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327 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑩ “島根県邑智郡邑南町の賀茂神社”

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327 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑩ “島根県邑智郡邑南町の賀茂神社

20160422

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


 江の川を降り非常に魅力的な江の川河畔の行政都市である川本町で野営し、早朝から、弓ケ峰八幡宮、三嶋神社外数社を訪問した後、島根県でもさらに奥地の邑智郡邑南町に向かうことにしました。

 まず、島根県邑智郡邑南町という地名ですが、邑智郡 という地名自体が、瀬戸内海の越智一族=大三島の大山祇命の領域であることを示している上に(それを示すかのように、江の川沿いの川本町から邑南への二つ の入口の中間に三嶋神社が置かれているのです)、それは、同時に忌部の領域にも踏み込むことを意味しているかのように、その一つの入口である国道261号線の分岐部に川本町因原という地名が現存しているのです。

 因原の因は、秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ瀛氏(博多の櫛田神社の大幡主の一族であり厳島神社の瀛氏)陰陽師、忌部、卜部、(秦王=姓は嬴、氏は趙)の「瀛」の置き換えなのです。

 なお、大山祇命と瀛氏とも相互に姻戚関係を結び実質的には同族関係となっているのです(これについては、ひぼろぎ逍遥159 秦の始皇帝と市杵島姫、ひぼろぎ逍遥182 タノカンサーの正体とは何か?“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市甘木から”外をお読み下さい)。

 さて、濁川(断魚渓)峡谷を抜けるとかなり大きな平野が広がっていました。邑南町は山上楽園とも言うべき隠れ里の様な面持ちを持っています。そして忌部の痕跡があると考えていました。


327-1



327-2御祭神 賀茂別雷命とされていますのでそれは良いのですが、

 稲荷、金毘羅、金屋子、八重山、井戸、幼稚、清水山八幡、姫宮神社などが境内摂社として並んでいます。

 この清水山八幡は京都の石清水八幡で良さそうですが、姫宮神社が気になります。

 今の所、忌部の里に、上賀茂(第10代崇神天皇)系ですが、賀茂の一族の痕跡が確認できて満足していますが、この一キロ東には折居神社(これについては参拝済み)を始め幾つかの賀茂神社が展開しています。

 これらを含め、阿須那の賀茂神社を見たいと思っています。


327-3


以下は、邑南町でも広島県安芸高田市に近い同種の別社である阿須那の賀茂神社に関する「玄松子」氏のコメントです。



327-4


島根県邑智郡邑南町阿須那3 賀茂神社

御祭神 賀茂別雷命

合祀 菅原道眞 豊受姫命 神功皇后 應神天皇 玉依姫命 少名彦命 大年神 地主神 猿田彦之命 受母智神

相殿  式内社 石見國邑智郡 大原神社 武甕槌神 天津兒屋根命 齋主命 姫大神


創祀年代は不詳。 社伝によると、往昔、当社の社人が川で鴨の白羽の矢が、柏の葉に乗って流れてきたのを拾い上げ、山丘崎の榊の下に置いて、その夜、神のお告げがあり、「柏 の葉は国津神、白羽の矢は応化百王の守護である」翌日、榊の元へ行ってみると、すでに矢も柏もなくなっていた。

社人は、国津神は大己貴命と少名彦神、応化百王 の守護神とは上賀茂神、つまり賀茂別雷神であると考え、阿須那八ケの庄の氏神としたらしい。阿須那八ケの庄とは、阿須那・宇都井・戸河内・雪田・口羽・上 田・都賀・大林のこと。 当社に合祀されている大原神社に関して。武甕槌神等を祭神とする大原神社は、一説に、延喜元年四月八日の勧請。 式内社・大原神社の論社の一つであるが、上記伝承に出てくる社人は、ひょっとすると、賀茂神を祀る以前に、何らかの神を奉祀していたのではないだろうかと 考えた場合、それは、古くから相殿に祀られている大原神社ということになる。つまり、本来、大原神社として祀られていた地が京都上賀茂の社領となるにおよ び、賀茂神へ信仰の主体を変化させたのかも。

そう考えると、国津神である柏葉の上に、賀茂を象徴する矢が乗って流れてきたのは象徴的だ。大原神社は本来、国津神であるのだろう。 境内の右手に、四つの境内社が並んでいる。右手から、八幡宮・金刀比羅神社・剣神社・天満宮。境内入口の鳥居の横に、もう一つ大きめの祠があるが名前は不明。『神国島根』には、上記四社の他に恵比須神社とあるが、これだろうか。 神紋は、三つ柏。社記伝承に因んだ紋なのだろう。矢よりも柏を紋とした意味を深読みすると興味深いかも。


境内入口と境内社


327-5

 


これらから、この地域の賀茂神社の性格が多少とも垣間見てきます。

 邑南、江の川流域の神社調査は始めたばかりです。


328 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑪ “島根県邑智郡邑南町の諏訪神社”

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328 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑪ “島根県邑智郡邑南町の諏訪神社”

20160430


久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


328-1

一般的に諏訪神社は国譲りに反対した大国主命の二男とされ諏訪大社の諏訪大神=建御名方命を祀るものとして知られていますが、まず、百嶋由一郎神社考古学では大国主命の子とはしません。

当の出雲神話の舞台さえも現出雲とはしないことから、出雲に近い地にあるからと言って、直接、出雲大社に近いことと関連付けて考えているわけでもないのです。

この事を前提として諏訪神社の解析に入りますが、その話は後段に譲るとして、まずは、社殿をご覧いただきましょう。

忌部の中心地と考えられる邑南の山上楽園の中心にあるのが諏訪神社です。

 してみると、この諏訪神社の主祭神である建御名方命とは、系統は異なるとしても忌部=瀛氏と提携していた人だったことが想像できます。

 大国主命は、勿論、大山祇神と瀛氏の埴安姫との間に生まれた忌部=瀛氏の系統の人ですが、建御名方命については百嶋由一郎最終神代系譜でお考え頂きたいと思います。


328-2


同社参拝殿神殿


 ご覧のとおり、建御名方命は大国主命の子でもなければ、瀛氏と言うよりもスサノウケイの人なのです。

 それを理解した上で、以下の境内摂社の配神を考えて下さい。


恵比須神社、柿本人麻呂神社、稲倉玉神、大宮姫命、猿田彦神、豊受大神、御守御前(八坂入姫)、加茂神社、天児屋根神?大己貴神


島根県の山間部の神社については要約イメージが湧いてきましたが探査は端緒に就いたばかりで、今後じっくり見させていただこうと考えています。



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329 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑫ “島根県邑智郡川本町の弓ケ嶺八幡宮”

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329 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑫ “島根県邑智郡川本町の弓ケ嶺八幡宮”

20160430

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久

話が前後しますが、邑南町に入る前に、江の川河畔の小都市である川本町で車中泊しています。

 この江の川流域の民俗についてはそれだけで心が躍る思いがするため、いずれ再度時間を掛けて見せて頂こうと考えています


329-1


 周辺には見たい集落、見たい神社が無造作に転がっています。

 私達神社考古学の者にとっては、どんな海外旅行地や観光地よりも心揺さぶられる魅力的な地域なのです。



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山塊と川に挟まれた江の川河畔の行政都市川本町


 この街中の一角に弓ケ嶺八幡宮があります。


弓ケ嶺八幡宮 カーナビ検索 島根県邑智郡川本647-1


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瀬戸内海側の広島県、岡山県には数多くの多くの八幡宮が認められるのですが、日本海側の島根県、鳥取県になるとその割合は低下し、存ったとしても、基層には大国主命や大山祇神が祀られていた事が直ぐに分かるような神社が多くなります。

ただ、こんな島根県の山奥の町にまで宇佐神宮の神威が及んでいたとは思いませんでしたが、それはこの川本町が鎌倉期まで遡る行政都市の歴史があったからではないかと考えています(未確認)。

そう考えて、川本町のHPを見ると、直ぐに以下の一文が飛び込んできました。


有形文化財(史跡) 丸山城は、三原と田窪にまたがる標高482メートルの頂上にありました。中世に安濃・邇摩両郡と邑智・那賀郡の一部、鹿足・美濃を含む8村を統治した小笠 原氏の最後の山城で、石見地方の中世の山城として特異な築城構想をもった貴重な山城跡となっています。現地は、本丸(主郭)の石垣をはじめ、西の丸(二の 郭)の礎石建物跡が多数確認できます。西の丸からは竈(かまど)跡が確認され、日常生活の陶器類も見つかったことから文献資料と併せ城主が西の丸に居住し ていたこともわかっています。


しかし、その八幡神の底流には古層の神が見て取れます。


329-4


読み難いと思いますが、まず、鎌倉期の八幡神の侵入によって押し出された神十柱の内の幾らかが見て取れます。

 大己貴命、天児屋根命(実は阿蘇の草部吉見)、素戔嗚尊、金山彦命、金山姫命(恐らく埴安姫)…といったところです。

 十世紀に持ち込まれたとされる熊野神社も伊弉冊命=イザナミ(実は熊野那智大社の主神=熊野夫須美大神)とニギハヤヒとされています。

 熊野神社にニギハヤヒ(実体は山幸彦)がはっきりと取り込まれている例は初めて見ましたが、非常に興味深いものです。

 稲荷神社は当然にも豊受大神(実は熊野神社に取り込まれたニギハヤヒのご主人かつお妃)であり、物部系の神々の足跡が辿れます。

 疑問に思われる方は、まず、同社の摂社である熊野神社に、何故、イザナギ、イザナミの片方(イザナミ)しか祀られていないのか?といった辺りから考えて見て頂きたいと思います。

 境内摂社熊野神社


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330 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑬ “島根県邑智郡邑南町日和の桜井神社”

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330 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑬ “島根県邑智郡邑南町日和の桜井神社”

20160430

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


またまた、話が前後しますが、先に、ひぼろぎ逍遥 327 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑩“島根県邑智郡邑南町の賀茂神社” 328 ⑪“島根県邑智郡邑南町の諏訪神社”で山上楽園としての邑南町を取り上げました。

しかし、さらにその奥に桃源郷とも言うべき日和の郷があります。

以前、北西方向の江津市桜江から進入を試みて、道路崩壊のため遮られ断念したことがあるのですが、今回は邑南町の中心の南から入り前回見る事の出来なかった新世界を確認できる事になったものです。

江津方面から入るのは困難な場所ですが、邑南からは、近年、大橋梁と巨大トンネルを造る事を目的 としたとしか考えられない長延長の邑南広域農道が造られた事から(と言ってもこの桃源郷に住む方々にとっては有難い限りでしょうが…)、いとも容易く入る ことが出来るようになったのです。


330-1


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さて、桃源郷との思いだけで踏み入った桜井神社でした。

福岡県の糸島半島に桜井地名があり(勿論奈良にもありますが…)桜井神社があることは承知していました。ただ、その程度の知識しか手元になかったことから途方に暮れてしまいました。

 如何なる神様が鎮座されているのか皆目見当が付かないのです。

神額には「桜井太詔刀命神社」とありますが、以前、江津市桜江町周辺の神社を見たときにも、川戸70に 太詔刀命神社があることを知っている程度です。

社殿を境内にも判断材料になるようなものは一切なく、ネット上にも、同神社に関してはまとまった情報もないのです。

手元に「島根県神社誌」(近々にも購入予定)もないことから確認できたことだけで満足することにしましたが、研修所に戻り、再度、ネット検索を繰り返していると、真言密教系のサイトに“妙見社は現在は「桜井太詔刀命神社(村社日和正青山)」(『日和郷土誌』p133)”といった記事を見出だしました。


ちなみに、島根県石見国邑智郡日和村桜井太詔刀命神社の伝記に「近江天皇仁平四年初卯日(1153年)但馬国妙見山より妙見大菩薩勧請」とされています。これはいかに但馬妙見信仰が古くから広まっていたかという事実の一端を示しています。

HP「星に願いをかけるお寺」高野山真言宗 但馬妙見 日光院より


これで、ようやく大方の見当が付きました。

少なくとも、12世紀以降は妙見神社だった事が分かるのですが、明治維新以降の廃仏毀釈(神仏分離令)によって、その山岳修験の要素さえもひた隠しにせざるを得なくなり、現在のような顔の見えない神社として生き残ってきた様に見えるのです。

現在、糸島市の桜井神社はイザナミ、イザナギの子とする神直日神以下を祀っています。

ただし、妙見神社以前にも別の神様が祀られていた可能性も考えておく必要があるでしょう。

そこまで考えれば、この日和の開拓の歴史がどこまで遡る事ができるかどうかがあり、容易には見通すことができません。

ただ、妙見神社だった事は同地の地名とぴったり対応しているのです。



330-3


そもそも妙見神社とは天地開闢神である「天御中主命」(久留米水天宮)を祀るものですが、妙見信仰として北斗七星をシンボルともしています。

まず、現地を見て頂ければ分かりますが、桜井神社は正確に北の鳶ノ子山の真南に置かれています。

さらに、集落の中心地でもある日和郵便局も南の鳥子山の正確な真北に置かれているのです。グーグル・アースで確認して下さい。

このように、鳶子、鳥子はこの系統の白族の住み着いたエリアには良く見かける地名、山名であり、逆に言えば、この地名を見掛けたら妙見信仰=北斗信仰を持つ氏族が住み着いている事が分かるのです。

この桜井神社に注目し、前回、千丈渓を通って日和に入ろうと考えた理由もその点にあったのです。


なお、神紋は井桁に桜となっており、まさに桜井です。


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(参考)

桜井神社

神直日神(かむなおひのかみ)・大直日神(おおなおひのかみ)・八十枉津日神(やそまがつひのかみ)

古事記・日本書紀によりますと、伊弉諾命(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国にいる伊弉冉命(いざなみのみこと)に会いに行き、その際に黄泉の国で穢れを受けたため、その穢れを祓うために禊(みそぎ)を行いました。

その時に最初にお生まれになったのが八十枉津日神(やそまがつひのかみ)であり、災厄を司る神様であります。そして次にお生まれになった神様が神直日神・大直日神で、災厄を祓い清める神様であります。

当社の主祭神には災厄を司る神様と祓い清めを司る神様をお祀り致しております。

島岡大明神

当社をご創建されました福岡藩二代目藩主黒田忠之公のご神霊。

八所産土大神(やところうぶすなおおかみ)

