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スポット094 「ひぼろぎ逍遥」 阿蘇の乙姫とは何か? “産山村乙宮神社のお姫さま”再考

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 スポット094 「ひぼろぎ逍遥」 阿蘇の乙姫とは何か? “産山村乙宮神社のお姫さま”再考

20170214

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

以前、「ひぼろぎ逍遥」374 阿蘇の乙姫とは誰か? “産山村乙宮神社のお姫さま”(20160729において、このように書いています。
 
 



sp94-1 最近は「この神社の神様はどなたの事でしょうか?」といった質問が頻繁に入ります。勿論、直ぐに分かる場合もあれば、その神社の存在さえも知らない場合もあります。そうした中、「阿蘇の乙姫に来てるんですが、乙姫さまはどなたでしょうか?」という質問が入りました。

 この神社については承知していましたが、このようなある意味で俗受けする神社に関しては興味を持っていなかったことから直ぐにお答えできる状態ではありませんでした。

 菊池市旭志麓にも乙姫神社がありましたので、こちらの乙姫神社は見たことがありましたが、あまり本気で考えていなかったというのが正直なところでした。

 ただ、ある程度の見当は着いていたことから「多分、産山村の乙宮神社と関係があると思うけど、祭神の呼称が草部吉見神社と阿蘇神社と乙宮神社で共通しているかどうかが不明で、自信がないので直ぐには答えられない…」といったお答えをしていました。


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まず、「熊本県神社誌」上米良純臣(編著)173pには

 

村社 乙姫神社 阿蘇町乙姫1317 祭神 若比咩神 仁寿元年(851

 

 とあり、若比咩神を探し出せば良いことになります。

 同じく「神社誌」181pには

 

乙宮神社 産山村産山2241 祭神 若比咩神・健磐龍命 (若比咩降誕の地と云う)

 

 とあり、乙宮神社の由緒には、

 

阿蘇神社の摂社で勧請年代不詳、旧村社で産山地区一円の産土神として崇敬されている。

阿蘇宮六宮に、若比咩神は、彦御子神の妃として祀られているところから、古来より本村では、阿蘇大神御嫡孫、御生誕の地は乙宮であり、「産山」という地名の起こりであると言い伝えられている。

神殿は総ケヤキ造りで、華麗な彫刻と枡組が施され荘厳である。  産山村HPより

 

これについては阿蘇神社の祭神を再度確認しましょう。

 

以下の12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称される。

 

一の神殿(左手、いずれも男神)

一宮:健磐龍命 - 1代神武天皇の孫

三宮:國龍神 - 二宮の父。神武天皇の子で、『古事記』では「日子八井命」と記載

五宮:彦御子神- 一宮の孫

七宮:新彦神 - 三宮の子

九宮:若彦神 - 七宮の子

 

二の神殿(右手、いずれも女神)

二宮:阿蘇都比咩命 - 一宮の妃

四宮:比咩御子神 - 三宮の妃

六宮:若比咩神 -五宮の妃

八宮:新比咩神 - 七宮の娘

十宮:彌比咩神 - 七宮の妃

 

諸神殿(最奥、いずれも男神)

十一宮:國造速瓶玉神 - 一宮の子。阿蘇国造の祖

十二宮:金凝神 - 一宮の叔父。第2代綏靖天皇を指すとされる

 

産山村のHPでは阿蘇神社の六宮=五宮:彦御子神(健磐龍命の孫)の妃が産山村の出身であり、阿蘇神社の彦御子神の母方の実家が乙宮であると言うのです。



sp94-3そして、乙姫神社の縁起からは、この若比咩と速甕玉命(阿蘇国造神社の主神で実は大山咋命)の子である惟人命から現在の阿蘇家が発生しているとしているのです。

 これについては、百嶋先生はそうお考えではなかったようです。

 以下(アイラツ姫系譜)を見て頂く必要がありますが、これによると、惟人命は速甕玉命の子ではなく、草部吉見と拷幡千々姫(高木大神の次女)の間に産まれた天忍日・新(ニュウ)彦と、健磐龍と(草部吉見と(拷幡千々姫(高木大神の次女)の間に産まれた)阿蘇ツ姫の間に産まれた新(ニュウ)姫・雨宮姫(相良村外の雨宮神社の祭神)の間に産まれているのです。

 してみると、現在の阿蘇家は、先住の支配者であった高木大神系の血がかなり濃い事が分かるのです。

 ただ、この系譜をもってしても阿蘇産山村の乙宮神社の一族がどのような系統なのかは依然として不明です。今のところ、草部吉見のお妃とされる比咩御子命(草部吉見神社の二宮=阿蘇神社の四宮)も高木大神系の萬幡豊秋ツ姫の妹拷幡千々姫であり、それも産山村出身ではないかと考えているところです。

 今後とも探究を続けます。


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ここからが今回お話しする新たなテーマです。

 左は阿蘇の乙姫神社の縁起に出ている阿蘇氏の出自を示す神代系譜です。

 言うまでもなく阿蘇系神社の多くは、神武天皇の子とする神八井耳命の子である健磐龍命と阿蘇都比咩命との間に産れた速甕玉命の子が阿蘇氏の祖である惟人命であり、その妃である若比咩命から阿蘇家が生じたとしているのです。事実、阿蘇家の公式HPでもそのようにしています。以下↓sp94-6

 

さらに、産山村のHPでは阿蘇神社の六宮=五宮:彦御子神(健磐龍命の孫)の妃が産山村の出身であり、そのお妃の母方の実家が産山村の乙宮であると言っているのです。

勿論、百嶋神社考古学ではそのようには考えていません。

 ご覧の通り本物の(神武僭称贈崇神天皇=ハツクニシラスではないという意味で)神武天皇のお妃であったアイラツヒメの払い下げを受けたか?逆に神武を袖にした?かは不明ですが、そのアイラツヒメを妃にした神沼河耳との間に建磐龍命が産まれている(阿蘇家では神八井耳の子とする)とするのです。




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sp94-7まず、建磐龍命のお妃は、阿蘇高森の草部吉見神と高木大神の次女である拷幡千々姫との間に産れた阿蘇都姫(天豊ツ姫=天比理刀咩)なのです。

それは、阿蘇神社の縁起でも、二宮:阿蘇都比咩命 - 一宮の妃

三宮:國龍神 - 二宮の父。神武天皇の子で、『古事記』では「日子八井命」と記載 としている事でも明らかです。

 勿論、國龍神が草部吉見=日子八井命なのですが、結局、阿蘇家の建磐龍は草部吉見の娘でもある姪(高木大神の血を引いた)を妃として生まれたのが新姫=雨宮姫(熊本市、人吉などに雨宮神社が数社)であり(どうやら男子は産まれていないようですね)、結局、阿蘇家を継いだのは、五宮:彦御子神 - 一宮の孫(惟人命) で、そのお妃が 六宮:若比咩神 - 五宮の妃 だったのです。

そして、その若比咩が産山村の乙宮神社の娘であった事から乙姫様と呼ばれ、乙姫神社として祀られたのだと考えられるのです。

この乙姫様=若比咩が百嶋神代系譜の一枚=阿蘇系系譜(お騒がせ娘)だけに書き留められているのです(右→)。

問題は、この乙姫様=若比咩とは如何なる方かです。

これについては、次のお騒がせ娘系譜の全体を読み取る事によって分かってくるのです。

ご覧の通り惟人命若比咩腹違いの伯父と姪の関係にあり、惟人命は新(ニュウ)彦、新(ニュウ)姫の子であり、若比咩命は新(ニュウ)彦と興ツ姫(草部吉見と宗像系市杵島姫の娘)の孫娘になり、高木大神の次女である拷幡千々姫の血を引く一族が阿蘇家の外戚であり実質的な本家なのです。

このことから、阿蘇家(事実上、惟人命と若比咩に始まる)の母方の実家=乙宮が鎮座する産山村が高木大神系の集落である事までが見えてくるのです。

それを阿蘇北宮(速甕玉=大山咋=日吉神社=山王宮…)の流れから出ているとしているところが、阿蘇家が公表している系譜と百嶋由一郎(お騒がせ姫)系譜と異なるのです。

その様な系譜仕を立てた背景に何があるかについての推定は、次に回しますが、一つは、阿蘇ツ姫が天豊ツ姫→阿蘇ツ姫→天比理刀咩→寒川姫→杉山姫(川崎など神奈川県内に杉山神社が数十社ある)と名を変えている背景にこの高木大神の孫娘が最終的にヤタガラス(豊玉彦)の妃として納まったという話が阿蘇家にとって好ましくなく、また、阿蘇北宮(速甕玉=大山咋…)とすることが、阿蘇家にとって有利だった事からではないかと思えるのです。何故なら、阿蘇北宮の息子が贈)崇神天皇であり、その流れから藤原氏が出ていると考えられる事から、結果的に阿蘇家の出自をそちらに接ぎ木したように見えるのです。

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百嶋由一郎神代系譜(お騒がせ姫)

研究のために神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください






スポット095 朝鮮半島が北主導で統一される!

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スポット095 朝鮮半島が北主導で統一される!

 

20170224

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

 

 

 経済破綻から、さらに深刻な国家的消失へと進みつつある韓国(南鮮)ですが、一昨年の年頭以来、“北朝鮮主導により半島が統一される”という話がネット上では静かに流れていました。

 

 他にもありますが、まず、中丸女史によるものが代表的でしょう。

 

明治天皇の落胤系の孫にあたる国際政治経済ジャーナリスト中丸 薫女史ですが、15年の冬に福岡市内で一度お目に掛かる機会を得て一言二言お話ししたこともあります。

 

ネット上の有名人のお話しながら、半島情勢に関しては聴いた当初の段階では耳を疑ったというのが正直な実感でした。

 

ただ、サムソン危機、韓進海運倒産、大宇造船危機、朴政権の事実上の崩壊(オンエア時点では韓国の事ですから、弾劾か)…と、ここに来てその現実性、信憑性が急速に高まりつつあるように思えるのです。


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 元々、年から年中嘘をつき続け手のひら返しを繰り返しているような大陸人と半島人に対しては、敬遠(敬じながら遠避けて)し一切手を出さないのが肝要…と思い、考える事さえ避けていると言うのがこの間の正直な感想でした。

しかし、非常に突飛な話に思われるとは思いますが、歴史とか国際政治といったものには裏の裏にまた裏があり、その奥にも隠し袋があるというのが本質なのです。



sp95-1恐らくそれを読み解かなければ真相は全く見えてこないのであって、近畿大和朝廷が奈良に始まったとか、邪馬台国が奈良にあったなどと信じ込まされておられるような方々には、凡そ死ぬまで真相の一部にも辿り着けないまま潰え去って行かれるだけなのであり、その点、現実の国際政治も古代史、神代史と同様なのです。

まず、鉱物資源に恵まれるものの半島の辺境に閉じ込められた人口2500万人の北朝鮮(北韓:呼称などどうでも良い)など現在の米軍の力を持ってすれば一週間程度で制圧できるはずであるにも関わらず、ソ連邦崩壊から36年を経過してもどうして存続できているのかという問題を考えておかなければならないでしょう(実体はCIAの管理下にある)。

恐らく米国が必要な時には直ちに役に立つ切り札、手駒として温存させているという事が真相ではないかと考えています。

まず、ソ連邦崩壊後も半島の緩衝地帯(Buffer Zone)として存続させておくというメリットは直ぐに想像する事ができます。

直接的には何時崩壊しても良いようにと設えられた予防的な難民の収容所として存続させられたというのが実態だったと考えています。
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では、兇悪危険国家北朝鮮が存在している事によってどのようなメリットがあるか考えてみて下さい。

米国は人為的に北朝鮮を残す事によって、アメリカの存在感(プレゼンス)を維持し高める事ができる上に、ならず者国家北朝鮮の存在は、日本、台湾、韓国などを対象に、アメリカ製の一世代前の兵器を法外な値段で在庫一斉処分ができる事になるのです。

それでも“核兵器を持たせているのは余りにも危険極まりない選択ではないか?”と思われる方がおられると思います。

しかし、質と量から考えてアメリカ本土に対しては問題のないレベルでしかなく、たかだか列島の一部が焦土と化す程度ならば米国にとっては許容範囲である以上に、もしも、北朝鮮と米国との水面下において密約が成立しているのであれば(北朝鮮は元々米国によって許容されていると中国は理解しているはずです)、その核ミサイルは米国ではなく北京を直接狙っているとも考えるべきなのであり、事実上、かつてキューバに置かれたソ連製ミサイル同様の物が北朝鮮による限度付の偽ドルで維持されていると考えれば、朝鮮人民軍とは事実上中国に向けられたアメリカの傭兵部隊でさえあると考えられるのです。

正に、米中露韓日の鬩ぎ合いに生じた空白に秘密の構造が成立している事に戦慄を覚えるのです。

既に、長期的には中国の方が危険なものであって、いつでも利用できる、ならずもの国家としての北朝鮮(北韓共産集団)の存在とは、ISISを使ってシリアを我がものにしようとしたヒラリーの事を考えれば、同様になお利用価値のある人工国家とまでは言えるのです(もちろんこれはトランプ登場以前の話であって、現在では大きな変化が起きている可能性は十分にありますが…)。

普通には経済制裁による禁輸措置によって石油を止めさえすれば北朝鮮はたちどころ行き詰まるなどと思われているかもしれません。しかし、実際にはそう簡単な構造になっている訳ではないのです。

それは、中国軍内部にも事実上の軍閥に近い分裂構造が存在している事を見なければならないのです。

そもそも、内モンゴルには大量のモンゴル系民族(実は人口的には二割以下)が存在しているように、北朝鮮と国境を接する中国側にも多くの朝鮮人が住んでいる(吉林省延辺朝鮮族自治州40%、吉林省長白朝鮮族自治県)上に、漢族とは異なるツングース系民族を大量に抱え込んでいるのですから、朝鮮族を含む非漢族は中国軍内にも深く浸透しており(かつての間島パルチザンならぬ馬賊、満州匪賊…がその後の瀋陽軍区の中核部隊となった)、仮に中国(習近平政権)が北朝鮮を攻撃しようとでもするならば、北朝鮮の核ミサイルが目と鼻の先の北京に直接打ち込まれる上に、旧瀋陽軍管区が北京の要請を聴くかどうかは極めて疑わしいのです。

そこで、瀋陽のトップであった徐才厚(ジョサイコウ)が四川省に送られ病死させられ、一旦は牙が抜かれたように見えるのですが、それで習近平政権が安定したとはとても言えないのです。

もしも習近平が本気で北朝鮮への制裁へと動くならば、旧満州としての瀋陽軍区と北朝鮮との連携が一夜にして形成され、昔の高句麗にも似た巨大な北方勢力が反習近平で対抗し、北朝鮮の核ミサイルは北京へと打ち込まれる事も覚悟しておかなければならないのです。

これと対抗するはずの中国の核は、遠いハート・ランド四川省成都周辺に展開しているため、直ちに反撃できる構造でもないのです。




sp95-42016.10.10 01:00更新

【野口裕之の軍事情勢】

反習近平派の拠点、中国人民解放軍「瀋陽軍区」が北と通じてクーデターを計画している!


sp95-5 北朝鮮の核ミサイルはワシントンや東京を狙っているとは限らない。北京も含めるべきではないか。一方で、小欄の目には北朝鮮と中国の国境が映らなくなっている。「対立する北朝鮮と中国」「中朝一体化」という一見矛盾する情勢のナゾ解きが、今次小欄のテーマ。ナゾ解きは衝撃的な結末を迎える。旧満州東部からロシア沿海州南西部、つまり朝鮮半島に接する中国側は李氏朝鮮時代(1392~1910年)以降、多数の朝鮮人が移住した。深い森林でおおわれ、朝鮮総督府の支配も届かず、無頼の朝鮮人や支那人の匪賊・馬賊の格好の根拠地となった。越境して朝鮮半島北部(現・北朝鮮)の町村を襲撃、無辜の朝鮮人らへの略奪・殺戮を繰り返した。絵に描いたごとき無法地帯であったのだが、「無法地帯」は現在も変わりがない。ただし、支那人の匪賊・馬賊は中国人民解放軍になり、北朝鮮襲撃ではなく、逆に武器・エネルギー・食糧・生活必需品を密輸し、支援している。国連や日米韓などが北朝鮮に経済制裁を科している状況をよそに、密輸とは不届き千万だが、中国人民解放軍が制裁の動機である北朝鮮の核・ミサイル開発まで支援しているという観測が、安全保障関係者の間で流れている。現下の厳しい制裁にもかかわらず、なぜ北朝鮮が経済力を保ち、核・ミサイル開発の技術的向上を続けられるのか?なぜ金正恩指導部が強気の姿勢を転換しないのか?この観測で説明できる。

 「朝鮮半島の非核化」を進めたい旨を公言する習近平・国家主席はウソつきということになるが、ウソをつかせる複数の要因が存在する。例えば、そもそも人民解放軍は、軍中央の支配が届きにくい半ば独立した軍閥。従って、習主席に逆らってでも北朝鮮を支援したい軍閥と、習主席に忠誠を誓う軍閥に大別される。背景には利権と政争が薄汚く絡み合う。北朝鮮の核・ミサイル開発を阻止するには、北を支援する中国人民解放軍を習近平派の人民解放軍が掃討しなければ、決着がつかぬやもしれない。中国国内で、内戦が始まるのだろうか。

 

 経済制裁、天候異変、洪水、経済の専軍政治化…といつでも瓦解しそうな報道が繰り返されるにも拘らず、しぶとく生延び、核ミサイル開発を継続する北朝鮮の存在は、奇妙を越えて既に米国の承認を得ていると考えてこそ理解できるのであり、表面の話とは別に、したたかな暗闘が存在していると考える方が正しいようです。

そもそも軍区を変更した中国の事情にも、習近平に対抗し独自に動こうとする旧瀋陽軍管区を脅威と考えていた節があるのですが、もしも中国経済も瓦解し、かつての黄布族の乱のような内戦状態になれば、この5戦区(旧7大軍区)も含めた軍区ごとに割れた軍閥割拠といった事態になりそうな気がしています。

また、韓国経済の崩壊によって親北韓政権が成立した場合には、北からの南進や中露が絡んだ連邦制や信託統治を含めたさまざまな変化が訪れる可能性を見ておく必要もあるでしょう。

今後は全く予測が着きません。まさか!何が起ころうとも再度の日韓併合だけはやめておくべきでしょう。

さて、話は変わります。“弱腰のオバマと違ってトランプは中国に本気で立ち向かうであろう“とか、ヒラリーが勝つべきであり、勝つとしか考えていなかった安倍が手のひらを返したようにトランプとの蜜月ぶりをアピールしたのはまだ記憶に新しいと思います。

就任予定のトランプは台湾の蔡英文総統と電話会談し、1979年に国交断絶をして以来の「一つの中国」の見直しでもするかのように装い、中国も激怒して見せたのですが、同じころ、トランプの新たな庇護者となったキシンジャーは習近平と密かに会談していたのでした。

