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375 阿蘇高森の草部吉見神社の摂社三郎神社とは何か? 

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375 阿蘇高森の草部吉見神社の摂社三郎神社とは何か?      

20160801

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 阿蘇高森の草部吉見神社は毎年731日に夏の大祭を行います。

 2016年夏の大祭に合わせ草部吉見神社への10人規模のトレッキングが企画され、1130には現地に入りましたが、震災直後の草部で例年通りの大祭が行われていたのを見ていくばくかの安堵感を得たのは言うまでもありません。

 草部吉見神社に関してはこれまで多くを書いてきました。

 しかし、今回は吉見神社本体ではなく摂社の一つについてのお話をしましょう。


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阿蘇神社は観光客が押し寄せる知らぬ人のない神社ですが、その祭神の意外な大きさ(実は鹿島神社の武甕槌=鹿島大神、春日神社、彦山の天忍穂耳、藤原氏の遠祖…)にも拘らず草部吉見神社は近年まで一部の神社マニアしか足を向けない神社でした。

 ところが、久留米大学の公開講座(九州王朝論)や久留米地名研究会、当方のblog「ひぼろぎ逍遥」・・・でネット上に情報を流し出した辺りから、また、高千穂へのループ橋完成による観光ルートの変化も相まって、神社への参拝客も急増し、お賽銭の額も二倍~三倍に跳ね上がっているやに聴き及んでいます。

 その部分に関しては、良し悪しはともかくも、当blogも一部貢献しているとも言えそうです。

 さて、今回は関連する摂社(全体で17社)の中でも重要な三郎神社をご紹介します。

 まず、「熊本県神社誌」184pをご覧ください。

 この摂社群には、牛神神社、八坂神社、稲荷社、金毘羅神社に加え、愕くほど多くの菅原神社がある事にお気付きになるでしょう。

つまり、ここには草部吉見という外来神(雲南省、海南島)を受入れた母系の勢力が反映されているのです。


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では、三郎神社をご覧いただきましょう。


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三郎神社正面


長い参道と大きな境内を持つ神社ですが、社殿は至って簡素です。

 しかし、重要なのはこの三郎神社の主神である天彦命、天姫命です。では、草部吉見神社のご由緒をご覧ください。


三の宮 天彦命 日子八井命の第一皇子・三郎神社の祭神

四の宮 天姫命 天彦命の妃・三郎神社の祭神


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阿蘇神社の七宮:新彦神 - 三宮(草部吉見)の子 八宮:新比咩神 - 七宮の娘は、草部吉見と拷幡千々姫(高木大神の次女)の間に産まれた天忍日・新(ニュウ)彦と、健磐龍と、草部吉見と拷幡千々姫の間に産まれた阿蘇ツ姫の間に産まれた新(ニュウ)姫・雨宮姫(相良村外の雨宮神社の祭神)の間に産まれているのですが、三郎神社の祭神の天彦命、天姫命は、また、系統が異なるのです。 

まず、草部吉見神社の三宮 天彦命(天足彦)は、草部吉見とスサノウの長女である瀛(オキ)ツヨソ足(タラシ)姫=長脛彦の姉との間に産まれた天足彦(アマノタラシヒコ)であり、草部吉見神社の四宮 天姫命は、草部吉見と、辛国息長大姫大目命=支那ツ姫=伏見稲荷=豊受大神=アメノウヅメ=伊勢外宮の間に産まれた息長水依姫なのです。

三郎神社が日陰者扱いされている理由は、どうもスサノウ系、河上タケル系、長脛彦系、物部系との繋がりがあるという背景があるからのようなのです。

 それはともかく、外来(中国中原~雲南省麗江~海南島~苓北町~嘉島町~阿蘇)の侵入者である草部吉見の一族は、先住の支配者であった高木大神(朝鮮半島の伽耶~高千穂三田井~長崎県南北高来郡)の傘下(だから草部は伽耶部の意味なのです)に入り、高木大神の一族の入婿となります。

 この事は、肥後の三千数百社の内、千社近い菅原系神社が確認できる事の背景にあるのです。

 事実、草部吉見神社の17の摂社の内に10社の菅原系神社が確認できる上に、三郎神社自体も正式には菅迫三郎神社と呼ばれているのです。この菅原道真と思われている神社の背後には、多くの高木大神(本拠地伽耶後には新羅)系、スサノウ系氏族が隠されているのです。

 この雲南省から入ってきた草部吉見系黎族と新羅系、伽耶系の半島先住民族の混血によって肥後の人々が成立し彼らの東進によって日本国家=列島王権が成立していった事が読み取れるのです。

 最後に、三郎神社の三郎の意味ですが、太郎、次郎の三郎ではなく、どうも、「さぶらう」=侍の意味のような気がしています。           


以下は百嶋由一郎アイラツヒメ系譜と阿蘇ご一家系譜


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スポット071 国家が重荷になった金持ち連中が国家を捨てて地下に潜り始めたのではないか?

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スポット071 国家が重荷になった金持ち連中が国家を捨てて地下に潜り始めたのではないか?

20170121

太宰府地名研究会(百嶋神代史研究会準備会) 古川 清久


2017121日早朝には早くもトランプ大統領就任演説 (日本語訳全文)が掲載されていました。


トランプ大統領就任演説 日本語訳全文 121 612


トランプ大統領就任演説 日本語訳全文


アメリカの第45代大統領にドナルド・トランプ氏が就任しました。以下はトランプ新大統領の就任演説の日本語訳全文です。


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ロバーツ最高裁判所長官、カーター元大統領、クリントン元大統領、ブッシュ元大統領、オバマ大統領、そしてアメリカ国民の皆さん、世界の皆さん、ありがとう。私たちアメリカ国民はきょう、アメリカを再建し、国民のための約束を守るための、国家的な努力に加わりました。私たちはともに、アメリカと世界が今後数年間進む道を決めます。私たちは課題や困難に直面するでしょう。しかし、私たちはやり遂げます。私たちは4年ごとに、秩序だち、平和的な政権移行のために集結します。私たちは政権移行中の、オバマ大統領、そしてファーストレディーのミシェル夫人からの寛大な支援に感謝します。彼らは本当にすばらしかったです。

しかし、きょうの就任式はとても特別な意味を持ちます。なぜなら、きょう、私たちは単に、1つの政権から次の政権に、あるいは、1つの政党から別の政党に移行するだけでなく、権限を首都ワシントンの政治からアメリカ国民に返すからです。

あまりにも長い間、ワシントンの小さなグループが政府の恩恵にあずかる一方で、アメリカ国民が代償を払ってきました。ワシントンは栄えてきましたが、人々はその富を共有していません。政治家は繁栄してきましたが、仕事はなくなり、工場は閉鎖されてきました。既存の勢力は自分たちを守ってきましたが、国民のことは守ってきませんでした。彼らの勝利は皆さんの勝利ではありませんでした。彼らが首都で祝っている一方で、闘っている国中の家族たちを祝うことはほとんどありませんでした。すべてが変わります。いま、ここから始まります。なぜなら、この瞬間は皆さんの瞬間だからです。皆さんのものだからです。ここに集まっている皆さんの、そして、アメリカ国内で演説を見ている皆さんのものだからです。きょうという日は、皆さんの日です。皆さんへのお祝いです。そして、このアメリカ合衆国は、皆さんの国なのです。本当に大切なことは、どちらの政党が政権を握るかではなく、私たちの政府が国民によって統治されているかどうかということなのです。

2017年1月20日は、国民が再び国の統治者になった日として記憶されるでしょう。忘れられていた国民は、もう忘れられることはありません。皆があなたたちの声を聞いています。世界がこれまで見たことのない歴史的な運動の一部を担う、数百万もの瞬間に出会うでしょう。この運動の中心には、重要な信念があります。それは、国は国民のために奉仕するというものです。アメリカ国民は、子どもたちのためにすばらしい学校を、家族のために安全な地域を、そして自分たちのためによい仕事を望んでいます。これらは、高潔な皆さんが持つ、当然の要求です。しかし、あまりにも多くの国民が、違う現実に直面しています。母親と子どもたちは貧困にあえぎ、国中に、さびついた工場が墓石のように散らばっています。教育は金がかかり、若く輝かしい生徒たちは知識を得られていません。そして犯罪やギャング、薬物があまりに多くの命を奪い、可能性を奪っています。このアメリカの殺りくは、いま、ここで、終わります。私たちは1つの国であり、彼らの苦痛は私たちの苦痛です。彼らの夢は私たちの夢です。そして、彼らの成功は私たちの成功です。私たちは、1つの心、1つの故郷、そしてひとつの輝かしい運命を共有しています。

きょうの私の宣誓は、すべてのアメリカ国民に対する忠誠の宣誓です。何十年もの間、私たちは、アメリカの産業を犠牲にして、外国の産業を豊かにしてきました。ほかの国の軍隊を支援する一方で、非常に悲しいことに、われわれの軍を犠牲にしました。ほかの国の国境を守る一方で、自分たちの国境を守ることを拒んできました。そして、何兆ドルも海外で使う一方で、アメリカの産業は荒廃し衰退してきました。私たちが他の国を豊かにする一方で、われわれの国の富と強さ、そして自信は地平線のかなたに消えていきました。取り残される何百万人ものアメリカの労働者のことを考えもせず、1つまた1つと、工場は閉鎖し、この国をあとにしていきました。中間層の富は、彼らの家庭から奪われ、世界中で再分配されてきました。しかし、それは過去のことです。いま、私たちは未来だけに目を向けています。きょうここに集まった私たちは、新たな命令を発します。すべての都市、すべての外国の首都、そして権力が集まるすべての場所で、知られることになるでしょう。この日以降、新たなビジョンがわれわれの国を統治するでしょう。

この瞬間から、アメリカ第一となります。貿易、税、移民、外交問題に関するすべての決断は、アメリカの労働者とアメリカの家族を利するために下されます。ほかの国々が、われわれの製品を作り、われわれの企業を奪い取り、われわれの雇用を破壊するという略奪から、われわれの国を守らなければなりません。わたしは全力で皆さんのために戦います。何があっても皆さんを失望させません。アメリカは再び勝ち始めるでしょう、かつて無いほど勝つでしょう。私たちは雇用を取り戻します。私たちは国境を取り戻します。私たちは富を取り戻します。そして、私たちの夢を取り戻します。

私たちは、新しい道、高速道路、橋、空港、トンネル、そして鉄道を、このすばらしい国の至る所につくるでしょう。私たちは、人々を生活保護から切り離し、再び仕事につかせるでしょう。アメリカ人の手によって、アメリカの労働者によって、われわれの国を再建します。私たちは2つの簡単なルールを守ります。アメリカのものを買い、アメリカ人を雇用します。私たちは、世界の国々に、友情と親善を求めるでしょう。しかし、そうしながらも、すべての国々に、自分たちの利益を最優先にする権利があることを理解しています。私たちは、自分の生き方を他の人たちに押しつけるのではなく、自分たちの生き方が輝くことによって、他の人たちの手本となるようにします。

私たちは古い同盟関係を強化し、新たな同盟を作ります。そして、文明社会を結束させ、イスラム過激主義を地球から完全に根絶します。私たちの政治の根本にあるのは、アメリカに対する完全な忠誠心です。そして、国への忠誠心を通して、私たちはお互いに対する誠実さを再発見することになります。もし愛国心に心を開けば、偏見が生まれる余地はありません。聖書は「神の民が団結して生きていることができたら、どれほどすばらしいことでしょうか」と私たちに伝えています。私たちは心を開いて語り合い、意見が合わないことについては率直に議論をし、しかし、常に団結することを追い求めなければなりません。アメリカが団結すれば、誰も、アメリカが前に進むことを止めることはできないでしょう。そこにおそれがあってはなりません。私たちは守られ、そして守られ続けます。私たちは、すばらしい軍隊、そして、法の執行機関で働くすばらしい男性、女性に、守られています。そして最も大切なことですが、私たちは神によって守られています。

最後に、私たちは大きく考え、大きな夢を見るべきです。アメリカの人々は、努力をしているからこそ、国が存在し続けていけるということを理解しています。私たちは、話すだけで常に不満を述べ、行動を起こさず、問題に対応しようとしない政治家を受け入れる余地はありません。空虚な話をする時間は終わりました。行動を起こすときが来たのです。できないことを話すのはもうやめましょう。アメリカの心、闘争心、魂を打ち負かすような課題は、存在しません。私たちが失敗することはありません。私たちは再び栄え、繁栄するでしょう。私たちはこの新世紀のはじめに、宇宙の謎を解き明かし、地球を病から解放し、明日のエネルギーや産業、そして技術を、利用しようとしています。新しい国の誇りは私たちの魂を呼び覚まし、新しい視野を与え、分断を癒やすことになるでしょう。私たちの兵士が決して忘れなかった、古くからの知恵を思い起こすときです。それは私たちが黒い肌であろうと、褐色の肌であろうと、白い肌であろうと、私たちは同じ愛国者の赤い血を流し、偉大な自由を享受し、そして、偉大なアメリカ国旗をたたえるということです。そしてデトロイトの郊外で生まれた子どもたちも、風に吹きさらされたネブラスカで生まれた子どもたちも、同じ夜空を見て、同じ夢で心を満たし、同じ全知全能の創造者によって命を与えられています。だからこそアメリカ人の皆さん、近い街にいる人も、遠い街にいる人も、小さな村にいる人も、大きな村にいる人も、山から山へ、海から海へと、この言葉を伝えます。あなたたちは二度と無視されることはありません。あなたの声、希望、夢はアメリカの運命を決定づけます。そしてあなたの勇気、善良さ、愛は私たちの歩む道を導きます。ともに、私たちはアメリカを再び強くします。私たちはアメリカを再び豊かにします。私たちはアメリカを再び誇り高い国にします。私たちはアメリカを再び安全な国にします。そして、ともに、私たちはアメリカを再び偉大にします。ありがとうございます。神の祝福が皆様にありますように。神がアメリカを祝福しますように。



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これが、疲弊した国民向きのただの題目だけに終わるのかどうかは暫くすれば見えてくるでしょう。

 トランプはアメリカ・ファーストを叫んだのですが、実は、自らの国益を捨て、最もアメリカ・ファーストに走り、その走狗だけが甘い汁を吸い続け、国富の大半をアメリカに貢ぎ続けたのが日本だったはずです。

今後、日本が日本ファーストに復帰する事ができるかどうかは、戦前どころか百五十年前の攘夷に戻らなければならない訳で、当面、ただの夢物語でしかないでしょう。

 実のところ、アメリカの影のオーナー共が、新たな南北戦争から暗殺も含めた生死をも含め、本当にトランプを就任させるかどうかを疑ってきました。

 只の見せ掛けでしかないのですが、初の黒人大統領、初の女性大統領と言う切り札(Trump)をリレーする予定ではあったのでしょうが、どうやらそれに反しその名もトランプという最後の切り札(Trump)が登場してしまったようです。

 さて、今回はトランプ演説の解読と言った話ではありません。

 アメリカ社会が行き詰っている事ははっきりしていますが、現在、この社会の深い部分で大きな変化が始まっているようなのです。

 それはアメリカの所得の高い階層だけのエリアが既存の町や市から独立し、貧乏人を切り捨てた金持ちだけの囲い込みが進んでいるのです。

日本だと余り想像ができないでしょうが、明確に行政単位までも変更した上で、収入の多い住民だけで纏まった自治体が創られ、人為的に線引きされたコミュニティーが出現し始めているのです。

塀を造り、警備員(事実上の私兵、傭兵)を置き、自分達だけで犯罪のない平和で安全な社会を実現するという訳ですが、実体は、砦集落どころか監視装置つきの都市国家や城塞都市と言ったものが続々出現し始めているのです。

