとしても、それは、 臣下としての海人族が入り、その地名と考えられる「大川」を残したのかも知れません。

では、同社の祭神を考えましょう。


主神 保食神

相殿 句句廼馳神(木神)、軻遇突智神(火神)、埴山姫神(土神)、金山彦神(金神)、罔象水神(水神)

摂社 竈神社(澳津彦神、澳津姫神)医祖神社(少彦名神)病除神社(健速須男命)興和神社野々宮神社


迦具土神かぐつちのかみ 

別名火之迦具土神:ほのかぐつちのかみ 火之炫毘古神:ひのかがびこのかみ 火之夜芸速男神:ひのやぎはやおのかみ 火産霊:ほむすび 軻遇突智/軻遇槌/軻句突知:かぐつち 火結神:ほむすびのかみ
火宮神:ひのみやのかみ 火男神:ほのおのかみ ……

火の神。全国の愛宕神社秋葉神社などの祭神。伊邪那岐伊邪那美二神によって生み出された最後の御子神である

生れてくる際、 母神伊邪那美神が苦しんで吐いたものから金山毘古・金山毘売、 屎から波邇夜須毘古・波邇夜巣毘売、尿(ゆまり)より弥都波能売が生れ、 次に和久産巣日の諸神が生れ、和久産巣日神より豊受氣毘売神が生れた。

また、『日本書紀』では、 母神が火神を生んだ後、埴山姫罔象女の神を生み、 埴山姫が火神と結婚して生れた稚産霊神の頭から蚕と桑、臍から五穀が生じたとあり、 焼畑的農業神話を連想させる。

父神の伊邪那岐神は、妻伊邪那美神が陰所を焼いて死んでしまったのを哀しみ怒り、 十拳剣(長い剣)を抜いて迦具土神を斬り殺してしまう。 この時、剣についた血や火神の体から神々が化生する。 『古事記』では、剣の鋒端(さき)についた血から石拆根拆石筒之男の三神、 剣の鐔(つば)際についた血から甕速日(みかはやび)・樋速日(ひはやび)・建御雷(またの名を建布都神)の三神、 刀の柄に溜った血が指の股から漏れてあらわれた闇淤加美(くらおかみ)闇御津羽(くらみつは)の二神、 計八神が十拳剣によって生れた。これらは、火と鉄により生みだされた神々と考えられるだろう。

 敬愛する「玄松子」(迦具土神)による


初見の神社でもあったことから、如何なる神様が祀られているのかと興味津々でしたが、摂社 に澳津彦神、澳津姫神を見出し、この神社の性格が見えてきました。以下翻訳を試みてみましょう。

多少問題があります。軻遇突智神(火神)は金山彦(金神)と同一であり重複しているのです。

また、句句廼馳神も「古事記」に登場する神であり百嶋翁は多くを語られていませんが、スサノウの事と理解しています。


主神 豊受大神=伊勢の外宮=辛国息長大姫大目命=アメノウヅメ…=スサノウとミズハノメの娘

句句廼馳神(スサノウ)、軻遇突智神(カナヤマヒコ)、埴山姫神(草野姫=金山彦妃)、金山彦神(カナヤマヒコ)、罔象水神(神大市姫=スサノウ妃)


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どうやら、この大川神社の神々は、大江山の皇大神宮に繋がっている外宮の豊受大神のファミリーと言えそうですね。


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要するに、イスラエル系金山彦~スサノウ~豊受大神一族 瀛氏を祀る神社なのです。

スポット037 東 瀛 遊(トオエイユウ)

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スポット037 東 瀛 遊(トオエイユウ)

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20150514

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


研究会のスケジュールの合間を縫って、鹿児島市の城山観光ホテルで行われた第74期将棋名人戦第三局(羽生善治名人VS佐藤天彦挑戦者)の大盤解説会に行ってきました。

一応、地元佐賀県の某将棋連盟に参加していましたが、最近は将棋を指すよりも見る方が楽しく、もっぱら大盤解説会に参加するだけになっています。

このため、一セット35万円也(歩一駒一万円相当)の虎斑入りの八丈柘植の駒も仕舞い込んで冬眠状態にあります。


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タイトルを読まれた上に、場違いな将棋の話が飛び出して来て、冒頭から驚かれたでしょうが、勿論、将棋の話をする訳ではありません。

 ここで、見掛けたポスターに「東 遊」(トオインユウ)という文字を見たと言うだけの至って単純な話です。


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話には聴いていましたが、城山観光ホテルは車中泊族にとっては高嶺の花の超高級ホテルです。

 30年も前の昔は、鹿児島なら妙見温泉の石原山荘とか指宿温泉の白水館といったハイクラスのホテルや旅館を利用していたこともあったのですが、今や民俗学徒を気取り地べたを這いつくばるような旅をするのが当たり前になっています。

