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スポット088(7/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について”

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スポット088 (7/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について”


4.「神々の系図」

   孝霊天皇の第三皇子を『御鎮座本縁』が彦狭男命、『社記』が彦五十芹命、『年譜考』が彦佐男命とし、微妙に相違している。

「神々の系図」によれば、孝霊天皇の第一王子は孝元天皇、第二皇子は伊予皇子、第三皇子は桃太郎と崇められた吉備津彦、第四皇子は吉備武彦としている。

他方、『記紀』はそれぞれ日子刺肩別の命、彦五十狭芹命と記している。

『社記』が記す彦五十芹命は孝霊天皇の第二皇子である伊予皇子を指し、『御鎮座本縁』、『年譜考』は孝霊天皇の第三皇子吉備津彦を指していることが確かめられる。


第四章 『先代旧事本紀訓註-国造本紀 大野七三校訂編集』(60p)からみる伊予の古代

 同書は平安時代初期に撰せられ、伊予国は五か国に分割されている。

・小市國造

  応神天皇御代、物部連同祖大卿川命孫子到命

・伊余國造

成務天皇御代、因幡國造(彦坐王兒彦多都命)同祖敷桁波命兒速後上命

・久味國造

応神天皇御代、神祝尊十三世孫伊與主命

 ・怒麻國造

   神功皇后御代、阿波國造(高皇産霊尊九世孫千波足尼)同祖飽速玉命三世孫若彌尾命

 ・風早國造

   応神天皇御代、物部連祖伊香色男命四世孫阿佐利 

小千(越智)國は越智族の祖大山祇神から始まり、代々越智氏がその系譜を継いだ国、同様に伊余國も孝霊天皇の第二皇子伊予皇子から始まり、代々伊予皇子の系譜を継いだ国と考えられる。怒麻・風早・久味国造の系譜はあまりにも長い時間が経過しており、本当のところはよくわからない。

 以上の五か国は、愛媛県北部・東部・中部に立地し、越智・伊余国が成立した後に、越智国から分離独立したのが怒麻・風早国、伊余国から分離独立したのが久味国と考えられる。

越智・伊余両国の成立は、大山祇神社に関わる三史料より、3世紀末~4世紀初めごろと推測される。

 「国造」制の成立時期は、5世紀初めから7世紀初め頃とする諸説があり、定説は今日まで定まっていないのが現状である。

『和名類聚抄』(平安時代中期の承平年間(931938年)勤子内親王の求めに応じて、源順が編纂した辞書。)によると、伊予国には以下の14郡が置かれていた。

宇摩郡・新居郡・周敷(すふ)郡・桑村郡・越智郡(大三島、伯方島、大島を含む)・野間(濃満)郡・風早郡・和気郡・温泉郡・久米郡・伊予郡・浮穴郡・喜多郡・宇和郡

上記の五か国に対応する郡は、以下のように考えられる。

小千國=越智郡

伊余國=伊予郡

久味郡=久米郡

怒麻國=野間(濃万)郡

風早國=風早郡

いずれも愛媛県の東予地方・中予地方に偏在し、南予地方には国がみられない。さらに不思議なのは、東予地方の宇摩郡・新居郡・桑村郡も同様に国がみられない。次に、各郡で祀られた神々を探りたい。

第五章 各郡が祀る神々

14郡内のうち、宇和郡を除く各郡の一宮及び主要な式内社(尊敬するブログ”玄松子”を中心に

作成)が祀る神々を探ると

表1.各郡が祀る神々


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注)赤字は主祭神

1に掲げる神々のうち、以下に記す神々を『記紀』『先代旧事本紀』並びに神社誌、故百嶋由一郎氏が作成された「神々の系図」を参考に探求すると、

1)武國凝別命

『日本書紀-景行天皇紀』では、景行天皇と高田媛との間の皇子。『旧事本紀-天皇本紀』も同様の記述であるが、筑紫水間君の祖とある。「神々の系図」によれば、父は御年神(祖父は志那津彦、祖母は志那津姫)、母は古許牟須姫(祖父ニニギノミコト、祖母木花開耶姫)との間に誕生し、筑紫水沼君の祖・御村別の祖としている。別称磯野神とも呼ばれた。

 (2)天火明命

   「神々の系図」によれば、亦の名を、天児屋根命、天忍骨命、天忍穂耳命、山幸彦、建雷神、経津主神、五十猛神、鹿島大神、級長津彦、饒速日尊等とも呼ばれる。

 (3)國常立神

    『記』は天神六代、『紀』では、天神初代の神。神仏分離令により、各地の妙見社はご祭神を國常立神から天之御中主に改めた。「神々の系図」も天之御中主としている。

 (4)高龗神

    『紀』は、イザナギが迦具土神を斬殺した際に化生した三柱の一つ。『記』では、淤加美神と記す。「龗」は「龍」の古語であり、「闇龗」は「谷間を流れる急流」、「高龗」は「山の上からを流れ出る滝」を意味することから、いずれも<水や雨を司る神>とされている。伊予市双海町の三島神社は「大山積命・雷神・高龗神の三座を祀り、大山祇神社境内摂社の上津社は雷神、下津社は高龗神を祀っているが、いずれも同一神の可能性がうかがえる。「神々の系図」によれば、高龗神を大山祇神としている。 

 (5)五十日足彦(いかたらしひこ)

    『記』は、垂仁天皇と苅羽田刀弁の御子、『紀-垂仁紀』では、垂仁天皇と苅幡戸辺の御子と記されている。五十日足彦を祀る神社は、愛媛県・福井県・新潟県に存在する。上越市三和区の五十君神社はご祭神を五十日帯彦命としているが、『神名帳考證』所引の「越後国式社考」は級長津彦・級長戸彦とし、「北越後風土記節解」は、五十猛神・木種大明神、「頚城郡誌稿』は、五十日足彦命・木種大明神と記している。したがって、五十日足彦は、級長津彦・五十猛彦と同一神であると考えられる。

 (6)伊予豆比古命(=伊予津彦命)

    「神々の系図」によれば、孝霊天皇と皇后細姫との間に誕生した伊予皇子、兄は孝元天皇である。伊予地方に進出したのは、4世紀半ば前後と推測される。伊予津姫命は妃と考えられる。

 


スポット088(8/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について”

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スポット088 (8/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について”


7)愛比女命

    伊余豆彦命神社の主祭神、伊予豆比古命(=孝霊天皇皇第二皇子伊予皇子)は伊予豆比売命(伊予豆比古命の妃)と対応し、また伊與主命と愛比売命が対応する。松前町の伊豫神社の主祭神彦狭男命(=伊予皇子)は伊予津姫命(伊予皇子の妃)と対応し、また日本根子彦太瓊命は細姫命(孝霊天皇の妃)と対応する。伊予市上野の伊豫神社の主祭神月夜見尊(=大山祇神)は愛比賣命(=大山祇神の妃草野姫)と対応する。

したがって、伊與主命は大山祇神であり、愛比売命は妃草野姫と考えられる。

  表1並びに神々の考察により、九州の神々が三世紀初め頃より、古代の伊予国に進出し、在地勢力を習合していった歴史的変遷がみられる。

  第一段階 越智族の進出

   越智族の祖である大山祇神は、妻草野姫を伴い、越智族を率いて大三島、大島・伯方島の島嶼部

を含む東予地方に進出後、中予から南予地方にまで支配を広げ、国名は、草野姫の別称愛比売命

から「愛比売」と称し、その後、国名は「越智」と「伊余」の二つの名で称された。越智族は東

予地方に土着したと考えられる。

  第二段階 天之火明命の進出

   越智族進出後、四半世紀を経て東予地方の西条市周辺に天之火明命が進出したと考えられる。「

神々の系図」によれば、饒速日尊と天火明命は同一神と指摘している。この指摘が正しければ、

風早国の國津彦神社が櫛玉饒速日尊を奉斎しているのは奇異に感じる。本来ならば、天火明命を

奉斎してしかるべきであろう。したがって、物部阿佐利は、饒速日尊の直系の系統を継承してい

るとは考えられない。おそらく、物部阿佐利は土着した職能集団である物部一族の一人であったと考えられる。

第三段階 武國凝別の進出

越智族進出後、半世紀以上を経てニニギノミコトを祖父とする武國凝別が西条市~四国中央市付近に進出。

  第四段階 伊予皇子の進出

   武國凝別の進出後、ほどなく中予に孝霊天皇の第二皇子で、孝元天皇の弟伊予皇子が進出し、松

山市南部・伊予郡松前町・伊予市東部を支配したと考えられる。その時期は4世紀前後と考えられる。

  以上の歴史的変遷の成立の背景には、九州では多くの神々(実態は、各地の王及びその子弟)が

乱立し、新天地を求めざるを得なかったことに起因する。新天地への進出に際し、彼らの部族が経済

的にも自立でき、また移動を可能にする地が古代の伊予国であったと考えられる。


おわりに


故百嶋氏が作成された「神々の系図」の絶対年代は、福岡県那珂川町にある「天之御中主神社」で、天照大神(神武天皇の姉ではあるが、当初は部下として従い、その当時の名は大日孁(おおひるめ)(むち)、神武天皇の政治的しくじりにより、女王となり名を卑弥呼に改め、最後は天照大神として崇められた)の生誕年齢を発見したことにあると述べられている。私も同社を訪れたが、そのような痕跡は認められなかったし、管見も見あたらなかった。

故百嶋氏は、ある程度のところまで公表並びに示唆を与えてくれるものの、周囲への配慮から絶対に秘すべき事項は曖昧にされたままである。

「神々の系図」に記されている多くの神々を中国史書と検討すると、80年の誤差、具体的には約80年古いようである。

年代誤差を別にすると、同系図には一定の信頼性が見てとれるのは私だけではないだろう。

本論は、拙稿『大山祇神社の神々の大系』を大幅に改変した。というのは、松山で過ごした五年間では、数々の謎に迫れなかったからである。

のどに刺さっていた刺が、「神々の系図」によりすっきり取り除けた思いが、本論の動機である。

故百嶋神社考古学を紹介していただいた古川清久氏には、紙面を借りて感謝の意を表したい。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)百嶋由一郎系譜を必要とされる方は直接090-6298-3254090-6298-3254
(古川)まで

392 佐賀県唐津市の鏡山はカカ(蛇)を見る山だった

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 392 佐賀県唐津市の鏡山はカカ(蛇)を見る山だった

20160901

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

以前、ひぼろぎ逍遥 257 日田市の「加々鶴」地名について “「カカ」を「蛇」とする民俗学者吉野裕子説から”に於いて、「カカ」が「蛇」であるという事を日田市の「加々鶴」の例でご紹介しました。

詳しくはそちらを読まれるとして、今回は、佐賀県唐津市に聳える鏡山もこの「カカ」を「蛇」とする類型地名ではないのかという提案をするものです。

 

再掲。257 以下 ひぼろぎ逍遥 

 

号)線の加々鶴バス停386号(現210国道

 

 もう亡くなられて久しいのですが、吉野裕子という民俗学者がおられました。

 その著書の一つに非常に知られた「蛇」があります。

 この論旨を我流に要約すれば、案山子(カカシ)とは田んぼの収穫を荒らすネズミや雀を追い払う蛇を擬製したものであり、「カカシ」の「カカ」が蛇の古語で「シ」は人を意味している。

 それの説明として、正月の「鏡餅」の「カガミ」も「カカ」+「ミ」(巳)であり、蛇がトグロを巻いているものを豊穣のシンボルとし、感謝を表したもの…となり、蛇の一種として「ヤマカガシ」があることも蛇が「カカ」と呼ばれていた痕跡となるのです。以下、ネット上から参考…

 

日本原始の祭りは、蛇神と、これを祀る女性(蛇巫=へびふ)を中心に展開する。
1.女性蛇巫(へびふ)が神蛇と交わること
蛇に見立てられた円錐形の山の神、または蛇の形に似た樹木、蒲葵(ピロウ=ヤシ科の常緑高木)、石柱などの代用神や代用物と交合の擬(もど)きをすること。今も沖縄および南の島々に、祭祀形態として残る
2.神蛇を生むこと
蛇を捕らえてくること
3.蛇を捕らえ、飼養し、祀ること
縄文土器にはたくさんの蛇の文様が登場する。縄文人の蛇に寄せる思いは、次の2点である。これらの相乗効果をもって、蛇を祖先神にまで崇(あが)めていった。
1.その形態が男性のシンボルを連想させること
2.毒蛇・蝮(まむし)などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃で倒す強さ
埴輪の巫女が身につけている連続三角紋、装飾古墳の壁に描かれる連続三角紋・同心円・渦巻紋も、蛇の象徴であると推測される。
稲作の発達につれて弥生人を苦しめたのは、山野に跳梁(ちょうりょう)する野ネズミだった。ネズミの天敵は蛇である。弥生人は、ネズミをとる蛇を「田を守る神」として信仰したと思われる。
日本人は、蛇がトグロを巻いているところを円錐形の山として捉えてきた。それが円錐形の山に対する信仰につながる。三輪山はその名称がすでに神蛇のトグロの輪を意味し、神輪(みわ)山の意がこめられている。

蛇 日本の蛇信仰(吉野裕子著) - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」より

 

 お分かり頂けたでしょうか?  以上、再掲。

 さて、今回は唐津市の鏡山の意味です。

福岡市周辺の方が西に向かうと必ずこの山の下を通られるので鏡山については良くご存じだと思います。

一般的には「鏡山の名前は、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれている」とか、酷い話では観光バスのガイドが言うような「鏡山は屈んでいるから低く見えるが、立ち上がったら本当は高い山なんだ…」といった話までが横行しています。

 

 鏡山(かがみやま)は、佐賀県唐津市にある山である。標高284メートル。

鏡山の名前は、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれている。また、松浦佐用姫(まつらさよひめ)が山頂から大伴狭手彦の船を見送ったという伝説の地であり、佐用姫がそでにつけていた領巾(ひれ)を振りながら見送ったということから、領巾振山(ひれふりやま)の別名でも呼ばれる。

頂上には鏡山神社がある他、愛する人との別れで泣き続け石になった佐用姫の悲恋伝説にちなみ、恋人たちのパワースポットとして佐用姫神社が祀られている。

また、鏡山ができたとき、上を切り取って海に置いたのが高島、その上を切り取ったのが鳥島という言い伝えがある。鏡山と高島はともに台形であり、見た感じの大きさも丁度よいものである。同様に、巨人が鏡山に躓いて転んだため怒り、頂上部を殴り飛ばしたことで高島などが出来たという。

 

 一例ですが、HP風水パワースポット検索 から

 

 以前から、唐津市の鏡山は元より九州島だけでも10以上は簡単に拾える「鏡山」という地名の意味について考えていたのですが、“唐津の鏡山の意味については粗方見当が着いた“と一人ほくそ笑んでいます。

さて、唐津からバイパスで東の福岡方面に向かうと正面に非常に印象的な三角形の山が見えて来ます。

吉野裕子民俗学の延長上に唐津市の鏡山も考えてはいたのですが、その形状から御鏡餅にも、とぐろを巻いた蛇にも見えず、そこで思考中断に陥っていたのですが、今回、もしかしたら東の浮嶽(確認はしていませんが多分浮嶽でしょう)を見る山が鏡山ではないかと考えたのでした。

 つまり鏡山とは、(カカ=蛇+巳)山ではなく、(カカ=蛇が見える)山ではないかと言うのがその意味です。

 話としてはこれだけの事ですが、この話には先行する伏線のような話があったのです。

福岡、佐賀の県境に近い佐賀県の旧三瀬村に鏡神社があります。

 

この鏡神社の境内(参拝殿中央からが鮮やか)から西を見ると、これまた印象的な三角形の山が見えるのです。

数年前にこの神社を訪れた際に、この事に気付き、この鏡神社とは鏡が奉納されたからなどではなく、稲作にまつわる豊穣のシンボルとしての蛇=カカが見える神社が本来の意味ではないかと考えたのでした。

 ある意味でこの伏線があった事からこそ、唐津の鏡山もカカを見る山ではないかという仮説にある程度の確信を持てたのだと思うのです。ただ、この鏡神社についてはそら恐ろしい背景があるのです。

 実は、この旧三瀬村の鏡神社一帯は「法隆寺は移築された」を書かれた米田良三氏の近著「長谷寺考」に於いて500年代の倭国=九州王朝時代の長谷寺の大回廊の橋脚があった場所とされている場所なのです(これについては話が逸れるため、米田良三、長谷寺、三瀬村、源氏物語…などでダブル検索を行ってください)。

 そもそも、長谷の初瀬川の初瀬川が現在も流れている場所であり、古代九州王朝の宮廷文学であった「源氏物語」の舞台である可能性が高い場所なのです。

関心をお持ちの方は、三瀬トンネルを抜け現地をお尋ね下さい。

 

移築前の「倭国」長谷寺の全体像を理解する上で、『長谷寺考:米田良三著』のp136以降を抜粋引用し、以下転載する。

 517年に長谷観音が造られたとの言い伝えが現在の長谷寺にある。素直に観音像が彫刻された年次の伝承と捉えてみよう。

 倭薈(奈良の帝)が吉野ヶ里近辺の奈良京に都を定めたのは514年から522年の寛平年間である。即位は510年であり、即位後の四年間は「やま」と呼ばれた現在の大宰府都城が都である。

514年に奈良(平城)に都を移し、秋には立田川辺に立たれたと思われる。構想を練ること1年、伝承のように彫刻の材料である巨木が存在して彫刻するのに500日程を要したのではなかろうか。

 回廊は彫刻と同時進行で造られた可能性はあるが、観音像の納まる鞘堂である本堂は彫刻が完成してから造り始めたものと思われる。

そして倭国滅亡の672年以降に解体・移築されたのが現在の奈良の長谷寺本堂である。泊瀬観音像のために特別に造られた世界に唯一の建物であり、彫刻も建物も500年代初頭に倭薈(奈良の帝)が造ったものが現存するのだ。

 現在の富士村下合瀬の萬福寺にはおそらく「経蔵」が、三瀬村杠(ゆずりは)の善正寺には「鐘楼」が建っていたと思われる。後者は「尾上の鐘」と呼ばれる名鐘だが、現在は基壇の石垣と向いに松尾と言う地名が残るのみである。

「経蔵」と「鐘楼」は江戸時代の初めに移築されて現在、京都の知恩院にある。

<途中略>

ところで、立田川は泊瀬川に名称が変わる。現在は初瀬川である。『長谷寺縁起』には神河(みわかわ)に川上から宝塔が流れてきて瀬に泊まったので、神(みわ)を改め泊瀬としたと記す。立田川、龍田川、神河(みわかわ)、三輪川、泊瀬川、初瀬川は同一の川である。

 

blog「大和朝廷は、九州「倭国」の【筑紫朝廷と同じ血族・分流 】である。」 から転載

 

その話は置くとして、鏡神社からのオカガミ山をご覧ください。

 

 

鏡神社参拝殿中央から西を望むと三角形の御鏡山が見えるのです

 

 

 

  

 

393 2016年真夏の津山の神社探訪 ⑩ “津山市加茂町の黒木神社”

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393  2016 年真夏の津山の神社探訪 ⑩ “津山市加茂町の黒木神社”

20160902

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 

 

 今回の津山周辺の神社探訪において、どうしても行きたかったのが、かなりの奥地の黒木地区でした。

 

 

岡山県津山市加茂町黒木

 

 その理由は至って簡単で、九州王朝を支えた重要氏族の本拠地が福岡県八女市黒木であり、徐福の一族の定着地の一つであり(これについては百嶋由一郎氏が証言しています)、百嶋翁の御先祖のルーツも同地にあったからです。

 多分、津山市の黒木地区にも何らかの痕跡が確認できるのではないかと考えたのですが、結果はどうだったでしょうか?

それほど凄まじい山奥のと言った集落ではありませんでしたが、雰囲気は八女市の黒木に似ています

 

 ここかから二百段以上の急坂の参道を登ると、小丘に寂れた黒木神社がありました。

 あと十年早ければ、八女の黒木との関連性が掴める情報が入手できたのではないかと思ったのですが、祠の全てが祭神を確認できず非常に残念でした。

 恐らく、八女の黒木の津江神社の分霊、分神が移されていたのではないかと考えるのですが、そう上手い話ばかり転がっているはずもありません。

 このような空振りや失策の連続の中で神代(実は本当の列島の古代史)の真実へのささやかな光が見えて来るものなのです。

津山市加茂町黒木の黒木神社

山上の祠の全てがこのような破れた状態で祭神は全く確認できませんでした

 

津江神社(八女市黒木)

 

【祭神】

 伊邪那岐尊、伊邪那美尊

 【沿革】

 平安時代末期の嘉応元年(1169年)2月、猫尾城(黒木城)初代城主・黒木大蔵大輔源助能(みなもとのすけよし)が創建したと伝わる。

 助能は、後白河法皇(後鳥羽上皇とも)から姓や恩賞を賜るほどの武将であったが、あるとき豊後国の大友氏から疑いをかけられ、豊後国津江荘(現在の大分県日田市中津江村)に幽閉された。「無事に帰還できたら津江宮を黒木で祀る」と誓い、無事帰還した後に津江権現を勧請して津江神社を創建したという。

 【津江神社の大樟】

 津江神社には、創建時に源助能が植えたとされる大樟があり、黒木町のシンボルとなっている。

 樹齢:約800年、樹高:約40m、幹周:約12m

 

 

  

スポット085 皇位継承問題を巡って副島隆彦氏が強烈なアピールを…

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スポット085 皇位継承問題を巡って副島隆彦氏が強烈なアピールを…

20170202

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 

副島隆彦氏激怒!天皇の譲位を巡って、今恐ろしいことが起きている!

2017/01/11 に公開

 

 実質的に、唯一、トランプの大統領選勝利を予測(2016年3~5月には)しておられた敬愛する副島隆彦氏が、現在、天皇の譲位を巡って強烈なメッセジを送っています。

 

詳細についてはユーチューブを選択して「副島隆彦」を検索し、天皇の譲位を巡って、今恐ろしいことが起きている!をクリックされれば良いだけですので、是非、ご自分でもお読み頂きたいと思います。

 私自身は唯物論者の共和主義者ですし、いかなる選挙であろうが一度も投票した事が無い人間ですから、国体がどのように動き動かされているかの真実を知りたいだけなのですが、嘘しか報道しないマスコミに対しては数十年に亘り嫌悪感を持ち続けているところです。

 当然にも、副島隆彦氏の見解には以前から注目しており、今回も、元旦早々に仕組まれた皇室への流れに対して実に正しい分析をされている副島氏のメッセジをご紹介したいと思います。

 さて、副島氏が勇気を持ってキャンペーンを始められた時期に連動して、奇しくも詩人の添田 馨氏(久留米大学の公開講座に於いても九州王朝論の立場から九州王朝の貨幣論を講演されている古代史研究者です)が「天皇陛下<88ビデオメッセージ>の真実」を福岡市の不知火書房から出版されています。

 

全国配本されていますが、店頭で見つけられない場合は、福岡市の不知火書房092-781-6962に直接電話を入れられても購入する事ができます。

 

 かなり複雑で繊細かつ微妙なテーマでしたが、私も一日二日で読ませて頂きました。

 もし、当方の理解が正しければ、副島隆彦氏と添田 馨氏とは政治的立場は違うとしても、現在進行中の政治的動向については両社とも正確な解析、分析を行っておられるように思います。

 私自身は通常言われるところの改憲派でも護憲派でもないことから、というよりも、戦後民主主義自体を擁護する気もなければ、親米右翼に旗を振るような改憲派も軽蔑しており、極端な共和主義からする改憲派とでも言うべきで、既存の範疇には納まっていません。

くれぐれも嘘つきマスコミや政府報道を信じないように…。実際、恐ろしい事が進んでいるようです。

 

 

スポット086 太宰府地名研究会の近況  

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スポット086 太宰府地名研究会の近況

 

20170209 

 

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 

 

現在、太宰府地名研究会が主催する月例のトレッキングへの参加者が増えています。

 

しかも、熊本、大分でもトレッキングが定期的に行える体制が整い始めましたので、単に他人の書いた本を読んだだけの思い込みで議論をして満足している使命感のない無責任な方々ではなく、自らの足で現場を歩き自分の頭を使って考えることができる古代史、神代史への探究者が集まり始めました。

 

さらに、30年間広く西日本の神社を調べてこられた女性とか、40年間筑後の神社を深く調べてこられた方といった本格的な研究者も何人か加わられ、しかも百嶋神社考古学を受入れておられる事から研究会全体としても急速に内容が厚みを増してきたという気がしています。

 

具体的にも、新たに二つのblogが加わり、神社研究に於いてはネット上でも一定の部分を占有しつつあるようです。

 

blog「ひぼろぎ逍遥」を御覧頂いている読者の皆さんはご存じだと思いますが、既に「百嶋神社考古学

 

」の立場で神社研究から神代(実は古代)を探究しようとする多くのblogがリンクされ、相互リンクも進んでいます。

 

後、一つ二つは新規のリンクが進む事から、百嶋神社考古学への関与に多少の差はあるものの、近々にも15のblogがリンクされ、二十人近い研究者、フィールド・ワーカー、神代史(実は古代史)研究者が結集する束が形成されているのです。

 

実のところ、月に一度程度の集まりを、あと十年完全にやったとしても高々100回程度の会合においてそれを続けたとしても、何の研究成果も業績も残すことなく高齢化して潰えてしまうだけの事なのです。

 

しかも、自らの足を動かし自らの頭で考え調べる事もせず、単にテーブルについて他人の話を鵜呑みにするだけでは、他人任せの無責任な体質しか産み出せません。

 

九州王朝の中枢領域と言う列島でも最重要のエリアに居ながら、この体たらく(ちょっと足を延ばせば久留米大学の公開講座=九州王朝論が行われているにも関わらずそれ以上の掘り下げを行わない)では、このまま会を継続しても、後継の研究者も育たず何の価値もないと思いだしたのは、過去十年続けた経験から必然的に理解できた事でした。

 

つまり、他人の研究に依存した烏合の衆からは全く研究者は生まれないのであって、あくまでも研究者とは独立し単独で研究を続ける外部から取り込むしかなかったのでした。

 

結局、研究者とは一人で始め一人で終えるものであり、仮にお願いしたからと言って、右から聴いて左に貫けて行くような人々からは決して研究者は生まれてこない事が分かったのでした。

 

要するに、研究会に集まり言いたいだけの無責任な参加者による緩い体質ではなく、自ら行動する研究者による研究会に体質を強化しなければ、徒労に帰すだけであると感じたのでした。

 

全く異なる世界の議論になるのですが、直ちに「何をなすべきか」「一歩前進二歩後退」「国際主義者メディライオンティ」「党組織論」「ボルシェビキVSメンシェビキ」…といったフレーズが蘇ってきました。

 

これからは研究者による研究会、探索者による研究会、記録者による研究会にしなければ、ただ、時間に流され潰え去ってしまうとの思いを強くしたのでした。

 

研究者とは独立しているからこそ研究者なのであって、群れることなく独立して存在しているのです。

 

このため、「あなた永いからそろそろ発表して貰えませんか?」「互選で決まりましたから何か発表して貰えませんか?」とか言っても、たかだか、当たり障りのない「紀行文」を書くとか、「年表」を整理したり、「神社誌」といった物を持ち出して通説の補足をするのが関の山であり、独自性のある研究は決して産み出せはしないのです。歴史は年表ではないのです。

 

研究者とは群れないからこそ研究者なのであって、時おり訪れる研究者、探索者、分析者を糾合するには、研究者による研究会こそが必要になるのです。

 

 

 

 


 

今般、新たに参加された宮原誠一氏が典型的でしょう。

 

筑後を中心に「久留米藩社方開基」「高良玉垂宮神秘書」…から調査を進めておられますが、既に、“現在の水天宮はうきは市芋川の元宮を消滅させることによって成立した”…といった凄い発表をされておられるなど、既にお伝えした通りです。

 

この「宮原誠一の神社見聞牒」は、同氏が3~40年近く筑後を中心に神社を調べられてきた成果そのものですが、研究会で発表するとか郷土史会や史談会のメンバーになるといった事無く、社会的にも全く評価される事無く単独で神社を調べてこられていたのでした。

 

今後も大量のストックから、地元筑後を中心とする神社リポートが量産されることになると思います。

 

いずれにせよ、このような群れない独自性、独立性、純粋性こそが研究者の資質であって、行政に尾を振って町興し村興しの講演者として採用して貰おうとか、教育委員会に認めてもらい、学芸員に評価して貰いたい…といったさもしい人間の類とは資質が全く異なるのです。

 

このような誘惑に魅かれたハエやゴキブリのような某研究会の3K宮司のような資質からは独自の研究者は決して産まれては来ないのです。

 

 


 

百嶋由一郎神社考古学を受入れられた大分在住の神社研究者によるサイトです。

 

現職にあることからblogの発表本数、月間数本と多くはないのですが、その分力作ばかりで、最新号の佐賀関に鎮座する「早吸日女(はやすひめ)神社」も秀逸と言うべきです。

 

郷土史と神社研究それに百嶋神社考古学に根差した深層を探るサイトとして注目しています。

 

 

 

 


 

「息長氏は秋永氏である。」の顛末記(秋永氏探求から紐解く日本古代史)

 

 

 

こちらも大分県在住の研究者ですが、自らの氏族の研究誌(史)と言うべきものとも思えるのですが、この視点に基づき、通常、気付かない研究が掘り下げられています。

 

 

 

満州~別府出身の秋吉敏子と伴に、大分が誇るジャズピアニストの辛島文雄氏が平成29年2月24日に亡くなりました。わたくしと同じ昭和23年生まれで、音楽好きの、わたくしとしては、寂しい想いで、残念です。しかし、豊前宇島のSPレコード愛好家の辛島氏は健在であります。最新記事をご紹介しましょう。

 

この大分豊後宇佐郡辛島郷発祥と謂われます『辛島=韓島=加羅島=唐島』氏は、息長帯姫(神功皇后)と八幡神(応神)を宇佐神(比咩大神=豊玉姫と玉依姫=記・紀では姉妹として扱われていますが、本当は多祁里比賣命と下照姫の親子と考えられます。百嶋神社考古学では市杵島姫と下照姫の親子に持ち込んだ。と謂われており、辛島氏と息長氏の関係が興味を持たれます。

 

辛島氏はスサノオ(雲南省白族系=新羅系=辰韓系帰化人)にルーツがあり、五十猛命の末裔とも考えられています。

 

実は、わたくしの父の出身地である福岡県久留米市田主丸町以真江地区は、別名があり『唐島』と謂います。バス停も『唐島』と有ります。此処には秋永氏=息長氏(家紋は丸に違い鷹羽)が十数軒程あり、百済25代武寧王は筑紫の各加羅島=唐島で生れたとされ、田主丸『唐島』の息長氏(秋永氏)集落で産まれた事に考えられます。

 

と謂うことは、息長氏(天皇家)と百済王室の関係が認められ、今上天皇の平成13年12月23日=68歳誕生日の記者会見での発言である『百済王室に日本皇室は関係している。』は、正しい考察発言と考えられます。

 

続日本紀では第50代桓武天皇(737年生~806年没)の御母上『高野新笠』(和氏)は武寧王の末裔と記述され、百済25代武寧王の子であります百済第26代聖王が仏教(仏像)を第29代欽明天皇(久留米市斯帰島宮)と蘇我稲目=志賀氏=斯末氏(本拠地は大分市東院~向原~古国分)に勧めた理由と、磐井の乱(磐井が新羅と結んで、天皇家の百済への派兵を妨害した為に第26代継体天皇(息長氏=秋永氏)が物部麁鹿火に命じて磐井を誅した事件)の真相が紐解けました。

 

倭でのスサノオ・大国主命(後に、和邇氏高木神派と組み、スサノオと戦い勝利したものと考えられます。)・神産巣日神・白氏・狗呉・賀茂氏系と、草部吉見・高木神・秦氏・袁氏・和邇氏系、つまり雷神と風神の争いが、馬韓・辰韓・弁韓の韓半島に最新のアイテムで有ります『鉄』を求めて、新羅(白氏=大幡主=スサノオ派)と大伽耶(草部かやべ=阿蘇氏=高木神派)・金官伽耶(大國主命派)を創る結果を生み、やがて伽耶(加羅)=狗邪韓国=倭の西北端の国(後漢書に拠る)は百済に近付き、新羅(白)と対峙する事になります。

 

 

 

この話も興味深いですね。

 

 


 

磯良の海氏も博多の視点から九州王朝、古代史を追求され、異色の詩的な考察を提供して頂いています。

 

今回も、筑前琵琶から橘玄清法院、肥前盲僧、橘一族=大幡主~ヤタガラス九州王朝を意識する小論をお書きになっています。

 

私も玄清法院を追い続けた経験から橘一族と九州王朝との関係、そして、現在もなお、玄洋社の頭山 満の流れを汲むヤタガラス系の地下組織が動いているものと考えています。

 

 

 

金時 の 琵琶

 

  
明治の始め 博多の町に

 

栗山幽斎という 旧黒田藩士が住んでいました

 

黒田二十四騎の筆頭 栗山大膳 の ゆかりの人物かどうかはわかませんが

 

明治3年6月 この旧藩士に 愛くるしいひとり娘が生まれます

 

この親子に その後何があったのかは 定かではありませんが

 

両親が やがて亡くなり ひとり残された 娘は

 

博多の花町の養女となって たくましく 生きていくのでした

 

娘はやがて 妓名 を 《 金 時 》と 名乗ります

 

その 生まれ持った 美貌 と 美声 で 若くして

 

博多の 券番 でも 人気の芸妓の ひとり となりました

 

金時 は 三味線 と 月琴 の名手でした

 

引く手数多の贔屓筋の中で 金時 を射止めたのは

 

博多の富豪 《 加納 熊次郎 》です

  

sp86-12酒造家の 加納熊次郎は 金時の奏でる 月琴を聴きながら

 

その芸才を 誰よりも 理解していましたし

 

その為なら 財を惜しむことはありませんでした

 

金時という名に別れを告げ 《 吉 田 竹 子 》と名乗りました

 

そして 明清楽 や 八雲琴(二弦琴)をも 修めたのでした

 

筑前琵琶

 

尾方蝶嘉さん ホームページより

 

京都におこった 平家琵琶 は 室町以降 100年の間に 全盛期を迎えます

 

その後 戦国の世に入り 仕事を無くした 琵琶法師達 は

 

生活苦のために 京を離れ 多くは 流浪の僧となって

 

西へと 流れて行きました

 

琵琶と云えば 太宰府 四王寺山に 居を構えた

 

筑前琵琶 の 始祖である 玄清法師 は 成就院 を建立し

 

九州盲僧の中興の祖と仰がれたのですが

 

法印の 第九世 寿讃(じゅさん) は 博多の 蔵本町に 成就院を移し

 

〈臨江山 妙音寺〉と 名前を変えます

 

妙音寺 は 西日本の盲僧院坊の触頭として隆盛を続けますが

 

天正末期に兵火により灰塵に帰してしまいます

 

黒田二代藩主 忠之は 福岡城の鬼門除けの霊寺 として

 

藩の祈祷所として 妙音寺 を 再興したのでした

 

博多には 妙音寺 の元で いくつかの 盲僧坊がうまれます

 

妙福坊(橘智定の家祖) 大泉坊(鶴崎賢定の家祖) 観照坊(高野観道の家祖)

 

これらの盲僧達は 「般若心経」や「地鎮経」を 琵琶に弾じたり

 

荒神払いといって 家々を回り 布施でなんとか 命を繋いでいたのですが

 

明治4年 になると 新政府は「盲官廃止令」を発布します

 

この廃止令 は 盲僧の存在が 治安維持や 戸籍編成 の妨げになると

 

考えられたからですが 明治5年 には 「修験禁止令 」も 出され

 

修験道も 禁止されます

 

仏教寺院にとっては 多難の時代の始まりでした。

 

 

 

以下はおなじみですので殊更取上げませんが、最新記事をご紹介しておきます。

 


 

「常陸の国ふしぎ探検隊」 「スピリテュアルヒーラー宮古の縁側日記」「地図を楽しむ」という三つの強力なサイトについては、これまでにも何度も取り上げて来ましたので省略しますが、今回、取上げなかった他のサイトと併せ、百嶋神社考古学と言う九州王朝論の更に深部、深層を探る研究グループは、今後とも、嘘で塗り固められた列島の古代史を探る強力なメスとなっていく事でしょう。

 

今後は空白領域となっている熊本(肥後)のエリアでのblog、HPの確立ですが、今年中にも、若きライターがスタートしてくれるものと考えています(準備中)。

 

既に、グループ全体としては年間百万件のアクセスにも近づくもので、単純に消失してしまう事は無くなったものと考えています。

 

最低でも、神社研究に関して言えば、全国的にも非常に強力な研究グループが形成されたものと理解しています。

 

 

 

 

四月には愛知県在住メンバーの山田氏による「大山祗命」に関する論稿が太宰府地名研究会のHPに掲載できることになりそうですが、山梨の研究者も含め、徐々に茨城県から九州まで全国規模の目の粗いネット・ワークが形成されつつあります。

 

大山祇神社史料が伝える孝霊天皇(安城市 山田 裕)

 

 

 

最低でも、重要な記録を後世に残すためとか後世に伝えたい、誰も気づいていないこの事実を掘り下げたいといった意識性を持った研究者、探訪者、記録者、蒐集者…といった人々による使命感を持った研究者による研究会、連合体をこそ創るべきなのです。

 

会則とか会計報告とか監査がどうのと言った中学校の生徒会丸出しの研究会はただのカラオケ・クラブのような親睦会でしかなく、だからからこそ行政とのタッグが組めるのであり、平然と西ダニ某などが作った通説派のパンフレットを平然と配布し勉強して下さいと言った米搗きバッタの様な真似をする事になるのです。

近々に太宰府地名研究会のHPもスタートします。詳報別稿。

スポット087 今後公開予定の記事一覧

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スポット087 今後公開予定の記事一覧

20170323

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 書ける時に書いておかなければ忘れてしまう場合もある事から、「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」の二本のblogには、今後公開する予定の半年以上を賄う事ができる多くのストックがあります。

 ここで、そのタイトルの一覧を公開しておきます。中には関心をお持ちになるものもあると思います。

 

ひぼろぎ逍遥 381~463

 

ひぼろぎ逍遥(跡宮)Ⅱ 291372

 

  現在、各々月間10本ずつの公開に加えスポット掲載を入れていますので、全体で2530本(月間)掲載ペースになっています。

  このように半年~7、8ケ月のストックがあるのです。請うご期待。

 

394 阿 漕(アコギ) ①

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394 阿 漕(アコギ) ①

20160904

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 

本稿は通説派に堕した久留米地名研究会のHPからバック・アップ(避退)掲載したものです。

 

本稿は2008年12月1日付で久留米地名研究会のHPに公開した「阿 漕(アコギ)」を再掲載するものですが、今の認識で多少のアレンジを加えています。

なお、初稿は引き続き久留米地名研究会のHPにそのまま掲載されています。

 

はじめに

 

伊勢神宮と大和朝廷との間には今なお多くの謎があると言われますが、三重県の津市には“阿漕の浦”(阿漕ケ浦)と呼ばれる浜があります。

本稿はこの「あこぎ」という一つの地名にスポットを当てた民俗学的な小論です。

しかし、これが伊勢神宮の前史を探る一つのきっかけになるのではないか考えており、古代史に想いを巡らせる方にも読んで頂ければと思うものです。

さて、伊勢神宮が現在の地に落ち着くまでには、元伊勢をはじめとしてかなりの前史があることが知られていますが、もしかしたら、この神社も九州から持ち出されたのではないかという疑問が付きまといます。

そういうわけで、本稿は九州の南半分に分布するアコウという印象的な海岸性樹木、阿漕、赤尾、赤木・・・といった地名に関係があり、伊勢の阿漕ケ浦もその一部ではないかという問題に答えようとするものです。

そこで「あこぎ゙」という言葉があります。普通には「あこぎなまね」「あこぎなやつ」などといった使い方がされています。とりあえず『広辞苑』を見てみましょう。

 

「【阿漕あこぎ】(地名『阿漕ヶ浦』の略。古今六帖3『逢ふことを阿漕の島に引く網のたびかさならば人も知りなむ』の歌による①たびかさなること。源平盛衰記(8)『重ねて聞し召す事の有りければこそ阿漕と仰せけめ』②転じて、際限なくむさぼること。また、あつかましいさま。ひどく扱うさま。狂、比丘貞『阿漕やの阿漕やの今のさへ漸と舞うた、もう許してくれさしめ』。)。『阿漕な仕打ち』③能の阿漕。伊勢国阿漕ヶ浦の漁夫が密漁して海に沈められ、地獄で苦しむさまを描く。」

 

 まずは、この“阿漕”というテーマを取り上げた理由を説明しておこうと思います。

 

 

a)釣りとアコウ地名の分布

 

沖縄から北岸を除く九州の海岸部、島嶼部には赤崎(アコザキ)、赤尾木、赤生木(アコオギ)、阿漕(アコギ)、赤尾(アコオ)、赤木(アコギ)、赤木屋(アコギヤ)、赤木名(アコギメ)といった地名が散見されます。私が始めてこの奇妙な海岸地名に遭遇したのは、二〇年以上も前のことでした。 

佐賀県の東松浦半島(東松浦郡肥前町)に魚釣りに行き、大した釣果もないことから、新しい釣場を探して“阿漕”地区に踏み込んだ時でした。

その後も魚釣り(具体的にはサーフのキス釣りや波止からのメジナ=グレ=クロ釣りですが)のために多くの土地を訪ねるようになると、非常に印象的な常緑樹(実際には暴風雨などにより潮水を被った時や年に二度ほど定期的に葉を落としますので半常緑高木とされていますが)をたびたび見かけるようになりました。

具体的には、釣人の多い北部九州を避けて魚釣りと旅とを半々に、佐賀からのんびりと長崎、熊本、鹿児島に南行しているのですが、あまり知られていない漁港の片隅などにアコウ(*)がさりげなく息づいていたのでした。 

長崎では五島を中心に長崎式見、大村湾、壱岐、島原半島などに、熊本では八代、葦北郡内(田ノ浦町の波多島地区ほか)から天草諸島周辺に、鹿児島では本土の阿久根、いちき串木野を中心に薩摩、大隈の両半島に、そのほか大分、宮崎にも目立たない入江などに、それなりの数のアコウが分布していたのです。

このアコウという木の生育領域は、ほぼ、和歌山から九州、四国以南に限定されているために全国にはあまり知られていないかもしれません。

佐賀県唐津市(旧肥前町高串の阿漕地区)

 

しかし、魚釣りや南の海になじみのない向きにも、鹿児島県の桜島にある古里温泉のアコウは知られています。

林芙美子ゆかりの某観光ホテルには錦江湾に面した崖下に大きな混浴露天風呂がありますが、その傍らに樹齢数百年とも思えるアコウが息ずいているのです。

ここでは、実にアコウの根(気根)の中に体を埋め込みながら温泉に入ることができるのです。

話をさらに拡げますが、一〇年前、私はサーフのキス釣に夢中になっていました。

30㎝超級のキスを求めて鹿児島県の内之浦から、天草下島の南に位置する長島、その天草下島(熊本県牛深市鬼貫崎池田)、さらに五島列島などへと大遠征の釣行を重ねていました。

そしてこの大ギスが釣れる静かな入江やその付近の集落には不思議とアコウがあったのです。

今年(二〇〇四年)の三月にも、強風の中、長崎県のウエスト・コースト西彼杵半島の沖に浮かぶニ島、崎戸島-大島に短時間ながら釣行しましたが、2本のアコウの木が生える静かな漁港で久々に尺超級の越冬ギスを手にしました。


 

宮崎県日南海岸の野島神社のアコウ(左)もちろん尺ギスです(右)

 

このようにアコウに興味を持ちアコウを強く意識しはじめると、九州にはかなりの数のアコウがあることに気付いてきますが、この木の一般的な分布域は沖縄が中心とされています。

四国の足摺岬のアコウも観光地のためか比較的知られていますが、本州におけるアコウの分布は和歌山県だけとされているようです。

 

しかし、昔は(非常に大雑把な表現ですが)もっと広い範囲に分布していたのではないかとも想像しています。その理由は極めて単純ですが、アコウに関係があると思える地名がその外側(周辺部)にも分布しているからです。もちろん、背景調査を行うことなく地名だけを根拠にアコウの分布域を想像することは根拠に乏しく違法ですらありますが、兵庫県の“赤穂”や三重県津市の“阿漕”さらに多少内陸部とはいえ仙台市の“赤生木”(鹿児島県の笠沙町=薩摩半島先端の町にもこの赤生木という地名があります)などの地名は、やはりアコウ樹の存在と関係があるのではないかと思うものです。

 

ただし、このような海岸部の地名を考えるときに注意しなければならないことは、海洋民(漁撈民)は非常に移動性が大きく、魚を捕り尽くすとすぐに新たな漁場を求めて移住していく傾向があることです。 

そうして、前に住んでいた地名を新たな土地に付けることがかなりあったようなのです。

このため、単純にアコウが生えているということと、地名とが直接的には結びつかないということもあるのです。

しかし、思考の冒険はさらに広がります。この木の名称はほとんど地方名(呼称)のバリエーションを伴っていません。そしてこの地名の分布が、ほぼ、海岸部に限定されていることから見ると、南方起源の海洋民(漁撈集団)が住みついた地域と考えることも可能であり、これらの集団によって既に確立し普遍性を帯びていたアコウという樹名がそのまま地名にまで高まったのではと考えてしまうのです。

