Quantcast
Channel: ひぼろぎ逍遥
Viewing all 723 articles
Browse latest View live

386 2016年真夏の津山の神社探訪 ④ “悪名高い苫田ダム建設で犠牲となった久田神社”(下)

$
0
0

386 2016年真夏の津山の神社探訪 ④ “悪名高い苫田ダム建設で犠牲となった久田神社”(下)

20160820

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


肝心の神社の話をしなくてはなりません。


386-1


「岡山県神社誌」は手元にない上に、境内にも祭神の記述が認められないことから、これも、結構、利用させて頂いていますが、ネット上の「神社人」氏のデータを借用させて頂きました。深謝。


多加意加美神/高龗神/高淤加美神(たかおかみ)

埴山姫命/埴山比売神(はにやまひめ)

稚日女尊(わかひるめ)※[同一説]丹生都比賣乃命

金山比古命/金山彦神(かなやまひこ)

金山比賣命/金山比女神(かなやまひめ)

品陀和氣命/誉田別命(ほんだわけ)※[別名]応神天皇(おうじんてんのう)

素戔嗚尊/須佐之男命(すさのお)

大物主神(おおものぬし)※[同類]大国主命の和魂

大国主命(おおくにぬし)

大山津見命(おおやまつみのみこと)


品陀和氣命/誉田別命(ほんだわけ)※[別名]応神天皇(おうじんてんのう)は鎌倉以降の後付であることは間違いないでしょうから、元々、この久田の一帯は、筆頭に掲げられている埴山姫命/埴山比売神(はにやまひめ)=埴安姫(博多の櫛田神社の大幡主の妹で、大山祗=大国主の父のお妃となられた方)と新羅の王子だったスサノウのお妃で列島に逃げたとされるワカルヒメ=アカルヒメ、さらには、金山彦の、所謂、瀛氏、白族、越智族連合体の根拠地であった事が分かります。

そして、隣の播磨と但馬一帯では古代にスサノウ系と大国主系の大戦争があったようで、敗者は但馬の出石に押し込められたスサノウ系だったと考えられます。

今のところ、この程度の事しか分かりません。


386-2


今回、この神社を見せて頂き、最も印象深かったことは、ここでも若宮神社を発見した事でした。

前々blogの 384 2016年真夏の津山の神社探訪 ② “鏡野町奥津神社の境内摂社にも高良神社が…”

でも、奥津神社に高良神社の残影を見出しお知らせしていますが、この久田の境内摂社として若宮神社が存在している事も、この神社が奥津神社の高良神社に祀られているはずである高良玉垂命(実は第9代開化天皇)の長子=斯礼賀志命(シレカシノミコト)=藤原により第14代とされた仁徳天皇であるからです。

 通常、九州島でも高良神社と若宮神社がセットで祀られる場合が多いのですが、HP「神社人」氏の配神一覧にこの若宮が掲示されていない事から、境内摂社の若宮社はダムの移転補償による移転に伴い合祀されたものかも知れません。

 国土交通省の造る事だけが目的のダム建設の犠牲となられた久田の方々にダムのお話をお聴きするのは心苦しいのですが、いつか機会があればゆっくりお聴きしたいと思っています。


386-3


 百嶋由一郎氏が残された音声CD講演録、スキャニング文字データDVDを必要とされる方は、直接09062983254までご連絡下さい。


スポット079 豊洲市場の地下水再調査結果は、何故、跳ね上がったのか?

$
0
0

スポット079 豊洲市場の地下水再調査結果は、何故、跳ね上がったのか?


20170116

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久





豊洲市場の移転問題を面白おかしく伝えていた地上波のワイド・ショーも、巨大コンクリート箱舟工法によるごまかしが石○○太郎絡みであるらしいと分かった途端、何故かこの問題に関する追及を止めた事に気が付かれた方は多いと思います。


相対的に弱い都庁幹部ならいざ知らず、強い者には追求しないのが彼らの習性なのです。


所詮、小保方さんのような弱い立場の人間には寄ってたかって牙をむき、強い者には尾を振り(巻く)という彼らの「真実」の追及がどのようなものかという事が透けて見えたものでした。


今度は、9回目のモニタリング調査の結果が、実質、百倍近い桁違いの危険値となったことから、政治的に利用してきた小○側も、そら恐ろしいパンドラの箱を空けてしまった事に気付き、いよいよ収拾の着けようが無い事に気付いてしまった事でしょう。


 国家とか行政といった物の本質にようやく気付き、いずれ、自らも綺麗ごとを言うだけの同類でしか無い事に気付くことになるでしょう。




豊洲市場の地下水 環境基準の79倍のベンゼン シアンも検出


114 1320


東京・築地市場の移転時期を判断するうえでの1つの指針となる豊洲市場の地下水のモニタリング調査で、最大で環境基準の79倍となるベンゼンが検出されたなどとする最終調査の結果がまとまりました。小池知事は「もう一度、調査をしようということになるかもしれず、専門家会議に任せたい」と述べ、追加の調査が必要かなどについて、専門家会議で詳細な分析をしたうえで判断すべきだという考えを示しました。


sp78-1



豊洲市場の地下水のモニタリングの最終調査は去年11月から先月にかけ市場の敷地の201か所から地下水を採取して行われ、14日に開かれた「専門家会議」で調査結果が公表されました。
それによりますと、最大で環境基準の79倍となるベンゼンのほか、検出されないことが環境基準となるシアンが検出されたことなどがわかりました。
東京都の小池知事は去年8月、築地市場の移転の延期を決めた理由として今回のモニタリング調査が終了していないことを挙げ、移転時期を判断するうえでの1つの指針として最終調査の結果が焦点となっていました。
この調査結果について小池知事は14日に開かれたみずからの政治塾のあいさつで、「数値は、かなり疑義があると承知している。もう一度、調査をしようということになるかもしれず、専門家会議に任せたいと思う」と述べ、追加の調査が必要かなどについて、専門家会議で詳細な分析をしたうえで判断すべきだという考えを示しました。

小池知事「想定超え 驚いている」

東京都の小池知事は今回の結果について都内で記者団に対し、「想定を超えている。前回・8回目の調査結果から類推して数値は高いのかなと思っていたが、それを超えていて、ある種、驚いている。今回の調査は去年8月に移転延期を判断しなければ飛ばされていた調査なので最後までやってよかった」と述べました。
そのうえで移転について、「どのような方向性を持つかは、まさに専門家会議で議論いただければと思う。専門家会議と有識者による都のプロジェクトチームでダブルチェックができればいい。安心安全は生鮮食料品を扱う市場は勘案しなければならず、科学的な分析が何よりベースになるべきだ」と述べ、市場の安全性の確保を最優先に判断する考えを示しました。
さらに小池知事は、豊洲市場の安全性をめぐる問題が夏の東京都議会議員選挙の争点になるかと問われたのに対し、「争点はいくつもあるかと思うが、これまでの流れに関わってきたのは都議会だ。そういったことも避けられないのではないか」と述べ、争点の1つになるという認識を示しました。

豊洲市場の地下水 環境基準の79倍のベンゼン シアンも検出

114 1320

東京・築地市場の移転時期を判断するうえでの1つの指針となる豊洲市場の地下水のモニタリング調査で、最大で環境基準の79倍となるベンゼンが検出されたなどとする最終調査の結果がまとまりました。小池知事は「もう一度、調査をしようということになるかもしれず、専門家会議に任せたい」と述べ、追加の調査が必要かなどについて、専門家会議で詳細な分析をしたうえで判断すべきだという考えを示しました。

豊洲市場の地下水のモニタリングの最終調査は去年11月から先月にかけ市場の敷地の201か所から地下水を採取して行われ、14日に開かれた「専門家会議」で調査結果が公表されました。
それによりますと、最大で環境基準の79倍となるベンゼンのほか、検出されないことが環境基準となるシアンが検出されたことなどがわかりました。
東京都の小池知事は去年8月、築地市場の移転の延期を決めた理由として今回のモニタリング調査が終了していないことを挙げ、移転時期を判断するうえでの1つの指針として最終調査の結果が焦点となっていました。
この調査結果について小池知事は14日に開かれたみずからの政治塾のあいさつで、「数値は、かなり疑義があると承知している。もう一度、調査をしようということになるかもしれず、専門家会議に任せたいと思う」と述べ、追加の調査が必要かなどについて、専門家会議で詳細な分析をしたうえで判断すべきだという考えを示しました。

小池知事「想定超え 驚いている」

東京都の小池知事は今回の結果について都内で記者団に対し、「想定を超えている。前回・8回目の調査結果から類推して数値は高いのかなと思っていたが、それを超えていて、ある種、驚いている。今回の調査は去年8月に移転延期を判断しなければ飛ばされていた調査なので最後までやってよかった」と述べました。
そのうえで移転について、「どのような方向性を持つかは、まさに専門家会議で議論いただければと思う。専門家会議と有識者による都のプロジェクトチームでダブルチェックができればいい。安心安全は生鮮食料品を扱う市場は勘案しなければならず、科学的な分析が何よりベースになるべきだ」と述べ、市場の安全性の確保を最優先に判断する考えを示しました。
さらに小池知事は、豊洲市場の安全性をめぐる問題が夏の東京都議会議員選挙の争点になるかと問われたのに対し、「争点はいくつもあるかと思うが、これまでの流れに関わってきたのは都議会だ。そういったことも避けられないのではないか」と述べ、争点の1つになるという認識を示しました。



sp79-2

豊洲地下水、ベンゼン最大79倍 移転遅れも 有害物質、72カ所で基準超す     2017/1/14 13:41

専門家会議で意見を交わすメンバーら(14日、東京都中央区の築地市場)

 東京都は14日、豊洲市場(東京都江東区)の安全性を確認する9回目の地下水モニタリング調
sp79-3査で、環境基準を超える有害物質を計72地点で検出したと発表した。ベンゼンは最大で基準値の79倍、ヒ素は同3.8倍をそれぞれ検出した。シアンは30地点超で検出した。

 豊洲市場の土壌汚染対策を検証する専門家会議の会合で公表した。地下水調査は9回目が最終回。1~7回目の調査では、環境基準を上回る有害物質は検出されなかった。昨年公表の8回目では青果棟の3地点でこの基準をわずかに上回るベンゼンとヒ素を検出していた。濃度や地点数が大きく異なるため、都は「暫定値」として公表した。

豊洲市場を巡っては小池百合子知事が昨年8月、地下水調査が終わっていないことなどを理由に、築地市場からの移転を延期した経緯がある。

知事は安全性が確認できれば、早ければ2017年冬から18年春に移転するとしていたが、遅れる可能性もある。

調査は約200カ所を対象にしている。検出された有害物質は、飲み水として人の健康を保護するうえで望ましいとする環境省の基準を超えた。


念のためにNHKと日経から二本読んで頂きましたが、過去8回の調査は基準値以下だったにも拘わらず、9回目で桁違いと言うより実質二桁違いの数値が飛び出した事に疑問を感じない人は、幸せな方だと思ってしまいます。

 専門家会議に呼ばれた委員からは、早くも、愕いたふりをする意見が出されているようですが、そんなものは、一目、改竄である(最低でも可能性がある)と考えるべきであって、一度でも行政の現場にいた人なら直ぐにそれと分かるはずなのです。

専門家会議の委員も全員そのことは知っているか、専門外としても薄々感じているはずなのです。

ただ、絶対にそんなことは言うはずがないのです。

何故ならば、自らが次回から指名して貰えない事を十分すぎるほど知っているからです。


 専門家会議の委員からは「なかなか見られない現象」「初めての経験」「あまりにもショッキング」と驚きの声が続いた。平田健正座長(放送大学和歌山学習センター所長)は「原因が分からない。このままでは評価できない。戸惑っている」と話した。同会議としても、都とは別の調査機関に依頼し、データの精度を高める意向。次回の専門家会議を開く3月までに、数字が大きく変動した原因を追究するという。

 モニタリング調査は、土壌汚染対策工事後の14年11月から約2年間、計9回行われた。7回目までは、1度も環境基準超えはなかった。専門家会議は、昨年10月から本格稼働した地下水管理システムや、地下水の採取法に原因があった可能性を指摘。都の改ざんを疑う声もあった。調査は民間4社が担当。最後の9回目は、都が初めて依頼した会社だったという。

朝日デジタルニュース


「昨年10月から本格稼働した地下水管理システムや、地下水の採取法に原因があった可能性を指摘。」といった見解はきれいごとに過ぎず、「都の改ざんを疑う声もあった。」だけ、まだ、ちょっとは本当の事を言う人間がいるだけ救われるといった話なのです。

 一例ですが、既にネット上には、「これまでの調査は都庁OB天下り会社が行っていたと一部メディアが報じる

今回の調査は入札により初めての会社が行なった、つまり今回の数値が本当であって今までがウソの調査報告であった可能性があるということか…」といった正しくも自然な見解が流れています。

 

sp79-4


「これまでの調査は都庁OB天下り会社が行っていたと一部メディアが報じる」云々に至っては、直ぐに、やはりと分かるもので、この手の調査コンサルタント会社というものは、元々は独立系の自然学系の人が始めたものであっても、大半は大手ゼネコンや地場の大手土建屋の傘下に入っているものが大半で(そうじゃないと仕事が取れない)、それどころか、今や、大手土建屋が堂々と子会社にしているものさえあるのです。

