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スポット066 神社の行く末について     

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スポット066 神社の行く末について     

20161206

太宰府地名研究会 古川 清久(百嶋神代史研究会準備会)


現在、神社の存立が非常に危うくなっています。と、言うよりも、もう既に末端神社の壊滅が急速に進んでいる真っ只中と考えるべきでしょう。

 それは、年間2300社の未見の神社を訪問し、何度も足を運んでいる神社と併せ500社近い神社を実見している事から感じる事なのです。

 ある遭遇した知り合いの下級神官の某宮司が、68社兼務していたものを、最近、兼務神社が倍ほどに増えたと言って喜んでいたのですが、瞬間、“神職でありながらこの男は全く信用できない(同時に善悪の観念を持たない損得の感覚しかないさもしい人物”)と思ったものでした。

 それは、社殿の建て換え、修理、清掃、管理、地域(氏子)の維持には目が向かず、あがり=収入にだけ目が向いている事が容易に理解できたからです。

 まず、神社が投げ出されるにはそれなりの理由がある訳で、多くの神社が屋根の葺き替え、社殿の建て替え、その資金の捻出が氏子組織の壊滅状況によってほぼ絶望的になっているのであり、元々の管理神社の改修さえもできないのに、どう考えてもやって行けないと投げ出された行詰まった新規を抱え込むのですから、その引き受けた神社の存立など真面目に考えていないからこそ平然と引き受けられるのであり、目が収入の面にしか向いていない事は明らかだからです。


宗教崩壊

多くの寺や神社が存続の危機を迎えている。少子高齢化や地方の過疎化、後継者不足など、ありとあらゆる要因が大波となって宗教界に押し寄せている。「このままでは10年後、日本の寺や神社が半減する」。危機感を抱いた一部の仏教教団は、対策に乗り出している。だが、抜本的な策は見えてこない。「宗教崩壊」は一般庶民に何をもたらすのか。また、社会全体として、どんな影響が出るのだろう。寺や神社が消えることでの「物的崩壊」は既に進行中だが、同時に「心の崩壊」へと広がっていく危険性もある。日経ビジネスオンラインでは、「宗教崩壊」の現場に足を踏み入れ、実態を調査。各宗教教団本部にも取材し、複数回にわたってリポートする。いざという時に役立つ仏教知識、教養も得られるような構成にしてあるので、参考にして頂きたい。


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この方(鵜飼 秀徳住職)は寺院を念頭にお書きのようですが、恵まれた都市型寺院とは異なる、経営基盤の弱い地方の弱小神社に至ってはこの危機はもっと深く、「このままでは10年後、日本の寺や神社が半減する」といった状況を越え、恐らく十分の一しか生き残れず、存立できない神社が急速に出てくることになると考えています。



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少し、ネット上で拾って見ましょう。軽いところですが、…以下。


sp66-4何で日本で、氏子が減少して神社が潰れそうになってるんですか?

氏子の数が減少して、経営難になるところが少なくないようです。

全国で5000を超す神社・仏閣が経営難で、やくざに狙われているようです。何故氏子は減少したのでしょうか。


神職をしています。

氏子の減少、と言うのは、過疎地域で見れば正しい(?)表現ですが、全国的にみれば人口の減少はまだ始まったばかりですので、この言葉は当てはまりません。厳密には、「氏子意識の希薄化」でしょうか。

そもそも神社の氏子数は、1つの神社の氏子地域に住む人を、ほとんどそのままカウントしています。例えば仏教徒であっても、新興宗教の信者であっても・・・。これが文部科学省の出す統計に、そのまま表れています。ちょっと「大本営発表」ですね。

昔はこれでよかったのかもしれませんが、今日では地域住民の神社に対する意識が変わりつつあります。昔(20年以上前)であれば、祭などの時に氏子地域に住む人は、祭の時に協賛としてお金を出してくれたものですが、今では理解を得るのが難しくなっています(「何でそんなもの払わなければいけないんだ」といった感じです)。元々善意で成り立っていたものですが、地域社会の崩壊と共に、その「善意」が少なくなり、昔のように、やっていけなくなった、というのが現状です。

これは「神職が専業でやっていけなくなった」というだけでなく、社殿等の設備の維持に問題をきたしてきています。これが、「神社が潰れそうな理由」です。例えば今もし大地震があり、地域の氏神神社の社殿が崩壊したら、修復費用が無くそのまま放置、と言うような事態になりかねないでしょう。それは先ほどの「なんで払わなければならないんだ」が理由です。

最初に述べた過疎地域はもっと切実で、例えば集団離村した地区の神社などは、存在そのものが忘れ去られている場合もあります。

結論的には、「神社離れ」が進んでいる、と言うことでしょう・・・。


衰退しゆく「伝統宗教」斎藤吉久

その数18万を超えるといわれる宗教法人が激減している。直接の原因は平成7年末の宗教法人法改正である。従来は宗教法人を「いじらない」「いじられない」状況下で、いったん法人格を取得すれば、何をやってもかまわない、というような実態があったが、役員名簿や財産目録などの提出を義務づける法改正で「休眠法人」が洗い出され、清算・解散が行われるようになった。きっかけはいうまでもなく「オウム事件」である。

といっても、文化庁の統計を見る限りでは、大きな変化は見られない。「宗教年鑑」に記載される神職や僧侶の数、氏子や信者数は各団体の自己申告に基づいていて、正確な実態をかならずしも反映していないからだ。また、神職が常住しない小さな神社が1宗教法人と数えられる一方で、公称世帯数812万の巨大な会員を擁する創価学会が1法人にすぎず、カトリック中央協議会は全国に813の教会がありながら包括する法人はゼロというのでは、宗教法人数で教派・教団の教勢を判断することは不可能だ。

けれども、水面下では日本の宗教史上、空前絶後ともいうべき大きな地殻変動が確実に進んでいる。神社神道や既成仏教などの伝統宗教は、よって立つ信仰基盤を失いつつある。民族宗教にとっては、紛れもなく「末法の時代」の到来である。


まず、神社とか寺院とかいったものは、現世救済という実利団体は別として、直接、民衆に対して、目先の利益とか物理的に役に立つものを提供する組織でありません。

しかし、列島に住む人々は、自らの食を削り、永きにわたって僧侶や神職を経済的に支えて来ました。

このため、僧侶や神職とか言った人々は民衆に養ってもらい民衆に食べさせてもらっていると言う自覚を持つ必要があり、要求はされないものの底流では清廉潔白な生き方をすることを求められているのです。 

それだけに僧侶や神職といったものは、間違ってもベンツを乗り回したり、パチンコに興じたりするのはもってのほかで、本来は、日々、学問に励み(それも真実を追求し民衆に伝える義務を負っているのであり、間違っても権力の手下として尾をふるような嘘学問のまねはできないのです)、清廉な生き方をし、最低でも氏子、広くは民衆と地域のために奉仕し続けなければならない責務をおっているものなのです。

このため、戦前の延長のような感覚で偉そうに氏子に過度の要求をしたり、教訓めいた事ことを言う宮司を見掛けますが、彼らが受け取る報酬とは、所詮、法的な裏付けがないもので、氏子、檀家と言ったものが精神的に離反したり、民衆自体が疲弊したりすれば、たちどころに生活の基盤を失うものなのです。

このため、生き残りのための競争が神社や寺院の間では静かに始まっているのです。

この事にいち早く気づき、民衆に真実を伝え、民衆に奉仕する神社や寺院が色々な試みを始め、民衆への働き掛けを始めているのです。

この事に早くから気付いているのは元々確立した檀家組織や氏子組織と言うものを持っていない仏教系神道系を問わず新興の宗教勢力は、無理に考えなくてもなくとも、自然と民衆と接触し、困窮し疲弊している民衆の救済のための意識を持ち、活動を始めているのです。

遅ればせとしても、寺院や神社に届けられるお賽銭やお布施の一部でも母子世帯に配るとか子供食堂にすら来ることが出来ない家庭への救済へと動くとか、パートに追われ子供や老人の世話ができない家庭へ寺院や神社を開放するとか、全国を放浪する学生や失業者に境内や宿坊を開放するとか、一般的な奉仕活動でも、とにかくそのような視点を持ち行動を開始しなければならないはずなのです。

偉そうなことを言う前に、ストリート・チルドレンとかマンホール・チルドレンとかフィリッピンのスモーキー・マウンテンの救済をしろとまでは言っていないのですが、そういった視点を持たない人間が凡そ神職を気取ってみても、既に、神社に対するシンパシーも存在価値も失った若い世代の民衆からは益々浮いた存在になっている中では民衆を食い潰し、最期まで寄生するする無価値な存在であり続ける事になるのです。

特に危機的なのは、戦前の反省とかから勝てもしない戦地に旗を振って送り込んだ神職のイメージから(例え人為的に戦争を引き起こそうとした英米の金融マフィアから嵌められた実質的な祖国防衛戦争=聖戦であったとしても、実際に権力の手先となって勝てもしない戦いの尻押し舞台になった神職が大半だったのですから)戦後は事実上の戦犯扱いとなり、神社も神様も民衆は教育も説明もされておらず、とうとう神職自体が基本的で初歩的な知識さえも持っていないのですから、民衆が何故神社を守らなければならないかさえ知っていないという極めて危うい構造になっているのです。

恐らくこれが「神職をしています。」氏が“結論的には、「神社離れ」が進んでいる、と言うことでしょう・・・。”と書いている部分なのです。

この点、最低でも骨を握り墓を抑えている寺院は良いとして、神社の方が事態は極めて深刻である事が分かって頂けたと思います。

既に注連縄を造れる氏子は十年どころか、後数年で消えてしまいます。

それどころか稲藁さえも手に入らなくなるでしょう。

昔は争って神輿を担ぎたいと集まってきた氏子は既に存在しません。

頼まなくてもせっせと参拝殿を掃除に集まってくる婦人会のおばさんたちも、生活のために65才を過ぎても僅かな金を稼ぐためにパートに出なければならず、床は埃だらけで、境内は落葉だらけになっています。

掻き入れ時の正月、七五三も、豊かな家庭だけが着飾り気取って参詣するだけで、参拝客が激減しお賽銭のあがりが激減している事は宮司ならずともご存じのはずです。

それどころか、寺院や神社に来てもお賽銭をあげる風習さえも消えつつあるのではないかと思うほど事態は深刻になっているのです。

こうしたなか、国宝とか指定文化財などになっていない神社や寺院は深刻で、戦後民主主義の中で、宗教法人のために国税が投入されることを禁じた国家([政府])と宗教の分離の原則憲法を恨む関係者は多いはずです。

まあ、前述のどこかのさもしい宮司(奇しくもK県K市K○○神社とク―・クルックス・クランの3K)は、増えた氏子をただの収入としか考えていないはずで、結局、社殿の閉鎖か統廃合といった形で、神社や氏子ではなく宮司家を守る方向でしか考えない事でしょう。

結局、投げ出した宮司と、これ幸いと引き受けた宮司のどちらが引き渡された氏子を大切に考えているかと言うと、きちんと維持しなければならないしそれができないから投げ出したのであって、どうにかなるだろうとこれ幸いと安易に引き受けた方がその氏子と神社を軽く考えている事は明らかで、いずれその結果を目撃する事になるでしょう。


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スポット067 トランプ現象によって明らかとなった愚かで薄汚い洗脳装置としての大手マスコミ

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スポット067 トランプ現象によって明らかとなった愚かで薄汚い洗脳装置としての大手マスコミ 

20161206

太宰府地名研究会 古川 清久(百嶋神代史研究会準備会)

 

blog「ひぼろぎ逍遥」 スポット063トランプの勝利は何を意味するか?において、実質的にはこの重たい掲示板の執筆者である敬愛する副島隆彦氏だけがトランプの勝利を予測し、確実に未来を見据えていた事をお伝えしています。

彼は、福岡市出身の63才の国際政治ジャーナリスト(本人がこれを由とされるかは不明)ですが、透徹した分析力、従って予見力は他の追従を全く許しません。

「大番狂わせ」「トランプ支持者は表面に出ないため隠れ支持者が多く分析が難しい」などと、誤魔化しているが、マスコミに重宝される外れ組の大半は分析力を持っていないのであり、結果として驚かされたとしても、マスコミの主流派は最初から予定されていたヒラリー支持の宣伝マンとして世論誘導に動いていただけの言わば嘘つきだった事が明らかになったのでした。

唯一、分析力を持ち世論誘導に伴う報酬としての利権構造からも独立した副島隆彦だけが正しい評価が出来ていたのでした。

数か月前から米国大統領選に関する彼のユーチューブ映像を注目していた事から、彼だけが情勢を読めていたと分かるのです。

最低でもこういった事を知って頂く為に副島氏について一端をご紹介したいと思うものです。


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[2065]これが、現代アメリカ政治思想の全体像 です。 これを何とか分かりなさい。

 

投稿者:副島隆彦 投稿日:2016-12-0610:25:30

 

副島隆彦です。

トランプ当選(ヒラリー派、敗北)から、早くも一ヶ月が経(た)った。

トランプ勝利の 衝撃は、今も続いている。 こんな男は、はやく殺してしまえ(暗殺しろ)、という

米、欧、日の 支配階級(エスタブリッシュメント 、笑。この語を彼ら自身が認めてしまっている)は、

激しい内心の憎しみを込めて、呪詛(じゅそ)し、念(ねん)じている。 私、副島隆彦には、この「感じ」がしみ通るように分かる。

 それで、「副島さん。なぜ、あなたは、トランプの当選、勝利をあれほど、明確に予測(予言)できたのですか」 と、 各所から、聞かれる。 私への質問は、そのほか、いろいろとある。

そして、「これからどうなるのですか。 これから世界はどうなるのですか」という、質問がある。

私は、怒り出して、 「これから、どうなるんですか」ばっかり言うな。 これまでの、アホの、知恵の足りない、その 威張り腐ってきた、 お前(自分)自身を、深く反省せよ。

「馬鹿の一つ覚えのように、これからどうなる、ばっかり言っているな。この、馬鹿」と、私は何人かを、叱りつけた。 本当は、私が、叱(しか)りつける相手は、 日本で、自分たちが、一番頭がいいと、思い込んでいる、 官僚のトップたちと、新聞テレビの記者たちと、 学者どもだ。

こいつらの、横っ面をひっぱたきながら、私が、「この世界で通用している、大きな真実、大きな

共同了解事項」 を、 逐一、教えてゆかなければいけないのだ。

今は、 私、副島隆彦が、どんなに、こういうヒドい、悪罵(あくば)を、投げつけても、黙って、副島隆彦の言論を聞かなければいけない段階らしい。 そのように 私に、素直に、正直に言う者たちもいる。

だが、その一方で、「ソク、副島の やろう。威張るんじゃない。お前の言うことなんか、オレの耳の中に、入ってこないよ。お前の言うことなんか、理解してたまるか」 という、激しい、私への敵愾心(てきがいしん)、反発、反抗もある。

だが、やっぱり、副島隆彦から習おう。その方が、自分の身のためだ。 この世界が、どうようになっているか、どのような原理(げんり、プリンシプル)で、動いているか、知りたいんだ。これを知って、分からないと、自分のこれからの死活問題になる、 と、 バカでなければ、感じるらしい。  それじゃ、やっぱり、 私、副島隆彦から、いつもの、泥棒の、盗み読みでも何でもいいから、学ばなければ済まないだろう。  私は、お前たち、土人の酋長(しゅうちょう)の家来、呪(まじな)い師(これを、tribal dignitarieis , トライバル・ディグニタリーズという) たちなんか、大嫌いだ。 が、日本人、日本国民がかわいそうなので、日本国のために、私が、大きな真実を教えてやる、有り難く聴け、ということになる。

それでだ。ここの学問道場の会員と、それに近い人たちで、私、副島隆彦の本を、これまでに真剣に読んで来た人たちは、大きな有利の立場にある。 あなたたちは、すでに、「副島ワールド」への、入(はい)り口(ぐち)、入口があって、そこから、入ってきてくれた人たちだ。

だから、私は、感謝の気持ちを込めて、あなたたちに、 「もっと、奥の方に、思想の中心部分に、入ってきてください」と、言う。

それが、以下の、たった一枚の 大きな画像だ。 私の主著(しゅちょ)である、「世界覇権国アメリカを動かす 政治家と知識人たち」 (1999年刊、初版は、筑摩書房から1995年刊)の

初めの、冒頭の 2ページ見開きの、 図表だ。



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世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち (講談社+α文庫)

 

これが、「アメリカの現代の政治思想の 全体像」だ。 これまで、この図表を、見ていなくて、

理解しようともしなかった皆さんは、今こそ、じっと、じーっとこの図表を 見なさい。

そして、なんとか理解しようとしなさい。 そうしたら、今以上に、格段に、頭がよくなります。まだ、「副島隆彦のワールド」への入り方を知らない人たちに比べて、あたなたちは、ものすごく有利なのです。


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この3枚の図表を、これから、日本というアジアの土人国の、一番、秀才だと自分では思っている

者たちが、理解しなければ済まないのだ。 すでに、密かに、ドロボーしている者が、500人ぐらいいる。 官僚、新聞記者、学者、言論人どもだ。 私、副島隆彦の名前を出して、しっかり引用を明示して、私に、感謝して、それから、自分の意見(コメント)を書きなさい。  

これから、2万人ぐらいの 日本の インテリたちが、この図表を 、どうしても、どうしても、理解しなければ済まなくなる。

それは、なぜなら、「どうして、副島隆彦は、トランプの勝利を、あんなに確信をもって事前に 予測できたのか」 の 理由は、この一枚の、「政治思想(ポリティカル・ソートの諸流派、というものは、どういうものか」を、 私が、日本人では唯一、世界基準(ワールド・バリューズ)で、分かっていて、この理解から、当然に導かれる結論が、トランプ勝利だったからだ。

これは、土人の知識人たちにとっては、驚きをもって迎えられるコトバだが、これが真実だ。

この図表を、会員も、土人の国の知識人たちも、穴が空くほど、見つめなさい。それから、この本を、読みなさい。 あ、その前に、「トランプ大統領 とアメリカの真実」(日本文芸社7月刊)を、読んでいないような、横着者(おうちゃくもの)は、話にならないから、私たちのここの 学問道場に近づくな。 ネット人間が、ダメなのは、本を買って読まない、という点だ。

これから、私は、全国各所に、 この 「この500年間の ヨーロッパ近代が、作った政治思想の各流派(=思想の潮流)が、200年前から、アメリカに移転して、どのように成長したのか」を、教えて回るだろう。 それが、私、副島隆彦の天命(てんめい)だから、私は、それを着実にやる。 どんな質問にも、私は、徹底的に、平易に答えるだろう。

私は、もう 63歳だぞ。 この図表を作って、本に似せたのは、今から21年前だぞ。

私の、苦労を少しは理解しなさい。いや、会員たちの中には、私の苦労を分かってくれて、それで、学問道場を、ずっと応援してくれている、本当に、頭のいい、生来の優れた人間が、たくさんいます。 私の同志だ。  私は、あなたたちを、いつも大切に思っています。

 

副島隆彦 拝 

 後は、ご自分でお考えください。



 

366 既に死語となった懐かしい言葉

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366 既に死語となった懐かしい言葉

20160707

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


読者の皆さんは、「キャラコ」「ラクダ」「ネル」「メリヤス」「ニッカポッカ」「ジュバン」…といった言葉が分かるでしょうか?