そして、トランプは「一つの中国」を守るとのキッシンジャー風のメッセジを送り、国際的なトランプ支持派、ヒラリー支持派を翻弄し手玉に取るような動きを見せているのです。

今後もどのような変幻自在を見せるかは分かりませんが、恐らく、埋め立てが完了した南沙を攻撃すると脅しを掛け、巨大な埋蔵量が確認されている海底油田への支配権を握る事が目的なのでしょう。

アメリカにとってはちゃちな中国海軍など苦も無く捻る事ができるのですが、大きな問題もあるのです。

それは、もしも中国と海戦から全面戦争と拡大すると、米軍では核を使用しない限り手におえない陸上戦に持ち込まれて人を人と思わぬ人海戦術で泥沼に引き込まれるため、結局、米中衝突には至らないと言う避ける事のできない筋書きが存在するのです。

結局、南沙についてはこれ以上触れさせず、近づけさせないとして…将来的な石油資源を確保しよう(開発させない事も含めて)と言うのが米国の思惑なのだろうと考えるのですが、南シナ海での米中激突といった衝撃的な宣伝自体がカモフラージュである事も見ておかなければならないのです。してみると、台湾の蔡英文と安倍は前座として利用されただけのピエロだったという事になりそうな気がしています。

既に、ダビデ=デイビッド・ロックフェラーの後継となったキッシンジャーは、再度、親中派(実はマキャベリストの等距離外交派)の小沢を担ぎ出そうと、既に安倍降ろしが始まっているのではないかと思えるのです。まず、森友学園を巡る動きが何故唐突に生じたのかも考えて見るべきでしょう。

かつて小沢と袂を分かった小池がどう動くか、情報に操作されるB層はどうにでも操れると尚も考えているのです。そういえば、電通が何故叩かれているかも考えてみるべきでしょう。

まあ、米中戦争を考え人口の五分の一化を考えていた節のあるヒラリーによる南沙攻撃は老後の楽しみとして面白いものだったのですが、既に、自然破壊が極限まで進んだ列島には愛国心など持っていない事からどうなろうが知った事ではない…とまで思うこの頃です。

 

南シナ海には、豊富な天然資源があるとされ、中国、台湾、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、ベトナム、インドネシアがスプラトリー諸島(南沙諸島)などをめぐって、7カ国が領有権を主張している。また東シナ海においても、日本、中国、台湾が領有権を主張する尖閣諸島 (中国名:釣魚島)付近でも、石油の埋蔵が確認されている。中国メディアは4日、中国海洋石油総公社(CNOOC)の李緒宣研究員が、「南シナ海の石油埋蔵量推定値が230億トンであるとし、『第2のペルシア湾』だ」との見解を明らかにしたと報道した。2008年の中国政府の調査では、中国内の石油埋蔵総量は246億トンと発表されており、南シナ海の推定値は、現在の中国全体の原油埋蔵量とほぼ同量といえる。この海底資源を争って、周辺各国が権利主張を行っている。

一方、東シナ海の尖閣諸島問題に関して、台湾の馬英九台湾総統が「中国、日本、台湾が尖閣諸島の領有権を争う真の理由は、大量の石油埋蔵のためだ」と語ったと台湾メディアが4日、報じている。

1969年から70年にかけて国連が行った調査では、東シナ海の海底油田の石油埋蔵量は、約1000億バレル(約150億トン)とされており、世界第2の産油国のイラクに匹敵する量だ。


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401 人吉盆地の隠れ里 槻木集落再訪 “四所神社の丹生津姫”

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 401 人吉盆地の隠れ里 槻木集落再訪 “四所神社の丹生津姫”

 20160923

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

肥後観光のナンバーワンは阿蘇でしょう。それに次ぐのが、パールライン(天草五橋)の開通と相まってひところ観光客が雪崩れ込んだ天草ですが、それに比べ、個性的な観光地としてそれなりに知られてはいるものの、今尚、観光客が雪崩れ込むといった事にはならず、依然、隠れ里的な山上楽園として人吉盆地は静かなブームを持続し続けています。

さて、この高峰に囲まれた人吉盆地ですが、この深部の多良木町に槻木(ツキギ)と呼ばれる秘境中の秘境集落がある事をご存じの方はほとんどおられないと思います。

今回はこの槻木の四所神社の話になります。

人吉盆地のかなり奥というのは大雑把な表現ですが、山上楽園の第二の町が多良木になるでしょう。 

この多良木町の南側には、湯ノ原山(1063m)、花立山(1105m)、黒原山(1017m)が並び、あたかも宮崎県との県境を成しているといった印象を与えています。

ところが、この盆地から花立山と黒原山の鞍部である槻木峠を越え降り落ちた所にあるのが多良木町槻木の集落なのです。

実際、この集落を貫通して流れる綾北川を降り、田代八重ダム、綾北ダムを抜ければ、近年、焼酎で宮崎県全体で鹿児島県を抜く原動力となった某焼酎メーカー(霧島酒造)の本拠地がある宮崎県の綾町に至るのです。

普通に考えれば(地形、地勢だけで)、どのように考えてもこの地は宮崎県に思えるのですが、この槻木が多良木に引き止められている理由は、この地の開発が相当に古い時代から多良木側の人々によって行われた事を物語っているようです(半島系地名語尾の「木」が一致する事でも容易に想像できます)。


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さて、この地には空海がいたと言う話があります。

事実、大師山という山の麓に御大師という集落(小字)があり、立派な大師堂までがあるのです。

今を去ること千二百年余り前、留学僧として入唐した空海が惠果阿闍梨から密教の全てを受け継いだ後、禁を犯して二年ほどで帰国した後、一年余り九州に居たとされているのですが、短期間であれ、その間この地にも滞在していたという話があります。 


この大師堂は、弘法大師が八十八箇所のお寺を作るために九州各地を巡られ、40番目に造られたものと伝えられています。現代でこそ多良木町の中心から車で1時間ほどで到着できますが、お大師様の時代に槻木まで山を越え谷を渡って来るのは大変なことだったでしょう。それを実現した脚力と精神力にはほとほと感心します。 

下槻木では旧暦の321日と821日にお大師さん祭りが行われ、太鼓踊りが披露されています。 

大師堂の近くに四所(ししょ)神社があります。この神社の祭神は、真言宗の総本山である高野山の祭神、丹生都比売(にうつひめ)で、高野山信仰が南端のこの地まで根付いていたことがうかがえます。真言宗を保護した相良氏は、島津氏との領土争いの最前線として、ここ槻木で領土の安全と敵国降伏の祈願をして南の守りを固めたと伝えられます。そのため弘法大師伝説が、この地に根強く残ったといわれます。この神社には、年に一度、113日の大祭の日に見ることができる県の重要文化財や町の有形文化財に指定された神面が祀られていて、県内最古のものの1つです。  

 

「雑学の世界・補考」弘法大師 (空海) 修行の旅より


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この槻木地区には十年ほど前に二度ほど入っています。

多良木地名研究会のS先生の御案内で、天子宮調査を行っていたついでに連れて来ていただいたのでしたが、その際にも、空海がこの地で水銀採取を行っていたのではないかと言った話をお聴きしていました。

今回も、その辺りの話を再度検証する事が目的だったのですが、この地区の中心地(槻木小学校傍)にある菅原神社と御大師にある大師堂と四所神社を再度、落ち着いて見たかったからでした。

当然ながらこの四所神社には丹生津姫が祀られています。

もう、感の良い方ならば、谷川健一ファンならずとも言わずもがなの事としてお分かりでしょうが、水銀採取との関係が容易に想像付くだろうと思います。

その起点とも言うべきものに佐賀県嬉野市の丹生川から塩田川沿いに丹生津姫を祀る数社が拾え、球磨川流域からこの槻木を経由し大分の丹生津姫神社、そして四国の構造線に沿って和歌山まで繋がる水銀採取集団の痕跡が辿れるのです。

ここについては、これまでの水銀採取集団の移動と丹生地名の移動と言ったものに関心をお持ちの方も全くご存じでないはずで、耳新しい話ではないかと思います。


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上から 大師堂 境内に置かれた悠久石 同解説盤

 

 では、四所神社をご覧下さい。

 「熊本県神社誌」では祭神を丹生明神一柱としています。

しかし、四社神社は四柱が相当であり、奇妙だと思っていると、手前に熊野座神社があり、こちらが排除された地主神(先住神)だったことが分かってきました。

つまり、熊野三座と併せ四柱だったものが、何らかの事情で分離した形になったのではないと考えるのですが、既に過疎化は極限まで進んでおり、ヒアリングをできる状況にはないことから想像する以外にはありません。

 初めて現地に入った当時、S先生は“相良入府より以前の歴史は相良によって消されており、それ以前の歴史がほとんど探れない”といった趣旨の話をされていました。

 その話の延長に思いめぐらせば、丹生都姫を持ち込んだのは空海とされているようですので、“それ以前は熊野三座を信奉する人々が住んでいたことが想像できそうだ”とまでは言って良いように思います。

 既にこのblogの読者にはお分かりでしょう。博多の櫛田神社の主神である大幡主=白族こそその先住者であることが見えるのです。

 まあ、現地のフィールド・ワークとは言うものの、泊まり込みのヒアリングでもなく軽々には判断できないのですが、こういうところで相良以前の歴史、相良以前の民族、氏族を見る以外に方法がないのです。


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「熊本県神社誌」によれば、この四所神社は祭神不詳の平谷神社と併せ、槻木菅原神社の摂社とされています。

 菅原神社と併せ、過疎化が極限まで進んでいることからいずれ地域全域が消失する可能性が高く、この神社もいずれ潰え去る運命にあると思います。

 事実、槻木菅原神社の横に置かれた槻木小学校は現在生徒一人に先生が3.5人となっています。

来年には妹さんが一年生として入校学し二人になるそうですが、そもそも数年前まで閉校されたところに一世帯入った事から復活した学校なのです。

十年ほど前に民俗学的興味で入った頃には、まだまだ活気があったという印象を持っていたのですが、農業が主産業でなくなった今日、このような僻地中の僻地に光が刺すとは到底思えないのです。


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同社に置かれた多良木町作成と思われる解説

 

では、最後になりますが、丹生都姫とはどなたかお分かりになりますか?

 百嶋由一郎先生は十分にお分かりだったようです。

 イザナギとイザナミの間に産れたのがスサノウですが(決して通説派の方々が言う様に天照の弟などではないのでお間違えないように)、その姉が神俣姫=丹生都姫であり、クラオカミなのです。

 そして、その丹生都姫と神沼河耳との間に産れたのが、春日大神、武甕槌、鹿島大神…こと阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミその人なのです。


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百嶋由一郎 神代系譜(阿蘇ご一家)

 

丹生都比売命にうつひめのみこと

 

別名

丹生都姫神:にうつひめのかみ 爾保都比賣命:にうつひめのみこと 丹生明神:にうみょうじん

 

関連祭神 高野御子神:たかののみこのおおかみ……

 

爾保都比賣命は国堅大神の子。神功皇后の三韓遠の時、この神が国造石坂比売命に憑いて、 自らをよく祭祀するならば、新羅を治める善験をなさうと教へて赤土をえた。

この赤土を、天之逆鉾に塗り軍船の艫舳に挿立て、皇軍の甲衣をも染めたため、 航海の障害に合うこともなく新羅を平伏し得た。

そこで紀伊国管川藤代の峯に奉鎮されたという。

一説には、丹生都比売命は天照大神の妹神(稚日女尊)。応神天皇によって天野に祀られたという。

高野御子神は丹生都比売命の御子神、あるいは夫神であるという。

弘法大師が始めて高野へ登った時に出現して、 「我は丹生津姫、我が子は高野童男(ふとな)」と言ったという。

丹生の「丹」とは、丹砂あるいは水銀のことで、 古代において、薬・塗料・染料・顔料に使用され、重要な資源であった。丹生都姫命は、その鉱物資源採取を生業とする丹生氏の奉じた神。

 

敬愛する「玄松子」氏による

 

 


402 林野庁が引き起こした巨大山林崩落現場を十年ぶりに尋ねてみた“宮崎市田野町鰐塚山”

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402 林野庁が引き起こした巨大山林崩落現場を十年ぶりに尋ねてみた“宮崎市田野町鰐塚山”

 20160929

太宰府地名研究会 古川清久

  

ひぼろぎ逍遥 401 人吉盆地の隠れ里 槻木集落再訪 “四所神社の丹生津姫”をお読みになった方はお分かりのように、人吉盆地の多良木町槻木に入った事は既にお話ししています。

 では、何故人吉に入ったかと言うと、環境問題に危機感を抱き続けている三人が人吉温泉に集まり、翌朝、宮崎県宮崎市田野町鰐塚山の国有林野地の巨大崩落現場のその後を見に行くことが目的だったのです。

 お集まりになったのは熊本市在住で大病院の院長をされている精神科医で「砷地巡礼」「水俣-土呂久-キャットゴーン」、「菊池川源流域」、「Color Atlas of Chronic Arsenic Poisoning-目で見る砒素中毒」-を公刊されたH氏と、林業家であり「日本政府の森林偽装」「植えない森づくり」のH氏、「有明海異変」の私(これまたH氏)の三人のH氏による3Hクラブでした。

 当然にも売れない針葉樹林による危機が関心事であり、森林の崩壊による川の死、ひいては海の死をどう考えるかについて考えるために、最大の崩壊林地の確認に出かけたのでした。

まず、九州最大の山林崩壊と言えば、宮崎県宮崎市(旧田野町)鰐塚山が筆頭に上げられるべきでしょう。

これは、平成17年(2005年)に宮崎を通過した台風14号により50年生の管理された国有林が大崩落を起こし、百万本の杉が瓦礫と共に下流に流れ下ったというとんでもない巨大災害だったのですが、死者が出なかったことからあまり報道もされず(県も林野庁もだんまり=専門的林業家のH氏がご存じなかったのですから積極的に報道していない事は明らかです)、土建業者、林業者も災害復旧事業によって所謂ボロ儲けしたことから、今は何事もなかったかのように平然と構えているのです。

これについては災害発生後に現地を踏み、当方のHPアンビエンテ内の「有明海諫早湾干拓リポートⅢ」において 204「宮崎県鰐塚山針葉樹林の大崩壊」(宮崎県内の全ての川が土砂で埋まる Ⅱ )針葉樹林に火を着けろ!田 野 としてリポートを書いています。


401-1

 

冒頭の部分を少し引用してみます。

 

針葉樹林に火を着けろ!

田 野

 

  宮崎市の西隣に、現在は同市と合併した旧田野町がありました。この南側に柳岳、並松山、朝陣野といった千メートル級の高峰が連なっていますが、その大山塊の最高峰が鰐塚山(1118.1m)です。

  さて、二〇〇五年九月に宮崎を通過した台風14号は、高千穂鉄道消失に象徴される大災害を宮崎県下全域にもたらしましたが、大規模な土砂崩れが頻発した北の椎葉村を圧倒的に上回る大規模な山腹崩壊(山体崩壊)を起こしたのが、この鰐塚山北麓の別府田野川流域でした。

  死者が存在しなかったためか、県外ではほとんど話題にもなりませんでしたが、見た事もないような規模の土砂崩れが起こっているのです。

  愚かな林学の走狗によって引き起こされた針葉樹林の問題についてはこれまでにも何度となく書いてきましたが、今回もこの樹齢の上がった危険極まりない針葉樹林地の実情を理解して頂くために気の重い論文を書くことになってしまいました。

 

鰐塚山山裾の田野IC周辺(マピオン)

 

県営クラスの大型ダム一つ分(五〇〇万立方メートル)の土砂が崩落した

 

以下省略

 今回、改めてH先生とHさんを加えた三人で田野の現地を訪問した理由は、H先生が現地を見たいと言われた事から、ご案内することにしたものです。

 この事を知りあって間もないHさんにお話ししたところ、お二人はお知り合いだったことからH先生に助さん格さんが随行する水戸黄門漫遊記のような話になり、さながら相良藩領の人吉温泉から飫肥藩への旅となった訳です。


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針葉樹林大崩落によって賽の河原と化した"いこいの森“


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上は建設中の砂防ダム。自ら森を破壊して砂防ダムで私腹を肥やすのですから、これほど旨いシステムはありません。宮崎県幹部のどれほどが林道建設業者などに天下りしたのでしょうか。

この左手の山を越えて流木もろとも土砂が流れ込んだと聞きました。崩壊は写真右手でも同程度起こっていますが、写真には収まりきれません。


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自分で破壊しておきながら「みんなの暮らしを守る治山事業」だそうですお笑い草も良いところです

 

今回、災害時以上に写真を撮りましたが、バカバカしくてご紹介する気にもなりません。

詳しく知りたい方は、ヤフーでもグーグルでも、「鰐塚山」「崩壊」とでもダブル検索を試みて見て下さい。多くの資料が出てくるはずです。

 

宮崎県鰐塚山針葉樹林の大崩壊

 

「平成17年台風第14号」九州土砂災害(20059月)|アジア航測|空間 ...