 そもそも、この手の調査コンサルタント会社というものは、往々にして発注者に対してどのような調査報告をすべきかを事前に聴き(直接言わないにしても相手の意向をそれとなく察知し)、“どのような数字で出しましょうか”とまでは言わないまでも、その意向に沿った報告書を作成するのが常なのです(そんなことは業界の常識なのです)。

 もし、それに反する正しい報告書を出せば、次回から指名されない事になってしまうだけのことなのです。

 従って、今回だけ桁違いの高い数値の報告書が出たということは、その調査会社が、いつも排除されている事に対する腹いせか、男気をだしたか、都庁OBの天下り先企業による調査が捏造である事を公言しようと陽動作戦に出たか…どちらかであって、今後は採用されなくなる可能性を分かった上で義憤による「粋」を示したものと考える事も可能かも知れないのです。

 勿論、それでも今回だけそれなりに正しい調査報告を出す事ができた背景には、従来型の薄汚れたどころか泥まみれの構造に多少とも風穴が開けられたからこそ真実の一端が見えたのであって、普通は絶対に起こりえない現象なのです。

 この手の環境調査といったものは、大気中のCO2濃度の調査やPM2.5のような、何の危険性もなくどうでも良いレベルの意味のない調査でもない限り、真実の調査報告はされず、ほとんど行政の意向に沿って報告書が造られるが大半なのです。

そして、そういった企業に土木系の天下りの連中がそのまま潜りこみ、甘い汁を吸い続けているのが現在の公共事業、公共工事、従って天下りの構造的な仕組みなのです。

つまり、正しい調査報告書を作成する企業は排除され、行政の意向に沿った調査報告書(つまり嘘)を作成する企業しか採用実績が無く、実力のない信頼できない業者であると評価される(指名入札)構造にあるのです。

しばらくすれば、過去8回までの調査報告を行った調査会社が行政から重宝される事にしかならないのです。


sp79-5


こういったことは、公共事業の現場にいた人間ならば誰でも知っている事であって、私もそういった現場にいたのですが、天下りもできずに早期退職となった爪はじきの人間であるからこそ本当の事が言えるのです。

ワイド・ショーで、「どうしてこんな事が起きるんでしょうね?不思議でなりません」などと行けシャーシャーと言える連中も実はグルであるか、「私達は、真相は分かっていますが、知らないふりをしますのでご心配いりません…」と権力に尾を振るさもしい人物であることが丸わかりなのです。

まあ、オリンピックなどと言ったヨーローッパの不良貴族共(実体はヤクザなどが主催する「勧進相撲」に似たもので、地回りと同様の連中)が始めた汚いものは止めてしまえと思っている者としては、この際どうなろうと知った事ではないのですが、まずは、薄汚い石○都政の巨大な負の遺産(将来へのつけ回し)に振り回される都民と老朽化した豊洲の魚屋さん達こそ良い迷惑といったところでしょう。

これが、大手マスコミも含めた日本という嘘社会の実態なのです。

その本物の大手嘘つきマスコミ(CNNなど)がどうやら本当に嘘をついている事が分かったのが、就任前の支持率史上最低(これも大手マスコミに連動するインチキ調査会社による捏造ですが)というトランプの登場でもあるのです。

これまでのものは元より、今後とも大手マスコミの言う事は一切信用しないで頂きたいものです!

387 2016年真夏の津山の神社探訪 ⑤ “岡山県鏡野町の大美禰神社も天宇受賣命を祀る古社”

$
0
0

387 2016年真夏の津山の神社探訪 ⑤ “岡山県鏡野町の大美禰神社も天宇受賣命を祀る古社”

20160827

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 津山市の西隣に鏡野町があります。その鏡野町の香々美にこの大美禰神社が鎮座していることから、まずはその社名からも同町の中心的な古社であることは明らかです。


387-1


「香々美」の意味は単に鏡の置換えではなく「蛇」の意味(民俗学吉野裕子説)があるのですが、この際その話は置くとして、今回はこの古社の祭神がテーマです。

 鏡野の総社といった神社ですから、明治以降、林神社、登々呂神社、沖神社、八幡神社、など多くの神社が合祀されたようですが(同社沿革)、神殿内に持ち込まれた神々と稲荷社、金刀比羅神社は境内摂社として、神殿背後地に別の神殿を持ち鎮座しています。

 ただ、須佐之男社(下記)については合祀記事がないため、相当に古い時代の地主社の可能性もあるように思えます。まず、近畿大和朝廷に先行する古社であることは間違いないと考えられます。


387-2


須佐之男社  同社沿革(部分)


埼玉県の大宮氷川神社を始めとして北関東にも数多くの大宮神社が展開しています。

百嶋神社考古学では、埼玉県というより広義の武蔵の国は大国主の領域であり(武蔵大国魂神社…)、スサノウを含め、博多の櫛田神社(同社の三神の一つにもスサノウが祀られていますね…)の大幡主の一族(実は出雲とされている大国主命も博多の大幡主の配下なのです)が広く展開した領域であると考えますので、大宮氷川神社がスサノウを主神とすることにどうしても共通性を認めてしまうのです。

ここでは、あまり深入りして足早な結論を出すことを避け、大宮神社なるものが、アメノウヅメ(オオミヤノメ)を祀るものである可能性を念頭に、この物部氏が色濃く展開する美作の領域にも大宮神社が在り、スサノウ、アメノウヅメ(実は伊勢の外宮の豊受大神)を主神として祀っている(いた)ことが確認できるとしたいと思います。

と、ここまで書いたのですが、恐らく百嶋先生は「ヘヘー…それは違う」と笑って言われそうです。

 事実、百嶋先生は、「大宮神社はオオミヤノメノオオカミを祀るものではない…」と言われていました(多分豊玉姫をお考えだったのだと思います)。


さて、その次、これも難しいですよ。『大宮のメの大神』、大宮の根本は宗像の田心姫です、昔の名前の豊玉姫です。

さて、この大宮の大宮はどこにあるかというと、丹後の宮津の天の橋立から、地図をご覧になって左に数10km行った所に、大宮神社があります。

現在二つの書き方、大宮神社或いは大宮のメの大神という書き方もありますが、このお宮さんがそもそも豊玉姫を大宮のメの大神と言い出された元凶です、混乱しやすいですね。


「肥後翁のblog 民俗・古代史及び地名研究の愛好家」 より

22 92013百嶋由一朗先生講演 神社研究会 2011528CD テキスト版


 百嶋先生は滋賀の大宮神社を念頭に話されていたようですが、大宮と名乗る神社は全国的にはかなりの数あり、オオミヤノメノオオカミで全てが塗り潰されている訳でもないようです。

 かく言う私も、今回、吉備に大美禰神社を見出だし、祭神大宮能賣神又の名を天宇受賣命とされていますのでそのまま受け入れてしまいそうでしたが、やはり、怪しいのです。


387-3


百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 研究目的で百嶋由一郎最終神代系譜、講演録(音声)を必要とされる方は09062983254まで

スポット080 参拝客急増の宮地嶽神社と山梨県勝沼のぶどう寺に共通する三階松の神紋

$
0
0

スポット080 参拝客急増の宮地嶽神社と山梨県勝沼のぶどう寺に共通する三階松の神紋

20170116

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



アイドルG嵐によるCF「光の道」により参拝客が急増した福岡県福津市の宮地嶽神社には、その「嵐」による新春福岡コンサートもあって2017年の参拝客はさらなる増加を見せています。


sp80-1



一方、昨年放送された民放の人気ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」のロケ地となった山梨県甲州市勝沼町勝沼の大善寺も初詣客が急増しています。


sp80-2

不思議なことに、この二つの寺社には三階松の神紋(家紋)を使用すると言う共通性があるのです。 


 この問題について何とか回答をださなければならないと、通称「ぶどう寺」の解析に入り、ひぼろぎ(跡宮)用に78本のblogを書いたのですが、公開が半年後となるため、急遽「ひぼろぎ逍遥」のextra版として連載しました。



「蘇民将来、巨胆将来」伝承も絡む非常に難解な解析作業であるため理解して頂けたかどうか分かりませんが、勝沼の大善寺が何故三階松の家紋を打っているのかという事に関しては、なんとか大体の見当を付ける事が出来たように考えています。


 ただ、宮地嶽神社に関しても20本のblogを書いていますが、未だに、同社が、何故、三階松の神紋を打っているのかの解明ができていないため、宮地嶽神社と勝沼大善寺の間の関係が見いだせないでいます。


 一応、懿徳、孝霊、孝元or孝霊、孝元、開化三代の天皇(学会通説が無視する欠史8代の天皇ですが)の方向で検討中ですが、尚、悩み続けています。


sp80-3

ともあれ、両方の寺社の将来の事も鑑み、宮地嶽神社には薬師如来を勧請し「長寿と繁栄」を、ぶどう寺には「宮地嶽神社」を勧請し「交通安全」を祈念する相互参拝の仕組みを取り入れたらどうかと勝手ながら考えているところです。


 まずは、ぶどう寺特集とも言うべきextraシリーズ7本をお読み頂きたいと思います。

388 2016年真夏の津山の神社探訪 ⑥ “吉備の中山初見参”

$
0
0

 388 2016年真夏の津山の神社探訪 ⑥ “吉備の中山初見参”

20160827

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

 吉備の中山と言えば中山神社になりますが、今回の津山探訪の一つがこの神社を訪問する事でした。

 一般的には「鏡作神」という祭神名から一体誰が祀られているのか良く分からないと言った印象が付き纏っているようです。

 百嶋神社考古学では明確で、金山彦こと瀛氏の金鎖大神(事解男命)こそが中山様なのです。

 そして、そのお妃が大山祗命の妹の越智姫であり、本物の(崇神ではない)初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)のお妃となるアイラツヒメ(蒲池姫=阿蘇神社は否定していますが)と五瀬命をお産みになるのです。

388-1
 

 

中山神社(なかやまじんじゃ)は、岡山県津山市一宮にある神社。式内社(名神大社)、美作国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。社名は現在「なかやま」と読むが、かつては「ちゅうぜん」「ちゅうざん」と音読みしていた。別称として「仲山大明神」や「南宮」とも。

祭神は次の3柱。これらは『中山神社縁由』に基づく。主祭神鏡作神(かがみつくりのかみ)相殿神天糠戸神(あめのぬかどのかみ)石凝姥神(いしこりどめのかみ)

『延喜式頭注』には大己貴命、『作陽誌』には吉備武彦命、『大日本史』や『神祇志料』には吉備津彦命と記されている。他に金山彦命とする説もある。『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』では、当社の祭神は猿神であるとされている。

ウィキペディア(20160827 14:51による


388-2

 今回は実見だけが目的でしたのでこれ以上は踏み込みませんが、境内を見せて頂くと猿神社(上三枚)が置かれ、そのお妃であるアメノウヅメ命を祀る境内摂社(下一枚)が確認できました。

 この神社は金山彦を祀る神社です。猿田彦、天宇受目命もその瀛氏の配下で活動していた事が分かりますが、猿田彦は物部氏の中核部隊であることから、物部氏の排斥に対応し神社として生き延びるために隠さざるを得なくなったものと思われます。


388-3

388-5


スポット081(前)大山祗の子大国主は何故トルコ系匈奴と言えるのか? “宮古の縁側日記から転載

$
0
0

スポット081(前) 大山祗の子大国主は何故トルコ系匈奴と言えるのか? “宮古の縁側日記から転載”①②

20170117

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


連携blogの「スピリィチュアル・ヒーラー宮古の縁側日記」に重要な記事が掲載されました。

「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」の読者にも是非読んで頂きたいと思いますので、許可を得て全面転載させて頂く事にしました。皆さんも、「…宮古の縁側日記」に注目を。


48 龍族大国主の複雑な事情2017-01-11 11:24:10

あけましておめでとうございます~今年もよろしくお願いいたします。


sp81-1


出雲大社と言えば大国主神です。

日本書記ではスサノオの息子、古事記ではスサノオの6世孫、7世孫と判然としていません。

大国主には沢山の名前があります。

大國主大神

根国から帰ってきてからの名。大国を治める帝王の意

大穴牟遅神(おおなむぢ)

大穴持命(おおあなもち)

大己貴命(おほなむち)

大汝命(おほなむち)

播磨国風土記の表記

大名持神(おおなもち)

国作大己貴(くにつくりおおほなむち)

八千矛神(やちほこ)

須勢理姫との歌物語の名

葦原醜男

葦原色許男

葦原志許乎

あしはらしこを根国での呼称「しこを」は強い男で武神

大物主神(おおものぬし)

古事記においては別の神、日本書紀においては国譲りの別名

大國魂大神(おおくにたま)

顕国玉神・宇都志国魂(うつしくにたま)

根国から帰ってからの名

伊和大神(いわおおかみ)

播磨国風土記での呼称

所造天下大神(あめのしたつくらししおおおかみ)

幽冥主宰大神(かくりごとしろしめすおおかみ)

杵築大神(きづきのおおかみ)

あまりに多すぎて覚えきれません。一体どんな人物なのでしょうか?