 正直申し上げると、個人的にも良く分からず使っていたようなのですが、改めて気になって確認する事にしました。

概して、衣料関係の名称は流行に乗り流行に泳ぎ流行を創り売上げを伸びばそうとすることから、頻繁に名称が換えられ、例え同じものであっても、別の呼び名にして新商品を装おうとするもののようです。


 キャラコ

 キャラコは綿製品でインドのカリカットと関係があるとの認識は持っていましたが、寅さんのステテコも日本製のキャラコとまでは知りませんでした。


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インドは木綿の原産地といわれ、綿布は古くからインドの主要輸出品であり、ヴァスコ・ダ・ガマに始まるヨーロッパ人来航後も変わらなかった。インド綿布はルネサンス時代にヨーロッパにもたらされたが、その軽さ、手触りの柔らかさ、あたたかさ、染めやすさなどによって爆発的な人気をよび、17世紀以後インドに進出したイギリス東インド会社はこの貿易によって莫大な利潤を得た。カリカット港から輸出された綿布は特に良質で、この積出港の名がなまってキャラコとよばれた。

キャリコ織機

この綿織物を国内で安く大量に作りたいという動機が、イギリスの発明家ジョン・ケイの飛び杼にはじまる技術革新を促し、産業革命の興起を招くこととなる。しかし、このことはインドの手工業者の職を奪い、腕利きの職人が大量に失業したため、ドイツの経済学者であるカール・マルクスによって「職工夫の骨でインドの平原が白くなった」と形容されたほどの惨状を呈した。

日本のキャラコ

日本でも生産されている。日本で「キャラコ」と呼ぶ場合はインドとは逆に薄手で織り目が細かい糊付けした純白の布地を指し、主に足袋やステテコの材料となる。


ラクダ

 ラクダと言えば、直ぐに落語の「ラクダ」が頭に浮かびます。

本題は「駱駝の葬礼(ソウレン)で、上方落語では「らくだの卯之助」、江戸落語では「らくだの馬」がフグの食あたりで死んで葬式が始まるという噺でしたが、衣料のラクダの方は股引との頭があります。

ラクダは毛が柔らかでなため高級な繊維とされていたようで、実際に昔はラクダの毛で股引を作っていたそうです。冬に暖かく、セーターやコートにも使われる高級織物だったのです。



ネル

 ネルと言えば、ドリップ・コーヒーのネルの袋が浮かんできますが、現在は一部のマニアックな喫茶店で本物のコーヒーを作るときに使うネル・ドリップの生地がそれです。

 これも良く分からなかったのですが、フランネルの短縮形がネルだったのです。

 ネルの長襦袢(ジュバン)とかが頭に浮かびますが、今度はジュバンが分からないとの声が聞こえて来そうです。

和服用の下着が襦袢ですが、これも、「ジバン」「ジュバン」とも言い「袖の広い上着」を意味するアラビア語「jubbehが語源とされています。


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フランネル(英: Flannel)は柔らかく軽い毛織物のこと。略してネルともいう。衣類、シーツとナイトウェアに一般的に用いられる。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に織る平織りや2-3本おきに交互に織られる綾織りがある。無地だけでなく、様々な模様が施される。フランネルは当初カーディングが施されたウールまたはウーステッド糸から作られたが、現在ではウールと綿、ウールと合成繊維から作られることもある。イギリスのフランネルは平織りで毛羽が軽く、一方ドイツのそれは綾織りで毛羽が多い。柔軟で弾力性・保温性に優れスーツ、シャツなどに用いられる。

ウィキペディア(20160707 13:00による


 メリヤス

これは死語とまでは言えないかもしれませんが、いずれ消えて行く事でしょう。


莫大小,目利安などの字をあてる。ジャージー,トリコットなどを含めた機械編み布地の総称。名称は江戸時代初期に靴下をさすスペイン語の medias,ポルトガル語の meiasが転訛したもの。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説


「ニットと同義語。編物のことを昭和30年代頃まで、一般にメリヤスといった。以後、編物の急激な発展により、外衣までも含めた衣料の主要生地となったため、肌着、靴下のイメージの強いメリヤスから順次ニットということばに移行した。メリヤスとはポルトガル語のメイアッシュ(meias)、またはスペイン語のメジアス(medias)からきた言葉といわれているが、いずれも靴下という意味である。現在でも肌着などの生地はメリヤスと言うことばが一般的。」。

新ファッションビジネス基礎用語辞典(株)織部企画 より


 「ニッカポッカ」

これも分かっているようで良く分からない言葉です。鳶職やゴルフの時着る服との認識もあり、外来語という事は分かりますが、調べてみました。


ニッカーボッカーズ(英: Knickerbockers)はズボンの一種で、長さが膝下までですそが括られた短ズボン。野球、ゴルフなどのスポーツウェアとして広まり、現在日本では土木・建設工事の作業服として多く見られる。ニッカ(ー)ボッカー(ズ)、ニッカポッカ、ニッカズボン、ニッカー(ズ)とも呼ばれる。

ニッカーボッカーズの起源は、オランダからアメリカへの移民が着用していたブリーチズと呼ばれる短ズボンである。

ウィキペディア(20160707 13:50による


これは、生地とは関係がないようですね。そう言えばイタリア戦線のジョージ・パットン将軍が着ていたのも、これなのでしょうか?



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スポット067 「柴刺」(シバサシ)“忘れられた古代の祭儀”

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スポット067 「柴刺」(シバサシ)“忘れられた古代の祭儀”

20161210

太宰府地名研究会 古川 清久(百嶋神代史研究会準備会)


2002年に公刊された「柴刺」馬場紀美史(葦書房) という本があります。


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宇佐神宮の神官であり神社研究者でもあった馬場紀美史氏によるものですが、現在、百嶋研究を進めるメンバーの北関東で二~三名、大分で二名によって読まれています。

当方も「柴刺」以外の本も含め読んでいるのですが、宇佐神宮の本質、全体として神社史の古層を探る上でも重要な一書であり、無視はできないのです。

大正10年生まれとありますので最早ご存命ではないと思いますが(存命なら95才)、十五年前の公刊ですので、この時点(80才)での出版では既にこの著書の重要性を理解できる必要とする方の絶対量も少なく、結果としては遅すぎた出版だったのではないかと思うものです。

その分、洗練され尽くし最高水準の内容として完成度の高い一書となっているのでしょう。

実質的には宇佐神宮の聖典とも言えるもので、個人的には他の著書(数著)と併せ読もうと思っています。

では、「柴刺」とは何でしょうか? 実は中国の少数民族の一つ彝(イ)族の儀礼でもあるのです。


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勿論、祭礼、葬礼などに於いて、色々な枝を刺すという儀礼、神礼の事なのです。

今でも茨城県では一部に残っているとも聴きますし、これに似たものを熊本県の葦北郡でも見たことがあり、列島にはどのような人々が入ってきたかを考える上で、重要な示唆を与えてくれるものとなっています。


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イ族(イぞく、彝族, 拼音: Yízú)は中国の少数民族の一つ。2010年の第6次全国人口普査統計では人口は8,714,393人で、中国政府が公認する56の民族の中で7番目に多い。

彼ら自身は「ノス」と呼ぶ。もとは「夷族」と表記されたが、清朝時代に、自らも漢民族ではない支配階層の満州人が蛮族を意味する呼称を嫌い、同じ音に「彝」の字をあてた。彝は「祭器」転じて「道徳」などを意味する雅字。「ロロ族」という呼称もあり、かつては自称であったが現在は蔑称。「ロロ」とは、イ族自身が先祖崇拝のために持つ小さな竹編み。当て字の「玀猓」では、部首にけものへんを付け加えるなど、多分に蔑視的な要素を含んでいる。

ウィキペディア(20161211 10:15による


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実は同書の最終章においてこの彝族の儀礼を詳細に取り上げておられます。

馬場氏が最も主張されたかった事がこの部分だったのではないかと思うほどの力の入れようです。

実際に現場を踏み、中国の文献にも目を通しての研究であっただけに、福岡市の中心部におられた百嶋由一郎氏お間違いなく読んでおられたはずですし、馬場氏が宇佐神宮福岡出張所長であったことから最低でも実際に面識をお持ちで、もしかしたらお付き合いもされていたものと思います。

遅れ馳せながら、私達も500pの大著に取り組んでおり、百嶋研究との接点を探りたいと思っています。

馬場氏も百嶋先生の草ヶ江神代史研究会に参加されていた可能性があるのではないかとも考えている次第です。

最後になりますが、“倭人とは何か“を考える時、「ワ」人と読むのではなく、「ウィ」もしくは「イ」=「ヰ」であるとすれば、この民族も列島に入って来ていたのではないかと思うのです。

それが「常陸国風土記」に出てくる武甕槌=鹿島大神による“同族だまし討ち”征服を思わせるのです。

その意味で同書の458pも我田引水的ですがご紹介しておきます。

雲南省麗江からの新興亡命者であった阿蘇氏に征服された先住者も広義の九黎族の一つだったはずなのです。だからこそ常陸の国の先住者は、歌や音色に魅かれて油断した所をだまし討ちされたのです。


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367 甘木朝倉の田神社からタノカンサーが擬神体である可能性について

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367 甘木朝倉の田神社からタノカンサーが擬神体である可能性について 

20160707

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

 

百嶋神社考古学では鹿児島県に集中する田神様(タノカンサー)を博多の櫛田神社の大幡主と大三島に鎮座する大山祗命との擬神体とします。

一般的には正体が分からない事から、民俗学の影響もあり、田神様(筑後川北岸に多くの田神社がある事もご存じなく)を春の田植の頃に降りてくる山の神などと曖昧な話で分かったような気になり、自己満足し納得されているようです。

 ひぼろぎ逍遥 182タノカンサーの正体とは何か?“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市甘木から”302 甘木に二つ目のタノカンサーを発見した!(共通掲載)外で書いた“鹿児島のタノカンサーは大幡主と大山祗の二神による擬神体”という意味を中々理解できなかったのですが、今回、「福岡県神社誌」によって朝倉郡の無格社を調べると、同郡内に40の無格社 田神社(埴安命…=大幡主)があることが分かり、その外延部にも多くの大山祗神社が存在している事が分って来ると、大幡主と大山祗の二神による擬神体という表現に俄かに現実性が帯びてきたのでした。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)271 田神社(タノカンサー)は朝倉郡を中心に50社近く存在した 参照のこと


 

 そして、大山祗命の総本山(実は国譲りに絡み配置換えが行われた…)である大三島の大山祗神社の縁起にも「擬神体」という表現が出てくるのです(以下)。


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日本総鎮守大山祇神社

大山祇神社は、瀬戸内海のなかでも特に景勝の地である芸予海峡の中央に位置して、大小の島々に囲まれた国立公園大三島に、日本最古の原始林社叢の楠群に覆われた境内に鎮座している。御祭神は大山積大神一座で天照大神の兄神に当らせられる。

天孫瓊々杵尊降臨の際、大山積大神、またの名吾田国主事勝国勝長狭命(大山積神の擬神体)は女木花開耶姫尊を瓊々杵尊の后妃とし、国を奉られたわが国建国の大神であらせられるが、同時に和多志大神と称せられ地神・海神兼備の霊神であるので日本民族の総氏神として古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。

 大三島に御鎮座されたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の子孫・小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り瀬戸内海の治安を司どっていたとき芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮祭したことに始まる。

 本社は社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称せられ歴代朝廷の尊崇、国民一般の崇敬篤く奈良時代までに全国津々浦々に御分社が奉斎せられた。延喜式には名神大社に列し、伊予国一の宮に定められ、官制に依り国幣大社に列せられた四国唯一の大社である。現在官制は廃せられたが、地神・海神兼備の大霊神として千古に変わらぬ崇敬を寄せられ、全国に奉斎される大山祇神社・三島神社の総本社として、又数万点に及ぶ宝物類を蔵する国宝の島として四季を通して多数の参拝がある。       境内由緒書

 

神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識 より

 

 確かに百嶋由一郎氏は“鹿児島のタノカンサーは大幡主と大山祗による擬神体である”とされました。

 ただ、それは、南九州での事であって、甘木、朝倉の田神社、田神様の大半は埴安命=大幡主を単独で祭神としており、大山祗神社(山神社)も主神は大山祗であり、両神は分離しているように見えます。

 そこで、甘木、朝倉方面でその痕跡が残っていないかと探して回ったのですが、筑前町楢原(全国にある奈良地名のルーツと言ったのは百嶋先生でしたが…)の老松神社でそれらしき痕跡を発見しました。


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明らかに二神で祀られていますが、もう一体が山神 様(大山祇命)だと思われるのです

 

「福岡県神社誌」によれば、同社は朝倉郡安川村大字下淵字三府御に老松神社があるが、同社は 神功皇后、菅原神、吉祥女 を祭神として、摂社に赤岩神社、末社として稲荷神社、田神社が祀られているとされています。 

 今のところ、これ以上の探査はできませんが、田神、山神=大幡主、大山祗という線上で調査を続行します。


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368 富士山頂のUFOの画像を公開します

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368 富士山頂のUFOの画像を公開します

20160708

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久



これは629日の夜10時頃にある女性から送られてきた画像です。

 撮影したのは別の女性で、熊本から東京に出張する途中に富士山上空を飛んでいる途中に携帯電話で撮影した画像との事です。


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熊本発 羽田行 のJAL12時過ぎとの事でしたから、JAL628便で間違いないようです。

 前の席で左側の窓際に座っていたそうですから、最良の場所で撮影できたようです。

 当然、操縦席からも見えていたはずですが、UFOを見たと騒げば地上勤務に回されることから当然全員が自主規制してしまうはずです。

 左の写真が先で、右の写真が後だそうです。4機のUFOと言っていましたが、確かに4つの光が移っています。



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当然、富士山上空のようですね


航空路線図を見ると確かに富士山の南側を通るようですね。


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(追記)


 別にUFOマニアでもありませんし、UFOに熱中もしていません。何故なら、こちらは日本版ダビンチ・コードで古代史の解明に取り組んでいるのですから遥かに熱中する価値があるものがあるのです。

ただ、長い人生でも、信頼できる身近の人からその画像を貰える機会にはなかなか遭遇しませんので(真偽は別に画像解析などして頂ければ良いだけの事ですから)、その筋の方にお任せするとしてとして画像は公開しておく事にしておきます。