 

宮崎県田野町 鰐塚山の崩壊 -E-mansion.com  …

 

 皆さんは、林野庁が森を守っていると思われているかもしれませんが、全くの虚構です。

 既に、都会の住宅はほとんどマンションになり、鉄とガラスとプラスティックスと僅かな外材で造られています。

おまけに小泉、竹中の売国奴共によって国民の所得は極限まで切り下げられ半減しており、杉や檜の国産材を使った和風住宅を建てる余裕は失ってしまっており、いくら生産しても国産材は需要を喪失し全く売れなくなってしまっているのです。

 それは、大工さんが食えなくなっている事でも良くお分かりでしょうが、この事は全く売れない針葉樹林が山に放置されているのです。

 そもそも、広葉樹とは異なり針葉樹は全く根を張りません。このため急傾斜地で土壌を失えば樹体を支える事ができないのです。

 その上に杉檜林の場合は落葉が腐葉土とはなり難く、土を肥えさせない事から下草が生えず、栄養もないことからむき出しの土が一方的に雨で洗い流されることになるのです。

 二~三十年ほど前までは、拡大造林政策に基づいて植えられた杉、檜も樹齢が若く台風に煽られても風倒木として折れたり一部が倒れたりする程度で済んでいたのですが、今や売れないために相対的な樹齢が上がり、非常に重たい根を張らない木が傾斜地に乗っかっているといだけという状態になっているのです。

 一旦、崩落が始まると一気に全体が崩壊しドミノ倒し宜しく谷に落ちて行く事になるのです。

 恐らくと言うよりも、確実にこれ以上の崩壊が今後とも起こり続け、国富を疲弊させ続けていくことになるでしょう。

 川に危機感を抱いたH先生と山と川と野鳥に危機感を抱いたHさんと林野庁=農水省と国土交通省の国賊どもに敵意を抱き続けている私と思いはそれぞれですが、もっともっと大規模な災害が起こり、福一で原子力学者や官僚どもが馬脚を現し、火山学者や地震学者や気象庁や科学技術庁が恥をかいたように大恥をかき軌道修正せざるを得なくなる時期が必ずやって来るものと考えています。

 もっともっと酷い大規模な山林崩壊が起こり、多くの死者がでるような災害が起こらない限り転換は起こらないでしょう。

 今も、間伐がされる枝打ちがされない民営林は光が刺さない事から下草が生えず、従ってむき出しの土壌となり急傾斜地で雨に打たれ続ければ土壌流出進み根を張らない針葉樹の大木は自らの重さを支えきれず一方的に崩れ続けているのです。

 恐らく経済原則を無視して間伐され枝打ちされ大量の労力と経費が投入された鰐塚山の国有林でさえ崩落しているのですから、今後とも民有林を中心に崩落し続け土砂を流し続け、川を砂利で埋め、魚を絶滅させ、美しい日本の国土を失わせ続けて行く事になるでしょう。


 

402-6 それが林学であり林業であると言うのですからお笑い草でしかないでしょう。

昔読んだ中公新書に「杉のきた道」-日本人の暮しを支えて- 遠山富太郎 中公新書-があり、林業のバイブルとか名著とか言われていましたが、私に言わせれば、大笑いでしかなく、「スギは日本の杉である。そして、日本はスギの日本であった 」とは悪魔の囁きにしか聞えないのです。

 それどころか、上の杉山が崩壊し造林地の所有者が犠牲になるなら自業自得で済むだけですが、他人の住居を押し流し多くの死者を出し始めている状況では、早く手を打ち荷重を減らさない限り今後とも三重県のような悲惨な例が激発して行く事になるでしょう。

 恐らく、県から市町村の調教された下っ端役人どもは分かっていないどころか、良い事でもやっているかのように思い込んでいますが、林野庁のエリート官僚どもは薄々気付いているはずなのです。

 しかし、天下り先を失うような事はしたくないため先輩の悪行を今も相続し続けているのです。



 

 

スポット096 ネオ・コンの一時的撤退

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スポット096 ネオ・コンの一時的撤退

20170324

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 これは10年前に「環境問題を考える」のサブ・サイト「アンビエンテ」の一つ「有明臨海日記」に書いたものです。トランプ政権の登場によってこれまで陰に陽に専横を振るっていた米国ネオ・コン(ヒラリーのバックボーン)が表面的には身を潜めた時期だけに、再度埃を落しお読み頂きたいと思うものです。

 いずれにせよ、ブッシュ~ヒラリーという殺人者集団によって、数十万人が殺され五~六百万人の難民が産みだされたのでした。まさに、聖書物語の世界ですね。


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120 一時的に撤退したネオ・コンの誇張された履歴書について           20061115 

 

アメリカの中間選挙で共和党が負け、ラムズフェルドが引っ込んだ。もちろん、これをもってアメリカの権力構造に大規模な変化が起こったなどと考えるのは、全くの誤りでしかなく、外交政策において、しばらくは大人しくなる可能性があるという程度の話でしかないでしょう。

さて、ネオ・コン=新保守主義者の全体像というのは大げさですが、その一面に過ぎないにも関わらず、あまりにも過大に評価され誇張された側面について書いておく事にします。


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彼らはブッシュ政権の中に巣食うタカ派の中の一分派ですが、ラムズフェルド(元国防長官)やチェイニー(元副大統領)といった伝統的右派、さらにカール・ローブといった偏狭なキリスト教右派と異なる、かなり広がりを持った勢力と言われ、伝統的右派やキリスト教右派に対して、ネオ・コン=ネオ・コンサバティブと言われたのでした。まず、このネオ・コンの代表的な人物を一覧すれば、…

ウヲルフォビッツ(元国防副長官)、ボルトン(元国務次官)、ウルジー(元CIA長官)、アービング・クリストル(「ウイークリー・スタンダード」の元編集者)他多数といったところになりますが、このアメリカ国防省などに巣食う変節したほんの僅かな知識人の一部が一時期アメリカのトロツキスト党SWP(社会主義労働者党)もしくはその分派のメンバーであったことは事実のようです。この程度の話は日本の知識人にも良く見られる話であり、それほどめずらしい現象というほどのものでもないでしょう。もちろん体育会系の愚か者どが国際情勢の分析者になれるはずもないのであり、蛇の道は蛇とは言えるのです。

さて、アメリカ共産党のことは今や完全に忘れ去られていますが、ロシア革命のドキュメントでもある、名著「世界を揺るがした十日間」(岩波文庫)を書いたジョン・リードを中心に、帝国主義の本山であるアメリカで結成された共産党(後にアメリカ共産労働党とに分裂)とは全く別個に、一九三〇年代にアメリカ国内でもトロツキスト党が拡大します。


sp96-3 191991日、モリス・ヒルキット率いるアメリカ社会党の改良主義的な路線に反対して離党した左派党員により結成。当初はアメリカ共産党とアメリカ共産労働党に分かれて出発したが19215月に統合した。発足時点の党員のほぼ7割はアメリカ国籍を持たない外国人、とりわけ東欧系ユダヤ人で占められていた。穏健派の社会党がわずか4万人の規模だったのに対し、結成から1ヶ月で共産党はアナーキストやその他の急進派も含め6万人の党員を獲得した。一時党員は数万人に達したといわれているが、19201月の司法長官ミッシェル・パーマーによる一斉検挙によって数千人の党員が逮捕され、特に海外生まれの党
sp96-4 員は国外追放されて大ダメージをうけ、1920年代は沈滞する。共産党は地下活動を余儀なくされ、当局の弾圧を避けるため何度か党名を変更した。1928年、ジェームズ・キャノンやマックス・シャハトマンらトロツキストが党から追放された。のちに彼らはアメリカ共産主義者同盟を結成し、1937年には第四インターナショナルの加盟政党である社会主義労働者党を結成した。

ウィキペディア(20170324 13:06による


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お読みになった方も多いと思いますが、ジョン・リードによる名著の上下巻で、1917年、アメリカの急進的雑誌の記者としてペトログラードにいたジョン・リードが、そこで目撃したロシア十月革命のドキュメント。スモールヌイを拠点に武装蜂起を指導するレーニン、トロツキーが鮮やかに描かれています(第2回の全ロシア=ソヴィエト会議がペテログラードのスモーリヌイ女学校で開催されている)。(後注)

第二次大戦期にフランスを始めヨーロッパ全土の共産主義者=トロツキストの組織がヒートラー・ナチスやソ連軍の直接占領、さらには各国共産党の実行するテロによって物理的に破壊され潰滅させられる中、唯一、アメリカのトロツキストだけが勢力を維持し戦後に引き継がれます。後にヨーロッパでもトロツキストは勢力を劇的に拡大させますが、第二次世界大戦直後において国際的なトロツキスト運動の中心は一時的にアメリカにあったのです。

三〇年代、トロツキーはヨーロッパからも追放され、メキシコに亡命をよぎなくされていましたが、スターリン主義者の手先(ラモン・メルカデル)によるテロによりピッケルで頭を割られ死亡します。もちろん、死の直前までトロツキーはスターリンとスターリニスト共産党に対する徹底的な批判と闘争を続けますが、自らが打ち立てたソ連邦の労働者国家としての部分的革命性を評価し続け、「労働者国家無条件擁護」の戦略を降ろしませんでした。

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その後、第二次世界大戦後の国際情勢の激変の中で、トロツキーを失った全世界のトロツキスト党は新たな戦略を模索して苦闘します。さらに冷戦が始まる中、いち早くスターリン主義の犯罪性、反革命性を意識したトロツキストの中で、反動的な既存の各国共産党の運動、そしてその中心(コミンテルン、その後のコミンフォルム)たるソ連邦をどのように評価するかを巡ってスターリン主義者のソ連邦をなおも擁護するのか?それとも絶対に支持すべきではない!とするのかと言う極めて深刻な戦略を巡る議論が起こるのです(もちろん半世紀も前の話です)。 

これがその後の国際的なトロツキスト運動の対立に発展し、あくまでもソ連邦を擁護する国際書記局派IS派(パブロ)と、絶対にソ連邦を擁護すべきではないとする国際委員会派(キャノン)IC派との分裂をもたらします。

アメリカのSWPは、当初IC派に沿って動きますが、その後IS派とIC派の一部が統一して形成された統一書記局派US派に移行しますが、これを許さないグループはスパルタシスト・リーグとして、七十年代に一時期世界最大のトロツキスト党となるイギリスの社会主義労働者同盟SLL(後の労働者革命党/WRP)などとIC派を継承します。

東欧の衛星国家の拡大、毛の中国(こんなものを一瞬でも社会主義国家だったなどと考える人間は最終的に消失したでしょうが)やチトーのユーゴスラビア、キューバ、ベトナムなどをどのように評価するのか、また、いわゆる共産圏の拡大に対する幻想の中で、既存の社会党、共産党などへの加入戦術論争などが派生してくるのです。これらの対立について、トロツキストの戦略としてどちらが正しかったかは、もはや、明らかですが、今や幟を揚げたスターリン主義者(毛沢東主義者)の組織などネパール以外には事実上存在しなくなった現在、これらの論争は実質的な意味は失っていると言わざるを得ないでしょう。

ただ、映画「キューポラのある町」などにも登場しますが、戦後の一時期、北朝鮮への帰国運動(北は夢の国)を積極的に推進したスターリン主義者や、スターリン主義者のホーチミンのベトナムや中国に革命性を錯覚した人々に革命家としての前衛性など全くなかったことだけは間違いないでしょう。

戦後、直ちによみがえった一部のトロツキスト左派が世界情勢に対して最も優れた分析力を持っていたことは間違いがないのですが、まず、マックス・シャハトマンが国家資本主義論者としてSWPを離脱し、新たに労働者党を結成すると、フィリップ・セルズニックのグループはその内部にシャーマン分派を形成します。その中に前述のネオ・コンの論客アービング・クリストルもいたのですが、この中からスターリン主義を絶対に許す事ができないあまり、純粋反ソ主義者(真正右翼とでも表現すべき)に変質していく部分があったというのが真実であり、そのまた、僅かな一部が変節を重ね、ペンタゴンのソ連研究スタッフになっていったのだと考えられます。

結局、既に現役を引退しているアービング・クリストルが一時期SWPに籍を置
sp96-7 いたことがあったという程度の話でしかなく、
ブッシュに一定の影響を与えていると言われる有力紙のウイークリー・スタンダード紙の編集者である息子のウイリアム・クリストルなどは一度も左翼と関わった事はないのです。

今回の一文にはむろん政治的な意図はありません。ただ、“ネオ・コンがトロツキストである”などと言われる非常に誇張された話は以前から気になっていましたので、一応、簡単なコメントを加えたものです。

ほんのしばらく前まで、中国や北朝鮮を夢の国のように描いていた連中も少しは科学的な思考を追及してもらいたかったものですが、CO2温暖化論が蔓延する時代ですから、基本的な構造は全く変わらないのかもしれません。ただ、現在でも近藤邦明氏がいるように、気付かれていないだけで、何時の時代でも過去、現実、未来を見透している人物はいるものなのです。

21世紀の南北戦争も含め、今後、米国も大きな政治的変動を見せる可能性が高くなってきました。皆さんもくれぐれも騙されない様にしましょう。キッシンジャーの意向か?既に安倍降ろしも始まっています。

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言わずと知れたラムズフェルド(左) 息子のビルクリストル(中) ジョン・ボルトン(右)

403 「百嶋神社考古学」概論 001 “出雲とは何か?”

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 403 「百嶋神社考古学」概論 001 “出雲とは何か?”

 20160929

太宰府地名研究会 古川清久

 

 巷では大和朝廷に先行する「古代出雲王国」とか“九州王朝に先行する古代出雲王権”といった大げさな話が横行しているようですが、これは近畿大和政権による偽装ではないかという事を考え始めたのは最近の事でした。

 “大国主を出雲の国の人だと思っておられる方がおられますが全くの誤りです。”と言われたのは故)百嶋由一郎氏でした。

 “出雲はいたるところにあったのです。”という奇妙な話をされていてこれまで意味が分からなかったのですが、最近になってようやく意味するところが分かるようになってきました。

恐らく先生が言いたかったのは、列島の開拓段階での事であり、全体としての大幡主系と言うか、白族(大幡主)、越智族(大山祗)、瀛氏(金山彦)の連合体とも言うべき忌部、卜部…が展開した入植地こそが出雲だった、現出雲はその多くの出雲の一つだったという意味だったようなのです。

 従って、出雲を「イズモ」と読み呼ぶのは、本来、誤りで、出雲は「イン」と呼ぶべきなのです。

 つまり、忌部(豊玉彦)の展開した讃岐、阿波、紀国、忌部の一員であった大国主が後から展開した現出雲もそうであり、九州島内にも出雲地名(飯塚市桂川)があるように、この旧忌部が展開していた地域が今もモザイク的、斑状に存在しているのです。

 出雲は「出」をイズルの「イ」、「雲」をウンと読めば、「イ+ウン」で忌部の「イ(ム)ン」と一応は読めるのです。

 では、大国主はどこにおられたのでしょうか?これについては、既に、ひぼろぎ逍遥 024 「大国主は九州で生まれた“オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社”」で書いていますのでお読み頂きたいと思います。

 これを読まれれば、少彦名命が春日市の須久岡本遺跡のある須久に住んでいた須久の彦だったことがお分かり頂けるのではないでしょうか?「スクナ」は「スクノ」の古形であり、今でも「そこな御人」「そこな女子」といった言葉が落語などに留められている事が思い浮かばれます。所有の格助詞の「な」がスクナヒコナ命の意味つまり、スクの彦の命がその意味だったのです。すると、春日市商工会議所敷地内に残された伯玄社にオオナビコとスクナヒコナノミコトとは幼馴染であった事までが見えてくるのであり、神話の世界が現実の歴史の世界に引き下ろされて来るのです。

 最後に、大国主の国譲りの結果、最終的に大国主もしくは、その配下の大国主の一党が移動していった旧出雲の一つが現出雲であり、移動先(移転先)が現出雲だったことが見えてくるのです。

 従って、現出雲とは近畿大和朝廷が創ったものであり、因幡の白兎神話の舞台とか大国主が大怪我をしてウムギヒメ、キサガイヒメが介護に送り込まれた現場といいテーマ・パークでしかないのです。

 このことは、九州の大国主祭祀圏の再検討再調査が極めて重要であることを示しているのです。


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404 松山市内で発見した永尾地名 “坊ちゃんスタジアムの鎌田地名”

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 404 松山市内で発見した永尾地名 “坊ちゃんスタジアムの鎌田地名”

20161008

 

 太宰府地名研究会 古川 清久

 

 松山市の南、伊予市の五色浜神社周辺で車中泊した翌朝、よせば良いのに大した事もないだろうと、松山市を抜け今治市に向かおうとしたのですが、ラッシュ・アワーと重なり渋滞しながら松山市の中心部に向かっていると、重信川に石出川が合流する辺りで「鎌田」「出会橋」といった地名に遭遇しました。

 ゆるキャラとか坊ちゃんスタジアムとかいった軽薄な文化などどうでも良いのですが、と言うより吐き気を催すほど嫌なのですが、この鎌田という地名は沖縄のカマンタ、ハマンタ、英語のマンタレイ、スティングレイ、エイの形状から連想された、岬状地形、河川合流地名である事はこれまで何度も取り上げて来ました。

詳しく知りたい方は、ひぼろぎ逍遥 202208 をお読み頂くとして、出会、落合、河合、流合、吐合、可愛(カアイと書いてエノ=エイの尾と読む)…自体が河川合流地名である上に、付近には鎌田(カマンタ=沖縄のマンタ)地名まで揃っているのですから、民俗学者の谷川健一が発見した永尾(エイノオ=エイの尾)地名の一つであろう事は明らかなのです。


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前回の四国入りでも2件の「永尾」地名を発見していますし、松山市内に永尾=釜蓋地名が存在しても一向に問題はないのですが、本気で探せば、まだまだ出てくるのではないかと思っているところです。

 
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 グーグル・アースを見るまでもなく、二つの川が合流し、細長く尖った岬状地と両方に広がった鰭状地形をエイの尾=従ってカマンタに見立てた地名であることは明らかでしょう。


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405 鈍川温泉の石折神社 “鈍(ニブ)川の鈍(ニブ)とは丹生(ニュウ)のこと

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405 鈍川温泉の石折神社 “鈍(ニブ)川の鈍(ニブ)とは丹生(ニュウ)のこと


ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161008

 太宰府地名研究会(神代史研究班) 古川 清久



未踏だった南阿波~東土佐を対象に四国の神社調査に入りましたが、実は高知市の西にある佐川町の一社を見に行く事が今回の最大のテーマでした。

その神社の報告は後に回すとして、佐川町から千メートル級の山を越え伊予市、松山市に戻りました。

往きは児島~坂出ルートでしたが、複りは今治~尾道ルートという事になります。

車が少なくなって移動する事から、時間調整もあり、神社を見たり温泉に入るなりすることになるのですが、道後温泉の喧騒を避け奥道後温泉から高縄半島の東側今治に入り鈍川温泉に向かいました。


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まず、丹生(ニュウ)地名に関心をお持ちの方には直ぐにお分かりになると思いますが、水銀採取集団が残した地名としての丹生、根雨、爾布…の一つが鈍川なのです。


その証拠に、鈍川は丹生川と表記されていたと言いますし、壬布川が流れ、下った隣の西条市にも丹原という地名が拾えるのです。


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ともあれ、この地にも水銀採取で賑わった時代が存在した事がうかがい知れたのでした。

 当然にも、この石折(イサク)神社にもその手の神様がおられるのではないかと、雨が降り始めた中足早に参拝に及んだのでした。


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さて、この神社の祭神です。

まず、鈍川温泉の入口に鎮座している事から丹生津姫(イザナミとイザナギとの間に産れた闇淤加美=神俣姫)が祀られているのではないかと考えたのですが違っていました。

しかし、外れと言う訳でもありません。製鉄の神様でした。いつも触れる事ですが、製鉄神があると付近には鬼○地名が良く発見できるのですが、ここにも鬼原地名があります。

栃木県の磐裂根裂神社などに代表されるイワサク+ネサクの神=埴安姫+金山彦だったのです。



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同社縁起



ご覧の通りですが、主祭神の石筒男神の実体は不明です。

 一応、HP「玄松子」氏によれば、


伊邪那岐は、伊邪那美が火の神・迦具土神を生んだ際に、 陰所を焼いて死んでしまったのを哀しみ怒り、 十拳剣(長い剣)を抜いて迦具土神を斬り殺してしまう。 この時、剣についた血が湯津石村に走り付いて神々が化生する。

『古事記』では、剣の鋒端(さき)についた血から石拆・根拆・石筒之男の三神、 剣の鐔(つば)際についた血から甕速日(みかはやび)・樋速日(ひはやび)・建御雷(またの名を建布都神)の三神、 刀の柄に溜った血が指の股から漏れてあらわれた闇淤加美(くらおかみ)・闇御津羽(くらみつは)の二神、 計八神が十拳剣によって生れた。


となるのですが、実体はこれによっても掴めないのです。


客人神社は、出雲大社の客人=ウマシアシカビヒコチか?と考えたのですが、どうもそうでもないようです。そうすると、五男神とされているのは、天照とスサノウの子産比べで出てきた五男神を何故客人として別殿に祀る必要性があったのかが分からないのです。

 七車中泊八日121900キロメートルという調査旅行でしたが、初見の神社ばかりで興味深い旅となりました。


最後に百嶋由一郎「最終神代系譜」と「阿蘇ご一家系譜」から丹生津姫、主祭神を確認しておきましょう。


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406 大雨でも清流を保つ鈍川渓谷 “拡大造林政策の負債としての針葉樹林に火を着けろ”

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 406 大雨でも清流を保つ鈍川渓谷 “拡大造林政策の負債としての針葉樹林に火を着けろ”

20161008

 太宰府地名研究会 古川 清久

 

 数日前から結構な雨も降っていましたし再び雨も降りだしたことから鈍川温泉に退却し二~三時間露天風呂で休養することにしました。

 ご迷惑が掛かると申し訳がないことからホテルの名称は伏せますが、鈍川渓谷に立派な露天風呂が設えられていました。

 お客さんも少ないことから貸切状態の露天風呂で本を読むことにしましたが、とうとう大雨になり撤退しなければならない状態になってきました。


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源泉温度22℃。「美人の湯」といわれる。源泉中のラドンの含有量が多い。温泉街の位置する鈍川渓谷は蒼社川支流木地川が花崗閃緑岩を刻んだ渓谷である。源泉は鈍川渓谷の岩隙より噴出している。

道後温泉、本谷温泉とともに伊予の三湯といわれた。江戸時代は今治藩の湯治場であった。

明治2年(1869年)に今治藩知事久松定法により開発が進められたが、交通の不便からその後衰退し、さらに大正14年(1925年)にも地元有志らにより復興されたがやはり交通の不便から衰退した。昭和27年(1952年)には道路が整備され近代的建築の温泉街が整備され現在に至る。

ウィキペディア(20161007 13:50より

 

では、台風通過直後かつ大雨直後の清流をご覧ください。

 

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雨が降ると川が濁るのは当たり前の事と考えられている方が多いと思われますが、それは全くの間違いなのです。

五十年ほど前までの日本の川は雨が降っても全く濁りませんでした。

雨が降れば、稲の苗床や田植え直後の田んぼからは確かに泥水が溢れだすのですが、絶対量が少ないため清流が保たれていたのです。

 それは、水田でもほ場整備事業が行われるまでの水田は、上の田んぼからの水を引き入れ下の田んぼへと落し、上からの泥水の流速を落し流速が落ちる事から土砂を堆積させながら(実質的な沈澱池)下の田んぼに送り出すという構造だったため土壌流出は抑えられ、貴重な土壌はほとんど流れ出さなかったのでした。

 ところが農水省が進めたほ場整備事業の結果、田畑切り替えがほ場ごとに行なえるように直接水を引きいれ直接排水路に落とす構造に変えられた結果、土壌流出の結果として肥料も農薬も十倍以上消費する環境負荷の非常に大きいものになってしまったのでした。

 これに輪を掛け、大東亜戦争による空襲によって大半の都市が消失した結果、復興需要による木材の逼迫に、外材輸入と時期遅れの拡大造林政策の元、列島の全土で杉、檜が植えられた結果、枝打ちも間伐もされない、従って太陽光の入らない=下草の生えない急斜面に大量の売れもしない針葉樹が放置される事となり、下草のない腐葉土のない雨が降れば流れ放題の剝き出しの山床が続出しているのです。

 当然にも雨となれば僅かに残された土壌と瓦礫が河川に一気に流れ出し列島の多くの川が雨が降れば濁流を流し出す川へと変わり果ててしまったのでした。

 それもこれも農水省、特に林野庁(もちろん、現代の関東軍国土交通省は言わずもがなですが…)の国民と国家と国土に対する犯罪と言えるでしょうし、押し出された土砂によって多くの河川で瀬と渕が消失し、稚魚も成魚も生きてゆけない死の川に変わり果ててしまっているのです。

 今、お近くの川を覗いて見て下さい。

 一切魚の陰が消え失せ、あれほどいたカエルも昆虫も従って蛇も消え失せてしまっているのです。


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かつて九州最後の清流との名を誇った人吉盆地の川辺川も台風通過後の濁流に覆い尽くされていました

 

 そんなことはない!と強弁する方には、ダメ押しでもう一枚の写真をご覧いただきます。

 これは平野○○という全国的にも著名な林業家と人吉盆地の多良木町の槻木地区から宮崎県に入った直ぐの場所で橋の上から撮った写真ですが、広葉樹が卓越する森から流れ出した水は透明で、無駄な針葉樹だらけの森から流れ出した水は濁っていることがお分かり頂けるでしょう。

 スダーダンだかエジプトだかに白ナイルと青ナイルがあったことを思い出してしまいましたが、今や日本も環境の危機に陥り始めているのです。


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407 玖珂の斎宮神社の倭姫命 

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407 玖珂の斎宮神社の倭姫命 

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161005

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


南阿波~東土佐の神社調査の帰路、国道2号線で広島~岩国~周南へと移動していると、右手に気になる神社があり訪問させて頂きました。


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鳥居には神額がなく顔の見えない神社かと思いましたが、何と驚くことに斎宮神社それも倭姫命を主神として祀る神社だったのです。


まず、斎宮ですが、ウィキペディア氏(20161005 18:20は、「斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する」「『日本書紀』崇神天皇紀によれば、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑に祭らせたとあり、これが斎王(斎宮)の始まりとされる。そして次の垂仁天皇の時代、豊鍬入姫の姪にあたる皇女倭姫命が各地を巡行し伊勢国に辿りつき、そこに天照大神を祭った。この時のことを『日本書紀』垂仁天皇紀は「斎宮(いはいのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。是を磯宮(いそのみや)と謂ふ」と記し、これが斎王の忌み籠る宮、即ち後の斎宮御所の原型であったと推測される。また垂仁天皇紀は「天皇、倭姫命を以って御杖(みつえ)として、天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ」とも述べ、以後斎王は天皇の代替わり毎に置かれて天照大神の「御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)」として伊勢神宮に奉仕したといい(ただし史料上は必ず置かれたかどうかは不明で、任期などもそれほど明確ではない)、用明天皇朝を契機に一時途絶えたが、天武天皇の時代に正式に制度として確立し(『扶桑略記』は天武天皇が壬申の乱の戦勝祈願の礼として伊勢神宮に自らの皇女大来皇女を捧げたのが初代とする)、以後は天皇の代替わり毎に必ず新しい斎王が選ばれ、南北朝時代まで続く制度となった」…と書いておられます


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参拝殿の天井には美しい絵馬が…


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同社由緒



この神社に驚いた理由は、以下の通りです。

 伊勢神宮(天照大御神)の鎮座地を求めてさまよい歩いたとされる倭姫命を祀る神社は、唯一、佐賀県の嬉野市(旧塩田町)の味島神社だけ(伊勢神宮内の一社は近世のものである)であると理解していたのです。

 また、この九州王朝の重要な領域であり古代官道とも重なる2号線沿いの玖珂の同地に鎮座していた事にも驚いています。


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味島神社(嬉野市塩田町谷所)


鳥坂の鳥附城があった山の南の山麓に倭姫命を祭神とする味島神社があります。神社の由緒等詳かではないのですが、大正五年毛利代三郎編「塩田郷土誌」によれば「仁明天皇承和年間(八三四~八四八)新に神領を下し社殿を建立した」                           (旧塩田町史)



同社の由緒は非常に興味深いのですが、とりあえず創立が大同年間(九世紀初頭)とされており、味島神社の創立より古いため考えさせられます。

 ここでは結論を急がず、倭姫命を祀る神社が存在している事を確認するに留めます。.


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境内より2号線方向を望む


倭姫命に関しては、ひぼろぎ逍遥 012 日本で一つ、主神として倭姫命を祀る神社 で触れていますのでお読み下さい。

スポット097(前) 全国の物部研究者の皆さんに

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スポット097(前) 全国の物部研究者の皆さんに

20170403

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 現在、百嶋神社考古学をバック・ボーンとする太宰府地名研究会メンバーによって静かに物部氏のルーツを探る作業が進められています。

 物部氏に関しては筑後川流域から北の北九州~筑豊の遠賀川(古代遠賀湾)流域に展開したと考えられ、対応する地名が現存する事から各々比定されています。

ただ、その故地とされる筑後川流域に関してはほとんど進展を見ていません。

 さて、偽書ともされていましたが、「先代旧事本紀」でも最も重要な 巻第三「天神本紀」から、物部25部族の筆頭に掲げられた二田物部の故地についてささやかながらも進展があったことから全国の物部研究者に公開しお考えいただきたいと考えています。

 現在、北上した物部25部族については現存する地名から、芹田物部、嶋戸物部、筑紫聞物部…比定地が推定されています。

 物部研究に関しては先行する多くの研究者がおられます。また、国立国会図書館デジタルコレクション - 先代旧事本紀がありますが、ここでは、読みやすい口語訳のものがありますので、そちらからお読み頂きたいと思います。


先代旧事本紀(現代語訳)

<『現代語訳 『先代旧事本紀』(Web site「天璽瑞宝〈あまつしるしのみずたから〉」)より引用させていただきました>

(1)巻第三 天神本紀
①饒速日尊、葦原の中国に降臨す

 天照太神が仰せになった。「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)の瑞穂(みずほ)の国は、わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)の治めるべき国である」と仰せになり命じられて、天からお降しになった。ときに、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)をお生みになった。

 このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が、天照太神に奏して申しあげた。「私がまさに天降ろうと思い、準備をしているあいだに、生まれた子がいます。これを天降すべきです」そこで、天照太神は、これを許された。

 天神の御祖神は、詔して、天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授けた。

 瀛都鏡(おきつかがみ)一つ 辺都鏡(へつかがみ)一つ 八握(やつか)の剣一つ 生玉(いくたま)一つ 死反(まかるかえし)の玉一つ 足玉(たるたま)一つ 道反(ちかえし)の玉一つ 蛇の比礼(ひれ)一つ 蜂の比礼一つ 品物(くさぐさのもの)の比礼一つ というのがこれである。

 天神の御祖神は、次のように教えて仰せられた。「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう」

これが“布留(ふる)の言(こと)”の起源である。

 高皇産霊尊が仰せになった。「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものがいるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」

 そして、三十二人に命じて、みな防御の人として天降しお仕えさせた。

 天香語山命(あまのかごやまのみこと)尾張連(おわりのむらじ)らの祖。天鈿売命(あまのうずめのみこと)猿女君(さるめのきみ)らの祖。天太玉命(あまのふとたまのみこと)忌部首(いむべのおびと)らの祖。天児屋命(あまのこやねのみこと)中臣連(なかとみむらじ)らの祖。天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)鴨県主(かものあがたぬし)らの祖。天道根命(あまのみちねのみこと)川瀬造(かわせのみやつこ)らの祖。天神玉命(あまのかむたまのみこと)三嶋県主(みしまのあがたぬし)らの祖。天椹野命(あまのくぬのみこと)中跡直(なかとのあたい)らの祖。天糠戸命(あまのぬかとのみこと)鏡作連(かがみつくりのむらじ)らの祖。天明玉命(あまのあかるたまのみこと)玉作連(たまつくりのむらじ)らの祖。天牟良雲命(あまのむらくものみこと)度会神主(わたらいのかんぬし)らの祖。天背男命(あまのせおのみこと)山背久我直(やましろのくがのあたい)らの祖。天御陰命(あまのみかげのみこと)凡河内直(おおしこうちのあたい)らの祖。天造日女命(あまのつくりひめのみこと)阿曇連(あずみのむらじ)らの祖。天世平命(あまのよむけのみこと)久我直(くがのあたい)らの祖。天斗麻弥命(あまのとまねのみこと)額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)らの祖。天背斗女命(あまのせとめのみこと)尾張中嶋海部直(おわりのなかじまのあまべのあたい)らの祖。天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)間人連(はしひとのむらじ)らの祖。天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)安芸国造(あきのくにのみやつこ)らの祖。天神魂命(あまのかむたまのみこと)[または三統彦命(みむねひこのみこと)という]葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)らの祖。天三降命(あまのみくだりのみこと)豊田宇佐国造(とよたのうさのくにのみやつこ)らの祖。天日神命(あまのひのかみのみこと)対馬県主(つしまのあがたぬし)らの祖。乳速日命(ちはやひのみこと)広沸湍神麻続連(ひろせのかむおみのむらじ)らの祖。八坂彦命(やさかひこのみこと)伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)らの祖。伊佐布魂命(いさふたまのみこと)倭文連(しどりのむらじ)らの祖。伊岐志迩保命(いきしにほのみこと)山代国造(やましろのくにのみやつこ)らの祖。活玉命(いくたまのみこと)新田部直(にいたべのあたい)の祖。少彦根命(すくなひこねのみこと)鳥取連(ととりのむらじ)らの祖。事湯彦命(ことゆつひこのみこと)取尾連(とりおのむらじ)らの祖。八意思兼神(やごころのおもいかねのかみ)の子・表春命(うわはるのみこと)信乃阿智祝部(しなののあちのいわいべ)らの祖。天下春命(あまのしたはるのみこと)武蔵秩父国造(むさしのちちぶのくにのみやつこ)らの祖。月神命(つきのかみのみこと)壱岐県主(いきのあがたぬし)らの祖。

 また、五部(いつとものお)の人が副い従って天降り、お仕えした。

 物部造(もののべのみやつこ)らの祖、天津麻良(あまつまら)。笠縫部(かさぬいべ)らの祖、天曽蘇(あまのそそ)。為奈部(いなべ)らの祖、天津赤占(あまつあかうら)。十市部首(とおちべのおびと)らの祖、富々侶(ほほろ)。筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)らの祖、天津赤星(あまつあかぼし)

 五部の造が供領(とものみやつこ)となり、天物部(あまのもののべ)を率いて天降りお仕えした。

 二田造(ふただのみやつこ)。大庭造(おおばのみやつこ)。舎人造(とねりのみやつこ)。勇蘇造(ゆそのみやつこ)。坂戸造(さかとのみやつこ)

 天物部ら二十五部の人が、同じく兵杖を帯びて天降り、お仕えした。

二田物部(ふただのもののべ)当麻物部(たぎまのもののべ)。芹田物部(せりたのもののべ)。鳥見物部(とみのもののべ)。横田物部(よこたのもののべ)。嶋戸物部(しまとのもののべ)。浮田物部(うきたのもののべ)。巷宜物部(そがのもののべ)。足田物部(あしだのもののべ)。須尺物部(すさかのもののべ)。田尻物部(たじりのもののべ)。赤間物部(あかまのもののべ)。久米物部(くめのもののべ)。狭竹物部(さたけのもののべ)。大豆物部(おおまめのもののべ)。肩野物部(かたののもののべ)。羽束物部(はつかしのもののべ)。尋津物部(ひろきつのもののべ)。布都留物部(ふつるのもののべ)。住跡物部(すみとのもののべ)。讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。相槻物部(あいつきのもののべ)。筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。播麻物部(はりまのもののべ)。筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)

 船長が同じく、梶をとる人たちを率いて、天降りお仕えした。

 船長・跡部首(あとべのおびと)らの祖 天津羽原(あまつはばら)。梶取・阿刀造(あとのみやつこ)らの祖 天津麻良(あまつまら)

船子・倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖 天津真浦(あまつまうら)。笠縫らの祖 天津麻占(あまつまうら)。曽曽笠縫(そそかさぬい)らの祖 天都赤麻良(あまつあかまら)。為奈部(いなべ)らの祖 天津赤星(あまつあかぼし)

 饒速日尊(にぎはやひのみこと)は、天神の御祖神のご命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山にお遷りになった。天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られた。すなわち、“虚空見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。

による

 問題はその故地を探る事であり、その結果、物部氏が如何なる勢力であったのかについての推定ができる可能性があるのです。

そこで、最も重要と考えていた筆頭の二田物部について矢継ぎ早ながら四ケ所の足跡を見いだしました。

 これについては一つの切っ掛けがあり、既にblogとしても公開していますのでお読み頂いた方もおられると思います。

まず、ひぼろぎ逍遥 295 北北東に進路を取れ! ⑮ 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した をお読み頂きたいのですが、日本海側の神社調査に於いて、① 新潟県の柏崎刈羽に近い西山町二田に物部神社を発見しました。

この結果、筑豊の小竹、宮田一帯を調べると ② 福岡県小竹町に新多=ニイタ(一般の物部研究でも小竹を狭竹物部に二田物部を新多に比定しています)があり、しかも、そこが今でも陸上自衛隊の飯塚駐屯地の裏門そのものとも言うべき場所であり、古代の軍団の拠点が現代でも軍事拠点となっている事に感動をさえ覚えるのです。

最近、筑後の古代史研究から百嶋神社考古学研究に参入された宮原誠一(「宮原誠一の神社見聞諜」)研究によって、久留米市田主丸町石垣二田に二田月読神社を確認され(「久留米藩社方開起」による)田主丸町中心部に鎮座する「三夜様」こと田主丸月読神社の元宮である事を発見されたのでした。


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③ この結果、筑豊は小竹町新多の二田物部に展開した物部氏の主力が久留米の耳納山の山裾から北上した月読命=大山祗を奉祭する氏族であった事が明らかになったのでした。


しかし話はここに留まりません。

 太宰府地名研究会事務局の中島 茂氏が「八女にも仁田がありニギハヤヒが祀られている」と言いだしたのでした。

 ④ これについても3月にトレッキングに取り組み、八女市星野村の最奥部に仁田坂、仁田原、小竹(オダケ)があり、天照大神宮とはあるものの、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊らしき神が奉祭されている天照大神宮が存在していたのでした。


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現在、目は更に南の熊本県熊本市植木町田底二田の二田神社に、また、島根県太田市の物部神社は当然な上に、最奥部の奥出雲町一帯に仁田郡が存在し、秋田県潟上市の八郎潟付近に二田駅があり二田神社があることから、物部の移動が見えてきたのでした。


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敬愛するHP「倭国九州王朝」より 恐らく、狭竹物部は小竹でしょう。些細の「さ」は「小」なのです 


 

スポット097(後) 全国の物部研究者の皆さんに

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スポット097(後) 全国の物部研究者の皆さんに

20170403

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ここまで見てくると、物部の最重要氏族である二田物部は、八女以南から北上し、筑豊、島根、新潟、秋田と展開(避退)した事が見えてきたようです。そして、更に如何なる経緯でかは分かりませんが、新潟から北関東(群馬~栃木~茨城)へも展開した事が見えています。

 それこそ、上州新田郡三日月村(馬を使うトルコ系匈奴=物部)の木枯紋次郎のエリアであり、新田義貞の後裔が徳川家として物部=モノノフ=武士の最終的勝利者としてほんの150年前まで物部政権を維持していた事に気付かされるのです。

 して見ると、現在とは藤原系公家政権と言えなくもないもので、早く武家政権に戻したいと考えるこの頃です。


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ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は併せて日量1000件(年間35万件)のアクセスがあり、連携する15の百嶋由一郎神社考古学によるblogと併せれば、年間アクセスは百万件を超えていると考えられます。古田武彦九州王朝論の精神性を失い学会通説に色目を遣い、行政に尾を振る学芸員や教育委員会に講演を頼むような組織には九州王朝論の深化を期待する事などできるはずがありません。皆さんも、これまで潰え去ってきた通説派に堕し業績も残すことなく消え去ってきた研究会から離脱し研究者、探索者による研究会に参加しませんか?

去る1218日、太宰府地名研究会では久留米市田主丸町石垣の二田の月読神社から朝倉市杷木町大山の大山祗神社への数社を巡るトレッキングを行いましたが、希望者が多かったことから219日に再度追加トレッキングを行いました。

 問題は、この月読命=大山祗の祭祀圏が何であるのかです。古代史の世界で脚光を浴びる物部氏ですが、「先代旧事本記」に於いて筆頭に掲げられているのが二田物部である事を思い出して下さい。この筑後から筑豊に展開したとされる25部族中最大勢力だったとされる二田物部の根拠地は鞍手郡小竹町新多(ニイタ)だったとされていますが、では、どこから筑豊に展開したのでしょうか、この問題に関して田主丸の三夜様が関係しているのではないかと考えて来ましたが、これまで決定打が無く考えあぐねて来ました。ところが、有馬藩による「久留米藩社方開基」外の研究を数十年に亘って続けられ、昨年、新たに加わられた宮原誠一氏(blog「宮原誠一の神社探訪諜」)の研究により、田主丸の三夜様の元宮が田主丸町石垣の「二田月読神社」であった事が分かり、ある時代のニギハヤヒ系物部氏のルーツが耳納山北麓にあり、大山祗=月読命を奉祭する氏族(民族)であった事までが見えてきたのでした。


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詳しくはblog「宮原誠一の神社探訪諜」をお読み頂くとして、現在、更なる故地を求めて調査を行っています。

既に、耳納山南麓の星野村一帯は二田(仁田)原と呼ばれていた事が分かっています。大山祗神社は一~二社しかありませんが、「福岡県神社誌」を詳しく調べると17社が無格社扱いとされ事実上消されていることまでが見えてきたのでした。

では、筑豊に展開した物部25部族はその後どうなったのでしょうか?島根県奥出雲町の仁多もありますが、それは置くとして、これも、二田(仁多)物部から考えて見ましょう。新潟県の柏崎刈羽と言えば東京電力の原発で知られますが、その4キロ東の旧刈羽郡二田村大字坂田(旧西山町)=田中角栄の出身地(現柏崎市)に二田物部神社が存在するのです。


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 そこで、同社の神紋である「尻合わせ三つ葵紋」をご覧ください。これが徳川家の三つ葉葵の原型(実際には忌部の二つ葵が原型)なのです。徳川家康が新田(これも二田)義貞の後裔という振れこみは有名です。また、家臣団の本多、酒井も賀茂神社の社家であったとの話があるのです。つまり、物部の後裔が武士(モノノフ)の最終的勝利者となったのです。詳しくは「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)などを検索してください。では、この物部と言われた人々とは如何なる勢力だったのでしょうか?熊本市植木町にも二田地名がありますが、今のところ彼等こそ熊襲、狗奴国と呼ばれた人々だったのではないかと考えています。



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2017年頭にも新たなblogが加わる予定です。これらのblog連合は事実上の研究者による連合体であり、右から聴いて左から抜けて行く従来型の共同体化した研究会とは全く異なり確実に将来への遺産となる研究者による連合体に繋がるものになるでしょう。



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皆さんは、何故、熊本城の最奥部に昭君(王昭君)の間なるものが置かれているのかをお考えになった事があるでしょうか?加藤清正は確かに豊臣秀頼を迎え入れ徳川と一戦を交える気構えで熊本城を造ったと言われます。それは毒殺により実現しませんでしたが、恐らく、秀吉を受入れた木下家とは五七桐紋を使う名家であり、この栄えあるトルコ系匈奴でも呼韓邪単于(コカンヤゼンウ)の流れだったからこそ、昭君の間が置かれたのではないか…と言うのが我が百嶋翁の解読でした。これ以外にも、多くのお話ができるのですが、それはblogなどで。



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1218日 日曜日
玄海、太宰府地名研究会トレッキング 「二田物部の筑後側の故地を探る」    

20161218日 日曜日午前1000 集合~出発 申し込みは中島まで 090-5289-2994

久留米市田主丸町イオン・タウン駐車場に集合!  参加費(資料代)500円程度…

御杖代(古川)解説、案内は「久留米藩社方開来基」から筑後の神社の解読を続ける北野町在住のM  

氏ですが、新年から百嶋神社考古学(神代史)研究会の重要な一翼を荷って貰える事になりました。

現在、右から聴いて左に抜けて行く人々により業績も痕跡も残さず消滅して行くただの親睦会ではなく、また、行政、教育委員会、学芸員に尾を振り、村興し、町興し、世界遺産登録に色目を使い学芸員の話を拝聴し自らを売り込もうとするさもしい行政の芸人に導かれる似非研究会でもなく、研究者による研究会を目指していますが、また一人、新たな研究者が陣営に加わって頂いた事になります。

集合場所

カーナビ検索 久留米市田主丸町豊城1895 電話:0943-72-2573 大雨の場合は中止!

※参加費(資料代)500円 各自、弁当、お賽銭、傘持参の事…

 三夜様(久留米市田主丸町田主丸552-2兎の狛犬が印象的な月読命の神社を確認しよう!

 二田月読神社(田主丸町石垣1158-1二田の岩佐幸華園付近)

筑豊に展開したとされる物部25部族ですが、「先代旧事本記」で筆頭に登場する物部氏の本体は、多くの物部研究者によって鞍手郡小竹町新多(ニイタ)に比定されていますが、その筑後側の故地こそこの耳納山の麓の石垣の二田であり、奉祭する神とは月読命だったのではないか?

 柳瀬高良宮(久留米市田主丸町柳瀬) 

故)百嶋由一郎氏が最も重要な高良宮=玉垂宮とされていた旧瀬高町河内の玉垂宮に匹敵する筑後で最重要の古社です。祭礼には黒の五七桐と赤の三五桐の幟が並び、神殿にも桐の神紋が付されています。「高良玉垂宮神秘書」では高良玉垂命と神功皇后とは夫婦であったとされていますが、その痕跡を辿れる数少ない古社の一つです。

 玉垂御子神社+宮地嶽神社(久留米市北野町金島583

何故か九人の高良皇子と宮地嶽神社が共に祀られた神社が在ります。この神社を共に祀った人々の思いとは…。

 大山祗神社(朝倉市杷木大山527

朝倉市で12月に開催される”おしろい祭り”は、300年以上続く全国でも珍しいお祭です。中国大陸で400回飛行機に乗り8000万円遣ったと言われた故)百嶋由一郎氏は“トルコ系匈奴でも王昭君の一族がごっそり列島に入って来ている”“おしろいとは王庄昭君以外には考えようがない”と話しておられましたが、今回はその現場を探ります。百済、新羅、高句麗、秦、漢、呉、越…果てはペルシャ系まで多くの渡来系民族が入っているとされる中で、何故か古代史の世界ではトルコ系匈奴だけは触れられていません。恐らくそれが物部氏の本体であり、近畿大和朝廷にとっての最大の強敵であった熊襲に繋がるために避けてこられたのだと考えています。それが今回のテーマです。

してみると、この神社の背後の山が三日月山(大分県側)とされている事までもが見えてくるのです。

途中で12社が除外され追加されルートが変わる可能性がありますのでご注意ください!

現在、百嶋神代史研究会グループ全体の年間アクセス数は恐らく5070万件になるでしょう…

トレッキング注意事項 玄海、太宰府合同地名研究会(トレッキング)実際には55ポイントを巡りますが、どなたもどこかの神社には心惹かれるものがあると思います。最近は神社の祭事、経営が非常に難しくなっています。お賽銭を準備の上安全に留意され参拝して下さい。神社に関して何かご質問があれば 09062983254 古川までご連絡下さい。参加申込等:090-52892994(中島)

408 屋島神社の神様とはどなたかお分かりになりますか? 

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408 屋島神社の神様とはどなたかお分かりになりますか? 


20161010

 太宰府地名研究会 古川 清久


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屋島神社正面


司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズに“南伊予・西土佐の道”がありましたが、これまで全くの未踏のエリアであった“南阿波・東土佐の道”を行う事にしました。

 本四架橋の児島~坂出ルートを抜け、まずは、徳島を目指すものの、左手に源平合戦の古戦場である屋島が見えて来ました。

 屋島には屋島神社があります。

 当然にも初見の神社になりますので、行きがけの駄賃ではありませんが、良い機会とばかりにハンドルを左に切りました。

 屋島神社とは何かですが、既に平家が追い落とされた当時にこの神社があったかどうかも知りませんし、まずは、見学とばかりに足を向けました。


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お読み頂ければ分かりますが、屋島神社とは1651年に初代高松藩主となった松平頼重が東照大権現を祀った事に始まると書かれていました。

 一瞬、なんだ!と思いましたが、良く読むと山王社と書かれていました。山王社と知って腑に落ちました。

山王社を徳川に持ち込んだのは天台系の天海僧正(山王一実神道の総本社は「日吉大社」であり古くは「日枝山王社」という神社)であり、徳川の重臣の本多が賀茂神社の社家の流れを汲んでいる事とも対応しているのです(山王一実神道を全国に展開した)。

徳川譜代の最大勢力を誇った本多家ですが、家康の臣下の本多忠勝の先祖は京の賀茂神社(恐らく上賀茂系=上賀茂とは崇神天皇を祀るもので山王日吉に祀られている大山咋神の子が崇神)の神職と言われており、すんなり符合するのです。


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何のことはない、屋島神社とはそんなものかと一瞬納得しかかったのですが、そんなはずはないのでした。

 やはり、そうではなく、古層の神が鎮座していたのです。

 権力の交代が起こると祭神の入れ替えが起こります。

 ただし、大陸や半島での政争を避け列島に逃げ込んできた人々は、中国のように皆殺しにして全てを消し去るような事はしないのです。

 従って、境内に摂社置かれていれば、それが、本来の神々に相当するのです。


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 恐らくこの神々こそが屋島神社の古層の神々だろうと考えられます。

もう、百嶋神社考古学に触れた方々にはこの神々がどなたであるかはお分かりだろうと思いますのでここでは触れません。

 これらの神々についてはこれまで何らかの形で触れてきたと思います。


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最後に、四国の屋島とは現在は陸続きになっていますが、かつては確かに島だったことがグーグル・アースを見られれば一目瞭然ですね、しかも、実際の戦闘は陸側の水道とも言って良い裏側で起こっており当時は屋島が文字通りの島だったことが分かるのです。

 屋島の屋は屋形船、屋敷の屋であることは形状を見ても間違いがないでしょう。

409 丸山 ① “長崎の丸山遊郭に丸い山はなかった!しかし、遠く台湾、広東にも同じ地名が…。”

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409 丸山 ① “長崎の丸山遊郭に丸い山はなかった!しかし、遠く台湾、広東にも同じ地名が…。”

20161010

 太宰府地名研究会 古川 清久


はじめに


何故か司馬遼太郎によって奇妙にも持ち上げられた坂本龍馬が跋扈し、ただの抜荷まがい集団でしかなかった亀山社中が拠点としたのが丸山であった。

にもかかわらず、この界隈には、どの大型店も出店が可能なほどの土地が確保できないためからか、日本の伝統的な商店街が今も賑わいを見せ、出島、新地、浜ノ町アーケード、浜屋、観光通り、銅座、丸山、思案橋…と、今なおエキゾチックな香りを漂わせている。

さて、徳川幕藩体制の時代、一般的には“日本は鎖国によって西洋列強に遅れてしまった”などと言われるのだが、私は全くそのようには考えてはいない。

ポルトガルやスペイン(これは短期間だったが)から、何の宗教性も持たないただの金儲集団のオランダの旦那衆へと貿易相手を慎重に変更し(これ自体は実に正しい選択であったが)、中国、朝鮮とは貿易どころか数千年に亘る外交通商関係が存在していたことは言うまでもない。

凡そこんなものが、棺桶に鎖を巻くがごとき表現の「鎖国」と表現されることは土台間違いであろう。

国家的中断はあったものの(主として混乱期は海賊的私貿易と化したが)、中国、朝鮮とは、間断なく通称し貿易が続けられていたのであった。

もしも「鎖国」という言葉を正確に表現すれば、徳川政権による外国貿易の国家独占(まだ形式的には統一国家は成立していないため国家独占でないのだが)が行なわれていただけであり、事実上は幕府がその実力を持っていたことを示していた。

つまり、徳川幕府だけが貿易利権を独り占めにするという選択が通用していたのだった。

言うまでもなく、我々は明治以来連綿と“鎖国という誤った政策が続けられたために、西欧列強に対して国家的発展が遅れてしまった”などと教え込まされてきたのである。

しかし、それは、明治の維新勢力よって“いかに幕藩体制下の階級社会、閉鎖社会が社会的発展を阻害してきたか!”というプロパガンダが行なわれ、この自由貿易などという馬鹿げた宣伝を信じ込まされてきたに過ぎなかったのであり、今なお、この国家的デマ宣伝、国民的錯覚の影響下にあると理解しておく方が良いだろう。


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ともあれ、この時代(福田浦から出島に変更以降)、この長崎には巨大な国際貿易港が出現していたのであった。

川勝平太(元慶応大学教授/現愛知県知事)も言うように、“徳川の世の鎖国によって日本は世界から取り残された”とする通説=俗説は、尊王攘夷から開国、文明開化、欧化政策へと走った明治政府による政治宣伝に過ぎなかったのである。

ただ、ここには例外がある。薩摩藩である。

彼らは暴力的に占領、支配した沖縄を藩内の通商と称し、中国、台湾、ルソンと通じ、幕末期、ほとんどの諸藩が財政破綻に苦しむ中、事実上の密貿易により維新で身軽に動ける財政的基盤を造り出していた(まさしく薩摩藩の維新での雄飛は「鎖国」の賜物)。

話を戻すが、松浦党が秀吉によって滅ぼされたのも、また、幕府が平戸藩を残し松浦党を隔離したことも、所詮は貿易利権を独占するためのものだったに過ぎない。

このように日本(幕府)は世界情勢を十分に把握した上で、アウタルキー経済を確立し、世界最高水準の教育と必要なものは全て国内生産で間に合わせられる社会を実現していたのであった。

 

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(福田浦は見た目にも良港と言えるものでなく、数年前に訪れ、僅かに残る浜辺を確認して来たが、写真はそのときのもの:古川)。


丸山という地名


さて、今回のテーマ、「丸山」という極ありふれた地名について考えて見たい。

まず、地名を意識し続ける日常を送っていると、なぜか、この丸山という地名や屋号といったものに何やら怪しげなイメージが付きまとうことに気付く。

少なくとも、長崎の丸山は遊郭のあった一帯に付されたものであったことは明瞭であり、遊郭との関係以外では考えようがない。

しかし、何度足を踏み入れようが、丸い山とか丸い丘といったそれらしき地形を見出すことは全くできなかった。

これは、この地の丸山地名が自然地名ではなく、外部から持ち込まれた文化的地名ではないかとの示唆を与えている。

私には釣りに狂っていた時代があった。年間五十回(延べ六〇〇時間)という釣行も珍しくなく、佐賀、長崎、熊本、鹿児島の島嶼を中心に、文字通り津々浦々に入っていた。

そうした折、平戸島東岸の千里ケ浜に続く一角にある川内町にも良く足を向けていた。

この奥まった浜は冬場の北西風を遮ってくれることから、強風で釣りにならない日にはたいてい逃げ込んでいたからであった。 

こうした地形の上に、東方には九十九島という多島海もあり、この地が海賊行為から怪しげな貿易の拠点としては申し分のない地であることに百言を待たずして到達してしまう。

釣りにしか頭が回らない時代が過ぎ去った頃、実に迂闊といえば迂闊だったのだが、この一角に丸山という小高い岬がありどうやら遊郭まであったことに気付いたのは、ようやく一九九〇年辺りのことであった。

さらに、国姓爺合戦の鄭成功がこの地で生まれた、言わば日中(湾)の混血児であったという事実にもようやく気付いたのであった。


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鄭 成功(てい せいこう、チェン チェンコン、繁体字: 鄭成功; 簡体字: 成功; ピン音: Zhèng Chénggōng; ウェード式: Cheng Ch'eng-kung、寛永元年/大明天啓4714日(1624827日) - 大明永暦1658日(1662623日))は、中国明代の軍人、政治家。元の諱は森。字は明儼。日本名は福松[1]。清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。様々な功績から隆武帝は明の国姓である「朱」と称することを許したことから国姓爺とも呼ばれていた。台湾・中国では民族的英雄として描かれており、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている[1]。鉄人(鉄の甲冑を着込んでいたための呼び名)や倭銃隊と呼ばれた日本式の鎧を身に纏った鉄砲隊や騎馬兵などの武者を巧みに指揮したことでも有名。

日本の平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川マツの間に生まれた。鄭成功の父、鄭芝龍は福建省の人で、平戸老一官と称し、平戸藩主松浦隆信の寵をうけて川内浦(現在の長崎県平戸市川内町字川内浦)に住んで田川マツを娶り鄭成功が産まれた。たまたま、マツが千里ヶ浜に貝拾いにいき、俄に産気づき家に帰る暇もなく、浜の木陰の岩にもたれて鄭成功を出産したという逸話があり、この千里ヶ浜の南の端にはこの逸話にちなむ誕生石がある。

幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、7歳のときに父の故郷福建に移る。鄭一族は厦門島などを根拠地に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。15歳のとき、院考に合格し、南安県の生員になった。以後、明の陪都・南京で東林党の銭謙益に師事している。

その後、鄭成功は広西にいた万暦帝の孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまず厦門島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した。

1658年(明永暦十二年、清順治十五年)、鄭成功は北伐軍を興す。軍規は極めて厳しく、殺人や強姦はもちろん農耕牛を殺しただけでも死刑となり、更に上官まで連座するとされた。

意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨に遭い、300隻の内100隻が沈没した。鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年の325日に再度進軍を始めた。

北伐軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進むが、南京では大敗してしまった。

ウィキペディア(20161010 10:15による


その頃、思い出したことがあった。佐世保港の真向かいにある横瀬浦という目立たない渡船場にダゴチン釣りというあまり一般的ではない釣りに行った折にも、丸山だか円山といった一角があり、思案橋という地名まであったのだった。

最近足を運んでいないこともあり、確認の意味からインターネットで探って見ると、「ちゃんぽんコラム」というblogに遭遇した。

この中の【南蛮船渡来の地、横瀬浦へ】(2005/10/26)に、今回の横瀬浦について必要なことがほとんど書かれていたことから、無断借用ながら一部利用でそのまま紹介させて頂くことにした。