つまり、明確に弱者切り捨てたモザイク型社会に変わりつつあるのです。

 これについては、ネット上にたくさんの情報が流れていますが、分かり易いもので、今のところ「金持ちだけの町」とでも検索すれば、トップに以下が出て来ます。


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1.2.のうち1/2


アメリカ社会では分断が深まっています。同じ地域の中でも少し離れただけで、全く違う社会が生まれています。

出典“独立”する富裕層  - NHK クローズアップ現代

お気に入り詳細を見る

富裕層の富は、中間層の消費と、貧困層の労働で成り立っている。 それを忘れて富裕層だけで独立自治区とか幼稚過ぎる。

出典アメリカで富裕層が続々と独立!境界線を決め、民間に業務委託!貧困層に税金が使われることを拒否!アメリカの税制が崩壊の危機に!|真実を探すブログ

アメリカの富裕層たち

出典ryuzaburo.up.seesaa.net

アメリカの自治体で今、異変が起きている。「州」の下の行政区分である「郡」から“独立”するCITY=「市」が相次いでいるのだ。

出典アメリカで富裕層が続々と独立!境界線を決め、民間に業務委託!貧困層に税金が使われることを拒否!アメリカの税制が崩壊の危機に!|真実を探すブログ

彼らは、自分たちで「市」の境界線を決め、州議会を動かし、住民投票を実施。法にのっとり独立を成し遂げている。

出典アメリカで富裕層が続々と独立!境界線を決め、民間に業務委託!貧困層に税金が使われることを拒否!アメリカの税制が崩壊の危機に!|真実を探すブログ

理想郷として自治体を独立させた富裕層には、もはや貧困層の人々を同じ「国民」として見る事ができなくなりつつある

出典

お金持ちが自治体を作る!?~独立する富裕層~ | ZUU online

富裕層が社会保障の配分に不満

GettyImages

富裕層は税金が貧困層のためばかりに使われていると反発。みずからが住む地区を周囲と切り離し、新たな自治体を作る動きを強めています。

出典

“独立”する富裕層  - NHK クローズアップ現代

独立しているのは、100万ドル以上の資産を持つとされている富裕層が暮らす高級住宅地域です。

出典お金持ちが自治体を作る!?~独立する富裕層~ | ZUU online

ビジネス的にコスト削減

出典www.nhk.or.jp

富裕層は、市の運営にビジネスのノウハウを取り入れました。警察と消防を除く、すべての業務を民間に委託。同じ規模の市なら数百人は必要な職員の数を9人に抑え、徹底的なコストカットを進めました。

出典“独立”する富裕層  - NHK クローズアップ現代

コーポラティズムの最大の特徴は、国民の主権が軍事力や暴力ではなく、不適切な形で政治と癒着した企業群によって、合法的に奪われることだろう。

出典米国サンディ・スプリング市を知っていますか?~コーポラティズムというすべてが株式会社化する社会 - 毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

サンディ・スプリングス市の方法


このように金持が自分達だけのコロニーとして纏まろうとする傾向は、潜在的にはあったとしても、豊かな中流階級が強固に存在していた時代にはチャリティーや献金といった伝統的な価値観に基づき共に支えようとする価値観が定着していたものでした。

しかし、弱者切り捨てが全体として多数派になったかのようです。

トランプ政権の政策が今後どのようなものになるかは依然不透明です。

しかし、ドローン導入、ロボット導入、IT化、省力化によってどんどん雇用が奪われていく中で、長期的に所得を奪われた貧困層が職を得て行く事が可能になるとはとても思えないのであって、既に物を自ら造らない社会になってしまったアメリカに於いては、どうせ土木への投資など公共事業の拡大と言った民主党的な政策以外には方法はなさそうで、とても金持ちの懐に手を突っ込む富の再分配に踏み込むとは思えず、危機はなお一層深まるのではないかと考えています。

長期的にこの富を手にした一握りの富裕層は、将来を含め人口が過剰であり、人口を削減させようとしているはずなのですが(ユダヤ・マフィア世界人口を10億程度に減らそうとしていると言われているのです)、もはや国家を自らの防衛手段とは考えていないのか、国家そのものが負担になっているのか、それとも国家そのものを地下組織化させようと考えているのか、貧困層の面倒を一切見ないで済む社会を模索しつつあるようなのです。

誰も、どの国も、決して手を付けない、タックス・ヘイブンことケイマン諸島などの逃避地に一年で集まる金(世界8大富豪)だけでも巨大国家の財政を潤すほどのもので、これらの世界の富を分配しない事によって人口抑制、人口低減を図っているのです。

いずれにせよ、トランプが世界国家のオーナーの直接的代理人ではないとしたら、金持ちの最後の良心を体現している最後の輝きでしかないはずなのです。

376 延喜大皇社をご存知ですか “佐賀県佐賀市大和町大字久池井”     

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376 延喜大皇社をご存知ですか “佐賀県佐賀市大和町大字久池井”     

 

20160801

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

 

 

 これは10世紀以降に起源を持つ神社であることから、通常、当方のブログでは取り扱いませんが、七月のトレッキング(太宰府地名研N氏企画)で最後に踏んだ神社がかなりなものであったことから取り上げる事にしたものです。


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まず、延喜大皇社とは耳慣れない神社ですが、幹線道路から少し入った裏通りの住宅街の一角にこの神社はあります。

 始めは「延喜天皇社」と誤って読み驚きました。

それは早とちりでしたが、とんでもない神社が佐賀の片田舎にあったものです。

 詳しくは同社縁起を読んで貰うとして、要は菅原道真の配流に伴い、宮廷に送り込まれた道真の娘と宇田天皇の第二皇子が九州に下向し、世が世ならば天皇にも成りかねなかった皇子が仏門に入り隠棲した事を今に伝える神社がこの延喜大皇社という事になるのです。



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 恐らく神社庁管理の神社ではないでしょうが、このような由緒ある神社が何故この一角に存在しているかを考えるべきなのです。

 思い起こせば、故)百嶋由一郎氏は“佐賀の金立~久保泉にかけての領域こそ初期の九州王朝の最重要根拠地であり、この一帯こそ甲羅と呼ばれた場所なのです”といった話をされていたのです。

 そのような氏族が元々住み着いていた場所であったからこそ、道真の一族もこの地を選んで下向したのであり、「佐賀県神社誌」等を丹念に調べればそのことがあぶりだされるはずです。

 ただ、残念なことに同誌は地域別の編纂がされていないため作業がかなり困難なのです。

 しかし、このような幹線道路から外れた神社を良く探し出したものだと思います。

 当方も数回通過してはいたのですが、道真に執着するN氏故の功績と言えるようです。


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スポット072 大統領就任前のトランプの支持率が低いというウソ話

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スポット072 大統領就任前のトランプの支持率が低いというウソ話      

20170120

太宰府地名研究会 古川 清久

 

まだ懲りずに…と言うよりも、恥ずかしくもなくこんな報道が平然と行われている事が不思議にさえ思えてきます。

ニューヨーク・タイムの84%を筆頭に、あれほどまでに露骨なヒラリーの当選確実予測を流し、世論操作を行っていた大手マスコミが、大統領就任直前になってもトランプ候補の支持率が(支持率40%、不支持率58%)最低だと煽っているようです。

 

ワシントン(CNN) 20日に就任するトランプ次期米大統領の政権移行へ向けた仕事ぶりを支持する人は国民の40%と、歴代大統領の中でも目立って低い割合にとどまっていることが、CNNと調査機関ORCによる最新の世論調査で分かった。


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2009年の同じ時期、就任式を目前に控えたオバマ大統領の仕事ぶりを支持すると答えた人は84%に上っていた。01年に就任したブッシュ前大統領、1992年に就任したクリントン元大統領の直前の支持率はそれぞれ61%と67%だった。

17日に発表された調査結果によると、トランプ氏の当選後の言動のせいで、大統領としての能力に対する信頼度が下がっていると答えた人
sp72-2は53%を占めた。

同氏が良い大統領になるかどうかという質問では、「なる」と答えた人と「ならない」と答えた人がどちらも48%と、意見が割れた。

トランプ氏はこの結果に対し、ツイッターへの投稿で「選挙でいんちきの世論調査をして大外れだったのと同じ人たちが、支持率の調査をしている。今度もいかさまだ」と反撃した。                              米国CNNネットニュース

 

NHKの大統領選報道も民主党系の嘘つきCNNの丸写し報道でしたね。

 

米政治情報サイト「リアル・クリア・ポリティクス(RealClear Politics)」がまとめた最近の世論調査の平均では、トランプ氏に好意的な人が45%だったのに対して否定的な人は約50%に上った。ただ、118日の選挙日当日の調査では同氏に否定的な有権者が58%に達しており、それに比べるとやや改善している。 しかし、CBS15日に公表した世論調査結果によると、トランプ氏が無能な大統領になると回答した有権者が36%に上った。この割合はバラク・オバマ(Barack Obama)現大統領の7%200812月)、ジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)前大統領の14%(200012月)をはるかに上回っている。



sp72-5 世論調査会社ギャラップ(Gallup)によると、トランプ氏の政権移行への対応については支持すると支持しないがそれぞれ48%で拮抗(きっこう)したが、支持した割合はビル・クリントン(Bill Clinton)氏が当選した1992年の大統領選以降で最低を更新した。

政権移行への対応はオバマ氏の場合は国民の4分の3、クリントン氏は3分の2が支持していた。(c)AFP.

AFPニュース

 

一応、まともな感覚を持っているのか、ネット上には世論調査会社ギャラップが大統領選で候補者の支持率調査、大統領選の当選予測などから撤退する方針との情報も流れています。

そもそもトランプは全ての大手マスコミの敵対と具体的な不正選挙の中にあっても覆せないほどの支持を確保し勝利したのであって、大統領選挙直前の支持率報道、勝利予測報道それ自体が捏造でしかなかった事は十分にお分かり頂けるはずです。

その大恥をかいた大外れの(日本も同様ですが)の大手マスコミ報道が、全く同様の手法で、またもや意味のない就任直前の支持率報道をする事には、報道の自由とか報道の使命と言った話どころか、ただの見苦しい中傷、もしくは報復でしかないのです。

事実、CNNは、大統領就任式でトランプ氏が殺害された場合、誰が大統領になるかというシュミレーション内容を放映し暗殺を煽るような報道までしているのです。

では、世論調査会社といったものがどの程度の人員でどれくらいの規模のフロアーを持ち、どの程度の

契約内容で運営されているかを考えてもらいたいと思います。

極端に誇張した悪口を言えば、選挙前になって高々高齢者しか電話口に出ない固定電話による聴き取り調査程度で、それを集計している人間もアルバイトといった有様で、電話が10台程度のオレオレ詐欺グループ程度の連合体が集めた傾向を、過去の実績と突き合わせて勝手かつ恣意的に想像し、小さなオフィスでペンを甞め甞めし、クライアントの意向に沿った形で好い加減な予測をやっているのがこの手の調査会社なのです。

 そして、その調査結果に沿うような報道がなされ、それに影響された形で結果が動かされてきたといった訳だったのです。

 ところが、ここ十年ほどの間に、インターネットの普及によって、地上波、只の政府広報にも似た回覧板でしかなくなった新聞紙など既存のメディアが大規模に後退し、繰り返される嘘報道から大規模な逃避が始まったようなのです。

 これが良く言われる、本当の敗者はヒラリーではなくマスコミだったと言われるもので、当然、日本でも間違いなく進んでいるはずの現象なのです。

 つまり、既存メディアでの世論操作が効かなくなってしまったという途中経過が現在なのです。

 ここで、良く目を向けているネット上の「るいネット」からの記事をお読みください。

 

マスコミに支配される社会 

271215 “世論調査”でも新聞やテレビの信頼度低下が止まらない

西村秀彦 ( 37 滋賀 技術者 ) 12/12/10 PM10 【印刷用へ】 

3.11大地震+原発災害以降、大手メディアの露骨な事実隠蔽や国民軽視の報道姿勢が浮き彫りになった。

そして、人々のマスコミ不信が確実に顕在化してきているのが、マスコミ主導の世論調査の結果にも着実に顕れてきているようだ。

大マスコミは真っ青になっているのではないか。公益財団法人「新聞通信調査会」が毎年行っている全国世論調査で、新聞やテレビの「信頼度」が08年の調査開始以来、最も低くなったからだ。

 調査は今年9月、全国の18歳以上の男女5000人を対象に実施し、うち、3404人から回答を得た。それによると、各メディアの信頼度は、100点満点中、NHKが「70.1」、新聞が「68.9」、民放が「60.3」で、昨年度の調査結果より4.2~3.5点も下落した。裏を返せば、回答者の3~4割が新聞テレビを「信頼していない」という意思表示だから、深刻な状況である。

 特に不信感が強いのは新聞の「原発報道」だ。「政府や官公庁、電力会社が発表した情報をそのまま報道していた」と感じた回答者は63.1%にも達し、「事実が正確に報道されていた」(57%)を上回った。昨年3月の原発事故後の政府、東電発表の「タレ流し」報道を国民はとっくに見抜いていたというわけだ。

 新聞の「政治報道」に対しても冷ややかだ。「主張の異なる政党の主張を公平に扱っている」(25.5%)、「政治家と適切な距離を保っている」(24.5%)の回答がそろって2割台と低迷。表向きは「不偏不党」を装いつつ、恣意的な報道を流す新聞のイカサマに国民は辟易(へきえき)しているのだ。

ジャーナリズム研究の第一人者である桂敬一氏(元東大教授)はこう言う。

 「昨年3月の福島原発事故がメディア不信が広がる転換点となったのは間違いありません。事故に至った経緯を振り返った時、多くの人は、そこに政府、東電だけじゃなく、メディアも一枚噛んでいたことに気付いた。そこで、よく考えてみると、消費増税や社会保障をめぐる報道でも、政府に同調するだけで、深刻な影響を受ける若者らの声に耳を傾けようとしない無責任な姿勢が分かった。衆院選でもメディアは『第三極』と大騒ぎするだけ。マトモな人ほど白けるわけです」

 信頼されていない新聞テレビの世論調査がいかにアテにならないか、よ~く分かるというものだ。

 誰も信じていない大新聞テレビ報道リンク日刊ゲンダイより

※第5回 メディアに関する全国世論調査(2012年) 公益財団法人 新聞通信調査会リンク

 ここで注目したいのが、この結果がインターネットでのアンケート等ではなく、マスコミ系財団法人による世論調査の結果であることだ。

マスコミの世論調査は、無作為抽出といいながら、極めて偏った調査対象であるのが実態であり、その偏った調査対象は、マスコミの影響を受けやすい人々である。

 

 【参考】

133359某新聞の世論調査の実態

264257新聞、テレビの「電話」による世論調査の驚くべき内幕

そうした人々を対象にした調査ですら、新聞やテレビの「信頼度」は過去最低となり、3~4割が信頼に値しないと判断している。

ということは、世論調査の対象にまずならない人たちを含めると、少なく見ても過半数の人が信頼に値しないと判断している可能性が高い。

もはやこの潮流は加速こそすれ、逆転することはないだろう。

マスコミ主導の共認支配と訣別し、自分たちで共認形成を担っていく基盤は着実に調ってきているのではないだろうか。 

追及の輪 るいネット

 

 思えば私が定年を二年残して役所を辞めたのも東北大震災以降の事でした。

福島原発後の国家権力のでたらめな報道管制、マスコミのちょうちん持ち、東電の逃亡、薄汚いまでの頑張ろう日本キャンペーン(これはがんばろう熊本地にも引き継がれていますが)、災害義捐金に集る天下り官制企業…と、公務員である事自体が恥にしか見えない上に、本当に嫌になったこともあり辞めてしまったのでした。

 敬愛する「るいネット」氏のおっしゃる通りで、これについては何も申し上げる事はありません。

 最早、日本に於いては、戦後70年の占領下に於ける情報統制、愚民化政策によって完全に不正選挙、不正報道、というより、嘘報道、デマ報道、不正選挙で吐き気を催すような情報統制下にありますし、その悪の元凶のアメリカ本国に於いても国家が悪人どもによって占領されてしまっているようです。

その拠点の一つがデマ報道を続ける大手マスコミとすれば、彼らが流す就任前の支持率を信じ込み議論する事もほぼ意味が無い事である訳です。

まず、トランプの就任前支持率40%、不支持率58%といった数字が、この程度のものだろうと想像で捏造された程度のものだったはずなのです。



 

377 甲羅弁財天をご存知ですか? “佐賀県佐賀市金立の金立神社”     

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377 甲羅弁財天をご存知ですか? “佐賀県佐賀市金立の金立神社”     

 

20160801

 

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

 

 

 佐賀市の金立神社の一角に甲羅弁財天があります。これも七月の炎天下でのトレッキングで廻った神社です。


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金立神社

 