 この画像を送って来られた方は、自ら熊本地震の被災者(半壊扱い)でありながら、翌日から炊き出しや支援物資の配布のために奔走し、人助けのために数十人単位で組織だって動いた方だったために、どこか(K県K市K神社)の行政や教育委員会に思いっきり尻尾を振り自らを売り込もうとするさもしいKKK(3K)神官とは人格が異なり、信頼できることから、また動き出した旧石器ねつ造事件のF田のように画像を捏造されたものではないと考えたまでの事なのです。

スポット076 ぶどう寺の参拝客急増について(繰り上げ掲載)

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スポット076 ぶどう寺の参拝客急増について(繰り上げ掲載)  

20170105

太宰府地名研究会(百嶋神社考古学研究班)古川 清久


ヤフー・ニュースに ひぼろぎ逍遥(跡宮)212 勝沼ワインの里の大善寺① “山梨県甲州市勝沼町勝沼の五所神社の神宮寺” 213 勝沼ワインの里の大善寺 ② “大善寺の全国的傾向”で取り上げた甲州市勝沼の古刹 大善寺の記事が出ていました。


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“逃げ恥”効果!ロケ地の寺が初詣客で大にぎわい 新たな縁結びスポットに


 全国の寺社では2日、多くの初詣客でにぎわった。昨年大ヒットしたTBSドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」ののロケ地となった山梨県内の寺には若いカップルらが押し寄せた。“逃げ恥”ブームに乗り、新たな縁結びスポットとして脚光を浴びている。(スポニチアネックス)
元々“ぶどう寺”として有名で、寺で醸造したワインを振る舞っているが、ドラマで出演者が飲んだ赤ワインは昨年末で完売。「例年は3月まで残っているのに、あっという間に売り切れてしまいました。初詣客の皆さまには白ワインとぶどうジュースを飲んでいただいています」。ドラマに登場後の昨年11月には1カ月間で全国から約5000人の参拝客が訪れた。これは前年同時期の約10倍で、その人気ぶりは年明けも衰えなかった。
 一方、最終回ロケ地となった横浜市の篠原八幡神社も初詣客が増加。横須賀市から来た今井俊介さん(32)と久我宏子さん(26)は「いつもは鎌倉ですが今年は逃げ恥を見てここへ来ました。来年も仲良くいられるようお願いしました」と恋愛成就を祈願。神社関係者は「逃げ恥効果もあり境内の外まで列ができました」と話した。
この勝沼の大善寺に関心を持ったのは、幻の九州王朝宮廷舞と考える「筑紫舞」の伝承神社である宮地嶽神社の神紋である三階松がこの勝沼のぶどう寺大善寺にも使われているという事実を知ったからでした。




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この三階松に守られたように見える真ん中の「唐花」=「門光」の神紋こそ久留米の高良大社の奥に隠された本当の九州王朝の神紋なのです。
昨年11月、三週間を掛けて北関東、山梨の神社調査を行いましたが、その際、このぶどう寺も見せて頂きました。
それ以来、何故、この国宝ともされるぶどうを持った薬師如来が造られているのか?
ぶどう寺の薬師如来堂を寄進した三階松の家紋を使う三枝氏とは如何なる氏族なのか?
何故、この氏族が甲斐に住み着いたのか? 門光の神紋が何故打たれているのか? 
ぶどうを列島に持ち込んだのは如何なる民族なのか?=葡萄という言葉自体はペルシャ語ともギリシャ語とも言われますが、仮にペルシャ語で
budauあり、中近東の陸続きのエリアですから通底していると言って間違いないはずで、それらを持ち込んだ民族とはスサノウ系だったのではないか…。…といった事を考え続けて来ました。

ぶどう寺については、既に、二本のblogを公開していますが、この問題に関して新たに五~六本のblogを書きました。

ぶどう寺の国宝如来堂改修費用のねん出も同様ですが、多くの神社、寺院が苦労されています。

既に、生き残りを掛けて多くの社寺が努力をされていますが、本来、国家、地方自治体は宗教団体への税金の投入を行わないという憲法の立場があります。

ただ、その代償として、課税しない事によってこれらの社殿の新築、改修費用を賄える構造にはなってはいるのですが、愚かな小○竹○改革による国民の所得の激減を含む社会全般の変化により、特別な社寺を除いてほとんどの社寺の存立基盤が揺らいでいるのです。

そうした中、宮地岳神社の光の道と併せぶどう寺の参拝客の急増は喜ばしい限りです。

共に三階松の神紋が打たれた二つの社寺が思わぬ脚光を浴びている事に奇妙な因縁を感じるのですが、どうせなら、ブームに併せ、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)で公開する前に先行して「ひぼろぎ逍遥」で先行掲載したいと思います。

ここでは、以前、公開した二本のblogの一部を再掲します。


以下、 ひぼろぎ逍遥(跡宮)212 勝沼ワインの里の大善寺① “山梨県甲州市勝沼町勝沼の五所神社の神宮寺” の一部づつを再掲載。


九州王朝の最大拠点の一つと考える福岡県久留米市大善寺町の大善寺玉垂宮の「大善寺」という名の寺が宗派を超えて全国に存在しているという奇妙な事実です(天台宗の大善寺も存在する)。

これが、ただの偶然ならば悩む必要は一切ないのですが、まずは調べて見る事にしましょう。

次は大体の傾向を見るためにランダムに拾い出しをしたものです。


大善寺香川県高松市国分寺町真宗大谷派  (元は天台宗)

大善寺 高知県須崎市     高野山真言宗

大善寺 東京都八王子市    浄土宗系の単立寺院

大善寺 福岡県福津市     浄土宗    (宮地嶽神社に近く付近に勝浦地名あり)

大善寺 山口県萩市      日蓮正宗
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大善寺 広島県三原市     浄土宗

大善寺 岡山県矢掛町     浄土宗

大善寺 島根県益田市     日蓮正宗

大善寺 鳥取県鳥取市     浄土宗

大善寺 兵庫県福崎町     東寺真言宗

大善寺 愛知県江南市     臨済宗

大善寺 愛知県新庄市     浄土宗

大善寺 奈良県五條市     高野山真言宗

大善寺 京都府京都市伏見区  浄土宗

大善寺 三重県津市      浄土真宗 本願寺派

大善寺 静岡県島田市     浄土宗

大善寺 群馬県桐生市     浄土宗

大善寺 滋賀県新旭町     天台宗    (天台真盛宗の総本山)

大善寺 福井県坂井市     真言宗智山派

大善寺 山梨県甲州市     真言宗智山派 (元は天台宗)ぶどう寺として高名

以下省略(青森県を始めとして東日本にもあるようですが…)

大善寺 福岡県久留米市    天台宗

大善寺 大分県宇佐市     曹洞宗    (宇佐神宮の神宮寺で元は天台宗) 公式には弥勒寺


 多くの神社を見続けているのですが、神宮寺と思われるものに限らず多くの大善寺が全国に存在している事にかなり前から気付いていました。
 特に、九州王朝の中枢部と思われる福岡県久留米市大善寺町を起点とし、大分県宇佐市の宇佐八幡宮まで存在していたと推定している九州王朝時代の古代官道の終点にも、同じく字大善寺があり、大善寺と言う名の曹洞宗の寺が存在していた事を意識して以降(これについては、「ひぼろぎ逍遥」跡宮 093 宇佐神宮とは何か? ③ “宇佐神宮の神宮寺としての大善寺”を参照)、最低でも西日本に広く存在する宗派を超えた大善寺は、日本の仏教宗派が形成される奈良の南都六宗派 三論宗成実宗法相宗倶舎宗華厳宗律宗 以前に既に存在していた可能性があるのではないか?また、九州王朝の国寺が存在し、それが大善寺と呼ばれていたのではないかと考えるようになったのでした。
 勿論、これらの奈良以降、多くの仏教教団が成立して千数百年のこのかた、天台から真言、平安仏教から浄土宗、浄土真宗など鎌倉仏教へ寺が宗旨を替える事は何度もあった訳で、くら替え自体は決して珍しいものではありません。
 ただ、宗旨替えはあったとしても、その寺が、開山以来の代々続いた名前を替える事はあまりなく、最低でも西日本全域に等しく同じ名の寺が国ごとに在った様に見えるのは、奈良仏教以前に半ば国教化された「大善寺」とその末寺があった様に見えるのです。
 これが、安楽寺の異常な多さとどこか通底しているように思えるのですが、今のところは粗い仮説に留まっています。
 そこで、たまたまネット検索で見つけた山梨県甲州市勝沼町勝沼の真言宗大善寺の画像を見ていると、驚く事に三階松の神紋があることに気付いたのでした。

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言うまでも無く、この三階松の神紋も、九州王朝の幻の宮廷舞とも言われる「筑紫舞」が、くぐつによって千数百年の永きに亘って秘かに舞われて来たとされる宮地嶽神社の神紋であることは言うまでもありません。
同社は九州王朝の研究に於いても最重要の神社であり、神紋でもあるのです。
故)百嶋由一郎先生からは、第四代懿徳天皇、第七孝霊天皇、第八代孝元天皇の三代を表すものと聴いており、山梨県の真言宗の大善寺が何故この紋章を使用するのか?と、しばし思考停止状態に陥ったほどでした。

以下、ひぼろぎ逍遥(跡宮)213 勝沼ワインの里の大善寺 ② “大善寺の全国的傾向”一部を再掲載。


sp76-5大善寺 北海道中川郡美深   浄土宗

大善寺 北海道室蘭市     曹洞宗

大善寺 青森県北津軽郡板柳町 浄土宗

大善寺なし    岩手県

大善寺なし    秋田県

大善寺なし    宮城県

大善寺 山形県酒田市     真言宗醍醐派

大善寺地名のみ  福島県郡山市田村町大善寺

大善寺なし    茨城県

大善寺なし    千葉県

大善寺 神奈川県横浜市    浄土宗

大善寺 神奈川県横浜市都筑区南山田

大善寺 神奈川県横須賀市   金峯山不動院大善寺

大善寺なし    埼玉県  

大善寺なし    茨城県

大善寺 群馬県桐生市     浄土宗

大善寺 栃木県矢板市     浄土宗

大善寺 東京都八王子市    浄土宗系の単立寺院

大善寺 東京都八王子市    浄土宗系の単立寺院

大善寺 静岡県島田市     浄土宗

大善寺 群馬県桐生市     浄土宗

大善寺 山梨県甲州市     真言宗智山派 (元は天台宗)ぶどう寺として高名

大善寺 愛知県江南市     臨済宗

大善寺 愛知県新庄市     浄土宗

大善寺地名のみ  愛知県一宮市千秋町浅野羽根大善寺(字)

大善寺 新潟県新発田市    浄土宗

大善寺なし    石川県

大善寺なし    富山県

大善寺なし    長野県

大善寺なし    岐阜県

大善寺 福井県坂井市     真言宗智山派

大善寺 三重県津市      浄土真宗本願寺派

大善寺 滋賀県新旭町     天台宗    (天台真盛宗の総本山)

大善寺なし          和歌山県

大善寺 奈良県五條市     高野山真言宗

大善寺 京都府京都市伏見区  浄土宗

大善寺 大阪市天王寺区生玉寺町5-2 

大阪府 大阪市天王寺区城南寺町8-26

大善寺 兵庫県福崎町     東寺真言宗

大善寺香川県高松市国分寺町真宗大谷派  (元は天台宗)

大善寺なし          愛媛県

大善寺なし          徳島県

大善寺 高知県須崎市     高野山真言宗

大善寺 鳥取県鳥取市     浄土宗

大善寺 島根県益田市     日蓮正宗

大善寺 岡山県矢掛町     浄土宗

大善寺 広島県三原市     浄土宗

大善寺 山口県萩市      日蓮正宗

大善寺 福岡県福津市     浄土宗    (宮地嶽神社に近く付近に勝浦地名あり)

大善寺 福岡県久留米市    天台宗

大善寺 大分県宇佐市     曹洞宗    (宇佐神宮の神宮寺で元は天台宗) 公式には弥勒寺

大興善寺 佐賀県基山町    天台宗別格本山大興善寺(肥前、肥後に一寺?)

大善寺なし          鹿児島県(旧日向国)  

大善寺なし          宮崎県(旧日向国)


ご覧のとおり、全国に3040の大善寺(北海道の2寺を含む)及び大善寺地名が存在することが分かります。


では、これをどのように考えるべきでしょうか?

 これほど多岐に亘り宗派を超える大善寺が存在するという事は、最低でも、天台、真言の平安仏教以前に、「大善寺」という寺号が好んで付されたとしか言いようがなく、それを中国の“画竜点晴(晴は別字)を欠く”安楽寺の様に一種の流行といった話でもなさそうで、奈良仏教の南都六宗派に大善寺の痕跡が無い以上、消されたものの、それ以前に遡る、つまり、近畿大和朝廷の国分寺、国分尼寺に先行する大善寺が全国に存在したのではないかと思えるのです。


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extra34 勝沼ワインの里の大善寺 ③ “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”

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extra34 勝沼ワインの里の大善寺 ③ “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(上)

20161204

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)において、甲州ワインで有名な ぶどう寺 が、まぼろしの九州王朝宮廷舞とも言われる筑紫舞で知られる福岡県福津市の宮地嶽神社と同様の三階松の神紋であることなどをお伝えしました。


213 勝沼ワインの里の大善寺 ② “大善寺の全国的傾向”

212 勝沼ワインの里の大善寺 ①“山梨県甲州市勝沼町勝沼の五所神社の神宮寺”


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同寺院ぶどう寺(柏尾山大善寺)の公式HPから


 同寺院からのご許可は頂いていますので見るだけでも有難い仏教寺院の荘厳さ風格の一端をご理解頂いたと思います。


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ぶどう寺(真言宗智山派)大善寺 カーナビ検索 山梨県甲州市勝沼町勝沼3559 ℡0553-44-0027

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場所は甲州盆地の東の端といったところで、背後の山には中央本線のトンネルが、正面には中央自動車道の勝沼ICがあり、幹線国道の20号線の沿線という非常に分かりやすい便利の良い場所ですが、宿坊もあることから、まずは是非とも足を運んで頂きたい寺院です。


 今回、112日(2106)~1120日に掛けて北関東、山梨の神社調査に入り、同寺院の宿坊にもお泊め頂いたことから、さらに踏み込んで三階松の神紋と、何故、ぶどう薬師像が置かれているかを考えてみたいと思うものです。

 そもそも、「ぶどう」と言う言葉自体に心が揺り動かされます。

 まず、「ぶどう」が本来の和語(実はそんなものは架空のもので実際には存在しないのですが…)、大和言葉(天照=卑弥呼の時代畿内大和はただの辺境の地であり方言地帯)と置き換えてもよいのですが、そういった響きを持ちません。

 「スイカ」でさえも「西瓜」と同様にシルク・ロードから伝わった西方の果物(瓜)であることは受け入れられているにも関わらず、「葡萄」が外来語であることはあまり触れられてはいません。

この「葡萄」という外来語、それもかなり古い時代に持ち込まれた言葉であることは容易に想像が付きますが、ギリシャ語説、ペルシャ語説があり未だはっきりと確立した定説を見ません。

一応、ネット上でほとんどの説を読ませて頂きましたが、神社研究の面から言えば、どうせトルコ語かペルシャ語辺りだろうと思っていました。

ペルシャ系言語budauが持ち込まれているとすると符合する面が多々ある事から、とりあえずはペルシャ語起源という線で考えて見たいと思っています。

 そもそも葡萄の種や稲の粒や小麦の粒などといった小さなものは、戦略物資として禁輸し取り締まる事などできません。

 戦略物資とされた絹織物の原料を造る蚕でさえ冠だか髪の中に隠され何時かは持ち出されてしまったのですから(ホータン王に嫁ぐ中国の王女が、冠の中に蚕と桑の種を隠して持ち込んだという逸話)、どんな荒れ地でも乾燥地帯でも、否、乾燥地帯ほど僅かな水さえあれば甘く実を付ける葡萄はステップロードといった乾燥地帯に生きるの民にとってはこの上もなく有難い果物だったに違いなく、シルク・ロードから列島に進入してきた人が生きるために携えなかったとは到底思えないものの一つだったはずなのです。


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イランの有名な果物と言えばザクロ。初秋のこの季節、市場のみならず道路脇には、ザクロを荷台に山積みにした小型トラックが多く見られるようになる。ザクロはペルシャ語で「アーナール」。

そして、アーナールと共に、秋になると「ペルシャの市場」に登場するのがアングール(ブドウ)である。

イランは知る人ぞ知るブドウの名産地。イランでは約30種類のブドウが市場に出回っている。生のブドウの実も勿論だが、ミックス・ナッツに含まれるレーズンもなかなか美味である。

イランへブドウが伝わったのは古代ペルシャ時代、エジプトから。

そして、シルクロード、中国を通って葡萄は我が国へともたらされた。

実は日本語の「ブドウ」という名前、ペルシャ語が語源だということをご存知の方は少ないのではないだろうか。ただ、ペルシャ語とは言っても、古代ペルシャ語、である。

アケメネス朝時代、ペルシャ帝国のフェルガーナ(現在のウズベキスタン)地方で、「ブータウ」と呼ばれていた品種が中国へともたらされ、中国で音写された「葡萄」という名前が、日本語にも採用されたのである。

シルクロードを通って古代のペルシャから日本へもたらされたものは、伝統・文化を見ても数多くあるが、広義の意味でのペルシャからもたらされた食材も、古代の文化交流の跡のひとつであろう。

またブドウと言えば、ワイン。有名なシラーズ・ワインは、イラン南西部の都市シーラーズにちなんで付けられた。シーラーズはもともとブドウの産地として有名で、イスラーム革命(1979年)前にはワインの名産地としても知られていた。

アルコール類が完全にご法度である現在のイランでは、シーラーズ産のブドウは、ワインの原料として海外へ輸出されているそうだ。


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良いものだと分かれば、もとより、良い品種ならばなおさら「種」は一世代でたちまち拡散します。

所詮、四六時中見回り個人で独占する事などできないからです。

 特に、干しブドウは有難いもので、黄檗宗僧侶の河口慧海の「チベット旅行記」を持ち出すまでもなく、旅行に最適な携行食でもあったのです。

 では、勝沼にブドウを持ち込んだのはいかなる人々だったのでしょう。

 その前に、勝沼に於けるぶどう栽培はいつまで遡れるのでしょうか?


甲州(ぶどう)

甲州種の原産地はヨーロッパであるとされ、日本での甲州種の発見時期には甲州市勝沼地域の上岩崎・下岩崎を発祥とする2つの伝承がある。

一方の説は、文治2年(1186年)上岩崎の雨宮勘解由(あめみやかげゆ)という人物が、毎年327日に行われる石尊祭りに参加するために村内の山道を歩いていたところ、珍しい蔓草を発見したとする説である。雨宮勘解由はこの蔓草を家へ持ち帰って植えたところ、5年後に甘い果実がなったという。もう片方の説は雨宮勘解由に遡ること500年あまり、奈良時代の大僧行基がこの地に大善寺を建立した際に、ぶどうの木を発見したとする説である。これらの種が現在の甲州種であるとされている。ヨーロッパ原産の甲州種がこれほど古くからこの地区にあるのかなど、謎の部分が多い。江戸時代初期の甲斐の医師である永田徳本が、現在行われているぶどう棚による栽培法を考案したと言われている。

戦国期には日本におけるぶどう栽培を記した宣教師日記があるものの、考古学的には盆地西部の大師東丹保遺跡から中世の野生種ぶどうが出土した事例があるのみである。甲府城下町からは栽培種ぶどうが出土しているが、考古学的な栽培種葡萄の移入経緯は解明されていない。文献史料においては江戸期には葡萄をはじめ桃、梨、柿、林檎、栗、石榴、銀杏(または胡桃)の甲州八珍果と呼ばれる内陸性気候に適応した果樹栽培が行われ地域産物として定着しており、荻生徂徠『甲州紀行』などの紀行文や『甲斐国志』などの地誌類には勝沼がぶどうの産地であることが記されており、食の図鑑である『本朝食鑑』や農学者としても知られる佐藤信淵らの紀行文中でも甲州物産の第一に挙げられている。

江戸時代の長者ランキング「日本長者分限帳」天保7年(1836年)には西の前頭に甲州の大金持ち、大金屋善四郎がぶどうで財を成したとあるが、日本テレビ「木曜スペシャル」による調査では郷土史などで名前を発見することはできなかった。

また、俳人松尾芭蕉は「勝沼や 馬子も葡萄を食ひながら」の句を詠んでいる。正徳年間の検地帳によれば栽培地は八代郡上岩崎、下岩崎、山梨郡勝沼村、菱山村のごく限られた地域であったが、江戸など都市部を市場としてぶどうや加工品が生産され、甲州街道を通じて荷駄で江戸へ搬送された。江戸後期には栽培地が甲府近郊に拡大し、明治には殖産興業により産業化する。

ウィキペディア(2016 1306による


ぶどう寺のご住職のお話によると、この記事も部分的に混乱しているところがあるとのお話であり、雨宮勘解由の話にしてもぶどう寺の境内地との事であり、もう少し詳しく調べる価値(必要ではなく)があるだろうと思います。

 一般的には、米こそが主要作物であり、その増産にやっきになっていた藩政時代にぶどうの生産が推奨されるなどあり得ない話であり、ましてや山国の甲斐の事、その事情はさらに大きいはずで、とてもぶどうの生産などと考えてはいたのですが、ぶどう寺を行基が造ったという話、その時代まで栽培種のぶどうが勝沼の地に息づいていた事、水捌けのよい傾斜地(通常の作物の適地ではない事)を合わせ考えると、最低でも八世紀前後まで十分に辿れるのではないかと思うものです。

 そう考えるのは、大善寺が行基の時代に建立されたという話が本当であれば、その時に御本尊のぶどう薬師=薬師如来像がなかったなどとは考えにくいのであって、寺があるから御本尊が造られるのではなく、御本尊があるからこそ雨風を遮る覆いを掛けようとするのが道理であるからです。

 少なくとも、ぶどう寺=大善寺が建立された時点では特にぶどうを意識し民衆に豊かさと惠とを伝えようとする思想と、それを体現した甘いそれこそぶどう糖を与えてくれる薬師如来像が造られたと考える事は理に叶う事のように思えるのです。


369 安芸太田の長尾神社と飯塚市鹿毛馬の厳島神社

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369 安芸太田の長尾神社と飯塚市鹿毛馬の厳島神社

 

20160713

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

 

 

 

 熊本地震の前後に安芸太田、岡山県の湯原と物部の領域の神社を頻繁に見て回っていましたが、中国自動車道の加計インターに近い長尾神社にも訪問していました。

 既に、ひぼろぎ逍遥 322 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑤ “広島県旧加計町中心部の長尾神社”として書いていましたが、書き残していたことに気付き再度補足のために書くことにしました。


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神社の由緒書きもないため、ある程度の見当は付きましたが、まだ「広島県神社誌」(ネット価格\20,000…先に島根県神社誌を買わなければなりませんが)は手に入れてない事から、安芸太田町の教育委員会の掲示板に頼るしかありません(写真掲示板)。

祭神は1655年厳島神社からの勧請とあり、宗像三女神ということで良さそうです。

 ただ、1655年よりももっと早い段階から、この地に厳島神社を奉祭する氏族が入っていた可能性は否定できないと思います。

 前回のリポートでは見落としていたのですが、教委の「厳島神社から宗像三女神を勧請」という部分を読み飛ばしていたことからはっきりとは書けなかったのですが、祭神が一応は特定できたことから少し踏み込みたい部分があるのです。



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それは、加計インターの「加計」という地名についての話です。これについては前回のリポートを書く時点でも気付いていましたが、この地に住み着いていた人々のルーツについて思い当たる事があるのです。

厳島神社からの宗像三女神の勧請で、加計(カケ)地名ならば、この地に住み着いた人々は、福岡県飯塚市の鹿毛馬(鹿毛馬神籠石で著名)からの移住者若しくはとしか縁故者としか考えられないのです。

飯塚市鹿毛馬の地名の意味は鹿毛の間の意味で、中間、赤間、福間、和間、須磨、大間…といった湾奥地名の一つで、本来、地名の根幹は鹿毛(カケ)にあります。

しかも、この地にある厳島神社は、本来は宗像大社や宮島の厳島神社よりも遥かに高格式の神社(白川伯王家)と考えられ、その一族、縁故者の移住(避退)が、この安芸太田の地に入られたのだと思うものです。


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 この鹿毛馬の厳島神社については、ひぼろぎ逍遥230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”外で書いていますので参考にして下さい。

 なお、地図の「鹿毛馬」の隣の大字が「佐與」であることがお分かり頂けると思いますが、厳島神社の社名のルーツである市杵島姫(瀛津嶋姫)の別名である佐與、佐用、佐用…であることがお分かり頂けると思います。


369-4

369-5

 

 

extra35 勝沼ワインの里の大善寺 ④ “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?)

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extra35 勝沼ワインの里の大善寺 ④ “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(中)

20161204

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


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「タイトルを“ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”としています。ただ現在、 薬師堂は国宝ですが、薬師三尊像は国の重文ですので訂正します。

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ex35-1

さて、「葡萄」という言葉をペルシャ語のbudauと仮定すれば、多少面白い事が見えて来ます。


ex35-2

百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


百嶋神社考古学ではスサノウはイザナギとイザナミ(瀛氏の金山彦の妹でイザナギと別れた後、熊野フスミと名を変え櫛田神社の大幡主のお妃になっている)の間に産れた新羅の王子様であり、スサノウはペルシャの第二の都市である古都スーサにちなんでいるとします。


えx353

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


スーサは、現在のイランの西南部に位置し、エラム王国時代、アケメネス朝ペルシャ時代には、王都として栄えた都市。現フーゼスターン州シューシュ。

ウィキペディア(20161204 14:26による



ここで武田信玄を考えて見ましょう。武田信玄が自らのルーツを新羅三郎としているのは有名です。諸説ある事は重々承知していますが、少し長いのものの、以下が興味深いのでお読み頂いたいと思います。


今日は『武田信玄と朝鮮半島』の最終回です。四の五の言わず、本題を短めに書きます。信玄のルーツをたどると、先祖は『源義光:みなもと の よしみつ』と言います。彼の本名は『新羅三郎義光:しんらさぶろうよしみつ』といいます。日本での出身は近江、現在の滋賀県となっています。歴とした朝鮮半島渡来人であり、『新羅国:しらぎこく:신라국』の人です。

Wikipediaや、インターネットでは「滋賀県の新羅善神堂(三井寺の近く)で元服をしてこの名前を授かった、新羅人ではない」と書かれていますが、これは間違いです。私も最初の頃は、そう信じましたが、渡来人文化の書籍などで有名な、金達寿氏の『日本の中の朝鮮文化 7』にも武田信玄の先祖は渡来人と書かれています。その他、新羅善神堂や、静岡県浜松市史書などを調べると、分かってきます。これは明治以降に歴史を湾曲し、今に至るのだと私は思っています。詳しい内容は文章の後半に、私が簡単に書きましたので、お時間のある方はご参考にしてみてください。

つまり、前回書いたように『信玄の母の系統も朝鮮半島渡来人』『武田信玄直系も朝鮮半島渡来人の血筋』つまり武田信玄は朝鮮半島渡来人の血を、色濃く引き継ぐ人物ということになります。余談ですが信玄の旗『風林火山』の孫子の兵法も、中国から朝鮮半島渡来人が日本に持ち込んだものとされています。

そして、2013.5/13は、今からちょうど、440年前の1573.5/13に武田信玄が亡くなった日でもあるのです。さあ皆さんここまで知ったのですから、今日から武田信玄について、もっともっと知りましょう。

※源義光についての参考(お時間のある方はお読みください)

今回この結論に至るまで長い時間を費やしましたが、以下の内容でつながると思います。

浜松市に中田島砂丘という日本三大砂丘があります。この近くに新羅大明神という神社があります。だいぶ規模は小さくなり、中々見つけにくいのですが、これについて『浜松市史』の編集にたずさわった渥美清一氏が『浜松の新羅大明神と小笠原基長』という本にかなり詳しく書いています。

この本によると、浜松の新羅大明神は1723年の江戸時代に創建されたようです。そして小笠原基長が自分の祖神である滋賀県の新羅善神堂から勧請し、建てたそうです。さてこの小笠原基長という人物の先祖は、源義光で別名:新羅三郎義光であることから、新羅大明神を立てることは当たり前のことであったようです。

ここで次の本になるのですが、小笠原基長は生前に『新羅大明神祀記』を書き残し、次の文章を残しています。

「新羅善神堂は元々朝鮮半島渡来人の大友氏の神社であり、創建を新羅三郎義光がたずさわり、その上、新羅大明神の氏人(同族の意味)である。」と書かれています。滋賀県の新羅善神堂は新羅系渡来人が建てただけでなく、義光自身が氏神を敬ったということなのです。また氏人とあることから新羅人ということも分かります。

つまりWikipediaや、インターネットなどで書かれている『源義光が新羅善神堂で元服して名前を新羅三郎義光にした』というのは間違いであり、源義光は歴とした渡来人だったのです。新羅三郎義光と名を改めたのは、先祖の名に戻りし行為だけでなく、自ら新羅一族の後裔(子孫)であることを名乗った行為だったのです。

そしてその直径の子孫、武田信玄は母も父も渡来人の血を引く子孫なのです。


「『蒼天求白雲』~結構知られていない日本史と朝鮮史の接点~」による



学会通説の学者や教育委員会の学芸員などと称する方々は利権まみれの上に自己保身だけの集団ですので、在野の研究者の説にしか真実は拾えないと確信しています。こんなことは原子力災害、地震予知、火山予知などの無様な実例で皆さん十分にお分かり頂いているものと思います。

 ここで、ようやくペルシャ語のbudauと中国語の「葡萄」日本語の「ぶどう」の接点が見えて来ました。

 しかも、武田信玄の幼名が勝千代で、その子武田勝頼は、ワインの産地勝沼の奥に逃げ込み武田家は滅びるのです。


もはや、葡萄がペルシャ語であるかギリシャ語であるかアラビア語であるかはあまり気にする必要はないと思います。中近東に広く栽培された葡萄はシルク・ロードを通り、種のたった一粒でも持ち込まれさえすれば列島にも根付いたのですから。

 その種を運んだ人(人々)がスサノウ系、新羅系の人々だったとして、甲州にはそういった人々を受入れる場所であった事が解ればそれで十分なのです。


黄泉平坂の葡萄


サノウ、イザナギ、イザナミを考えていると、多少、思いついたことがありました。

 イザナミが死んだのを悲しみイザナギが黄泉の国に行った時の話に既にブドウが出てくるのです。


男神・イザナギと一緒に国造りをしていた女神・イザナミが亡くなり、悲しんだイザナギはイザナミに会いに黄泉の国に向かう。イザナミに再会したイザナギが一緒に帰ってほしいと願うと、イザナミは黄泉の国の神々に相談してみるが、けして自分の姿を見ないでほしいと言って去る。なかなか戻ってこないイザナミに痺れを切らしたイザナギは、櫛の歯に火をつけて暗闇を照らし、イザナミの醜く腐った姿を見てしまう。怒ったイザナミは鬼女の黄泉醜女(よもつしこめ。醜女は怪力のある女の意)を使って、逃げるイザナギを追いかけるが、鬼女たちはイザナギが投げる葡萄や筍を食べるのに忙しく役に立たない。イザナミは代わりに雷神と鬼の軍団・黄泉軍を送りこむが、イザナギは黄泉比良坂まで逃げのび、そこにあった桃の木の実を投げて追手を退ける。最後にイザナミ自身が追いかけてきたが、イザナギは千引(ちびき)の岩(動かすのに千人力を必要とするような巨石)を黄泉比良坂に置いて道を塞ぐ。閉ざされたイザナミは怒って、毎日人を1000人殺してやると言い、イザナギは、それなら毎日1500人の子供が生まれるようにしようと返して、黄泉比良坂を後にする。

ウィキペディア(20161204 14:36による



してみるとイザナギは予め「葡萄」「筍」を用意していたのでしょうか?おかしな話ではありますが、所詮、「古事記」の95%は嘘というのは百嶋由一郎先生の常套句でした。

 しかし、スサノウの親父であるイザナギは葡萄を知っていたと考えられていたからこそ葡萄を投げて脱出したとされたのです(前ブログ)。

 その子であるスサノウ、そしてそのスサノウ系の人々が大挙甲斐に侵入したとすれば、葡萄の種の一粒でも持った人が随行していたと考える方がむしろ自然なのではないでしょうか?

370 キッコーマン醤油と博多の櫛田神社の大幡主

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370 キッコーマン醤油と博多の櫛田神社の大幡主

20160713

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久



奇妙な題材ですが、徐々にお分かり頂けるものと考えています。

 まず、九州は地場の醤油の占有率が高く、しばらく前までは“関東のキッコーマン醤油でも中々入って来られない”といった話を聞いていました。勿論、資本力に物を言わせて現在ではかなりのシェアを取りつつあるようです。


370-1


(日本の味 醤油の歴史 より)


1990年のデータですが、最近の状況はスーパー・マーケットなどでご存じのとおりです。

 さて、「キッコーマン」の社名は、亀甲(神紋)紋章に由来しているだろうことは想像できそうです。



370-1


世界で知られる醤油のブランドです。

千葉県野田市で400年前から醤油を続けてきた醸造家が、最上級の醤油に「亀甲萬」の印を付けました。

大正6年、その醸造家を中心として「野田醤油」が誕生しました。

昭和39年に亀甲萬のブランドを冠して「キッコーマン醤油」となり、昭和55年には「キッコーマン」となりました。


元々、千葉県の野田市で400年前から醤油を続けてきた醸造家連合が、最上級の醤油に「亀甲萬」というブランド名を付し、亀甲萬としたのが始まりと言われていました。

ただ、何故、亀甲紋を採用したかは知らなかったため、ネット検索を行うと、370-2に答が出て来ました。


前身となる野田醤油は醤油で有名な千葉県野田市を源とします。

野田醤油の祖先が千葉香取神宮の氏子総代の一人であり、その神宮の神域を山号で「亀甲山」と言ったため、「ツルは千年、カメは萬年」という亀にちなんだ「万歳の仙齢」にあやかって組み合わせ「亀甲」に「萬」を入れものを茂木家の家紋としたようです。ちなみに「山号」とは寺院の名前に冠する称号のこと。

寺院は山にあることが多く、その山の名前を山号としたとか。 「比叡山・延暦寺」や「高野山・金剛峰寺」など。亀甲山・香取神社といわれる亀甲山は、山の形状から呼ばれ始めたようです。?


