Quantcast
Channel: ひぼろぎ逍遥
Viewing all 723 articles
Browse latest View live

413 苧扱川(オコンゴウ) ①

$
0
0

413 苧扱川(オコンゴウ) ①

20161029再改版(20110701改版)20080314

太宰府地名研究会 古川 清久

“久留米の街中を苧扱川(オコンゴウ)が流れる”


413-1


 長崎県の南部、島原半島の先端といえば、有明海の出口、早崎ノ瀬戸、瀬詰崎灯台などが頭に浮かぶ旧口之津町(現南島原市)となりますが、その岬の中ほどに苧扱川(おこんご)と呼ばれる奇妙な地名群があります。

 昭文社の『県別マップル』長崎県広域・詳細道路地図などでも直ぐに確認できますので、まずは地図を見て頂きたいと思います。

 かつて口之津といえば、上海向けの石炭の積出港として、また、“カラユキサン”を送り出した外洋船の出港地(寄港地)として、さらには、戦前、戦中、戦後を通じて海国日本を支えた多くの船乗りの養成を行なった海員学校があった町としても有名でしたが、今や、その華やかさは衰え、ただただ、天草下島に向かうフェリーの出船場としての存在だけを主張しています。

 しかし、百年前、この地には国際貿易港として目も眩むばかりの繁栄が確実に存在していたのです。

さて、口之津港に深入りすると先に進みませんので、この話はこれまでとしましょう。興味をお持ちの方は長崎県下でも最も資料の充実した歴史民俗資料館に足を向けられる事を望んでやみません。

 話を元に戻します。五年ほど前でしたが、いつものように地図を眺めていると、ひらがなで「おこんご」と書かれている地名があることに気付きました。その時は単に変な地名と思っていただけでしたが、その後、資料館を訪問した際に館長にお尋ねしたところ、口之津史談会の西光知巳氏による「オコンゴ考」という論文があることを知ったのです。


  …口之津の行政区、南大泊に「オコンゴ」と呼ばれる地名がある。かつて遊郭があった所としても知られている。口之津の字界図を見ると、早崎名(みょう)と町名(みょう)の間の小さな川が流れ「苧扱川」とある。これをオコンゴと呼ぶらしい。

「口之津史談会」創刊号


これについては、最後に全文を掲載しておりますが、実はこの地名が久留米の中心街、それもまん真中にもあった(ある)のです。

西鉄久留米駅付近は南北に国道3号線が、国道209号、322号線が東西に交差する文字通りの中心地ですが、久留米井筒屋から西鉄久留米駅に向かう209号線の少し南を東から西に流れる川があり、池町川と呼ばれています。

現在は筑後川からポンプで汲み上げられた水が流され、いわば、造られた「癒し」の河川空間が演出されているのですが、今や、六つ門町から東町という官庁街、商業地、歓楽街になじみ、趣味ではありませんが、それなりの調和を得ているようです。 

さて、「おこんご」です。この池町川が、かつて、苧扱川(おこんがわ)と呼ばれていたといえば皆さんは驚かれるでしょうか。

もちろん、千数百年前の古文書に書かれていたなどといったものではなく、少なくとも父祖の代程度の話で、私達でも十分に辿れる時代のものなのです。


413-2


「おこんご」と「おこんがわ」は多少異なるようですが、あまり使われない「苧」という難しい文字と川の表記が一致する事から、同一起源の地名であることは、まず、間違いないでしょう。

一般的に九州の西岸部(長崎、佐賀、熊本、鹿児島…)では、川を「コウ」「ゴウ」と呼ぶ傾向が認められます。佐賀でも、谷川をというよりは、さらに急峻な滝に近い渓流を「タンゴ」、「タンゴー」、「タンゴウ」などと呼びますが、このことは、川内を「こうち」と呼ぶこととも対応しているようです。


こうち

【川内・川内】

(カハウチの約。後に、「かうち」「かはち」とも)川の中流に沿う小平地。一説にカハフチの約で、川の淵(ふち)。万葉集(1)「山川の清き-と」

(広辞苑)


この池町川(苧扱川)は、本町付近で国道209号線を北に横断し再び西流しますが、この付近にかつて鉄道の駅があり、その駅名が「苧扱川」だったといえば、思い出される方もかなりおられるのではないでしょうか。


市の中心部を貫いて流れる池町川。
西鉄久留米駅付近に端を発しJR久留米駅付近までの川の岸辺は、商店街や歓楽街、官庁街といろんな顔をもっています。
 この川は江戸時代初め苧扱川と呼ばれていました。
池町川と呼ばれるようになったのは、18世紀以降のことです。
 城下町の地名1つ、池町にちなんで池町川へと変わったといわれています。


市のHP「ふるさと再発見」


もう少し詳しくお話しましょう。久留米には明治の末から昭和四年ですから満州事変が勃発する頃まで、筑後川沿いの豆津から日田の豆田まで走る軽便鉄道が走っていました。

もちろん軽便鉄道ですから、元々の狭軌である日本の一般的鉄道よりもさらに狭いナロー・ゲージです。

~荘島~苧扱川~日吉~となれば、地元の方であれば、その場所については直ぐに見当がつくことでしょう。苧扱川の停車場はちょうど現在の みずほ銀行 久留米支店 辺りになるようです。

現在、久留米から日田に向かう久大線はJR久留米から南に回り東に向かいます。

この新線が建設される前の時代を支えた全く別の鉄路があったのですが、その前身は吉井馬車鉄道です。後に筑後馬車鉄道と変わり、筑後軌道株式会社というかなり九州でもかなり大規模な鉄道会社に発展したようです。

筑後軌道株式会社は、明治三十六年に吉井と田主丸間で運行を開始し、久大線の開通に併せ昭和四年に幕を閉じています。

 筑後川左岸の加ヶ鶴トンネルも、現在、国道に転用されていますが、元は、この鉄道の路線だったようです。

この鉄道や苧扱川停車場(ステーション=明治に“ステンショ”と呼んだのもそうでしたが、停車場はやはり懐かしい表現ですね)などについてはこれ自体をテーマとして調べたくなります。それは興味を持たれる方にお任せして、誤りを怖れずオコンゴの意味に踏み込みましょう。まず、「苧」は音読みで「ジョ」「チョ」、訓読みで「お」「からむし」となりますが、最後の「からむし」については、明確な意味があるようです。

まず、繊維を採るため、「お」たる「苧」を扱ぐ川であることから「おこんごう」と呼ばれたことは間違いないでしょう。


から・むし

【苧・枲】

…イラクサ科の多年草。…茎の皮から繊維(青苧(あおそ))を採り、糸を製して越後綿などの布を織る。木綿以前の代表的繊維で、現在でも栽培される。苧麻(まお・ちよま)

 (広辞苑)


久留米はいうまでもなく“くるめ絣”で有名な繊維生産地でした。筑後川の対岸北野町には七夕神社(無論、織姫、彦星は織女と牽牛でしたね)があることも決して関係なしとはしないでしょう。私は、紡績、織布を目的として、この川で“からむし”を水に曝していたのであり、その痕跡地名と考えています。また、西光氏による「オコンゴ考」もそのような趣旨で書かれています。曰く、…


…苧扱川、この川で、苧(からむし)の皮を扱ぎ、晒して作った繊維で(糸で)布を織って衣服とし、綱を作って魚をとり、船をもやう綱も作ったであろう。…


もちろん、これは、「オコンゴ考」を書かれた西光氏という先達があってのことであって、改めて氏の慧眼に驚いています。皆さんも機会があれば、口之津の“おこんご”を訪ねられてはいかがでしょうか?付近には島原の乱の原城址、瀬詰崎灯台、早崎漁港の大アコウ群落…と多くの景勝地があり、島原ソウメン第一の生産地、須川の“にゅうめん”も食べられます。

四国の香川県に「苧扱川」という河川があり、鹿児島にもこの地名があるようです(これについては確認していませんのでなんともいえませんが…)。これら、他の苧扱川地名の周辺調査を進めれば、語源、地名の起源についても、さらに明瞭になってくるでしょう。

また、私の住む佐賀県でも、伊万里市原屋敷の大野神社の参道が「オコンゴ」と呼ばれていることもお知らせしておきます。十年前までは和紙が生産されていたことは確認しています。


ここに久留米地名研究会メンバー(当時)が運営するHPがあります。

「山への旅(シリーズ)」です。本人の牛島氏からは了解をとっていますので、「おこんごう」のその他の分布について書かれたものがありましたので、必要な部分だけを使わせて頂きました。


413-3


写真:牛島稔大(2009/7/31


7回 苧扱川という地名


九州地方: 

①苧扱川“おこんご”(島原、口之津)

②苧扱川“おこん川”(久留米市)

③麻扱場橋“おこんば橋”(熊本、南関)

④苧扱川“おこぎがわ”(熊本、合志)

⑤苧扱川“おこく川”(香川、観音寺市)  2010.1.11up


 おこんご”(島原、口之津)    

島原、口之津歴史民俗資料館 資料より         

旧税関跡を整備した資料館

口之津、苧扱川“おこんご”遊郭:    


 おこん川”(久留米市)       

広報くるめ No.1102 2004.2.1 |ふるさと再発見|ふるさとの歴史を伝える池町川 より

市の中心部を貫いて流れる池町川。

西鉄久留米駅付近に端を発しJR久留米駅付近までの川の岸辺は、商店街や歓楽街、官庁街といろんな顔をもっています。

この川は江戸時代初め苧扱川と呼ばれていました。池町川と呼ばれるようになったのは、18世紀以降のことです。城下町の地名1つ、池町にちなんで池町川へと変わったといわれています。

苧扱(おこん)川公園: 福岡県久留米市梅満町543-1


その他の“おこん川”


山口県下関市王子地区(地元の人たちが「おこん川」と呼んでいる小川):

山口県防府市大字江泊(おこん川は、徳山領(富海村)と三田尻宰判(牟礼村)との藩境):

長崎県五島市岐宿町(福江島岐宿町名物・おこん川かかし祭り):


 おこんば橋”(熊本、南関)  


麻扱場(おこんば)橋  

おこんば橋は、南関町大字下坂下、北辺田の内田川に架かっていたアーチ式の石橋で、平成5年にほ場整備にともなう河川改修により、解体撤去のやむなきにいたり、ここ大津山公園内の太閤水の地に移転復元されました。建造年代は不明ですが、江戸末期か明治の初期と考えられています。石工名も残念ながらわかっていません。
橋名は、昔内田川で麻のさらしが行われていて、橋の近辺を「麻(お)扱(こ)き場」と呼んだことによるものです。撤去前は農道として近隣の人々が利用する程度でしたが、昔は肥猪方面から高瀬に出るには、この橋を渡り、上坂下、三ツ川を抜けるのが最短でしたので、多くの人々が利用する大事な橋でした。おこんば橋は、やむをえず移転復元されましたが、これからもずっと町の文化財として大切にしていきましょう。

福岡県八女市黒木町木屋字苧扱場


④“おこぎがわ”(熊本、合志)       

広報こうし 平成197月号(第17号)より。

平成1510月に発見された史跡豊岡宮本横穴群の整備が、今年3月に完了しました。


413-4


横穴とは、がけ面に横から穴を掘ってつくられたお墓です。この豊岡宮本横穴群は、古墳時代後期(約1500年前)の有力者の家族墓で、約9万年前の阿蘇山噴火による火砕流でできた凝灰岩の岩盤につくられています。合志市豊岡の竹迫日吉神社北側にあり、正面にはホタルの住む塩浸川(苧扱おこぎ川)が流れています。

写真は、記事とは別に牛島稔大(2004/9/25撮影)。・・・これは省略しています。古川


⑤苧扱川“おこく川”(香川、観音寺市)  

高屋町(たかやちょう) 旧高屋郷高屋村。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

七宝山山麓で、苧扱川(うこくがわ)が流れる、田園地帯。稲積山高屋神社では春に高屋祭りが行なわれ、満開の桜とちょうさのコラボレーションが見られる。----> 現地の人の呼び方は、“おこく”のようです。 


おこんご関連連地名


長崎県西海市西彼町白似田郷字苧漬川     

佐賀県嬉野市岩屋川内字苧漬川(おつけごう)

大分県国東市国東町岩戸寺字葛原苧着場(おつけば) 

大分県国東市国東町来浦苧畑(おばたけ) 大分県国東市安岐町富清苧畑(おうばたけ)  

大分県国東市小畑   大分県大分市賀来小畑

大分県日田市大山町西大山小切畑(おきりはた)大分県日田市大山町東大山字小畑(おばたけ) 大分県日田市小畑  大分県臼杵市 小切畑

大分県豊後大野市小切畑

熊本県山鹿市小畑 

宮崎県えびの市苧畑 宮崎県延岡市小切畑

宮崎県東臼杵郡門川町小切畑  宮崎県西臼杵郡五ケ瀬町小切畑

兵庫県丹波市春日町棚原 苧漬場(おつけば)の池

京都府宮津市中津(京都府与謝郡栗田村中津)字苧漬場

福島県南会津郡只見町 大字田子倉字芋(苧)漬場(オオアザタゴクラアザオツケバ)

山形県酒田市泥沢苧漬場 山形県酒田市苧畑

山形県東田川郡庄内町大字廿六木字苧漬沼、字苧漬台

413-5
413-6


414 苧扱川(オコンゴウ) ②

$
0
0

414 苧扱川(オコンゴウ) ②

20161029再改版(20110701改版)20080314

太宰府地名研究会 古川 清久

口之津は九州王朝の最重要港湾か?

皆さんは、口之津湾の湾奥に高良山神社があることをご存知でしょうか?


414-1

国道筋から数百メートルも入った目立たない所にあることから、地元でもこの界隈に住む方しかご存じの方がおられないようですが、今も高良山という小字が残る小丘に、立派な鳥居を持つ社が鎮座しているのです。もちろんご存じないのが道理ですが、大牟田市の西南部、有明海に鋭く突出した黒崎岬の先端や、私の住む武雄市花島地区のこれまた高良大社に向かって東に突出した小丘にも高良玉垂が祀られていることから、この口之津高良神社もそれらの一つであると考えられます。

京都や青森の五戸にもあることから、直ちに何かが分かるというものではありませんが、古来、有明海一帯を支配したはずの高良玉垂の威光を感じさせるものであることは言わずもがなのことであるはずなのです。

この場所は、現在、公園化されているポルトガル船の接岸泊地跡からさらに百メートル近く奥に入ったところに位置しています。さらに言えば、埋め立てが進んだ口之津湾の相当に古い時代の港湾跡の上にあたるようなのです。

遠い古代に於いて、外洋航海も含めた出船泊地であったとしか思えない場所なのです。

そして、そのことを証明するかのように、この岬の直下には「西潮入」という小字が残っています。

もはや疑う余地はありません。朝鮮半島から中国大陸への最後の安全な寄港地、停泊地

である口之津から、帆をいっぱいに張った外洋船が、遠く、中国、朝鮮に向けて出て行く姿が目に浮かんでくるようです。きっと彼らは、高良玉垂に航海の安全を願い外海に出て行ったと思うのです

長崎の最南端、野母崎(長崎半島)を廻ります。すると、自然と対馬海流に乗り、全く労することなく一気に壱岐、対馬、そして朝鮮へと、また、五島列島を経由し江南へと向かったことが想い描けるのです。

さらに思考の冒険を進めてみましょう。

何故、この地に苧扱川があるかです。繊維を採り布を作るとしても、単純に、服の生産などと考えるべきではないでしょう。恐らく古代に於いても、最も大きな布(繊維)の利用は、服などではなく、、船の帆ではなかったかと考えるのです。

414-2


一般的には、中央の目から、また、九州に於いても博多の目から、宗像、博多、唐津、呼子が強調され過ぎていますが、宗像はともかくも、博多から半島に向かうとしても、一旦は西航し、対馬海流に乗ったと言われるのですから、久留米、太宰府からも引き潮はもとより、有明海の左回りの海流を利用して口之津に出て、対馬海流を利用する方が遙かに安全で有利だったはずなのです。

414-3

苧扱川の苧麻布とは木綿以前の繊維


古代において、有明海の最奥部であったと考えられる久留米の市街地にオコンゴウと呼ばれる川、苧扱川(池町川)があり、西に開いた有明海のまさにその出口の一角に苧扱川と苧扱平という地名が三ケ所も残っています。

さて、この島原半島南端の良港、口之津にオコンゴ地名があることは象徴的ですらあります。始めはそれほどでもなかったのですが、今になって、このことの意味することが非常に重要であることに気づき、今さらながら戦慄をさえ覚えるほどです。

一つは、あまりにも強固な地名の遺存性についての感動であり、今ひとつは、有明海が西に開いていることと多くの伝承や物象が符合していることです。

まず、広辞苑を見ましょう。「【苧麻】ちょま〔植〕カラムシ(苧)の別称。」としています。カラムシ(苧)を見れば、かなり多くの記述あり、ここでは略載しますが「…木綿以前の代表的繊維(青苧(あおそ))…」などと書かれています。

重要なことは、もしも外回りの航路を採ったとすれば、口之津が大陸へ向けた本土最後の寄港地であることからして、この苧が衣服ばかりではなく、船の帆や綱として組織的に生産され、それが地名として今日まで痕跡をとどめたのではないかとも考えられるのです。

ここで、さらに視点を拡げます。実は、この苧、苧麻が皆さん誰もがご存知の、いわゆる『魏志倭人伝』(魏志東夷伝倭人条)に登場するのです。

もはや、写本のどれが正しいかといった議論は一切必要ありませんので、手っ取り早くネットから拾いますが、いきおい「苧」、「苧麻」が出ています。少なくとも有明海沿岸が倭人の国の候補地になることは間違いがないところでしょう。


414-4

婦人は髪を束ね、単衣の布の中央に穴を開けた様な衣である。
414-5


稲、チョマを植え桑の木に蚕を飼い糸を紡ぐ。(苧麻は沖縄から南で繊維を使う)

http://www5.ocn.ne.jp/~isao-pw/wazin.htmを参照されたし。

もう一つ補足の意味でご紹介します。宿敵安本美典系のサイトから…(ほんの洒落ですが)。


其風俗不淫 男子皆露以木緜招頭其衣幅但結束相連略無縫 婦人被髪屈作衣如單被穿其中央貫頭衣之種禾紵麻 蠶桑緝績 出細紵緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛楯木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與擔耳朱崖同

http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/gishi_gen.htmを参照されたし。

その風俗は、淫(みだら)でない。

男子は、みなみずら(の髪)(冠もなく) ()している。木緜(ゆう:膽こうぞの皮の繊維を糸状にしたものとみられる)をもって頭にかけ(はちまきをし)、その衣は横に広い布で、結びあわせただけで、ほとんど縫うことがない。

婦人は、髪をたらしたり、まげてたばねたりしている。

作った衣は、単被(ひとえ)のようである。その中央をうがち(まん中に穴をあけて)頭をつらぬいてこれを衣る(いわゆる貫頭衣)


禾稲(いね)、紵麻(からむし。イラクサ科の多年草。くきの皮から繊維をとり、糸をつくる)をうえている。蚕桑し(桑を蚕に与え)、糸をつむいでいる。細紵(こまかく織られたからむしの布)・絹織物、綿織物を(作り)だしている。

http://yamatai.cside.com/tousennsetu/wazinnden.htm を参照されたし。

古代史、それも、九州王朝説(論)に地名の話を持ち込みましたが、当然にも奇異な感じをお持ちになった方もおられたことでしょう。   

そろそろ、それに何らかの決着を着けなければなりません。久留米地名研究会を十人足らずで始めた実質的な第二回目の会合において、「久留米市街地にオコンゴが流れる」を取り上げました。非常に間の抜けた話なのですが、その頃になって、このオコンゴ=苧扱川の「苧」(チョマorオ)がいわゆる『魏志倭人伝』に出ていたことに気づいたのです。

もちろん、“倭の水人が好んで潜水し魚貝を採る”など倭人の風俗に触れた部分なのですが、女が貫頭衣を着ているとした後に、種禾稲紵麻…出細紵(稲チョマを植え桑の木に蚕を飼い糸を紡ぐ)と書かれているのです。

当時の研究会でも久留米の池町川と有明海の出口にあたる島原半島の口之津に同じオコンゴという地名があり、久留米がかつて繊維産業(久留米絣)の中心地であったことを考える時、いわゆる倭人伝に書かれた文字がそのまま残る両地が、また、同時に倭人の棲む土地であったことを意識したのです。

私も九州王朝が卑弥呼の国の後継国家であることを疑わない一人なのですが、このオコンゴ地名の分布を考える時、その分布が有明海沿岸に集中し、分布領域の中心部に位置していることに気付くのです。もちろん、地名はその成立時期を特定することが、ほぼ、不可能な上に、サンプルの絶対量が少ないことから、何の根拠にもならないとお考えになるかもしれませんが、神籠石、真珠、絹、鉄の分布に加え、正確に拾い出し作業を行なえば、複数の地名複合の対応などにより何らかの示唆を得られるのではないかとも考えています。

実際、絹の分布を考える時、それほど絶対量が多いわけでもないのですし、考古学の世界では纏向遺跡のようにたった一つの発掘例で卑弥呼の時代のものだなどと決め付ける愚か者の学者や大新聞があるのですから、それで良いとは言わないものの、無視されるほどの物でもないように思います。


口之津の高良山神社について


私は20103月まで口之津史談会に入っていましたが、同会の平 一敏氏が書かれた「口之津の神社総覧」を頂き読ませていただきました。その中に高良山神社が出てきますのでご紹介しておきます。

このような小冊子でも同様ですが、その地域で重要な神社、信仰を集める神社は先頭に掲げられます。ここもその例にもれず、口之津湾の裏山とも言うべき富士山(190m)山頂に鎮座する富士山神社に次ぐ二番目に高良山神社が掲載されています。


414-6


口之津港字界図

唐人町の裏山、高良山に建つ3棟の社殿、御堂によりなる。昔の鎮守の杜の面影をそのまま残す姿の美しい神社である。向かって左は金比羅宮、有翼の像を祀り潜伏キリシタンの信仰をも思わせる。右は大師堂、島原半島版鎮西八十八ケ巡りの第17番札所となっている。 (古川:以下省略)


平 氏もその由来などはほとんど知られていないとされながらも、「ただ有家町木場に同名の神社があり、創建の由来もはっきりしている。同社は島原の乱の後の慶安4年(1651)、筑後吉村から移住してきた末吉氏が故郷の高良神を勧請してきたもので、…(中略)…唐人町の高良さんも、その名称からして同様の経緯で創建されたものとみてほぼ間違いない。すなわち、島原の乱後、すっかり荒廃したこの地に筑後周辺から来た移住者が、高良大社から勧請、創建したものであろう。」とされています。

私は木場の高良神社(有家町堂崎)も、複数回に亘り注意深く見てきました。平氏の説には敬意を払いつつも率直に言わせて頂ければ、木場は全くの開拓集落であり、名称も玉垂宮(旧字ですが)と異なることから、埋立の進んだ口之津港湾奥の一等地とも言うべき地にある同地の一の宮とも言うべき神社が、新参者の外地からの移住者によるものとの説には容易には同意できかねます。まず、金比羅とのセットであることが、九州王朝との関係が揶揄される宮地嶽神社と同じであり、背後に聳える富士山神社(祭神は言うまでもなく木乃花佐久耶媛でこれまた九州王朝との関係が濃厚であり、もしかしたら、「フジ」と言う地名も東海に持ち出されたものかも知れないと考えています。)も天長3年(826)という古い時代に富士山浅間(せんげん)神社から分祀されたものとの伝承を考え併せれば、九州王朝との関係を否定できないと考えています。

なお、有家町堂崎の高良玉垂神社については、「木場の高良さんの祭り」(『有家風土記』)という伊福芳樹 氏による詳細なリポートもあります。また、付近の六郎木地区には同町(当時)教育委員会で神籠石ではないかと言われる未調査の遺跡があることもお知らせしておきます。

415 苧扱川(オコンゴウ) ③

$
0
0

415 苧扱川(オコンゴウ) ③

20161029再改版(20110701改版)20080314

太宰府地名研究会 古川 清久

景行天皇と島原半島


口之津を論じる場合、「日本書紀」景行紀「肥前國風土記」に登場する島原半島に関する件を避けて通れません。

もちろん、島原にフェリーが渡る長洲辺りから雲仙岳方面を望み、島なのか半島なのかを問い調べさせるという話ですが、実際、荒尾市や長洲町から望むと、まさしく雲仙に手が届くように見えるのです。

まず、古田武彦氏は景行の南征は九州王朝の前つ君の業績を置き換えたものとの想定をされていますが、この件はどうしても違和感が付き纏います。

一般的には風土記の件だけが取り上げられます。景行の動きとしては、水俣から野坂ノ浦、八代の水島、宇土半島南岸に着き、三角から玉名、長洲に向かっているのですが、もしかしたら景行は島原半島に渡っていたのではないかという点について、「日本書紀」以外の「肥前國風土記」「口之津村郷土史」「平凡社歴史地名体系」「角川日本地名大辞典」では多少の混乱(異なった記述)が認められるのです。

ここに口之津史談会の松尾寿春氏(現会長)による「景行天皇と口之津」という好論があります。松尾氏はこの問題に関心を持たれ、次の点を浮き上がらせられています。

景行紀では高来郡から玉杵名邑に渡ったとしていますが、大正7年口加職員会発行の口之津村郷土誌には宮崎鼻という岬の名称の起源として、八代から南高来に渡り上陸したから、あるいは、長洲の行宮から来島した地だからであると書いているのです。

これが、現地の伝承によるものか、何らかの古文書によるものかは分りませんが、興味は尽きません。皆様方にもお知らせしたいことから、後段に全文を掲載させていただきます。


捨てがたいもう一つの有明海ルート


 船が十分ではなかった古代においては、いきおい、可能な限り安全な航路が選択されたはずです。有明海、不知火海が古代の地中海なみに安全な海であることについては、皆さんも異論を持たれないでしょう。

 読売と畿内説論者が仕組んだ馬門石(ピンク石)石棺の搬送ルートも、口之津から野母崎を廻りましたが、私にはどうしても十トン近い石棺を積んで野母崎沖を廻ったとはとても考えられません。これについても、古田史学の会の全国総会で発表した「馬門」という雑稿がありますので機会があればお話したいと考えています。

 ここでは、そのことには触れず、古代に於いて、ほとんど人が住んでいなかったと思われる野母崎(長崎半島)を廻ることなく、小船なら船を引き上げ、大船なら乗り換え(積み替え)大村湾から早岐の瀬戸を抜けたとしか考えられないとだけ申し上げておきたいと思います。


船 越

                  船越という地名

 船越という地名があります。"フナコシ"とも"フナゴエ"とも呼ばれています。決して珍しいものではなく、海岸部を中心に漁撈民が住みついたと思える地域に分布しているようです。  遠くは八郎潟干拓で有名な秋田県男鹿半島の船越(南秋田郡天王町天王船越)、岩手県陸中海岸船越半島の船越(岩手県下閉伊郡山田町船越)、岩手船越という駅もあります。また、伊勢志摩の大王崎に近い英虞湾の船越(三重県志摩市大王町船越)、さらに日本海は隠岐の島の船越(島根県隠岐郡西ノ島町大字美田)、四国の宿毛湾に臨む愛南町の船越(愛媛県南宇和郡愛南町船越)、……など。インターネットで検索したところ、北から青森、岩手、宮城、秋田、福島、栃木、埼玉、千葉、神奈川、新潟、岐阜、静岡、三重、大阪、兵庫、鳥取、広島、山口、愛媛、福岡、長崎、沖縄の各県に単、複数あり、県単位ではほぼ半数の二三県に存在が確認できました(マピオン)。もちろんこれは極めて荒い現行の字単位の検索であり、木目細かく調べれば、まだまだ多くの船越地名を拾うことができるでしょう。 それほど目だった傾向は見出せませんが、九州に関しては、鹿児島、宮崎、熊本、佐賀、大分にはなく、一応"南九州には存在しないのではないか"とまで


415-1

Mapionマピオン(以下同じ))


は言えそうです。
 勝手な思い込みながら、海人(士)族の移動を示しているのではないかと考えています。この点から考えると、大分県南部や熊本県の八代あたりにあってもよさそうなのですが、ちょっと残念な思いがします。大分にはたしか海士(海人)部があったはずですし(現在も南、北海士郡があります)、かつては海賊の拠点でもあったのですから。もちろん地名の意味は半島の付け根で、廻送距離を大幅に軽減するために船を担いだり曳いたり、古くはコロによって、後には台車などに乗せて陸上を移動していたことを今にとどめる痕跡地名であり、踏み込んで言えば普通名詞に近いものとも言えそうです。

 ここで、一応お断りしておきます。"佐賀にはない"としましたが、日本三大稲荷と言われる鹿島市の祐徳稲荷神社南側の尾根筋に「鮒越」(フナゴエ)という地名があります。地形から考えてこれはここで言う船越地名ではないと思います。また、表記が「船越」であっても鳥取県西伯郡伯耆町の船越のように本当の山奥にあるものもありますので、ここで"船越"が行なわれたわけではありません。あくまでも全国の船越という地名の中には"船越"が行なわれていたものがかなりあるのではないかというほどの意味であることをご理解下さい。また、山奥にあっても、海岸部の船越地名が移住などによって持ち込まれたものがありますので、地名の考察とは非常に難しいものです。

 

                   九州の船越

 この船越地名が九州西岸を中心にかなり分布しています。近いところでは佐世保市の俵ヶ浦半島の付け根に上船越、下船越という二つの集落があり、実際に船を運んだという話も残っています(長崎県佐世保市船越町)。
 「佐世保から目的地の鹿子前(かしまえ)や相浦(あいのうら)の方に向かう途中に俵ヶ浦半島があり、遠回りしなければなりません。遠回りすれば風向きが変わったり、天候が急変することもあります。そこで半島の付け根の平坦な地形のところで、船を陸にあげ、小さな船はかつぐなり、大きな船は引っ張るなりして陸地を越えました。荷物はひとつひとつ運び、乗客や乗組員は歩き、最後に船を丸太を並べたコロの上を引っ張りました。」(「ふるさと昔ばなし」佐世保市教育委員会・佐世保市図書館)
 他にもありますのでいくつか例をあげてみましょう。十年ほど前まで良く釣りに行っていた魚釣り(メジナ、キス)の好ポイントです。長崎県の平戸島の南端に位置する志々伎崎ですが、ここに小田と野子の二つの船越(長崎県平戸市大志々伎町)があります。特に小田の船越は誰が考えても船を曳いた方が断然楽と思えそうな地形をしています。
 また、福岡市の西に糸島半島がありますが、この西の端、船越湾と引津湾に挟まれた小さな岬の付け根にも船越地名があります(福岡県糸島郡志摩町大字久家)。
 九州王朝論者で著名な古代史家の古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)が、『「君が代」は九州王朝の讃歌』市民の古代 別巻2(新泉社)という本でこの糸島半島の船越にふれておられますので紹介します。

 灰塚さんが『糸島郡誌』(昭和二年刊)から抜粋して、コピーして下さったものの中に、つぎの史料があった。 以下。

「延喜式」新訂増補国史体系第二部 10 ㈱吉川弘文館


415-2


桜谷神社(祭神)苔牟須売神
 糸島郡の西のはしっこ。唐津湾にのぞむところ。そこにある神社だ。引津湾と船越湾というニつの小湾(唐津湾の一部)の間に岬が飛び出している。その根っ子のところが、字、船越。よくある地名だ。縄文時代や弥生時代の舟は底が浅かった。ずうたいも小さい。一本造りの丸木舟や筏。
 こういうものなら、岬をずっーと回るより、根っこの部分を"押して"越えた方が早い。五十メートルや百メートルくらい、うしろから押す、前から綱で引っ張る。その方がずっと手っ取り早い。時間とエネルギーの節約なのだ。岬の突端など、速い潮流が真向うに突っ走っていることも、珍しくない。雨や風の日など、もちろん。 
 というわけで、日本列島各地にこの地名が分布している。

 ここでは詳しくふれませんが、『「君が代」は九州王朝の讃歌』は衝撃的な内容であり、興味がある方は同書を読むか、古田史学会のホーム・ページ「新・古代学の扉」にアクセスして下さい。博多湾周辺には、「千代」「八千代」「細石」(サザレイシ)=細石神社「井原」(イワラ)、「苔牟須売」(コケムスメ)桜谷神社=苔牟須売神という"君が代"に関連する地名がセットで広がりを見せています。つまり、これらの地名が織り込まれた歌を明治政府(宮内省)が「君が代」(「古今和歌集」で「我が君は」となっていますが)に仕立てたことになるのです(結果的に明治政府の思惑に反したことになるのですが)。ともあれ、お読みになれば、糸島の船越が桜谷神社(祭神)苔牟須売神に関係したものであることがわかってくると思います。


対馬 小船越 と阿麻氏*留神社

 もうひとつ例をあげましょう。この船越は"フナゴエ"と呼ばれています。対馬の二つの船越です。今の対馬は大きく二つの島に分かれていますが、昔は一島を成していました。対馬の中央にある浅茅湾は複雑な溺谷が幾つもあるリアス式海岸ですが、ここには非常に幅の狭い地峡がいくつもあります。対馬の東海岸から西海岸に船で移動するためには七〇キロあまりも航走することが必要になりますので、昔から"船越"が行なわれてきましたが、ここに運河が造られます。まず、大船越瀬戸が寛文一二年(一六七一年)宗義真(宗家第二一代)によって開削されます(「昔から船を引いてこの丘を越え、また荷を積み替えて往き来きした。船越の地名はここに由来すると言われる。」=現地大船越の掲示板)。その後、明治三三年(一九〇〇年、結局、日露戦争では使用されなかったようですが)には艦隊決戦を想定した運河=万関瀬戸(マンゼキセト)が帝国海軍によって掘られます(ダイナマイトを大量に使う難工事だったようです)。

 当然にも、大船越(長崎県対馬市美津島町大船越)があれば小船越(〃美津島町久須保)があります。小船越には知る人ぞ知る阿麻氏*留神社(アマテルジンジャ)がありますが、この小船越にも「東西から入江が入り込み地峡部を船を曳いて越えた。ここは小舟が越えたので小船越。大きい船は大船越で越えた」(史跡船越の表示板)という伝承があります。北に位置する小船越には水道はありませんが、この小船越と対馬空港に近い南の大船越の間にあるのが万関瀬戸になります。
 ところで小船越の阿麻氏*留神社ですが、この船越についても古田教授が前述の『「君が代」は九州王朝の讃歌』の中でふれています。「小船越の方には、阿麻氏*留(あまてる)神社。日本で一番有名な神さま、天照(あまてらす)大神(おおかみ)の誕生地。わたしがそう思っている神社だ。」
 詳しく知りたい方は、「古代は輝いていた」全三巻の第四章(朝日新聞社)昭和五九年一一月などを読んでください。

415-3

これについては面白いエピソードがありますので、二〇〇三年三月に大阪八尾市で行なわれた「弥生の土笛と出雲王朝」という講演内容から紹介します。「…小船越に阿麻氏*留(アマテル)神社があります。

415-4


わたしは、ここがかの有名な伊勢神宮に祭られている天照大神(アマテラスオオカミ)の原産地である。そのように考えています。」『宮司さんは居られなかったが氏子代表の一生漁師である小田豊さんにお会いし、お話をお聞きしました。そこでは小田さんに「天照大神について、そちらの神様についてお聞きになっていることはありますか。」とお尋ねしました。「私どもの神様は、一番偉い神様です。だから神無月になると、出雲に行かれるのに一番最後に行かれます。なぜかと言いますと待たずに済みます。早く行った神様は、式が始まるまで待たねばならない。わたしどもの神様は偉いから最後に到着します。わたしどもの神様が着けば、すぐに式が始まります。そして式が終われば、わたしどもの神様は待たずにすぐ船に乗って帰って来られます。他の神様は、帰る順番を待って帰って行きます。一番偉い神様と聞いております。」』)。そして、古田教授は帰りの飛行機の中でとんでもないことを思いつきます。「何んだ!天照大神は家来ではないか。」「一番偉いのは出雲の神様ではないか。動かなくともよい。天照大神は、参勤交代よろしく、ご家来衆の中では一番偉い」と。「古事記」の国譲り神話に関連した話です。 
 阿麻氏*留神社:阿麻氏*留神社の氏*は氏の下に一がありますが、表示できませんので氏*としておきます。 
 

         『肥前国風土記』、『延喜式』に見る高来郡駅と船越

 実は、この船越地名が有明海沿岸にもあります。諫早の船越(長崎県諌早市船越町)と小船越(〃小船越町)です。また同地には貝津船越名(〃大字貝津小船越名/長崎県内には末尾に""が付く地名が非常に多い)という地名もあります。ここの船越地名が古いものであることは確かです。肥前国風土記や平安時代に編纂された「延喜式」(*)に、この"船越駅"(駅=ウマヤ)のことが出てきます。「延喜式」に駅馬五疋が置かれていたと書かれていることから考えると、烽火(トブヒ)の存在とともにこの諫早という土地が政治、軍事の重要な拠点であったことが容易に想像できます。

諫早は千々石湾(橘湾)、有明海(諫早湾)、大村湾の三つの海に囲まれた地峡ですが、それゆえか、古代の官道(?)が通っていました。当時、長崎は取るも足らない場所であり、陸路を考えれば、重要なのは大宰府から西に進み、佐賀県の塩田(塩田町)を通り吉田(嬉野町吉田)あたりから山越えして長崎県の大村(大村市)に下り、諫早を通って島原付近(野鳥?)から海路、肥後(熊本)に向かうものでした(ただし、延喜式の時代にはこの海路は廃止されたと言われます)。

 「肥前風土記」(肥前国風土記)は、一応、七一三(和銅六年)年の詔により奈良時代中期に成立したとされていますが(もちろん異論は存在します)、古代史家を中心に良く読まれているようですので、ここでは原文を省略します。


415-6


ただし、「肥前国風土記」には船越駅の記述は直接的には出てきません。このことについて、日野尚志 佐賀大学名誉教授が書かれた「肥前国の条里と古道」(「風土記の考古学」肥前国風土記の巻 小田富士夫編 同成社)から引用させて頂きます。

 律令時代になると駅伝制が整備された。肥前国における初期の駅制は明確ではない。『肥前国風土記』によれば、肥前国の駅路は小路で、養父郡を除く一〇郡に一八の駅家が置かれていた。そのうち具体的な駅名が判明するのは松浦郡の逢鹿・登望ニ駅にすぎない。『延喜式』によれば肥前国に一五駅あって『肥前国風土記』の総数と比較して三駅減少している。この三駅の減少は単に駅の廃止だけではなく、駅路の変更に伴う駅の減少である可能性が強く、奈良時代と『延喜式』時代では駅路が必ずしも同一でない可能性が強いことに留意すべきであろう。
 対して、九二七年撰進、九六七年施行の「延喜式」(巻二十八 兵部省)には、ほんのわずかながら、他の駅と並んで、肥前國驛馬として「船越 傳馬五疋」の記述が出てきます(「延喜式」吉川弘文館)。

 ただ、船越の場合は駅路変更の余地がない場所だけに、「肥前国風土記」が成立したと言われている時期に先行する七世紀、もしかしたら、六世紀にも一定の政治権力によって(もちろん我が「古田史学」は大和政権とは考えませんが)烽火や駅が整備されていたのではないかと考えています。


諫早の船越、小船越


地図を見ていただければ直ぐに分かるのですが、船による移動が重要であった古代において、もしも、諫早の"船越"が事実であれば、大宰府から南に宝満川を下り有明海に出て、西に進み、さらに、諫早湾から船越を経由して大村湾から西に出て(大村湾には西海橋が架かる急潮の針尾瀬戸と小さく緩やかな早岐瀬戸の二箇所の海峡があります)対馬海流に乗れば、労することなく自然に朝鮮半島にたどり着くことができるのです。

 最近、古代史界の一部では、朝鮮半島へのルートとして、下手すればロシアのウラジオストック方面に流されかねない博多や唐津(唐津の唐は遣唐使の唐ではなく、任那=加羅、金官伽耶、高霊伽耶なのでしょうが)よりも、むしろ有明海ルートの方が合理的ではなかったかということが言われ始めているようです。

 仮に、有明海湾奥部から北に向かうとしても、島原半島を大迂回するよりは、諫早の船越経由による大村湾コースが極めて有利であることは言うまでもないでしょう。


415-7


「風土記の考古学肥前国風土記の巻」小田富士雄編の巻頭地図です

 博多湾、唐津湾から朝鮮半島に向かうとしても、一旦は西に向かい対馬海流に乗ったと言われていますので、荒れる玄界灘を直行したり、弱風で西に進むよりは、有明海、大村湾を西に進む方が遥かに安全だったはずなのです。
 これまでにも繰り返し述べてきたことですが、今でも、有明海は非常に大きな潮汐を見せる海です。ギロチンが行なわれるまでは、上下で六メートルと言われていましたので、干拓が行なわれていなかった古代においては、浅い海が広がり、多くの島や半島が入り組んだ複雑な地形をしていたはずですので、潮汐は今よりももっともっと大きかったはずなのです(奥行が深く海が浅いほど振幅は増大するとされています)。 
 現在でも諫早は低い平地ですが、実際に"船越"が行なわれていた時代には、その距離は今の地形から想像する以上に短かったのではないかと思います。
 諫早地峡の東側には本明川と半造川が諫早湾に向かって流れています。また、西側には東大川が大村湾に向かって流れています。この間が約一キロですから、ここさえ"船越"すれば良いことになるのです。記述にもあるとおり駅に馬が置いてあったのですから、この外にも馬はいたはずですし(島原半島の口之津、早崎半島に""があったと言われています)、馬に曳かせるなどして、船を運ぶことは思うほど大変なことではないでしょう。小さい船であれば数人で曳けたでしょうし、大きな船でも極力、川を利用し、時としてパナマ地峡のように川を堰き止め水位を上げるなどしてその牽引距離をさらに縮めたはずなのです。
 逆に言えば、そのような重要な場所であったからこそ、古代の駅が置かれていたのです。
 いずれにせよ、ほとんど遮るものがなかった古代において、船を曳くということは普通に行なわれていたと考えられ、もしかしたら、ある程度組織化されていたのではないかとまで考えています。また、民俗学の世界には"西船東馬"という言葉があります。これは中国の軍団の移動や物資輸送が"南船北馬"と表現されたことにヒントを得たものでしょうが、確かに西は船による輸送が主力でした。また、"東の神輿、西の山車"という言葉もあります。これは、それほど明瞭ではないのですが、東には比較的神輿が多く、西には山車が多いというほどの意味です。
 非常に大雑把な話をすれば、全国の船越地名の分布と、祭りで山車(ダンジリ、ヤマ)を使う地域がかなり重なることから、もしかしたら、祭りの山車は、車の付いた台車で"船越"を行なっていた時代からの伝承ではないかとまで想像の冒険をしてしまいます。
 直接には長崎(長崎市)に船越地名は見出せませんが、ここの"精霊流し"もそのなごりのように思えてくるのです(長崎の精霊船は舟形の山車であり底に車が付いており道路を曳き回しますね)。
 少なくとも、諫早の船越地名は非常に古く、潮汐は今よりも大きかったはずですから、太古、大村湾と諫早湾の間において船で"陸行していた"という推定は十分に可能ではないかと思うのです。
 さらに、地質学的な調査、例えば海成粘土の分布といった資料があるのならば、"船越"のルートを特定し、地峡の幅、従って"船越"が行なわれた距離(延長)もある程度推定することができますので、今後の課題にしたいと思います。

*
 延喜式:弘仁式・貞観式の後を承けて編纂された律令の施行細則。平安書初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記す。50巻。(広辞苑)
なお、本論文は「古田史学の会」の会報とホームページにも掲載されています。
発行 古田史学の会 代表水野孝夫
事務局   〒602 京都市上京区川原町通今出川下る大黒屋地図店 古賀達也
電話/FAX 075‐251‐1571 
ホーム・ページ 「新古代学の扉」 


415-8

416 那須与一の那須神社に高良神社を発見した! 北関東への神社調査 ①

$
0
0

416 那須与一の那須神社に高良神社を発見した! 北関東への神社調査 ①

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161201

太宰府地名研究会 古川 清久


ようやく久留米地名研究会の雑事(まさに将来性のない雑事…今後十年やったとしても何の業績も残せない)から解放され、懸案だった北関東から東北を見据えた神社調査に乗り出しました。

既に昨年暮れに山形の南まで入っていますが、今回は上越から長野に入り、松本から茨城を目指すと言うハードなルートを採用しました。その辺りの話は飛ばしますが、今回拠点としたのは、blogをリンクしている「常陸国探検隊」「宮古の縁側日記」の研究者のご自宅を根城に行なった、同行、独行の78日間の神社調査の一端のご紹介になります。

ただし、神社専門チャンネルの「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)で取り上げない、分かりやすい軽い話を「ひぼろぎ逍遥」で扱う事にしています。

北関東も重要な神社が目白押しの状態ですので、詳しくは「常陸国探検隊」外にお任せするとして、当方の初見でも直ぐに判別の付くテーマについて取り上げて行きます。

栃木県大田原市に扇の的で有名な那須与一が太刀を奉納したとされる那須神社があります。


416-1


古「風土記」が九州、出雲、播磨と奇妙な分布を示している事は皆さん良くご存じだと思います。

そもそも、彼らが考える田舎にだけ古「風土記」が成立しており、中央と思い込んでいる奈良にも京都にも大阪(兵庫の一部=播磨はありますが)にも何もないにもかかわらずなのですが、そんなことは一切問題とされてもいないのです。

まあ、そんな悪口はやめておきますが、まず、古「風土記」がこのような範囲で成立している事に興味を持ち探求しない手はないはずなのです。


風土記(ふどき)とは、奈良時代初期の官撰の地誌。元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。律令制度を整備し、全国を統一した朝廷は、各国の事情を知る必要があったため、風土記を編纂させ、地方統治の指針とした。

… 中略 …

写本として5つが現存し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。その他の国の風土記も存在したと考えられているが、現在は後世の書物に逸文として引用された一部が残るのみである。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在する。

ウイキペディア 20161110 18:50 による


 無関係と思われるような「風土記」の話を入れましたが、何故、このように偏在しているかと言うと、やはり、九州からの飛び地として開拓、植民が行われた結果ではないかと思っているからです。

 当然にも、土着の神ではなく、九州の神様が鎮座していなければならない事になるのですが、これが今回の底流を流れる隠れたテーマでもあるのです。

では、那須神社の縁起をご覧ください。


416-2


那須神社御由緒


このブログをお読みの方で、応神天皇や別雷命が近畿大和の人だなどと思っておられる方はいないと思いますが、応神天皇(誉田別命)は宇佐の東の鷹居宮に居たのですし、別雷命(実は贈崇神天皇)も本拠地は移動していますが、福岡県那珂川町(もうすぐ那珂川市に昇格しますが)に居たのです。

これらについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 091 宇佐神宮とは何か? ① “呉橋から北へと延びる勅使道”~115 015 天御中主神社が福岡県那珂川町片縄に現存する をお読みください。

勿論、“誉田別命は藤原が格上げしたのであって本当の天皇ではない。

別王であって、だから別がついている”“崇神も贈崇神であり、藤原系の出自に関わり後に格上げされたもの”とは例によって百嶋由一郎氏の弁でした。

 ただ、贈)崇神天皇を奉祭する一族がこの地に進出している事は確実で、その証拠に、大田原市の南に栃木県那珂川町があることでもお分かり頂けるでしょう(冒頭の地図を参照の事)。

 では、御由緒の神様をもう一度ご覧ください。

 オオナムチ(決して現出雲の神様ではなく隠された福岡県宗像市に鎮座する宗像大社の本当の御祭神です)、スクナヒコナ(これも現出雲の神様などではなく福岡県春日市の須久岡本遺跡周辺におられた大国主の遊び仲間です。これについては、大国主は九州で生まれた ひぼろぎ逍遥(跡宮) 024 “オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社”他をお読みください)は良いとして、倉稲魂命が分かり難いかも知れませんが伊勢神宮外宮の豊受大神とお考えください。

 当然ながら、これも福岡県田川郡香春町の香春神社の主神 辛國息長大姫大目命(カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト)であり伏見稲荷様であり、猿田彦=山幸彦のお妃=アメノウヅメの命なのです。

 スサノウどなたもご存じでしょうが、誓約と称する妙な言葉で有名ですが、天照と子の産み比べをして宗像三女神を産んだ事になっているだけでも九州の神様であることは一目でしょう。

 火産霊神は金山彦の事であり、スサノウのお妃となるクシナダヒメや神武僭称贈)崇神ではない本物の神武天皇の本当物のお妃であるアイラツヒメの父神であり、その出生地は熊本県山鹿市の中心部である事を講演していますが、いずれ、公表する予定です。

 武甕槌命は実は、阿蘇高森の草部吉見神であり、表向き春日大神であることは何度も書いていますのでご存じでしょうが、ひぼろぎ逍遥 033 阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? 支 那 以下二十数本をお読み頂かなければなりません。いずれにせよ雲南省から列島に移動して来た黎族の首領で阿蘇に拠点を築いた神様です。

 分かり難いのが、高龗神 (タカオカミ)だろうと思いますが、これも、百嶋「蘇民漿来、巨胆漿来」神代系譜に依れば、阿蘇神社の一番奥に祀られている金凝彦=神沼河耳であり、スサノウ説話の「巨胆漿来」にあたります。

 以上、同社の配神を全てご紹介しましたが、九州ご出身の神様ばかりです。

 では、境内社を考えて見ましょう。

 驚くことに、高良神社が持ち込まれていました。これが、後世の持ち込みによるものであるか、元々あったものを境内社として残したものかの判別は今のところ付きません。

 しかし、福岡県久留米市の高良大社の主神である高良玉垂命を祀るものであることは疑いようがありません。


416-3

高良神社と明示されていたものを撮影したつもりでしたが写真が見つかりません


宗像神社は良いとして神明宮です。これは、「常陸国探検隊」によれば、北関東一帯では天照大御神の事だそうですのでそれで良いでしょう(こちらも福岡県の糸島市から福岡市に掛けておられた事は確実です)。

 話は変わりますが、船上から那須の与一に扇を射よと差し出したという平家の女官玉虫御膳は熊本県御船町の出身のようで、現地には玉虫という地名もあり、尼となって平家の菩提を弔ったとされています。

 では、祭神に話を戻します。


416-4


神明宮

愛宕神社は火の神様で、金山彦、秋葉様。「古事記」では、火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ 加具土命)と、また、「日本書紀」では、軻遇突智(カグツチ)などとされる神様ですが、配神に上げられている火産霊神は金山彦の事であり、重複が認められます。

日本武神社は、勿論、ヤマトタケルですが、その本拠地は、佐賀県の神埼市か熊本県の山鹿市か悩んでいるところです。

 以上、全て九州から持ち込まれた神様であり、一定の征服、被征服は「常陸国風土記」を読むまでもなく明らかですが、最低でも、これらの神々を奉斎する氏族、民族が進出してきた事が確認できるのです。

 それは、ここでは触れませんが、地名や伝承や風習や言葉に、なお。その痕跡を感じる事しきりでした。

 では、最期に、この神社を奉斎した一族とはどのような人々だったのかという問題です。

 勿論、入れ替わりはあるはずでしょうし、一概には言えませんが、この祭神、配神を見る限りは、阿蘇系、スサノウ系と、一応はバランスが取れており判然としません。

 しかし、神殿横に打たれたオモダカの家紋を見る限り、ここには祇園神社、八坂神社などの宮司家に繋がる一族が支配的だったのではないかと思うものです。

 八幡神の持ち込みは、鎌倉以降の武家政権の強制と見れば理解できるのではないでしょうか?

 特徴的な事は、猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ系の祭神が見えなかったことぐらいです。


416-5


神殿の横にはオモダカ紋(スサノウ系宮司家が多用する)があり、その上には高良玉垂命個人の神紋である五七桐紋が打たれていました。

 してみると、九州王朝の時代に進出した高良玉垂命を奉斎する集団の神社であった可能性も捨て切れません。


416-6


八幡宮の八な鳥文字が使われていますが、石清水八幡系橘一族を意識せざるを得ません。

いつも参考にさせて頂いている、「紀氏のルーツ」によれば、那須塩原市 から、那須郡一帯、古代:那須国 国造:大臣命(八井耳の弟:建沼河命の孫)神祝系景行天皇時代とされ、那須郡については以下のように書かれています。


 - 荘園 -

 1221「那須庄」

       ・郡名:那須郡 那須町

       ・領家:宣陽門院領・皇室領

       ・史料村郷名:横岡郷・上庄・下庄・小川郷・梅薗・長倉

              温泉八幡・伊王野郷・日溝・福原・境

       ・明治村字:湯津上

        ※出典:島田文書・結城古文書・金剛院文書・那須文書

        ※1552-8-15 実済「温泉八幡」

 (那須高原地帯、つつじの名所)         

太田原市

 ①「実相寺」曹洞宗

        ・創建:佐久山の城主福原氏の娘が尼寺を建てたのが始まり

        ・福原氏の菩提寺

        ・赤穂浪士の大高源五の墓あり

        ・住所:太田原市佐久山2243


九州王朝下に於いて、四道将軍として送り込まれた贈)崇神の一族による開拓との評価は一応可能ではないでしょうか?

スポット 101 飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か? “鳥見の長脛彦は飯塚にいた”

$
0
0

スポット 101 飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か? “鳥見の長脛彦は飯塚にいた”

20170515

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


福岡県飯塚市に「伊岐須」という変わった地名の地域があります。

場所は、中心地の飯塚市役所から西に数キロといったところで、二瀬と言う地名も拾え、河川邂逅部正面の小丘に高宮八幡宮が鎮座しています。

変わった地名という表現をしましたが、奈良時代のはじめ頃、和銅6年(713年)に「畿内七道諸国郡郷着好字」(国・郡・郷の名称をよい漢字で表記せよ)という勅令が発せられている事からの類推ですが、一般的には二文字に依らない地名は、この所謂「好字令」それ以前の既に確立し定着していた古い地名であった可能性があるからです。

まず、始めに気になったのは「伊岐須」という地名の真ん中に「岐」という文字がある事です。

当然にも神武天皇に弓を引いたとされる岐(クナトorフナト)の神=長脛彦を意識してしたのですが、あくまでもこれは切っ掛けでしかありませんでした。


101-1

 実は、古代の常陸国の領域に東国三社と称せられる鹿島神社、香取神社、息栖神社があるのです。

 直ぐに「息栖」と「伊岐須」のどちらが古い地名であるかは単純には言えませんが、他に決め手がなければ、「好字令」以前の地名に思える飯塚の「伊岐須」の方が起源ではないかと考えてしまいます。

 以下、息栖神社HPより


sp110-1

sp101-3

この地名「伊岐須」地名に関連して発送した息栖神社は、鹿島の武甕槌(実体は阿蘇の草部吉見=海幸彦)、香取の(実体はニギハヤヒ=猿田彦=山幸彦)に対して、天鳥船命(その実体は長脛彦=天香香背男 カガセオかウガヤフキアエズか?)とされ主祭神は長脛彦であるとされているのです。

ただ、これは地名対応に過ぎず必ずしも神社が対応していると言う意味ではないことから早とちりは慎み冷静に考えて見る事にしましょう。


sp101-4

百嶋由一郎長脛彦神代系譜


長髄彦

長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する人物である。

『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。


饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある。

旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている。

登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる。 中世の武将の伊達家が長髄彦の子孫であると言われている[要出典]。 神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。

その後、八十梟帥や兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。日本書紀・神武紀には、この時の様子を次のように記している。

ここに長髄の名前が地名に由来すると記されているが、その一方で鳥見という地名が神武天皇の鳶に由来すると記されている。さてその後、長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。天皇は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と歩靱を見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に殺された。

ウィキペディア(20170517 19:28による


 では、高宮神社をご覧頂きましょう。

 石炭鉱害復旧事業が法外に大量投入された筑豊飯塚の事、この一帯も沈下が顕著であり、埋め立てによって、結果、この高宮も中ぐらいの高宮に変わったそうですが、それなりの微高地にこの神社は鎮座していました。


sp101-5

sp101-6

まず、不思議なことに三の鳥居は大山神社となっていました


摂社に大山祗命、大国主命がおられる事から、あってもおかしくない鳥居ですが、小さな摂社の割にはあまりにも立派な鳥居である事からバランスが取れていない事は言うまでもありません。


sp101-7

全て猿田彦の石塔で、数から考えてもこの一帯がある時期ニギハヤヒの勢力圏であった事を語っています


 木下藤吉郎が猿とされたのは徳川の意図が見えますし、柿本人麻呂が猿丸太夫とされた様に貶める意味が込められているのです。

猿田彦を表すのに猨田彦とした理由は分かりません。

 獣編+袁ではなくと書かれていますが、これは貶められた名の猿ではないとの思い(猨田彦)が反映されているような気もしますが、猨田彦もサルタヒコ、エンダヒコと読むのです。

ただ、ウイキペディア氏も言われている様に、“長脛彦は饒速日命の手によって殺された、若しくは失脚後に故地に留まり死去したともされています。

百嶋神社考古学では猿田彦はニギハヤヒであり山幸彦になるのですが、これが神社の配神と関係でどのような位置付けになるのかは良く分かりません。

「日本書紀」神武天皇条に神武東征に先立ち天磐船に乗って大和に飛来した者があり、その名をニギハヤヒ(饒速日)というとします。

ニギハヤヒは大和の土豪の長髄彦の妹を娶り、初めはナガスネヒコと共に神武の侵攻に抵抗します。

しかし、神武とニギハヤヒはそれぞれの天羽羽矢を見せあうことによって互いに天神の子であることを認め合いニギハヤヒはナガスネヒコを殺して神武に降伏する事になるのです。

そしてニギハヤヒは物部氏の遠祖になったと言われるのですが、そのニギハヤヒは「古事記」では、磯城攻略後、疲れと飢えで動けなくなった神武への救援者として登場しています。

記紀によればニギハヤヒが飛来した所は畿内となってしまいます。

百嶋神社考古学では神武巡幸は実在したが、神武東征を行ったのは崇神としますので、長脛彦と衝突した神武は初代神武であって崇神ではないのです。

このため、長脛彦がいたのは飯塚であり、後に富の長脛彦と言われるように、金富神社、大冨神社がある行橋~豊前の一帯だったのではないかと考えるのですが、今後の課題です。


sp101-8

この石塔上部の紋章が椿のように見え気になったのですが、社務所を見て氷解しました。椿は猿田彦のシンボルであることは伊勢の椿大神社でも明らかです。


sp101-9


本殿に祀られている神様については後段に譲るとして、摂社から話を進めましょう。

 美保神社と言えば事代主ですが、実態として事代主は格下の神で、このような社が造られる事もまれで、そもそも数こそ多いものの違和感があります。

 鳥居との関係からも神殿上部の神紋(隅切り角に三引き)からも、本来、この社殿には大山祗大神と大国主命(実は親子で、美保神社の横に祠が二基置かれています)が入るべきなのです。

 このように、事代主命こと恵比須さんは少し格上げされ過ぎているようです。

 ある時代の高宮神社は、スサノウ、長脛彦を隠し、大山祗、大国主を前面に掲げる神社だったのかも知れないのです。


sp101-10


さて、高宮八幡宮の祭神です。まず、福岡市の高宮にも高宮八幡宮がありますが、玉依姫命、応神天皇、神功皇后の三柱を祀っておられます。

さらに気になるのは宗像大社の高宮です。それは、百嶋神社考古学では宗像大社の本来の祭神は大国主命とするからです。この大山祗神社の大山祗と、疫神社とする大国主命こそが、宇佐神宮が覆い被さってくる前の本来の祭神に見えるのです。

そうでもなければ、大山祗神社の神額を付けた鳥居など造られるはずはないのです。

 勿論、この摂社があるからこの鳥居が寄進された可能性はあるのですが、元々大山祗神社の鳥居があった事から寄進された可能性もあるからです。

 どうも、何度も主祭神が換えられた形跡があるのですが、「福岡県神社誌」の境内神社を見ると、貴船神社もありましたが、同社の女性宮司からは神殿にお祀りしていますとお聴きしました。

 同じく、天満神社として菅原神が二社合祀されているようです。これは明治の合祀に思えるのですが(一村一社)、この一帯に多くの菅原系氏族がいたことを示しています。


sp101-11


 祭神がコロコロ変わっているのには目が回りますが、昭和19年編纂の「福岡県神社誌」にある誉田別命(ホンダワケ)=別王応神、贈)仲哀天皇、スサノウという非常に特異な配神が気になるのか、現在は今の宇佐神宮に沿った祭神に変えられています(2015年)。

しかし、それでもスサノウを残すところがこの神社の非常に興味深い特異性が感じられます。

 そこで、何故、宇佐八幡宮に関係がないスサノウが殊更に祀られているのでしょうか?

 一つの仮説を提出しておきたいと思います。

伊岐須の高宮八幡にはやはりスサノウの子である岐神(クナトノカミ)が見え隠れします。

それは「伊岐須」という地名が対応する東国三社の一つである息栖神社が長脛彦を祀るとする事からの類推でしかないのですが、スサノウの子がナガスネヒコである事から八幡宮に衣替えしても、なお、スサノウが祀られている事にその背景を見てしまうのです。

 さらに言えば、確かに仲哀天皇が祀られるタイプの八幡宮はあるのですが(大分市の柞原八幡宮…他) 、

長脛彦の妹である瀛津世襲足媛命(オキツヨソタラシヒメノミコト)から帯中津日子命(まさか中津市にいた訳ではないでしょうね)=仲哀も出てきている事から、それが高宮八幡宮に反映されているのではないかと考えるのです。

では、高宮とは…と考えると、大山祗と大国主命祭祀が色濃く残っている事から始めはスサノウと金山彦の血を引いた祭祀から大山祗と大国主命の系統の祭祀へと移行し、最終的に阿蘇を起源とする藤原の息の掛かった宇佐神宮に覆いかぶさられたのがこの高宮八幡宮の性格ではないかと見たのでした。

簡単に言えば、昭和19年の「福岡県神社誌」の祭神である応神、仲哀、スサノウの三神を、スサノウ、長脛彦、仲哀とすれば、スサノウ~長脛彦の妹瀛津ヨソ足姫(武内足尼)=菅原の一祖~天足彦~ヤマトタケル命~仲哀天皇~という栄えある本流が復元できるのです。


sp101-12


研究目的で百嶋由一郎氏の講演の音声CD、神代系譜、手書きデータを必要とされる方は、09062983254までご連絡ください(随時)


追補)


あくまでも思考の冒険であり、シュミレーションの一つですが、この神社は、当初スサノウ(新羅)系氏族or金山彦系氏族の祀る祭祀が成立し(スサノウと金山彦の娘櫛稲田姫の兄妹=長脛彦、オキツヨソタラシヒメ)、その後大山祗、大国主(トルコ系匈奴)系氏族への転換が起こり(これは立岩遺跡が甕棺から古墳へと変わっている事と対応する)、その後700年代半ばに宇佐神宮の影響下で八幡宮へと変わったものと考えられそうです。

それが、大山神社との神額を持つ鳥居があり、大山祗、大国主命を祀る摂社がある意味であり、八幡宮としては異質なスサノウが残されている理由だろうと考えられそうです。

また、スサノウ(新羅)系氏族、金山彦系氏族の祀る祭祀が存在した時代があったはずです。

長脛彦の妹である瀛津襲足姫(オキツヨソタラシヒメ)の後裔には、天足彦、ヤマトタケルとその子仲哀天皇があります。そう考えれば、それが八幡神社となってもスサノウ、仲哀を残している理由かもしれません。

このように、伊岐須という地名から関東の息栖神社のカガセオ=長脛彦を推定したのですが、必ずしも的外れではなかったようです。

最後に伊岐須の意味ですが少し見当が付きました。「岐」の意味を調べてください。枝の様に二つに別れる所のことなのです。

つまり、この伊岐須は二瀬でもありますが、二又瀬の意味なのです。

そして、神社の前には象徴的な河川邂逅部がありますね。そうです。井(水路)の岐の洲が伊岐須の意味だったのです。従って、付近の伊川温泉の伊川地区も、井川の意味なのです。


sp101-13


関連メモ 岡山県宍粟市一の宮町「生栖」に鹿島神社があり二股川の上に池王神社が祭神はスサノウ…

〖岐〗 キ ギ・わかれる

1. 1.

わかれる。ふたてにわかれる。ふたまた。えだみち。

「岐路・岐道・分岐・多岐」

2. 2.

「岐阜」の略。

「三岐(=三重県と岐阜県)代表」

417 鹿児島、宮崎のヤゴロードンの痕跡か?栃木に弥五郎坂があった 北関東への神社調査 ②

$
0
0

417 鹿児島、宮崎のヤゴロードンの痕跡か?栃木に弥五郎坂があった 北関東への神社調査 ②

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161107

太宰府地名研究会 古川 清久


既に、ひぼろぎ逍遥(跡宮)220 鹿児島のヤゴローどんは 山幸彦(ニギハヤヒ)“鹿児島県曽於市の岩川八幡宮” 291
大宮神社と猿田彦大神 ⑪ “古代日向のヤゴローどん も猿田彦なのです“ などで、鹿児島に広く分布する”ヤゴローどん“とは、山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦…であることを書いていますが、茨木、栃木一帯の神社を見て回っていると、宇都宮市の東、さくら市に弥五郎坂がある事に気付きました。

 それだけならば、それほどには気にしないのですが、付近に、今宮神社が二社拾えることから、急に色めき立ち、今宮神社を見せて頂くことにしました。


416-1


何故ならば、故)百嶋由一郎氏からは“今、イマ、伊○○…といった地名は山幸彦、ニギハヤヒ、猿田彦の領域を意味しており、福岡市の西には、今宿、今山、今津…と並んでいます”“今
417-2とは射+魔を意味しています”とお聴きしていたからです。

 上の地図を見れば、赤枠が弥五郎坂であり、緑枠が現地の石碑弥五郎坂の場所を示しています。

 当方は、新潟(ニイガタ)県柏崎市の二田(ニタ、フタタ)物部神社を中心に、筑豊(鞍手郡小竹町新多=ニイタを始めとして新延=ニノブ、新北=ニギタ…)から西日本沿岸に展開した物部氏の本隊が、本州の脊梁山脈を越え、北関東の群馬、栃木、茨木に進出したと考えており、上州新田郡三日月村で知られる木枯らし紋次郎(フィクションではありますが)の出身地とされた新田、仁井田、二田、熟田…といった表記の地名として痕跡を留めていると考えているところです。

 してみると、今宮神社の直ぐ傍に弥五郎坂がある事に何らかの関係性を求めざるを得ず、北関東に進出したニギハヤヒ系=物部の人々によって、尚も、山幸彦は弥五郎、弥彦、彌(イヤ)彦などと呼ばれていた事が見えるのです(新潟県の一の宮も彌彦神社ですね)。一方、現地の公式の見解は以下の通りです。


417-3


現地の説は、1549(天文18)年にあった宇都宮氏と那須氏の激戦の際に活躍した鮎ケ瀬弥五郎の名をとって「弥五郎坂」と呼ばれるようになりました。

さくら市


 こんなものは、弥五郎坂があったから、鮎ケ瀬弥五郎と名付けられただけの事でしょうが、まあ、こだわる必要もないでしょう。

では、弥五郎坂をご覧ください。


417-4

417-5


さくら市には四社ほど今宮神社がありますが、「栃木県神社誌」など用意しているはずもなく、以下のサイトを参考にさせて頂きましたが、直接的には山幸彦の痕跡は確認できませんでした。



417-6

ただ、内二社に稲荷神社が祀られている事から、伏見稲荷かどうかの判別はともかくも、稲荷様のご素性は山幸彦のお妃であり、この中に紛れ込んでおられる可能性もあるのではないかと考えているところです。


417-8


栃木県さくら市氏家の白鬚神社


付近には白鬚神社もある事から、こちらは猿田彦、ニギハヤヒ、山幸彦で間違いはなく、もしかしたら、分離され、独立の神社とされているのかも知れません。

では、最期に、「新」と書いて、ニイ、ニッ、ニュウ(まさしく英語のニュウですね)と発音する傾向を持った人々の進入の痕跡地名の類例を幾つかお知らせしましょう。

新潟県は言うまでもありませんが、ここは栃木県です。


417-9

418 栃木県高根沢町に太白神社があった 北関東への神社調査  ③

$
0
0

418 栃木県高根沢町に太白神社があった 北関東への神社調査  ③

20161202

太宰府地名研究会 古川 清久


西も東も分からないまま命がけで走ってきた北関東自動車道を宇都宮上三川ICで降り、茨城の常陸大宮市の某所を目指して走っていると、カーナビ上にですが、JR烏山線沿いに太白神社がある事に気付きました。

 まずは、最初に見たい調べたいと思った神社でしたが、九州では、まず、見たことも聞いたこともない神社です。しかも、付近には、この間ずっと気に掛けてきた二田、新多に相当する「仁井田」というJR烏山線の駅まであるのですから、一人ではしゃいだのは言うまでもありません。

意味は、倭人は呉の太伯の(末)裔であり、九州王朝系の神社ではないかなどと早合点したのでした。

 数日後訪れる事にはなったのですが、判然とはしません。


418-1


まず、単騎訪問することにしたのですが、入口が皆目分からないのです。

 付近をうろうろして、真言宗智山派の広蔵寺の境内から入る事が分かり辿りようやく着いた次第でした。

 勿論、参道は丘の下にあったのですが、車では容易に近づけず、このような事になったのでした。

 ともあれ、社殿を見せて頂きました。


418-2


太白神社 カーナビ検索 栃木県塩谷郡高根沢町大字文挾580


社殿周辺にも祭神を判読する縁起など存在していません。北関東の神社誌を持っているはずもなく、後で「常陸国ふしぎ探検隊」氏にでも尋ねれば分かると思っているからですが、とりあえずネット検索を行うと、「烏山線の沿線案内」という非常に丁寧なサイトを発見しましたので概略をご紹介したいと思います。

社殿は、隣接する寺と同一のもので、関係がないとは思えません。


星宮山正覚院広蔵寺

真言宗智山派に属する広蔵寺は、高根沢町を一望できる高台にそびえ立ち本堂の風格は堂々たるものです。開創は不明だが古くは「秀覚院」と称していたそうです。古文書によると1758年(宝暦8年)廣蔵寺と改め1768年(明和5年)に堂塔を建立し諸難消徐萬民豊楽を祈願し多くの民に慕われたとあります。しかし明治以降、無住となり寺は荒廃したが、大正14年現在の太白神社の隣に移りました。本尊は、大日如来。

太白神社

広蔵寺参道の途中に鳥居のある急な階段を登ると太白神社が見えます。境内には、長柱の建築様式で作られた真新しい3つの社殿があります。境内は、綺麗に整備されている。

星宮神社

1591年(天正19年)時の城主により、星宮山の聖地を選び星宮神社を建立したといわれています。その後、1706年(宝永3年)、1713年(正徳3年)、1718年(享保3年)に改築されている記録が棟板に残っているという。拝殿への長い階段は、丘の頂上まで続きまるで遠い昔へ誘われてしまいそうな予感さえしてしまいます。

烏山線の沿線案内 より


418-3


庚申様、稲荷、三峰神社、東照大権現といったところが置かれています


普通なら摂社によってだいたいの見当が着くのですが、全く手に負えません。

三峰神社もイザナギ、イザナミ、天照にヤマトタケル伝承といった神社であり、摂社としても繋がりが見えて来ません。

少なくとも、呉の太伯を思わせるような痕跡が認められないのです。

しかし、この隣接する寺が真言宗の智山派であることに気付き、この太白神社とは呉の太伯ではなく、金星(宵の明星)を意味する太白であり、金星を祭る神社ではないかと考えたのでした。

もっと早く、真言の智山派と知っていればこのような事はなかったのですが、この寺が立派な割に無住である事、寺についての解説もなく、寺の名称も読めないような崩し文字で書かれていた事から、検索もできず、遂には後手々々に回ってしまったのでした。

多分、付近にある星宮神社(この神社が北関東、中でも栃木県に異常なほど多いのには驚きますが)と併せ考えても、太白(金星)、星宮(妙見信仰)=天御中主=北斗七星、山岳修験と岩裂根裂(金山彦)、仏教化された神社を意識せざるを得ないのです。


418-4


418-5参考のために塩谷郡高根沢町の星宮神社を列挙します。出典は智山派の円泉寺のサイト。


栃木県 メモ

※栃木県の星宮神社が日本一多い。宗教法人登録社157社・日光修験と虚空蔵菩薩との関連が深く、妙見菩薩とは関係ないところが多い。どの神社が元妙見菩薩か不明。 

※明治に星宮神社と改名させられている。

日光修験(しゅげん)が星宮と本地仏としての虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を携(たずさ)えて、各地に広がったと考えられる。日光・藤原・今市・塩谷・矢板・大田原・小川・鹿沼・宇都宮・高根沢・南那須・烏山・市貝・真岡・益子・壬生・石橋・上三川・栃木・小山・国分寺・南河内・佐野・藤岡などに広まりたいへん信仰されている。「星宮」と称する神社は、県下に170社を数え、更にかつて星宮と称した神社を含めればその数261社にのぼると言われている。祭神は磐裂神(いわさくしん)・根裂神(ねさくしん)としている。これらの神社の特徴としては、一つ目は星を信仰とすると考えられるが、星に関係する伝承が少ないこと。二つ目は虚空蔵(こくうぞう)様と呼ばれ、鰻(うなぎ)の禁忌(きんき)を伴うことが多い。

星宮は、348社。その分布は、日光から石裂山と太平山を結ぶ線上に多い。

※磐裂神社の中に、かつて「妙見天童社」又は「妙見天皇社」と呼ばれていたものが3社ある。磐裂神社も掲載。

水戸学の影響が色濃く残ったところに星宮神社が多くあるようです。

星宮山正覚院広蔵寺   栃木県塩谷郡高根沢町広挟585-1  

星宮神社                  栃木県塩谷郡高根沢町西高谷333

星宮神社                  栃木県塩谷郡高根沢町寺渡戸283

星宮神社   栃木県塩谷郡高根沢町伏久571-1

星宮神社   栃木県塩谷郡高根沢町桑窪393

星宮神社                  栃木県塩谷郡高根沢町花岡1802

星宮神社   栃木県塩谷郡高根沢町飯室443

星宮神社                  栃木県塩谷郡高根沢町中阿久津1808

星宮神社                  栃木県塩谷郡高根沢町鴻野山

星宮神社                  栃木県塩谷郡塩谷町飯岡437

星宮神社   栃木県塩谷郡塩谷町大宮

星宮神社   栃木県塩谷郡塩谷町大久保

星宮神社                  栃木県塩谷郡塩谷町大久保934

星宮神社 栃木県塩谷郡塩谷町金枝字宮ノ前469 バス停には金枝神社

星宮神社   栃木県塩谷郡塩谷町西高谷

星宮神社                  栃木県塩谷郡塩谷町風見山田747

星宮神社    栃木県塩谷郡塩谷町西渡戸

星宮神社                  栃木県塩谷郡塩谷町田所1362 

星宮神社                  栃木県塩谷郡塩谷町上平160

星宮神社                  栃木県塩谷郡塩谷町金枝469

星宮神社                  栃木県塩谷郡塩谷町泉359

星宮神社                  栃木県塩谷郡塩谷町館ノ川323

星宮神社   栃木県塩谷郡塩谷町寺渡戸

星宮神社                  栃木県塩谷郡塩谷町佐貫255

星宮神社                  栃木県塩谷郡塩谷町喜作見232

星宮神社    栃木県塩谷郡塩谷町中阿久津

星宮神社   栃木県塩谷郡塩谷町風見

星宮神社   栃木県塩谷郡塩谷町田所

星宮神社    栃木県塩谷郡塩谷町大久保

  明治3年、付近の熊野神社・星の宮神社・山の神神社の三神社を合併して、現在の境内に鎮座

419 福島県にも足を踏み入れました “茨城県北茨木市の花園神社” 北関東への神社調査 ④

$
0
0

419 福島県にも足を踏み入れました “茨城県北茨木市の花園神社” 北関東への神社調査 

20161202

太宰府地名研究会 古川 清久

今回は単独調査もありましたが、現地の「常陸国ふしぎ探検隊」氏にご案内して頂き、主要な神社を見せて頂きました。


419-1

これらを、私の目で書くのも僭越すぎる上に、土地勘もなく頓珍漢な話を書く事にもなりかねない事から、当たり障りのない範囲で書かざるを得ません。

 そうした中、遠距離を御案に頂いた神社の中でも、遠回りして見せて頂いた見た目にも美しい神社をご紹介する事に致します。

 紅葉の美しい茨城県北茨木市の花園神社です。帰路、福島県も山越えで経由し夜遅く帰り着きました。

 ご覧の通り、茨城県でも福島県境に近い東北端の山奥の神社です。

 恐らく、御目にも美しい神社だから当方への供応としてご案内頂いたのだと思いますが、有難い限りです。


419-2

419-3


由緒書も何もない神社でしたが、連携サイトの「常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった」

氏が 70.北茨城市花園神社探検記 として、十分すぎるほど書かれていますので、初見の私が書くことは何もありません。

 以下、一部ですが、引用させて頂きます。

419-4


祭神は大物主、大山咋、大山祇

弟橘姫神社のある磯原海岸から北西方向の阿武隈山地の中にあり、茨城県ではもっとも険しい地区の一つです。福島県いわき市と県境を接しています。

常陸国北部の神社によくみられるように、坂上田村麻呂の征奥に因む創建となっています。

由緒沿革には大同2年平城天皇より「山王大権現」勅額を賜るとあります。

慈覚大師円仁が奉仕したことにもなっています。その円仁が自作した木像が、光圀の隠居と同年に焼失しています。

私は光圀の本地垂迹への嫌悪が表出されていると考えてしまうのですが、どんなものなのでしょうか。なんでも火事にあって燃えてしまったことにすれば大義名分が立ちますから。

花園山は茨城キリスト教大学学長を務めた志田諄一氏が論証した修験道の常陸五山の一つであり、470年の長きに渡り常陸国を支配していた佐竹氏にゆかりの深い神社です。

関東平氏とのしがらみによって源頼朝の挙兵に参加出来なかった佐竹四代秀義は、頼朝が東北勢力と佐竹勢力を恐れ、分断することを目的とした金砂山(西金砂神社)の戦い(1180年)に敗れ、常陸五山の神官、僧侶、山伏などの助けを受け、花園山の猿ケ城渓谷の洞窟に身を潜めています。

秀義は日吉山王権現の使いと言われる山猿が木の実を運んでくれたので、飢えをしのぐことができたという言い伝えがあります。

秀義はこの後、平泉の奥州藤原氏の元に身を寄せ、頼朝の撤退するのを待って常陸国に戻ったようです。

さて神社の考察に移りましょう。

…中略…

千勝神社は日本武尊を祀ることが多いのですが、ここでは事勝国勝長狭命(ことかつくにかつながさのみこと)、記紀では塩土老翁(しおつちのおじ)としていますから百嶋系図では大幡主となります。

似た名前で「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命」は天児屋根命を示しますが、「勝」はWINの意味ではなく、「すぐり」と読み月の祭祀権を持っている一族=姫氏を指すようです。(柴刺:馬場紀美史著による)

月の祭祀権は月の引力で潮の干満の大元ですから、海(水)の支配権を示しているようです。

しかし月だけでは代表者にはなれません。日の祭祀権を獲得する必要があります。

巴紋で言えば、左回りがヒダリで日(火)の祭祀権、右回りがミギで水の祭祀権があることを示唆しています。右回りと左回り三つ巴の紋を紋としている神社には長野県上田市の生島足島神社があります。

49.生島足島神社探検記 を参照ください。

以下略載。


 お読みになってお分かりの通り、一部の隙もない、完璧な分析です。

 氏は私より五年から十年は若いと思っていますので、今後とも通説から独立した研究を継承してくれるものと思います。

 皆さんも、ぜひ「常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった」お読み頂きたいと思います。

 先月も、日量アクセスが2000件を超え、その後も1000件を超えた事があったと言っていますので、既に田舎の九州で書くよりも、大都市近郊だけに、遥かに速いペースで追い越されるものと思っています。

 しかし、大物主、大山咋、大山祇といったごついと言うより、強面の神様ばかりを祀る神社にしては、あまりにも美しくあまりにも優雅であまりにも静かな神社でした。

 これが、当方が書ける唯一の事でした。

 半分ほど、余白があるため、ここで皆さんにお呼びかけをしたいと思います。


 現在、ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)を中心に、多くの神社研究者、古代史研究者、考古学研究者がネット・ワークを形成しています。

 かなり、緩やかな連携ではありますが、学会、通説から自由で、なおかつ、行政や教育委員会や既存の郷土史会、史談会、地名研究会と言った旧勢力=守旧派に売り込み、色目を使うさもしい考えや、村興し、町興し、果ては世界遺産登録などといった愚かなことに狂奔する研究者まがいの穢れた人々から自立し、真実を追求しようと考える研究者の連合体を目指しています。

 2017年の新年からも、新たに二人ほどの熱心な研究者が加わられる予定です。

 心ある、志ある研究者の参加を呼び掛けたいと思って止みません。


419-5


併せて、「古事記」「日本書紀」とは全く異なる真実の神代史を復元せんとした百嶋神社考古学に関心をお持ちの方は、直接、当方までご連絡下さい(携帯常時:09062983254)。実費相当で音声データ、文字データをお送りできます。


420 栃木、茨城県境に跨る鷲子山上神社 北関東への神社調査 ⑤

$
0
0

420 栃木、茨城県境に跨る鷲子山上神社 北関東への神社調査 ⑤

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161203

太宰府地名研究会 古川 清久


栃木県那珂川町に鷲子山上神社という一風変わった神社があります。当日は、常陸国探検隊メンバーお二人と数社を見学させて頂きました。

 普通の意味では特別見晴らしが良い訳でもなく、ただの辺鄙な山の一角にある神社ですが、紅葉の季節とは言え、何故か参拝客が押し掛ける神社となっているのです。

 神社を訪れると確かに何がしかのテーマ・パークではあるようで、昨今、小○、竹○改革とかで、極限まで所得を貶められた民衆にとっては、入場料の要らない気分転換と家内安全でも有難いご利益とは言えるのかも知れません。

 まず、鷲子(ワシコ)山神社周辺には、鷲子(トリノコ)沢川、鷲子(トリノコ)、鷲子(トリノコ)、鳥居土(トリイド)といった地名が拾えます。何よりも、西隣にはJR烏山線が通り、栃木県那須鳥山(カラスヤマ)市(烏山町)までがあるのですから。


420-1

これはこの一帯に大幡主、豊国主(ヤタガラス)の一族が入っている事を示しているようです。

そのことを念頭に置いたうえで、同社も考える必要があるでしょう。

まず、参拝客も多く、半ばテーマ・パーク化された神社にはそれなりの荘厳さと、レジャー・ランドが共存しており、今後、全ての神社が立ち行かなくなる事が予想できる中で、一つの方向性を示している様にも思えます。

この事を、神社や神々に対する冒涜だと言うのは容易いのですが、実際に社殿を維持改修し、神域全体を管理していくためには多大な労力と資金が必要となる事は明らかで、今後十年で生き残れる神社は二十分の一になるだろうと言った事が神社関係者の中では囁かれているのです。


420-2


とにかく、ここでは鷲の子はフクロウに形を変えているのでしょうか?

実際に参拝客が増えている様である事からそれなりに真面目に考える必要はあるのかも知れません。

さて、HPを見る限り、「鷲子山の御祭神は、天日鷲命(アメノヒワシノミコト)といわれる鳥の神様です。」とあるのですから、まずは、天日鷲命(アメノヒワシノミコト)とは誰かを考えておく必要があるでしょう。

比較的有名で、神社研究者ならずとも直ぐに念頭に浮かんでくる神様のお一人です。


天日鷲神(あめのひわしのかみ)は、日本神話に登場する神。『日本書紀』や『古語拾遺』に登場する神。阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神。

別名は、高魂命または神魂命の裔神の天日鷲翔矢命や天加奈止美命。 …中略…

神話で知られているのは天照大神が天岩戸に入られたとき、岩戸の前で神々の踊りが始まり、この神(天日鷲神)が弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まった。多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥を表す鳥といって喜ばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた。という内容である。

『日本書紀』では天の岩戸の一書に「粟の国の忌部の遠祖天日鷲命の作る木綿(ユフ)を用い」とある。

『古語拾遺』によると、天日鷲神は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。やはり、天照大神が天岩戸に隠れた際に、穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされる。そのため、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神となる。

また天日鷲神は一般にお酉様として知られ、豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神として信仰されている。忌部神社や鷲神社などに祀られている。

ウィキペディア(20161203 19:11による

もちろんこの方向で問題はありません。


420-3

420-4


同社神社略記


由緒書も何もない神社でしたが、連携サイトの「常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった」

氏が 2.鷲子山上神社探検記、3.鷲子山上神社探検記2 8.鷲子山上神社の不思議な石碑 …他 として、十分すぎるほど書かれていますので、初見の私などが書くことは何もありません。お奨めは8.ですかね。  以下、一部ですが、引用させて頂きます。

420-5


天日鷲命は百嶋系図によれば大幡主(神皇産霊神)の子天太玉(豊玉彦=八咫の烏)と高木神(高皇産霊神)の娘杉山大神(天豊ツ姫=アソツ姫)の子で八咫烏の子なので、と・り・の・こ」と言われているとのことです。さらに、百嶋系図を見てみると豊玉姫(宗像三女神のタゴリヒメ、ウガヤフキアエズ=アジスキタカヒコネの母)の異母の弟にあたることがわかります。

ン?じゃあ、豊玉姫だって「とりのこ」ではないか?弟が「とりのこ」だったら、姉だって「とりのこ」

でしょう、普通。だったら、女千木を持つ本殿の祭神は豊玉姫ではないか?

百嶋先生によれば、豊玉姫は青竜大権現であり、青袖の舞=かんの舞=からむしの舞を踊る。

踊る話は良く聞きこんでいないので、踊ることしか今はわかりません。

記紀では、海神とされ、サメとか鰐(海亀)とか龍とかナマズとか言われています。

このサメとか鰐とかナマズが常陸国に大きく関係してくるとひらめきました。今後の神社探検記を乞うご期待!?


引用だけではつまらないので、百嶋神代系譜から天日鷲命をご説明させて頂きます。


420-6


阿蘇系譜②


百嶋神代系譜によれば、天児屋根こと阿蘇高森の草部吉見=春日大神=鹿島神社の武甕槌の娘で阿蘇神社の健磐龍の妃となったものの、問題が起き、最期は豊玉彦=ヤタガラスのお妃として納まった阿蘇ツ姫の子が天日鷲でありその子が天富命です。

阿波の忌部の祖ともされる天日鷲ですが、その子かその一族が北関東に進出してきたのでしょうか?

この鷲子山付近には富山という地名も拾え、富山川という川も流れています。

結局、北関東には北関東の土着の神様などがおられるのではなく、全て、九州、九州王朝系の一族が進出、避退、征服…により展開している事が見えるのです。


百嶋由一郎神代系譜、同講演音声CD、同手書きデータ・スキャンニング資料等を必要とされる方は、直接 09062983254までご連絡ください。

また、共に神社研究を行っていただける方を探しています。いつでも電話をお掛けになって下さい。


420-7

420-8

スポット番外 伊藤正子講演会においでになりませんか

$
0
0

スポット番外 伊藤正子講演会においでになりませんか

20170619

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 地名研究会の十年に近い活動の中で、私の目から見て本当の研究者、探究者と言える人に出会ったのは十人に満たないほどですが、その中でも最も特筆すべき本物の研究者と言えるのがこの伊藤正子女史です。


sp999-1


伊藤まさ子著「太宰府・宝満・沖ノ島」 (不知火書房 ℡ 092-781-6962 まで)


sp999-2

sp999-3今夏、民間研究者中の研究者である伊藤正子女史による講演があいつで行われます。

 7月の講演に参加できない場合は、盆明けの和水町の講演(こちらの方が安くて長時間の講演になりお得かも知れません)を聴くことができます。本blogの読者の皆さんもぜひお聴き頂きたいと思います。


 78() 13時~1430分   

会場:久留米大学 御井キャンパス500号館51A教室

「人麻呂と持統天皇 ―万葉集の不思議―」

 伊藤正子(太宰府地名研究会)



 820日(日)13:30~         会場:和水町中央公民館 (℡0968-86-2022

             菊水インターから南へ3㌔ 車で3

「人麻呂と持統天皇 ―万葉集の不思議―」 伊藤正子(太宰府地名研究会)

参加費200円(資料代)菊水インターから南へ車で3分


sp999-6


sp999-5
 

これは伊藤女史の講演用のパワー・ポイントの一部です。

 宗像大社と言えば、宗像三女神を祀る神社として知らぬ人のない神社ですが、百嶋神社考古学では本来の祭神は大国主命であるとします。

この歌には8世紀初頭まで宗像大社の祭神はオオナムチ、スクナヒコナであった事が書き留められているのです。

 この歌の存在を教えて頂いたのもこの伊藤女史なのです。

 

421 太白神社とは何か? “矢板市石関の太白神社” 北関東への神社調査 ⑥

$
0
0

421 太白神社とは何か? “矢板市石関の太白神社” 北関東への神社調査 ⑥

20161205

太宰府地名研究会 古川 清久


栃木県高根沢町に太白神社があった 北関東への神社調査  ③ で太白神社の事を書きましたが、始めは色めきだったものの実際は尻すぼみで、単に山岳修験の人々が金星を祀ったものであって呉の太伯とは全く関係がないことが見えて来ました。

ダメ押しになりますが、見せて頂いたもう一つの(実際にはまだあるはずですが)太白神社をご紹介します


451*1


421-2


境内には庚申(かのえさる、こうしん)信仰、月山湯殿山など日光山岳修験を思わせるものがありました


二十三夜様が置かれていますが、この信仰を持ち込んだ人々とは月読命=大山祗を奉祭する実はトルコ系匈奴と考えており、月をシンボルとする人々と思うのです。

この勢力の存在に関しては列島ではあまり評価されておらず、ペルシャ系や高句麗系は許容範囲なのですがトルコ系匈奴などと言えば気がふれたとしか思われない構造になっているのです。

とりたてて、書くこともありませんので、他の太白神社を拾い出して見たいと思います。

以前取上げた高根沢町の太白神社と今回の矢板市石関の太白神社以外には栃木県内には次の二社があるだけで、余裕があれば全て見てある程度帰納演繹的に分析する事が可能になるのですが、絶対量が少なすぎていまのところこの神社がなんであるかは何とも言えません。

 太白神社 栃木県さくら市小入268  祭神  経津主

 太白神社 栃木県矢板市越畑97番  祭神  不明

 太白神社を複数発見した事から、かなりの数見つかるのではないかと考えたのですがどうやらそうではなかったようです。

 ネット検索を繰り返してもこの一帯にしか分布していないようです。

 それならそれで良いのですが、


古代中国での金星

宵の明星 - 中国では、古くは、宵の明星と暁の明星とを別々の星と考えており、明けの明星を「啓明」(けいめい)、宵の明星を「長庚」(ちょうこう)、と呼び分けていた。「太白」は金星そのものの他に、宵の明星=「長庚」を指す。

虚空蔵菩薩

太白金星 - 中国の、金星を司る仙人。「西遊記」によく登場する。

ウィッキペディア(20161205 18:27による

これだけでは申し訳ないので、何故、色めきだったかを説明します。


太伯・虞仲

太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国周王朝の古公亶父の子で兄弟。后稷を始祖とすることから、姓は周宗家と同じ姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。二人とも季歴の兄、文王の伯父に当たる。

太伯は長男で、呉(句呉)の祖とされる人物。泰伯とも。

虞仲(ぐちゅう)は次男。仲雍、呉仲とも。

古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。

父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。

太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。

武王は虞仲の曾孫・周章を改めて呉に封じ、その弟・虞仲(同名の別人)を北方の虞に封じた。これにより太伯・虞仲は呉と虞の二か国の祖となった。

『史記』では世家の第一に「呉太伯世家」を挙げているが、これは周の長子の末裔である呉に敬意を表したものであろう。

『論語』泰伯篇では、季歴に地位を譲ったことについて孔子が「泰伯(太伯)はそれ至徳と謂う可きなり」と評価している。

ウィッキペディア(20161205 18:37による

422 清々しい神社一題 “栃木県塩谷町岩戸別神社”  北関東への神社調査 ⑦

$
0
0

422 清々しい神社一題 “栃木県塩谷町岩戸別神社”  北関東への神社調査 ⑦

20161205 

太宰府地名研究会 古川 清久


 常陸大宮市の某所を拠点に北関東の神社を見て回っていますが、まだ、大体の土地勘を得るための修行中と言ったところで、西も東も分からないまま手当たり次第に神社を訪れているというところです。

 そうした中、非常に手入れの行き届いた清冽な神社に出会いました。栃木県塩谷町の岩戸別神社です。

 岩戸別神社という名称からスサノウを祀る神社である事は一目ですが、単独調査で、車中泊を覚悟していますので、暗くなるまで廻り、帰る頃には真っ暗になっていました。

 清々しい神社という印象は今も変わりません。

 近年、過疎化に加え少子化による氏子の現象は元より、国民の所得の半減によって神社の経営は極限にまで追い込まれています。

 お賽銭の減少から、賽銭も上げない参拝者に加え、賽銭泥棒も確実に増えているようです。


422-1


その事から、境内の清掃をする人も減り、社殿や摂社が破れている神社も激増しています。

 そうした中、この神社には毛ほどもの隙はなく感心することしきりでしたが、実はそれほど喜んではいられなかったのでした。

 たまたま遭遇した氏子総代の方からお話をお聴きしたのですが、ここからはお話しないことにしておきます。

 さて祭神です。祭神が書かれていない顔の見えない神社も多いのですが、ちゃんと分かるように書かれています。


422-2


同社縁起


天手力雄命はスサノウであり、この地域の人々が奉祭するのはスサノウ命であることが分かります。

次に、境内神社の金山彦と一緒に書かれている金山姫と言う表現はあまりなじみがないのですが、お妃の埴安姫なのでしょうか?最後尾に八坂神社としてスサノウ、クシナダヒメの御夫婦が祀られていますので、クシナダヒメではなく、埴安姫で良いのだと思います。

 問題は愛岩神社です。「日本書紀」による軻遇突智と表記されていますが、金山彦の事であり、金山神社の祭神と重複しています。


422-3


神殿は改装されていますが、参拝殿はこれからです。


さらに気になるのは愛岩神社という表現ですが、北関東では埴安彦と金山彦を石折神(いはさくのかみ)、根折神(ねさくのかみ)「磐裂根裂」になるのですが、愛岩神社と言う表現は愛宕神社の愛宕の誤りである事が分かります。

 後は、水神社ですが、天水別命、国水別命とは、ミズハノメと天御中主命あたりになるのでしょう。

今回も。常陸国ふしぎ探検隊氏に登場してもらいましょう。

さすがに掘り下げてあります。


422-4


94.岩戸別神社探検記(栃木県塩谷町)


さてさて、天手力男命だったら岩戸あけではないか?あけがなまってわけになってしまったのか、それとも祭神のすり替えなのか興味を引かれるところです。

百嶋系図では天手力男命はスサノヲになります。別名手置帆負(たおきほおい)命、天日槍(あめのひぼこ)、半島の三国史記では骨正。

宮司さんの名前が和気(わき)さんといって、ご本人の弁によれば和気清麻呂の御子孫らしいのですがなぜ栃木県北部に和気清麻呂の子孫と思しき人がいるのか?

清麻呂といえば思い出すのは弓削道鏡です。県南部の下野市(旧南河内町)には道鏡が別当として左遷された下野薬師寺があります。

宇佐八幡宮神託事件の主演と助演です。

別当に左遷とはいうものの、下野薬師寺は奈良時代において、本朝三戒壇といわれるほどのお寺ですから、法王から一段下がった程度の降格でしょうか?しかし、93.古峯神社探検記で述べたように、金精峠で巨大な「持ち物」を切断しながら歩いてきたのですから、それはもう大変なことだったでしょう(笑)

また以前報告した村檜神社の隣にあった大慈寺は、737年に行基が開基したと言われていますが、下野薬師寺との関係はいかようだったのでしょうか、気になるところではあります。754年に鑑真が東大寺で聖武天皇をはじめとする430人に受戒したのが最初の戒壇です。奈良の大仏が749年に開眼して

いますから、那珂川町の健武山神社に伝わる金を提供した話があることから、大仏建立の立役者である行基が来ていた可能性はありそうです。(行基と下野の関係はさらに調査要です)では助演の和気清麻呂の出自はというと、備前国藤野郡出身、父は磐梨別乎麻呂(いわなしわけこまろ)。皇別磐梨別公系図によれば、磐梨別公姓は皇別なり。その先は人皇第11代垂仁天皇の皇子鐸石別命(ぬてしわけのみこと)に出づ、とあります。

垂仁は百嶋系図では生目入彦(いくめいりひこ)になります。

清麻呂の父の名前磐梨別乎麻呂を見た瞬間に、岩戸別神社の謎が解けた気がしました。

梨は利と木です。利は利根川では「と」と読みますから、磐梨別はいわとわけと読めるのです。(この際、木は無視です。笑)つまり、岩戸別神社は天手力男命ではなく、和気氏の先祖を祀っていることになる

のです。それを隠さなければならない理由らしきものが、栃木県立図書館のサイト(レファレンス協同データベース)にありました。

引用しますと、「玉生和気氏系図に依ると、清麻呂の何代かのちの典薬頭をしていた和気葉家が、〈罪なくして下野国塩谷郡に流さる〉とあり、葉家が玉生和気氏の祖ということになる。」とあります。

[船生史郎/著「玉生村外史―高原山麓の里の和気一族について―」 (『下野史談 第98号』(下野史談会/編、発行 2003p7-15所収)]

先祖の和気清麻呂が道鏡を流した下野国に、それも薬師寺よりもはるか北の蝦夷地に近い塩谷郡に流されてしまったのです。罪なくして、とはありますが、流された身としては、ご先祖を堂々と祀るわけにもいかなかったのでしょう。(罪なくしての意味が知りたいものです)書記では垂仁の子には他に綺戸辺(かにはたとべ)との間に磐衝別命、両道入姫命(ふたじいりひめのみこと、石毘売命)(日本武尊の妃とされる)の兄妹がいたことになっています。磐衝別命の子に磐城別命がいます。垂仁の子孫には磐()○別という名前が目立ちます。磐といえば金山彦系の象徴と思われますから、記紀で崇神の子とされる垂仁、百嶋系図では天忍穂耳から天忍日、日中咋に連なる流れにしてありますが、実はその系統に成りすました感があります。

というのは、われわれの解釈では天忍日を大山咋と考えていますから、御間城入彦(崇神)と生目入彦(

垂仁)は親子ではなく、兄弟もしくはいとこではないかと推測しているということです。

この場合の天忍穂耳(海幸彦)はニギハヤヒAとしてであり、つまりは山幸彦(ニギハヤヒB)に相当するのではないかということになります。こう考えないと、金山彦、五瀬命、海幸彦という正統派の流れが著しく乱れてきてしまうからです。

スポット102 研究者による研究会を創らなければならない

$
0
0

スポット102 研究者による研究会を創らなければならない

20170530

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今時、何故、神社を調べなければならないのか?と考えられる方は多いでしょうが、個人としても、グループとしても、各々のメンバーとしても、日々、多くの人々が神社を調べ続けています。

sp102-1 現在、公開講座で綾杉るな女史による「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショと読むべし)の解読作業が行われていますが、「久留米藩社方開基」(有馬藩入府時に作成された神社誌で「福岡県神社誌」3巻より詳しい第一級資料)に基づき30年以上筑後の神社を研究してこられた宮原誠一氏による「ヒミコ宗女イヨ」が発表されました(6月にネット上に公開予定)。


卑弥呼(ヒミコ)宗女 壹與(イヨ) 百嶋神社考古学神代系図をみていると、壹與(細姫)の余白に必ず「ヒミコ宗女イヨ」という語句が記入されている。百嶋先生が表向き単刀直入に言いたいことを言えずに、間接的に表現された言葉である。「ヒミコ宗女イヨ」の語句には卑弥呼と壹與の重要な関係が秘められており、この関係が分かることにより天族(天つ神)が何であるかが分かってくる。百嶋神社考古学では、「ヒミコ」について…(以下はネットでお読み下さい)。


氏も綾杉女史同様、「宮神秘書」(グウジンヒショ)を口語訳され、解読作業を進めておられ、その成果も随時ネット上に公開されるものと思われます。


高良玉垂宮神秘書 第1条 (前略) 天照大神の御子、四人おわします。三人は、天照大神より四代まで継ぎ給う。正哉吾勝々速日天忍穂耳尊、その御弟は天津彦々火瓊々杵尊、その御弟は彦火々出見尊、その御弟を彦ソソリノ尊と申し奉る。この彦ソソリノ尊は神代を継ぎ給わざる故に海の遠くへ参らせ給うなり。ある時、彦火々出見尊が弟彦ソソリノ尊に釣針を借り給いて、兄の彦火々出見尊は海原に出給いて、鉤を海に入れ給う。アカメクチというもの、この釣針を食い切る。御弟彦ソソリノ尊の持ち伝えの釣針なれば、兄の彦火々出見尊、呆然と呆れて立ち給う所に、塩土の翁と云う者、着たり曰く。我皇子にて、御身の御徳を忘れず。今現れ来たりなり。その御礼を申さんとて、メナシカゴ(目無籠)と云う者に、彦火々出見尊を連れ奉り、海中に招き入れれば、ほどなく竜宮界に着き給われる。 (後略) 


今回はご紹介だけに留めますが、右はこの解読作業の結果、百嶋由一郎氏が作成された神代系譜をさらに踏み込んで復元された神代系譜です。そもそも「宮神秘書」は「古事記」「日本書紀」とは全く相いれない内容を持っており(例えば高良玉垂命と神功皇后は夫婦でその長子が仁徳天皇…)九州王朝論者も含めて「記」「紀」をベースに研究を進めておられる方々の努力は十分評価いたしますが、結果は漫画に近いものになっているのです。

卑弥呼(ヒミコ)宗女 壹與(イヨ)については近々公開予定ですのでこれ以上は触れない事にします。


sp102-2

sp102-*3


sp102-4


現在、太宰府地名研究会には多くのブログ、HPがリンクされていますが、これらの大半が程度の差こそあれ稀代の神社研究者であった百嶋由一郎氏の神社研究を意識した人々によるものです。


sp102-5


今般、新たに「百嶋神社考古学」からみる古代 と「橘一族の末裔」2blog6月中に加わりますので、百嶋神社考古学を意識した156本のHPblogの連携が成立した事になります。

もちろんこれらのブロガーは自らの頭で考え自らの足で拾った事実、調査研究を記録し公開し後世に引き継ごうとされています。

本来の研究会とは研究者による研究会だったのであり、研究会と称して学会通説の宣伝を行う学芸員の御高説を賜わる会や、文章も書かず読んだ本のコピーの寄せ集め資料で受売りの講演を行う方のお話を受け止めるだけの会では(勿論無害ですが)十年やっても何の業績も残せず潰え去るだけであり、学会通説の大嘘つきの構造は微動だにしないでしょう。

戦後民主主義が瞬間的にもたらした晴れ間から刺す陽を受け多くの考古学研究会、史談会、郷土史会、地名研究会…といった多くの研究会が勃興しましたが、これらは等しく情熱溢れる若き在野の研究者、記録者、資料収集者、民間伝承収集者…の集まりとしてスタートしたのであって、決して学者とそれに連なる教育委員会、学芸員の御高説を拝聴する会ではなかったのです。

このような使命感を持った研究者、少なくとも記録を収集し残し後世に伝えようとする人々の集まりでなければ何も残らないまま潰え去るだけになるのです。

ましてや、本も出さず、HPblogとして公開もしていなければ、情報化された現代に於いては存在していない事と同義であり、現状では、自らの足で歩いて回収した独自のソースに基づくネット上に公開された研究だけがものを言う時代となっているのです。研究者の死後も公開を継続する事は可能であり、今後もこれらのblog20本には拡大するはずで、それ以外にも、日夜、ネット上、文献上、また現場でのフィールド・ワークとして神社を調べ続ける研究者、調査者、記録者…としての有機的連合体としての研究会でなければ、古田武彦政精神を継承した九州王朝論からの古代の探索の深化はおぼつかなく、最終的には通説派による文化行政の末端として逆に利用され潰え去る事になるでしょう。   


sp102-6

また、新たに百嶋由一郎神社考古学に触発された二つのblogが加わりますので宜しく。


s@102-7



九州王朝の中枢を支えた紀氏=橘一族の同族を探究するblogです。できたてほやほやで探し難いと思いますので、始めは、“”を付して“橘氏の末裔”として検索を試みて下さい。


 次は文献史学派の方で、百嶋由一郎神社考古学に関心を寄せて頂いた特異な研究スタイルですが、今後どのように展開されるか興味津々と言ったところです。


sp102-8

 

 仮題 「百嶋神社考古学」から見る古代 山田 裕(安城市)


既に、北関東から二人のブロガーが参加されていますが(「常陸の国ふしぎ探検隊」「スピリチュアルチャヒーラ宮古の縁側日記」)、今回は中京地域からの参入ですので、当グループも全国化してきましたね。

423 静神社 “神社調査の難しさ” 北関東への神社調査 ⑧

$
0
0

423 静神社 “神社調査の難しさ” 北関東への神社調査 ⑧

20161205

太宰府地名研究会 古川 清久


423-1

423-2

茨城県那珂市の静神社に参内しました。ご案内頂いたのは例によって「常陸国ふしぎ探検隊」氏です。


423-3

手力雄、髙皇産霊尊、思兼神は、スサノウ、高木大神(ニニギの親父)、豊玉彦(ヤタガラス)で良いのでしょうが、建葉槌は不明です。

正直言って、初見では全く手に負えません。地域についての基礎知識も一帯の祭神の分布も分かっていないため、この神社の背景も含め解析ができないのです。

 ただ一つ、現地が那珂川沿いの丘陵地であることから、九州から移住した人々の領域と言うのがとっかかりになるかもしれません。

例によって、「常陸国ふしぎ探検隊」氏の数稿を基礎に勉強させて頂きます。


423-4

4.静神社探検記

主祭神の「建葉槌命」ですが、百嶋系図には記載がありません。CDにも今まで聞いた中には出てきてい

ません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

Wikipediaによれば、『古語拾遺 』に登場する。天羽雷命(あめのはづちのみこと)や、倭文神(しとりのかみ)、倭文神(しずのかみ)とも呼ばれる。

書記では、経津主神 ・武甕槌命 では服従しなかった星神香香背男 (ほしのかがせお)を征服した神とされる。

織物の神が、何故星の神を誅する事が出来たのか、色々諸説ある内の説を挙げるとすると、

1つ目は、建葉槌命が武神だったとする説。建葉槌命の「建」は「武」、「葉」は「刃」と読み替えると武刃槌となり、まさに武神らしい名と受けとれるからといわれる。この説の裏付けとして、武葉槌命を祀る大甕倭文神社(茨城県日立市)の『大甕倭文神宮縁起』からも武神であるむねを窺わせる内容が記されている。

2つ目は、織物の中に星を織り込んでしまって、星の神を織物の中に封印したとする説。これは、太陽が沈んでも空に星が残っている事を、どうにか出来ないものかと考えた上での苦肉の策だとされる。日本書紀第九段一書(二)に「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)またの名を天香香背男(あまのかかせお)と曰う。請う、先ず此の神を誅し、然る後に下りて葦原中國をはらわん」。是の時に齋主(いわい)の神を齋之大人(いわいのうし)ともうす。とあり、日本書紀第九段本文と似た記述がある。これにより齋之大人=建葉槌命とみられ、齋主(祭祀)で征服したとあるので上記の行為を齋主で行うことにより星神香香背男=天津甕星を征服したという説である。

他にも、香香背男側にいた建葉槌命を懐柔し味方に付け、内側から崩壊させた。などの説もある。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さあ、香香背男がでてきましたね。まだ探検には行っていませんが、大甕倭文人神社の伝承によれば、岩に変身した香香背男を建葉槌命が銀の靴で蹴飛ばし、塵散りにしたとの事です。

なんかこのあたりに、本当の主祭神を解き明かす鍵がありそうです。

建葉槌命は男神なのですが、ここも鷲子山上神社の本殿ように女千木でした。

つまり、本当の主祭神(女神)を隠しているということです。


5.静神社探検記2

その後、考えをまとめるためにいろいろと調べていましたが、とりあえずわかったことは、常陸国の神社はお互いに関係しあっていて、単独の神社を調べても、深い理解に到達できないという事でした。

これまでのたった二つ(鷲子山上神社と静神社)だけでも、阿波国忌部家系によれば、建葉槌命は天日鷲命の子供と言うことになっています(百嶋系図ではそんなことは全く読み取れない(忌部氏の創作か?)し、まつろわぬ神の代名詞、カガセオ一つとっても、大甕倭文神社、泉神社、鹿島神宮、香取神宮、澳津説神社、息栖神社、大生神社、大井神社などと、思い浮かべただけでも、これだけの神社が関係していることがわかります。

百嶋系図やCDを聞いている皆さんならこの神社名を目にしただけで、ピンとくるものがあるでしょう。長脛彦(岐神)、多氏、海幸彦、山幸彦。すぐにこんな名前が思い浮かぶと思います。

したがって、とりあえず単体の神社を調査して、分かったことや、その時々において思いついた関連性などを報告することとします。

もちろん常陸国の神社が全て関連しているわけでもないでしょうから、今後たくさんの神社を探検していくうちに、系統だてて整理できると思いますので、気長にお付き合いいただければと思います。

では、前回の続きに入ります。

静神社の本当の主祭神は誰なのか、でしたね。

ご由緒では、現在の主祭神は建葉槌命、江戸時代には黄門様によって手力男命が主祭神になっていたようです。(相殿神は、左殿に高皇産靈命、右殿に思兼命を祀っていたといいます。

神紋は桜でしたね。そして千木は女千木。

相殿神からアプローチしていきましょう。まず、百嶋系図によれば左殿の高皇産靈命は高木大神ですね。右殿の思兼命は豊玉彦です。建葉槌命は今のところ百嶋系図やCDからは何もわかりません。江戸時代に黄門様によって主祭神とされた手力男命は、昨日聞いていたCDでわかりました。長野戸隠神社の解説で豊玉彦と言っておられました。(その後手力男命はスサノヲということがわかりましたので、訂正いたします。)

つまり、黄門様は思兼命と手力男命、豊玉彦とスサノヲをお祀りしていたのでした。

黄門様の大日本史はまだ読んでいませんが、ちょっと調べたところでは、記紀の記述を踏襲しているようですので、ねつ造された歴史を鵜呑みにしている感が否めません。唯一宗源吉田神道を信奉していたようです。本地垂迹を否定しているのと佐竹氏(源氏)の守り神であるため、常陸国内の多くの八幡神社は吉田神社に改名させられています。徳川家は源氏ではなかったことの証左でしょうね。そうだとしたら、征夷大将軍に成れる資格はなくなります。だから、別な方向から徳川家が征夷大将軍に任命された正当性を主張するために大日本史を編纂したのかもしれません。地元の吉田八幡神社も改名させられた一つです。

茨城県教育委員会HPから引用…中略…九尾のキツネと言えば、地獄先生ぬーべーにも出てくる玉藻の君ですね。那須岳では三浦大介(横浜大洋ホエールズの浜の番長ではありません、笑)に退治され殺生石になっています。そしてこの神社の現在の神主は元民主党衆議院議員の高野某です。じつは、鷲子山上神社

の茨城県側社務所の神主も務めているようです。(訂正)

曾祖父さんは桜田門外の変に参加し明治まで生き延びた海後 磋磯之介の兄です。那珂市米崎の三嶋神社が生家です。(出ました。河野家の氏神様!大山積)那珂市には意外と三嶋神社が多い。

領内の多くの神社では神紋が水戸葵紋に変更させられているし祭神も変更させられています。(東海村の豊受皇大神宮や大子町の近津神社上の宮、日立市の泉神社、大甕倭文神社、澳津説神社、御岩神社など多数)さて、本題です。ポイントはカガセオと蛇、そして女神であること、神社の配置と言う事でした。

現時点での結論は、ズバリ言いましょうね。それは、木花咲耶姫(前玉姫)です。

豊玉姫の線も考えているのですが現段階ではと言うことで、ご了承くださいませ。

理由は、桜の神紋と岩に化身したカガセオを銀の靴で蹴飛ばし散じりにしたこと。つまり岩を粉砕したからです。削岩機の裂(前)玉姫の本領発揮ですか。(笑)

といって、前玉姫が蹴飛ばしたわけではなく、実際にはやさしく、きびしく懐柔したのだと思います。

想像(妄想かも)を膨らませれば、鹿島の神(海幸彦、藤原の先祖)でも香取の神でも征伐できなかったカガセオを、なぜ機織の神である武葉槌が征圧できたのか。

それはカガセオ(長脛彦)は九州時代から埼玉姫(豊玉姫かも)に憧れていたからでしょう。(笑)

最後はもう、身分の高い美人の女神様にご登場願うしか策はありませんね(笑)

後の時代の権力者、回りくどく書かなくてもいいですね。藤原氏が、カガセオ(岐神=長脛彦一派)を悪人として貶めるために(神武と喧嘩した事実はありますが)、こんな物語を作った可能性は高いと推測します。

本殿両脇の相殿はまだよくわかりません。蛇から大己貴神を導き出せますが、もう片方は今のところ見当が付きません。漠然と岐神かなとはおもっていますが・・・。

今後ほかの神社(特に大甕倭文神社と泉神社)を探検してからさらに考察していきたいと思います。

おまけ

現在考えている当時のシナリオは、こんな感じです。

神武と喧嘩して、常陸国に島流しになってしまった(あるいは蝦夷地から東国の防衛隊として左遷された)長脛彦は、下総の国から常陸の国に入国し常陸国をうまく管理していた。5000年程前から蝦夷地に渡来していた旧ヘブライ人の恵比須族たち(青森から岩手にかけての一戸から九戸を中心に居住、いまではキリストの墓がある事でも有名な地区)とも、今の福島県いわき市の勿来(なこそ、くるなかれ、くなと)を界にうまくすみ分けていた。ところが、常陸国から隣の下野国は金の産地。(八溝山系、茨城県大子町、栃木県那珂川町)増々力を付ける長脛彦を快く思わない海幸彦系(藤原の先祖)はついに討伐隊を結成。鹿島の神と香取の神を征東将軍として派遣した。しかし、カガセオ(長脛彦)の圧倒的な戦力により征伐をあきらめた海幸彦系は、九州王朝一の実力者豊玉彦に対策を願い出た。豊玉彦は得意の穏便な手法、要するに女神を提供することで仲良くするやり方、義兄弟になる方法(百嶋先生は穴兄弟と言っておられましたが)をとり、自分より18歳も若く、美しく(と思われる)、若すぎて持て余していた前玉姫を常陸国に遣わした。(時代考証してません)

百嶋神社考古学にご興味の方は、太宰府地名研究会 古川さんまで。090-6298-3254


精緻です。どうやら、東国に関しては全面的にお任せした方が良いようです。

424 茂 賀 “古代に遡る肥後の巨大山上平野”  ①

$
0
0

424 茂 賀 “古代に遡る肥後の巨大山上平野”  ①

20161205

太宰府地名研究会 古川 清久


はじめに

424-1皆さんは「肥後の北部丘陵一帯に巨大な淡水湖があった!」などと言えば本気になさるでしょうか?

もちろん、恐竜が暴れていた中生代とかいった話ならば、日本列島の形状も全く異なっていたはずですし、どんなことでも考えなければないでしょうが、そのような何百万年、何千万年前といった地球物理学的な時代の話ではなく、私達から数えて百~二百代ほど前のご先祖様の時代、凡そ二五百~三千五百年前辺りの縄文から弥生への移行期といった時代の話なのです。

このように言う場合、従来は“弥生時代は紀元前三、四世紀頃から始った”“稲作は弥生時代からであり、縄文時代は狩猟採集でしかない”などと教えられたことに思いをめぐらしてしまいます。

二〇〇三年、国立歴史民俗博物館研究チームは弥生時代の始期が五〇〇年繰り上がることを発表しました。既に関係者の中では以前から囁かれていたことだったのですが、土器編年法がもはや全くの整合性を持っていないことを満天下に晒したものでした。いわゆる照葉樹林論者の中では相当以前から稲作はもっと前から始まっていると主張され続けていたのであって、仕方がなく“縄文稲作”などといった倒錯した説を提出せざるを得なかったのでした。

どちらにしても、これまで学校で教え続けてこられた縄文や弥生とかいった概念が、実は全くのデタラメであったということを明らかにしたものでした。

ともあれ、紀元前千年前後から日本列島には縄文から弥生へという劇的な変化が始ったとの認識に立って考えたいと思います。

まず、肥後熊本はお米がたくさん取れる豊かな土地…といった印象を持たれる方は多いでしょう。

しかし、この“肥後は米どころ”というイメージには多少の誤解があるように思えます。肥後がありあまる程の農業国家、農業大国になったのは、戦国乱世が収束し、その国力の全てが清正公に象徴される干拓(横島干拓や八代以北の不知火海の干拓)や潅がい施設の整備による農地開発(城造りの加藤清正は、一面、「農業土木」の創始者とも言われます)に振り向けられるようになった、わずか四百年ほど前からの話でしかなかったのです。

平均海面が五メーター近く上昇したとされる縄文海進を想定しても良いのかも知れませんが、さらに遡ること五百~千年前の肥後を考えて見ましょう。

424-2まず、もしも、海岸堤防や河川堤防が存在しないとすれば、現在でも熊本市のかなりの部分に水が入るように、洪水時の河川氾濫はもとより、高潮や台風による海水の進入する地域が広範囲に拡がることはご理解いただけることでしょう。

ましてや河川堤防、海岸堤防など全く存在しなかった時代、熊本市中心部一帯には巨大な湿地帯(感潮地帯)が広がっていたのであり、周辺の丘陵地にしてもその大半は阿蘇外輪山延長の溶岩台地に過ぎず稲作不適地だったはずなのです。

例えば、熊本市の東隣りの町、旧菊池郡大津町といえば熊本インターから阿蘇に向かうバイパスの通る所ですが、観光シーズンには大渋滞を引き起こす場所として誰でもご存知のところです。

この一帯も火山噴積物、火山灰が堆積した丘陵地であり、雨が降っても直ちに地下に浸透するために、とてもまとまった水田など開くことができず、稲の取れるところではなかったのです。今でも水の大半は湧水で有名な水前寺公園、江津湖、八景宮といったところで湧き出しているのです。そのため加藤はこのような場所に何本もの用水路を築いています。

ただ、全てがそうであった訳ではなく、白川に近い川沿いの細長い崖下の一帯では方々から湧き水が染み出し、小規模ながらこれらを頼りとした(実は天候に左右されず最も信頼に足る水源なのですが)稲作が古来行なわれ、成立した集落を繋ぐ形で古街道が置かれてもいたのでした。


しかし肥後は米どころだった


しかし、加藤領以前の中世においても、やはり、肥後は米どころだったのです。それどころか、実は九州最大の穀倉地帯でさえあったのです。

ここで南北朝騒乱期を考えて見ることにしましょう。九州に住む人ならば、菊池武光、菊池武時を始めとして、一時期大宰府をも占領し北部九州一帯を支配下に置いた菊池氏のことは良くご存知でしょう。この菊池氏の力を支えたものこそ、山鹿から菊池に広がる巨大な平野の生産力だったのです。

まず、戦中派の方ならば、「菊池米」と呼ばれた極上の献上米があったことは良くご存知でしょうし、この穀倉を押さえることができたからこそ、南朝方(宮方)として戦った期間を含め、数百年に亘って九州中央部に磐居しえたのでした。

では、山鹿から菊池へと広がる丘陵地は何ゆえ米が取れるという意味での穀倉地たりえたのでしょうか?これこそが今回のテーマなのです。


山間の平地はどのようにしてできたのか?


昔から不思議に思っていたことがあります。山間僻地を旅していると、急に開けた平地、平野に出くわす事が良くあります。もちろん、平らな土地は通常水田地帯になっていますが、このような平地がどのようにしてできたかが良く分かりませんでした。

一定の傾斜を持った山裾が水田に変わっていくことを考えると、はじめに木が切り倒され、焼畑が行われるでしょう。何度も何度も焼畑が繰り返され、いずれ常畑(定畑)に変わり雑穀栽培などが行われます。そして、さらに有利な作物、つまり、稲が伝わると、雑穀の一部として陸稲として稲を作ったかもしれませんが、いずれ、水を引き入れ灌漑が施されると階段状の棚田が形成される事になるのです。ただ、それによっても全体の傾斜に変化はなく、一度、水田ができると地形の変化は進まず固定します。つまり、このことによっては、依然、平地や平野は形成されないのです。

考えられることは、水による土砂の堆積以外にはありません。

仮に大規模な渓谷で大洪水が起こり、大きな石が川筋を塞いだとしましょう。一度塞がれると、さらに多くの石が詰まるようになり自然のダムが形成されるようになることもあるでしょう。当然、水が溜まり、土砂が堆積することになります。重い石や砂は下に、粒子が小さな泥は上に溜まりますから、湖の底には平らな泥底が造られることになるのです。

その後、地殻変動、地震などによって流路が造られると平地が地上に現れることになるのです。このようなことが大規模に起こったものが山間の平野であると考えられるのです。

そして、実際、山間の小平地の大半は大きな洪水、氾濫の結果生み出されたものと考えられるのです。

阿蘇は巨大なカルデラであり、古くは水が溜まっていたはずです。その水が抜けたものが阿蘇の平野と考えれば、このことが良く分かると思います。このように考えると、災害とは人間の生活基盤を奪うと同時に生活基盤を創っている事が良く分かります。

俗にエジプトはナイルの賜物と言われますが、それは、同時にナイル川の氾濫による水平堆積の賜物でもあったのです。


なぜこのような台地にこれほどの平野が存在するのか?


今でも月に一度は菊池、山鹿、玉名方面に足を伸ばしていますが、三号線で南に向かい、鹿北町辺りに来ると、山鹿から菊池、植木方面へと広がる巨大な盆地の中に凡そ標高五十メートルのところに圧倒的な広さの平野、従って水田が存在することに以前から疑問をもっていました。

特に、三号線上にも寺島、南島という地名が直ぐに拾え、山鹿市周辺にも中島、底原、浦田、熊入(山鹿市)、といった地名が拾えるのです。この傾向は菊鹿盆地全体にも見られ、鹿本町の小島(小嶋)、菊鹿町の島田、七城町の水島、高島、内島、蟹穴、蘇崎、小野崎、山崎、瀬戸口、鹿央町の水原、春間、植木町の平島、舟島、田底、泗水町の田島、南田島、菊池市の迫間、西迫間、野間口、亘、といった海か湖、湖沼の縁を想像させる地名が拾えるのです。

このことだけからでも、かなり古い時代、この地に巨大な川か湖が存在したことが想像できるのですが、特に際立つのが平島と田底です。まず、温泉ファンならば植木温泉の旧名が平島温泉(戦後しばらくまでは通用していたはず)であったことは自明ですが、特に驚いたのがその裏口ともいうべき場所にある田底という地名です。現地をしょっちゅう通っているのですが、農協の田底支所といったものが堂々と建物を構えています。谷底という言葉は今でも通用しますが、この地名に始めて遭遇した二十年程前、“「田底」とは一体何だ…”と考えたことが今でも頭に浮かんできます。どのように考えても“住んでいる場所は少し山手のところだが、今、耕している自分たちの田んぼは、昔、うみの底だった…”といった地名に思えるのです。

これらの地名は通常の道路マップで十分に拾える程度のものですが、1/250001/10000程度の地図、古字図や字図などを詳細に調べればさらにもっと興味深い地名が浮かんでくることでしょう。

まだ、基礎調査の段階ですからその作業は今後の課題として、私自身の作業としては別のアプローチを考えて見ます。


中原、堤想定 “古代茂賀の浦の発見”


ここで遭遇したのが中原、堤研究でした。二〇〇五年に菊池市で開催された菊池市文化講演会・第18回熊本地名シンポジウムにおいて、この驚愕の研究が発表されたのですが、その概略を説明しておきます。

菊池市の中原英氏は七城町の林原露頭断面などの地質学的な調査を行なわれ、花房層と林原層と名付けられた堆積層の中に下層部から黒砂・軽石礫混じり・砂・粘土・川砂利などの順になったものを発見されたのです。このような現象は湖沼などの中で起るいわゆる水平堆積を示すものなのですが、中原氏はこのような現象は把握できる範囲で過去三度起ったと想定されています。花房層の研究から一回目は12万年前と9万年前の間、第二回目が現在の菊鹿盆地の南側に広がる花房台地を湖底としたもので、

9万年前から5万年前までの間のAso.4層の上部、そして第三回目が問題の茂賀の浦で、中原研究では5万年前の地殻変動によって花房台地面と菊鹿盆地面の間に40メートルの段差が生じ、そこに茂賀の浦が生じたとされているのです。問題はその時期ですが、花房台地の堆積から推定し、少なくとも二、三万年前から六〇〇〇年前までは存在した(これはそれ以降の新しい時代まで残っていたことを否定するものではないという意味と理解しますが)と考えられているのです。この六〇〇〇年前という数字は非常に重要で、一般的には縄文時代の真っ只中とされているものに重なってくるからです。

 では、少なくとも縄文時代の中頃までには存在した巨大湖“茂賀の浦”はいかにして消失し、現在の巨大平野に変わったのでしょうか?

 一方、菊池市教育委員会の堤克彦氏(文学博士)は『鹿郡旧語伝記』所収の「大宮社古記」の「茂賀の浦」(北境ノ湖・北境ノ沼)の八龍大亀伝承、崇神・景行天皇の蹴透伝説などから茂賀の浦の伝承を回収されるほか、菊鹿盆地一帯の縄文遺跡、弥生遺跡の空白地帯を発見されたことから、その分布図を中原研究の茂賀の浦と照らし合せ、その完全な一致から茂賀の浦とその変化を発見されると同時に、縄文期から弥生期にかけて縮小したことまでも証明されたのです。

 証明の切り口は単純です。言うまでもないことですが、通常、湖、沼、川には遺跡は存在しません。それは水中遺構は別として、通常人は湖には住み着けないことから、頻繁に河道が変遷する場合とか大規模な地震などによって急激な水位の低下などがない限り、住居址、生活遺構、墓跡といったものが存在しないのです。もしも、長期にわたって湖が存在したとすれば、その外周部に遺跡が残ることになり、逆に、遺跡が存在しない部分こそ湖であったことになるのです。同様に湖が縮小してきた場合には、外側に縄文、弥生遺跡が、内側に弥生だけが残ることになるのです。さらに、面白いことに、弥生時代にも、なお、縮小した弥生の茂賀の浦が存在したようで、その中には弥生の遺跡は痕跡を留めていないのです。

と、すると、弥生期から古墳時代にかけて何らかの変化が起り(変化を起こし)、水が抜け(水を抜き)、田底三千町と呼ばれた巨大な水田が生まれ、後の条里制へと繋がったと見るのですが、これについては二〇〇五年作成の堤克彦作成による「茂賀の浦の範囲と縄文・弥生遺跡」ほかを見られるとして、非常に根拠の薄いものながら、中原、堤想定に加え古川によるささやかな地名による論証を試みたいと思います。



242-3
 

見渡す限り平地が続く菊池盆地

○○の○○型地名の分布について


何のことだか全くお分かりにならないでしょうが、これは高良岬の麓からNO.11「鳥子」で採用した手法です。宇土、熊本、植木近辺には、間に”の“が入る地名が他の地域に比べて異常に多いのです。大字単位で見ても、まず、白川を渡る大津町には引水(ひきのみず)が、八兵衛の出身地である宇土市には、弧江(こものえ)、硴江(かきのえ)、西田尻(にしたのしり)、宮庄(みやのしょう)が、宇土市の南には旧町名でさえあった宮原(みやのはら)が、同じく北の富合町には田尻(たのしり)、南田尻(みなみたのしり)、廻江(まいのえ)、城南町の丹生宮(にゅうのみや)、隅庄(くまのしょう:文中の熊庄と関係があるかも知れません)、舞原(まいのはら)が、熊本市の水前寺の南に田井島(たいのしま)、金峰山の南に池上町(いけのうえまち)、北熊本の八景水谷(はけのみや)、が、菊池郡合志町に上庄(かみのしょう)、福本(ふくのもと)が、鹿本郡鹿央町の梅木谷(うめのきだに)、中浦(ちゅうのうら)、玉名市の東玉東町の木葉(このは)、上木葉(かみこのは)…もう、これぐらいにしておきましょう。

一応、表記を伴わない○○の○○型地名はこの一帯に限られているようです。その中心部の熊本市にこの手の地名が少ない理由は、後世による地名表記の改変(和銅)によるものと思われますが、そもそもは、この一帯がかつては海の底であり、後発の土地に新しい地名(と言っても数千年単位の話になります)が付されたからではないでしょうか。

当然ながら、表記を伴う○○の○○型地名は益城町の「辻の城」ほか…がありますので、小字単位でカウントすれば、相当の例が拾え、かなり興味深い結果が出ることでしょう。

そして、○○の○○と呼び習わす、言語上の生理とでも言うべき傾向が、書き留められ、現在、なお、地名として残っていると考えられるのです。

ここで、この「好字二字以前」と考えられる古い地名が、菊鹿盆地でどのような分布を示しているかをサンプリングしてみると、山鹿市の釘ノ元、当ノ原、堀ノ内、八の峰、菊鹿町の郷の原、鹿央町の梅木谷(ウメノキダニ)、中浦(チュウノウラ)、植木町の駄の原、山ノ上、西ノ原が、泗水町の富納(トビノウ)、西合志町の野々島、合志町の福本(フクノモト)、上庄(カミノショウ)、七城町の尾野崎、菊池市の市野瀬、中野瀬…ほかがあるのですが、これら全てが中原・堤想定の縄文湖の外側に分布しているのです。鹿本町の合ノ瀬などはこれ自体が本来川の合流部を表す地名であることから、これは湖の外でなければ成立しない言葉であり、湖の存在を直接示す好例と言えるかもしれません。

これをもって直ちに○○の○○型地名が始期遡り(弥生時代の始期が無様にも五百~七百~千年遡り)以前の学会通説の縄文語や縄文地名などとは言わないものの、相当に古いタイプの地名と考えられるこのタイプの地名が縄文の茂賀の浦の内側には存在しないということは言えるようで、そこに何らかファクターが働いていることだけは間違いがないはずだと思えるのです。自然に考えれば茂賀の浦の存在を示しているように思えるのです。

そもそも、茂賀の浦(北境ノ湖・北境ノ沼)という地名それ自体が○○の○○型地名なのです。当然ながらこの地名だけは陸化した後にも伝承の中に残ったのです。


古川想定 横穴墓の論証


玉名、山鹿、菊池回廊という概念が成立すれば、さらにイメージが膨らむのですが、ここに非常に多くの横穴墓が存在することは知られています。この横穴墓群は相当に古いもので縄文時代のものではないかと言われていたように記憶しているのですが、現在、畿内の横穴墓はもとより、全国的にも古墳時代の中期から後期といった評価が学会通説になっているようです。

副葬品一般の評価、特に船形、家型石棺などが納められているものもあることから(玉名で言えば石貫横古墳?)古墳時代のものとされたのでしょう。

ただ、中身が全て捨てられ、全く異なったものが追葬されるという要素を拭い去れないのであって、この横穴墓群が古墳時代のものなどとはとても思えないのです。ここには、古墳は全て渡来系のものであり、横穴墓も薄葬令のもたらした一般民衆のものとか、石棺が入れられている以上、横穴墓の全てが古墳時代のものといった評価がされているようなのです。

九州の横穴墓、特に熊本県の横穴墓を全国的な横穴墓と同列に扱うことにもかなりの疑問があるのですが、私には揚子江流域からこの墓制を持った人々が紀元前数百年以前までに渡ってきたようにしか思えないのです。

この問題に直面した時、初めに思いついたことがありました。それは“横穴墓群は恐らく縄文の茂賀の浦の外側に分布しているであろう“ということでした。これについて中原先生にお話したところ、「確かに横穴墓も外側にありますね」と直ぐに回答がありました。

なかなか時間がとれずに、一月遅れでプロット作業に入ろうかとしたところ、中原先生が先行され、図面が送られてきました(別紙)。

作業が軽減され大変ありがたかったのですが、予想したこととは言え、それが全て縄文の茂賀の浦の外側にあることが分かってきたのです。

当然ながら、この事実は私を驚愕の結論を導くことにならざるをえなくなりました。

まず、堤氏がプロットされた菊鹿盆地の弥生遺跡、縄文遺跡と呼ばれるものは、「弥生時代の始期、五百~千年遡り問題」以前のいわゆる怪しげな土器編年法による時代区分が反映されているものと考えられます。当然ながら縄文から弥生への移行期は紀元前三~四世紀という話になるのでしょうから、最低でもこの時期以前までは縄文の茂賀の浦が広がっていたはずで、ここまでは縄文の遺跡が周辺に成立し、同様に縄文湖の外側に横穴墓が造られたと考えることは一応可能ではないかと思うのです。そして、縄文時代のある日(これを特定するのは非常に難しいのですが、一応、紀元前三、四百年~千年の間としておきましょう)に地殻変動による大規模な決壊が起こり、縄文湖から弥生湖への縮小が起ったのではないかと思うのです。このため、縄文湖の内側には縄文の遺跡はなく、弥生時代の始まりによって弥生湖の外側、縄文湖の内側に弥生人が進出したことを反映していると言えるのではないでしょうか?

その後、通説に従えば三~七世紀とされる古墳時代のいつの日かに大地震による崩壊か人為的な土木工事によって湖の縁が切られたことによって、弥生の茂賀の浦の湖底への進出が始まり、後の条里制へと移行して行ったと考えられるのです。

とぼけた話しながら、ようやく弥生時代の始まりが500700(場合によっては1000)年ほど繰上り、紀元前1000年頃にまで修正されました。…勢い、これまで言ってきたことは何だったのか説明しろ!と言いたくもなります。結局、照葉樹林論者などが主張していたことがよほど科学性があり、それを受け入れない穴掘り考古学会に対して、仕方がなく「縄文稲作」といった倒錯した概念で対応せざるを得なかったのでした。旧石器時代問題と同様の、穴掘り考古学の瓦解に思えるのですが、好い加減にC14による見直しに入れ!と叫びたくなるのです。無意味とは言わないまでも、どうせ、通説に刷り合せてしまう土器編年などといった間の抜けた古典芸能は好い加減にして欲しいものです。


スポット103 太宰府地名研究会4月期トレッキングで獲得した細やかな成果

$
0
0

スポット103 太宰府地名研究会4月期トレッキングで獲得した細やかな成果

20170530

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 筑紫の太宰府から筑豊の飯塚へと向かう古代官道が米の山峠を通るルートであったことは疑う余地がありません。

このルート上に如何なる神々が居るのかを探る事によって多少とも古代の一端を探る事ができるのではないかと考えたのが今回のテーマでした。

そして、このルートを守り攻める事の出来る場所に四つの大山祗神社が並び、その最も重要な場所に村社若八幡宮と言う名の仁徳天皇を祀る偽装八幡社が鎮座していたのでした。

これが、高良玉垂命と神功皇后との間に産れた長子シレカシミコトである事は疑い得ません。


sp103-1

sp103-2



2017520日 土曜日
玄海、太宰府地名研究会トレッキング「二田物部の遠賀への故地を探る」  

2017520日 土曜日午前1000 集合~出発 連絡は中島まで 090-5289-2994

ゆめ・タウン筑紫野内ベスト電器筑紫野筑紫野市針摺東3丁目1-8に集合! 参加費500円程度…

sp103-3この間「久留米藩社方開基」から筑後の神社の解読を続ける北野町在住の宮原氏に月読神社の案内を頂きました。これに引き続き中島氏の案内により耳納山の南の八女黒木星野の仁田郷、仁田坂を探訪しニギハヤヒ祭祀を確認し物部の故地を探って来ました。ここで目を北に転じ、推定二田物部の最大拠点としての筑豊小竹町新多の中間地点として米の山峠の東西(筑前~筑豊の古代の幹線道路)に大山祗(月読命)神社を確認したいと思います。飯塚市馬敷には二つの大山祗(月読命)神社があるのですが、この月読命を奉斎した人々こそ南の狗奴国から北上してきたトルコ系匈奴と考えられそうなのです。この点についてはblogとして多くを書いてきましたが、鹿児島、宮崎、熊本南部に展開していた馬を駆使して闘う人々の北上こそが物部の移動であり、日本海側を中心に筑豊から山陰、新潟、秋田、さらには北関東に展開した人々が物部から関東武士団=武士(モノノフ)になったと考えられるのです。いずれにせよ、熊本県の益城→福岡県朝倉市甘木→飯塚市馬敷への狗奴国の移動が地名移動として繁栄されたものでしょう。

馬敷公民館そばに造られた古墳らしきものもそう言った人々の主がいるのかも知れません。御杖代(古川)

集合場所

カーナビ検索 筑紫野市針摺東3丁目1-8 緊急連絡 ℡:09062983254 大雨の場合は中止!

※参加費(資料代)500円 各自、弁当、お賽銭、傘持参の事…

 大山祗神社  米の山峠の脇の古社 筑紫野市本道寺 安楽寺(本道寺113)北 ため池下


sp103-4

 2大山祗神社  柚須原の大山祗神社にも時間の余裕があれば参拝します

 
若八幡宮   米の山峠の脇の古社 飯塚市米の山 村社若八幡宮

sp103-5
   大山祗神社  飯塚市馬敷馬敷公民館付近 
sp103-6

コノハナノサクヤ祭祀を確認しよう

現在、百嶋神代史研究会グループ全体の年間アクセス数は恐らく5070万件になるでしょう…

途中でコース変更が入る場合がありますのでご注意ください!

トレッキング注意事項玄海、太宰府合同地名研究会(トレッキング)実際には55ポイントを巡りますが、どなたもどこかの神社には心惹かれるものがあると思います。最近は神社の祭事、経営が非常に難しくなっています。お賽銭を準備の上安全に留意し参拝して下さい。神社に関して何かご質問があれば09062983254 古川までご連絡下さい。                       参加申込等:090-52892994(中島)


既にインターネット上には百嶋神社考古学研究会(神代史研究会)の全国blog連合体が形成されていますが(「ひぼろぎ逍遥」同跡宮参照)、2017年頭にも新たなblogが加わる予定です。これらのblog連合は事


sp103-8


実上の研究者による連合体であり、右から聴いて左から抜けて行く従来型の共同体化した研究会とは全く異なり確実に将来への遺産となる研究者による連合体に繋がるものになるでしょう。

 大山祗神社  米の山峠の脇の古社 筑紫野市本道寺    安楽寺(本道寺113)北 ため池下

 大山祗神社  米の山峠の脇の古社 筑紫野市柚須原上田  柚須原公民館前から左に300m入る

 村社若八幡宮 米の山峠の脇の古社 飯塚市山口中村    県道65号線沿線の山口公民館そば

 大山祗神社  米の山峠から左折し八本松付近から左折し400m 馬敷公民館前で一旦は現地集合


s@103-9

sp103-10
sp103-11

今回は筑紫から筑豊への古代官道 米の山峠の支配者が誰であったかを見てもらうための企画です。

この街道の西には本道寺、柚須原に二つの大山祗神社が鎮座し、峠を越えて山口に入ると、村社若宮八幡宮に仁徳天皇が祀られ、馬敷にも二つの大山祗神社が鎮座しています。若八幡宮には応神天皇が挿入され高良玉垂命は武内宿祢に置き換えられ八幡宮になっていますが、元は高良玉垂命と神功皇后それに仁徳天皇(跡継ぎとしての九躰皇子の筆頭長子)を祀る神社であったはずなのです。

北部九州の東西を繋ぐ要衝米の山峠を制圧する勢力がこの大山祗(月読命)を奉斎する民族であった事が分かりますが、西は大道寺、柚須原で、東は馬敷でこの陸の最重要路を押さえていたのでした。

恐らく、この神を奉斎する氏族とは、「先代旧事本記」の筆頭に書かれる二田物部=ニギハヤヒの一族で、この調査も熊本の益城以南から北上して来たトルコ系匈奴ではないかとの仮説の検証作業の一環なのです。


sp103-12


山口の村社若八幡宮



 筑豊から太宰府、久留米を目指す人々は、険しい冷水峠を避け、三郡山と大根地山の間の最も低い鞍部である峠(峠とはタワム、ダウ、ダワから派生した低い場所の意味)を抜けて直接太宰府に入ったことでしょう。ここで、高良玉垂命と仁徳(シレアシノミコト)に拝礼し進入が許されたのかも知れません。

村社若八幡宮に立派な参道橋が造られ、そこには今もきれいな水が滔々と流れ旅行者を癒してくれています。さて、西から東に進み山口の若八幡宮を過ぎると馬敷という隠れ里のような集落があります。この「馬敷」という地名が、熊本市の南の益城町の「益城」、筑後川右岸の朝倉市(旧甘木市)の「甘木」(ウマシキと読むべし)の地名移動なのです(甘内宿祢、美内宿祢(ウマシウチノスクネ)甘いは「ウマシ」とよばれています)。


sp103-13


では、益城、甘木、馬敷へと移動して来た「大山祗」を祀る人々とは如何なる民族だったのでしょうか?

それが今回の最大のテーマであり、列島の古代史を探る最大の謎なのです。

 少なくとも、筑紫~筑豊を繋ぐ陸路の要衝を押さえていたのがこの民族、コノハナノサクヤヒメの父神であることがお分かり頂けるのではないでしょうか?

 トイレ休憩も必要ですので(筑前大分駅)、馬敷から大分駅経由で大分八幡宮へと移動し解散の予定です。

カーナビ検索 篠栗線JR筑前大分駅 福岡県飯塚市大分6008-1 大分八幡宮 飯塚市大分1272


sp103-13

sp103-15

425 茂 賀 “古代に遡る肥後の巨大山上平野”  ②

$
0
0

425 茂 賀 “古代に遡る肥後の巨大山上平野”  ②

20161205

太宰府地名研究会 古川 清久


蹴破り伝承


いまさら童話でもないのですが、日本全国に「蹴破り小五郎」とか「蹴破り太郎」といった伝説が残っています。確か『日本むかし話』にもこの手の話があったと思うのですが、古代において、沼やため池の決壊によって水の抜けた跡地に流れ込み河川が付随する豊かな平地が残ることを古代人は経験的に知っていたはずです。このような古代湖の蹴破りによって、もしくは、地震や洪水などによる決壊によって山間の大平地が生み出されたのではないかと思われる場所を九州で拾えば、まずは阿蘇の阿蘇谷になるでしょうが、地形を考えても南郷谷(南阿蘇は近年の新造語ですので)は対象外になります。阿蘇と並ぶ巨大平野である人吉盆地。筑前夜明付近の狭隘部が詰まりやすい日田盆地といったものがあるでしょう。


425-1

阿蘇には蹴破り伝承があります。茂賀の浦の下流、塘(トモ)という小集落の鎮守にも蹴破りの伝承を持つ阿蘇神社があります。

そこから、池を切れば(決堤)そこに平らな肥沃な土地が生まれ、農地が拓けるのではないか?と考えるには、残り数歩だったはずです。既に弥生の農業が始まっていたと考えましょう。耕地を求める欲求こそ縄文から弥生への変化をなす最大の精神的動機付けだったのです。必要性は十分に生まれていました。ここに技術さえ加われば、それこそ一国をなすだけの力を得ることになるのです。そして、どうやらその技術は存在していたと考えられるのです。


都江堰(トコウエン)建設の古代技術


二〇〇八年五月、中国内陸部を巨大地震が襲います。多くの峡谷において土砂崩れというよりも、山体崩壊もいうべきものが頻発し多くの自然のダムができたことは記憶に新しいのですが、今回の中国大地震において最大の被害を受けた場所が都江堰市でした。堰とは分かりやすく言えば堤防であり、一般的にはダムと理解されても構わないでしょう。都江堰にはこの都市の名称のもととなった都江堰という堰堤があります。

観光地としても著名なこの堰堤についても一応は概略を説明する必要があると思いますが、拙著『有明海異変』で取り上げていますので、その一部をご紹介しておきます。


司馬遼太郎が見た古代のダム


ダムというものは遠からず砂に埋もれてしまうものですが、中国には二千二百年以上も前に造られて今でも機能しているダムがあるそうです。もはや故人となりましたが作家の司馬遼太郎が『街道をゆく』の中でそのダムのことを書いています(同シリーズ20「中国・蜀と雲南のみち」)。

   「町の中を過ぎるうちに、岷江に出くわした。北方の峻嶮岷山より流れてくる急流である。一橋がある。それをわたると、岷江のただなかにうかぶ大きな中洲に入った。中洲の先端を宝瓶口という。すでに、都江堰という紀元前二世紀に築造された巨大なダムの構造の一端に立つことになった。この中洲を、土地では、高堆とよんでいる。この堆も、紀元前、李冰がつくった(宝瓶口にむかって右側の玉塁山という山を断ち割って一水路をつくったために、高堆が河中に残った)のであろう。中洲の先端の宝瓶口の一帯は公園になっていて、さらにその先端に、古い道観(道教の寺院)がある。伏竜観という」


●二千年機能し続ける技術


   岷江は揚子江の支流で、灌県は四川省の省都、成都市近郊の町です。司馬遼太郎はこの都江堰の築造について次のように触れています。

「恵文王から二代目の昭襄王(紀元前三〇七~同二五一)にいたって、都江堰が出現する。『史記』「河渠書」では、<蜀の太守(地方長官)李冰が、乱流する川岸を削って離堆を切りひろげ、沫水(岷水のあやまりか?)の危険をふせぎ、別に二江(内江と外江)を成都の中に掘りぬいた。>とある」

この都江堰(注)は、完全に河の流れを塞いでしまうものではありません。半ば堰き止め半ば流しながら水を溜めて、必要なだけの量の水を取り込むというもので、このためにダムの最大の弱点である土砂の堆積という問題が初めから解決されているのです。

「都江堰は、多目的ダムである。岷江にいくつもの堰や堤をつくることによって外江と内江にわけ、外江は以前どおりはるか長江にそそぐのだが、内江は李冰のこの時期から成都平野へのあらたな流れになって美田をつくるもとになった。洪水のときは、その水が自動的に外江にさそいこまれるようになっていて、成都盆地へゆく内江には流れこまない。このためどれほどの大雨がふっても、成都盆地に洪水がおこるということはまずなくなった。内江はさらに、江安河、走馬河、柏条河、蒲陽河などに岐れて多くの野をうるおしてゆくしくみになっている。まさに李冰は一国をつくったにひとしい。かれの都江堰の灌漑面積はかつて三百万畝(二〇万ヘクタール)といわれたが、二十世紀の戦乱のために二百万畝にまで低下した。新中国の樹立後、大規模な修復工事がおこなわれて、いまでは約四倍にあたる八百万畝(五三万ヘクタール)の田畑をうるおしている」

この都江堰の仕組みは、ダムというよりは半閉鎖型の取水堰とでも呼ぶ方が適切かもしれません。当然、幾たびかの大がかりな改修工事が重ねられてきたのでしょうが、それでも二千年以上にわたって築造された当初の機能を維持し続けていることは驚嘆すべきことで、それは今日におけるダムによる治水・利水技術の根本的欠陥を指摘している生きた見本といえそうです。


概略は把握されたと考えます。茂賀の浦に関して、なぜ、中国の堰堤の話など持ち出したのかと考えられるでしょうが、考えて頂きたいのはその建設の方法なのです。

紀元前三世紀、建設を指揮した李冰に便利な建設機械などなかったことはいうまでもありませんが、内江を抜くために使った方法について、司馬氏は「岩をくだくため古代の工法は、まず大いに火で焼き、水をかけてはもろくしてゆくというやりかただったらしい。」と書いています。ここで気づくのですが、この時代こそ中原、堤想定の「弥生の茂賀の浦」の“蹴破り”の時代なのです。

諸葛亮孔明が活躍した三国志の時代の呉ではなく、「臥薪嘗胆」や「呉越同舟」で著名な紀元前三世紀の呉、越の時代に、漢民族の南下と圧迫によって、この技術を持った人々が船に乗り、組織的に九州の肥前、肥後、筑前、筑後の一帯に入って来たと考えれば、既に“蹴破り”のための技術は十分に準備されていたと考えることができるのです?


近世に生まれたカルデラ湖起源の小平野“田野”


熊本、鹿児島の県境に近い人吉市に、と、言うよりも、相良、薩摩の国境(クニザカイ)に近い人吉の南に二十数戸ほどの田野という小集落があります。田野は標高七〇〇メートルに近い人吉から鹿児島県大口市に越える久七峠の熊本県側最後の集落です。

この地は、二百五十年に起こり五百人余りの犠牲を出したと伝えられる球磨川の大災害“瀬戸石崩れ”の被災者の一部がこの地に移住したと聞き及んでいます。

既に現地を踏みましたが、集落の中心地には立派な造りの観音堂があります。堂内には一枚板に書かれた棟札があるそうですが、それによると、この地の開発は藩政時代の明和七年とされていました。つまり、田野の歴史は二百数十年程度ということになりそうです。このため、瀬戸石崩れによって直接的に入植が行われた訳ではないのですが、現地には瀬戸石から移住した家であったと言われる方がおられた事を現地にお住まいの前田一洋(熊本地名研究会)先生からお聴きすることができました。このため、現段階では大災害から十数年余りで瀬戸石周辺からも複数戸の、ある程度組織的な入植が行われたのではないかと考えています。

今後とも田野を訪れ、瀬戸石のその後の話を集録できればとも思いますが、もともと文書に書き留める余裕などありようもない開拓集落に多くを期待できないことは言うまでもありません。大雨による巨大な崖崩れと大洪水による明治期の奈良県十津川村の集落潰滅とその後の北海道新十津川村への移住については宮本常一や司馬遼太郎が書き留めていますが、規模は小さいものの、瀬戸石崩れのような大災害によって、天然のダム湖も生まれるのですが、同じ災害によっても、また、人の英知よっても、湖が平野に変わる事があるのです。現地を訪ねると、まず、その天上平地に驚かされます。ついつい、高天原とはこのような土地ではなかったかと思ってしまいます。さらに、この地はかつて噴火口であったと言われています。

太古、ここにはカルデラ湖が存在した時期があったのでしょう。そして、いつしか、地殻変動によって湖の栓が抜け、湖底に堆積した平地が現れ、大木が茂る森になったのだと思います。現在、この地の開発がどのように行われたかを知る手立ては前述の棟板以外にはありませんが、土地の古老にお話をお聴きすると、「田んぼの中には何メートルもの杉の切り株がいくつも埋まっている」ということですから、森の伐採に始まったと考えるべきでしょう。

また、“基盤整備がある前は腰まで浸かるような湿田だったので、竹を渡して田植えをしていた。…”といった話を現在も聞くことができます。

いかなるカルデラ湖といえども、水が溜まるものである以上何らかの形でオーバー・フローする場所が形成されるはずです。その吐き口は水圧や吐き出しによって徐々に崩れてゆくことでしょう。一方、湖は周りの斜面から供給される土砂によっても浅くなってゆくことになります。そして、最期にはそこに住み着いた人々の努力によって、蹴破りが行われ、湿地を改良するということになるのです。

ここは標高七〇〇メートルの高地です。このため、南国といえども毎年何度か三〇センチの積雪を見ると聞きます。

この清涼な天上楽園を発見した事は大きな収穫でした。田野はまさしく人々がどのようにして平地に住み着いたかを知る一つの手がかりを与えてくれているのです。


キクチ(ククチ)とは何か? そしてモガとは?


そもそも、茂賀の浦を調べ始めたきっかけは、中原 英 先生から電話を頂き、「菊池盆地のキクチという地名の意味は何でしょうか?」というお尋ねを頂いたからでした。中原先生とは、以前、あるシンポジウムで一度お会いしたことがあり、茂賀浦研究のことは知っていましたので、ご質問の意味は直ぐに理解できました。ただ、キクチの語源については、地名研究の世界ばかりではなく、古代史研究の世界でも幾度となく試みられ、決定打がなく、ほぼ全てが退いているのが実情であり、未だに通説らしいものがないのが実情なのです。しかたがなく、「古くはククチなのでしょうが、クキチであれば狭隘地といえないこともないのですが、現地は逆に広大な平地であり対応しませんしね…」「わたしは、キクチについては追求をあきらめており、むしろモガの方が興味があるのですが…少し考えて見ます…」といった話でお茶を濁しました。

なぜ、菊池の中原先生から地名についてお尋ねがあったのかは不思議でしたが、折りしも、久留米地名研究会の設立に動いていた時期でもあり、否応なく立ち向かわざるを得なくなったのでした。

もしも、中原、堤想定が正しいとして、茂賀浦が実在したとした場合、キクチという地名にはこの巨大な湖が直接反映されているのではないか、少なくともこの湖の存在を前提にした自然地名ではないのかという考えが浮かんできたのでした。

当然ながら、地名探査において通常使用する古代語事典、地名事典といったものから、アイヌ語、朝鮮語といったものまで見ても、とても結びつきそうなものがなく、考えあぐねている時、以前、読んだことのあるネット上のサイトにキクチ、ククチがあったことを思い出しました。九州では特にそうなのですが、倭言葉、朝鮮語、アイヌ語、最近ではドラヴィダ語などを考えてもどうにもならない場合、マライ・ポリネシア系の海洋民族が持ち込んだ地名ではないかと考えることが有効であることを経験的に知っていることから、以下のサイトを再度読み直したのです。それは、


地名の意味を探り、古代史を見直し、縄文語を発見するページ
夢間草廬へようこそ!」 ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源


http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei15.htm


 古く縄文時代の昔、日本列島には原ポリネシア語を話す民族が南方から渡来して住み着き、原ポリネシア語で地名を付けていたと思われます。
 その地名は、昔も今も殆ど変わらない発音で生きて使われています。 
 しかも、古事記、日本書紀などの古典や、日本語の語彙の中にも、多くの原ポリネシア語源の言葉を見出すことができます。


と、いうもので、非常に有力なサイトと思われます。

無論、マライ・ポリネシア系言語など「ハリマオ」(ハリマオとはマレー語で虎を意味する)程度しか知りません。自宅にも父(陸軍航空隊のポツダム中尉)が使っていた、それこそボロボロの昭和一七年三月発行の「マレイ語の話し方」学習の友社(七十五銭)があるのですが、とても学術的なものではありません。

ところが、「夢間草廬へようこそ!」を見ると、


「ククチ」、KUKUTI(draw tightly together,contract,pinch)、「締め付けられた(細くなっている。湖)」


と、このように書かれているのです。さっそく中原先生にお知らせしましたが、開口一番、「菊鹿(キクロク)盆地は絶えず沈降し続ける地溝帯であり、締め付けられて細くなった湖ということは一致しますね…」でした。もちろん、「古代人に地質学的な知識などない訳ですから、細い池ということなら恐ろしいほどの一致ですね…」と返したのですが、実際、手で握り潰して縮んだ形とは、茂賀浦の形状と一致します。実際、これ以上の一致はありえないでしょうが、ここではこのような想定もありえるというところで留めておきたいと思います。もしも、他にも系統的にポリネシア語で解釈できる地名があれば、一応これで説明できると考えたいのですが、どうせ、学会など鼻にもひっかけないはずですから、仮説の仮説として提案だけにしておきたいと思います。

 残るのは茂賀ノ浦のモガですが、“藻が生えた浦”(もちろん、大した水深もなく大量の光が入る湖であることから、一面に藻が生えていたことは間違いないのですが)と考えられれば楽なのですが、ことはそれほど簡単ではないように思います。

 もしも、茂賀浦ならば茂+賀=が(格助詞)浦ならば、それで良いのですが、茂賀ノ浦ですから、そのまま考えれば、“茂+賀が+の浦、と、格助詞が重なってしまうことになるのです。もちろん、「私と彼とが一番上手だった。」という表現があるように、格助詞が重なる(この例では”と“+”が“)ことが全くない訳ではありませんが、これはやはり例外的な表現なのです。

 と、すると、やはり、茂賀こそが中心的な“語幹”なのです。では、“もが”とは何でしょうか、菊地をククチとし、ポリネシア語で納得したのですから、同様に、モガもその線で考えなければ整合性が取れないのです。

 素人だからできることですが、大和(倭)言葉で考えようが、朝鮮語、アイヌ語、マレイ語、はては、ドラビィダ語までも持ち出して考えても全く見当が付かず諦めてしまいました。

 とうとう、中原先生を連れ出し、もしかしたらヒントが得られるのではないかと人吉市の上漆田町にある茂賀野湧水と言う水源地まで行くことまでしたのですが、茂賀ノ浦と条件は似ているものの、決定打を得られるまでもなくすごすごと帰ってきたものでした。

 最後に一つだけ可能性があると考えたのが殯(もがり)でした。元々はこの線で考えていたのですが、確たる根拠はほとんどありません。茂賀ノ浦に面した垂直の崖のかなり高い場所に数えきれないほどの横穴墓がある菊鹿盆地にはぴったりのように思えたのですが、良く考えれば、殯(もがり)とは、裳上がりの省略形であり、『日本書紀』にも「殯」は「」(裳上がり)とされているのです。茂賀(もが)が「裳上がり」の音韻脱落とはちょっと無理があるように思えたのです。

 結果、茂賀ノ浦の意味は全く見当が付かないまま諦めてしまいましたが、どなたか答えを出して頂けないでしょうか。

 多くの古代史書に書かれる「倭は呉の太伯の後」という著名なフレーズであり、春秋戦国の呉越の民の中にも、さらにそれ以前からも多くのマレイ・ポリネシア系の人々がこの地に入っていたと思うからです。

最後に気になるのが菊池という漢字の表記のことです。東北地方に池ではなく地と書く菊地(キクチ)姓が非常に多くあることは知られていますが、北の菊地一族はあくまで地の菊地に拘り、九州のそれは池の菊地にあくまで拘り続けたと言われています。もしも、菊池の池が茂賀の浦の池や湖であったとしたらとても面白いのですが、もちろん、これに別の謂れがあることを知った上の話です。


茂賀の浦の意味するもの


堤研究にも明らかですが、茂賀の浦には、複数の伝承があることから、一方においてはは民衆の中に生きる伝承として、また、一部には古文書として限られた人々には知られていたのかもしれません。

しかし、一般的にはこのように巨大な湖があったなどという話はこれまで全く聞いたことがありません。

中原、堤 両研究者による想定“茂賀の浦”は、肥後が古代史の世界においても極めて重要な場所でもあることから、相当に衝撃的な大発見と言えるでしょう。

 ただ、この研究は既に五年前に発表されているのですが(於:菊池市)、これほどの大発見にも関わらず、奇妙にも正当な評価がされていません。

 それは、恐らく中央の史書に書きとめられていないことから来るものなのでしょう。仮に古代国家の確立を大化の改新や記紀の成立とすれば、それらに先行すること五百年から千年前の話であり、言わば、国家の記憶、民族の記憶としても限界があったのかもしれません。

 しかし、費え去った記録、もはや途切れんまでも細くなった人々の記憶、失われんばかりの土地への痕跡を手繰り寄せ私達の眼前に、古代の巨大なまでの真実を明らかにしてくれた中原、堤研究という英知に対して、今更ながら、驚愕と賛辞とを贈りたいと思うばかりです。さらに、現代への想いを巡らせて考えれば、何故三号線が海岸部の玉名を経由せずに北部丘陵を通されたのかという素朴な疑問へも答えを与えているようにも思えるのです。

425-2

菊池神社


最後になりますが、最近、菊池(川流域)地名研究会の結成メンバーである菊池市久米八幡神社の吉田正一宮司により、「茂賀浦はなっかった」という講演が行なわれましたが、その際、「茂賀浦」は「もがのうら」ではなく「しかのうら」と読むべきではないかとの提案がありました。

菊池盆地に多くの海神神社があり、菊池盆地に「久米」「宗像」「志々岐」・・・といった多くの海洋民が付したと思える地名もあることから、古くからこの湖に海人族が住み着いていたことは明らかです。

このため、安曇族の拠点であった博多湾の「志賀島」を思わせる「しかのうら」との読みは魅力的です。いずれ、ネット上にお出しできるときもあるでしょう。

今は、「茂賀浦」が非常に浅い湖であったことから、光が十分に入り、一面に水草が茂る「藻ガ浦」であったということで、一応は納得しています。

426 井 流(イリュウ) 

$
0
0

426 井 流(イリュウ) 

20080505

太宰府地名研究会 古川 清久


この奇妙な地名に遭遇したのは十年ほど前のことでした。場所は不知火海に面した天草上島、旧姫戸町(現上天草市)の二間戸地区です。現地は神代川河口に造られた干拓地北側の山の裾野です。

二間戸という名のとおり、かつては奥行きのある入江が二方向に伸び、その一方が干拓にされているという訳です(岡山県の牛窓も二間戸の類似地名ですね)。

さて、干拓地に一番必要とするものは水です。

井を農業用の水路とすれば、流れるのは当然で、「なにもおかしくはないじゃないか」と言われそうですが、はたして、そうでしょうか?まず、農業用水路があるところに「イリュウ」という地名がごろごろ転がっている訳でないことは明らかです。


426-1


当時はその程度の認識でしたが、その後、同一地名と考えられる井龍(イリュウ)に遭遇するのです。

それは島原半島の南東部、旧西有家町の山中、現南島原市の一角でした。

これでイリュウが単なる固有名詞ではなく普通名詞である可能性を考えなければならなくなったのです。


426-2


口之津の史談会で地名の話をしていると、「イリュウという地名があるが意味が分からない…」という話が飛び出しました。直ちに「天草上島にもイリュウがあるんですが、私も見当が付かないでいます…」と返答しました。

普通は二箇所でも同一もしくは類似する地名があると、両者の共通性を見出すことができるため粗方の見当が付くものなのですが、この場合は無理でした。

しかし、謎は解けるものです。「夜若」で取り上げた九州大学大学院比較社会文化研究院の服部英雄教授(当時)の『地名のたのしみ』(角川ソフィア文庫)にもこの「イリュウ」について書いてあったのです。

イリュウ、ヨウジャクと同じ問題意識を持たれていたことに小さな驚きを感じた瞬間でした。敬愛する服部先生のことでもあり、先達の研究があることですから、ここでは、主要な部分をご紹介し終わりとします。

服部教授は沖縄の三母音の傾向が認められる九州西岸においては、O音がU音に入れ替わることが多いことから発想され、


…こうした互換性を考えると、イリュウはイリョウである可能性が考えられた。古文書にイリュウがあることは知らないが、イリョウならばしばしば登場する。すなわち井料である。井料とは井、つまり農業用水の維持管理にあてるための料田である。料田とは年貢が免除され、かわりにその分が用水や灌漑施設の維持費用にあてられる田をいう。だから井料田とも書かれる。井路田という地方もある。

…(中略)…

イリュウは井料の意味である。わたしはそう考えている。

このことを積極的に証明してくれる事例にはまだ遭遇していない。しかしあとにも述べるように、領主直営田地名である用作や正作地名に隣接して、井料という地名がある事例は多い。そして同じく直営田地名に隣接してイリュウの地名があることも、これまた多いのである。イリュウ(井料)もまた村落構造を考える上でキーワードになりうる地名である。…


これ以外にも同名と思える地名に幾つか遭遇しましたが、ネット検索を行ってもかなり拾えます。

皆さんも試みて見られたらいかがでしょうか?久留米市内にもありますよ。


426-3


426-4


スポット104 高良大社と宮地嶽神社の謎を解くみやま市山川町の謎の神社

$
0
0

スポット104 高良大社と宮地嶽神社の謎を解くみやま市山川町の謎の神社


20170531

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回は、以前から懸案であった山川町の山神宮の意味をようやく理解できる端緒が掴めましたので、途中経過ながらその一端をご紹介することにしました。


 場所は、筑後、肥後(九州王朝時代の筑紫と肥前の…)の国境の山川町(現みやま市)の難関インターに近い一角です。


 対応が遅れたのは、高良神社が背後に存在する事に気付かなかったからでした。


何度か訪問していましたが、当時は、山神宮の境内地だけを探し、高良神社の片鱗も無い事からそこで思考をストップさせてしまっていたのですが、メンバーの大石氏はその裏手の小丘の上にも高良神社が置かれている事を知っていたのでした。その事を最近になって教えられ、やっとスタート・ラインに立てたのでした。


sp103-1

sp104-2
sp104-3

この神社がどれほど重要かは語り尽くせませんが、捏造され塗り潰された列島古代史の一端を垣間見せる筑後でも最も重要な現場がこの二社の祭祀連合体なのです。

百嶋先生の話を聴いていて最も理解できなかった部分が、久留米の高良大社と福津市の宮地嶽神社の関係でした。

現在把握できているだけの範囲でお話し致しますが、筑紫舞が継承され九州王朝系と呼んで間違いない宮地嶽神社は、現在、神功皇后と勝村大明神(藤勝村)、勝頼大明神(藤勝頼)を祀る神社とされています。

ネット上でも、この勝村、勝頼という近世風の氏名から古代(若しくは神代)のものではないとして、祭神を宗像徳善とその臣下ぐらいなどと好い加減な見当を付けた意見が提出されていますが、まさに表面だけを浚った通説風の浅い追従論でしかなく、それも、宮地嶽古墳の主を宗像徳善…云々(Nダニ…)といった話が小田富士雄説の修整により潰れた事によっていずれは自然消滅していく事でしょう。

まず、宮地嶽神社は、現在、同社の祭神を神功皇后とその臣下である藤勝村、藤勝頼とされています。

百嶋神社考古学では、高良玉垂命(実は開化天皇)と仲哀死後の神功皇后との間に産れた第二子、第三子(朝日豊盛命、夕日豊盛命=九躰皇子の二子、三子…長子は仁徳天皇)とします。

このため、宮地嶽神社では高良玉垂命を伏せざるを得ない圧力があり、祭神までも変えていると理解しています。

一方、列島最高の権威を持った神宮以上の存在の神社であった久留米の高良大社も、本来は高良玉垂命と神功皇后それに仁徳を祀る神社であったはずなのですが、こちらは神功皇后と仁徳とを隠し全く無関係を装う事を持って生延びたのでした。

何故、そのような事が言えるかというと、筑後の重要な高良宮、玉垂宮といったものには、この高良玉垂命と神功皇后を主神として祀った痕跡が複数あり、それ以外にも、高良神社と、若宮神社として仁徳を祀る祭祀が国東半島を始めとして山梨…全国にも数多く拾えるからです(これについては半端な数ではないので「ひぼろぎ逍遥」跡宮のバック・ナンバーをご覧くしかありません)。

要は、本来、同一の祭祀(宮地嶽神社での高良玉垂命は、まだ、天皇にはなっていない、四王子山から高良山に上り天皇となる)の神社であったものを、宮地嶽神社では、ワカヤマトネコヒコを隠し、高良大社ではオキナガタラシヒメを隠す事を持って九州王朝の背骨を押さえ九州を平定したと考えるのです。

これこそが列島の神代と言うよりも古代史の最大の謎の部分であり、全国の九州王朝論者の方々にあってもほとんど理解されていないのです。

それは、フィールド・ワークの欠如(勿論、東北北海道の方々には中々要求できませんが…)による文献偏重が齎したものです。

九州王朝論者でも、ほとんど、百嶋神社考古学の学徒だけが懸命に取り組んでいる状態なのです。

従って、如何に古田精神を継承しようされても、現場に入らない方々ばかりでは、「高良玉垂宮神秘書」に書かれた右の部分の一端さえも理解できずに、95パーセントが嘘(百嶋由一郎氏)と言われた「記」、少しは本当を書いている「紀」の藤原の罠に陥り、通説派にあしらわれてしまう構造にあるのです。

まさに、「記」「紀」をベースに古代の解明をされる方々の熱意と努力には敬意を表しますが、これ以外にも「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)には多くの謎が隠され閉じ込められており(例えば欠史八代と言われる天皇の中にも多くの九州王朝系の臣下が天皇として差し入れられている…)、これらの謎を解明する事無く九州王朝論云々する事は、ほとんど、素振りに近く、それ以下の「全国邪馬台国シンポジウム」などに取り組んでおられる方々、ましてや邪馬台国畿内説論者などという方々のお話に至っては、ほとんど漫画に近い構造になっているのです。

このような列島古代史の最大の謎であり同時に罠の部分を解明する鍵になるのが今回の山神宮であり、この地が山川町であることも、久留米市の高良大社直下の山川町(校区)に九躰皇子を祀る高良皇子神社、坂本宮が存在している事を意識せざるを得ないのです。

百嶋先生が話されていた事を再構成すると、あれほど重要な天皇と皇宮皇后のご夫婦でありながら、宮地嶽神社でも高良大社でも夫婦別れをさせられている。

それを、年に一度ぐらいは夫婦をご一緒になる様にお祀りをさせようではないか…と判断し、表(下)は、宮地嶽神社、裏、奥(上)は高良神社という形で祭祀を行った形が認められる事から、この神社(山神宮)を創ったのは、恐らく、菅原道真公であろうと思います…。横に道真公もちゃっかり祀られておられます…。と言われていました。

この分離された高良玉垂命と神功皇后を復元しようとした神社ではあったのですが、現在は山神宮(山神社)として大山祗を祀る神社とされています。

神社を見ると、三階松の神紋が打たれ、神功皇后と仁徳と考えられる神像、道真公と思われる人像が下宮と言える山神宮の神殿に納められているのです。

逆に言えば、偽装して本当の祭神を守っているとも言えそうですが、現地のヒアリングを行っていないためこれ以上の踏み込みは許されないでしょう。

では、その神社をご覧頂きましょう。


sp104-5


sp104-6


sp104-7

sp104-8

sp104-9

神殿の御簾の内側には高良玉垂命が鎮座されていました 御簾を揚げる事から打上(ターシャン)神社と呼ばれる高良神社もありますが(大阪府) 神殿には鍵も掛けられておらず、少し開いていましたので きちんと閉める必要もありその前に少し覗かせて頂きました 「高良玉垂宮神秘書」では底筒男は月神とされています 高良玉垂命は月神でもあることから右三つ巴とも対応します

神像は一体で 御幣では三神とされている意味は 下宮の山神宮の神功皇后+若宮+高良玉垂命と理解しています これもいつ隠されるか分からない貴重な神社であり 第一級の文化遺産ですが 歴史ファンと称する方々も、村興し町興し宜しく宗像の馬鹿騒ぎしか関心がないようです

427 朝倉市杷木町の大山祗神社とおしろい祭 

$
0
0

427 朝倉市杷木町の大山祗神社とおしろい祭 

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161212

太宰府地名研究会 古川 清久


大分自動車道の杷木ICから東に10分ほどのところにある山奥の小集落におしろい祭で知られる大山祗神社があります。


427-1

しとぎを顔に塗り豊作を願うと言う風習、もっと言えば、奇習、奇祭といった面だけを、町興し宜しく宣伝されていますが、これについてはそれだけでは済ませられない列島神(古)代史の重要な側面が表に出ているものと理解しています。

 この内容は、千数百年の長きに亘ってひた隠しにされていた可能性があり、一度に、説明したとしても凡そ理解して頂けないと考えています。

 ただ、後世にこの重要な側面を伝え残すためにもそろそろ重い腰を上げなければならないと考ええているのですが、まずは、表層の解説からご覧いただきましょう。


おしろい祭り

  日時:122日  1400

昔からの「伝説」によると、大山祗神社を「山の神」と呼び、山の神は元来「女の神様」といわれています。その「女の神様」がお化粧をする事を意味し、「おしろいをぬる」といわれています。

このおしろいは、新米(初穂)を粉にして水でといて(しとぎ)顔にぬるもので、昔の農家の人が、氏子の繁栄と新穀の豊作を神に感謝し、来年の五穀豊穣を祈願する、全国でも類のない奇習とされています。

おしろいの顔の付き具合で来年の「作柄」を占い、このおしろいは家に帰るまで顔を洗ったり落としてはならず、火の中に入れると火事になり、帰って牛馬の飼料に混ぜて飲ませると無病息災だといいます。

当日は午後2時頃から宮座が始まり、宮司のお払いがあり、祝詞が奏上されます。拝殿で氏子全部が宮座の膳につき、座元の人達は大きな鉢にしとぎを持ち出して宮司の顔から塗り始めます。


427-2

による

 問い合わせ先:道の駅「原鶴」インフォメーションセンター

       電話:0946-62-0730

       住所:朝倉市杷木大山

       地図:http://goo.gl/maps/pb0kT


427-3

現在、百嶋神社考古学を追い求める当方の研究者たちが最も関心を寄せているのが、故)百嶋由一郎氏の遺言と言っても良い証言で、それがこの神社に関係しているのです。

(音声CDが必要な方は09062983254まで)。


神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界 --- もう一つの神々の系譜


源実朝以降に、朝鮮人である神様を日本の偉い神様にしておくのはまずいということで削ってしまった。削られたお宮さんは困りますね。田主丸のさんや様、おしろい祭りをやっているおおやまつみ神社、あそこは困って祭神すり替えをやっている。すなわち、政府が許すという範囲のことしか表に出してはいけないというお触れに従ってごまかしておられる。ところが、ナニクソ、こんなこと発表して構うもんかと、熊本城ががんばられた。熊本城の本丸の地下にゆくと王照君の間がある。古代中国の4大美人、西施、王照国、貂蝉、楊貴妃ですが、王照君は100%消された朝鮮人ですね。さて、その消された朝鮮人の神様のお子様が、田主丸のサンヤ様、そしてそのお子様が大国主です。


中国4大美人、西施(年齢は2500何十歳)、そして次の方、王昭君、熊本城の大広間に行くと王昭君の絵がでかでかと描いてあります。そしてこの人こそ大国主命の先祖とお考えください。秘密にされておりますけれど、間違いございません。その代表的な裏付けとなるひとつに、朝倉のおしろい祭りがあります。朝倉の大山祇神社、ここでははっきり書いてありますが、ご祭神を王昭和君と書くわけにはいけないから、遠慮して遠慮して、ご祭神はもとは女であった、そしてお化粧が云々と書いてあります。この人の年齢は紀元前33年に嫁がれたそれに20歳プラスなさったらよい。この人の血統も秘密になっていますが大体わかります。いずれ機会があったら、その時話します。次は、貂蝉(ぴゃおちゃん、ちょうぜん)、1800年前曹操が天下を取った時代にずるい賢い連中がこの人を使って、最後にこの人を使い切ったのは曹操です。最後の方は1300年前、楊貴妃(やんくいへ)以上の4人が古代中国4大美人です。 


肥後の翁のblogから一部切出し


まず、十五夜お月様を愛でる風習については、現代人にも良く知られています。

田主丸の「さんや様」とは「二十三夜月待ちの風習」(一部には「講」を作り、その仲間で御馳走を食しながら月の出を待ち、月が現れるとそれをめで拝んだ)の残る領域と重なるもので、月、“うさぎ”などがシンボルになっています。

一方、同系統のものかどうかは不明ですが、十三夜や二十六夜待ちの風習は非常に薄くなっているようです。

 ここで、「神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界」を読まれた方に誤解がないように先手を打っておきますが、ここで朝鮮人と言う場合、現在の朝鮮人をイメージすると全く訳が分からなくなってしまいますので、若干のコメントを加えておきます。

 古くは呉の太伯王(周王朝の長子)の子孫=“倭人は呉の太伯の裔”を筆頭に、列島には多くの渡来系民族、氏族が雪崩れ込んでいます。

 百済、新羅、高句麗はご承知の通りですし、秦の始皇帝の支配を嫌い半島に逃げて来ていた秦の臣民、後には漢帝国に滅ぼされる秦(秦氏=嬴…瀛氏)の王族、官僚、武人、技術者…、そして、漢王朝も同様に…(恐らく、綾氏、笠氏…)、鮮卑、恐らく、燕、趙、魏、晋、漢、斉、楚、五胡十六国時代の民族の一部も、繰り返し、繰り返し多くの人々が押し出されてきたのでした。

 従って、現在の半島には古代朝鮮人の中枢部(王族、学者、軍部、技術者)は残っておらず(百済、新羅、高句麗にしても同様)、残ったのは新権力に手のひらを返すように態度を豹変させ、直ぐに強い者、得な側に従う節操のない人々(これが毎日年から年中、嘘を付き続けている現代の中国、朝鮮の民族体質に繋がっていることは半島の大統領弾劾などにも認められる現象ですね)だけで、古代朝鮮は列島にそのまま移ってきていると考えるべきなのです。

 つまり、簡単に言えば古代の朝鮮人こそが列島人であり、現代の半島人とは古代朝鮮人などではなく、新たに生じた(生じ続けた)空白に北方から侵入し続けた濊(わい、拼音: Huì)、鮮卑などと入れ替わって人々のことなのです。

 つまり、玉突き状態で新世界としての列島に移動した優秀な人々によって形成されたのが列島人だったのです。そこまで、理解して頂いたうえで、この月を愛で、うさぎの狛犬を置く様な民族集団とは何であるのかを考える事が今回のテーマです。

 ただ、非常に多くの説明をする必要があり、今回はその骨格だけをお話しするだけになります。これについては、現在、500シートのパワー・ポイントとして朝来(アサクナ)を作成しています。

 あくまで途中経過ですが、この問題に近接する内容となっています。


427-4

必要とされる方は直接09062983254までご連絡ください。

 以降は随時続編で書くとして、ここでは、大山祇神社をご覧いただきます。


427-6

Viewing all 723 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>