祭神: 保食神、罔象女命、奏徐福

 

 金立神社は保食神、罔象女命の子と母を祀る神社ですが、勿論、父神はスサノウの命となります。


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その神社に甲羅弁財天が置かれている背景は上記の由緒以上のものを知りませんが、実のところ今回のトレッキングの御杖代であるN氏が選んだ金立神社よりも関心は甲羅弁財天に向いていました。

 まあ、弁財天に準えられたのは宗像の市杵島姫ですが、重要なのは「甲羅」の方です。

 前ブログでもふれましたが、故)百嶋由一郎氏は“佐賀の金立~久保泉にかけての領域こそ初期の九州王朝の最大根拠地であり、この一帯こそ甲羅(高良大社の高良も本来は甲羅なのです)と呼ばれた場所なのです”といった話をされていました。

 この事に関しては、“脊振村の桂木にある一言主神社の一帯も甲羅という地名が以前は残されていた”と百嶋先生は言われていましたが、この金立もこの神々しい「甲羅」と呼ばれていた名残ではないかと考えているところです。甲羅は高良であり九州王朝の中心地だったと言う痕跡地名と考えています。


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378 金山彦を祀る神社 “佐賀県神埼市神埼町城山の八天神社” 

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378 金山彦を祀る神社 “佐賀県神埼市神埼町城山の八天神社” 

 

20160801

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

 

 

 これも7月のトレッキングで廻った一社です。


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 火結神(軻遇突智神)を祀る神社にはなかなか出くわさないと思いますが、山岳修験(豊前の求菩提山)をルーツとする八天社、八天神社が佐賀県から長崎県にかけて散見されます。

 特に、佐賀県、長崎県の県境などの峠や山頂に八天神社の小さな祠が置かれ、嬉野市(佐賀県)や諫早市(長崎県)にかなり大きな八天神社が鎮座しています。

 一応、この直接的なルーツは豊前の求菩提山の八天狗と考えていますが、ある時期、彦山山岳修験と衝突し、西に展開したのが八天神社群と考えています。

 

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 金山彦(軻遇突智神)を祀る神社に行くと、この突き出した八本の角を炎(火の尾)に見立てた神額が目に飛び込んでくるのですが、今回は土器山の「土」に「、」が付されていたのが印象的でした。

 恐らく、本来は単に土師器ではなく、王器山八天神社としていたものを明治期の神社庁(神祇官)から咎められ、本来の名残を残して「、」を付したのではないかと考えています。

 この一帯が、初期九州王朝の本拠地(甲羅)であった事を知る者だからこそ理解できるのですが、“初期九州王朝を支えたのが金山彦であった”との百嶋先生の話がより現実味を帯びて理解出来始めた一瞬でもありました。


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379(前編) 塘(トモ) “肥後限定の塘(トモ)地名は遠くアムステルダムまで繋がっていた!”

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379(前編) 塘(トモ) “肥後限定の塘(トモ)地名は遠くアムステルダムまで繋がっていた!”    

20160805

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は、元々、久留米地名研究会のHPに掲載していたものですが、既にインターネットの検閲、規制が始められており、最低でも複数の発信体制を維持する必要性があることから、対外的要因と対内的要因を考慮し、再構成してオンエアするものです(自主規制が大半ですが、表現の自由を守るためにも可能な限り手を尽くすべきでしょう(憲法など守られた事は一度もない国家なのですから…)。

それよりも、内部にさえ、学会通説や教育委員会、学芸員に尾を振り擦り寄ろうとする蛆のような人々が絶えず湧いて出てくる可能性もある事から文章の避退を考えておかねばならないのです。


塘(トモ) “菊池川中流の小平野” 


熊本県の玉名温泉と山鹿温泉の中ほどに置かれた菊水インターから県道16号線で東の山鹿に向かうと、左手に大きな河川堤防が現れ、右手に小平野が見えてきます。一帯は既に山鹿市の領域なのですが(大字坂田)、ここに「塘」と書かれ「トモ」と呼ばれる奇妙な地名があります。


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昭文社県別マップル道路地図熊本県


「塘」は“ツツミ”“トウ”とは読みますが、“トモ”とはあまり読まないはずです。

また、現地は玉名市と菊池市との境界地帯でもあることから、比較的険しい地形が続き、菊池川が最大級の蛇行を見せ屈曲が連続する場所です。

両岸は垂直に切り込まれた二~三十メートル級の小丘が連続しています。万年単位の時間で考えれば、絶えざる阿蘇火砕流によって形成された溶岩台地が川によって削り込まれたものなのでしょう。

このような条件から、垂直の崖の崩壊や屈曲部の土砂の堆積などによって自然のダムが形成され、たん水やその決壊といった洪水の影響を受け続けたと考えられます。

その後、人工の堤防が造られる近世になりますが、自然に形成された堤防の内側には水平堆積によって成立した平地が出現し、進出した人々によって造られた農地にも新たに決壊や洪水による逸流(オーバー・フロー)が襲って来たことが想像されます。塘(トモ)とはそのような氾濫原野起源の土地であり、自然堤防の時代にはなかなか定着できなかった土地だったと思われるのです。


【氾濫原】はんらん・げん

河川が運搬した砕葛物が堆積して河川沿いにできた平野で、洪水時に水をかぶる。

(『広辞苑』)



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この熊本県北部有数の大河にも、現在は河川改修事業によって壁のような大堤防が建設され、ほ場整備事業も併せて行なわれたものか、堤防の内側には美田が広がっています。

この地には過去何度となく入植が試みられ、度重なる洪水に耐えて定着した人々によって集落ができたのでしょう。

氾濫により形成された自然堤防の内側には菊池川の氾濫によって土砂の堆積が進んだはずです。

内部に流れ込んだ泥土から石や瓦礫を拾い揚げ、徐々に川傍の低地は標高を上げ堤防も嵩上げがされていったものと思われます。

繰り返しますが、このような平地が生まれるには、水による運搬、攪拌、そして長期にわたるたん(湛)水が必要であり、その水の中で繰返された水平堆積によって、この地も形成されたものとする外ありません。

この地に「塘」という地名が在るとすれば、これが堤防に起因するものであることに異論を持たれる方はまずないでしょう。それを物語るかのように、“蹴破り伝説”を持つ当地の阿蘇神社前の古い農協倉庫には、現在も、なお、洪水時に備えて舟が吊るされているのです(この一帯の多くの農家の納屋には今も舟が吊るされているそうですが)。

問題はその「塘」の成立時期と地名の成立時期であり、それが自然のものであったのか人工のそれであったのかということになります。

前述のごとく、「塘」に堤防という意味があり、音で「トウ」「ドウ」、訓で、「つつみ」と呼ばれることまでは分かりやすいのですが、これが「とも」と呼ばれていることが重要なのです。

私が知る範囲でも八代の数人から「そう言えば熊本ではなぜか堤防の事を“とも”というね…」「干拓地の旧堤防を、例えば“東んとも”“西んども”などと呼んでいる…」「八代の南の高田には“とも”と呼ばれるところがあった…」といった話を聞きます。まさか、土盛り(ドモリ)からきたものではないでしょうが、多分、肥後領全域で普通に見られる地方語(古語)なのでしょう。

ちなみに佐賀では、同種の旧堤防を「でい」(この起源は不明で、単に堤防の堤=漢音テイ、呉音ダイをデイと呼んだからかも知れません)と呼び、“とも”や“ども”などと呼ぶことはありません。

例外的に、福岡県では中間市大字岩瀬に塘の内(呼称は未確認)が、鹿児島県では南さつま市に塘(とも)が、熊本県では、八代市に大牟田塘(オオムタトモ)、宇城市と氷川町に沖塘(オキドモ)、熊本市の白川、緑川の河口付近に城山町大塘(おおども)、熊本市銭塘(ぜにども)町があります。詳しく調べると、熊本は「塘」だらけであることが分かってきます。

さて、この「とも」「ども」ですが、多少思い当たる事があります。拙著『有明海異変』に挿入したコラムには中国のダムや堤防について『ダムのはなし』竹林征三を引用しています。この本の引用しなかった部分にこの「塘」に関係する話が出てくるのです。


…ダムやダム擬に関しては、最も多様な用語が使われ、分けられている国は中国ではないだろうか。


○ ハ (ハは 土口/ハ)漢字の表記が困難です。「ハ」は土偏の右に口その下にハ=上土偏に覇):古川注

-川の水をせき止めるつつみのことで、現在Damの用語にあたる概念である。

○  堰

-晏は太陽が上から下に落ちて暮れる様を意味し、匽は晏の略字に匚を加えて、上から抑え固めてつくり、水流を押え止める堰である。歴史的に有名な都江堰などがある。


(『ダムのはなし』竹林征三)


以下、堤、塢、塘、擣、圩、坡、扌/更、埧、埭、蓄水池、水庫、潭といった文字の意味を書かれていますが、この中に「塘」も登場します。

 

○ 塘

-水を止めるために築いた土手であり、土手を築いて水を溜めた池も意味する。日本語の溜池に近いものであろう。塘工とはそのための護岸工事を意味する。


では、この読み方です。竹林征三氏もこの「塘」が実際にどのように呼ばれていたか(読まれていたか)?までは書いておられません。さらに先に進みましょう。


閑話休題 「ダムのはなし」


九六年に出版された『ダムのはなし』という本があります。建設省土木研究所環境部長(当時)をされていた竹林征三氏によるものですが、ダムの構造や歴史などが非常にわかりやすく書かれていて筆者のような素人には大変参考になります。また、この本には、古代アッシリアのダムや大モンゴル帝国が建設を試みて不成功に終ったダムのこと、江戸初期に活躍した「ダム造りの名人」西嶋八兵衛などのおもしろい話も収められています。

 西嶋八兵衛の名は比較的有名で、一般にも「多くの治水利水事業をなしとげた」などと評価されています。しかし、この場合の治水とは付随する河川改修の意味で理解するべきなのか、溜池を造成した結果として治水(洪水調節)効果が付随して得られたものと理解すべきなのか、筆者にはいまだに判別がつきません。 

筆者は、利水のための溜池造成や取水堰の建設というものは古来あったであろうと思いますが、堰堤や溜池を造ることで洪水調節を図ろうとしたことはなかったのではない か、すなわち「積極的に治水を目的としてため池を造ろうとしたことはなかったのではないか(少なくとも江戸期までは)」という考えを持っていました。つまり、古来より人は基本的には氾濫の恐れのある広義の川の領域には住み着かなかったのであり、飛び畑や島田のような形で中洲を耕作地として利用することはあっても、木曽川などの輪中集落は別として氾濫原そのものに住み着くまでには至らなかった(そこまでが川の領域であった)と理解していました。

ですから、「溜池を造ることによって洪水を調節しようとする意識があった」のかどうなのか、八兵衛に聞けたら聞いてみたいものだと思うのです。

それはさておき、この本にはダムの語源について面白い話が載せられていますので、ほんのさわりだけをご紹介させて頂きます。

「古代インドアーリアンで、“置く”という概念と“基礎”という概念の言葉として、*dhoとか*dhe*dhe‘があり、ダムのことを*dheとか*dhoと称したことにはじまるという。その後、基礎に置く構造物の概念が明確化され、*dhobmosと称するようになった。花形役者Damの生誕地は古代インドアーリアンの地ということである。現在の中近東からインドにかけての地方である。なお、英語の動詞doの語源も、この*dhe*dhoにさかのぼるという。(中略)古代インドアーリアンで生まれたダムの概念*dheや*dhoは古代ギリシャに行き、そこで基礎の概念に、さらに下部の概念も加わり、ダムの概念がさらに固まってきて、ギリシャ語Δα~Mα‘Ω(ダマーオ)となった。(中略)一方原始独語に*dhobmosから転じてdammazの用語が使われるようになった。この言葉が一四世紀になり、中世オランダ語と中世低地ドイツ語でようやくdamという形で使われるようになった。この当時はいまだ水を止めるための柵、壁とそれによって止められた水の体そのものも合わせた概念のようである。(中略)オランダには“神が人をつくり、人が国土をつくった”という諺があるように、国土の約四分の一は海面下のいわゆるデルタ地帯で、延々と続くダムによって海水をせき止めている。

 オランダの首都はアムステルダム、第二の都市はロッテルダムであり、その名にダムが名付けられている。一三世紀、アムステル川の河口にあった漁村にギスブレスト二世が築城し、堤防を築いて都市を建設した。都市名を“アムステル川の堤防”という意で『アムステルダム』と命名した。一方、小さなロッテ川がマース川に合流する地点に発達した港町は、“ロッテ川の堤防”という意で『ロッテルダム』と名付けられていた。この港町は外洋航路よりマース川、ライン川の内陸水運に荷を積み替える港として、今やヨーロッパ最大の港の一つにまでなった。ダムが都市の守護神そのものなのである。ダム名が名付けられた町が、今や世界的な大都市にまで発達していった」


「塘」は「とも」「ども」と呼ばれていた?


「塘」の意味はお分かりかと思いますが、肥後の「とも」、「ども」の濃厚さはただ事ではありません。一部には(『漢字源』)これを訓読み扱いにするものもあるようですが、基本的には古語よりも(もちろん古語なのですが)方言の扱いでしょう。しかし、単に方言とか(古語)では済ませないものを感じるのです。

なぜならば、最低でも、熊本市銭塘(ぜにども)町の銭塘とは元代の臨安府が置かれた杭州のことであり、宗、元、明期の中国と交易を今に伝える痕跡地名だからです。

マルコ・ポーロが杭州に来ていた事はどなたもご存知ですが、ヨーロッパと繋がっていたことがこの一事をもってしても理解できるはずです。


379-3


してみると、まず、銭はともかく、「塘」はドモという中国本土の音を写したとしか思えないのです。

少なくとも当時の肥後が大陸文化に直接洗われる土地であったとまでは言えるようです。


【臨安】りんあん

南宋の首都。今の浙江省杭州市。1129年臨安府と改称。臨時の都という意味で「行在」と称。

(『広辞苑』)


揚子江下流の銭塘江を“せんとうこう”と呼び(読み)ますが、これはいわゆる日本流の漢音でしかなく、現地のしかも当時はどのように発音され、日本人がどのように理解したかは全く別の問題なのです。


発音はいかに?


辞典に「漢音でトウ(タゥ)、呉音でドウ(ダゥ)」と書かれていたとしても、これは中国で学んだ遣唐使などが持ち込んだ中国音を八世紀頃の日本人の口で置き換えたものであって、当時の中国の原音そのものでないことは言うまでもありません。

当然ながら、中国の各地方で各々読み方が全く異なる事も頭に置いていなければなりません。

まず、現在の現地音を考えてみましょう。上海近郊の水郷の町に西塘(シータン)があります。

これをアルファベットで表記すれば XiTang となるでしょう。

さらに、いくつか例を上げると、東チベットに理塘(リタン)、巴塘(バタン)があり、香港に觀塘(クントン)ショッピング・センターがあります。海に目を転じれば、海南島に月塘(ユエタン)村…があります。

ただ、専門外の分野であるため、友人の歯科医師の松中祐二氏(北九州市在住:九州古代史の会)に尋ねたところ、「塘」は、呉音 ドゥ(Dau)、漢音 トゥ(Tau)、韓音 ダン(Dang)、越音ドン(Dang)、門/(門構えの中に虫)南音 トング(⊃ng)、広東音 トン(Tong)となるとのことで、さらに古代まで踏み入れば、上古音で、ダン(Dang)中古音でも、ダン(Dang)、元中元音で タン(Tang)とのことでした。

まあ、ばらつきはありますが、タン、トン、ダン、ドンといったものの中のどれかというところで良いのではないでしょうか。特に、中国語は濁音と清音の差はほとんど意味のない言語であり、それは中国人が「ケームセンタートコあるか?」などと尋ねてくることからも経験的に明らかでしょう。


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昭文社県別マップル道路地図熊本県


肥後は日本の玄関口だった



379(後編) 塘(トモ) “肥後限定の塘(トモ)地名は遠くアムステルダムまで繋がっていた!” 

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379(後編) 塘(トモ) “肥後限定の塘(トモ)地名は遠くアムステルダムまで繋がっていた!”    