もう一つ、ウィキペディアで確認すると、


現社名は、前身8家の合同による野田醤油会社創立に際し醤油統一商標「亀甲萬」とする。前身の1つ、茂木佐平次家の用いた商標「亀甲萬」は香取神社の亀甲と「亀は萬年」をかけたとされる。あるいは、元々の考案者は第4代鈴木万平であり、譲渡されたという説もある。


と、出て来ました。他にも同様のコメントが複数出て来ますので多分これで良いのでしょう。

では、亀甲紋章で再度検索してみましょう。


亀甲紋

370-3日本には、海亀が卵を産んで海に帰るときに酒を飲ませて帰すという。これは亀がめでたい動物で、海の化身と考えられていたからだ。家紋のなかで亀甲紋が格別な扱いをされているのはそのためだ。亀甲紋は出雲大社、厳島神社、香取神宮などの神紋ともなっている。昔、香取神宮の氏子に醤油造りの名人がいた。業を始めるとき、神紋と名前の一字「萬」を合わせて屋号にした。キッコーマンである。

(亀甲に花菱)
370-4
より


370-5


香取神社も亀甲紋を使っているのは間違いないようですが、実際には左三つ巴、五七桐紋がネット上にも出て来ます。今年中に香取には行きますので確認したいと思っています。

 さて、話はここから始まります。


一般的には亀甲紋のルーツは出雲大社(大国主)に始まるといった話が横行していますが、とんでもない誤りで、この中で最も年かさの実力者である博多の櫛田神社の主祭神の大幡主なのです。

 理由は極めて簡単です。

 大国主は大幡主の長女であるアカルヒメ(スサノウが追い掛けた…)の娘である市杵島姫をお妃にした

いわば入り婿であり、大幡主の配下で活動したからこそ「主」(ヌシ)という称号を使っているのです。

 厳島神社も当然ながら大幡主の傘下にある上に、宗像大社の本当の祭神も実は大国主命なのです。

 では、香取神社はどうでしょうか?

祭神は、経津主大神(フツヌシ) 別名を伊波比主神/斎主神(イワイヌシ)、斎之大人(イワイノウシ)としますが、お分かりのようにこちらも「フツヌシ」と「主」という称号を使用しているように大幡主の傘下にあるのです。

しかも、斎之大人(イワイノウシ)について、大人を「ウシ」と呼んでいるのです。

「オ」=O音を「ウ」=U音で発音しているのは九州方言(大分県北半部を除く)の特徴であり(大事=ウウゴト、ホウヅキ=フウヅキ、トガ=ツガ…)、この神様が九州の御出身であることが分かるのです。

経津主大神とは山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦…の事であり、こちらも大幡主の傘下で活動していたのです。


そして、「香取大神」=山幸彦の競争相手であった海幸彦こそ「鹿島大神」(武甕槌命)その人なのです。

 これらの亀甲紋章を使う一族の御主人こそ大幡主だったのです。


370-6


百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


亀甲紋章が出雲大社=大国主命が起源などと恍けた話をしている方は神代の一割も理解しておられないのです。

亀甲紋章を使う神々は全て大幡主の親族、姻族、臣下なのです。

話はさらに広がります。

大幡主は八幡舩(バハンセン)とも八幡船(ハバンセン)とも言われる大きな帆(強い絹の帆)をふんだんに使った外洋船を使い、シナは元より、インドシナ、半島へと武装商船隊を率いて活動していたと百嶋先生は話されていました。

八幡とは応神天皇(別王)などの事ではなく、大幡主こと本物の八幡=正八幡神社の事なのです。

そもそも醸造業とは、穀物を船倉に閉じ込めいつしか発酵が始まり、腐り始める事から海運業者の中から始まったと言われています。

密閉された空間=船倉、穀物倉=亀甲と塩(大幡主の別名は塩槌翁であり製塩業者でもあるのです)、そして大量の穀物を集積、運搬できる大幡主こそ、醸造業者の元締めでもあったのです。

大幡主傘下の経津主大神が千葉に鎮座していることと、野田の醤油にそれなりの因果関係を見出すのは私だけでしょうか?

大幡主が渡海したインドシナにはタイのナンプラー、ベトナムのニョクマム、青森のハタハタのショッツル…醸造業とは穀物搬送船の腐敗(発酵)した船倉から始まったのです。

そもそも船の所有者を船主と言いますが、それも大幡主の「主」からきているのです。



370-7



extra36 勝沼ワインの里の大善寺 ⑤ “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”

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extra36 勝沼ワインの里の大善寺 ⑤ “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(下)

20161204

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


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「タイトルを“ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”としています。ただ現在、 薬師堂は国宝ですが、薬師三尊像は国の重文ですので訂正します。

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雨宮姫の論証


前ブログ extra34
 勝沼ワインの里の大善寺 ③“ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(上)
において、以下のウィキペディア(2016 1306による記事をご紹介しました。


甲州(ぶどう)

甲州種の原産地はヨーロッパであるとされ、日本での甲州種の発見時期には甲州市勝沼地域の上岩崎・下岩崎を発祥とする2つの伝承がある。

一方の説は、文治2年(1186年)上岩崎の雨宮勘解由(あめみやかげゆ)という人物が、毎年327日に行われる石尊祭りに参加するために村内の山道を歩いていたところ、珍しい蔓草を発見したとする説である。雨宮勘解由はこの蔓草を家へ持ち帰って植えたところ、5年後に甘い果実がなったという。



この記事に登場する「雨宮」というかなり珍しい姓の方に対して思い当たるところがあるのです。

 まず、雨宮姓の全国分布をご覧ください。

 ぶどう寺のご住職お尋ねしたところ、甲州盆地には非常に多い姓との事でした。

 

ex36-1

「姓名分布&ランキング」による


まず、山梨県が発信源であることは一目瞭然ですね。

ところが、以下の一覧表を見ると熊本県に1件だけ雨宮姓が確認できるのです。

この意味がお分かりの方はそれほど多くはないと思います。


それは、この姓が悲劇の雨宮姫に所縁のある方での可能性が非常に高いのです。

 まず、熊本県内には確認しただけで4社の雨宮姫を祀る神社があります。

 それについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)233 人吉盆地の雨宮神社(熊本県相良村)再訪 “悲劇の雨宮姫”などをお読み頂きたいのですが、この雨宮姓の方を発見し、甲州盆地に阿蘇氏が進出している事を神社の面からも実感したところです。


36-2

ご覧の通りですが、熊本県宇城市に1件だけ雨宮姓の方が確認できるのです。


ex36-3


この宇城市(旧不知火町)でもどこに所以の有る方であるかも多少の見当が付くのですが、それについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)082 神武天皇の正妃アイラツヒメ(蒲池姫)を祀る神社 “郡浦神社(熊本県宇城市三角町)”などについても関連してお読み頂かなければ理解できないかも知れません。



ex36-4
 

百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)



まず、非常に分かり難いのですが、雨宮姫のお母さんである天豊ツ姫は、高木大神=高御霊神の次女である栲幡千千姫命を母として阿蘇高森の草部吉見=所謂春日大神=武甕槌=鹿島大神を父として生まれたお姫様でした。

 ところが、列島大率呉の太伯の流れを汲む本物の神武天皇の子である懿徳天皇(藤原により第4代とされた)の皇后になっておられたのですが、皇后陛下かっぱらいか、駆け落ちか、浮気かは不明ですが、現在阿蘇の主祭神とされている健磐龍のお妃になられて雨宮姫を産んでおられるのです。

 しかしそれでも納まらず、最期は豊玉彦(ヤタガラス)のお妃として天日鷲をお産みになり、その御子が天富命の一族になっているようなのです(恐らくこれが栃木、茨城県境の鷲子山神社の一族につながるのではないかと考えています)。

 このように複雑というより怪奇ですらありますが、一面、古代とは大らかだったとも言えるようで、結果、阿蘇氏はこの事を隠していますし、この事実を気にしてか天豊ツ姫は、阿蘇ツ姫(健磐龍妃時点)→天比理刀咩(ヒリトメ)→寒川姫(寒川神社も散見されます)→杉山姫(神奈川県一帯に多くの杉山神社が在りますね)と名を変えておられます。

そして、この栄えある皇后陛下の娘である雨宮姫は、後に、阿蘇の新(ニュウ)彦と一緒になられ、現在の阿蘇家を継ぐことになる阿蘇惟人の母となられ、神武僭称贈)第10代崇神天皇の父となる大山咋(阿蘇では速甕玉命と呼ばれる)、松尾大神、佐田大神…のお妃にもなられているのです。

この辺りは前後関係が不鮮明で解読作業中です。

この問題が非常に難しく、百嶋神社考古学の関係者の内部でも意見が分かれていますが、阿蘇家も神社庁も恐らく本当の事実は知っているはずで、是非公開し本当の歴史を明らかにして欲しいと思っているところです。

というのは、表向きの話であり、どうせそんなことは出来やしないし、最期まで隠そうとするであろうと言うのが偽らざる気持ちであり、むしろ罵倒する材料を残し続けておいて欲しいものです。

いずれ、ウイキリークスのような状況になる事でしょう。


ex36-5



研究目的で百嶋神代系譜、同講演音声CD、同手書きデータ等を必要とされる方は、何時でも09062983254までご連絡ください。

 現在、多くの神社研究者がフィールド・ワーク、インターネット検索、文献、古文書による研究と作業を続けていますが、関心をお持ちの方はオープン参加としているトレッキングにも、各地で行っている研究会合にも参加して頂きたいと思います。


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extra37 勝沼ワインの里の大善寺 ⑥ “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”

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extra37 勝沼ワインの里の大善寺 ⑥ “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)


20161204

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


三枝氏とは何者なのか?



大善寺 (甲州市)


正確な創建年代は不明だが、寺伝に拠れば奈良時代に行基の開創を伝え(延慶3年(1310年)「関東下知状」)、本尊である薬師如来像の様式などから創建は平安時代前期と考えられている。薬師堂は天禄2年(971年)に三枝守国による建立とする伝承がある。(天文14年(1545年)「大善寺諸堂建立炎上記」)によれば、在庁官人として甲府盆地東部の東郡地域で勢力を持った古代豪族である三枝氏の氏寺とされる。


ウィキペディア(20161204 22:46による


この三枝氏が三階松の家紋を使う事から、ようやく大善寺そのものを表す紋章ではなく、スポンサーとしての三枝氏を表しているという事に気付きました。

では、三枝氏とは何者なのでしょうか?


三枝氏は三枝連(さいぐさのむらじ)の流れで、三枝連は天津彦根命の末裔であるという。「三枝連」の由来は顕宗天皇の治世の時、諸氏を集めて祝宴が開かれた際、庭に三茎の草があり、これを天皇に献上して三枝連を賜ったという逸話に由来するとされる。しかし、この説に『寛政重脩諸家譜』は疑いを示している。


山梨県甲州市に所在する柏尾山経塚は、出土した経銘文により平安時代の康和5年(1103年)に勧進僧・寂円により造営されたと判明する。康和5年在銘の経筒には関係者として三枝守定・守継ら三枝氏の一族の名が見られる。また、山梨県笛吹市の福光園寺本尊の吉祥天像は鎌倉時代の寛喜3年(1231年)に仏師・蓮慶により制作されたとする墨書銘を有し、檀越として三枝氏の一族の名も記されている[7]


ウィキペディア(20161204 22:52による


しかし、三階松の家紋を使う一族が天津彦根命の末裔と知って驚きました。


天津彦根命とはスサノウと子産み争となり天照が産んだ五柱の男神の一つだったからです。



天津彦根命

アマツヒコネは、記紀等に伝わる日本神話の神。

『古事記』では「天津日子根命(あまつひこねのみこと)」、『日本書紀』では「天津彦根命(あまつひこねのみこと)」、他文献では「天都比古禰命」とも表記される。

アマテラスとスサノオの誓約の際にアマテラス(天照大神)の玉から生まれた男神5柱のうちの1柱で、多くの氏族の祖とされる。


ex37-1

三枝氏ex37-2丸に三階松 (甲斐在庁官人三枝氏後裔)右は武田氏臣下三枝守友ex37-3



三枝氏は甲斐源氏が発祥する遥か以前に、大和朝廷から甲斐に派遣された国守級の在庁官人の出身であることは疑いない。『日本書記』の福草部の姓氏録に「三枝連」の名が見え、『続日本後記』の承和十一年(844)の項にも三枝直平麻呂の名が見えている。
三枝氏前史
 このように三枝氏は甲斐の古豪族で、律令時代には郡司をつとめ、甲斐の産物を大和朝廷に献納していたものと思われる。昭和三十七年、山梨郡勝沼町柏尾山の工事現場で康和五年(1103)銘の経筒が発掘された。それには、大善寺の大檀那三枝宿禰守定・守継、藤原朝臣基清らが経筒を仏前に供え、見晴らしのいい柏尾山に埋めるまでの経過が刻まれていた。経筒に刻まれた守定・守継が戦国時代に武田氏に仕えて活躍した三枝守友の遠い先祖であることは間違いないだろう。ちなみに、大善寺は三枝氏が創建した関東でも屈指の古刹である。



ex37-4


ところが、通説、定説は良いとして、この天津彦根命と言うのが少し理解しにくい一族なのです。

 以下は、百嶋由一郎氏が作成した「鳥子系譜」と呼んでいるものの一部で、唯一、この系譜にだけ天津彦根命がでて来ます。


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百嶋由一郎氏作成「鳥子」神代系譜(部分)



驚くことに、阿蘇氏でも、現在、阿蘇神社の一番奥の神殿に金凝彦(カナコリヒコ)の名で祀られている神沼河耳のことなのです。

 実は藤原氏によって第2代綏靖天皇と格上げされた有力人物であり、スサノウの姉の神俣姫との間に阿蘇高森の草部吉見(所謂春日大神=武甕槌=鹿島大神…)を得ている古代に於いてはトップ・クラスの有力者なのです。

 しかも、お妃が神俣姫(丹生津姫)となると鉱物採取、金属精錬に長けた一族であることは明らかで、古代には甲州の金、銀の開発にも力を持っていたことが容易に想像できるのです。

 ただ、阿蘇氏の神沼河耳の後裔氏族とする三枝氏が三階松の神紋を家紋として採用しているという事に繋がりを見出せないでいたのです。

そうするうち、百嶋神代史研究会のU女史(こちらはフィールド・ワークを抑えてただひたすら百嶋資料とネット検索で全国の神社を調べていると言う九州では最も百嶋神社考古学に精通した方です)からアドバイスを受けていると、三枝氏の「三枝」は「サエ」であり「佐用」「佐與」のことで、宗像三女神の筆頭市杵島姫(別名が佐用姫、佐代姫)を意味しているのではないかと言われたのでした。

しばし、面食らいましたが、確かに可能性があるのです。

まず、天津彦根命の第二代の草部吉見=武甕槌大神は市杵島姫への入り婿となり、大山咋=松尾大神=佐田大神(断じて猿田彦ではない)=日吉神社、日枝神社=山王神社の父となっているからです。

始めは、三枝氏の三枝は三階松を意味しているのだろうと安直に考えてはいたのですが、三枝が「佐用」「佐與」「佐用」の置換えだったとは驚きました。

興味をお持ちの方は、兵庫県佐用町の佐用神社、福岡県飯塚市の厳島神社外をお調べ下さい。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)230白川伯王家源流の神社初見“飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)273 兵庫県佐用町の佐用都比売神社とは何か? 他も参考になるでしょう。

してみると、栄えある三枝氏とは、子産争いでスサノウと天照が共に産み分けた両系統から共に血を受けた有力氏族だったことが見えて来たのです。

ここら辺りが武田氏滅亡後も徳川氏の重臣となった三枝氏の手腕を思わせるところです。


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百嶋由一郎「阿蘇ご一家」神代系譜(部分)


 まだ、納得されていない方は多々おられると思いますので、少し分かりやすい例をお示ししましょう。

 奈良県桜井市に狭井神社があり、奈良市の大物主神社の摂社率川神社や同社の「三枝祭」といったものまでがあります。

 まず、狭井神社ですが、祭神は換えられているようですが、市杵島姫は鎮女池に残されています。


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また、奈良市の率川神社では、さいぐさの祭が行われています。



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さいぐさのまつり【三枝祭】

古代律令祭祀の一つで,孟夏(陰暦4)の祭。当時の令の解説書《令義解》によれば,〈率川社(いさがわのやしろ)の祭なり。三枝花を以て,酒罇(みか)に飾りて祭る。故に三枝という〉という。《延喜式》の四時祭の規定では,小祀とされた。三枝花は,その枝が三岐に分かれるところからの命名で,一説に百合花という。率川社(率川神社)は,奈良県桜井市に鎮座する大神(おおみわ)神社の摂社で,奈良市内にまつる。この祭は,平安末ごろには衰退したものと思われ,《公事根源》では,2月と11月の項に率川祭が記され,三枝祭との混同さえうかがえる。


世界大百科事典 第2版の解説 による


この率川神社も、祭神を媛蹈韛五十鈴姫命 (御子神) 中殿 狭井大神(御父神)向かって左殿 玉櫛姫命(御母神)向かって右殿 としてはいますが、事代主(蛭子)系一族が祭神、伝承を換えている事が私達の目から見れば分かるのです。しかし、それを説明するには膨大な説明が必要になるためここでは、省いておきます。ただ、市杵島姫は鹿島大神(甑島にも鹿島町がありますね)と共に(実はご夫婦で大山咋をお産みになっています)薩摩の阿多から甑島を経て、東へ、そして甲府(天津司舞の天津司神社)へも、果ては男鹿半島まで神武東征ではない即位前の神武巡行に随行されていますが、説明は困難です。

ここでは、三枝祭のシンボルは笹ユリとか山百合とされていますが、実は鹿児島県いちき串木野市沖に浮かぶ鹿児島県甑島の鹿の子ユリの事であることだけを申し上げておきます。


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三枝祭


 このお祭りは、『さいくさのまつり』と申し、毎年六月十七日に執り行われる


       当社の御例祭であります。


       このお祭りの起源は古く文武天皇の大宝年中に属し、御本社で行われる鎮花祭


      (はなしずめまつり)と共に、特殊な神事として由緒深いお祭りであります。そ


       の名の起こったわけは、三枝(さいくさ)の花(笹ゆりの花)をもって酒樽を


       飾ってお祀りするからであると思われます。


       むかし、当社の御祭神媛蹈鞴五十鈴姫命が本社三輪山の麓、狭井川のほとりに


       御住居になり、その附近には笹ゆりの花が美しく咲き乱れていたことが国史に


       見えておりますが、その御縁故によって後世御祭神をお慰め申す為に酒樽に笹


       ゆりの花を飾っておまつりする様になったと言い伝えられています。笹ゆりの


       花は本名佐韋(さゐ)といいますが、三枝祭はこの故事によるのであります。


       このお祭は古くから国家の祀典として重んぜられ、光孝天皇の御代には勅田を


       奉られ、醍醐天皇の御代、この祭儀は神祇官から幣物を祝(はふり)につけて


       日を選んで行われ、又馬寮から神馬を献られるなど非常に丁重なお祭が行われ


       たのでありますが、後世いつの間にか中絶していたのを明治十四年再び古式の


       祭儀に復興せられ、現在に及んでいるんであります。


       このお祭の特に異なっている点は、黒酒、白酒を『罇(そん)』『缶(ほとぎ)』


       と称する酒罇に盛り、その酒罇の周囲を三輪山に咲き匂う百合の花でふさふさ


       と飾り、優雅な楽の音につれて神前に御供えされる事であります。又神饌は古


       式により熟饌に御調理申し上げて折櫃に納め、柏の葉を編んで作ったふたをし、


       黒木の御棚にのせて御供えいたします。この三枝祭は本社の鎮花祭と共に、疫


       癘の鎮遏を祈請することを本旨とするお祭であります。」


三枝(さくさ)の花



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花にまつわるエトセトラ による


 結局、三枝とは鹿の子ユリの事であり、それをこよなく愛した市杵島姫は別名佐與媛と呼ばれ、飯塚市鹿毛馬の厳島神社の傍にも「佐與」という大字が残され、兵庫県佐用町には佐用神社があり市杵島姫が祀られているのです。

ひとまず、三枝氏の一端を垣間見た思いがしますが、なかなか容易に結論までは到達できないようです。

 ただ、今回、勝沼の大善寺に訪れ、一番驚いたのは、三枝氏によって建立された国宝薬師堂の最上部に、三枝氏の三階松に囲まれた門光=唐花紋を発見した事でした。

 この神紋は九州王朝との関係を取り沙汰される福岡県久留米市の高良大社の内部に密かにおさめられている神紋であり、現在、高良大社では近畿大和朝廷によって支配されて以降(749~)臣下としての木瓜紋と住吉の左三巴だけを表に出していますが、故)百嶋由一郎門光氏からは門光=唐花紋が伏せてあるとお聴きしています。

 この事は当の高良大社では十分にご存じのことだと理解しています。

 この神紋を発見したとき、実は、宮地嶽神社の三階松以上に驚きました。ここでは公開されていますのでじっくりご覧ください。


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ここでは、門光=唐花を両脇から三階松が支える構図になっており、三枝氏の一族の思いを垣間見た気持ちがします。

 してみると、ぶどう寺こと柏尾山大善寺とは久留米市大善寺玉垂宮天台宗大善寺と無関係などとは全く言えなくなったようです。

371 都萬神社をご存知ですか? “宮崎県西都市の都萬神社初見”

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371 都萬神社をご存知ですか? “宮崎県西都市の都萬神社初見”

20160729


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


宮崎県西都市に都萬神社があります。

日向国二宮(一の宮は大国主命を祀る宮崎県都農町の都農神社)として西都市では大山祗命を祀る石貫神社と並ぶ重要な神社です。


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言うまでもなく、祭神は大山祗の娘としてニニギの尊のお妃となる木花咲耶姫命です。

 付近の大山祗を祀る石貫神社と併せ、この一帯に大山祗系氏族(百嶋神社考古学ではトルコ系匈奴とする)の一族が本拠地としていたことが見て取れます。

敬愛するHP「玄松子」氏も「西都原古墳郡の東。南には国分の地名もあり、古代の中心地。日向國総社であった。現在も近くに西都市役所がある。東には一ッ瀬川も支流、桜川が流れている」とされており、「桜川が流れている」ことに注目されています。

この桜姫の「桜」の起源は石貫神社の縁起に登場する阿佐久良山ではないかと考えています。

そして、この地名(朝来、朝倉)を携えて移動した氏族こそ大山祗系氏族(トルコ系匈奴)なのです。

朝来、朝倉地名は全国に40ケ所拾い出せます。これについては、ひぼろぎ逍遥 306 「朝来地名とは何か?」を参照して下さい。


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神話では、日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬(宮崎県・鹿児島県内に伝説地)で出逢い求婚される。父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。オオヤマツミはこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである(天孫降臨を参照)。

コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、山稜は宮崎市村角町の高屋神社)の三柱の子を産んだ(火中出産を参照)。ホオリの孫が初代天皇の神武天皇である。

ウィキペディア(20160729 12:30による


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現在、大山祗神社は瀬戸内海の大三島にあることは良くご存じだと思いますが、当時の宮司が越智の一族、河野、川野の一族であることが良く分かりますね。


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372 あまりにも美しい社殿を持つ南海の名社 “宮崎県日南市榎原神社初見” 

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372 あまりにも美しい社殿を持つ南海の名社 “宮崎県日南市榎原神社初見”     

20160728

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


日南市から串間市に向かうと榎原(ヨワラ)神社があります。


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 猛暑の中、エアコンを使いたくないため水風呂に入りながらブログを書き続けていますが、高原地帯のため暑さなんとか凌げるものの、目の疲れとパソコン作業による頸、肩、腕の痛みが出てくる様になると、こればかりは回避できず、暫く外に出てフィールド・ワークをやらざるを得なくなります。

 九州では見ていないエリアがほぼ無くなっていますが、日南市と串間市の中間領域は未踏の地であり、未踏の神社もかなりあります。

 今回はあまり祭神がどうのとか、神社成立の背景といった議論をせずに済むので非常に楽な神社になります。

 それは、成立が新しく、ある意味で謎のない神社だからです。


372-2朱塗りの社殿は、1658(万治元)年に神社とゆかりの深い、内田万寿姫の進言により、飫肥三代藩主、藩主伊東祐久が鵜戸神宮の分霊を祀(まつ)ったもの。 (左奥手にある摂社桜井神社は内田万寿姫を祀る)

現在の社殿は 宝永4年(1707)に建てられ、当時は八幡造りであったものが、寛政10年(1798)当時流行していた権現造りに改装されたものと思われる。 


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 日南は島津氏と南九州の覇権を争った伊東氏の縮小し復活した領域であり、同社も1600年代の半ばに鵜戸神宮を勧請した神社のため、往古の祭神を祀った摂社というほどのものもなく、気楽に社殿を楽しむことができました。

 唯一分からないのが、神女内田万寿姫が祀られている摂社が、何故、桜井神社なのかという点だけで、たまには気楽に社殿を見せてもらうことにしましょう。


372-3


伊東氏の粋を感じさせるほどの素晴らしい社殿が、失礼ながらこのような僻陬の地に鎮座しているのかが不思議な思いがしました。

勿論、空襲も受けなかったでしょうし、地域の共同体がきちんと残ってさえいれば、社殿の手入れもできる社会が存在できることの証明の様なものを再認識させるものでした。


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摂社 桜井神社(左)


 伊東家と言えば甘木の秋月家が頭に浮かびますが、そもそも内田万寿姫もその名からして木瓜紋を使う人々だったことは疑いようがなく、庵木瓜紋は納得が行くのですが、それが何故桜井神社かが分からないのです。

 糸島の桜井神社、奈良の桜井神社も見当が着きません。これは保留とさせて頂きます。

 さて同社の祭神ですが、鵜戸神宮は同社のHP(以下)を見るまでもなく、ウガヤフキアエズを祀る神社とされています。


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同社の祭神は鵜戸神宮(本来はウガヤフキアエズを単独で祀る神社)の祭神系譜から豊玉姫と玉依姫(玉前タマサキ神社)が外され6柱が選ばれているようです。

 天照、草部吉見、ニニギ、ニギハヤヒ、ウガヤフキアエズ、カムヤマトイワレヒコ(本物の神武天皇)

 百嶋神社考古学では、山幸彦=ヒコホオデミと豊玉姫が一緒になって神武天皇が産まれ、子育て放棄により玉依姫が送り込まれると言った話を全く認めません。

 それ以上に天照大御神と神武天皇とは腹違いの姉、弟の関係であるとします。

 それについては、百嶋由一郎最終神代系譜(次葉)を見て頂くとして、ヒコホオデミと豊玉姫との間にウガヤフキアエズが産まれている事は良いのです。

 話が逸れましたが、榎原神社はヒコホオデミ、ウガヤフキアエズという親子を掲げず、天照を筆頭にしていることから、鵜戸神宮をそのまま勧請した神社ではなく多少の脚色が行われている様に見えるのです。

 最後に、鵜戸神宮の「鵜戸」の意味ですが、古来、海食洞を「ウト」(大門)と呼んでいたものを、鵜草葺不合尊の「鵜」を充てたもので、単に大きな海食洞をそのように呼んだものと思われます。

 福岡県糸島市にある糸島半島の先端に芥屋大門がありますが、古代九州標準語の大門(ウート)が大門(オート)と畿内標準語化されたものと考えています。U音とO音の問題。

 それを、鵜が住み着いていた海食洞と考えるべきではないと思っています。

 鵜戸神宮入口には「吹気井」という地名があり、さらに南にも「小吹気井」がありますが、これも「大きな穴」、「小さな穴」という地名複合です。

 同じ日南海岸には、「内海」、「小内海」がある事と対応した親子地名の一つなのです。

 なお、この「吹気井」「小吹気井」地名に関しては、根中氏によりアイヌ語の「穴」=プケイ(フケイ)説が提案されています。

 出版当時にこの本を読み、現地を訪問した記憶がありますが、

 九州に於いて、壱岐の「腹ホゲ地蔵」といった表現とか、「穴がホゲル」、「鼻をホグル」もこの「プケ」、「フケ」の転化とも言えそうですし、無理してアイヌ語で説明しなくても良いのではないかとも思うこの頃です。

 勿論、アイヌ語が九州に一切入っていないなどと言った馬鹿げた事を言うつもりは毛頭ありません。


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スポット069 月読命(大山祗)の祭祀圏とは何か? 

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スポット069 月読命(大山祗)の祭祀圏とは何か?      

20161214

太宰府地名研究会 古川 清久


1218日、太宰府地名研究会(20161218)に於いて、久留米市田主丸町石垣の二田の月読神社から朝倉市杷木町大山の大山祗神社への数社を巡るトレッキングを行います(公開時点では終了しています)。

 問題は、この月読命=大山祗の祭祀圏が何であるのか?が、今回のテーマです。

 

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「古事記」「日本書紀」でも影が薄く、実体が見えないのが月読命=大山祗命ですが、これが隠されてきた理由が多少は見えて来ました。それは、その実体が狗奴国であり、物部氏であり(主力が二田物部=鞍手郡小竹町新多だった事を想起して下さい)、後に朝敵=熊襲とされたトルコ系匈奴を主力とする騎馬軍団だったからのようなのです。恐らく朝敵熊襲だったことが百済、新羅、高句麗、秦氏からペルシャまでは許されるものの、決して列島進入を認められてこなかった理由だったようなのです。

現在、百嶋神社考古学を追い求める当方の研究者たちの間で、最も関心を寄せているのが、故)百嶋由一郎氏の遺言と言っても良い証言で、それがこれら訪問する神社に関係しています。

神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界 --- もう一つの神々の系譜

源実朝以降に、朝鮮人である神様を日本の偉い神様にしておくのはまずいということで削ってしまった。削られたお宮さんは困りますね。田主丸のさんや様、おしろい祭りをやっているおおやまつみ神社、あそこは困って祭神すり替えをやっている。すなわち、政府が許すという範囲のことしか表に出してはいけないというお触れに従ってごまかしておられる。ところが、ナニクソ、こんなこと発表して構うもんかと、熊本城ががんばられた。熊本城の本丸の地下にゆくと王照君の間がある。古代中国の4大美人、西施、王照国、貂蝉、楊貴妃ですが、王照君は100%消された朝鮮人ですね。さて、その消された朝鮮人の神様のお子様が、田主丸のサンヤ様、そしてそのお子様が大国主です。

中国4大美人、西施(年齢は2500何十歳)、そして次の方、王昭君、熊本城の大広間に行くと王昭君の絵がでかでかと描いてあります。そしてこの人こそ大国主命の先祖とお考えください。秘密にされておりますけれど、間違いございません。その代表的な裏付けとなるひとつに、朝倉のおしろい祭りがあります。朝倉の大山祇神社、ここでははっきり書いてありますが、ご祭神を王昭和君と書くわけにはいけないから、遠慮して遠慮して、ご祭神はもとは女であった、そしてお化粧が云々と書いてあります。この人の年齢は紀元前33年に嫁がれたそれに20歳プラスなさったらよい。この人の血統も秘密になっていますが大体わかります。いずれ機会があったら、その時話します。次は、貂蝉(ぴゃおちゃん、ちょうぜん)、1800年前曹操が天下を取った時代にずるい賢い連中がこの人を使って、最後にこの人を使い切ったのは曹操です。最後の方は1300年前、楊貴妃(やんくいへ)以上の4人が古代中国4大美人です。 

肥後の翁のblogから一部切出し

まず、十五夜お月様を愛でる風習については、現代人にも良く知られています。

これに対して、田主丸の「さんや様」とは「二十三夜月待ちの風習」(「講」を作り参宮したり、その仲間で御馳走を食しながら月の出を待ち、月が現れるとそれをめで拝んだ)の残る領域と重なるもので、月、当然“うさぎ”などがシンボルになっています。また、同系統のものかどうかは不明ですが、十三夜や二十六夜待ちの風習は非常に薄くなっているようです。さて、「神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界」を読まれた方に誤解がないように先手を打っておきますが、ここで朝鮮人と言う場合、現在の朝鮮人をイメージすると全く訳が分からなくなってしまいます。若干のコメントを加えておきますが、古くは呉の太伯王(周王朝の長子)の子孫=“倭人は呉の太伯の裔”を筆頭に、列島には多くの渡来系民族、氏族が雪崩れ込んでいます。百済、新羅、高句麗はご承知の通りですし、秦の始皇帝の支配を嫌い半島に逃げて来ていた秦の臣民、後には漢帝国に滅ぼされる秦(秦氏=嬴…瀛氏)の王族、官僚、武人、技術者…、そして、漢王朝も同様に…(恐らく、綾氏、笠氏…)、鮮卑、恐らく、
sp69-2燕、趙、魏、晋、漢、斉、楚、五胡十六国時代の民族の一部も、繰り返し、繰り返し多くの人々が押し出されてきたのでした。

 従って、現在の半島には古代朝鮮人の中枢部(王族、学者、軍部、技術者)は残っておらず(百済、新羅、高句麗にしても同様)、残ったのは新権力に手のひらを返すように態度を豹変させ、直ぐに強い者、得な側に従う節操のない人々(これが毎日年から年中、嘘を付き続けている現代の中国、朝鮮の民族体質に繋がっていることは半島の大統領弾劾などにも認められる現象ですね)だけで、古代朝鮮は列島にそのまま移ってきていると考えるべきなのです。

つまり、簡単に言えば古代の朝鮮人、中国人こそが列島人であり、現代の半島人とは古代朝鮮人などではなく、新たに生じた(生じ続けた)空白に北方から侵入し続けた濊(わい、拼音: Huì)、鮮卑など、入れ替わった人々のことなのです。つまり、玉突き状態で新世界としての列島に移動した優秀な人々によって形成されたのが列島人だったのです。そこまで、理解して頂いたうえで、この月を愛で、うさぎの狛犬を置く様な民族集団とは何であるのかを考える事が主要なテーマです。

 ただ、非常に多くの説明をする必要があり、今回はその骨格だけをお話しするだけになります。これについては、現在、500シートのパワー・ポイントとして朝来(アサクナ)を作成しています。あくまで途中経過ですが、この問題に近接する内容となっています。

 本題はここからです。二田の月読神社が鎮座する場所は田主丸町石垣ですが(実際には移転により多少変わっていますが)、この地名が遠くアフガニスタンまで通底していると考えています。

そして、「石」(イシ)には思い当たる事があるのです。

 それは、大山祗命を追い求めていると不思議と「石」の付された地名、神社名に出くわすことを何度も経験しているからです。ひぼろぎ逍遥(跡宮)のバックナンバーをお読み頂く必要があります(以下)。

179 天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 ④ “西都原に大山祗命の痕跡がある!”

