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スポット051 研究会の値打ちとは      

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スポット051 研究会の値打ちとは      

20161024

太宰府地名研究会 古川 清久


これまで色々な研究会に接触し、拝聴し、あるいは参加し、あるいは幻滅の後離脱して来ましたが、研究会の在り方に関しては考えさせられるものが多々あります。

 まず、インターネットが普及した事によって、大学教授や学芸員といった方々による情報独占、知識独占の構造が破壊され、ネット上には多くの在野の研究者がこれまでのものをはるかに上回る研究内容を公開されておられる事に気付きます。

 ここで考えて頂きたい事があるのですが、在野の研究会が果たす役割がそれなりの意味を持っているのは事実ですが、これらの多くは戦後の自由な雰囲気で勃興した民間在野の研究者の集まりだったことは既に忘れられていますが、想像すれば容易にお分かり頂けると思います。

 重要なのは、どこかの大先生の話を聴く会ではなく、若き研究熱心な民間研究者の集まりから始まったのでした。

 つまり、皆がそれなりの意欲を持った研究者の団体がその母体であり、現在の様な大学教授や学芸員といった既存の通説を拝聴する会ではなかったという事が重要なのです。

 ところが、これらの勃興期の研究者たちの多くが高齢化し消え失せたことによって、形だけの会の存続のために、金に任せて行政丸抱えといった形で信頼されてもいない通説を垂れ流す講演会、シンポジウムといったものが目立ち始めています。

 ただ、所詮は学会通説に阿る内容でしかなく、等しく面白くなく幻滅させられるだけなのですが、彷徨う人達は入れ代わり立ち代わり、あたかも虫のように吸い寄せられては消えて行く事になるのです。

 そうした中に、在野の小団体の中からも行政に釣り上げてもらおうとする半端な研究者が重用される契機も産み出されているようです。

 しかし、例えば九州王朝論といった話でもしようものなら次回から使用してもらえない事から、適当なところでお茶を濁し、行政にも受け入れられる中途半端で曖昧な民俗学的内容などで次回からも使って下さいとするさもしい人間までが現れる事になるのです。

 つまり、金と行政のネット・ワークを握った小役人どもに利用される芸人といった小物が思いっきり尾を振り擦り寄りワンと吠えることになるのです。

 ましてや、まさに、そういった方の職業が仮に神職とかいったものでもあれば、さもしさ、見苦しさも倍加する事になるのです。


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なお、画像は一般的なもので本文とは無関係です


 ここまで見てくると、単に研究会を守り、存続させる事それ自体には一切意味はなく、本気で古代の深層に向かおうとする研究者を養成し、継承していく事こそが重要であり、会自体の運営はそれに従属するものとしなければ研究姿勢の純血性は一切保たれないのです。

 簡単に言えば、研究会とは決して目的そのものではなく研究のための手段でしかないのです。

つまり、会の運営、存続とは二の次に考えるべきなのですが、研究をしていない方々、研究内容を真に受留めるだけの方々にはその事が全く分からないのです。

実際に、研究会が研究しなくなってしまえば、その価値は一切ないのであって、必要なときは解散し、新たな研究内容、研究者によって再組織化されなければその生命は消え失せる事になるのです。

既に、「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)という二つのblogは月間2530本近くオンエアされ、日量10001100件(年間3040万)のアクセスを見せています。

このフォロアーの全てが熱心に読み込んでおられるなどとはつゆ思いもしませんが、それは、たまに研究会に参加して居眠りしながら左から聴いて右に抜けて行く参加者がおられることは否定の仕様のない事実であって、自ら足を動かして現場を見てみよう(トレッキング)とする人はともかくとして、会自体の存続そのものに執着するいわば共同体化した研究会では、嘘つきの学会、通説には一切対抗できないのです。

さて、数日前も朝6時の段階(カウントは深夜0時から翌0時まで)で、40人により概略200件のアクセスを打ち出していました。

ネットblogを読でおられる方も、仕事で調べたついでにちょっと開いてみただけ…といった方が居られる事は決して否定しませんが、朝方6時までの6時間で5本ずつ読み込んでおられるとなるとこれは決して半端なものではなく、研究会で講演中に居眠りをされる方々よりは凡そ期待できると考える方が正しいでしょう。

従って、月に一度しかも遅れてやって来て、貰った資料も捨ててしまう方々よりは、毎日来られるネット上の熱心なフォロアーの方を重視したくなるのは言わずもがなという事になってくるのです。

ましてや、研究者の集まりではなく、研究会の名を利用して行政に売り込もうとするような人間が一人でもいるとなると会の自殺になってしまいかねないのです。

まず、民間の研究団体、しかも、古代の真実を追求せんとする九州王朝を追求する研究会が、研究する団体で無くなった瞬間にその生命は尽きる事にしかならず、テーブルであれ、フィールドであれ、自分の頭で考え、自ら探索し発見しようと言う気概を持たなければ集まって情報交換を行う価値はありません。

それはただの共同体化した親睦団体であり、配布する資料も準備できない事から、勢い、行政作成のカラー刷りの高額な(しかし無味乾燥な)パンフレットを配布し、学芸員から御高説を賜わるといったものになってしまうのです。

こうなり始めた段階で、まず、値打ちは下がる事になり、何時しか通説塗れのどこにでもある小組織に成り下がり、ついには行政にも相手にもされなくなってしまうのです。

まず、会報さえも出さない、論文集さえも出さない研究会は例え何十年の歴史があったとしても、その成員が消えてしまえば、配布された資料も散逸し、一切残らないまま潰え去ってしまいます。

この事は個人でも同様で、凡そ本も出版していない、HPはおろかblogもツイッターもやらないといった半端な研究者は、一切、その業績を残すことはできずに、思い出だけが徐々に薄れて行くことになってしまいます。

この手の手合いは人の集まる講演会だけが欲求不満を発散できる唯一の舞台であり、必死に私物化しようとすることになるのです。

実際、ネット社会とは冷酷なもので、このような出版実績もない、ネット上にも露出しない人間は、事実上存在していないのと同様であって、その透明人間が僅かな規模の集会で喚こうが、十年を待たずして消失してしまうことになるのです。

では、どうしなければならないのでしょうか?

やはり、研究者が集まる研究会化を目指すべきなのです。

最低でもブロガーは自分で調べ、自分で文章を書き、発信できるのですから、ブロガーによる連合体こそが重要で、そのような研究テーマごとの研究者の集まりとして運営して行く事の方が遥かに影響力を持ち、波及性、継続性、保存性を持っているのです。

一方、現代においては出版自体にはそれほどの意味はありません。

瞬間的に旗を揚げ、存在をアピールする事にはなるのですが、それっきりであり、若者が本を読まないことから、20年前の三分の一も売れない中で苦労して出してもそれ自体から影響力を引き出すことは全く期待できないのです。

行く行くはネット上で購読者講演会を行いネット上での宣伝によって集会を行うことが中心になるはずであり、従来型の研究会では全く対応できなくなる事は明らかなのです。

そして、ユーチューブ上に画像、音声で調査リポートをドキュメントとして流し、研究者仲間での座談会をそのまま音声として流すと言った事を行うべきで、従来型の研究会から脱皮し、新しいスタイルの研究会を造り出すための方向を模索すべきなのです。

しかし、先が見えないという事は哀れなもので、新たな研究スタイルへと向かわなければならない時期に舵を切れないでいるのです。

既に、大分県内の神社研究者を中心に神社研究のネット・ワークが出来ています。

熊本県内でも神社トレッキングを行う確固たる組織が出来ています。

このような、自ら足を運んで調べ、自らブログとして発信する行動的な研究者の会に切り替えなければ、時代に対応できなくなっているのです。

会を創ってきた人間には、いつでも会を潰すことはできます。

それはいつでも形を変えて新たな会がつくれるからですが、逆に会を創ってことがない人には会を潰すことはできずに殊更声を荒げてしがみ付こうとするのです。

そうして、時代に取り残されていくことになるのですが、研究会とは、最終の目的ではなく、あくまでもそこに辿り着く為の手段でしかなく、自由で帰納的でフレキシブルに創られなければならないはずなのですが、見せかけの戦後民主主義に毒された田舎の生徒会的な組織には今後とも突破口は見えない事でしょう。

スポット052 古田史学の会九州の旗揚げか?

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スポット052 古田史学の会九州の旗揚げか?

20161013

太宰府地名研究会 古川 清久


『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の内容

【日程】11月27()

【テーマ・講師】
1).
13時30分~14時45分
 「『魏志倭人伝』と邪馬壹(台)国」
 正木裕(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)
2).
15時~16時15分 
「日本最古の条坊都市 大宰府から難波京へ」
 古賀達也(古田史学の会・代表)
3).
16時15分~16時45分
 質疑応答


【会場】久留米大学福岡サテライト
(福岡市中央区天神一丁目四番二号 エルガーラオフィス六階。西鉄「福岡天神駅」から徒歩で5分程度。JR博多駅からタクシーで10分)
【参加費】1000円(資料代)。
【主催】古田史学の会


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時代の変化にも拘わらず、今尚、古代史のセミナーなどには多くの人が集まっているようです。

そこには自らのルーツ探し、自らとは何者なのかに対する答えを求め続けているのかも知れません。

しかし、そこに登場する郷土史家、古代史家といった方達も所属する既存の史談会、郷土史会といったものと共に徐々に消え失せ、行政権力の飼い犬に等しい学芸員、教育委員会の関係者といった人々以外見掛けなくなりつつあります。

つまり、戦後民主主義勃興期に湧き上がった在野の研究者といった人々の総退陣、全絶滅が起こっている様に見えるのです。

 一方、なお生き残っている人はと見ると、“行政との関係を切る事はできない”とか、“ユダヤ・イスラエルの話など踏み込むと相手にされないからすべきではない”とか、“九州王朝論といった話も一般には相手にされないから抑えるべき”と言った、いわば「町興し」、「村興し」「世界遺産登録」…に色目を使い狂奔する「行政の芸人」とも言うべき人々しか見掛けなりつつあるのです。

そもそも、時の権力が封印した九州王朝論が行政とか既存の学会通説と衝突する事亡くして存続できるはずはないのであって、口先では“古代の真実を探らなければならない”などとは言うものの、谷川健一程度の曖昧な民俗学的論調でお茶を濁し、自己保身に気配りをしつつ、結局は行政に思いっきり尾を振り、取り入ろうとするさもしい人物しか生き残れないと言う悲しいまでの文化的退廃に突き進む状態になりつつあるのです。

その意味ではやはり古田武彦は幾つもの甘い罠が仕掛けられつつも、一切、色目を使うことなく最後まで筋を通したという意味だけでも偉人であり続けたと思うものです。

しかし、戦後古代史の世界で多くの業績を残した古田武彦が鬼籍に入り一年余りが経過したのですが、「古田九州王朝論」は多くの論客を派生し力強く生き残っている事を再認識させられています。

私自身は古田史学の会の会員であり続けていますが、実際には当の古田史学の会メンバーや通常の九州王朝論者からも“それは九州王朝論ではない”と批判される神社研究世界に入り込んでいます。

それは、穴掘り考古学と文献史学の立場から古代史にアプローチしてきた戦後史学に馴染めず、と、言うよりも、文献史学はともかくとしても、穴掘り考古学に対する不信感、嫌悪感、侮蔑の気持ちがあまりにも強く、代わりに民俗学、地名研究、神社研究、照葉樹林文化論といった清潔な世界に避退したからでした。

特に神社研究に関しては、戦前の皇国史観塗れの誤った世界観から、科学的思考を行う者は接近すべからざるものとの意識が蔓延し、神様に関する話を封殺する事があたかも科学的といった風潮が古代史界、史学界に蔓延していたことから、普通の研究者は避けて通るべきものとする傾向が非常に強く、今尚、当方が行っているようなフィールド・ワークなど全く価値のないものと思われている事だろうと考えています。

従って、そのような内容どころか、古事記の95%は嘘であるとする特殊な百嶋由一郎氏の説に基づき、神社を主軸としたblogを月間で2530本程度公開し続け、しかも、年間3040万件程度のアクセスを引き出している者が古田史学の会のメンバーであるとすると、同会に対して非常な迷惑を掛ける事になるだろうと考えているところです。

自らは直接的な古田研究からは遠ざかりつつも、学会通説派の言説には全く価値を見出しておらず、たわいもない邪馬台国畿内説や畿内説に擦り寄らんばかりの東遷説、九州王朝否定論など相手にする事さえ意味がないと思い続けています。

ただし、神社研究を行うとしても、九州王朝論の一部も分からないで、神社研究=特に九州周辺のそれを行う事は完全な的外れになってしまう事から、どうしても九州王朝論を避けて通る事が出来ないと考えており、後続の若手の人たちに対しても、古田史学の会の会報ぐらいは読むべきとして、実際に二桁の方々を誘ってきました。

さて、実のところ古田武彦亡き後の九州王朝論には、当然にも多くの流動化が生じるであろうと考えて来ました。

あの衝撃的な古田武彦の初期三部作が世に問われた頃の興奮を覚えた人々によって形成された九州王朝論の研究会団体にも、いまや、衰退、分散が避けられないのではないかと考えていました。

事実、古田史学の一翼を支え、古田史学の会を上回る内容持つと豪語した市民の古代以来の九州の某研究団体などでも、隆盛期の九州王朝論を支えた地方研究者を続々と失い、牙を抜かれ、通説派の学芸員や利権まみれの考古学関係者などから御高説を拝聴すると言った無様な姿を晒しているというありさまなのです。

当方が古田史学の会に入会した当時、会の分運営を巡って分裂が起きており、九州に於ける古田史学の会の会員数は、その某研究団体に対して約半数の勢力しか持たず、しかもグルーピングさえも行っていなかったのでした。

そういった中で、孤塁を守り続けた古田史学の会九州のメンバーはこの十年ほどの間に逆に会員を倍増させ某団体を凌駕していたのでした。

古田史学の会ではだめだとした福岡市を中心とする某研究団体は、通説派に御高説を聴くていたらくに対して、学会、通説に対して牙を研ぎ続けた古田史学の会の九州の会員はいよいよ表舞台に姿を現し、活動を開始し始めたのです。

もはや、九州に於いてもその質は前述の某団体を凌駕した事でしょう。後はパーマネントな講演会を維持できるかでしょうが、それこそが試金石と言えるのです。

以下は、古田史学の会事務局からの依頼を受け掲載するものです。


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スポット053 ボブ・ディランがノーベル賞受賞? “ボブいらん!”

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スポット053 ボブ・ディランがノーベル賞受賞? “ボブいらん!”

2016101518

太宰府地名研究会 古川 清久


ボブ・ディランがTVのテロップに出たことから、てっきり彼も死んだのか?と一瞬は思ったのですが、なんとスウェーデンのアカデミー…ノーベル文学賞受賞といった話らしいのです。

直ぐに、“スウェーデン王立科学アカデミーによる話題作り=人気取り…だな“とまでは思いはしたのですが、勿論、彼自身の生き方を評価していないとか尊敬していないとかいった訳ではありません。


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ボブ・ディラン


我々はボブ・ディランの全盛期と言うか高校~大学時代に彼の音楽に触れ直接的に影響を受けた世代であり、「セルフ・ポ-トレート」、「時代は変わる」「ナッシュビル・スカイライン」…といったアルバムに自然と接する環境にあったのでした。

ただ、個人的には「Music From Big Pink」「Cahoots」…など、ボブのバック・バンドであったザ・バンドまでは良く聴いていたのですが、決してボブ・ディランにまで感情移入する事はありませんでした。


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ザ・バンド


今にして思えばですが、当時は攻撃的なロック、ブルースに共感していたことから、半ば逃避的に見えたフォークに対しては嫌悪感が強く、今でもその考えに修正を加えることは出来ないでいるのです。

まず、ヤードバーズ、ジェファーソン・エアプレン、クリーム、ジェフ・ベックG、レッド・ツェッペリン、ローリングストーンズを聴き、熱中していたのであって、芋フォークやビートルズといったものを聴いているような軟弱な連中には殴りに行きかねないような感覚だったのです。

それは、当時は、アメリカもフランスも日本…も、ベトナム反戦運動、パリのカルティエ・ラタン闘争、五月革命、全共闘運動~70年安保…といったものの高揚期、全盛期であって、とにかく既存の体制をなんとかひっくり返そうと考えていたし、多くの若者がその一翼を荷おうとした時代だったのでした。


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ザ・ヤード・バーズ~クラウン・オブ・クリエーション~ウィールズ・オブ・ファイヤー~LZⅡ


ましてや、ツェッペリンどころか、非常にシュールで攻撃的なドイツの前衛ロック、アモン・デュールⅡ、アモン・デュールⅠ、ポポルブフ、アシュラテンプル…といったものにのめりこんでいったのですから、とても、ボブ・ディランなどに気を回すような余裕はなかったのでした。


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アモン・デュールⅡの初期三部作 ファルス・ダイ、タンツ・デア・レミンゲ、エティ


しかし、アメリカ西海岸のフォーク・ロックは良く聴いていました。ジェファーソン・エアプレンです。


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Jefferson Airplaneは 「Surrealistic Pillow (1967) が最高、右は言わずと知れたストーンズ


ほとんど、一日中、ツェッペリン、エアプレン、ストーンズを聴きながら好きな本を読む毎日で、大学の講義の半分以上は受けていなかったと思うのです。

「では、“ボブの音楽に触れ影響を受けた世代であり”とはどういう意味」だと言われそうですが、少なくとも、“地位も名誉も金もいらない、ただ、俺たちは自由に生きたいんだ…“といったメッセジは我々の世代では当たり前であり、最低でも、建前としては誰でもがそう主張する時代だったのです。

それは、クラスの仲間と話をしていても、酒を飲んでいても、麻雀をしていても、常に感じていた共通意識の様なもので、体育会系のような一部の権力志向型で処世術一番の意識をそのまま主張する人間はクラスに数名も数えられなかった様に今でも思っています。

“地位も名誉も金もいらない、ただ、俺たちは自由に生きたいんだ…“という生き方を訴えかけ教えてくれたボブ・ディランがノーベル賞を貰ったら彼の値打ちが下ってしまうから貰ってもらっては困ると言う意味だったのです(勿論、資格がないという意味などではない)。

地位も名誉も金も求め続けてアカデミーに納まっているような奴らから賞を貰うということ自体が、飼い犬が餌を貰ってワンと吠える芸人に墜ちるように見えてしまうからなのでしょう。

それが、違和感であり、貰うだけ貰って直ぐに困っている民衆にばら撒くとかフィヨルドに捨てなければ男じゃない…と思ってしまうのです。

しかし、ビートルズの様な連中はどうでも良いとして、ストーンズだけは違うと思いたかった者として、ミック・ジャガーが女王陛下から勲章を貰ったのだけは頂けなく、やはり、タバコを咥えながら“そんなものなんで貰うんだよ”とふてくされたキース・リチャードにストーンズの精神性を感じるのは私だけなのでしょうか?