今回は、…(中略)…南蛮船渡来の地、西海市横瀬浦(よこせうら)を訪ねました。西彼杵半島の北端に位置し、佐世保市に近い横瀬浦へは、JRと高速船を利用します(JR長崎駅からJR佐世保駅まで約1時間30分。佐世保駅裏手の船着き場から横瀬浦港まで高速船で約15分)。


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頂きに十字架が建つ八ノ子島:これはひっくり返した鉢から付されたものか(古川)。


 小さな桟橋がある横瀬浦の入江は、穏やかな波をたたえる天然の良港。港を囲む小高い丘の合間を縫うように民家が建ち並んでいます。車も少なく、静かでのどかな土地柄のようです。この地は、戦国時代末期の1562年、日本で最初のキリシタン大名として知られる大村藩の領主、大村純忠(おおむらすみただ)によって開港され、ポルトガル船との貿易やキリスト教の布教が行われたところです。ポルトガル船は以前は平戸に入港していましたが、トラブルなどがあり横瀬浦へ移ってきたのです。それまで一寒村に過ぎなかった横瀬浦には、各地から貿易商人が集まり、キリスト教徒やポルトガル人などでたいへん賑わったそうです。土地の管理は宣教師にまかせ、商人には10年間免税をするなど、貿易港として繁栄していった横瀬浦でしたが、ある日、大村藩の内乱により一夜にして焦土と化し、わずか1年余りで南蛮貿易港としての歴史は閉ざされました。その後、ポルトガル船の入港地は、福田浦(長崎市の西海岸)、そして1571年、長崎へと移ったのです。

 現在、横瀬浦港の入り口に浮かぶ八ノ子島(はちのこじま)の頂きには、当時、ポルトガル人宣教師が建てたといわれる十字架が復元されています。港のすぐそばには、キリスト教徒の集落だったという「上町」、「下町」の跡もありました。


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 上町と下町へ(左)丸山後には遊女の墓が(中)今や暗渠と化した思案橋(右)

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・・・(中略)・・

公園内には、開港当時の様子について書かれた『街道をゆく』の一節を記した「司馬遼太郎の碑」も建っています。近くには大村純忠が教会に通うために建てたといわれる「大村館」の跡もありました。あちこちに当時の名残が点在する中、ちょっと驚かされたのは、長崎市内にある「思案橋」や「丸山」と同じ名称があったことです。遊廓があったといわれる横瀬浦の「丸山」は、「上町・下町」の集落から西側に続く丘の上にありました。そこへ向かう途中の小川に「思案橋」が架けられていたそうです。案内版によると、長崎と同じく「丸山」を前にして思案したから「思案橋」なのだそうです。

大村氏の家臣で、当時、長崎をおさめていた長崎甚左衛門純景(ながさきじんざえもんすみかげ)も、横瀬浦で純忠とともに洗礼を受けたといわれています。

・・・(中略)・・

地元の方の話によると、当時、キリスト教の布教が盛んに行われた土地ですが、現在、信者の方はひとりもいないそうです。この地の歴史を振り返ると、もし、内乱が起こらず横瀬浦の港が存続したら、長崎開港はなかったかも…などと、想像がふくらみます。歴史のロマンと面白さを感じさせる横瀬浦でした。

(以下省略、写真利用深謝)。

スポット098 ケナフを植えたらCO2が減らせるなどと本気で考えた佐賀県職員

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スポット098 ケナフを植えたらCO2が減らせるなどと本気で考えた佐賀県職員

20170403


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 ひぼろぎ逍遥 スポット084(前)(後) 地球温暖化が嘘である事をNASAが認めた 2017-03-29

3月末に公開しましたのでお読み頂いた方もおられると思います。

 これは、過去二十数年に亘る「CO2温暖化論」という国家的、国際的大嘘、デマゴギーの発信源であったNASAが昨年の夏あたりから方針を転換したのか、部分的にも真実を語るべきとしたのか、トランプを始めとするネットから真実を知ってしまった人々にある程度は歩調を合わせるべきとの自己保身からなのか…、“南極の大陸氷の絶対量は増大しているとの報告を行い、とうとうユーチューブにも公開し、”温暖化によって極氷が減少しているなどといった現象は認められない“と発表している事をお伝えしました。ここまできて、関連報道も増えてきた事から、一例ですが、補足の意味で以下もお読みください。


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ツバルは脆いサンゴ礁が沈んでいるだけ     海に浮かんだ氷が解けても海面は上がらない


ネット・ニュース 「南極大陸の氷が増えている」は本当か NASAの最新の研究結果が物議、真相は?


 南極の氷は減っているのか、増えているのか。そして、そのことは世界の海面上昇にとってどんな意味があるのだろうか。 

 1130日からパリで始まる国連・気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)に向けて各国首脳が準備を進める中、この問いは世界の気象学者たちの熱い議論の的だ。そんな折、「南極の氷はむしろ増えている」というNASAの気象学者チームによる研究成果が発表され、物議を醸している。

 研究チームは、科学誌「Journal of Glaciology」に掲載された論文の中で、「西南極の氷河質量の減少分は、降雪の増えた東部内陸で氷河が厚さを増したことで相殺されている」と結論を出している。その結果、南極の氷は毎年およそ1000億トンずつ増えているという。(参考記事:「南極の海氷面積増加、その意味は?」)

 論文の筆頭著者で、米メリーランド州にあるNASAゴダード宇宙飛行センターの主任雪氷圏学者、ジェイ・ズワリー氏は、「こうした氷の増加は、毎年の海面上昇幅が従来の予想より約0.25ミリ小さくなることを意味します」と話す。


sp98-2による

 ここで、二十年近くの長きに亘って流されてきた“CO2温暖化論”デマ・キャンペーンに完璧に毒されてきた事を改めて考えて頂く為にも、まずは、その最悪の例を佐賀県庁内で行われた真面目な、しかし、レベルの低い議論が存在した事を再度公開したいと考え、ひぼろぎ逍遥 015 として公開している "ケナフを植えて二酸化炭素を吸収しよう"と考えた佐賀県職員 を再度お読み頂こうと思います。

sp98-3 本文にもあるように、元々は、200444日付アンビエンテで公開していますので、13年前、3年前以来の再々公開になります。3年前の公開時点当時はアクセス数も少なかったことから改めてお読み頂く必要を感じています。

そもそも、南極大陸は夏でも氷点下30度以下であり、0℃以上にならなければ決して氷は溶けはじめることさえないのです。科学的思考と言うものがいかに重要かという事がお分かり頂けるでしょう。


015 "ケナフを植えて二酸化炭素を吸収しよう"と考えた佐賀県職員 (再掲載)

20131226

太宰府地名研究会 古川 清久


013で山の栄養、山の物質循環の話の中で、「行政も識者もあまり関心を持っていない、もしくは気づいていないようなのです。」と書きました。

これには、無駄な拡大造林をなおも推進める利権構造もあるのですが、それにとどまらず、その背後に、彼らの科学性の欠如があるように思えてならないのです。

これを思わせる好例がありますので紹介しておきましょう。

この小論は、200444日付で「環境問題を考える」のサブサイト、アンビエンテの「有明海諫早湾干拓リポート」Ⅰに書いた、11. "ケナフを植えて二酸化炭素を吸収しよう"と考えた県職員を編集して再度オンエアするものです。


「環境問題を考える」への訪問者の方々ならば、こと"二酸化炭素の増加による地球温暖化という話"が極めて疑わしいものであるということは十分お解りになっていることと思いますが、やはり一般的にはそうではなく、誤りを、それも二重の誤りを繰り返しているのです。

 これから紹介するのは佐賀県庁に勤務する友人から教えてもらったものです。前年度にまとめられた県における「職員提案」の一例(従って関係課名は旧名)ですが、相当数の提案の中から特に"重要"とされたものの一つということですので、それなりの評価を受けたものということになりそうです。

 ほんの一例ですが、佐賀県(よその県でもほとんど差はないのでしょうが)という行政機構のなかでどのような論議が行われているかを理解していただくために、一目最悪と思えるケースを紹介したいと思います。この他にもかなりおかしなものが散見されるのですが、全てを紹介するわけにもいきません。

 ただし、この例も基本的には、所詮「思いつき」程度のものでしかなく、これがそのまま科学誌に掲載できるといった水準にないことは言うまでもないのであって、このことは当の本人から担当部局もそれなりに理解していることでしょう(?)。とりあえず「改革派」知事の登場によって、"職員のやる気""創意"とを引き出すためのパフォーマンスが開始されたといったところなのですが、所詮、これらに合流するのは一部の暇な職員であり(現実的には、教育を受けた若手ほど毎日不毛で繁多な実務に追われており、事実上参加する余裕などないはずなのです)、参加者の中にも功名心や自己の評価を求める職員や管理職に近づきもはや実務の必要がほとんどなくなった職員の「ひまつぶし」に近いものもかなり含まれていたことでしょう。


番号12 区分 政策提案 題名 有明海再生と地球温暖化防止策についての提案


提案内容


 地球環境の問題の一つとして二酸化炭素による地球温暖化がある。地球の温暖化が進めば、気温の上昇、海水温の上昇、それに伴う海水面の上昇が生じる。現在でも東シナ海の潮位が10cmほど上昇しており、地球温暖化が一つの原因と考えられる。

 また、有明海の潮位も上昇しており、さらに潮汐が弱まったことに、少なからずとも影響があると考えられる。これらの潮位の変化が、有明海の潮流の変化をもたらし、潮流が弱くなったことに事に伴い有明海の循環が弱まり、土砂の堆積や富栄養化が進んだ原因の一つと考えられる。

 そこで、二酸化炭素を削減する方法を提案したい。それは休耕田に一年草のケナフを栽培し二酸化炭素を光合成により酸素に変えて、二酸化炭素を削減する方法である。

 ケナフは、一年生で、4m程伸びる草で、二酸化炭素をよく吸収するということである。また、ケナフは、紙(自然素材)に利用されており、近年重要視されており、この後需要が見込まれる。

 今後、ケナフ栽培による二酸化炭素の削減の研究、検討が必要で、効果が良ければこの対策を推進したい。


関係課 環境課、農政課 関係課意見


・二酸化炭素削減のための研究テーマとしては、一定の評価はできると考える。

・紙以外の多量のケナフの有効活用方策を含めて、研究する必要がある。


※ 資料は佐賀県庁に勤めている(た)友人からコピーを貰ったものです。ほとんど漫画ですね。

 もちろん「環境問題を考える」の読者諸氏にとっては、この"提案"ばかりでなく"提案への関係課の意見"についても"明瞭な誤り"があることに気付かれるかと思うのですが、この種の話が大真面目に議論され大手を振ってまかり通っているのが(恐らくどの県でも同様なのでしょうが)、現実の県という行政機関の科学性なのです。

ただし、県職員ともなるとそれなりに市町村その他を指導する立場にもあるわけですから、一定程度の「科学的水準」「知的水準」が要求されるはずなのですが、現状は余りにも絶望的であり全く期待できないことを示しています。

県職員にも理系(技術系)の職員もいるのですが、事務系が多く(私もそうですので偉そうなことは言えませんが)無理からぬことと言わざるを得ないかもしれません。

しかし、「技術立国日本の落日」を示す象徴的な一例にも感じてしまいます。

ただし、高額の給与をもらい時間的な余裕も与えられているわけですから、県民への義務として最低限の努力と一定の水準だけは保持してもらいたいものです。

 もうお分かりでしょう。この"勇気ある"(?)提案者は、"ケナフの成長によって一次的に吸収された二酸化炭素がそのまま永久に固定され続ける"と考えていたのでしょう。

 言うまでもなくケナフは一年生の草本です。熱帯雨林に生きる50メートルの高木ならば数百年、縄文杉にいたっては数千年近い長年月にわたって炭素を固定するかもしれません。しかし、巨木といえども朽ち果てるものであって、いつかは""その他に分解され、その過程で当然にも"二酸化炭素"を放出することになるのです。ましてや一年生のケナフに二酸化炭素を数千年単位で固定することができないことは説明の必要はないでしょう。枯れれば様々な分解過程に入っていきます。まさか刈り取ったケナフをそのまま腐ることもなく干拓地に積み上げ続けていくなどとは考えていないのでしょうから。

 雨が降れば枯れた葉は腐るでしょうし、コストを無視して無理やり役にも立たない不必要な""(リサイクルに廻わされた牛乳パックも同様)にされたとしても、結局は短期間で焼却され二酸化炭素を放出するしかありません。それどころか処分に困り果て、刈り取られることさえもなく燃やされてしまうぐらいが関の山でしょう。唯一、提案者の"希望的観測"を受け入れる余地があるのは、ケナフが湿地で泥炭化(炭化)する場合ぐらいでしょう。この場合だけは炭素として長期にわたって固定されることになるのです。

 結局、モンゴル高原やチベット高原において、夏季には草が生茂ることによって二酸化炭素を一次的に吸収し、冬季にはそれが放出されるといった程度の話でしかないのです。


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栽培されたケナフ


 ともあれ、「炭素循環」(二酸化炭素の循環)は非常に複雑であり、正確に量計的なカウントができる段階には至ってはいないといわれています。

 ただ、一年生の草本に「二酸化炭素を吸収させ温暖化を防止しよう」という提案について、仮に百歩譲って「二酸化炭素の増加が地球温暖化の原因だ」というペテンを認めたとしても、あまりにもひどい誤りであって全くの空振りでしかなかったのです。

 お粗末なのは「一定の評価はできると考える」とした環境課、農政課の認識ですが、"提案者が有力職員であった"といったことが背景になった共同体的思考の反映なのかもしれません。ともあれ世間の常識からは「税金と人的資源と時間のムダ遣い」と言われても致し方ないでしょう。

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十分にお分かりになったと思います。既に、クライメート・ゲート事件によって、CO2温暖化論が誤りであることも、また、CO2濃度が削減されていないにもかかわらず、ここ数年温暖化していないことも全世界的に明らかになっています。ただ、それにもかかわらず、CO2削減を主張しているのが全世界で日本だけとなっているのです。

温暖化とCO2は無関係なのですが、仮にCO2を削減するとしても、ケナフでCO2が吸収できると考える程度の頭しかないのが現実の佐賀県の行政担当者、本庁上層部であることが良く分かったと思います。

この提案を行った職員は、今頃、一般に比べて高い退職金を手にし外郭団体あたりに天下りしていることでしょうが、皆さんは本当にそれだけの厚遇を受ける価値があったと思われますか?

言うまでもないことですが、我々は、十五年前から、CO2温暖化論に対する批判を続けてきましたし、この文章も十年前に書いたものなのです。

CO2温暖化論は全くのデマであったことがようやく一般にも通用する時代になったことだけは、多少とも歓迎できるのですが、始めから分かってデマを流す連中に対して、地方の行政担当者の科学的水準の低さには驚かされ続けています。

私たち(近藤、古川)は、CO2温暖化論は誤りどころかデマであると考えていましたので、いずれ寒冷化が始まった段階で馬脚を現すことになるだろうと話し合っていましたが、どうやら、温暖化が止まったことも明らかになりはじめました。

そして、それより前にクライメート・ゲート事件で捏造が明らかになり、自滅してしまったようです。

ただ、今年の夏(当時)が異常な暑さであったことも事実です。これには都市のヒート・アイランドが絡んでいるのです。関心をお持ちの方は、当方の「打ち水大作戦の大間抜け」を検索してお読みください。


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410 丸山 ② “長崎の丸山遊郭に丸い山はなかった!しかし、遠く台湾、広東にも同じ地名が…。”

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410 丸山 ② “長崎の丸山遊郭に丸い山はなかった!しかし、遠く台湾、広東にも同じ地名が…。”

20161010

 太宰府地名研究会 古川 清久


その後と言っても二十年以上も前になるが、「司馬遼太郎の街道を行く」を読んでいると、長崎の丸山遊郭と平戸川内の丸山とには関係があると言及していることに気付いた。  

併せてこの地が倭寇における最重要拠点であり、その頭目の王直が、あたかもオサマ・ビィン・ラディンがアフガニスタン東部山岳地帯からパキスタンを隠れ家にしていたように、平戸を根城にしていたことに気付くばかりか、鄭成功や倭寇が実態は明朝時代の宦官による不正や異民族の清朝への革命運動ともかなりの部分重なっていたことにも気付かされたのであった。


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もはや、疑う余地は全くない。佐世保港南の横瀬浦もポルトガル船の寄港地であったことから、丸山という地名は中国貿易、従って、ポルトガル船など西洋船を含む外国貿易と関係のある地名だったのである(ザビエルも始めは中国船でやってきたとの説もある)。


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平戸市川内町の丸山遊郭跡地


さらに言えば、鄭成功や倭寇が実態は明朝時代の宦官による不正や異民族の清朝への革命運動ともかなりの部分重なっていたことも徐々に分ってきたのであった。

今のところ、司馬遼太郎が触れているように、長崎の丸山という地名が平戸の丸山や横瀬浦と関連があることまでは、地元郷土史会も含め関係性を認めている(実際には司馬が郷土史会からめぼしい話を引き出しているのであろうが)。

ただ、二つ三つの例では証明できないと見てか、学者(どうせ大した数はいないだろうが)から民間研究者もそれ以上は全く踏み込んではいない。


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なお、現地には鄭成功所縁の人々や台湾から旅行団、さらにはTVクルーなどの取材チームが訪れている


魚釣りに狂っていた当時、頻繁に通過していた土地にこれほどの日本史の舞台があったなどついぞ考えた事などなかったが、改めて釣人なるものが歴史に関心を持たず目先の獲物に狂奔する人種であることを自ら気付かされた瞬間でもあった。


口之津の丸山地名


地名研究会は二〇〇九年五月、島原半島は口之津へのトレッキングを行っている。

これは、久留米と口之津にオコンゴ(口之津の場合は苧扱川など三つのオコンゴと呼ばれる字名があり、他に佐賀、熊本にも確認できる)という奇妙な地名対応が見られることをメンバーに確認してもらうためのものであった。

同じくこの前後に埋立が進んだ旧口之津港の湾奥にも久留米の高良大社と同系統の高良山神社があり、その下に丸山という小字地名が残っていることを発見していた(旧口之津町字図参照)。

言うまでもなく、この口之津港もルイス・フロイス(『日本史』の著者)やルイス・アルメイダと言ったポルトガル宣教師(実態は日本人婦女子の奴隷商人)が拠点にした貿易港であったが、当然にも唐人町、東方(トウボウ)と呼ばれる一角が残っているように、往時は中国商人も出入りしていたことが現在でも容易に理解できるのであった。

とすると、平戸島の川内町の丸山佐世保港沖の横瀬浦の丸山思案橋の丸山島原半島口之津の丸山、そして、東方(恐らく唐坊の意)、長崎、出島奥の丸山、思案橋などが、中国貿易商人によって付された地名であることは、ほぼ間違いないように見えてくる。