 将棋の方は、もう20年も遠ざかっており、刺さない将棋ファンですが(相撲や歌舞伎ファンはそんなもの)、結果だけは申し上げておきます。第三局は28歳の挑戦者佐藤天彦の勝ち(二勝一敗)となりました。

どうやら、26日に広島県福山市で行われる第四局二日目の大盤解説会にも行き、また広島県の山中に入り込み未踏の神社を見て回る事になりそうです。

 さて、本題に入りましょう。ロビーを徘徊していると、非常に面白いポスターに目が留まりました。


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ご覧のとおり、中国からの旅行団を熱烈歓迎するというポスターですが、この「東瀛遊」とはイースタン・グローバル・ツアーなのか?イースタン・エイ(Gはサイレンス?)・レジャーなのか不明ですが、中国の旅行会社の名称なのです(これもネット検索でエバーグロスツアーズの意味と判明)。

始めは「体験温泉」が旧字の「體」と書かれていることから(日本も戦前は體操と書いていたのです)、今でも難しい漢字を使い続ける台湾の代理店かと思ったのですが、後で分かったのですが香港の旅行会社だったのです。

これだけなら、何を言っているのだろうと思われるでしょうが、当ブログを丹念にお読みの方は思い当たられると思います。お読みでない方はこれらをご覧ください。


ひぼろぎ逍遥 230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

 159 秦の始皇帝と市杵島姫

同(跡宮)   106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

054 秦の始皇帝と市杵島姫

「臝」(エイ)は秦の始皇帝の姓であり、臝政(エイセイ)と呼ばれていました。

対して、「瀛」(イン)は、始皇帝の一族と姻戚関係を結び列島に移動したヘブライ(イスラエル)系氏族を意味し、具体的には博多の櫛田神社の大幡主の一族、スサノウのお妃の櫛稲田姫の父親に当たる金山彦、飯塚市鹿馬毛馬の厳島神社の一族などの事なのです。

 彼らは秦が滅びる前に海を渡り列島に入っていることから、さんずい偏を加え臝+水=「瀛」を姓としたのです。

 これらの事は後で触れるとして、この「東瀛」とは大陸から見た東の夷どころか、東の秦王朝の一族そのものを意味しており、恐らく、その事を認識している一族によって創られた会社が、この「東瀛遊」であろうとの発想が走ったのでした。

 してみると、香港もいつでも東南アジアに移動できる亡命地のような場所であり、列島に逃れた中国ナンバー・ワン秦帝国の始皇帝と姻戚関係を結び列島に移動した一族の一部である可能性があるのです。

 列島では、瀛(イン)氏、忌部(インベ)、卜部、陰陽師、そして役(エン)=役 小角の一族がそれに当たるのです。

 そこまで考えれば、「東瀛遊」の社長が袁(エン)文英氏(清末期の袁世凱の一族なのでしょうか?)

であることは、今もその法則性が二〇〇〇年を越え働いていることに感動をすら抱くのです。

宗像大社の市杵島姫も本来の表記は「瀛津嶋比売」ですね。



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文句なく瀛津嶋比賣命=市杵島姫命ですね(朝倉市佐田町の高木神社の境内摂社)


ひぼろぎ逍遥(跡宮) 178 参照


朝倉市佐田の山奥深く瀛津嶋(イツクシマ)比賣命を発見した!”安倍貞任後裔の秘密集落の高木神社“


  名人戦は終局が夜ふけに及ぶ事が多々あります。翌日が久留米大学の公開講座の初日のため、局面も逆転の可能性がなさそうでしたので、終局を待たず早い段階 で引き揚げましたが、今回は二日目の封じ手以降、つまり観戦の最初から最後まで羽生名人に良さそうな局面はなく、ある意味で一方的な一曲でそれほど面白く はありませんでした。

 唯一、面白かったのは、副立会人の木村一基八段と偶然トイレで隣り合わせの連れ○○○になった程度で、終局も確認せず足早に駐車場に向かいました。

 すると、正面に「東瀛遊」社のツアー・バスが駐車していたのです。


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運転手さんがおられましたので、「これは普通の方はなかなか読めないと思いますが、実際には“トウインユウ”か“トンエイユン”…と呼んでいるんではありませんか?とお尋ねすると、“「トウエイユウ」で良いようです”とのお答えを頂きました。

 しばらくお話をしましたが、一つだけ非常に面白いことを言われていました。

 それは、“「東瀛」けで日本を意味していると聞いています”と言われた事でした。

 私がにやりとした事は言うまでもありません。

瀛州(えいしゅう)は、

古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱•方丈)の一つ。

転じて、日本を指す。「東瀛(とうえい)」ともいう。日本の雅称である。

魏晋南北朝時代の487年から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。

ネット上の某辞書から


 まさに、二千年を越えた大陸の歴史を見た思いがしたのです。

 将棋より面白い発見に遭遇して何か得したような気分で、一路、無料の南九州自動車道を通り悲惨な状態に陥っている熊本方面に向かい戻ることになりました。

 翌日は昼から古田武彦亡き後ナンバー・ワン研究者の佃 収先生の講演を聴くことになるのです。


秦の始皇帝と市杵島姫



奇妙な題名に見えるかも知れませんが、だんだんとお分かりになってくる事と思います。

秦の始皇帝と言えば古代史どころか歴史一般に関心を持たれない方でもご存じの中国古代史上最大のスーパー・スターですが、その名前はと言えば答えに窮する方が続出するのではないでしょうか?しかし、


1. 【始皇帝(しこうてい)】秦朝の皇帝。姓は(えい)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇
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(シーフアンティ) または秦始皇(チンシーフアン) と称される。 元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上はじめて皇帝を称した


と、ネット上の「Weblio辞書」は極めて簡潔明瞭に書いてくれています。

ところが、この秦の始皇帝(えい)政(せい)氏と似た文字を使った名を持つ古代史のスーパー・スターがいるのです。

宗像大社の瀛津嶋姫命(オキツシマヒメノミコト)=市杵島姫命です。

そんなことは初めて聞いた…といった方のために、敬愛する「玄松子」氏のHPから引用させて頂きます。


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市寸島比売命
いちきしまひめのみこと
別名
狭依毘売命:さよりびめのみこと
瀛津嶋姫命:おきつしまひめのみこと
市杵島姫命:いちきしまひめのみこと
市岐嶋毘賣命:いちきしまひめのみこと
中津島姫命:なかつしまひめのみこと

筑前地方の海人豪族である宗像氏(胸形)らが奉齋する航海の守護神、宗像三女神の一柱。


一方、ウィキペディアによれば、隋の行政単位として瀛州があるとしています。


瀛州(えいしゅう)は、

古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱方丈)の一つ[1]

転じて、日本を指す[2]。「東瀛(とうえい)」ともいう[3]。日本の雅称である[4]

魏晋南北朝時代487から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。


では、なぜ、市杵島姫命はこの用例がほぼ存在しない「瀛」という文字を使っていたのでしょうか。

これについても百嶋先生はお話をされていました。


古い古い歴史を有するお宮さん、菊池川流域を連想してください。金金賛(かなさ)大神このかたのことを意味しています。菊池川の水源、阿蘇外輪山ですね、そして菊池川の終点は目の前に雲仙嶽の見える場所、玉名市大浜です。その間における一番古いお宮さんというのは、来民地方に ある円天角地に十字剣の紋章の神社さんが、最も古い歴史をもったこの地区に鎮座しているお宮さんです。この紋章はどこから持ってきた紋章かというと地中海 から持ってきた紋章です。民族的にはヘブライ人です。ヘブライであっても、最も格式の高いイスラエル人です。イスラエル人の家来がユダヤ人です。ごっちゃ まぜになさるでしょう、イスラエルとユダヤ、全く違います、元々は。ともかく、一番格式の高いのはモーゼ、それを連想なさったら、それに縁のある人はイス ラエル人です、それが一番格式が高い。それに次のがユダヤ人です。ユダヤ12部族といいますね。いくつもの部族が存在した。それが、日本にごっそり着たというわけではありませんが、たくさんやってきております。ついでヘブライのことをもう少しお話しておきます。ヘブライ人が最初に日本に到達したのは5000年 昔とお考え下さい。これはヘブライ人と言ってましたが別の表現がございます。それはですね、皆様もご存知と思いますが、ついこないだまで、お祭りの夜店に 行かれましたら神農様の御札を置いていました。私は神農様の農場まで行ってきました。場所は天山山脈です。天山山脈のもうそこはパキスタンだよというとこ ろです。この方が、ある時期のヘブライの頭領として金金賛(かなさ)大神がおられます。ある時期という意味は、この方の場合新しいほうの渡来人であって、 アレキサンダー大王に追われて逃げてこられた、現在から2300何年か前を年表でご覧になってください、アレキサンダー大王のことが書いてあります。アレ キサンダー大王に追われて逃げてこられたかたの内に、また、この方々がでてきます。『氵嬴』、日本発音“えい”ですね、音は“いん”です。そして、これはからくりがありまして、これ《氵(さんずい)》を消しますと、秦の始皇帝の苗字『嬴』になります。ところでこの方は、中国に逃げてこられた時に秦の始皇帝と縁組をなさっています。天下の名門、秦の始皇帝以上の天下の名門、モーゼを思い出してください。ともかくモーゼというのは、紀元前においては天下のモーゼだったんです。あの始皇帝がモーゼの系統と縁組をやっているのです。そして自分の苗字である『嬴(いん)』を縁組をした彼等に与えているのです。そしてこの人たちは海を渡りましたから《氵(さんずい)》がついているのです。これ以上、『氵嬴イン』について述べますと時間がかかるので、ここでストップします。

相 良観音におまいりされた方はいらっしゃいますか?さっきの『氵嬴イン』の頭領の金山彦、ここでは金金賛(かなさ)大神、この人の本当のご職業は、九州王朝 第1期親衛隊長でした。最初の九州王朝はこのヘブライ人によって守られていました。どこに住んでいたかというと福岡市の隣の糸島市にソネ丘陵地がありま す。ともかく、昔も今も住むのには一等地です。いかなる洪水が押し寄せてもへっちゃらです。それからといって下に近いのですよ。まさに、殿様御殿。ここに 住んで居られたアマテラスオオミカミ及び神武天皇のお姉弟を守っておられた九州王朝親衛隊長だったんです。それがある程度の年齢になってから、嫁さんをも らって、どこで誰が生まれたかを申し上げます。この金金賛大神ですよ、この土地では金山彦になっています。紋章はこれ“円天角地に十字剣”ですよ。相良観 音、当時は相良観音はありませんよ。相良の土地でアイラツ姫をお生みになりました。そして今度はお后が変わりまして、おんなじ近くの、清浦圭吾が生まれた うちの近くに、これ“円天角地に十字剣”が残っていまして、ここではクシナダ姫をお生みになりました。この金金賛大神の下にアイラツ姫がのっています。右 下にクシナダ姫がのっています。現地をわざわざ訪問なされなくとも、地図をご覧になれば現在も稲田村が印刷されています。そして、稲田村のそばには、皆さ んも全く気づかなかったよととおっしゃる宮地嶽教団がございます。ご覧になったことがありますか?近くにありながら皆さん全くご存じない。宮地嶽というの は日本最大の秘密のお宮さんです。日本最高の格式のお宮さんでありながら、蓋をされたお宮さんです。九州全土をお回りになったら、あっちにこっちに宮地嶽 神社、宮地嶽神社ってのがあります。しかも、高いところにあります。それなのに秘密になっています。そういう独特の天皇をお祭りした神社です。天皇のお名 前で申しますと開化天皇です。この開化天皇が宮地嶽神社の本当の神様です。ところが福岡の宮地嶽神社は現在それを隠しております。それはどうしてそうなっ たかというと、神社庁自体が、神社庁の内部が喧嘩しているのです。神社庁の、そこに勤めている連中同士が喧嘩しあいまして、全く、意見が対立して合わない のですよ。要するに、ヘブライ人系の神主と中国人系の神主、全く話が合いませんよ。それで、今は、開化天皇を消す方向の勢力が強いのです。

以上、元菊池(川流域)地名研究会メンバー牛島稔太のHPより


お分かりいただけたでしょうか?

百嶋先生は、漢籍は文句なく読め、中国語も分かられたため、中国、朝鮮でのフィールド・ワークからこの嬴(えい)と瀛(えい)の問題に気付かれたのだと思います。

紀元前、西方から製鉄などハイテク技術を持ったヘブライ系氏族が中原に移動してきたのです。彼らはその支配者であった始皇帝の一族と通婚し、彼らの姓を名乗ることを許されたのだと考えられます。

その後、その嬴の姓を許された人々は列島に移動し、自ら区別するためか、嬴を憚ってか、それとも渡海したからか?三水偏を付し瀛」を姓としたのでしょう。

ツングース系の満州族の満州(マンチュリア)は、かつて、満洲と表記されていました。それは、彼らが漁労の民でもあったからとされています。なにやらそれに似た話ですが。

この「瀛」の文字(姓)を許された瀛氏の一族、金山彦、イザナミ(イザナギは新羅系の昔氏)の一族(百嶋先生が言う新ヘブライ)が列島に入って来ているのです。


ところが、市杵島姫(スセリ姫)はこのイン族ではありません。天御中主(白山姫)、白川伯王の流れを汲む中国大陸にいたヘブライ系白(ペイ)族の大幡主の子豊玉(ヤタガラス)の姉アカル姫の子なのです。

 ただ、氏の金山彦は白族の埴安姫と通婚し櫛稲田姫(クシナダヒメ)が生まれ、その櫛稲田姫はさらに白族の豊玉姫(ヤタガラス)と通婚し関係を深めますので、その姉のアカル姫の子である市杵島姫も瀛津嶋姫命との表記ができたのだと考えられます。

 一般には、宗像三女神は三姉妹などと楽しい話がされていますが、例えば豊玉姫(タゴリヒメ)は白族の豊玉彦と許氏の高木大神の系娘の豊秋ツ姫の間の政略結婚によって生まれており、年齢も5、6歳しか離れていないのですが、民族を越えた関係で姉妹などではないのです。

 日本は中国大陸と異なる島国である上に、なおかつ、襞の多い山に囲まれた地形であったことから互いの民族が干渉しあわずに共存できた平和な環境だったのです。

 政略結婚は戦国時代にも行われましたが、各々異なった民族の属性もなお残されていたように思います。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


純粋な目的により百嶋神社考古学を研究されたい方は09062983254までご連絡下さい

298 北北東に進路を取れ! ⑱ 西舞鶴の謎の古社 雨引神社

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298 北北東に進路を取れ! ⑱ 西舞鶴の謎の古社 雨引神社

201601010

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


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西舞鶴には水銀朱採取者を思わせる女布(ニョウ)という地名がありますが、そこから由良川領域に移動しようと京都丹後鉄道宮舞線に沿って西に向かう道すがら、千石山の麓に雨引神社があることに気付きました。

まず、千石、千束、千塚…八田、八木、八屋…は、物部氏の中でも瀛氏=忌部の匂いのする地名です。

 その山裾にある神社ですから、この、あまり聞かない雨引神社もその系統の神社ではないかとの思いが走ります。

 狭い道を潜り抜け、神社を見つけましたが、由緒書もなく主神が誰かも分かりません。

このような神社を見るには、帰納演繹的に多くの神社の例から判断するしかありません。

 遠来の神社である上に、土地勘がない以上、軽々に判断はできないのですが、まず、「雨引」の「引」は疋、比企、日置(もしかしたら豊前、豊後の大神比義も)…で置き換えではないかとの思いが走ります。

 ただ、以前どこかで雨引神社を見たことがあるとの意識が僅かながら残っていました。

 これについては後で気づいたのですが、確かに宇佐神宮の東隣国東半島の付け根に今に残る中世荘園田渋荘(豊後高田市)の中心部の小崎に静かに鎮座する雨引神社があり訪問していたのでした。ただ、何の表示もなくそれっきりにしていたものでした。まさか、舞鶴でお目に掛かるとは不思議な感覚です。

やはり、訪問した神社のデータ・ベースを作る時期が来ているようです。

 では、長文ですが、地元の研究者による雨引神社の記述をお読みください(強調は当方)。


雨引神社の主な歴史記録 

《雨引神社の概要》雨引神社の揚松明神事

雨引神社は西舞鶴の南部。高野川上流の城屋じょうやに位置する。毎年814日に行われる「揚松明あげだいまつ」の神事で有名な神社である。別名というか、本名というのか地元では「蛇神様じゃがみさんと呼んでいる。

普通は祭神は水分みくまり神とされ、雨乞いしたのが神社のはじまりとも言われるが、実はもっともっととてつもなく古い歴史があると思われる。

森脇宗坡そうはの大蛇退治伝説でも有名である。その退治されたはずの大蛇こそがこの神社の本来の祭神であろうと思われる。

 ここから高野川を三キロばかり遡った上流に「雨引神社奥の院」がある。さらにその奥に伝説の「蛇が池」もある。

《地図》

雨引神社の主な歴史記録 《室尾山観音寺神名帳》正三位雨引明神

《丹後国加佐郡旧語集》天曳明神 六月九日祭。大松明ノ祭、珍鋪祭ニテ年ノ豊凶ヲ試。

《丹哥府志》【天引大明神】(祭六月九日)

《加佐郡誌》 祭神 水分神 『丹後史料叢書五』所収「丹後国式内神社取調書」

日原神社 ○【古事記】天日腹大科度美神 旧印本目原トカキテヒハラト訓ヲツケタリ

【覈】田辺郷朝代町朝代大明神ト称ス【明細】女布村【道】女布村【式考】同上社傳祭神天日腹大科度美神ト云ヘリ【豊】同上七月廿四日)

(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)

《舞鶴市史》

雨引神社 神社の祭礼で催される神賑のほかに、特殊な神事を伴う場合がある。城屋の雨引神社には、揚松明で名のある卜占神事が特殊神事として継承されてきている。社名は「天曳」(旧語集)「天引」(丹後旧事記)とも表記していた。祭神は社名が象徴するように農耕水利を司る水分神である。この揚松明は「旧語集」に「大松明ノ祭 珍鋪祭ニテ年の豊凶を試」(城屋村の項)すとあり、早くからその名があがっていた。

 揚松明の起源については二説あるが、一般に流布されているのは大蛇退治説であり、他は雨乞い説である。因みに雨乞い説については、明治三十九年の「神社明細書」 に天保のころを起源としている。同種の神事は小倉に近年まで継承されていたほか、京都市左京区花脊広河原地区などでも継承されていて、揚げ松、松上げ、柱 松と称して盆の精霊火の一つであるともいわれている(民俗学辞典)。

 同社の社頭を流れる高野川の上流を日浦ヶ谷に入ると、大蛇退治で有名な森脇宗坡(巴) が弘治年間(一五五五-一五五八)に娘の仇を討つために騎乗した馬が残したと伝承される馬蹄の跡と称するものを、岩の窪みに見ることができる。この岩は影 向石と同じであり、神の憑り代で、恐らく雨引神社の原型をなしたものではなかったかと考えられる。伝承に従えば、娘を呑んだ大蛇を討ったあと、これを三断にして頭部を肥ったのが城屋の雨引、胴部は野村寺の中ノ森、尾部は高野由里の尾の森の各神社となったといわれる。