さて、南北朝期、菊池水軍は有明海(松尾)、名和水軍は不知火海(徳淵)を拠点にして明などとの交易を行なっていたのですし、その通行の歴史は「呉は大伯の後」と呼ばれる呉越同舟の呉の時代以来とさえ考えられるのです。
特に面白いのはこの地名「塘」の分布領域が事実上肥後一国に限定されていることです。
もしも南北朝騒乱期にこの地名が持ち込まれたとすると、宮方を支えた菊池氏、阿蘇氏、五條氏の中枢であった菊池武時、武光といった発展期ではなく、完全に肥後一国に押し込まれた衰退期に成立した地名とも考えられるのですが、単純に十四世紀末の外来語と言えるかは、なお、疑問が残ります。
しかも、八代から玉名、山鹿となれば、歴史的な関係から考えて、まず、呉音に注目しますが、もしかしたら、「トモ」、「ドモ」はさらにもっと古い時代の音を残しているようにも思えてなりません。
その一つは、上記の一帯には横穴墓が大規模に分布していることがあります。
この墓制は揚子江の中~上流の少数民族の一帯(彼らは漢族に追われて山に上がったのです)に色濃く分布するもので、どのように考えてもこの古い墓制を持った人々が揚子江河口の会稽辺りから出発し舟山列島で舟を東に向けたはずなのです。
一般的に横穴式石棺墓は古墳時代も後期の墓制などと言われますが、それは、使用されなくなった横穴墓に後に石棺が埋納されたことなどからであって、本来の墓制ではないのです。そう考えれば、中間市大字岩瀬に塘の内の例を上げましたが、この一帯にも横穴墓があったようです。
この菊池川一帯に分布したはずの数千余の横穴墓は、古墳時代後期のものなどではなく、もっと古いものであるはずなのです(昔の考古学会では縄文時代のものとしていた)。そのことを物語るかのように、直接、川や湖に面した垂直の崖の中ほどを抉って造られた横穴墓群のさらに上の丘陵平坦部天端部にあたかも征服者のように一般的な古墳が置かれていることでも分かるのではないでしょうか?
そのほかにもいくつかの傍証がありますが、ここではそこまで踏み入らず、再度、話を先に進めます。
結論から言えば、とも、どもは中近東に派生したダムの原音とでもいうべき音を写したものではないかと思うのです。
当然ながら、中国の「塘」がドモ、ドン、ダンなどと呼ばれていた可能性もあり、逆にその音が西に伝播した可能性も否定できません。
前述した竹林征三氏の『ダムのはなし』には、大モンゴル帝国が建設した二つのダムの話が書かれています。一つはテヘラン南西のガブマハ川に造られ結局水が溜まらず失敗したサベーダムやテヘランの南西一七〇キロのケーバル川に高度な技術で建設されたケバールダムの話が出てきます。
これが、実際にダムと呼ばれていたかどうかも不明ですが、シルクロードを経由して、このダムもしくはドモという音が揚子江下流辺りまで伝わったとすることは十分に可能であり、それが届いたのが八代の徳淵や熊本の高橋辺りだったのではないかと思えるのです。
荒唐無稽と考えられても構いませんが、熊本県の緑川の支流浜戸川に加藤清正によって造られたとされる轡塘(クツワドモ)と呼ぶ河川構造物(決堤、破提を緩和する装置)があります。これと同じ構造を持ったものが、中国とイタリアにも見られるという話を河川工学の専門家から聴いた事があります。実用的な技術は呼称や音よりも早く確実に伝播するものなのです。
このように考えると、当時のウォーター・フロントであったはずの熊本市城山町大塘(おおども)、熊本市銭塘(ぜにども)町の「ドモ」という音が理解できるのです。
ここまで踏み至ると、ヨーロッパの西の果てのロッテルダム、アムステルダムから、中国、そして、日本、少なくとも熊本まで、このダムという言葉の帯が拡がっているという世界性に戦慄を覚えるのです。

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蹴破り伝説をもつ阿蘇神社前の古い農協倉庫(洪水時の舟が今も吊るされている)山鹿市 坂田 塘


 資 料 


塘(トモ)地名

北海道川上郡標茶町 塘路 (とうろ)。 北海道川上郡標茶町 塘路湖 (とうろこ)。北海道川上郡標茶町 塘路橋 (とうろばし)。 熊本県熊本市 城山大塘町 (じょうざんおおどもまち)。 熊本県熊本市 銭塘町 (ぜんどもまち)。 熊本県八代市 大牟田塘 (おおむたども) 。熊本県山鹿市 塘 (とも)。 熊本県宇城市 沖塘 (おきども)。 熊本県八代郡氷川町 沖塘 (おきども)。
例外)鹿児島県 南さつま市 塘 (とも)。


 塘(とも)とは堤防のことで、荷揚げ場所跡かわら小屋からみた 塘 轡 塘 は、加藤清正による洪水制御法のひとつで、近世において熊本県下の河川に比較的多く用いられた。川の一部区間に大きい遊水地を有し、洪水時に遊水地内に貯水しピーク流量を逓減させる遊水装置としての機能を持つと考えられている。
大辞林 ×、weblio とも ヤフー大辞泉 ×、ウィクショナリー 音読み 呉音 : ドウ(ダゥ)漢音 : トウ(タゥ) 訓読み つつみ、とも大漢和辞典 とも 字源 広東省ピンインtong  中国語ピンイン tang

塘沽停戦協定

1933年(昭和8)日本軍の熱河(ねっか)作戦後に結ばれた日中停戦協定。同年5月31日岡村寧次(やすじ)関東軍参謀副長と熊斌(ゆうたん)北平軍事分会総参議によって調印された。


石塘(玉名)、一夜塘(子飼)、新塘(しんども)長洲町、沖塘の樋門(おきどものひもん)氷川町一夜塘(黒髪)、新地塘(宇城市)、下(城南)、塩屋塘(長洲)、古塘神社(氷川)、江津塘(えづども)城山大塘町 (じょうざん おおどもまち) 銭塘町 (ぜんどもまち) 八代市 大牟田塘 (おお むたども)山鹿市 塘 (とも)鹿児島県南九州市川辺町下山田 塘之池公園 (トモノイケコウエン)鹿児島県南さつま市加世田川畑塘花


山上三名字は海賊だった 地域学シリ-ズ6 新熊飽学 第5章より 



金峰山回廊を歩く    「肥後の山」

菊池水軍 近津 海外貿易の一大拠点


 金峰山の海沿いの道を訪ねてみた。熊本市松尾町の近津。有明海に突き出た小高い森に灯台が立っている。干拓で陸続きになる前は、「盗人島」と呼ばれる離島だったという。「往日この島に海賊住しゆえに盗人島と呼べり。近世その名をにくみて離島とよぶ(肥後国志)。ここから金峰山のすそ野はV字形港に入り込む。山つきに鹿島神社がある。巨木の間から、梅雨明けを告げるセミ時雨がこぼれる。同神社の祭りは、新羅の襲撃に由来するという。さかのぼって平安時代。日本と制海権を争っていた新羅は、対馬や肥前松浦郡などを度々襲撃した。寛平五年(八九三)、「新羅の賊、肥後飽田郡において人宅を焼亡す」(日本記略)。郷土史家の田辺哲夫さんは、襲撃された肥後飽田こそが「この近津だ」と推測する。同神社では十月十四日、勇壮な火祭りが行われる。境内の石碑に祭りの由来が書かれている。「住民ハ松明ヲ取り良ク応戦撃退スルヲ得タガ夥シイ財宝ヲ奪ハレタ」。松明で応戦した様子が火祭りで再現される。有明海の奥深くまで侵入するほど、近津の勇名は新羅にとどろいていた。金峰山の入り組んだすそ野は、この時から海外航路の港だったのだ。そして金峰山こそが「有明海に突出した巨大な灯台」(田辺さん)の役目を果たす。南北朝から室町時代にかけ、倭冦の基地になる。「倭寇は、博多を窓口とする幕府の『表貿易』に対抗する『裏貿易』です。その一つの勢力が、金峰連山の野武士集団『山上三名字』と呼ばれる田尻、内田、牛島の三氏だった」と田辺さん。後に、菊池一族が金峰山に勢力を伸ばし三名字と手を組む。「菊池氏の勢力を支えていたのも海外貿易だった。有明海の出口をにらむ金峰山は、その重要な前進基地。ここから玉名の菊池川河口を経て、菊池の本拠地へ海外からの物資が運べますからね」。菊池氏と三名字は、貿易による経済利益と、金峰山の修験道という二つを共有し、南北朝の動乱でも共同戦線を張る。飽託郡河内町の中心部。船津港が見下ろせる厳島神社の一隅に、唐人墓がひっそりとたたずむ。加藤清正は朱印船貿易にカを入れる。配下の貿易商人としてカを発揮するのが唐人だった。県内では玉名、熊本などに唐人の居留地ができる。「三官屋敷」と呼ばれるのもその一つ。河内の唐人墓があるのも三官屋敷跡だ。その一方で、清正は倭寇を取り締まる。割をくったのが三名字。肥後国衆一揆平定に功を上げ、豊臣秀吉の九州入りの際には浅野長政を三の岳に出迎えた。ところが、清正が国主となると一転、三名字は浪人となる。「倭寇だった三名字が邪魔だったのでしょう」と田辺さん。波静かな有明海。そこには海上交通路の利権をめぐって、さまざまな波紋が描かれてきた。(前のペ-ジに戻る)

山の上三名字の牛島氏とみかん 

地域学シリ-ズ6 新熊飽学 第5章 金峰山回廊を歩く、より
金峰連山は巨大なみかん山でもある。五月晴れのころのかれんな白い小さな花。梅雨に洗われ、親指ほどに結実したミカンは、いま真夏の日差しに輝いている。日本でのかんきつ類栽培の歴史は古い。「魏志倭人伝」にすでに「橘」が記述されている。「日本書記」には、田道間守がダイダイを輸入したという故事がある。田道間守の伝説は全国各地にある。飽託郡河内町では、肥後耶馬渓と称される渓谷の近く「上越」に原木を植えたと伝えられている。上越は、山上三名字の一つ牛島氏の根拠地。南北朝のころ、八代高田から小ミカンの苗が移植された地でもあるという。八代筒田は県内のミカン発祥の地。豊臣秀吉が絶賛、江戸幕府の将軍にも毎年献上された。ミカンの苗は天正二年(一五七四)、紀州和歌山に渡り、百年後には紀州ミカンが江戸市場を制する。一方、河内町では紀州に遅れること百年、やっと本格的な栽培が始まる。その間、栽培技術をめぐって偵察合戦もあっただろう。「紀州熊野の修験と密接な関係があった金峰山の修験者が、相互に産業スパイの役目を果たしていたかもしれません」と郷土史家の田辺哲夫さんは言う。金峰連山には水田が少ない。山腹に畑を開墾するしかない厳しい環境が、逆にミカン栽培の普及に幸いした。臨海地で昼夜の温度差も少なく、温和な気候も適していた。(前のペ-ジに戻る)

ダムとアムステルダム


「ダム」とはオランダ語で「堤防」という意味。干拓によって国土を広げてきたオランダでは、川に堤防を築いて都市を建設してきた。いかにも海洋国家オランダらしい成り立ちである。そんな理由で、川の名前とダムを組み合わせた地名が多い。
アムステルダムは、かつてはアムステル川河口の小さな漁村だったが、13世紀にギスプレヒト二世が築城を開始。低湿地に運河を縦横に張り巡らせ杭を打ち込んだ土台の上に家屋を建てて都市を建築した。 アムステル川に堤防を築いて街を守ったので、「アムステルダム」という地名が生まれた。 また、ネーデルラントの意味は、低湿地という意味である。


379-7ダムの語源ダム事典
 

日本語の「ダム」は、英語の Dam を、その発音をカタカナで日本語表記にしたものです。
 中世ヨーロッパでは、ゲルマン、アングロサクソン地方の各地で、Dam という言葉の起源とも思われるさまざまな言葉が用いられていましたが、英語の Dam の直接の起源は、14世紀のオランダ語だといわれます。オランダは、国土の約四分の一が海面下の土地で、延々と続く堤防によって海水を堰き止めています。首都であるアムステルダムや第2の都市ロッテルダムの名前は、「アムステル川の堤防」、「ロッテ川の堤防」という意味です。これらの都市は、13世紀に建設されたものですが、当時オランダで、堤防という意味でダムという言葉が使われていて、やがてそれが英語になったもののようです。 なお、英語のDamという言葉は、必ずしも高さの高いものだけを指すのではなく、高さの低い、日本では通常堰と呼ばれているようなものも含んでいるようです。

銭塘江 杭州市(こうしゅうし、中国語:杭州市、英語:Hangzhou)は中華人民共和国浙江省の省都(副省級市)。浙江省の省人民政府の所在地。中国八大古都の一であり、国家歴史文化名城に指定されている。13世紀は世界最大の都市であった。
隋代以降、江南運河の終着点として経済文化が発達し、「天に天堂あり、地に蘇杭あり」と謳われた。また、五代十国の時代、呉越国の都となり、南宋時代には事実上の首都、臨安府が置かれた。市中心部の西に
379-6は世界遺産の西湖という湖があり、国の内外より多くの観光客が訪れる。
一般に「こうしゅう」と日本語読みされるが、広州市との区別が必要な場合に「くいしゅう」と湯桶読みされることがある。
歴史的地名としての「杭州」の行政区画に関しては杭州の項目を参照。
杭州市内の余杭区には、新石器時代末期に栄えた良渚文化(前3300年から前2200年ごろ)の遺跡がある。
春秋時代には、初め越に属し、後に呉に属した。東周の顕王35(前334)年、楚が越を滅ぼして以降は、楚に属した。秦代には会稽郡の管轄とされ、南北朝時代になると549年(太清3年)、梁により一時期設置された臨江郡の管轄となり、587年(禎明元年)には陳により銭唐郡が設置されている。
589年(開皇9年)、隋朝は銭唐郡を廃止して杭州を設置、杭州の地名の所見である。その後余杭郡と改められ、唐代になると再び杭州、余杭郡、そして758年(乾元元年)以降は杭州の名称が清末まで使用されることとなった。

杭州は隋代に建設された大運河(江南河部分)の南端とされ、唐代には南北を連絡する運河が整備され、貨物の集散地とし発展、貞観年間(627年-649年)には人口が15万人であったものが、開元(713年-741年)には58万人を数え、広州、揚州と並ぶ経済の中心となった。また822年(長慶2年)には白居易が杭州刺史として赴任、西湖の大規模水利事業を行五代十国時代に呉越の都となり西府と称した。呉越は杭州城壁の拡大、銭塘江の堤防整備などの水利事業を行っている。

北宋が成立すると杭州は両浙路の路治が設置され、1107年(大観元年)には杭州府に昇格した。当時は20万戸を数える江南地区最大の都市となっていた。1089年(元祐4年)には蘇東坡が杭州知州に任じられ、西湖の浚渫事業、推理事業を行っている。南宋になると杭州はその全盛期を迎え、呉自牧により『夢粱録』に当時の杭州についての記録が残されている。1129年(建炎3年)、行宮が杭州に置かれると杭州府は臨安府と改称、1138年(紹興8年)には正式な遷都が行われ、杭州は宋朝の政治・経済の中心地となった。また都城の防衛のために城壁の拡張工事が行われている。国都となった臨安府の人口は急増し、咸淳年間(1265年-1274年)には124万人にまで増加している。

1276年(至元13年)、宋朝を滅ぼした元朝により杭州路が設置された。1341年(後至正元年)杭州城内で大規模な火災が発生し15,755軒を消失、元末に杭州城は大規模な再建事業が実施された。1358年(至正18年)、張士誠による杭州城再建が行われ、周囲64,020尺、高さ30尺、厚さ40尺というそれまでの規模を上回る杭州城を再建している。元代の繁栄の有様は、マルコ・ポーロが「キンザイ(=行在)」として『東方見聞録』で記している。

元末の動乱期、軍事作戦を進める朱元璋は杭州行省を設置している。元末には度重なる戦火により杭州城にも被害が及び経済は衰退、西湖も泥土の堆積により農業灌漑に支障を来たすなどの被害を受けた。明朝が成立すると杭州府が設置され江南の経済中心地として発展し、織物業や茶葉の生産などによって栄え、蘇州と並ぶ江南の大都市となった。西湖の周辺には多くの寺院や道観、別荘や庭園が集まり、多くの文人墨客が訪れている。また霊隱寺などは近接地域から多くの参拝者を集める文化都市としても発展していた。しかしアヘン戦争を契機に上海の経済的地位が向上すると杭州の反映には陰りを見せ始め、太平天国の乱では戦火の被害を受け多くの歴史的建造物、文化財が消失している。また清末の1895年(光緒21年)に日清戦争に敗北した清朝は下関条約により杭州を日本に対し開港、租界の設置を認めている。

中華民国が成立すると府制廃止にともない杭州府は廃止、1914年(民国3年)には浙江省銭塘道が設置された。1927年(民国16年)、道制が廃止となり杭県を城区、西湖、会堡、湖墅、皋塘、江干の6区を擁する省直轄の杭州市が設置された。
中華人民共和国が成立すると1949年に杭州市は省轄市(地級)に昇格、浙江省省会とされた。1958年、寧波専区蕭山県と建徳専区富陽県を杭州市に編入、同年には杭県を廃止しその管轄区域の一部が杭州市に編入されている。1960年、嘉興専区臨安県と金華専区桐廬県を杭州市に、1963年には金華専区建徳県、淳安県を編入している。1996年、西湖区の西興鎮、浦沿鎮、長河鎮を分割して浜江区を新設、2001年に県級市の蕭山市及び余杭市を市轄区とした。

地理

杭州市は浙江省の北部にある。浙西中山丘陵の中部、浙北平原の中西部に位置し、山地丘陵がおよそ三分の二を占める。地勢は西南から東北へ向かってゆるやかに傾斜している。市域を富春江・銭塘江が貫流し、西方の杭州湾に注いでいる。市の中心部は銭塘江の下流、京杭運河の南端に位置している。
かつて城壁に囲まれていた市の中心部の西側には、西湖という湖がある。西湖は西、南、北の三方を山に囲まれ、風光明媚な名勝として内外に知られている。


extra39 勝沼ワインの里の大善寺 ⑦ “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”

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extra39 勝沼ワインの里の大善寺 ⑦ “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)②

20161204

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川清久


続)三枝氏とは何者なのか?