まず、大国主とは国を治める王様、王君と言う意味なので名前ではないのです。

固有名詞ではありません。

出雲の王様であるとするならば名前があるはずなのに具体的には記紀には書いてなのです。

漢字の成立は少なく見積もっても紀元前6世紀には成立していました。

紀元前2590年には漢字の元になった甲骨文字、象形文字等があります。

最古の漢字は殷の時代紀元前1046に占いの結果を書き残す為に使用されています。

大国主の名前は何と言ったのでしょうか?沢山の名前から推理して見ましょう。

大穴牟遅・大穴持・大己貴命・大汝命

おおなむじ・おおあなもち・おほなむち

似たような名前ですね。

元は一つだった名前の漢字のフリガナを変えて言い換えているようです。

ヒントは大物主(おおものぬし)です。

古事記でも大国主と大物主は別人だと言っています。

日本書紀おいては国譲り後の別名とあります。

大国主の神話は大国主にとっての都合の良い作り話ですが、いつものように作者は真実を織り交ぜています。

スサノオのいる根の国大国主なる人物は行ったのです。

播磨風土記に書いてあります。

スサノオの娘を嫁に貰いに行ったのです。

もちろん、断られました。

大国主はそのまま引っ込んでいるような性格ではありませんでした。

スサノオ軍団と戦い武力で勝ち取りました。

娘を略奪したのです。

スサノオの娘を連れて意気揚々と引き上げて行きました。

大国主には二人の妻がいます。

八上姫(ヤカミヒメ)

根の国からの帰還後では最初の妻とされる、こちらが略奪したスサノオの娘

辛国息長大姫(カラクニシナオオヒメ)

古事記ではアメノウズメにされています。

須勢理姫(スセリヒメ)

スサノオの息子の妻を略奪した最初の妻で正妻。

本名は瀛津襲足姫(オキツヨソタラシヒメ)

古事記では豊玉姫になっています。

都合二回戦っています。

狗奴国の乱

長髄彦の乱.....長髄彦はスサノオの息子で王子様。

古事記では、長髄彦は一方的な悪者。

大国主は一人で戦いに挑んだわけではありません。

沢山の兄達軍団(匈奴軍団)で、

スサノオ軍団(月氏軍団)に奇襲攻撃をかけたのです

何故、スサノオに断られ攻撃してまで娘達を得なければならなかったのか。

それは、サカ国スサノオとはあまりに身分が違いすぎたからです。

複雑な事情が大国主にはありました。(続く)



スポット081(後) 大山祗の子大国主は何故トルコ系匈奴と言えるのか? “宮古の縁側日記から転載

$
0
0

スポット081(後) 大山祗の子大国主は何故トルコ系匈奴と言えるのか? “宮古の縁側日記から転載”①②


49 龍族大国主の複雑な事情2017-01-12 23:11:04

大国主を取り巻く複雑な人間関係。

先ずは、大国主の名前です。

姓は(キム)

母方の出自がセレブです。

呼韓邪単于(こかんやぜんう)

燕の女王 王昭君(おうしょうくん)の子供の子孫、金朱露(キムスロ)の子孫です。

51年匈奴の王族呼韓邪単于は、漢に入朝して王昭君婿になりました。

wikiによれば姓を(りゅう)に変えた事になっています。

しかし王昭君の姓になどはないのです。

後世の辻褄合わせです。

前漢の高祖劉邦は主君である項羽より先に手柄を立て、下克上で漢王になりました。



388-3


しかし、劉邦の死後皇后の呂氏一族の悪政により一族は粛清されました。

この時に劉邦一族の下克上は終わりを告げたのです。

後に地方に散った残党も処分されています。

5代目の孝文帝からきちんとした国造りが行われました。

6代目の孝景帝も父に習いました。

民から税金を取らない事や肉刑や宦官を廃止しました。

国は富、中国で興った国の中で一番豊かな時代「文景の治」言われています。

孝文帝は劉邦の子供という事になっていますが、たった一度、褥を共にしただけで生まれた子供なのです。

金朱露は金官伽耶の王様になっています。これは大きな誤魔化しです。

中国と朝鮮で歴史の捏造をしています。

金朱露は後漢の2代目皇帝劉荘です。


sp81-3


前漢 孝武帝の時代に五銖銭を制定しています。

五≒皇帝

+

皇帝金朱

皇帝 金朱(きむしゅ)が 造ったお金と言う意味です。

金朱露の名はここからきているのではと推測しています。

造ったのは燕の国です。

金朱露は燕の王様。

本当に漢と言う国はあったのでしょうか?

「漢書・後漢書」は文官出身の司馬遷が相当大袈裟に書いてある小説のようなものです。

全てを鵜呑みにはできませんね。

その金朱露の子孫の金超智(キムオチ)の娘の超智姫(別名 燕脂姫 エンジヒメ)の娘の

アイラツ姫(アカル姫)お母さんです。

それでは、お父さんはと言うと.....

劉邦の子孫であると言う事は間違いありません。

劉邦の出自は薛延陀族(せつえんだ)    賎民です。

河原よもぎ

河原ナデシコ

鉄奴隷

白菊

そのような立場から戦闘能力を買われ密偵から成り上がった強者です。

(密偵≒草の者)

河伯(ハベク)河童です。

朴氏です。

当然ですが、燕のお姫様と婚姻できません。

略奪したのです。

そして生まれたのが大国主です。

sp81-5

母違いの兄

猿田彦(サルタヒコ)   別名 饒速日(ニギハヤヒ)山幸彦

延陀彦(エンダヒコ)塩田彦→猿田彦

この方の姓は(パク)です。

からが出ています。

その兄に虐められた大国主。(続く)     参考 百嶋由一郎最終神代系譜


sp81-6


sp81-7

389 2016年真夏の津山の神社探訪 ⑦ “津山市賀茂町の河井神社の高良神”

$
0
0

389 2016年真夏の津山の神社探訪 ⑦ “津山市賀茂町の河井神社の高良神”

20160827


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 岡山県の津山市でも最も奥の集落、旧阿波(アバ)村の入口といったところに河井神社があります。

 場所は非常に分かり易く、JR因美線の美作河井駅の直ぐそばといったところです。


389-1

地図をご覧になれば分かるとおり、二つの川が合流する場所、つまり河合(川会)が、いつしか河井と呼ばれ表記されるようになったようです。

 さて、河井神社の鎮座地である津山市加茂町と言う地名からも、また、その奥に阿波(アバ)と言う地区があることからも、この地が大幡主系の白族(瀛氏)の領域、従ってその手の神々が鎮座している事が座っていても想定できそうです。

 ただ、愕いたことに、境内末社として天児屋根命(実は阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミ)が鎮座していたのです。

 その前に神社の掲示板をご覧ください。


389-2389-3


まず、愕いたのは、高雷(文字が無い)龍神こと(こらのかみ)が筆頭に書かれていた事でした。

 これは、龍神と書かれてはいますが、高良大社の高良玉垂命=第9代開化天皇である可能性が高
いようです。特に、仲哀死後の息長帯比売命が高良玉垂命のお妃となられ、五人の皇子をもうけておられる事から(「高良玉垂宮神秘書」右)この二柱が筆頭に掲げられている事との整合性が認められるからです。

 応神こと誉田別命はしかたなくといった感じですが、玉依姫命は鴨玉依姫の事(下鴨)で、山幸彦(ニギハヤヒ)の子であるウガヤフキアエズ(記紀とは合い入れませんので悪しからず…)のお妃で、豊玉彦(ヤタガラス)の娘である忌部の正統後継者が祀られている事になるのです。

 最後尾の火産霊命は吉備の中山ですから、勿論、金山彦で良いと考えられます。

 しかし、この津山の奥地でも、高良玉垂命と神功皇后の御夫婦が確認できたのは大きな収穫でした。

 では、天児屋根命を祀る境内末社をご覧いただきましょう。


389-4


389-5

ここでも面白いのは草刈神社とされていることです。草部吉見の痕跡が辿れて実に面白いですね…。

 この流れから後の藤原氏藤原天皇制が成立する事になるのです。

 現地での聴き取り調査も行っていない(野良にも集落にも人影がない)ことからこれ以上の憶測は危険ですのでこれまでとします。

 やはり、辺境では原型が保たれているという事を実感した今回の探訪でした。


389-6


スポット082 大山祗の子大国主は何故トルコ系匈奴と言えるのか? “宮古の縁側日記から転載”③

$
0
0

スポット082 大山祗の子大国主は何故トルコ系匈奴と言えるのか? “宮古の縁側日記から転載”③

20170117

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


連携blogの「スピリィチュアル・ヒーラー宮古の縁側日記」に重要な記事が掲載されました。

「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」の読者にも是非読んで頂きたいと思いますので、許可を得て全面転載させて頂く事にしました。

ただ、この第3 blog「建磐龍(たけいわたつ)が、大国主の別名です。」に至っては当方も理解の領域を超えており、目下のところ学習中と言ったところです。


50 龍族大国主の複雑な事情2017-01-14 22:50:26

178年大国主30才。

決断を迫られていました。

頼みの綱だった後漢機能不全の末期状態。

南匈奴も否応なしに無益な戦いに繰り出され青息吐息でした。

大国主は大きな溜息を一つつき腰に剣を挿しました。


sp82-1


自分を頼ってきている何人もの義兄弟、従兄弟、親戚を食べさせて行かなければならない。

あんなに幼い時に虐められたのに...今更。


sp82-2


大国主は、呼韓邪単于と王昭君の子孫匈奴の貴種(王族階級)です。

これから、スサノオ(月氏軍団)と戦わなければならないのです。

又、父親と同じ事をするのかと思いました。

大国主に母の記憶はありません。孤独が憂鬱を生んでいました。

大国主の母はアイラツ姫(蒲田姫)です、

父は河伯(河童)

記紀では神沼河耳になります。

神沼河耳(河伯・河童)アイラツ姫を略奪して生まれた子供です。

神沼河と言う名前は女神を表しています。

男性の使う名前ではないのです。

神沼河姫アイラツ姫(アカル姫)です、どんな形であれ子供を産んだ事で夫婦になったので神沼河耳と名乗った事にしたのでしょう。

結局、大国主も同じ事をしました。

スサノオの娘と長髄彦の妻を略奪したのです。

阿蘇の蹴破り伝説で有名な建磐龍(たけいわたつ)が、大国主の別名です。

奥方の名前は豊秋津姫(とよあきつひめ)

別名・豊玉姫、瀛津襲足姫(おきつよそたらしひめ)

二人の子供は下照姫です。

もう一人青玉繋(あおたまかけ)と言う息子がいるようですが調査中です。

大国主は根の国に行きました。

根の国(あの世)に旅立った....38才でした。

大国主は匈奴の血が入っていたからと言って大雑把な性格ではありませんでした。

繊細な神経の持ち主だったのです。

根の国から帰ってきたのは、義理の兄山幸彦息子の大山咋(18)でした。

大山咋が大国主の跡を取ったのです。

大国主の奥方達は山幸彦の妻になりました。(レビラト婚、逆縁)

大国主亡き後、山幸彦率いる匈奴軍団は安住の地(倭国・九州)を得たのです。

スサノオ達にとっては不穏の幕開けでした。


sp82-3


sp82-5


390 2016年真夏の津山の神社探訪 ⑧ “津山市賀茂町の賀茂神社”

$
0
0

390 2016年真夏の津山の神社探訪 ⑧ “津山市賀茂町の賀茂神社”

20160828

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 津山市の最も奥の集落である阿波(アバ)で車中泊した翌朝、同市の中心部を目指して県道6号線を下る(上るが正しいですか)と、草加部、吉見、加茂、綾部、黒木、田熊…と気になる地名が並んでいます。

 最低でも、加茂は確認すべしと、みまさかかも駅前の地図で見つけた加茂神社を見せて頂く事にしました。


390-1


大山咋命が主神として祀られているようであることから、一目、上賀茂系の神社との印象を持ちました。

 この神様は、阿蘇の草部吉見と宗像大社の市杵島姫との間に産れた、言わば、瀛氏の王子様のような性格を持った神ですが、その子として神武僭称贈)崇神天皇が登場することになります。

 大山咋命とは、松尾大神、山王宮、日吉宮、日枝神社の神様でもあるのですが、同時に出雲の佐田神社の神でもあるのです。

それを伊勢神宮の系統は猿田彦の事だとして、とんでもない言いがかりを持ち込んでいるのですが、この神社ではそれを排し、津山市加茂町公郷猿田彦の加茂神社は摂社として別神であることが明示されているとも見えるのです。



390-2


参拝殿本殿


本殿の御祭神を見ると、イザナミ、イザナギがセットになっており、大山咋が主軸筆頭に掲げられ大国主が後塵を拝している事から、賀茂社でも上賀茂系の神社であることが分かります。