問題はその重複する期間であり、前後関係であろう(出島に移る直前に短期間利用された福田浦に丸山に相当する地名は今のところ確認できない。

ただ、時代が降るポルトガル船の寄港地となると、事実上野放し状態であったためか、玉名市の伊倉を始め山陰の益田市などにも数多く存在し、まだまだ類例はあるものと思われる)。

付随して話をしておくが、唐坊、唐房、東房、東方…といった一連の地名が北部九州を中心に分布している(博多、唐津、口之津…薩摩では旧加世田市にも)。

この地名群についても、民俗学者の谷川健一により「甦る海上の道・日本と琉球」(文春新書)が公刊されており、同書で、沖縄との関係から、主として坊津や加世田の唐人街を取り上げている(唐津の唐坊について谷川は言及していない)。

このことからも、中国人貿易商の居留地としてのトウボウ地名を確認することができる。

現在でもこれらの地を踏むとそれなりの雰囲気が今でも伝わってくる。

かつて、柳田国男は「海上の道」において南から日本への分化伝播を探ったが、その弟子とも言うべき谷川はこの本で日本から南への伝播を描いている。


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これで丸山地名は解決したのか


丸山地名がポルトガル、スペインなど西洋船、従って中国船の寄航と関係があることは言うまでもなくなったが、では、この地名を最初に付した人々とはどのようなものだったのだろうか。

いくつかの可能性があるが、それほど単純ではない。

それは、地名が学問として成立し難い最大の理由とも言われる地名成立時期特定の困難性による。

何故ならば、卑弥呼の時代はもとより、親魏倭王や漢委奴国の時代にも大陸との交流が存在したことが明らかである以上、その時代から九州には中国からの人々(高官から水夫に至るまで)を受け入れる何らかの饗応施設があったことが容易に想定できるからである。

ただ、ここに極めて安直な仮説を提出しておきたい。

私は鄭成功の一族やその家臣、同志の末と思しき人々が現在でも平戸の千里ケ浜の鄭成功廟に参詣に来ているのに何度も出くわしている。

このことから、もしかしたら丸山という地名が台湾にあるのではないかと考え、メンバーで中国語に堪能なY女史に教えを請うと、直ぐに「台湾の台北には圓山飯店がある」との答えが返ってきた(もちろん中国全土にあるが…)。

始めに調べたのは当然にも台湾東北部の基隆(キールン)や戦時中の花蓮港周辺であったが、意外にもそこにはなく、台北の傍を流れる淡水の河口(台北からは直ぐのところ)に圓山という地名があることに気付いたが、その後も広東省の海岸部を中心にかなりの圓山地名があることを発見した。

まず、長崎の丸山地名の起源がこの一帯にあることは違いないだろう。

ただ、それがどこであったかを調べるのは、最低でも広東省、福建省辺りの圓山地名を調査する必要があり、まさに攻勢限界点を超えている。

また、これが店名や商号といったものにとどまらず、多くの地名にまで高まっていることから単純に民間起源とも言い難く、行政が関与した可能性も一概には否定し難い。

最後に、渋谷の道玄坂の円山町は置くとしても、新撰組が闊歩した京都の祇園にも円山公園(これは丸山とは表記されていない)があることは頭に入れておくべきであろう。


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いつの時代、世界の如何なる場所においても、水夫と遊女、従って娼郭が切っても切れない関係にあることは言うまでもない。

これは、福建海賊からマドロスに至るまで共通したことであった。

江戸時代に入り、キリシタン禁教が徹底するようになると外国船との関係は長崎に限定されたことから、丸山地名は国内の廻船航路上に展開し、丸山が遊郭の代名詞のように取り扱われたのかも知れない。

ひとつの寄港地が消えれば、その水夫(カコ)を相手にする遊女たちも新たな寄港地に移ることになった。

こうして丸山地名は政変や航路の変更などによって絶えず浮浪したということだけは間違いがないものと思ってみた。

最近、倭寇、倭人、倭国を考えていると殆ど同じではないかと思うに到った。これは別稿としたい。


20120517再改版)20110501


補足


種子島を通じて鉄砲が伝来したのが一五四三年、一五四九年にはキリスト教が伝えられ、各地の大名は、先を争って貿易のためポルトガル船の入港を求めた。
 ポルトガル船は、肥前では、前には平戸に入港していたが、後に、横瀬浦(現西海市)、福田(現長崎市)、口之津(現在南島原市)と寄港地を変えた。

しかし、ポルトガル人は、福田や口之津ではなく、大村純忠に天然の良港長崎を開港するよう求めた。
 一五七〇年に長崎の港内の岬状の地を開き長崎を開港した。

一五七一年にポルトガル船入港。
一五八〇年から長崎市の茂木町はイエズス会の領地となる(浦上は一八五四年に)。

キリスト教を嫌った豊臣秀吉は一五八七年に伴天連(バテレン)追放令(宣教師追放令)例を出し、翌年には領地をイエズス会から没収、以後直轄の地とした。さらに一五九七年には京都や大阪地方で捕えられた宣教師やキリシタンを長崎へ送り、西坂の丘で処刑した(二十六聖人の殉教)。
 このように秀吉はキリスト教を弾圧したが貿易には無論、積極的であった。

この方針は、徳川幕府に受け継がれ、長崎を天領として奉行を置き、徳川家康の積極的な貿易政策で、長崎はポルトガル船ばかりでなく、中国船の貿易港としても栄えたのだった。
 一六一二年になると家康は、キリシタン禁教令を発令し、二年後には、長崎の教会を全て破壊させた。

二代将軍秀忠の時代になると禁教令はますます厳しくなり、一六二二年には、五十五人の宣教師やキリシタンが一度に長崎の西坂(現長崎市西坂町)で処刑された(元和の大殉教)。
 明治以降、特に敗戦後、国内ではアメリカを意識してか、秀吉以来、徳川幕府がなぜキリシタン禁教に踏み切ったかを語らないが、その背景にはイエズス会を尖兵とするポルトガ船が黒色火薬の原料の硝石と交換するために大量の日本人婦女子をジャカルタなどに売り捌いていた事実があった。

アフリカの黒人奴隷の三角貿易と同様の事実を把握していたからであった。


王 直


王直。当初は塩商人と言われる。

塩は歴代の中国王朝にとって貴重な財源であり専売制であったが、一方で私塩も売買され、地下組織が動いていた。
 この塩売買から撤退した王直は、日本、ルソン、安南、シャム、マラッカなどに渡り、巨利を得た。

後には薩摩の坊津や五島列島の福江島を本拠とするようになる。

松浦隆信の時代、この王直を平戸川内に誘致した。

実はこの王直がポルトガル船を呼びこみ鉄砲伝来となった。

長崎はイエズス会によって開かれた町であったことは否定できない。

平戸、口之津、横瀬浦をさまよい、福田に移り長崎へと移動する。


追記


 イエズス会のポルトガル宣教師が戦国期に日本の婦女子を海外に売り飛ばし(一説には35万人もの婦女子が火薬一樽婦女子50人の比率で交換された)ていた=奴隷貿易を知った事から秀吉は宣教師追放令を出し、家康もキリシタン禁教令として踏襲したが、開国後の日本はこのイエズス会系マフィアによって明治維新を行った事から、敗戦後もアメリカを気遣ってこの事については全く触れられていない。

 明治以降の政府が列島を外国勢力に売り飛ばしている事が分かるであろう。

スポット099 奥出雲の仁田郡調査に行かなければならない

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スポット099 奥出雲の仁田郡調査に行かなければならない

20170407

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この間「先代旧事本紀」巻第三 天神本紀 筆頭二田物部の拠点を求めて調査を進めてきた事はお話ししていますが、既に、二田物部の故地には二田類似地名とニギハヤヒ祭祀とが共存している事実を認識している事から、これをメルクマールとして二田物部の移動を探っています。

現在のところ、最も南の①熊本県熊本市植木町田底二田に二田神社が…②福岡県八女市星野村仁田坂、仁田郷があり天照国照彦…祭祀が…③福岡県久留米市田主丸町石垣二田に二田月読神社(猿田彦祭祀あり)…④福岡県久留米市田主丸町中心部に三夜様=月読神社(猿田彦祭祀あり)が…⑤福岡県小竹町新多が…この地こそ二田物部の最大拠点だったと認識する研究者は多い ⑥島根県太田市に全国最大の物部神社が存在している事は言うまでもなく⑦新潟県柏崎刈羽原発に近い西山町に二田があり物部神社が…さらに⑧秋田県潟上市天王字上江川に二田があり二田神社が存在している事まで確認してきました。

どうやら、日本海ルートで北に避退した二田物部が見えるのですが、島根県にはもう一つの避退地があった事に気付きました。


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それが島根県(出雲国)の仁多郡(ニタ)郡です。


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島根県神社庁/仁多郡奥出雲町 神社一覧を見ると


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仁多郡には五十猛を祀る神社が四社確認できます。これまでにも何度か入っていますがこの四社は未見の神社であり、現地を踏めば、物部の移動について何らかの痕跡を確認できるのではないかと考えています(本ブログのオンエア用の編集時点4月半ばには往復1100キロの行程で二度調査を済ませています)。

勿論、五十猛とはニギハヤヒの別名であることは言うまでもありません。

以前にも一度触れましたが、分かりやすい例がありますので再度ご紹介しておきましょう。

山陰本線五十猛駅、静間(ここも建葉槌命と関係がありそうですが)、太田市…と駅が続きますが、物部氏の最大拠点の傍に五十猛駅があることは象徴的ですらあります。手前にはウマシマジの「馬路」(仁摩町)も。


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411 薩摩の二つの「塘」(トモ)地名について

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411 薩摩の二つの「塘」(トモ)地名について

20161029


太宰府地名研究会 古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥 379 塘(トモ)“肥後限定の塘(トモ)地名は遠くアムステルダムまで繋がっていた!”を公開しています。

この趣旨は、大陸通奥部で成立していた塘(トモ)の起源と考えられる地名(仮に「ダム」地名としますが)中国まで入り、その地名が近代的干拓を行う肥後に持ち込まれたのではないかというものでした。

今回、肥後限定の地名とする塘(トモ)地名も、一部、薩摩にまで及んでいる事を知ったことから、改めてご紹介しておこうと思うものです。

七年ほど前に阿久根市の脇本浜を訪ね、ここにも塘(トモ)地名があることに気づいていました。

ただ、全貌が把握できなかったことからそのままにしていたものです。

脇本の塘(トモ)地名は、この地で肥後の技術によって干拓地が造成されている事から残されたものであった事は知っていたのですが、外にも類例が見つかれば一緒に報告しようと思いこれまで保留していたものです。

今回、薩摩でももっと奥の日置市にも塘(トモ)地名を見出したことから、鹿児島県でこの外にも塘(トモ)地名があることが確実になってきました。


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この外にも、鹿児島県南九州市川辺町下山田 塘之池公園、同じく塘の上地名など多くの例が拾えます。

以下塘(トモ)“菊池川中流の小平野”一部を再掲載…


塘(トモ) “菊池川中流の小平野” 


熊本県の玉名温泉と山鹿温泉の中ほどに置かれた菊水インターから県道16号線で東の山鹿に向かうと、左手に大きな河川堤防が現れ、右手に小平野が見えてきます。一帯は既に山鹿市の領域なのですが(大字坂田)、ここに「塘」と書かれ「トモ」と呼ばれる奇妙な地名があります。


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昭文社県別マップル道路地図熊本県


「塘」は“ツツミ”“トウ”とは読みますが、“トモ”とはあまり読まないはずです。

また、現地は玉名市と菊池市との境界地帯でもあることから、比較的険しい地形が続き、菊池川が最大級の蛇行を見せ屈曲が連続する場所です。

両岸は垂直に切り込まれた二~三十メートル級の小丘が連続しています。万年単位の時間で考えれば、絶えざる阿蘇火砕流によって形成された溶岩台地が川によって削り込まれたものなのでしょう。

このような条件から、垂直の崖の崩壊や屈曲部の土砂の堆積などによって自然のダムが形成され、たん水やその決壊といった洪水の影響を受け続けたと考えられます。

その後、人工の堤防が造られる近世になりますが、自然に形成された堤防の内側には水平堆積によって成立した平地が出現し、進出した人々によって造られた農地にも新たに決壊や洪水による逸流(オーバー・フロー)が襲って来たことが想像されます。塘(トモ)とはそのような氾濫原野起源の土地であり、自然堤防の時代にはなかなか定着できなかった土地だったと思われるのです。


【氾濫原】はんらん・げん

河川が運搬した砕葛物が堆積して河川沿いにできた平野で、洪水時に水をかぶる。

(『広辞苑』)


この熊本県北部有数の大河にも、現在は河川改修事業によって壁のような大堤防が建設され、ほ場整備事業も併せて行なわれたものか、堤防の内側には美田が広がっています。

この地には過去何度となく入植が試みられ、度重なる洪水に耐えて定着した人々によって集落ができたのでしょう。

氾濫により形成された自然堤防の内側には菊池川の氾濫によって土砂の堆積が進んだはずです。

内部に流れ込んだ泥土から石や瓦礫を拾い揚げ、徐々に川傍の低地は標高を上げ堤防も嵩上げがされていったものと思われます。

繰り返しますが、このような平地が生まれるには、水による運搬、攪拌、そして長期にわたるたん(湛)水が必要であり、その水の中で繰返された水平堆積によって、この地も形成されたものとする外ありません。

この地に「塘」という地名が在るとすれば、これが堤防に起因するものであることに異論を持たれる方はまずないでしょう。それを物語るかのように、“蹴破り伝説”を持つ当地の阿蘇神社前の古い農協倉庫には、現在も、なお、洪水時に備えて舟が吊るされているのです(この一帯の多くの農家の納屋には今も舟が吊るされているそうですが)。

問題はその「塘」の成立時期と地名の成立時期であり、それが自然のものであったのか人工のそれであったのかということになります。


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前述のごとく、「塘」に堤防という意味があり、音で「トウ」「ドウ」、訓で、「つつみ」と呼ばれることまでは分かりやすいのですが、これが「とも」と呼ばれていることが重要なのです。

私が知る範囲でも八代の数人から「そう言えば熊本ではなぜか堤防の事を“とも”というね…」「干拓地の旧堤防を、例えば“東んとも”“西んども”などと呼んでいる…」「八代の南の高田には“とも”と呼ばれるところがあった…」といった話を聞きます。まさか、土盛り(ドモリ)からきたものではないでしょうが、多分、肥後領全域で普通に見られる地方語(古語)なのでしょう。


…中略…


「塘」は「とも」「ども」と呼ばれていた?


「塘」の意味はお分かりかと思いますが、肥後の「とも」、「ども」の濃厚さはただ事ではありません。一部には(『漢字源』)これを訓読み扱いにするものもあるようですが、基本的には古語よりも(もちろん古語なのですが)方言の扱いでしょう。しかし、単に方言とか(古語)では済ませないものを感じるのです。

なぜならば、最低でも、熊本市銭塘(ぜにども)町の銭塘とは元代の臨安府が置かれた杭州のことであり、宗、元、明期の中国と交易を今に伝える痕跡地名だからです。

マルコ・ポーロが杭州に来ていた事はどなたもご存知ですが、ヨーロッパと繋がっていたことがこの一事をもってしても理解できるはずです。



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してみると、まず、銭はともかく、「塘」はドモという中国本土の音を写したとしか思えないのです。

少なくとも当時の肥後が大陸文化に直接洗われる土地であったとまでは言えるようです。


【臨安】りんあん

南宋の首都。今の浙江省杭州市。1129年臨安府と改称。臨時の都という意味で「行在」と称。

(『広辞苑』)


揚子江下流の銭塘江を“せんとうこう”と呼び(読み)ますが、これはいわゆる日本流の漢音でしかなく、現地のしかも当時はどのように発音され、日本人がどのように理解したかは全く別の問題なのです。


発音はいかに?


辞典に「漢音でトウ(タゥ)、呉音でドウ(ダゥ)」と書かれていたとしても、これは中国で学んだ遣唐使などが持ち込んだ中国音を八世紀頃の日本人の口で置き換えたものであって、当時の中国の原音そのものでないことは言うまでもありません。

当然ながら、中国の各地方で各々読み方が全く異なる事も頭に置いていなければなりません。

まず、現在の現地音を考えてみましょう。上海近郊の水郷の町に西塘(シータン)があります。

これをアルファベットで表記すれば XiTang となるでしょう。

さらに、いくつか例を上げると、東チベットに理塘(リタン)、巴塘(バタン)があり、香港に觀塘(クントン)ショッピング・センターがあります。海に目を転じれば、海南島に月塘(ユエタン)村…があります。

ただ、専門外の分野であるため、友人の歯科医師の松中祐二氏(北九州市在住:九州古代史の会)に尋ねたところ、「塘」は、呉音 ドゥ(Dau)、漢音 トゥ(Tau)、韓音 ダン(Dang)、越音ドン(Dang)、門/(門構えの中に虫)南音 トング(⊃ng)、広東音 トン(Tong)となるとのことで、さらに古代まで踏み入れば、上古音で、ダン(Dang)中古音でも、ダン(Dang)、元中元音で タン(Tang)とのことでした。

まあ、ばらつきはありますが、タン、トン、ダン、ドンといったものの中のどれかというところで良いのではないでしょうか。特に、中国語は濁音と清音の差はほとんど意味のない言語であり、それは中国人が「ケームセンタートコあるか?」などと尋ねてくることからも経験的に明らかでしょう。


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昭文社県別マップル道路地図熊本県


肥後は日本の玄関口だった


さて、南北朝期、菊池水軍は有明海(松尾)、名和水軍は不知火海(徳淵)を拠点にして明などとの交易を行なっていたのですし、その通行の歴史は「呉は大伯の後」と呼ばれる呉越同舟の呉の時代以来とさえ考えられるのです。

特に面白いのはこの地名「塘」の分布領域が事実上肥後一国に限定されていることです。

もしも南北朝騒乱期にこの地名が持ち込まれたとすると、宮方を支えた菊池氏、阿蘇氏、五條氏の中枢であった菊池武時、武光といった発展期ではなく、完全に肥後一国に押し込まれた衰退期に成立した地名とも考えられるのですが、単純に十四世紀末の外来語と言えるかは、なお、疑問が残ります。

しかも、八代から玉名、山鹿となれば、歴史的な関係から考えて、まず、呉音に注目しますが、もしかしたら、「トモ」、「ドモ」はさらにもっと古い時代の音を残しているようにも思えてなりません。

その一つは、上記の一帯には横穴墓が大規模に分布していることがあります。

この墓制は揚子江の中~上流の少数民族の一帯(彼らは漢族に追われて山に上がったのです)に色濃く分布するもので、どのように考えてもこの古い墓制を持った人々が揚子江河口の会稽辺りから出発し舟山列島で舟を東に向けたはずなのです。

一般的に横穴式石棺墓は古墳時代も後期の墓制などと言われますが、それは、使用されなくなった横穴墓に後に石棺が埋納されたことなどからであって、本来の墓制ではないのです。そう考えれば、中間市大字岩瀬に塘の内の例を上げましたが、この一帯にも横穴墓があったようです。

この菊池川一帯に分布したはずの数千余の横穴墓は、古墳時代後期のものなどではなく、もっと古いものであるはずなのです(昔の考古学会では縄文時代のものとしていた)。そのことを物語るかのように、直接、川や湖に面した垂直の崖の中ほどを抉って造られた横穴墓群のさらに上の丘陵平坦部天端部にあたかも征服者のように一般的な古墳が置かれていることでも分かるのではないでしょうか?