今回ご紹介するのは西都市の石貫神社です


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西都原古墳群に近接(東側)して石貫神社があります。この石貫神社については地元では知られているようですが、北部九州にお住まいの方にもほとんど知られていません。この事には、そもそも「大山祇命」を直接祀る神社が北部九州には少ない事があり、コノハナノサクヤのお父さんといった事以外、馴染みが少なく印象が薄い事があると思うものです。ただ、今回の天高く、青空に誘われ日向の神社探訪」は、大国主と大山祇命の痕跡を辿ることがテーマですから、日向に幟を揚げた大山祇命のお社を見出したのは有難い限りです。さらに言えば、百嶋神社考古学の立場からは大山祇命(実は月読命)は大国主の父親であり、妹にあたるコノハナノサクヤはニニギと直ぐに別れ、豊玉彦(ヤタガラス)と一緒に古代の日向である溝部町に前玉(サキタマ)神社として祀られ後の埼玉県の地名の起源となった前玉神社になっているとするのです。

由緒


 当社は古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年(733)と伝える。社地は創建時の記録『日能若宮元元由来記』によれば、「大山祇命」(中略)阿佐久良山[木患]木原五百世山元筑波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺跡と伝える。往時は、社殿、境内、宏壮森厳で、真に筑波御殿の名に背かざるものであった。弘治二年(1556)六月の『古帳神社知行目録』によれば、神田十二町一反歩を有し、応永二十四年(1417)社殿改修に当たり神饌田が加増され、以来応永二十五年、二十六年、二十七年、永享二年(1430)等、幾度に渡り神饌田の増加の記録が現存する。しかし天正十五年(1587)豊臣秀吉、島津出兵の際、羽柴秀長、兵を率いて都於郡に陣営した時、当時の石貫神社の祠官が軍令に従わなかった事によって社地は没収された。

石貫神社の名は、大山祇命の娘の木花咲耶媛を嫁にほしいと云って来た鬼に、一夜で石造の館を造ればと命じた。鬼は夜明けまでに造ったが、大山祇命は窟の石一個を抜き取り、東の谷に投げ、未完成とした。これで鬼の要求をはねつけたと云うことによると伝わる。 敬愛するHP「神奈備」より


石貫神社が本物ではないかと考える理由は、この旧溝部町の前玉神社(ニニギと別れたコノハナノサクヤが祀られる)の存在があり、大山祗命の娘であるコノハナノサクヤが、埼玉は本より関東全域で桜姫と呼ばれている起源が、この神社の直ぐ東側を流れる桜川を起源にしているのではないかと考えるからです。

  HP
sp69-5より


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 この「石貫」地名は熊本県玉名市(玉名市石貫地区 横穴式石室を持つ古墳で有名)にもあり、故)百嶋先生は同民族の移動による痕跡地名とされていましたが、筑後川左岸(南岸)の久留米市田主丸町石垣地区、佐賀県嬉野市石垣地区など同種の地名があり、大山祗命=月読命の信仰圏でもあるのです。

 まず、石貫神社の「石貫」とは、「石ノ城」の置換えで(U音、O音の置換え)、「石城」「石垣」も「石ガ城」の置換えになるのです。佐賀県神埼郡吉野ヶ里町には「石動」(イシナリ)があります。これも半島系の吉野ケ里の「里」地名ですが、金官伽耶から進出してきた同系統の地名と考えています。これこそが、「石和」が「石尊」と通底していると言った理由ですが、これについても故)百嶋由一郎氏は答えを出しておられたのです。

 新疆ウイグルは勿論のことアフガニスタンにまで何度も入っておられたようで、このシルクロードの石頭城(タシクルガン)石頭山が「石城」とされ列島まで持ち込まれていると考えておられたのです。

 これまでにも何度も申し上げていますが、百嶋神社考古学では大山祗命=月読命はトルコ系匈奴で金官伽耶の金越智(ウマシアイカビヒコヂ)と天御中主の間に産れた、トルコ系匈奴の血を引くものとします。

さらに話を物部氏に広げます。それも「先代旧事本記」の筆頭に書かれた主力の二田物部との関係に踏み込みます。

 

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新潟の彌彦神社へと快調に走っている途中、有名な東京電力(株) 柏崎刈羽原発の辺りを通過していると、二田という地名と物部神社という表示がカーナビに飛び込んできました。

休憩も必要ですからこれ幸いでもあり、まずは見聞とばかりにハンドルを右に切りました。

場所はこれまた有名な出雲崎町の手前、柏崎刈羽原発の北東五キロほどの旧西山町です。


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これほどはっきりした幟を揚げた物部神社も珍しいと思いますが、この「二田」が筑豊の物部25部族(「先代旧事本記」)の移動先の一つである福岡県鞍手郡小竹町新多=二田(ニイタ)であることは疑いようがありません。


物部神社参拝殿、本殿

 

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遠来の地であり軽々には語れないのは重々に分かっていますので、ここでは、筑後物部の筑豊への、さらには日本海側への展開の一例を発見したとだけとして、これ以上の深入りを止めておきますが、一目、社殿の造りは筑後物部の鞘殿の様式と見たいところです。

 ただ、雪深い土地柄ゆえの鞘殿かも知れないため単純な当て嵌めも危険かもしれません。

当然、ガラスの温室風の参拝殿も寒さ対策としての土地柄のもたらすものの可能性も考えておくべきでしょう。

ここで面白いと思ったものに、社殿に付された神紋がありました。これまた、一目、徳川葵の原型とも言うべきものに見えるのですが、注意すべきは、この神紋が中世の豪族の物であるのか、古代に入った物部氏の一派が使っていた物かが分からないのが残念な限りです。

ここら辺りになると地域の文化、歴史への体系だった知識の蓄積がなければ判断できない領域になるのです。

いずれにせよ、物部氏が後の武士階級に成長した可能性を示すものであり、その裏付けを発見したと言いたいところですが、当面は保留を余儀なくされそうです。

地元の郷土史家などとの接触も必要ですが、ただの物見遊山の旅人の質問においそれと耳を貸す識者もいないでしょう。

しかし、物部氏から「モノノフ」と言う言葉が生まれ武士が生まれたとするのは痛快な仮説ではあります。



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参拝殿から神殿への鞘殿?(左) 古風な尻合わせ三つ葵紋は誰の物か?(右)


立ち葵から三つ葉葵さらに徳川葵への変化の一つを表すものであれば興味深いものです。

尻合わせ三つ葵紋は徳川氏=松平氏がその初期に使っていた形跡があるようで、面白くなって来ました。



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敬愛するHP「倭国九州王朝」より 


 ここで、いつも参考にさせて頂いている「苗字と家紋」…sp69-14に助っ人を頼みたいと思います。以下。

sp69-15徳川家の三葉葵紋
 一般に徳川氏は葵紋であるのが定説化されている。水戸黄門で「頭が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか」という 決め台詞が有名だ。


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徳川家の三つ葉葵の原形は、二葉葵といわれている。この二葉葵を紋章とするのは、だいたいが加茂明神信仰から出て いる。二葉葵は京都の賀茂神社の神事に用いられてきやもので、別名カモアオイともいわれる。そして、加茂祭には 必ずこの二葉葵を恒例の神事よして用いたことから、この祭を葵祭という。
 このように葵は、加茂祭に用いた零草であるため、この神を信仰した人々がこの植物を神聖視し、やがて、これを家紋としたことは当然のなりゆきと言える。『文永加茂祭絵巻』に、神事の調度に葵紋が用いられているのが 見られる。このころから家紋として用いたようだ。写真:上賀茂神社の紋-
葉葵

sp69-17葵紋が武家などの家紋となったのはかなり古い。『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・ 島田氏らが戦国時代前期ころから用いていたとある。このなかで、本多氏の場合「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」と『本多家譜』にある。このことから、本多氏の祖先が賀茂神社の神官の出であることにちなんだことが知られる。………
・家紋:立ち葵紋
 同じく、松平氏が葵紋を用いたのも加茂神社との関係に基づいたもののようである。松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は加茂朝臣と称しており、加茂神社の氏子であったことがある。これは松平三代信光が、三河国岩津村の妙心寺本尊の胎内に納めた願文に「願主加茂朝臣信光生年二十六歳」とあることでもわかる。このように、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた。その葵紋は二葉か三葉か確たるところはわからない。
 しかし、徳川氏の先祖とされる新田氏の家紋は「大中黒」または「一引両」である。徳川氏が先祖の家紋を引き継ぐとすればさきのいずれかでなくてはならない。松平氏に婿入りしたためにあえて新田の家紋を使わなかったのであろうと思われる。また、三代・信光の墓には剣銀杏の紋が付けられている。少なくとも信光の時代には、葵紋は定着していなかったようにも思われる。


この点に関しては我が百嶋先生もお気づきだったようです。

新田は○に一文字(一引き)です。

徳川が、新多物部→二田物部→新田氏→徳川氏とすれば、面白いのですが、そのことをお示しするために、百嶋先生の資料から葵のヤタガラス神紋系譜をご覧いただきましょう。

これで、この二田(新多)物部からその延長が判れば良いのですが、結論を急ぐのは冷静に止めておきましょう。しかし、上賀茂=崇神の系統の可能性は高いのではないでしょうか?

 

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百嶋由一郎「ヤタガラスバリアシオン」神代系譜


「物部」とは職能集団であり、多くの民族(氏族)の複合体ですが、この二田物部がどの系統であるかを考える際に、この神紋から大枠では大幡主系と考える価値はありそうです。


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皆さんは、何故、熊本城の最奥部に昭君(王昭君)の間なるものが置かれているのかをお考えになった事があるでしょうか?加藤清正は確かに豊臣秀頼を迎え入れ徳川と一戦を交える気構えで熊本城を造ったと言われます。それは毒殺により実現しませんでしたが、恐らく、秀吉を受入れた木下家とは五七桐紋を使う名家であり、この栄えあるトルコ系匈奴でも呼韓邪単于(コカンヤゼンウ)の流れだったからこそ、昭君の間が置かれたのではないか…と言うのが我が百嶋翁の解読でした。これ以外にも、多くのお話ができるのですが、それはblogなどで。


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373 宮崎市の奈古神社初見  

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373 宮崎市の奈古神社初見     

20160729

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


通常、宮崎市の江田神社のように、古代には(と言わず近世まで)明らかに海の底だったはずの場所を神話の舞台として宣伝するものを真面目に考える事はしません。

このため宮崎神宮を始めとする一連の神社群を取り上げる事もないのですが、そういうものも一応は見ておく必要があることから、今回とりあげたのが奈古神社でした。


373

現地は、一目大淀川の氾濫原と思しき一角に突き出した岬か島状の地であり、近くには生目古墳群も控えています。

まず、その時代のウォーター・フロントを思わせるものです。

その点、古代の神社としてのロケーションはぴったりで、それだけでも見せて頂く価値は十分にありそうです。

さて、祭神はニニギを筆頭に、ウガヤが真中に、最後に神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)が配されています。


天津彦々火瓊々杵尊 鵜葺草葺不合尊 神日本磐余彦天皇


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まず、筆頭のニニギと考えるべきでしょうが、何故か由来には「神武天皇を宇佐八幡と崇めたことから奈古八幡の勅号を得、…」とあります。

 また、奈古八幡とありながら肝心の八幡神は片鱗も見せていません。

 どうも、由来と祭神の組合に齟齬を来しているという印象を抱かざるを得ません。

一つの考え方として、本来はウガヤフキアエズを奉祭神社だった可能性があるでしょう。

 「明治初期には、本殿のほかに末社8社が温存していた」ともあり、それが明治維新以前の本来の祭神であった可能性があり、この三神の内ニニギ、神武の二神が加えられ、明治の郷社昇格で受け入れられたと考えられそうなのです。

 もう一つは神武天皇が最後尾に配されている事からは、この神武は神武僭称、第10代 贈)崇神天皇(和風諡号ハツクニシラススメラミコト)である可能性も見て取れそうです。

 それならば、「神武天皇を宇佐八幡と崇めたことから奈古八幡の勅号を得、…」という由来が生きてくるのです。

 いずれにせよ、百嶋神社考古学と宮崎神話は全く合い入れない事は次葉の百嶋由一郎最終神代系譜をご覧いただければお分かりになるでしょう。

 いずれにせよ、情報量が少なさすぎるため解読できません。


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346 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜

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346 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜

 

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161217

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


以前、118 蘇民将来(ソミンショウライ)巨旦将来(コタンショウライ)として、宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社の「蘇民将来 巨旦将来」伝承を取り上げた事がありました。

近年、パワー・スポット・ブームで参拝客が増加している神社と聞いています。

もう一度「蘇民将来 巨旦将来」伝承を思い出して頂きましょう。


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蘇民将来出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (20161219 21:41による


ex38-2蘇民将来護符(神戸・祇園神社)


蘇民将来(そみんしょうらい、非略体: 蘇民將來蘓民將耒巨旦将耒、など)とは日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない[1]。なお、岩手県県南では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。陰陽道では天徳神と同一視された。

説話 古くは鎌倉時代中期の卜部兼方釈日本紀』に引用された『備後国風土記』の疫隈国社(えのくまのくにつやしろ。現広島県福山市素盞嗚神社に比定される)の縁起にみえるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。

すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうのかみ、むとうしん)を裕福な弟の将来(『備後国風土記』では「或本作巨旦將來也」とあり、巨旦将来〈こたんしょうらい〉と表記され、金神のこととされる)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘にの輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。


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同社御由緒


 まず、縁起に依れば、曽男神(スサノウ)並びに冠八面大明神(クラオカミ)が主神であるとしているようです。しかし、御由緒の冒頭にはスサノウ、オオナムチ、イザナミが名を連ねています。

 奇妙ですが、多分、曽男神(スサノウ)並びに冠八面大明神(クラオカミ)が先住神で、後に三神+八神となったものと考えて良いのではないかと思います。

 少し分かり易いように一つずつお話をする事にしましょう。

 縁起による主神の曽男神(スサノウ)と冠八面大明神(クラオカミ)とは、百嶋由一郎氏の神代系譜(クラオカミ、タカオカミ系譜)によればお分かりの通り弟と姉になります。

 しかも、この神社は祇園山の裾野の祇園神社であり、通常祇園神社とはスサノウを祀る神社なのですから、クラオカミが祀られていてもおかしくはないどころか、むしろぴったりの場所となります。

 さらに驚くことに、この集落自体が鞍岡であり、クラオカミ=冠八面大明神を祀る地域を表している、どころか、クラオカミとは、この鞍岡に居たからこそクラオカミと呼ばれていたのではないかとまで思えるのです。

祇園神社 宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町鞍岡6066


 そこで、残りの神様を考えて見ましょう。伊弉册尊(イザナミ)は言うまでもなくこの二柱の神様の母神になりますから、当然と言えば当然で、奇稲田姫もスサノウのお妃ですから全く違和感はありません。

 「古事記」ではクシナダヒメを囲んで泣いていたとされる足名椎、手名椎もクシナダヒメの親神ですから当然の配神になります。

 そして、問題の蘓民將耒、 巨旦将耒ですが(両方とも雲南省麗江から進出してきた黎族)、蘓民將耒とは阿蘇高森の草部吉見=春日大神=武甕槌=鹿島大神の叔父にあたる神八井耳にあたり、巨旦将耒とは熊本地震で楼門が倒壊した阿蘇神社の最奥の神殿に祀られている金凝彦こと神沼河耳の事なのです。

 最後にこの祇園神社が鎮座する鞍岡は宮崎県五ヶ瀬町の一大字になりますが、神武皇兄五瀬(イツセ)命とは、この五ヶ瀬町の五瀬(ゴカセ)から取られた名前なのです。


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ところが、祇園神社では御由緒にクラオカミ=神俣姫が書かれていません。

勿論、境内摂社の神としては書かれているのですが、闇淤加美神が、何故、そのような扱いになっているのかは分かりません。

実は西南方向1キロほどの所に祇園神社の境外摂社として冠八面大明神「古我武禮神社」があります。


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この冠八面大明神 古我武禮神社の由緒を読むと、間違いなくスサノウとクラオカミがこの地に居たのではないかと思いが高まって来るのですが、さらに重要なのは旅の途中で宿を乞うた武塔神(実は仏教化されたスサノウ)が一夜の宿を求めた相手方の蘓民將耒(恐らく草部吉見周辺)、 巨旦将耒(恐らく阿蘇神社周辺)であることを考えると、蘇民将来巨旦将来伝承も、この肥後、日向国境い一帯を舞台として起こった事のようなのです。

単に浮ついた一過性のパワー・スポット・ブームだけでではなく、この宮崎県五ヶ瀬町と熊本県阿蘇高森の草部吉見神社一帯の神代史に目を向けて頂きたいものだと思うものです。


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374 阿蘇の乙姫とは誰か? “産山村乙宮神社のお姫さま”   

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374 阿蘇の乙姫とは誰か? “産山村乙宮神社のお姫さま”     

20160729

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


最近は「この神社の神様はどなたの事でしょうか?」といった質問が頻繁に入ります。

 勿論、直ぐに分かる場合もあれば、その神社の存在さえも知らない場合もあります。

 そうした中、「阿蘇の乙姫に来てるんですが、乙姫さまはどなたでしょうか?」という質問が入りました。


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 この神社については承知していましたが、このようなある意味で俗受けする神社に関しては興味を持っていなかったことから直ぐにお答えできる状態ではありませんでした。

 菊池市旭志麓にも乙姫神社がありましたので、こちらの乙姫神社は見たことがありましたが、あまり本気で考えていなかったというのが正直なところでした。

 ただ、ある程度の見当は着いていたことから「多分、産山村の乙宮神社と関係があると思うけど、祭神の呼称が草部吉見神社と阿蘇神社と乙宮神社で共通しているかどうかが不明で、自信がないので直ぐには答えられない…」といったお答えをしていました。



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まず、「熊本県神社誌」上米良純臣(編著)173pには


村社 乙姫神社 阿蘇町乙姫1317 祭神 若比咩神 仁寿元年(851


 とあり、若比咩神を探し出せば良いことになります。


 同じく「神社誌」181pには


乙宮神社 産山村産山2241 祭神 若比咩神・健磐龍命 (若比咩降誕の地と云う)


 とあり、乙宮神社の由緒には、


阿蘇神社の摂社で勧請年代不詳、旧村社で産山地区一円の産土神として崇敬されている。

阿蘇宮六宮に、若比咩神は、彦御子神の妃として祀られているところから、古来より本村では、阿蘇大神御嫡孫、御生誕の地は乙宮であり、「産山」という地名の起こりであると言い伝えられている。

神殿は総ケヤキ造りで、華麗な彫刻と枡組が施され荘厳である。

 産山村HPより


これについては阿蘇神社の祭神を再度確認しましょう。


以下の12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称される。


一の神殿(左手、いずれも男神)

一宮:健磐龍命 - 1代神武天皇の孫

三宮:國龍神 - 二宮の父。神武天皇の子で、『古事記』では「日子八井命」と記載

五宮:彦御子神 - 一宮の孫

七宮:新彦神 - 三宮の子

九宮:若彦神 - 七宮の子


二の神殿(右手、いずれも女神)

二宮:阿蘇都比咩命 - 一宮の妃

四宮:比咩御子神 - 三宮の妃

六宮:若比咩神 - 五宮の妃

八宮:新比咩神 - 七宮の娘

十宮:彌比咩神 - 七宮の妃


諸神殿(最奥、いずれも男神)

十一宮:國造速瓶玉神 - 一宮の子。阿蘇国造の祖

十二宮:金凝神 - 一宮の叔父。第2代綏靖天皇を指すとされる


産山村のHPでは阿蘇神社の六宮=五宮:彦御子神(健磐龍命の孫)の妃が産山村の出身であり、阿蘇神社の彦御子神の母方の実家が乙宮であると言うのです。


そして、乙姫神社の縁起からは、この若比咩と速甕玉命(阿蘇国造神社の主神で実は大山咋命)の子である惟人命から現在の阿蘇家が発生しているとしているのです。

 これについては、百嶋先生はそうお考えではなかったようです。

 以下(アイラツ姫系譜)を見て頂く必要がありますが、これによると、惟人命は速甕玉命の子ではなく、草部吉見と拷幡千々姫(高木大神の次女)の間に産まれた天忍日・新(ニュウ)彦と、健磐龍と(草部吉見と(拷幡千々姫(高木大神の次女)の間に産まれた)阿蘇ツ姫の間に産まれた新(ニュウ)姫・雨宮姫(相良村外の雨宮神社の祭神)の間に産まれているのです。

 してみると、現在の阿蘇家は、先住の支配者であった高木大神系の血がかなり濃い事が分かるのです。

 ただ、この系譜をもってしても阿蘇産山村の乙宮神社の一族がどのような系統なのかは依然として不明です。今のところ、草部吉見のお妃とされる比咩御子命(草部吉見神社の二宮=阿蘇神社の四宮)も高木大神系の萬幡豊秋ツ姫の妹拷幡千々姫であり、それも産山村出身ではないかと考えているところです。

 今後とも探究を続けます。


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スポット070 海の山幸彦 “熊本神代史研究会(仮称)への胎動”

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スポット070 海の山幸彦 “熊本神代史研究会(仮称)への胎動”      

20161214

太宰府地名研究会(百嶋神代史研究会準備会) 古川 清久


これまでにも何度か、熊本で神社を巡るトレッキングを行っていますが、熊本地震後の復旧工事が終わったことから、熊本市内の某所での神社に関心を寄せる方々を対象にお話をする機会を得ました。


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講話とも談話とも分かりませんが、これは、お話の資料を公開する事になります。

 今回の会合は実質的な忘年会でもあることから、それほど長い話はできず、有明海沿岸、不知火海沿岸に分布する十社ほどの猿田彦神社についてのある側面についてのお話だけをする事にしました。



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談話「有明海、不知火海沿岸の猿田彦神社を探る」


始めに、「熊本県神社」から拾い出した肥後でも有明海、不知火海沿岸の猿田彦神社をご確認下さい。


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これは、50社ほどの猿田彦神社の一部でしかありませんが、ご覧になってお分かりの通り、5社に塩浜、塩竃、塩屋、塩釜…と半分の社名に「塩」が冠されており、製塩に関わり合いがあるという事を否定できる人はいないでしょう(これを無視できる人は、まず、よほどの嘘つきか?関心を持たない人と思います)。

 自然な成り行きとして、最低でもこの五社(いずれすべて回りますが)の実調に入りました。

 すると、五社の全てが海岸部のしかも実質0メートル地帯と言った海水が取り入れられるような場所(正確にはその正面に)鎮座していたのでした。いくつかご紹介しましょう。


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同様に、39 水俣市八万町の塩浜神社 も二柱二体の神様が鎮座しており、正面には運動公園へと改造された旧塩田地が存在していたのでした。他の3社も見せて頂きましたが、ほぼ、同様です。

 ここで、もうお一人の神様がどなたであるかが気になるのですが、これについては候補がおられます。

塩土老翁とか塩椎(筒)老翁と呼ばれる(実は博多の櫛田神社の大幡主でヤタガラスの父神)方です。

 まず、「塩土」とされていますが、九州では「塩筒」という表記がかなりあり、こちらが原型ではないかと考えています。          右は製塩土器の一例

sp70-7この方が猿田彦とどのような関係にあるかと言う話は後に回すとして、この一帯の製塩事情を考えて見ましょう。

さて、明治9年からの塩業整備報告2巻 (日本専売公社 1966年刊)出典:農商務統計表 第17次(農商務省編:慶応書房刊)という資料があり、ネット上にも公開されています。

この資料から最も古い、明治九年だけの製塩石高を見ると、肥前が2,675,550石で一位、遠江が1,462,667石で二位、良く知られた赤穂の播磨が740,350石で三位となっています。一般的には瀬戸内の製塩業が有名ですが、例えば、播磨の実に三倍以上の生産高を持っていたのが肥前だったとされているのです。

これには多少の問題があり、天草は現在でこそ肥後の熊本県となってはいますが、かつては一部が天領でもあり、明治初期には天草県であったり富岡県だったり長崎県にもなり最終的に熊本県の扱いを受ける事になったのです。それが、司馬遼太郎が“天草は肥前の香りがする土地”と表現した事と通底しているのです。

ともあれ、明治10年の統計では、肥前、遠江、播磨の関係が激変していますので、この辺りの事情が反映されているものと思われます。どうやら、天草は列島最大の製塩の中心地であったようです。

sp70-8この点、非常に短絡的に過ぎますが、塩筒命+猿田彦を祀る宮崎市の南、日南海岸の野島神社の祭祀形態は西九州の天草一帯のそれが東に展開し奇跡的に残されているようなのですが、 

後で野島神社を考えて頂ければと思います。

さて、ここで思考の冒険を試みて見ましょう。猿田彦がsoltだった!とするのは暴走に過ぎるでしょうが、猿田の音読みは「エンデン」でもあるのです。

柿本人麻呂が人ではない猿だとして猿丸太夫に貶められたとの説は有名ですが、塩田彦が猿田彦に置換えられ貶められた可能性が全くないとは言えないと思うのですが、後はご判断に

お任せしたいと思います。


野島神社の証明 宮崎市の日南海岸の南に野島神社が在ります。宮崎県宮崎市内海野島6227


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ここで、野島神社の意味を再確認しておきたいと思います。まず、白鬚大明神 野島神社とあります。そのとおり浦島太郎をまつる神社 として、塩筒大神と猿田彦神が住吉の神と共に祀られています。

塩筒大神が塩土(槌)翁…であることは間違いないでしょうし(杯状ではなく筒方の製塩土器の一つか)、猿田彦とは考えられないことから、浦島太郎が塩土老翁であろうと推定することは一応は可能です。

海幸からの釣針を失い途方に暮れる山幸に竜王に逢いに行くようにとアドバイスしたのが塩土ですね…。

シオツチノオジ

シオツチノオジ(シホツチノヲヂ)は、日本神話に登場する神であり塩竈明神とも言う。『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁、『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記する。別名、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)。         …中略…

名前の「シホツチ」は「潮つ霊」「潮つ路」であり、潮流を司る神、航海の神と解釈する説もある。『記紀』神話におけるシオツチノオジは、登場人物に情報を提供し、とるべき行動を示すという重要な役割を持っている。海辺に現れた神が知恵を授けるという説話には、ギリシア神話などに登場する「海の老人」との類似が見られる。また、シオツチノオジは製塩の神としても信仰されている。シオツチノオジを祀る神社の総本宮である鹽竈神社(宮城県塩竈市)の社伝では、武甕槌神と経津主神は、塩土老翁の先導で諸国を平定した後に塩竈にやってきたとする。武甕槌神と経津主神はすぐに去って行くが塩土老翁はこの地にとどまり、人々に漁業や製塩法を教えたという。白鬚神社の祭神とされていることもある。

ウィキペディア(20160716 16:30より

 ここで、第3代安寧天皇を頭に浮かべて下さい!

 安寧の和風諡号は磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)と「玉手箱を見た」天皇とされているのです。


安寧天皇(あんねいてんのう、綏靖天皇5 - 安寧天皇38126日)は、日本の第3代天皇(在位:綏靖天皇33715 - 安寧天皇38126日)。

和風諡号は、『日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)」、『古事記』では「師木津日子玉手見命」。

神武天皇(初代天皇)の孫。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。           ウィキペディア(20160716 16:30より


 欠史8代を架空とする愚かな学会通説は無視するとしても、以前から、第3代の安寧だけは見当が着かないでいました。

sp70-10 所詮、藤原がでっちあげ、実力者ではあっても天皇ではない 第2代綏靖(神沼河耳=金擬彦=高龗神)、第5代孝昭(海幸彦=草部吉見=武甕槌=春日大神)、第6代孝安(御年神=玉名疋野神社の主祭神=春日若宮)、九州王朝系の神武、懿徳、(孝霊)、孝元、開化……仁徳の間に挿入しているのであって第3代安寧 が誰かなどどうでも良いようなのですが、相当な実力者であっただろうとは考えていました。

 そして、百嶋由一郎神代系譜(阿蘇ご一家)を注意深く見ると、山幸彦=猿田彦を 贈)安寧天皇の子と書き安寧の横に玉手看と書いてあるのです。

 百嶋先生は何度か塩土翁を大幡主の事として話しておられましたし、“山幸彦は父も母も分かっていない(書かれていない)”とも言われていました。

 先生は相手のレベルに合わせて話す範囲を変えておられるようで、分かっていても全部は話されていない事が分かります。

しかし、山幸彦が贈)安寧天皇の子とさ
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れている事、そして、この野島神社の縁起で浦島太郎を塩筒(塩土翁)としているようである事、当の浦島太郎を祀る丹後の浦嶋神社(宇良神社)が大幡主の擬神体である大山祗を共に祀っている事などを併せ考えると、藤原が第3代安寧天皇と仕立てた人物とは博多の櫛田神社の大幡主と考えられそうなのです。  


 浦嶋神社では浦嶋子と大山祗命が祀られています。既に、タノカンサーこと田神様が大幡主(塩土老翁)と大山祗命の擬神体であるとの百嶋仮説を朝倉市一帯の40社の田神社の実調と「福岡県神社誌」に於いて確認していますが、浦島太郎が博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神であることは間違いないと考えています。

 詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)201宮崎市(日南海岸)のアコウの茂る野島神社と併せ読んで下さい。

sp70-13してみると、安寧(玉手看)の子とされる山幸彦については、絶えず猿田彦としている事、そして白髭、白髪、白木神社の主神でもある事、さらには、大幡主の配下で動いておられた事を書いていますが、どうもそれについても裏付けられたようなのです。次の写真をご覧ください。猿田彦=ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦……を祀る神社が白髭大明神とされているのです。
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さて、ここまでお話しした事は猿田彦が何者であるかに関して一つの側面の解析を行ったものでしかありません。 

間違ってもこの事だけで判断するようなことはしませんが、不知火海沿岸一帯において、猿田彦を製塩と関連付ける祭祀圏が存在した事だけは間違いないように思います。猿田彦=山幸彦が製塩と関係があるのではないかと言う可能性に関しては、塩釜神社などで塩土老翁の代わりに白髭大明神が祀られている例が散見されることから、以前から気にしていました。それが一部裏付けられたのですが、最後に海幸山幸神話で、塩土老翁から龍宮に行くことを勧められ、山幸彦は龍王の娘である豊玉姫と一緒になることはどなたもご存じだと思います。それが山幸彦=猿田彦のお妃、タゴリヒメ=(タゴリミホ)になるのです。

これに関しては、22の項目に関して猿田彦を分析していますが、今回はその一つをお話しした事になります。新年1月中旬から、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)28120回に分け、大宮神社と猿田彦大神 ①~“山鹿市の大宮神社とは何か? として連載の予定ですので、関心をお持ちの向きはお読み頂きたいと思います。お急ぎの方は、500シートを超えるPPパワー・ポイントを作成していますので、09062983254までご連絡下さい。

一方、古代製塩については福津市の年毛神社が参考になりそうです。

 ここでも某研究会に於いて、大道芸人宜しく、さも実証的でもあるかのようにヒラブ貝を見せ、猿田彦がひらぶ貝に手を挟まれて死んだ…という話だけで、民俗学のつもりかどうかは不明ですが、猿田彦をサンゴ礁からやって来たと南方起源説を吹聴した、行政権力に尾を振るさもしい3K(K県K市K○○宮)神主がおられましたが、この手の胡散臭い話を間違っても古代史の探究などとは考えないようにして欲しいものです。

 なお、24日には天草市五和町の猿田彦神社を始めとする3040人規模のトレッキングを行います。

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