久保宮・西宮神社・熊野宮・伊牟田八幡宮・谷熊野神社・木浦神社・梅宮・末松神社の桜井各地に祀られていた神々で明治に入り合祀致しております。

櫻井神社

819-1304 福岡県糸島市志摩桜井4227


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神社考古学では鳶子は大幡主、鳥子は豊玉彦(ヤタガラス)と考えられているようですので、天御中主の一族であることがきちんと意識されている事が分かるのです。

331 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ① “庄原市西城町木山神社(爾比都売神社)”

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331 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ① “庄原市西城町木山神社(爾比都売神社)

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160501

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「安芸太田から邑南町へ中国山地の奥深く」として13本(実質15本)のリポートを書きましたが、粗方書き終わると直ぐに熊本人工地震に襲われ、その後も、連続して引き起こされた余震、本震にも関わらず、運よくほとんど被害が出ない幸運に感謝しながらも、多少は熊本のメンバーへの支援などを行っていました。しかし、広島、島根の県境領域に続いて、岡山、鳥取の県境領域に於ける物部系神社の調査への思いを抑える事が出来ずに、424日には再び研修所を出発していたのでした。

今回も山口県の小郡ICから中国自動車道に入り、夜9時には広島県三次市付近のパーキング・エリアで車中泊となり朝8時には庄原ICを降りていました(高速料金3200円)。

逸る気持ちを抑えながら早くも庄原市から北の備後落合方面の中国山地の奥深く車を進めていました。

今回の調査行で始めに遭遇した神社が木山神社 爾比都売神社でした。


331-1


祭神 埴山毘売神・金山毘古神・大山祇神

元は久代のニヒツ山(権現山)に鎮座していた。この山は古代の丹生山すなわち朱砂を産出する山であり、最初は爾比都売神の単独祭祀であつたが、後代、修験に護持されて丹生高野の両所明神と祭神が変化し、この地の朱砂の産出が絶えると、創祀以來の爾比都売が忘却されて、高野明神だけが高野権現の形でこゝに留まつていた、その高野明神もやがては修験の衰頽と運命を共にした。

文化年中(1804-17)約30Km西の西城町に再興された。

HP「延喜式神社の調査」による

御祭神 『塙山毘売神(はにやまひめのかみ)』

相殿神 『金山毘古神(やなやまひこのかみ)』『大山祇神』…中略…

摂末社 『善覚神社』(御祭神、倉稲魂神〔うがのみたまのかみ〕、保食神〔うけもちのかみ〕)

由緒  『創立年代不詳。延喜式内社。『芸藩通志』に「今西城町にて此を祭る。延喜式内神名、備後國奴可郡1座、爾比都賣神社とあり。されば此社は当郡の名神なるに、世変によりて久しく廃し、其社地さへも知れずなりぬ。久代村高野権現山をにひつ山とも称するよしなれば、昔、此山に鎮座ありしやとおもはるれど、外に跡もあらず(中略)されば、郡内の祠官等も式内の社久しく廃せしを嘆き、初西城町厳島神社において仮に此神を勧請せしが、又別に社を建て郡の総社とあがめ、此を祭らん事を祠官等同じく議して藩府に請ひ、遂に新に地を卜して社を造営することとはなりぬ。』と、その廃絶、再興の事情を記している。安政5年(1858年)社殿再建。現在の社地は、往古の社地とされる高野権現山の西30キロに当り、奴可郡の中央に位置し、江戸期には砂鉄採取を多くの住民が生業となしており、西城はタタラ製鉄の中心地として栄えていたことにより、当地の守護神としてこの神社を再興したものと思われる。明治6年、郷社に列格、昭和11年に本殿再建、拝殿葺替。』

HP「堀江知行の神社紹介ブログ」による



331-2


熊本で木山地名と木山神社に遭遇したことがありましたが、あまり馴染みのない神社です。同地を始めとして、岡山県真庭市から島根県雲南市など五、六社程度確認できます。

恐らくスサノウを祀っているはずですが、この西城町の木山神社が爾比都売神社の摂社摂末社 『善覚神社』(御祭神、倉稲魂神〔うがのみたまのかみ〕、保食神〔うけもちのかみ〕)に対応しているかについては不明です。

倉稲魂神、保食神は同一神ともされますが、スサノウとも無関係ではなく、便宜上、倉稲魂神、保食神で代行される場合もあるようです。なお、木山とはスサノウの半島からの植林の話にも思えます。

神社の南の大冨山も富の長脛彦(スサノウと櫛稲田姫との間に産まれた)を思わせ、これだけでも、スサノウを感じていました。


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一方の爾比都売神社ですが、恐らく、この神社がスサノウ系信仰圏の上に覆いかぶさってきた神社であり、この神社の本質を表しているものと思われます。

爾比都売神社とは九州では丹生都比賣神社とされる一連の神社群であり、丹生都姫を祭神とします。

当方の把握する範囲では、長崎県との県境に近い佐賀県の嬉野市の不動山地区から中心部を通り、東の同市塩田町の中心部を抜ける線上に5社ほどの丹生神社、丹生都姫神社を確認していますが、有明海を越え、熊本県から大分県に掛けて延びる構造線上にこの神社が並び、四国、和歌山へと延びているのです。

この丹生都姫こそがこの神社の祭神と言えそうです。

問題はその丹生都姫が誰なのかですが、この神社によって鮮明に見えて来るのです。祭神は埴山毘売神・金山毘古神・大山祇神とされています。そうです。埴山毘売神とは埴安姫の事で、白族の博多の櫛田神社の主神の大幡主の妹なのです。同時に瀛氏の金山彦のお妃となり、後に越智族の大山祇神のお妃ともなった埴安姫こそこの神社の主神なのです。


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では、百嶋由一郎最終神代系譜で確認して下さい。百嶋神代系譜が如何に正確かがお分かりになったのではないでしょうか?同時に、この神社は非常に正確に古代の最も重要な神々を伝えているのです。

ただ、その基層にはスサノウの影も見えるのです。

入、乳、新、丹生…と多くの表記が認められますが、この西城町を国道183号線で北上し備後落合から鳥取県に入ると、賀茂神社がある日野町がありますが、その中心地にも「根雨」(ネウ)という地名が拾えます。これも丹生(金を造る際に必要な水銀化合物)に関係する地名なのです。

また、賀茂神社も爾比都売の甥であるヤタガラス(豊玉彦)を祀る白族の神社なのです。


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332 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ② “庄原市東城町天照真良建雄神社”

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332  真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ② “庄原市東城町天照真良建雄神社”

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160501

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 広島県庄原市西城町の木山神社(爾比都売神社)を見せて頂き、次に向かったのはJR芸備線の備後落合方面でした。途中には、ヒバゴンで有名になった?比婆山駅もあります。そのまま進めば島根県に入ってしまいますので、東に向きを変え、東城町方面に進み、岡山県の新見、真庭へと向かう事にしました。

 比婆山駅を過ぎると右手に「八鳥」と言う地名があります。

ヤタガラス、鳥子、服部、ハッティシェリさえも頭に浮かんでくるのですが、それだけではただの思い付きでしかなく、そこで行き止まりになってしまいます。

 次に、見せて頂いたのは、JR小奴可(オヌカ)駅から多少山中に入った天照真良建雄神社でした。


332-1

まず、小奴可という地名ですが、地名研究の立場からはこの様な3文字の地名は713年の所謂好字令以前のものであり、この集落が非常に古くから開発された土地であることを物語っています。

 そのような土地だからこそ、天照真良建雄神社といった仰々しい(ある種凄まじい)社名も残っているのです。


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広島県神社誌には搭載されているようですが、手元にないため祭神が不明です。

ネット上には、インドの神との話が出て来ますが、天台修験の領域のためない話ではありません。


『日本三代実録』貞観三年(861)十月二十日条に、備後国正六位上の大神神、天照真良建雄神に並びに従五位下を授く。という神階昇叙記事があり、これらの神は『延喜式』神名式へ登録されていないことから「式外社」、また国史に名が見えることから「国史現(見)在社」とも呼ばれ、この国史現在社は備後国内に五社が知られているが(神田神、大蔵神、大神神、天照真良建雄神、隠嶋神)、

上の記事中の「天照真良建雄神」を「あまてらすますらたけをのかみ(天に照り輝く、雄々しく猛々しい男神)」と読み、これを素戔嗚尊の別名として当社に比定する説がある。

小童は京の祇園社が社領としたほどの地であることから、*当時、小童には中央に知られるほど武塔神・素戔嗚尊に対する強い信仰があり、当然それを祭る有力な社があった*神祇官が管理しない式外社にもかかわらず中央にその名が知られていたことから、過去その祭神に神階が授与されていた可能性は高い*よって備後国史現在社五社のうちの一社が小童の社となり、それに該当しそうなのは天照真良建雄神ということになるか。ただし両者を直接結びつける物証はなく、もしこれを「あまてらすまらたけをのかみ」と読んだ場合は、 記紀や『先代旧事本紀』にみえる鍛冶師の祖神「天津麻良(あまつまら)」に美称を重ねた形とも思われ、「真金吹く」吉備の国は古代より製鉄が盛んだったことから、いずれかの鍛冶集団の守護神であったとも考えられる。

その場合、世羅郡にも「カナクロ谷製鉄遺跡」があり(世羅郡世羅町黒渕)、これは67世紀の製鉄炉跡とみられているので、天照真良建雄神が鍛冶神であったとしても世羅郡内に祀られていた可能性がある。

須佐神社や、南の亀甲山に鎮座する武塔神社の境内には末社「金神社」があって、これはかつて製鉄が行われていた名残とも思われる・・・ と、神名ひとつでは材料が少なすぎて何とでも言えてしまう。確定には有力な物証が必要。「備後国内神名帳」でも発見されればいいんだけれど・・・国内神名帳は法会において国内の神々を勧請する時に用いられることがあり、その国内で有力であった寺院に保管されていることがある。どっかの寺にでも残っていないものか。(*「天照」の称について・・・現在、「アマテラス」といえば伊勢の神宮に祀られる神様をさす
332-3が、もともとは「天に照り輝かれる」という「天上の存在に対する美称」であって、固有名詞ではない。『日本書紀』には、「日神(ひのかみ)」の御名を「大日孁貴(おほひるめのむち)」とし、別名として「天照大日孁尊(あまてらすおほひるめのみこと)」としていることからもわかる。『万葉集』にも、「あまでらす 神の御代より 安の河 中に隔てて・・・」という歌があるが(4125)、この「あまでらす」は「アマテラスオホミカミ」のことではなく「(天上の)神」の枕詞として用いられている。「天照大神」とは、「天に照り輝かれる大いなる神」という、至って貴い存在を呼ぶのに固有名詞ではなく普通名詞をもってあらわした形。目上の存在を呼ぶときに本名ではなく「先生」「社長」「ショチョォ!」のように肩書きで呼ぶ、という感じか。また、記紀が編纂された頃には日神としてだけでなく農業神・武神・皇祖神など様々な神徳・属性を付与されており、「大日孁貴」という、意味が「日の女神」に限定された固有名詞では、それらを包括するには充分ではなくなっていたこともある)

HP「にっぽんのじんじゃ・ひろしまけん」による


非常に参考になる先行ブログをお読みいただきましたが、まだ、腑に落ちません、このように顔の見えない神社は数多くありますが、なんらかの痕跡はあるものです。

 境内摂社には、エビス、大黒のセットが置かれていることから、天台修験が覆い被さって来る以前の配神は、恐らく大国主命が…、また、皆さんお気づきになっていないようですが、境内摂社の祠の神名(木)札に「鷺大明神」があり、なお、鳥居にも「鷺大明神」と読める神額があることから、ある時代にはこの鷺大明神こそが祭神であったものと考えられます。

 では、この「鷺大明神」とは誰のことでしょうか?

 当久留米地名研究会のお膝元、久留米水天宮の付近にある久留米市大石町の天照御祖神社の表面上の祭神こそ、この鷺大明神=天照国照彦天火明櫛玉饒速日=山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒの命なのです。鷺大明神と書かれているのがお分かりになりますか(画像は見やすくするために多少加工しています)?

詳しくは ひぼろぎ逍遥(跡宮)108「伊勢天照御祖神社 “久留米の佐岐神社は誰を祀るのか?”」をお読みください。一応、その一部を以下に掲載しておきます。


332-4

伊勢神社、皇大神宮、大神宮といったものや天照大御神を祀る神社が以外と少ない事は確かで、佐賀市の伊勢神社、福岡県小郡市の御勢大霊石神社、伊勢山神社、福岡県久山町の伊野皇大神宮…と数えるほどしかありません。

ところが筑豊に入ると、天照神社なるものは、大抵、ニギハヤヒを祀るものであり、天照国照彦天火明櫛玉饒速日(アマテルクニテル ヒコ アマノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)という物部の神が祀られているのです(恐らく久山町の伊野皇大神宮も、伊野という地名から考えても本当はニギハヤヒを祀っているはずです)。

ここで、少し結論を急ぎます、もし誤っていたら、将来、訂正を入れる事とし、思考錯誤を繰り返しながらも少しでも真実に近づくには作業仮説を提出する事を恐れてはならないのです。

仮説① 佐岐神社とは、今は天照国照彦天火明櫛玉饒速日=山幸彦=猿田彦を祀るもので、元はそのお妃である豊受大神(伊勢神宮外宮)=辛國息長大姫大目命=アメノウズメを祀るものだったが、その夫である山幸彦と入れ替わったもので、外観としては千木がそのまま元の姿を留めているもの。

仮説② 佐岐神社とは、今も豊受大神(伊勢神宮外宮)=辛國息長大姫大目命=アメノウズメ豊受大神を祀るものであるが、その夫である天照国照彦天火明櫛玉饒速日=山幸彦=猿田彦を表に出しているもの。

 少しニュアンスが異なりますが、ほとんど変わりません。それは「佐岐」の語幹がどちらの物かが見当が付かないからです。

 ただ、百嶋神代系譜(阿蘇ご一家)に山幸彦の別称として、大伊乃伎神と書かれているものがあることから、佐岐と伎が音通しているように感じるものの、豊受大神にはその様な別称を見ないからというだけのことです。

 107 香春神社 “アメノウズメノミコトを主神として祀る神社である事をご存じですか?” において、も、豊受大神の前夫、後夫が海幸彦、山幸彦であることは述べましたが、男神、女神についての混乱が、伊勢神宮ばかりでなく伊勢系神社に認められる事から、後の蘇我物部抗争とも絡んで、山幸彦を表に出せなかった時期もある上に、神格としては遥かに高いアメノウズメが本来の神ではないかと思うものです。

 従って佐岐神社が本来であったが、物部全盛期に伊勢天照御祖神社(山幸彦が本体)が跳梁跋扈したものの、その後、物部氏が表に出せなくなった結果、本来の佐岐神社に戻ったものかも知れないのです。

 少なくとも伊勢の名に踊らされ天照大御神が祀られているとするのは誤りだろうと思うものです。

 ただ、明治期は伊勢神宮の天照大御神なる女性神が祀られていたと装っていた可能性はあるのですが…。


いずれにせよ、先行する、スサノウ、大国主命信仰の上に物部のニギハヤヒ奉祭が成立し、室町から戦国期の神仏習合による牛頭天皇への復帰と併せ、仏教系混合神を受入れたのがこの神社の性格ではないかと考えているところです。

 なお、この地区を下り、東城町の中心部に向かう途中の右手に朝倉山があり持丸地名が拾えます。

また、この一帯には、木瓜紋を倉に付す家もあり、福岡県の現朝倉市と対応します(持丸もあります)。

 恐らく、千数百年以前と思いますが、古い時代にこの地区には九州からの移住、開拓、植民、逃亡?…が行われたものと思います。

 少なくとも、地名はその事を物語っています。このように僅かな痕跡から多少の解析は出来るのです。


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こちらは、グーグルマップで福岡県朝倉市持丸を出したものです。大己貴神社(大国主命)もあります。


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333 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ③ “庄原市東城町飯盛山直下森の白髪神社”

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333  真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ③ “庄原市東城町飯盛山直下森の白髪神社”

20160502

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載


久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


つぎに向かったのは小奴可に近い白髪神社でした(髪と鬚は共用されているようです)。

 一般的に白髪神社と言えば、琵琶湖の白鬚神社が頭に浮かぶと思います。

祭神は猿田彦(実は山幸彦=ニギハヤヒ)とされています。


白鬚神社は、滋賀県高島市鵜川にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。別称は「白鬚大明神」「比良明神」。神紋は「左三ツ巴」。 全国にある白鬚神社の総本社とされる。沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべること333-1ら、「近江の厳島」とも称される。

所在地: 〒520-1122 滋賀県高島市鵜川 215 ℡ 0740-36-1555               


 しかし、私達百嶋神社考古学の者には、直ぐに佐賀県佐賀市久保泉の白髪神社が念頭を過ります。


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川久保白鬚神社には、109日早朝今もなお続けられている『丸祭』がある。この祭は、上代の姿を供え物・直会の肴・供え膳に残していることで注目されている。
 前夜のお籠りに続いて早朝、丸持の家の人達が紋付羽織袴で集まり、祭典中は氏子と雖も境内に立入りさせず行なわれる私祭で、一切言葉を発してはならなかった。昔は神官を招かず、蔵人さんが司宰したという。
 供え物の品は、人家幣と書く御幣19本・花米と書く御饌米1升・甘酒1徳利・新米で搗いた月形日形の餅各19個・オキョーサンという大きな御供さん19個・みょうたん柿・くり・キノス柑又はユズ柑各19個の6種を、70の御膳に乗せて供える。
 御膳は30×25?角で小竹を折り曲げた角物に5本のわらを格子状に組み、その上に和紙を敷いただけ。直会の肴は、結び昆布又はわかめ・コンニャク・煎り大豆・茹で里芋・針生姜の5品目だけの古い食べ物。
 天保11年(1840)、たまたま花納丸の古墳より、鏡・三環鈴・管玉が出土。この模様と十九丸の由来を、古川徳基・南里有隣・草場佩川が書いた『花納丸文書』が、県立博物館に在る。この文書には次のことが記されている。
 『推古天皇34年(626)邑長祠を立て、江州(滋賀県)白鬚の神を奉ず、このとき江より来る者19人、明丸・石丸・泰郎丸・千徳・彌頭.関行・犬王・倉童等皆丸を以て、祠の傍に宅す、後丸を以て其の宅を呼ぶ、総べて19丸。花納丸はその一也、祠に最も近し、云云』とある。残りの丸は地名として、吉丸・米丸・有吉・太郎・三郎・六郎・彌以・光富・有富・乗貞の合計19丸で、その所在地は付図の通りである。丸の所在地には、もと古墳らしきものがあり、石の小祠には薬師・不動・天神等の仏の名が刻まれていた。
 白鬚神社の項で述べた祭神・勧請年代・十九丸の性格を、この花納丸文書と照合すれば、古墳後期の百済新羅系農耕祭祀集団に比定される。一説にはシラギがシラヒゲに転じたともいう。(金達寿説)

 上代の日付の変り刻は、日のくたち日没で、9日は8日の日没からであった。99日は重陽の日で、お供日の祭り日であった。明治5年暮の太陽暦採用により、1019日が祭り日となった。18日の夜のお籠りは、潔斎の最後の日のなごりである。18日に田楽を舞って、神の降臨を仰ぎ、夕みけの饌を供え、厳粛なお籠りを行ない、日の出前に朝饌を供え、神にお礼の祝詞を上げ、また来年も豊作をと祈願し、終れば田楽を舞って神の昇天を見送った。この一連の祭典を『丸祭り』というが、長い年月の間には、いろいろと変り省略された。

出典:久保泉町史跡等ガイドブックp.9899


この白髪神社のエリアに「持丸」地名があることは前ブログで書いていますので、この一族が琵琶湖から来たか?九州から来たかについては、多少のベクトルが見えて来ます。


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333-4さて、祭神ですが、参拝殿の神名表には白髪神社、母里神社を中心に12柱の神様が鎮座していました。

 まず、母里神社ですが、これは黒田氏の臣下の母里太兵の一族が奉祭したものでしょう。東城町森に、母里神社があるのですから整合します。


母里 友信(もり とものぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。黒田氏の家臣。通称は太兵衛・多兵衛(たへえ、たひょうえ)、幼名は万助。但馬守を称す。

槍術に優れた剛力の勇将として知られ、栗山利安と共に黒田軍の先手両翼の大将を務めた。黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人である。また、「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でも知られる。

「もり」という読みから江戸幕府の文書などに「毛利」と誤記され、実際に一時期「毛利」と改姓したため「毛利但馬」「毛利太兵衛」と表記されることも多い。なお、黒田家中での正式な読みは「ぼり」であり、福岡県内(福岡市博物館など)では現在でもこう読まれることもある


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右から、白髪神社の一族らしい白族の神々が並んでいます。金毘羅は良いとして、白王太子、○宮神社(これは不明)、恵比須、厳島神社と順当です。

 愛宕(金山彦)、住吉、鷺(ニギハヤヒ)、竜王、若宮(高良若宮か?)も順当です。

 驚いたのが、白王太子神社です。

 白山姫(天御中主命)+白川伯王‐大幡主-ヤタガラス(豊玉彦)‐鴨玉依姫(神直日)と続く白族の流れの最上位の神、恐らく博多の櫛田神社の大幡主の父が白王太子だろうと考えられます。

 これについては、故)百嶋由一郎氏が岡山辺りに、大幡主のお父さん、そして、お爺さんと思われる方が高知県に祀られていますと言われていましたが、先生がこの神社を見逃すとは考えられず、白王太子神社とは、白川伯王を祀るものと思われます。

 今回は、白王太子神社=推定白川伯王を見出したことで、他の問題はどうでも良くなってしまいました。

 白山姫=天御中主命以上に珍しい、それほど、レアな神様なのです。

 初めに申し上げた通り、白髪神社は猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ=鷺神社で良いでしょう。


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百嶋由一郎最終神代系譜(一部)


 故)百嶋由一郎氏からは、“初期の九州王朝、九州王朝前夜は佐賀の久保泉一帯を中心にしていました”と聞かされていました。

 この中心部にあったのが白髪神社であり、白族(雲南省昆明から海南島を経由し隈本に入った)の古い時代の拠点だったのです。

 このことについては、九州王朝論者でもほとんどご存じではなく、倭国形成期の最も重要なポイントなのですが、私達 神社考古学研究班でもまだ決定的なことは全く分かっていないのです。

 なお、最後尾に書かれている若宮神社は久留米の高良大社の主神 高良玉垂命の若宮(シレカシノミコト)=仁徳天皇(オオサザキ)の事だと考えられます。


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334 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ④ “庄原市東城町川鳥の八幡神社”

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334 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ④ “庄原市東城町川鳥の八幡神社”

20160502

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載


久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


タイトルは、真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く としていますが、未だに広島県に留まっています。

既に参拝した神社は10社を超えていますが、全ての神社のリポートが書ける訳でも、書く価値があるものでもありません。

一早く真庭、湯原の神社について書きたいのですが、この神社までは触れておく必要があり、触れておく価値があるようです。

広島、岡山の山中には多くの小平野がありますが、ここもその一つで、少しばかりの小山や小丘を越えただけで、かなり開けた山上楽園とも言うべき平野が広がっていました。


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同社由緒に書かれている事ですが、地図の領域は川鳥村だけを示しており、まずは、この8倍のエリアがこの八幡宮の影響下にあったことが推察されそうです。



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創立年代不詳。往古より現境内の裏山(宮山と称す)中腹に山の神と して祀り来り、文和元年(1352年)に宇佐八幡宮の御分霊を勧請したと伝える。当社は奴可郡の3八幡宮の一つとして、川鳥村、森村、田殿村、菅 村、山中村、始終村、未渡村、田黒村の八ケ村の大氏神と称していた。なお、 明治22年に6村合併により出来た八幡村の名の由来となる。また、昔より 社領 50 石ありしを福島正則に没収されたが、今も神田と称えて不浄を禁じ る地が残っている。神社の向い45町の所には『鳥居が段』と称する地名 が残り、往昔の鳥居のありし所という。その付近に存する小仏堂は、朝日山 万松寺と称し、かっては当神社の別当寺であったという。


森村は ひぼろぎ逍遥 343 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ③ “庄原市東城町飯盛山直下森の白髪神社”で取り上げた白髪神社のある集落です。

当初からこの地域に八幡宮があることに多少の違和感を抱いていたのですが、古くから八幡神のエリアだったとは到底考えられません。その前にまず同社の縁起をご覧いただきましょう。


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八幡宮が進出するのは鎌倉政権成立からだいぶ経った後(1352年)の事のようですが、それ以前はと言えば、8ケ村ごとに異なった神を奉祭していた事が想像できます。

従って、この川鳥村に限って言えば、本来の神は大国主命、大歳神、国司神であったと考えるべきなのでしょう。


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  神額には大歳宮とあります     境内摂社として村荒神(三宝荒神)も 

ただ、国司神社は中国地方に散見されますが、ほぼ、大国主命を祀るものと理解しており、重複を意識せざるを得ません。しかし、川鳥村に、各々の名で大国主命を祀る別の社があったとも考えられることから、あまり細かい事には拘わらないでおきましょう。

さて、大歳神ですが、当ブログを長期間お読みになっている方にはお分かりと思いますが、阿蘇の草部吉見神=武甕槌命=春日大神=彦八井耳=支那津彦…であり、「古事記」のインチキ神話で大国主命に国譲りを迫った神とされるものです。

ただ、神殿の配置を見たとき、この神社の本来の神は大山祇命だったと理解しました。

それは、八幡神他(宮司と30分あまりお話ししましたが、神殿に大国主命は移されていると言う事でした)が祀られているその背後にもう一つの境内摂社が置かれている事そのものが本来の神が誰であるかを示しているのです。


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スポット050 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

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スポット050 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

20160614

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


625日に田神様を主軸に据えたトレッキングを行いましたが、大国主を祀る筑前町弥永の大己貴神社からほど近い場所に日隅宮(ウズノミヤ)があった事が、筑前町弥永にある田神社の縁起(旧縁起)から読み取れたのでした。


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現在、このあまりにも巨大な事実にたじろいでいるところですが、以前から書いてきた「出雲神話」の舞台は九州であるという仮説の証拠にも成りうる痕跡をその小字地名として発見した事になるのです。

なぜならば、大国主の国譲りに絡んで、高木大神が新しい社を建て直してやるとしたのが「日隅宮」だったからです。

その「日隅宮」という小字が大己貴神社が鎮座する筑前町大字弥永にあったのですから、両者に関係がないとは考えられない上に、「日隅」を現地では「うず」と呼んでいる事も、その信憑性を物語っているように思えるのです。

通常「日隅」と書いて「うず」とは読みません。しかし、福岡市南区には「日佐」と書き、「おさ」と読む地名があるのです。

そこでお考えください。「九州では大事をしでかした…」「ウーゴトばしでかした…」と言いますね。

これもそれと同様で、「日佐」は古くは「うさ」と読まれ、中央語の影響を受け、現在は「おさ」と呼ばれていた可能性を否定できないのです。

栂を「ツガ」「トガ」と「フウヅキ」を「ホオヅキ」と読み替えている事と対応するのです。

「日隅宮」を「うずのみや」と呼んでいる事自体が古い表現を留めている事を意味しており、近年のそれではなく相当に古いものである事にただならぬものを感じるのです。

作業はまだ始まったばかりですが、まずは、現在消されているとしても、この小字「日隅宮」がどこにあったかを探り出さねばなりません。

しかも、「日本書紀」には仲哀天皇9年秋9月に神功皇后が諸国に命令して船舶を集め、兵卒たちを訓練しようとした時、軍卒が集まらず、大三輪社を建て刀矛を奉納すると軍衆が自然と集まったと書いてあることから、その舞台が現出雲の国でないことは明らかなのです。違うと言われるなら説明をお願いします。

まさか、出雲大社からの勧請とか分社などとはおっしゃらないとは思いますが、日向の一の宮が高千穂とか霧島にはならず、何故、都濃町の都濃神社であり、その主祭神が出雲の神様とされる大国主命であるのか?