390-3

五七、三五でもない桐紋は古くは使われていたようですが、菊水の紋章と併せ考えれば、御祭神にある崇道天皇に関わるものかも知れません。


崇道天皇とは早良親王の事のようですが、真庭~津山に掛けてこの人物の話が良く出て来ます。


早良親王(さわらしんのう、天平勝宝2年(750年)? - 延暦4928日(785118日))は、奈良時代末期の皇族。光仁天皇の皇子。生母は高野新笠。桓武天皇、能登内親王の同母弟。追称は崇道天皇(すどうてんのう)であるが皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていない。

母方が下級貴族であったために立太子は望まれておらず、天平宝字5年(761年)に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていた。天応元年(781年)、兄・桓武天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めによって還俗し、立太子された。当時、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)が生まれていたもののまだ幼少であり、成人前に即位当時に既に45歳を迎えていた桓武天皇が崩御して幼帝が立つ事態を回避するために早良が立てられたとみられる。また、皇太子にも関わらず早良親王が妃を迎えたり子を為したとする記録が存在せず、桓武天皇の要求か早良親王の意思かは不明であるものの不婚で子孫が存在しなかった(早良の没後に安殿が皇位を継げる)ことも立太子された要因と考えられている(長谷部将司説)。

だが延暦4年(785年)、造長岡宮使・藤原種継暗殺事件に連座して廃され、乙訓寺に幽閉された。無実を訴えるため絶食し、淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死した。

ウィキペディア(20160829 0730による


390-4


祭神では味鋤高日子根命が分かり難いと思いますが、ウガヤフキアエズの別称であり、豊玉姫と山幸彦の間に産れた大矢口がその人となり、そのお妃は鴨玉依になります。

 一方、その神玉依姫は大山咋のお妃でもあることから、下賀茂神社にも配慮された、また、高木大神系にも配慮された配神となっているようです。ここらが、吉備、美作の面白い所でしょう。


390-5


境内摂社の一つに養老神社が在りました。少彦名命と阿蘇系の級長津彦命、級長津姫命が一緒に祀られている事は奇妙ですが、神殿に大国主が残されている事から考えると、この神社の本来の祭神は大国主命、少彦名命であり、もしかしたら、大国主だけが残され、草部吉見=武甕槌=級長津彦命、級長津姫命が摂社に落とされた可能性も見て取れます。ここでは級津(シナ)=支那の話はやめておきます。

境内摂社には菅原道真の天満宮と事代主の美保社もありますが、以下の二つをご紹介しましょう。



390-6


 足名椎命、手名椎命は、櫛稲田姫の御両親ですから金山彦と埴安姫(大幡主の妹)ですね。

 猿田彦は味鋤高日子根命の父神であり、同時に物部の中核部隊のニギハヤヒであり山幸彦であることはこれまで述べてきたところです。


005-7





スポット083 百嶋由一郎手書きデータの整理作業から

$
0
0

スポット083 百嶋由一郎手書きデータの整理作業から


20170123

太宰府地名研究会(百嶋神社考古学研究班) 古川 清久


稀代の神社研究者であった故)百嶋由一郎氏が亡くなられて四年目の春を迎えていますが、百嶋神社考古学に関心を寄せる人は徐々に増え始め、ネット上でもかなりの影響力を持ちつつあるようです。

 既に、グループ全体での年間のアクセス数は百万件を超えているはずで(上位5blogだけでも確実に6070万件/年)、最低でも時代の流れによって消失してしまう事だけは無くなったものと考えています。


sp83-1


写真は久山斎宮に近い旧「審神者(さにわ)神社」ですかね


 既に熱心に神社を調べている経験ある研究グループが形成されており、取りつかれたように日々神社を調べる研究者が二十人近く存在する連合体が形成されているのです。

このため、今ならば“いくら調べても誰に聞いても分からない神社の謎について知りたい”という方がおられたら当方のスタッフによってチームを作ればある程度はお答えする事ができるのではないかと思う所まできた様な気がしています。

 こうした中、最後に回収した百嶋由一郎氏の手書きデータのスキャニング作業が棚上げになっていた事から、何とか9時間かけて作業を終え、少しずつ読み込む作業を行っているところです(オンエア時点では既に完了しています)。

 今回は、最後のデータを回収した事から、神代系譜(5080シート)だけを集めたファイルを作成しており、研究のために必要とする方にはとりあえず神代系譜のみを実費程度で広くお送りしたいと考えているところです。

 その中に藤原氏の系統がどこから始まっているのかを書いたものと、広く一般にも関心を持たれている武内宿祢の出自についてはっきりと書いている神代系譜が出て来ましたので、この部分についてお知らせしたいと思います。

 藤原氏が阿蘇氏の系統から出ているという事についてはこれまでにも書いてきましたが、もう一つ、山下影姫が、実は神武天皇に反抗した長脛彦の流れである事、また、第8代孝元天皇と山下影姫との間に武内宿祢が産まれている事を書いたものが出て来ましたので先行してお知らせしたいと思うものです。

 神功皇后と武内宿祢の間に応神天皇が産まれたなどといった下ネタ絡みでくだらない話をして喜んでいるような愚かな方々はどうでも良いとして、学会通説に沿って偉そうな話をされている方々が漫画にしか見えないようなすごい研究に踏み込んでおられた事が良く分かるものなのです。


第一系譜


 まず、第一系譜ですが、「中臣烏賊津臣」こそ藤原のルーツなのです。

一般的には滋賀県長浜市の伊香具神社の祭神の伊香津臣であり「近江国風土記逸文」に「中臣烏賊津使主」と記されたその人なのです。

 なお、あまり知られていませんが、この中臣烏賊津臣は長崎県の対馬に数多く祀られています。

 再度、大著「天神と海神」(永留久恵著)を手に、この中臣烏賊津臣を祀る神社を巡ってみたいと思っています。

敬愛する「玄松子」氏のサイトにもそれが良く見て取れます。


sp83-2雷命神社 長崎県対馬市厳原町阿連字久奈215


雷神社 長崎県対馬市厳原町豆酘西井坂2852


霹靂神社 長崎県対馬市上対馬町大増1073


天諸羽神社 長崎県対馬市上県町佐護恵古


天諸羽神社 長崎県対馬市上対馬町一重30


天諸羽神社 長崎県対馬市峰町吉田941


能理刀神社 長崎県対馬市上対馬町大字西泊字横道218


能理刀神社 長崎県対馬市上対馬町芦見字スダリ274


敷島神社 長崎県対馬市美津島町加志字小河内386


志多留能理刀神社 長崎県対馬市上県町伊奈字向原381……


余談ですが、個人的には対馬は木坂の海神神社の社家でもあった民俗学者の永留久恵氏(昨年亡くなられたようです)も実は中臣氏の後裔であり、永留も中臣の(もしかしたら中臣も永留)の置換えではないかと考えているところです。

 大幡主の血を引く市杵島姫と阿蘇の草壁吉見の間に産れた大山咋と、金山彦の娘である櫛稲田姫と豊玉姫の間に産れた鴨玉依姫との有力なる系統に産れたのが、後に後継の藤原氏から天皇と格上げされた贈)崇神=審神者(サニワ)であり中臣烏賊津臣だったのです。

 古代(神代)に於ける実力者の阿蘇氏の頭目としての性格を持ち、大幡主-ヤタガラスの系統のバック・アップを受けられる立場にあったのが中臣烏賊津臣であり、正に武装せる審神者(サニワ)=武装した裁判官という司法と警察権力を握っていた流れから藤原氏が登場している事が見えてくるのです。

 ロシアのプーチンが秘密警察カーゲーベー(KGB)と怪僧ラスプーチンの血を引いている(?)事とイメージがダブるのですが、何時の時代でもそれこそが権力の中枢である事が見えるのです。

 椎根ツ彦(神武東征=崇神の東征の舵取役)は良いとして、その妃である宇佐都姫が足一騰宮の主であり、贈)崇神が宇佐を地盤にしていた事も見えるのです。

 この辺りに九州王朝の滅亡後に宇佐が高良大社、玉垂宮から九州(全国)の宗廟を奪った裏事情が見えてくるような気がしています。


sp83-5


sp83-3


第二系譜


 この神代系譜も今までにない印象を受けるものですが、通説では武内の宿祢は屋主忍男武雄心命と山下影姫との間に産れたものとされていますが、そうではない事にも気づきます。

 今後、各メンバーにより解読作業が行われると思いますが、長脛彦の血を引く山下影姫と第8代孝元天皇との間に産れたのが大彦であり武内宿祢であるというのは衝撃的です。




sp83-4

百嶋由一郎手書きデータ第4集(DVD)とは別に、全ての神代系譜5060枚だけを集めた神代系譜特集DVDも作成しています。純粋に神代の研究をされる方には実費でお送りできますので、ご連絡下さい。


09062983254(古川)まで


sp83-6



スポット084(前) 地球温暖化が嘘である事をNASAが認めた

$
0
0

スポット084(前) 地球温暖化が嘘である事をNASAが認めた

20170127

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


2017125日公開のユーチューブに於いて「地球温暖化」が嘘である事を認めたという動画が流され始めました。

元々、CO2の大気中濃度の上昇によって地球が温暖化している…(温室効果)という話が出始めたのが30年近く前のNASAのハンセンによるものであった事(1989年米議会上院での証言)を考えれば、ようやくNASAも真実を発表できるようになったのか?といった思いを強くします。


sp84-1


全文はご自分で読んで頂くとして、ここではその背景を考えてみたいと思います。

 当然ながら敬愛する武田邦彦氏もすかさずユーチューブで話しておられます。

 嘘をつき続けているのは、気象庁とか政府とかNHK…という事になりそうです。

 まず、この二本を読めば(聴けば)概略は理解できると思いますが、CO2によって地球が温暖化しているなどといった事実上のデマ(NHKが率先してキャンペーンを張ったことを覚えておられると思います)が、その発信源であったNASAから転換が始まっている(始まっていた)という事実を確認して頂きたいと思います。すかさず武田邦彦氏も当然の事としてこの話を扱っておられます。



sp84-2


勿論、武田邦彦氏が“CO2による温暖化と温暖化そのものも間違いと言うより嘘である”としてマスコミで脚光を浴び始めるかなり前から(20006月~既に16年前)、近藤邦明氏と槌田 敦教授は「環境問題を考える」“環境問題の科学的根拠を論じる”というサイトでこの問題を取り上げ続けられており、当方もそのサブ・サイトである「アンビエンテ」に於いて下世話な公共事業を中心に環境問題を論じて来ました。

このため、このCO2温暖化論が原子力産業の存続のために流され続けてきたデマであるという事については十分承知しているつもりです。


sp84-3


この『環境問題を考える』というサイトの管理者である近藤邦明氏は、今も、このHPにおいて、CO2温暖化論に関する反論を書き続けておられますが、そのコラムだけでもあまりにも分量が多すぎますので、その一部をご紹介しておきます。



sp84-4


この外にも数著在りますが、福岡市の不知火書房(0927816962)に直接ご連絡下さい。


ここでは、471116を中抜きでご紹介しておきます。


sp84-5


近藤邦明氏のからはいくらでも引用して下さいとの許可を頂いていますのでコラムの一部をご紹介します。


No.1149 (2016/11/16)トランプ効果について考える その1


人為的CO2地球温暖化仮説の自然科学的な再検討の開始の契機

  米国大統領選挙に対する日本の主要マスコミの総括は、自らの取材能力のなさを棚に上げて、トランプ氏が次期大統領になった事実のほうがおかしいのだと言わんばかりでした。正に噴飯モノです。自らの無能を何らまともに総括できないようです。

  その後もトランプ氏の選挙時の発言、政策は過激であり荒唐無稽なものという際物扱い的に報道し、現実路線に戻ることを期待する、というような基調での報道が目立ちます。

  しかし私はそうではないと考えています。彼の人為的CO2温暖化に対する『でっちあげ』発言は比喩的な意味ではなく、無論暴言ではなく、自然科学的に全く正しい発言です。TPPに対する認識も、彼自身実業家であるわけであり、その経済感覚からして自由で公正な貿易ルールなどというものが存在しない事をよく理解しているからであろうと考えます。

  トランプ氏の移民問題に対する発言や女性蔑視の発言、差別発言については、賛成だというつもりは毛頭ありませんが、白人米国人の多数派の意見をプロの政治家ではない彼が率直に述べただけであり、"political correctness"などと言って表面上だけ取り澄まして建前論ばかりで本音を隠してきたエリート政治家の方がまったくもって胡散臭い存在だと考えます。米国民の多くもそう考えたからこそ、トランプ氏の暴言を聞いても、いや聞いたからこそ『ヒラリーよりも誠実だ』と判断したのではないでしょうか?