ぶどう寺に、何故、ぶどう薬師が祀られているのかという問題に衝突し、以後、考え続けていたのですが、ようやく少しの突破口が見えてきました。

 ぶどう寺を神社の側面だけから考えていたのですが、仏教の側面から考え直して見ようと思ったのです。きっかけは“蘇民将来、巨旦将来”伝承でした。

そもそも、牛頭天王(スサノオ)とは列島に於ける神仏習合の神であり、釈迦の生誕地(祇園精舎)の守護神とされるものですが、蘇民将来説話の武塔天神と同一の薬師如来の垂迹とされるのです。

薬師如来がスサノオの形を変えたものともすれば、ぶどう寺大善寺を寄進した三枝氏が、“天照とスサノウとの子産み競い”に伴い生まれた天照の五人の男神の一神である天津彦根の後裔としての側面だけで考えず、スサノウの系統としても考えるべきではないかと思考方向を転換したのでした。

ただ、学会通説などでは全く何も見えて来ません。それは、当然にも真実をひた隠しにすることを目的にしたものが「記」「紀」だからです。

まず、百嶋由一郎神代系譜(鳥子系図)によれば、三枝氏が祖先神とする天津彦根命とは阿蘇内牧の阿蘇神社の奥に祀られている金凝彦=神沼河耳命(藤原により格上げされた第二代贈綏靖天皇)であり、実はスサノウにより滅ぼされた巨旦将来でもあるのですが、その子が草部吉見=武甕槌=表面上は春日大神=鹿島大神(藤原により格上げされた第五代贈孝昭天皇)となるのです。

問題は天津彦根命の妃神である神俣姫です。

この妃神とはイザナギ、イザナミの子であるスサノウの姉にあたり、草部吉見が市杵島姫をお妃とすることからも、この天津彦根命の後裔である三枝氏が、阿蘇系のみならず、スサノウの系統を濃厚に引いている事が見えてくるのです。

勿論、天津彦根命の後裔には阿蘇の健磐龍の系統もあるのですが、三枝氏がその流れとは考えられないため、草部吉見=武甕槌=表面上は春日大神=鹿島大神の後裔と考えて良いのではないかと思うのです。


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百嶋由一郎神代系譜(鳥子系図)


では、スサノウの姉の神俣姫とは如何なる神なのでしょうか?

 驚くことに水銀採取、従って、金銀精錬に関わる人々と繋がるのです。

そうです、この三枝氏にとって祖母神ともなる神俣姫とは丹生津姫の事なのです。

 言うまでもなく金の精錬には浮遊選鉱のために水銀が必要となります。

 その水銀の生産に関わる丹生津姫が三枝氏の先祖神となると、古代に於いても天津彦根命の後裔が甲州の金銀生産に関わっていた可能性が否定できないのです。


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言うまでもなく、武田信玄の甲州金山が古代に遡るものである事は疑いようがありません。

 さらに言えば、ぶどう寺の寄進を考えると、三枝氏が武田信玄の一族の登場以前に遡る古族、大族である事も間違いないようです。

 事実、武田金山衆の於曾氏も三枝氏の後裔との説があり、祖母神としての神俣姫(丹生津姫)の水銀採取の技術がその財力の基盤となり、武田氏滅亡後も徳川氏に用いられた理由がそこにあったのではないかと考えたいのです。

 そのように考える時、三枝氏がスサノウの本地垂迹とされる薬師如来をぶどう薬師のぶどう寺として建立した思いが見えてきたのです。

 そもそも、「ぶどう」はぶどう糖で知られるように、高カロリーの秘薬とも言えるものだったはずです。

 残る問題は、国宝薬師如来堂最上部に残された三階松の二つの家紋に囲まれた門光(高良大社の奥に隠された九州王朝の神紋であり、印象としては三枝氏がそれを守っている様に見える)ですが、これの解読は後回しになりそうです。


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百嶋由一郎 蘇民将来巨旦将来神代系譜(部分)


380 岬 墓 “みさきぼ”

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380 岬 墓 “みさきぼ”

20160805(再開版)20120308(改版)

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


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この写真は、島原へのフェリーの発船場がある熊本県の旧長洲町への道すがら思わず撮ってしまったものですが、国道389号沿線(熊本県荒尾市蔵満)に隣接する墓地の風景です。

 なぜかこの風景が気に入っており、十年ほど前ですが、職場のパソコンのトップ画面に使っていたことがあり、奇妙に思われた事がありました(当時)。

注意してご覧になれば分かりますが、たまたまでしたが、鹿児島に向かう下りのJRツバメが映っていました。

タイトルは「岬墓」としています。音訓混用ですが“ミサキボ”と読んでください。

 この蔵満(大字地名)辺りにくると鹿児島本線は海岸線を走っていますが、この線路の向こう側は直ぐ有明海で付近には海水浴場まであるのです。

 有明海の海水浴場とは奇妙に思われそうですが、この荒尾市東部の小岱山一帯では古代に盛んに製鉄が行われていたことから、関川や菊池川を通じて大量の砂(多分、風化花崗岩の真砂土)が流れ込んでいることから、有明海には少ない砂地の浜になっているからです。

 阿蘇の火山灰起源のシルトとは異なり、粒子が大きな砂は干潟のような平面的な堆積にならず、風波の押し上げも含めて砂丘状の立体的堆積を示すのです。

 この荒尾市南部のさらに南にあたる長洲町も、その名が示すように、この砂が堆積する岬状の砂州から発達した土地だったと考えられますが、干満の差が大きい有明海でもあり、古代にはかなり奥深いところまで数多くの入江が方々に伸びた非常に複雑な地形をしていたのではないかと想像しています。

このため、干拓地しかないような有明海の北半ですが、この一帯(長洲の北荒尾市の海岸部)だけは干拓地ではないのです。

古代の地形が非常に見え難くなっていますが、長洲のが示すとおりフェリー発着所付近までは、発達した地の鹿児島本線が通され、併走する県道も、その直線的な波際線の砂州(自然に形成された堤防)の上に建設されているのです。

そして、内側に広がる水田も、湾入した湿地徐々に陸化したものでしょうが、幕藩時代になり、長洲にも干拓が行われ堤防(肥後では「塘」トモ と呼ばれます)が造られ、外側が干拓地にされたことから完全に陸化したものと考えられるのです。


町の歴史 長洲町は、古くは有明海に突き出した細長い洲で、漁業者の目標地あるいは前進基地として栄えてきました。慶長12年、肥後藩主・加藤清正公、寛文4年、肥後藩主・細川綱利公による干拓事業によって、現在の広大な水田地帯が形成されました。 

 (長洲町ホームページより)


現在の海岸線を見ると、高浜辺りで鉄路は九十度近く曲がり、内陸部に入っていますが、そのラインから、腹赤ハラカ丘陵地下の山辺の道を通る県道112号線辺りが恐らく古代の海岸線だったようです。

その脇には姫石浦があり、さらに沖側には今は地続きになっていますが、名石神社が鎮座する上沖洲と言われる沖積地があったのです。さて再び荒尾の蔵満周辺に話を戻します。

現在、砂州の内側には、荒尾の市街地から長洲港に流れ下る浦川の周りにかなりの水田が広がっていますが、前述した長洲港の北部が陸化するよりもかなり古い時代には、この低地にも大きく海が入り込みいくつも枝分かれした入江があったものと思われます。


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付近には、港(一部漁港)や綿津見神社があることから、古くから海洋民が住み着いていたことは明らかです。

山浦、浦川、水島、淀浦、大浦、江ケ浦、高浜といった地名拾えますが、興味深いのは中一部、一部、向一部です。“向こう”は入り江や海峡を挟んだ両岸に成立する地名であり(向地名は天草では顕著な海峡に付される地名で、小さな瀬戸などにも付けられます)、明らかに南方系の海洋民、漁撈民により付けられたもののように思えます

砂洲上に中一部がありますが、内陸部の向一部、一部とあわせて海が内陸まで入っていたことを示す痕跡地名と言えるでしょう

牛水(牛や石は臼に通じ、囲まれた地形を意味しますので、これも湾奥地名の代表でしょうね)といった海湾を思わせる地名が拾えます。

面白いのは打越です。吹上は砂が風と波で巻き上げられた砂が堆積した地という意味ですが、打越はその砂丘を越えて波が内側まで入ってくる土地という意味のように思えます。

 さて、明治の鉄道省は新橋横浜を皮切りに好んで海岸部に敷設しました。

それは港湾建設(港湾利権=海洋土木)とセットであったこともありますが(このため戦後も山の入会権は一部認められたものの、海の入浜権利絶対に認められなかったのです)、要は用地買収の手間と経費が内陸部の建設に比べて必要がなく、仮にあったとしても安かったためであり、いち早く鉄道の運用を開始させることだけが至上命題だったからです。


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これに対しては、山陽本線や鹿児島本線などでも、“敵国からの艦砲射撃に備えて海岸部を避けて内陸部に建設された”などと吹聴される向きがあるのですが(実際、現在のJRのその筋のセクターではそのように説明しますが)、それは誤りとまでは言わないものの、目眩ましに近いものでしょう。

仮に鹿児島本線を考えたとしても、全線が内陸部に造られてはいないことからも明らかです。

それよりも、軍部の意向(威光)を味方につけ自らの地元に鉄道を誘致しようとした可能性があり、今流に言えば、新幹線に尻尾を振るような方々が、ある地方では勝ちある地方では大蔵省や鉄道省の経済合理性に負けたことを示しているだけでしょう。

 人口はどうしても海岸部に集中するのであって、今も昔もさもしいまでのタカリの構造は全く変わらないのです。

 ともあれ、この鹿児島本線が敷設された一帯が海岸性の岬であったことだけは理解して頂けたのではないでしょうか。

 冒頭の写真で言えば、右手にあたる国道389号線もこの砂州上に造られているのですが、その間におびただしい数の墓があるのです。

 ここでは一部しか分かりませんが、国道を走るだけでもこの岬状の地に多くの墓があることには直ぐにお分かりになると思います。

 これは比較的目につくものですが、有明海の沿岸にはこの他にもかなりの海岸墓群が確認できるようです。

ここに、“海洋民は沖合の小島や岬に葬る”という民俗学上の概念があります。

 これは法則性というほどのものまで高まってはいないのですが、経験的にこれまで良く言われてきたことなのです。

『肥前風土記』に登場する、玉名郡の長緒浜から「腹赤の贄」が献上された話の舞台が長洲町腹赤とされていることや、今なお、諫早湾干拓事業への反対運動を続ける漁民の運動の一つの拠点がこの長洲一帯であることからも、海洋民族が住みついた土地であったことには説明が要らないものと思います。

また、前述した名石(めいし)神社があります。景行天皇巡幸の折、日向国から追ってきた妃 御刀媛(みはかしひめ)が姫ヶ浦で入水して石になったという石が祀られている神社ですが、これと非常に似た話が上天草の旧姫戸町の姫石神社にあることから、この点からも説明できそうです。

もう一つの例を上げましょう。

熊本県宇土市の東、現宇城市豊野町に奈良平安期(七九〇年~)の石塔があります。浄水廃寺跡石塔です。この貴重この上ない石塔群を見るために浄水寺を訪れ、近くにあるさらに古い陳内廃寺跡(城南町)などを見て八代に向かったことがありました(二〇〇四年)。

、今や消滅しそうな伝統の宮地和紙生産の現場を自分の目で確認するものでしたが、普段から旅をするはほとんど高速道路を使わないため、この日も最短コースの武雄~佐賀~大川~柳川~大牟田~荒尾~玉名~熊本~宇土というルートを走りました

このような旅を繰り返していると時々、面白いものに出くわします。

もちろん、頻繁に通っているのですから、普段から見ているはずなのですが、たまたま認識したということになります。なにやら、ゲシュタルト心理学のような話ですが、人間の認識とは、所詮、そのような物でしかないのです。

380(後編) 岬 墓 “みさきぼ”

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380(後編) 岬 墓 “みさきぼ”


民俗学が追求する小さな差異


そもそも、民俗学、古代史、神社考古学といったテーマで旅をする時、“できるだけ早く目的地に着き、現地を見る時間を増やす方が良い”といった考えは、一見すると正しそうに思えますが、多少の疑念を抱きます。そこを訪れる途中が非常に大切なのです。

そもそも、社会や文化や民俗というものは、その土地土地の風土といったものに育まれているものです。それが各々の土地で少しずつ変われば当然ながら変化します。このため、この微妙な差異を理解できなければ目的地の変化は理解できないのです。

それを、途中をスポイルして高速道路で目的地を目指すならば、その変化が全く把握できないのです。

車を運転しながらも、交差点の名称、バス停の名称、家の名前、店の屋号、寺の宗派、植えられている樹木、神社の名称といったものに気を留めながら目的地を目指します。

私に言わせれば高速道路にはこのような事は不可能ですし、この変化を楽しむことも全くできません。それは、もはや旅ではなくただの移動なのです。

“海外に行くと日本が良く分かる“という事を言われる方あります。それはそれで一応正しいのでしょうが、海外には日本とは非常に異なった文化、習俗、風景、習慣が目に見える大きな差異をもって存在しているのですから、それに接すると当然ながら日本のポジションが良く分かるのです

それは、そもそも差異それ自体が非常に大きいからなのです。しかし本当に文化的なことは、直ぐには判別できないような微妙な変化や差異をどれだけ理解できるという事なのです。

それが見えないために一般の人は海外旅行感動してしまうのです。

有明海沿岸の海岸墓

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宇土から八代に向かう場合、普通は三号線を利用すると思いますが、私は県道一四号線、四二号線か国道三八八号線を使います。

不知火海の八代から北半分は、江戸期になりどんどん干拓が進み、約二千年の間に半分に減っていますが、その大半はここ五百年ほどの間に起こった変化です。

このため、宇土から八代にはかけては、古い時代の旧堤防ラインが並行に延びています。

そして、多くの道路はこの旧堤防上に造られていますが、それが二つの県道や国道ということになるのです。

ここを頻繁に通るようになり、この道路の周囲にというよりもこの道路が造られた旧堤防の内側には多くの墓がある事に気付くようになりました。通常、内陸部の都市、純然たる農耕民の集落などでは付近の里山に墓が造られますので、国、県道クラスの道ではあまり墓を見かけることはありません。

しかし、有明海沿岸部を走ると、干拓が進んだために、かつての岬や島だったと思われる場所に古墳や現在の墓地(ここも通常は古代からの墓だったはずです)を多く見かけますが、海岸部や干拓地になると堤防の内側が海に最も近い場所になりますので(第二線、第三線の旧海岸線)、こういった場所に多くの墓地が造られているように見えるのです。

もちろん、一概に言えるものではありません。こういった傾向が見られるのはあくまでも海洋民、漁撈民が住み着いたと思われる場所のことで、どうやら住吉、鹿島、厳島、綿津見、筒男神といった神社を持つ集落の周辺に限られるのです。

これらのことから、山に墓を造る農耕民に対して岬に墓を造る漁撈民の習俗、葬送儀礼の一端を垣間見て小さな感動を覚えるのですが、それは私だけの事でしょうか。

干拓地に住み着いたかつての漁撈民や今なお漁撈に就く人々にとっては、旧堤防の内側であっても岬なのです。


漁撈民は岬に墓を造る


 “かつて有明海に巨大な島があった“として、ネット上に公開している有明海諫早湾干拓リポートⅡの で紹介した佐賀県の杵島山は、現在こそ干拓によって広大な陸地(農地)に囲まれていますが、文字通り島であったか、有明海に突き出した巨大な半島であったはずです(事実、東に突き出した竜王崎のかつての波際線には海食洞、海食痕、海食崖 と思われる痕跡が国道からも見ることができます)。この岬には、原始的な古墳(全て円墳)である多くの板式箱型石棺墓が残っています。

今は、この岬の先端を国道二〇七号線が迂回していますが、文字通り、海に臨んだ墓地だったのです。この場所に海人族が祀る海童神社があり、豊玉彦、豊玉姫、埴安姫が鎮座しているのです。

この石棺墓群と同じ種類のものかは知りませんが、同じく板方石棺墓による古墳を上対馬で見たことがあります(浜久須の朝日山古墳群)。しかし対馬において顕著な岬に埋葬するという習俗の延長に海を臨む墓地があると考えるのですが、これを仮に岬墓と呼びたいと思います。

もう一つご紹介します。長崎本線、佐世保線を利用される方は、この分岐点に肥前山口(佐賀県杵島郡江北町)という駅がある事をご存知と思いますが、この北に五〇メートルほどの崖を持つ山が見えます。この崖下には長崎街道(すなはち古街道)が通っていたのですが、この崖の上にも、また崖下にもおびただしい墓があります。この崖地もかつては有明海の波に洗われていた岬と思われます

ここを岬墓と考えたのには少し理由があります。


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前述したように、こういった傾向が見られるのは、あくまでも海洋民、漁撈民が住み着いたと思われる場所のことであり、住吉、鹿島、厳島、綿津見といった神社を持つ集落としていましたので、調べていると駅の東五百メートルほどの岬の付け根とも言える場所に、堤雄(ツツミオ)神社を発見したのです。

直ぐにこれは堤雄(ツツミオ)ではなく筒男ツツオ)神社ではないかと思いました。

たまたま仕事の関係もあって、神主からお話をお聞きすると、当然ながら住吉三神の表筒男命(ウワツツツオノミコト)、中筒男命(ナカツツツオノミコト)、底筒男命(ソコツツツオノミコト)が祭られており、堤雄神社はこのツツオノミコトからきている事が分かったのでした。

有明海から二〇キロも入ったこのような場所にも海が入り、住吉の民が基地にしてい可能性があるのです。

ここで、対馬在住の郷土史家というよりも民俗学者のお話をお聴きしましょう。


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対馬の弥生遺跡のなかで、墳墓としての遺構を持っているものは、そのほとんどが箱式棺である。支

墓と見られるものがなく、甕棺および壺棺らしいものが数例あるが、他は、全部粗製の組合(くみあわせ)石棺で、通例箱式棺とよんでいる。これが浦浦の岬や島に、地形に合わせて埋設されている。・・・


「古代史の鍵・対馬」永留久恵


 もちろんこの背景には里の中に埋葬しないという不文律があったのかもしれませんし、そもそも南方系の海食洞などへの埋葬風習が北上し対馬まで到達したとも考えられないこともありません。

いずれにせよ、この海洋民、漁撈民の墓制の延長に旧堤防の墓地があると考えたくなるのです。


海食洞: 室島(むるしま)にある彦嶋大権現は、皮膚病である「白なまず」と「脱腸(だっちょ

う)を治してくれる神さんとして信仰されている。神社の本殿は海蝕崖の上に建立され、拝殿は下の方に建っている。祭神は百襲姫命。この女神の眷属(けんぞく)使いが「(なまず)であると伝えられている。

「有明町の民俗」第ニ集 有明町教育委員会


室島は竜王崎の先端に位置する小島であったと考えられます。(古川:注)

以前、列島の神々のルーツともいうべき対馬を、同地の民俗学者永留久恵氏による一九八八年刊の名著「海神と天神」を手に三泊四日ではあったものの、多くの神社を回ったことがありますが、豊(トヨ)、佐護(サゴ)、伊奈(イナ)、三根(ミネ)、佐賀(サガ)阿連(あれ)・・・南端の豆酘(ツツ)まで、海洋民が付したと思われる二音地名が非常に目立つところでした

山陰もそうですが、特に、対馬は墓地が海岸に造られているところが多いという印象を持ち続けています。

下県では、旧厳原町の阿連、小茂田、久根浜、豆酘、内院には今もはっきり墓が残っているようです

旧峰町の青海も青の地名が付されていることからも分かるように、際立っています。

墓石もあるけれども、ほとんど、さらわれても構わないとでも言うような波際にあるのです。

当然、しばらく前までは墓石はなく、仮にあったとしても簡素な卒塔婆のようなものだけであり、代わりに松を植えるだけの埋葬だったと聞きます。

民俗学者の永留久恵氏も確か海岸性墓地を両墓制のなごりとしましたが、当然ながら海岸性の墓地は台風など大波の直撃により遺骨や墓石を何度も海中に浚ったことでしょう。

しかし、残されたものも、それで構わないと考えていたように思えるのです。

きっと、彼らは、また、流されたそのものの親たちも、時の流れとともに海の底で祖神に高まると考えていたはずなのです。

その証拠に、祖神祖霊が子孫の村に戻ってくる漂地として「寄神」と呼ばれる地があったと聴くのです。

その「寄神」は集落に近い定まった岬とされ、決して汚されることはなかったのです。

対馬や山陰の海岸性墓は、言わば、多くの海の守り神が誕生する場所だったとまでは言えるのかも知れません。

両墓制は、穢れや遺体への恐怖から葬地を集落から離れた場所に作り、例えば埋め、人の住む生活領域には、別に詣り祀るためだけの墓地を別に作ったというものです。

しかし、本当にそう言い切るかどうかは疑問です。

柳田の両墓制については、岩田重則は、「『お墓』の誕生(岩波新書)を書いています。

詣でるためだけの立派な墓を造る近畿で顕著とされる両墓性と、この海人族の持つ葬送儀礼とは異なるような気がするのです。

沖縄の亀甲墓のように洗骨の後に墓に納めるものは、一応は、改葬とも言えることから、遺体(遺骨)を置き、祭祀を行う二つの墓がある柳田の両墓制と言えないことはないのかも知れません。

しかし、最も重要な洗の後に新たな墓に移すという部分が省略されたものをそのように考えられるかは疑問です

そもそも、水葬と洗骨葬はそれを行っていた人々が完全に重なるとは思えないのです。

少なくとも、私は南島の洗骨葬による納骨墓を両墓制とは考えないことから、流されることを前提とした墓地の存在は、岬や沖合の小島への水葬、放置葬の延長にそのまま埋葬地がつくられたと考える方が分かりやすいように見えます。

ただ、対馬は古代において多くの神官を送り出した地とも考えられることから、近畿中央の墓制に影響を与えている可能性もあり、また、対馬の葬送儀礼は、南島の水葬の延長に捉えることも可能に思えるのです。

381 久留米市にも大国主を祀る神社があった! “久留米市城島町の大己貴神社”

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381 久留米市にも大国主を祀る神社があった! “久留米市城島町の大己貴神社”

 

20160810

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 

 

迂闊にもお膝元の久留米市に大国主を主神として祀る神社がある事に最近まで気付きませんでした。

 

 特に、九州最大の大己貴神社が鎮座する福岡県筑前町の大字弥長に「日隅宮」という小字が存在している事に気付き(「日隅宮」ウズノミヤ 大国主の国譲りに絡み、高木大神から代わりの宮を建ててやると言われたものでしたが、現実にその宮らしきものがあった痕跡を見出しているのですから大変です)、いずれにせよ、「出雲神話の舞台が九州だった」という過激な仮説に於ける新たな物証を発見した思いなのです。


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理由は簡単で、神社誌を丹念に洗えば直ぐに分かる事なのですが、中々そうは集中できず、特に久留米市と言っても、筑後川の右岸の佐賀県側の飛び地のような場所だから見落としていたのだと思います。

 言い訳はこれまでとして、早速、「福岡県神社誌」(中巻)旧三潴郡(15p)を見る事にしました。

 記述に従えば大己貴神社に多くの祭神が加えられた事が明らかで、正真正銘の大己貴神社であることが分かります。

 残念なことに、猛暑で野良には一人の方もおられず、ヒアリングをするにもご迷惑をお掛けする事から、ここでは存在だけを明らかにして終わります。

 ただ、現地が筑後川の氾濫原と言うよりも古代には海の底のような場所であることから、他地域からの入植は明らかで、どの地域からの移住者であるかを確認する必要があるでしょう。

従って、この神社が古代から鎮座しているなどと考えている訳ではないことは申し上げておきます。


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スポット073 可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)祀る大分県旧直川村の霧島神社

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スポット073 可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)祀る大分県旧直川村の霧島神社

20161227 

太宰府地名研究会(百嶋神代史研究会準備会) 古川清久

   

 Blog「ひぼろぎ逍遥」にリンクを張っている「一つあがりのカフェテラス」氏と大分県内での神社トレッキング゙を進めていますが、今回は同氏の提案による数社を廻る事にしました。

 提案の理由は概ね以下のようなものでした。

まず、非常に稀な可美葦牙彦舅神(ウマシアシカビヒコヂ)を祀る神社であること、「霧島神社」と言う宮崎を思わせる神社であること(大分県内では他に鶴見岳の中腹に鎮座する塚原地区に同名の神社があるのみ)、そして、床下に五七桐紋の打たれた瓦が残されていたからでした。


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犬も歩けば棒に当たるではないのですが、まず、通常は遭遇する事のない神様に今年は二度も出くわすと言う幸運に恵まれました。

 まず、神話の世界とはされてはいますが、百嶋神社考古学の立場から言えば、所詮は二世紀以降の神様なのです。

 しかし、最も古い神様とされる天御中主命よりもさらに年上の神様であり、普段遭遇する事はまずありません。

 唯一お会いできるのは、と言っても普通は入る事ができないのですが、出雲大社の客人の間と呼ばれる神殿内だけなのです。

「日本書紀」本文には登場せず、一書で最初に現れた神とか別の一書で天常立尊に次ぐ2番目に現れた神としており、独神とされ、すぐに消えたため事績は書かれておらず、実質的には登場しない神とされます。

この客人(マロウド)の間に祀られた可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)こそ、天御中主の夫である朝鮮半島の伽耶にいた金 越智なのです。


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JR日豊本線直見駅から南に一キロほどの国道10号線沿いの内野々集落にある神社です。

どうも付近にある間庭という地名も気になるのですが、多分岡山の真庭と関係がありそうです。


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宮司もおいでになり、社殿を見せて頂きお話もお聴きしたのですが、神殿の床下に16葉菊の神紋が打たれた蝋燭楯があったことが分かっただけで、それ以上は兼務神社であることから詳しい事情は分かりませんでした。

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燭台は明治より前に遡る神仏習合の名残でしょうが、菊の神紋と言い、五七桐の瓦と言い、高格式の神社であった事は疑いようがないのです。

これ以上の事実確認はできませんでしたが、兼務されている宮司の社務所には古い書類が残されており、時間を掛けて見せて頂きました。


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いずれも明治期に作成された神社明細諜の下書きと思われる書面のようです。

新しい方(左)は保食大神(豊受大神)、大年大神(草部吉見)、崇徳天皇(第75代天皇鳥羽天皇の第一皇子)が付け加えられていますが、古い方(右)は可美葦牙彦舅神が単独で祀られていたようです。

では、このような神を単独で祀る氏族とはどのような人々なのでしょうか?

その問題に踏み込むのは憚られますが、考える必要性もその価値もあると考えますので所感を申し述べる事にします。


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白川伯王系譜

 

百嶋神代系譜にはこの大山祗の父にあたる金越智こそがウマシアシカビヒコチである事がはっきりと書き込まれています。そしてこの金越智こそトルコ系匈奴(恐らく後期に分裂した南匈奴)であり、恐らく後期の南北分裂により南下した南匈奴系王昭君の血を引く一族なのです。

島津氏も多分そうだと考えますが、霧島神社とはその系統の氏族が守る神社と考えています。

ただ、お許し頂けるかは不明です。

これについては別稿として書いていますが、多くの説明を要しますので、500シートほどのパワー・ポイントを作成していますので、関心をお持ちの方は09062983254までご連絡下さい。


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382 物部神社の三階松神紋 “佐賀県みやき町の物部神社”

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382 物部神社の三階松神紋 “佐賀県みやき町の物部神社”

 

201608150

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

 

 

物部地名は中国地方に散見されます。

 

物部氏の集落と思えるものは九州にも多いのですが、幟を揚げた物部神社はそれほど多くはありません。

 

それでも筑後川を挟んだ久留米市の対岸の佐賀県みやき町に物部神社があります。


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聖徳太子の実弟・来目皇子(くめみこ)は、西暦600年撃新羅将軍として筑紫に赴き、そのおり物部若宮部に当社の創祀を命じました。祭神は物部氏の氏神・経津主神(ふつぬしのかみ)です。その経緯は肥前風土記にも記載されており、県内でも有数の古社です。

 
382-2による

勿論、経津主神はニギハヤヒ(物部氏の中核部隊)=山幸彦=猿田彦ですね。

 

「和名抄」に物部郷が見える。それによると,「此郷之中,有神社,名日物部経津主之神」とある。推古天皇の御世に来目の皇子を将軍として新羅を攻めるために物部若宮部に命じて神社を創建させて戦勝を祈らせたので,この辺を物部郷と名づけたという。板部に物部神社があり,このあたりに比定されよう。ほかに「和名抄」三根郡の郷名としては財部郷・千栗郷が見え,西尾の若宮八幡宮司が財部氏であることなどから,この地に比定される。

HP「肥前の古歴史」による


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今回は物部神社の存在をお知らせするに留め、祭神を含めて詳しいリポートを書きません。

それは、この神社の社殿に何故宮地嶽神社の神紋である三階松描かれているかの理由が分からないからです。


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スポット074 2017年新春三社詣りin出雲

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スポット074 2017年新春三社詣りin出雲

20170101 

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

 

今年(2017年)の新春三社詣りは、島根県でも出雲の ① 一畑薬師 ② 佐田神社( 境外摂社田中神社)③ 惠雲(イドモ)神社 ④ 多久神社… となりました。

これは、最初に廻ったのがこの三社だっただけであって、当日には併せて十社ほどの神社に参った事は言うまでもありません。

一畑薬師は以前から訪問したいと思い続けていた一寺であり、十年越しの念願が叶った事になるのかも知れません。

「寺じゃないか」と言われそうですが、江戸時代までは神仏混淆であり、事実、最上部には稲荷様が今も鎮座されているのです。

それはともかくも、丁度、初日の出の時間帯でもあったことから、一畑薬師の参道で御来光を拝むことになりました。


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一畑薬師は栄西(エイサイではなくヨウサイと読むべし)禅師の臨済禅(妙心寺派)ですが、眼病に効くお薬師さんとして知られています。

