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351 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑬ 島根県大田市五十猛町大浦の新羅神社

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351 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑬ 島根県大田市五十猛町大浦の新羅神社

20160509

                    太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


タイトルには“中国山地の奥深く”とありますが、今回は島根県太田市の海岸部の神社の話です。

以前から見たいと思っていたのですが、何度も通過しながらなかなか機会がなく、ようやく立ち寄ることができました。

勿論、蒜山高原(岡山県真庭市)や鳥取県でも数社からも採題させて頂くつもりですが、考えが纏まった順に書いていることから話が前後することはお許し頂きたいと思います。

 島根県に大田市がありますが、これもまた大田田根子命、意富多々泥古命の「大田」であることは言うまでもないでしょう。

 さらに言えば、太田市五十猛町も五十猛命=ニギハヤヒ=山幸彦を投影した地名であろうことも疑い得ないのです。

 さて、自ら新羅神社と幟を揚げた神社はそれほど多くはないことからとの一点だけで取り上げる事にしました。


351-1


祭神 須佐之男命 配祀神 大屋津姫 抓津姫命


由緒

 半島から帰国した須佐之男命はここに留まり祀られた。さらに神別れ坂で別れた大屋津姫命、抓津姫命が後にあわせ祀られた。『谷川健一著作集Ⅰ』の「海を照らす神しき光」の中で、「毎年陰暦十月になると二匹の竜蛇が上がる。階蛇は韓国からやってきた神の使いであると信じられている。」との報告が地元から奉行所にあったと記載されている。

このように、古代から半島とのつながりの深い土地であり、 この神社を訪れた作家の金達寿氏は『日本の中の朝鮮文化 講談社文庫』の中で我が意を得たような表現をしているのが印象的であった。半島は廊下であり、大陸経由の文物の大半はしばらく留まり、通過してきたのは間違いのないところであろう。 しかしそれらは朝鮮文化といえるのだろうか。半島で発展しまた発明されたものがあれば、それは朝鮮文化であるが、伝達の役割だけなら、さらに源流にまでさかのぼって表現する必要があろう。

 大田市の西ブロックの協議会の発行になる『ふるさと読本』の中に、「石見風土記」によれば、五十猛神社と韓神新羅神社とは共に延長三年(925)に創建されたとある。社殿が造られた意味であろう。かっては神籬磐境のかたちで祭っていたものと思われる。また、『神なる王/巫女/神話』(高橋統一著)によれば、島根県宗教連盟発行の『宗教法人名簿』によると、当社の創立は享保二十年(1735)と言う。これは大浦神社から韓神新羅神社と改称した時期の意味と思われる。

敬愛するHP「神奈備」による


351-2

同社縁起


この神社の祭神は武進雄尊(天照大神の弟君)とあるのは、勿論、スサノウ=タケハヤスサノウですね。

その後、五十猛命と大屋津姫命、抓津姫命が祀られています。


351-3


由緒書には日本でこの神社だけが「韓神」と称し続けている…とありますが、筑豊の香春町の韓国息長大神大目命(=豊受大神)は言うまでもなく、私が参拝した神社としては、他にも姫路市四郷町明田字下道居706 の新羅神社を含め、京都、青森まで数例あることは申し上げておきます。

 社殿は港の直ぐそばにあります。国道からも直ぐ入れますので一度参拝されてはいかがでしょうか?

 なお、百嶋神社考古学ではスサノウは天照の弟ではありませんので確認しておきましょう。


351-4


百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


最低でも、スサノウ、五十猛ともに新羅系の方であった事は見当が付きますね…

 神代に於いて、と言っても高々3世紀ですが、新羅から九州東岸に入る時は中国山地を山越えする必要があったはずです。

 対馬海流を直接横断することは難しく、どうしても島根県(石見…)、鳥取県(伯耆…)、兵庫県(但馬)辺りにならざるを得ないのです。

 勿論、一旦釜山から西航し、百済の領域から反転流を利用し山東半島の先端から五島列島に向け南下し九州北岸に入ることは可能だったはずです。

351-5 勿論、政情が安定しており百済の領域を中継地として経由できればの話ですが。

 ただ、ここがスサノウ、山幸彦だけの神社であるかと言うとそうではありません。

 この背後の支配者が見えるのです。

それは社殿の神紋が亀甲紋章であることから、博多の櫛田神社の大幡主が想定できるのです。

スサノウのお妃である(であった)アカルヒメは大幡主の娘なのです。

そして、このアカルヒメこそイワナガヒメであり、福岡県糸島市の細石神社の御祭神でもあるのです。

 亀甲紋章のルーツを大国主と説明される方がおられますが、それは誤りで、石見、出雲は大幡主の支配領域であり、その傘下で大国主命は活動されていたから大国主も亀甲紋章を使っていたのです。

 だからこそ、天御中主、大幡主、大国主と「主」と言う尊称が使われているのです。


351-6大国主の神紋と櫛田神社の三つ盛り二重亀甲五七桐紋   

スサノウも五十猛も大幡主の



352 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑭ 岡山県真庭市蒜山西茅部1501の茅部神社

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352 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑭ 岡山県真庭市蒜山西茅部1501の茅部神社

20160509

                   太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

352-1

真庭~湯原から北に向かえば蒜山(ヒルゼン)です。

恥ずべきことですが、蒜山に入る直前まで同地は鳥取県だと思い込んでいました。

岡山県真庭市の湯原温泉から中国山地の屋根を越える山陰の一角との認識を不自然とは全く感じなかったのでした。

弁解の様に聞こえますが、そう思い込んだのには多少の理由があります。

それは、大山、氷山、蒜山と言った山を「セン」と呼ぶエリアが伯耆から但馬に掛けて広がっていたからでした。

多少とも仏教に精通された関心をお寄せの向きには、須弥山を「シュミセン」と呼ぶことはどなたもご

存知のはずで、この現象が仏教系というよりも天台密教系の修験と関係がありそうだと思われるはずです。

この山を「セン」と読み、呼ぶ具体例に関しては既に詳細な先行研究があるのでご紹介しましょう。

このサイトには在職中の五年前には気付いていましたのが、始めてこの面白い現象をご紹介できてうれしく思います。


352-2

2005.01.06 山をセンと読む山

山という字をセンと読む代表は、鳥取の大山です。有名だけに、このような山は、日本中どこにでもあると思われるでしょうが、70そこそこです。下に、その一部を記します。


あさなべわしがせん 朝鍋鷲ヶ山 鳥取・岡山 あられがせん 霰ヶ山 岡山
いいもりせん 飯盛山 鳥取 いおうせん 医王山 鳥取
うまつきせん 馬着山 島根 うまみせん 馬見山 島根
おうぎがせん 扇山 岡山 おうぎのせん 扇ノ山 鳥取
おおがせん 大鹿山 島根 おぐりがせん 小栗ガ山 鳥取・岡山
かさつえせん 笠杖山 岡山 かつたがせん 勝田ヶ山 鳥取
かながやせん 金ヶ谷山 鳥取・岡山 かみだいせん 上大仙 鳥取
からすがせん 烏ケ山 鳥取・岡山 きのえがせん 甲ヶ山 鳥取
ぎぼしゅせん 擬宝珠山 鳥取 きょうらぎせん 京羅木山 島根
きんぷせん 金峯山 島根 くまがせん 熊ヶ山 島根
こうせん 高山 岡山 こうりょうせん 孝霊山 鳥取
こんごうせん 金剛山 新潟 ささがせん 笹ケ山 岡山
しもだいせん 下大山 鳥取 しょうのかみせん 庄ノ上山 岡山・兵庫
しらすせん 白髪山 岡山 すがのせん 須賀ノ山 兵庫・鳥取
すずりがせん 硯ケ山 岡山 せんじょうせん 船上山 鳥取
ぞうせん 象山 鳥取 だいがせん 大ケ山 岡山
だいしゃくせん 大釈山 岡山 だいせん 大山 島根・鳥取
だいみせん ダイミ山 岡山 たかおせん 高尾山 島根
たこうせん 田幸山 兵庫 たまらずせん 不溜山 岡山
だんとくせん 檀特山 新潟 ちくろせん 竹呂山 兵庫
つぐろせん 津黒山 鳥取・岡山 つるぎがせん 剣ケ山 鳥取・岡山
つるぎのせん 剣ノ山 徳島 つるぎのせん 剣ノ山 愛媛
てらおせん 寺尾山 島根 てんがせん 天が山 岡山
とうせん 東山 島根 どうどうせん 道々山 岡山
てんがせん 天が山 岡山 ななかせん 七霞山 和歌山
にんにくせん 忍辱山 奈良 のだがせん 野田ケ山 鳥取
はっとうじせん 八塔寺山 岡山 はっとせん 八十山 鳥取
はなちがせん 花知山 岡山 はんこうせん 半甲山 岡山
ひがしせん 東山 鳥取 ひのきがせん 檜ケ山 島根・岡山
ひょうのせん 氷ノ山 兵庫・鳥取 ぶどうざわせん 葡萄沢山 福島
ほしせん 星山 岡山 ぼだいせん 菩提山 奈良
ほのみせん 穂見山 鳥取 みせん 弥山 奈良
みせん 弥山 鳥取 みせん 弥山 島根
みせん 弥山 広島 みせん 弥山 山口
みねじみせん 峯寺弥山 島根 みみすえせん 耳スエ山 岡山
やはずがせん 矢筈ケ山 鳥取 よこおせん 横尾山 島根
わかすぎせん 若杉山 鳥取


「山」は「やま」「サン」「ザン」「セン」と読みます。「サン」は漢音。「セン」は呉音です。どう違うのか判りませんが、少なくとも、山という字を「セン」と読んでいる人達か、山を「セン」と読みたい人達が、そのように名づけたと思われます。

可能性の強いのは、「弥山」が五ヶ所あります。これは、仏教の方の「須弥山」から来ていると思われます。仏教における聖地です。聖地から、「須」を外して、聖地として大切にしていたのかも知れません。
「山」の前にある文字の殆どが、訓よみで、所謂、なぜ重箱読みになっているのかが判りません。前の名前が、すべて仏教と関係があれば、仏教を信じている集団といえます。次のページに分布図を載せました。(この部分は、別のホームページに記載したものです)特徴は、センと呼ぶ山が、佐渡島と隠岐島にも見られます。この一族は、両方の島に上陸したようです。
次に、殆ど島根県と鳥取県です。後は、大まかに言って、日本海側です。朝鮮・中国から来たと考えていいかと思います。順序からいいますと、先ず、隠岐島に上陸、その後、島根県と鳥取県に住んだようですが、廣島・岡山・兵庫まで進出したようです。奈良にもあるのをどのように説明するかです。いつごろ、やってきたとか、なんと言う民族かは、是だけでは断定できませんが、大山の周りに、ある民族が住んでいたことは、確かです。ここを中心に広がっていったと云えるでしょう。ヒルゼンの周りには、気になる地名がいっぱいです。犬・蛇がつく地名。神がつく地名。田の字がつく地名。その地名一つを調べたからと言って、すべてが判るわけではありませんが、全部を線で結びますと、いろいろのことが浮びあがってきます。順次、取り上げてみます。


 十分お分かりになったでしょう。

 さて、蒜山です。「蒜」とはユリ科のニンニクなどの植物ですが、ヒルがビバリーヒルズの「Hill」な

ら蒜山は丘、岡山となり、隣の岡山県の延長となって面白いのだけれどなどとくだらない妄想をしていると、長大トンネルを抜けてあっという間に蒜山高原に入っていました。

 この蒜山どうしても見たいと思ったのは茅部(カヤベ)神社でした。

 HP「楽しい人生」氏もヒルゼンの周りには、気になる地名がいっぱいです」と書かれているのですが、

その一端を茅部神社が説明してくれるかも知れません。

 簡単に言えば、「茅部」とは「伽耶部」の意味だとの思いが走っていました。


352-3

社殿は落ち着いた造りでかなりの大社の風を感じます。

352-4

祭神 天照大神 御年神 他21


352-5まず、祭神は、天照、御年となっています。

しかし、境内摂社を見ると、足名鎚命、手名鎚

命とあり、荒神神社がスサノウとなっているのは許容したしても組合せがおかしいのです。


352-6 これは、本来、スサノウ、そのお妃のクシナダヒメの両親とされるアシナヅチ、テナヅチを祀っていた神社を、ア
マノコヤネこと阿蘇の草部吉見=海幸彦が乗っ取り、天照大御神をお飾りとして、海幸の子である御年神以下21神を合祀した表現は悪いのですが乗っ取り神社と見えてしまいます。

 ただ、神殿屋根には、五七桐が打たれており、本来は九州王朝系の神社だったのではないかと言う疑問も残ります。なぜならば、五七桐は高良玉垂命=開化天皇の神紋ですから。


352-7

百嶋由一郎最終神代系譜(一部)


アマノコヤネ=草部吉見

御年神=ハイキノカミ=孝安天皇(実は熊本県玉名市の疋野神社の主神)=景行天皇の父親

父は海幸彦、母は豊受大神=支那ツ姫…だから、祭神に倉稲魂命が置かれているのです。

 最後に茅部(伽耶部)の問題です。スサノウは新羅の王子様です。

そして、伽耶は最終的には新羅に呑み込まれます。従って、茅部神社にスサノウが祀られていた可能性が高いのです。簡単に言えば祭神入替なのです。

 しかし、この神社の鳥居の立派さには驚きました。

江戸時代に石工の頭領が日本最大の鳥居を造ったものですが、花崗岩の15メートル近い鳥居がこれほどの山中に造られたのです。


352-8

スポット061 念願叶った常陸国への神社調査 2016/11/2~11/20 

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スポット061 念願叶った常陸国への神社調査 2016/11/211/20      

20161121

太宰府地名研究会 古川 清久(百嶋神代史研究会準備会)


この十年ほど地名研究会のスケジュールに追われる毎日でした。

残りの人生を考えると長距離での神社調査に出る事ができずに非常に困っていたのですが、ようやく雑事から解放され東日本への神社調査ができるようになりました。

本来ならば1031日の昼ぐらいから出発する予定だったのですが、「人工林が果たす環境への問題」を強く意識する数名の集まりの都合から二日ほど出発を延期した後、ようやく112日昼から出発する事になりました(本来ならば、たっぷり3週間かけて高速を使わずに移動するつもりだったのです)。

まず、高速道路を利用しても東日本(中でも北関東)に進出するには最低でも二~三日を要します。

今回は東日本に踏み入った新潟(実際には上越市)から長野を経由し、群馬、栃木、茨城に入った事からさらに一日を加える事になりましたが、先方の都合もありやむなく半分は高速道路を利用せざるを得なくなりました。

この栃木、茨城(一部福島)さらには山梨(甲州、甲府、山梨、笛吹…、富士周辺)の神社調査リポート(勿論、途中の京都、福井、滋賀、兵庫でも初見の神社を数多く見ています)については、いずれ半年後に公開することになると思いますが、今回も、栃木県那須塩原市の那須神社に小さな摂社として高良神社が、同じく山梨県山梨市の大井俣窪八幡神社に非常に大きな高良神社や若宮神社が残されている事、山梨県河口湖村の御室浅間神社の神殿裏の境内摂社としてほとんど出くわすことのないウマシアシカビヒコチ(天御中主の配偶者)が祀られている事…など多くの興味深い話をお伝えできることになるでしょう。

いずれにせよ全行程3,700キロ18泊(内7泊は車中泊)19日の大調査旅行になりましたが、新潟県上越市から茨城県の常陸大宮市に移動し、さらには常陸大宮を拠点に78日、山梨県の甲州市を拠点に23日、山中湖村を拠点に12日の行程で80社(ほぼ全て初見)余りを見て回り、非常に良いフィールド・ワークが出来たと思っています。


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調査が終了し快晴の日の山中湖湖畔から眺める富士山


まずは、移動です。112日 大分県日田市天瀬町(発)山口県小郡ICから中国自動車道

113日 中国自動車道を兵庫県加西市龍野社ICで降り一般道へ。富山県砺波町付近で車中泊。以下、富山県北陸道朝日IC まで一般道で移動。親不知を抜けるために糸魚川ICまで北陸道を利用。

114日 上信越道 新潟県上越市中郷ICから関越道、北関東道、東北道利用から栃木県宇都宮上三川ICで一般道に降り、茨城県常陸大宮市まで一般道で移動。片道1,500キロを独行走破。