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現在は失われた大字弥永の田神神社の旧縁起


一方、鹿児島限定と考えられている田神様(タノカンサー)の起源は朝倉郡に集中する田神社であり、博多の櫛田神社の大幡主がその正体であることをお伝えしています。

「田神社」として幟を揚げた田神社は甘木インター南の朝倉市甘木草水に一社(旧村社)が存在しているだけなのですが、愕くことに、無格社として朝倉郡を中心に同郡だけでも40社近くが拾えたのでした(「福岡県神社誌」)。 

今後ともこの田神社を軸に調査を続けますが、百嶋由一郎先生は“「田神様」(タノカンサー)は大幡主と大山秖の二神による擬神体を成していた”と言われていました。

今回の朝倉郡内の40社近い無格社の田神社を発見した事によって、その実体がある程度掴めた事になるのですが、その先にどう考えても隠されている(九州王朝の発展期に於ける南九州経営の事績か?)のではないかという新たな謎が浮上してきたのでした。

朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。

このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。

大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。

九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき事実が痕跡を留めているのです。

藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。文献、フィールド、考古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。

しかし、フィールドはさらに凄いことを教えてくれます。

今回、中島 茂氏の案内により、筑前町(旧夜須町)の大己貴神社に近い弥永にある田神社(天神社)を発見した事は実に画期的な事であり、同社が、大国主命が贈られた日隅宮の痕跡である可能性はますます高くなってきたようです。


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スポット047 スーパー・マーケットのレジのロボット化とスイスのベーシックインカム 

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スポット047 スーパー・マーケットのレジのロボット化とスイスのベーシックインカム 

20160614

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「万葉集」型経済に移行すべし!何の事だかお分かりならないでしょうが段々と分かってきます。


既にどなたも目にしておられると思いますが、セルフ・スタンドの席巻に続き、スーパー・マーケットのレジの無人化が急速に進んでいます。

これを「非常に便利だ…」とか「レジでの並んでいる時間が減って助かる…」といった感覚で受け入れる事ができるのはちゃんとした収入が確保されている人の話でしかないのです。

セルフ・スタンドの導入によって、運転免許以外何の技術も持たない暴走族風まがいの若者から高齢者の一群までもを吸収していたガス・スタンド(GS)からこの低賃金労働者の一群が一掃され、収入減を絶たれた事はここ十年ほどの出来事だったのです。

結果、起こったことは、石油の高騰と相まって、暴走行為が減り(つまり石油への消費が減り)、エコ・カーなるハイブリッド車の増加によってさらに一層石油の消費量そのものが減少してしまったのです(恐らくここ十~十五年で一割減)。それどころか、ついには所得の低下も相まって、若者の車離れが一気に進みガソリンそのものが売れなくなってしまったことは記憶に新しいことでしょう。


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結果、ガソリンスタンドの経営はセルフ導入によっては全く改善されず、ますます、苦しくなってしまったのでした。

勿論、よその店が正規の従業員を置きながら、自分の店だけセルフ化(ロボット化)すれば、従業員に払う賃金を削って設備投資が出来る訳で、償還が終わりさえすれば大儲けができる事にはなるのですが、そのころには他所のスタンドもセルフ化を進め、結局、同じ条件で新たな競争を余儀なくされ、最期は資本力の大きい元売り、特約の直営店同士の力勝負に収斂されていくことになっていくのです。



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恐らく、スーパー・マーケットのレジのセルフ化、ロボット化も同様で、やっと子育てから解放され、マイホームのローンと子供の教育資金を溜めるために始めたパート(と言ってもフル・タイムと言うとんでもないパート労働ですが)の仕事でしたが、指導要員、保安要員への配置転換で生き残れる人は僅かでしかなく、結局、大半は解雇され、夜間も監視カメラと無人化されたレジが商品を送り出し続けることになるのです。こうして、唯一と言っても良い資格のいらない主婦労働者の仕事はコトゴトク失われて行く事になり、所得そのものを失う事になるのです。

それどころか、自動運転のロボット自動車の登場は目前まで迫っており、自由な独立自営業とも思われた長距離トラックの運転手、タクシーの運転手(ロボットの登場以前に会員制の配車サービスUber/ウーバーがひたひたと迫っている)もドローンやロボット・タクシーに置き換えられて行く事になるのです。

残るのは、剃刀を使う床屋のおじさん(さすがにロボットに髭剃りは頼めないでしょうから)、寿司屋は大丈夫かと思ったら、ほんの僅かな高級店と田舎を除き伝統的な寿司屋は消えて行きつつあるのです。

残るのは、個性で勝負できるラーメン屋とか、ロボット化し難い花屋、植木屋、僧侶、神官、(あくまでも信仰が続く限りに於いてですが)、ソープランドのセルフ化は冗談ですみますが、ロボットに置き換えられない産業とはそれほど多くはないのです。

思いつくのは、医師、教師、公務員…で良さそうですが、医師も大学教授も国民の大半が所得を失っていけば安閑とはしていられないでしょう。

漁業は無理としても、米作りぐらいは完全ロボット化も不可能とは言えませんし、公務員と言えども、その現業部門である軍隊ではロボット化がどんどん進められています。

例えば、世界最高水準の89式超長距離深々度魚雷などの開発が進めば、将来的には人の乗る潜水艦さえも無人化できる可能性が出てくるのです。

実際、余計な居住スペース、食糧…を除去すれば武器を満載した小型の高性能潜水艦隊が大量に生み出されることになりますし、長距離ロボット魚雷(事実上の海中の戦術巡行ミサイル)だけでも海洋を制圧できる可能性が出てきているのです。

それは、空も陸も同様で、ロボット戦闘機、ロボット戦車も既に研究段階から開発段階へと進みつつあるのかも知れません。

一方、詐欺師(結婚、オレオレ…)、イカサマ宗教家、営業マン、泥棒、強盗、以外は生きてゆく手段を失いつつあるのです。

公務員は何の富も産みださないただの下級貴族か下級藩士でしかありませんし、結局、男女とも誇りを持って生きて行ける仕事はどんどん消え去り(とりあえず測量士と消防士程度?)、ロクなものしか残らなくなっているのです。

このようなことは、ラッダイト運動を持ち出すまでもなく、古くは千歯扱き(センバコキ)や岡蒸気(汽車)の登場から何度となく起こってきた事とは言えますが、ここ560年でも、ブリキ職人、傘職人、帽子職人、桶職人、竹細工職人…と言ったものが事実上消滅して行きました。

では、産業構造の変化に伴い廃業を余儀なくされた人々はどうなったでしょうか?

一部は、転業、廃業し人生の終末を迎えたでしょうが、大半は他の産業に吸収されていった事でしょう。

今度のコンピューター化、ロボット化という新たなイノベーションによって、他の産業への誘導、移配が可能なのかです。

何度もこのような事が起こりつつも、これまでの日本と言う国家は、本質的には不必要な職業を職業扱いすることによって(例えば栄養士、カウンセラー、警備職員、文部省職員、オカマ、芸人、サッカー選手…)雇用を創出してきました。

中にはお怒りになる方もおられるでしょうが、栄養士など架空の栄養値を基に架空の栄養価を計算しているだけで摂取している実際に取得している栄養とは全く異なるものなのです。

平均的に良好とされる条件で栽培された特定の食物にどれだけのミネラル、栄養が含まれているかは、実際の栽培の条件(ハウス栽培か路地ものか、早期栽培か否か、養殖かどうか、肥料の投入の有無…)によって全くと言うよりも場合によっては数千倍単位で栄養価が異なるのです。

従って、責任逃れのためのアリバイ作り、良くて架空の仕事への思い込みでしかなく、最期は過剰な栄養を取らせないメニュウを作るに至っては、ほとんど空振り、素振りの仕事でしかないのです。

まあそれは害悪がないだけ許容範囲なのでしょうが、今後のイノベーションによってどれだけの余剰人員=失業者が生み出されるか全く予断を許しません。

その事を理解しているが故に、現代の二十~三十代は容易に結婚しないのであり、結婚したとしても子供を産もうとはしないのです。

現状のような社会制度(労働条件)ではまともな家族、家庭を持てない事は明らかであり、それを知っているからこそ自己規制と相まって、異性への関心さえも持たない人々が激増しているのです。

そして、それは自らの生物学的生存本能の発揮であり、生物学的に正しい判断をしているのです。

では、どうすれば良いのでしょうか?これが今回のテーマです。

極端に言えば、国家が、国民の一部でしかない資本家、資産家、投資家と、それらの財産を守るためだけに存在している軍隊、警察機構、官僚機構の成員の家族と不法入国者だけの国民に置き換え、大半の生産を全てロボットとコンピューターにしたとした場合どうなるのでしょうか?

解雇され収入の道を断たれ所得を失った大量の失業者(旧国民)に購買力はなくなるのであって、如何に効率的にロボットによる生産、流通が行われようとも、国家が存立できなくなる事は自明の理と言えるでしょう。

結局、この失業者にも何らかの所得を与えて消費させ購買力を持たせる以外に方法はなくなる事になるのです。

そこで、ようやくと言っていいでしょうが、国家の成員であるというだけで一定の所得を与えるという「最低補償年金」とか「ベーシック・インカム」の議論が出てき始めているのです。

 結局、無慈悲に見捨て旧国民を減少させるとしても、最後は生産されたものの消費者として一定の国民を残さざるを得なくなるという訳なのです。

この事に気づいて、十年ほど前に「万葉集型経済」という小論を書いたことがありました。

意味は容易には分からないと思いますが、どちらにせよ一定の所得を消費者に与えない以上、経済は廻らないのであって、これまでの労働に意味がなくなったとしたら、何らかの有益性のあるサービスを提供させる見返りとして国家なり地域なり共同体なりを単位として何がしかの給付をしなければ、富を独り占めにした一握りの金持ちとロボットとゴース・トタウンだけが残る事になるのです。

それが、何らかの学術研究なり歌舞音曲なりボランティア活動…といった活動報告書の提出に対して給付する制度を仕組まざるをえなくなるのではないかと考えるのです。

何故、報告書の提出という仕組みをいれたかと言えば、給付を受ける側の誇りを維持するための心理的な制度であり、スムーズにサービスをさせるものに過ぎないのです。

我々の数世代後には、歌を歌い、詩を書き、史を書き、研究し、踊り…従来の感覚では何ら生産的ではない実質現在の公務員のような行為に対して対価を支払う時代がくることでしょう。


ベーシックインカム、日本だと1人月5万円? 各国が導入検討、スイスは国民投票で否決


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収入に関係なく、一定の額を毎月全国民に支給するというベーシックインカム(BI)制度が各国で議論されている。6月初旬には、導入の賛否を問う国民投票がスイスで行われ、否決されたものの大きな話題となった。既存の制度の問題点を是正する策として、多くの国々で注目されている。◆各国がBI導入を検討収入に関係なく、一定の額を毎月全国民に支給するというベーシックインカム(BI)制度が各国で議論されている。6月初旬には、導入の賛否を問う国民投票がスイスで行われ、否決されたものの大きな話題となった。既存の制度の問題点を是正する策として、多くの国々で注目されている。


◆各国がBI導入を検討


 エコノミスト誌によれば、1797年にイギリスの哲学者トマス・ペインによって、一律15ポンドをすべての人に支給するというBIが提唱されている。以後BI導入は検討されたこともあったが、一般的に多くの福祉国家では、年齢や不運から仕事のない人への生活保障としてのプログラムが構築されてきた。しかし、ここ10年の間に、労働者の生活水準の向上に十分なだけの賃金の上昇がないという不安により、BIへの関心が高まってきたという。 スイス以外にも、カナダ、オランダ、フィンランドなど、数ヶ国でBI導入が検討されている。フィンランドでは、来年から1万人を対象に、1ヶ月550ユーロ(約67000円)を支給する実験が2年間の予定で開始される。政府はすでに2000万ユーロ(約24億円)を費用として準備しており、既存の公的扶助からも合わせて拠出を予定している(news.com.au)。

エコノミスト誌によれば、1797年にイギリスの哲学者トマス・ペインによって、一律15ポンドをすべての人に支給するというBIが提唱されている。以後BI導入は検討されたこともあったが、一般的に多くの福祉国家では、年齢や不運から仕事のない人への生活保障としてのプログラムが構築されてきた。しかし、ここ10年の間に、労働者の生活水準の向上に十分なだけの賃金の上昇がないという不安により、BIへの関心が高まってきたという。

スイス以外にも、カナダ、オランダ、フィンランドなど、数ヶ国でBI導入が検討されている。フィンランドでは、来年から1万人を対象に、1ヶ月550ユーロ(約67000円)を支給する実験が2年間の予定で開始される。政府はすでに2000万ユーロ(約24億円)を費用として準備しており、既存の公的扶助からも合わせて拠出を予定している(news.com.au)。



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「万葉集」型経済については、そのうち、また、ゆっくり議論する事にしましょう。

335 読者の皆さんへ

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335 読者の皆さんへ

20160503

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本ブログ「ひぼろぎ逍遥」と連携ブログ「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)をお読み頂きありがとうございます。

 ホーム・ページ制作者などから聴く話ですが、通常、この手のブログは日量のアクセス件数が100を越えれば大成功と言われているようです。

 現在、「ひぼろぎ逍遥」は月間で13500件、後発ブログの「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)が月間11500件程度、合計で月間25000件のアクセスとなっています。

 一時的ではなく、数カ月間この水準を維持しているようですので、まずは、このレベルを維持し安定した状態となっているようです。

 月間2500件という数字は、年間30万件になり、20141月にスタートした30ケ月程度のブログとしてはかなり成功した部類と言えそうです。改めて、読者の皆様に対してお礼申し上げます。

 ちなみに、今日出てきた昨日のアクセスも「ひぼろぎ逍遥」509件、同(跡宮)が499件と合計で1000件を超えています。


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長期的に見ればネット上にアップして行く絶対量は増え続ける訳で、普通に考えれば、安定して漸増していくはずです。

 従って、十年前から書いていて、日量900件のアクセス程度のものと、二年程度でそのレベルにのし上がってきた事とは意味が異なり、まさに、猛烈に書き続けた事の結果だった訳です。

 その代わりに失ったものは大きいはずで、もっと、視野が広げられたかもしれない、もっと読むべき本があったかもしれない、もっと違う出会いがあったかも知れないという思いは消せません。

 佐賀県内のとある地方自治体で役所暮らしをしながら20034月に「有明海異変」という本を書きましたが、既に二つのブログだけで、28000ページは書いており、ページ数から換算して、この程度の本の10冊分の原稿を書いている事になります。


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この本は、農水省の地下の売店でも560冊売れたそうですが、まだ、在庫が多少ありますので、希望される方は、直接、版元である福岡市の不知火書房に電話を掛ければ手に入ります(1800円)。

私の手元には数冊しかありませんので。


「不知火書房」(福岡市中央区桜坂31278205) ℡09062983254 (米本まで)


 「環境問題を考える」(環境問題の科学的根拠を論じる)という近藤邦明氏のHPがあるのですが、このサイトは武田邦彦氏がネット上やTV上でも脚光を浴びるかなり前の(2000年)から、「CO2温暖化論」という国家的デマと原子力産業を追及するキャンペーンを行っていました。

この本を出版した後、この近藤邦明氏や槌田敦教授と接触し、「環境問題を考える」サブ・サイト「アンビエンテ」として、「有明海諫早湾干拓事業リポート」他として下世話な公共事業の問題を数年間書き続けてもいたことを考えると、まさに、ここ二十年間、下手な文章を書き続けてきたことになります。


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ただ、ブログを書き続ける事は、実際のところ大変な作業で、かなりの経費も掛かりますし、パソコンのトラブルからデータの保管やオンエアへのリミット、調査旅行の行程…と緊張とストレスが連続する事に耐えなければなりません。

 環境問題をベースに多くのことを書いてきたのに、何故、今は「神社」について書いているのかというお話はいずれするつもりですが、これほど神社に関して勝手な事を書いているにも関わらず、ほとんどクレームらしいものが聞こえてこないという事を不思議に思っています。

 実のところ神社のブログを書いていれば、「天皇陛下に対して不敬である!」といった、たかだか親米反ソのレベルの低い右翼から新興宗教がかった方々は元より、神社研究者や神社関係者からお小言を頂戴するものと覚悟していました。

 ところが、実質的にはたった一件だけ九州古代史の会系の神社研究者と思われる方から反論とも罵倒とも言えないコメントがブログ宛に送られてきただけで、ほぼ、皆無といった静けさが続いているのです。

 現在、百嶋由一郎神社考古学研究班は、勉強会に参加されている方だけで延べ20人程度、関東、関西で百嶋研究をベースに神社研究を行っておられる方など最低でも30人近くが神社を調べておられるようです。

 その原因を考えていたのですが、既に神社を研究する団体、神社研究者のグループが存在していないし、教えを乞いたいと思うような先達者、団体が存在していないのではないかと言う驚愕の事実を確認している状態にあるのではないかという事です。

 確かにうちの研究グループでは多くのメンバーが日夜多くの神社を訪れ、ネットを駆使し、資料を調べ続けています。

 恐らく、九州全域で考えてもこれ以上に活動的なグループは存在していないようです。

 ただ、神社に詳しい研究者はおられるはずで、接触を求めておられれば、その周辺からでもアクセスがあるのではないかと考えています。

 ヨチヨチ歩きを始めた小さな神社研究グループでしたが、いつしか先頭に立たされ、最先端で苦闘しているという事実に直面し、その責任の重さを実感しているところです。

 皆さんに教えて頂きたいことがあるのですが、もしも、神社に詳しい研究者や研究グループをご存じの方がおられたら、09062983254までご一報下さい。

 恐らくここ十年で、神社に詳しい人、貴重な神社伝承、貴重な文献の一切が消失して行く事でしょう。

 行政はそのことに関して危機意識を全く持っておらず、学会通説に阿る内容は自らの利益になることから熱心ですが、古代の真実、真相の究明に至る研究は荒唐無稽な話としてあたかもそうすることが識者の条件とでも言わんばかりに排除し続けています。

 また、生前の百嶋由一郎先生と接触され文書等をお持ちの方がおられましたらその貴重この上ない資料を確保(複製)したいのでご一報下さい。

 現在、百嶋神社考古学勉強会は鹿児島本線JR春日駅前のくるま座で月例会を続けています。

 20人程度のメンバーで、毎月(日程は固定していません)10名前後の研究会が行われています。

 直接、くるま座に連絡を取られても構いません(現在数カ月中断していますがいずれ復活します)。

 どうせ「古事記」「日本書紀」の95%は嘘ですから、記紀を知らないからと足踏みをされる必要は一切ありません。

 勿論、特定の教祖様がおられる訳ではありませんのでカルト集団などでは全くなく、参加者が平等に意見を交換し神社の研究を続けている民間団体です。



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336 いつの日にか宮地嶽神社で百嶋神社考古学研究会をやりたい

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336  いつの日にか宮地嶽神社で百嶋神社考古学研究会をやりたい

20160503

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 個人的に(と言っても客観的にもでしょうが)、21世紀に入って日本国内で最も神社に詳しい神社考古学者であったと考えている百嶋由一郎氏は2013年の3年半前の11日に85歳で亡くなられています。


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これは201212月前後に配布していた地名研究会グループの広報用チラシですが、2013127日に宮地嶽神社で行われる予定だった4回玄海地名研究会が準備されていた事がお分かりになるでしょう。

 あれから3年が経過ましたが、今なら、百嶋先生をメインに、インターネット、神社系サイト、パワーポイントを駆使し、現在の勉強会メンバーなどサブ・レポーターを前座として、当時予定していた50人どころか100人程度の神社考古学研究会を行うことが出来ると考えているのですが、今でも百嶋先生がどのような話をされたかったかを考え続けています。

 その後、百嶋勉強会は参加者に厚みを増し、非常に熱心な神社研究者の拠り所になっています。

 もし、百嶋先生がおられたら、これらのメンバーも理解力を上げており、多くの質問を投げ掛け、多くの疑問が解けているはずなのですが、当時はまだまだ何を質問して良いかさえ見当が付かない状態だったのです。

 あと、二年でも三年でも生きておられたらと思うばかりです。

 ただ、どのような事を話そうと準備されていたかの一端は今でも確認できます。

 勿論、テーマは「宗像大社とは何か?」ですから宗像大社に関わるものです。

 これは、当時、配布予定だった手持ち資料の一部ですが、ご覧いただきましょう。


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大怪我をした大国主命の世話をしたウムガイヒメ(田心姫、豊玉姫)、キサガイヒメ(市杵島姫)が誰であるかをお話になろうとされていたようです。

 また、山幸=ニギハヤヒ=猿田彦と豊受大神=伏見稲荷の間に産まれたウマシマジの妹の細姫=卑弥呼宗女イヨが孝霊天皇の間に産まれたのが孝元天皇で、そのお妃が埴安姫(大幡主の妹)という事になるのです。


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スポット048 原(ハラ、ハル)地名についての某大手新聞社(全国紙)からの問い合わせについて 

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スポット048 原(ハラ、ハル)地名についての某大手新聞社(全国紙)からの問い合わせについて 

20160614

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久




最近、地名についての問い合わせが多くなっています。
 今回も、また別の全国紙から原(ハル、バル)地名に関する照会がありました。
 既存の郷土史会、史談会…といった民間団体が壊滅状況になっている上に、教育委員会といったところの学芸員と言った方々もサラリーマン化して久しく、ほとんど熱意がない上に学会通説に阿る方が大半であり、普通は見向きもされないはずの当方のような無名の組織に対してまで大手新聞や報道機関からの問い合わせが多くなっているようなのです。
 中でも、「丸」地名と併せ、「原」(ハラ、ハル)についての問い合わせが頻繁にあるところから、考え方の変化もあり、未だ中間的な見解ながらここで整理しておくことにしました。
あくまでも一般的にですが、九州島外からの転勤が多いものと思われる全国紙系大手新聞社の記者の方々は、福岡上陸直後から、屋形原(ヤカタバル)、春日原(カスガバル)、白木原(シラキバル)、前原(マイバル)…といった地名に悩まされることになります。
しかも、福岡県築上郡の新田原(シンデンバル)、長崎県佐世保市の世知原(セチバル)、佐賀の目立達原(メタバル)、城原(ジョウバル)、熊本の田原坂(タバルザカ)、宮崎の西都原(サイトバル)、新田原(ニュウタバル)から鹿児島県鹿児島市の赤生原(アコウバル)、さらには、沖縄の山原(ヤンバル)…と九州全域に原(ハル、バル)地名が存在している事に気付くようになると、“これはただ事ではない”と感じてしまわれるのだと思うのです。
まず、「原」と書いて、「ハル」「バル」と読む(呼ぶ)地名は九州限定と言って良く、東京在住者が九州に転勤して来られると、普段から相模原(サガミハラ)、小田原(オダワラ)…といった地名になじんでおられることから面食らってしまうのは致し方ないのかも知れません。
このテーマに関しては、久留米地名研究会のHPに 5.「原(ハル、バル)」として、また、関連してblog ひぼろぎ逍遥に於いて スポット 023 「五郎丸」として「丸」地名についても書いています。
基本的な内容については二つの小稿を読んで頂くとして、多少は理解が変わってもきている事から、簡略化して再提起したいと思うものです。

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 佐賀県の吉野ヶ里遺蹟はどなたも良くご存知ですが、その西側に南へと流れる素晴らしい清流があります。現在、この川に必要性の全くないダムが計画されているのですが、このダムの名称が全国的には読めないものであったという話があります。
 もちろん?九州の人は場合によっては原をハル、バルと読む場合があることを経験的に理解しているのですが、外部の人には非常に驚くことなのです。
つまり、“原をハル、バルと読む場合がある”という法則性は全国的には全く通用しないのです。
 この小論を読まれるのは通常、筑前、筑後、肥前、肥後方面の方でしょうが、久留米周辺にも「原」と書き、「ハル」(バル)と読む地名が数多くあります。
一応、分かりやすい例をあげていくつかあげておきますが、まずは、福岡県の近いところから、筑紫野市の春日原(カスガバル)、原田(ハルダ)、塔原(トウノハル)、福岡市の屋形原(ヤカタバル)、佐賀県では中原(ナカバル)、目達原(メタバル)、熊本県では有名なところで田原坂…等々となります。
 さて、城原川に似た例で全国的にもインパクトがあった話があります。それは佐賀県の辺鄙なダムの名前などではなく、“そのまんま東”こと東国原宮崎県知事の“ヒガシコクバル”という姓であったことはまだ、記憶に新しいところでしょう。
当然ながら地名ではなく人名ですが、出身地である都城市周辺(氏は三股町の出身)に直接に東国原(ヒガシコクバル)と呼ばれる地名があるのかも知れません(小字レベルでは未確認)。
 もちろん、なぜ、全国的に彼の名前がこれほど注目されたかと言えば、九州以外ではハル、バルと読むことが全くないからです。これについては、九州の内部に住んでいるとほとんど気付きません(同じように古賀という姓や地名などもなぜか全国的には非常に少ないものですが…)。 
 もしも、疑問をお持ちならば、本州で原と書いて“バル”と呼ぶ(読む)地名を考えてみてください。
 恐らく徒労に帰すことでしょう。
安達ケ原(アダチガハラ)も関ヶ原(セキガハラ)も青木ケ原(アオキガハラ)も南方熊楠が走り回った大台ケ原(オオダイガハラ)も相模原(サガミハラ)も全てハラなのです。
 実にこの一事を持ってしても驚くのですが、その基底に何らかの民族、氏族、部族、種族の違いといったものが介在し大きく作用しているのではないかと考えてしまいます。
 ただし、沖縄のバル地名はヤムバル・クイナのヤンバルだけでもお分かりでしょうから、沖縄が九州と同様の傾向を持っていることについての異論を持たれる方はないでしょう。
 もちろん、このことから直ちに南方起源であることを示しているとは言えないように思います(沖縄には九州島から持ち込まれたと思われる地名が多数ある事は指摘されている)。
 原と書き、「ハル」または「バル」と読む地名としてはいますが、正確に表現すれば、実は全く異なるものが、たまたま、同じ原という文字で表記されていると考えるべきもののように思います。
 まずは、以前、城原川ダムについて書いた事がありますので、多少、内容には重複がありますが、この一文から話を始めることにしましょう。

 “じょうばるがわ”という呼称について


城原川と書いて「じょうばるがわ」と読みます。まず、「原」は当然ながら“腹”“孕む”“張る”などと関係がある言葉ですが、訓読みでは通常「はら」(ばら)としか読まないはずです。

しかし、この「原」を「はる」(ばる)と発音することは、佐賀県ではかなり一般的であり、多少の普遍性を伴っています。

ただし、全ての「原」を「はる」(ばる)と呼んでいるわけではなく、隣接して「はら」地名と「はる」地名が混在しているところも多く、これには何らかの歴史的、民族的な(といっても歴史時代以前を起源とするものの意味で理解しているのですが、太古において「はら」と呼ぶ集団と「はる」と呼ぶ集団の異なった民族的傾向の平和的共存、混住をも想像させます)、また、特徴的な要素が関係しているのではないかと思われるのですが、未だに説得力のある説明を聞いた事がありません。

この「原」を「はる」と読むという傾向、というよりも「はる」(もしかしたら、「はら」と「はる」とは偶然似てはいるものの実は全く異なった起源の言葉が地名として結晶し、たまたま「原」という字が当てられているという要素も含めて)地名の分布は、九州に限定されているようです。例外は富山県(「針原」ハリバル…)ですが、これだけが分布の飛び地となっており、それがなぜなのか今のところ全くもって見当が付きません。

   福岡の「前原」(最近“市”に昇格した福岡市西隣の前原市のマエバル)、「春日原」(カスガバル)、「伊良原」(県営ダムの計画がある犀川町のイラバル)、熊本の「田原坂」(西南戦争の激戦地で有名なタバルザカ)、大分の「城原」(こちらの方はシロハルと濁りません)、長崎の世知原(佐世保市に隣接するセチバル町)、宮崎の「西都原」(西都原古墳群のサイトバル)、沖縄の「伊原間」(イバルマ)、「ヤンバル」(ヤンバルクイナのヤンバル)……。これらについては朝鮮語起源の「ボル」やマレー語起源(「バル」=コタバル*)が議論されていますが、さだかではありません。マレー語の「バル」「バール」はたしか街とか村とかいう意味だったと記憶しているのですが、

少なくとも、九州、沖縄以外の土地に住む人々には、城原川と書いて「じょうばるがわ」と読むのことは極めて違和感があるかと思います。しかし、九州では普通に存在する地名と思って頂いて構わないでしょう。


*)バル: マレー語の「バル」、「バール」はたしか“街”とか“村”といった意味だったと思うのですが、昔、古本屋で見つけて200円で買った昭和十七年発行の紙質の悪い「マレイ語の話し方」(学生の友社)を見ると、残念ながら、村は “kampong” 町は “pekan” となっていました(インドネシア占領政策の一環で作られたもののようです)。


ただ、若干の訂正をさせて頂きます。この時点まで、

さて、“例外は富山県(「針原」ハリバル…)ですが、これだけが分布の飛び地となっており、それがなぜなのか今のところ全くもって見当が付きません。”と、していました。 

当時は、「ZIPJIS」という旧郵政省系のサイトによるデータに基づくものを使用していましたが、最近、疑問を持って調べなおしたところ、富山市新針原、針原中ともに、「ハリワラ」もしくは「ハリハラ」と呼ばれていることが分かりをました。分布自体も不自然であり、ここで改めて、ハル地名は九州、沖縄に限定した特殊な地名であるとさせて頂きます。

 蛇足になりますが、熊本県水俣市との県境に近い鹿児島県出水市にも同じ表記の“針原”という地名があります。

そして、こちらも「ハリハラ」と呼ばれているのです。この鹿児島の“針原”地区は、七、八年前(初稿当時)、砂防ダム工事による地下水位の上昇と、急傾斜地に針葉樹林を植えた結果としての表層崩壊による鉄砲水に襲われ潰滅した集落で、まだ、記憶されている方もおられるでしょう。なにやら、富山の針原と地形が似ているようなのですが、鹿児島はともかく、富山は現地を見ていませんので、ここまでとしておきます。


ハラとバルは別のものか?