ノーベル賞も、叙勲も、オリンピックも、選挙も、糞くらえ!と言い続けたいのが我々アフター全共闘派(私自身は浅間山荘事件で機動隊が突入する日に高校の卒業式に出ていたのであり、学園紛争敗北後に70年安保の焦土としてのキャンパスに入っていった世代であり、決して激突の世代ではない)なのです。

ただ、今回、非常におもしろかったのは、スウェーデン・アカデミー(文学賞は王立アカデミーではないようですね)が発表後数日たってもディランと連絡が取れていないらしいという事です。

いっそ、ボブが蹴飛ばしてくれたら最高なんですがね!と、発表後ただちにここまで書いていたら、期待通りやってくれたようなのです。


早出し!「ニュースの論点」2016.10.18


9 時間前 - 1013日にまさかのノーベル文学賞を受賞して世界中を驚かせたボブ・ディラン氏。ところが、受賞発表後もスウェーデン王立アカデミーからの連絡には答えず、コンサートでは賞については沈黙を守っている。ついには王立アカデミーは同氏への連絡を断念することとなった(参考:Nobel panel gives up knockin on Dylans doorTheGurdian)。… 


同氏のTwitterは、13日にオバマ米大統領のツイートをリツイートしたのみ。同日開催されたライブでは、賞についてはいっさい話さず、淡々と進行したという(参考:ノーベル文学賞 ボブ・ディラン氏 受賞決定後 初のライブ、NHK)。

ボブ・ディラン氏のTwitterは、13日にオバマ米大統領の祝福ツイートをリツイートしたのみ。沈黙を保っている

こうした状況のなか、ノーベル賞委員会は「ボブ・ディランへの連絡をあきらめた」と発表(参考:Nobel Prize panel stops trying to get in touch with Bob DylanEntertainment Weekly)。同氏によるノーベル賞辞退の可能性も見えてきた。


まだ、はっきりした結果は分かっていないのですが、どうやら彼がちゃぶ台をひっくり返してくれたかも知れません。そうしたら痛快の極みなのですが…。やはり、あの世代は英雄なのです。

勿論、過去にも辞退者は何人もいるのです。好い加減、ノーベル賞、オリンピック委員会、国連、WHO、ユネスコ…といった胡散臭いものへの妙な幻想を捨ててもらいたいものですね。

 

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その後、“ボブ・ディランさん(75)の公式ウェブサイトから、「ノーベル文学賞 受賞者」の文言が削除されたことが21日、分かった。”と伝えられ、“文学賞を 選考するアカデミーがあるスウェーデンのメディアは、関係筋の情報 として「削除はディラン自身の指示だ」と報じた。”としているのです。痛快です。

スポット054 宮崎県椎葉村の33番栂尾神楽においでになりませんか

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スポット054 宮崎県椎葉村の33番栂尾神楽においでになりませんか

20161024

太宰府地名研究会 古川 清久


今年も16時間に亘る33番神楽への参加を呼び掛けています。

 今のところ、何人おいでになるかは全く分かっていません。

 初回の方は1000円、馴染みの方は2000円としていますが、取り纏めて奉納するまでもなく、各自「奉納金」とでも書かれて自分で奉納され、一年に一度の神楽を十分に堪能して頂きたいと思います。

 この栂尾は言うまでもない限界集落です。

いずれ集落そのものも消えて無くなってしまわざるを得ないものと理解しています。

しかし、生きるために山から日向や延岡に就職した栂尾出身の次世代の若者達は、就職先でもリトル栂尾といったコミュニティを現地で維持し、ステージのある栂尾へと戻ってきて神楽を舞っているのです。

この一事を持ってしても、厳しい栂尾の現実と、生きて行く事への執念、地域の文化伝統を守り貫きたいと言う思いに対して感動を覚えざるを得ないのです。

この状況がいつまで維持できるかは予断を許しませんが、多くの地域の神楽を見てきた者として、まず、九州で筆頭に揚げるべき素晴らしい神楽であると思い続けています。

何時しかこの集落に15年も通う様になってしまったのですが、どうやらこの集落の誕生に纏わる経緯についての思い描くようになってきました。

それは、この地域にお住まいの方に多くの黒木姓の方がおられる事です。

通い続けてきた事から、いつしか宮司は元より、地域の方からも顔を覚えられ、色々なお話を聴く事が出来るようになりました。

栂尾神社の祭神、神紋、祭礼日、宮司家の家紋、神紋…と分かってくると、遠い南北朝争乱期に於いて、八女、黒木周辺に蟠踞し、阿蘇一族、菊池一族、五条家などと共に連動し南朝方として戦い続けた黒木一族の抵抗派が生き延びるために亡命した集落か、それほどまでの中枢部ではなく、まさかの時に備えて準備されていた逃げ込み用の砦集落の一つがこの栂尾だったのではないかと言う仮説です。

最早、証明する手立てもありませんが、宮崎県でありながら継承されている神楽は高千穂系のそれではなく、阿蘇系神楽であることがそのことを語っている様にも思うのです。


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栂尾神社参道正面 カーナビ検索 宮崎県椎葉村栂尾


オープン参加 


どなたも防寒対策をされ自由にご参加下さい 暗くなると辿り着くのが困難になりますのでご注意を

今のところ近しい内部だけは午後3時を目安に中継地の宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町鞍岡6066の祇園神社に集合する予定です

栂尾では夕方6時から翌朝10時頃まで16時間を掛けて33番の神楽が舞われます 

標高700メートルの高地ですので防寒対策を忘れずに!



太宰府地名研究会特別企画 2016112223(火、祭)

国指定重要無形民俗文化財

2016栂尾神楽大祭



sp54-2栂尾つがお神楽へのご招待
九州の脊梁山地の奥深く、宮崎県椎葉村の南縁部に栂尾(ツガオ)という小集落があります。場所はご自分で調べられるとして、この地区には今なお観光目的とは無縁の神楽が息づいています。多くの神楽が取りやめになり規模も縮小される中、一部には神楽が復活されたといった話も聞きます。しかし、その実態を見ると地元土建業者が丸抱えで援助したものもあり、本来の神楽の伝統が生き残っているとは言い難いように思えます。

小学館から「宮本常一を歩く」上下(毛利甚八)氏による民俗学的エッセイが出されています。この中に「向山日添から栂尾へ」「宮崎県椎葉村栂尾再訪 栂尾へ」という二本の話が書き留められていますが、これも十年前に書かれたもののため、元気だった人も少しずつ亡くなり、いよいよ集落消滅への道を辿っています。しかし、日向、延岡へと下った集落の後継者たちは、そこで新たなリトル栂尾を生み出し、神楽を守ってきたのです。栂尾では毎年11月の22日から23日の勤労感謝の日にかけて神楽が行われます。今年は大祭の上に22日が土曜日のため多くの観客が来られるでしょう。神楽は22日の夕方6時頃から23日の朝に掛けて奉納されるのです。現在、三十三番神楽を全て舞い切るところは、宮崎県小林市の高原(タカハル)神楽、西都市の銀鏡(シロミ)神楽、高千穂神楽などわずかですが、今年も栂尾では1730時前後から神事が始まり、翌朝の1000頃まで16時間に亘る神楽が舞われ続けられます。標高700メートルの高地であることから下界より気温が5℃は下がります。食事の一、二食は用意し、毛布も持って来られた方が無難でしょう。もちろん雨が降っても中止にはなりません。また、多くの心ある人々が数多く見学にこられます。今年は地名研究会の日程とバッティングしませんでしたので神楽を楽しむための遠征を別途企図いたしました。参加を募ります。足の無い方は配車の関係もあり早目に古川(09062983254)まで連絡して下さい。なお、駐車場は100台程度準備されています。(トイレも完備しています。)

日 時 : 112223日(火、祭)午後 6時前後より翌朝10時頃まで 暗くなると到達できない! 

目的地 : 宮崎県椎葉村栂尾 栂尾神社及び公民館など

宿泊地 : 野宿、野営 (連絡先 栂尾神社宮司 FAX 0982-59-0419

経 路 : 久留米IC⇒熊本IC⇒大津⇒高森⇒五ヶ瀬町⇒椎葉村

ルート : 国道265号線を南下、国見トンネル経由、那須橋、間柏原(マカイバル)橋を渡り、中山トンネル経由で中山へ、国道388号を2キロ遡り栂尾へ


sp54-4費 用:奉納金(10002000円程度)各自用意 高速料金、燃料代割り勘




注意事項: 標高700メートル近いため深夜は冷え込みますので防寒対策は各自で行ってください。焚き火が行われ、氏子による屋台(お汁粉、うどん・・・)、餅、なども販売されます。雑魚寝状態を覚悟していただく必要があります。日暮れが早いので暗くなると現地に辿り着けません時間には余裕を持って計画して下さい。

乗り合いの方

集合場所: 未定、古川の携帯で連絡

問い合わせ 古川まで 09062983254(携帯)



椎葉村役場辺りから1時間程度は見ておいた方が無難です!

インスタント・ラーメンが作れる程度の準備をして行きます。また、水は湧き水が神社社殿横からとうとうと湧いていますので、それを汲む事ができます。なお、トイレは準備されています。

直接現地に行かれる方はご自由に!現地は明るいうちに!

カーナビ検索椎葉村大河内栂尾 栂尾神社宮司 黒木 重友 様 0982-59-0419

スポット055 吾平津姫をご存知ですか? “アイラツヒメとはトルコの月姫だった”

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スポット055 吾平津姫をご存知ですか? “アイラツヒメとはトルコの月姫だった”

20161014


太宰府地名研究会 古川 清久


もう何度も取り上げていますが、神武僭称贈)崇神ではなく、本物の神武天皇の本物のお妃であるアイラツヒメはご存じだと思います。


娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃、生手硏耳命

日向国吾田邑の吾平津媛を娶り妃とし手研耳命(タギシミミノミコト)を生んだ 「紀」


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北部九州辺りではあまり見掛けませんが、ちゃんと吾平津を実際に祀る神社もあるのです。


吾平津姫

吾平津姫(あひらつひめ)は、神武天皇の妃。吾平津媛とも表記される。『古事記』では阿比良比売(あひらひめ)。阿多小椅の妹。神武天皇日向在住時に嫁し、手研耳命と岐須美美命を生んだ。

ウィキペディア (20161014 18:55)による


阿比良比売命 あひらひめのみこと 別名 吾平津姫命:あひらつひめのみこと……

阿多の小椅の君の妹。神武天皇が日向にいた頃の妃。多芸志美美命(手研耳命)と岐須美美命(『日本書紀』には登場しない)を生んだ。

阿比良は、大隅国の郡名。

阿比良比売命 を祀る神社(玄松子が参拝した神社のみ)狹野神社 宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田

敬愛するHP「玄松子」による


さて、百嶋神社考古学では、この本物の神武天皇のお妃であるアイラツヒメの産まれた場所についてある程度見当付けています。

その場所とは熊本県山鹿市菊鹿町の相良地区なのです。

同地には吾平神社が、また、古の日向村があり。今も吾平山があるのです。

これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)128130 吾 平(アイラ) ①~③  を参照して下さい。

しかも、直ぐ傍には(数キロ下流の某地=旧稲田村)、同じく金山彦の子(腹違い)である櫛稲田姫の生誕地と考えられるものもあり、推定ウガヤフキアエズ陵までもあるのです。

これについては、未公開ですが、ひぼろぎ逍遥(跡宮)284 大宮神社と猿田彦大神 ④ 転載“櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県山鹿市で産まれた! ”(年明け三月までには公開予定)として書いています。

まさに、後に列島最大の古代の巨大穀倉となる古代湖「茂賀浦」(これについても久留米地名研究会のHPから「茂賀浦」中原 菊池川流域地名研究会 論文をお読みください)の畔に列島神代史における二人のスーパー・スターの女神が居られた事になるのです。ただし、今回はこの話をする訳ではありません。

以前から、気になっていた吾平津姫(アイラツヒメ)の「アイラ」という言葉が列島の和語と語感が全く異なる事への半ば回答を得たと言う思いがしている事をお伝えしたかったのです。

この話に踏み込む前に、例によって百嶋由一郎最終神代系譜の一部をご覧頂きたいと思います。


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そして、両女神の父親である金山彦を祀るのが景行天皇を祀るとした山鹿市の大宮神社ではないか?という驚愕の事実に踏み込む話、この間、二回(910月)に亘って菊池地名研究会で講演しているのですが、この「アイラ」という人名に関わる言葉についての話です。


53回菊池(川流域)地名研究会 連続講演

2016911日曜日 13301630

七城町公民館(熊本県菊池市七城町甲佐町721

「大宮神社(山鹿市)と猿田彦大神」① 前篇

“大宮神社は本当に景行天皇を祀る神社なのか?”

久留米地名研究会(編集員)古川清久

② 後編は1016日日曜日の予定です。


まず、百嶋神社考古学に於いて、アイラツヒメはヘブライ系瀛氏の金山彦とトルコ系匈奴(伽耶から侵入)である越智族の大山祗の妹である越智姫との間の政略結婚で産れたハイブリッド中のハイブリッド・エリートとします。

ここで、百嶋由一郎説により母親がトルコ系匈奴の越智族であったとした場合、その娘の名がトルコ系言語だったのではないかと考えた事がありました。

ただ、昨年、少し「アイラ」がトルコ語ではないかと調べてはみたのですが、ayという語幹があることまでは見当が着いたもののそれ以上進めず踏みとどまっていたのです。

ところが、百嶋研究に関心を寄せる女性が、一週間ほど前に「アイラツ姫のアイラは月という意味ですよ…」と連絡してきたのでした。

急いで調べると、確かに彼女の言うとおりでした。


aylar- 名詞, トルコ語 | sprawk - ウェブ、あなたの道を翻訳 

https://www.sprawk.com/ja/term/トルコ語/aylar

aylar [Noun] 1. , つき (日本語) - one of the twelve divisions of the calendar year; 用語 "aylar"トルコ語翻訳、定義、例と一般的な関連語を持っています。


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そうです、トルコ国旗に描かれる通り、アイラツヒメとはアイラールaylar)姫の事だったのです。

してみると、父親である大山祗を百嶋神社考古学が月読命としている事とも対応するのです。

この辺りになると、通常の神社研究から逸れてくるようではあるのですが、百嶋先生の話には半島、中国から中近東にまで及ぶ膨大な情報が背後というか基層にあり、そのことによって神社を解説されている事から、どうしてもその基層の裏取りを行なう必要があったのです。

そこでお読み頂きたいと思うのが、ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)にリンクを張っている、百嶋神代史研究グループの一つ、「スピリチュアル・ヒーラー宮古の縁側日記」です。

当方には霊感などなくスピリィチュアルな世界は敬遠していたのですが、彼女の書く内容は、その感性の鋭さは言うまでもなく、愕くほどの幅広い知識、深い知識に裏付けられている事に気付き最近になって良く読んでいるのですが、実は、彼女もアイラツヒメの「アイラ」がトルコ語である事にとっくに気付いておられたのでした。

そのことを知り、逆に、「アイラツ姫のアイラは月という意味ですよ…」と連絡してきた某女性にこのblogを紹介したところ大喜びで感激しているのでした。

では、縁側日記からお読み頂きましょう。

奇しくもあのくそ暑い夏の時期に、お二人は同じようなテーマに取り組んでおられたのでした。


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アイラと言う意味2016-08-01 12:41:04 テーマ:自然

前ブログでアイラツ姫について書いたのですが、他に気が付いた事があったので少しまとめておきます。

まず、アイラツ姫アイラツ地名になっています。

姶良(あいら)です。

姶良と言えば姶良カルデラですね。

最初に姶良の文字転化から。

姶良(あいら)→相楽(さがら)→佐良(さがら)

相模(さがみ)→寒河江(さがえ)

さがらさんは元はあいらです。

姶良カルデラは桜島へのマグマ供給源になっていて今でも立派な活火山です。

九州は活火山の多い場所なのです。

アイラは、トルコ語でと言う意味。

姶良カルデラは、元々火山だったでしょうからアイラ火山・アイラ山≒月山です。

月山(つきやま)→築山(つきやま)→筑山(つくやま)

アイラは、トルコ語で月と言う意味。


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筑豊、筑紫、竹島(九州)竹生島(滋賀)筑波山(茨城)月山(山形)姶良は始羅とも書きやはりシラ姫との関連を無視できなくなりました。

(知人よりの情報です)


aylar - 名詞, トルコ語 | sprawk - ウェブ、あなたの道を翻訳 

https://www.sprawk.com/ja/term/トルコ語/aylar

aylar [Noun] 1. , つき (日本語) - one of the twelve divisions of the calendar year; 用語 "aylar" トルコ語翻訳、定義、例と一般的な関連語を持っています。

以下もによる

現代のテュルク系諸民族


主権国家[編集]

トルコ共和国 → トルコ人(5,549万人~5,800万人/7,000万人)

アゼルバイジャン共和国 → アゼルバイジャン人(720.5万人/2,050万人~3,300万人、イランに1,200万人~2,010万人)

ウズベキスタン共和国 → ウズベク(2,230万人/2,830万人)

トルクメニスタン → トルクメン人(550万人/800万人)

キルギス共和国 → キルギス人(380.4万人/485.5万人)

カザフスタン共和国 → カザフ(955万人/1,600万人)

連邦構成国・民族自治区[編集]

ロシア連邦 タタールスタン共和国 → タタール人(555.4万人/671.2万人)

バシコルトスタン共和国 → バシキール人(167.3万人/205.9万人)

チュヴァシ共和国 → チュヴァシ人(163.7万人/180万人)

ハカス共和国 → ハカス人(8万人)

アルタイ共和国 → アルタイ人(6.7万人/7万人)

トゥヴァ共和国 → トゥヴァ人(24.3万人/28万人)

サハ共和国 → ヤクート(44.4万人)

ウズベキスタン共和国 カラカルパクスタン共和国 → カラカルパク人(55万人)

中華人民共和国 新疆ウイグル自治区 → ウイグル人(840万人/1,125.7万人)


列島には、新羅、百済、伽耶、秦氏、ポリネシアンはもとより、ペルシャ人さえも入っているとまではされるのですが、トルコ系匈奴が入っていると言う話は、ユダヤ、イスラエルと併せ列島ではタブーとされているようです。

それが何故かも考えてみる価値がありそうです。

多分、列島の支配民族の琴線に触れることなのでしょう。


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341 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑧ “湯原温泉の社の佐波良、刑部神社”

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341  真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑧ “湯原温泉の社の佐波良、刑部神社”

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160504

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


いよいよ、真庭市湯原温泉の社の本丸、佐波良神社、刑部神社に踏み入ります。

 まず、「佐波良」という社名も地名から付されたものとすれば、福岡市西部の早良(サワラ)区の「早良」という地名との対応、ひいては、千葉県の佐原惣五郎の「佐原」との関係を意識してしまいます。

 これは、ある程度纏まった地名群の対応とか祀られている神社群の対応が認められない間はただの思い付きに過ぎませんのでここでは聞き流して頂きたいと思います。


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祭神 形部神(神阿多津比売命) 佐波良神 神阿多津比売命=木花咲夜姫 社村谷口



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教委の掲示によれば、佐波良はサワラと呼ばれており、やはり早良を意識すべきでしょう。

ただ、佐波良が如何なる神であるかの見当は付きません。

HP「玄松子」氏は 形部神を(神阿多津比売命)とされており、それが正しければ、確かに神阿多津比売命とは木花咲耶姫であるはずで、大山祇命の娘となり、横見神社との関係が考えられそうです。


大社  佐波良サワラ・形部カタベ(合祀)神社

二宮  菟上神社 壹粟・大笹神社 久刀神社 長田神社

横見  横見神社


一方、HP「新しい日本の歴史」氏もこれについては悩まれており、


佐波良神はどのような神か判りません。そこで、探ることになります。佐波良神を祀った他の神社に当たってみます。

() 佐良神社 

   鎮座地    津山市一方636-1

   氏子地域   津山市(福田、高尾、皿、平福、中島、一方、津        

    山口、井ノ口)

 由緒  (岡山神社庁ホームページ)

本社の創立年代は不詳であるが、口碑によれば備前美作の両国造となった。和気氏の祖が、この地に居住し、地名を美作国佐良の荘(旧久米の佐良山)と云えられる。和気氏祖神を当地に勧請したのが佐良神社である。

 大正2年2月15日に福田村 村社八幡神社、元高尾村 村社高尾神社、元皿 村 村社佐良神社、元平福村 村社八幡神社、元中島 村社福井神社、元一方 村 村社長岡神社、元北村 村社八坂神社、元井口村 村社八坂神社以上の各 部落の神社を佐良神社に合祀する。

 大正2年10月に現在の地に遷座した。

祭神 佐波良神 素盞嗚命 天日鷲命 大國主命 譽田別命 大山祇命  奥津彦神 奥津姫命 猿田彦命 火産靈命 清麻呂命 平麿神 和多都美神  天穗日命 經津主命 倉稻魂命 彌都波能賣神 宿奈命 伎波豆命

 (由緒にあるとおり、合祀をしたので、祭神は多いが、元からの祭神は佐波良神である)

() 和氣神社(ワケジンジャ)

   鎮座地   和気郡和気町藤野1385

   氏子地域  和気町藤野

 由緒  (岡山神社庁ホームページ)

当社の御祭神は、鐸石別命、弟彦王命、和気清麻呂、和気広虫姫命など和気氏一族9祭神である。

 鐸石別命は垂仁天皇の皇子で、命の曽孫弟彦王が軍功によりこの地に土着し、一族は備前及び美作に栄えた。

 弟彦王の12代の孫が和気清麻呂、広虫姉弟であり、ともに朝廷に仕えた。清麻呂公は、奈良時代から平安時代の転換期に大きな役割をはたした人物で、なかでも道鏡事件、平安遷都などでの活躍は有名である。

 広虫姫は戦乱による多くの孤児を養育し、その仁愛慈育の生涯は女性の鏡と称えられた。

祭神 鐸石別命 弟彦王命 佐波良神 伎波豆命

    宿奈命 乎麻呂命 清麻呂命 広虫姫命

祭神は鐸石別命・弟彦王・和気清麻呂としている。鐸石別命は垂仁天皇の子, 弟 彦王はその三世孫で備前・播磨の国境エリアで活躍, その功で藤原(後に藤野に改める)の県主になったという。何世かの後,佐波良-波伎豆-宿奈-乎麻呂 -清麻呂となる。(日本後紀の「清麻呂薨伝」による) 一書によれば鐸石別命は河内国大県郡高尾山に葬られ, 鐸彦神社が創始され たという。 鐸彦神社は金属技術集団の斎祭した神ト言われています。和気氏は精錬に優れていたようです。

佐波良神社の近くに、八畳石と呼ばれる岩があります。湯原町のたたらの遺跡ではないかと言われています。

佐波良神は、製鉄を担当した神ではないでしょうか?


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とされています。

 ここではこれ以上は踏み込みません。 ただ、幾つか気になったことがありますのでお知らせしておきます。


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恐らく宮司家か重要氏子のお宅の倉と思いますが、オモダカ紋が付されていました。

沢瀉(オモダカ)紋はスサノウ系の八坂神社、祇園神社の社家が使う家紋です。


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 岐神=長脛彦はスサノウの息子ですので、やはり、二宮の久刀神社との関係が濃厚です。

342 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑨ “湯原温泉の社の於和佐の大御堂”

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342 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑨ “湯原温泉の社の於和佐の大御堂”

20160504

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


社の中心部で素晴らしい建物を見せて頂きました。


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神宮寺本堂とはされていますが、集落の集会場も兼ねていたのではないでしょうか?昔の建物と言っても850年前のものとのことでタイムマシンにでも乗った気分でした。今回は映像の力の方が圧倒的で、言葉も文章も無力です。映像だけでも十分に語ってくれる事でしょう。ここまでとします。


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343 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑩ “鉄山神社は八幡宮ではなかった”

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343  真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑩ “鉄山神社は八幡宮ではなかった”

20160505

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 湯原 社の素晴らしいというより凄い神域を見せて頂き、真庭~湯原の探訪の大半を達成したように思いました。

 故)百嶋由一郎氏が湯原を強調されていた理由の一端が見えた思いもしたのですが、西日本でも屈指の神域との思いを深くしました。

 最早、真庭、湯原の残った神社を見たいとも、津山まで足を踏み入れようとの思いも消え去り、日本海側の鳥取に向かう事にしました。

 これ以降はその移動の途中で探訪した神社の報告になります。


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鉄山神社 カーナビ検索 真庭市鉄山378


 真庭から日本海側に入るには直接蒜山高原に入るのが普通のコースですが、早朝から濃厚な社の古社群を見た興奮を抑えるためにも、少し迂回し、西の新庄村方面の十社ほどを足早に見て回ったのですが、この鉄山神社はその一つです。

 この鉄山地区も新庄村へと向かう途上、鉄山川沿いの脇道から入った隠れ里のような所ですが、ここにあるのが鉄山神社です。

 このあまりにも直截な神社名が私を引き寄せたのですが、真庭の産鉄集落がどのようなものかを見たかったからでした。

 さて、現地に着くと、そこには鉄山神社はなく八幡神社が鎮座していたのでした。

 このようなことは良くあることで、特に鎌倉以降、八幡神社が幅を利かすようになると、方々でこのような祭神の入替えが起こったものと思われます。

 そのことは、境内を見て回ると直ぐに分かりました。実は神社の背後の小丘にもう一つの神社があったのです。

 一概には言えませんし、中々見掛けないことではありますが、神社の背後の一二段高い場所にもう一つの神社があるとすると、神社の格式はともかく、地域の本当の信仰の対象がどちらにあるかは言わずもがなであって、八幡神など見る価値も拝む価値も一切ないのです。

 神社とは、元々その土地に住み着いた人々(氏族)の氏神なのであり、混住、混血が進んだとしても、落下傘的に持ち込まれた(時の権力により押し付けられた)神には容易には平伏はしないものなのです。

 この地区に二つの社殿が別個に存在する理由は不明です。

 事情をお聴きするにも、野良に人がいないのですからいたし方がないのです。

 従って、今書いた話もその程度のものとして理解して下さい。

 もはや、産鉄労務者がいた痕跡は微塵もありません。かんな流しを伴う最後のたたら製鉄は戦後しばらくまで存在したことは森 浩一教授が証言していますが、ここは早くすたれたのでしょうか。



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その社殿は大山祇神社と矢倉神社でした。

 こういうところは実見しなければなかなかわからないもので、フィールド・ワークを重ねてやっとわかるものなのです。

矢倉神社とは九州では見掛けない神社であり無論、初見でしたが、ネット検索を行うと、日本武尊 景行天皇 神武天皇の三柱、高倉下命(配祀神)稲荷大明神(倉稲魂命)、日本武尊 景行天皇 神武天皇 事代主命 蛭児大神、日本武尊命、…となり、日本武尊・景行天皇・神武天皇 辺りでよいのではないでしょうか?

 ヤマトタケルは、谷川健一の「白鳥伝説」にあるように産鉄集団の奉祭する神であり、良く考えれば悩むほどのものではなかったのです。


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小さな参拝殿でしたが、半田姓が目立ちますね、半田は秦氏でしょうから産鉄集団にも符合します。



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大山祇神社、矢倉神社から戻る途中八幡神社を見ると明らかに低い場所に鎮座しています。

 人々の思いとはそのようなものなのでしょう。そして、八幡神社の方も鉄を造り、管理する側の神社なのであり、それを祀る人々もまた住み着いたのでしょう。そうして、長い時間を経て融合が形成されるのです。

さて、瀬戸内海の大三島の大山祇命が祀られています。

 彼ら=大山祇命を奉祭する先住者であった可能性は十分あります。

大山祇命は広義の瀛氏でもある白族の大幡主の妹の埴安姫をお妃にして大国主命が産まれます。

埴安姫の一族は後には忌部であり、産鉄技術、養蚕技術を持っていたと考えられそうです。

 ただ、それならば、大国主命が祀られてしかるべきなのですが、そうではないことから、伽耶の金越智の流れを色濃く残した氏族だったのではなかったかと思うのです。

 ついでに、ヤマトタケルもどのような流れかをお考えください。


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スポット056 念願が叶ったあこがれの常陸の国の神社調査と古田史学の会福岡講演会のご案内

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スポット056 念願が叶ったあこがれの常陸の国の神社調査と古田史学の会福岡講演会のご案内

20161024

太宰府地名研究会 古川 清久


この間、地名研究会のスケジュールに追われ、悩まされ、長期の調査旅行に入ることが出来ずにいたのですが、ようやくスケジュールの呪縛から解放され、懸案だった常陸の国の神社調査に向かう事ができるようになりました。

 恐らく、片道2000キロ、往復5000キロは走る事になるはずで、いくら燃費性能の良いホンダ・フィットシャトル(最新型ではないため25/l)でも片道80ℓ=10,000円弱は掛かるはずです。

 高速は極力使わない方針ですが帰路に山梨の勝沼に入る予定でいますので、ある程度高速を使わなければならないと考えています。


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高速料金と併せ、45万円は掛かりますが、車中泊を中心にした旅ですので、飲食費と温泉(酒はたしなみませんし温泉もほとんど「温泉博士」利用)だけであり、それ以上は一切必要ありません。

 まずは、無事に到達する事が大切で、体調を万全にして焦らずに行動したいと考えています。

 基本的には一般道利用で通し、無理な行程を入れないようにしようと思っています。

 茨城にも山梨にもこの間の研究活動で知り合いになった方々が居られることから、車中泊になっても電気と水の供給は受けられますし、何一つ不自由なく行動できるものと考えています。

 勿論、高速道路を命がけで往復するようなものは旅でもなんでもないため、休憩しながらその土地々々の風物を見ながらの遠征になります。

 日本海側のコースを取り一先ずは新潟県上越市まで移動し、長野から国道18号線で前橋まで入り、国道50号線で常陸の国を目指しますが、帰路も前橋まで戻り甲州の勝沼、信州諏訪周辺の神社を廻るつもりでいます。

 昨年の新潟、山形に続く大遠征になりますので、それこそ宮地嶽神社の交通安全の御守のお札を持って旅立とうとしているところです。

 今のところ、常陸、信州、甲斐の主だった神社をどれだけ見る事ができるかは分かりません。

今回も全国的な神様の分布状況を把握する事が主要な目的であり、個々には現地の研究者もおられることから、それほど精密な調査に踏み込む事までは考えていません。

 電話やメールでは頻繁に連絡を取っていますが、お会いするのも今回が始めてになり、実際にはどのような展開になるかは全く予想がつきません。

 多分、常陸外の神社にまで足を運ぶ可能性もあり、常陸の某所を拠点に周辺の神社を県境を越えてみる事になるのではないかと考えています。

常陸の国周辺の神社と言っても最も有名なのが剣豪塚原卜伝の信奉した鹿島大神=武甕槌命を祀る鹿島神宮、利根川を挟んだ千葉県の香取神社、一言主神社…となるのですが、当然、現地のガイドに従うことになるでしょう。

実際、北関東は人口も多く、車の渋滞も考えられることから、勢い、山手の神社を見たいという気がしているのですが、そう上手く事が運ぶかどうかは全く分かりません。

実際には、日本海ルートで青森まで走る方が反って楽なのかもしれませんが、常陸、信州、甲斐の神社を把握する事無く神社を云々するのも危うい限りであり、何時かは入らなければならないエリアなのです。

どうやら最低でも15日間、下手すれば20日間の行程になりそうですので、戻りが1119日前後、112223日の栂尾神楽、太宰府地名研のトレッキング・スケジュールの前までには戻らなければならないようです。

なんだかんだ言いながら、月末にスケジュールを集中できるようになり、ようやく全国調査への道が開けた思いがしています。

 本来、大分、熊本の神代史研究会への動きを加速させなければならないのですが、トレッキングへの最適の季節でもあり、11月は他のスケジュールをほとんど切り捨て遠征に集中したいと考えています。


少し余白がある事から少し違った事を書かせて頂きます。



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時代の変化にも拘わらず、今尚、古代史のセミナーなどには多くの人が集まっているようです。

そこには自らのルーツ探し、自らとは何者なのかに対する答えを求め続けているのかも知れません。

しかし、そこに登場する郷土史家、古代史家といった方達も所属する既存の史談会、郷土史会といったものと共に徐々に消え失せ、行政権力の飼い犬に等しい学芸員、教育委員会の関係者といった人々以外見掛けなくなりつつあります。

つまり、戦後民主主義勃興期に湧き上がった在野の研究者といった人々の総退陣、全絶滅が起こっている様に見えるのです。

 一方、なお生き残っている人はと見ると、“行政との関係を切る事はできない”とか、“ユダヤ・イスラエルの話など踏み込むと相手にされないからすべきではない”とか、“九州王朝論といった話も一般には相手にされないから抑えるべき”と言った、いわば「町興し」、「村興し」「世界遺産登録」…に色目を使い狂奔する「行政の芸人」とも言うべき人々しか見掛けなりつつあるのです。

そもそも、時の権力が封印した九州王朝論が行政とか既存の学会通説と衝突する事亡くして存続できるはずはないのであって、口先では“古代の真実を探らなければならない”などとは言うものの、谷川健一程度の曖昧な民俗学的論調でお茶を濁し、自己保身に気配りをしつつ、結局は行政に思いっきり尾を振り、取り入ろうとするさもしい人物しか生き残れないと言う悲しいまでの文化的退廃に突き進む状態になりつつあるのです。

その意味ではやはり古田武彦は幾つもの甘い罠が仕掛けられつつも、一切、色目を使うことなく最後まで筋を通したという意味だけでも偉人であり続けたと思うものです。

しかし、戦後古代史の世界で多くの業績を残した古田武彦が鬼籍に入り一年余りが経過したのですが、「古田九州王朝論」は多くの論客を派生し力強く生き残っている事を再認識させられています。

私自身は古田史学の会の会員であり続けていますが、実際には当の古田史学の会メンバーや通常の九州王朝論者からも“それは九州王朝論ではない”と批判される神社研究世界に入り込んでいます。