 揚松明はこの大蛇の供養、または大蛇の物凄さを象徴したものとされるが、この起源説は揚松明に付会したものと思われる

 一方、雨乞い説は、旱天が続き農民が困窮していたところ「一偉人(中略)辛シテー神池ヲ発見ス 又神ノ告ヲ得テー松明ヲ点シ大ニ神ヲ祭り以テ雨ヲ祈ル 是ヨリ風雨順ニ五穀豊熟ス 村民依テ其神霊ヲ祭リシト云フ」(各神社明細書)とあり、これが起源説となっている。なお雨乞いのために火を焚く習俗は全国各地に見られる。

 大蛇退治と類似の伝承は全国に分布しているが、当市では布敷の池姫神社の創祁、与保呂 の日尾神社にまつわる蛇切石の伝承、地理的には二社の中間に位する上根の船繋岩の伝承などがある。これらの伝承は大蛇(竜)がモチーフになっていて、大蛇 の威を鎮めることにより農耕が進捗する様子を伝えている。そして、ともに岩が大きな役割を果たしていることが注目される。

 先の雨引神社の祭神は水分神といい、非人格神の性格が強く、池姫神社は市杵比売命とするが、「旧名千滝雨引神と号之(中略)祭神は竜神」(加佐郡誌)とし、「丹哥府志」(布鋪村の項)にも同様のことを伝えている。この神もまた明治以前には固有の名を持たなかったと考えられる。そして伝承内容はやはり雨水に関係している。

『舞鶴市内神社資料集』所収(神社旧辞録)


雨引神社 祭神 水分神  (祭 新八月十四日) 同市字城屋

城屋の揚松明で古来より有名なお社様。宮司の話として記された物を見るに起源は有名な大蛇退治(弘治年間1554-1558の由)より数百年も古く水を制する水神を祀ったが後隣村の豪士森脇宗坡の武勇伝が加はった由。また一説には牧野侯の初世(寛文延宝頃か)のころ旱魃の節近郷の農民同社に祈願し大松火の行事を行ったに因るともある。この雨引社の裏山に愛宕社が鎮座(火気極って水気を生ずと云)。ちなみにこの奇祭との神縁を探る鍵ともなるので蛇足ながら附記。

北桑田郡鶴岡村愛宕大祭。

陰暦七月廿四日村民の斎戒沐浴して?暮から各家炬火を投げあげる。その法は長サ十二、三 間ある材木の上端に麻稈オガラを以て大きな茶筌形の火受を造り中に枯竹・松枝等の燃料を充たし、これを川原の清浄な所に直立し、各自数十の炬火を投げ上 げ、炬火が火受けに入れば火炎天に冲する。そうして燃料が尽きれば引倒し云々、(当庄屋と軌を一にする?)

又鞍馬の火祭竹伐会式(左義長)

六月二十一日本堂前近江方、観音堂前丹波方として、各一丈許りの青竹を大蛇に見立て?声と共に三断し、その早きを勝とし、その年の農作物の豊凶を占ふという。

なお与保呂池姫社に関しても同村奥谷の大蛇洪水で巨岩に当り三断し此処に首は留り池姫社に祀られ胴は行永に留まり胴の宮となり尾は大森に至り尾ノ森也と(丹哥府志)

『火祭りの里 城屋』

『舞鶴市内神社資料集』所収(神社旧辞録)

●境内建物

・雨引神社  棟上・安政六年(一八五九年)九月十一日 改築 大工棟梁 堀田亦左衛門(五良作家)

・境内十一社 多賀神社 今刀比羅神社 兵主神社 熊野神社 大川神社 八幡神社 神宮神社

春日神社 稲荷神社 正勝神社 若宮神社

・嘉永二年(一八四八年)改築 ・昭和五十五年(一九八○年)再建

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これだけでも粗方の見当が付きますが、それは後述するとして、愕いたのは境内に居並ぶ摂社でした。


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この手の神社を考える時は、本来の祭神と新たな支配者となった氏族の奉斎する神との入れ替わり、つまり祭神の入替、合祀を絶えず考えておく必要があります。

特に「大蛇退治伝説」とか「青竹を大蛇に見立て?声と共に三断し」などとある時には尚更です。

この11社の中に一際大きな二摂社があるのです。左が若宮神社であり、右が大川神社なのです。

大川神社については、既に、297 北北東に進路を取れ! ⑰ 西舞鶴の大川神社 として書いていますが、ヘブライ系瀛氏の金山彦であり、それと同等扱いされている若宮神社となると高良皇子としか考えようがないのです。

ただ、この辺りが藤原氏が最も隠したかった日本の古代史の闇の部分であり、通説に尾を振り、通説への精通を持って権威付けする方々には所詮理解できない事かも知れません。

一目見て、若宮神社は久留米高良大社の膝元に鎮座する高良皇子神の若宮、つまり、高良玉垂命=開化天皇と神功皇后との間に生まれた長男 斯礼賀志命(シレカシノミコト)=仁徳天皇である可能性が非常に高いと思います。

この若宮神社に関しては最近新たに二社を但馬で確認しており、福知山市にも高良神社(京都府福知山市鋳物師601 高良厄除神社)を確認しており舞鶴市にもあっても決しておかしくはないのです。

 ただ、この二社が本来の祭神だったとするとバランスが悪く、もしかしたら、高良玉垂命そのものか、市杵島姫が祀られ一社三殿三神だった可能性はあるのではないでしょうか?