ただし、全ての「原」を「はる」(ばる)と呼んでいるわけではなく、隣接して「はら」地名と「はる」地名が混在しているところも多く


と、前述しましたが、確認するためにもいくつか近接して存在する例をあげておきます。

まずは、①久留米の市街地の東の外れにある太郎原町(ダイロウバル)とJR鹿児島本線櫛原駅のある櫛原町(クシワラ)、街中の原古賀町(ハランコガ)、住宅地である国分町の苅原池(カリハラ)、②筑紫野市の塔原(トウノハル)と萩原(ハギワラ)、③佐賀県でも有田町の街中に二百メートル離れて南川良原(ミナミカワラバル)と原宿(ハラジュク)という交差点があります。

ここで結論に多少とも近づく仮説をご紹介しましょう。谷川 健一と金 達寿(キムダルス)両氏による対談をベースにした『地名の古代史』(九州編)にこの「バル」の話が出てきます。


谷川 先程バルという話もあったけど、バルというのは、この前、対馬に行った時に老人と話していたら、老人がこれからパリしに行こうかと言う。朝鮮語と同じで、パリしに、開墾しに行く、耕しに行く。畑に行くことをパリしに行くという。そのパリから出たに決まってるんですよ。『万葉集』のハリミチですね、開墾することをハリ、新しく開墾したところが新治(にいばり)、四国にも今治(いまばり)というところがありますけれども、字は違うけどね。そういうハリというのは開墾すること。それがハルになってるんですね。沖縄なんかではハルと言うと、みな田圃や畑を表すんです。野原の原じゃないんです。原山(はらやま)勝負と言って、どれだけ一年の収穫が多いか、村ごとに原山勝負に参加する。山は山林の勝負ですけれども、収穫が上がったことを、村ごとに懸賞をかけて競いあう。それを原山勝負と言うんですよ。墾道(はらみち)というのは畦道のことを言うんです。ですから、これはやっぱり朝鮮と密接な関係があると思いますよ。


当時は、“さすがは谷川健一”と思い驚きもしたのですが、何でも朝鮮半島、朝鮮語だけで説明した金達寿氏の提案への連動には同意できないと考えるようになっています。

この「原」を「ハル」と読むという傾向、というよりも「ハル」(もしかしたら、「ハラ」と「ハル」とは偶然似てはいるものの実は全く異なった起源の言葉が地名として結晶し、たまたま「原」という字が当てられているという要素も含めて)…と前述したように別の起源のものがたまたま似通っていたためにいつしか本来の意味が忘れられたという事はかなり的を得た想定のように思えます。

恐れずに踏み込めば、「ハラ」はただの原っぱで、「ハル」は人為的な開墾地、耕地(もしかしたら城塞型集落)のように思えます。

どうも後者については「原」と区別するためにも、一部には「春」(八女市の辺春/ヘバル)「治」「針」も充てられているようです。

恐らく、福岡市の柏原(カシワラ)のような原(ハラ)地名には関係がなく、原(ハル、バル)地名にこれらの「春」「治」「針」地名が充てられているようなのです。

そして、現在、関心を寄せているのは、原(ハル、バル)地名と丸(マル)地名の関係についてです。

パリ、パル、ハリ、ハル、バリ、バル…が朝鮮半島起源のもので、なお、かつ、九州限定(四国の今治、新治はこの際無視しますが)とすると、渡来系(朝鮮半島)の地名とも言えそうですが、沖縄への分布を考えると、南方系の言語、地名が朝鮮半島南部まで持ち上げられたのではないか?とも一応は考えられます。

最近、谷川が新著(『甦る海上の道・日本と琉球』)を公刊しましたが、この、柳田(『海上の道』)の逆コースによって南下したとも言えそうで、現段階では「朝鮮半島との関係があるかもしれない…」辺りが順当なところでしょう。

ここで、「九州限定(四国の今治、新治はこの際無視しますが)と書きましたが、」と前述した事を考える事にします。

原(ハル、バル)地名は九州限定としましたが、唯一の例外が、この愛媛県今治市の今治(イマバリ)、であり、群馬県(旧新治村)や茨城県(旧新治村)に展開したと考えられる新治(ニイハリ)です。

実は、この地名も、久留米市の東隣のうきは市新治(ニイハリ)、大分県日田市の新治(ニイバル)と考えられ、文字通り、新規の開墾地名と考えられるのです。


謎解きは終わったのか?


と、ここまで書いて新たな疑問が生じました。かなり古いのですが、昭和五十八年刊行の大著、『講座方言学』9-九州地方の方言-国書刊行会(8熊本県の方言/秋山正次:熊本商科大学)を読んでいると、以下の記述に遭遇しました。

九州で原の字を持つ地名は春日原・原田・西都原・島原など原がハ()となることは周知。これは広母音・中間母音a・e・oにつづく音節の母音が狭母音に変化する現象の一例である。ラ行音の場合だとハラカク(腹を立てる)はハ()カクかハ()カクとなる。行キナハレは行キナハ()・~ハ()。誰>ダ()・ダ()。指示詞はコレ>コ()・コ()、アレ>ア()・ア()。概してはルになるのが基本である。


秋山正次教授(当時)によると原がハルと呼ばれるのは単なる方言現象ということになってしまうのですが、本当にそうなのでしょうか。かなり考えましたが、大分など瀬戸内海方言が色濃く影響する地域にもこの九州特有の原(ハル)地名が同様に存在すること。さらには、原と書き、ハラともハルとも呼ばれる地名が近接して並存する地域が広範な地域に認められることを考えると、やはり非常に古い時代からの異なった言語、民族(?)現象が作用しているのではないかと考えるのです。

ただ、島原はシマバルとは呼ばなかったと考えます(なぜか島原城はハルノシロとは呼ばれたそうですが)。


壱岐の原ノ辻遺跡と触


近年、壱岐の弥生遺跡として有名になった原ノ辻遺跡の原がハルと呼ばれていることはどなたもご存知でしょうが、この壱岐にはもっと大きな問題が潜んでいます。

松浦周辺多くの免(メン)地名があることと同列に取上げられることが多いのですが、壱岐には圧倒的な数の触(フレ)地名があるのです。


ローカルではあるが、きわめて著名な地名群落。長崎県壱岐島、玄界灘のなかの島だが、近くの生月島の一部とここだけにしかもられない「触」地名は、たしかに特異な地名集団である。…(中略)…この台地上の畑と台地を刻む谷底の水田に依存する農村は、「在」と呼ばれて、一単位ごとの集落には~触という触のつく地名がつけられている。触は小字であり、折茂順平の調べによると、全島で九九あるという。


『地名を考える』山口恵一郎(NHKブックス)


この触地名をどのように考えるかですが、ハル(HARU)とフレ(HURE)は似ていると思いませんか。

これについては、『日本語大漂流』を書かれた東海大学の茂在 寅雄教授によってフレ、プレ地名はマライ・ポリネシア系の言語と考える説も出されています。

さらに、福岡県、筑後地方には丸地名が多いのですが、田主丸や千代丸の丸にしても、原(ハラ)と丸(マル)は、M音とB音が混用されることから(大小便のキバル?イバル、ユバリとマル、尿の古語はイバリですね)、丸(マル)地名も原(ハル)地名のバリエーションの一つなのかも知れません。

 また、朝鮮語では村をマウルと言いますし、ここでは関係があるのではないかとはしておきたいと思います。


九州全域に存在するハル、バル地名にも分布にかなりの偏りが認められる


こんどは、九州全体に目を向けて考えてみましょう。

正確にカウントしてはいませんが、人吉、阿蘇、薩摩、天草、長崎にはほとんど認められません。

特に、九州脊梁山地にはないようであり、やはり、海岸部を中心として古代の農耕地、開墾地に多いように思います。また、地形にもよりますが、南方系海洋民族が定着したと考えられる長崎県から不知火海沿岸、特に天草、薩摩(阿多隼人の領域)にかけての島嶼部には認められないように思います。

このことが南方起源説にはおいそれと乗れない理由でもあるのです。

特に目立つのは宇佐、西都原、隼人町周辺ですが、隼人町は隼人征伐に送り込まれた勢力が持ち込んできたものと考えれば分かりやすいかもしれません。

と、当時は「隼人町は隼人征伐に送り込まれた勢力が持ち込んできたものと考えれば分かりやすいかもしれません。」と書いたのですが、現在は逆で、熊襲そのものが「ハル」「バル」、と発音していたのではないかと考えています。この点が、全く見解が変わってきたところです。


スポット023 五郎丸 朝日新聞2016116日夕刊「福岡県に多い○郎丸の地名」によせて(再編集)

20160126


久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


朝日新聞2016116日夕刊48“知っとーと!”「福岡県に多い○郎丸の地名」として、久留米地名研究会の事務局次長に外にも照会した記事が掲載されたことから、補足の意味も含めてコメントしたと思います。

まず、記事の全文は以下の通りです。

行政にたかる○○法人のように一辺の支援も受けずに運営している独立した民間の研究団体に対して大マスコミの全国紙から取材があること自体は有難い事であり、批判の意図など毛頭ない事は始めに申上げておきたいと思いますが、前提として、私達が「丸地名」と呼んでいる地名としての「○○丸」と姓としての「○○丸」の問題があり、前者が先行し、後者が後発のものであろうという一応の仮説を立てておきたいと思います。つまり、地名→姓名というベクトルです。

勿論、それは、姓名としての○○丸さんの方が、地名としての○○丸よりも多い事からある程度の推測はできるでしょう。

今回の朝日の記事は、たまたまラグビーでスポットライトを浴びた比較的珍しい「五郎丸」姓に関心が向けられた事から、これらの地名が集中する九州の「五郎丸」地名、ひいては「○○丸」地名全般について考えて見たいと思います。

まず、「五郎丸」姓の分布を考えておきましょう。

こう言う時にいつも利用している「姓名分布&ランキング」というサイトで同姓の分布を見てみると、


全国177件中、①福岡県 76件 ②山口県 30件 ③広島県 13件 と予想通り大半が福岡県中心の分布を示していました。

予想通りと申上げたのは、この「丸持ちの姓」=○○丸の方の中心地がどこであるかを知っているためですが、それは後に廻すとして、次に数多い○地名の内、「五郎丸」に限定して地名の分布を確認しておきたいと思います。


新潟県南魚沼市五郎丸 富山県富山市水橋五郎丸 富山県砺波市五郎丸 富山県中新川郡立山町五郎丸福井県鯖江市五郎丸町 愛知県犬山市五郎丸 愛知県田原市伊川津町五郎丸 愛知県犬山市五郎丸 

広島県安芸高田市八千代町佐々井五郎丸 徳島県阿南市椿町五郎丸 愛媛県宇和島市寄松五郎丸 

福岡県久留米市宮ノ陣町五郎丸 福岡県宮若市下有木五郎丸 福岡県筑紫郡那珂川町五郎丸 

熊本県山鹿市菊鹿町五郎丸 熊本県山鹿市久原五郎丸 大分県豊後高田市香々地五郎丸 

大分県宇佐市安心院町五郎丸 宮崎県児湯郡高鍋町上江五郎丸  


以前から丸地名の分布については気に留めていましたが、ネット上にHP「民俗学の広場」というサイトがあり五郎丸地名が網羅されていますので使わせて頂くことにします。

これを見ると、九州から日本海岸を経由し越後から東海地方、さらには、豊後から瀬戸内海地方のかなり広範な地域に広がりを見せています。

これらが九州から展開した人々によって持ち込まれた地名である可能性はかなり高いでしょう。


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337 蚩尤の神をご存知ですか?

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337 蚩尤の神をご存知ですか?

20160503

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 熊本地震により酷い目に合わせられているのが阿蘇氏ですが、この阿蘇高森の草部吉見神社に象徴される阿蘇氏は、多氏、耳族、支那族(品、級、科…)、宇治氏と色々な呼び方で自らを表してきましたが、もう一つ、中国大陸にいた時代は黎族と呼ばれていたのです。

 このビルマ・タイ系の民族と言われる阿蘇氏は、漢族、鮮卑族に追われ続け、雲南省麗江に逃げ込み、それでも追われることによって海南島の南西部を経由し、最終的に列島(九州)に入ってきている。

 その最初の上陸地点が天草下島の北町で、そこから阿蘇に展開し先住者で当時、半島の伽耶と九州北部の支配者であった高木大神(高御産巣日神)の支配下に入り、その入婿となったのが、草部吉見(ヒコヤイミミ)である。

だから、草部とは茅部であり、伽耶部の吉見であると言うのが、百嶋由一郎氏の主要な論旨でした。


蚩尤


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蚩尤。漢代の石刻画

蚩尤(しゆう、拼音: Chīyóu)は中国神話に登場する神である。路史によると羌が姓とされる。天界の帝王である黄帝と大戦争をした。獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持つとか、頭に角があるなどといわれる。

砂や石や鉄を喰らい、超能力を持ち、性格は勇敢で忍耐強く、黄帝の座を奪うという野望を持っていた。同じ姿をした兄弟が80人くらいいたという。戦争にあっては、神農氏の時、乱を起こし、兄弟の他に無数の魑魅魍魎を味方にし、風、雨、煙、霧などを巻き起こして黄帝と涿鹿の野に戦った(涿鹿の戦い)。濃霧を起こして敵を苦しめたが、黄帝は指南車を使って方位を示し、遂にこれを捕え殺したといわれている。

この時、他に蚩尤に味方したのは勇敢で戦の上手い九黎族(ミャオ族の祖先といわれる。)、巨体の夸父族だった。最後に捕らえられた蚩尤は、諸悪の根源として殺されたが、このとき逃げられるのを恐れて、手枷と足枷を外さず、息絶えてからようやく外された。身体から滴り落ちた鮮血で赤く染まった枷は、その後「楓(フウ)」となり、毎年秋になると赤く染まるのは、蚩尤の血に染められた恨みが宿っているからだという。赤旗を「蚩尤旗」と言い、劉邦がこれを軍旗に採用したとされる。

戦いは終わり、九黎族は逃れて三苗族となった。黄帝は敵討ちを心配して三苗を皆殺しにしたが、この南方の民を根絶やしにできず、その後、苗族は歴代の王を執拗に悩ます手強い敵となった。

『史記』「封禅書」では蚩尤は「兵主神」に相当するとされ、戦の神と考えられている。また戦争で必要となる戦斧、楯、弓矢等、全ての優れた武器(五兵)を発明したという。蚩尤が反乱を起こしたことで、これ以降は法を定めて反乱を抑えなければいけなくなったとも言う。

ウィキペディア(20160503 16:00


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その阿蘇氏の大陸にいた時代の民族名が黎族なのですが、苗族も広義の同族であり、漢族に帰順、同化したのが良く知られた苗族なのです。

 ただ、黎族とこの蚩尤(チュウ、シユウ)に関係があるのではないかと考えているのですが、その話は後に譲るとして、まずは、この黎族についてお考えいただきたいと思うのです。

草部吉見神社の一族が雲南省麗江から海南島を経由し阿蘇の苓北町に入っており、博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の一族も雲南省昆明にいた白族(恐らく下賀茂上賀茂のルーツ)であり、海南島を経由し熊本から博多に展開しているという百嶋由一郎氏が主張されていた話は過去何度もしています。

そして、現在も、海南島白沙黎族自治県、昌江黎族自治県、陵水黎族自治県、保亭黎族苗族自治県があり、保亭黎族苗族自治県には「加茂」(チャマオ)という地名まで存在しているのです。


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 この加茂こそ白族のいた場所ではないかと考えていますが、当面、手が出せません。


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阿蘇高森の草部吉見の一族(勿論、そのご先祖の時代の話でしょうが…)とは黎族であり、この海南島を経由し天草下島の苓北町に入り阿蘇に入るのですが、同系統の白族も謎の青銅器文明として知られた雲南省省都昆明に近い滇(てん)王国であり、そこから紅河を下りハロン湾から海南島に入ったのが博多の櫛田神社の主神である大幡主であり、その子であるヤタガラス(豊玉彦)を祀るのが下賀茂神社なのです。

 その白族が海南島に入っているとすると、この加茂村こそ相応しいのですが、これ以上の事は言えません。

 この昆明に近い滇湖付近にいた白族の一部が海南島に入り隈本(熊本)から博多に展開したのが大幡主のご先祖だったと考えているのです。

 当然、彼らは蚩尤以来の青銅冶金の技術を持っていたはずで、列島の初期の金属生産を支えたと考えているのですが、その実相はいまだ明瞭ではありません。

 始めに阿蘇氏は多氏でもあるとしましたが、それを象徴するのが奈良県天理市の多神社です。

 一方、全国に兵主神社と呼ばれる一群の神社がありますが、これが蚩尤と関係がありそうなのです。

 これが、大国主命や素戔嗚尊や天香山神(実はニギハヤヒの子ウガヤフキアエズ)などとされているのですが、いずれも列島で博多の櫛田神社の大幡主の臣下として活動した方々なので蚩尤に通じるのです。


兵主神ゆかりの神社は延喜式に19社ある。

大和 城上 穴師坐兵主神社 「兵主神、若御魂神、大兵主神」

大和 城上 穴師大兵主神社

和泉 和泉 兵主神社

参河 賀茂 兵主神社

近江 野洲 兵主神社 「国作大己貴神」 

近江 伊香 兵主神社

丹波 氷上 兵主神社 「大己貴神、少彦名神、蛭子神、天香山神」

但馬 朝来 兵主神社

但馬 養生 更杵村兵主神社

但馬 出石 大生部兵主神社 「素戔嗚尊、保食大神」 伊福部神社も称している。青銅74

但馬 国府 久斗寸兵主神社 青銅76

但馬 城崎 兵主神社

但馬 城崎 兵主神社二座

因幡 巨濃 佐弥之兵主神社

因幡 巨濃 許野之兵主神社 「大国主命、素戔嗚命」

播磨 餝磨 射楯兵主神社二座

播磨 多可 兵主神社 「大己貴命」

壱岐 壱岐 兵主神社

但馬に多く、播磨・丹波、近江等に散財する。銅鐸の分布と一致している。また天日槍を祖とする但馬族とも無縁でないとされる。

敬愛するHP「神奈備」による


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 最後に、この蚩尤に関係がありそうな気になる「地名」があるのですが、ご紹介だけに留めておきます。

 それは、大分県大分市の志生木(シユウキ)です。

 ここに注目しているのは日鉱金属の佐賀関製錬所があるからです。

 このような、公害に直結する産業の立地は古来そのような産業が定着する歴史的条件がある場合が多く、半島系の人々が住み着いていた形跡が地名の面で痕跡が追えるからです。

 単なる地名の付合だけでは認めて頂けない事は承知しています。

 しかし、丹生都姫神社が置かれ、島原半島からの構造線に近いこの地に青銅冶金以来の古代青銅、製鉄、冶金の神々が定着した可能性は十分にあるはずなのです。


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スポット049 「日本国誕生」小松洋二著(不知火書房)2016年8月新刊のご紹介 

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スポット049 「日本国誕生」小松洋二著(不知火書房)20168月新刊のご紹介 

20160708

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


 

 熱心な古代史ファンの皆さんに対して自信を持ってお薦めできる一書が福岡市の不知火書房から公刊されました(8月新刊)。

 全国配本を含め、既に北部九州を中心に配本は始まっていますが、お急ぎの方は直接不知火書房(℡ 09262983254に電話を掛けられれば直ぐに送って貰えると思います。
 
 小松洋二氏は元々は九州古代史の会に所属されておられたことからお名前は存じ上げていましたが、「古代の風」に移行されたようで、直接の面識を持っていませんし、多分、電話でお話をしたこともないと思います。
 同氏は『大和朝廷の前身 豊前王朝』(同時代社)を出された大芝英雄氏に近い考え方を持っておたれた方のようで、一般的な九州王朝論からも距離を置きながら自説を展開されておられるようです。
 
 ざっと目を通しただけですので、内容についてのコメントは控えますが、販促用チラシの章立やテーマからご自分で判断して頂きたいと思います。
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個人的には、唐、新羅連合軍と激突した倭国(当然にも九州王朝)が唐の占領を受けたことから(太宰府占領/天智10年 太宰府に唐将郭務宗ら外交使節団が472000人で…)、あくまで国家的独立性を残すために、栄えある倭国とは別の国家として成立させた擬装倭国こそが日本国ではなかったのか?と考えており、その謎の解明に大きな答えを与えて頂ける一書と思っているところです。

 早くも、次著が公刊されることを期待しています。

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スポット050 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

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スポット050 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

20160614

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


625日に田神様を主軸に据えたトレッキングを行いましたが、大国主を祀る筑前町弥永の大己貴神社からほど近い場所に日隅宮(ウズノミヤ)があった事が、筑前町弥永にある田神社の縁起(旧縁起)から読み取れたのでした。


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現在、このあまりにも巨大な事実にたじろいでいるところですが、以前から書いてきた「出雲神話」の舞台は九州であるという仮説の証拠にも成りうる痕跡をその小字地名として発見した事になるのです。

なぜならば、大国主の国譲りに絡んで、高木大神が新しい社を建て直してやるとしたのが「日隅宮」だったからです。

その「日隅宮」という小字が大己貴神社が鎮座する筑前町大字弥永にあったのですから、両者に関係がないとは考えられない上に、「日隅」を現地では「うず」と呼んでいる事も、その信憑性を物語っているように思えるのです。

通常「日隅」と書いて「うず」とは読みません。しかし、福岡市南区には「日佐」と書き、「おさ」と読む地名があるのです。

そこでお考えください。「九州では大事をしでかした…」「ウーゴトばしでかした…」と言いますね。

これもそれと同様で、「日佐」は古くは「うさ」と読まれ、中央語の影響を受け、現在は「おさ」と呼ばれていた可能性を否定できないのです。

栂を「ツガ」「トガ」と「フウヅキ」を「ホオヅキ」と読み替えている事と対応するのです。

「日隅宮」を「うずのみや」と呼んでいる事自体が古い表現を留めている事を意味しており、近年のそれではなく相当に古いものである事にただならぬものを感じるのです。

作業はまだ始まったばかりですが、まずは、現在消されているとしても、この小字「日隅宮」がどこにあったかを探り出さねばなりません。

しかも、「日本書紀」には仲哀天皇9年秋9月に神功皇后が諸国に命令して船舶を集め、兵卒たちを訓練しようとした時、軍卒が集まらず、大三輪社を建て刀矛を奉納すると軍衆が自然と集まったと書いてあることから、その舞台が現出雲の国でないことは明らかなのです。違うと言われるなら説明をお願いします。

まさか、出雲大社からの勧請とか分社などとはおっしゃらないとは思いますが、日向の一の宮が高千穂とか霧島にはならず、何故、都濃町の都濃神社であり、その主祭神が出雲の神様とされる大国主命であるのか?



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現在は失われた大字弥永の田神神社の旧縁起


一方、鹿児島限定と考えられている田神様(タノカンサー)の起源は朝倉郡に集中する田神社であり、博多の櫛田神社の大幡主がその正体であることをお伝えしています。

「田神社」として幟を揚げた田神社は甘木インター南の朝倉市甘木草水に一社(旧村社)が存在しているだけなのですが、愕くことに、無格社として朝倉郡を中心に同郡だけでも40社近くが拾えたのでした(「福岡県神社誌」)。 

今後ともこの田神社を軸に調査を続けますが、百嶋由一郎先生は“「田神様」(タノカンサー)は大幡主と大山秖の二神による擬神体を成していた”と言われていました。

今回の朝倉郡内の40社近い無格社の田神社を発見した事によって、その実体がある程度掴めた事になるのですが、その先にどう考えても隠されている(九州王朝の発展期に於ける南九州経営の事績か?)のではないかという新たな謎が浮上してきたのでした。

朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。

このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。

大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。

九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき事実が痕跡を留めているのです。

藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。文献、フィールド、考古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。

しかし、フィールドはさらに凄いことを教えてくれます。

今回、中島 茂氏の案内により、筑前町(旧夜須町)の大己貴神社に近い弥永にある田神社(天神社)を発見した事は実に画期的な事であり、同社が、大国主命が贈られた日隅宮の痕跡である可能性はますます高くなってきたようです。


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338 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑤ “真庭市湯原温泉の社地区は古代の神域”

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338 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑤ “真庭市湯原温泉の社地区は古代の神域”

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160503

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「安芸太田から邑南町へ中国山地の奥深く」に引き続き「真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く」へと物部氏の領域での神社探査を進めていましたが
、いよいよ、その中心地と言うべき湯原地区に入ル事になります。

 湯原温泉には過去何度か足を踏み入れていますが、その泉源の素晴らしさにも関わらず、また、年間200湯に入るとしても、苫田ダムに対する当時の岡山(長野県政)県の旧奥津町への横暴の記憶も引き擦りつつ、ダム直下の温泉街というイメージを拂拭できずに未だに足が遠のき続けています。

 ただ、足が遠のいていたということは未知の領域が残されていた訳で、今回の神社探査に於いてハイライトとも言うべき「社」の古社実見へと繋がったのでした。

 以前から、「湯原」とは河原から自噴する温泉の意味と考えていました。

 事実、ダム直下の砂湯は敬遠しますが、最近できた下湯原温泉 「ひまわり館」も30メートル足らずで良泉を得ていることから、古代には方々に湯小屋が建てられていた事が目に浮かんで来ました。

 その日は、神社探査を早めに切り上げゆっくり温泉で体を休めましたが、明くる早朝から非常に気になる「社」地区の数社を訪問させて頂きました。

 案の定、ここには、山間の谷間に二宮神社、横見神社、佐波良刑部神社の三社が鎮座していました。

 そして、作州11延喜式内社の内8社が置かれている事を知ったのです。

 まさに、「社」とは神々が鎮座する地の意味だったのです。

 早速、車中で「社」地区の神社についてネット検索を行うと、なんと、民間の高級ホテルのサイトがトップで飛び出してきました。

 最近は、行政機関の学芸サイトはゆるキャラ、町興し村興しの馬鹿騒ぎばかりで、見るに値しませんが、一般に分かり易く一目で分かる簡潔かつ明瞭な価値ある文章に出くわすことは稀です。


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横見神社より社の中心部を望む 正面右は尼ケ子山


まずは、お読み頂きたく思いますが、地域の雰囲気がたちどころに分かる良文です。


湯原温泉は、現在も温泉薬師周辺の河原一帯から温泉が自噴しており、古くは、その自噴する温泉をそのまま利用した露天風呂が多数ありました。またその一帯は河原の地熱そのものが高く冬季は、天然の床暖房として、たたら製鉄に従事する特に高齢者達がその河原に簡単な小屋を建て越冬地として利用していました。「たたら製鉄」は、弥生時代の後期から始まっており、湯原温泉一帯にはその時代からすでに多くの人達が分け入りたたら場と同時に温泉も利用されていたようです。この事から湯原温泉の開湯は、鉄の歴史と同じ弥生後期の約1700年前という説が有力です。奈良時代には最高権力者であった和気清麻呂の支配地となっており岡山県北の全域に当たる美作の地に政(まつりごと)を行う11の式内縣社が建てられたが湯原温泉の社地区にその内の8社が密集してあった事から時の権力者にとって重要な地域であったことが想像できる。今でもその社跡や史跡や金山(かなやま:製鉄後の屑を積んで出来た小山)社地区から7里四方に多く存在していますたたら場には多くの人手が必要とされ500名から5000名規模の集団で作業を行ってたそうです。湯原温泉周辺にはそのたたら場が多数存在していました。たたら製鉄には良質の砂鉄は勿論ながら燃料として大量の木材が必要である事から山から山への移動が必然でしたが労働は過酷であり療養としての温泉の利用や冬の越冬地として湯原温泉がその拠点になっていたようです。たたら場のイメージは、アニメ映画「もののけ姫」の中にも描かれています。


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映画「もののけ姫」に関しては、ひぼろぎ逍遥 322 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑤ “広島県旧加計町中心部の長尾神社” 321春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ④ “広島県旧加計町中心部の着天神社” でも、同映画のモデルになったといった忌部の歴史を意識し、安芸太田の「太田」が物部の「太田種子」の太田であることを書きましたが、この湯原の西には太田種子を連想する「種」地区があり宇気母智神(伊勢外宮豊受大神)を祀る田根神社があります。

また、製鉄に関わるものとしか思えない、鉄山川が流れる鉄山(カナヤマ)地区があり、表面は八幡神社とされていますが大山祇命を祀る鉄山神社までが揃っています。

正しく、巨大断層線により生み出された地溝帯故に地殻からマグマが吹き上がり、温泉が湧き出でているのであり、このような場所だからこそ、製鉄、冶金の国が開かれたのでした。

正しく、温泉とは巨大断層の恩恵でもあり、間違ってもダムを造るような場所ではないのです。

決して熊本地震の直後だから言っているのではなく、ダムとはスカンジナビア半島のような氷河で削られた谷には造っても良いのですが、巨大な地殻の割れ目に雨が流れ造られた谷には造られるべきではないのです(これぐらいのことは国土交通省の官僚どもは十分知った上で目先の利益に飛びついているのです)。

もしも、熊本地震クラスの地震が引き起こされた場合、巨大な水塊が一気に麓の温泉街を襲うことは必定なのです。では、場所を確認して頂きましょう。

人災による巨大な洪水が起きても絶対に安全場所が、今尚神々が住み続ける社地区です。


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美作国の式内社は、次の11座(大1座・小10座)のみです。

大庭郡 8座 並小

佐波良神社    (四宮 佐波良神 社村谷口)

 http://www.genbu.net/data/mimasaka/sawara_title.htm 敬愛するHP「玄松子」のサイト


形部神社     (五宮 形部神=神阿多津比売命=木花咲夜姫 社村谷口)

佐波良神社と同じところに祭られている。


以下の五座は、二宮神社(ふたみや) に祭られています。

http://www.genbu.net/data/mimasaka/futamiya_title.htm 同じくHP「玄松子」のサイト


壱粟神社二座   (六宮 壱粟神=神大市姫命 社村於和佐)

(相殿 大笹神社  (七宮      社村於和佐)

久刀神社     (八宮 久刀神  社村於和佐)

兎上神社     (三宮 兎上神  社村於和佐)

長田神社     (九宮 長田神  社村於和佐)


横見神社     (十宮 横見神=大山津見命 社村加佐美山 )

http://www.genbu.net/data/mimasaka/yokomi_title.htm 同じくHP「玄松子」のサイト

五社ありますが、すべて、社村にあり、すぐ近くにあります。



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分かり難いと思いますので少し整理しましょう。


形部神社  形部神(神阿多津比売命)   岡山県真庭市社1272 

佐波良神社  佐波良神

二宮神社 壹粟神社  神大市姫命          岡山県真庭市社字於和佐654

大笹神社  大佐々神

久刀神社  久那止神

菟上神社 岐神 あるいは 弟彦王命

長田神社 事代主神

横見神社          大山津見命 岡山県真庭市社字加佐美山758


これら全てがこの小さな谷に集中しているのです。問題は、これらの神々の実体がどの程度分かるかです。

 以下、佐波良刑部神社、二宮神社、横見神社として順次考えて見ましょう。


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339 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑥ “湯原温泉の社の二宮神社”

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339 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑥ “湯原温泉の社の二宮神社”

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160503

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


当然にも最初に考えるのは二宮の意味でしたが、「二宮神社の社名は、この式内社が鎮座している三か所の二番目の宮という意味」とHP玄松子氏も書かれており、先達に深謝します。


二宮神社 壹粟神社 神大市姫命          岡山県真庭市社字於和佐654

大笹神社 大佐々神

久刀神社 久那止神

菟上神社 岐神 あるいは 弟彦王命

長田神社 事代主神


 この谷間の集落の中心地と思える場所に上記の五柱の式内社が鎮座しているのですから驚きます。


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 二宮神社の壹粟神社= 神大市姫命は大山祇命と埴安姫(大幡主の妹)の間に産まれた罔象女神(ミツハノメ)として知られる方ですが、スサノウのお妃となられ伊勢神宮の外宮の豊受大神を産まれています。

  次の大笹神社の大佐々神は初見の神様ですが、岡山県津山市大篠2137にある大佐々神社が9柱(月讀命、高オカミ神、大己貴命、伊邪那岐神、豐磐間戸命、櫛磐間戸命、素盞嗚尊、応神天皇、大山祇命)を祀っており、この中のどなたかのはずです。

普通は筆頭の月讀命としたいのですが、百嶋神社考古学では最後尾の大山祇命と同一神と考えます。

  久刀神社 久那止神は、スサノウと櫛稲田姫との間に産まれた長脛彦(岐神)の事で逆賊扱いされた不幸な神様です。スサノウはイザナギ(昔氏)とイザナミ(白族)の子であり、櫛稲田姫が大山祇(匈奴系越智族)と埴安姫(白族)との間に産まれた子であることを考えれば、実質、白族の神社と考えるべきでしょう。

  菟上神社 岐神or菟上神社 岐神 あるいは 弟彦王命 については、岐神が久刀神社と重複することになります。このため菟上神社 岐神 あるいは 弟彦王命と考えますが、和気神社の祭神の一人ですので、ここでは、和気清麻呂の先祖神として逃げておきます。

  長田神社 事代主神については中国地方では知られた神様であり、一般的な理解としては、説明は不要であり、大国主命の長男として国譲りに賛成した神様で良さそうですが、百嶋神社考古学では、大国主命の子とはしません。大山咋命と鴨玉依姫との間に産まれた活玉姫をお妃として五十鈴姫を産み、その五十鈴姫が第10代とされる崇神天皇の妃となるのです。

以上で、一応、五柱の神々を解析しましたが、全体としては、熊野系と言うべきか忌部と言うべきか瀛氏の神々が濃厚であることから、博多の櫛田神社の大幡主の一族(白族)が展開した集落と見るべきではないかと考えているところです。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


神大市姫命を祀る壹粟神社=大笹神社は相殿(一社一殿二神)となっていることから、大笹神社の祭神は、神大市姫命の夫であるスサノウの可能性もあるのですが、ここではこれ以上の追及をやるには情報が少な過ぎます。

研究のために百嶋由一郎最終神代系譜(外)を希望される方は、09062983254古川)までご連絡下さい(常時対応)。

 

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五社四殿五神(柱)は壱栗神社と大佐々神社が相殿となっていることから、ようやく配神が理解できましたが、ここには千数百年前の古い時代の神社の形が凍結保存されているかのようで深い感銘を受けました。

岡山の神社を考える上ではこの8社を外しては全く理解できないと思えるほどの重要な神社群です。

 多くの皆さんが足を運び本当の神社が如何なるものかを是非知って頂きたいと思って止みません。

 最低でも一千年のタイムスリップが出来る神社です。

スポット051 ハウス・ホテル・カレーのCM曲をご存知ですか?“『Por una cabeza』

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スポット051 ハウス・ホテル・カレーのCM曲をご存知ですか?“『Por una cabeza』(ポルウナカベーサ)” 

20160614

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 筑前町の大己貴神社が鎮座する大字弥永に小字名として「日隅宮」があったことを知り、これは大変な事だと法務局で調査から戻って、TVのスイッチを入れると、突然、ハウス食品の「ホテル・カレー」のコマーシャルが流れて来ました。

 そのCM曲が、なんと、アルゼンチン・タンゴの名曲中の名曲ポル・ウナ・カベーサPor una cabezaだったではないですか、十年ほど前にも「キリン生茶」の宣伝に使われていますのでそれほど驚くほどの事もないのですが、カルロス・ディサルリ楽団による「パトテロ・センティメンタル」と共に最も好きな曲だけに、しばし、釘付けになってしまいました。


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sp51-2ポル・ウナ・カベサ (Por una cabeza) は、タンゴの有名曲の一つ。曲名は競馬用語の「首(ひとつ)の差で」を意味する。カルロス・ガルデルが1935年の映画「タンゴ・バー」 (Tango bar) の挿入歌として作曲したもの。ギタリストで作詞家のアルフレード・レ・ペラ (Alfredo Le Pera) による歌詞がついている。歌詞・楽譜はこちらを参照のこと。

なお、ラテン調やクラシカル調、テクノ調、タンゴ向けなど様々な編曲・アレンジがなされている。

ウィキペディア(20160914 19:02による


飛行機事故で急逝した永遠の名歌手カルロス・ガルデルによるものがもっとも有名ですが、どのオルケスタ、どの歌手が歌っても聴き込んでしまうほどの名曲なのです。

手持ちでは、ガルデル全集はもとより、日本のマエストロ小松亮太による「ラ・トランペーラ」にも収録されていましたが、テレビで流れると効果は大きいだけに、タンゴの良さが伝わり再度ブームが到来してくれたらと思うばかりです。

この「Por una cabeza」については、フィギヤ・スケートの浅田真央がリンクでも使っているので、かなりの人の脳裏に溶け込んでいるはずなのですが、なかなかアルゼンチン・タンゴの復活とまでは至りません。

 まず、スペイン語のPorは英語のforと同じで、cabezaが頭と分かれば、頭一つで、つまり、鼻の差で負けた…という意味になるのです。以下、「スペイン語事始 Ⅱ」という適切なサイトがありましたので、勝手ながらご紹介させて頂きます。


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Por una cabeza,             ただ一人のために

si ella me olvida            たとえ彼女が僕を忘れても

qué importa perderme           何千回破滅しても僕は構わない

mil veces la vida, 

para qué vivir.             その一人のために生きている                                   

Cuántos desengaños,          いくつの失望が生まれたことか

por una cabeza.             首の差のために(一人のために)

Yo jugué mil veces,           何度もそれに賭けてきた。

no vuelvo a insistir.          でももう執着はしない。

Pero si un mirar             だが、(彼女の)視線

me hiere al pasar,**           すれ違いざまに僕に当たったら、

sus labios de fuego           彼女の燃えるような唇に

otra vez quiero besar.          もう一度口づけしたい。

Basta de carreras,            レースはもう十分だ

se acabó la timba.            勝負事は終わった

!Un final reñido             最後の接戦も

ya no vuelvo a ver!           2度と見るまい。

Pero si algún pingo           でも、もしまた駿馬が

llega a ser fija el domingo,       日曜日の本命馬になるなら、

yo me juego entero.           僕は全てを賭けるだろう。

!Qué le voy a hacer..!          僕は何をしようとしているんだ!


*Por una cabeza 「首の差で」と「una cabeza=一人、一頭のために」の二重の意味をかぶせているようですね。

*Pero si un mirar me hiere al pasar, 「herir」は①傷つけるの意味だけでなく③(光線が、的が)当たるの意味もあるので、こちらのほうではないかと…


なお、昨今は便利なもので、パソコンでも、ユーチューブを開き、ポル・ウナ・カベーサと入力さえすれば、それなりの録音が複数聴けますので、試してみて下さい。

私は、野菜を鰹のダシで炊いて、ハウス食品の「ハウス・ジャワカレー」辛口とSB食品の「ゴールデンハヤシライス」を50:50のブレンドで妙な食べ物を作って食べる人間なのですが、今回は、ポル・ウナ・カベーサをCM曲に採用して頂いたことに感激し、ハウスの「ザ・ホテル・カレー」を単独で使ってみようと思います。

ただし、アルゼンチン・タンゴのファンは、ホテルはスペイン語風にオテルと発音するのです。

これまた名曲のグラン・オテル・ビクトリア…などと…。

340 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑦ “湯原温泉の社の横見神社”

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340  真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑦ “湯原温泉の社の横見神社”

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160504

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


二宮神社から二百メートルほど離れた集落の対岸、山裾の少し低い場所に横見神社が単独で鎮座しています。


340-1


340-2


当社は、貞観6年(864年)815日に、従五位上に叙せられる古社となるが、その創建に関しては、詳細は不明となる。社殿は保延4年(1138年)2月、貞治5年(1366年)9月、文明11年(1479年)2月にわたって再建され、拝殿は昭和56713日未曾有の豪雨に襲われて流出し、昭和58109日に、再建された。

 ここまでしか分かりませんが、それではただのガイドブックに過ぎなくなります。

 大山祇命は瀬戸内海の大三島に大山祇神社に祀られています。

 このため、何故、山の神様が海に祀られているのか?といった疑問を持たれる方は多いようです。

その感覚は正しいのですが、まず、神と崇められている集団(民族)と崇めている集団(民族)が全く同じものという考え方自体が全くの誤りであり、列島の民族が万世一系の天皇家を崇める単一民族といったデマに晒されてきた結果遍く押し広げられているだけでしかなく、長年月の間に通婚が進められ実質的に同族化が進んではいるものの、古代に於いては異なった民族同士の衝突、離合集散が頻発していたことから、異なった民族同士の政略結婚が支配層に於いては繰り返されていた事を見落としてはならないのです。

百嶋神社考古学では、大山祇命=月読命はトルコ系匈奴の流れを汲む金管伽耶の金越智(ウマシアシカビヒコジ)と白族の天御中主との間に産まれた越智族のプリンスであり、再び、白族で天御中主の姪にあたる埴安姫との間に産まれたのが二宮神社( 壹粟神社) 神大市姫命であり、大国主命であり、皆さん良くご存じの木花咲耶姫になるのです。

簡単に言えば、二宮の筆頭神の神大市姫命の父神が何故か横見神社として祀られていることになるのです。

この理由は全く分かりません。広島から岡山に掛けての瀬戸内海沿岸には八角形に三つ引きの大三島を意味する神紋を多く見かけるのですが、そのような近世の影響を受けていない大山祇命=月読命の原型を見た思いがして非常に興味深く見せて頂きました。

しかし、大国主命も木花咲耶姫もこの里には祀られていません。

多分、この辺りが謎を解く鍵と言えそうなのですが、これ以上は踏み込めません。


ウマシアシカビヒコヂ

ウマシアシカビヒコヂは、日本神話に登場する神。天地開闢において現れた別天津神の一柱である。『古事記』では宇摩志阿斯訶備比古遅神、『日本書紀』では可美葦牙彦舅尊と表記する。

『古事記』では、造化三神が現れた後、まだ地上世界が水に浮かぶ脂のようで、クラゲのように混沌と漂っていたときに、葦が芽を吹くように萌え伸びるものによって成った神としている。すなわち4番目の神である。『日本書紀』本文には書かれていない。第2・第3の一書では最初に現れた神、第6の一書では天常立尊に次ぐ2番目に現れた神としている。独神であり、すぐに身を隠したとあるだけで事績は書かれておらず、これ以降、日本神話には登場しない。 

ウイキペディア(20160504 19:00による



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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


研究のために百嶋由一郎最終神代系譜(外)を希望される方は、09062983254古川)までご連絡下さい(常時対応)。

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