それは、穴掘り考古学と文献史学の立場から古代史にアプローチしてきた戦後史学に馴染めず、と、言うよりも、文献史学はともかくとしても、穴掘り考古学に対する不信感、嫌悪感、侮蔑の気持ちがあまりにも強く、代わりに民俗学、地名研究、神社研究、照葉樹林文化論といった清潔な世界に避退したからでした。

特に神社研究に関しては、戦前の皇国史観塗れの誤った世界観から、科学的思考を行う者は接近すべからざるものとの意識が蔓延し、神様に関する話を封殺する事があたかも科学的といった風潮が古代史界、史学界に蔓延していたことから、普通の研究者は避けて通るべきものとする傾向が非常に強く、今尚、当方が行っているようなフィールド・ワークなど全く価値のないものと思われている事だろうと考えています。

従って、そのような内容どころか、古事記の95%は嘘であるとする特殊な百嶋由一郎氏の説に基づき、神社を主軸としたblogを月間で2530本程度公開し続け、しかも、年間3040万件程度のアクセスを引き出している者が古田史学の会のメンバーであるとすると、同会に対して非常な迷惑を掛ける事になるだろうと考えているところです。

自らは直接的な古田研究からは遠ざかりつつも、学会通説派の言説には全く価値を見出しておらず、たわいもない邪馬台国畿内説や畿内説に擦り寄らんばかりの東遷説、九州王朝否定論など相手にする事さえ意味がないと思い続けています。

ただし、神社研究を行うとしても、九州王朝論の一部も分からないで、神社研究=特に九州周辺のそれを行う事は完全な的外れになってしまう事から、どうしても九州王朝論を避けて通る事が出来ないと考えており、後続の若手の人たちに対しても、古田史学の会の会報ぐらいは読むべきとして、実際に二桁の方々を誘ってきました。

さて、実のところ古田武彦亡き後の九州王朝論には、当然にも多くの流動化が生じるであろうと考えて来ました。

あの衝撃的な古田武彦の初期三部作が世に問われた頃の興奮を覚えた人々によって形成された九州王朝論の研究会団体にも、いまや、衰退、分散が避けられないのではないかと考えていました。

事実、古田史学の一翼を支え、古田史学の会を上回る内容持つと豪語した市民の古代以来の九州の某研究団体などでも、隆盛期の九州王朝論を支えた地方研究者を続々と失い、牙を抜かれ、通説派の学芸員や利権まみれの考古学関係者などから御高説を拝聴すると言った無様な姿を晒しているというありさまなのです。

当方が古田史学の会に入会した当時、会の分運営を巡って分裂が起きており、九州に於ける古田史学の会の会員数は、その某研究団体に対して約半数の勢力しか持たず、しかもグルーピングさえも行っていなかったのでした。

そういった中で、孤塁を守り続けた古田史学の会九州のメンバーはこの十年ほどの間に逆に会員を倍増させ某団体を凌駕していたのでした。

古田史学の会ではだめだとした福岡市を中心とする某研究団体は、通説派に御高説を聴くていたらくに対して、学会、通説に対して牙を研ぎ続けた古田史学の会の九州の会員はいよいよ表舞台に姿を現し、活動を開始し始めたのです。

もはや、九州に於いてもその質は前述の某団体を凌駕した事でしょう。後はパーマネントな講演会を維持できるかでしょうが、それこそが試金石と言えるのです。

以下は、古田史学の会事務局からの依頼を受け掲載するものです。


『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の内容

【日程】11月27()

【テーマ・講師】
1).
13時30分~14時45分
 「『魏志倭人伝』と邪馬壹(台)国」
 正木裕(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)
2).
15時~16時15分 
「日本最古の条坊都市 大宰府から難波京へ」
 古賀達也(古田史学の会・代表)
3).
16時15分~16時45分
 質疑応答


【会場】久留米大学福岡サテライト
(福岡市中央区天神一丁目四番二号 エルガーラオフィス六階。西鉄「福岡天神駅」から徒歩で5分程度。JR博多駅からタクシーで10分)
【参加費】1000円(資料代)。
【主催】古田史学の会


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344 チョッパリとパンチョッパリ

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344 チョッパリとパンチョッパリ

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160506

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


奇妙なタイトルに思えるでしょうが、だんだん意味が分かってきます。

無題.png

古代史にある程度足を踏み入れた方は、宮廷に上がった女官が鹿の子だったから返されたとか、鹿の足だったから意地悪された…といった話をご存じかも知れません。


神話の森 > 歌語り風土記 

和泉式部の足袋 佐賀県杵島郡有明町大字田野上字泉 旧錦江村


 むかし杵島郡の和泉村の福泉寺の僧が、仏に供へた茶を裏山に撒かうとすると、白鹿が飲んでしまった。鹿は毎日現はれて茶を飲んだ。ある日、堂の裏で赤子の泣く声がしたので、僧が行って見ると、鹿が人の子を産んで乳ちちを与へてゐた。この子は、寺で子授けを祈願してゐた大黒丸の夫婦に引き取られ、九歳のときに京へ上って宮仕へをしたといふ。娘は和泉式部と呼ばれ、あるとき故郷の錦浦に歌を送って来た。

 ○ふるさとにかへる衣の色朽ちて、錦の浦や、きしまなるらん  和泉式部


 和泉式部は、鹿から生れた鹿の子であったので、生れながらに足の指が二つに割れてゐた。それを隠すために母は足袋を発明して娘にはかせたといふ。(柳田国男・和泉式部の足袋)


丹後国での話だが、翌日の狩猟に備へて和泉式部の夫の藤原保昌らが準備をしてゐると、夜更けに鹿の声が聞えた。和泉式部が鹿を憐れんで歌を詠むと、保昌らは心を打たれて狩りを中止したといふ。(古本説話集)

 ○ことわりや、いかでか鹿の鳴かざらん。今宵ばかりの命と思へば 和泉式部


神話の森 > 「歌語り風土記」より


開聞岳で閼伽の水を飲んだ雌鹿の口から生まれた赤ん坊は見目麗しく、生まれる時に瑞祥が現れたことから端照姫と名付けられて、智通上人と仙人の塩土老翁により大切に育てられました。日毎に美しさは増し、2歳で読み書きも出来ました。その評判は大宰府から朝廷にまで届きます。藤原鎌足によって京に呼び寄せられ、育てられることになりました。端照姫は13歳の時宮中に召され、名も大宮姫と改めました。

天智天皇は皇后を亡くしていたので、大宮姫が皇后となります。しかし、幸せは長く続きませんでした。

大宮姫は才女で、天女のように美しく、天智天皇の寵愛を受けたのですが宮中女官たちの妬みの的にもなりました。実は大宮姫には人に知られたくない秘密がありました。足の爪が2つに割れていたのです。姫は夏冬問わず、常に足袋を履き、素足を見せませんでした。しかし、ある日女官たちの悪だくみで、足袋を脱がされて鹿の足!牛の爪!とののしられます・・・。大宮姫は耐え切れず、人知れず近江大津宮を出て、生まれ故郷の開聞へ戻ります。しかし、天智天皇は大宮姫を尋ねて遥々開聞の地までやってきたそうです。

その後2人は末永く仲良く暮らしました。


鹿児島県だけで採集できる「大宮姫伝承」の一部ですがblog「思いっきりスローライフ」より


奇妙な話ですが、多くの民族(最低でも帰化人が)が衝突していたと考えられる宮廷がらみの話ですから、ここにはなんらかの民族衝突が反映されているのではないかと考えていましたが、ようやく分かってきました。 

 ここに「チョッパリ」という朝鮮語があります。既に、一部では日本語の中にも取り込まれていますが、列島人を侮蔑した言葉として、今、一層頻度が上がっているようです。 

この鹿の子と鹿の足の話を奇妙と思っていたところで、チョッパリとパンチョッパリが、列島人に対する半島人からの侮蔑語であることに気付き、疑問があっという間に氷解してしまいました。

 柳田民俗学とか古典文学や国史学の専門家の言説に頼る必要など全くありませんでした。

 ウィキペディアの次の記事をお読みになれば、この奇妙な話の意味が直ぐに分かったのです。

 情報化社会はもろ刃の剣と言われますが、こちらは良い方で、労することなく真実に辿りつけるのです。

 ウィキペディアは誰が書いたかが不明なため学者は毛嫌いし鼻であしらいますが、私は嫌がらせの意味でも多用することに方針を変えました。

要は真実に辿り着ければ良いだけで学者の遠回しで自己保身に満ちた御高説など一切不要です。


チョッパリ チョッパリ Anti-japan banner, 2005.jpg 韓国で差別語が公然と使われている横断幕

無題.png

各種表記 ハングル:쪽발이  漢字:豚足 / 豚脚 発音:チョッパリ チョクパリ

英語:jjok-bari テンプレートを表示

チョッパリ或はチョクパリは、朝鮮語における差別用語のひとつで、日本人に対する侮蔑表現である。韓国では比較的頻繁に使われる日本人の卑称。派生語と合わせて解説する。

概要

羊や牛や鹿などの偶蹄類に属する豚の蹄の先が二つに割れていることから、転じて植民地時代に朝鮮人が支配者である日本の民族衣装である下駄の鼻緒や足袋のつま先が二つに分かれている様子を動物になぞらえたものである。端的には「豚の足」を指していて、要するに下駄や足袋を履く日本人を豚になぞらえるようとする表現であって、「豚~」という派生する差別表現も使われる。似た表現に、これよりも古くからあるが、「ウェノム(왜놈 / 倭奴)」があるが、こちらは小中華思想および中華思想を反映したものである。

また、同様に在日韓国・朝鮮人に対して朝鮮半島の人が使う、半分日本人であるという意味のパンチョッパリ(쪽발이 / 半チョッパリ)という侮蔑語もあり、これは在日への軽蔑の意を表す差別用語である。半分日本人は、同胞ではない部外者であることを暗示するが、混血児や日本在住者だけではなく、日本贔屓や日本人のような行動をする人に対しても広く使われる。似た表現に「キョッポ(교포 / 僑胞)」があるが、これにも侮蔑的ニュアンスが含まれる。


下駄:日本の伝統的履物。親指とその他の指の間に引掛けて履く。

無題.png

 文芸作品

小林勝に『チョッパリ』という小説があるが、朝鮮で暮らした日本人が敗戦を境に「部外者」であることを強く認識して「チョッパリ」という精神的な刑を自らに与えたというものであるが、後藤明生は同小説を「『朝鮮コンプレックス』とでもいう他ない」と書評している。

李恢成に、帰化問題をめぐって家族との葛藤をもつ在日青年を主人公にした「半チョッパリ」という小説がある。

ウィキペディア(20160506 12:30による

 十分にお分かりになったと思います。

 佐賀県白石町(旧有明町)、嬉野市塩田町出身と考えられる和泉式部は生まれたとされる現福泉禅寺(当時は無論禅寺ではない)の隣に百済の聖明王一族を祀る稲佐神社があることや、和泉式部の歌に「ふるさとに 帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらん」に登場する錦の浦から取られたと考えられる旧有明町がかつては錦江村であったこと、さらには、旧百済の王都の正面を流れる河が錦河(クムガン)であったこと、最後に、泉式部が初めに嫁いだ夫が橘 道貞であり、白石町と嬉野市を隔てる杵島山の西に橘奈良麻呂の変の立太子(廃太子)道祖王の墓が現存するなど、幼少期の式部には百済が色濃く取り巻いているのです。

してみると、和泉式部は「パンチョッパリ」と純粋な(新羅系?)半島人(帰化人)から攻撃され侮辱された事が見えてくるのです。

 新羅系からは、百済系も倭人と通婚している事から指が割れた足袋を履き、下駄も履くと毛嫌いし差別したのです。

 かれらは、逆に割れたズボンを着こみ鐙を踏むフェルトの靴を履く馬賊の子孫と言うだけの事なのですが、所詮、民族差別とはその程度のものなのです。

345 アシナカ

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345 アシナカ 

20160506

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久 

 

 神官の方はご存じの方は多いと思うのですが、神殿への階段の一段ごとの奥行きが非常に少ない神社(神殿)がかなり多いという事実です。

 これは、神殿には足を踏み入れない一般の参拝客には分からない(意識していない)事でしょうが、良くて78㎝といった柱をそのまま階段状に並べているだけの神社もあることから、まず、26㎝の足の方には足の前半分もないことから、ほぼ、爪先だけで神殿に入って行く事になるのです。

 これが、ある一定の氏族の神社群に特有の建築様式なのか?

 単に、経済的に節約するためなのか?それとも上位の氏族から押し付けられたものなのか?

 神殿に近づき難くすることによって神秘性神聖性を保とうとするためのものか?未だに判読できずにいます。


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一例ですが、福岡県糸田町の木実神社の神殿への石の階段


ただ、昔の人が健脚だったことは良く言われますが(最近はその実感が無くなったことから言わなくなった…)、ほんの五~六十年ほど前までは、実際に健脚の人が身近にいたことから普通の感覚だったのです。

もう、ご存じの方はどんどん少なくなっていますので、書き留めておきますが、ほんの、半世紀前までは、草鞋(ワラジ)を綯(ナ)える人は普通にいたし、自分でワラジの一つも作れなければ裸足で生活しなければならなかったのでした。まあ、倭人は裸足だったのですから。

倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處、以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。其死、有棺無槨、封土作家。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。

 倭の地は温暖、冬や夏も生野菜を食べ、皆が裸足で歩いている。屋室があるが、父母兄弟は寝室を別とする。朱丹を身体に塗り、中国の白粉を用いるが如きである。飲食には御膳を用い、手で食べる。死ねば、棺(かんおけ)はあるが槨(かく=墓室)はなく、土で密封して塚を作る。死去から十余日で喪は終わるが、服喪の時は肉を食べず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞や飲酒をする。葬儀が終われば、家人は皆が水中で水浴び(禊だと思うが、原文の入浴に従った)をする。練沐(練り絹を着ての沐浴)のようである。

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そのワラジも、実際には「アシナカ」と呼ばれるもので、時代劇などで良く見掛ける小判型のものではなく、後半分を切った非常に短いものが大半だったのです。

 それは、昔(と言っても昭和40年代まででしょうが)流行ったゴムぞうりを雨の日に履いた方は分かるように、跳ね返りが頻繁に起こり反って感触が悪いものだったのです。

 まず、半世紀前までの日本人は爪先立って歩いていたようですし、踵までのワラジなどを作れば時間が倍以上掛かった上に不便なのですから。

 これで、神殿への階段の奥行きが非常に短い理由の一部は説明が付くことになります。


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足のひらのなかほどまでしかない短い草履のことをいう。日本古来の履物のうち、最も広く使われていたものだという。台が半分しかないから、名称も「半草履」「半物草」などともいわれ、名前が全国では二百以上もあるらしい。鼻緒の結び方にも七つの型があるそうだが、その違いは私などとても説明ができない。

 農漁村では老若男女をとわず全国どこでも履いていたが、ゴム草履や地下タビなどが出てから、姿を消しはじめたようだ。しかし、いま七十歳以上の方なら、旅行などでは履いたことがないかもしれないが、田圃や山へ出かけるときには使った経験があるはずだ。

 このアシナカは、①着脱が簡単である ②泥道でも泥がハネないし滑らない ③活動に適する ④作るのが容易で金がかからない 

などの利点の多い履物であった。

 とくに活動に適することから、昔武士が戦うとき必ず着用したらしい。鎌倉時代の『蒙古襲来絵詞』という絵巻物にそれが描かれている。

  現在日常生活に使われていないが、葬式や祭礼などで、昔の行列を再現するときなど、いまも着用しているところがあるそうだ。


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346 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑪ “真庭市種の田根神社”

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346 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑪ “真庭市種の田根神社”

20160506

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久 


ひぼろぎ逍遥343 真庭湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑩ “鉄山神社は八幡宮ではなかった”で取り上げた鉄山神社見た後、数キロ戻り、田根神社を見に行きました。

 それは、太田種子 物部という単純な発想から田根神社に誰が祀られていたかを確認したかっただけのことでした。 


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ここも物部系の神社であることは明らかですが、物部氏でも如何なる氏族の系統であるかは検討を要します。

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なぜか左の境内摂社に主神のはずの宇気母智命が祀られているのです右殿には

大山祇に見えますが(配神にはない)○に三つ引きの神紋が打たれていました


 配神には彦火火出見命、豊玉比売命があります。

 実は、彦火火出見命とはニギハヤヒであり、そのお妃の一人が豊玉比売命(宗像大社のタゴリミホ=田心姫)なのです。

 してみると、彦火火出見命のもう一人のお妃である主神の方の宇気母智命(伊勢神宮外宮の豊受大神)が神殿から出されている可能性があるようです。少なくとも外からはそう見えるのです。

稲荷神は神社研究でも最も難しく分かり難いジャンルですが、良く纏められたサイトがありましたので、ご紹介しておきます。



稲荷神とは?