  考えてみてください、これ見よがしのレディー・ファーストなど、私は女性蔑視(女性は劣等であるから庇護してやるのだ!)の最たるものだと思います。あるいは、米国内で相変わらず繰り返される黒人やヒスパニックに対する暴力事件、然りです。足元の問題には頬っかぶりして、中国や北朝鮮の人権問題を批判する厚顔無恥さ、これが「political correctness」の正体でしょう。

  最たるものは、例えば9.11を契機に始まったアフガン、イラク、パキスタン、シリアなどで行われている米国による一方的な大量虐殺です。他人種・他民族に対する差別意識、人命軽視の意識がなければ、なぜあれほど残忍なことが出来るでしょうか?殺人にまさる人権侵害などこの世に存在しません。米国人の中には根強いイスラム差別意識があると考えます。

  多くの米国の白人が社会的に認めるのは今でも「アンクル・トム」だけであり、米国に従順なイスラム教徒なのでしょう。トランプ氏の登場で表面上隠されていた差別問題が顕在化したことは、一時的に混乱の激化をもたらすでしょうが、差別問題を本当の解決に向かわせる契機を与えたと考えます。

  だいぶ枕が長くなりました(笑)。日本国内では、あまりにもトランプ氏を貶めるための我田引水的な客観性のない無能な報道が多いことに嫌気が差していましたので・・・。

  本題です。トランプ次期大統領に最も実現してほしい、そして実現可能性の高い公約がでっち上げの人為的CO2地球温暖化仮説に基づくパリ協定からの脱退です。折しもパリ協定発効以降最初の『気候変動枠組条約第22回締約国会議(COP22)』が18日までマラケシュで開催されていますが、合わせてパリ協定第一回締約国会議=CMA1も行われています。パリ協定締約国の代表はトランプ氏の発言に一喜一憂しているようです。

  さて、パリ協定は世界の大多数の国と地域が参加を表明しています。またパリ協定が実効性(笑?!)を持つためには大CO2排出国であり、最大のスポンサーである米国の参加が不可欠です。米国以外の締約国は強力にパリ協定からの脱退に反対することになるのは必定です。

  トランプ政権のパリ協定からの離脱を思いとどまらせるためには、人為的CO2地球温暖化をでっち上げと認識しているトランプ氏に対して、これを覆すだけの自然科学的な論拠を示すことが必要です。しかし、これは人為的CO2地球温暖化仮説をでっち上げた気象研究者にとって、実は最も触れたくない部分なのです。彼らは、人為的CO2地球温暖化仮説の脆弱性、もっと端的に言えば自然科学的に誤りであることを知っているだけに、これを白日のもとに晒すような議論は避けたいはずです。おそらく苦肉の策として、米国以外の締約国は人為的CO2地球温暖化仮説の自然科学的な議論ではなく、道義的(笑)な理由を論拠として米国の説得を試みることになるでしょう。

  私は、薄汚い裏表のある政治的駆け引きにまみれていない現実主義者であり実業家であるトランプ氏にこそ、徹底的に人為的CO2地球温暖化仮説の自然科学的な論争を再開する可能性を感じています。米国内には人為的CO2地球温暖化仮説の間違いを主張しているまともな自然科学者は少なくありません。

  トランプ政権は棚上げされている人為的CO2地球温暖化仮説を再び自然科学的な議論の場に引き戻して、自然科学的な妥当性を徹底的に再検証することを指示することによって、自らの主張の正当性を証明する道を選んでほしいと考えます。

追記(2016.11.17

  今朝もNHKのニュース番組でトランプ氏のパリ協定脱退発言に対するCOP22参加者からの批判と残留を促す発言が報道されていました。それに続いて、日本の国家系の研究機関の海洋研究者がIPCCの気温上昇シミュレーションの予測に従えば、海水温の上昇によって日本の太平洋近海のイワシの漁獲が減る危険性があるので、「CO2排出量削減が必要だ!」と述べて(述べさせられて(笑)??)いました。これは最近の人為的CO2地球温暖化関連の主張の典型的なものです。

  この研究者が言う通り、IPCCの予測通りに気温が上昇すれば(?!)、日本近海のイワシの漁獲量が減少することになるのかもしれません。しかし、彼の最終的な主張である「CO2排出量削減が必要だ!」を合理的に導くためには、気温上昇の原因が人為的に放出したCO2の影響であるという因果関係が正しいことを論証する必要があるのです。それを論証しないまま「CO2排出量削減が必要だ!」と主張することは自然科学者の態度として無責任極まりないものです。この研究者が人為的CO2地球温暖化仮説の詳細について承知していないのであれば、あくまでも「海水温の上昇はイワシの漁獲高の減少につながる」という結論に留めるべきです。

  最近の温暖化の脅威を煽る研究や報道の典型は今回の事例のように、気温上昇による将来のマイナスイメージの予測を行い、人為的CO2地球温暖化仮説の自然科学的な論証なしに、いきなり「だからCO2排出量を減らさなければならない」と短絡的に結論に導くやり方です。

  最早、人為的CO2地球温暖化仮説は神聖化(=宗教化)され(笑)、科学的な再検証をすることさえ許されない状況になっているのです。私が最も危惧しているのは、国家や権力の名の下に、一部の利害関係者の思惑によって自然科学が歪められ、大衆が何も疑わない現在の状況です。

  私は、トランプ氏の「人為的CO2地球温暖化でっち上げ発言」が、人為的CO2地球温暖化仮説の自然科学的な妥当性というものが絶対的なものではないのだということを、米国民や多くの人々に思い出させたことだけでも、実に大きな功績であったと考えます。

  私は、米国大統領選の初期においてサンダース氏が最良ではないかと考えていましたが、おそらくサンダース氏では人為的CO2地球温暖化に対して疑義を挟むことはなかったであろうことを考えれば、トランプ氏が最良であったのかもしれないと思っています。


NASAの方向転換は昨年の夏ぐらいからだったと承知していますが、今回、お読み頂く南極の大陸氷河の問題については№.1056が的確でしょう。

スポット084(後) 地球温暖化が嘘である事をNASAが認めた

$
0
0

No.1056 (2015/11/06)連載 再考・地球温暖化論 その15
気温変動と大気中CO2濃度の関係4

 本題に入る前に、最近のトピックスから。


sp84-7


気候変動に関する枠組条約締約国会議COP21を前に、NASAが爆弾発言(笑)という話題です。衛星観測の結果、南極氷床の体積が年間1000t程度増加していることを確認したということです。COPに関わる連中にとっては大変困った発表でしょう。
 今更、そら見たことか!等というつもりはありません。またこの報告に一喜一憂するつもりもありません。結局のところ、リモートセンシングとは非常に大きな不確定要素があり、定量的に信頼できるかどうかわからないということが今回の報告の教訓だと考えています。早くも気象研究者主流からNASAの今回の報告に対して信憑性を疑う発言が続いているようです。バカバカしいことです。
 気象研究者諸君は、巨大コンピュータの仮想空間で遊ぶことをやめて、気象現象に対して真摯に向き合い、CO2温暖化のお祭り騒ぎからは身を引いて、地道な研究に戻るべきでしょう。合掌。

槌田-近藤による分析の概要

 さて、本題に戻ります。Keelingの示したグラフによって、どうやら人為的CO2地球温暖化仮説とは異なり、現在でも気温変動が原因であり、大気中CO2濃度の変動は結果であるらしいことが分かりました。
 ただ、Keelingの研究は、グラフを得るために長期的な傾向を取り除くという恣意的操作の詳細が不明確なこと、その後あまり論理的に進められなかったため、曖昧さを残していました。

 そこで、熱物理学者の槌田敦と私は更に検討を行うことにしました。まずは、Keelingのグラフの追試することから始めることにしました。気象庁による世界平均気温偏差とKeelingによるMauna Loa山におけるCO2濃度の観測値を比較した図を次に示します。

sp84-8


 図を詳しく見ると、気温とCO2濃度の曲線の変動傾向は確かに同期しており、曲線の特徴点の発現は1年程度気温変動が先行することが分かります。

 Keelingのように恣意的なデータ操作をせずに、誰にでも追試できる方法で気温とCO2濃度の変動傾向を比較するために、気温とCO2濃度を示す曲線の時間に対する変化率を比較することにしました。

sp84-9
上図に示すように、Keelingのグラフ同様、まず気温の変化率が変動し、その後1年間程度経過した後のCO2濃度変化率が追随していることが確認できます。
 一方、気温変化率については平均気温に対する偏差を表すために0℃の周辺で変動するのに対して、CO2濃度変化率は1.5ppmの前後で変動しています。これは、大気中CO2濃度が長期的な傾向として年率1.5ppm程度上昇していることを示しています。
 これは何を意味しているのでしょうか?つまり、観測期間の平均的な温度状態では年率1.5ppm程度の大気中CO2濃度の上昇をもたらし、気温が平均気温よりも高くなると1年ほど後の大気中CO2濃度の上昇量が年間1.5ppmよりも大きくなることを示しています。ここから類推できることは、気温変動が大気への1年間当たりのCO2放出量=CO2放出速度を変化させるのではないか、ということです。

 そこで、これを確認するために世界平均気温偏差と大気中CO2濃度変化率の変動傾向を比較することにしました。


sp84-10

図からわかるように、気温とCO2濃度変化率を表す曲線の変動傾向は同期していることが確認できます。両曲線が乖離している部分は、気温以外の現象、例えば1990年前後であればフィリピンのピナツボ火山の大噴火が影響していると考えられます。それでも両曲線の極値などの発現は時間的に同期しています。

現象的には、気温変動と同期している海面水温の変動によって、海洋からのCO2放出速度が大きくなることが主要な原因の一つであると考えられます。
sp84-12

以上から、気温と大気中CO2濃度の関係として、気温とCO2濃度変化率(速度)が同期していること、気温がCO2濃度変化率を変化させる事が分かりました。
 また、大気中CO2濃度の変動が気温変動から1年間程度遅れる理由が明らかになりました。気温やCO2濃度はエルニーニョ/ラニーニャの発現の時間スケールである4年程度の周期で増減しています。CO2濃度は、気温変動と同期しているCO2濃度変化率を積分することによって求められます。周期変動関数を積分することによって位相が1/4周期だけ遅れることが知られています。例えば、コサイン関数を積分すると
∫cos(x)dxsin(x)cos(xπ/2) 

位相がπ/2だけ遅れます。エルニーニョ/ラニーニャの発現周期は4年程度なので、CO2濃度変化率を積分することで求められるCO2濃度は位相が1年間程度の遅れを生じるのです。

気温と大気中CO2濃度変化率が同期することが確認できたので、更にその関係を詳しく調べるために、同じデータに対して気温と大気中CO2濃度変化率の関係を求めるために散布図を作成しました。
sp84-13

散布図の回帰直線から、分析期間において大気中CO2濃度変化率 y は世界平均気温偏差 x に比例し、次の関係にあることが分かりました。

y 2.39x + 1.47 (ppm/年)

つまり、槌田と私の共同研究の結論は以下のとおりです。分析期間において大気中CO2濃度は平均して年率1.47ppm上昇した。
世界平均気温偏差が1上昇することで大気中CO2濃度の上昇量は年率2.39ppmだけ多く上昇する。
世界平均気温偏差が観測期間の平均から約0.6低くなると大気中CO2濃度が定常状態になる。

 この研究の成果は、気象学会員であった槌田によって気象学会誌『天気』に投稿されましたが、気象学会は論文掲載を拒否しました。その後、槌田によって物理学会誌に「原因は気温高、CO2濃度増は結果」(2010年 Vol.65, No.4として報告されました。

 この散布図について、形式的には大気中CO2濃度変化率が気温を変化させると解釈することも出来ます。しかし、現象的に、CO2温暖化仮説のように、CO2濃度が気温を変化させるという可能性はあったとしても、CO2濃度変化率が気温を変化させることは考えられません。
 それに対して、気温が大気中CO2濃度変化率を変化させるという現象は、化学反応速度論に合致するものです。

 槌田と私の研究によって、現在においても大気中CO2濃度と気温の関係は、気温変動が原因であって、大気中CO2濃度は気温変動の結果として変動していることが観測データの分析で明らかになりました。CO2地球温暖化仮説は机上の空論であり、虚像だったのです。
  仮に、万が一CO2地球温暖化仮説が正しかったとしても、大気中CO2濃度に対する人間活動による影響は小さく、たとえ現状でCO2放出をゼロにしたとしても、減らせるのは高々12ppmにも満たない微々たるものであるため、CO2排出量の制限など、温暖化対策として無意味なのです。


sp84-15

によると、
sp84-15

391 2016年真夏の津山の神社探訪 ⑨ “広島県庄原市の蘇羅比古神社 ここにも若宮神社が…”

$
0
0

 

391 2016年真夏の津山の神社探訪 ⑨ “広島県庄原市の蘇羅比古神社ここにも若宮神社が…”

 

20160830 

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

 

 

話は前後しますが、日程上の問題から高速で戻る事にしました。その津山からの帰路、そのまま津山インターから帰るのも勿体無いことから、広島県庄原市まで物部氏の領域を巡行する事にしました。

 

それは、途中でも見たい神社が何社か在ったからです。その一つが、この蘇羅比古神社でした。

391-1


蘇羅比古神社 カーナビ検索 広島県庄原市本村町1292 中国自動車道庄原ICから約15

391-2

 

主祭神は彦火火出見命=山幸彦=ニギハヤヒで良いと思います。

ネット上のHP「延喜式神社の調査」氏によれば、詳しい祭神が掲載されていました。

 


津日高日子穗穗手見命  神倭伊波禮毘古命       

(配祀)

品陀和気尊 倭健命 大倭根子日子賦斗迩命 志那都比古神 志那都比賣神

宇迦之御魂神 大山祇神 手力男神 須佐之男神 奧津比古神 奧津比女神 大国主神 陣具大神

 

祭神「天津日高日子穗穗手見命」は「海幸山幸神話」の山幸彦として知られています。

まず、蘇羅津比古が何かを理解しなければなりません。「日本書紀」一書に「虚空彦」が出て来ます。

 

「虚空彦」 「日本書紀」一書(一)[編集]

兄(え)火酢芹命(ほのすせり)はよく海幸を、弟(おと)の彦火火出見尊はよく山幸を得た。ある時、兄弟はお互いの幸(さち)を取り換えようと思った。そこで兄は弟の幸弓(さちゆみ)を持ち、山に入って獣(しし)を探したが、獣の足跡さえ見つからなかった。弟も兄の幸鉤(さちち)を持ち、海に行って魚を釣ったが、全く釣れず、しかもその釣針を失ってしまった。この時、兄が弟の弓矢を返して自分の釣針を求めると、弟は患(うれ)い、帯びていた横刀で釣針を作り、一箕に山盛りにして兄に渡した。兄はこれを受け取らず、「猶(なお)我が幸鉤を欲す」と言った。そこで彦火火出見尊は、どこを探していいかもわからず、ただ憂え吟うことしか出来ずにいた。

そして海辺に行き、彷徨い嗟嘆(なげ)いていると、一人の長老(おきな)が現れ、自ら塩土老翁と名乗り、「君はこれ誰ぞ。何の故にかここに患(うれ)うるや」と尋ねたので、彦火火出見尊は事情を話した。老翁が袋の中の玄櫛(くろくし)を取り、地面に投げつけると、五百箇竹林(いほつたかはら)と化成った。そこで竹を取り、大目麁籠(おおまあらこ)を作り、火火出見尊(ほほでみ)を籠の中に入れ、海に投げ入れる。あるいは、無目堅間(まなしかたま)(竹の籠)を以ちて浮木(うけき)(浮かぶ木舟)を作り、細い縄で彦火火出見尊を結びつけて沈めたと言う、とある。

すると、海の底に自ずから可怜小汀があり、浜の尋(まにま)進むと、すぐに海神の豊玉彦(とよたまひこ)の宮に辿り着いた。その宮は城闕(かきや)崇(たか)く華(かざ)り、樓(たかどの)臺(うてな)壮(さかり)に麗(うるわ)かった。門の外の井戸のほとりの杜樹(かつらのき)の下に進んで立っていると、一人の美人が現れた。容貌(かたち)世に絶(すぐ)れ、従えていた侍者(まかたち)たちの中から出て来て、玉壼(たまのつぼ)に水を汲もうとして彦火火出見尊を仰ぎ見た。そこで驚いて帰り、その父(かぞ)の神に、「門の前の井の邊の樹の下に一の貴き客(まろうと)有り。骨法(かたち)常に非ず。若し天より降れらばまさに天垢(あまのかわ)有り、地より來たれらばまさに地垢(ちのかわ)有るべし。まことにこれ妙美(うるわ)し。虚空彦(そらつひこ)なる者か」と申し上げた。

 

ウィキペディア(20160830 16:27による

 

この蘇羅比古神社は、山幸が海幸彦から借りた釣り針を無くしワニに乗って海神宮に探しにいった時、豊玉姫が「虚空彦( ソラツヒコ )」と呼んだ記述があることから付されたもののようです。

祭神は山幸彦と神倭伊波禮毘古命とされており、神武僭称崇神ではなく本物の神武天皇とされています。勿論、百嶋神社考古学では天津日高日子穗穗手見命の孫などでは毛頭ないのですが。

391-3

蘇羅比古神社参拝殿

 

主神:津日高日子穗穗手見命  神倭伊波禮毘古命

 配祀:品陀和気尊 倭健命 大倭根子日子賦斗迩命 志那都比古神 志那都比賣神 宇迦之御魂神 大山祇神 手力男神 須佐之男神 奧津比古神 奧津比女神 大国主神 陣具大神

 

391-3

 

同社掲示板

 

 HP「延喜式神社の調査」のデータの内、主神の2柱は神殿内でしょうが、配神13柱の風神社は志那都比古神 志那都比賣神、荒神社は奧津比古神 奧津比女神で、大山神社は大山祇神、八大龍王も境内摂社はあるものの神名としては見当たりません。

 また、若宮社も社殿があるものの祭神としては確認できません。

 ただし、この若宮社も高良玉垂命(藤原により第9代開化天皇とされた九州王朝の大王)と仲哀悼死後の神功皇后との間に産れた仁徳天皇(これも藤原によって第14代とされた)=斯礼賀志命(シレカシノミコト)その人を祀るものと考えられます。

 津山でも上斎原神社の若宮神社、奥津神社の高良神社と九州王朝の残影を確認していますが、この庄原一帯でも同じ傾向が見て取れた事になりそうです。

 邪馬台国畿内説論者などといった利権まみれの愚かな方々は問題外ですが、多少とも古代史を真面目に考えておられる一般の九州王朝論者の方々も少しはこういった事実に目を向けて頂きたいものです。

 

391-4

 

境内摂社若宮社

 

祭神に大倭根子日子賦斗迩命がありますが、大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒコフトニノミコト)とは藤原が第7代とした孝霊天皇の事であり、高良玉垂命の祖父にあたる方になります。

この点からも、この若宮社が高良玉垂命の長男であることが裏付けられるのです。

千数百年を経て、今さらながら、この残影が掻き消されること無く存在している事に驚きを感じます。

今後とも神社探訪は続けざるを得ないようです。好い加減、「古事記」「日本書紀」を金科玉条の如く扱うのをやめて頂きたいものです。

邪馬台国畿内説論者といった愚かな方々はどうでも良いのですが、少なくも真面目に古代を考えておられる方々は早めに見切られた方が良いのではないかと思うものです。

 

391-5

391-6





 

スポット088(1/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について” 

$
0
0

 

スポット088 (1/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について” 

 

20170227

 

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

 太宰府地名研究会では、福岡県、大分県、熊本県において神社、古墳、古代史跡などを巡るトレッキングを行っていますが、遠い県外にもある程度の数の実質的なメンバーがおられます。

 

 改めて百嶋神社考古学の波及力の強さに驚きを感じています。

 

 そうした中、愛知県在住の山田 裕氏が百嶋由一郎神社考古学を意識した古代史に関する小論をお書きになっておられる事を知り投稿を依頼したところ、年頭にはデータを送って頂きました。

 

 原稿はA4版二段組み(文字原稿のみ)によるものでしたが、一部段組みの変更を行うと伴に神代系譜(鳥子系譜)を加えて「ひぼろぎ逍遥」に掲載する事としました。

 

 いずれは、今、準備中の太宰府地名研究会のHPにも掲載したいと考えています。

 

 著者の山田さんは愛媛県にもお住まいであったことから大山祗神社にも造詣が深く、当方としても非常に参考となる一論となっています。当初、「大山祇神社史料が伝える孝霊天皇」として公開の予定でしたが、改訂版では「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 安城市 山田 裕 となっています。

 

sp-

大山祗神社 愛媛県今治市大三島町宮浦

 


 
これ以外にも当会には、北部九州だけにとどまらず百嶋神社考古学に関心を寄せる多くの方が接触を求めてこられています。

 

 勿論、関連する15(現在は13)のblogを読めば用は足りるのですが、直接、泊まり込みでトレッキングに参加され、電話やメールやお手紙などで直接、照会され、また、質問されるばかりではなく、資料をお送り頂く方も増えています。

 

 今回は、トレッキングに参加された山田 裕さんがお書きになった内容が非常に立派であったことから、当方から特にお願いして公開することにしたものです。

 

 このような外部論文を受入れる投稿サイトを別blogとしてスタートさせる事を考えているところですが、文献史学としても水準の高い内容であることから先行して当blogで先行掲載する事としたものです。

 

当方のフィールド・ワーク優先の駄文など及びもつきません。

 

sp88-2

 

大山祇神社 愛媛県今治市大三島町宮浦3327

 

sp88-3

伊予神社 愛媛県伊予郡松前町神崎


なお、神社専門blogの「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」にも後日、掲載予定です(古川)。

 

スポット088(2/8)「「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について”

$
0
0

 スポット088 (2/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について”


百嶋神社考古学から見る古代の伊予国

安城市  山田 裕

はじめに

 古代の伊豫国は、古代から瀬戸内海の要衝で、文化・政治・軍事的交通路として重要な拠点であった。

此の重要な拠点を掌握した政治集団を畿内王権とするのが学会の通説であるが、その時期は以外にも明らかではない。

愛媛県内の神社には多くの神々が祀られ、地域によっては明らかな特徴を示している。

 これらの神々が、いつ何処からやって来たのかさえ明らかではない。

『古事記-島生み神話』は古代の伊予国を「愛比売(えひめ)」と記している。愛媛県はこの「愛比売(えひめ)」という女神を由来としているが、伊豫国との関係は不明である。

本論は、以上の疑問に対して「神社考古学」に60年を捧げた故百嶋由一郎氏が作成された「神々の系図-平成12年考(以下、「神々の系図」と略す)から、新たな視点で古代の伊豫国を考察する。


第一章 古代の伊豫国をいろどる神々

古代の伊豫国で祀られた最も古い神々に関する史料が現存している。それが、大山祇神社に関わる四史料で、面足尊と偟根尊を記録している。この両神について、それぞれの史料から検証を進めたい。

1.「三島宮御鎮座本縁並寶基傳後世記録(以下、「御鎮座本縁」と略す)」

 「七代の天皇日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)、日本国黒田廬戸宮にて天照大神相與に大山積皇大神と祀り給ふ。是れ三島神徳の始めなりと云々。伝に曰く、此の御代、天下穏やかならず、順はざる民多く叛く。茲に因りて、天皇、大巳貴神に盟い、天下平らかに国民順はしめんことを祈り給ふ。大巳貴神夢に告げて曰く、君、天下平らかに国民順はんことを(こいねが)ひ給はば、先ず面足・偟根尊此の二柱の神を祭るべし。是則ち大山積大神なり、と申し教へ給ふ。これに依りて天照大神と相与に祭り給ふと云々。」

  伝承が錯綜し、不明な点はあるものの、要旨は、以下の三点である。

 (1)黒田廬戸宮が何処にあったのかは不明だが、孝霊天皇は天照大神と大山積皇大神を祭祀

 (2)孝霊天皇が国内の乱れに苦慮していた際に、大巳貴神に祈ったところ、同神が夢枕に顕れ、面足・偟根尊を祀るべしと託宣。

 (3面足・偟根尊の二柱とは大山積皇大神である。

  伝承が記す面足・偟根尊、大山積皇大神、大巳貴神について『古事記、以下『記』と略す』、『日本書紀、以下『紀』と略す』から検証すると

 ➀面足・偟根尊

   『記』天神第六代、それぞれが獨リ神

   『紀-神代上第一段一書第六』天神第六代

   『紀-神代上第三段一書第一』天神第三代

 ②大山積皇大神

   『記』

イザナギとイザナミの御子、大山津見の神、妻は鹿屋野比売神、亦の名を野椎の神。

『紀-神代上第五段一書第七』

イザナギが剣でカグツチを三段に斬ったところ大山祇神が生まれる。

『紀-神代上第五段一書第八』

イザナギが剣でカグツチを五段に斬ったところ大山祇神が生まれる。

  ③大巳貴神

『記』

スサノオ六世の孫大国主神、亦の名を大穴牟遅神、芦原色許男命・八千矛神・宇都志国玉神。

『紀-神代上第八段本文』

スサノオと妃奇稲田姫との間に大己貴神が生まれる。

   『紀-神代上第八段一書第一』

スサノオ五世の孫大国主神

  『紀-神代上第八段一書第二』

   スサノオ六世の孫大己貴神

  『紀-神代上第八段一書第六』

   大己貴神、亦の名に大國主神・大物主神・國作大巳貴神・芦原醜男・八千矛神・大國玉神・顕國玉神。

  煩雑を避けるため、以下大己貴神と記す。

 以上の系譜からは、面足尊・偟根尊・大山積皇大神・大己貴神のそれぞれの関係は不明である。

ところで、大山津見の神と大山祇神であるが、大山津見の神は「海の神」、大山祇神は「山の神」とするのが一般的だが、ご神格は相違するものの大山祇神社は「山の神と海の神」が習合する神社であり、本稿では大山津見の神と大山祇神は同一神であるとの前提に立ち、論を進める。

大己貴神の時制について『記紀』は錯綜しているが、時制の鍵となるのが「国譲り」の場面である。

『記紀』ともに、天照大神が大己貴神に「国譲り」を迫り、加えてスサノオは天照大神の弟とする

系譜より、天照大神・スサノオ・大己貴神の三神がほぼ同時代の神であるとこが確かめられる。

また、スサノオの娘スセリ姫が大己貴神の妃であることより、大己貴神が天照大神やスサノオより

も年少の神であることが確かめられる。

『御鎮座本縁』は面足尊・偟根尊を大山積皇大神としているが、その名からも面足尊・偟根尊は一

対の神でないことは明らかで、それぞれ独立神と考えられる。

『記紀』ともに、孝霊天皇の御代に国家が動揺する反乱事件記事は見当たらない。第二代綏靖天皇から第八代孝元天皇までに起こった主要な事件は、「神武天皇の後継を巡り、長兄タギシミミ命が弟のカヌマミミ命(後の綏靖天皇)に弑逆された。」と伝えている。