帰路は栃木県宇都宮上三川ICから山梨県甲州市勝沼ICまで全て高速道路利用、以後山梨県内。以降、九州をめざし、山中湖町から再び山梨県甲州市勝沼に戻り、長野県諏訪市まで一般道で移動、諏訪ICから中央道、北陸道で滋賀県米原市米原ICで降り、鳥取県まで一般道。その後、山陰の帰路の大半は高速料金2000円程度の利用で九州に無事に戻る事ができたのでした。

実質3週間近い調査旅行が無事に終わり、明日から16時間33番を舞いきる宮崎県椎葉村の栂尾神楽に行くのですが、ブログを本格的に書き始めるのはその後の事になるでしょう。

記憶が不鮮明になる上に、イメージも強く成ったり弱くなったりしますので、一気に書くとなると大変な作業になりそうです。

ともあれ、常陸の神社研究仲間からは“来年には青森に行こう”との話も出ており、勝沼の某寺院の住職も12月には九州に来られるそうであり、茨木、山梨に全国調査への足掛かりを得たことだけは間違いないようです。

いずれにせよ一生の中でも非常に濃厚な三週間が終わったのでした。

さて、戻ってくると栂尾神楽(宮崎県椎葉村1122233316時間神楽)の予定でしたが、未明、福島のいわき市などを中心とするM7.3/またもや地下10キロと発表された地震によって、参加予定の方達が急遽軒並みキャンセルとなり、結果、極少数での参加となりました。

まず、頭をよぎったのは“ヒラリーの反撃”“アメリカの内戦の一環”“ドル防衛”と言ったフレーズでしたが、それは良いとして、今回は某民放の女性アナウンサーが「縦揺れ横揺れ」の「縦揺れ」の前触れについてわざとらしくも口走っていたことから、震源が地下10キロは怪しいものの(後に30キロと修正された…こちらが擬装かも)、本物の地震の体裁(可能性)も一応はあるようです。

急いで地震波のデータを探しているところです。もし、地下30キロが本当となると、今回に関しては本物の地震で良いのかも知れません。

急いで茨城の仲間に照会し情報を収集していますが、気になるのは福島第二の2000本を超える使用済み核燃料プールです。

直ぐに冷却水の注入が止まったとの情報が流れましたが、心配なのはプール自体が大規模に破損し水が抜け容易に修復できない(従って水が溜められない)場合の危険性の問題です。

まあ、町興し、地域振興宜しく、地震の巣のような場所にこれほど大量の原発を導入した馬鹿議員と薄汚い官僚どものせいなのですが、こんな国は直ぐに捨てて逃げれば良いだけなのかも知れません。

一番重要な地震波の波形です。百嶋神社考古学研究会(仮称)の北関東在住メンバーや熊本のメンバーを通じて探してもらっていますが、今回は波形が全く公表されていないらしいという情報だけが飛び交っているのです。

してみると、地下10キロを30キロと直ちに訂正した事と併せ疑問は深まるばかりです。

重要なのは初期微動継続時間です。これが実質的にあったのか無かったのかです。

遠方の地震に関しては実感できないため何とも言えませんが、今年の熊本に関しては地元であるため、初期の前揺れなど全くなかった事を実感しており、全てが前触れなく直接揺れているため疑いを強めています。

それを、「それは直下だから無いのは当たり前だ」などと、直下に近い所に住んでいる某下級神職が強調していましたが、こちらは直線距離でも4050キロ離れた場所で何度も体感しているのであって、半端な知識で好い加減な事を叫んでいるのがどちらかは本人でも分かりそうなものです(勿論、当時の国学院程度では無理かもしれませんが)。

最低でも震源から50キロは離れた所にお住まいだった方は、緊急地震速報が出て何秒後に揺れが来たかを思い出して頂きたいと思います。

それこそが科学的思考というものなのです。恐らく速報の警報音が鳴った時には既に揺れていた事を実感しておられるのではないでしょうか。

それを、「それは直下だから無いのは当たり前だ」と予め決めて用意していたかのように直ぐに出されたネット情報(これ自体が非常に奇妙です)だけで自信を付けて吹聴する輩がいたことも驚きでした。

今回も知りたいのは事実です。むしろ、今回の福島が本物の地震である事の方が遥かに危険なのかも知れないのです。

参考のためにP波とS波のおさらいをしておきましょう。

回覧板だけを信じ込んで陰謀論で片づけるだけの気楽なお馬鹿さん達は相手にしていないのでどうでも良い事ですが、既に地震を巡る疑惑に関してはネット上に山ほどの情報が飛び交っています。

いずれ、列島でもトランプ現象のような事が起き、一般のマスコミが大恥をかく時が来るかもしれません。

覚醒する事無く日本が亡び乗っ取られる事も良いのかも知れません。どちらでも良い事です。

このように、国民も国土も国文化も国富も大切にしないような占領国家は滅びて内戦が始まった方が良いのです。

真面な職にも就けず、結婚も望めず奴隷のような毎日を送る若者は内乱、内戦、戦争でもあった方がチャンスが巡って来ると考えるのは自然な成り行きでしょう。


初期微動


1908サンフランシスコ大地震の際にドイツの地震計で観測された地震波の波形。一番左の赤線から一番左の緑線までの間が初期微動。

初期微動(しょきびどう、preliminary tremors)とは、地震における最初の小規模な地震動のこと。地震波Pによって引き起こされる揺れのことである。また、初期微動はP波が到達してからS波が到達するまでの間継続し、その後の地震動は主要動という。


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地震動は地震波により引き起こされ、地震波はPS表面波から構成されている。P波・S波・表面波の速度はそれぞれ異なっており、P波は57km/秒、S波は34km/秒である。そのため、観測地点から見ると、地震波はまずP波から到達し、ついでS波・表面波の順となる。地震動もそれぞれの地震波によって引き起こされるため、まずP波による揺れ、次いでS波による揺れが起きる。

P波は疎密波であり、その揺れはS波によるものより小さい。そのため、この揺れを初期微動と呼称する。P波は地震波(地震動)の周期が短いため、初期微動はカタカタという小刻みの揺れであり、人間の体感ではそれほど大きな揺れではない。また、建物などを大きく揺らす周期とも一致していないため、初期微動の段階では建物が壊れるようなことは少ない。

初期微動継続時間

初期微動継続時間duration of preliminary tremors)は、P波とS波の速度差に由来する。そのため、震源が遠いほど初期微動継続時間は長くなる。逆に震源地直近においては、ほとんど初期微動継続時間はなくなる。初期微動継続時間の秒数に8をかけると、ほぼ震源距離(kmになる(たとえば初期微動継続時間が20秒のとき、震源距離はおよそ160km)。このため、1つの地震計波形からその観測点と震源の距離を概算したり、少数の地震計波形から震源の位置を決定する際にも、初期微動継続時間は有用である。

防災の面からは、この初期微動の時間は、有効なものとされている。初期微動は、S波による地震動より相対的に小さいものであるために、この微動の時間においては避難も容易であり、地震警報システムエレベーターP波センサ付き地震時管制運転のイニシャルタイムとしても使われる。

ウィキペディア(Wikipedia)(20160425 17:20による


これとて、初期微動継続時間がゼロなら全く意味が無い訳で、別の結論を共有すべきなのです。

353 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑮ 鳥取県妻木晩田遺跡の陰の長田神社

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353 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑮ 鳥取県妻木晩田遺跡の陰の長田神社

20160516

                    太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


蒜山高原に入って以降も、鳥取県、島根県の初見の神社を廻っているのですが、特徴的で特筆するような印象に残る神社に出会いません。

そこで、久々に天真名井、妻木晩田(ムキバンダ)遺跡とどう考えても古代の重要ポイントとしか思えない領域の神社を数社廻る事にしました。

青谷上寺地(アオヤカミジチ)遺跡、妻木晩田(ムキバンダ)遺跡と言えば、考古学ファンの中では知

らぬ人のない重要かつ有名な遺跡ですが、その妻木晩田遺跡の裏手の奥まった集落に長田神社を見掛け、古代から住み着いている人々ではないかとの思いから、早速、この神社に参拝することにしました。

勿論、妻木晩田遺跡から天真名井に掛けて最も力のありそうな神社は、上、下津守神社なのですが、このような地域の中心的な神社は、概して後世の影響が覆い被さっており、原型は周辺の古社を探る方が早い場合があるのです(勿論、外れも…)。


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淀江廃寺でも知られるこの一帯は、大山の地下伏流水が滔々と吹き出す天真名井の恩恵を受け続けた古

代の穀倉であることは言うまでもない事です。

 長田神社はその恩恵を受けない半ば迫害を受けた先住者の集落ではないかと考えたからですが、まずはご覧いただきましょう。


353-2

353-4


 一般的に、長田地名、長田神社は古代史探訪では良く見掛けることから、「長田」とはどのような意味

かを気にはしていました。

 神戸市にも鳥取県の中心部にも長田神社がありますし、その多くが大国主命の長男とされる(百嶋神社考古学では異なりますが…)事代主命を祀る物とするのが多いことから、その系統で良いのでしょうが、まず、その延長上で考える必要があるでしょう。


事代主命 ことしろぬしのみこと

別名

八重言代主神:やえことしろぬしのかみ

都味歯(積羽)八重事代主神:つみはやえことしろぬしのかみ

天之八重言代主神:あめのやえことしろぬしのかみ

天之事代主神:あめのことしろぬしのかみ

於虚事代:そらにことしろ

玉籤入彦厳之事代神:たまくしいりひこいつのことしろぬしのかみ

辞代主:ことしろぬし……

『古事記』に、大国主命と神屋楯比売命との婚姻によって生れた神。

『先代旧事本紀』では、大己貴神と高津姫神との婚姻によって生れた神。

出雲国譲りの際に、事代主命は、鳥遊・取魚をしに出雲国美保ヶ崎へ行っていたため、 天鳥船神によって

呼びもどされ、建御雷神に問われ、 「この国は天津神のお子様に差し上げましょう」と言って、 すぐに乗ってきた船を踏み傾け、天の逆手を打って船を覆して青柴垣に変え、 その中に隠れた。

出雲国譲りの際に、大国主神に代わって国譲りの言葉を述べたため、託宣の神。

出雲国譲りの際に、大国主神に代わって国譲りの言葉を述べたため、皇室の守護神。

神功皇后の三韓征伐で、この神の神徳があった。 『出雲國造神賀詞』では宇奈提に祀り、皇孫命の近き守

り神とされた。

『古語拾遺』によると、神武天皇が即位の時、天照大御神と高皇産霊尊の勅に従って、 神籬を建てて祀っ

た八神の中に一柱。後に宮中神祇官の八神殿において御巫に齋き祀られている。

『延喜式神名帳』宮中神の条に、「御巫祭神八座」とあって、 「神産日神・高御産日神・玉積産日神・

生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神」の神名を掲げている。

ただし一説に、この事代主神は出雲とは無関係で、純粋な言葉の神とする。

出雲国譲りの際に、釣りをしていた神として、恵比須神と同神と考えられている。

三島神社に祀られる伊豆諸島の造立神・三島大神は、事代主神であるとする説が広く信じられている。

敬愛するHP「玄松子」より

 さて、長田神社です。


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長田神社 二の鳥居には貴船社と…


 森の中の古社ですが、それなりに立派な神社でした。


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参拝殿、神殿


 今回、この長田神社を見て、多少、思い当たる事があったのですが、それは貴船神社の問題です。

貴船は熊本県の菊池市の中心部にも例外的に一社あるのですが、大半は筑豊地方を中心に、筑前、筑後、

豊前、豊後に展開しており、筑豊だけでも70社はあるとされています。

 この内40社近くを廻ったのですが、祭神にばらつきが多く、この神が一体誰なのか未だに特定できないでいるところです。

 
353-6ただ、この古い方の長田神社の二の鳥居が貴船社だったことは、今後の参考になった所です。

 考えている事はありますが、まだ、公開する段階ではないでしょう。このように結論に至らないまでも多くの神社を廻り、多くのファクターを抑える事によって、当たり外れの外れの部分を減らすことが出来るのです。最後に、百嶋神社考古学では「事代主」は列島に三千年前から入っていた古々代ヘブライ系の人々で、恵比須大黒の恵比須に象徴される人々であるとしています。  

 左が古々代ヘブライ=恵比須の神紋、右は高格式新ヘブライの一つのシンボルで神紋の一例。


353-7

百嶋最終神代系譜(一部)


 見難いかも知れませんが、ここでは大国主と事代主が親子ではない事を確認して下さい。

 ただ、事代主も、天御中主、大幡主、大国主…と「主」が付くヘブライ系の人々であったことは「主」という尊称で判別でき、恐らく大幡主、大国主の下で活動していた下級の臣下だったものと考えています。

 だからこそ国譲りに際しては、たちどころにイエスとし、自己保身を図ることができたのでした。

 会社が売却されても、存続できれば、つまり、食えさえすれば従業員の大半は従いますね!

 百嶋由一郎神代系譜を詳しく読み解きたい方は、09062983254までご連絡ください。

スポット062 深夜にアクセスしてこられる多くのフォロアーと新たな神社研究者のblogについて 

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スポット062 深夜にアクセスしてこられる多くのフォロアーと新たな神社研究者のblogについて      

20161121


「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」太宰府地名研究会 古川 清久(百嶋神代史研究会準備会)


茨城県で百嶋神社考古学の立場から神社研究を行っておられる方のご自宅の離れを拠点に、念願叶った北関東の神社調査を行っていた117日、神社専門の「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」ではなく、「ひぼろぎ逍遥」のアクセス数が日量1,650件ほどの数字を打ち出していました。

7日実績を、翌8日の朝8時に管理者向けに公表するものですが、日本最大のアメーバ―・ブログでも日量1,650件はかなりの上位になることからジャンル別ですが35位になっていました。

以前にも、1,500件と2,000件を数回経験していますが、最近ではかなりの大型アクセスになりそうです。

その数日後も連携blogの「常陸の国探検隊」へのアクセス数が日量2,000件を越えたと言っておられましたので相互に波及し合い高まり、共振する事が現実に起こり始めたように思います。

事実、「ひぼろぎ逍遥」が1,600超えとなった数日後に関連記事を書いておられた「スピリチュアル・ヒーラー宮古の縁側日記」が600件超えになったと言われていましたので、1600件からの一部がそちらに流れたのだと考えられそうです。

さて、実は先発blogの「ひぼろぎ逍遥」は記事の絶対量も多い上に、古代史、地名、民俗学と広いジャンルを取り上げているのですが、ここ半年ほどで、神社を対象とする後発の「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」の方が月間アクセスで1,0002,000件程度上回り始めました。

今のところ、二本のblogによるアクセスは年間30万件から35万件程度ですが、来年は確実に35万件から40万件に上げたいと思っています(日量1,1001,200件)。

それだけ、神社、神様への関心が高まって来ているような印象を持っているところです。

この「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」はアメーバ―・ブログではなく、「さくら」というブログで作成しています。

このため、アメブロでは瞬間値が出ないものの、「さくら」では朝6時時点でのアクセス数が分かる仕組みになっています。

十日ほど前のことでしたが、驚くことに朝6時の時点で、50人ほどにより既に300件のアクセスをされていたのでした。

インターネットではチラッと見ただけのとか、仕事の合間にちょっと開いてみたとか、画像だけを眺めていた…と言うものではない事はどなたも理解できると思います。

要するに、夜中の12時から朝方の6時という朝まだきに、一人、平均6本ものブログを読んでおられる方が何十人もおられる事は間違いない訳で、ネット上の閲覧者など取るに足りないものと言った評価は全くできない事はお分かり頂けるのではないでしょうか?

朝も明けない暗く寒い中で、人知れずネット上に釘付けになっている真剣なフォロアーと、たった月に一度程度の月例会(十年やったとしても百回程度)にも来たり来なかったりで、右から聴いて左に抜けて行くような、また、半分は居眠りして、何を聴いたのかも覚えておらず、配布された資料も忘れて行くような方々を相手に行なう研究会が、仮に十年継続し存続できたとしても何の痕跡も残すことなく消え失せ、忘れ去られて行く事だけは確実なのです。

そのような研究会から最低でも自分の足で現地を訪れ自分の目で確かめてみようとか、自分で調べて研究して見ようとか、記録を将来に残そうといった気持ちを持った意識的な研究者による集合体型の研究団体に切り替えていくと言う重要な任務を強く意識しているところです。

右から聴いて左に抜けて行く人達だけの会を何年維持しようが、何の意味もない親睦団体、ぬるま湯的な趣味の会に陥り、いつしか行政主導の町興し、村興しの協力団体に成り下がり、挙句の果てはユネスコなどと言う不良外人によるイカサマ団体の世界遺産登録に狂奔するような状況に足を踏み入れることになりかねないことは言わずもがなといったところでしょう。

そして、その一部が(ましてや嘘つき神職となると値打ちは地に落ちる)、さもしくも指導者、研究者面して思いっきり行政に尾を振り、また、自分を売り込み、他愛もない腰の引けた行政権力へのリップ・サービスを行う行政の芸人にしかならない事は明らかなのです。

凡そ、古代の真実を追求しようと九州王朝論に踏みとどまったはずの人々が、行政に尾を振るような馬鹿げた真似をすれば、どのように侮られるかは明らかで、本来、学会通説と連動する学芸員、教育委員会、行政一般からは独立した研究体制を維持しなければならないはずだったのです。

古田武彦の一生を掛けた苦闘を本当の意味で理解していない人は、九州王朝論を一つのファッションとしか理解していないようなのです。

ましてや、九州王朝論を標榜する研究団体が教育委員会や学芸員から御高説を賜わるようになれば、そのような団体は即刻潰すべきと言うべきでしょう。

所詮、公安警察や神社の神職と言った権力に塗れたものが主導する九州王朝論研究など笑い話でしかないのかも知れません。

してみると、12時から朝6時までにアクセスしてくる熱心なフォロアーこそ価値があり(彼らは月に一度ではなく毎日入れ替わりやってくる)、右から聴いて左に抜ける人々には値打ちが無い事だけは間違いないのですが、彼らの中からブログで発信して来る新たな研究者が現れ神社研究のブロガーとしてリンクして頂きたいと思うものです。

そうした矢先、また、新たな神社研究者が戦列に加わる事になりました。まさしく、研究者による研究会が一層の現実味を帯びてきたのです。

それは全く偶然の出会いから始まりました。

この研修所がある同じ別荘地内に個人で別荘をお持ちの方が別荘の管理組合(自治会)の中枢のIさんという古代史の研究者に対して、当方の「ひぼろぎ逍遥」というblogの話をされ連絡を取りたいと言われた事が切っ掛けでした。

お会いしたのはI氏から話を聴いて二ケ月後の事でしたが、この方は科学ばたけの方で、四十年ほど前から久留米周辺の神社を丹念に歩き調べておられたのでした。

お話をお聴きすると当方のblogも全てワード化し、全てプリント・アウトされており、通説では理解できない謎の部分がこの百嶋研究によって氷解したと言われたのでした。

内容については、年明けにもHPblogとして登場すると思いますので、誤った説明を避け概略だけに留めますが、早くも色々なことが見えてきたのでした。

有馬藩の久留米への入府直後に作成された「久留米藩社方開基」という古文書の研究から、筑後地方の多くの神社の解析、解明作業が行われており、当方としても今後最大の解読テーマと考えていた田主丸の俗称“三夜さま”が何者であり、その後どのような展開をした人々だったのか?のアウトラインが見えてきたのでした。

「久留米市史」では当たり障りのない範囲しか掲載されていないと話されていましたし、「久留米藩社方開基」は「福岡県神社誌」より遥かに詳しい内容であるとの事でしたが、事実その通りだと思っています。


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どうやら、百嶋神社考古学(仮称)or百嶋神代史研究会(仮称)に新たな研究者として加わっていただけそうです。

まず、この仮にMさんとしておきますが、Mさんのお話では田主丸の“三夜さま”には耳納連山の麓の久留米市田主丸町二田に元宮があり、同じく月読命が祀られている事、これが街中の“三夜さま”の元宮に間違いない事、さらに故)百嶋由一郎氏からは、杷木町の大山祗神社と併せ、“どうも王昭君の一族(具体的にはトルコ系匈奴)が列島に大量に入っているようだが、その事は全く隠されている。”

“だだ、杷木町の教育委員会からはオシロイ祭を行う神社の神様は女性ですとのお答えを貰っています。オシロイとなると王昭君以外には考えようがない”と話されていました。

一方、「ひぼろぎ逍遥」295 北北東に進路を取れ! ⑮ 柏崎刈屋に筑豊から展開した二田物部を確認した において取り上げた、物部氏の本体とも言うべき二田物部の筑後に於ける本拠地が、久留米市田主丸町石垣(恐らくシルクロードのイシクルガンの置換え)の二田であり、筑豊に展開した物部25部族の最大勢力だったと考えられる二田物部が福岡県鞍手郡小竹町の新多(ニイタ)であり、その奉斎する神が田主丸の“三夜さま”=月読命=大山祗命(トルコ系匈奴=旧熊襲=狗奴国)だった事までが見えてきたのでした。

後には、新潟県柏崎刈羽原発に近い西山町の二田物部神社を経由し北関東に進出した東国武士団の本体こそ馬を使い騎馬戦を得意とするトルコ系匈奴だった事が分かってきたのであり、その最終的な勝利者こそが武家政権の最終勝利者である徳川氏であったこと、そして、その起源が、南九州の西都原周辺から鹿児島県に全域に掛けて展開していた大山祗命を奉斎する氏族(民族)だった事が分かってきたのでした。

いずれにせよ、右から聴いて左に抜けて行く方々と、行政に尾を振るさもしい肖り神官などと全く異なる一騎当千の研究者がまた新たに陣営に加わる事になりそうです。

以下はMさんの資料からペイントにより切出したもの。



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実はこの筑後の二田物部こそが藤原氏を倒し武士政権を打ち立てた最大の中心勢力だったのです。


以下再掲載


295 北北東に進路を取れ! ⑮ 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した

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新潟の彌彦神社へと快調に走っている途中、有名な東京電力(株) 柏崎刈羽原発の辺りを通過していると、二田という地名と物部神社という表示がカーナビに飛び込んできました。

休憩も必要ですからこれ幸いでもあり、まずは見聞とばかりにハンドルを右に切りました。

場所はこれまた有名な出雲崎町の手前、柏崎刈羽原発の北東五キロほどの旧西山町です。


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物部神社正面


物部神社 カーナビ検索 新潟県柏崎市西山町二田607-2


これほどはっきりした幟を揚げた物部神社も珍しいと思いますが、この「二田」が筑豊の物部25部族(「先代旧事本記」)の移動先の一つである福岡県鞍手郡小竹町新多=二田(ニイタ)であることは疑いようがありません。



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遠来の地であり軽々には語れないのは重々に分かっていますので、ここでは、筑後物部の筑豊への、さらには日本海側への展開の一例を発見したとだけとして、これ以上の深入りを止めておきますが、一目、社殿の造りは筑後物部の鞘殿の様式と見たいところです。

 ただ、雪深い土地柄ゆえの鞘殿かも知れないため単純な当て嵌めも危険かもしれません。

当然、ガラスの温室風の参拝殿も寒さ対策としての土地柄のもたらすものの可能性も考えておくべきでしょう。

ここで面白いと思ったものに、社殿に付された神紋がありました。これまた、一目、徳川葵の原型とも言うべきものに見えるのですが、注意すべきは、この神紋が中世の豪族の物であるのか、古代に入った物部氏の一派が使っていた物かが分からないのが残念な限りです。

ここら辺りになると地域の文化、歴史への体系だった知識の蓄積がなければ判断できない領域になるのです。

いずれにせよ、物部氏が後の武士階級に成長した可能性を示すものであり、その裏付けを発見したと言いたいところですが、当面は保留を余儀なくされそうです。

地元の郷土史家などとの接触も必要ですが、ただの物見遊山の旅人の質問においそれと耳を貸す識者もいないでしょう。

しかし、物部氏から「モノノフ」と言う言葉が生まれ武士が生まれたとするのは痛快な仮説ではあります。


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参拝殿から神殿への鞘殿?(左) 古風な尻合わせ三つ葵紋は誰の物か?(右)


立ち葵から三つ葉葵さらに徳川葵への変化の一つを表すものであれば興味深いものです。

尻合わせ三つ葵紋は徳川氏=松平氏がその初期に使っていた形跡があるようで、面白くなって来ました。

354 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑯ 広島県安芸太田町八幡原の謎の古社

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354 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑯ 広島県安芸太田町八幡原の謎の古社

20160517

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


恐らくこのくらいの地図を出してもスキー・ファンでもなければ見当が付かないような場所です。

広島県(安芸太田町)、島根(浜田市)の県境に八幡原と呼ばれる山上の巨大平野があります。


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今回の調査旅行の帰路、車中泊を行った山陰の浜田市(金城町)から益田市に抜けようと考えたのです

が、普通に移動するだけを考えれば、面倒でも一旦は海岸部に出て西に向かうのが正しい選択になるでしょう。

しかし、それでは面白くもない上に調査にもならないことから、ひと山越えて広島県に戻り、匹見から美都温泉で朝風呂にでも入り、益田に抜ける事を考えました。

 この八幡原は未踏の地であり、実際、わくわくしながら入ったのですが、やはり魅力的な空間が広がっ

ていたのでした。

まず、いつも書いている事ですが、山中で大きな平野に遭遇することが多々あります。

 しかし、そこには小さな段差の棚田などもなく、一面の水田が広がっているのです。

 このような現象に何度か遭遇するうちに、ここには大きな湖があり、それが堆積(水の中ですから水平堆積)し、結果、大きな平野が出来たか、湖であったうちに人工的にか自然災害によってかとにかく水が抜かれ、水平な湖の底が現れこれ幸いと人が進出したと考えなければいけないと思う様になりました。

 まず、八幡原にはいった最初の印象はこのことでした。

 すると、おあつらえ向きに掲示板があり、そこにも古代八幡湖の記事が書かれていたのです。


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さっそく、大歳神社を見に行きました。

 もう、丹念な読者はこの神様がどなたであるかは見当が付かれている事と思います。

 勿論、阿蘇高森の草部吉見神社のヒコヤイミミであり、藤原の先祖神としての春日大神、武甕槌神(タ

ケズカズチノミコト)その人なのです。


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掲示板の「八幡高原文化の道」にあるように、木東、三島、大地主、樽床神社を合祀しているとはされ

てはいるのですが、大歳神社の名のとおりヒコヤイミミが祀られているのではなく、三島、大地主辺りが本来の神様であった事が良く分かります。

 それは、神紋を見ただけでこの神社の古層、基層が見えた思いがしたのでした。

 この神紋は八坂神社の宮司家などで使用される特殊なオモダカ紋であり、この神紋を使うのは、スサノウ系の一族だろうと思います。

しかも、六角形の亀甲の中にオモダカが置かれている事から、博多の櫛田神社の大幡主の配下として活動していたスサノウという意味が込められているのです。

大国主命も亀甲枠に入っていますが、尊称としての「主」が付されている訳は、これも天御中主、大幡主の流れの中に大山祇と埴安姫(大幡主の妹)の間に産まれたのが大国主だったからなのです。 


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広島県は大歳神社が非常に多いエリアです。しかし、その底流には必ず本来の神様がおられるのです。

そう考えて摂社の配神や縁起などをお読みいただきたいと思います。この八幡原は民俗学的にも、神社

研究に於いても非常に面白い所のようです。

52526日に掛けて将棋の名人戦が広島県福山市で行われますので、観戦を兼ねて再度足を延ばそう

と考えています。この八幡原では天候も悪かったことから足早に数社見せて頂き、何故か朝六時から営業している益田市の山奥の美都温泉に向かい休養し九州に帰る事にしたのでした。


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355 君が代の源流とされる神社 “薩摩川内市の日の丸神社”

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355 君が代の源流とされる神社 “薩摩川内市の日の丸神社”

20160517

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 鹿児島県の南薩、北薩も温泉の宝庫ですが、以前から好んで足を向けていたのが市比野温泉、入来温泉、

藺牟田温泉、諏訪温泉…といった「地味な」というのは穏やかな表現で、今やスクラップ化したと言う印

象を受ける一帯です。この一角にあるのが大宮神社です。


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まず、この「君が代」の話については連携ブログのT先生が「とうすいネンゴロ庵」で五回に分けて詳

細に書かれていますので、ここではその件に触れるのをやめて、この神社のそれ以外の事を考えて見ましょう。



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祭神は大貴己命とされています。まず、かなりおかしいという印象と、しかし、ない訳でもないという思いが走りました。

 この神社を勧請したのが渋谷氏(相模国桓武平氏の一流…と)とされ、元は近江坂本の日吉(ヒエ)神

社であったとすると祭神は大山咋(オオヤマクイ)=日吉、日枝、佐田大神、松尾神社…以外にはなく、大国主、大物主とするのは、明治期に跳梁跋扈した島津氏による神社の祭神入れ替えの結果が反映されたものではないかと思います。


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同社縁起


 これだから鹿児島県、宮崎県の神社の縁起は、そのまま、真には受け入れられないのです。



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大山咋神は、阿蘇草部吉見=ヒコヤイミミと宗像大社の市杵島姫との間に産まれた神様です。

 従って、渋谷氏による日吉の勧請が事実ならば、祭神は大山咋にしかなりません。

 このため、明治期に祭神が替えられたとしても、普通は皇国史観に整合する天照系とか神武天皇の母神

の豊玉姫とか玉依姫といった神様になりそうなのですが、天照大御神に追い出された、スサノウとか国譲りを強要されたとする大国主命などを持ち込むはずはないのですが、そうはなっていないところから、実は、渋谷氏が日吉神社を持ち込む前の本来の神々に戻された可能性も見て取れるのです。

 この神社の舞にもスサノウが登場します。大物主もスサノウとか大国主とか不明な点の多い物部の神で

すが、これら逆賊の神が縁起に書かれていることから、むしろ、本当の神様が明治期に蘇ったものの様に見えるのです。

 今回は、鹿児島市で12日に始まった第74期名人戦七番勝負(羽生善治名人VS佐藤天彦八段)の第3局(会場:城山観光ホテル)の大盤解説会に参加するために立ち寄ったもの(三度目ですか)です。

 他にも数社初見の神社を見せて頂きました。

現在のテーマは、北部九州に居た高木大神系氏族、新たな侵入者としての天孫族、卑弥呼の一族の領域を避け、熊本以南に展開した氏族こそ大山祇神、大国主命(大山祇と埴安姫との子)であり、その実体がトルコ系匈奴だったのではないかという仮説を検証する事なのです。

大国主命を元々出雲の国の神様と考えるのはとんでもない誤りです。

だからこそ、この日の丸の大宮神社にも、宮崎県(日向)の一の宮としての都濃神社にも主祭神としての大国主命が祀られているのです。


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この境内にある摂社梶山神社の神が渋谷氏により勧請された日吉神社=大山咋(オオヤマクイ)神=佐田大神ならうまく話が繋がるのですが、いずれその事も分かる時が来るでしょう。

 実は佐田大神は「鍛冶屋」さんでもあったからです。

最後になりますが、この神社に着く前に撮った写真をご覧に入れたいと思います。これは日の丸集落が

ある入来町のとなりの市比野町にある牟礼(ムレ)という印象的な地名と地形を表したものですが、付近にも小牟礼とか湯之牟礼山が、また蒲生町の竹牟礼あるなど多くの牟礼地名が拾えるのです。


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そもそも、久留米の高良大社が鎮座する高良山も古くは高牟礼と呼ばれ、高樹神社があったこという神社伝承があり、今も高良大社の直下に高樹神社が残されているのです。

 恐らく、この地名はモンゴル高原一帯から騎馬を操る民族によって列島に持ち込まれたもので、集落や

砦を意味するものなのです。参考に「地名の目次」というサイトからご紹介します。


■ 牟礼(むれ): 東京都三鷹市牟礼 → 詳細

■ 牟礼(むれ): 長野県上水内郡飯綱町牟礼。「むれい」とも称し、む連井・室飯・む礼いなどとも書かれた。地名は、群の意か、穴居生活の室居の意か。【角川日本地名大辞典】

・ 「もり(盛)」の転で、「高くなったところ」の意味か。【市町村名語源辞典 溝手理太郎 東京堂出版】

・ 「むれ」「むろ」「もろ」は「山」の古語という。一説に、「むれ」「むろ」「もろ」は「集落」を示すという。【JR・第三セクター 全駅ルーツ事典 村石利夫 東京堂出版】

■ 牟礼(むれ): 兵庫県赤穂市有年牟礼。地名は群れ・牟羅に通じ、また山・高地を指す。【角川日本地名大辞典】

■ 牟礼(むれ): 山口県防府市牟礼。地名の由来は、牟々礼が郷名2字の制限により牟礼となったといわれ、あるいは山を意味する韓語ムレによるともいう。また、俊乗房重源の名付けにより、釈迦牟尼仏を礼拝することで牟礼となったとも伝える。【角川日本地名大辞典】

・ 牟礼郷: 山口県防府市。奈良時代から平安時代にかけて、周防国佐波郡にみられた郷名。天平10年正税帳に「周防国佐波郡人牟々礼君大町」とあり、君称は独立性の強い地方首長に多く、土地の牟々礼を姓としたと考えられている。郷名二字の制により牟々礼が牟礼となった。牟礼里・枳部(きべ)里などの地名より条里制がしかれていたと考えられる。枳(木)部は紀氏の部民の居地といわれる。【角川日本地名大辞典】

■ 牟礼(むれ): 香川県高松市牟礼町牟礼。武礼とも書いた。 地名の由来は、群の意で人家の群れていることから転じたものという。【角川日本地名大辞典】

・ 「むら(村)」の転か。あるいは、「もり(森)」の転で、「高くなった所」の意味か。【市町村名語源辞典 溝手理太郎 東京堂出版】

スポット063 アメリカの一極支配が終わった “米国大統領選挙に寄せて”  

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スポット063 アメリカの一極支配が終わった “米国大統領選挙に寄せて”     

20161124

太宰府地名研究会 古川 清久(百嶋神代史研究会準備会)


米国の大統領選挙は118日昼過ぎには大方結果が分かるであろうと言われていました。

この頃、3週間を費やし、北関東、山梨の神社の調査に入っており、当時は栃木県大子町辺りの神社を見て回っていたのですが、休憩も必要なことから車を止め、CNNと組んだNHKも含め選挙報道に噛り付いていました。

どうせ、最期は、また不正をやってひっくり返すのだろうからとは思っていたのですが、いくら不正調査、不正報道の上に選挙不正を積み上げても、アメリカのプワー・ホワイトの怒りはおさまらなかったのでしょう。

個人的には日本の国内の市町村レベルから国政まで一度も投票した事などないのですが(選挙で投票に行くほど政治意識は低くない=選挙で変えられる程度の変化では日本を良くすることなど全くできないし、当然にも日本国内でも不正報道、不正選挙は横行していると理解してきたからですが…)、今回は“もしかしたらトランプが勝つかも知れない”=という大規模な卓袱台返しの可能性も無い訳ではなく、全ての既存メディア、評論家連中が大恥をかく可能性があることから惹き付けられていたのでした。

ところが、午後二時半を回っても一向に決着が着かないどころか、普通なら三大ネット・ワークが争って当確発表を行なおうとするにも拘らず、ペンシルバニアを始めとして残り数州に於ける結果発表がストップしてしまったのでした。

この数時間から半日余り、既に勝敗は明らかだったはすなのですが、まだ、何らかのウルトラ不正の方法はあるだろうし、別の方法は取れないかとの動きから、しばらくは様子を見ようとの模様眺めと日和見が走ったものと考えられそうです。

直ちに2000年のフロリダ州ゴアVSブッシュ選挙の事が頭をよぎりましたが、どんなに不正選挙を仕組んだとしても、それなりの監視の目は双方にある訳で(両方やっているのだから手口は互いに知り尽くしている)、どうやっても結果は覆せないほどにまでトランプ候補の集票力が勝っていた(=ヒラリーという手駒が悪すぎた)ということだったのです。

2000117日に行われたアメリカ合衆国大統領選挙。民主党のビル・クリントン大統領の2期の任期満了後のアメリカ合衆国大統領を選ぶ選挙となり、共和党のジョージ・W・ブッシュが、民主党の現職副大統領アル・ゴアを破って当選した。

ウィキペディア(2016112520:16による


普段なら無視するはずの米国の大統領選挙=選挙報道(所詮出来レース)でしたが、今回は、全ての米国の大手マスコミと日本のエピゴーネンどもがトランプを陰に陽に攻撃していた事から、逆に注目しなければならないと思っていたのでした(皆さんも嘘つきマスコミにはいい加減うんざりされている事でしょう)。

まず、現地に張り付いていた木村太郎はトランプの圧倒的優勢を感じ取っていたようで、日本の大手メディアとしては唯一一般向けの報道として僅かながらも真実を伝えていました(もちろん実質引退しフリーになったからですが、恐らく在職中なら口が裂けて言わなかった事でしょう)。外には藤井厳喜も…。

そして、敬愛する副島隆彦氏(「属国・日本論」「仕組まれた昭和史」外多数)は実質半年前からトランプ勝利をユーチューブなどで予測していたのでした。


◆副島隆彦『トランプ大統領とアメリカの真実』を読み解く

2016-07-11 20:00:00 テーマ: ◆海外事情

◆副島隆彦『トランプ大統領とアメリカの真実』を読み解く 

※要旨 ・「次のアメリカ大統領はトランプで決まりだ」と私はこの2016年5月22日に決めた。

・トランプがキッシンジャー宅を訪問したことの重大さ。

・トランプが次の大統領に決まった。

・トランプの娘イヴァンカと結婚しているのが、ジャレット・クシュナーである。彼の父親が、ニューヨークのユダヤ人社会の元締めのチャールズ・クシュナーである。

・ジャレット・クシュナーがトランプの付き添いとしてキッシンジャーを訪ねている。この事実が重要だ。それでわたし、副島隆彦が決断した。「次はトランプだ」と。

・キッシンジャーは今も超大物である。トランプが勝ちそうだ、と急激に変化したのは、やはりトランプが、キッシンジャーに自ら出向いて頭を下げて会いに行ったからだ。こういう政治家の行動は、その前に十分な根回しと合意がなければできない。

・キッシンジャーは、今もなお現役の人間なのである。現実の世界政治は今もキッシンジャーの裏側での根回しで動いている。

・つまり、ドナルド・トランプを次の大統領にするということで、キッシンジャーとロックフェラーが決断したということだ。

・トランプは「落ちこぼれの真実」を知っている。

・トランプの特徴は、本音でやる演説だ。「これぞアメリカの下層と中間層の白人の本音だ」という内容を、ズバズバと話す。討論会や演説会で大胆に、物怖じしないことである。徹底的に場慣れしている。

・彼は何でもすべて演技でやっている。本音の本音が何かは彼にもわからない。

・彼の基本のビジネスは不動産業だ。法人名義の商業用不動産をいっぱい持っている。

・トランプはMBAを出たから経営者になれるとか、経営の才能が身につく、ということはない。

絶対にない。企業経営(金儲け)の才能は体を張って現場で地べたを這って身につけるものだ。

・トランプは、これまでの政治家たちとは違う。アメリカの本当の裏側の世界を全部知っている。

気合と根性で這い上がった暴力団体質そのものの男だ。

・お金はもらったほうが子分、あげたほうが親分である。これは人間世界を貫く原理である。

・トランプは金を稼ぐ世界でずっと生きてきた人間だから、お金というもののありがたみを死ぬほど知っている。

★副島隆彦『トランプ大統領とアメリカの真実』より転載


副島隆彦氏は1953年福岡市生まれの国際政治ジャーナリストですが、以前から彼の著書を含めて強い関心を寄せていました。

彼が今回の大統領選挙に於いてどれほど透徹した分析をしていたかは、以下のユーチューブ・データの一つでも見て頂ければたちどころに分かるはずで、実質的に彼以上に的確に分析できていた人を知りません。

しかし、日本の大手も含めて既存の主要メディアが嘘報道をしている事は識者の中では半ば常識であり、本当はトランプが圧倒的に優勢なのだが、絶えずヒラリーが幾分優勢といった報道を仕組んでいただけの事で、この点に関しては多くのインテリジェンスはかなり気付いていた(ということはデマが酷すぎた)という事だったのです。

いみじくも、元駐モルドバ大使の馬渕睦夫氏はユーチューブで的確に分析され、既存のメディアが最大の敗者であると語っています。


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嘘つきマスコミも、少しは本当の事を言わなければ、結局、いつかは大衆から全く相手にされなくなるという危機感は持っていたはずですが、既存の権力の広報宣伝でしかなくなっていることから、部分的には個人的なコメントとして断って真実の一端は伝えられていました。

その一つが、大手三大ネット・ワークの選挙分析、支持率集計ですが、普通に伝えられる世論調査による支持率は僅かにヒラリーが上回り、それが広がったり狭まったりするとして上手に世論誘導、世論操作を仕組んでいたようです。

ところが、ネット上での支持率ではトランプ支持が8割、ヒラリー支持は1割台でしかなく、演説会場の動員力においても、ヒラリーの方は数百人程度でガラガラなのに対して、トランプ陣営では万単位の参加者が溢れかえっていたと言われていたのです。

しかし、そのことを十分に知っていたにも関わらず、大手マスコミはそれらを一切報道しないという一点で共闘していたのであり、そう思っている内に今回も世論操作ができるものと錯覚さえ起こしていたように思えるのでした。

これらの話は神社調査の傍らでついでにやっている程度不正確な話ではなく、ネット上には多くの情報が飛び交っていますので、ご自分の判断で正しい情報を掴んで頂きたいと思うものです。

ただ一点だけ、「ヒラリーのメール問題」だけは不思議とほとんど理解されていない向きがありますのでコメントを加えておきますが、“たかだか私用のメールでやり取りした程度大したことではない”と思われている向きがあるようです。

この背後にはとんでもない話があるのであって、2011年のリビアの内戦(○○革命なるCIA工作)に絡んでカダフィを追い落とし殺害した(完全な内政干渉)などの直接的指示を国務長の彼女が公のメールでやれるはずもなく、大使館員を見殺しにし(裁判中だそうですが)、143トンもの金塊、銀塊がどこに消えたのか(その一部がゲリラ組織に渡された)など、それがウィキリークスにすっぱ抜かれ、ヒラリーはトランプから逆に脅しを掛けられていたのでした。

これ以上は長くなりますので、詳しくはご自分でお調べ下さい。

副島氏の話に戻しますが、彼は既存の権力との癒着が全くなく、既存のメディアに尾を振るようなさもしい人間ではないからこそ、本当の分析を行なえ公表する事が出来たのでした。どこかの嘘つき下級神官も少しは爪の垢でも煎じて飲んで頂きたいものです。敬愛する副島隆彦氏のユーチューブ・データは以下の通りです。


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さて、トランプの勝利が確定した数日後から、早くも「TPP破棄」、「国連脱退」、「CO2温暖化論はデマ」、「9.11=ブッシュによるやらせによるイラク戦争突入」…といった真実への回帰の動きが始まっています。

個人的にはCO2温暖化論の帰趨が最も面白く大喜びで「やった!」と叫んだほどでした。

この大嘘が、原子力産業が生き残るために国家ぐるみで流されたデマである事は、ホッケースティック事件以来一般にもかなり知られてきましたが、敬愛する武田邦彦氏がこの手の話で脚光を浴びる五年ほど前から、この問題でキャンペーンを張っていたのが「環境問題を考える」の管理者である近藤邦明氏でした。

彼は「環境問題を考える」という(槌田 敦との提携)によるサイトで多くの問題を純粋に科学的に論じておられますが、そのサブ・サイトとして「アンビエンテ」(20041月~)上で、下世話な公共事業の問題を数年に亘って書いてきました。

これに関しては、結果がどう転ぼうが、トランプがすっぱ抜いてくれただけでもありがたいと思っています。

現在、「ひぼろぎ逍遥」の右下にsp63-3ワーム・ホールを用意していますので関心をお持ちの方は開いて見て下さい。

本題に戻ります。実は、真夏の前後から副島隆彦氏の事は気に留めていましたが、どうせ最後は不正選挙でひっくり返される可能性があり、水面下でのトランプの優勢については意識していたものの判断が付かなかったと言うのが個人的な感想でした。

つまり、最期は不正選挙で勝った事にしてしまうか、もしかしたら、と言うよりも、どうせトランプさえもユダヤ金融資本が用意した手駒(これもロックフェラー系のようですが)なのだから仕組まれているに決まっている…と本気で考えられなかったのが正直な感想でした。

ここから先は、全体として米国と世界を併せて分析しているベンジャミン・フルフォード氏(実は彼が最も深い層で分析に成功していた)やリチャード・コシミズ氏、宇野正美氏など…に頼るしかないのですが、少しは面白くなってきたという感じがしています。

さて、まだトランプは大統領になっていません。当然にも本人の暗殺も含め、CIA、米国正規軍、FBI…で事実上の内戦、陣取り合戦、戦後処理が始まったばかりでしょう。

早くもこのどさくさに乗じて、国内でも日露同盟、ロシア軍駐留型北方領土返還(沖縄方式)、対米独立、米軍撤退に併せて北方領土全面返還、核武装容認、土建業者を放逐して軍需への傾斜配分、軍事シフト…と色々な動きが出てくるものと予想されます。

いずれにせよ、ワスプ(WASP)と表現されたアメリカの主流 ホワイト、アングロ・サクソン、プロテスタントの凋落と、その悔しさだけをばねとして利用されたアメリカの新支配体制が固まるにはもうしばらく時間が必要になるでしょう。

ソビエト・ロシアの崩壊、東欧の崩壊、そしてついにはアメリカの分解、減退、EUの分解、次に来るのは中国崩壊か?跳梁跋扈か…。皆さんも、いつでも逃げられる準備だけはしておく必要があるでしょう。

巷では、嘘つきマスコミなどが、トランプの勝利を巡って「大番狂わせが起こってしまった」とか「トランプは公では支持してますとは言いにくいため支持率に反映されず読み難かった…」とか既存メディアの馬鹿解説員どもと併せてが照れ隠しで言い訳がましい報道を続けていますが、現場に入らず、利権構造から真実を報道しようとせず、デマを流し続けた結果、アメリカの真実を掴みそこなった(どうせ世論操作が成功し最後はヒラリーが勝つことになっているので勝ち馬に乗ろう…)結果でしかなく、分析に失敗した訳ではなく、最初からデマ報道の世論操作機関でしかなかった(古くは大本営発表回覧板)だけの事なのです。

そして、どんなに主要メディアが世論操作を行なおうとも、既に大衆の多数派は、ネット情報から自分の目と頭で正しい情報を選んでいるのであり、日本でも世界最高水準の4K薄型高級TVで芸人とオカマとハーフと外人で造られた世界最低水準のデマ番組には誰も見向きもしない時代に入っている事が鮮明になった瞬間でもあったのです。

もはや、既存のメディアでは大衆を操作できない事に為政者の多くが気づいた事でしょう。

既に、新聞の読者は激減していますし、地上波を見ているのは土建屋、産廃業者程度でしか無く、世論操作の戦場はネット上が勝負になり始めています。

今後、検閲、デマ情報、行政発のネット・パトロール、ネット警察、ネット謀略戦部隊が暗躍する時代に突入する事になりそうです。

 

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日本もアメリカに遅れてそのような動きに出てくると思いますので、太陽フレアと併せ情報の管理、データ管理、データ・ソースの分散化に細心の注意を払わなければならなくなるでしょう。

まあ、一番良いのはインターネット社会からの離脱なのですが、その年齢に到達するまでは、しばらく間がある事から、今後、十年に亘って、この糞面白くもないインターネット上での活動に終始せざるを得ないようです。

トランプ発言で一番面白かったのが、CO2温暖化論がデマと言い切ったことでしたが、今後、環境省とか気象庁は一体どうするのでしょうか?

真実にはホウカムリを!告発者には冷笑と無視を!が彼らの常とう手段です。

勿論、原子力産業の存続のために利用されただけの話に馬鹿な環境保護論者(自然エネルギーとか最悪の太陽光発電や水力、風力を訴え、知ったかぶりで「オイル・ピーク論」などを煽った日共など旧左翼系の環境保護論者)が巻き込まれただけなのですが、「環境問題」に関しては上記サイトにアクセスして下さい。

結局、アメリカの一極支配が終わった “米国大統領選挙に寄せて”という題目にまで踏み込みませんでしたが、いずれ別稿として書きたいと思います。

どちらにしても、旧モルドバ大使の馬渕睦夫氏が言う様に米国大統領選挙に於ける本当の敗者は、主要メディアそのものであり、勝利したのはこの間騙され続けてきたプワー・ホワイトだったのです。

ある意味でアメリカ国内の情報戦略の敗北であり、いまだその対象者であった没落したプワー・ホワイトはその勝利の成果を一切手にはしていないのです。

日本もマッカーサーの占領に政策によって、3S政策が取られ、スポーツ(まあ、今の時代にオリンピックだ、サッカーだと騒ぐ連中はどうしようもないですが)、シネマ、セックスという馬鹿番組、馬鹿媒体によって愚民化政策が極限まで推し進められて来ましたが、まだ、他の国ほどは劣化が酷くなく、まだ建て直す事は出来るかも知れません。

トランプの登場によって日本にフリーハンドが許された訳ではないでしょうが、アメリカの国力の相対的低下は目を覆うばかりで(日本が必要とする物を造れない国家になっている)、ローマ帝国に似て、版図を拡げすぎた結果、自滅し、遂には自らの国内に目を向けざるを得なくなったのでした。

どうやら、ヒラリー、ネオコンが夢想したハザール汗国の復活はプーチンによって潰された事だけは間違いがないようです。


356 日田市上津江町白草の年の神社 

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356 日田市上津江町白草の年の神社 

20160610

  太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


太宰府地名研究会の日田市天ケ瀬温泉五馬高原研修所から兵戸峠を越え熊本県の菊池、山鹿方面へと向かう事が多くなっていますが、その国道387号線を通るたびに「白草」(ハクソウ)と書かれた道路標識が気になっていました。

 「白草」という集落ですが、念頭にあるのは当然にも「新羅」であり「伽耶」のイメージです。

 そこで、菊池からの帰路、この集落に踏み入る事にしました。

 安直に新羅や百済の痕跡が見つかるなどとは毛頭思ってはいませんが、未踏の地と言うものはフィールド・ウォーカーにはそれだけで心をざわめかせるものなのです。


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まず、国道387号線自体が一般の方が通常利用する道路ではない上に、さらに数キロ入った山奥に一体どのような集落が存在しているのか興味津々でした。

 すると、以外にも大きな谷に遭遇し、二〇戸以上の集落が息づいていたのでした。

 ただ、このような隠れ里に好んで住み着く人はないはずで、何らかの事情があった様には思えるのですが、二~三キロ降れば、「都留」の集落があることから、そこからの開拓集落なのかも知れません。


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この集落は「ハクソウ」と呼ばれているようです。

 従って、新羅(シルラ)、草部(カヤベ)といったものと直結はしていない様に感じました。


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ところが、面白いもので、白草は百草からの転化したものを認めるとしても、集落の中心地には「白草年の神社」が鎮座していたのでした。

お分かりでしょうか?百嶋神社考古学の者には、この神社が阿蘇高森の草部吉見神社(大歳神、春日大神、海幸彦、武甕槌命、正勝吾勝…)であることは大体の見当が付くのです。

 従って、白草(ハクソウ)の半分、草部吉見の「草」は当たらずとも遠からずだったのでした。

 確かに、旧上津江村教育委員会が書かれた集落と神社に関する由緒は尊重に値するのですが、「ハクソウ」という地名には違和感がある上に、咸宜園がある日田の事、無理して漢音の読みしたようで、本来は「シラクサ」だったのではないかという思いは払拭できません(どちらにせよピャクチェからはとおくない)。

ともあれ、このような文字通りの深山幽谷に二〇戸近い集落が存在している事に感動を覚えたのです。

 年の神社、歳神社、年神社は肥後では良く見掛けるのですが、豊後、肥前、筑後となると、ほとんど、と言うより全く目に入らないもので、この地が如何に肥後に連続するエリアとしても、どのような情念で持ち込まれたものなのか、この神社の成立の経緯に対して、ついつい思いが馳せてしまいます。


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現地の聴き取りを行わないままこのようなことを書くのは軽率の誹りを免れないのですが、ここに登場する相垣(間部)の一族が一から開拓し成立した集落なのか、それとも先行する小規模な集落が存在し拡大したものかは文面だけからは判然としません。

 ただ、相垣姓は全国に25件と言う少なさである上に、分布を見ると大分が一番多く、次いで熊本、福岡となることから、肥後高森の草部吉見神社との関係は一応考えてもおかしくは無いように思えるのです。


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最後に、百嶋神代系譜「阿蘇ご一家」をご覧いただきましょう。

 彦八井耳が大歳神であることがお分かりになるでしょう。


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357 車で簡単に洗濯する方法について 

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357 車で簡単に洗濯する方法について 

20160616

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


古代史のフィールド・ワーク、神社研究のフィールド・ワークを問わず、長距離の調査でも普通良く行う4泊5日程度の旅行の場合はほとんど不自由がないのですが、これが一週間から二週間となってくると、どうしても問題になって来るのが、着替えと洗濯物の処分です。

三日分の下着、靴下、タオル、ハンカチなどは問題ないのですが、十日もの車中泊となってくると、「サルマタケ」状態になってきますので、それなりの対策が必要になってきます。

直ぐに思いつくのはコインランドリーでしょうが、ほんの僅かな洗濯のためだけに利用するのはバカバカしく、経済的にもある程度の下着が買えるわけで、どうしても小規模に洗濯する必要が出てくるのです。

勿論、温泉は毎日入りますが当然にも普通は洗濯は禁止ですし、乾燥までを考えると少しずつ洗い少しずつ干すことが必要になってくることはお分かり頂けると思います。

そこで、必要に迫られて車の中で洗濯を始めてしまったのです。

必要は発明の親とか母などと言われますが、やってみれば何でもない訳で実に簡単な事だったのです。

ディスカウント・ストアやホーム・センターに行けば、折り畳み式のクール・ボックスが千円程度で売られていますが、これに下着上下、タオル、ハンカチ、靴下、上着のシャツの一日分程度を入れて水を2/3程度、洗剤を少し入れて、一時間も走れば、洗いが完了し、水を入れ替えて再び一時間程度走れば濯ぎが完了すると言う訳です。

後は、絞ってパソコンを置いているテーブルの上に並べて少し窓を開けて空気を入れ替えながら再び一~二時間走れば洗濯は完了する事になるのです。

必要に応じてクール・ボックスの大きさを変えれば一回の洗濯量を調整できますし、二週間分の着替えを持って行くなどといった愚策は回避できることになるのです。

これで、上着の上下2組、下着の4組、靴下の4組、ハンカチの4組、タオルの3組程度で、一ヶ月でも調査旅行ができるのですから、後は気力と根気という精神的な問題だけになる訳です。

最後に残るのは食事に対する欲求で、普通に何でも自分で料理している事から、食材を見つけると直ぐに調理への欲望が芽生えてくるのです。

カセット・コンロからまな板まで装備している事から、車中で芋を蒸かすぐらいは当たり前で、アサリを手に入れれば直ぐに味噌汁を作り、湧水を見つければ冷そうめんを作り、良いイワシを手に入れれば煮つけを作るとバリエーションに富んでいます。一通りの調味料は揃っていますし、最近はスーパー・マーケットには冬場でも氷が備えられていますので、小型のクール・ボックスがあれば肉でも卵でも安心して運べるのです。皆さんも文献から離れ、自分の目で歴史の現場を見に行きませんか?


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折り畳み式のクール・ボックスと粉せっけんの入った小型のタッパー・ボックス

スポット064 ネット上に神社研究者による連合体が形成された  

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スポット064 ネット上に神社研究者による連合体が形成された  

20161125

太宰府地名研究会 古川 清久(百嶋神代史研究会準備会)


既にblog「ひぼろぎ逍遥」をお読みの方はご存じと思いますが、現在、十数名を超える神社研究者によるブログが相互にリンクされています。

順調に行けば、2017年早々にも40年間筑後地方の神社を研究されてきたM氏によるblogが新たに加わる事になり、各々研究スタイルや傾向や強度は異なりますが、等しく百嶋神社考古学の影響を受けとめた研究者が連合体を形成する事になりそうです。

まずは、15人程度のblog連合体と、blog化されてはいないものの、それらをサポートし、自らフィールド・ワークやネット検索により百嶋説の検証作業を行っておられる多くの方がおられるのです。

現在、神社や特に祭神についてある程度の知識をお持ちの方は非常に少なくなっています。

戦前戦中の影響から、戦後は極端に神社や祭神に対する知識、研究が軽んじられた結果、神社の神職でさえもが殆ど知識を持っていない上に、真面目に研究しようと努力する事さえも軽んじられている事が顕著なのです。

結果、最早、取り返しがつかない所にまで神社研究が後退している事を強く意識しています。

そうしたなか、神社研究者はもとより、15人もの神社研究者によるblogが揃い踏みできる事は、まずは望外の成果と言って良く、事実上、他に類例のない研究サイトに成長しつつあるのです。

このことによって、この間、懸念を抱き続けてきた何の成果もなく潰え去っていくという民間研究団体の行く末に対して一つの歯止めとアンチ・テーゼを対置できた上に、この研究者の連携によって新たな発見、研究成果が出てくるのではないかという予兆を感じさせるものともなっています。


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まず、ネットが主要な媒体となって久しい現代においては、よほど特殊な技能でも持っていない限りは、最低でも出版をしているとか、ネット上でそれなりの占有率を確保したHPblogを持っていない人はどんなに逆立ちしようが、事実上は存在していない事と同義であり、それは団体であってさえも同様なのです。

その上、ただの親睦会や講話会になると共同体としての作用が強くなり、研究はおろか、前回の内容さえも辿れないといったていたらくに陥って行くことになってしまうのです。

従って、自らの足を使い自らの目で確認し自らの頭を使うことなく、ネット上から拾ってきたどこにでもあるような民俗学的な話で終始するようになれば、独自性どころか新規の探究など全くなくなり、ただの世間話程度の価値のない団体になってしまう事になるのです。

この延長上に将来を見据え、一体何のために研究を行うのかという視点を持つことなく他人の話を鵜呑みにする事になるならば、筑後の古代史であろうが、九州全域のから日本全域の神代史の謎の解明など到底及ばない事になってしまうのです。

ましてや学会通説派の学者は元より、教育委員会、学芸員などは、探究心を持って研究する者などいるはずもなく、真実を探るには自らの作業に頼る以外には一切方法がないのです。

特に九州王朝論の立場からは、その中枢領域であるこの筑後から筑前、豊前、豊後、肥後、肥前、そして日向全域での調査研究が必要となってくる訳であり、最低でも故)百嶋由一郎氏が端緒を開かれた、九州王朝論の立場から見た神社研究体制の確立と、その成果の蓄積、公開、継承こそが望まれ、さらには、新たな発見や解明とへも繋がるものとなることでしょう。

恐らく、十数名による組織だった神社研究グループは、他に類例のないものであり、まだまだ拡大する予感がしており、ここ五年ほどで短期間にネット上に登場した百嶋神社考古学は、好い加減なさもしい下級神官などには及びもつかない研究成果を残し、後世に引き継ぐことができるのではないかと考えているところです。

では、新たなblogをスタートして頂くことになったM氏の調査スタイルの一部を少しだけご紹介致しましょう。筑後全域にわたり数多くの研究を行っておられるのですが、中でも目を惹くのは、有馬が久留米に入府してきた直後に作成したとされる「久留米藩社方開基」の研究作業です。


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殆ど筑後地方には残存していないと考えられる貴重な資料であり、現在、我々が多用している「福岡県神社誌」よりも遥かに詳しく信頼性のおける資料ではないかと考えています。

これを神田の古本街から探し出し、現場と照らし合わせて整理されたM氏のご努力に改めて敬意を表明すると共に、新たに研究の戦列に加わって頂いたことに感謝致します。



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この資料と「福岡県神社誌」さらには「久留米市史」を突合させ、解読して行く事によって、本当の祭神が誰だったのかといった事が見えてくるはずなのです。さらに一部をご紹介しましょう。


二田の月読神社


福岡県旧浮羽郡田主丸町大字石垣 二田 御祭神 月讀命(つくよみのみこと)

由緒

天文3年正月(1534年)御原郡高橋城主 三原三河守長種の弟・次郎三郎が場内の月讀神社を、竹野郡二田村(現:久留米市田主丸町石垣 二田)に移す。


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実は、この神社こそ「先代旧事本記」に於いて筆頭とされる二田物部氏の筑後地方に於ける根拠地であり、ここから物部25部族が筑豊へと展開して行く事になるのです。

そうです、二田物部氏が筑豊(鞍手郡小竹町新多)に展開する以前に居た場所こそがこの福岡県旧浮羽郡田主丸町大字石垣 二田であり、この地で、月讀命(つくよみのみこと)を奉祭していたことが見えて来たのでした。

お話によるとM氏は四十年近く筑後地方の神社を調べられてきたようで、高々、十数年程度の神社遍歴しかない私など足元にも及ばない訳であり、ましては、神職でありながらまともに神社も調べたこと無いさもしい下級神官ごときが、本来、神社の話をするなどあり得ない事なのです。

358 肥後は金峰山麓の若宮神社 “熊本市河内町の若宮神社”

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358 肥後は金峰山麓の若宮神社 “熊本市河内町の若宮神社”

20160616

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


熊本地震以降国道3号線や208号線の渋滞を避け、有明海沿岸道路から国道501号線で金峰山の麓を通り抜ける人が増えていると思いますが、宇土から大牟田に向かう途中のいわば岬を越える峠道の傍に河内阿蘇神社が鎮座しています。

 有明海沿岸の移動が多かったことから以前から頻繁に通過していましたが、いつでも行ける神社とはなかなか足が向かわないもので、ようやく参拝する機会を得ました。


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 有明海北部沿岸の岬には高良神社が置かれている事がままあるのですが、多少は意識しつつも、どうせ阿蘇系神社か八幡神社の類だろうと軽い気持ちで社殿を見ると、確かに阿蘇系神社に違いなく、健磐龍神、国造神(速甕王神)、比咩神ほか十二神…と、有明海沿岸から天草に掛けて多く認められる十五神社のスタイルを取った神社だったのです。

 まず、神社由緒の健磐龍は良いとして、国造神(速甕王)は、阿蘇北宮国造神社の速甕玉(実体は草部吉見神と市杵島姫との間に産まれた大山咋=松尾大神=日吉大神…)と比咩神は健磐龍の妃阿蘇都比咩こと天ノ豊津姫の事かは不明です。

 それは、置くとしても、「霊亀元(715)年に阿蘇大神を勧請し若宮大神と称した」の下りは、如何にも整合性があるとは思えず、この若宮大神とは久留米の高良大社周辺に数多く認められる高良玉垂命と神功皇后との間に産まれた若宮=高良皇子神社(九体皇子神社)の筆頭、斯礼賀志命(シレカシノミコト)こと仁徳天皇を祀る神社である可能性を否定できないのです。


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若宮神社は単独で祀られることもありますが、通常は高良神社とセットで祀られる場合が多く、単独の場合でも高良玉垂命と神功皇后との間に産まれた五人の皇子+四人の皇子の筆頭としての若宮の意味が強いのです。

 若宮神社は宇佐神宮の上宮の直ぐ下にも鎮座していますが、それは五人の神様の筆頭として祀られているようなのです。

 国東半島にも高良神社と若宮神社がセットで祀られるものがかなり拾えます。


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358-4この金峰山周辺には源平藤橘の橘一族が菊池氏を頼り住み着いていますが(金峰山三苗字の一流)、その一族は高良玉垂命を奉斎していたというよりも、その流れそのものとも重なります。

 由緒からは8世紀辺りから若宮神社(辺田見の若宮神社も含め)と呼ばれていた可能性を否定できません。

この橘一族は、渋江、牛島、中村に分かれ、橘氏の本流として1314世紀に入る前にも、8世紀辺りからその流れが展開していた事を考えさせられそうです。

 由緒や「熊本県神社誌」にも牛島美作公基が戦勝を祈願し奉賽として社殿を造営したとあります。

右は高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」の一部であり、四人は神功皇后が連れてきた仲哀の連子である可能性が高いようです。


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359 福山はスサノウ系氏族の国か? “広島県福山市の艮神社”

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359 福山はスサノウ系氏族の国か? “広島県福山市の艮神社”

20160617

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今年の第74期将棋名人戦第4局の大盤解説会を見るために福山市を訪れましたが、その休憩時間の合間をぬって市内の幾つかの神社を見て回りました。

 福山は豊かな街らしく、多くの神社が豪華な社殿を持っていますが、中でも特に目を引いたのが、福山八幡宮とこの艮神社でした。

 艮(ウシトラ)神社とは奇妙な社名ですが、艮は丑寅であり、北東を意味する事から、福山城の奇問封じの意味を持った神社である事が分かります。


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こちらは賽銭箱に打たれた三つ柏の神紋


艮神社 カーナビ検索 広島県福山市 北吉津町1丁目524



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鬼門封じとは言え、これほどの数の艮神社が置かれているとは思いもよりませんでした。


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縁起は読み難いのですが、平安期には「午頭天王社」として存在しており、鎌倉期にイザナギが加えられ、現在の須佐之男命、伊邪那岐命の二神が確立し現在まで通じているようです。

 まず、イザナギとイザナミがセットで祀られていないという事が良く分かり、百嶋神社考古学では、イザナギ(昔氏)、イザナミが(瀛氏)という異なった民族同士の結婚により産まれたスサノウの男系の氏族である昔氏が、この吉津、木之庄、本庄、奈良津、千田…の一帯に古来住み着いていた事が見えて来るのです。

百嶋神社考古学では、スサノウが産まれた後イザナミは博多の大幡主との間にヤタガラスを産むとしますが、その背景を多少は思わせる価値ある一社でした。これで、三柏の神紋がスサノウ系のものであることが分かります。

360 栂(ツガ、トガ)の木をご存知でしょうか? “広島県廿日市市の亀山神社”

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360 栂(ツガ、トガ)の木をご存知でしょうか? “広島県廿日市市の亀山神社”

20160617

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「栂」と書いて「ツガ」とも「トガ」とも呼ばれる木があります。

 まずは、ネット上の360-1からご覧ください。


ツガ 【栂】 [その他の名称]トガ

マツ科ツガ属の常緑針葉樹。 学名:Tsuga sicboldii Carr.

天然分布は本州南部から四国、九州を経て屋久島に至る。

辺心材の境界は明瞭で、心材は淡褐色で、辺材は淡色。

木質は針葉樹の内では重硬。木理は概ね通直で、木肌は粗い。乾燥は容易。割裂性は大きい。

気乾比重 : 0.51

柱、長押、鴨居、敷居などの建築材、器具材、梱包材、パルプ材など。

近縁種にコメツガやカナダツガなどがある。


 「栂」と言えば、直ぐに宮崎県椎葉村の栂尾神楽が頭に浮かんで来ます。

 33番神楽を続けることが出来る集落は減り続けていますが、今でも1122日の夕方から翌朝の10時前後までの16時間延々と夜通しで舞われるのです。

私は18年目に入りますが、地名研究会は毎年メンバーが入れ替わりつつも10人から15人が見学に訪れているのです。ただ、現地の栂尾神社にはいくら探しても栂の木が見当たらず、一度本格的な栂を見たいと考えていました。

 勿論、以前にも佐賀県神埼市の仁比山神社の境内でかなりの大木を見掛けたことがあるのですが、他の木と重なり暗かったことから木の全貌が把握できずあまり強い印象は残っていませんでした。

 ところが、今回の尾道~福山への神社探訪で広島県廿日市市の亀山神社を訪れ、22mの堂々たる栂の大木に遭遇したのでした。


360-2

亀山神社という社名から、直ぐに宇佐八幡宮系もしくはそのものの分社であることは一目で分かります。

 しかも、この社殿の配置からは、かつては、この神社よりも金毘羅神社が格上であっただろう事も一目です。

 岩国を始めとして広島県内にも多くの亀山神社(亀山は現在の宇佐八幡宮の鎮座地)がある事から、この一連の神社であろうことも想定できそうです。


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では、参道左に立つ栂の大木をご覧いただきましょう。


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亀山神社と金毘羅神社の関係は別として、今回は、神社そのものには関心がないため、栂に関わる話に



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変えますが、気になるのは「栂」を「ツガ」と呼ぶか「トガ」と呼ぶかの境界線がどこにあるのかです。

 これは、U音とO音の入れ替わり現象として理解していますが、九州の大半では、通常、O音で呼ばれるものがU音で表現されているものに数多く遭遇するのです。

 例えば、「ホウズキ」を「フウズキ」と呼んだり、「オオゴトをしでかした」を「ウーゴトしでかした」と表現するような例です。

 ただし、大分県の瀬戸内海に面した海岸部ではこの傾向は認められないようです。

 栂を「ツガ」と呼ぶか「トガ」と呼ぶかもこの問題の延長上に存在しているものと考えており、九州王朝論者の立場から言えば、古代九州王朝の標準語だったものの痕跡とも考えており、「ツガ」と呼ばれるエリアや事象に関しては見過ごせないのです(神様の名前にも関係してきますので)。

 勿論、瀬戸内海沿岸部ではこの傾向は見いだせないとしている事から、そこは岩国ではないのか?と言われそうですが、山奥とか寺社などの格式の高い所では旧来の慣行が凍結される場合があるのです。


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一部ですが、福岡教育大学の杉村孝夫教授の研究から


5.2)「 オ列長音の開合」に対応する音声

 これは,室町末期の京都語の開合に対応するもので,現在の九州方言では(むろん高年層で)開音は[o:] と発音され,合音は[u:] と発音される。

  [au] に由来する開音は[o:] 例えば [to:ʥi](湯治)

 [ou] に由来する合音は[u:] 例えば [ɸu:ʣuki](ほおずき)[eu] [iu] を経て[ju:] となる。例えば[kju:](今日)「ふうずき」と,実際に文字で書かれることもある。次の写真は,今から13 年ほど前に佐賀県の三瀬村の売店で撮影したものである。…


 一般的には、九州方言のレベルでしか考えられていないのですが、とりあえず、海岸部に近い瀬戸内海領域の広島県廿日市市においても「ツガ」と呼ばれる事を確認できたのでした。

361 七福神の宝船の主は大幡主ではないのか?

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361 七福神の宝船の主は大幡主ではないのか?

20160621

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


今回は、皆さんどなたでもご存じの七福神と宝船に焦点を当てることにします。

以前から、宝船に乗った七福神とは全て博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の配下で動いていた神様ではないかと考えていました。

理由は簡単です。この宝船とは海外の神様が乗られており、どう考えても貿易(交易)船としか考えられず、東洋の通商路の東のはての最大の港が博多であり、そこの支配者とは大幡主(ヤタガラスの父で、お妃は隠されていますが実はイザナギと別れた後のイザナミ)だからです。

当然にも百嶋神社考古学の立場からの解読になります。

この事が少し分かるようになったのは最近の事ですが、少し話が長くなりそうですので辛抱して下さい。


361-1


恵比寿     

イザナミ・イザナギの間に生まれた子供を祀ったもので古くは「大漁追福」の漁業の神である。時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす神となった。唯一日本由来の神である。

大黒天

インドのヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ神。日本古来の大国主命の習合。大黒柱と現されるように食物・財福を司る神となった。

毘沙門天

元はインドのヒンドゥー教のクベーラ神。戦いの神であったが、仏教に取り入れられてから、福徳増進の神としてしだいに民衆に信仰される。日本では毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)と呼ばれる。

弁才天(弁財天) 

七福神の中の紅一点で元はインドのヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神。仏教に取り入れられ、音楽・弁才・財福・知恵の徳のある天女となり選ばれた。七福神の一柱としては「弁財天」と表記されることが多い。

福禄寿 

道教の宋の道士天南星、または、道教の神で南極星の化身の南極老人。寿老人と同一神とされることもある。長寿と福禄をもたらす。

寿老人 

道教の神で南極星の化身の南極老人。日本の七福神の一人としては白鬚明神とされることもある。

布袋 

唐の末期の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したといわれる仏教の禅僧。その太っておおらかな風貌が好まれ、手にした袋から財を出し与えてくれる。弥勒菩薩の化身ともいわれている。


ウィキペディア 20160620 13:30

まず、一番有名な大黒様です。大黒天ですが、勿論、大国主命の事であり、宗像のお二人の神様である市杵島姫と田心姫をお妃とし、大幡主の配下で活動されたトルコ系匈奴の若殿です。

 次は、蛭子様ですが、こちらも大幡主の配下で活動された古々代ヘブライ系の神様であり、最も古い先住者になります。

 紅一点の弁財天様はこれまで百嶋神社考古学に接してこられた方には良くお分かりのように、大幡主の娘であるアカル姫(ヤタガラスの姉)の娘であり、当然、大幡主の一族になります。

 市杵島姫がインド人だったなどと言っているのではなく、水の神ともされるサラスヴァティー神を市杵島姫になぞらえたと言う意味で、市杵島姫が弁天様として祀られている多くの例があります。

 ここまでの三人の神様が全て大幡主の一族若しくは傘下の神である事は言えるのですが、問題は毘沙門天です。

 この神様も大幡主を意識して挿入されているのではないか?と考えたのが今回の話の骨格です。

 この説明を分かってもらうためには以下の論考をお読みいただきたいと思います。

毘沙門天の発見篠原典生 (北京大学考古文博学院博士課程)


 

先に、日本の学者が無視する「ウィキペディア」から七福神の概要をご紹介しましたが、必要なことは十分に書かれています。361-2

次も、ネットから引っ張り出した日経新聞社電子版ですが、非常に参考になります。


歴史博士 日本出身の神様はただ1人 七福神のミステリー 

シェア ツイート クリップ 2014/1/3

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 幸福をもたらしてくれる神さまを1神ずつ参拝して回る「七福神めぐり」。恵比寿(えびす)、大黒天、毘沙門天(びしゃもんてん)、福禄寿、寿老人、布袋(ほてい)、弁財天の7体は日本の正月に欠かせない存在だ。中世の民間信仰から広まったものだが、この中で日本出身は恵比寿さまただ1人。あとは海外から招来した神さまたちだ。

■夷、戎、蛭子、恵比寿…みな「えびす」

 恵比寿は「夷」「戎」「蛭子」などの漢字でも表記される。蛭子(ひるこ)は「古事記」「日本書紀」に出てくる国造りの神「イザナギノミコト」と「イザナミノミコト」の子供とされる。しかし3歳になっても自分で立つことができなかったため葦(あし)の船に乗せて海に流されたという。七福神にしては気の毒な前半生だが、その後漁民に大漁をもたらす「エビス」として戻ってきたとされる。キーワードは「海」だった。

 漁民たちには時折浜に打ち上げられる鯨やサメなどを神さまからの授かり物として受け止める習わしが古くからあったという。皆で分け合い一時の「福」を得る。流された蛭子が海人たちに漁業や交易、交通などの神、恵比寿さまとして敬われる素地は古くからあった。かつて海は陸上よりも発達した交通路だった。恵比寿さまを祭る神社は瀬戸内海や日本海の海岸線などに散在する。遠方から福を運んできてくれる寄神、客神(まろうどがみ)と信仰を集めてきたようだ。

七福神は日本、中国、インドの神々の連合体だ(2013年1月、東京・渋谷の西武百貨店)

 大黒天はインドの「マハーカーラ」と日本の大国主命が習合した。マハーカーラは「偉大な黒」を意味し、ヒンズー教で暗黒をつかさどる神さまだった。日本に持ち込んだのは最澄という。同時に財運をもたらす神として信仰され、日本では財神として渡ってきた。大国主神は古事記の国譲りのエピソードで知られる重要な神さまで、「だいこく」ともに読めたことから合体したという説が有力だ。

 毘沙門天も元来はインドの財宝神「クベーラ」だったという。この神さまが中国を経由する時は仏教を守護する四天王に変わる。日本でも戦国時代の上杉謙信が信仰していたことで知られている。だから七福神を乗せて航海する「宝船」では唯一甲冑(かっちゅう)をまとっている。日本では改めてクベーラの性格が重視された。唯一の女神、弁財天もインド由来。ヒンズー教で水と豊穣(ほうじょう)の神さま「サラスバティー」だ。音楽もつかさどるほか悪神を退治する戦いの神さまでもある。

 福禄寿と寿老人は中国・道教がルーツの仙人。この福禄寿と寿老人は南極星の化身として双子とも同一人物ともされ、ややこしい。

■「七福神めぐり」普及させたのは家康

西宮神社に奉納された冷凍マグロにさい銭を張り付ける子どもたち(2013年1月8日午前、共同)

 その点布袋は中国・唐の時代に実在した仏僧だという。契此(かいし)という名で、太鼓腹を突き出し常に大きな布の袋を背負っていた。弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身と噂されていたという。最初に日本に入ってきたのは禅画などの画題としてだった。平安期には恵比寿と大黒天とが信仰の対象となり、さらに毘沙門天、弁財天らが加わっていった。「7」神になったのは仏教経典の「七難即滅、七福即生」にちなんだともいう。

 「七福神」めぐりが全国に普及したのは江戸時代から。徳川家康が七福神の絵を狩野探幽に宝船に乗った七福神を描かせたという。家康の政治参謀だった天海僧正が七福神信仰を勧めたという逸話が残っている。恵比寿は正直、大黒天は有徳、毘沙門天は威光、弁財天は愛敬、布袋は大量、福禄寿は人望、寿老人は寿命を表し敬愛すれば7徳が身に備わるというわけだ。

西宮神社の本殿参拝の一番乗りを競う「開門神事福男選び」で一斉に駆けだす参加者=共同

 なぜこれだけ外国の神さまが多いのか。恵比寿さまも異邦人を意味する「夷」とも書かれてきたように七神とも「海」に縁が深い。理由の一つは古代からの漂着物信仰だ。日本人にとって海のかなたは福と富を運んできてくれるものだった。

 もう一つは室町時代に発展した貨幣経済だろう。商業が盛んになるにつれ天照大神のような日本神話の神さまや貴族階級の氏神さまではなく、商工業者の信仰の対象が必要になったのだろう。「七福神の謎77」の武光誠・明治学院大教授は「最初は豪商が、武士や旧家が祭る神さまと異なる福の神を自分たちの心のよりどころとして信仰した。すぐさま豪商にあこがれる中流以上の商工民に広がっていった」としている。

 兵庫県の西宮神社は恵比寿さまを祭る神社の総本山。毎年1月10日を中心に9日から11日までの3日間行われる「十日えびす」は100万人を超える参拝客でにぎわい、その年の福男を決める行事でも知られている。七福神巡りは不況の時に参拝客が多いという。アベノミクス効果が浸透しつつも消費増税を前にした今年の正月はどうなっているだろうか。               (電子整理部 松本治人)

361-3お読みになったと思います。「家康の政治参謀だった天海僧正が七福神信仰を勧めたという逸話が残っている」と書かれていますが、私が知っているくらいですから、この話はかなり知られているのでしょう。

 問題は天海の素性です。「天海」の名からしても天台系の僧侶であることは直ぐに分かりますし、彼の神仏習合された神道が山王一実神道であることから(以下の天海僧正をお読みください)、山王日吉(日枝山王権現)系の神を信奉している事が見て取れるのです。

では、山王日吉とは如何なる神だったでしょうか?

 そうです。父は阿蘇の草部吉見、母は大幡主の子である豊玉彦(ヤタガラス)の子である市杵島姫というエリート中のエリート、大山咋=佐田大神=日吉=日枝=松尾=阿蘇国造(速甕玉)…であり、そのお妃も豊玉彦(ヤタガラス)と櫛稲田姫の間に産まれた鴨玉依姫である事から、白族の首領である博多の櫛田神社の大幡主を体現する神である事がお分かり頂けると思います。


天海僧正

元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年7月に大僧正となった天海らに託す。家康死後には神号を巡り以心崇伝、本多正純らと争う。天海は「権現」として自らの宗教である山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として古来よりの吉田神道で祭るべきだと主張した。2代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。

ウィキペディア 20160620 15:30


361-4 ここまで考えてくると、この七福神と宝船を構想した天海の頭には、遠い神代に於いて武装商船隊を率いてインド~シナ~半島~博多と交易し支配していた大幡主の存在が軍の神である毘沙門天に投影されていたのではないかと思えるのです。

 福禄寿と寿老人は支那大陸でも南の道教系の神とも仙人ともつかぬ存在ですが、少なくとも半島系、北支那系の存在でないことは確実です。

 この江南の老荘の世界を取り込む事ができるのも大幡主以外には該当しそうな人物がいないことから、古代の江南の憧れとか理想とかいったものが反映されているのではないかと考えるのです。

 最後は布袋様です。

 布袋については良く分からないのですが、雲南省から黎族の阿蘇氏と共に逃れた白族の痕跡は、海南島に南西部にある白砂黎族自治県など多くの黎族自治県が残されている事から関連を探っています。その一つに保亭黎族苗族自治県があり(「保亭」=「布袋」)、「加茂」という地名までがあるのです(下賀茂はヤタガラスですね…)。

 今のところこれしか関連が取れないのですが、今後の課題として残しておきます。


361-5

百嶋最終神代系譜(部分)上、海南島西南部地図 下


361-6

今回は非常に乱暴な仮説を出させて頂きましたが、このような思考の暴走、冒険から真実に迫れる場合もあるのです。勿論、外れる事もあるのですが…。そろそろ終わりにしますが、先の引用をお読み下さい。


天海は、家康死後には神号を巡り以心崇伝、本多正純らと争う。天海は「権現」として自らの宗教である山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として古来よりの吉田神道で祭るべきだと主張した。


天海は大山咋系の人であると言いましたが、対向した本多はニギハヤヒ=山幸彦系の人物なのです(これについては、ひぼろぎ逍遥295 北北東に進路を取れ! ⑮ 柏崎刈屋に筑豊から展開した二田物部を確認した 他をお読み下さい)。

 最低でも、安曇磯良とか阿蘇の神様が入っていない事だけは確実でしょう。


361-7


そして、福岡市西区今津に毘沙門山があります。


361-8


この今津、今山、今宿の一帯は、博多の櫛田神社の大幡主の傘下で活動していた山幸彦=所謂「魏志倭人伝」の伊都長官「爾支」ニキ=ニギハヤヒ=猿田彦…の領域で、列島から半島、大陸への最重要港湾であり、その今津湾、また、古代糸島水道の入口を制圧する管制高地に当たる場所であり、そこが毘沙門山と呼ばれていること自体が、大幡主を武人としての毘沙門天に準えていることを示しているようです。

 なお、連携ブログの管理者であり、太宰府地名研究会のメンバーであるI女史から教えて頂いたことですが、かつて未盗掘として脚光を浴びて空振りした佐賀県の九里双水古墳と糸島市の一貴山銚子塚古墳を結ぶ線は、寸分違わず毘沙門山山頂に乗るそうです。

 当然、この二つの古墳は毘沙門山を意識して造られている事は明らかで、多分、大幡主の息の掛かった有力者が祀られているはずなのです。


361-9

 船の所有者を「船主」と言いますね、それは大幡主という尊称の上に成立した言葉と考えれば分かりやすいのではないでしょうか?これも古来大幡主が船主だった事の名残のような気がするのです。

参考

361-8


毘沙門天の発見篠原典生 (北京大学考古文博学院博士課程)


362 熊本県あさぎり町久鹿の天子神社に再訪

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362 熊本県あさぎり町久鹿の天子神社に再訪

20160621

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


熊本県あさぎり町と言っても直ぐにお分かりなる方は少ないと思いますが、人吉盆地のど真中の旧免田町(考古学に造詣のある方には免田式土器の免田町ですね)の天子宮に再訪する機会があった事から久しぶりに天子神社を取り上げます。


362-1

天子神社 カーナビ検索 熊本県あさぎり(旧免田)町久鹿838


 天子宮に関しては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)に於いて現在40本を公開していますが(全体で百数十本を少しずつ公開して行きます)、久しぶりに訪れました。

 天子神社を調べて回っていたのは十年以上前でしたが、少しは神社を見る目が上がった事から新たな発見でもないかと期待したのですが、やはり無理でした。


362-2


そこで、この天子宮というものに関する十年後の見解を少し申し述べたいと思います。

 「熊本県神社誌」所載の天子神社を見ると、祭神は景行天皇と書かれていますが、これはもしかすると明治期に祭神が入れ替えられているという思いを消せません。

 勿論、隼人対策で大伴家持といった武人が送り込まれてはいるのですから、それ以降、多くの動機はあったと思いますが、一番ありえそうな可能性を考えると、以下のようになります。

 「天子と言えば熊襲を退治に来た景行天皇以外には考えようがないから景行にしておこう」…として明治新政府に尾を振り、上位社の摂社が村社に肖ったのではないか?という意味です。


362-3

362-4


今回、「熊本県神社誌」を見て気付いたことがありました。

 それは、この久鹿の天子神社は岡留の熊野神社(旧免田町乙1579)諾冊二神、速玉男神の境外摂社だったのです。摂社は6社あり、その筆頭が天子神社ということなのです。

 そう考えると、ヤタガラス(速玉男)を祀る熊野神社が景行天皇(勿論、百嶋神社考古学では景行は天皇ではないのですが)の下に扱われる事はやはり異常に思えるのです。


熊野神社(旧免田町乙1579)諾冊二神、速玉男神


1. 天子神社  免田町久鹿838     景行天皇

2. 熊野神社  免田町築地4119    熊野三神

3. 厳島神社  免田町黒田1471    市杵島姫命

4. 熊野神社  免田町吉井1997    熊野三神

5. 白木神社  免田町永才2371    天之御中主神

6. 八幡宮   免田町八幡町1840   応神天皇外二神


八幡宮のある八幡町は、それこそ近畿大和朝廷の占領軍集落か、相良一族入府の占領軍集落でしょうが、それを除けば、天子神社の景行天皇という配神が異常であることは明らかで、まず、景行天皇は祭神の入れ替えであろうことは明らかでしょう。

 天御中主も市杵島姫も白族=大幡主の一族であり、伝統的にこの旧免田町のエリアは熊野系の地域だった事は明らかでしょう。

では、天子宮の祭神とは何でしょうか?

これについては、伊倉 天子宮は誰を祀るか?全て公開した後皆さんで考えて頂きたいのですが、この天子宮調査を行っていた当時は、九州古代史の会の中心的メンバーであった荒金卓也氏の説に沿い、その裏を取るための調査をしていたのであり、荒金氏による「多利思北孤」説を軸に考えていました。

 しかし、百嶋先生は“あれはヘブライ系集落でモーゼを祀っている”と言った趣旨の話をされていました。

 当時、“とんでもない事をおっしゃる方だなあ”と驚いたものでしたが、今は、やはりそれが正しいと思う様になりました。

 肥後でも八代から球磨川流域、人吉盆地一帯は、相当に古い時代に入った人々が住み着いているようなのです。

363 八幡古表神社(吉富町)の殷の鳥居 

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363 八幡古表神社(吉富町)の殷の鳥居 

20160629

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


2014年の秋でしたが、求菩提山手前の日吉神社の撮影を終え、翌日、中津市の手前にある吉富町に向かいました。古代史の世界ではかなり有名な八幡古表神社の例大祭があることを思い出したからです。

古代史に関心をお持ちの方ならどなたもご存じの、操り人形による「傀儡相撲」が奉納される吉富町の八幡古表神社(中津市の古要神社も同様の「傀儡相撲」が奉納されます)ですが、過去、何度か同社に訪れていますが、祭り(御神幸祭)を見るのは今回が初めてです。

しかし、有名な細男舞・神相撲(傀儡子舞)は、四年に一度オリンピックの年の夏に行われるだけで、今回は見ることはできません。そのうちに機会があれば見たいと思っています。

吉富町は中津市と豊前市の間の海岸部というより山国川河口の左岸にありますが、この古表神社も、一目、古代には島か岬だったようなところであり、神聖な沖合の島か岬に置かれたものだったように思えます。

今回、八幡古表宮を訪れた理由はお祭りもありますが、百嶋先生が言われていた「古表も古要も古いと置き換えてはいるものの、実は胡人の『胡』が本当なんです。…」という話を自分の目で実感するためでした。

そのことだけでも、豊前一帯が、かつて、新羅、伽耶から雪崩れ込んできた秦人(秦の支配を嫌って半島に逃げてきた多くの異族を含んでいた)の居留地であったことを思わせます。

つまり、表面上は豊予水道に展開した安曇系の海人族の神社には見えるものの、その祭神から分かる通り、その上に君臨していた神とは、実は四十柱神(古表大明神)であり、さらにその上に聳えていた九州の王権の痕跡を探ることでした。


363-1

八幡古表神社の裏参道の大鳥居(瀛の鳥居) カーナビ検索 福岡県築上郡吉富町小犬丸353-1


 御祭神 息長帯姫尊 虚空津比売命(神功皇后の妹豊姫) 


朝7時半には着いていたと思いますが、豊前から中津方面に向かったことから裏から入ることになりました。普通はこのような場合でも表に回って境内に入ることにしていますが、早速、胡人の痕跡を発見したことからそのまま入内することにしました。

 直ぐにはお分かりにならないと思いますが、百嶋先生から聴かされていた殷(中国殷イン王朝)の鳥居が目に飛び込んで来たのでした。

 この形式の鳥居はたまに目にするものです。

小馬鹿にされそうですが、ユダヤ・イスラエル系と言うより、はっきりイスラエル系と言いたいのですが、私が住む佐賀県の八天神社の正殿前の鳥居の形式もこれに該当します。

 厳島神社の鳥居は縦に支えとなっていますが、それと異なり横向きに広がる鳥居の形式がこれなのです。

 裏参道を少し入ると、元宮ではないのですが(元宮は各々別のところにあったはずです)、古い古表宮がそのまま残されていました。ご覧のとおり、ここにも殷の鳥居があるのです。これで、この鳥居が思い付きで造られたものではなく、古くからの伝統を持つ形式であったことが分かるのです。


363-2


左は古表神社の殷の鳥居、右も佐賀県嬉野市谷所の八天神社の殷の鳥居(瀛の鳥居)です


 両方の鳥居に共通しているのは鳥居上部の浮き袋状の丸い輪ですが、これは、彦山山岳修験の特徴であり、ここにもその影響が認められます。境内でも参拝殿の外側では早くも御神幸の準備がたけなわでした。多くの山車の周りを揃いの法被を着込んだ数百人の氏子が、“今や遅し”と出番を待っていました。過去、二、三度訪れた時は、殆ど場所を確認した程度の事で落ち着いて見ることが出来なかったのですが、今回は今日一日のメインのテーマと心づもりしていましたので、いろんなものが見えてきました。


363-4

この古表、古要の二社についてはいずれ詳しく書きたいと思いますが、まだ調査中です。

 一般的に「胡人」とは古くはシルクロードのソグド商人を、後にはペルシャ人一般まで胡人とされます。

 この延長上に、数社ある飯塚市の許斐神社が「このみや」と呼ばれている事を考えていますが、今回は、殷の鳥居(瀛の鳥居)をご紹介するに留めます。

364 うきは市の正八幡宮初見 

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364 うきは市の正八幡宮初見 

20160706

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥 280 行橋市の正八幡神社初見 に於いて「正八幡神社」が所謂、八幡神社以前の本物の八幡神社である事をお知らせしましたが、このルーツに近いものをお見せする事にしましょう。

北九州市から福岡県行橋市にかけて正八幡神社がある事は知られていますが、外には、川崎町など筑豊の田川郡、八女市の大籠、みやま市、筑後市、佐賀県の旧千代田町、山口県の秋穂…などに、この謎の八幡神社、八幡宮が存在しているのです。

と、その程度のぼんやりとした予備知識しかないまま、日田~久留米への旧道(バイパスができたからだけですが)を走っていると、うきは市にも正八幡神社あることに気付きました。

 勿論、最近手に入れた「山口県神社誌」を含め、このエリアの「佐賀県神社誌」「福岡県神社誌」を一から丹念に読めば分かる事ではあるのですが、時間とスケジュールに追われる毎日を送っていると、そういう訳にも行かず、このような間の抜けた話になるのです。

 いつも通過しているうきは市にも正八幡宮があったなどと今さら書くのは正直言って恥ずかしいのですが、ご紹介する事にしたものです。

ただ、重要なことですが、正八幡宮とは八幡宮以前の八幡宮であり、本来の八幡神とは博多の櫛田神社の主祭神である大幡主なのです。

勿論、大幡(絹で造られた大きな帆の意味)とは博多港を拠点にして活動していた武装商船隊の船の帆の事であり、その大きな帆を張った船を率いて半島、江南、インドシナへと船を操っていた八幡船(武装商船=実質的な海賊船=海軍)の事なのです。


364-1


八幡船 ばはんせん


奪販,番舶,破帆とも書く。特に室町時代から戦国時代にかけて現れた海賊船一般をいう。後世倭寇の意味に用いられた。倭寇が「八幡大菩薩」の旗印を掲げたことに称呼の起源があるとされるが,確証はない。


ネット上の「ブリタニカ国際大百科事典」 小項目事典より



当然ながら、祭神は天皇ならぬ別王=応神天皇(ホンダワケ)とはされていますが、百嶋神社考古学では、ホンダワケは天皇扱いしないことはこれまで述べてきた通りです。


さて、「福岡県神社誌」によれば、祭神は 応神天皇、豊玉姫命、高良玉垂命、雷神罔象女(ミズハノメ)神…とあります。


境内社は秋葉神社しか見当たりませんが、貴船神社、秋葉神社、琴平神社、猿田彦神社二社、天満神社二社がある事になっています。

 ただ、雷神社(雷神)、水神社(罔象女)が大正期に合祀されている事が書かれています。

 すると、別王=応神天皇が祀られるようになったのは九州王朝が亡び高良玉垂宮が九州の宗廟を宇佐に譲った750年以降(「高良玉垂宮神秘書」)か1200年代の鎌倉以降のはずですから、本来の祭神は高良玉垂宮命、豊玉姫命となるはずです。

 では、正八幡神社が大幡主とは関係がないのではないかと言う方がおられるかも知れません。

 しかし、祭神をご覧ください。高良玉垂宮命、豊玉姫命とあります。

高良玉垂宮命は九州王朝の傘下の大幡主である以上当然として、豊玉姫命とは大幡主の息子である豊玉彦(ヤタガラス)と高木大神の長女である豊秋ツ姫との間に産まれたタゴリヒメ(宗像三女神のお一人)であり、山幸彦との間にウガヤフキアエズの命を産むことになるのです。

大幡主自身は祭神とはされていませんが、その孫が主祭神とされていることから正八幡宮であることは間違いない事になります。


364-2

364-5

菅公と関係の深い鳥居の神額の鳥文字や鷽の狛犬(妙な表現ですが)ですが、それが置かれている理由は、道真公がスサノウ系とヤタガラス系の本流本家同志の結婚により産まれた一族だからです。


362-6

正八幡宮を見る上では特に重要なのが境内社です 秋葉様=金山彦が鎮座されていました



付近には「白土」という地名もある事から、金山彦の一族がおられる事は分かっていました。

これについては、ひぼろぎ逍遥 230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”外をお読みください。

363 八幡古表神社(吉富町)の殷の鳥居 

20160629


太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


2014年の秋でしたが、求菩提山手前の日吉神社の撮影を終え、翌日、中津市の手前にある吉富町に向かいました。古代史の世界ではかなり有名な八幡古表神社の例大祭があることを思い出したからです。

古代史に関心をお持ちの方ならどなたもご存じの、操り人形による「傀儡相撲」が奉納される吉富町の八幡古表神社(中津市の古要神社も同様の「傀儡相撲」が奉納されます)ですが、過去、何度か同社に訪れていますが、祭り(御神幸祭)を見るのは今回が初めてです。

しかし、有名な細男舞・神相撲(傀儡子舞)は、四年に一度オリンピックの年の夏に行われるだけで、今回は見ることはできません。そのうちに機会があれば見たいと思っています。

吉富町は中津市と豊前市の間の海岸部というより山国川河口の左岸にありますが、この古表神社も、一目、古代には島か岬だったようなところであり、神聖な沖合の島か岬に置かれたものだったように思えます。

今回、八幡古表宮を訪れた理由はお祭りもありますが、百嶋先生が言われていた「古表も古要も古いと置き換えてはいるものの、実は胡人の『胡』が本当なんです。…」という話を自分の目で実感するためでした。

そのことだけでも、豊前一帯が、かつて、新羅、伽耶から雪崩れ込んできた秦人(秦の支配を嫌って半島に逃げてきた多くの異族を含んでいた)の居留地であったことを思わせます。

つまり、表面上は豊予水道に展開した安曇系の海人族の神社には見えるものの、その祭神から分かる通り、その上に君臨していた神とは、実は四十柱神(古表大明神)であり、さらにその上に聳えていた九州の王権の痕跡を探ることでした。


364-7

八幡古表神社の裏参道の大鳥居(瀛の鳥居) カーナビ検索 福岡県築上郡吉富町小犬丸353-1


 御祭神 息長帯姫尊 虚空津比売命(神功皇后の妹豊姫) 


朝7時半には着いていたと思いますが、豊前から中津方面に向かったことから裏から入ることになりました。普通はこのような場合でも表に回って境内に入ることにしていますが、早速、胡人の痕跡を発見したことからそのまま入内することにしました。

 直ぐにはお分かりにならないと思いますが、百嶋先生から聴かされていた殷(中国殷イン王朝)の鳥居が目に飛び込んで来たのでした。

 この形式の鳥居はたまに目にするものです。

小馬鹿にされそうですが、ユダヤ・イスラエル系と言うより、はっきりイスラエル系と言いたいのですが、私が住む佐賀県の八天神社の正殿前の鳥居の形式もこれに該当します。

 厳島神社の鳥居は縦に支えとなっていますが、それと異なり横向きに広がる鳥居の形式がこれなのです。

 裏参道を少し入ると、元宮ではないのですが(元宮は各々別のところにあったはずです)、古い古表宮がそのまま残されていました。ご覧のとおり、ここにも殷の鳥居があるのです。これで、この鳥居が思い付きで造られたものではなく、古くからの伝統を持つ形式であったことが分かるのです。


364-7

左は古表神社の殷の鳥居、右も佐賀県嬉野市谷所の八天神社の殷の鳥居(瀛の鳥居)です


 両方の鳥居に共通しているのは鳥居上部の浮き袋状の丸い輪ですが、これは、彦山山岳修験の特徴であり、ここにもその影響が認められます。境内でも参拝殿の外側では早くも御神幸の準備がたけなわでした。多くの山車の周りを揃いの法被を着込んだ数百人の氏子が、“今や遅し”と出番を待っていました。過去、二、三度訪れた時は、殆ど場所を確認した程度の事で落ち着いて見ることが出来なかったのですが、今回は今日一日のメインのテーマと心づもりしていましたので、いろんなものが見えてきました。


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 この古表、古要の二社についてはいずれ詳しく書きたいと思いますが、まだ調査中です。

 一般的に「胡人」とは古くはシルクロードのソグド商人を、後にはペルシャ人一般まで胡人とされます。

 この延長上に、数社ある飯塚市の許斐神社が「このみや」と呼ばれている事を考えていますが、今回は、殷の鳥居(瀛の鳥居)をご紹介するに留めます。

スポット065 筑豊に展開した「先代旧事本記」に登場する二田物部氏の筑後側の故地が判った 

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スポット065 筑豊に展開した「先代旧事本記」に登場する二田物部氏の筑後側の故地が判った     

20161130

太宰府地名研究会 古川 清久(百嶋神代史研究会準備会)


既にblog「ひぼろぎ逍遥」をお読みの方はご存じと思いますが、現在、十数名を超える神社研究者によるブログが相互にリンクされています。

順調に行けば、2017年早々にも40年間筑後地方の神社を研究されてきたM氏によるblogが新たに加わる事になり、各々研究スタイルや傾向や強度は異なりますが、等しく百嶋神社考古学の影響を受けとめた研究者が連合体を形成する事になりそうです。

まずは、15人程度のblog連合体と、blog化されてはいないものの、それらをサポートし、自らフィールド・ワークやネット検索により百嶋説の検証作業を行っておられる多くの方がおられるのです。

現在、神社や特に祭神についてある程度の知識をお持ちの方は非常に少なくなっています。

戦前戦中の影響から、戦後は極端に神社や祭神に対する知識、研究が軽んじられた結果、神社の神職でさえもが殆ど知識を持っていない上に、真面目に研究しようと努力する事さえも無視される事が顕著なのです。

結果、最早、取り返しがつかない所にまで神社研究が後退している事を強く意識しています。

そうしたなか、神社研究者はもとより、15人もの神社研究者によるblogが揃い踏みできる事は、まずは望外の成果と言って良く、事実上、他に類例のない研究サイトに成長しつつあるのです。

このことによって、この間、懸念を抱き続けてきた何の成果もなく潰え去っていくという民間研究団体の行く末に対して一つの歯止めとアンチ・テーゼを対置できた上に、この研究者の連携によって新たな発見、研究成果が出てくるのではないかという予兆を感じさせるものともなっています。


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まず、ネットが主要な媒体となって久しい現代においては、よほど特殊な技能でも持っていない限りは、最低でも出版をしているとか、ネット上でそれなりの占有率を確保したHPblogを持っていない人はどんなに逆立ちしようが、事実上は存在していない人と同義であり、それは団体であってさえも同様なのです。

その上、ただの親睦会や講話会になると共同体としての作用が強くなり、研究はおろか、前回の内容さえも辿れないといったていたらくに陥って行くことになってしまうのです。

従って、自らの足を使い自らの目で確認し自らの頭を使うことなく、ネット上から拾ってきたどこにでもあるような学会通説に沿った話、人畜無害な民俗学的な話で終始するようになれば、独自性どころか新規の探究など全くなくなり、ただの世間話程度の価値のない団体になってしまう事になるのです。

この延長上に将来を見据え、“一体何のために研究を行うのか“という視点を持つことなく他人の話を鵜呑みにする事になるならば、筑後の古代史であろうが、九州全域のから日本全域の神代史の謎の解明など到底及ばない事になってしまうのです。

ましてや学会通説派の学者は元より、教育委員会、学芸員などは、探究心を持って研究する者などいるはずもなく、真実を探るには自らの作業に頼る以外には一切方法がないのです。

特に九州王朝論の立場からは、その中枢領域であるこの筑後から筑前、豊前、豊後、肥後、肥前、そして日向全域での調査研究が必要となってくる訳であり、最低でも故)百嶋由一郎氏が端緒を開かれた、九州王朝論の立場から見た神社研究体制の確立と、その成果の蓄積、公開、継承こそが望まれ、さらには、新たな発見や解明とへも繋がるものとなることでしょう。

恐らく、十数名による組織だったblog連合体=神社研究グループは、他に類例のないものであり、今後もまだまだ拡大する予感がしており、ここ五年ほどで短期間にネット上に登場した百嶋神社考古学は、好い加減なさもしい下級神官などには及びもつかない研究成果を残し、後世に引き継ぐことができるのではないかと考えているところです。

では、新たなblogをスタートして頂くことになったM氏の調査スタイルの一部を少しだけご紹介致しましょう。筑後全域にわたり数多くの研究を行っておられるのですが、中でも目を惹くのは、有馬が久留米に入府してきた直後に作成したとされる「久留米藩社方開基」の研究作業です。



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殆ど筑後地方には残存していないと考えられる貴重な資料であり、現在、我々が多用している「福岡県神社誌」よりも遥かに詳しく信頼性のおける資料ではないかと考えています。

これを神田の古本街から探し出し、現場と照らし合わせて整理されたM氏のご努力に改めて敬意を表明すると共に、新たに研究の戦列に加わって頂いたことに感謝致します。


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この資料と「福岡県神社誌」さらには「久留米市史」を突合させ、解読して行く事によって、本当の祭神が誰だったのかといった事が見えてくるはずなのです。さらに一部をご紹介しましょう。


二田の月読神社


福岡県旧浮羽郡田主丸町大字石垣 二田 御祭神 月讀命(つくよみのみこと)

由緒

天文3年正月(1534年)御原郡高橋城主 三原三河守長種の弟・次郎三郎が場内の月讀神社を、竹野郡二田村(現:久留米市田主丸町石垣 二田)に移す。



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実は、この神社こそ「先代旧事本記」に於いて筆頭とされる二田物部氏の筑後地方に於ける根拠地であり、ここから物部25部族が筑豊へと展開して行く事になるのです。

そうです、二田物部氏が筑豊(鞍手郡小竹町新多)に展開する以前に居た場所こそがこの福岡県旧浮羽郡田主丸町大字石垣 二田であり、この地で、月讀命(つくよみのみこと)を奉祭していたことが見えて来たのでした。

お話によるとM氏は四十年近く筑後地方の神社を調べられてきたようで、高々、十数年程度の神社遍歴しかない私など足元にも及ばない訳であり、ましては、神職でありながらまともに神社も調べたこと無いさもしい下級神官ごときが、本来、神社の話をするなどあり得ない事なのです。


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天物部等、二十五部人、同じく兵仗を泰びて天降り供へ奉る。

二田物部  和泉郡二田(前掲)  二田物部神社 新潟県刈羽郡

當麻物部  大和国葛下郡(葛木二上神社、當麻都比古神社)、肥後国益城郡当麻郷 奈良県香芝市

芹田物部  大和国城上郡、城下郡、平群郡

鳥見物部もしくは馬見物部 馬見神社 福岡県嘉穂郡嘉穂町、馬見古墳群 奈良県大和高田市

横田物部  大和国添上郡(和爾下神社)

嶋戸物部  高倉神社「大倉主命、菟夫羅媛命」 福岡県遠賀郡岡垣町、岡湊神社「大倉主命、菟夫羅媛命」福岡県遠賀郡芦屋町

浮田物部  筑紫国遠賀郡、近江国高島郡(宇伎多神社)

巷宜物部もしくは菴宜物部 伊勢国菴宣郡、土佐国香美郡宗我物部

疋田物部  秉田神社奈良県櫻井市、石神神社「布都御魂神」香川県大川郡引田町、(賣沼神社)鳥取県八頭郡河原町曳田 福井県敦賀市引田 東京都秋川市引田?

須尺物部もしくは酒人物部 東生郡酒人 鵲森宮、森の宮遺跡

田尻物部  和泉郡田尻 筑前国三池郡田尻

赤間物部  筑前国宗像郡赤間、長門国豊浦郡赤間

久米物部  堺市遠里小野町  伊予国久米郡

狭竹物部  筑前国鞍手郡、常陸国久慈郡  稲村神社「饒速日命」茨城県常陸太田市

大豆物部  旧五個荘村大字大豆塚*6  大和国城上郡豆越か(鳥越説)、肥前国三根郡(物部神社)、大和国廣瀬郡大豆村

肩野物部  片埜神社 大阪府枚方市、岩所(磐船)神社 星田神社 大阪府交野市 美作国久米郡 長者神社

羽束物部  有馬郡羽束郷(羽束神社?)山城国乙訓郡(羽束師坐高御産日神社)

尋津物部  住吉郡敷津村(敷津松之宮)*6 大和国城上郡尋津

布都留物部 淡路国三原郡 輸鶴羽神社(鳥越説)

経迹物部もしくは住道物部 神須牟地神社、中臣須牟地神社、住吉大社 大阪市住吉区、東住吉区

讃岐三野物部 御野県主神社 大阪府八尾市  讃岐国三野郡

      相槻物部 大和国十市郡両槻

筑紫聞物部 豊前国企救郡(籾山神社「直入物部神、饒速日命 ほか」)大分県直入郡

播磨物部  西長居町小字播磨田*6   ?物部神社 神戸市垂水区、可美真手命神社 神戸市西区

筑紫贄田物部 剣神社 福岡県鞍手郡鞍手


敬愛するHP「神奈備」による


この重要性を鑑み、太宰府地名研究会はM氏によるご案内を得て現地トレッキングを行う事にしました。

Blog公開時点では終了しているかもしれませんが、自らの足を使い、自らの目で確かめ自らの頭で考える行動する研究者の集団しか今後は生き残る事はできないと考えています。

教育委員会、学芸員に尾を振り、自らを売り込もうとするようなさもしい研究姿勢では所詮ただの親睦会として何の業績も、何の痕跡も残すことなく消失して行く事にしかならないのです。



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皆さんは、何故、熊本城の最奥部に昭君(王昭君)の間なるものが置かれているのかをお考えになった事があるでしょうか?加藤清正は確かに豊臣秀頼を迎え入れ徳川と一戦を交える気構えで熊本城を造ったと言われます。それは毒殺により実現しませんでしたが、恐らく、秀吉を受入れた木下家とは五七桐紋を使う名家であり、この栄えあるトルコ系匈奴でも呼韓邪単于(コカンヤゼンウ)の流れだったからこそ、昭君の間が置かれたのではないか…と言うのが我が百嶋翁の解読でした。これ以外にも、多くのお話ができるのですが、それはblogなどで。


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365 タバコのもらい火 

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365 タバコのもらい火 

20160707

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久



百円ライター(これも「チルチルミチル」で有名な日本メーカーが世界で初めて開発したものですが…)が一般に普及するまで、喫煙者にはマッチしか火を着ける手段が無く、街角では煙草を吸っている全くの他人に「ちょっと火を頂けますか?」と互いの煙草でキスをして火を貰うという今から言えば妙な風景が当たり前だったのです。


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これは、そういった時代を知っている方しか分からない感覚だと思うのですが、たまには力を抜いて気楽な話に付き合って下さい。

 ただ、その話に入る前に、タバコの話が出たことから喫煙に関する発ガン性の有無についての話に触れてみたいと思います。

 まず、個人的にはタバコも酒もほとんど飲まない(他人の煙草は吸うとしていましたが)事からどうでも良いのですが、タバコの発がん性という話は、アメリカの原爆実験、地下核実験…による放射線障害をカモフラージュするために人為手的な攪乱行為としてありもしない喫煙と癌の因果関係が強調されたという考え方が医療関係者の間ではある程度知れ渡っているようです。

 そのアメリカからの直輸入で、禁煙から喫煙者の排除という愚かな(踊らされたという意味での)マナーが普及してしまったようです。

 当然ながら、禁煙、減煙キャンペーンの団体が造られ、薄汚いさもしい官僚どもが天下りして甘い汁を吸ったであろうことは言うまでもありません。

 これくらいの事は、直ぐに裏が透けて見えるのですが、タバコを吸うこと自体に意味があるなどと言うつもりは毛頭ない事だけは申し上げておきます。

 タバコとは禁断症状によって元々気分を悪くさせておいて、金を使わせてタバコを買わせ、少しだけ元の気分に戻すだけの麻薬に過ぎないのであって、個人的趣味には干渉しませんが、愚かな事には変わりはないのです(所詮はアヘンや初期のコーラ類)。

 現在、喫煙者は経済的な問題もあり肩身の狭い扱いを受ける事からもどんどん喫煙者が減り、喫煙率ははっきり下がっています。

 一方、癌の発生率はどうでしょうか?右肩上がりで上がっている事は言うまでもありません。

 素人目には因果関係が全くないことは明らかで、小汚い官僚どもはいくらでも理屈(本質を見るのには、長期的なスパンでものを見る必要があります…しばらく吸い続けて初めて病気になる…高齢化するだけでも、がんは増えます…)を捏ねるでしょうが、一般的な理解が正しいだろうことは経験的に分かるところです。

昭和30年代まで、農村ではキセルで煙草(タバコでは雰囲気が出ませんね)を吸う風景を良く観かけていました。

当然ながら、きざみ煙草で、農作業の合間にのんびりと、本当に旨そうに煙草を吸っている風景は何とも言えず懐かしくも優雅なものでした。

もう二度と見る事のできない懐かしい情景と言えるでしょう。

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 元禄煙草、キセルのラオし換え、雷煙草の話までする気はありませんが、キキョウ、アヤメ、敷島、朝日…など懐かしい限りです。


喫煙率は低下し続け、癌発症率は上がり続けている事だけを理解すれば十分でしょう。

 何故かと言えば、カモフラージュに利用されただけの事で、それを利用して厚生労働省の天下り官僚が小銭を稼いだだけの大した問題ではないからです。


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このようなくだらない議論はどうでも良いのですが、本質は核開発、核実験による放射線被爆をごまかすためにタバコによる発癌性が利用され米国の被爆者が放置され(9.11でも3.11でも)、これ幸いと薄汚い厚生労働省の天下り官僚と御用学者、御用医者がタッグを組んだと言うのが真相というところでしょう。

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