神道における稲荷神

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神道では伏見稲荷を起源とする稲荷信仰に基づいて、食物と五穀豊穣を司る神を稲荷神として祀っています。それらに当たる神々は以下の通りです。


神道における稲荷神一覧

宇迦之御魂神(ウカノミタマ):伏見稲荷の稲荷三神の一柱。『古事記』に登場し、スサノオの子とされる
倉稲魂命(ウカノミタマ、クラシネタマ):『日本書紀』に登場し、イザナギの空腹から誕生したとされる
豊宇気毘売神(トヨウケビメ):『古事記』に登場し、伊勢外宮では「豊受大神」として祀られているとされる
保食神(ウケモチ):『日本書紀』に登場し、口から食物を生み出す神として描かれる
大宣都比売神(オオゲツヒメ):『古事記』に登場し、身体から食物を生みだす神として描かれる
佐田彦大神(サタヒコ):伏見稲荷の稲荷三神の一柱。サルタヒコと同一視される
大宮能売神(オオミヤノメノカミ):伏見稲荷の稲荷三神の一柱。百貨店の神としても知られる
田中大神(タナカノオオカミ):伏見稲荷の摂社・田中社で祀られる神

なお、宇迦之御魂神倉稲魂命は同一視され、両神の読みも主に「ウカノミタマ」と統一されています。
また、ウカノミタマトヨウケビメは同一視されることが多いですが、個人研究の結果、伏見稲荷創建以前の古社に鎮座する稲荷社で祀られる稲荷神は「トヨウケビメ」とされるケースが多々あります。

全国の稲荷神社ではキツネが神として祀られていると思われがちですが、実は「宇迦之御魂神(ウカノミタマ)」という五穀豊穣を司る神様であり、キツネはあくまでも神使(神の使い)です。


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佐田彦大神は猿田彦で良いでしょう同時にウケモチの夫ですね。ただ佐田大神は大山咋の事です。

以下は敬愛するHP「玄松子」からウケモチを確認しておきます。


保食神うけもちのかみ

別名 宇食持命/宇食保命:うけもちのみこと 宇気母智命:うけもちのみこと……

食物全般の神。稲の神である稲荷神と同神として、稲荷神社に祀られることが多い。 また、小祠であったため合祀された稲荷神の祭神とされる場合も多いので、保食神を配祀する神社は多い。

『日本書紀』において、高天之原の天照大神の命を受けて、月読尊が葦原中国の保食神のもとを訪れると、 保食神は口からいろいろな食物を吐き出してもてなした。月読尊はそれを「穢しい」と怒って保食神を殺してしまう。

天照大神はこれを怒って月読尊と仲違いし、昼・夜を分けもち別れて住むようになった。

その後、天照大神が大熊大人を遣わして様子を見に行かせると、保食神の死体から粟・稗・稲・麦・大豆・小豆・牛・馬・蚕が化生していた。 大熊大人がこれらを献ずると天照大神は喜ばれて、穀物の種子とされた。

『古事記』では、月読尊を須佐之男神、保食神を大宜都比売神として同様の五穀起源の神話がある。



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スポット057 不必要な職業とは 

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スポット057 不必要な職業とは 

“スーパー・マーケットのレジのロボット化とスイスのベーシック・インカム(続編)”

20161015

太宰府地名研究会 古川 清久


スポット 047 スーパー・マーケットのレジのロボット化とスイスのベーシック・インカム において、


(技術革新によって伝統的な職業が機械などに置き換えられていくという)このようなことは、ラッダイト運動を持ち出すまでもなく、古くは千歯扱き(センバコキ)や岡蒸気(汽車)の登場から何度となく起こってきた事とは言えますが、ここ560年でも、ブリキ職人、傘職人、帽子職人、桶職人、竹細工職人…と言ったものが事実上消滅して行きました。

では、産業構造の変化に伴い廃業を余儀なくされた人々はどうなったでしょうか?

一部は、転業、廃業し人生の終末を迎えたでしょうが、大半は他の産業に吸収されていった事でしょう。

今度のコンピューター化、ロボット化という新たなイノベーションによって、他の産業への誘導、移配が可能なのかです。

何度もこのような事が起こりつつも、これまでの日本と言う国家は、本質的には不必要な職業を職業扱いすることによって(例えば栄養士、カウンセラー、警備職員、文部省職員、オカマ、芸人、サッカー選手…)雇用を創出してきました。

中にはお怒りになる方もおられるでしょうが、栄養士など架空の栄養値を基に架空の栄養価を計算しているだけで摂取している実際に取得している栄養とは全く異なるものなのです。

平均的に良好とされる条件で栽培された特定の食物にどれだけのミネラル、栄養が含まれているかは、実際の栽培の条件(ハウス栽培か路地ものか、早期栽培か否か、養殖かどうか、肥料の投入の有無…)によって全くと言うよりも場合によっては数千倍単位で栄養価が異なるのです。

従って、責任逃れのためのアリバイ作り、良くて架空の仕事への思い込みでしかなく、最期は過剰な栄養を取らせないメニュウを作るに至っては、ほとんど空振り、素振りの仕事でしかないのです。

まあそれは害悪がないだけ許容範囲なのでしょうが、今後のイノベーションによってどれだけの余剰人員=失業者が生み出されるか全く予断を許しません。

その事を理解しているが故に、現代の二十~三十代は容易に結婚しないのであり、結婚したとしても子供を産もうとはしないのです。

現状のような社会制度(労働条件)ではまともな家族、家庭を持てない事は明らかであり、それを知っているからこそ自己規制と相まって、異性への関心さえも持たない人々が激増しているのです。

そして、それは自らの生物学的生存本能の発揮であり、生物学的に正しい判断をしているのです。


と、しました。

我々は、通常、神代史をやっている人種であって、現代や近未来と言ったものに対して話をする素養も権利もないのですが、現実に、ロボット、ドローン、マザー・マシーン、バーチャル・リアリティ…といった物が劇的にしかも無秩序に増殖し始めた中でいよいよ人生の終末期を迎えつつあるようなのです。

まさに、第一次産業革命、第二次産業革命、第三次産業革命へと入りつつあるのですが、いよいよ世界権力を握るユダヤ・マフィアが地球人口の半減どころか三分の一、四分の一化に動き出しそうな(911311、…シリア、第二次日中戦争、恐らく熊本も…と、もう実際に始めているようですが…)気配です。

勿論、この話は重要で、いずれ本気でやらなければならないのですが、ここでは、そこまで踏み込まずに、身近な話に引き戻します。

“栄養士なるものが殆ど意味のない職種である”という事について前blogで書き(後できつ過ぎたかな、本当はもっと悪い奴らがいるのにと反省したのですが)ましたが、これは全くの一例であって、実はこの手の話は山ほどあるのです。

ただ、栄養士とは実際に必要性も無いことから、結局は現場に入ることになり、調理師と同様に扱われ、何十年とやってきた年寄りのオバサンたちにはとてもかなわない事に気付いてしまう事になるのです。

ところが、今度は○泉、竹○といった売国奴によって齎された格差社会の劇的な拡大によって、子供食堂にすら行く事ができないような、終戦直後の「欠食児童」(古い言葉ですね)の一群が激増しているのであって、その意味では、逆に、役割が復活する事に成るのも知れません。

前回は、架空の栄養価でしかないのに、仕事をやっていると錯覚しているという側面に光を当てただけでしたので決して悪意ある中傷ではないのです。

勿論、その背後にある巨悪に対しては警鐘を鳴らし続けねばならないはずです。

話が跳びましたが、殆ど意味のない職業、職種と、言うよりも、現在必要とされているかなりのものがそのようなものでしかないことに気付かなればならないはずなのです。

最も酷く醜く薄汚いものの一つが税理士であり、税制を簡素化し、抜け道を例外なく消しさえすれば、こんなものは職業には全くならないのです。

制度を一律に簡素化すれば、インターネット申告でもなんでも瞬時にかたが付き、その分脱税取締りの○査や、戦時中の経済警察のようなGメンを増やす方が余程気が利いているはずなのです。

簡単に言えば、一律、例外のない消費税のみにしてしまうとか、所得税のみにしてしまうとか、地税だけにしてしまう…と簡素化すれば、あらゆる特例措置、例外規定を駆使し、“私に任せてもらえれば、あなただけはこれだけ節税=脱税できますよ”と抜け道の案内をやって私腹を肥やす職業を地表から根絶できる事は直ぐにお分かり頂けるでしょう。

元々、複雑な税制に精通した国税専門官といった連中が退職後も法外な収入を得ようと仕組んだのが税理士法なのであり税理士でしかないなのです。

このため、税法は意図的に複雑化され、税理士が商売しやすいように仕組まれている事は業界の常識なのです。

さて、原子力委員会などは皆さん肌にふれて十分にお分かりなったでしょうが、この間一度も役に立たずに、熊本地震もほぼ可能性はないとして無様な姿を晒し続けている地震予知連絡会(人工地震なら予知はできないはずで免責されますが)、浅間山でも阿蘇山でも失態を演じた火山噴火予知連絡会なりその末端など、官僚の手引きで税金をポケットに入れているだけのものなのです。

この手のものは、不動産鑑定士、社会保険労務士、司法書士…国土交通省、農水省などのように天下り先の少ないないものほど顕著であり、気象予報士などと言う「毎日、明日は晴れです」と言っていても七割は当たる物を、上手にずらして外れではなく、単にズレたんですと言っている和やかな、実質、無害なそして役に立たないものは許されるのですが(個人的には面白いので落語風に残しておきたいのですが)、目に余るものが、JA○○(広告○○機構)のように、検閲まがいにイチャモンを付けて脅し強請りを行い、法外な補助金と言う税金を懐に入れている方々や、国土を日々破壊し続けている林野庁職員と枚挙に暇非ずといったありさまなのです。

まさに、国民は食うや食わずにしておいて、薄汚い税金へのつまみ食いどころか、強奪、その手伝い、例えば年金運用の緩和措置、株式運用で5兆など軽い話で、実質2226兆を金融マフィアに売渡し、その不正なキック・バックを得ている旧大蔵官僚のうわさがネット上には飛び交っているのです。

まさに、国富をアメリカに売り飛ばし、個人的に利益を得ようとする構造は最悪の職業と言えるでしょう(パ○ナ)。

まさに、官僚機構は現代版「十常侍」宜しく、国民のためにも国家のためにも国土のためにも全く働いてはいないのです。

してみると、神社の神官など可愛いものでしかなく、今時、皆さんはどんな職業に就きたいと思われているのでしょうか?

誇りを持って生きていける職業を持った人は幸せです。そんなものは僅かしかありません。

あくまでフィクションですが、架空の誇りとしては、軍人(国家の犬)、警察官(金持ちの犬)、公務員(国民生活の妨害者)、教師(国家的嘘を教え続ける)、消防士、看護師、測量士…などは比較的嘘がないと思いたいのですが、測量士は列島がミリ単位で移動している中で(ましてや地震で大きく動いた熊本市で…)、マイクロ・メーター、μ単位で山の境界を測量しているのですから、その事に意味があるとすればですが…。

消防士も、そのうち消火の優先順位を付け、金持ちの居住地区の消火を優先するようになればおしまいすね。

看護師も母親が従軍看護婦以来の国立病院、国立療養所勤務の看護婦であったことから擁護したいのですが、現在、病院と言うものは死者の製造工場化しているのが実情なのです。

まずは、ネットから以下をお読みになりご自分で判断して下さい。


医者のストで死亡率が激減 世界の例|世界の裏側ニュース


ameblo.jp/wake-up-japan/entry-11867499718.html


2014/06/01 - イスラエルでこれほど死亡率が減少したのは、1950年代に医者がストライキをした時以来である。 ... 医師たちが52日間のストライキを行い、救急医療以外はいっさいの治療を行わなかったところ、ストライキの期間中、死亡率が35%低下した ...

以下略載


まあ、床屋や歯医者は有難いのですが…。これはヨーロッパを問わず日本でも元は同根だったのです。

歯医者は床屋の進化したものだったのです。これもご自分でお調べになってください。

347 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑫ “真庭郡新庄村の御鴨神社”

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347  真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑫ “真庭郡新庄村の御鴨神社”

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20160507

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久 


真庭の中心部から蒜山に向かいます。湯原からそのまま直行もつまらないので西の新庄村経由のコースを取りましたが、新庄村にもかなり重要な神社がありました。

 アジスキタカヒコネを主神として祀る神社ですが、なかなか出くわさないものです。

 境内摂社としては「稲荷神社大神」として一社がありますが、それ以外にはないようで、神社縁起に言う他四柱が如何なる神々であるかは今のところ分かりません。



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社殿は荘厳で境内は美しくそれだけで心惹かれるものでしたが、この御鴨という地名が上賀茂神社、下賀茂神社の「賀茂」から持ち込まれたものであることは言うまでもありません(逆の可能性もあるかも)。

 主神が誰であれ、実権を握っていた人々は加茂系の方々、白川伯王~大幡主~ヤタガラス(豊玉彦)の流れを汲む人々だったことを意味しています。



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玄松子、神奈備氏も採材されていないようですので、今回はウィキペディア氏を引用します。

 嘘つき、胡麻すりの御用学者にはウンザリしていますので、彼らの権威を認めないという意味でも今後とも多用させていただきます。


アジスキタカヒコネ

アヂスキタカヒコネ(アヂシキタカヒコネとも)は、日本神話に登場する神。 『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、『出雲国風土記』では阿遅須枳高日子と表記する。  

また、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記される。別名 迦毛大御神(かものおおみかみ)。

概要

大国主命と宗像三女神のタキリビメの間の子。同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)がいる。農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されており、高鴨神社(奈良県御所市)、都々古別神社(福島県東白川郡棚倉町)などに祀られている。別名は賀茂社の神の意味である。すなわちこの神は大和国葛城の賀茂社の鴨氏が祭っていた大和の神であるが、鴨氏は出雲から大和に移住したとする説もある。『古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけである。神名の「スキ(シキ)」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神である。『古事記伝』では「アヂ」は「可美(うまし)」と同義語であり、「シキ」は磯城で石畳のことであるとしている。他に、「シキ」は大和国の磯城(しき)のことであるとする説もある。アメノワカヒコとそっくりであったとの記述から、元々アメノワカヒコと同一の神で、穀物が秋に枯れて春に再生する、または太陽が冬に力が弱まり春に復活する様子を表したものであるとする説もある。

伝承[編集]

『古事記』では、葦原中国平定において登場する。シタテルヒメの夫で、高天原に復命しなかったために死んでしまったアメノワカヒコの葬儀を訪れた。しかし、アヂスキタカヒコネはアメノワカヒコとそっくりであったため、アメノワカヒコの父のアマツクニタマが、アメノワカヒコが生きていたものと勘違いして抱きついてきた。アヂスキタカヒコネは穢わしい死人と一緒にするなと怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。シタテルヒメはアヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ。

『出雲国風土記』によれば、幼い時、その泣き叫ぶ声が非常に大きかったので、静かになるまで船に乗せて八十島(日本)を巡ったり、高屋を作って梯子をかけそれを上り下りさせたりした。天御梶日女(あめのみかじひめ)との間に雨の神である多伎都比古(たきつひこ)をもうけたとしている。


ウィキペディア(20160508 0730による

さて、祭神です。


旧社格 県社 総本社 -----

ご祭神

味耜高彦根命(あぢすきたかひこねのかみ)※[別記]味耜高彦根命/阿遅鉏高日子根神

天御梶日女命(あめのみかじひめ)

大己貴命/大穴牟遅神(おおなむち)※[別名]大国主命

多紀理毘売命(たきりびめ)※[別記]田心姫(たごりびめ):日本書紀 ※[別記]田霧姫 他4

ご祭神について 味耜高彦根命:農業の神、雷の神、不動産業の神

天御梶日女命:味耜高彦根命の妃神(出雲風土記)大己貴命:国造りの神、農業神、商業神、医療神

多紀理毘売命:宗像三女のひとつ、大国主の妃神、下照姫命の母神

ご利益 商売繁盛、五穀豊穣、交通安全、恋愛成就 他[対応業種]不動産業 参拝形式 二拝二拍一拝

創建 -----

由緒 当社は、美作郷の総鎮守の大神であり、往古は、美作国真嶋郡美甘郷美甘川の川上、新庄宮座山の山上に鎮座し、神代からの大宮所となる。称光天皇の応永26年(1419年)の頃,宮座山の麓の神集の上の宮に移し奉り、さらに,霊光天皇の延宝7年(1679年)、裏手の路の上の宮に遷座し、更に、中御門天皇の宝永7年(1710年)、現在地に至る。   所在地 (〒717-0201)岡山県真庭郡新庄村梨瀬5388


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三位、四位の大国主命と多紀理毘売命については説明不要でしょうが、味耜高彦根命、天御梶日女命については解説が必要かも知れません。

 結論から言えば、ウガヤフキアエズの事と考えられます。


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百嶋由一郎最終神代系譜(一部)


「ウィキペディア」氏が書いて(指摘して)いる ①“迦毛大御神(かものおおみかみ)”の部分は、母親が豊玉姫であることから百嶋系譜のアジスキ…に対応しそうです。

また、“大国主命と宗像三女神のタキリビメの間の子。同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)がいる。”の部分は、大国主命のお妃の豊玉姫(タゴリ・ミホ)の次の夫となった山幸彦の子とすれば、異母(市杵島姫)の妹(下照姫)を持つことになり、混乱(偽装)されつつも整合しそうです。

その辺りが、“アメノワカヒコとそっくりであったとの記述から、元々アメノワカヒコと同一の神…”に関係していそうです。

お分かりでしょうか?味耜高彦根命(アジスキキタカヒコネ)とは百嶋神代系譜のウガヤフキアエズ(安曇磯良=表筒男)の父親であり、鴨玉依姫(宗像三女神のタギツヒメ)夫に相当するのです。

 従って、天御梶日女命(アメノミカジヒメ)とは豊玉彦(ヤタガラス)と櫛稲田姫との間に産まれた鴨氏の正統継承者である鴨玉依姫の事なのです。

 そして、御鴨神社とはその栄えある系統を今に伝える貴重この上ない古社なのです。

 そこまで見てくると、唯一の摂社である稲荷神社が、何故、外に置かれているかも見えるのです。

 それは、この稲荷神社の神様とは伊勢神宮外宮の豊受大神の事であり、始めは海幸彦(阿蘇草部吉見神社)のお妃であり、次には山幸彦のお妃となった方だからです。

 背後に海幸彦と山幸彦の暗闘が垣間見えます。それは、鴨玉依姫を巡っても再燃しているのです。


由緒書きにその栄光が反映されています。


当社は、美作郷の総鎮守の大神であり、往古は、美作国真嶋郡美甘郷美甘川の川上、新庄宮座山の山上に鎮座し、神代からの大宮所となる。


 この川上も奈良の川上、つまり、丹生川上神社 上社、中社、下社 の川上であり、佐賀川上温泉郷の淀姫神社に通底しているのですが、その話は別稿とします。

 そこにも、ウガヤフキアエズ(アジスキタカヒコネ)の子であるアズミノイソラが、そして、そのお妃としての豊姫(ユタヒメ)=淀姫が鎮座しているからこそ、京都から大阪に淀川が流れているのです。

348 先 島 ①  “二度目の石垣、西表紀行“八重山照葉樹の懐にて”

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348  先 島 ①  “二度目の石垣、西表紀行“八重山照葉樹の懐にて”

20160507

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は、久留米地名研究会での講演用に2006921日付で書いたものです。結局、紀行文の要素が多くそのままにしていたものです。改訂すべき部分もありますが、今回、そのまま掲載するものです。

“二度目の石垣、西表紀行“八重山照葉樹の懐にて”


昨年の九月に引き続き、二度目の石垣島に飛び立ちました。六月二九日から七月二日という梅雨の最中でしたが、沖縄からさらに三〇〇キロ以上も南に位置する先島諸島ではとっくの昔に梅雨が明けているのです。

南西諸島


南西諸島という概念があります。私も含めて、いったいどこまでが何々諸島かなど良く分らないままに使っていますので、ここで簡単な整理をしておきましょう。

まず、南西諸島とは鹿児島の南の屋久島、種子島から吐火羅(トカラ)列島を経て最南端の与那国島から尖閣列島(尖閣諸島は先島諸島に含めないようですが)辺りまでの琉球弧全体を言うようです。

今回は、その南西諸島の中でも先島諸島の八重山列島に属する石垣島を基地にして船で西表島に渡ったわけです。一応、主な島を簡単な表にするとこのようになります。


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 尖閣列島については魚釣島(釣魚台)ほかの数島によって構成される無人島群ですが、現在、行政区画としては石垣市とされています。これが、先島諸島に含まれるのかについてまでは分りません。興味のある方は、国土地理院の詳細な地図や海上保安庁による海図などにあたって下さい。


前述したように沖縄諸島最南の久米島と先島諸島最北端の宮古島との間には三〇〇キロという一島もない大海が広がっています。さらに、距離から言っても、広さから考えても、本来、この先島諸島が沖縄とは別の行政単位を形成していても決しておかしくないように思えます。事実、薩摩以前の琉球王国の支配もこの先島までは実質的に及んではいなかったとも言われており、この一帯の独特の文化を決定したのもこの遠さであり、改めて三〇〇キロという距離の大きさを考えさせます。

  もちろん、この表に書かれたものの外にも多くの島があります。イザイホーで有名なノロと呼ばれる巫女の島=久高島は沖縄本島の直ぐ傍に浮かんでいますし、“ちゅらさんで有名になった小浜島や気象通報で良く耳にする南大東島もこの先島諸島の一つになります。

 図表によって大体のイメージはつかんで頂いたと思いますが、事実上、日本本土よりもむしろ台湾に近いこの先島の事を考える時、日本本土もこの弧状列島の一つでしかなく、日本人も、また、この島のさらに南から渡って来た人々によってその一部が形成され、その後もその影響を受け続けてきた事を考えさせられます。

さて、話を進める前に行政単位という退屈な話をしておきましょう。八重山諸島の中で、というよりも沖縄を除く琉球諸島中最大の島が西表です。ところが、現在この島には二千人足らずの人しか住んでいません。さらに驚くのはこの西表が竹富島という小島を中心にいくつかの島で構成する竹富町(竹富島、小浜島、黒島、新城島、波照間島、嘉弥真島、西表島・・・)に属し、隣の西表なみに大きな石垣島にその役場が置かれている事です。


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観光船が所狭しと並ぶ石垣港


つまり、竹富町の役場は行政区画が異なる石垣市の石垣港に置かれているのです。このことについて司馬遼太郎氏は 『街道をゆく』6沖縄・先島への道 でこのように書いています。


右側が石垣島で、左側が西表島である。とくに西表島は非サンゴ礁の島で山もあり、その山も峰々がお

りかさなっていかにも深そうだし、げんに面積からいっても県下では沖縄島本島に次いで二番目の大型の

島である。

「あれだけの島なら、あの島がこのあたりの中心になっていそうなものですね」と、オート三輪さんにきくと、それがおもしろいものでそうでもないんですね、といった。

このあたりの島のおもしろさは、島の大小だけでは島々の政治史が測れないのである。この竹富島は地図でみてもわかるとおり、ちっぽけな隆起サンゴ礁なのだが、それが本土の室町期には、となりの大きな石垣島や西表島、またそれらをふくめた八重山諸島ぜんたいの総督府(蔵元)が置かれていたという事実が、ちょっと理解できない。・・・中略・・・しかしほかに、マラリアその他の風土病がないのはこの竹富島だけだったからという説もある。

(以下、ふり仮名については全て省略:古川注)


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先島諸島 八重山列島の南に波照間島が小さく見える。宮古島との石垣島の間に多羅間島が見える。

司馬氏は先島でも石垣島と竹富島を訪れ、さらに遠い与那国や波照間に行こうとしています。現在、多くの人は石垣からヤマネコの棲む西表に向かうのですが、文中(前述同書)から察する限り(「ずいぶん考えてみた」とはしていますが)、西表には行こうとしていません。むしろ、一から、さらなる辺境の島を目指しています。結局、日程の関係から、実際には存在しない、まぼろしの南波照間島の伝承にふれただけで波照間島行きは断念し、さらに遠い国境の島与那国に渡っています。

もしも、私に三度目の先島への旅があるとしたら、司馬氏が行こうとしたように、波照間や与那国といった最果ての島に足を向けるような気がしています。


西表島は古見島と呼ばれていた

 石垣港から高速船に乗り、四、五〇分も走ると大原港さらに上原港に着きます。イリオモテヤマネコがいまなお息づく島、西表です。

 この島は司馬氏も書いているように、竹富や宮古列島の多良間のような珊瑚礁による平たい島ではなく、周囲八〇~一〇〇キロ、四〇〇メートルを越す数峰を持つ、面積だけから言えば八重山諸島最大の島なのです。

 民俗学者柳田国男の遺作とも言うべきものに『海上の道』がありますが、この中の根の国の話11 古見の島の盛衰)には、このように書かれています。


・・・古見がかつて一たびは南島文化の一中心であって、しかも近世に入ってから他に類例もないほどの激しい盛衰を経ているということだけは、弘く世上に向かって是非とも説き立てて置かねばならぬ。 ・・・中略・・・ 最初にまず西表という現在の島の名だが、もとは普通に古見の西表、すなわち古見という島の西の船着きを意味しており、そこの開発もかなり古く、多分はいわゆる倭寇時代の船の往来によって、発見の端緒を得たものかと思うが、・・・


とあるように、古くは古見の島、古見島と呼ばれていたのです。古見は古見岳から東南に流れ下る古見川が入海に吐き出す河口に位置する当時の首邑であったわけです。  


 さらに柳田によると、


・・・とにかく明治の新時代に入ってから、ここが汽船の航運に利用されたのは必然であったうえに、さらに南島としては珍しい石炭層がほんの僅かだがこの渓谷に発見せられたために、ここが重要なる寄港地となってしまい、それに引き続いては労働力の供給問題、島の人たちはちっとも来て働こうとしないので、囚徒を入れまた浮浪者や貧窮人を連れこんで、ひどい虐待をしたことが評判になり、いわゆる西表炭鉱の惨状が新聞に書き立てられて、若年の私などは、是で始めてこの名の島の存在を知ったような次第である。

『海上の道』

とあります。


それはさておき、私はこの古見地名が、柳田の思惑とは別に、吐き出される葉木(表記には、吐、萩の他にいくつかの類型がありますが、いずれも吐き出すの意味です)の類型地名である五味の可能性もあると考えています。

 この五味地名は南九州にも多くの例があり、たいていは大河川に脇から谷川が一気に流れ込む(つまり咳こむ)場所、合流部に位置しています。

広辞苑を見てみましょう。


 【込み上げる】

   《自下一》

 いっぱいになって、おさえてもあふれ出そうになる。「喜びが-・げる」「涙が-・げる」

 胃から食物をもどして吐きそうになる。・・・


西表島は人口が二千人程度、大半が照葉樹の森に覆われています。石垣島の人口が四万人であることを考える時、私には石垣島より大きなこの島に人が住み着かなかった理由が未だに理解できていません。これについては、マラリアで多くの死者が出た事が原因であったとされてはいるのですが、今もってその説明には納得できないでいるのです。

これについても柳田は(11 古見の島の盛衰)において、島津の検地資料「琉球郡帳」を引用しながらこのように書いています。


 村の連合の日本で郷と謂った区域を、もうこの頃から南方では間切と呼んでいた。現在のいわゆる西表島を二つの間切に分かち、西半を入表間切、こちらはすなわち古見間切で、五つの村の外に小浜という島がこれに属していた。入表の間切は畠方の五石八斗に対して、田方が千二百六十七石あったのに、古見の間切の方は畠も九十七石余、田は千八百七十石以上、この畠はいわゆる常畠であって、焼畑、切替畑はこの外かとは思うが、それにしても米の公称産額はこの通り多く、それだけでも稲の神の恩恵の異常に豊かな土地であったことが察せられる。しかるに地形は今もほぼ元のままなるにかかわらず、それからの三百年間に人口は激減し、宝暦三年(一七五三)の『番所日記』には、それでもまだ七百六十七人とあるのに、最近は十戸という報告もあり、或いは新たなる移住者が招き寄せられて、ふたたび百人になってきたともいうが、勿論是は旧時の伝統を保持する人々ではなかった。

   主たる原因はマラリアの流行ということが、古くから認められていた。しかもこれらを原因たらしめた此方の弱味に、栄養の欠乏と気力の減退、さらに付け加えて希望と信仰との、目に見えぬ急激なる一頓挫があったのではないかと悲しまれる。・・・

『海上の道』


とりあえず、この払拭できない疑問はそのままに置きますが、柳田は久米という氏族が稲と稲作を携えて日本列島の裏表を北上して行ったことを意識し、奄美大島、沖縄主島にも古見、久米が、八重山群島の中にも古見、球美があることを考えていたようです。

司馬氏は、前述同書でこのことについても書いています。


 ・・・この連中(大ざっぱにいって江南人)が稲をもたらしたであろうという推測はほぼ定説化している。コメという言葉も、江南語に遺っているクメとかクミとかを語源とすることも、定説に近い。

  柳田国男は、これについて自分の発想の材料を『海上の道』でぽつりと提示しているだけで、区々とした論証に精力をつかわない。

 

    ・・・曾て私は西南の島々に、幾つかの古見又は久米と呼ばれる地域があり、何れも稲作の古く行われた痕跡らしいとして説いて置いたことがある。


というのみだが、ともかくも稲の伝来は(そのひとつの経路は)沖縄の島々をつたってきたものだということは、柳田国男にとって説以上に信念に近いイメージだったらしい。


詳しくは『海上の道』の本書にあたられる事にして、私は、さらに思考の冒険に踏み出しています。

「神武天皇東征」神話はどなたもご存知かと思いますが、いわゆる神武歌謡に登場する「久米の子らが・・・」の久米という氏族の起源までを沖縄諸島の久米島はもとより、この西表島のかつての稲作地帯の古見とまでしたいのですが、許されるかは、元より不明としか言い様がありません。そして、コミ、クウミ、クミ、クメ、コメ、とまでも思考の暴走に逸るのです。

多少、制動を加えるために、大江健三郎による解説を見てみましょう。ここで氏は中村哲氏を引用しています。


 《稲作文化を伴う弥生式土器の南限は沖縄の先島には及ばないために、考古学の領域では、北方からの文化南下説を有力にしているが、柳田もそれに正面から反対しているわけではない。しかし、黒潮の流にそった『海上の道』を終世の課題とした彼は、この最後の遺書とも言える問題の書のなかで、原日本人の渡来については、沖縄の人と文化が南方とつながりをもつことに注目して、その論理の延長の上に考えようとする思考がある。それを自分の仮説であるといいながら、晩年に至るまでいささかもゆるめようとはしていない。それは北方からの文化南下説を正面から否定しているわけではないが、あたかもそれは有史以後のことで、原日本人そのものが始原の時代においては南から島づたいに漂いついたもので、その際、途中で離島に残ったものが原沖縄人であるというもののようである。・・・》


『海上の道』解説(『新版柳田国男の思想』法政大学出版局刊)


とあります。今回、私が先島を訪れ最も興味を抱いていたテーマは、稲作とその文化複合と照葉樹林文化の連関、その伝播ルート、南方起源、北方起源、江南直行ルートだったのです。


ユゴイ


 西表島の面積に対する人口の薄さが古来のものではなかったことは分かるのですが、依然として私の疑問は消えません。もしも、マラリアだけが原因であったとしたら、さらに、南の島々でなぜ絶滅が起こらなかったのかが理解できないからです。

しかし、その原因はともかくも、結果として実に多種多様な動植物と壮大な自然が残されたのです。

昨年九月は東側の仲間川流域のマングローブ林を見て廻っただけだったのですが、今回は石垣港からさらに遠い西側の浦内川流域に向かいました。マングローブが生い茂る汽水域の内湾の湾奥で船を降り、そこからは亜熱帯のジャングルの小道に入り、ただひたすら、中流から上流の入口に当たるマリユドウの滝とカンピレーの滝付近まで徒歩で入り込みました。つまり、西表の懐まで入ったのです。

毎日、テトラポッド、張ブロックといったコンクリート構造物と杉、桧などの針葉樹のを憎しみを抱いて見続けているのですが、西表には一部を除いて気になるほどには見当たらないのです(もちろんこれは私も日常に麻痺されているからでしかありません)。

 まず、そのことだけでも心が多少は和み、非常に落ち着いた気分になった事は事実です。しかし、それを遥かに超える迫力をもって迫ってきたのが生物の豊かさでした。

まず、最初に飛び込んできたのが乗船場付近の水の美しさと魚種の多さでした。特に驚いたのはヤガラの子と思しきもの(これは後にサヨリの幼魚と教えて頂きました)が無造作に泳いでいたのです。こんなものは中々本土ではお目にかかれるものではありません。

上流に向かうボートからは、圧倒的に豊かな森が広がっています。マングロープ林とは総称に過ぎませんが、多くのヒルギ(オヒルギ、メヒルギ、ヤエヤマヒルギ・・・)によってなる大マングローブ群落、そして、それに連なり山の頂にまで駆け上がる多くの照葉樹群落はやはり圧巻と言うべきでしょう。そして、その中にイリオモテヤマネコを含む多くの動物が育まれているだろう事は疑う余地がありません。

湾奥の船着場まで七、八キロも溯上すると岩場があり下船します。ここからは陸行する事になります。百メートルも歩くと、直ぐに広い川原に出くわします。豊かな川の流れ込みの中を見ると、二〇~三〇センチ級の淡水魚が逃げもせずに悠々と泳ぎ回っているのです。それどころか、足を水につけると小魚が足を突付いてきます。本土の川も昔はそうだった事を思い出させてくれます。後で、大きな淡水魚は何かとガイドに尋ねると「恐らくユゴイかオオクチユゴイと思います」とのことだったのですが、帰って、図鑑で調べると明らかに違うように思います。私には形や斑の模様からニジマスの仲間にしか見えなかったのですが、今のところ確証を得ていません(これについても同じルートからやはりユゴイと教えて頂ました)。

もちろん、西表には本土の卓越種である鯉や鮒の類が存在しませんが、それは、日本本土が大陸と繋がっていた時代においても、この西表島が切り離された孤立島であった証拠とされているようです。

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スポット058 徳島県阿南市の佐田神社は猿田彦を祀るのか?

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スポット058 徳島県阿南市の佐田神社は猿田彦を祀るのか?

20161013

太宰府地名研究会 古川 清久


徳島県阿南市の南側から東に突き出した二つの半島がありその一角に佐田神社があります。

今回、訪問し写真を撮ったものの、何故かSDカード失い、この半島の周辺だけ写真を喪失していました。

このため、非常に困ったのですが、火(ホ)と「ニワ」と鍋釜と言う良質のblogがあったことから無断ながら有難く借用させて頂き、一応、リポートの体裁を取らせて頂くことにしました。

930日から107日に掛けて、7車中泊81900キロ(架橋のみ高速利用)5060社という南阿波~東土佐の神社調査を行いました。

南阿波の調査で最も見たかったのがこの佐田神社でした。

そもそもこのような場所に佐田神社なるものがある事自体も一般にはほとんど知られていないでしょう。


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徳島市の南、阿南市のまた南に東に突き出した二つの半島の一角に佐田神社があります。


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二つの半島の一角と言うよりも先端に佐田神社があることから、直ぐに谷川健一の佐田=サダル神の話が頭に浮かんで来ます。

これまで、この四国の東の先端部に佐田神社があることは知っていましたが、現地も踏んでいない事から接触のある人にも全く話していない事でしたが、今回、現地を踏んだことから、改めて考え直してみたいと思います。


南から、鹿児島県の大隅半島先端の佐多岬


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四国の最西端の八幡浜市の佐多岬


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四国の南西端の足摺岬の佐多


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谷川健一は足摺岬も蹉跎とも書き佐田と読める事からこれも佐田だったと考えていたようです


ここで、今回の徳島県のかもだ岬にも佐田神社が置かれている事を考えると、ある時代、ある民族が住み着き、彼らが岬をサタと呼んでいたのではないか、つまり、岬と佐田に何らかの関係があったことはだけは否定できないように思うのです。

それは、谷川健一が「日本の地名」外において、沖縄でのフィールド・ワークの実例から、岬にはサダル神が宿り、岬をサタと呼んでいた可能性を指摘しているのです。

恐らくここもその一例であったようなのです。

 谷川は沖縄に200回言ったという(実際に宴会の席の会話の中でその話を直々に聴きましたが…)人であり、師匠である柳田国男以来の南から北に向かう列島の民族形成の一端をこの佐田地名に意識していたのです。

 ただ、以下の本土のサタ岬の三例は知っていたようですが、この徳島県阿南市のカモダ岬に佐田神社が在る事までは知らなかったようです。

 ここでは、このカモダ岬に佐田神社が置かれていたことを持って、谷川が指摘したサタ=岬と言う公式の一例を追加したとまでは考えているのですが、谷川が展開した後半部のサタ→猿田という公式には同意できないという反論に、なおも拘ってみたいと思うものです。

 さて、今回、画像を無断借用させて頂いたblog「火(ホ)と「ニワ」と鍋釜」氏も、リポートの中でこのように書かれていました。


扁額を見ると「佐田神社」。「猿田彦」が祀られている可能性が極めて高い。僕の感は当たっていたようだ。島根県にも「佐太神社」があり、「猿田彦」と深くかかわっている。

たまたま、神主さんが出てこられたので、挨拶をし、祭神を質問してみる。「猿田彦大神」。やっぱり!


「火(ホ)と「ニワ」と鍋釜」氏は谷川健一説も把握され、神社にもかなり詳しいことが直ぐに文中から読み取れましたが、“佐田神社に猿田彦が祀られている”という件にはやはりという思いがしています。

不幸にも宮司にも会えず、画像さえも失ってしまった当方からすると、「実質的な聴き取りもできていないなかで何を…」と言われそうではありますが、現地を見るとここでも祭神の入れ替えが起こっていたのではないかという事が透けて見えてきたのです。

まず、佐田大神と猿田彦は全く異なる神様なのです。

それを、佐田は猿田彦大神以外にはありえないと錯覚し強制したのは明治の神祇官以降の伊勢神道であった事を当方は知っているのですが、それについて知りたい方は、ひぼろぎ逍遥 051「出雲の佐田神社と安心院の佐田神社」を読んで頂きたいと思います。


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PDF「列島縦断地名逍遥 - 116 ページ - Google ブック検索結果」より


そこでは、佐田大神とは猿田彦(山幸彦)以外にはありえないとしたのが伊勢神道と言っても良く、それまで江戸幕藩体制の下で権勢を誇っていた徳川政権の背後で暗躍した天海僧正以来の山王一実神道の中心的な神こそが、佐田大神=山王社=日吉神社=日枝山王権現=松尾神社=大山咋神だったからです。

つまり明治の伊勢神道の跳梁跋扈は、旧体制で影響力を誇った山王日吉信仰=佐田大神信仰を、猿田彦を持って潰しただろうことが見えてくるのです。

ちなみに佐田大神とは、阿蘇の草部吉見神(海幸彦)と宗像の市杵島姫との間に産れた大山咋神なのです。

そして、その子が第10代贈)崇神天皇と格上げし、自らをその末裔であるとしたのが藤原氏だったのでした。

ここまで見てくると、本拠地である紀州を経由し伊勢に廻った猿田彦=佐田彦の直接的な出発点は、この地ではなかったかと思えるのです。

何故とならば、ここには阿南市椿町があり、椿中学校、椿小学校、椿泊保育所…が並んでいるからです。

伊勢の一の宮椿大神社が主神として猿田彦を祀り、椿をシンボルとしていることは言うまでもありません。

しかし、何よりも重要なのは、この佐田神社の手前には金毘羅神社が鎮座しているのです。

金毘羅神社の祭神は通説では大国主命とされていますが、百嶋神社考古学では佐田大神=大山咋神とするのです。


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PDF「フォッサマグナ・中央構造線を行く: 断層沿いの交易路と文化流通の軌跡」より


ここまで見てくると、谷川は、海に突き出した岬が来訪者を先導すると言う意味でサダル神とし、それがサルダと転倒し、さらにサルタと清音化し、その上にサタになった…といった非常に苦しい言い回しをしているのですが、列島の南の岬に宿るとされたサダル神が、そのまま持ち込まれ、岬がサダル、サタル、サタと呼ばれていたと理解する方が自然で余程合理的なのです。

してみると、この阿南市の佐田神社とは岬がサタと呼ばれていたことから佐田神社と呼ばれ、たまたま、讃岐、阿波が忌部(出雲は「忌」の文字の置換え)の領域であったことから後に猿田彦(一時期忌部の主神であった可能性がある)が祀られたのであり、本来は共存していたはずの大山咋が祀られていた可能性も否定できないのです。

実は出雲の佐田大社もたまたま岬のような場所にあるのですが、出雲に鎮座している以上忌部の一員だったと考えています(出雲も全国に存在した忌部の領域の一つなのです)。出雲はインと読むべし。

こちらの佐田大社の祭神も現在は神祇官、神社庁のゴリ押しが通り、祭神を猿田彦として渋々受け入れていますが、元の社家と思われる方がそうでないと言う事を切々とネット上で訴えておられます。

どうやら、伊勢の椿大神社のルーツがこの阿南の佐田神社にあり、その思い込みが出雲の佐田にも向かった様にも見えるのですが、取材材料が不足しているためこれ以上の追及はやめておきましょう。

まあ、これ以上の追及は控えるとして、今回のカモダ岬もその形状から、谷川健一が「続日本の地名」で提起した永尾=カマンタ(エイの尾)地名ではないかとも思っています。

現在、谷川の発見した永尾地名を、四国で三か所発見していますが、こちらこそ列島の南から持ち込まれた地名ではないかと考えているところです。

これについては、ひぼろぎ逍遥 202208 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”外をお読みください。



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349 先 島 ②  “二度目の石垣、西表紀行“八重山照葉樹の懐にて”

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349  先 島 ②  “二度目の石垣、西表紀行“八重山照葉樹の懐にて”

 20160507

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

マリユドウとカムピレー

照葉樹の大森林を縫うように延びる小道を一時間も歩くと、二つの滝に辿り着きます。マリユドウとカムピレーです。河口からこの滝の付近までは柔らかい砂岩が多いものと見えて、川床には大、小、数多くのポット・ホールが見られます。梅雨明けから半月も雨が降らないとは聞いていましたが、水量は実に多く、豊かな照葉樹の森が間断なく水を送り続けている事がこれだけでも理解できます。

この二つの滝は有名な観光スポットであり、テレビなどでも良く見かけるものですが、私はどうしても、その名称に拘ってしまいます。マリユドウは廻る淀みとされています。これは途中の掲示板に書かれていましたが、まずは、なるほどと納得した次第です(写真を見られれば一目瞭然でしょう)。

カムピレー(カムビレー)については記載がなく、帰路、歩きながら考えていましたが、帰り着く頃にようやく気付きました。カン(カム)はカミ(カムイ)であり、ピレー(ビレー)は平らな大地などに付く本土のヒラ(ビラ)に相当します。ホテルに戻って観光パンフレットを読んでいると、カムピレーの滝には神様が座っているというフレーズが目が留まりました。

民俗学ではサクラ(サは神を意味し、クラは座を意味しますが、桜の語源と言われています)と同じ意味になりますが、つまり、カムピレーとはカムの座する平らな場所という意味になるのです。これも写真を見られれば地形と対応している事が分ります。


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カムピレーともカムビレーとも書かれますが、ピと(ビ)は、青森のネプタ祭とネブタ祭に対応します(半濁音と濁音の対抗)。当然ながら、F音がH音より、P音がF音より古いという言語学の原則と対応しています。つまり、古くは、母はふぁふぁでありぱぱだったのです。しかし、台湾の北から青森まで、古代日本語の痕跡を辿れる事は、それだけで民俗学調査が出来た思いがします。

少なくとも、カムからカン(イザイホーで有名な沖縄久高島の親神=ウヤガンのカン)カミ(日本本土の)から、再び、蝦夷からアイヌのカムイへの移行が同心円状に成立する(方言周圏論)ことを実感でき、言語学、地名学、民俗学の楽しみにしばし浸れたという思いがしていました。

ただ、この豊かな自然の西表にもリゾート開発の脅威が押し寄せています。

既に裁判闘争にも発展していますが、現地の心有る人々にエールを送りたいと思います。

現在、西表の自然は人口の薄さと、島を半周できるだけの道路しか造られていないという心もとない現実によって辛うじて保たれています。このガラパゴスにも匹敵する素晴らしい自然を守る事が、観光客を呼び込み続けることができる担保であり、自然そのものこそが永遠の宝であると認識して欲しいと思うばかりです。


ヤマネコを追い詰める西表周回道路(県道白浜南風見線)建設を阻止せよ!


赤土を垂れ流しにする農地開発事業を阻止せよ!


石垣島を北に


石垣北端を目指したいこれは、昨年九月以来の願いでした。レンタカーを駆って、まず、始めに向かったのは白保(シラホ)の海でした。

白保小学校の東南の角には大きなアコウの木が生えています。そこを右に曲がり、百メートルも走ると左に白保の御獄(ウタキ)が見えてきます。さらにその前を百メートルも進むと、もう、そこには白保の海が一面に広がっています。

言うまでもなく新石垣空港建設を巡って猛烈な反対運動が行われ、ついに開発(自然破壊)の暴挙を押し返すに至ったあの白保の海です。

一般的に環境保護運動とは敗北、敗残、屈従、屈服の歴史といっても過言ではありません。しかし、この白保の海に来ると、それが、ただの現状維持であったとしても、数少ない勝利の例外はありえるのだという実感が涌いてくるのです。白保の海は今日も前のままでした。この、前のままである=前のままで在る。という有難さを実感したひとときでした。

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白保の浜(200509


さらに、白保から北に向かいます。この石垣島東岸の道には北海道と紛うばかりの実に広々としたのどかな風景が広がっていました。私もしばらくは騙されていたのですが、この景観を自然と考えるのは言うまでもなく誤りです。恐らく数十年前まで、この地には多くの亜熱帯性の森や林が相当に残っていたはずなのです。それを徹底的に破壊し尽くしたものこそ農水省の国営農地開発事業に外なりません。事業が目的の一つにしたのは大規模なサトウキビ畑やパイナップル畑の造成でした。この開発が問題になったのは、もう、かれこれ二、三十年も前の事になるのでしょうか?農地造成によって大規模な土壌流出が発生し、南国特有の赤土が珊瑚礁の海に流れ込み、海は雨のたびに真っ赤に濁り珊瑚に打撃を与えたのでした。

農水省は、効果の見込みのない見せ掛けばかりの沈砂池を造らせ、対策は十分だとしたのですが、もちろん、粒子の小さい赤土が止まるはずもありません。森を失った一面の畑に土壌流出は止められないのです。今なお、流出は止まらず、豊かな土壌を失った畑からは栄養が日々失われ続け、肥料の大量投与と栄養の流出という悪循環が続いていると考えて間違いはないでしょう。石垣島周辺の海は、見た目の美しさとは異なり、依然として病んでいるのです。

これが、愚かな農水省がやっている国家的犯罪の現実なのです。


フナクヤ


妙なタイトルと思われるかもしれませんが、船越(フナコシ、フナゴエ)のことです。この場合、現地音のフナクヤは、本土のフナゴエ゙に対応します。


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玉取崎展望台から望む=石垣島本島が北東に伸びているが船越はその最狭隘部


リポートⅠの53.船 越 において、このように書いています。


船越という地名(再掲)


 船越という地名があります。“フナコシ”とも“フナゴエ”とも呼ばれています。決して珍しいものではなく、海岸部を中心に漁撈民が住みついたと思える地域に分布しているようです。 

遠くは八郎潟干拓で有名な秋田県男鹿半島の船越(南秋田郡天王町天王船越)、岩手県陸中海岸船越半島の船越(岩手県下閉伊郡山田町船越)、岩手船越という駅もあります。また、伊勢志摩の大王崎に近い英虞湾の船越(三重県志摩市大王町船越)、さらに日本海は隠岐の島の船越(島根県隠岐郡西ノ島町大字美田)、四国の宿毛湾に臨む愛南町の船越(愛媛県南宇和郡愛南町船越)、……など。

インターネットで検索したところ、北から青森、岩手、宮城、秋田、福島、栃木、埼玉、千葉、神奈川、新潟、岐阜、静岡、三重、大阪、兵庫、鳥取、広島、山口、愛媛、福岡、長崎、沖縄の各県に単、複数あり、県単位ではほぼ半数の二三県に存在が確認できました(マピオン)。もちろんこれは極めて荒い現行の字単位の検索であり、木目細かく調べれば、まだまだ多くの船越地名を拾うことができるでしょう。

それほど目だった傾向は見出せませんが、九州に関しては、鹿児島、宮崎、熊本、佐賀、大分にはなく、一応“南九州には存在しないのではないか”とまでは言えそうです。


鹿児島にはないとしていましたが、その後奄美にあることを確認しましたので、ここで改めて訂正させていただきます。ただ、沖縄の船越の一つにはこの石垣島の船越地名はカウントしていませんでした。

その船越が、半島が伸びる付け根の伊原間(イバルマ)地区の最狭隘部にあったのです。このような小さな地名はやはりフィールド・ワークでなければ発見できません。この船越は西側に港があり、さらに水路が百メートルは東に伸びていますので、実際に船越をする距離は百~二百メートルで済みそうです(高低差数メートル)。当然ながら痕跡があると思い周辺を少し探すと、明らかに船越を行っていたと思える通路が真っ直ぐ東側の海に延びていたのです。

このフナクヤを利用すれば、どう見ても、二五キロは節約できるでしょう。

こういった小さな発見の連続が旅を一層面白いものにしてくれるのです。


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石垣島伊原間の船越


八重山の地名


伊原間(イバルマ)が出てきましたので、ここで先島の地名に触れておきます。「有明臨海日記」に間地名を書きなぐっていることは既にご存知でしょう。


有明海周辺の「間」(マ)地名 (再掲)


九州北部には表記は異なりますが、間(マ)の付く印象的な地名が並んでいます。東から和間(宇佐八幡宮の神事“放生会”が行われる和間ノ浜で有名、大分県宇佐市)、中間(北九州市の隣の中間市)、赤間(JR鹿児島本線の赤間駅がある宗像市赤間、赤間神宮で有名な下関市の赤間)、福間(JR鹿児島本線の福間駅がある福津市福間)、野間(西鉄大牟田線の高宮駅そば野間大池の福岡市南区野間、福岡市南区)…和間のような海岸部もありますが、多くは内陸部の地名です。しかし、中間は古代においては古遠賀湾奥の土地ですし(“100.港湾整備事業が海岸を破壊する“参照)、その外についても五世紀あたりにはいずれも海が入る湾奥の土地だったのです。ここで広辞苑を見ると、この地名の意味が分かってきます。


【間】 ⑧船の泊まる所。ふながかり。


当然ながら、宮古諸島、沖縄諸島、奄美諸島にも多くの“間”地名があるのですが、現地音を確認せず、また、現地を歩かずに地名を論ずることは初歩的な誤りに繋がりますので、ここでは八重山諸島の間地名に限定して書くことにします。既に、間地名とは船が泊まる所。転じて、小平地、小集落、通り抜けられる水道がある場所であることは明らかにしてきましたが、前述した柳田国男の「村の連合の日本で郷と謂った区域を、もうこの頃から南方では間切と呼んでいた」に現れているように、間が集落や人が住める場所の意味で使われている事は明らかです。

移動の手段に船しか求められない南島では、船が泊まれる所にしか集落ができないために集落の意味で使われているのが良く分ります。さらに言えば、もしも、間地名が船の泊まる所の意味であるとするとき、この地名が南島起源の古代の言葉(縄文語)であること、同時に本土の間地名も南方系の集団が移り住んだ土地である可能性が高いことを予感させるのです。


石垣島 : 伊原間

西表島 : 仲間 嘉弥真島 鳩間島 


あえてルールを破り、未踏の宮古列島から荒い拾い出しを行うとすれば、


宮古島 : 長間 来間島 池間島

多良間島


が容易に拾えます。


ジーシー


これまた、妙なタイトルですが、厨子の現地音です。と言っても何の事だかお分かりにならないと思います。一般的に厨子は仏像、経典などを収めるものですが、南島の厨子は骨を納めるものです。正確には納めていたと言うべきでしょう。南島における葬送に殯(モガリ)が残り、洗骨葬が最近まであったことは比較的知られています。

 

 洗骨葬(せんこつそう)

   遺骸を一度埋葬もしくは風葬した後、一定の期間を経て、洗い浄め、再び埋葬もしくは納骨すること。東南アジアの一部から中国東南部・台湾・沖縄・朝鮮半島南部にかけて行われる。

(広辞苑)

 現在においてはさすがにないと思われますが、南島(南西諸島の意味で)では、戦後においても広く洗骨葬が行われていました。この事について現地で聴くと、七年間、埋葬した後、改めて骨を洗い改葬していました。その時、納骨し墓に収めるものが厨子なのです。これは甕であったり、陶製の箱型の厨子であったりしますが、総称してジーシーと呼ばれているのです。

 もちろん、このような葬送儀礼が存在した事は知ってはいましたが、この厨子に突然遭遇したのです。前述した伊原間からニ、三キロも走ると、サビチ洞という鍾乳洞があります。三〇〇メートルほどの洞ですが、先端は海岸に延び開いていますので、海からの湿った南風が入るためか湿度も高く、それほど温度は低くはありませんが、洞内に入ると、この厨子が大量に展示されていたのです。始めは、厨子をこのような鍾乳洞に納めるような、いわば共同墓地があったのかとびっくりしたのですが、後で話を聴くと、これはコレクションであり、焼骨が行き渡るようになると厨子が不用になったものと想像されます。ともあれ、石垣島で最も驚いた事でした。珊瑚礁が発達する南西諸島に鍾乳洞があるのは当然であり、石垣島では市街地に近い龍宮城鍾乳洞が有名ですが、サビチ洞を訪問されるのも良いかもしれません。ちなみにサビチの意味を尋ねたところ、寂しい土地との普通のお答えを頂いて拍子抜けしてしまいました。


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珊瑚礁の淵


ここで海の自然についてもふれておく事にします。四日間とも良い天気が続きましたが、最終日のフライトが夕方四時と遅かったために、それを利用してレンタカーで石垣島北岸の米原に向かいました。

この米原は駐車料もシャワー代も一切要らない実にありがたいビーチです。もちろん私はダイビングを目的に石垣に来ている訳ではありません。しかし、この素晴らしい海を前に泳がないでいられるほどの抑制力もないのです。もちろん本格的なダイビング・スーツやアクアラングなど持ってもいないのですが、以前からシュノーケルを使って最大一〇メートル程度は潜ってきました。シュノーケルを使うと非常に楽に泳げますので、ニ、三時間は岸に戻らずに沖合いを漂います。このように書くと溺れないのかと心配されそうですが、夏場の珊瑚礁の海というものは実に安全なのです。沖合五〇〇メートルあたりまでは水深一~二メートル程度の浅い海が広がっているのです。夏場は南東風が卓越しますので、台風さえ来なければ北西側の海は風と波の影響をほとんど受けません。

もちろん、ダイビング・スーツは嵩張りますし、だからといって、剥き出しで泳ぐのは、日焼け、クラゲ、毒魚を考えると避けなければなりませんので、私はステテコ風の軽い服を着込み、靴下を履きフィンを付け、手には軍手して泳ぎます。当然、シュノーケルは装着しますが、それで沖を目指すのです。珊瑚礁を泳ぐのはそれはそれで楽しいのですが、もちろん、泳ぎたいのは珊瑚礁が切れるリーフの淵です。

潮が動き始め流されると非常に危険であるのは十分に承知していますが、このリーフの真っ青な淵を泳ぐ喜びを知った人は、まずは、病み付きになってしまうことでしょう。さほどに美しいのです。昨年の九月には目の前に大きなミノカサゴが現れ、目と目を合わせましたし。今回も、モンガラカワハギの仲間や三〇センチ級の南方系のベラの仲間が群れて泳いでいるのです。

海は青く深く、急角度で珊瑚礁が深みに落ち込んでいます。気付くと、一〇メートルほどの底からあぶくが上がっていました。五、六人のダイビング・スーツに身を包んだ本格的なグループが潜っていたのです。昨年の九月は、流されては大変と考え一切深く潜る事はしませんでしたが、今回は度胸が据わって、六~七メートルを耳抜きしながら何度も潜り、リーフの裂け目や崖下を堪能しました。珊瑚礁の淵は餌が豊富で隠れる場所が多く、魚達にとってこれほど素晴らしい棲家はないでしょう。私は何度も何度も潜りながら、この海がいつまでもあることを願っていました。

 もしも、三度目の八重山があるとすれば、次回はさらに美しいと考えている石垣島北西岸、久宇良のダフテ崎=サンセット・ビーチで潜りたいと思っています。


御 獄


御獄(ウタキ)の存在を知ったのは中公新書の「日本の都市は海からつくられた」上田 篤著(1996“Ⅳお通し御獄からでした。その後、柳田の「海上の道」を読んだのですが、このお通し御獄というフレーズに奇妙に惹かれた記憶があります。


 オトオシ、すなわち遥拝所そのものが、しばしばウタキとなる。すると、ふつうのウタキとどうちがうのか。・・・中略・・・オトオシウタキは、遥拝することを主目的とするウタキである。

「日本の都市は海からつくられた」上田 篤著


昨年九月に石垣に降り立った時も御獄を見たいという衝動を抑えることができませんでした。

今回、御獄を見て廻る余裕はほとんどありませんでした。それでも、多くの御獄を見かけました。私は、以前、南西諸島の文化の影響を受ける九州本土にも御獄の痕跡があるのではないかと考え、鹿児島、熊本、長崎の島嶼部を探していた時期がありますが、全くの徒労に帰しました。そのためか、二度目の石垣島においても熱意が枯渇していたのは事実です。しかし、もしも痕跡に類するものを見出すことができたならば、改めてこの御獄を書きたいと思います。そのためには、まず、鹿児島県のトカラ列島、甑島、屋久島、種子島といったところをこの観点で見て廻る事が必要でしょう。

いずれにせよ、九州本土に戻り、福岡空港の外気にふれた時、改めて九州は涼しいと実感したものでした。夢のような四日間はあっという間に過ぎ去ります。美味しい食べ物、美しい海、豊かな人情、八重山ソバ、サトウキビのかき氷、皆さんも先島を目指してはいかがですか。


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スポット059 ハウス・ホテル・カレーのCM曲をご存知ですか?“『Por una cabeza』

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スポット059 ハウス・ホテル・カレーのCM曲をご存知ですか?“『Por una cabeza』(ポルウナカベーサ)” 

20160614

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 筑前町の大己貴神社が鎮座する大字弥永に小字名として「日隅宮」があったことを知り、これは大変な事だと法務局での調査から戻って、TVのスイッチを入れると、突然、ハウス食品の「ホテル・カレー」のコマーシャルが流れて来ました。

 そのCM曲が、なんと、アルゼンチン・タンゴの名曲中の名曲ポル・ウナ・カベーサPor una cabezaだったではないですか、十年ほど前にも「キリン生茶」の宣伝に使われていますのでそれほど驚くほどの事もないのですが、カルロス・ディサルリ楽団による「パトテロ・センティメンタル」と共に最も好きな曲だけに、しばし、釘付けになってしまいました。


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sp51-2ポル・ウナ・カベサ (Por una cabeza) は、タンゴの有名曲の一つ。曲名は競馬用語の「首(ひとつ)の差で」を意味する。カルロス・ガルデルが1935年の映画「タンゴ・バー」 (Tango bar) の挿入歌として作曲したもの。ギタリストで作詞家のアルフレード・レ・ペラ (Alfredo Le Pera) による歌詞がついている。歌詞・楽譜はこちらを参照のこと。

なお、ラテン調やクラシカル調、テクノ調、タンゴ向けなど様々な編曲・アレンジがなされている。

ウィキペディア(20160914 19:02による


飛行機事故で急逝した永遠の名歌手カルロス・ガルデルによるものがもっとも有名ですが、どのオルケスタ、どの歌手が歌っても聴き込んでしまうほどの名曲なのです。

手持ちでは、ガルデル全集はもとより、日本のマエストロ小松亮太による「ラ・トランペーラ」にも収録されていましたが、テレビで流れると効果は大きいだけに、タンゴの良さが伝わり再度ブームが到来してくれたらと思うばかりです。

この「Por una cabeza」については、フィギヤ・スケートの浅田真央がリンクでも使っているので、かなりの人の脳裏に溶け込んでいるはずなのですが、なかなかアルゼンチン・タンゴの復活とまでは至りません。

 まず、スペイン語のPorは英語のforと同じで、cabezaが頭と分かれば、頭一つで、つまり、鼻の差で負けた…という意味になるのです。以下、「スペイン語事始 Ⅱ」という適切なサイトがありましたので、勝手ながらご紹介させて頂きます。


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Por una cabeza,             ただ一人のために

si ella me olvida            たとえ彼女が僕を忘れても

qué importa perderme           何千回破滅しても僕は構わない

mil veces la vida, 

para qué vivir.             その一人のために生きている                                   

Cuántos desengaños,          いくつの失望が生まれたことか

por una cabeza.             首の差のために(一人のために)

Yo jugué mil veces,           何度もそれに賭けてきた。

no vuelvo a insistir.          でももう執着はしない。

Pero si un mirar             だが、(彼女の)視線

me hiere al pasar,**           すれ違いざまに僕に当たったら、

sus labios de fuego           彼女の燃えるような唇に

otra vez quiero besar.          もう一度口づけしたい。

Basta de carreras,            レースはもう十分だ

se acabó la timba.            勝負事は終わった

!Un final reñido             最後の接戦も

ya no vuelvo a ver!           2度と見るまい。

Pero si algún pingo           でも、もしまた駿馬が

llega a ser fija el domingo,       日曜日の本命馬になるなら、

yo me juego entero.           僕は全てを賭けるだろう。

!Qué le voy a hacer..!          僕は何をしようとしているんだ!


*Por una cabeza 「首の差で」と「una cabeza=一人、一頭のために」の二重の意味をかぶせているようですね。

*Pero si un mirar me hiere al pasar, 「herir」は①傷つけるの意味だけでなく③(光線が、的が)当たるの意味もあるので、こちらのほうではないかと…


なお、昨今は便利なもので、パソコンでも、ユーチューブを開き、ポル・ウナ・カベーサと入力さえすれば、それなりの録音が複数聴けますので、試してみて下さい。

私は、野菜を鰹のダシで炊いて、ハウス食品の「ハウス・ジャワカレー」辛口とSB食品の「ゴールデンハヤシライス」を50:50のブレンドで妙な食べ物を作って食べる人間なのですが、今回は、ポル・ウナ・カベーサをCM曲に採用して頂いたことに感激し、ハウスの「ザ・ホテル・カレー」を単独で使ってみようと思います。

ただし、アルゼンチン・タンゴのファンは、ホテルはスペイン語風にオテルと発音するのです。

これまた名曲のグラン・オテル・ビクトリア…などと…。

350 加茂別雷神社の二葉葵の神紋 “熊本市植木町豊田の加茂別雷神社”

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350 加茂別雷神社の二葉葵の神紋 “熊本市植木町豊田の加茂別雷神社”

20160509

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


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祭神 別雷神(應神天皇)創立承平年中(931937 「熊本県神社誌」上米良純臣編による


 国道3号線で熊本に向かうと九州自動車道の植木ICの手前 1.5キロメートルほどの所に豊田の交差点があります。これを左に曲がり植木温泉に向かうと、300mも走らないうちに見落としそうな参道があり左手に急な石段があります。

 これが賀茂別雷神社ですが、菊池山鹿周辺に散見される別雷神社の一つであることは言うまでもありません。

それほどの大社と言ったものではないどころか、急な坂を上った崖の上の小さな社といった方が良いような神社ですが、何故か陸軍の大演習に際して天皇が統監されることから、急ごしらえで立派な参道の石段が積まれたと言う話が残されています。

熊本の陸軍特別大演習と言えば、明治351902)年11月の 明治天皇を迎えた陸軍特別大演習がある事は承知していましたが、昭和6年(満州事変勃発前後の時勢急変の時です)の陸軍特別大演習があるのですので恐らく後者の事なのでしょう。


陸軍特別大演習を統監される天皇陛下

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菊池市役所 政策企画部 企画振興課 地域振興係資料

 この神社は六~七年前に別件で一度訪問したことがあるのですが、雨が降り始めた中、特別に石段が積まれたという話が気になり、急な思い付きで再訪しました。


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ご覧の通りの至って小じんまりとした参拝殿、神殿ですが、背後にはかなりの横穴墓が残っています。


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これは昭和32年の社殿改修の記念録

今回、再訪し、この神社が下賀茂ではなく上賀茂神社の流れであることがある程度分かりました。

それは、二葉葵の神紋で判別できます(下右)。しかし、事はそれほど単純ではないのです。


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神額には賀茂皇太神と書かれています     これは二葉葵の一つ

 ところが、神殿上部の神紋を見て驚きました。

 二葉葵の神紋も中々見掛けませんが、なんと、それ以上に珍しい右離れ立ち葵の神紋が神殿最上部に打たれていたのです。


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右離れ立ち葵の神紋

 これで、祭神として「熊本県神社誌」に別雷神(應神天皇)とあるのは、鼻から怪しいのですが、理解できる上賀茂神社の系統の神社との理解も吹き飛び、その底流には、神大市姫か木花開耶姫を奉祭する一族が確認できたのでした。


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百嶋由一郎神代系譜(ヤタガラスバリアシオン)上下

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それほど遠くない菊池市七城町のメロンドーム付近に岡田の加茂別雷神社があります。

表向きはどうであれ、これは間違いなく、藤原が第10代に格上げした崇神天皇を祀る神社です(ひぼろぎ逍遥(跡宮)200 菊池市七城町岡田の加茂別雷神社 “雷さんが居られるんですよ”を参照のこと)。

しかし、この右割れ立ち葵の神紋を見たことから、さらにその底流に別の氏族を見出しました。

問題は、百嶋由一郎神代系譜(ヤタガラスバリアシオン)上の神大市姫と木花開耶姫のどちらなのかです。

 今のところそれを特定させるだけの決め手を持ちません。

 思えば、この地は豊田と呼ばれていますね、ミマキイリヒコ=ツヌガノアラシト=中筒男命=崇神天皇の息子も豊城入彦でしたね…。

思えば「熊本県神社誌」を書かれた故)上米良純臣元宮司(青井阿蘇神社等)は百嶋由一郎氏とも深い親交をお持ちでした。

このお二人は十分お分かりだったと思うのですが、死んで話を聴きに行くとしても、私は天国とか極楽ではなく、亡者として徘徊するだけだと思い、やはり叶わないと思うばかりです。


研究のため百嶋神代系譜をご覧になりたい方は、09062983254まで直接ご連絡下さい(常時対応)。


スポット060 薩摩の吹上浜に立派なオオナムチ神社がある事をご存じですか? 

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スポット060 薩摩の吹上浜に立派なオオナムチ神社がある事をご存じですか? 

20161015

太宰府地名研究会 古川 清久


菊池(川流域)地名研究会において「大宮神社と猿田彦大神」という連続講演を行った後、その夜は熊本県芦北町で朝4時まで九州王朝論者の画家である学校の先生と話し込み、快晴の中、薩摩半島を目指しました。

目的は、百嶋由一郎氏が生前に言われていた「坊津にタノカンサーが大幡主と大山祗による擬神体であることが分かる石柱(石塔?)があります…」を確認するという一点だけでした。

と、言っても、途中に神社があるのに見ないで通り過ぎることなどできないのが道理であって、あたかも吞屋のハシゴでもするかのように放浪したのは言うまでもありません。

さて、薩摩半島の西岸、吹上浜の一角(吹上温泉の北)に大汝牟遅(オオナムチ)神社があります。


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もうかれこれ五回目のぐらいの訪問になると思うのですが、いつも同じ姿を保っていてくれるという安心感に加え、愛着をさえも感じるこの頃です。

言うまでもなく大国主を祀る神社なのですが、まずは、何故、出雲の主とされる大国主がこの地に鎮座されているのかをお考え頂きたいと思うのです。

と、言うよりも、“古代出雲帝国”だとか、“出雲の大国主は最も古い神様”“亀甲紋章は大国主が起源”などと他愛もない話ではしゃいでおられる騒々しい方々に、何故、現出雲から遠く離れたこの薩摩の地にこのような立派な社があるのかについて説明をして頂きたいものです。

まず、私達が本当の祭神は大国主命であると考えている宗像大社の東、岡垣町手野にこれまた閑静な大国主神社が鎮座している事、日向の一の宮とされる宮崎県都農町の都濃神社が、何故、主神として大国主を祀っているのかという事、さらには、鹿児島市の中心部のいづろ大通りに大国主神社があり、熊本市北区(西里硯川町)にも川東大己貴神社として存在する事、そして最も重要と考えている夜須川(天の安川)が流れ旧夜須町があった(国譲りの現場でしょう…)福岡県筑前町の大貴己神社、それ以外にも筑豊を中心に大国主祭祀が民間信仰レベルでも広がりを見せている事…などを体系だって納得の行く説明をして頂く必要があるはずなのです。

国譲り(古事記上ツ巻中)に関わるものですが、既にお知らせしている“日隅宮実在を裏付ける福岡県筑前町の田神社の新旧縁起”と併せ、非常に重要な古代の謎が臥せられ、実際には意外と無造作に転がっていそうなのです。これについては以下の先行ブログをお読みください。


スポット041オオナムチの移転先①、スポット042オオナムチの移転先②、スポット050「日隅宮」の発見は何を意味しているか 


少なくとも現出雲の国の方々が吹上浜の大国主命祭祀の実例を知れば(今の時代知ろうと思えば簡単なのですが、通説を信じ込まされていると見るものも見えないのです)、理解不能に陥るか、古代出雲王朝の領域が薩摩まで及んでいたなどと強弁するか、いずれにせよ奇妙な対応をする事でしょう。

しかし、この考えはそれほど間違いではなく、現出雲ではなく旧出雲は九州であり、展開した旧出雲の一つが現出雲であり、同じく旧出雲の南の展開の痕跡が、なお、阿多の吹上浜や宮崎県都農町の都濃神社に認められると考えるべきではないかと思うものです。

では、この日置市吹上浜の大汝牟遅神社に紛れもない大国主祭祀が存在している事をご覧いただきましょう。


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私達は、通常、石持ち神事と呼んでいますが、大国主祭祀圏で普通に確認できる特徴的な風習です


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これも「古事記」上巻の八十神によって大国主が死に至り蘇る話にからむものです


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死に至った大国主命が、ウムガイ姫、キサガイ姫の介護で蘇生すると言う話ですね


この石持ち神事と言い、貝の奉納と言い、紛れもない大国主命を祀る神社なのです。

これらの神社の分布や祭祀が国譲りを強要されたとする現出雲から広がったものと本気で考えておられるのでしょうか?奇妙の上にも奇妙であり、通説に阿る方々は伏せて語りたくない話だと思います。


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百嶋由一郎神代系譜(ウムガイヒメ、キサガイヒメ)


百嶋神社考古学ではウムガイ姫は宗像の田心姫、キサガイ姫は市杵島姫とします


七年ほど前にこの神社を訪れ宮司と小一時間お話しした事を今でも覚えていますが、“確かに社殿は出雲じゃなく筑前の方を向いてますな…”と話しておられました。

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