だが、事件の本質は「目下のものが目上のものを殺す意を表すのが弑逆」であり、国家が動揺する事件ではない。

同史料は、宝歴四年(1754)太祝越智安屋が執筆。原典は三島神社に伝わる『臼杵三島神社記録』

とされるが、真偽は不明である。臼杵三島神社は天応元年(781)に大三島より勧請されたとする由緒を持つ。越智安屋は、編集姿勢について自らの考えに基づいたとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スポット088(3/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について

$
0
0

スポット088 (3/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について


2.『社記』(132 p

「孝霊天皇御宇。天地不和。寒暑失時。五穀不熟、万民愁苦。是以天皇斎戒沐浴、敬祭天神地祇、祈五穀豊穣焉。或夜天皇夢有一神人。訓之曰、天皇若憂國之不治者、宜祭面足尊・偟根尊・大山祇神。必五穀成就。答曰、我是地神大己貴神也。於天皇随夢訓、祭-面足・偟根尊大山祇神於大殿之内。是以風雨順、百穀成、天下平矣。是即當社神徳之初現也。」

  要旨は『御鎮座本縁』とほぼ同じ内容だが、相違するところは以下の二点である。

 (1「天照大神」に代えて「大山祇神」を祀る。

 (2「面足尊・偟根尊の二柱は大山積皇大神ではない。」と否定。

  同書は論理的で、『御鎮座本縁』より一歩進んだ史料と評価できる。天明二年(1782)太祝越智宿祢玉振の執筆による。

3.『年譜考』(156p)

  「人皇第七代 孝霊天皇御宇天地レ和、寒暑失時、五穀不熟万民愁苦む。是以て 天皇斎戒沐浴、敬祭天神地祇玉ふ。或夜 天皇夢に一神人有之、教て曰、天皇若患國之不治者、宜和足彦神・身嶋姫神・大山積神等、必五穀成熟して天下自平らならむ。天皇問曰、如何教は何神や。答曰、我是地神大己貴神也。於是天皇和足大神・身嶋姫神・大山積神等を大和國黒田廬戸宮ニて祭り玉ふ。自是風雨順時、百穀生熟して天下平安なり。如是即当社神徳の現れましし初なり。」

  同書は上記二史料を底本としているものの、大きな相違は「面足尊・偟根尊」に代えて「和足彦神・身嶋姫神」とする点にある。

  この聞きなれない「和足彦神・身嶋姫神」に関する史料が以下の二書である。

 (1)『釈日本紀』所引の「伊豫国風土記逸文」

   「宇知郡(越智郡の誤記)御嶋、座す神の御名は大山積の神、一名は“和太志の大神”也。この神は難波の高津の宮の御宇しめしし天皇(仁徳天皇)の御代に顕れましき。此神百済の国より渡り来して、津の国の御嶋(現大阪府高槻市)に座しき。云々。御嶋と謂ふは津の国の御嶋の名也。」

2)『伊豫旧記編 神祇部』に収められた「大日本南海道伊豫国古神社祭録」明応三年(1494)藤原隆量編纂

   「陽神和太志尊・陰神鹿屋野比賣尊」とある。

この両史料から得られる帰結は、以下のとおりである。

 (3面足尊は“和太志の大神・和足大神・和足彦神・
陽神和太志尊”とも呼ばれ、偟根尊は“身嶋姫神・陰神鹿屋野比賣尊”と呼ばれた。

 (4)和太志尊の「和太志」とは「渡し」の意で、百済(正確には金海伽耶)からの渡来神である。同様に和足彦神の「和足」とは「渡り」の意である。したがって、和足彦神と和太志尊は同一神である。

 (5身嶋姫神は陰神鹿屋野比賣尊と同一神である。

  同書の執筆者は不明で、明治四年ごろの成立とされている。 

 以上、三史料の出典は『大山祇神社史料・縁起・由緒-國学院大學日本文化研究所編集平成

12年発行』による。

4.『伊予三島縁起』(『続群書類従第三輯下神祇部595596p

  「三國佛神無非彼孫

    天神第六代面足尊・偟根尊末孫代々異國敵誅伐目録

  端政二歴庚戌 自天雨降(あまくだり)給。八代孝元天皇位。此御代東海道発立。從異國責日本。代々面足尊依末孫

御合力給也。伊勢天照大神御祖父也。人王九代開化天皇位。同四十八年従異國朝渡。同朝敵亡。

十代崇神天王位。山陽道初立。國々社初。此代熊野宮天降給云。面足尊御子也。熊野兩所権現云。

春日月號两所権現。西御前伊弉諾。中御前伊弉冉尊也。是两所天照大御神御父母也。(後略)」

同史料は日本語漢文であるものの、内容の難解さ故か、一般的には知名度の低い史料である。難

解部分に絞って、逐条的に解説を試みると

1)端政二歴庚戌自天雨降給 八代孝元天皇位。

「端政」年号は、「ニ中歴・海東諸国記・襲国偽僭考」等に記録されている「古代逸年号」の一つ、あるいは故古田武彦氏が『失われた九州王朝-ミネルヴァ書房』で主張された「九州年号」の一つで、同年は「崇峻天皇三年、西暦590年」に相当する。

「雨降」は「あまくだり」の読みが付されている。神社の縁起類にはしばしばみられる用例である。

 (2)「春日月號两所権現」

    「春日月」は管見に見えないが、「兩所権現」は、「熊野那智大社・熊野速玉大社」を指すと考えられる。この両大社の主祭神は西御前に祀られ、熊野那智大社は「熊野夫須美神」、熊野速玉大社は「熊野速玉神」を祀っている。前者をイザナミ、後者をイザナギとし、熊野本宮大社の主祭神は「家都美御子神」でスサノオに比定されている。

    故百嶋氏は「熊野夫須美神はイザナミ」「熊野速玉神は大幡主」「家都美御子神はイワナガ姫」と指摘されている。

『熊野権現垂迹縁起』によると

「唐の天台山の王子信(王子晋、天台山の地主神)が、日本の鎮西の日子の山峯(英彦山)に天降り、その後伊予国の石鎚の峯(石鎚山)・淡路国の遊鶴羽の峰(諭鶴羽山)を経て紀伊国牟婁に渡られ、熊野新宮の南の神蔵の峯に天降られた。その後、新宮の東の阿須加の社の北、石淵の谷に勧請し奉った。初めは結玉家津美御子と申した。二宇の社であった。それから13年が過ぎ、壬午の年、本宮大湯原(大斎(おおゆの)(はら))の一位木の三本の梢に三枚の月形に天降られた。(後略)」

この三枚の月形とは、「三日月」を指すと考えられ、弓弦の両端は兩所権現となる。すなわち、「春日月」とは「三日月」を比喩的に表現したと考えられる。


スポット088(4/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について” 

$
0
0

スポット088 (4/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について” 



5.「神々の系図」

  上記史料の疑問を解明する手掛かりとして、同系図を検証すると

 (1)面足尊

    面足尊は初期九州王朝親衛隊長で鉱山の神金鑚大神こと瀛氏注1の総大将金山彦。最初の妻は大山祇神の姉大市(おち)の姫、御子には神武天皇の后アイラツ姫(『記』の阿比良比売、『紀』では吾平津媛)、二番目の妻は草野(かやの)姫(亦の名埴安姫)、御子には櫛稲田媛(瀬織津姫)がある。

 (2)偟根尊

偟根尊は草野姫。白族注2の王白川伯王の娘、姉玉依姫は神武天皇の御母、兄は大幡主。最初の夫金山彦と別れた後、大山祇神と再婚し、御子には神大市姫・大己貴神・木花サクヤ姫がある。

 (3)大山祇神

亦の名を月読命、越智族の祖。父は金海伽耶の総大将金越智。日本名はウマシアシカビヒコチ(『記』は天神四代宇摩志阿斯訶備比古遅の神、『紀-神代上第一弾一書第一』では、天神初代可美葦牙彦舅尊と表記)、母は天之御中主(亦の名を白山姫・『記』が記す菊理姫・国常立尊)。姉に大市の姫。妻草野姫との間に神大市の姫(亦の名を(みず)象女(はのめ)、『記』は大山祇神の御子とある)、大己貴神(大出世した時の名は大国主)、木花サクヤ姫(『記』は木花佐久夜毘売、『紀』では木花開耶姫と表記、瓊瓊杵尊の妃)がある。

(4)大己貴神

金山彦の後継者で、中期九州王朝親衛隊長となる。最初の妻はスセリ姫、亦の名を(おき)津島(つしま)(ひめ)、市杵島姫(『記』は須勢理毘売命、須世理毘売命と表記)、御子に下照姫、二番目の妻は豊玉彦の娘豊玉姫。大出世を遂げた後の称え名が大国主命。


以上のデータから、以下の帰結が得られる。

 ・面足尊は初期九州王朝の親衛隊長金山彦。卑弥呼とほぼ同世代で、二番目の妻草野姫(亦の名埴安姫)と共に3世紀半ばごろに伊予へ進出したと考えられる。

偟根命は大己貴神の母、草野姫

初期九州王朝親衛隊長金山彦の後継者が大己貴神

陽神和太志尊は大山祇神。金海伽耶の王金越智(日本名はウマシアシカビヒコチ)と共に日本列島に渡った渡来神。卑弥呼とほぼ同世代で、主人筋である最初の妻草野姫に従い、伊予へ進出したと考えられる。

陰神鹿屋野比賣は草野姫

なお、『伊予三島縁起』に「十代崇神天皇の御代に、熊野宮に天降りされたのが面足尊の御子」と

記されているが、「神々の系図」を検証すると「面足尊の後継者大己貴神」と考えられる。

 最後に、大山祇神社の最も古い神事に「毎年1月7日に行われる生土(しょうど)(さい)」を紹介する。

 同神事は「安神山」の赤土拝戴神事を斎行し、「御串山」の榊枝と共にお迎えする神事で、神前に清められた赤土を献供し、宮司以下全員が額に赤土の神印を拝戴し、続いて串木を持ち、素朴な楽を鼓に和して奏する神事が伝えられている。

「生土祭」の根幹をなすのが「赤土すなわち埴」であり、「草野姫、亦の名埴安姫」が同祭の信仰対象であったと考えられる。


注1 (いん)()(中国→日本列島)

     イスラエル系黎族の大将金山彦の中国時代の姓「瀛」を名乗る氏族。徐福伝説で名高い徐福の姓「徐」は、『元和姓纂(当の元和7年(812)林宝によって編纂された姓氏辞典)』によると徐は「瀛姓」、伯益(堯・舜・禹の三代に仕えた賢臣)の裔とある。 司馬遷の『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝(在位紀元前246221年)の命を受け、徐福は不老不死の薬を求めて東方に船出し「平原広沢」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。「瀛州」は後に日本を指す名となった。


注2 白族(雲南省→海南島→琉球列島→九州)

モーゼ以前のヘブライ人で、イラン・インドを経て中国に渡り、黎族とも呼ばれた。白族の王は、代々、白川

    伯王を名乗り、紀元前後に日本へ移住

その後、「奴の国王」「刺国大神(太政大臣)」とも呼ばれ、後継者である大幡主は博多の櫛田神社の主祭神とし

て祀られている。福岡市博多区の「大博通り」にその名をとどめている。


注3 越智族(朝鮮半島→壱岐→九州)

  朝鮮半島の南部から中部にかけてあった金海伽耶国を支配していたトルコ系匈奴の一族を指す。3世紀初め頃に同国の王、金越智(日本名ウマシアシカビヒコチ)が息子である大山祇神(亦の名月読命)と共に日本へ移住。大山祇神は日本における越智族の祖となった。

なお、壱岐島の月読神社には、馬上にまたがり、太刀を佩いた月読命の絵が奉納されている。また、『皇太神宮儀式帳』に「月讀命。御形ハ馬ニ乗ル男ノ形。紫ノ御衣ヲ着、金作ノ太刀ヲ佩キタマフ」とあり、馬上の姿は匈奴を彷彿とさせる。

松山市東部に接する東温市牛渕の浮嶋神社に大山祇神の父「可美葦牙彦(うましあしかびひこ)()尊」が主祭神として祀られている。同神を祭る神社は極めて少なく、大山祇神と共に伊予に同行したと考えられる。


sp88-3

スポット088(5/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について” 

$
0
0

スポット088 (5/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について” 


第二章 『御鎮座本縁』が記す第七代孝霊天皇の御代に起こった国内の動乱
『社記』、『年譜考』は、「孝霊天皇の御代に天候不順による五穀が実らず万民が愁い苦しんでいるのを哀れみ、斎戒沐浴して天神地祇に祈った。」としているが、『御鎮座本縁』は、「天下穏やかならず、順はざる民多く叛く。茲に因りて、天皇、大己貴神に盟ひ、天下平らかに国民順はしめんことを祈り給ふ。云々」とある。