そのほかにもいくつかの傍証がありますが、ここではそこまで踏み入らず、再度、話を先に進めます。

結論から言えば、とも、どもは中近東に派生したダムの原音とでもいうべき音を写したものではないかと思うのです。

当然ながら、中国の「塘」がドモ、ドン、ダンなどと呼ばれていた可能性もあり、逆にその音が西に伝播した可能性も否定できません。

前述した竹林征三氏の『ダムのはなし』には、大モンゴル帝国が建設した二つのダムの話が書かれています。一つはテヘラン南西のガブマハ川に造られ結局水が溜まらず失敗したサベーダムやテヘランの南西一七〇キロのケーバル川に高度な技術で建設されたケバールダムの話が出てきます。

これが、実際にダムと呼ばれていたかどうかも不明ですが、シルクロードを経由して、このダムもしくはドモという音が揚子江下流辺りまで伝わったとすることは十分に可能であり、それが届いたのが八代の徳淵や熊本の高橋辺りだったのではないかと思えるのです。

荒唐無稽と考えられても構いませんが、熊本県の緑川の支流浜戸川に加藤清正によって造られたとされる轡塘(クツワドモ)と呼ぶ河川構造物(決堤、破提を緩和する装置)があります。これと同じ構造を持ったものが、中国とイタリアにも見られるという話を河川工学の専門家から聴いた事があります。実用的な技術は呼称や音よりも早く確実に伝播するものなのです。

このように考えると、当時のウォーター・フロントであったはずの熊本市城山町大塘(おおども)、熊本市銭塘(ぜにども)町の「ドモ」という音が理解できるのです。

ここまで踏み至ると、ヨーロッパの西の果てのロッテルダム、アムステルダムから、中国、そして、日本、少なくとも熊本まで、このダムという言葉の帯が拡がっているという世界性に戦慄を覚えるのです。

スポット100 宗像沖ノ島世界遺産登録といった愚行が半潰れになって多少はほっとした!

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スポット100 宗像沖ノ島世界遺産登録といった愚行が半潰れになって多少はほっとした!

20170512

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



 宗像沖ノ島世界遺産登録に関して諮問勧告が行われた…といった話が流れたのは数日前の事でした。

普通なら、オリンピック誘致と同様、ちょうちん行列とまでは言わないまでもお祭り騒ぎになるはずなのですが、実質的には沖ノ島だけの認定の方向しか示されず、宗像大社~宗像市を中心とする所謂肖り集りへの思惑は(当面)大きく外れた形になったのでした。

このため、マスコミもそれなりに落ち着いた(一部には落胆した…云々)報道をしていました。

まず概略を把握して頂く為に、ネット上の産経、読売を拾いましたが、全ての大手マスコミは全てある種の権力(必ずしも行政と同義ではない)の回し者であって、その広報誌、回覧板としか考えていませんので、この二つを選んだことにも特別な意味はありません。

しかし、この報道を知って喜んだのは私だけではありません。

そもそも、日本の価値ある歴史的遺跡、伝統、文化を、何故、ユネスコ(United Nations Educational, Scientific and Cultural)のようなヨーロッパ不良貴族の成れの果ての様な方々に判定され、格付けまがいの事まで行われなければならないのか!

また、その何の権威もない連中に評価され、町興し村興し、地域振興の美名のもとに、浅ましくもさもしくも肖り集ろうとする見苦しさを公然とさらけ出している事に疑問を感じないのか!…と、この民族の精神もかなぐり捨てた恥知らずな構造には以前から非常に不快に感じていました。

結局は利用できる物は何でも利用し、税金を一部の方々だけが取り込もうとする構造が透けて見えるのでした。

東京オリンピックにしても、溜め込むに溜め込まれた膨大な富を大手ゼネコンなど特定の勢力だけが潤うような支出は、明らかな無駄遣いと言うより不正な流用でしかなく、本来は、貧困児童や貧困家庭の救済とか、もっともっと将来を見据えた重要な投資に回されるべきもののはずなのです。

行政とは特定の人々だけが潤うような無駄遣いは厳に慎むべきであり、「経世済民」をこそ考えるべきであるとは、行政の長や土建屋ケインズ主義者によってさえも声高に叫ばれていた常套句だったはずなのです。

仮にこのような構造の上に歴史遺産登録が行われたとしても、古代の真実を発掘する事にも、探究する事にも一切繋がらず、重要な遺跡さえも関連する公共事業などで破壊され、文化遺産そのものが捻じ曲げられ偽装されるのが目に見えるようだっただけに、半ば喜び、どうせなら完全に潰れて欲しかったと言うのが正直な感想でした。

まあ、そこまでは望むらくもなく、まずは、不幸中の幸いといったところと言うのが実感でした。

今後もこのような外国の勢力への拝跪、依存の構造は続くでしょうが、日本人としての誇りも文化も伝統も一切をかなぐり捨てた危機的で愚かな流れには抗議せざるを得ないのです。




sp100-2【産経新聞号外】宗像・沖ノ島 世界遺産へ


 政府に5日入った連絡によると、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に、福岡県の古代遺跡「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」を登録するようユネスコの諮問機関、イコモスが勧告した。ただし、沖ノ島以外の4つの資産は除外された。7月2~12日にポーランドのクラクフで開かれるユネスコ世界遺産委員会で正式決定される見通し。登録されると、日本国内の世界遺産は文化遺産17件、自然遺産4件の計21件となる。

 宗像・沖ノ島と関連遺産群は4~9世紀の大陸との交流にまつわる古代遺跡。九州と朝鮮半島の間の玄界灘にあり航海安全と交流成就を祈る国家的祭祀(さいし)が行われた沖ノ島(宗像大社沖津宮(おきつみや)と本土の宗像大社、祭祀を担う豪族が築いた新原(しんぱる)・奴山(ぬやま)古墳群など8件の国指定史跡で構成する。

 島そのものが神体とされる沖ノ島は入島制限の禁忌が守られており、古代の祭祀跡がほぼ手つかずで残る。昭和29~46年に実施された調査で、金製指輪や銅鏡、シルクロードを経てもたらさ
れたとみられるカットグラス碗(わん)の破片など祭祀で供えられた奉献品約8万点が出土。全てが国宝に指定され、「海の正倉院」と呼ばれるようになった。 
sp100-1 


2017512日(金)


「宗像・沖ノ島」世界遺産に登録勧告 8件中4件は除外




sp100-3文化庁は5日、世界文化遺産への登録を目指す古代遺跡「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関が登録を求める勧告をしたと発表した。構成資産の半分の4件を除くことが条件。7月の世界遺産委員会で登録が正式に決まる見通し。登録されれば国内では5年連続、21件目の世界遺産となる。       (2016年9月、福岡県宗像市の沖ノ島)

福岡県宗像市の沖ノ島=共同原生林の中にある宗像大社沖津宮(上)

宗像・沖ノ島と関連遺産群は4~9世紀に航海の安全を祈る古代祭祀(さいし)が行われた九州北部の沖ノ島(宗像大社沖津宮)や大島(同宮遥拝所、同大社中津宮)、九州本土の同大社辺
sp100-4津宮、祭祀を担う豪族が築いた新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群など宗像、福津両市の8件の国指定遺跡で登録を目指していた。

 諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)は、このうち大島と九州本土の4件を除く沖ノ島付近の4件について世界遺産への登録を勧告した。

 沖ノ島には国家的な祭祀の遺跡が残り、指輪や鏡など大陸との交流を示す奉納品が出土。約8万点が国宝に指定されている。島全体が神体とされ、今も一般の立ち入りを制限している。


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と、ここまでは見苦しいばかりの町興し、村興し、世界遺産登録…肖り運動の文化破壊、民族の誇りの放棄への危惧の話でしたが、ここからは各論としての宗像沖ノ島問題に踏み込むことになります。

 この宗像、沖ノ島世界遺産登録への運動を推進したのは言うまでもなく宗像市と宗像大社でした。

 それは、宗像市のHPをご覧になればお分かりになるでしょう(後段に一部を掲載)。

それも大風呂敷を広げ、福津市や古賀市などもダシに使い無理やり巻き込みながら、おらが町の振興のためとばかりになりふり構わず突き進んだのでした。まさに、宗像主導でついでにお零れを回すので協力しろと言わんばかりの印象を受けたのは当方ばかりではなかったでしょう。

このため、宮地嶽神社の巨大円墳の被葬者も宗像徳善君とかその縁続きの人物であり、宮地嶽神社も宗像の君の配下の一族なのだ!などと言ったとんでもない大嘘が垂れ流される始末だったのです(○ダニとその一部エピゴーネン)。

そもそも、現在、沖ノ島がみあれ祭として宗像族、宗像大社が中心となり行なわれているとしても、これが沖ノ島の深層としての古代祭祀まで遡るという証拠は一切ないのであって、事実、初期段階から沖ノ島の発掘調査を行ってきた小田富士雄氏は近年その見解を修正しているのです。

まずは、沖ノ島祭祀について小田富士夫氏の修整説を見て頂きましょう。

記事の内容は専門的で俄かには分かりづらいのですが、岩上祭祀から岩陰祭祀、半岩陰半露天、露天へと変遷してきた古代祭祀において、最も重要な後期の岩上祭祀に当たる沖ノ島21号祭祀遺跡の遺物と同時期の大首長墓(大王級)大型古墳である福津市勝浦峰の畑古墳(100m超前方後円墳)との間に対応が認められるとの見解が提出されているのです(20121026日西日本新聞)。

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このことは、長らく元九大(実は国士舘)の○ダニ氏などが主張してきたところの(最近修整せざるを得なくなったようですが)、沖ノ島古代祭祀だろうが、宮地嶽巨大古墳だろうが、何でも「近畿大和朝廷の傘下=影響下にあった地元土豪(ここでは後の宗像徳善の君に繋がる一族)が関係している」などといったほとんどデマに近い非常に怪しげなものであったことが鮮明になった瞬間でもあったのです。

古来、最低でも福津市のエリア(本来は神湊以南)は志賀島の安曇族のエリアと言われており、相島も含め、新原・奴山古墳群(津屋崎古墳群)に宮地嶽巨大古墳、さらには、昨年馬具一式が発掘され話題となった古賀市の船原古墳なども、全て宗像徳善の君に繋がる一族などのものではなく、安曇族を支配下に置いていた一族のものであるという(安曇族の大王の配下といった話もありますが、逆に陸軍に支配された海軍陸戦隊にさえ見えるのです)地元に通用する普通の考え方が再考できることになってきたのでした。

福津市勝浦峰の畑古墳(100m超前方後円墳)との間に対応が認められるとの見解が提出されている事は極めて衝撃的で、沖ノ島の古代祭祀は福津市、古賀市から福岡市にかけての人々が祭祀を行っていた、少なくとも志賀島側の海人族(安曇族)が関与していた可能性を示すものだったのであり、既に鼻息の粗かった沖ノ島宗像族祭祀(権)圏説が早くも崩れ去っていたのでした(実際は沖ノ島は九州王朝の宝物庫だったのです)。



世界遺産登録活動

 「沖ノ島を世界遺産に」という声は2002年に行われた沖ノ島物語実行委員会による「宗像大社大国宝展」をはじめとする市民の活動から高まり始め、世界遺産登録を目指す動きへつながりました。そして沖ノ島(宗像大社沖津宮)、沖津宮遙拝所、宗像大社中津宮、宗像大社辺津宮、新原・奴山古墳群から構成される「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は20091月にユネスコの世界遺産暫定リストに記載されました。

現在、宗像市、福岡県、福津市、市民団体、経済団体、文化・教育団体等で構成する「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議を設立し、地域の人々によって受け継がれてきた遺産を人類共通の遺産として未来の世代に引き継いでいくことを目的に世界遺産登録活動に取り組んでいます。


そもそも、このような怪しげで根拠薄弱な背景の元動いていたのが宗像大社と宗像沖ノ島祭祀だったのですが、これに関する疑問は既に当方のグループばかりではなくネット上には飛び交っており、当然ながら諮問する側も多くの情報は収集しているはずで、ささやかながらも当方の見解も拾っているはずなのです。もしそうでなければ、表面の風評しか拾えない無能なウォッチャー、アナライザーとしか言いようがないのです。

恐らくこれらの事が文化庁、ユネスコにも多少は伝わったはずであり、当然、ダシとして利用されただけの形の古賀市、福津市の不満も伝わっていたはずなのです。

こうして、危うい事を避ける官僚の自己保身が働いたか…無難な沖ノ島祭祀のみの登録へと動いた可能性も考えられるのです。

ただ、IOCやFIFAのように一旦は脅しを掛け、結果、賄賂をよこせと言うメッセジである可能性も否定できない事から、最後まで、どんでん返しも考えておく必要はあるでしょう。

所詮は日本の伝統も文化も知らない、ましてや、列島の王権引いては古代史など一切知らない外国勢力の格付けやアドバイスなどどうでも良い事なのです。

冒頭で述べた如く、日本古来の文化伝統とその物証としての歴史的遺産をユネスコ如きのキリシタン伴天連の不良貴族の末裔どもに認定して頂くと言う奴隷根性は置くとしても、沖ノ島に限定された認定勧告は常識的な落としどころといったところで(本当はこんなくだらないミシュランまがいの格付けなど辞めるべきなのですが)、今のところ、表面的にはFIFAやIOCの様な賄賂話はなかったことから比較的クリーンな決着といった事になるのかも知れません(繰り返しになりますが、まさか賄賂をよこせと言うメッセジではないでしょうから…くれぐれも…両者の動きに注目し監視を続けようではありませんか)。

なお、これまで何度となく書いていますが、宗像大社の本来の祭神は大国主命であり、近畿大和朝廷(藤原)が捏造した現出雲は九州からの国譲りの結果成立した新出雲としてのテーマ・パークでしかないのです。

だからこそ、志賀島、宗像の沖に沖ノ島があり、現出雲の沖に隠岐の島があるのです。

これらの話については、ひぼろぎ逍遥 177 大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越ながらも…他多くを書いていますので内部検索を行い拾い読みして下さい。

なお、ネット上の中にかなり重要な証拠に近いものが発表されています。I女史作成のパワー・ポイントデータからご覧いただきましょう。


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「万葉集」に証拠が残っていたのです


坂上郎女は京に帰るとき宗像の神(おおなむち・少彦名)に祈りに立ち寄った。

この歌からわかるのは、ここでは宗像神は三女神ではないこと、勝浦まで船で来たこと(道に上がり)、名児山は昔からその名がついていたこと、その名児山と聞いても自分が我子を思う心は深く何の慰めにもならないと歌い上げていること。(伊藤)


大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ、生没年不詳)は、『万葉集』の代表的歌人。大伴安麻呂と石川内命婦の娘。大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母で姑でもある。『万葉集』には、長歌短歌合わせて84首が収録され、額田王以後最大の女性歌人である。


13歳頃に穂積皇子に嫁ぐが霊亀元年(715)に死別。一説に宮廷に留まり命婦として仕えた。この頃首皇子(聖武天皇)と親交を持ったらしく、後年個人的に歌を奉げている。 その後に藤原麻呂の恋人となる。しかし、麻呂とも早くに死別し、養老末年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢坂上二嬢を産んだ。しかし、彼とも33歳頃に死別したと思われる。その後は、任地の大宰府で妻を亡くした大伴旅人のもとに赴き、大伴家持大伴書持を養育したといわれる。帰京後は佐保邸に留まり、大伴氏の刀自(主婦)として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切ったのだろう。その作風は多分に技巧的でありながらも、豊かな叙情性をも兼ね備えている。しかし、彼女の数多い男性との相聞歌は、恋の歌になぞらえて、彼らへの親しみを表したものであったり、実体験ではないのではないかとも言われている。

坂上郎女の通称は坂上の里(現奈良市法蓮町北町)に住んだためという。 ウィキペディア」による

 大友坂上郎女という重要人物の証言だけに非常に重い資料と言えるでしょう。最低でも、宗像大社の祭神は三女神などではなく出雲神話の神とされる「大国主命」「少彦名命」だったのです。

 出雲神話の舞台は九州だったのではないか?とした仮説は俄かに信憑性が高まってきました。

 きっかけは飯塚市桂川町に「出雲」という交差点があることに気付き、凡そ出雲神話など縁がないはずの九州各地に多くの大国主祭祀が拾えたからでしたが、さらに、日向の一の宮である都濃神社の主祭神が大国主であることや、宗像市、筑前町、熊本市、日置市、鹿児島市…にも大国主命を主神とする神社が存在している事を確認して行ったからでした。どうやら、「出雲」隠し「九州王朝」隠しの入口に入ってきたようです。今後とも、出雲神話の痕跡を探ることになりそうです。

412 高知県東洋町五社神社の祭神をどう考えるか

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412 高知県東洋町五社神社の祭神をどう考えるか

20161029

太宰府地名研究会 古川 清久


ひぼろぎ逍遥(跡宮)326 阿波と土佐の国境に鎮座する若宮神社と境外摂社高良神社 において、九州王朝 高良玉垂命(藤原により第9代とされた本物の天皇)の痕跡があることをお知らせしましたが、実はこの旧甲浦村にはもう一つの高良玉垂命の痕跡と思えるものがあるのです。

それは、高良神社より街中に近い所に鎮座する五社神社です。


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五社神社正面


五社神社とされていますが、神社に掲げられている祭神を見る限りはその通り五柱であり、その内訳は住吉三神+神功皇后+地元土豪の五神とされています。

確かにそのように、東洋町役場発行の「べんり帳」にも「東洋町の神社一覧表」として住吉四神(?)と明神家祖神を揚げています。

ただ、実質的には住吉大神と神功皇后であったことが透けて見えます。

そもそも百嶋神社考古学では住吉三神の底筒男命を高良玉垂命、中筒男命を贈)崇神天皇、表筒男命をウガヤフキアエズ命とします。

しかし、ここに神功皇后が加わっている事を考えると、本来の住吉大神である高良玉垂命とそのお妃である神功皇后を祀る神社だった事が見えるのです。


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申し上げている事は、久留米の高良大社に奇跡的に残された「高良玉垂宮神秘書」によれば、高良玉垂命と仲哀亡き後の神功皇后が夫婦であったという「記」「紀」にない認識を持っている事。

周辺の伝承からも九人の皇子(四人は腹違いか)がおられ、その筆頭が仁徳天皇(若宮神社)であるという事を知っている事から、この神社がその痕跡を持つ神社であることが見えていると言うだけの話です。


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