スポット094 「ひぼろぎ逍遥」 阿蘇の乙姫とは何か? “産山村乙宮神社のお姫さま”再考
20170214
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
以前、「ひぼろぎ逍遥」374 阿蘇の乙姫とは誰か? “産山村乙宮神社のお姫さま”(20160729)において、このように書いています。
最近は「この神社の神様はどなたの事でしょうか?」といった質問が頻繁に入ります。勿論、直ぐに分かる場合もあれば、その神社の存在さえも知らない場合もあります。そうした中、「阿蘇の乙姫に来てるんですが、乙姫さまはどなたでしょうか?」という質問が入りました。
この神社については承知していましたが、このようなある意味で俗受けする神社に関しては興味を持っていなかったことから直ぐにお答えできる状態ではありませんでした。
菊池市旭志麓にも乙姫神社がありましたので、こちらの乙姫神社は見たことがありましたが、あまり本気で考えていなかったというのが正直なところでした。
ただ、ある程度の見当は着いていたことから「多分、産山村の乙宮神社と関係があると思うけど、祭神の呼称が草部吉見神社と阿蘇神社と乙宮神社で共通しているかどうかが不明で、自信がないので直ぐには答えられない…」といったお答えをしていました。
まず、「熊本県神社誌」上米良純臣(編著)173pには
村社 乙姫神社 阿蘇町乙姫1317 祭神 若比咩神 仁寿元年(851)
とあり、若比咩神を探し出せば良いことになります。
同じく「神社誌」181pには
乙宮神社 産山村産山2241 祭神 若比咩神・健磐龍命 (若比咩降誕の地と云う)
とあり、乙宮神社の由緒には、
阿蘇神社の摂社で勧請年代不詳、旧村社で産山地区一円の産土神として崇敬されている。
阿蘇宮六宮に、若比咩神は、彦御子神の妃として祀られているところから、古来より本村では、阿蘇大神御嫡孫、御生誕の地は乙宮であり、「産山」という地名の起こりであると言い伝えられている。
神殿は総ケヤキ造りで、華麗な彫刻と枡組が施され荘厳である。 産山村HPより
これについては阿蘇神社の祭神を再度確認しましょう。
以下の12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称される。
一の神殿(左手、いずれも男神)
一宮:健磐龍命 - 第1代神武天皇の孫
三宮:國龍神 - 二宮の父。神武天皇の子で、『古事記』では「日子八井命」と記載
五宮:彦御子神- 一宮の孫
七宮:新彦神 - 三宮の子
九宮:若彦神 - 七宮の子
二の神殿(右手、いずれも女神)
二宮:阿蘇都比咩命 - 一宮の妃
四宮:比咩御子神 - 三宮の妃
六宮:若比咩神 -五宮の妃
八宮:新比咩神 - 七宮の娘
十宮:彌比咩神 - 七宮の妃
諸神殿(最奥、いずれも男神)
十一宮:國造速瓶玉神 - 一宮の子。阿蘇国造の祖
十二宮:金凝神 - 一宮の叔父。第2代綏靖天皇を指すとされる
産山村のHPでは阿蘇神社の六宮=五宮:彦御子神(健磐龍命の孫)の妃が産山村の出身であり、阿蘇神社の彦御子神の母方の実家が乙宮であると言うのです。
そして、乙姫神社の縁起からは、この若比咩と速甕玉命(阿蘇国造神社の主神で実は大山咋命)の子である惟人命から現在の阿蘇家が発生しているとしているのです。
これについては、百嶋先生はそうお考えではなかったようです。
以下(アイラツ姫系譜)を見て頂く必要がありますが、これによると、惟人命は速甕玉命の子ではなく、草部吉見と拷幡千々姫(高木大神の次女)の間に産まれた天忍日・新(ニュウ)彦と、健磐龍と(草部吉見と(拷幡千々姫(高木大神の次女)の間に産まれた)阿蘇ツ姫の間に産まれた新(ニュウ)姫・雨宮姫(相良村外の雨宮神社の祭神)の間に産まれているのです。
してみると、現在の阿蘇家は、先住の支配者であった高木大神系の血がかなり濃い事が分かるのです。