この国内動乱について、『記紀』に該当する記事はなく、『魏志』倭人伝は倭国の動乱記事を記述している。また故百嶋由一郎氏は講演会の中で、倭国の動乱について言及している。

『魏志』倭人伝並びに故百嶋氏の講演録から、倭国の動乱を検証すると

1.『魏志』倭人伝(『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 石原道博編訳岩波文庫』)

(1)倭国乱れる

「その国、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年。」

故古田武彦氏は『邪馬一国への道標―角川文庫81p~82p』で、「暦年」の用例を調査して、「暦年」とは、おおよそのところ、“七、八年くらいの間”とし、また戦乱の時期を魏代(後漢の滅亡、220年)内のこととしている。

?戦乱期間(暦年)-?「即位~遣使」期間-③遣使(景初二年、238)

   ②の期間を“それほど長い期間ではない”としている。

   故古田氏の説に従い、?の期間はおおよそ3年ほどとすると?の期間は

238年-3年=235年

235年から7年~8年以前、すなわち227・228年~235年ごろと推測される。

(2)狗奴國との闘い

   「その八年(正始八年、247)、太守王?官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を爲りてこれを告諭した。卑彌呼以て死す。」

卑彌呼の死因とその時期は明らかでないが、おそらく、国を治められないことを恥じ、かつ狗奴国との和平実現ために自ら死を選んだと考えられる。その時期は正始八年から一年以内、247~248年と考えられる。

3.卑彌呼死後、男王が立ったもののさらに戦乱が広がる。

   「卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず、更々相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。」

卑弥呼の宗女壱与が王となった年は、文面からは明らかではないが、『晋書』巻九七 四夷伝・倭人条の下線部を引用して、「泰始初」を泰始元年(266)とし、壱与が魏の後継国である晋に貢献したとする説がある。

「宣帝之時平公孫民也其女王遣使帯方朝見其後貢聘不絶及文帝作相又數至泰始初遣使重譯入貢」

西晋は司馬炎によって建てられた王朝(265~316年)で、「宣帝・文帝」は司馬炎によって、追諡された「帝号」であり、正しくは倭国から魏への朝貢記事である。「泰始初」の記事には、女王の記述がないので、壱与の即位年代は不明である。

「宗女」とは、本流の血筋をひく女性と考えられるが、卑弥呼は独身なので子がいるはずもなく、男弟王あるいは男弟王の子供の直系女子が該当すると考えられる。

2.「神々の系図」

同系図や故百嶋氏の講演録によると、

(1)倭国乱れる

   故百嶋氏は『魏志』倭人伝記事について、何十年かのことをごちゃまぜにして圧縮して書いているので、そのまま信じると間違えてしまうと述べられている。「倭国乱れる」の実態は、神武天皇に対して反乱を起こしたのが長髄彦で、この反乱を早期に終息させた功労者を阿蘇「多氏注1」の統領草部(くさかべ)吉見(よしみ)神(亦の名天忍穂耳命・天児屋根命・級長津彦・大年神・安日彦・海幸彦など多数)としている。

   「神々の系図」による長髄彦の父は、(そく)注2のイザナギと瀛氏のイザナミ(金山彦の妹)との間に生まれたのが、天日(あめのひ)(ぼこの)(みこと)(日本名スサノオ)である。スサノオは朝鮮半島から九州へ進出し、櫛稲田姫(金山彦の妹)という高貴な女神との間に生まれたのが長髄彦(ながすねひこ)(亦の名(ふなと)神)である。

*注1 「(おほ)氏」 (海南島→台湾→日本)

  皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井命の後裔とされるが、確実なことは不明。(Wikipediaより)

 故百嶋氏は、「多氏」は雲南省麗江のヘブライ系黎族の王多将軍の一族としている。彼らは海南島から台湾を経て紀元前後に南九州に上陸。初代「多氏」統領は神沼河耳命(贈綏靖天皇)、第二代は草部吉見(贈孝昭天皇)。神八井耳命(贈安寧天皇)は「多氏」の庶流と故百嶋氏は指摘されている。

*注2 「(そく)氏」(新羅→日本)

新羅第四代の王脱解尼師今(在位年代5780年)。『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀によると、倭国の東北一千里のところにある多婆那国の出身

2)狗奴国との闘い

   長髄彦の乱の終結後、ほどなくして発生したのが狗奴国の乱で、首謀者は越智族の祖大山祇神で、この乱を終息に導いた功労者も草部吉見神(亦の名海幸彦)としている。乱の首謀者である大山祇神の息子である大己貴神は責任を問われる立場にあったが、不問に付されたようである。

大山祇神は九州を去り、大三島へ渡ったと考えられる。

3)卑弥呼死後に起こった戦乱

第二代の懿徳天皇の后天豊津姫を略奪したのが阿蘇「多氏」庶流の()(ぎし)(みみの)(みこと)(亦の名建盤龍命)である。天豊津姫は略奪された後の変名が阿蘇津姫で、父は阿蘇「多氏」の統領草部吉見、母は高木大神の娘拷幡千々姫(たくはたちぢひめ)で、高貴な女神にふさわしい系譜を有している。

阿蘇津姫を担いで手研耳命は各地で暴れまわり、懿徳天皇は重なる大失態を恥じて退位したか、あるいは失意のうちに亡くなったのかは不明だが、後継者の孝霊天皇の御代にあっても事態は改善されなかった。

茲で事態収拾の労をとったのが、春日大神(=草部吉見神)で、阿蘇津姫を取り戻し、豊玉彦と娶せ、それぞれ寒川彦、寒川姫に変名された。

 (4)小結

    『御鎮座本縁』が記す孝霊天皇の御代に起こった国内動乱の真相は、手研耳命と阿蘇津姫によって引き起こされた暴動であると考えられる。

スポット088(6/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について”

$
0
0

スポット088 (6/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について”


第三章 『御鎮座本縁』、『社記』、『年譜考』からみる古代の伊予

1.『御鎮座本縁』

 「八代日本根子国牽天皇(孝元天皇)御宇、彦狭男命、神託に依りて、大山積皇大神を伊豫国遠土宮(1)り給ふ時に、二名国分彦2参り会へり。親王の問ひて曰く、汝は何と云ふ人ぞ、答へて曰く、吾れ伊予津日子の風早国分彦命2)と申す。吾は元大山積のなり。君、二名州3)を治め給ひて(中略)庶幾(ねがはく)は汝と与に家を合はせ、國を治めんと思ふと(のたま)ひて、國分姫を妻として小千命を生み給ふと云々。」

1遠土宮(おちのみや)

  同宮は、越智族を称えた通り名と考えられる。

2)二名国分彦

   二名国分彦こと風早国分彦は、自らの来歴を伊予津日子の末、大山積の裔と称している。「末」は直系の子孫、「裔」は血筋をひくの意である。

3二名州(ふたなのくに)

  同国が何処にあるかは不明。

2.『社記』

「十代崇神天皇御宇七庚寅年春二月(中略)

天皇問曰、其面足・偟根尊・大山祇神、宮殿在何處耶。答曰、在二名洲()之内滄海四周可怜三島之小汀矣。(中略)彦五十狭芹命發路到吉備國、藎誅西国荒戎。又師船師吉備小島而到二名州、風早浦起行宮以居之。是謂遠地宮2今在于風早浦國津彦神社(中略)五十狭芹命見問曰、汝誰也。對曰、臣是地神大山祇裔伊豫津彦子名風早國分彦。(中略)彦五十狭芹命甚悦日、汝庶幾爲戮力、一心祭大神能理國耶。對日、奉仕矣。由以國分彦導入戸之浦、敬-祭三島大神。然後歸于風早浦、建宮室而留住。且敬-祭太神。遂娶國分彦女和気姫妃、生小千命書曰、以國分彦國導南國荒戎。然後館造伊豫神崎郷住給布。故號伊豫皇子3)(中略)同御宇(十代崇神天皇)十七庚子年夏、以彦五十狭芹命男小千命(4)

名國造而爲三島太神祭主。于時年七歳。及長造二館於當國大濱郷住焉。是越智始祖也。」

  下線部について、

 (1二名州(ふたなのくに)

  船で吉備の小島(現在の児島半島)を出発し、二名州に到着したとあり、現地の地名、風早浦・瀬戸之浦より、大三島周辺が二名州と考えらえる。

2)遠地宮

二名州内の大三島の狭小な波打ち際に立地。

   遠地宮を注で、「今風早浦の國津彦神社」とあるが、同社は旧北条市内にあり、大三島とは隔絶し、加えてご祭神に大山祇神・草野姫・大己貴が祀られていないので、混乱した記事と考えられる。

風早浦を遠地宮とする論者もいるが、彦五十狭芹彦命こと孝霊天皇第三皇子吉備津彦が風早浦に帰って、自らの宮室を建てたとするのが素直な解釈である。

3)風早國分彦

    本文は、伊豫津彦の子で、五十狭芹命の与力として仕えるとあるが、一書には、国を導き、南国の荒戎を平定し、その後、伊豫神崎郷に館を建て、居住したことにより、伊豫皇子と名付けられるとある。 

伊豫郡神崎郷は現在の伊予郡松前(まさき)町周辺で、大三島とは隔絶し、風早國分彦と伊豫皇子を混同した記事と考えられる。

 (4)小千命

崇神天皇十七年に、七歳で二名国造を賜り、また三島大神の祭主となり、長ずるに及び、大濱郷に館を建て、其処に住んだとあり、越智族の始祖とされている。今治市大浜町の大浜八幡神社は「越智氏族発祥の地」と伝えられている。

小千命はその名が示す通り、越智族の祖大山祇神の系譜につながる人物と考えられ、風早國分彦との関係は不明である。

*下線部大浜八幡神社

主祭神:乎致命

配祭神:饒速日命・天道日女命・市杵島姫命・仲哀・応神天皇など

由緒によれば、「乎致命、東予地方を開拓し、郷土繁栄の基礎を築いた神で、越智・河野・矢野・村上氏等百有余氏の祖」とある。

3.『年譜考』

  「十代崇神天皇御宇、天皇神教を得て天神地祇を敬祭り玉ひ、同拾年十月丙子曰、孝霊天皇第三皇子彦佐男命1)を以て西南道将軍と為し、又依神託、詔して二名州2)所在三嶋大神の祭主となし玉ふ。此時西寇乱をなす。彦狭男命卒兵て吉備国至り尽く誅之。(中略)時に有一老人、其前詣、彦佐男命見問曰く、汝誰や。対曰、臣是地神大山積神之裔、伊予津彦子、名は風早国分彦3)ともふす。(中略)宮殿を建て留り住玉ひ、国分彦女和気姫を妻と為し、小千命生玉ふと云々。越智小千後作。(中略)同御宇十八辛丑年夏、詔して小千命を以て封伊予國造、三嶋大神の祭主4となし玉ふ。」

  下線部の要旨について

 (1)孝霊天皇第三皇子彦佐男命

    孝霊天皇の第三皇子について、『記』は、母が意富夜麻登玖邇阿礼比売の命で比古伊佐勢理?古の命、亦の名は大吉備津日子の命、『紀』では、母がハエイロネで彦狭嶋命・稚武命とし、吉備臣の始祖としている。

    彦佐男命を西南道将軍と記している点について検証すると、中国の史書『魏志』倭人伝、『後漢書』倭伝、『翰苑』巻三十、『梁書』巻五四諸夷伝・倭はいずれも行路記事から、倭人の国「倭国」は九州内を示している。狭義には福岡県内であることは前述した。九州から見て、吉備国への道路を西南道とするのは首をかしげざるを得ない。「倭国」を大和に見立てたとしても山陽道が相応しい。

筆者は『紀』との整合性を図るため、「西南道」という造語を用いた考えられる。

 (2)二名州

   『「記」の島生み神話に現在の四国を「伊豫の二名島」とし、伊予の国を「愛比売」としている。

彦狭男命の行動領域は、大三島周辺である。したがって、吉備津彦が統治支配したとする二名州はその行動領域に一致する考えられる。

大三島周辺とする二名州ふたなのくには、吉備国と比較するとあまりにも狭小地域で、彦佐男命が統治支配する国としては不釣り合の感をそぐえない。また伝承を矮小化するおそれもある。

そのため、二名州ふたなのくにの地を誇大化する必要に迫られ、引用されたのが『記紀』が記す「島生み神話」で、本来の大三島周辺に代えて、四国全体を表象する「伊予之二名州・伊豫二名州」を引用したとする論者もいる。

私見は、古代の伊予の国は「愛比売」と呼ばれ、後に「越智と伊余」という二つの国に分離したと考える。したがって、「二名州」は本来の国名ではなく「越智・伊余」両国をと考える。

 (3)風早国分彦

    大山積神の裔で伊予津彦の子とあるが、その名が示す通り、「風早」は旧北条市周辺で、國津彦神社の由緒には大山積神との関係が見いだせない。また伊予津彦を祀る神社は、風早國分彦を祀っていないし、由緒にもみえない。

 (4)小千命

    初代伊予國造とあるが、『先代旧事本紀-国造紀』にその名はみえない。

Viewing all 723 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>