 

b)有明海内部にはなぜアコウがないのか

 

 有明海・不知火海フォーラムの中枢メンバー(当時)である私の立場からしても、多少は有明海との関係を展開すべきでしょう。狭義の有明海(宇土半島三角付近から島原半島布津町付近を結ぶ線の内側)の内部にはアコウの木はないようです。しかし広義の有明海(湯島ラインのさらに外側、天草下島五和町鬼池港から島原半島の口之津町早崎付近を結ぶ線の内側)の外側、口之津町早崎半島先端部にはアコウの群落があります。

また、その線の内側に浮かぶ湯島(熊本県天草郡大矢野町湯島-1637年の島原の乱では農民一揆〔キリシタン?〕側が談合を行ったことから“談合島”の別名があります)にも、やはりアコウの群落があります(湯島小中学校付近)。湯島ラインの内側を有明海と考える向きもありますので、この意味でも文字通り有明海の外側にアコウが存在していることになるのです。

さらに言えば、有明海と不知火海(八代海)を仕切る宇土半島南岸の不知火町にもアコウがありますので、奇妙にも有明海の内側にだけアコウがないことになるのです。

なぜならば、九州西岸で考えれば、それよりも北の長崎県大瀬戸町の松島(松島神社境内)、同じく大島町(大島地区)、前述した佐賀県東松浦郡肥前町(高串地区)、さらに数十キロ北に位置する玄海灘に浮かぶ島、壱岐にもアコウがあるからです。 

植物としてのアコウの性質といったことについては全くの門外漢ですので、“有明海の土壌(例えばシルト層)といったものがアコウに適しているのかどうか”などといったことにはほとんど答えることができません。

しかし、このアコウという木の大半が海岸部に分布していることから考えて、“アコウは海と切り離されては生きていくことができない木なのではないか”ということまでは言えるように思います。

ここで考えるのですが、有明海は他の海と比べて堆積(絶えざる陸化のスピード)が異常に大きい海です。現在のように土壌流出が大きくなかった時代、古代とまでは言わないまでも、戦前においてさえも、それなりのピッチで堆積し続けたために、アコウが育つスピードを上回るペースで陸化が進み、結果、海が後退し、アコウは根付かなかったか、大木まで育たなかったように思えるのです。

ここ数百年という単位で考えれば、干拓工事の資材として(実際には加工しにくいので実用にはならないでしょうが、干拓地には一般的に森が形成されないのです)、または、“燃料に乏しい干拓地の宿命として伐採されてしまったのではないか“と思うのです。

いずれにせよ、仮にアコウが根付いていたとしても、有明海で干拓が始まるようになるとアコウは消えていってしまったのだと思うのです。

かつての干拓地というものは、豊かに見えますが、実は非常に資源に乏しく、水、燃料、建築資材(竹、木材、土、その他)の一切が不足していたのです。佐賀平野の半分以上は干拓地ということも可能であり、よく言われる「佐賀んもんが通ったあとには草も生えん」という県民性も、“全てを資源にせざるを得なかった”この干拓地の欠乏性からもたらされたものかもしれません。

つまり、他人の土地に落ちている棒切れさえも持ち帰って燃料にするとか、引抜かれた草さえも持ちかえって堆肥に変えるといった傾向のことです。

こう考えれば、干拓地内の農耕民と言うものは実に貪欲で全てを肥料や燃料にする傾向があり、この結果アコウが根付く間がなかったとも言えるようです。結局、農耕民とアコウとは共存できないのでしょう。

 

c)有明海を中心に私が見た九州西岸のアコウ分布

 

九州全体のアコウの分布を全て把握することは、ほとんど不可能ですが、私が確認した範囲(当時)で分布の概略を書いておきます。

【佐賀県】

始めに私が住んでいる佐賀県ですが、東松浦郡肥前町(高串地区)以外には知りません。

【長崎県】

壱岐、五島は魚釣りで過去何度となく訪れたところですが、有川を始めとして多くのアコウが確認されます。その他、車で行ける長崎県内のアコウの生息地としては少数ですが平戸市の獅子地区などを中心に平戸の西海岸などに、大村湾の小串地区や日泊郷などに、長崎市西岸の小江の柿泊から大瀬戸にかけても、島原半島の旧口之津町の早崎魚港の巨大群生地を中心に、旧加津佐町、旧南串山町、南有馬町の海岸部に無数のアコウがあります。

【熊本県】

北から、宇土半島の北岸には住吉神社があります(ここも干拓の陸続きになりましたが、百年前には堂々たる有明海に浮かぶかなり大きな島だったのです)。その沖の小島(『枕草子』に登場する「たはれ島」ですが、「島はたはれ島…」)には五年前までアコウの木が生えていました。その後台風で倒れますが、鳥のおかげでそのうち復活することでしょう。

このような小規模なものは別にしても、天草島原の乱で著名な談合島=湯島の小学校にはかなり大きな群生地があります。私は未確認ですので機会があれば見に行きたいと思っています。

宇土半島南岸には不知火海の再生のために環境保護団体によって多くのアコウが人為的に植えられましたが、海岸保全事業の邪魔になるため熊本県は「生態系にそぐわない別種の植物を持ち込むのは環境に良くない」として排除に動いています。多くの外来の新品種、国外産品を農水省に言われるまま無批判に推奨していることは棚上げにしてですが。ただ、結果としてかなりのアコウが増殖しています。

植林とは無関係ですが、八代市の大鼠蔵島に巨大なアコウが数本、それ以外にも干拓地を中心に市街地にも鳥によってかなりのアコウが増殖しています。さらに南に下ると、葦北郡の田浦町、芦北町、津奈木町の海岸部に無数の小木がいたるところに認められます。 

かつては多くの大木があったはずですが、現在それが認められるのは田浦町の隠れ里波多島地区に限られています。

天草にも大木のアコウがあります。一番大きいのは天草上島旧姫戸町の永目のアコウです。これは全国で二番、三番と言われるものですが、私の見たものとしては、これ以上のものが口之津の早崎漁港や鹿児島県の阿久根市の脇本浜や旧串木野市の海岸部にもあるように思うのですが、無論、計測した判断ではありません。その外にも、旧竜ヶ岳周辺、旧松島町、旧大矢野町周辺にも散見されます。上島では旧有明町の無人島黒島に巨木があるとの噂を聞いていますが未だ確認の機会を得ません。下島も旧牛深市の魚貫湾の北岸池田などに相当数認められます。

【鹿児島県】

長島、黒ノ瀬戸あたりからアコウが姿を表し始めます。瀬戸に面した漁港の片隅などにアコウの小木を見つけることができますが、さらに南に向かうと脇本浜にアコウの大木が群れをなしています。現在こそ道路工事や護岸工事で破壊されていますが、ここにはびっくりするようなアコウの巨木があったのです。それを示すかのように多くの切り株が今も残っています。ここから折口浜、阿久根の市街地にも散見されますが、次の群生地は串木野の海士泊周辺になるでしょう。ここにも崖一つを覆い尽くすようなアコウがあります。桜島から垂水にかけても多くのアコウがありますが、象徴的なのは百本のアコウの街路樹です。大隅半島にもまだまだ多くのアコウがありますがこれくらいにしておきましょう。

このように多くのアコウがありますが、これも車で確認できる範囲の話です。船でしか行けないような島や岬にも多くのアコウがあることに疑う余地はありません。

お断りしておきますが、分布はこの程度のもではなく、人知れない岬や島影に多くのアコウが根付いています。

 

d)“阿漕”について作業ノートから

 

“阿漕”という言葉(地名)には、古歌、能(謡曲)の「阿漕」、古浄瑠璃の「あこぎの平冶」、人形浄瑠璃の「勢洲阿漕浦」、御伽草子「阿漕の草子」、西行などの和歌、さらに加えれば、それらを題材にした落語の「西行」といったものまで実に多くの話や伝承そして逸話が残っています。

 また、「伊勢の海の阿漕か浦に引網の度かさならはあらはれにけり」といった古歌も残っています。このため、室町以降成立してくる能や浄瑠璃に先行して、「伊勢の阿漕浦」にちなんだ和歌が他にもあったようです。この歌から思うことですが、ここには、漁業権もしくは入浜権を巡る争いが背後にあったと思うのですがいかがでしょうか。

それはともかくとして、和歌で有名な西行ですが(「新古今集」には最多の九四首を残しています)、元は佐藤兵衛尉憲清という名で、禁裏警護役の北面の武士とされていますが、平安末期から鎌倉期の人であり、出家への動機については諸説とりざたされています。

 前夜、同族で年嵩の佐藤佐衛門尉憲康と和歌の会から伴に帰り、翌日迎えに行くと急死していたことから出家への道を求めたというのが有力とされているようです。

もう一つは、恋していた絶世の美女堀川の局に「またの逢瀬は」と問うたところ、「阿漕であろう」と言われ「あこぎよ」の意味が分からずに恥じて出家したといった話です。

さて、ここから先は落語の「西行」に出てくる「阿漕」の話です。「……憲清、阿漕という言葉の意味がどうしても分からない。歌道をもって少しは人に知られた自分が、歌の言葉が分からないとは残念至極と、一念発起して武門を捨て歌の修行に出ようとその場で髪を下ろして西行と改名。諸国修行の道すがら、伊勢の国で木陰に腰を下ろしていると、向こうから来た馬子が『ハイハイドーッ。散々前宿で食らいやアがって。本当にワレがような阿漕な奴はねいぞ』。これを聞いた西行、はっと思って馬子にその意味を尋ねると『ナニ、この馬でがす。前の宿場で豆を食らっておきながら、まだニ宿も行かねいのにまた食いたがるだ』『あ、二度目の時が阿漕かしらん』……『伊勢の海あこぎが浦にひく網も度重なれば人もこそ知れ』から、秘事も度重なればバレるという意味。西行はこれを知らなかったから、あらぬ勘違いをした訳である。オチは『豆』が女性自身の隠語なので馬方の言葉から、二度目はしつこいわ、と言われたと解釈した。『阿漕』には後に、馬方が言う意味つまり『欲深』『しつこい』という意味がついた。……」(「千字寄席」噺がわかる落語笑事典 立川志の輔【監】古木優・高田裕史【編】)一応、落語の話はここまでです。

古歌として、「伊勢の海の阿漕か浦に引網の度かさならはあらはれにけり」「伊勢の海阿漕が浦に曳く網もたび重なればあらはれにけり」といったものも残っています。このため、室町以降成立する能や浄瑠璃に先行して、「伊勢の阿漕浦」にちなんだ和歌が他にもあったようです。

謡(うたい)の阿漕(十八ノ四)は、病気の母親に食べさせようとした息子が禁を犯して阿漕ヶ浦(三重県津市の伊勢神宮神饌の漁場)から魚を捕っていたことが発覚し簀巻きにされて海に沈められるという話がベースになっています。

三重県津市阿漕ケ浜から伊勢神宮への御贄(オニエ)を奉納したとされているのですが、漁と奉納とはそれなりの緊張関係があったと思われ、実際に処分された漁師がいたことは事実のようです。こういう背景があって室町期に謡曲の「阿漕」(当然ながら謡曲は古いため、ここでは殺生を業とせざるを得ない漁師の話であって平治の名はなく孝子伝説とは無関係です)が成立し、江戸期になって古浄瑠璃の「あこぎの平冶」が、浄瑠璃 義太夫(**)人形浄瑠璃、の「勢州阿漕浦」が成立し、芝居にまでなります。

このため、江戸の中期から明治にかけて浄瑠璃が大流行し全国に流布されるようになると、単に「アコギ」と呼ばれていた地名が、「阿漕」という表記になっていったのではないかとも思われるのです。

謡曲 阿漕の教本

 

多少脱線しますが、釣師の私としてはフィクションとしても密漁したとされた魚が何であったのかが気になります。芝居の中などで平冶が密漁したとされている魚は、くちばしが長く本体も細長い“ヤガラ”とされていますが、日本近海の“ヤガラ”の仲間には“アカヤガラ”、“アオヤガラ”外2種があります。私は阿漕が浦が砂地であることから考えて、“アオヤガラ”ではなかったかと考えています。その外にも多くの興味深い話がありますが、この程度にしておきましょう。

結局、転じてこのような酷い仕打ち(簀巻きにして海に沈める)のことを“阿漕なこと”とまで言うようになったと言われているのですが、では、なぜ、この海は“阿漕が浦”と呼ばれるようになったのかがわからないのです。

                

e)“阿漕”という地名と“アコウ”

 

ここで、“アコギ”とも呼ばれる亜熱帯系の常緑高木“アコウ”(赤秀)の存在が気になってくるのです。まず、三重県津市の阿漕を考えてみましょう。

もちろん、現在、ここにアコウの木があるわけではありません。というよりもアコウの生育限界であり北限とされている佐賀県の肥前町高串にはアコウがありますが、その高串から岬ひとつ隔てた“阿漕”地区ではなく、高串港の一隅にある増田神社の付近なのです。

従って、アコウという木と“阿漕”類似地名とを直接結び付るものはありません。

というよりも“阿漕”という地名が残る佐賀県の高串港にアコウが生えていたということが唯一の関連性を示すものかもしれません。しかし、アコウという樹木の分布傾向と“阿漕”関連地名の分布傾向にそれなりの関連性があることからして、アコウと“阿漕”との関係はかなりの可能性があるように思います。

三重県津市の阿漕の話に戻しますが、一般的なアコウの分布から考えて、黒潮の枝流が流れ込む伊勢の海の海岸はこの木の生育領域(であった?)とも十分考えられそうです。 

 近いところでは、隣県の和歌山県日高郡美浜町三尾にアコウの大木があるようです(龍王神社)。また、三重県内の地名としては、津市の“阿漕”以外にも飯南郡飯高町赤桶(アコウ)、桑名市赤尾(アコオ)、があります。

 今日まで、アコウの木と“阿漕”関連地名とを関係づけて論じたものを私は知りません。また、アコウの木の分布領域の中心とされる沖縄や奄美大島に九州などに比較して“阿漕”関連地名が異常に多いということもないようです。もちろん、これはアコウが多いため地名形成の動機としては弱かったとも考えられます。

 とりあえず、ここではアコウが松、栂(ツガ、トガ)、榎(エノキ)、栃(トチ)などと同様に、それらが特徴的に見える地域において、松崎、栂尾、榎津、栃川といった地名と同様に、自らの存在を地名として留めている可能性があるのではないかというところまでは言えるようです。 

ただし、この木の分布が日本列島の辺境に限定されていたために、“阿漕”という奇妙な表記の地名とアコウの木との関連性が忘れ去られているのではないかと思われるのです。

天草上島、旧姫戸町永目のアコウ

 

一般的に漁撈集団は、文字で記録を残さないと言われています。

極めて逆説的ですが、それこそが、アコウや“阿漕”が南方系の漁撈集団がもたらした“樹名”であり“地名”である証拠とも言えるような気がします。                    

その後も、アコウについて調べていたところ、北限とかいったものを超えて、山口県(いずれも瀬戸内海ですが、柳井市の掛津島、周防大島の東和町水無瀬島)や愛知県にもアコウがあることを知りました。 

しかし、愛知県のアコウは“鹿児島から苗を取り寄せて移植した”ようです。

なにやら、民俗学者柳田国男の“ツバキ”の話を思い出しますが、こういったことがあるために、そもそも自然な生育限界とかいったものはなかなか判らないものなのです。

       天草上島、旧龍ケ岳町池ノ浦のアコウ     天草維和島蔵々のアコウ

 

  「アコウ」 クワ科の亜熱帯高木で暖かい海の海浜に生育します。愛媛県西宇和郡三崎町三崎と佐賀県の東松浦半島に位置する東松浦郡肥前町高串の“阿漕”地区が北限とされています。それほど多くはないのですが、九州の南半分の島嶼部を中心にかなりの数のアコウが海岸部に自生しています。

 

〇〇「義太夫」 室町後期に発生した古浄瑠璃に三味線が加わり江戸期に発展した浄瑠璃には江戸、上方あわせて数十の流派が形成されますが、元禄期の竹本義太夫と近松門左衛門らによって大流行した人形浄瑠璃の義太夫節を特に「義太夫」と呼ぶようになり、さらに関西の浄瑠璃を特に義太夫と呼ぶようになったようです。常磐津、清元、新内節もそうですが、私は義太夫と言えば、上方落語の「どうらん幸助」の影響からか、最近、特に好んで聴くようになりました。「柳の馬場押小路、虎石町の西側に主は帯屋長……(長衛門)」(「特選 米朝落語全集大二十二集」の台詞で有名な浄瑠璃の「お半 長衛門」(オハンチョウ)を思い出してしまいます。                いずれも古川による注釈

 

さらなる展開

 

多少ともアコウと阿漕地名との間の関係について理解して頂けたかと思います。

しかし、話はここから新たな展開を見せるのです。古田史学の会代表である水野孝夫氏は、この小論から「阿漕的仮説」(会報69号)という驚くべき仮説を引き出されたのです。詳しくは同会の会報か私が主催するホーム・ページ「アンビエンテ」のリポート106.107号外を読まれるとして(こちらは写真、地図、図表も見ることができます)、『万葉集』に登場する淡海は琵琶湖ではないという議論は、古田武彦氏をはじめとして、万葉集の研究者の間でもかなりの広がりを見せていました。

この議論の中で、古田史学の会の“神様の神様”と言われる西村秀巳氏は『倭姫命世紀』という鎌倉期の文書から“淡海=球磨川河口説”を提案されたのです。そして、ここに注目した水野氏が、伊勢神宮もこの球磨川河口域から移されたのではないかとされたのです。

一方、『古事記』の探求を進められた九州古代史の会の庄司圭次氏は、『「倭国」とは何か』所収の“「淡海」は「古遠賀湖」か”で“淡海=古遠賀湖説”を展開されており、会としても同地が淡海であると考えられているようです。さらに、これがいわゆる新北津論争にも多少の影響を与えているのかも知れません。

ともあれ、まずは、水野代表による「阿漕的仮説」とその解題とも言うべき拙稿「姫戸」を読んで頂きたいと思います。

 


スポット089 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 ② 鳥瞰

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スポット089 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 ② 鳥瞰

 

20170211 

 

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 

 

先に、「ひぼろぎ逍遥」 extra038 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 として、本来、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)に掲載すべきものを先行掲載しましたが、オンエア後になって、場所を分かって頂くための位置図を添付していなかった事に気付きました。

 

 今回は、蘇民将来 巨旦将来の本当の現場であると考えられる一帯の地図を改めて鳥瞰(俯瞰)する事にしました。

 

 一般的には「備後国風土記」逸文との関係からその現場は備後(福山)辺りであろうといった理解が一般化しています。

 

当然、その一帯についてもフィールド・ワークを何回もおこなったのですが、どうもそうとは言えないようなのです。そこで、「ああ、ここにも蘇民将来 巨旦将来伝承が良く残っているなあ…」と思ったのが、この宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社だったのです。

 

祇園山の麓の祇園神社の縁起に見る「蘇民将来、巨胆将来」

 

 

 

蘇民将来

 















 


蘇民将来(そみんしょうらい、非略体: 蘇民將來、蘓民將耒、 – 将耒、など)とは日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない。なお、岩手県県南では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。陰陽道では天徳神と同一視された。

 

説話

 

古くは鎌倉時代中期の卜部兼方『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』の疫隈国社(えのくまのくにつやしろ。現広島県福山市素盞嗚神社に比定される)の縁起にみえるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。

 

すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうのかみ、むとうしん)を裕福な弟の将来(『備後国風土記』では「或本作巨旦將來也」とあり、巨旦将来〈こたんしょうらい〉と表記され、金神のこととされる)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。

 

蘇民将来の起源

 

武塔神や蘇民将来がどのような神仏を起源としたものであるかは今もって判然としていない。

 

武塔神については、密教でいう「武答天神王」によるという説と、尚武の神という意味で「タケタフカミ(武勝神)」という説が掲げられるが、ほかに朝鮮系の神とする説もあり、川村湊は『牛頭天王と蘇民将来伝説』のなかで武塔神と妻女頗梨采女(はりさいじょ)の関係と朝鮮土俗宗教である巫堂(ムーダン)とバリ公主神話の関係について関連があるではないかとの説を述べている。

 

蘇民将来についても、何に由来した神かは不明であるものの、災厄避けの神としての信仰は平安時代にまでさかのぼり、各地でスサノオとのつながりで伝承され、信仰対象となってきた。

 

ウィキペディア20170211 09:38による

 

 


 

宮崎県五ヶ瀬町祇園山山麓 鞍岡の祇園神社

 

 

 

 では、百嶋神代系譜(蘇民将来、巨胆将来)を御覧いただきましょう。

 

 これによると、まず、敵役の巨胆将来ですが、金凝彦(カナコリヒコ)とします。現在の阿蘇神社の神殿最奥部に祀られている神沼河耳(実は藤原によって第2代贈)綏靖天皇と格上げされた阿蘇神社の隠された主神)なのですが、再建途上にある阿蘇神社に行かれて禰宜にでも「金凝彦様は祀られておられますか?」と尋ねられれば、今でも直ぐに、「神殿の最奥部に祀られております」とお答え頂けるでしょう。

 

 実はこの神沼河耳の腹違いの兄弟が阿蘇高森の草部吉見神であり建磐龍命なのです。ただ、草部吉見の娘である阿蘇ツ姫を建磐龍命がお妃としている事から、同時に義理の親子とも言えるのです。

 

もう一人の主役である蘇民将来については、百嶋先生からもはっきりここに居たとの話を聴いてはいません。あくまで推定ですが、当然にも彦八井、神八井を祀る、草部吉見神社周辺高森町草部周辺の人であると考えています。理由は薄弱ながら簡単です。

 

草部吉見神社の縁起による祭神は以下の通りであり神八井命は外されているのですが、夏の大祭の時だけに見る事ができる草部吉見神社の神代系譜には神八井がきちんと書かれているのです。

 

 

 

一の宮 日子八井命    二の宮 比咩御子命   三の宮 天彦命    四の宮 天比咩命

 

五の宮 阿蘇都彦命   六の宮 阿蘇都比咩命  七の宮 新彦命    八の宮 彌比咩命

 

 九の宮 速瓶玉命     十の宮 若彦命     十一の宮 新比咩命  十二の宮 彦御子命

 


 

百嶋神代系譜(蘇民将来、巨胆将来)部分

 

 

 

 そして、伝承には幾つかのバリエーションがあるのですが、スサノウは龍宮にお妃を貰いに行く途中一夜の宿を乞うたという話になっているのです。そのお妃こそアカルヒメであり、博多の櫛田神社の大幡主=塩土翁=神皇産霊の娘(系譜参照)であることも見えてくるのです。

 

 恐らく、この「蘇民将来、巨胆将来」伝承を継承しているスサノウ系氏族のいた土地こそこのスサノウの姉クラオカミを祀る五ヶ瀬町鞍岡であろうとまで考えざるを得ないのです。

 

 まず、最低でもスサノウはこの鞍岡の地を経由し滞在したと思います。

 

 単純には言えませんがクラオカミこと神俣姫は鞍岡に居たからクラオカミと呼ばれていた可能性があり、しかも、伝承では後にスサノウから滅ぼされることになる巨胆将来のお妃ともなっている事を考え合わせれば、阿蘇からそう遠くないところでなければならないはずなのです。

 

してみると、鞍岡は十分に現実味があり符合する場所に居た事になるのです。

 

 さらに言えば、百嶋神代系譜では、巨胆将来=神沼河耳のお妃が神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)のお妃であったアイラツヒメを継承した(神武天皇とは別れている)事を考えれば、そのアイラツヒメの実の兄であった五瀬命(有名な神武皇兄イツセノミコト)もこの五ヶ瀬の地にいたからイツセノミコトと呼ばれている可能性を考えざるを得ないのです。

 

 

すると、この本物の神武天皇、神沼河耳、アイラツヒメ(神武と別れた後に蒲鴨池姫としているのですがこの事を阿蘇宮司家は知っているはずですが否定されています)もこの一帯にいたのです。

 

 いずれにせよ、阿蘇一の宮と南阿蘇の高森とは直線で15キロ程度、さらに、五ヶ瀬町、鞍岡も高森から直線で15キロ程度である事を思えば、全ての関係者は阿蘇高森を中心とする半径20キロ程度の所に居た可能性があるのです。

 

 どのように考えても、阿蘇高森町草部を中心とするエリアでこの蘇民将来、巨胆将来伝承が生じたのであり、その後のスサノウ系氏族の移動に伴い全国にこの伝承が広がったと考えられるのです。

 

 しかし、この背後にはスサノウ系(新羅系と言うよりペルシャ系)氏族と、雲南省麗江から進出避退してきた黎族(阿蘇氏、多氏、宇治氏、耳族…)の間に生じた民族衝突が反映されているものと思うのです。

 

 皆さん、同時にこの話が現在の「茅輪神事」「茅輪潜り」に繋がっている事もお考えください。

 最後に、巨胆将来と推定される阿蘇の神沼河耳がスサノウ側からは意地悪をしたような扱いにはなってはいますが、神代(実は古代)には民族と民族の衝突が起こっているのであり、どちらが悪いと言う事はないのです。耳族も漢族と最後まで闘い大陸から避退したのであり彼等への共感も否定できないのです。

395 阿 漕(アコギ) ②

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395 阿 漕(アコギ) ②

20160904


本稿は通説派に堕した久留米地名研究会のHPからバック・アップ(避退)掲載したものです。


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


阿漕的仮説 さまよえる倭姫 八代~大築島~天草姫戸  古田史学の会会報 NO69 掲載論文


 古田史学の会代表 水野 孝夫(奈良市)



395-1この報告は、文献に現われる「阿漕」「淡海」「倭姫」をキーワードとして、「伊勢神宮も九州から移築された」と考えたいという仮説である。


『むかし琵琶湖で鯨が捕れた』、河合隼雄・中西進・山田慶児・共著 という本がある。学術書というわけではなく、この表題は、出版社が人目を引くために付けたのだろうが、こんな無茶なことを、これだけの学識経験者に言ってもらっては、困っちゃうのである。しかも、鯨についてなにか論証してあるわけではなくて、「(鯨は)日本の名前だと勇魚(いさな)でしょ?勇ましい魚。「勇魚捕り」なんていう枕言葉にもなって、琵琶湖を修飾するのに使われている。これは「鯨だって捕れるほど立派な琵琶湖」という表現です」。という、座談会での放言だけから採られている。

根拠の歌、万葉集02/153 原文。

鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立

この歌は別に琵琶湖の立派さを歌っているわけではない。


木村賢司氏は「夕波千鳥」という会報論文で、「琵琶湖に千鳥はいるかも知れないが、鯨は絶対にいない」とし、博多湾を淡海の候補とされた。

古田武彦氏はこれを受けて、やはり「淡海」は淡水の琵琶湖ではなく海であり、現在の鳥取県にあたる『和名抄』の邑美を候補とされた

梨田鏡氏は「鯨のいない海」で考察を加え、やはり「淡海」は淡水の琵琶湖ではなく海であり、その候補地を「會見の海」(鳥取県美保湾)とされた。


このころに西村秀己氏は「淡海」という語句を探して『倭姫命世記』という文献(続群書類従巻三所収)に出会われたのである。『倭姫命世記』は、倭姫が天照大神(ご神体の銅鏡)の居所を求めて近畿地区をさまよい、遂に伊勢の度会宮(伊勢神宮)に落ち着かれる経過の話である。ここには「海塩相和而淡在、故淡海浦号」(塩味が淡いから淡海浦という)の語があり、西村氏も「淡海は淡水の琵琶湖ではありえない」と考えられたのであるが、地名の音あてはされていない。


倭姫について簡単に見ておこう。倭姫という人物は垂仁紀では皇后・日葉酢媛命から生まれた第四子である。崇神紀三年「都を磯城に遷す、これを瑞垣宮という」。同六年「是より先に天照大神・倭大国魂、二柱の神を天皇の大殿のうちに並び祭る。然して其の神の勢いを畏れて共に住みたまふに安からず。故に天照大神を以て豊鋤入姫命に託して倭の笠縫邑に祭る。(中略)亦、日本大国魂神を以てはヌナキ入姫命に託して祭らしむ」。天照大神は宮中から出され、豊鋤入姫命に託して倭の笠縫邑に祭られたのだが、垂仁二十五年「天照大神を豊鋤入姫命から離し、倭姫命に託す」ことになり、倭姫命は大神の鎮座地を求めて兔田、近江国、美濃をめぐり伊勢国に着き、神の教えによりここに宮を建てて落ち着く。『古事記』にはこの放浪譚はなく、倭姫命はいきなり伊勢神宮の斎宮として紹介される。古田史学の立場で考えるならば倭姫は「チクシの姫」のはずである。


『倭姫命世記』は伊勢神宮および籠神社に伝わる神道書で、天地開闢から伊勢神宮の神寶の由来、これが伊勢神宮に収まった経過を追っているので、全文一万字程度の短いものであるが、大部分は倭姫命の放浪譚である。

その内容は『日本書紀』よりは格段に詳しいので、笠縫邑を出発してから、どこそこに何年間おられ、次はどこ・・・と伊勢到着までを追跡できる。この行程表や地図を掲載した本が多く出版されており、これを追跡する古代史ファンもあり、ここが伝承地とする神社等もある。当然ながら「書紀の知識をもとに」読まれていて、近江国を通るのだから琵琶湖畔にも伝承地が多い。しかし理解困難な宮名もある。伊勢の斎宮歴史博物館の学芸員の方のホーム・ページによると「この『倭姫命世記』を信じる人が多くて困るが、この本は鎌倉時代以降の神道書であって、歴史書としては扱えない」と言われている。


続群書類従では、全文漢字なので読みにくいが、籠神社の宮司だった海部穀定(あまべよしさだ)氏の著書、岩波・日本思想大系19には読み下し文がある。これによると、倭姫命は天照大神の宮地を、伊勢の度会の五十鈴河上に定め終わったあと、更に船に乗り「御膳御贄処」(ご神饌を奉納する地)を求めて船旅をされる。この航海への出発地点に、先の「淡海浦」がある。「其レヨリ西ノ海中ニ、七個ノ嶋アリ、其レヨリ南、塩淡ク甘カリキ」とある。つまり「淡海浦の西には嶋が七個あり、南も海で、塩の甘い所がある」のだ。西村氏はこう考えられた「現在の伊勢神宮のある三重県の五十鈴川河口はほぼ北東を向いており、西も南も海でないし、西に七つの島などない。このような地形の候補地としては熊本県八代の球磨川河口がふさわしい」。但し氏はこの仮説を未発表である。


会報六八に「船越」を書かれた古川清久氏のホーム・ページには「阿漕」という論文もある。これが興味深い。氏は釣行のときに出会う、南西諸島・九州西南岸・四国南岸・和歌山県に育つ「アコウまたはアコギ(赤生木)」という亜熱帯性植物に興味をもたれ、「アコウまたはアコギという地名はこの植物が生えるところではないか」と提唱されたのである。   この樹木は樹齢数百年のものも珍しくなく、海岸近くにしか生えない。「あこぎ」とはどういう意味だろうか、小さい辞書には「限りなくむさぼる様子、貪欲、例:あこぎなやりかた」というように記載されている。「阿漕」という謡曲がある。この謡曲は、伊勢神宮に神饌を奉納する地であり、三重県津市に現存する地「阿漕が浦」で繰り返しむさぼって密漁し、捕えられて処刑され、地獄に堕ちた漁師の幽霊が、仏教による回向を求める話である。ちょっと余談をはさむと、謡曲のなかに「憲清と聞こえしその歌人の忍び妻、阿漕阿漕と言ひけんも責め一人に度重なるぞ悲しき」とある。古川氏によると、俗名を佐藤憲清といい北面の武士だった西行法師が、恋していた絶世の美女・堀川局に「またの逢瀬は」と問うたところ、「阿漕であろう」といわれ、「あこぎ」の意味がわからず、それを恥じて出家したという話があって、落語ネタになっているそうだ。「阿漕」の最初の意味は「たびかさなること」であって、堀川局は「繰り返し会っていると、他人に知られてしまいますよ」と言ったのである。広辞苑はこの意味を第一に挙げている。


とにかく、古川氏は「アコギ樹の北限よりも北に」なぜ「阿漕が浦」の地名があるのかを疑われたのである。わたしはここにヒラメキを感じた。「本来の阿漕が浦はアコギが生えていたのではないか、球磨川河口付近ならば、アコギ樹が生えているだろう」。古川氏に御意見を聞くと、「嶋七個」は天草上下島のような大きな島ではないとして、球磨川河口沖約5kmにある大築島などの小島を挙げ、詳細な地図を送ってくださった。

この大築島など六島は現在廃棄物処理用地として埋め立て計画が進んでおり(あと暫くで島の数がわからなくなるところだった)、古川氏は調査のため現地を踏んでおられ、現地には八代史談会に友人も居られる。わたしは最高の案内人を得たのである。ただ大築島地区には島は六個で、うちひとつは岩礁みたいなもので島といえるかどうかの問題がある。もちろん河口と天草上島との間には別の島もあり、現在は陸地でも過去には島であったと思われる土地もあるので、「嶋七個」を確定するには至っていないが、七個以上は確実にある。


さて地図を見ると、球磨川河口から大築島地区を越えた天草上島に「姫戸町」があって、ここには「姫の浦」「姫浦神社」「姫石神社」があり、姫戸町・永目地区には巨大な「アコウ樹」がある。この「姫」は倭姫ではないか?。倭姫は「朝の御饌、夕の御饌とおっしゃった」と言うから、毎日朝夕に神饌を運べるくらいの近さのところだろう。(津市・阿漕浦から五十鈴河口まで直線距離約30km、近鉄電車で津-五十鈴川、32km/急行40分。八代から姫戸まで直線距離は約15km、天草観光汽船の高速艇はややまわり道だが22ノットで30分。三重県の方が2倍くらい遠いか)とにかくここが神饌供給地としての「阿漕が浦」にふさわしく思われる。もっとも現地に地名「阿漕浦」はない。塩味の甘い「淡海浦」であるが、球磨川は伏流水が有名であって(本流日量千万トン、伏流水六十万トンと言う)、海の中に海底から川水が噴出している場所があるのだ。万葉集にも出てくる水島付近で泳ぐと、塩味をほとんど感じない場所があるという。ここは河口のうちでも南側であって、『倭姫命世記』の記述とよく合致している。古川氏は「姫の浦」「姫浦神社」「姫石神社」の現地へも行かれているのだが、現地伝承聴取は困難らしい。ただ姫石神社の伝承や姫石と称する石についての伝承をホーム・ページに見ることができる。「むかし、お姫様が宝を積んで航海して居られたが、海が荒れてきたので良い浦がないかと探されて姫の浦へ着き、景色が良いのを気に入られて滞在された。後の世の人がその跡を見つけたが、お姫様の名はわからなくなっていた。ただ姫とその宝だという石が残っていたので祭った」という。倭姫命はどこかに祭られているだろうか?。伊勢神宮境内には倭姫命を祭る神社がある。しかしこれは御杖代として功労のあった倭姫命を祭る社がないのはおかしいとして、近世になってから祭られた社である。ということは倭姫命を祭る神社は近畿にはないということらしい。しかるに九州には倭姫命を祭る神社がある。古川氏の奥様の実家のお隣、がそうだという。『倭姫命世記』が後世の神道書で信用ならない(極言すれば偽書だ)として、「西に嶋七個」とか「塩味の淡い海」などという具体的で、しかも伊勢には適合しない地理をどうして記述できるだろう?。なにか先行資料に基づいたとしか考えられないのである。


さて以上の、阿漕、淡海、倭姫の仮説がすべて正しいとしてみよう。倭姫がさまよわれた地域の最後が九州内部だから、出発から落着までの範囲はすべて九州内部だったはずだ。しかるに現在の伊勢神宮は三重県にある。ならば倭姫伝説全体、阿漕浦などの地名、伊勢神宮の社殿、神饌を奉納する住民たち、これらの全体が「九州から近畿・東海に移植された」ことになるだろう。これまでに九州のある範囲にある地名グループが、奈良県にもグループとして存在する例は多数知られていた。理由は、一部の住民が移動したのだろう程度に考えられてきた。そうではなくて、古事記、日本書紀を信頼あるものにするために、遺跡、遺物、伝承、住民を含めて、史書に合うように移植されたという可能性が見えたのではなかろうか。書き上げるだけなら四ヶ月で済んだ古事記に比べて、日本書紀が企画から完成まで数十年もかかった秘密はここにあるのではないか。


①、潮出版社、1991

②、「古田史学会報38」、2000/06、『古代に真実を求めて第五集』所収

③、2001/01/20講演、於・北市民教養ルーム。但しこの内容は著書等には未採用、インターネットなら読める。

④、『新古代学第七集』、2004/01

、『原初の最高神と大和朝廷の元始』、桜楓社、昭和59 古田武彦氏御所蔵。

⑥、『中世神道論』大隈和雄編、1977



※ 会報69号には『倭姫命世紀』原文の一部分が掲載されています。(古川注)



395-4

姫 戸  阿漕的仮説 さまよえる倭姫 の掲載について

古川清久


395-5

大築島周辺の地図 マピオン


はじめに


水野代表による「阿漕的仮説」さまよえる倭姫をお読み頂いたものと思います。か

なり分かりにくく、容易には理解し得なかったかと思いますが、話の一端でも理解された方はかなり驚かれたことと思います。

「阿漕的仮説」にも出てきますが、かつて、日量六〇万トンとまでいわれた球磨川の伏流水にしても、山の破壊(針葉樹林化)、側溝から都市の小河川さらには駐車場のコンクリート化などによって、圧力、水量ともに減退し、恐らく半減から、もしかしたら、現在は見る影もないほどまでに減少しているのではないかと危惧するものです。

それはさておき、水野代表による「阿漕的仮説」は非常に魅力的です。私は九州在住の同会会員として僅かなお手伝いをさせて頂いたわけです。上天草市の姫戸町を訪れ、姫浦神社、姫石神社、永目神社、二間戸諏訪神社などの宮司を兼ねておられる大川定良氏からもお話をお聞きしてきました。


「倭姫命世紀」


そもそも、「倭姫命世紀」は鎌倉期に成立した書物であり、水野氏も書かれているとおり、「倭姫命世紀」を信じる人が多くて困るといった話があることも十分承知しています。しかし、この話は倭姫命が御杖代として天照大神の鎮座地を探すというものであり、別名、元伊勢神社と言われる京都府宮津の籠神社があるように、まさしく、さまよい、最終的に伊勢の“五十鈴河上”に辿り着くというものです。このため、このルートを探るマニアもいて、どこそここそがその場所であるといった話が飛び交ってもいるようです。

しかし、まず、日本の神々の最高神にまで高められた天照大神の最終的鎮座地が、なぜ、伊勢でなければならないのかさらには、それは、なぜ、大和王権の膝元の大和などではいけなかったのかという事など、考えれば多くの謎があります。

従って、天照大神のルーツが対馬小船越の阿麻底留神社とすると(「船越」参照)、いつかの時点では、九州に元々伊勢神社とでもいうべきものが存在したのではないかという仮説、また、大宰府と久留米の中間に位置する小郡市水沢(ミツサワ)の伊勢山神社、伊勢浦地名は何なのか(いずれも宝満川の支流の側に位置する)、さらには小郡市大保の御勢大霊石神社(ミセタイレイセキジンジャ)が地元では伊勢(イセ)大霊石神社と呼ばれているのは何故かといった興味深い問題が横たわっています(大分県の耶馬溪町や玖珠町から鹿児島県などにも伊勢神社、伊勢山神社・・・があります)。 

水野氏は「倭姫命世紀」に登場する七つの島を断定まではされていませんが、一応、不知火海の大築島周辺の島に比定されたものと思われます。それを前提にお話しいたしますが、国土地理院の地図によると、大築島周辺には大築島、小築島、黒島、箱島、その箱島の独立礁に根島を併せた六島(いずれも一.五キロ程度の範囲にかたまっている)と、二キロほど離れた場所に船瀬がありますので、七つの島という事は、一応、可能かもしれません。 

対岸の天草上島の姫戸を宮地として神饌の調達先を球磨川河口とするならば、ちょうど中間に位置する大築島が第一候補であるのは当然でしょう。

ただ、私は、水野説に反旗を翻すというわけではありませんが、八代は古代において、干拓地などはなく、球磨川左岸では、奈良木神社がある高田(コウダ)周辺が陸化していた程度ではなかったかと考えています。このため、現在は埋立や干拓が進んで陸地になっている八代の中心街の陸地にも、かつてはかなり小島が存在していたはずなのです。

具体的には球磨川右岸の大鼠蔵(オオソゾウ、標高48m)、小鼠蔵(コソゾウ、同、35.3m)、現在、球磨川の三角州に流れる南川と前川に挟まれた麦島(ムギシマ、中世に麦島城が存在した)、八代市街地の西側の干拓地にかつて存在していたと考えられる白島(同、18.7m)、高島(同、32.8m)大島(松高小大島分校がある)、それに万葉集に歌われた水島(同、5m程度)の七島を比定する事もやろうと思えばできるのではないかと思えます。これらの小島は縮尺の大きな地図であれば現在でも地名として確認できますので、興味のある方は試みて下さい。結局、「倭姫命世紀」の解読、科学的検証といった事が重要になってくるのですが、その間にも大築島周辺の浅海は確実に埋立られ続けているのです。


姫浦神社と姫石神社


天草に釣りに来る度にこの姫戸に足を踏み入れていたために、永目神社、姫浦神社の存在には気づいていました。ただ、姫戸という地名と姫浦神社には関係があるのではないか(姫戸は姫浦の門)といった程度の感想しか持っていませんでした。このため、ここを通ると、かつては、この神社の真下まで海が入っていただろうし、まさしく姫浦の地形をしていたのではないかなどと考えていました。今回、「阿漕的仮説」が発表され、にわかに調べる必要を感じたものです。実際、姫石神社の存在に気づいたのも昨年の事(脱稿は〇五年中)でしたが、その時も、なぜ、姫浦神社の直ぐ傍(二百メートル程度海岸寄り)にこのような神社が存在するのかと奇妙に思ったものでした。もちろん、この謎はいまだに解明できないのですが、上宮、下宮といったものではなく、やはり、別の神が祭られていたのです。

八月から九月にかけて、教育委員会から姫浦神社の宮司を教えていただき、ご連絡したところ、快くお教え頂き大変有難たかったのですが、いかんせん、ほとんど記録が残っておらず、僅かに祭られている神々の名が確認できる程度でした。以下は神主(宮司)から聴き取らせて頂いたことと、五十年ほど前の神社庁への届け出によるものです。

 姫浦神社    : 神武天皇、天照大神、神八(カミヤ)井耳(イミミ)(ノミコト)、阿蘇一二柱

 姫石神社    : 若比(ワカヒ)()*(ノミコト)口羊*は口の右に羊(メと読む)

 永目神社    : 姫浦神社に同じ

二間戸(フタマド)諏訪(スワ)神社 : (タケ)御名(ミナ)方神(カタノカミ)、八坂刀賣神、外十五柱神


とりあえず、姫浦神社が伊勢神宮の原初的な形態を留めているとするならば、天照大神が主神とされていることから、水野仮説の一部は裏付けられた事になったわけです。

 さて、水野氏は、古川氏は「アコギ樹の北限よりも北に」なぜ「阿漕が浦」の地名があるのかを疑われたのである。わたしはここにヒラメキを感じた。とされていますが、私は元々三重県津市の阿漕ヶ浦という地名が、現在はアコウの木が生えていないものの、かつてはアコウが存在した場所、百歩譲っても、そこからの移住者によって持ちこまれた地名なのではないかと考えたのです。ところが、驚くことに、氏はこの阿漕ヶ浦の話を伊勢遷宮伝承と関連付け、伊勢もアコウの木の生える地域つまり筑紫島(九州)の領域からの移設(氏は移築とされていますが)されたのではないかと考えられたのです。私も相当に天邪鬼な方ですが、水野さんはさらに上手で、実に柔軟かつ、大胆な発想、思考をされる方と、驚きも感服もしたところです。多分、水野氏のお考えでは、津市の阿漕ヶ浦にはアコウの樹は生えたことはなく、逆に、伊勢神宮の方が動いて来たのだと考えられているのでしょう。こうして、私の「阿漕」(阿漕地名仮説)は水野「阿漕的仮説」の前に脆くも崩れ去ったわけです。

最後に、水野代表は「しかるに九州には倭姫命を祭る神社がある。古川氏の奥様の実家のお隣、がそうだという。」と書かれておられますので、この点にふれておきます。


 2)味島神社 谷所 鳥坂

鳥坂の鳥附城があった山の南の山麓に倭姫命を祭神とする味島神社がある。社の由緒等詳かではないが大正五年毛利代三郎編「塩田郷土誌」によれば「仁明天皇承和年間(八三四~八四八)新に神領を下し社殿を建立した。」                           (塩田町史)


とあります。


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おわりに


倭姫命を祭る神社は全国的にも佐賀県嬉野市の旧塩田町にしかないことから、それだけでも伊勢神宮や淡海が本来は九州にあったのではないかと思うものです。さらに、「淡海」が不知火海であれ、古遠賀湖であれ、琵琶湖とされた『万葉集』の舞台が九州であったという可能性に興味は尽きません。

私は伊勢神宮の前史としてアコウが生茂る九州南半に鎮座ましましていた時代があったのではないかと想いを巡らしています。。


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スポット090 「すだち」と「かぼす」のうしろにはヤタガラスが見える

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スポット090 「すだち」と「かぼす」のうしろにはヤタガラスが見える

20170317

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 豊後での生活に慣れてくると、どうしても、「椎茸(どんこ)」や「かぼす」…と接することが多くなってきます。

 そこで、考えていたのですが、徳島の「すだち」は「酢の橘」の意味である事はあまり考えなくても理解できます。


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スダチ(酢橘、学名:Citrus sudachi)はミカン科の常緑低木ないし中高木。徳島県原産の果物で、カボスやユコウと同じ香酸柑橘類。名称の由来は食酢として使っていたことにちなんで、「酢の橘」から酢橘(すたちばな)と名付けていたが、現代の一般的な呼称はスダチである。

ウィキペディア 20170317 22:03による


 問題は大分の「かぼす」の意味で、何故、「かぼす」「カボス」…と呼ばれているのか?が分からないのです。



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カボス(臭橙、香母酢、学名:Citrus sphaerocarpa)は、ミカン科の常緑広葉樹、または、その果実で、柑橘類のひとつである。

カボスという名の由来は明らかではなく、文献で確認できるのも第二次世界大戦後のことである。

ダイダイの一種に「カブチ」、「カブス」などと呼ばれるものがある。平安時代の深根輔仁による『本草和名』に、「枸櫞」「和名加布知」などの記述があり、現代でも和歌山県から三重県にかけてダイダイを「かぶち」と呼ぶ地域がある。また、1603年ごろ発行の『日葡辞書』にはCabusuの記載があり、1709年(宝永7年)に刊行された貝原益軒の『大和本草』にも、「カブス」についての記載があって、その名の由来は、「柑子」(かむし、かむす)が訛ったものとも、乾燥した皮をいぶして蚊よけに用いるからとも記されている。さらに、愛媛県の一部で三宝柑を「かぶす」、大阪府の一部で文旦を「かぼそ」と呼ぶ地域があった。しかし、これらの柑橘類の名称と「カボス」との関連も不明である。

漢字の「臭橙」は熟字訓、「香母酢」は当て字である。

ウィキペディア 20170317 22:03による


 立派に調べておられる事は十分に分かりますし評価に値しますが、何とも分かるようで分からない説明に留まっています。

 そこまでの話ならば、当方も一つの仮説を出しておきたいと思いたちました。所謂、言うたもの勝ち!

 そう考えた背景には、阿波=徳島と言えば忌部の国=ヤタガラス(豊玉彦)の国という概念が存在していたからでした。

ではお話に入りましょう。

まずは、一例になりますが、「阿波忌部の世界」をお読みください。阿波の神社調査に関しては一通り目を通している有力サイトです。


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阿波~和歌山~奈良が、忌部というよりも、豊玉彦(ヤタガラス)の領域であった事は百嶋由一郎氏の話と併せこれまでにも何度となく触れてきました。

 その阿波に於いて、① ダイダイを「かぶち」と呼ぶ地域がある。② 『日葡辞書』にはCabusuの記載があり ③ 貝原益軒の『大和本草』にも、「カブス」についての記載があって、その名の由来は、「柑子」(かむし、かむす)が訛ったものとも…となると、消し去る事の出来ない強烈なイメージが湧いてきました。

 それは、賀茂族=加茂族=鴨族=カモ族の酢橘だったのではないか?「カモの酢」という意味です。

 まず、橘一族が、白族と呼ばれる大幡主の一族であることが理解できれば、後は自ずからすんなりと分かってくるはずです。

 勿論、賀茂族とは、京都の上賀茂、下賀茂に象徴される大幡主~ヤタガラス(豊玉彦)系の民族と言った意味です。

 その一族こそ橘一族であり、中国の白族であり、九州王朝を支えた有力豪族だったのです。


 県犬養三千代

県犬養 三千代(あがた(の)いぬかい の みちよ、天智天皇4年(665年)? - 天平5111日(73324日))は、奈良時代前期の女官。橘三千代ともいう。

生涯『新撰姓氏録』『尊卑分脈』によれば父は県犬養東人とされるが、東人の事跡は不明で、母も不詳。出生年月日も不明であるが、出仕時期から天智4年(665年)出生の可能性が考えられている。県犬養氏は屯倉を守護する伴造氏族のひとつで、壬申の乱では県犬養大侶が大海人皇子(天武天皇)に近侍し、天武天皇13年(684年)に宿禰姓を賜った中堅氏族。

三千代の出仕時期は不明であるが、天武8年(679年)には氏女の制により豪族女性の出仕年齢が15歳前後に定められ、三千代も同年に命婦として宮中に仕えたと考えられている。配属先についても不明であるが、和銅元年(708年)11月には即位直後の元明天皇から橘宿禰姓を賜っており、また養老5年(721年)5月には元明太上天皇の病平癒を祈念して仏門に入っていることから、天智天皇の娘で草壁皇子の妻となった阿閉皇女(元明天皇)に出仕した可能性が考えられている(義江 2009)。

はじめ敏達天皇系皇親である美努王に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏女王を生む。

ウィキペディア20170322 16:32 による


 目を瞑る(ツムル)と言う言葉と目を瞑る(ツブル)と言う言葉が、発音は全く異なるものの、同じ意味を持っている事はお分かり頂けると思います。

当然、「ひもろぎ逍遥」も「ひぼろぎ逍遥」も同じ概念ですし、「カムル」も「カブル」もそうです。「カムリつく」と「カブリつく」も「湯あみ」と「湯浴び」も同様です。

このようにM音とB音とが入れ替わっても意味が全く変わらない言葉が日本語の中には驚くほどたくさんあるのです。

 とすると、「カボス」は「カモス」とも考えられそうだとお分かり頂けるのではないでしょうか?

 そうです、賀茂族か列島に持ち込んだ酢橘こそ「カモス」であり「カボス」であるという話になるのです。

 大分県が中心だったことから当然ですが、現在、ガボスは96%が大分県で生産されています。

地域的には、竹田市、豊後大野市、臼杵市といった豊後地方を中心に生産されているようです。

 最近、神社を詳しく調べて行くと、この領域も阿蘇氏、大蛇伝説の大神氏、金山彦、ヤタガラス…の領域であった事が分かって来るのですが、ここから構造線を辿って四国の脊梁山脈、徳島、和歌山、奈良と金属鉱床のラインと共に、柑橘系の橘一族のラインも通じていたように思えてきます。

 故)百嶋由一郎氏は、生前、伊勢は大幡主の領域であったと言われていました。

 その伊勢も現在三重県と呼ばれている事にも関心を持っています。

 それは、豊後大野にも三重町があり、一説には松尾芭蕉も豊後の三重辺りの出身だったと言う話まであるのです。

 この間、豊後の最奥部の神社調査を進めてきましたが、伊勢とは神武皇兄五瀬命(イツセノミコト)の伊勢ではないのか?宮崎県五ヶ瀬町、五ヶ瀬川とも関係があるのではないのか?

カボスとスダチにも関係があるのではないのか?といった話にまでイメージの暴走が止まらなくなっています。

また、阿波の神社調査にも行きたいと思っているのですが、思考の暴走を繰り返している中で、カボスの語源を考えてみただけの思い付きに過ぎませんので、その範囲でご理解いただきたいと考えているところです。


かぼす(香母酢)

かぼすと呼ばれるようになった所以は、かぼすの果皮を細かく刻み、蚊やりとしていぶして使用していたため、「蚊いぶし」から「かぶし」に転じ、そして現在の「かぼす」という名称に落ち着いたのです。



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こういった気楽な話であれば簡単なのですが、お考えは自由です。

恐らく、かぼす(香母酢)はかもす(賀茂酢)が起源であろうと考えています。

そして、持ち込まれたルートも海南島の加茂(チャマオ)からだったのではなかったかとさえ考えています。


賀茂族=博多の櫛田神社の大幡主の一族は、雲南省昆明から海南島を経由して列島に移動した白族の後裔であろうと言う話はこれまでにも何度となくお話ししています。

再度お読みになりたい方は、ひぼろぎ逍遥から以下などを参照下さい。


209 阿蘇の草部吉見と博多の大幡主の御先祖がおられた海南島について“コピーペーストも活用しよう”


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396 太宰府観世音寺北東の日吉神社 ①

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396 太宰府観世音寺北東の日吉神社 ①

 

20160908

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 

 

 新著「日本国の誕生」小松洋二著(不知火書房)の関係で炎天下の福岡市内を走り回っていると、静かに休憩できる観世音寺は緑に溢れコンクリートやアスファルトに覆われていない土の地面の駐車場があるためそれだけでも気温も低く、ほっとします。

 

 何度も参内している観世音寺ですが、北東には7世紀ともされる日吉神社が鎮座しています。

 

 北東に鎮座している事から、観世音寺の守護神との性格を持たされているようです。

 

 この神社も過去何度か見ていますが、少しは目も肥えてきたのではないかと増長し改めて見せて頂く事にしました。 


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日吉神社 カーナビ検索 福岡県太宰府市観世音寺5丁目11

 

 

 

 日吉神社についてはこれまで何度も取り上げて来ましたので良くお分かりだろうと思いますが、日枝山王宮、山王権現、松尾神社、佐田神社(出雲の佐田大社は断じて猿田彦などではない!)…であり、阿蘇の草部吉見神=ヒコヤイミイ(ヒコハエミミ)と宗像大社の市杵島姫との間に産れた大山咋(オオヤマクイ)神その人を祀る神社です。

 

 

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同社参拝殿の縁起縁起

 
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社殿は至って簡素で、境内摂社や末社の類も一切ないことから、縁起にある二神=大山咋、大己貴神(オオナムチ)のうち大国主=大己貴神が本来の祭神であったことが一目瞭然です。

 

最低でも7世紀初頭までは、この大国主=大己貴神こそが九州王朝の国寺とも言うべき観世音寺の鬼門を守る守護神であったことが分かるのです。

 

 社殿の神紋はと今回改めて確認すると、「日」なる文字が浮かんでいました。

 

以前はただの模様と見過ごしていたのですが、日吉=日枝の意味だったのです。

 

 

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秀吉の九州侵攻時の逸話は興味深いものがありますが、大山咋の子が贈)崇神天皇=ツヌガノアラシトになることから、権勢を誇った藤原氏も阿蘇氏を起源としている事を十分に承知していた秀吉(木下家への入婿であり紀氏の系統)はこれ幸いと領地没収へと運んだことが見て取れます。

 

 この木下家は五七桐紋を使う氏族で、入り婿となった秀吉は相当に優秀な男と見込まれて婿となった切れ者だったことがその事だけからも想像できそうです。

 

 ただ、入婿だったことから、生涯、正室の ねね には頭が上がらなかったとされています。つまり、“秀吉が卑しい百姓以下の身分”とか猿とか言った表現は後の徳川による貶めるための宣伝でしかないのです。

 

 

 

397 太宰府観世音寺北東の日吉神社 ②

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397 太宰府観世音寺北東の日吉神社 ②

 

20160909

 

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 

 

 日吉神社についてはふれましたが、肝心の太宰府観世音寺に関しては皆さんにお知らせしておくことがあります。

 

 これは、九州王朝論者の中では半ば常識化している事ですが、この観世音寺とは九州王朝の国寺であった可能性があり、九州王朝の消滅後(白村江戦敗戦後)に解体され筏として組み直され畿内に運ばれ法隆寺の五重塔外になったのではないかという話があるのです。


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勿論、この説を提起されたのは「法隆寺は移築された」を世に問われた米田良三氏です。

15年も前に公刊されたものですが、未だに色あせることなく九州王朝論者の間ではバイブル的な響きを保っています。

差し障りがあるといけませんので、詳しくはそちらを読まれるとして、本来の法隆寺の五重塔の芯礎は現存していますので、太宰府天満宮とか九国博ばかり足を向けずにたまにこちらにもおいでになり、古代を考えて頂きたいものです。

米田説の中には、観世音寺の裏手にある僧坊跡なる礎石についても京都の三十三間堂として移築されているというものがありましたが、その礎石もそのまま残されていますのでご確認ください。

そもそも、戒壇院の裏の高い方に僧坊が置かれるという事自体が解釈的にはおかしく、宝物庫、宝物倉といったものならばいざ知らず、僧坊として住居に使えば、穢れた水が流れ込むはずで、事実、金堂西に造られた池に汚水が落ちる事になるのです。

当時もあったかどうかは別として、清浄な僧とは言え汚水を落す事にはなり、坊は下流に置かれなければならないはずなのです。解説、解釈はトンチキ。


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当時、水はどこから流れて来ていたかと言えば、日吉神社を見れば分かります。


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戒壇院、金堂裏手に残された礎石群

 

はじめに

 第Ⅰ部:法隆寺の封印を解く

   第1章:解体修理工事報告書の内容

   第2章:解体修理工事報告書の三つの事実

  第Ⅱ部:日本文化の華・観世音寺の運命

   第3章:観世音寺はいつ・だれが造ったか

   第4章:その後の観世音寺

 第Ⅲ部:日本の原風景・たい(イ偏に妥)国の姿

   第5章:たい(イ偏に妥)国とはどのような国か

   第6章:考古学的成果の再検討

   第7章:ふたたびたい(イ偏に妥)国について

 第Ⅳ部:日本の天才・上宮王の業績

   第8章:法隆寺の仏像

   第9章:創建観世音寺金堂の仏像

   第10章:正倉院御物の検討

   第11章:たい(イ偏に妥)国の宗教

あとがき

 

建築家である著者が古田武彦氏の所説に触発されて書いた書。圧巻は第Ⅰ部の法隆寺の西院伽藍の解体修理報告書の内容を建築家の目からつぶさに検証したところ、金堂と五重塔の部材には、はっきりと一度解体して再度組みなおしたあとが数多く見られ、それが一部分の修理などでは理 解できない、建物の根幹部分にも及んでいる事を検証した部分。著者はこの検討結果をもとに、古い絵図などとの比較検討の結果、現法隆寺の西院伽藍は太宰府観世音寺の金堂と五重塔を解体し移築したものである事。そして其の際に建物も向きは元のものとは違った向きに建てられるとともに、 内部もかなり改造された事を証明する。

太宰府観世音寺を建てたのは九州王朝の上宮法皇(隋書たい国伝のアメ ノタリシホコその人)であることは古田氏の著書に詳しい。

(なお著者は第2書である「建築から古代を解く」【新泉社・1993年刊】で京都の三十三間堂は太宰府観世音寺の三十三間堂を移築したものであることも論証している)

 

「教員のための社会科学習参考書籍集」より

 

出版当時、飛びついて読ませて頂きましたが、古田史学の会内部では賛否両論が飛び交っていました。 

 仏教が隆盛を見せた時代、九州から山陰では何故か多くの廃寺が出現します。

 しかも瓦は出るものの木片等は全く発見されず、どのように考えても奇妙でした。

 ただ、60年程度で、瓦は劣化しますので葺き替えは必要ですし、木材は解体され補修されるのが通例です。

 このタイミングで、随時、放置された寺院の建物が解体され筏で瀬戸内海を渡り、新たな首都圏に再建されたという考えはリーズナブルで、木材が発見されない事の説明も付くのです。

 有名な島根県下府廃寺、鳥取県の加上淀廃寺、岩井廃寺、行橋市の椿市廃寺、佐賀の大願寺廃寺…と十数か所の廃寺跡を見て来ましたが、これが九州王朝の資産の再建と見るか強奪と見るかは問題でしょう。  

それはともかくとして芯礎は元より、多くの礎石もそのまま放置されているのです。



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398 航空戦艦「伊勢」と柳田国男

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398 航空戦艦「伊勢」と柳田国男

20160910

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

本稿は通説派に堕した久留米地名研究会HPからバック・アップ(避退)掲載したものです。

 

なんとも凄まじいタイトルですが、それなりの接点はあるのです。

レイテ沖海戦と言えば、南方への拠点フィリッピンの支配権を巡り日米が激突した事実上最後の艦隊決戦でした。

猛将小澤 治三郎(オザワ ジサブロウ)率いる囮艦隊(第三艦隊)がハルゼーの米機動部隊を北に吊り上げ、その隙を縫って栗田健男揮下の第二艦隊(第一遊撃隊)がレイテ湾に殴り込みをかけ、無防備の米輸送船団を撃破する(捷一号作戦)という乱暴なものでしたが、後に「謎の反転」として物議を醸す事になる栗田艦隊の三度の避退によって、企図された作戦目的を全く達成することなく、空母4隻、「武蔵」以下の戦艦3隻、重巡6隻、軽巡4、駆逐艦11隻を失うという決定的な敗北を喫して逃げ帰った無様な作戦でした。 

戦史、戦記関係の識者の間でも、事実上、太平洋戦争の帰趨(敗北)はここで決したと言われています。

さて、小澤と共にこの危険な陽動作戦を受け持った一艦に航空戦艦「伊勢」(航空戦艦に関する説明は後述します)がありました。

その艦長は中瀬 泝(ノボル)でしたが、彼には非常に有名な逸話があります。

この作戦の真最中、撃沈された僚艦の乗員を回収するために長時間(十五分間)停船させ海上に漂う九十人を救出しているのです。

当然ながら作戦行動中であるため重大な軍規違反のはずなのですが、彼の人柄が良く分かる話ではあります。

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画像はネット上の「ウィキペディア」から切り出したもの(これは艤装前の艦影)

 

例え軍規違反であったとしても、救われた人間の側にとっては神にも等しい存在だったはずであり、救出された乗員の父親だったのか、復員後の中瀬艦長に駅頭で一人の老人が取り縋って泣いた…と言う話も残っています。

実は、この中瀬 泝の父親こそ、柳田 国男が民俗学に乗り出す起点となった『後狩詞記』(ノチノカリコトバノキ)を書く際に柳田を案内したと言われる当時(明治四一年)の椎葉村村長中瀬淳(スナオ)氏だったのです。


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これだけでも詳しく一文を書きたい素晴らしい話ですが、ともあれ、名将山口 多聞と並び称せられる小澤 治三郎も宮崎県の出身であった事を考えれば、同郷の信頼関係によるものであったと思えるのですが、それは思考の暴走になるでしょう。


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思考の連鎖

 

ネット上に公開している「有明海・諫早湾干拓リポート」リポートⅢ、十二月号掲載の188.「2006年 栂尾神楽遠征紀行」において、宮崎県椎葉村の栂尾神楽のことを書きましたが、それを遡ること十年、民俗学者宮本常一が調査に入ったという土地を見たいという思いだけで初めて栂尾を訪ね、神楽の魅力に引き込まれていた時、観客の中で「椎葉村の出身者に戦艦の艦長がいた…」と話されているのを聴くとはなく聞き込みました(今思えば黒木勝実元助役だったのかも知れません)。

その時は気にも留めずにいたのですが、最近になってレイテ沖海戦に関するある戦記物を読んでいると、「捷一号作戦」において、空襲の恐れのある緊迫した海戦の最中に自らの撃沈の危険をも恐れず、多くの乗員を回収したという有名な話に登場する「伊勢」の艦長が宮崎県の出身者であったことに気付き、この中瀬艦長こそ、耳にしていた椎葉村出身の戦艦の艦長であった事を改めて知ったのです。

一方、リポートⅢ、十一月号掲載の 1792006 熊本地名シンポジウム in 人吉 紀行 でふれた熊本地名研究会の「2006 熊本地名シンポジウム in 人吉」において、「椎葉地方の狩風俗」が江口司氏によって発表されます。

この江口報告には民俗学に興味を持つ者にとって非常に興味のある話が紹介されていました。

柳田の椎葉での調査活動(行動)について研究され、「日本民俗学の源流-柳田 国男と椎葉村」を残された故牛島 盛光氏が“田山花袋の研究者から、柳田と田山への書簡の中に柳田の椎葉での行程が書かれている”という事を知り、一九九一年、黒木 勝実(元椎葉村助役)氏に調査を依頼したところ、同氏は館林市の田山花袋記念館において田山と柳田との書簡の中に自分の父親でもある黒木 盛衛(中瀬 淳の後を引継いだ次の椎葉村村長)氏の家に泊まったという事実を発見した事が明らかにされました。

実は、黒木氏とは人吉の地名シンポジウムに引き続き、再び栂尾神楽でもお逢いしていました。

その黒木氏に引き合わせて頂いたのが、八代河童共和国大統領の田辺 達也氏だったのですが、良くゝ考えれば、初めて栂尾神楽を見るためにこの地を訪れた時にもこの黒木氏と話をしていた事を最近思い出しました。

さて、私にとってさらに驚く事が分かります。

再び話を中瀬艦長に戻しますが、この中瀬 斥が、いったい椎葉のどこの出身であったかについて前述の黒木氏にお尋ねしたところ、直ちに、上椎葉ダムによって半分が水没させられた椎葉村小崎の竹の枝尾の出身であったと教えて頂いたのです。

そして、その父親こそ、人吉の熊本地名研究会で発表された、柳田 国男が泊まった椎葉村村長の中瀬 淳(中瀬艦長の父親)であったのです。

武雄、八代、椎葉という人脈と、熊本地名研究会、柳田民俗学、栂尾神楽、レイテ沖海戦の中瀬艦長という奇妙な思考の連鎖がトライアングルを形成した瞬間だったのです。

 

航空戦艦


さて、前稿をネット上に公開したところ、“航空戦艦とは何か”という質問が舞い込みました。“こう言って来たのが若い人ならば仕方がない”と一応は無視したはずでしたが、私より一つ上のかなりのインテリから言われただけに、今回、一文をもって補足することにしたのがこの小稿です。

私としては普通に知られているという認識だったのですが、どうもそうではなかったようです。

想像するに、航空戦艦(正式にこのような艦種があったわけではなく、あくまでも戦艦であることは言うまでもありません)が、一から建造されたものではなく、改装型の艦である事、また、「伊勢」「日向」ともに、その後も目立った戦功がなかった事がほとんど知られていない理由かと考えます。

もちろん、かなり古い話になりますが、大映の映画「海底軍艦」に登場する架空の空飛ぶ戦艦などであるはずはなく、いわば航空母艦と戦艦の合の子で、前半分が戦艦、後ろ半分が航空母艦という異型ながら、それなりに強力な攻撃力を持った堂々たる戦艦だったのです。


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結果、終戦まで「伊勢」、「日向」の二艦が実戦配備されましたが、激戦とは言えニ艦ともレイテ沖海戦(捷一号作戦)の囮部隊になった程度で敗戦まで生き延び、最後は米艦載機の攻撃を受けて沈没し呉港内に着底したまま占領軍を迎えたのでした。

「伊勢」、「日向」は多少改装への経過が異なりますが、基本的には「扶桑」型の「山城」に次ぐ三番艦、四番艦であり、三六サンチ砲を搭載する三万六千重量トンの堂々たる戦艦だったのです。

それが、急遽、航空戦艦に改装された理由は航空母艦が不足したからに外なりません。

この辺りについては正確を期すために、手元にある『日本海軍艦艇ハンドブック』多賀一史(PHP文庫)を引用することにします。

 

・・・昭和十七年、ミッドウエー海戦で主力航空母艦四隻を失った海軍は、緊急対策として使用頻度の低い戦艦及び一部の巡洋艦の空母改造を計画した。特に日向が砲塔爆発事故で五番砲塔が使用できない状態だったために、まず伊勢型の航空戦艦化が実行された。

十八年八月に、改造工事は完成したが、当初予定していた搭載機瑞雲の生産が間に合わず、広い格納庫を利用して輸送任務などに就いていた。・・・

 

 確か航空戦艦はイギリス海軍だかフランス海軍だかに先例が一つあったと思いますが、実は、この時、既に戦艦の時代は終わっていたのです。

対艦巨砲主義に基づくアウト・レンジ戦法は、第一次世界大戦直後から暫くの間は確かに正しい戦法だったのですが、究極のアウト・レンジ戦法としての航空戦力による対艦攻撃が既に登場していたのです。 

つまり、敵の弾が全く到達しない距離を絶えず維持しながら、長距離砲で一方的に敵艦を叩く大艦巨砲攻撃それ自体は非常に理に適っていたのですが、時代は既にさらにその長距離砲が全く届かない場所から航空機によって破壊力のある攻撃を行うことが可能になっていたのです。

このことに早くから気付いていた人間(大西 瀧治郎・・・ほか)もいたことはいたのですが、結局入れられることなく、八八艦隊建設以来の幻想と利権に凝り固まった軍の腐敗官僚どもによって軌道は修正されることなく対米戦争完敗にひた走り、最後は航空戦力の重要性を早くから訴えていた大西に特攻を指揮させるに至るのですから、日本の軍部というのは組織的にも何の役にもたたないくだらないものだったのでしかなく、恐らく現在の国土交通省や農水省の官僚どもと同様のものだったのでしょう。

仮に「大和」や「武蔵」を造る資源を航空母艦と大量の航空兵力に振り向けていれば、戦況は全く違ったものになったかも知れないのですが、私は帝国海軍を支援する者でも、日本という国家を熱愛する者でもないため、事実以外には全く興味はありません。

考えるに、実質的に第一次世界大戦をパスした日本軍は、陸軍を中心に新兵器、新戦術による劣勢を精神主義で補うという傾向に堕落し、比較的柔軟であった海軍においても既に官僚主義に腐食され、新しい時代に柔軟に適応できる組織ではなくなっていたのです。

話は、ここまでとしますが、最後に私が少年時代にこの航空戦艦に対して持っていた印象を申し述べて終わりにしたいと思います。

 航空戦艦と言わずとも、伊号400潜においてさえも、確かにカタパルトによって発艦は可能なのですが、着艦はできるのか?不便ではないのかという不安を最後まで拭えませんでした。そして、実際、フロート機でもなければ着水回収はできなかったのです。

もちろん、別に小型の軽空母(補助空母)などを随伴すれば問題はなかったのかもしれません。

しかし、元々、日本軍には兵員を大切に扱うという伝統がなく、実質的にも既に帰還率は下がる一方であり、真面目に考慮されなかったのです。

それ以前に、有名な“マリアナ沖航空戦の七面鳥撃ち”によって大半の航空戦力を失うなど、完全な特攻の時代に突入していたのでした。

宇垣 纏の四航艦による非合法の航空支援は行われ、それだけに「大和」揮下の特攻艦隊の乗員は涙したと言われていますが、最後は航空支援もつけずに大和を沖縄に出撃させたことは、日本では戦艦による特攻さえも行われたことになるのです。

そのような国が日本であり、その統帥権を持った最高戦争指導者は、恥さらしにも自決もできずに長寿を全うしたのですから、つくづくこの国とは自国民を全く大切にしない国であることが分かります。


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改(艤)装装後の艦影


当然ながら、これは現在もなお変わりありません。

今回は全く地名の話になりませんでしたが、上椎葉のような大型のダムの底に沈んだ土地にも、多くの歴史、社会、集落、人生、地名があったのであり、このようなものにも目を向けて頂きたいと思うばかりです。

この中瀬艦長の生家がどこかを知りたくて黒木氏にさらに詳しく教えて頂きましたが、この小崎の竹の枝尾という土地は、毎年神楽を見に行く栂尾ほどではないものの、よそ者にとっては秘境であることには変わりなく、五ヶ瀬からのトンネル経由はあるものの、人吉盆地からの道が最悪の道であることも手伝ってなかなか足が向きません。  

それでも、悪路がお好きな向きには国道265号線で訪ねられてはいかがでしょうか。


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本稿はネット上に公開している「有明海・諫早湾干拓リポート」の号外「有明臨海日記」に掲載した 135.航空戦艦「伊勢」と柳田国男(20061130)、152.航空戦艦(20070104)の原文を大きく変えることなく民俗学的論考として再編集したものです。

 

今を去ること百年前、明治411908年に民俗学者の柳田 国男は法制局参事官として椎葉村に入り『後狩言葉記』を世に問います。まさに日本の民俗学が誕生した瞬間でした。その後、宮本常一は柳田が入らなかった椎葉村栂尾の調査に入ります。     


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宮本常一が調査に入った秘境中の秘境椎葉村栂尾神楽の大神唱教(上左)

 

同じく柳田国男が調査に入った菊池氏の亡命地米良の銀鏡(シロミ)神楽(上右)



 

 

 

スポット091 再度の3.11を警戒し クジラが打ち上げられないかと思っていたら…

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スポット091 再度の3.11を警戒し クジラが打ち上げられないかと思っていたら…

20170309

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

 あの胸糞の悪くなる腹立たしいばかりの「頑張ろう日本!」コールから早くも六年が流れ去りましたが、震災、津波による直接的な数万人に上る犠牲者に加え、今尚、全国の避難者の数は約123千人に上るとされています(228日の復興庁の発表)。

 そうした中、政府回覧板であるNHKが 3.11の前日、またもや鹿児島県南さつま市の金峰町(吹上浜)に6頭のクジラが打ち上げられた事を伝えました。


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当会でもこの手の話に精通している多くのメンバーの間では、直ぐにこの情報が飛び交いました。

 「地震雲はどうだ」、「火炎現象はないか」、「放射能は上がっていないか」…という訳です。

 地上波とか大手新聞とかB層向けの「お昼のバラエティー」馬鹿番組に見向きもしなくなった人々の間では、既に、①P波の存在しない地震波 ②クジラの大量死 ③判を打ったような震源深度10キロ ④地震雲 ⑤発生日や時刻についての妙な数字の一致 ⑥海底掘削船の活動 ⑥不可解な航空機の事故 ⑦地震の発生地や震源の偏り ⑧飛び交う噂…と、何度も発生する(引き起こされる)地震の背景にある程度の関心を向けていれば、必ずしも詳細に調べてなくとも、多くのファクターを把握しまともな頭脳さえ持っていれば、自ずと見えてくるものがあるのであって、行政が流し続ける回覧板を真顔で信じ込むような方々ならいざ知らず、全てを疑って掛かる(掛からなければならい)探究者のグループでは普通にこのような議論が行われているのです。

 では、結果はどうだったのでしょうか?

 折しも、2017年の3.11は津波にも効果的な満月、中潮~大潮(それも春の…)に当たっていたのでした。


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結果はどうだったでしょうか?


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規模は小さかったものの、ピッタリと翌日の3.11には地震が起こったのでした。


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地震波についてはP波が存在しないものが多くなっているため、最近は地震波がなかなか公開されないようになりました。

 遠い鹿児島での地震である事から、波形が公表されない限り本物の地震だったのか、それとも最近目立って多い地下核実験や鉱物資源探査用のような人工的地震だったのかは尚断定できませんが、またもや震源が地下10キロとなると、六年前の3.11や熊本~大分が殆ど地下10キロであり、かつ、初期微動継続時間が存在しない直接S波(それをS波と言うべきかも不鮮明ですが)がやってくる前触れのない警告なし地震だったのではないかと思うのです。

 東京湾、錦江湾と閉鎖的な海域では非常に効果が大きいため壊滅的な被害になりますし、クジラが打ち上げられた吹上浜の直ぐ北には再稼働し始めたばかりの九州電力の川内原発1号機があるわけで、もしも大型の巨大地震であったならばさぞかし効果は絶大だったことでしょう。

 ちなみに、そこいらのB層はともかくとして、多少とも自分の頭で物事を考える事が出来る人々の間でも人工説が飛び交い、ネット上では人工説が圧倒的な広がりを見せています。

 自然か人工かは置くとしても、正確な情報が秘匿されマスコミが真実を伝えない限り、疑心暗鬼は深まり、行政や大手マスコミに対する信頼性は低落し、最終的には米国のトランプの登場に見られるような劇的な現象が起きる事になるでしょう。

 東北大震災、浅間山爆発、30年やっても一度も的確な予知のできなかった地震予知連、おまけに今や元々の発信源だった米国のNASAそれ自体が昨年の夏あたりから南極の陸氷の増大を認め始めたたように、二酸化炭素による地球温暖化といった大嘘を吹聴する環境庁や気象庁…と、原発専門家、原子力学者、地震学者、気象学者といったものが大嘘つきの上にまともな知識さえも持っていない事があからさまになり、それに連動する嘘つきの大手マスコミ、トランプ流に言えばフェーク・ニュースになってしまったからでした。

 それもこれも、真実の追及を投げ捨て、利権と予算獲得に狂奔し行政権力の尻尾、官僚の芸人へと成り下がってしまった事が明らかになったのでした。

 このような手合いは知的な学者レベルの人ばかりではなく、皆さんたちの周りにもいるもので、行政に尻尾を振り“自分を使ってくださいとばかりに売り込んで”、自己保身と処世術に邁進するさもしくもつまらない人物もいるものです。

 熊本市内から、直線で50キロ近くに居て何度も大きな揺れを体感した私に対して、「P波が来ないのは直下だから当たり前だ!」と半端な忠告とも罵声とも言えない愚かな事を云ったK県K市のK八幡宮の3K馬鹿下級神官が居ましたが、その「直下なら前触れが無いのは当たり前だ…」といった予め用意されていたかのように直ちに出されたblog情報だけで知ったかぶりをしていた為体で、所詮、あの時代の誰でも入れる国学院ならまともな勉強はしていないのが良く分かった瞬間でもあったのです。

 今なお、人工とも自然とも保留しながら目を向け続けているにも関わらずイディオロギッシュに行政権力に尾を振り使ってくださいとちんちんする馬鹿宮司しかいない様では、十年と待たずして、ほとんどの神社は経営的に成り立たなくなっている中、神官がルンプロに成り下がる日も近い事でしょう。

 真実に一切目を向けようとしない馬鹿神主の言葉を有難がって賽銭を出す者はネット世代にはいなくなるはずです。

 私達の神社トレッキングでは極力お賽銭を入れ、清掃、補修、再建へと苦労されている神社への協力を呼び掛けているのですが、嘘つき神主にはビタ銭一文入れたくならなくなるのは道理だと思うのです。

 

初期微動


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1908サンフランシスコ大地震の際にドイツの地震計で観測された地震波の波形。一番左の赤線から一番左の緑線までの間が初期微動。

初期微動(しょきびどう、preliminary tremors)とは、地震における最初の小規模な地震動のこと。地震波Pによって引き起こされる揺れのことである。また、初期微動はP波が到達してからS波が到達するまでの間継続し、その後の地震動は主要動という。

地震動は地震波により引き起こされ、地震波はPS表面波から構成されている。P波・S波・表面波の速度はそれぞれ異なっており、P波は57km/秒、S波は34km/秒である。そのため、観測地点から見ると、地震波はまずP波から到達し、ついでS波・表面波の順となる。地震動もそれぞれの地震波によって引き起こされるため、まずP波による揺れ、次いでS波による揺れが起きる。

P波は疎密波であり、その揺れはS波によるものより小さい。そのため、この揺れを初期微動と呼称する。P波は地震波(地震動)の周期が短いため、初期微動はカタカタという小刻みの揺れであり、人間の体感ではそれほど大きな揺れではない。また、建物などを大きく揺らす周期とも一致していないため、初期微動の段階では建物が壊れるようなことは少ない。

初期微動継続時間duration of preliminary tremors)は、P波とS波の速度差に由来する。そのため、震源が遠いほど初期微動継続時間は長くなる。逆に震源地直近においては、ほとんど初期微動継続時間はなくなる。初期微動継続時間の秒数に8をかけると、ほぼ震源距離(km)になる(たとえば初期微動継続時間が20秒のとき、震源距離はおよそ160km)。このため、1つの地震計波形からその観測点と震源の距離を概算したり、少数の地震計波形から震源の位置を決定する際にも、初期微動継続時間は有用である。防災の面からは、この初期微動の時間は、有効なものとされている。初期微動は、S波による地震動より相対的に小さいものであるために、この微動の時間においては避難も容易であり、地震警報システムエレベーターP波センサ付き地震時管制運転のイニシャルタイムとしても使われる。

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20170312 10:00による

 

参考

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地震の伝わり方 -Hi-HOによる

 

 まず、この縦波横波という呼び方は誤解しやすく、左右と言うか横に平行に揺らされるのを縦波と呼び、上下というか縦に垂直に揺らされるのを横波と呼んでいるので一般人には理解し難いのです。

 要は始めに足元を左右に動かされ、後で上下に動かされるのが天然の自然な地震であり、熊本の場合何度となく前触れ(プライマリーウェーブ)なしに緊急地震速報が出された時には、同時にか既に揺れているという現象を経験しているのです。

 それを直下のというか直上の下級神官は直下だから前触れなどあるはずがないなどと強弁したのでした。

 恰も勝てない戦に「皇国日本が負けるはずがない!勝っている!」とあたかも女衒のように自らは安全な場所で戦地に多くの兵卒を送り出した。こういう輩が古代史の探究とか真実の古代史とか言っているのですから始末に負えません。

 それらはどうでも良い取るに足らぬ些細な話でしかないのですが、もしも夏場に川内原発がメルト・ダウンすると水俣、八代から熊本辺りまで焦土と化す可能性もあり、西と東が長期間にわたって人の住めない禁足地になる可能性があり、それも愚かな日本列島(劣等)民族の選択かも知れないと思わざるを得ません。

 事実、福島と言う日本でも三番目に大きな県を取り返す事のできない焦土としたのは、CIAのエージェントとなった正力○太郎、中曽根○弘といった歴代自民党の売国奴どもであり、今また、再稼働へと狂奔する県議、知事、町長といった守銭奴どもとなる訳です。

 国民も国家も国土も守ことなく、自らの自己保身とさもしいばかりの目先の利益を追求する官僚や売国政治家であり、その尻尾となった三反○のようなピエロはどうでも良いとしても、県議や市町村長レベルまで国士は一人もいないのかと思わざるを得ないものです。

 原爆も二個落されてようやく無条件降伏としてのポツダム宣言を受諾したのであって、どうやらこの劣等民族は一度では懲りず、やはり二つ目のフクシマを経験する事無く体制の転換には踏み出せないようなのです。

早く二つ目のフクシマが起こって欲しいものです。列島を焦土としてしまえば良いだけなのです。

東のフクイチに対して西のセンダイか、中南海地震によるイカタになるのか…それも覚悟しておかなければならないのかも知れません。

何故なら実際に福島は取り返しのつかない焦土と化したからであり、決して架空の話ではなく、そうでもなければ再稼働などと言った馬鹿げた選択の変更はできないからです。

 鹿児島と熊本が福島級の焦土となれば、山形、秋田から北海道に逃げるしかなくなりますね。

 勿論、最悪の場合の選択ではあるのですが、車中泊の生活になれている者としてはデータだけを持って直ぐにでも逃げ出す事になるでしょう。さて、最後の話に踏み込みましょう。

 今回は、震度3(M3.6)の小規模な地震に留まりました。

あまりにもデータが揃い過ぎているため人工説を考えざるを得ないだけなのですが、あくまでも、そうだとした場合、それは、大規模地震の実験だったのか、失敗だったのか、警告だったのか、脅しだったのか…という問題です。

安倍晋三が国民と国土と国富のために奮闘しているなどとはつゆ思っていませんが(岸 信介以来米国のエージェントなのですから)、既に、ジャパン・ハンドラーによって安倍降ろしが始められている可能性があります。

何故ならば、どうしてこの時期に籠池による森友学園の問題が唐突に浮上したのでしょうか?

この米国の占領下にある植民国家は、これまでにも田中角栄、石井紘基、橋本龍太郎、中川一郎、小沢一郎(こちらは復活の可能性があるのですが)と多くの政治家を処理し、政治生命を奪ってきたのです。

 これらの事と併せ考える事無く将来を見通す事はできないはずなのです。

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出典 pbs.twimg.com

 

 個人的には、戦後のたった70年の間に、農水省の馬鹿どもによって杉檜に覆われ、国土交通省の馬鹿どもによって多くの素晴らしい渓谷がダム沈められ湖や川から魚を消失させてしまったこの破壊され尽くした国土などには何の未練もないため、どうなろうが知った事ではない上に、通産と外務の恥ずべき官僚どもによって原発過密国家となり、イスラエルとアメリカにいつでも破壊できる時限爆弾を仕掛けられたような国土は救いようがなく、旧大蔵官僚によって経済的にもユダヤ金融資本に完全に占拠された日本経済にも全く将来性が無いことから、凡そ再度の国破れて山河なしの惨状から立ち上がる気にはならないからです。

 今のところ地震波の波形が出てこない以上判断は着きませんが、恐らくこういったものになるのでしょうか?


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参考

 

既に元自民党の浜田政務官により地震兵器が実戦配備されている事については国際軍事政治の常識である事を国会で答弁しており、知らないのは一般のB層だけといった状況なのです。



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そもそも最高の戦争行為とは、しかけられた相手が誰から攻撃されたかも攻撃された事さえも分からずに傷つき衰亡させることができる事であり、一切の反撃を受けることなく目的が達成できる事になのです。

 恐らく、日本の防衛庁内部にも人工地震攻撃に対するプロジェクトチームも存在しているはずであって、知らないのはB層並みの頭しか持たない政府回覧板としての大手マスコミをそのまま信じ込んでいる人々だけなのです。

もっとも、始めから行政権力は無視できないとして尻尾を振り続ける思想信条の自由を持っていない人物はどうしようもありませんが…。

 現在、熊本の陸上自衛隊の幹部クラスと接触のある人物から、この熊本地震の問題(12人の問題を含め)に関しては内部で緘口令(「カンコウレイ」は「箝口令」と書くことが正しいようです。「小野田寛郎・酒巻和男対談「遥かに祖国を語る」を読んでいて気付きました)が敷かれているという話を聴き及んでおり、関心はさらに深い部分へと向かっています。

 

 

 

 

スポット092 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 ③ 分離先行トレッキング

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スポット092 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 ③ 分離先行トレッキング

20170213

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

 

 20173月、熊本のメンバー340人を対象に、宮崎県五ヶ瀬町鞍岡をエリアに4社を巡る神社トレッキングを企画しました。

 


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 ただ、熊本地震の影響で尚もこの一帯に入るルートには障害が出ており、かなりの距離もあることから年度末でもあり、多くのメンバーが一度に集まる事はなかなかできません。

 このため、当日参加できない56人と現地を廻る小規模なトレッキングを行う事にしました。

 朝から素晴らしいばかりの青空が広がり、反って本番の20日が雨でなければという思いがつのります。


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整のための分割開催ですが、下調べの意味もあり、未踏の天津神社への下見と言った意味もあります。

 由緒から見る限り、まず、本殿に祀られているのはスサノウ、オオナムチ、イザナミの三神であると考えられます。

 まず、注目して頂きたいのは、イザナミがいるもののイザナギがいないことです。

 百嶋神社考古学ではイザナミとイザナギはスサノウを産んだ後に別れており、ここではそれが反映された祭神になっている(熊野もそうですが、だから黄泉の国からイザナギは鬼女に追われ死んだことにしてあるのです)のです。

 そもそもイザナミは瀛氏の金山彦の妹であり、五瀬命(イツセノミコト)の母なのです。

 そもそも祇園神社が鎮座する鞍岡は五ヶ瀬町にありますよね。 単なる偶然だと思われますか?

 祭神に奇稲田姫神=櫛稲田姫が書かれているのも、金山彦が大幡主の妹である埴安姫との間に産んだ姫神だからなのです。


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sp92-4そして、蘇民将来、巨胆将来の巨胆将来こそが阿蘇神社の神殿最奥部に祀られている第二代綏靖天皇とされた神沼河耳命なのです(赤枠)。

 結局、神殿に祀られている祭神を見ると、祇園神社がイスラエル系=瀛氏の金山彦を中心にスサノウ系、金山彦系で固められた神社である事が分かるのです。

 では、なぜか、神殿から出された?若しくは境内摂社として神殿外に置かれた祭神を考える事にしましょう。

 まず権現神社から考えますが、誤植があります。

 それは最後尾の熊野天須美神です。

 これは、通常、熊野夫須美命などと表記される大幡主系=熊野系の主神のお一人、瀛氏の金山彦の妹であり、イザナミからクマノフスミと名を改められた五瀬命(イツセノミコト)の母神(熊野那智大社)であり大幡主(熊野速玉大社)のお妃神なのです。

 良く分からないのが権現神社の筆頭に掲げられた家都御子神です。

 このような表記に出くわしたことがないため、分からないながらも一応の提案をしておきます。

 イザナミ改めクマノフスミ(熊野那智大社)と大幡主(熊野速玉大社)の御子神とすればヤタガラス=豊玉彦で良いはずで、×イチ夫婦の御家の御子神との表現は、熊野権現、熊野修験の影響がこの地まで及んでいた事をまざまざと見せつけられた思いがします。

 そう言えば、五ヶ瀬町には南朝方から出された木地師などへの綸旨が残されている事とも符合する事に思い至ります。

 

木地屋について
 木地屋とは、轤轤でお盆やお椀などをつくりながら全国を渡り歩いた木地屋職人の人たちである。木地屋には山の八合目以上の木は全国どこでも切ってよいとされる朝廷からの天下御免の免許状が与えられていた。
 文徳天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王(八四四ー八九七年)は二十九歳の時、都をのがれて近江の国小椋郷に移り、貞観十四年(八七二年)に出家して素覚法親王と名乗った。親王は読経中に法華教の経典の丸い軸から轤轤を思いつき、その技術を付近の住民に教えたという。
 こうした由緒に基づいて木地師は小椋郷をふるさととし、惟喬親王を轤轤の神様と仰いだ。祖神の氏子に対し朝廷は木地師の特権を認めた綸旨(りんじ)、免許状、鑑札、印鑑、往来手形などのいわゆる木地屋文書を与え身分を保証した。木地師はこの文書を携えて全国各地に散り、独自に生産活動を行うようになった。
 氏子には二派あり、一方を筒井公文所、もう一方を高松御所として、氏子狩と呼ぶ制度によって全国的な組織に統一されていく。

 氏子狩は小椋郷から奉加帳を持って諸国に散在する木地師を訪ね、祖神への奉加金を徴収し、人別改めを行った。
 木地師研究家の杉本壽氏の資料によると、正保四年(一六四七年)から明治二十六年(一八九三年)まで、奉加帳に登録された木地師の延べ人員は筒井公文所約五万人、高松御所約一万人といわれる。
 当地では、明治三年(一七六六年)鞍岡山、木地屋九軒とあり十三名分の奉加金が登録されている。しかし江戸末期からはその消息を絶った。代わって明治初年、三ケ所地区に小椋家が移住してきた。小椋家には木地屋文書があり、家宝とされている。木地屋文書は、江戸時代まで先例通り許可したが、明治時代になり土地の所有権制度が確立されてからはその慣例は無効となった。木地師は特権が認められなくなると、山から山へ渡り歩くことをやめて、農耕を兼ねるようになり、定住してきた。
 五ケ瀬町史(昭和五十六年発行)によると、小椋家の木地屋古文書には次のようなものがある。承平五年(九三八年)左大丞(太政官の左弁官局長官)の名で出された免許状で『器質の統領として、日本国中の諸国の山に立ち入ることを免許する』という書状。
 承久二年(一二二〇年)惟喬(これたか)親王を祭る筒井神社にあてた大蔵政卿雅仲、民部卿頼貞、藤原定勝、連署の惟喬親王由緒書。
 元亀三年(一五七二年)『諸国の轤轤師(ろくろし)杓子、塗物師、引き物師の一族は末代其の職を許し諸役を免除させる』という書状。天正十一年(一五八三年)には豊臣秀吉から『日本国中の轤轤師の商売は、先祖からのしきたり通り異議なく差し許す』という許可丈が筒井公文所あて出されている。
 九州において、一国の頭領が所持する木地師の由諸書や免許状を保存しているのは小椋家だけではないかといわれる。

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なんとか縁起の境内社の部分はお分かり頂けたと思います。


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大幡主ご一家が権現神社であり、古我武礼神社がクラオカミ(スサノウの姉)で、妙見神社が天御中主=大幡主の叔母さんにあたります。

 

最後になりますが、縁起に書かれていない生目神社が大山祗の左に鎮座している事にお気付きでしょう。

 これが宮崎市に鎮座している生目神社なのですが、百嶋神社考古学では、阿蘇高森の草部吉見神社の彦八井耳と高木大神(タカミムスビ)の娘であるタクハタチヂヒメの三世の孫が藤原により格上げされた後の贈)垂仁天皇(その実体は宇佐ツ彦)であり、宮崎にあることから明治期持ち込まれたものと思います。


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祇園神社の摂社に置かれた冠大明神古我武禮神社は回収され別社となった冠大明神古我武禮神社

 

祇園神社はスサノオを祀る神社でありそれはそれで良いのですが、スサノウのお妃のお一人であるクラオカミ=ミズナノメ=神大市姫=丹生津姫が鞍岡に祀られているのであれば、この冠大明神こそがこの一帯の本来の主神ではなかったのか?と考えるのですが…思考の暴走は限りなく続きます。


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399(前) 「有明海」はなかった

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399(前) 「有明海」はなかった

2016091020090815)再改訂

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

   

本稿は堕落した久留米地名研究会のHPからバック・アップ(避退)掲載したものです。

   

本文は民俗学の延長にある論稿に過ぎませんが、今日、古のものとして誰もが信じて疑わぬ「有明海」という呼称が、実はほんの百年足らずのものでしかないのではないかという仮想から若干の知的探求を行なうものです。

“「有明海」はなかった”などと書くと驚かれる方も多いと思います。

しかし、なお、オカシイと思われる方は地図を広げて見て下さい。ここでも、また、びっくりされるはずです。

地図によっても異なりますが、一般に考えられている有明海の認識と、市販されている地図上の有明海の表記が全く異なるのです。


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国土地理院地図

 恐らく、皆さんが手にする大半の地図では長崎県島原市(島原半島)と熊本市の間の海は有明海ではなく島原湾となっていると思います。

つまり熊本県宇土市から西に伸びる宇土半島や天草諸島の北に広がる海は島原湾でしかなく、天草(三角)へと向かう国道五七号線から右手に見える海は有明海ではないのです。

実際、地図の成立時期によっても、また、官庁によっても記載がまちまちで、混乱が行政によって持ち込まれているという印象は拭えません。実はこの問題についてふれた本があります。『有明海』自然・生物・観察ガイド(菅野 徹 著)東海大学出版会 です。

多分、有明海沿岸の図書館であればどこにでも置いてあると思いますので、ムツゴロウを表紙にしたこの本をご覧になった方も多いと思います。一九八一年初版で、有明海の珍しい生物を取上げたものです。まずはこの事についてどのように書かれているかをご紹介しましょう。


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『有明海』自然・生物・観察ガイド 東海大学出版会

 

  国土地理院は、こう主張する。

   有明海というのは、この海の北半分で、南半分は島原湾というべきだ。しかし、その境界については、当院は関知しない。

    海上保安庁はこうだ。

    この湾は島原湾と呼ばれるべきだ。有明海などというものは、当庁の採らないところである。

    辞典類の執筆者は、こういう。有明海と島原湾の境界は、長洲と多比良を結ぶ線である。

    そして、生物学者、地質学者も含めた一般国民は、有明海といえば、この大きな湾の入口にある、早崎瀬戸という海峡の内側の水域全部だと思っている。

国土地理院は、一九七九年に「日本国勢地図帳」というものを出している。・・・中略・・・「有明海」と「島原湾」の境界が、どこにあるのか、一行の説明も見出せないのである。

   いまみてきたように、国土地理院のこの水域に対する態度は、ひどく及び腰にみえる。その点を、電話で問い合わせたが、

   「境界は知らぬ」

   という返事であった。電話のことだから、これを同院の公式見解とはみなせないにしても、妙な話である。

   海図にも当たってみた。海図は、運輸省海上保安庁水路部がだしている。航海用の精密な図である。一九八一年発行の第一六九号「島原湾」を見てみよう。海図の隅に「有明海」の名は記入されているものの、その示す範囲はどうみても、おおよそ福岡県柳川と佐賀県藤津郡多良(たら)を結ぶ線以北としか考えられない。・・・中略・・・

   そこで水路部に電話してたずねたところ、

   「この水域の名としては、島原湾だけを用いている」

   という答えだった。念のために、水路部発行の潮汐表を見て、驚いた。・・・中略・・・ついに有明海のアの字もでてこなかったのである。「海上保安庁に、有明海の字はない」のである。


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『有明海』自然・生物・観察ガイド掲載の図面 (さまざまな有明海)消される有明海

 

 お分かりになったと思います。意識的か無意識的かは分かりませんが、有明海は消されつつあるのです。

菅野 徹氏も「ようやく、有明海を見た-と、このときは信じて疑わなかった」とされ

ているのですが、熊本の南、宇土半島の長浜というところで初めて見たものが有明海ではなかったのです。

この一般の意識とのギャップはどこからくるのでしょうか?

私は、生物、社会、理科といった小学校以来の意識やイメージを支えているのが教科書であり、それの元となっている学者、研究者の認識には「島原湾」はなかったからではないかと考えています。現在の教育現場についてまでは調べていませんが、もしも、この世界にまで国土地理院や海上保安庁水路部といった一行政機関の意志が浸透するようになれば、有明海は遠からず掻き消されていくのではないかと考えています。

 

有明町は消された

 

もう一つ、皆の記憶から完全に消えようとしているものがあります。

言うまでもなく有明町です。

平成の大合併が進められる中、三つの有明町が消えることになりました。

北から、佐賀県杵島郡有明町(現白石町)、長崎県南高来郡有明町(現島原市)、熊本県

天草郡有明町(本渡市などと三月に合併)です。佐賀県の旧有明町はもとより、この島原市と合併した旧有明町と天草上島の有明町の存在は、一般的認識としての有明海が正しい事を示すものです。このことについても菅野徹 氏は書いておられます。

 

この有明町という町名が地図から消失し、有明海という名さえも抹殺される時が来るのかも知れません。有明海を破壊した農水省の諫早湾干拓事業という犯罪行為や沿岸の針葉樹林化、旧建設省の不必要なダムの乱発も忘れ去られる事になるのでしょうか?


399-4

 

『有明海』自然・生物・観察ガイド掲載の図面 (3つの有明町)

 

実に慧眼です。残念ながら、私には菅野徹氏の恐るべき予言が現実のものとなったと考えています。

 

有明海と帝国陸海軍

 

ここで、私が考えている仮説をご紹介致しましょう。既に、HP「有明海・諫早湾干拓リポート」で書

いている文書を原文のまま二本再掲載することで換えたいと思います。判断は読者にお任せします(これについてもネット上に公開しています)。


399-5

 

2. 「有明海」という呼称と帝国海軍水路部

 

 さっそく民俗学的なテーマで驚かれたかもしれませんが、民俗学者の宮本常一に魅了され続けている私には、話を始める以上、どうしても「有明海」という呼称を気にしてしまうのです。このため環境問題、環境論議といったものを期待されている読者には多少の辛抱をお願いしたいと思います。

簡単に言えば「有明海」という呼称は思うほど古いものでもなく、どうやら帝国海軍(ジャパニーズ・エンペアリアル・ネービー)が付けたのではないかといった荒唐無稽な話です。極めてローカルな話になりますがしばらくお付き合い下さい。

相当古いと思われている「有明海」という呼称は実は明治も終わり頃からのもので、それ以前は単に「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」などと記され、また、土地の人からは単に「前海」と呼ばれていたようです(もっとも、「この江戸前」にも似た「前海」という表現は、どうやら佐賀県の福富、白石、福富町などの戦後の干拓地域を多く抱え込む新興の地域や太良町などの海洋民的風土の地域ではあまり流通しておらず、柳川市あたりから佐賀市、鹿島市(鍋島支藩)などの武家文化の浸透した地域で使われていたように思うのですが、もちろん詳細に調べているわけではなく、良くは分かりません)。ただ、具体的にどの段階でこの「有明海」という海の呼称が成立したのかについては現在のところ旧帝国海軍水路部あたりが付けたのではないかなどといった勝手な想像をしています。

 

野母崎(ノモザキ、ノモサキ)と千々石湾(チヂワワン、チチワワン)

 

有明海に帝国海軍の艦隊が入ってきたという話しはあまり聞きませんが(干満が大きく浅い半閉鎖性の海というものは座礁や衝突の危険が極めて高く、艦隊行動にとってはこれほど不向きなものはないのですから当然でしょう)、かつて島原半島の南に位置する千々石湾沖には演習で大艦隊が回航してきたことがありました。この帝国海軍の大演習に際して、日露戦争は「旅順港閉塞」の広瀬中佐(「杉野は何処・・・」)と並んで有名な、陸軍の軍神「遼陽会戦」の橘周太がここ千々石町の出身地であったことをもって、島原半島の南の千々石湾を橘湾と呼ぶように呼称の変更を行い、ある意味で陸軍にゴマを摺ったのが海軍であったという話を考えると、この「有明海」という落下傘的呼称もそのようなものではないかと考えているところです。

 長崎から南西方向に長く突き出した半島は野母崎(ノモザキ)と呼ばれていますが、国土地理院の地図では長崎半島とも併記されています。前述した橘湾、千々石(チチワ、チヂワ)湾も同様です。とりあえず、橘湾、千々石湾の方はそれなりの傍証があるのですが、長崎半島(野母崎)の方は、当面全くの推測です。

明治よりこのかた、このような岬、半島、海峡、海湾さらに細かい話をすれば海底の山(大和堆、武蔵堆)といった呼称を決定してきたのは、海では帝国海軍の水路部でした(陸では陸軍参謀本部陸地測量部)。当然ながら、彼らは水深、暗礁、干満、潮流、流速、卓越風といったものを調査し、艦隊行動に必要な水路情報を開発し蓄積してきたのでした。

 当然ながら、海軍はシナ海に面し三菱長崎造船所と佐世保の海軍工廠に近い野母崎を造船所の防衛線として最期の艦隊決戦の要地と考えていたはずです。それでなくとも日露戦争ではロシアのバルチック艦隊が対馬海峡を通過するかどうかを真剣に悩んだのですから、冬場は北西の季節風が遮断される波静かな千々石湾に多くの艦艇を伏せ、野母崎沖で艦隊決戦(空の場合は航空撃滅戦)に臨むとすればこれほど格好の錨地はないのであって(太平洋側では大分県の佐伯湾付近鶴見崎、四浦半島、日本海側では山口県の油谷湾でしょうか?)、海軍の大演習は当然といえば当然の話なのです。

山口県の油谷湾における海軍大演習の写真が油谷湾温泉のある温泉ホテルに現在も飾られていますが、当時は国威発揚と海軍の威信を大いに拡大せしめる(大量の税金を獲得するための)、国民や地域を巻き込んだビッグイベントであったことでしょう。

 さて、話を戻しますが、艦隊決戦に際して岬や半島の呼称は非常に重要であり、「ヒトヒトマルマルノモザキオキデゴウリュウサレタシ」といった伝令(陸軍は通達)において野母崎(ノモサキ、ノモザキ)といった通常現地の人間でなければ読めないような呼称は艦隊行動の間違いの元になりやすく、瞬時を争う艦隊決戦に於いては勝敗を分かつ大問題でもあったのです。特に海軍の場合は陸軍以上に全国から言葉の違う将兵が数多く乗組んでいるのであって、言葉や呼称は最重要事だったのです。このため、水路部は可能な限り誰にでも判る平易な呼称に変えていこうとしていたはずなのです。

「簡潔明瞭をモットー(英語のmotto)とするのが帝国海軍の伝統」であったことからしても、大演習に参加していた海軍軍令部(陸軍の場合は参謀本部)の高級将官あたりから、野母崎や千々石湾などといった通常は正確に読めない呼称をもって「これらの名称は間違いのもとである」「直ちに変更を検討せよ!」といった話が出たと想像することはあながち難しいことではないと思うのです。

 先に千々石湾の場合は傍証があると書きましたが、「海軍よもやま話」だったか、一昨年の秋口に読んだ本だかにこのことが触れられていたのですが、現在、それがどれであったかを忘失し正確な出典を示せません。仕方がなく友人が橘神社に参拝したいと言った際に随行し(私は唯物論者のため参拝は絶対にありえないので)、海上自衛隊(佐世保総監部)派遣の宮司代行にお訊ねしたところ、「それは間違いありません。海軍水路部あたりがやったことではないでしょうか。千々石湾沖の海軍大演習に際して幹部連が橘神社に表敬参拝(筆者の評価ですが併せて千々石湾の呼称の変更を贈り物のように行った)したという神社側の記録や橘家の日記に記録があるようです」との話をお聞き致しました(資料の写しを頂く予定でしたが未だに頂いておりません)。どうやらこれが、千々岩湾と橘湾、野母崎と長崎半島といった二つの呼称が今なお残っている理由のようなのです。

野母崎と長崎半島という呼称の並存については(財)日本地図センター地図相談室長・参事役をされていた山口恵一郎氏が「地名を考える」(NHKブックス)の中で触れておられます。

興味がおありの方は読んで見てください。もちろん山口恵一郎氏は有明海や長崎半島といった呼称が帝国海軍水路部によるものとの指摘はされていません。以下。

 

「そうして国土地理院の回答、“『長崎半島』採用の理由”として、「野母半島」という呼称があることは事実だ。しかし一方、「長崎半島」という呼称も、明治四十四年発行の山崎直方・佐藤伝蔵編『大日本地誌』第八巻及び古くからの『水路誌』に記されている。つまり…」189p

20040128

 

  

399(後) 「有明海」はなかった

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399(後) 「有明海」はなかった


7. 千々石湾(灘)を橘湾に変更した帝国海軍水路部(補足)

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帝国陸軍の軍神とされた橘周太中佐についてインター・ネットで検索していたのですが、出身地の長崎県千々石(チヂワ)町のホーム・ページ「千々石ネット」に辿りつき、その中の「橘周太(橘中佐)年譜」を見出しました。これによると銅像建立と橘神社「大正82月竣工、除幕式が行われる。像の高さは3m30Cm(ママ)。千々石町南船津上山の天然石に安置された。この年、長く中佐の偉勲を記念して千々石灘を橘湾と命名し正式に当局に申請、海軍水路部により地図上に記載される事となった」と書きこまれていました。このことによって、2.「有明海という呼称と帝国海軍水路部」の部分的な裏取りができたことになるようです。

なお、敗戦後、昭和二〇年十一月三〇日の海軍軍政の終了によって「海軍水路部」は「第二復員省」を経て旧運輸省「海上保安庁水路部」に移行します。

 さて、思考の冒険はさらに広がるのですが、九州の「多島海」そして「地中海」でもあり、広義の有明海にも含まれる「不知火海」(しらぬい・かい)が同時に「八代海」と呼ばれているのですが、これについても同様に海軍水路部の仕業ではないかと考えています。 

しかし、今のところは想像の域を出ません。「不知火海」(しらぬい・かい)も一般的には読めない呼称であることは言うまでもないため、なんでも水路部のしわざと考えるくせがついてしまいました。                 

20040311

   

ただし、2.「有明海」という呼称と帝国海軍水路部において、

 

「現在のところ旧帝国海軍水路部あたりが付けたのではないかなどといった勝手 な想像をしています」

 

と、していましたが、最近、これは違うと考えるようになってきました。今は、明治政府のなんらかのセクションが始めに「有明海」を採用し、その後、海の呼称ですから、旧海軍水路部が「島原湾」を持ち込み、戦後、海上保安庁水路部が消し去ろうとしている(消し去った)と考えています。恐らく、国土地理院(旧陸軍測地部)は水路部の顔を立てているだけでしょう。

なお、7.千々石湾(灘)を橘湾に変更した帝国海軍水路部(補足)で書いた

 

「八代海」と呼ばれているのですが、これについても同様に海軍水路部の仕業ではないかと考えています。

 

については、ほぼ、間違いないのではないかとの思いを深めています。

 

水路部沿革

 

・・・明治四年七月二十八日、兵部省に海軍部が置かれ、同年九月八日、同部に水路局が設けられた(兵部省海軍部内条令)。・・・

   ・・・終戦で海軍は解体し、水路部は昭和二十年十一月二十九日、運輸省に移管され、運輸省水路部となった。・・・昭和二十三年五月一日、海上保安庁が創設されて水路部は同庁の水路局となり、二十四年六月一日には同庁機構改正で海上保安庁水路部と現在の名称になった。

 

『日本海軍史』第六巻 部門小史下(財団法人海軍歴史保存会)より

 

有明海という呼称の起源

 

相当古いと思われている「有明海」という呼称は実は明治も終わり頃からのもので、それ以前は単に「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」などと記され、また、土地の人からは単に「前海」と呼ばれていたようです。(…中略…)ただ、具体的にどの段階でこの「有明海」という海の呼称が成立したのかについては現在のところ旧帝国海軍水路部あたりが付けたのではないかなどといった勝手な想像をしています。(再掲)

 

これは、有明海・諫早湾干拓リポートを書き始めた時の冒頭の論文 1.はじめに(20040126)の一節です。「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」という呼称は「有明海」に付けられていたということについて拙著「有明海異変」でもふれていますが、菅野 徹氏もこのことについて書かれています。

 

なお、有明海の名は一九一二(明治四十五)年の『帝国地名辞典』(太田為三郎編、三省堂刊)に、筑紫潟の別名としてでているが、・・・ただし、「有明」の名そのものは、天保年間(だいたい一八三〇年代)の地図には、有明の沖としてあらわれている。しかし、わが国最初の百科事典である『和漢三才図絵』(正徳ニ(一七一二)年)にはこの水域に関してなにひとつ記述がない。・・・

東京湾とか有明海とかいう名称は、その概念とともに、かなり新しいものではなかろうか。一八九五(明治二十八)年の地図を見ても、福岡県の地先を筑紫潟、佐賀県・長崎県の地先を有明ノ沖、としていて、まだ、有明海、島原湾、などの名は見えない。

 

『有明海』自然・生物・観察ガイド(菅野 徹 著)

 

さて、九州には有明という海がもう一つあります。鹿児島県の志布志湾が別名有明湾と呼ばれているのです(沿岸に有明町があります)。氏は、このことから、

 

有明海を「ザ・ベイ・オブ・アリアケ」とやれば、前述のように志布志湾と混同されるおそれがある。海上保安庁では、このあたりを勘案して有明海の名を嫌っているのかも知れない。

 

と、されています。

 

鉄道唱歌は証言する

 

 “有明海”という呼称を考えていて気付いた事がありました。鉄道唱歌です。明治に作られましたが、鉄道の普及と沿線の風物が歌い込まれ大変に流行った物でしたから、いまだに耳に残っている方も数多くおられることと思います。


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言うまでもなく「汽笛一声新橋をはや我が汽車は離れたり・・・・・・」ですが、この第二集山陽・九州編を聴くと、三角線や鹿児島本線では“有明海”という名は出てこないものの、“不知火海”という名ははっきりと歌い込まれているのです(「・・・国の名に負う不知火の見ゆるはここの海と聞く・・・」)。少なくとも、唱歌が作られた明治三十三年当時の作詞家や鉄道省、地元の認識は八代湾ではなく“不知火海”であったことがこれからも分かります。

ただ、八代海(湾)ではなく“不知火の海”という名称が流通していた事までは分かるのですが、依然として疑問は残ります。「わたる白川緑川川尻ゆけば宇土の里・・・」を聴くと、ここまではまだ宇土半島の北側であり、現在の有明海(島原湾)側の海しか見えないはずなのです(当時は干拓が進んでいなかったために鉄路からの海は現在よりも間近に見えたはずです)。「国の名に負う不知火の見ゆるはここの海と聞く」となると、当時まで宇土半島の北側の海も不知火の海と呼ばれていた可能性があるのですが、この問題については、まだ作業中ですので、いずれ別稿として書きたいと思います。ただし、今の段階で考えている事を少しお話しておきます。

 

399-7

 

有明の不知火、不知火の有明

 

まず、多くの方が“不知火は不知火海に出るもの”と、考えておられると思います。確かに、現在、有明海に不知火が出るという話は聞きません。一般的にも不知火が見えるのは、熊本県宇土半島の不知火海(八代湾)側にある旧不知火町(現宇城市)付近(から)とされています(永尾神社)。

しかし、最近になってどうもそうではなかったということにようやく気付きました。

元々、“有明海”も“不知火海”と呼ばれていたと言う話をどこかで聞いた事があったためですが、ただ、今はそれがどのような意味だったのかは出典も含めて辿れません。

しかし、有明海沿岸を走り回る日々が続くと、幾つかの地名にその痕跡がある事に気付きます。

一つは福岡県大牟田市のJR大牟田駅に近い不知火町です。ここに熊本県不知火町からの組織的移住があったという話は聞きませんから、少なくとも百年、二百年は遡れる地名ではないかと思われます。

地名としては、熊本県旧不知火町の外にも、旧小川町などに“不知火”という字名が見られます。

もう一つは、“長崎県諌早市からも不知火が見えたという話があるのです。一例をご紹介しましょう。「あとで話していただく木下良先生(元国学院大学教授:古川註)は、諫早の御出身ですが、不知火は諫早からも見えるそうです。不知火の正体は何か、それは再生の火、誕生の火、若返りの火であったと思うのです。それが丁度八朔の日に出てくる。古代日本では、新年は一年に二回あったと、折口信夫は言っております。その八朔の日に燃える火というのは、旧年をすてて新しい年に生まれかえる火だったと思うのです。」

これは熊本地名研究会が一九九五年に行った第10回熊本地名シンポジウムの資料集「火の国の原像」に掲載されている民俗学者谷川健一(日本地名研究所所長、近畿大学教授=当時)氏による基調講演「火の國の原像」の一節です。

これを読むと、諫早湾干拓に流れ込む本名川に掛かる橋が不知火橋と命名されているの

も不思議ではなくなります(諫早の市街地から諫早湾に注ぐ本明川に掛かる県道124号大里森山肥前長田停車場線の大型橋が不知火橋と呼ばれているのです)。

さらに、一つは、東京オリンピックが行われた1964年(昭和三九年)に作られた島原市の盆踊り歌「本丸踊り」(向島しのぶ、ビクター少年民謡会:唄)「・・・沖の不知火沖の不知火ヨー、誰故燃える・・・」や、「島原の子守唄」(森山良子:唄)「沖の不知火、沖の不知火消えては燃える・・・」などの歌詞の中に“不知火”が歌い込まれている事です。

 

399-8

 

ついでに言えば、旧制福岡高校(現九大教養部)で歌われていたものにも「不知火の筑紫の浜に・・・」とあったようですし、私の地元にある佐賀大学の学生寮が“不知火寮”でもあったのです。このように有明海沿岸にも不知火に関する地名などの痕跡がある事を考えると、有明海も、かつては“不知火の海”と呼ばれたか、少なくとも“不知火の見える海”であったのではないかと思うのです。

そもそも、景光天皇の火邑伝承は現在の不知火海(八代海、湾)としても、考えてみれば、万葉集における筑紫の枕詞が不知火であったことと符合するのです。

 

万葉集の白縫

 

「万葉集における筑紫の枕詞が不知火であったことと符合するのです」としました。しかし、誤解がないように断っておきますが、「不知火」という漢字表記が記紀や風土記にあるわけではないのです。筑紫にかかる枕言葉の表記は「之良奴日」「剘羅農比」「白縫」などですが、この“ヒ”音はいずれも甲類であり、“ヒ”音でも乙類の「火」「肥」ではないのです。この法則性を絶対化すべきかどうかの問題はあるのですが、単純に“シラヌヒ”“シラヌイ”を不知火とするには無理があるようです。ただ、甲類、乙類の使い分けは後には消え、混用されていったのではないかとする事は許されるはずです。従って、「白日別」とされた筑紫が、宇土半島北側でも見えていた不知火と重なり、万葉集における筑紫の枕詞が不知火であったかのように様々な痕跡を残したのではないかと思うものです。

立石巌氏の「不知火新考」によると、江戸時代の僧侶が「不知火」という表記をしたことが始まりとされています。

 

55. 熊本~宇土    大和田建樹(作詞)

わたる白川緑川

川尻ゆけば宇土の里

国の名に負う不知火の

見ゆるはここの海と聞く

 

さて、長々と脱線しましたが、どう考えても鉄道唱歌に有明海が歌い込まれていないはずはないと考えました。一つは、現在の長崎本線は昭和十年頃新たに建設されたものであり、鉄道唱歌の時代には、佐世保線(肥前山口~佐世保)と大村線(早岐~諫早⇒長崎)が長崎本線だったのです。このため、車窓に出てこない有明海が鉄道唱歌に歌われないのは理解できそうなのですが、どうもそうではないようなのです。理由は極めて簡単でした。鉄道唱歌が作られたのは一九〇〇年(明治三十三年)なのです。そうです。前述したように、この時点でも「有明海」は、まだ、「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」・・・など呼ばれているのです。実は、それも鉄道唱歌が証明してくれていました。

 

68.    

あしたは花の嵐山

ゆうべは月の筑紫潟

かしこも楽しここもよし

いざ見てめぐれ汽車の友

 

速さを誇る旧鉄道省は京都から長崎に半日余りで到着すると唄いたいのですが、ここで分かるように、有明海は“月の筑紫潟”と歌われているのです。つまり、有明海という呼称は、やはり、わずか百年足らずのものなのでした。

話がかなり輻輳しましたが、結局、明治の中頃までは有明海の北部が筑紫潟と呼ばれ、宇土半島の南北、つまり、有明海南部と現在の不知火海が“不知火の海”と呼ばれていた。  

さらに遡れば、現在の有明海と不知火海を併せた“九州内海”とも言うべき内湾全体を“不知火の海”と呼んでいた時代があったのではないかと考えるのです。

 

では、皆さん。このような百年も立たない“有明海”という呼称は“消えてしまっても構わない、仕方がない事だ”とお考えになるでしょうか?

少なくとも私は嫌です。なんとも惜しい事だと思います。

それも含めて、皆さんに考えて頂くことにして、最後にもう一つ、菅野徹氏の文章を引用して本稿を終わりとします。

 

だが、有明海は、重要な海で、その名をおろそかにすることはできないのである。

 

同じく『有明海』自然・生物・観察ガイド

 


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有明海の出口、島原半島早瀬崎灯台




おわりに
 

『夜豆志呂』一六〇号に掲載された田辺達也氏の「口之津へ」という紀行文を読ませて頂きましたが私の名前が数多く飛び出してきました。さらに口之津の史談会での当方の講演“「有明海」はなかった”についてもふれてありましたので、ご無沙汰していることもあり、今回、この一文を寄稿させて頂きました。

また、「ご無沙汰していることもあり」ともしましたが、実は、二〇〇八年年頭から久留米地名研究会の結成に動きました。一年半余りで月例研究会を20回行い、現在、会員も50名を越え、どうやら60名も視野に入ってきました。特に嬉しいことは、この会が、教育員会や公民館、地元郷土史会といった既存の組織に頼ることなく結成され、ありがたいことに若い世代も取り込み、多くの研究者レベルの参加者を得たことです。現在はさらに太宰府地名研究会を準備中であり、筑前、筑後両領域にささやかな拠点を用意しようとしています。既に会の運営も軌道に乗ったことから、今後とも寄稿させて頂きたく思っております。本稿は「有明海」というごくありふれた地名に焦点をあわせたものですが、結論は意外にも大変驚くべきものになってしまいました。

この問題の検証も含め、今後は、八代海と不知火海というテーマにも踏み込みたいのですが、なにぶん遠方からの調査でもあり、地元の皆さんのご協力を頂ければと密かに期待しております。                         

誤りや異説、類似地名などの情報をお寄せ下さい。ariakekai@ezweb.ne.jp




スポット093 ある神社の摂社の祭神が隠され逆に推定の正しさが見えてシマッタ!?

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 スポット093 ある神社の摂社の祭神が隠され逆に推定の正しさが見えてシマッタ!?

2017021 

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

   

現在、神社専門チャンネルの「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」において、猿田彦大神=ニギハヤヒ=山幸彦=五十猛…の解析を試みています。

まだ、仮説段階の作業中ながら、様々な角度から猿田彦が何者であるかに迫っているのですが、当面、下記の二十本のblogを公開作業中です。

勿論、現在オンエア中の①~⑳に引き続く作業も進めようと考えて一部は書き上げてもいるのですが、他のテーマもあり、しばらくおいて余裕が出てくれば再び取り組むつもりでいます。

そうした中、某研究会において、猿田彦の解明と称して、“サンゴ礁からやって来た猿田彦”などと「古事記」絡みの柳田民俗学風の話だけを軸に、ヒラブ貝まで取り出してさも実証的でもあるかの様に装い、大道芸人風の話をされる方まで出てくる始末で、実に情けないとの感想を持った次第なのですが(通説派の行政に売り込もうと執心の例のK県K市K神社の宮司)、このような方々の言説はひとまず置くとして、全国的視野で俯瞰的に解析を進めてくると確かに猿田彦の全貌が多少とも浮かび上がってきた気がしています。


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この20blogがオンエアされる頃には既に掲載は完了しているものと思いますが、そうした中、ある程度予想していた事とは言いながら、神社の神聖性とか神社への尊崇の念を失わせるようなニュースが入ってきました。

それは、284 大宮神社と猿田彦大神 ④  転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県山鹿市で産まれた! ”で取り上げた某神社の境内摂社の祭神が書かれた額が無くなっていたという情報が、熊本神代史研究会(仮称)のあるトレッキング・メンバーから齎されたのでした。

まだ、確認していないのですが、実はこれまでにも同じような話があった事から又かと思ったのでした。

それは、「高良玉垂宮神秘書」が“高良玉垂命(実は第9代開化天皇)と神功皇后とが夫婦であった”と書いている(通説とは全く異なる神代=古代の真実の一端)その真実の一端を示す物証とも言えるもの(神功皇后の神像)が、下で書いている神社に存在していたのですが、blog掲載後半年を待たずして神殿から撤去されたという事例を承知しているのです。

まさに、通説派にとっては、仲哀天皇と神功皇后の子である応神天皇こそ正統とする話が怪しい事になりかねないものだったのでした。関心をお持ちの向きには、以下のblogをお読み頂き、神社というものがどのようなものであるかをお考え頂きたいと思うものです。

 

「ひぼろぎ逍遥」

 

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超高格式瀬高玉垂宮の神功皇后像が消えた “みやま市河内の高良玉垂の宮”

 

「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)

 

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超高格式瀬高玉垂宮の神功皇后像が消えた “みやま市河内の高良玉垂の宮”



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今や見る事ができなくなった神功皇后の神像

 

では、今回、消えた櫛稲田姫の両親神の神名額を御覧いただきましょう。

 

再掲載(部分)

 

284

大宮神社と猿田彦大神 ④  転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は

熊本県山鹿市で産まれた! ”

 

勿論、はっきりお示ししても良いのですが、百嶋先生の話されている内容を自らの頭で考え、自らの足で探そうとする人だけにその真実が得られるようにしなければ、結論だけが独り歩きし、既存の権威にふんぞり返る神社関係者、文化関係者から排斥され攻撃されてしまう事が火を見るより明らかだからです。

このため、ここでは百嶋先生が把握されていたクシナダヒメの出自、つまり、父、金山彦と母、埴安姫との間に生れ事が推定できるもの、また、その権威=秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ一族のシンボルとしての紋章が残されている事、旧稲田村であった事…などをお知らせするだけとし、後はご自分でお考え頂きたいと思います(この神紋はクシナダヒメの娘の鴨玉依姫の神紋なのです)。


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今回のキー・ワードは、金山彦と埴安姫を祀る摂社があり、極秘中の極秘のモーセの十字剣神紋があり、付近に稲田地名が存在している事、さらには、その先にもアイラツヒメを祀る神社吾平神社があること、何よりも、この神社には極秘の伝承が残されていた様で、百嶋先生も、直接、先々代辺りの宮司からお話を聴かれていたのだと思います。

戦前の宰相清浦 奎吾や松野鶴平を生み出し、その後も松野頼三、松野頼久を輩出する山鹿~菊池に掛けての一帯は、神代から何らかの力が送り込まれているのではないでしょうか?

では、先に百嶋最終神代系譜をご覧いただきましょう。


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百嶋最終神代系譜(部分)

 

さて、金山彦の娘(腹違い)で、本当の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)のお妃であるアイラツ姫(後の名は蒲池姫)も、この一帯にいたことが想像できるのです。

勿論、現在横行している「阿蘇神話」では、速瓶玉命(阿蘇国造)の妃の蒲智比咩命(カマチヒメ)=郡浦神社の主祭神としています。

 この奥に相良(アイラ)観音がありますが、この地も明治の吾平(アイラ)村なのです。

 これらについては、久留米地名研究会のHPから「吾平」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)128130そして、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)082 神武天皇の正妃アイラツヒメ(蒲池姫)を祀る神社 “郡浦神社(熊本県宇城市三角町)”をお読みください。

 なお、この「十字剣」神紋は、現在でも福岡市内の数ケ所に残されていますが、東の方の某(N)神社の奥深くにも隠されています。

 これこそが、金山彦が秦の始皇帝と姻戚関係を持った証拠であり、各所でひた隠しにされているものです。

 神社庁もこの事実は把握していたはずですが、ひた隠しにして教育を疎かにしてしまえば、いつの間にか嘘がまかり通り、それが権威者といった振る舞いに変わり、本当の話をすればあしらわれてしまう事になるのです。

 否定される方否定されて構いませんが、そうであれば、何故、この神社にはこの十字剣神紋があるのかを説明して頂きたいと思うものです。

 この一帯には鎌倉期に宇佐神宮の神威が広がり、天皇などでは全くない贈)応神が幅を利かせ八幡神が覆い被さっています。当然にも、金山彦、埴安姫は境内摂社に秘かに祀られています。

 まあ、大体に於いて正面に出ている大社、縁起式内社の神様は本来の神様でも格式の高い神様でも無い事が大半なのです。

 この神社の宮司家にしても本当は嫌々受け容れ、面従腹背のうちに秘かに本当の神様を残そうとされている事と思うものです。

 皆さんも本当の神社にお賽銭を振る舞われて、下剋上で伸上った成り上がり者の神様(応神など)を無視して頂く様にして頂きたいものです。

 

 さて、皆さんはどのようにお考えになるでしょうか?

 まさか、前述の3K宮司などの入智慧などではないでしょうが、勿論、blogの公開に伴う影響が反映された可能性が十分にある事から、皆さんにもお考え頂いているのであって、判断は皆さんにお任せしたいと思います。

 この事は、多くの神社の祭神が過去何度となく多くの神社で入れ替えられ、加えられ、隠され続けて来た事を同時に示しているのです。

 中には貴重な文化財を妙な話で見えなくしてしまうとはとんでもない…と考えられる方もおられるかも知れません。しかし、それは物事の表面だけしか見ていない様に思えます。

 勿論、当方としても多少惜しい感じはするのですが、仮に誤りであっても、解析し記録に留め後世に引き継ぐ事ができなければ貴重な文化財などと言ってはみても、間違った歴史、解釈が伝えられる値打ちは全くないのであって、逆に誤りであれば、本来、自ら正しい解説を行い、広く公開する責務を持っておられるはずなのです。

 ましてや、とんでもない見当違いの話をしているのであれば、笑い飛ばして放置していれば良いだけの事であり、もし、撤去されたのであれば、それは、逆に琴線に触れた、若しくは真相に迫ったとしか考えられない訳で、当方の探究の方法とその結果が正しかったことを証明している様に見えるのです。

 この点が、当たり障りのない前述の大道芸人か道化師めいた猿田彦サンゴ礁起源説などは人畜無害で、浅薄な内容の間は気に留められる事は一切ないのです。

 この点が、邪馬台国佐渡島説とか八丈島説とか四国山上剣山説のような荒唐無稽な話は町興し村興し宜しく、行政や学芸員もバック・アップするのですが、それは最初から人畜無害であって、学会通説も目くじらを立てないからなのであって、「九州王朝論」などといった真実に近接するものからはそそくさと撤退されるのはそれが真実に近づく可能性があるからなのです。

 これで、福岡県旧瀬高町の某神社に続く二つ目の事例になるのですが、もしこれが単独の判断ではなく、神社庁とか行政筋からの指示orアドバイス…であったとしたら、文化行政とか神社一般の在り方と言ったものの深層が見えた思いがするところです。

 最早、現在も既に戦前の国体明徴運動下の状況と同様と言うべき文化的閉塞状況にあることは間違いが無く、自らのグループ全体を含む、百嶋神社考古学に携わる15人に近い研究者の研究内容の保全と継承とバック・アップ体制の整備のために心しておく必要があると思うものです。

 大道芸人同様の行政に擦り寄り売り込もうとするさもしい方ならばいざ知らず、少しでも真相に近づこうとされる方は、今後とも精神性を強固に探究し続ける事を心がけなければならないと、改めて再認識させられたのでした。

今回の小稿は、某神社の境内摂社の祭神が書かれた額が無くなっていたという情報が、熊本神代史研究会(仮称)のあるトレッキング・メンバーから齎された事から書いたものですが、まだ確認をしていないため何とも言えません。しかし、ありえそうな話ではあるため、以前の神功皇后の神像が隠された事件がダブル・イメージとして蘇ったのでしたが、そのような事をする必要はないはずであり、何時しか忘れ去られてしまう事を待てば良いだけの事のはずです。情報が誤りであった事も考えているところです。

 

 

400 波 呂(ハロ)

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 400 波 呂(ハロ)

20160910

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 本稿は2008年頃に地名研究会向けに書いた地名に関する小論ですが、今回、僅かな修正を加え公開する事にしたものです。

  

鹿児島県の阿久根市に波留(ハル)という印象的な地名があります。

概して海岸部には二音地名が多いのですが、単にそれだけの話ではないように思われます。

特別な観光地でもなく、新幹線のルートからも外れた阿久根市を訪れる知的な人はそれほど多くはないでしょうが、現地を訪れ、詳しく地形(蛇行した河川)や地名などを見てゆけば、かつて、この地が奥深い入江に繋がる低湿地が陸化した土地であったことに気付かれるでしょう。


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阿久根港に河口を持つ大橋川の一.五キロほど上流には、現在でもかなり広い干潟の痕跡があり、周辺にも、塩浜、塩鶴、潟、佐潟といった地名が、さらに上流には遠矢(これは無理にこじつければアイヌ語の湖、沼を意味するトウ、トオに、同じく湿地を意味するヤツ、ヤが加わった地名とも考えられます)という興味深い地名まであるのです。

国道三号線で阿久根市街地を通り抜けさらに南下すると、左手に葦の茂る広い湿地が見えてきます。

この十町歩に近い大湿地は、普通ならば干拓が行われ農地に変えられているのが普通ですから、ある種新鮮な感動さえ覚えます。

かつて、この阿久根という土地が大橋川、山下川が流れ込む巨大な湿地帯であったことは容易に想像できます。

実際、戦前までは、まだ、広い湿地が残り、多くの鶴が舞い降りる土地であった事を阿久根温泉の湯船の中で土地の古老からお聴きすることができました。

さて、この波留(ハル)はこの阿久根の市街地のそばにあるのです。始めはなかなか分かりませんでしたが、やはりこれもアイヌ語地名のように思われます。

『九州の先住民はアイヌ』(新地名学による探求)葦書房 を書かれた故根中治氏はこの地名についてもふれておられます。


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・・・数年前に、福岡県の糸島郡を歩いていたら、浦志とか、波呂とかいった地名があってびっくりしました。浦志は先ほど北方に多くのウラミナイやウラシベツのあることをご説明しました。波呂に似た名は、北海道の北見に芭露(ぱろ)という地名があります。パロ(Paro)は川口や沼の口という意味でよく地名に使われる語です。また、パ行音が和人に引き継がれる時にハ行音になることも先ほど申しましたとおりであります。

だが西のほうに、こういった形の名がところどころにあるというだけでは、そのままこれをアイヌ語系地名であると判断する勇気はまだ出てきません。・・・

 

『北方の古代文化-アイヌ語族の居住範囲』山田秀三


400-3

 

山田秀三と言えば押しも押されもせぬ高名なアイヌ語学者でしたが、根中氏は同書で山田秀三氏の『北方の古代文化-アイヌ語族の居住範囲』を引用しながら、西日本におけるアイヌ語地名の存在をかたくなに否定する山田秀三氏その人も含む地名学の重鎮達のアカデミズムに対して疑問を投げかけておられます。

お分かりでしょう。

びっくりはされていますが、結局は否定されているのです。この背後には、アイヌの日本列島への進出を北方からの南下ルートにしか求められない、金田一京助以来のアカデミズムの延長上に考えておられるからですが、二万年前のウルム氷期、朝鮮半島と九州が陸橋で繋がっていた時代に南回りルートによるアイヌの進出の可能性をそろそろ考えるべき時期が来ているのではないかと思うものです。

さて、P音のH音への転化は、言語学の世界では“母”(ファファ)は古代において“パパ”(パッパ)だったという有名な話がありますので、ここでは省略して良いでしょうが、福岡県の糸島半島の波呂(ハロ)と波留(ハル)はやはり違うではないかと言われるかもしれません。これについては、鹿児島県を含む九州西岸部(特に南西部は濃厚ですが)には、O音がU音に転化する傾向が強く残っているということは、別稿でも書いていますので、この例でお答えしておきます。

恐らく、沖縄が三母音であったと言われる傾向が九州の南西海岸部に色濃く残っていると考えられます。

 

概して南西諸島から長崎県島嶼部、佐賀県の西半分ぐらいまではO音がU音に転化する傾向が非常に強く認められます。具体例を上げれば切りがありませんが、JR佐世保線と長崎本線の分岐点である肥前山口駅に近い山手の集落の出身者である私の同僚も、日常的に標準語で「多いもの」というところを「ウーカモン」などと言う事でも分かるのですが、まさに生きた言語としていまなお使われ、勝手な想像ですが、古代の四母音または三母音のなごりまでも感じさせるものです。「ウーカモン」の「カ」音は言うまでもなく“カリ”活用(多かり、美しかり)の「カ」穏便ですが、瀬戸内海沿岸を除く九州全域で使われています。大事を“ウーゴト”などと言うのは、沖縄を“ウチナー”と言うのと同じわけです(もちろん、“ウチナー”を沖縄と字を当てただけなのですが)。佐賀、長崎の北の海岸線の県境近く、長崎県松浦市のバス停に「羽木場」(ウーコバ)があります(当然ながら地名もあるはずです)。木場は木庭、木場、古葉などと表記される九州北半に遺存する焼畑地名ですが、これもその(大木庭)地名表記として現地音が忠実に表現されたものです。

 

二つの土地とも古代の海岸線に近接する低湿地の入口にありますので、アイヌ語のパロに符合する事は明らかで、糸島半島の波呂(ハロ)と阿久根の波留(ハル)は地形の点からは元より、同じ地名であると言えるでしょう。

このことから、同様の地形に対して複数の地名が存在する事は、山田秀三氏への反論を試みられた根中治氏を補強する作業を多少は行った事になるのかもしれません


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佐賀県唐津市の鏡山の麓にも「原」と書きハルと呼ぶ交差点があります。ここも古代には直接海に開いた場所であったはずで、福岡にも数多く分布する○○原の原(ハル)とは全く異なる鹿児島県阿久根の波留(ハル)や前原市の波呂(ハロ)と同様のアイヌ語地名ではないかと考えています。


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