水配神=水分神として良く混同される女神に、①天御中主命=久留米水天宮、②罔象女神(弥都波能売神)=神太市姫=スサノウのお妃、③市杵島姫=弁財天…がありますが、ここでは③ということで保留しておきたいと思います。

 神殿の垂幕には高良玉垂命の神紋である五七の桐が使われており、現在、尚、神殿に留まることを許された神は摂社との関係から豊受大神と見たいのですが、当面は決め手がありません。今後の課題です。

いずれにせよ、直ぐ南の大江山には大江山の酒呑童子退治の話があり、南(近畿大和朝廷)から侵入した勢力が、この九州系の氏族、特にヘブライ系氏族=鬼を廃した事と連動した話に思えてなりません。

 雨引神社は国東半島の田渋荘、岡山県赤磐市沢原、同県総社市の境内社の他、茨城県桜川市に認められる事から、今後、関連を調べたいと思います。


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「写真旅紀行」田染荘(たしぶのしょう)-国東半島を訪ねて(11より


多少悔しさが残るため、これら11摂社 多賀神社(別れる前のイザナギ、イザナミ) 今刀比羅神社(大国主ではなく大山咋) 兵主神社(大国主) 熊野神社 大川神社(金山彦) 八幡神社(大幡主) 神宮神社(天照大御神=オオヒルメムチ=卑弥呼) 春日神社(阿蘇草部吉見ではなく罔象女神) 稲荷神社(豊受大神) 正勝神社(阿蘇草部吉見) 若宮神社(仁徳天皇) の神々を簡単に解読しておきたいと思います。

どうも摂社の神々を見ても、春日神社と正勝神社が分離されているように、天照を中心として初期九州王朝の臣下が揃い踏みしているように見えますね。


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299 北北東に進路を取れ! ⑲ 西舞鶴の朝代神社

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299 北北東に進路を取れ! ⑲ 西舞鶴の朝代神社

201601012

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


西舞鶴の笶原神社を見た後、直ぐ隣の朝代神社に向かいました。

ここには、神宮寺だったと考えられる真言宗御室派の円隆寺が境内を連続させています。

境内の規模と言い風格と言い東舞鶴の大森神社と並び、まずは、舞鶴を代表する神社のようです。


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春の網代(アジロ)の置き換えかと思ったところ、正面にお住いのお爺さんにお尋ねしたところ「アッショ」神社だそうで、やはり、現地での確認は必要です。

ただ、複数の聴き取りも必要なので地元のお知り合いにお尋ねしたら「アサシロ」と言われているそうで、当面、保留します。


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同社「社記」

「社記」をそのまま読めば、イザナギが単独で祀られている神社になりそうです。

この点、イザナギ、イザナミを祀る多賀神社などとは異なります。

これも、注目するところで、百嶋神社考古学では、イザナミはイザナギとさっさと別れ、博多の櫛田神社の主神である大幡主と一緒になり、ヤタガラス=豊玉彦が生まれている事を知っている訳で、その痕跡とも見たいのです。

それほど珍しいものではないのですが、この社記にも天武朝の「白鳳」元年が出ています。

この「白鳳」自体が近畿大和朝廷の年号ではないもので、通常私年号として貶められていますが、六世紀初頭から連綿と繋がる九州王朝の俗称「九州年号」(513713)なのです。

さて、境内正面にある駐車場に車を止めましたが、直ちに目に飛び込んできたのは「塩釜神社」でした。



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境内社としては少し大き過ぎるこの摂社からは、最良の地に置かれているだけに、元々はこの神様こそが、鎮座されていたのではないかとさえ思わせるものです。

しかも、五七桐の神紋が鮮明で、この神紋を使う神様を奉る有力者こそがこの摂社のご主人なのです。

塩槌翁のことはご存じでしょうが、この神様こそ塩釜神社の本体で、博多の櫛田神社の大幡主なのであり、ヤタガラスのお父上なのです。

元より、初見の神社をどうこうコメントする立場にはありませんので、「丹後の地名地理・歴史資料集」などを軸に勝手に舞鶴一帯の神社を概括させて頂いていますが、どうみても博多と一直線で繋がっている地というイメージを拂拭できません。

「丹後の地名地理・歴史資料集」氏も「こんなごたいそな社を祀ったのであろうか。かなり眉唾物の縁起であるが、…」とされていますが、ここでは一応イザナギを奉斎する神社であることを受入れ、まずは、静かに境内を見せて頂くことにしました。

そもそも、イザナギだけを主神とすること自体が、イザナミを排除したと見るべきで、百嶋神社考古学ではそのイザナミは後に博多の大幡主(正面の境内社塩釜神社の神様)のお妃になっているとしますので、大幡主の勢力を貶め門番扱い=番犬にしたようにさえ見えるのです。

そもそも、多賀神社(境内社にも同社が あるがイザナミは排除されています)にしても、イザナギ、イザナミを祀るのですから、その子はスサノウでしかなく、そのスサノウが天照大御神に逆らったこ とから当たり障りの少ないイザナギ、イザナミにしている可能性が高く、この神社でもスサノウは主神の座から滑り落ちているのかも知れないのです。

初見ながら、この神社は大幡主系と伊勢神宮の外宮系の神々が本来の神であったものが、かなり古い時代に境内社に落とされていると考えるべきではないかと思います。

蛇足ながら、境内社の工匠神社のタ(テ)オキホオヒの神とはちなみに、タオキホオヒのタ(テ)は「手」であり、天岩戸神話の手力男命の事なのです。

稲荷神社(祭神 保食神)は、山幸彦のお妃であり、伊勢の外宮の豊受大神なのです。

このことはあまりお分かりいただけないのですが、この朝代神社に隣接する円隆寺側にその痕跡らしきものを見出しました。


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縁起担ぎに出世(シュッセ)稲荷と呼ばせているようですが、出世は伊勢(イセ)の置き換えであり、出でるの「イ」であり伊勢神宮外宮の豊受大神が稲荷様であることを暗示しているようです。


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舞鶴市の中央部。西舞鶴市街地の西に位置する愛宕山の東麓にある。江戸期田辺城下の総産土社として尊崇され現在に到る。下の挿図を見れば当時とそう大きくは変化がないようである。

朝代大明神(田辺府志より)

「田辺府志」に「朝代大明神は日之少宮なり、日本紀に伊奘諾尊と称し奉る」とあり、日之少宮(伊奘諾尊)を祭神としている。

草創については「加佐郡誌」は、「天武天皇白鳳(私年号)元年九月三日(卯ノ日)淡路国日之少宮伊奘諾大神を当国田造郷へ請遷したものである。其後の年代は詳でないけれども現地に遷し奉った」としている。

さてさて、どこの村人が自らの氏神として、こんなごたいそな社を祀ったのであろうか。かなり眉唾物の縁起であるが、そうなっているからとりあえずそのままの引用である。

残欠になく、式内社でもなく、「室尾山観音寺神 名帳」にもなく、「田辺府志」以前の記録にはどうやら見えない社である。あるいは江戸期になってから作られた偽作っぽいものではなかろうか。当社は代々、 玖津見氏が神主職を継いだが、その任免は吉田家によっていたとされる。その玖津見氏がどこの村の誰ともわからない。どこかの星から落ちてきたような神主さ んで、何で遠く何の関係もない京都の吉田家に任免されねばならないのか。もうぜんぜん村の鎮守ではない。

「朝社登茂書也」と記した「朝代大明神縁起」が伝わる所から推理すれば、朝代はアサヤシロのヤが脱落したもので、アサ神社ということであり、アサとは古くは砂鉄をそう呼び、元々はそうした産鉄系の神社かと思われる。詳しくは「朝代神社と朝禰神社」参照。

元々は田造にあっ た神社であったが、何かのきっかけで田辺城下の総産土とまで崇敬されるようになり、その途上で「縁起」もそれらしく書き換えていったものなのではなかろう か。田舎町には不似合いななかなかの策士殿がござったのであるが、カッコつけすぎでこの地の歴史にあわずかえって破綻が出ているようなところである。

…中略…

《加佐郡誌》

祭神  伊奘諾命

由緒  天武天皇白鳳(但し私年号)元年九月三日(卯ノ日)淡路国日之少宮伊奘諾大神を当国田造郷へ請遷したものである。其後の年代は詳でないけれども現地に遷し奉った。東の大華表を潜って南に西に石燈を迂曲して北の方の社殿の前に出る。之れは陰陽流行の理を象ったものであると云ふことである。

境内神社 天満神社(祭神 菅原道真公) 稲荷神社(祭神 保食神) 松尾神社(祭神 大山咋神)

祇園神社(祭神 素盞鳴尊) 疫神神社(祭神 少名彦神 煩宇須神ワズラヒノウス)

多賀神社(祭神 伊奘諾尊) 大国神社(祭神 大国主神 龍蛇神)

工匠神社(祭神 手置帆負命テオキホオヒ彦狭知命ヒコサシリ)

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