 古来、たたら製鉄のメッカとも言うべき土地柄から眼病が切実な問題であった訳で、大切な御利益だったのです。

 言うまでもない事ですが、島根県安来市(旧安来町)の“どじょう掬い”も、本来は砂鉄を採取する(カンナ流しから蹈鞴製鉄)川浚いの人足をひょっとこ(火吹き男→ひょっとこの音韻転化)に見立てたものであり、片目の口が尖った面をかぶる事も口で火を吹いている(後には鞴=フイゴに変わりますが)鍛冶屋師であり、片目を意味するメッカチも火の子が飛んで片目が潰れた鍛冶屋の意味になるのです。

 ひょっとこ、オカメのひょっとこの面も片目が潰れているのはその意味であり、天目一(あまのまひとつ)神にも繋がるのです。

 さて、早朝とは言え、出雲大社への初詣出の喧騒を嫌い、次に向かったのは出雲の二宮ともされる佐田神社でした。

 佐田神社は非常に重要な神様であり、ひぼろぎ逍遥 051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社

として書いていますのでお読みになった方もおられることでしょう。

以下、主要部分を再掲載しますが、佐田大神は大山咋(オオヤマクイ)神であり、同時に松尾神社(阿蘇では北宮の速甕玉命)、日枝神社、山王神社、日吉神社、そして、日枝山王権現に繋がるのです。

 佐田神社が屈服した後も旧宮司家と思しき方が主張し続けている様に、佐田大神とは猿田彦=山幸彦では断じてないのです。ただ、ここではこれについては別稿として先に進みますが、051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社からその一部要約を以下に。


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画像は201711日当方で撮影したもの

 

一般的に、出雲といえば出雲大社と大国主命しか頭に浮かびませんが、写真は出雲の二ノ宮とされる佐田神社です(出雲一ノ宮は出雲大社と熊野大社ですが)。

新暦の11月の深夜に行われる神等去出(カラサデ)神事で知られる古社です。

この佐田神社の祭神こそ大山咋(オオヤマクイ)神であり、アマノフスミノミコト、同時に松尾神社、日枝神社、山王神社、日吉神社、日枝山王権現から比叡山にも関係があるのですが、一般には猿田彦と混同され、酷いものにあっては佐田大神とは猿田彦以外ではありえない…といった強弁がまかり通っているようです。

逆に言えば、九州外では猿田彦を佐田大神とする向きさえあるようで、それは全くの誤りであり、このことは神社庁も知り尽くしているはずなのです。

この点、九州では猿田彦と佐田大神は分離され別神であるとの分離(認識?)だけは確立しているとも言えそうです。

ここで、肝心の佐田神社の公式ホーム・ページを見ると、例によって祭神を 佐太大神(さだのおおかみ)=猿田毘古大神(さるたひこおおかみ) としているのはもとより、追従するいくつかのサイトも知ってか知らずか(多分無知なのでしょうが)猿田彦とするものが目立ちます。

「出雲国神仏霊場」というサイトにおいても祭神を 主神佐太大神(さだおおかみ)=猿田彦(さるたひこ)大神 としています。

 ふだん採用しないウィキペディアを見ると、この部分については、神社庁の統制が効かないのためか、

佐太大神[編集]

正殿の主祭神である佐太御子大神は『出雲国風土記』に登場する佐太大神と考えられる。佐太大神は神魂命の子の枳佐加比売命を母とし、加賀の潜戸で生まれた。神名の「サダ」の意味には「狭田、すなわち狭く細長い水田」という説と「岬」という説とがある。とし、

明治維新時に神祇官の命を受けた松江藩神祠懸により、平田篤胤の『古史伝』の説に従って祭神を猿田彦命と明示するように指示されたが、神社側はそれを拒んだ。

現在において神社側は、佐太御子大神は猿田彦大神と同一神としている。と、非常に正しいことを書いています。


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これでは、ウィキペディアを馬鹿にする学会、識者といえども少しは見習うべきかもしれません。

ここで、皆さんに是非読んでいただきたいサイトがあります。

佐太神社(さだ)http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file3/sada.htm  です。

詳しくは、直接、全文を読まれることをお勧めしますが、最低でも、明治以来の神社庁による露骨な干渉が多少はお分かりになるでしょう。佐田大神と猿田彦が別神であったことを示す貴重な証言と言えます。

これについては省略。

このサイトは五年ほど前から気付いていましたが、いつ横槍が入り消されるか分かりません(既に検閲が存在していた戦前と同様の状況が目前です)。非常に貴重な証言と言えるでしょう。

佐田神社も神社庁の魔手=神社の継承権を認めないと言う手段により、捻じ曲げられてしまったのでしょう。

彼らは、自らの言いなりになる神社を増殖し、さもしくも文字通り天下りして行くことになるのです。

この傾向は現在も続いており、戦前の軍国主義を呼び込んだ国体明徴運動は、対米戦争完敗(ボロ負け)と言う愚かな結末を迎えたのです(ざまあない)。

今度は如何なる大破産と国民の不幸を齎すことになるのでしょうか?実に楽しみな限りです。

 

 佐田大神は猿田彦に非ず



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では、なぜこのようなことが平然とまかり通るのでしょうか?

山幸彦とその敵対勢力であった海幸彦の流れの何時しか融合(手打ち)した神祇勢力=中臣(藤原)神道こそが、国体を救うと称し、国体に巣食っているからであると聴き及んでいます。

 

 さて、皆さんはこの猿田彦大神が何者かお分かりでしょうか?実は海幸山幸神話の主人公、山幸彦なのです。神社庁関係者も知的な人は恐らくご存知でしょう。決してそうだとは言わないでしょうが。

 このことについても、何時か書きたいと思っています。

猿田彦は山幸彦=ニギハヤヒ

 

繰り返しますが、佐田大神は大山咋(オオヤマクイ)神であり、同時に松尾神社、日枝神社、山王神社、日吉神社、そして、日枝山王権現に繋がるのです。それが明確に分離されている九州以外は、ほぼ、塗り潰されてしまったようです。

既に、考古学、古代史、報道、選挙…と、すべての分野で嘘がまかり通るようになっていますので、これぐらい何だ!と思われるでしょうが、所詮そのような国なのです。

 ここで、佐田大神が初めに居た場所をご紹介しようと思います。

 既に、この神社の神官も祭神が大山咋命であることはご存じではなくなっておられます。

 ただ、この地(宇佐市安心院佐田)から福岡県朝倉市佐田に、さらに、佐賀県の小城市(松尾酒造も関係あり)に移動した後、太宰府近辺(筑前山家)に多くの伝承を残していると某神社考古学者から聴き及んでおります。…

 

次に向かったのは北の日本海岸の惠曇(イドモ)神社でした。

以前からどう読むのかと考えていましたが、三社詣りで初もうでのおじいさん(写真の方)にお尋ねすると、「めぐむに日~雲と書いてトモとエ(イ)トモと呼びます…」と「エトモ」とも「イトモ」とも聞こえる発音でお答えになりました。これで、長年の疑問の一部が解消したのですが、「モ」もしくは「トモ、ツモ」は地名の語尾のようなのです。

宿毛、九十九(ツクモ)、加茂(賀茂)、蒲生、福母、大友、小友、…と、地名の語尾に「モ」「モー」と付されるものがかなりあることに気付きます。当然にも、出雲はその代表格になるでしょう。

さらに想像を逞しくすれば、これらの地名語尾は列島に辿り着いたある種の民族(白族か?)に特有の地名語尾に思えるのですが、その話はもう少し多くのファクターを押さえた上で考えたいと思います。

してみると、「惠曇」(エトモ)が「イトモ」「イドモ」とすれば、「出雲」(イヅモ)の読み替えだった可能性もあるのです。

これまでにも、「オオゴトをしでかした」が「ウーゴトをしでかした」…栂「トガ」「ツガ」、本州のO音は九州ではU音であったことは何度も申し上げてきた事です。

惠曇神社と言ってもご存じない方が殆どだと思いますが、佐田神社から平坦な土地を北に数キロほど進むと日本海側の魚港に出ます。その惠曇港の一角に鎮座しているのが惠曇神社です。

今回、この神社の祭神については省略しますが、古代には佐田神社の正面に日本海まで水道が存在していたのではないかと思います。

郷土史等を詳しく見ていないため何とも言えないのですが、現地を見る限りはそのように見えるのです。

もし宍道湖から直接日本海まで流れ出す運河状の通路が存在したとすれば、その要衝に佐田神社が存在していた事が分かるのです。


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もしかしたら、一部は船越を行うか開削するかされたとも思うのですが、宍道湖のオーバー・フローとして水道が存在していた可能性も十分にあるのではないでしょうか?


 

 

 

383 2016年真夏の津山の神社探訪 ① “岡山県鏡野町の上斎原神社”

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383 2016年真夏の津山の神社探訪 ① “岡山県鏡野町の上斎原神社”

20160818

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


猛暑にもかかわらずエアコンもスイッチを入れずに水風呂と二連扇風機でブログを書き続けていますが、さすがに真昼の二時、三時となると限界にきて快適なエアコンに当たりフィールド・ワークに出たくなります。

馬鹿げたオリンピックや高校野球の放送は生まれてこの方一度も見たことはありませんし、TVも局スタッフが休養するためにあらかじめ用意された盆休み用の安物番組ばかりが流されるだけで見るに値しません。

勢い、頼りはユーチューブだけとなりますがそれも何十時間となってくるともう限界です。

これまで、兵庫県の但馬地方には頻繁に入ってきましたが、その手前の津山一帯については丁寧なフィールド・ワークを行っていませんでした。

そこで意を決し、日本海側をのんびり東に向かって鳥取の手前の倉吉から人形峠を越え津山、美作へと入る事にしました。


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この間、島根の印南、広島の安芸太田、岡山の真庭と辺境部ばかりを廻り物部の痕跡を辿ってきましたが、唯一残されたのが、津山、美作の一帯でした。

今回も猛暑の最中に二十社以上の神社を具に見て回りましたが、色々と小さな謎が解けていくという静かな快感にも浸っていました。

 フィールド・ワーカーは基本的には平道を走るべきですし、単なる移動ではなく「旅」を心がけるべきとしています。

 従って、平道を走りながら外気温をずうっと見続けていましたが、都市部から日本海側に入ると、それだけで35℃が31℃ほどに落ちますし、中国山地の山中に入ると朝方には峠越えの温度が21℃と快適以上の気温に降ります。

 中国山地のように針葉樹の割合が低く本来の広葉樹の森が残り、従って土壌と水分が保たれている領域では国土交通省や農水省が戦後70年掛かって引き起こしたヒート・アイランドの影響を免れ凡そ熱中症などという新造語が必要のない世界が広がっているのです。

 早朝6時に人形峠を通過した時点での外気温は21℃でしたから快適そのものです。

ここから神社探訪が始まりました。最初の神社は岡山県鏡野町の上斎原神社です。


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祭神はご覧の通りです。大国主と少名彦は良いとして、顕国玉神は「玉」が付いている事からヤタガラスのような気もしますが、多分、大國魂大神、宇都志国玉神同様、大国主の別名だろうと思います(重複表記ですね)。

敬愛する玄松子氏は、美穂津媛命を「三穂津姫神 みほつひめのかみ 高御産巣日神の御子。

『日本書紀』によると、出雲国譲りの後、高御産巣日神が大物主神に、もし国神を妻とするならば、あなたが心を許していないと思う。だから私の娘の三穂津姫をあなたの妻とし、八十万神をひきつれて、皇孫のために護り祀れと云った。出雲の美保神社に祀られており、美保の地名は、三穗津姫命によるものとする説もある。」とされています。大変参考になりますが、今回は玄松子氏に頼らなくても分かります。

 宗像三女神のお一人のタゴリ・ミホで間違いないでしょう。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


ただ、高木大神の娘ではなく長女の豊秋ツ姫とヤタガラスとの間に産れた孫娘(実は豊玉姫)なのです。

結局、この神社は大国主命を主神とする神社であることが分かります。摂社の配神も併せ考えると、大幡主の影響下にある大国主系の神社で良いと思います。

以下は、左右の境内摂社の掲示板です。


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スポット077 宮原誠一blogのオンエア開始に寄せて

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スポット077 宮原誠一blogのオンエア開始に寄せて

 

20170112

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 

 

2016年夏の接触以来、宮原研究の奥の深さに驚かされていますが、公開によってその全貌が一層見えてくることでしょう。

 

最初に公開されるblogは、福岡県久留米市田主丸町柳瀬の玉垂神社になるのでしょうか?

 

準備中のトップ画面が送られてきましたので、ご紹介したいと思います。

 

当方のブログ、スポット077 宮原誠一blogのオンエア開始に寄せて が公開される頃には既にリンクも進み、オンエアが始まっている事と思います。


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久留米史料叢書第六集 寛文十年(1670)「久留米藩社方開基」久留米郷土研究会という資料があります。私は数十年に亘り筑後地方を中心に神社を調べて来ましたが、「福岡県神社誌」「久留米市史」「・・町誌」「伝承・由来記」いったものでは分からない部分が多々ありました。

しかし、「久留米藩社方開基」「高良玉垂宮神秘書」「百嶋神社考古学」といったもの合わせ見ると、新たな古代史像が浮かび上がってきます。

以後、各地の神社を見て、聞いて、調べて、考えたことをまとめ「宮原誠一の神社見聞牒」として公開してまいります。

 

ブログの内容

 

01 福岡県久留米市田主丸町柳瀬・玉垂神社考

02 以下続く…

 

まず、私自身が一番読みたい読者であり、このブログが、五年、十年と継続されれば、それだけで、列島の最重要領域(筑後川流域)に於ける神社研究の面からの古代史の解明ができるといったものになりそうです。

トップ画面を見ると何やらどこにでもある郷土史会、史談会関係者が書いた地域リポートのようにお考えになるかも知れませんが、教育委員会などが伝えるものとは全く異なる驚くべき古代史像が浮かび上がってくる事でしょう。

最低でも、「福岡県神社誌」と「久留米藩社方開基」とを相互に比較するだけで、秘された(隠そうとされた)部分の解析ができるはずで、宮原誠一氏の鋭く切れるメスが一気に謎解きをしてくれるはずです。

通常、「久留米市史」「福岡県神社」といった定番に慣れていると、「古事記」「日本書紀」…学会、通説に丸め込まれてしまいますが、「百嶋由一郎神社考古学」「高良玉垂宮神秘書」「佃収古代史」を手にした、宮原研究は、それが保存され継承されるだけで、次世代への真実を伝えた貴重な財産となることでしょう。



 

384 2016年真夏の津山の神社探訪 ② “鏡野町奥津神社の境内摂社にも高良神社が…”

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384 2016年真夏の津山の神社探訪 ② “鏡野町奥津神社の境内摂社にも高良神社が…”

20160818

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

  

 岡山県鏡野町の上斎原神社(前ブログ)を後にして津山市中心部に向かって下っていくと奥津温泉の手前に奥津神社があった事を思い出しました。

 バイパスから外れしばし探し回ると、これぞ神社といった面持の印象深い社叢林を持つ鳥居を見つけました。


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この奥津地区に入るのはこれで四度目の訪問でしたが、この神社も訪問を逃しており初見の神社となります。


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では、社殿をご覧下さい。


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 質素ですが上品かつ古色を感じさせる参拝殿です。

そもそも、奥津と言う地名自体が忌部の地域であることを示しており(「奥」=瀛き奉るは瀛=インの置換え文字)、その系統の神々が祀られていたはずですが、どうせ、八幡神か何かが覆い被さっているだろうと予想していました。そして、実際、そのとおりでした。


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しかし、これは宇佐神宮が権勢を振るい始める鎌倉以降か、高良宮が九州の(つまり列島の)崇廟を宇佐八幡に譲る八世紀半ば以降(749)祭神が入れ替えられたと考えられるのです(「高良玉垂宮神秘書」)。

つまり、もと八幡宮であったのは正八幡(大幡主)系であったか、忌部の神様が祀られていたはずなのです。

そう考え境内を見て回ると、神社沿革を明示する掲示板を発見しました。

祭神は大己貴命、少彦名命と大書され、八幡神、武内宿根が申し訳程度に書き込まれていたのでした。

この神社「沿革」が書かれたのは、昭和12年とされています。

大戦直前の(大東亜戦は既に始まっていますが)この時期、この僻陬の地であった故か、まだ、はっきりとした事が書けたことに驚きを感じるものです。

 この「沿革」には、良く、この神社の性格が正しく伝えられていたように思います。

 大己貴命、少彦名命は出雲系などとあやふやな話でかたずけられるのが常ですが、彼等こそ九州の地で活動した大幡主傘下(つまり忌部)の実力者だったのです。

 さらに面白いのは、最後尾に置かれた武内宿根です。

 一部には応神は武内宿祢と神功皇后の間に産れているなどと恍けた話をする方がおられますが、ここでは、偽の八幡神の三神の中に紛れ込ませずに、一行於いて武内宿根(これも高良玉垂命=開化天皇=を隠すためのダミーなのですが…)が書かれているのです。


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武内宿根が高良玉垂命であるとしましたが、これについても痕跡が残されていました。

それが、神殿から排除されたと考えられる境内摂社が存在していた(る)のです。

はっきりと高良神社が残されており、武内宿根と偽装された高良玉垂命が今も祀られていたのです。


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この奥津神社の探訪は非常に印象深いものでした。

 上斎原神社と併せ、地名としての奥津の意味は以前から考えていた通り、忌部の意味=因(瀛)津(所有の格助詞)だったのです。

 恐らく、八世紀以前から、九州王朝の高良玉垂命=(藤原により第9代と貶められた後の開化天皇)の神威がこのいわゆる出雲の国の後背地にまで持ち込まれていた事を確認できたことと、それが、1300年を置いて今尚痕跡を留めていたことに新鮮な感動を覚えたのでした。


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まず、経験的に分かる事ですが、大国主を祀る信仰圏は単に現在の出雲地方にだけに広がっているのではなく、中国山地の脊梁を越え、安芸から美作どころか、兵庫県の播磨にまで広く展開しているのです。

 ただ、神名が換えられているため分かり難いだけであって、この点が判ればそれほど難しくはないのです。

 

大国主は多くの別名を持つ。

大国主神(おおくにぬしのかみ)・大國主大神 - 根国から帰ってからの名。大国を治める帝王の意

大穴牟遅神(おおなむぢ)・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち)・大汝命(おほなむち『播磨国風土記』での表記)・大名持神(おおなもち)・国作大己貴命(くにつくりおほなむち)

八千矛神(やちほこ) - 須勢理毘売との歌物語での名。矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す

葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこを) - 根国での呼称。「しこを」は強い男の意で、武神としての性格を表す

大物主神(おおものぬし)-古事記においては別の神、日本書紀においては国譲り後の別名

大國魂大神(おほくにたま)・顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま)- 根国から帰ってからの名。国の魂

伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称

所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)- 『出雲国風土記』における尊称

幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)

杵築大神(きづきのおおかみ)

ウィキペディア (20160819 20:00による

 

 それは良いとしても、百嶋神社考古学の凄さは、大国主が現出雲の人だったというとんでもないお伽話であると主張できる事なのです。現出雲は列島全域に展開していた大幡主のエリアの全てが出雲であり、彼らは、主として九州で活躍していたのでした。そして、現出雲はその活動領域の一つ(現在は)近畿大和朝廷が設えたテーマ・パークのようなものになってしまっている)だったのです。

 ともあれ、ここまでも高良玉垂命の祭祀圏が及んでいたことを確認しておきたいと思います。

 なお、津山市に高良神社が存在する事は、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 050 美作の高良神社の下調べ “津山市押入の高良神社” 061津山市の高良神社の実見から で報告しています。併せてお読みください。

 

385 2016年真夏の津山の神社探訪 ③ “悪名高い苫田ダム建設で犠牲となった久田神社”(上)

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385 2016年真夏の津山の神社探訪 ③ “悪名高い苫田ダム建設で犠牲となった久田神社”(上)

20160820

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


奥津温泉の傍らを流れる清流吉井川の下流には苫田ダムがあります。

 この神社の話をするには、まず、この悪名高い苫田ダム建設事業について触れざるを得ません。


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久田神社正面


まずは、穏やかな地元のサイトからご紹介することにしましょう。


2005年、鏡野町の苫田ダムが完成し、運用が開始されました。

本来なら記念すべき出来事ですが、ここに至るまでの経緯を知る人は、若干の後味の悪さと苦々しさを感じていたのではないでしょうか。

苫田ダムとは

 苫田ダムは吉井川の洪水、そして渇水の両面をカバーするためのダムです。

 高さ74m、長さは225m、貯水量は8,410m3という非常に大規模なダムで、県内では3番目の大きさを誇ります。

生活、工場、農業の水を司るのに加え、水力発電も行う他、ダムがなければ多大な被害をもたらしたであろう渇水時にも、取水制限を回避するなど、そのスペックだけを見れば、苫田ダムは十二分に役割を果たしていると言えるでしょう。しかし、その歴史は平坦なものではありませんでした。

反対運動

 苫田ダムは計画段階で激しい反対運動が行われていた事で知られています。

ダムの建設により、水中に沈んでしまった地域は旧奥津町(現・鏡野町)ですが、そもそも奥津町は、ダムに反対の三村(苫田、奥津、羽出)が合併して誕生した町です。

反対運動は38年もの長期に及びました。

その間、対話を進めて住民の理解を得た上での着工とされていますが、反対を譲らない町に対して、県は補助金や起債の手続きを故意に遅らせる等、いわゆる【圧迫行政】を行ったと言われています。

 1990年にダムの受け入れを表明しますが、その直前となる1986年~1989年の間で、3名の町長が任期途中で交代しています。

 ダムに賛成する町長が出ない限り、奥津町は圧迫され続けたのです。

 一方では住民に対し、移住までの資金として多額の現金を支払う事でダムに賛成するように根回しをし、やがて奥津町は追い込まれた末に、計画を受入れざるを得なくなったのです。

当時の県知事は、地方自治の神様とまで評された長野士郎さんでした。よくも悪くも、やり方を良く心得ていたのです。

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 この久田神社は、苫田ダム建設に伴う水没予定地にあったもので、この間この苫田ダムを見たくないため足を向けておらず、今回が移転後の初見になります。

 実は、2003年に出版した拙著「有明海異変」(佐賀県内の地方自治体に在職中に書いたもの)でもこの最悪のダムを取り上げています。

町を二分して争われた33年間にわたるダム建設反対運動は、三~四代続けて反対派の町長を選出したにも関わらず、長野士郎なる当時の岡山県知事の下級自治体への締め付け、いじめ、無視、嫌がらせ…といた卑怯極まりない仕打ちによって切り崩され、何の価値もないダムが造られ、久田神社も水没に至ったのでした。

これについては、まだ、いくらか気迫のあったNHKの特集番組が組まれたためにご覧になった記憶をお持ちの方もおられるかも知れません。

「有明海異変」第4「税金のダム遣い」の挿入コラムに「ダムの値打ち」(奥津温泉と苫田ダム)

を全文掲載していますので、関心をお持ちの方はズームアップされるなりしてお読み頂ければ有難いと思うものです。

 なお、多少は残部もあるようですから、直接、不知火書房(福岡市)0927816962 まで電話をお掛頂ければ入手可能と聞いています(1800円 送料は交渉余地ありかも…?)。


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神社研究者の端くれにとって、ダム建設に伴う移転補償金によって建て替えられたピカピカの神社を見るほど悲しく腹立たしい事はありません。

 特にこのダムが造る事そのものが目的であったことが透けて見えていただけにその思いはなおさらです。

 恐らくふれこみの千年などとんでもない話であって、このダムも数百年を待たずして膨大な土壌流出により埋まってしまう事でしょう。

 失ったものが如何に大きかったかは、犠牲になった方ばかりではなくいずれ思い知る事になるでしょう。


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20170113

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 3.11を契機に役所を定年前に辞め、ほぼ、二年余り蓄えだけで食い繋ぎましたが、今や、凧の糸を切って神社調査ができる環境を得る事ができました。

勿論、天下りしてぬくぬくと意味のない余生をむさぼる退職公務員にはなれなかったため、悠々自適ならぬ汲々自適の身分ではあるのですが、今や定年を更に引き延し事実上死ぬまで働かせようとたくらむ腐りきった官僚どもの思惑から零れ落ち、奴隷労働から解放された言わばスパルタカスのような解放奴隷の思いがするこの頃です。

凧が糸を切る事が出来たのは、借金が無い事、自宅を所有していた事、配偶者や同居親族にそれなりの所得があった事、何よりも行政と自らの職務が、嫌で、嫌で、たまらなかった事…などがありましたが、退職し所得を失った後に、「お父さん大学院に行くよ!(九州の某国立大学の工学部:環境土木)」と宣言した長女が某巨大地方自治体に院卒で就職(既に奉職中)し、ほぼ、心配がいらなくなった事、続く次女も看護大学校をもうすぐ卒業し自立するだろう事で、どうやら、父親は最終的に無用の長物となり、神様に奉仕できる事になったようです。

実のところ、バブル崩壊後、長期に亘って雇用の回復は望めず、労働力が激減するまで、つまり、戦後世代が大量に退職し始める2010年代までは、到底、まともな就職先は無く、酷い人生を送らされることになるだろうし、子供にはその覚悟をさせておかなければならないと思い続けていました。

問題は失われた20年の節目となる2015年前後に娘たちが巣立つ事になりそうで、一人の親としてそれなりに恐々と見守っていたのですが、大学院に行った事によって(スキルアップではなく偶然、雇用回復を待つ事ができた)何とか雇用の回復の寄せ波に乗る事が出来たようです。

勿論、その陰には多くの人々の涙、不幸、怒り、諦め、絶望があることは承知していますが、何の勉強も努力もしないで裏口入学から、大手企業に裏口採用させてもらう事ができる、金持ちのドラ息子、ドラ娘とは違う訳で、自らの水路を切り開くことができた本人の幸運と努力に驚きを感じています。

結局私は58歳で辞めてしまいました。思えば、私の父親も田舎の中学校の教師でしたが、教頭に成りたくないとして、58歳で辞めてしまいました。

父は、大正9年生まれで陸軍航空士官学校に入り、昭和17年に少尉任官しシンガポールに行くのですが、兵営内で「聖書」を読んでいたというだけで営倉に入れられ、内地送還から山口県の萩辺りの教育隊で終戦を迎えたという時流に乗れない(乗ろうとしない)変わり者でした。

このため、戦後は公職追放もあり(ポツダム中尉)30歳になるまでまともな職もなく、通信教育で教員(振り出しは長崎県県北の中学校教師)になるまで苦労したのでした。

この点、農水省配下の某地方自治体在職中に「有明海異変」を実名で出版した事と通底しているようです(蛙の子は蛙?)。

当時、大学院に行くのも選択肢の一つでしたが、結局、親父が辞めたなら負担は掛けられないと直ぐにその選択を回避したのですが(勿論、その能力も乏しく、某国立大学の全学闘争員会=マルではないので悪しからず の公然面の書記長=逮捕要員を仰せつかっていた事からそのような状況でもなかったのです)、父親が仕事を辞めていようが「お父さん、私、大学院に行くよ!」と宣言できる意志の強さこそが必要だったのでしょう。

問題は、唯一、私の子であれば合格しても面接で排除されるのではないかでした。

「有明海異変」などと言った行政権力に楯を突く本を在職中に実名で出版しているのですから(と言いながらも農水省地下の売店だけでも560冊は売れた)、子供が犠牲になる可能性もあり、それなりに覚悟はしていたのですが、大した影響はないと逆に甞められていただけだったようです。

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ともあれ、後顧の憂いが一切なくなった事から、今後は余生の全てを神代史から古代史への解明の作業に踏み込む事が可能になったのです。

70定年延長まで画策し(これこそが旧厚生省の30年前からの狙いだったのですが…)、労働者を死ぬまで働かせ、薄汚い一部のトップ・エリートだけが良い思いをしようとする現代の裏切り国家の実態では、早い退職だったのですが、解放奴隷が雄々しくスパルタシストとして生きて行ける幸運に感謝しているところです。

僅かな年金で全国調査をするには当面(永久にかもしれませんが)車中泊以外には無いようです。

2017年を迎え、本サイトも明らかにアクセス数が上がってきたようです。

勿論、例年、年末は忙しいからか低落はするのですが、そういう意味ではなく、昨年の同期と比べて増えていると言う意味です。

正確にはカウントしていませんが、後発の神社専門(跡宮)が、古代史、地名、民俗学専門の「ひぼろぎ逍遥」を抜き、より専門的な「跡宮」の方に将来性を見ています。

両ブログを控えめに見た堅い線で、日量アクセス5504501000件(年間36万件)というところで、更に後発の「常陸の国探検隊」と「スピリチュアルヒーラ宮古の縁側日記」も既に合計で日量10001200件はあると聴いていますので、この4ブログだけで日量2200件(年間80万件)のアクセスとなり、それ以外の10数サイトの日量アクセスまでは聞いていませんが、どう見てもグループ全体では年間100万件以上のアクセスがある事は間違いないように思います。


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形態は異なりなりますが、古代史関係で列島最強力サイトの古田史学の会の「新古代学の扉」が十数年で類型130万超件のアクセスであることから考えれば、文献史学派による性格も姿勢も水準(内容については敬服しています)も全く異なるものながら、アクセス数だけから言えば、私達、百嶋神社考古学も一定の研究グループになってきたという気がしています。


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筑後筑前限定のローカルサイトながらも、百嶋神社考古学に基づく強力な「「宮原誠一の神社見聞牒」が新たに加わりスタートしていますし、それ以外にも複数の新サイトがリンクを張る予定です。


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国体明徴運動の延長に形成された戦前戦中の文化統制の延長上に権力に尾を振る末端神社の神主(丁度、K県K市K○○神社の下級神官のような輩ですが)などを中核部隊とする歴史、文化の国家的統制が行われたのですが、そういった輩が煽った対米戦争完敗(ボロ負け)によって国土を焼失させた事でしばらくは沈黙せざるをえなくなったのでした。

勿論アメリカの金融資本に嵌められた対米戦争だったのではあるのですが(戦後70年にもならんとしているのにこんなことさえ分かっていない)、副島隆彦の著作を読む余裕がないなら、鬼塚英明のユーチューブ動画でも見て欲しいものです。

ボロ負けの敗戦によってもたらされた分、文化的解放期に勃興したのが戦後の史談会、郷土史会、考古学研究会であり地名研究会といったものでした。

それらが、初期の自由な発想を持った独立した研究者達の一切を高齢化により失い、何時しか、学会通説に依存し、それに口裏を合わせる様な学芸員、教育員会といった連中の、それこそどこにでも転がっているようなありきたりの言説に絡み取られ、従ってその様な傾向に後進が面白みを全く感じない事によって後継者を失い大半が消失しつつある状況にあるのです。

ところが、そうした文化的全喪失を自らの行政的施策の失敗と見られることに危機とも恥とも言えない妙な自己保身を感じたものか、行政の梃入れ、丸抱えによって官制の文化運動が行われる傾向が顕著になって来たようです。

こういった教育委員会や学芸員と言った学会通説の宣伝マンでしかない輩と連携し、行政に取り入ろうとする前述の3K下級神官と言った行政権力に思いっきり尾を振る連中が、学芸員やありきたりの通説派の口ぱく研究者達を呼んで御高説を拝聴するようになれば、それは研究会ではなく只の通説奉賛会=親睦会に過ぎず(所詮はカラオケ愛好会のようなもの)、嘘で固めた九州の古代史、特に九州王朝論の立場から解明すると言った意味のある研究などできるはずがないのです。

これらは恐らく全国的傾向のはずで、行政主導どころか通説派に自ら尾を振り行政に売り込もうとするような輩の発表が研究ではなく、自らの売り込みのための安っぽいチラシでしか無い事に好い加減気付いて欲しいものです。

独立性を保った自由で冒険的な研究姿勢が保ち続けなければ、どこにでもある研究会が解体して行った事を後追いするだけになるでしょう。

ましてや、出版もブログも会報も発行せず、出来合いの通説派のチラシを公然と配布し、さも、しっかり読んで下さいと言う様になれば、堕落は一挙に進むことになるのです。

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