ただ、この系譜をもってしても阿蘇産山村の乙宮神社の一族がどのような系統なのかは依然として不明です。今のところ、草部吉見のお妃とされる比咩御子命(草部吉見神社の二宮=阿蘇神社の四宮)も高木大神系の萬幡豊秋ツ姫の妹拷幡千々姫であり、それも産山村出身ではないかと考えているところです。
今後とも探究を続けます。
ここからが今回お話しする新たなテーマです。
左は阿蘇の乙姫神社の縁起に出ている阿蘇氏の出自を示す神代系譜です。
言うまでもなく阿蘇系神社の多くは、神武天皇の子とする神八井耳命の子である健磐龍命と阿蘇都比咩命との間に産れた速甕玉命の子が阿蘇氏の祖である惟人命であり、その妃である若比咩命から阿蘇家が生じたとしているのです。事実、阿蘇家の公式HPでもそのようにしています。以下↓
さらに、産山村のHPでは阿蘇神社の六宮=五宮:彦御子神(健磐龍命の孫)の妃が産山村の出身であり、そのお妃の母方の実家が産山村の乙宮であると言っているのです。
勿論、百嶋神社考古学ではそのようには考えていません。
ご覧の通り本物の(神武僭称贈崇神天皇=ハツクニシラスではないという意味で)神武天皇のお妃であったアイラツヒメの払い下げを受けたか?逆に神武を袖にした?かは不明ですが、そのアイラツヒメを妃にした神沼河耳との間に建磐龍命が産まれている(阿蘇家では神八井耳の子とする)とするのです。
まず、建磐龍命のお妃は、阿蘇高森の草部吉見神と高木大神の次女である拷幡千々姫との間に産れた阿蘇都姫(天豊ツ姫=天比理刀咩)なのです。
それは、阿蘇神社の縁起でも、二宮:阿蘇都比咩命 - 一宮の妃
三宮:國龍神 - 二宮の父。神武天皇の子で、『古事記』では「日子八井命」と記載 としている事でも明らかです。
勿論、國龍神が草部吉見=日子八井命なのですが、結局、阿蘇家の建磐龍は草部吉見の娘でもある姪(高木大神の血を引いた)を妃として生まれたのが新姫=雨宮姫(熊本市、人吉などに雨宮神社が数社)であり(どうやら男子は産まれていないようですね)、結局、阿蘇家を継いだのは、五宮:彦御子神 - 一宮の孫(惟人命) で、そのお妃が 六宮:若比咩神 - 五宮の妃 だったのです。
そして、その若比咩が産山村の乙宮神社の娘であった事から乙姫様と呼ばれ、乙姫神社として祀られたのだと考えられるのです。
この乙姫様=若比咩が百嶋神代系譜の一枚=阿蘇系系譜(お騒がせ娘)だけに書き留められているのです(右→)。
問題は、この乙姫様=若比咩とは如何なる方かです。
これについては、次のお騒がせ娘系譜の全体を読み取る事によって分かってくるのです。
ご覧の通り惟人命と若比咩は腹違いの伯父と姪の関係にあり、惟人命は新(ニュウ)彦、新(ニュウ)姫の子であり、若比咩命は新(ニュウ)彦と興ツ姫(草部吉見と宗像系市杵島姫の娘)の孫娘になり、高木大神の次女である拷幡千々姫の血を引く一族が阿蘇家の外戚であり実質的な本家なのです。
このことから、阿蘇家(事実上、惟人命と若比咩に始まる)の母方の実家=乙宮が鎮座する産山村が高木大神系の集落である事までが見えてくるのです。
それを阿蘇北宮(速甕玉=大山咋=日吉神社=山王宮…)の流れから出ているとしているところが、阿蘇家が公表している系譜と百嶋由一郎(お騒がせ姫)系譜と異なるのです。
その様な系譜仕を立てた背景に何があるかについての推定は、次に回しますが、一つは、阿蘇ツ姫が天豊ツ姫→阿蘇ツ姫→天比理刀咩→寒川姫→杉山姫(川崎など神奈川県内に杉山神社が数十社ある)と名を変えている背景にこの高木大神の孫娘が最終的にヤタガラス(豊玉彦)の妃として納まったという話が阿蘇家にとって好ましくなく、また、阿蘇北宮(速甕玉=大山咋…)とすることが、阿蘇家にとって有利だった事からではないかと思えるのです。何故なら、阿蘇北宮の息子が贈)崇神天皇であり、その流れから藤原氏が出ていると考えられる事から、結果的に阿蘇家の出自をそちらに接ぎ木したように見えるのです。
百嶋由一郎神代系譜(お騒がせ姫)
研究のために神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください