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202 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”①

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202 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”①

20150408


久留米地名研究会 古川 清久


地名研究会とは言いながら神社の話ばかり…との声も聞こえてきますので、少しは地名の話も入れて行くことにします。

 穴掘り考古学が佐原 ○などの考古学村(考古学協会)によって占拠されて以降、古代史探求に於いては考古学が全く解明の手助けにはならない!と考えるようになってこのかた、利権構造の薄い他の分野、例えば地名研究、民俗学、言語学、神社研究、照葉樹林文化論…などに依拠する以外に方法はないと考え、いつしか百嶋神社考古学の深い海溝にコワゴワ降りて行く事にしたのですが、時として息苦しさも感じて、少しは陽の差し込む浅海にも戻って行こうと思うものです。

まず、地名研究で取り上げようと思うのは、「釜蓋」です。

 
202-1本稿は、既に久留米地名研究会のHPに全文を掲載し、3年前に久留米大学の公開講座でも発表したものですが、これから何回かに分け、新たな編集も加えて読者の皆さんにご覧いただきたいと思います。

 今の時代は、長文をゆっくり読んで下さる方は多くはありません。このため、ビジュアルかつ「マイアミバイス」(古い!)や「CSI」「モンク」「スタートレック」TV版…などのような読み切りタイプで提供しなければ全く対応できないのです。

 この話は谷川健一の「続 日本の地名」(岩波新書)に収められた熊本県宇城市にある「永尾」(エイノオ)という奇妙な地名を“外にもあるはずだと”ばかりに探す過程で、「永尾」地名ばかりではなく「釜蓋」という同一の意味の地名がその何倍も存在している事に気付き書いたものでした。

 特に集中しているのは北九州の古代の海岸部であり、古代に於いて最も重要な、瀬戸内海航路、日本海航路、豊予航路、玄界灘航路の全てを制圧できる位置に存在しているという事実にも気付いたのでした。

 一方、「釜蓋」姓は全国で10件ほどあるのですが、この話は置くとして、実はこの「釜蓋」地名が黒潮に乗って南米のエクアドルまで移動していると言う驚愕の話まで展開します。

 まずは、「永尾」地名の分布から考えて見て下さい。


 今回も余白ができましたので、今回も吉田画伯の素晴らしい絵をご覧いただき目を休めて頂きます。


202-2


「ながれが帰ってきた」 吉田耕一(熊本県芦北町)

「釜蓋」(カマブタ)“宇土半島の永尾(エイノオ)地名を古博多湾に発見した”

202-3


本稿は、「地名研究」から古代史をどこまで見通すことができるかを探る実験稿に過ぎません。しかし、①「日本書紀」にも関連する記載のあるニニギの葬地=「可愛山稜」を、「可愛」と書き、なぜ「エノ,エノウ」山稜と読ませるのかという長年の課題に対して一つの仮説を提出するとともに、②古田 武彦氏が『「邪馬台国」はなかった』の後段において裸国、黒歯国、を南米のエクアドルに比定したことに対して、一部の筋から嘲笑が送られたことについても、本稿の「釜蓋」をもって太平洋を大航海するダイナミックな倭人の姿をもって、氏の説を補強したいと思います。

 さらには、釜蓋地名が異常なほどの集中を見せる北九州の問題を九州王朝論の立場から探ってみたいと考えます。

さて、福岡市博多区白木原の東(旧大野村)に釜蓋(カマブタ、カマノフタ)という奇妙な地名があります。まず、一般的には理解できない地名の代表格といったところではないでしょうか。

謎解きを始める前に場所を確認しましょう。大野城市大城の大城4交差点から大城山、大城小学校から流れてくる小河川沿いに少し上ると釜蓋公民館があり、釜蓋というバス停があります。ただ、太宰府一五〇〇〇分の一クラスの道路マップでも小さく釜蓋と表記されているだけで簡単には見つかりません。このため実際には太宰府インターの出口から約四〇〇メートル北辺りを探す必要があるでしょう。


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釜蓋とは何か?


大野城市大城山の裾野に釜蓋はあります。特別な資料でもない限り地名研究では、類型地名を拾い出しその共通点を見つけ出すという方法を取るのですが、実はこの類型地名が言うほどはないのです。

目立つ地名としては、開聞岳に近い鹿児島県頴娃町の海岸部に張り出した岬に釜蓋大明神という神社があります。もちろんこの神社も関係があるのですが、これに纏わる話は後に回すとして、まずは、民俗学者谷川健一の『続日本の地名』(岩波新書)から始めましょう。

この本には熊本県の宇土半島に永尾(エイノオ)という土地と永尾神社という奇妙な名の神社があることが書かれています。

不知火町の永尾神社は宇土半島の不知火海側の中ほどに位置し、今なお“不知火”の見える神社として著名ですが、この永尾(エイノオ)とは、エイ(スティングレイ)の尾のことではないのかとするのです。

もちろん日本地名研究所所長であり民俗学柳田国男の弟子に当たる谷川氏によるものですが、詳しくは第二章[エイ](永尾)や、関連の著作をお読み頂くものとして、簡単にこの地名の概略をお話しましょう。

永尾神社は別名“剣神社”とも呼ばれています。これも尖った岬の地形からきているものでしょう。

この神社は、西の天草諸島へと向かって伸びる宇土半島の南岸から不知火海に直角に突き出した岬の上に乗っています。現在では干拓や埋立それに道路工事が進み分かりにくくなってはいますが、かつては山から降り下った尾根が海に突き刺さり、なおも尖った先端がはえ根として海中に伸びる文字通りエイの尾の上に社殿が乗っているような地形だったはずです。そしてその岬は背後の山に尾根として延び、古くは、両脇に本浦川、西浦川が注ぐ入江が湾入しており、尾ばかりではなくその地形はまさしくエイのヒレの形を成していたと考えられるのです。


丘には永尾神社が祀られている。祭神は鱏(えい)である(本章扉参照)。永尾というのはエイの尾を意味し、尾の部分の鋭いトゲになぞらえて、別名を剣神社とも称する。これには一匹のエイが八代海から山を越して有明海に出ようとして果たさず、ここに留まった、という物語が絡まっている。永尾(エイの尾)に対して、内陸部にある鎌田山はエイの頭部に見立てられている。

   ここで思い出すのは沖縄ではエイ(アカエイ)をカマンタと呼んでいることである。(英語でエイをマンタというが、もちろんそれとは関係がない。)カマンタの意味をたずねて、カマノフタである、と聞いたことがある。『日本魚名集覧』を見ると、ウチワザメのことを国府津(こうず)ではカマノフタと呼んでいる。またサカタザメを静岡県ではカマンド、愛媛県ではナベブタウオと呼んでいる。サカタザメは鰓穴(えらあな)が腹面にあるのでエイの仲間に分類されているが、その呼称もエイとかエエとか呼んでいる地方が多い。要するにサメもエイも同類と見られていた。そこで永尾にある鎌田山の名称もエイを指す方言に由来するのではないかと考えてみたことがある。・・・(中略)・・・熊本県不知火町の永尾地区では、今もってエイを食べないが、沖縄ではサメを食べない地方や氏族集団が見られる。・・・(中略)・・・恐らく永尾も、古くはエイを先祖とする血縁の漁民集団がいたところであったろう。

『続日本の地名』(岩波新書)


202-5


まだ、なんのことだかお分かりにならないかと思いますが、この地名が存在する事は実に衝撃的で、良く言われるところの古博多湾というべきものが現実に在り、そこに突き出した岬状の舌状台地をエイの尾と見立てた人々が住み着いたことを示す痕跡地名であると考えるのです。

もちろん、釜蓋とは南方系の魚撈民が呼ぶエイであり、同時にこの地名が存在することは、地名の成立した時代の汀(波際)線を今に伝えるものと言えるのです。

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永尾神社由緒


縁起には鎌田山のことが書かれています。釜蓋とは単に表記の違いのようにも見えますが、大釜や大鍋の蓋の取手を頴(エイ)の背骨に見立てれば、釜蓋という地名に意味があることがお分かりになるでしょう。

もしも、沖合を進む船の上からこの地形を見た場合、海に伸びたエイの尾状の岬と、潮流により形成された湾曲した砂浜の形が、文字通りエイの尾とヒレに見えるところから、まさしくエイが陸に這い上がった姿に見えたことでしょう。実は冒頭に芥屋の大門の写真を掲載していますが、まさにこのような地形こそが私が言うところの永尾地名なのです。

このように、釜蓋とはエイを強く意識する人々によってもたらされたものであり、この南方系の海の民がこの地に定着した時代があったこと、そして、その時代この地が波に洗われていたことをも同時に意味しているのです。

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ここで釜蓋を考えて見ましょう。いわゆるお釜(ハガマ)の蓋ではなく鍋蓋を考えればエイの形状と合うかも知れません。

ハガマが普及するのは江戸の半ばからで、それ以前は、鍋でお粥や雑穀雑炊ばかり食べていたのですから、こちらが一般的だったはずではあるのです。エイに見えますか?



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「この類型地名が言うほどはないのです。」と前述しましたが、それでも目に付くものを拾い出してみましょう(正確な拾い出しではありませんのでご注意を…)。

当然にも大半が海岸部の地名になります。『日本の島事典』1995年(三交社)によると、釜蓋地名は日本海側に散見されます。

新潟県の上越市や遠く青森県にも拾えますが、現地を確認していないこともありここでは触れません。


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ただし、後で分りますが、この程度のものではなく、実に、夥しい数の永尾地名があることが分ってきたのです。

恐らく、この地名を各地に残した人々は、それなりの人口を持ち、かなりの移動性を持っていたようなのです。

釜蓋という地名の見当がついたところで、冒頭に述べた福岡市博多区白木原の東(旧大野村)、釜蓋(カマブタ、カマノフタ)の古い地図を見てみましょう。これは陸軍測量部(後の国土地理院)が作成した地

図ですが、これならば都市化で消えた地形がある程度判読できます。


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202-10

大野城市大城山の裾野に釜蓋はあります。

続く


203 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”②

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203 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”②

20150408

久留米地名研究会 古川 清久

「釜蓋」(カマブタ) “天草下島の釜蓋岬”

もう一つ分りやすい例をお見せしましょう。


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天草下島と言えば「五足の靴」で著名ですが、与謝野寛、北原白秋吉井勇など五人がパーテルさんに会いに行った大江の天主堂がある旧天草町大江のエリアに釜蓋という岬があるのです。

 見るからにエイの尾のような形をしています。

 これが、谷川健一氏がいうところの永尾地名だとしても、まず、お叱りは頂かないでしょう。

その他の永尾地名について

1)酔ノ尾 (鹿児島県いちき串木野市)

瀬戸内海沿岸を除く九州一円では、“酔い食らう”事を“エイクラウ”と言う所がかなりあります(勿論、古語ですが、エイクロウトットヤロー、エイクローター…)。

鹿児島県のいちき串木野市にも酔ノ尾(エイノオ)という奇妙な地名があるのです。

旧串木野市街を抜けて鹿児島市に向かう国道三号線の交差点に酔ノ尾があることに気付き、直ぐに宇土半島の永尾と同種の地名ではないかと感じました。

条件としては似ています。海岸から五〇〇メートルほどの駆け上がりの場所で、海側には長崎鼻という尖った岬が海に突き出しています。埋立てや漁港修築事業などによって現地の地形は相当に変わっていますが、多分、海から山に這い上がったエイのような形状をしていたのではないかと考えています。

印象としては、湾曲した照島海岸がエイのひれの形を成しているようですので、地形としては合っていると思います。エイの左側は埋立が進んで形状を読めませんが、古地図を探ればこの事はさらに一層鮮明になるでしょう。交差点の名称は付近の地名を持ってくる事もあるため、必ずしも地名の中心地である事を意味しませんが、交差点はエイの尾から背中に向かう場所にあるように思います。

さて、谷川健一氏が書いていた宇土半島の永尾では、付近のカマンタ山(鎌田山)と関連付けられました。

この、いちき串木野の酔ノ尾(エイノオ)には、付近に袴田(ハカマダ)という地名があり、カマンタを連想させます。側には酔ノ尾川が流れて長崎鼻の付近に流れ下っています。


この流路は交差点の西の袴田に近接して流れていますので、酔ノ尾地名はこちらの方がむしろ中心地の可能性が高いのではないでしょうか。

市史などを探ればもっとはっきりした事が分かるはずですが、この点は今後の課題とさせて頂きます。この薩摩川内市から旧加世田市周辺は、沖縄からさらに南の島々へと繋がる場所ですから、南方系の地名があっても決しておかしくない場所です。実は、開聞岳のそばの頴娃(エイ)町のエイも可能性があるのではないかと思っていましたが、決定打がなく悩んでいました。

これについては、後日、熊本地名研究会のK氏に先行されました(後述)。

永尾(エイノオ)と酔ノ尾(エイノオ)、表記は異なるものの、全く同じ成立過程を持つ地名であることは疑いようがないでしょう。


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国道3号線にあるいちき串木野市の交差点酔ノ尾(Enoo



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鹿児島県旧串木野市を通過する三号線の交差点に酔ノ尾がそして付近には袴田も。

2)釜の尻鼻(カマノシリハナ)

不知火海(八代海)の南に浮かぶ御所浦島のさらに南、鹿児島県東町獅子島の東海岸に釜の尻鼻という岬があります。私はサーフのキス釣りを好んでやりますが、二十年も前に車を持ち込み、この岬の北側の湯ノ口という入江で尺キスを狙ったことがあります。


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不知火海に浮ぶ鹿児島県獅子島の釜の尻鼻

ここも良く考えると、永尾、酔ノ尾で紹介した“エイノオ”地名ではないでしょうか。

そもそも、鼻は当然ながら岬の意味ですが、尻と鼻という二つの対立するものが並ぶ尻鼻という地名が奇妙で考えていたら思い当たったのです。

鼻の両翼には文字通りエイの鰭(ヒレ)に見える湾曲した浜が延びています。つまり、尖った尾を海に降ろして尾根に這い上がったエイの形がエイノオ地名になる訳です。

また、付近の榎実河内(エーノミカワチ)という地名もエイを連想させます。

当然ながら、釜の尻とはカマンタの尻、カマンタ(エイ)の尾なのです。

3、4)エイノ鼻

長崎県佐世保市の佐世保湾の出口と言うか入口に、エイノ鼻という岬があります。これについての説明は全く不要でしょう。

地図を見れば一目瞭然ですが、針のような尖った岬の両翼に弧状のエイのヒレのような浜がある典型的な永尾(エイノオ)地形を確認できます。北九十九島の一角である臼の浦の沖にも永ノ島があります。


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この永ノ島も一応可能性があると見ています。


204 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”③

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204 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”③

20150408

久留米地名研究会 古川 清久


「釜蓋」(カマブタ) 長崎県諫早市飯盛町江ノ浦=下釜


5)長崎県諫早市飯盛町江ノ浦=下釜


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ゴロタ石や砂が堆積してできたエイの尾の先端には前島が…


永尾地名の拾い出し作業を行っていた時、この旧飯盛町江ノ浦=下釜にも気付いていました。

ただ、江ノ浦、釜が自然地名でもあり、現地の地形とも一致するところから保留していたものです。

当然にも周辺調査を行い、現地を踏んだ上で結論を出すべきだからです。

ところが、実際には全く逆で、“百聞は一見にしかず”のたとえどおり、一刻も早く現地を見るべきでした。それほど現地は雄弁であり、その印象も強烈だったのです。

ここは島原半島の付け根というよりも、長崎半島と島原半島が東西にウイングを広げ、南からの大潮流を眉間で受け止める陸塊というべき場所です。そして、その一角の目立たない入江や岬こそが求め続けるものだったのです。

古く、江ノ浦の入江は相当奥まで深く延びていたはずであり、近世になってようやく干拓が行なわれ陸化が進んだことが一見して分かります。

それは現地の古江ノ浦湾の真中に残る“開”という地名によっても明らかです。

諫早周辺には佐賀鍋島藩の親戚筋の領地がかなりあったため、ほぼ、佐賀平野限定の篭(コモリ)、搦(カラミ)地名も多いのですが、“開”は江戸期の佐賀平野以外における一般的な干拓地名です。

当然ながらこの干拓が行なわれるまではこの深い入江を漁場とし、また、避退港として、多くの漁澇民が住み着いていたと思われます。現地を訪れると現在でも多くの漁師の家があることに驚かされます。

さて、「飯盛町辞典」というネット上で拾ったサイトの「月の港の干拓」 によると、かつて、江ノ浦には“月の港”と呼ばれる港があり、千々石(チジワ)=橘湾の海水が入る奥行き一里の湖のような入江があった。とあります。さらに、


この月の港について「北高来郡誌」は「・・・戦国末期の外国船の渡来が頻繁となり長崎を外国市場と選定するに当り、この月の港も候補地に入ったらしいが、海底浅く、且つ、港口が狭く船の出入りが自由でないために、遂にその選に入らなかった」と記している。


と書かれています。

ここは、ある種現代に忘れられたようなところであり、民俗学的にも非常に面白い興味深い土地です。

ともあれ、ようやく機会を得て前島に延びる防波堤の上に立つことができました。ここに来ると、これが紛れもないエイの尾であることが分かります。写真と地図を見比べていただければ分かると思いますが、この岬は江ノ浦川から吐き出される土砂と潮流が衝突することによって形成された砂礫の岬と、前島に繋がる不完全な陸繋島(トンボロ)状の離れ瀬の砂洲の上に橋を掛けコンクリートの堤防が造られたものです。

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尾の付け根には下釜神社があります…



この大型の防波堤が建設される以前は、恐らく砂洲と岬状のエイの尾が前島に延びていたことでしょう。

繰り返しになりますが、当初、江ノ浦=下釜について、当初、“江”は入江であり、“釜”も現地の臼状の地形と一致することから“永尾”地名とは考えていませんでした。今回、現地が入江であったであろうことは確認できましたが、なおも、江ノ浦の“江”は入江であり、釜も現地の臼状の地形と一致するために、永尾地名とは踏み込めなかったのですが、徐々に変わっていました。

そして、現地を見ると未完成のトンボロであることが分かり、これはやはり“エイの尾”であり、エイの裏側にある入江、つまり、エイの浦(エイの尾の裏)が現地の地名の意味であると思うようになったのでした。

さらに、この岬の付け根に下釜(シモガマ)神社があります。これは谷川健一が発見した熊本県宇城市(旧不知火町)の永尾神社の背後地の鎌田山(カマンタ)に対応する呼称に思われるのです。

当然にも、この下釜神社は言わばエイの背中にあたる集落の高台にあり、まさに尾を振ったエイが山に這い上がった形に見えるのです。

ただ、下釜という地名に多少の疑問も残ります。釜とは平戸に近い長崎県田平町の釜田(ここも永尾地名である可能性は残っています)や長崎県旧小長井町の釜など奥まった入江の有るところにも付される地名です。従って、下釜がカマンタ地名であるとすれば、上釜がなければ辻褄が合いません。

私には前島に向かう離れ瀬が上釜で、岬に這い上がっているのが下釜としたいのですが、想像が過ぎるかも知れません。判断は皆さんにお任せしたいと思います。

また、この永尾地名をさらに確信させるものがあります。それは、エイの尾の付け根にある下釜遺蹟の存在です。

諫早市教育委員会による解説を読むと、


・・・古墳時代(千五百年前ごろ)の石室です。これは昭和二年に発見されました。その時には中に人骨が三体あり、一体には石枕がしてあり、一体には貝輪がしてありました。外にもこの横津の岬上の防風林の中にも三基の石棺や石室があります。簡単に四角に石を組んだものが石棺で、この石棺の上に石を積上げて大きくしたものが石室です。・・・


とあります。

私には、「古墳時代(千五百年前ごろ)の石室です。」とするのは間違いで、どう考えても弥生時代のものと見たいのですがどうでしょうか?

それはともかく、下釜神社には、現在、不動妙王が祭られ、札所となっています。仏教化によって祭神も進雄神(牛頭天王)となっていますが、進雄神とは筒男命(住吉の神)のようにも思われます(まさか神農様では…)。まだ、全く見当が付きません。三月と十一月に祭りがあり、青年が集まり、通夜で老若男女を接待したともいわれますが、どうも北部九州というよりも有明海沿岸の「月待ち神事」のようであり、月の港という名称もそこから来ているようです。この風習も今はなくなったという事ですが、いずれ、この祭りのなごりを探りに行きたいと思っています。

思えば、この地を始めて訪れたのは八、九年前のことでした。その時は、ただ、月の丘温泉(最近造られた温泉センターではあるのですが)という名前と温泉に惹かれて訪ねただけでしたが、恐らくそのことが「月の港」とこの下釜神社の発見に繋がったのです。

例え、後発的な地名であれ、それを意識するということは非常に重要なきっかけとなるものです。

さて、解説に「一体には貝輪がしてありました。」(多分二体は夫婦でしょう)とあるように、これが南島のゴホウラ貝などの貝輪とすれば普通は沖縄であり、それだけでも谷川健一氏の沖縄のカマンタとの関係を一層補強するものです。同時に埋葬者自身も南方にルーツを持つようにも思えます。

南島のゴホウラ貝は、直接持ち込まれた可能性もあり、交易によって南から持ち込まれた可能性もあります。また、持ち込んだものが南方系の海人族なのか北方系(例えば対馬)の海人族だったのかという問題もあります。

一般的に隼人などの墓制にこの地下式積石型石棺墓がありますし、対馬にも板状の石を組み上げただけの板式石棺墓が見られます。この地には沖縄方面からエイをトーテムとする人々が住み着いたと思いたいのですが、その長が遺蹟の主だったかどうかはまだ断定できません。

それほど遠い場所ではありませんので、今後ともこの江ノ浦を調査します。

最後に蛇足ながら、この江ノ浦の中ほどに江ノ浦神社があることも報告しておきます。


204-3

下釜遺蹟の掲示板


 この江ノ浦では砂ならぬ砂利の砂洲が前ノ島まで伸びており、現在は防波堤に変わっています。この江の浦川はかつて大きな湖状の入江だったのです。

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205 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”④

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205 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”④

20150409


久留米地名研究会 古川 清久


「釜蓋」(カマブタ) 江ノ尾地名は九州の東にも”


6) 江ノ脇(大分県大分市志生木)”

大分市の佐賀関半島といえば関アジ、関サバしか頭に浮かばないという知的貧困は置くとして、ここでは、佐賀関からさほど遠くない所にある志生木(シユウキ)の江ノ脇(エーノワキ)という地名をとりあげます。一見、ありふれた、しかし、あまり聞かない小地名ですが、普通なら入江の縁辺りにつくもので、「特別珍しいものではない・・・」などと片付けられてしまいそうです。もちろん、海岸線から五百メートルは入り込んだ場所ですから、その地形から入江の縁という理解が間違いではないようにも思えますが、私はさらに思考の冒険に踏み込むことにしたいと思います。

 まず、地名調査では現地を踏むことが鉄則とされています。もちろん、想像がなければ全ては始まらないのも道理であり、推論それ自体は必要なことなのですが、たいへん有難いことに、現地を踏む機会を得たことから報告することとしたものです。

大分市の中心部から大在(オオザイ)、坂ノ市(サカノイチ)、細(ホソ)、神崎(コウザキ)を抜け、佐賀関半島の北岸を東に進むと、未だ、コンクリート構造物に汚されない美しい海岸線が現れ、大志生木、弁天鼻、小志生木という印象的な地名に遭遇します。

江ノ脇は志生木川右岸に位置し多少内陸に入った山裾の小集落ですが、なぜ、この地名が面白いかというと全てはこの地形に尽きます。

ここは三つの岬が連続し別府湾に突き出していますが、その岬の間に二つの弧状の砂浜がウイングを広げています。最も美しく明瞭な岬は真中の弁天鼻ですが、想像するにこの尖った岩塊は海の底まで延びているのでしょう。もしかしたらこの岬全体が陥没を起こしたのかも知れませんが、古くはこの岬の両脇は内陸部のかなり奥まで海が入っていたはずで、川から送り出された土砂が川からと海流による運搬力が衝突することによって堆積が進み両方の志生木の平地が生まれたものと考えられるのです。

さて、今般、江ノ脇地名を取上げた理由は、この一帯の地形もある魚の形状に似ているからです。

これまで、九州全域でこれに類するものを六、七ケ所ほど採集してきましたが、地形の面からだけで見れば、これほど明瞭なものはないように思います。

まず、この江ノ脇(エイノワキ、エーノワキ)がエイの脇であれば、これほど典型的なエイの地形を持った土地はないでしょう。地図を見られればお分かりのように、弁天鼻というエイの尾の両脇には、湾曲した大志生木、小志生木の砂浜がエイのヒレのように広がっています。さらに、エイの背骨が尾根として延びています。江ノ脇はこの本体の脇にある事になり、地形と地名とがピッタリ符合するのです。もちろん、入江の脇と解釈する事も可能でしょうが、山に這い上がったエイの姿にしか見えません。


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もう、お分かりになったと思います。弁天鼻がエイの尾であり、江ノ脇とは文字通りエイのヒレ(脇)の内側に当るのであり、この地名が付された時代の波際線を今に伝えるものであったと考えるのです。


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志生川右岸の江ノ脇


本来は地元の伝承や字図を調べるなど付随する調査が必要であり、谷川説の鎌田山のように何らかの傍証が発見できるのではないかとも思うのですが、短時間の調査ではここまでが限界です。詳しくは、山上に鎮座まします武内神社や大志生木小学校の前にある西岡神社の縁起などを調べるべきでしょうが、残念ながら九州脊梁山地の大山塊を越えた遠い異国のことであり届きません。  


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7) “先釜蓋、釜蓋”

 これは最近発見したもので、地形は把握しているものの背景調査を行っていません。

先釜蓋という地名が古地図に出てきます。

現地は天草島原の乱で百姓が篭城した原城の一角なのですが、地形はピッタリします。

今後とも調査を続けます。また、前述の佐賀県の唐津市の江ノ口や平戸口の釜田という地名があるのですがこれもこれからです。              

永尾地名は谷川健一によって提案されたものですが、もしも、彼が発見しなかったとしたら恐らく永遠に気づかないで見過ごしていたことでしょう。

どのように考えてもこの地名はエイを意識する漁民によって付されたものと思います。

沖合を航行する船から見れば、あたかもヒレを広げて山に登ったエイがいるように見えるのであり、エイという魚を日常的に意識する南方系の海洋民が持ち込んだ地名と考えるのです。

今日も発見は続いています。

五島灘に浮かぶ長崎県の江ノ島は全島がマンタに見えます。江ノ島はエイの島かもしれません。

 また、鹿児島県の甑島の江石(エイシ)があり、先端には茅牟田崎(カヤムタザキ)があります。

エイシ(多分、エイのウシの転化)に住み着いた人々は南から来た人々で、岬の先端をカマンタに見立てたのでしょう。現地の確認のためにも、近々にも憧れの甑島を訪れたいと思います。

茅牟田崎(カヤムタ崎)を見ると、永尾地名の中でも古い地名に思えます。カマブタよりもカヤムタが古いという意味ですが、カマムタが古形で、その後カマブタに変化したのではないでしょうか。それは、全く同意ながら、M音とB音の入れ替わり現象というものが背後で作用しているのです。

これについては、九月にも永井正範氏にお話してもらいますので、詳しくは申し上げませんが、日本語にはこのような面白い現象が認められます。


(危ない) (煙い) (淋しい) (寒い) (冷たい) (乏しい) (眠い)

あむない   けむい  さみしい  さむい  つめたい  ともしい ねむい 

あぶない   けぶい  さびしい  さぶい  つべたい  とぼしい ねぶい


(俯く) (傾く) (瞑る) (灯す) (葬る) (舐る)(隠る)(思ほす)(産む)

うつむく かたむく つむる ともす ほうむる ねむる  なまる おもほす うむ

うつぶく かたぶく つぶる とぼす ほうぶる ねぶる  なばる おぼほす うぶ


これに従えば、釜蓋(カマブタ)はカマムタでもあるのです。

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8) “五島灘に浮かぶ江島”

西海橋の沖、長崎の西彼杵半島の西の海、五島列島との間に浮かぶ絶海の二島、平島、江島(エノシマ)があります。

甑島とともに未踏の島であり、本来は掲載すべきではないのですが、茅牟田崎の下流にあることから可能性のある島として紹介しておきます。今後の踏査により何らかの発見があるかも知れません。もちろん、江島はエイの島と考えています。

西海橋の沖、長崎の西彼杵半島の西の海、五島列島との間に浮かぶ二島、平島、江島(エノシマ)は以前から釣りに行きたいあこがれの島でした。

いずれ、現地の地形を確認したいと考えています。


205-6

206 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”⑤

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206 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”⑤

20150409

久留米地名研究会 古川 清久

「釜蓋」(カマブタ) 頴娃町の釜蓋大明神

重複しますが、この永尾地名は数年前に熊本地名研究会のK氏によって大発見とされ日本地名研究所の谷川健一氏にも報告されたものです。

頴娃町別府(ビュウ)大川にはイタテツワモノノカミを祀る釜蓋大明神(射楯兵主神社)があります。

祭神は素戔鳴命とされますが、両翼に湾曲した入江を従え、南に突き出した鋭い岬の上に射楯兵主神社が置かれています。

206-1

ここには“天智天皇と大宮姫が御領の安藤実重中将を訪ねたおり、接待のために何十石もの米を蒸していると、にわかに突風が吹き釜蓋が吹き飛び大川浦に落ちた。人々はこれを拾い竃蓋神社として祀った。”という奇妙な伝承が残されています。この天智天皇と大宮姫がセットで登場するのは鹿児島県だけに色濃く残るいわゆる「大宮姫伝承」ですが、これについては話が拡散するため、ここではふれません(関心をお持ちの方は古田史学の会の公式サイト「新古代学の扉」にアクセスし、内部検索により「大宮姫伝承」を検索して下さい。古賀達也氏外の論文を読むことができます)。        

なお、画像はhttp://anko.potika.net/blog/1831.html というサイトより無断借用したものです。当方も多くの写真を撮っていますが、このアングルはありませんでしたので、使わせていただきました。

その後、前述した久留米地名研メンバーの永井正範氏(たつの市)と遠路南下し現地を踏みました。


206-2

二枚の図面は釜蓋神社(大明神)の付近地図と、別府(薩摩、大隅ではビュウと呼ばれます)地区の字図です。私たちはこれを九州王朝の評制(郡郷以前の行政単位)のなごりと考えていますが、それはともかくも、コンクリート護岸のパラペットが置かれているものの、湾曲した砂浜を確認し、頴娃とは谷川健一氏が発見した永尾地名であることを確認できました(字図は教委より)。

206-2

鳥ケ迫の浜               住吉の浜


206-4


再び大野城市の釜蓋について

 釜蓋の解明のために、長々と類型地名をご紹介してきましたが、大野城市の釜蓋が前述したものと何らかの関係があることは、まず、間違いがないように思います。

市のホーム・ページによると、この地区の大よその概要がつかめます。

「瓦田と釜蓋には、四王寺山の中腹からこの釜蓋原一帯は瓦田・釜蓋区の共有林でしたが、昭和51年の特別史跡大野城跡の指定拡張に伴い、標高100メートル以上は大野城市に買い上げられ、残りの釜蓋原一帯は平成元年からの区画整理事業により分譲住宅として開発されました。しかし、大師堂のある土地は周辺の樹木とともに大師堂敷地として残されました。」

以下、田と釜蓋(大野城市北部位置図)より

区有林の手入れは秋の収穫期または取り入れ後の農閑期を利用して行なわれいましたが(ママ)、この日は山の手入れが終わると夕方から、釜蓋原の大師堂の前で懇親の慰労会が行なわれていました。戦後は個人宅で行なわれるようになっていましたが、大野城跡指定拡張による売却処分後は手入れ作業もなくなり、慰労懇親会もなくなりました。

 ただ、弘法大師の例祭日である四月二十一日には、市外に出ている人や嫁に行った人たちも里帰りして、家族親族一同が久しぶりに顔を合わせて大師堂にお参りし、近所の人々とも旧交を温めています。

地禄神社と遥拝所

 大野村の時代、釜蓋は瓦田に属していました。釜蓋に住んでいる人は御笠川を渡って瓦田の地禄神社で瓦田の人々と宮座を一緒に行なっていました。しかし、距離的に遠いこともあり明治22年に釜蓋に地禄社を遥拝所として建立しました。


206-5

       釜蓋地禄社(参拝殿)       

                

釜 蓋(カマブタ)


この地名を発見して数日後には現地を踏みましたが、集落の中心と思しき釜蓋公民館にはなかなか辿り着けません。大城小学校辺りから流れ下る小河川を頼りになんとか踏むことができました。

集落の規模は一目二十戸程度と思えましたが、新興団地はもちろんの事、近世に成立した集落でないことだけは確信を持つことができました。

さて、釜蓋集落ですが、現在の道路地図では全く昔の地形が確認できません。ここで、いつもの切り札、明治三十三年の陸軍測量部の地図を見ます。

すると、釜蓋地区は一見水を得難いような尾根に集落を置き、南北の傾斜地において水田稲作を行ってきたことが想像できそうですが(これについては現地での聴き取り調査を行っていないため不正確です)、瓦田の新興農地との関係や利水慣行(水利権)といったものを調べる必要がありそうです。

いずれにせよ、集落の真ん中を通る道はエイの背骨を思わせる釜の取手に相当するところを通り、まさにエイの尾の上に白木原への道が造られています。面白いのは、集落の南に存在するため池が鉾ケ浦池と呼ばれていることです。

鉾とはエイの尾に当たる古博多湾に突き出した岬を意味して付された地名であり、これも、ここまで海水(汽水)が入っていた時代に成立した地名であるはずです。ここは、その時代岬の内側に位置するいわば湾奥締切型ため池とも言うべきもので、事実上のエイの鰭に当たるものと思われます。

地禄神社

古博多湾(想定)を調べていると、方々で地禄神社に遭遇し、どうもこの古代湾の周りに同種の神社が分布しているように見えます。既に、貝原益軒の筑前国続風土記(宝永六年・1709年)にも地禄天満宮として記述があります。「三百年以上の歴史をもつ古い神社である。鎮座地は博多区堅粕四丁目(旧西堅粕)で、御祭神は埴安彦命と埴安姫命の二神(農業の神様)…」と。

地禄神社は本社、末社の区別などはなく同じ神『埴安命』を祭神としているものの起源は不詳である。

埴安命は、波邇夜須毘古神(はにやすひこのかみ)、埴安神(はにやすのかみ)とも呼ばれ、日本神話にも登場するところの土の神、大地の神として崇め祀られる神であり、地禄とは、大地より与えられる恵、”土地を富ませる”の意味であるとされています。

(追補)

今は、この地禄天満宮の主祭神埴安彦は大幡主(オオハタヌシ)でありその妹が埴安姫(草野姫)であることが分かります。大幡主は博多の櫛田神社の主祭神で豊玉彦=ヤタガラスの父でもあります。

206-6

周辺調査は今後とも続きますが、大野城市の釜蓋には紀元前後どころか、稲作が始められる頃、つまり、今から三千年前辺り(板付遺跡も…)には既に釜蓋には南方系の海人族とでもいうべき人々が住み着いていたのではないかと思えるのです。近くには甕棺による墓を大量に造る人々(恐らく揚子江流域からの稲作民)も後から入り共存しているように思えます。

 現在、釜蓋に住む人々がそのまま古代にまで繋がっているかはもちろん不明です。しかし、誤解を恐れずに試論を提出するならば、ある時代、この地には古博多湾とも言うべき浅海が広がり、釜蓋には、釜蓋、つまり、エイを奉祭する人々、民族集団が住み着いていたのではないかと考えるのです。そして、これまた、仮説に仮説を重ねる砂上楼閣ではありますが、地禄神社はどうもこの古博多湾の波際線に並んでいるように思えるのです(その時代の支配者…か)。

 今回、多くの釜蓋地名を見ることによって、多くのことが推定できるようになりました。一つはこの地名が大半海岸部に位置し、海に向かって岬状の陸塊が伸びていること。

カマンタ、カマムタ、カヤムタ、カマタ、そして、恐らくハマンタも、それに、エイノオを始めとして一群のエイノオ地名、これらの地名の一部なのです。

これまで全く光が当てられてこなかった大野城市の釜蓋という小さな地名だけでもこれほどの広がりとふくらみのあることが分ってきました。

今回の報告は、まだ、中間報告程度のものですが、実は、副産物として、さらにすごいことが分ってきました。これについては、いずれ、別稿「Manta」として報告したいとも考えています。ただ、その一部をご紹介しておきたいと思います。

その前に、もう一つ見た目で分かる大都市の永尾地名をお知らせします。

編集の都合で、先行ページには冒頭の博多区白木原の釜蓋地区の陸軍測量部地図を載せています。

古博多湾に突き出したエイの尾(カマンタ)釜蓋の地形がお分かりになると思います。

まだ、お疑いの向きには、古博多湾の中にもう一つ分かりやすい例がありますのでお知らせしたいと思います。

次の「都市高速から見える福岡東区の永尾地名」を御覧下さい。

207 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川 健一の永尾地名から”⑥

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207 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川 健一の永尾地名から”⑥

20150409

久留米地名研究会 古川 清久

「釜蓋」(カマブタ) “都市高速から見える福岡東区の永尾地名”

 

 太宰府地名研究会を始めた、第二回目にこの「釜蓋」の実験稿を発表しました。

その際の事ですが、数日前にメンバーのY氏から「これも永尾地名ではないか」と言われて可能性を考えていた多々良川筋の江辻(エイノツジ)と蒲田(カマンタ)もついでに発表してしまいました。

その後、現地を踏みましたが、エイとカマタがセットで在ることなど永尾地名に間違いないようです。

四十人ほどの会場において、現在太宰府地名研究会に参加されている女性メンバーから、「あの一帯は重要な考古学的遺物がたくさん出るところなのに、それだけで判断されるのですか?…」と批判されました。

金隅遺跡を始め周辺を少しずつ見てはいましたが、南方系の海洋民が付けた地名と考えており、正論ではありますが、地名研究というものは民俗学的知見そのものに頼るもので、必ずしも発掘によってどのような人々が住み着いていたのかということは容易には判断できません。地名研究は歴史学とは異なり、文献や高価な遺物では見えてこない民衆が残した地名の成立背景を探るものです。

都市高速から見る事が出来る福岡市東区の永尾地名


207-1

明治33年陸軍測量部作成の地図による


207-2

ここでは、漁師といったものにはとどまらぬ漂泊通商民が残した地名と考えています。

古墳、鉄剣、鏡・・・といったものから、支配的な権力を握った氏族の存在を探求する現在の穴掘り考古学の成果によっては到達できないでしょう。

物資移送などを生業としていた人々が残したものは、一時的な生活址はあるも、ほぼ、めぼしい物は出ない上に、仮に古代の船着場跡が見つかっても、このような集団を探る手助けにはならないでしょう。

地名研究は何よりもフィールド・ワークによる帰納演繹が中心になります。

考古学的観点からは日本海岸の潟湖に繋がる地域であったかどうかは気に留めておきたいと思います。

 ここでは明治の陸軍測量部の地図を見て、二つの集落と二箇所の河川邂逅部がエイの尾に見立てられていることはお分かりいただけたのではないでしょうか?


207-3

時に、地名は権力によっても強制されますが、実際に流通しなければ意味がないことから、最終的には民衆によって付されることになります。このことから、考古学的遺物では判断できないものが多く、代わりに数多くの地名を拾い上げ判断して行く必要があります。

問題はサンプリングが非常に難しい事です。

全国の字地名が消え、地形が変わり、場所もどこだったかが全く分らなくなりつつあります。

その際、手掛かりになるのが明治三十三年の陸軍測量部地図ですが、もう一つ役に立つのが上記の「明治十五年全国小字調」です。

ここには、古代からあまり動かなかったと思われる、小字が化石として残されています。

帰納演繹の精度をあげるために、これを使うことは十分に可能で、これらのデータ・ベース化が望まれるところです。

一例ですが、遠賀郡の海岸部、波津に小字の「釜蓋」があることが分ります。これを、北部九州の海岸地帯を中心に、ある程度拾い出しを行なっています。

九州古代史の会のメンバーで、本稿のトップ画面の芥屋の大門の写真を使わせて頂いている松尾紘一郎さんに「釜蓋」の改訂前の全文をお送りしたところ、自らお調べになりコピーをお送りいただきました。もちろんこの調査資料の存在は以前から知っていましたが、このような特殊な地名がおいそれと拾えるとは考えていなかったのです。

ところが、普通に存在する地名であることが分かったのでした。改めて松尾氏にはお礼を申し上げます。

これを見ると多少面白いことが目に付きます。玖珠郡はもちろん山間部ですが、豊後森の森家は牙を抜かれた瀬戸内の海賊の頭目ですから分かるとしても、阿蘇産山の田尻は気になります。ご存知の通り、「井」(イ、イイ)という姓の方が集中する地区ですが、現地調査が必要です。また、佐賀県にはないと思っていましたが、やはり松浦一帯にはあったのです。やはり、大字だけでは分からないものです。

以下、作業中の一葉のみ掲載します(これは一例ですが、これだけでもかなりの永尾、釜蓋地名が確認できます)。


クリックで拡大表示されます
207-3

釜蓋地名を解明したとの余裕で、釜蓋、マンタ、カマンタ、エイ・・・といった地名をネット検索に掛けていると、驚くべき地名に遭遇しました。これについては、現在なお、個人的なネットワークを駆使して調査中であり、数ヶ月もあれば「Manta(マンタ)」として独立した報告ができると考えますが、ここではその作業の一部をご紹介いたします。

 ここでは明治の陸軍測量部の地図を見て、二つの集落と二箇所の河川邂逅部がエイの尾に見立てられていることはお分かりいただけたのではないでしょうか?

このように、海岸ばかりではなく、河川においても合流部にエイの尾に見える地形が形成され、エイノオ(永尾)、カマンタ(釜蓋)という地名ができることになるのです。

ここまで考えてくると、後に、「日本書紀」に「可愛」と書かれ「エノー」と呼ばれる理由が見えてきました。つまり、日本書紀成立より前に永尾地名は存在していたのです。

 お分かりでしょうか?河合、落合、吐合、谷合、流合・・・といった一連の河川合流地名がありますが、河合と呼ばれるような平坦な下流部での合流ポイントは交通の要衝であるとともに、地域の支配者の居住地にもなったはずです。そうです、可愛山(三)陵とは、「河合の永尾(エイノオ)」と呼ばれ、いつしか「可愛」を「エノー」と呼ぶようになったのです。そうです、「可愛」も永尾地名の一つなのです。

では、可愛を紹介します。

「可愛」の「えの」

ニニギと言えば、天照大神の子である天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫(タクハタチジヒメ)命の子とされ、「古事記」「日本書紀」ともに登場し、瓊瓊杵尊などと書かれる日本神話のスターですが、降臨後、大山祇神の娘である木花之開耶姫を娶り、火照命(海幸)や彦火火出見尊(山幸)を生んだとされています。

そして、この山幸の孫が神武天皇になるのですが(あくまで通説に沿えばであり、百嶋神社考古学はそれを認めません)、ニニギは、亡くなった後「可愛山陵」に葬られ、それは「エノ」と呼ぶとされています。

もちろん、普通は「可愛」を「エノ」と読むことは出来ません。ただし、そこがどこかはともかくとして、地元では読んでいた可能性はあるのです。

これまで見てきたように、海岸ばかりではなく、河川においても合流部にエイの尾に見える地形が形成され、エイノオ(永尾)、カマンタ(釜蓋)という地名ができることになるのです。

これについては誰しも疑問に思うようで、例えばネット上の有力サイト「古代文化研究所」も次のように書いています。

○古事記・日本書紀・万葉集で、「可愛」の表記が存在するのは、日本書紀だけである。それも使用されているのは二カ所に過ぎない。
●一つは伊弉諾尊と伊弉冉尊の國産み神話の箇所である。伊弉諾尊と伊弉冉尊が國産みをする時、日本書紀本文には「可美少男」「可美少女」とある。日本書紀一書(第一)に「可愛少男」(2回)「可愛少女」(2回)とあり、その後に、「可愛、此云哀」とあって、「可愛」は「哀」と読むことを注記している。また、日本書紀一書(第五)には「善少男」とある。さらに、日本書紀一書(第十)に「可愛少男」とある。ここに、日本書紀の「可愛」の表記の6例が存在している。
●分かるように、「可愛」はまた、「可美」や「善」とも表記されているわけであるから、「うつくしい」とか、「立派な」「好ましい」などの意であると判断される。
●もう一つの用例は、天孫降臨の神、天津彦彦火瓊々杵尊の御陵を「筑紫日向可愛(此云埃)之山陵」としている箇所になる。ここにも日本書紀は本文の他に、一書が八つも並記されているが、山陵名が記されているのは日本書紀本文だけである。日本書紀編纂の時、多くの記録がその山陵名を失っていた可能性も否定出来ない。かりに諸書に山陵名の記録が残っていれば、日本書紀の通例であれば、並記されているはずであろう。
○これが古事記・日本書紀・万葉集における「可愛」の全表記例である。わずかに7例があるに過ぎない。それも極めて重大な場面での使われ方をしている。だから、古事記・日本書紀・万葉集における「可愛」の全表記例は極めて特殊な表記であることが分かる。

もちろん、水戸光圀公であろうが、本居宣長先生であろうが、「可愛、此云哀」については古来「エ」と呼び習わしていたからこそ、岩波書記も「エ」と振り仮名を付しているはずです。

ここまで考えてくると、後に、「日本書紀」に「可愛」と書かれ「エノー」「エイノオ」と呼ばれる理由が見えてきました。つまり、日本書紀成立より前に永尾地名は存在していたのです。

お分かりでしょうか?河合、落合、吐合、谷合、流合・・・といった一連の河川合流地名がありますが、河合と呼ばれるような平坦な下流部での合流ポイント(必然的にエイの尾形の地形を形成する)は交通の要衝であるとともに、地域の支配者の居住地にもなったはずです。そうです、可愛山(三)陵とは、「河合の永尾(エイノオ)」と呼ばれ、いつしか「可愛」を「エノー」と呼び習わすようになったのです。つまり、「可愛」も永尾地名なのです。では、その「可愛」を紹介しましょう。

もちろん、九州王朝論者にとっても、ニニギの墳墓は降臨地ではないのであって、薩摩川内にあっても一向に構わないのですが、それからすれば、先にご紹介した東区の多々良川流域の江辻山も候補にはなるかもしれません。

また、既に故人になられましたが、熊本に平野雅廣(廣の左に日)という孤高の九州王朝論者がおられました。

氏の著書「火の国倭国」他(五著)には山鹿市菊鹿町相良(アイラ)をウガヤフキアエズの陵とする有力な説があることも掲載されていることをお知らせしておきます(相良観音で著名)。


207-5

208(前編) 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川 健一の永尾地名から”⑦

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208 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川 健一の永尾地名から”⑦

20150409

久留米地名研究会 古川 清久


「釜蓋」(カマブタ) 南米エクアドルにマンタという大都市があった


釜蓋地名を解明したとの余裕で、釜蓋、マンタ、カマンタ、エイ…といったワードをネット検索に掛けていると、驚くべき地名に遭遇しました。

これについては、現在なお、個人的なネットワークを駆使して調査中であり、数ヶ月もあれば「Manta(マンタ)」として独立した報告ができると考えますが、ここではその作業の一部をご紹介いたします。


南米エクアドルにマンタという大都市があった


208-1

マンタ(MantaPUERTO DE MANTA の地形はどう見てもエイの尾に見えるのですが…。


208-2


208-3

エクアドルは南米の太平洋岸に位置しコロンビアとペルーに挟まれた赤道直下の国(エクアドールの意味もこれからきています)ですが、この海岸にManta(マンタ)という人口18万人の大都市があります。  

形状を見ていただければお分かりのように、まさに海に突き出したエイの尾のような地形が鮮明に確認できます(画像はグーグル・アース)。

エクアドルでは縄文土器と瓜二つの土器がバルビディア地方で発見されており(故エバンス博士)、大量の甕棺墓までが確認されているのですが、いまだ学会では無視され続けています。

今回の発見はこの学説を側面から裏付けるものになりそうですが、スペイン語には布団やマントを意味するmantaという単語もあります(主としてコロンビア)。

また、怪傑ソロやバットマンが着るマントも何やらエイの形に似ていることから、このエクアドルのマンタシウダット(市)が、倭人(縄文人)によってもたらされた地名か、大航海時代以降の地名かが問題になるところです。以下はスペイン語に堪能で会話が可能な古田史学の会の大下事務局長(元)からのものです。私も多少はやりますがさすがです。


01 西-西辞典を見ていたら、"Manta"という項目にエイの意味がありません。エイは”Raya"という単語でした。英語の”Manta ray”と同じです。
"Raya"
Max 2mぐらいの大きさにしかならないエイです。
その他インターネットに、"Manta Raya"は9mほどの大きさになるのもあって、"Raya”とはちがうものだとありました。
 ポルトガル語は”Jamanta”です。カマンタに似ていますね。
 旧大阪外語大(今は阪大の外国語学部)の図書館が箕面にあって、近いので行って詳しいこと調べてきます。                                       大下隆司

先日吹田市の大阪大学外国語学部(もと大阪外語大)と国立民族学博物館の図書館でマンタのことについて各国語の辞書を調べてきました。
1)ポルトガル語
  ・Jamanta <女>イトマキエイ 

<男> (服装などが)だらしない人 室内用のハキ物 キャリア・カー
2)西語タガロ語
  ・manta(西語)= kumot, balabal
  ・西語の場合、manta が魚を意味するのか、衣類を意味するのか不明。
    (タガログ語英語辞典で確認する必要ある)
3)英語Camoro語 manta ray=afula, fanihen tasi.
4)英語Ponape語 manta ray=penwehwe
5)英語Marshallese語 manta(great devilfish)=boraan.
いずれも、マンタ、エイとは違ったひびきでした。外語の図書館はたいした本はないのですが、民博にはいっぱいあります。次回は一日かけて詳しく調べます。                  大下隆司

各国語について調べ始めました。途中経過ですが添付します。魚のマンタと衣類のマントは語源が違うような気がしてきました。ラテン語、ポルトガル語なども詳しく調べてみます。
 昨日はちょうどオランダ人の友人が泊まりに来ていたので、マンタの語源を調べて欲しいとたのんでおきました。今朝早く出発したのでグッドタイミングでした。カマブタのCD受領。以前もらっていた永尾と合わせて詳しく勉強してみます。またエクアドルのほうにも現地語ではどのように呼んでいるのか聞いてみます。                                   大下隆司

02 マンタはスペイン人が到達したときはJocayと呼ばれていたことがわかり、Jocayを調べたら下記が出てきました。BC3000年ごろから人が住み始めAD1200年頃までは Manta Indian の 首都だったとのことです。曽畑土器をもった人たちのバルディビアへの移動、弥生の甕棺の出土した地域・時期が重なります。ペルー古代のモチェ人もマンタを信仰していたようです。今夜はエクアドルの関係者との飲み会です。ここでも聞いてきます。
これから「Manta Indian」の追跡です。

1)スペイン語辞書
 a)スペイン 王立アカデミア発行の辞書にはマンタ=魚のエイの意味はありません。
b)
白水社の西和ではコロンビアで使われているとして魚のエイの意味があります。
2)ブリタニカ百科辞書 Manta ecuadorが載っています。
03 インターネットにPueblo Mantaを見つけました。現在の居住区域はマンタ市を含むマナビ県。言語はすでに失われていてスペイン語を話す。エクアドルでは少数民族の研究が進んでいるので、マンタ語の調査が可能かもしれません。すごい話になってきそうですね。 大下隆司

              Jocay from theEncyclopadia Britannica
port city, western Ecuador, on the Bahia (bay) de Manta. Originally known as Jocay ("Golden Doors"), it was inhabited by 3000 bc and was a Manta Indian capital by ad 1200. Under Spanish rule it was renamed Manta and was reorganized by the conquistador Francisco Pancheco in 1535. In 1565 families from Portoviejo were moved to the town, which was again renamed San Pablo de Manta (officially Manta in 1965). A commercial centre once known primarily for the export of Panama hats, it now ships coffee, cacao (source of cocoa beans), bananas, cotton, textiles, and fish. Deep-sea ... (100 of 151 words)

             http://www.britannica.com/EBchecked/topic/362893/Manta
古川さんの直感はすごいですね。                            大下隆司 


PUEBLO MANTA WANCAVILKA Idioma

Castellano

Ubicacion. territorialidad Geopolitica

Se encuentran ubicados en la Costa sur del Ecuador, en la Peninsula de Santa

Elena, en las provincias de Manabi y Guayas. En Manabi, cantones Portoviejo,

Jipijapa, Manta, Montecristi, 24 de Mayo y Puerto Lopez; y en Guayas,

cantones Santa Elena, Playas y Guayaquil.

Territorio/Tierras - Legalizacion

En 1982 el Estado les entrego los titulos de propiedad de las tierras, en la

provincia del Guayas, en una extension de 515 965,38 has.

Organizacion sociopolitica

Su poblacion aproximada es de 168 724 habitantes, organizada en alrededor

de 318 comunidades. Segun las estimaciones actuales del CODENPE son

Pueblo Manta 68.724 habitantes y Pueblo Wankavilca 100.000 habitantes

en Ecuador1.

El 40% se encuentra distribuida en 239 comunidades (recintos), ubicadas en el

sur de la Provincia de Manabi, en 21 parroquias de los cantones Portoviejo,

Jipijapa, Manta, Montecristi, 24 de Mayo y Puerto Lopez. El otro 60% de la

poblacion se encuentra distribuido en 79 comunas ubicadas en la Peninsula de

Santa Elena de la Provincia del Guayas, en 10 parroquias de los cantones de

Santa Elena, Simon Bolivar (Julio Moreno), Playas y parte de Guayaquil.

1 PLANES DE DESARROLLO LOCAL. PROYECTO PRODEPINE - CODENPE, 2001- 2003

(資料)

縄文人は優れた海洋航海民族であった(日本・エクアドル交流説)

208(後編) 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川 健一の永尾地名から”⑦

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1960年エクアドル・グアヤキル市の市長でもあり、考古学に造詣の深かったエミリオ・エストラダ氏は、エクアドル太平洋岸のバルディビアから出土する土器と、日本の「縄文土器」との相似性に着目して、アメリカのスミソニアン博物館のエヴァンズ・メガース夫妻に送り調査への協力をもとめた。

夫妻はこれを正面から受け止め、エストラダ氏からの遺物や情報に接するや、ただちに日本に飛び、各地に縄文の遺跡と土器に接し、「日本列島~エクアドル」間の縄文伝播という前人未到の新学説を樹立した。
 その学説は1965年にスミソニアン博物館学術報告書に『エクアドル沿岸部の早期形成時代-バルディビアとマチャリラ期』として世界に発信された。
 この「太平洋における文化の伝播説」はその後、各方面における研究成果により進展を見せた。このことは古田武彦氏の『海の古代史』原書房1996,に次のように記述されている。

<『海の古代史』より>
 1995年は、エヴァンズ説にとって黄金の年となった。なぜなら、その前年、「四柱の論証」が成立していたからである。新しい論証からさかのぼってみよう。第一は、「HTLV1(ローマ字)型の論証」である。1994年、名古屋で行われた日本ガン学界において田島和雄氏(愛知ガンセンター疫学部長)によって報告された。
 それによると、日本列島の太平洋岸(沖縄・鹿児島・高知県足摺岬・和歌山・北海道)の住民(現在)に分布する、HTLV1(ローマ字)型のウイルスと同一のウイルスが、南米北・中部山地のインディオの中にも濃密に発見された。その結果、両者が「共通の祖先」をもつことが推定されるに至ったのである。

 第二は、「寄生虫の論証」である。1980年、ブラジルの奇生虫研究の専門家グループ、アウラージョ博士等による共同報告である。
 それによると、南米の北・中部に分布するモンゴロイドのミイラには、その体内もしくは野外に「糞石」が化石化して存在する。その中の(同じく化石化した)寄生虫に対して調査研究を行った。その結果、それらの寄生虫はアジア産、ことに日本列島に多い種類のものであることが判明したのである。
この寄生虫は寒さに弱く、摂氏二十二度以下では死滅する。従って通常考えられやすい「ベーリング海峡〈ベーリンジャー)経由ルート」では不可能である。事実、シベリアやアラスカ等には、これらの寄生虫を「糞石」の中に見いだすことはできない。

従って残された可能性は、エヴァンズ夫妻等によって提唱された「日本列島南米西岸部(エクアドル)」の黒潮(日本海流)ルートによると考えざるをえない。これが、共同報告の結論であった。
 その放射能測定値は、はじめ「3500年前」頃(縄文後期)と伝えられたが、1995年、わたしの手元に到着した、アウラージョ博士の三十余篇のリポートによると、その時期は右の前後(縄文中期-弥生期)にかなりの幅をもつようにみえる。スペイン語等の論文も含んでいるから、今後、各専門家の手によってより詳細に確認したいと思う。
 いずれにせよ、右のような「縄文時代における、日本列島から南米西岸部への人間渡来」というテーマが、その共同報告の帰結をなしていることは疑いがたい。
 第三は、「三国志の論証」である。1971年、『「邪馬台国」はなかった』によって明らかとされた。「裸国・黒歯国、南米西海岸北半部説」がこれだ。古田氏は魏志倭人伝に描かれているこの南米における倭人の国についてさらに詳しく述べている。

 わたしを導いたのは、学問の方法だった。ただ、三国志の著者、陳寿の指し示すところに従うこの方法であった。その結果「邪馬台国」ならぬ邪馬壱国(原文は「壹」)を博多湾岸とその周辺へと指定することとなったのである。思いもかけぬ決着だった。
                      
『「邪馬台国」はなかった』参照、朝日文庫1971)。
 それにとどまらなかった。この方法は、わたしを導いて、倭人伝の中で誰一人、真面目にとりあげようとしなかった二国「裸国と黒歯国」が、南米西海岸北半部、エクアドル、ペルーの地にあり、この予想外の帰結にまで到らしめたのである。
 陳寿によれば女王国の東、千里にして「倭種」ありという。一里は、約77メートル(当時は“75メートルと90メートルの間。75メートルに近いとした)の「短里」だから、関門海峡以東が「倭種」。その「倭種」の南に「侏儒国」があるという。女王国の東南にあたる。

その「侏儒国」は「女王を去る、四千余里」とあるから、里程は、関門海峡からは残り三千余里。海上を測ってみると、当初「予想」した宇和島近辺を越え、高知県の足摺岬近辺となったのであった。
 その「侏儒国」が、次の問題の一文の起点だ。 「(裸国、黒歯国)東南、船行一年にして至る可し」 わたしは倭人伝の「年数」について、「二倍年暦〕という仮説に到達していた(後述)。

この立場からすると、右の「一年」は実質半年のこととなる。六カ月だ。

ところが、「太平洋ひとりぼっち」の堀江青年などの航海実験によると、「日本列島-サンフランシスコ」間は、約三カ月前後。とすると、あと三ヶ月の「距離」を黒潮上にたどれば--その結果がエクアドル、ペルーだった。
 わたしは論理の筏に乗り、冒険航海の末、ここに到ったのである。前人未到だった。すでに述べた「裸国・黒歯国、南米西海岸北半部説」がこれだ。この論証の成立後、わたしはエヴァンズ説の存在を知った。第四は、無論、エヴァンズ説(1965)「縄文土器の伝播」だ。エストラダ氏の「発見」にもとづく新学説の誕生である。

 以上のように、最初は「単独」にして「孤立無援」だった、この独創的学説は、30年たった今、状況が一変した。当初は、予想さえされなかったであろう、種々の「学際的裏付け」をえたのである。この一点が重要である。
 すなわち、右にあげた四つの論証は、相互に何等の関係なき、別の学問分野に立つアメリカの孝古学、アジアの古典研究(史料批判)、ブラジルの自然科学(寄生虫)、日本の医学(ウイルス)と各別である。
 1995年初頭、田島氏にはじめてお会いしたとき、氏はわたしの名前も著書(『「邪馬台国」はなかった』)も、全くご存じなかったのである(東京、国立予防衛生研究所における学会の会場脇でお会いした)。
 にもかかわらず、四者の学問研究の指示したところは、一致した。

 もしくは同一方向へと帰着点をもつように見える。
 すなわち、 「(古代における)日本列島の住民と南米北・中部住民との関係」の存在である。

                                     LaBalsa」より

この発表がなされた当時(『「邪馬台国」はなかった』が公刊されて以降)、“古田武彦の分析はさすがだが、黒歯国、裸国についてはいただけない…”といった話が、識者や識者ぶった方々の間で囁かれていたのですが、今回のMANTAの確認は、この嘲笑がただの軽薄さの表れだったに過ぎなかった事が良く分かるのです。このような方々が邪馬台国畿内説論者に多かった事はまだまだ記憶に新しいところです。


エイは日本語か?

Whai

whai(noun) stingray, Dasyatis thetidis and Dasyatis brevicaudatus - bottom-dwelling marine rays with flattened, diamond-shaped bodies and long, poisonous, serrated spines at the base of the tail; rough skate, Raja nasuta - light brown skate, mottled and spotted with dark brown. Diamond-shaped body with broad, spiny tail.

グーグルでmaori dicthionaryを検索してrayをサーチすると →マオリ語のwhai が出ます。英語のエイ(ray)はマオリ語ではエイに近接した言葉であることが分かります。

辞書の記述内容は、学名から始まり長い毒のある尾のことなどエイ生態が書かかれています。少なくともニュージーランドの少数民族であるマオリ族はエイのことをwhaiと発音しているのです。水族館でマオリの人と一緒にエイを見ても、「ウワイ」とか「ウエイ」とか発音するわけであり、日本語の「エイ」はポリネシアからの外来語である可能性は十分にありそうです。


中国語のエイは 魚偏+遥の造りの部分 となりますが、時代も上古音(~後漢)ヤゥ 中古音(ギ~宋)イェゥ 近代(明~清)ヤオ現代(中華民国~)ヤオ 呉方言イア゛湖南ヤオ 河南イェウ 客語ヤオ 広東ユウ 福建東イェゥ 福建南・台湾ヤオ                        (山田)

出典は『古今漢字音表』1999年中華書局 国際発音記号でかいてあるが、勝手に似たカタカナにしました。
 現代音発音ピンインも、現実の音とずれてるし、エイというさかなの文語表記は1ゑゐ 2ゑい 3ゑひ 4えい 5えゐ 6えひ のうちどれかしら。未確認なのごめん。
キチンとしたエイの音の漢字は見あたらず、
北京方言の、感嘆詞のエイ【口偏に埃の旁】ei声調は軽声、くらい疑義の間投詞につかうときは上がり、注意を促すときは下がり、軽く短く発音。
賊ゼイZei上がる二声、涙レイLei四声入声(急に下がる)仄、ウェイ委、偉、為、偽、巍、唯など沢山、Wei、声調色々など、頭に子音を伴うのはあるが。
魚偏のがないから現代音と音韻と声調が同じの、遥の旁を共有する数個の字を調べた。
謡遥揺瑶など。特に異同は無いからだいじょうぶでしょう。

(久留米地名研メンバー山田女史/武蔵野市によるアドバイス)


仮に、Mantaがスペイン語ではなく海人族が使っていた言葉とした場合、中国大陸の沿海部が気になってきました。当会にはスペイン語、英語はもとより、中国語、朝鮮語にも対応できるスタッフが揃っていますのでメールや電話を一本打つと、直ぐに色々な情報が集まってきます。


釜蓋姓は徳川家康が与えた


最後に地名から姓名に目を向けます。良く利用する「姓名分布&ランキング」というサイトがあり、調べると、全国でも11件しかない非常に珍しい姓のようです(北海道4件、新潟3件、群馬県2件、茨城県1件、静岡県1件)。

調べた理由は、「城と戦国ロマン」というサイトがあり『釜蓋姓』についての情報を求めています!!というメッセジが出ていたからです。

静岡県焼津に釜蓋姓は徳川家康が特別に認めたものにしか使わせないという話があり、それを調べているものでした。

ここからは私の単なる推理なのですが、家康がそれほどの厚遇をする理由として考えられるもので頭に浮かぶものは一つしかありません。

家康が命からがら逃げだした「本能寺の変」(天正十年六月二日)直後の伊賀越えです。

服部半蔵の手引きで伊勢に逃げたことは良く知られていますが、その先はあまり知られてはいません(酒井、本田等と自決さえも考えたとされていますから最大の危機です)。

白子浜(三重県鈴鹿市江島本町)から知多半島の大浜に上がり岡崎に逃げ戻ったとされます。

海行において、そこに関与したのが釜蓋地名を残した人々だったとすると何もが良く辻褄が合うように思えるのです。


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命がけの逃避行となると、現代でも一般的な網本や漁師集団は信用できないはずであり、普段から独航している特殊な集団に頼むはずです。

もう一度白子浜の現在の住所を見てください。鈴鹿市江島本町とは、まさに、エイの島ですね。この地名を付した人々が釜蓋の意味を知っていた、つまり、エイノオ地名を残した人々だった可能性はあるのではないでしょうか。

これについて、「城と戦国ロマン」の管理者とメールでやり取りしましたが、この釜蓋姓を調べている方も静岡の焼津に縁のある方のようです。

新潟の釜蓋姓は上越の「釜蓋遺跡」という弥生期の遺跡のある土地のようで、白子浜から家康を運んだと考える釜蓋姓とは別の起源があるのかも知れませんが、恐らく家康から釜蓋姓の独占使用権を与えられた釜蓋さんのルーツは焼津の方と考えています。

今のところ、このような特殊な通商民こそ、バジャウに起源を持つ船上生活者であり、戦後しばらくまで、尾ノ道や大瀬戸(長崎県)などを拠点に沖縄までも移動した航海民集団、「家船」の人々(現地の差別語エンブー)の一部ではなかったかと考えています。

ここまで来ると、北九州に認められる釜蓋(エイノオ)地名の異常なまでの集積の理由が多少は見えてきました。

古代においては(現在でも江川で僅かに繋がっていますが)洞海湾と苅田は玄界灘航路(大陸への道)、日本海航路、瀬戸内海航路、豊後水道という最重要航路の結節点であり、水路こそが移動手段であった時代においては、この一帯を制する者こそが権力を握ることができたのではないかと思うのです。

そして、畿内には伊勢の江島以外、エイノオ地名が見当たらないのです。


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209(前編) 災害後しか関心を持たれない「災害地名」

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209 災害後しか関心を持たれない「災害地名」

20150412

久留米地名研究会 古川 清久

はじめに

地名研究会の編集員と言うよりも実質的には下働きの作業員をやっているだけですが、その関係で行政機関の末端とか大神社とか色々なマスコミとの接触の正面に立たざる得なくなります。

 私達の様に既存の郷土史会、史談会、教育員会などとの関係を一切持たず、学会通説から独立というか孤立を保っていると、村興し町興しのために有もしない通説を持ちあげたりしないで済み、この点から自由でいられると思っていたのですが、それでも新聞社とかテレビ局との接触が出てくると言う事は、戦後流行し勃興した既存の文化団体、研究団体が、ほぼ、壊滅状況になってきた結果だろうと考えているところです。

 ブログもこのペースで書いていると、必ず反論とか抗議とか誤りの指摘とかいったものがあるはずだと思い覚悟していたのですが、どうも、そういう識見を持った方がほとんど出てこない(一度だけ大牟田市の三池史談会会長から名刺しではないものの、一定の指摘がありました。 スポット003 “「駛馬という地名(三池史談会会長)”という新聞記事について 参照 )事からも無視は当然の比率であるとしても、そうでない方はそれなりの割合でおられるはずですから、既にそういった方が全体として壊滅状況になっているとしか考えようがないのです。

 ともあれ、私達の様な素人の団体にも大手テレビ局からお声が掛ると言う異常な状況(文化的焦土)にどうやら突入しているようなのです。最近、福岡の大手放送局から「災害地名」の話が舞い込みました。


災害がなければ注目されない歴史、危機に陥らないとお呼びじゃない変革者や預言者


 災害があると、ようやく「この現場は元々危険な場所だった…」などといいった普段は見向きもされない古老とか識者の見解が妙に持ち上げられ、埃が払われて当然でもあったかのように持ち出されて来るのです。

 津波が入る湾奥地、大型活断層直上地、洪水常襲地、崩壊地、鉄砲水経験地…など日本の様な災害常襲国では少し考えれば幾らもあるのですが、普段、そんなことを言えば「年寄りの戯言だ!」「町興しに反対するのか!」「地価が下がるじゃないか!」「営業妨害だ!」「地権者でもないのによそ者が何を言うか!」となってしまうからです。

 東北大震災後、津波絡みの災害地名の本(「あぶない地名○○」「地名は警○する」「災害・崩壊・津波地名○○」…)といったものが出されましたし、広島の土石流災害後に同地が元は蛇落地悪谷」(ジャラクチアシタニ)だったと言った話が面白おかしくにわか仕立てでクローズアップされました。

 これはこれで立派な調査や研究であり敬意を表するのにやぶさかではないのですが、結局は時流に乗る商業目的(悪いと申上げているのではないのでクレグレモ…)か、良く言って、情緒的な免罪符か諦めとか癒しのためのセレモニーに近いものではないかと思うばかりです。

 とは言え、確かに過去災害に見舞われた土地、頻繁に土石流が襲う土地、ここだけは不思議と助かる土地、ここまでは津波がやって来なかった土地、よそは全て水没したがここだけは漬らなかった…と言った特徴的な土地は、それなりの地名が新たに付され、古来、刻み込まれている場合があることは確かで、その事例は経験を積めばある程度は見当が付けられそうです。

 ただし、古語や方言や外来語に対する素養とか、地形、地質、植生、土質を読む総合的な知識が要求される事になり、我々の様な田舎地名愛好者ぐらいではなかなか追いつかないものです。


国、地方行政機関自体がその貴重な地名を破壊し続けている



谷川健一をして「文化遺産」と言わしめた貴重この上ない宝物としての地名を、効率性とか差別地名や不明地名の排除とかいった勝手な判断によって徹底して破壊し(国土調査、町村合併、区画整理、換地処分…)続けている張本人が行政です。

 そのくせ、災害があると、国土交通省などは自らの子飼いの風土工学系研究者などを動員し、天下り先にしているコンサルタント会社などに災害地名拾い出し(パンフレット作成)させて天下りのお土産や商売にしているのです。

 まず、地名など不確かなものに頼る前に、その土地に永く住み、地元の事情に精通している識者に聴きしすれば、住んではならない土地、買ってはならない土地、できれば避けなければならない土地は分かるはずですが、問題は皆が都市に集中するようになり、そのような情報から全く切断され、分譲業者やディベロッパーといった利潤優先の他人から買わざるをえない状況に陥っている事実そのものが問題なのです。

 昔は全ての人間が自分達の住んでいる土地の事を知っていたし、頻繁に山や谷や川と関係を持って生活していたために、例えば、山にどのような木が生えているかだけでも、滑り易い土地、崩れやすい土地は知っていたし、同じ杉山にしても、幹が曲がった山は地滑りや表層崩れが起きている事から、その下に家を建てる事は決してしなかったものです。

 まず、農水省の拡大造林政策によって、本来、落葉広葉樹や常緑広葉樹で維持されていた山体の勾配が針葉樹に植え替えられれば危険極まりないものになっているのであって、単に山に緑があるからと安心してはいけないのです。

 本来、蛇落地悪谷」といった特殊な痕跡地名を探る前に、最近開発された(山を切り、谷を埋めて造られた)にわか仕立ての急造地こそが危険であり、こういう土地は、決まって、何々ケ丘、何々台、何々タウン、平成○○ヒルズ…と名付けられているのです。

 むしろ、逆に、好字、好感、高アピールの土地こそが怪しいのです。

 何故なら、福岡市内では5000万円以下ではまともな敷地面積の戸建は取得できないとされているように、人が住まない、住んではならない、危ない土地だからこそ売れずに残っていた安い土地である事から開発する価値があるのです。

 実は、このような新造地の下に、多くの人命を奪ってきた危険を告げる情報が刻まれた小字名、四股名が残っているはずなのです。

 このことを頭に入れた上で地名を考えると、最近の急造地ばかりではなく、その時代ごとにそのような事が起こっていると分かって来るのです。

 良い例が、長崎県島原市にあります。海岸部の島原温泉は知られていますが、観光客は振り向きもしない地元の人だけが行く山手の温泉に、「上の湯」、「新山鉱泉温泉下の湯」があります(最近は入っていないので一方は閉鎖されているかも知れません)。

実はこの一帯が「新山」と呼ばれているのです。つまり、「島原大変肥後迷惑」における山体崩壊=大規模土砂崩れによって埋まった地域が新山(まさにニュー・ヒルズ○○)と呼ばれたのです。

 この新山の北には、正直に崩山(クエヤマ)町や栄町が、南には緑町(まさにグリーンタウン○○)が、山そのものが滑り落ちた海岸部には、湊新地町(ポートorハーバー・ニュー・タウン○○)があるのです。

 次はそれに続く大規模災害が近年にも存在した事をお知らせしておきます。


209-1

ほとんど知られていない百万本の国有林が崩壊した宮崎県宮崎市田野町の鰐塚山巨大山体崩壊地

  これは災害から二年後、単身で現地調査に入った時の写真です。ここは「蛇」ではなく「鰐」ですが、この地名は災害とは無関係です。


この点について詳しく知りたい方は、当方のHP「アンビエンテ内」「有明海諫早湾干拓リポート」から

204. 宮崎県鰐塚山針葉樹林の大崩壊 ( 宮崎県内の全ての川が土砂で埋まる

針葉樹林に火を着けろ!

田 野

や、九州大学大学院農学研究院森林保全学研究室による「宮崎県田野町 鰐塚山の崩壊と土砂流出」の詳細な現地リポートなどをお読みください。


標高は1,118m。わにつか県立自然公園に指定されている。

山頂からは錦江湾、桜島なども見える。山頂へは「わにつか渓谷いこいの広場」から始まる登山道を利用して登るか、自動車で登ることも可能(ただし、道路は狭隘である)。

中腹には「わにつか渓谷いこいの広場」がありキャンプ場などが設置されていたが、2005年の台風14号で山腹が崩壊し、土石流が発生して鰐塚渓谷がほぼ完全に破壊したため、同広場は消滅した。また、この被災の影響および地すべりの危険性が高まっていることから、2008年現在、同広場からの宮崎市田野町側のルートの利用は自己責任によるとされている。

ウィキペディアによる



では、本当に危険を今に告げる災害地名があるのか?



これはあくまでもこういう地名が想定できるという一般論としての架空の地名ですので誤解がないように!



水害、水没、堤防決壊、洪水   古川+古賀+古閑+川底

土石流、崖崩れ         萩原+萩尾+貫田+野芥+梅林+埋金+久江谷+梅谷+八景

津波、高潮           吹上+打越

地震              栗林+段谷

軟弱地盤            古田、古枝

火山災害、降灰         吹田+灰原+諏訪

河川争奪            道目木+十津川+今川?

いずれ原子力災害も       ○○○○ 

ばかばかしくて本気で考えていませんので悪しからず。

209(後編) 災害後しか関心を持たれない「災害地名」

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ヌゲンクユル

これは、十年も前に書いたもので、近藤邦明氏のサイト「環境問題を考える」“環境問題の科学的根拠を論じる“のサブ・サイト=アンビエンテ内の「有明臨海日記」に書いた小稿です。

久しぶりに引っ張り出したものの、実は「果たしてタイトルがこれで良かったのか?」と悩んでいるところです。

 当時、ヌゲノクヅルがヌゲンクユルと転化したものと考えていたのですが、実はヌゲノクル→ヌゲンクッと促音化しただけのものだったのではなかったかと考え直しています。

 恐らくこのおばあさんは、「あの土地は崩れるから良くない土地で買わない方が良い…」と言っていたのだと思います。


ヌゲンクユル

これも、勤務中に耳にした方言というよりも、古語の話です。

ちょうど、リポートⅡの球磨川の話、109.瀬戸石崩れ(セトイシクズレ)、=瀬戸石崩(セトイシクエ)を仕上げていた時期でしたが、同僚のマサシ君とレッサー・パンダ君が二人で出張したのです。

焼き物の町有田に隣接する山内町という田舎の小さな町の話ですが、八十に近いお婆さんと話を始めたら、“ヌゲンクユル”、“ヌゲンクユッ”(「あそこはヌゲンクユッケンヨーナカもんね!」)などと言い出だして、“始めは何の事だか意味がさっぱり分からなかった”と話してくれました。

 二人は三十代の前半と後半の青年団(これはシャレ)のために当然の事かと思わざるを得ませんでした。

恐らく六十歳前後の人までは大体の意味は拾えるのでしょうが、さすがに三十代ともなると、よほど言語に興味を持っていない限り、理解できないのは“いたしかたない”と言わざるを得ないでしょう。

二人とも読書好きの優秀な職員ですが、それは時代、世代の限界であり、こうして古い言葉は消え去り、「立ち上げる」などといった自動詞と他動詞の区別も付けられない愚かな言葉(行政からマスコミに至るまで馬鹿げた用法が広がっています)が巾を利かすような事になって行くのです。

瀬戸石崩(セトイシクエ)でも説明しましたが、“クエル”、“クユル”、“クユッ”は、崩れるの古形ですが、崖が崩れることを言います。


【崩え・潰え】(クユの連用形から)崖崩(がけくずれ)。また、崖、つえ。(広辞苑)


九州の秀峰に祖母山、傾山がありますが、その一峰に大崩山(オオクエ)がありますので、この山を見られれば、意味がより鮮明になるかもしれません。

 “ヌゲノ”の方も一応、説明しますが、“ノ”は格助詞の“ノ”であり、“ガ”ほどの意味です。“ヌゲ”も広辞苑を見てみましょう。
 【脱げる】《自下一》*□(□の中に文)ぬ・ぐ(下ニ)身に付けたものがひとりでに取れて離れる。外側を覆い包んでいたものが取れて離れる。・・・
 結局、このお婆さんが二人に話したのは、「一度崩れた場所(だから)がまた崩れる」という意味だったのです。もちろん「ヌゲ」は脱げたところ、つまり、崩れた所という意味の動詞から転化した名詞の「脱げ」(崩壊地)の意味だったのですが、同地区の古老の間では、“ヌゲル”も動詞として生きていることは言うまでもありません。 

人気のある黒川温泉からそう遠くない熊本県小国町の岳の湯、はげの湯の「はげ」も同じく崩壊地を意味する地名で「ハゲル」は「・・・草木がなくなって山などの地肌が露出する。・・・」(広辞苑)にあるように、「ヌゲル」と同じ言葉ですが、熊本と佐賀の二つの言葉がなぜ分散しているかまでは見当も付きません。多分、地名の成立期の違いなのでしょう。

今になって改めて自分の文章を読むと、正直言って、“大まかには良いけれども少し違うかな…”といった印象を持ちます。

それは、「ぬげる」は「脱げる」とも言えますが、むしろ、「抜ける」「貫ける」とも表現すべきだったかも知れません。おばあさんは「漢字」で話していた訳ではないのですから。


 それはそれとして、広島の土砂崩れ災害においても、決まって、「当時、行政は危険地の指定を怠っていた」とか「住民は危険を全く知らされていなかった」とか開発業者も「その当時は精いっぱいの事はやったのですが、まさか、そんな地名の土地だとは知らなかった…」と、購入する側も「危険地域であったと知らされていたとすれば決して買わなかったのに…」と言ったステロ・タイプの話が新聞紙上で踊っていました。

戦後復興期に重化学工業で勃興した広島、福山、水島などの瀬戸内海沿岸の工業地帯では急速な土地需要の盛り上がりに応じて、ビジネス・チャンスとばかりに競って造成地が開発されました。

そんな時代に、ここを開発すると危険だと主張する学者とか識者がいたとしても、排斥されただろうことは確実だったはずです。

今でこそ取り上げられますが、当時、このような正論を主張する人(分かっていた人は必ずいたはずですが)は、恐らくいち早く購入したい人まで巻き込んで地元マスコミも、地域の発展を邪魔する迷惑な人間扱いしただろう事は想像するに難くありません。

結局、危ない土地=安い土地は、所得の低い貧乏人には喉から手が出るほど欲しいはずで、急傾斜地の危険地指定をしようとでもすれば(当時はその仕組みも存在しなかったはずですが)、行政関係者、研究者、技術者も攻撃を受け、開発業者から賄賂を貰ってでも開発の旗を振る人間が持て囃されたはずなのです。

こうして、いつの時代でも金を持たない人間だけが決まって犠牲になるのです。

そして、結局、マスコミや行政当局よりも、前述の「ヌゲンクユル」のおばあさんの方がよほど賢く、よほど正しい判断をしている事になるのです。

被害にあった時だけ「他人の責任にして騒ぎ喚く」見苦しい真似だけは辞めるべきでしょう。

宮崎県は歴代林野庁官僚共の食い物になり続け、売れもしない急傾斜地の広葉樹林地域に膨大な針葉樹林が造成され続け、いたるところで土砂崩落が起こり続け、現在なおダムが埋まり続けています。

この田野はほんの一例で、諸塚村、椎葉村でも大規模な崩落災害が起こっているのです。

この旧田野町(宮崎市)では県営クラスの大型ダム一つ分(実に500万立方メートル)の土砂が崩落したのです。その林野庁との関係の反省で生まれたのが東国原県政でしたが、一時的に利用し利用されただけで、しばらくすれば使い捨てで、どうせ、今はまたモトノモクアミとなっている事でしょう。

210 官僚はなぜ汚職を続け天下りを続けるのか?

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210 官僚はなぜ汚職を続け天下りを続けるのか?

20150413

久留米地名研究会 古川 清久

本小稿は別のHPのサブ・サイト「有明海臨海日記」に掲載予定で十年ほど前に準備したものでしたが、結局オンエアすることなくお蔵入りしていたものです。最近パソコンの整理をしていて見つけ出しました。

時代遅れの感は否めませんが、佐賀県内の地方自治体職員として在職中に書いていたものです。

良く地方公務員が公務員を辞めると痴呆(地方)だけが残ると言われますが、現在、その防止のためにブログを書き続けていることになります。当時、単に技術的な問題だけで出さなかったものですが、今回、多少の修正校正を加えて陽の目を見せてやりたいと思います。

環境問題を書き続ける

いまさら環境問題を書き続けることの意味を考え直したからといって、何らかの発展性を見出せる訳もないのですが、正直言って痛快さと苦しさが同居しています。

快感としても、緊張感を伴うものであり、文字どおり痛みが同居しているのです。

確かに痛快ではあるでしょう。戦前ならば差し詰め軍部が相手なのですから(国土交通省は最早国家内に存在する関東軍のようなもので既に制御不能になっているようです)、それを相手に批判する事に多少の心地良さがあるのは先ずは“男子の本懐”といったところでしょうか。

しかし、虚しさも伴います。それは、何度も言うようですが、恐らく、今後も環境は破壊され続けられると予想されるからです。しかも、仮に住民側が部分的に止めたり変えさせたりできた場合でも、それは一時的な勝利でしかなく、しばらくすれば、また、形を変え、忘れた頃に再登場して来ると思われるからです。良い例が諫早湾干拓事業です。これは長崎県南部総合開発事業(南総)が一旦潰れた後に装いを変えて再登場してきたものでした。

こうなると環境保護運動とは事実上はモグラ叩きでしかなく、職業としてやっている行政の側が勝つのは当たり前の事となるのです。民衆、住民の側には絶えず不公平なルールで闘いを強いられるのです。

しかも、一時的に止めるか、仮に元に戻す事が出来たとしても、高々、現状が保たれる程度のものであり、所詮、環境保護運動とは現状維持的で保守的な運動でしかなく、全く未来へ向けた夢がないのです。

問題は、このような愚かな環境破壊が繰り返される本質、根本的な問題、その根絶、社会構造の変革に切り込まなければ一向に解決し得ない事になるのです。

従って、環境問題を書き続ける事は重要ではあるのですが、それは、ただの警鐘の乱打(むしろ“負け犬の遠吠え”か)に過ぎず、それ自体としては決して十分ではないのです。

一般の人が味方にならない

「CO2温暖化仮説」という国家規模のデマに踊らされ一喜一憂する人は増殖しているのかも知れませんが、これは、むしろ環境に対する科学的な理解力の喪失の結果であって、わずかに、魚付き林のために広葉樹植林を進めている人はいるものの、むしろ、自分の直ぐ回りにある海、川、山を巡る環境の問題に対して本質的な理解力を持っている人は逆に減り続けているのではないかという考えを持っています。

さらに、都市部を中心に環境に対する本質的な理解力を持っていない人間は明らかに増大しているようです。

少し考えれば分かる事ですが、パジェロやランクルで向かうところは海や山ではなく、パチンコ屋で、勝ったら回転寿司屋で、負けたら家でカップ麺などといった馬鹿げた生活スタイルの人間がおよそ自然環境を理解し、ましてや、自然環境を守ろうと運動する事などありえないからです。

一般的に自然環境の破壊に対する抵抗運動が存在しうる基盤は、その自然環境から直接的恩恵を受けている事、間接的にもその事実が目に見え、自然環境が大切であるという自覚、認識が広範に存在している事なのであって、まず、第一次産業としての農業、漁業に依存する人々が減少し続けている事、都市近郊、農、漁、山村においても、環境の悪化から自然に触れ合う習慣が喪失してくると、自然環境の保全の必要性、有難さ、その喪失への危機感も喪失してしまうからです。

このため、今後とも行政一般を問わず、自然環境の保全、回復へのベクトルは弱まり続ける事が容易に想像できるのです。

つまり、本ホーム・ページ(HP「環境問題を考える」のサブ・サイトアンビエンテ内“有明海諫早湾干拓リポート”「有明臨海日記」)が書き続け、訴え続けている内容が伝わらず、たとえ伝わっても理解されず、理解されないために不当な攻撃を受けるという事を覚悟しなければならなくなると言う問題です。

なぜ?無駄な「公共事業」が続けられるのか

くだらないと言うよりも、既に害悪の方が大きくなっている公共事業が、なぜ?これほどまでに繰り返されるのでしょうか。

その理由は極めて簡単です。官僚にとっても、それを受け入れる産業界にとっても特別の旨味があるからです。

現在は、これに産官学の大学を加えることになるでしょう。今や、旧国立大学も税金に寄生するソフト産業に成り下がっているために、最早ことさら区別する必要など無いと考えるべきなのです。

元々存在しなかったが故に、また、戦争によって破壊され尽くした事によって行われた基本的インフラの再建、整備はとっくの昔に終了しており、本来、国家的投資は他の新たな部門に向けられるべきものだったのです。

にもかかわらず本四架橋を何本も造るとか、誰も利用しない高速道路の建設や、ピン撥ねだけが目的の中国向けODA(実質的な戦時賠償に近く累積額で数兆円になるはずですが、こんなものを彼らが返すはずがない)といったものに消え、今なお、凡そ必要性が考えられないいわゆる箱物などが造られ続けているのです。

その理由も簡単です。それは、この間公共事業を行う事によって生み出されてきた産業部門が次の事業(仕事の落札)に依存し、彼らに税金を流し込む事に利益を有する一部の官僚が存在するために外なりません。

こうして、国家的必要性とか社会的任務といったものとは全く関係なく事業が行われ続けているのです。

では、なぜ一部の官僚(いわゆるお代官様)は自らの使命を忘れ、腐敗に溺れるのでしょうか。

前置きが永くなりましたが、これが今回のテーマです。

汚職の源流


210-1

いまさら官僚の腐敗堕落についての説明は必要がないでしょう。

では、なぜ?役人は汚職を繰り返し、天下りを続けるのでしょうか?

 少なくとも、明治の革命(といってもロスチャイルドに操られたものですが)政権下の官僚(軍事官僚も含めて)は今と比べれば、遥かに高潔であったしその事には様々な傍証があります。

とは言ったものの、それは明治政府以来の宣伝によるところが大きく、実際、明治政府は藩閥政治の延長に全てが汚職であったとも言われているのです。

まずは程度問題でしかなく、今よりは多少はましではなかったかと言う程度のものでしょう。

ただし、末端の役人は清貧であり、今よりは遥かにモラルや国家への忠誠心が高く、威厳に満ちたものだったのではないかと思うものです(こちらは安心して言えそうです)。

一般的には“公務員のモラルの低下”とかいった事で良く説明されるのですが、もちろん、それが間違いという事ではありません。三〇年近く内部にいる人間として言わせてもらえば、印象としては昔の方が確かに公務員のモラルは高く、使命感も高かったという印象を持っています。

ただし、それはあくまでも印象であって、例えば、公共事業関係の現場での業者と小役人の癒着の程度は昔の方が遥かに大きく、また、仮に不正があったとしても、全体として共同体的に庇う傾向があり、表面に見えないままに処理されていたからではないかと考えられます。

これは、社会の大らかさから来ているものに相違ないのであり、実際にはそれが批判に晒されるようになっただけの事なのです。

その背後には役所という共同体(本来、役所は共同体ではあるべきではなく、官僚機構という機能集団なのだとされてはいますが、実態はそうではなかったのであり、それを前提に議論しているつもりです)が、現在も崩れ続けており、官僚機構の構成員の意識とは無関係に、もはや、発覚したものを全体で庇うという事が最後的にできにくくなっているだけだとも言えるようです。

一方、終戦直後などは皆が等しく貧しく貧富の格差が少なかった上に、実際に公務員の給与自体が低く抑えられていたために、たとえ不正があったとしても相互扶助の一部として問題にされなかったからと言えるのかもしれません。

一般的にこのような社会現象を分析する事は非常に難しく、説明をし得たような気になるだけで、一つの側面を切り取っただけでしかありません。通常、“天下りが存在したら汚職があったはずである”とまでは言えませんが、汚職と天下りは密接にリンクしており、“汚職があったならば天下りはあるはずだ“とは言えるでしょう。少なくとも、後付けの賄賂でしかない高給での再就職=天下りが存在しているのです。

官僚は階級ではない

一応、私が考える原因というか理由を申し述べておきます。

封建体制下の日本の役人や家臣団は、もちろん近代的な官僚とは全く異なりますが(断っておきますが中国は伝統的に中央集権国家であり、基本的に封建社会は存在しません)、役人という名が冠されている以上、ある種、似た存在である事は間違いがないでしょう。

少なくとも生産的労働に就いていないという事では同じように思います。

この封建的役人階級は日本においては人口の一割程度でしたし、非常に不正が少なく、もちろん、“天下り”などあるはずがありませんでした。

その最大の理由は、自らの役人や家臣としての地位を次の世代、つまり自分の子や孫に確実に移していく事が可能であり、それが基本的に保証されていたからに外なりません。

このため、例え貧しくとも、「たそがれ清兵衛」(山田洋二監督)に描かれるような清貧な下級藩士が広範に存在し、その藩士群が、ほぼ、そのまま移し替えられ、明治の官僚制に引き継がれたのです(もちろん、九州で言えば熊本の神風蓮の乱、佐賀の乱、西南戦争などで切り捨てられた者を除いてですが)。

明治維新後にもそのモラルが色濃く残ったと考えられるのです(凡そ日露戦争前後まで)。

一方、現在の官僚には自らの地位を合法的かつ確実に自分の子や孫に移し替える事が表向きにはできません(田舎の市町村ではコネ採用が隠然と存在しているようですが…)。

これに対して、土建屋のドラ息子は無能であってもベンツを乗り回す事ができるのです。言うまでもなく、社会的階級とはその所有形態によって決定されるのであって、単に権限の大きさとか所得の高さといったものによって決定されるものではないのです。

従って、官僚になる事ができたという一回限りのチャンスを生かして、まず、自らの地位を民間企業や公団、公社、公益法人などに移し、できれば、自分の子供の就職先を確保しようとするのです。

つまり、封建社会における武士(役人)が貧しくとも支配階級の一部であったのに対して、現在の官僚は階級にまでは高まっていないのです。

良く言えば、労働者階級の中の一つの階層に過ぎず、悪く言えば(正しく表現すればですが)、資本家が労働者を支配するための一代限りの道具でしかないのです。

だからこそ、彼等は株式を合法、非合法に取得し支配階級に這い上がろうとしているのです。

これが、国有財産の私物化でしかない民営化のもう一つの側面でもあるのです。

つまり、“十分な給与を与えれば不正をしない“とか、”十分な年金や退職金を与えれば天下りをしない“という事には単純にはならないのです。

従って、貧しいから不正を働くのではなく、高給よりも“安堵”の方が、競争原理よりも“平等原理”の方が、殊更この問題に関しては有効であり、重要だと言えるのです。

もちろん、私は”官僚機構を正常化させるべきだ“などと言っているのではありません。単に破壊すべきだとしか考えていません。

事実、文部省など、給与を配分する仕組みだけを残して廃止したとしても何の実害も無いはずです。

教育庁、教育委員会、PTA、教育事務所が一体何をやっているか考えた事がありますか?

何一つ社会の役に立つ事はやっていないのです。文化行政でも、「邪馬台国畿内説」と言ったデマを流しているだけなのですから。

現在の官僚機構は一刻も早く破綻して消失すべきであると考えていますので、まずは私の思う通りに進んでいるように思います。

この官僚機構は叩き潰す以外になく、むしろ止揚させ、全く別のものに置き換えるべきですが、今回はこの問題にまでは立ち入りません。

かつて一部の間の貫けた旧左翼の一部が主張していたような、“公務員も搾取されている”(ほとんど馬鹿と同義の向坂協会・・・ほか)“旧ソ連邦、東欧の官僚は支配階級である”(無様極まりない労働党など毛派・・・ほか)などと言った話は、マルクス主義的な階級概念からは完全な誤りでしかありません。

階級という概念はあくまでも生産手段の所有関係に基づくものであり、“単に給料が高い”とか“労働条件が守られている”いったものではないのです。

従って、「官僚階級」といった表現はマルクス主義を一切知らない人間の言葉なのです。

勿論、ノーメンクラツーラが存在した事は事実ですが、それは、一端はブルジョア階級が完全に根絶されたソ連邦だったからこそ可能だったに過ぎないのであって、中国は一度もブルジョワジーが根絶された事はなかったのです(これは東欧諸国も同様です)。その証拠が中国の国旗である「五星紅旗」であり廻りの小さな星の一つは民族ブルジョワジーを意味しているのです。

話が脱線しましたが、日本の武士階級は自らの地位を次世代(子、孫、養子を取ってでもお家の安泰)に確実に移し替えて行けたからこそ、貧しくとも不正をしなかったのであって、今の官僚は、例え高給を食み、いくら上り詰めようとも、合法的な手段では自らの地位を次世代に確実に移し替えて行く事ができません。だからこそ天下りするのであり、自分の子供を就職させるために不正を働き続けるのです。

ただ、中国は科挙の国であり日本のような清廉潔白な武士階級が存在しませんでした(これは中国に封建社会が存在しなかったと同義なのです)。

従って、進士(科挙にパスしたもの)はその限られたチャンスを生かして徹底的な不正を働いたのです。

日本において封建社会が成立して以降、科挙だけが真似されなかった理由は分かりませんが、割礼を導入しなかった事と同様に、何やら“南船北馬”に象徴される中国の漢族との民族的相違(多分、麦作遊牧民と稲作漁労民)差異のような気がするのです。

最後に

独立行政法人化によって採算性が要求され国立大学ですらなくなった現在、物事が非常に説明し辛いのですが、一応、国立大学と言う言葉にそれなりの意味が残っていた時代、ここでは、およそ昭和四十年代の前半頃までということにしましょう。

私は中学、高校にかけて佐賀県西部の古風な私塾(進学塾)に通っていました。

ここは、小学校の三年生の時代から英語、上級の数学を教えるような教育をやっていましたので、塾の師範が自分の子供三人を始め、東大生を累計で百人以上も産み出してきたようなところでした。私はそのような早い段階からの教育は受けていませんので今のテイタラクですが、まずは、英才教育で知られた塾だったようです。

ある時、この私塾の師範が、当時、(旧帝大系国立大学)に“合格した母親が来られて、「選ばれて良い大学に入れて頂いたのですから、皆さんにお返しできるような立派な人間になれば良いのですが・・・」と挨拶された。始めてだぞ・・・”と多少興奮気味に話してくれた事を思い出します。

まず、敗戦直後ぐらいまでは、国立大学に上がると言うだけでエリートであった訳で、選ばれた人間は地域社会に還元すべきという風潮が多少とも残っていた最後の残照と言えそうです。

実際、戦前までは地域で優秀な医者や技術者を欲しい僻地などでは、貧しい農家などの子弟であっても優秀な子供に地域で奨学金を出すなどして上級学校などに送り出すという風習があったものです。

そこまで行かずとも、国立大学に合格したものには一定の使命感と言ったものがあったような気がするのです。

このような人間は文字通り地域の代表でしたから、不正を働き私腹を肥やすとなど言うような恥知らずな真似は決してできなかったのですが、今やこの意識は完全になくなり、勉強して良い大学に合格した者は自分の力だけで上がってきたような思い上がりからか、“出世して得しなければ損だ”といった観念しか残っていないように思うのです。

これが、ソフトバンクの孫とライブドアのホリエモンを分けたと言うのは極論に過ぎますが、既に、大学教育の大衆化によって、“大学に行こうが、コネのある者にしかまともな職業は準備されていない”社会に既に変質していますから、このような話は既に何の意味もないのかも知れません。

努力もしなければ、努力をしても報いられない不公正な階級社会(階層が確実に相続され固定するという意味での)に変化し、早稲田を卒業してもコネのない人間には、良い企業には就職できないようになっているのです。逆に言えばコネのある指定子弟が入学すれば確実に良い企業に就職できる大学が早稲田なのです。

日本版フランス大革命が待たれるところです。現在、当時の僧侶の代わりには大学教授が、貴族の代わりには不動産所有者が断頭代に載るのでしょう。ルイ一六世やマリー・アントアネットの代わりには、一体誰がなるのでしょうか?官僚、政党代表、資本家、不動産所有者、土建屋、産廃業者、地方議員といった連中を全て整理しなければ、この不公正な社会は変えられないでしょう。

日本には、民主党はあっても共和党だけは存在しません。私は共和主義者ですが、今はブエノス・アイレスへの国外逃亡や逃散しか頭にありません。

誰か、出来ればアルゼンチン・タンゴ好きなが女性が良いのですが、卒婚状態ですので、こんなアメリカにむしり取られ続けるだけの薄汚い国を棄ててボカに行きませんか?スペイン語も多少は理解できますので。私も歌のタンゴを聴きながら静かに死にたいと思うようになりました。いよいよ422日は、ペルーのコマンダンテ・ゲレロス MRTAMovimiento Revolucionario Túpac Amaru)の英雄ネストル・セルパの命日です。この間墓参もしたいと思い続けていますので。アルベルト・フジモリに死を!

211 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川 健一の永尾地名から”⑧

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211 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川 健一の永尾地名から”⑧

20150501

久留米地名研究会 古川 清久

「釜蓋」(カマブタ) “宮崎県高原町佐野神社の「釜蓋」

宮崎県高原町の狭野神社と言えば、神社に関心を持つ方で知らない人のない重要この上ない神社です。

言うまでもなく、初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の幼名は狭野尊(サノノミコト)です。

その神武天皇の生誕地とされる神社が狭野神社であり、当然にも多くの神社研究者が足を向ける神社です。

カーナビ検索 宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田117 ℡0984-42-1007



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確かに本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)のこれまた本物の妃(実は前妻)である吾平都姫(アイラツヒメ)外6柱と共に祀られており、付近には皇子原神社や地捨ノ木温泉(旧称)があり(エナを木に掛ける風習があったことによる皇子出産の伝承地とされているのです)、幼名サノノミコトの「サノ」という社名が揃っているので、それで良いようなのですが、これについては、なお、疑いを持っています。

それは、久留米地名研究会のHP掲載の「吾平」を読んで頂きたいのですが、熊本県山都町斗塩に神武天皇のホゾノ緒を埋めた塚があるとの伝承を拾っており、それとの関連で未だに整理が付いていない事と、狭野神社周辺にある神社に神武天皇を配神として一番下に並べる神社があるなど(芩神社)、神武を僭称した第10代崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)がいた気配がつきまとうからです。

ただし、今回はこの神社の話ではありません。この神社の鎮座している地名が、谷川健一によって見出された「永尾地名」のバリエーションの一つである「釜蓋」のさらなる変化形の「蒲牟田」であることに気付いたからの訪問だったのです。

詳しくは、「ひぼろぎ逍遥」202208(数ヵ月後にはupの予定)をお読みください。


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「蒲牟田」と「釜蓋」とは同一の地名です。

「カマムタ」と「カマブタ」とは、KAMAUTA KAMAUTA のように、M音とB音の入れ替わりがあるのですが、カルとカル、ツルとツル、ヒロギとヒロギ…など、M音とB音が入れ替わっても全く同じ意味の言葉が日本語には大量に存在しており、その一つなのです。

この狭野神社の直ぐそばの蒲牟田川には写真の左手から高千穂川が合流し岬状のエイの尾型の地形が形成されており、それを蒲牟田と、古来、呼んでいたと考えられるのです。


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左が高千穂川、右が蒲牟田川 狭野神社に近いこの合流部にエイの尾型の地形が出現しており、これを古代の日本人は「カマムタ」と呼んでいたのです


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社務所で「蒲牟田」地名についてお尋ねすると、「蒲牟田は大字です。湯之元温泉付近にも蒲牟田集落があります」(こちらは通称名とのことでした)とのお答を頂きました。

実は、こちらの湯之元温泉付近の「釜蓋」地形を先に見つけていたのですが、狭野神社付近の「蒲牟田」とは別のもう一つの合流ポイントがあり、そちらもご覧いただきます。

きれいなエイの尾型の地形が形成されていますが、先に見えるのが蒲牟田橋です。

ここは下流に向かって左から高崎川が右から湯之元川が合流しています(後段の写真を見て下さい)。

さて、この「蒲牟田」地名=「釜蓋」地名は誰が持ち込んだのでしょうか?

それについては、「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”①~②をお読みいただければ皆さんも自ずとイメージが湧いてくる事と思いますが、特に「カマンタ」という沖縄に象徴されるエイの呼称に関連するだけに、この地名はマライ・ポリネシア系の海人族がこの地まで入っていた証拠の様に思えてなりません。

宮崎県には古代の諸県君、髪長媛の話があるのですが、フィリピンの南のモロ族(モロ民族解放戦線)のモロと考えています。髪長媛はアグネス・ラムのようなタイプの目のパッチリとした女性だったのです。

「諸県」の称は記紀に「日向国有嬢子。名髪長媛。即諸県君牛諸井之女也」などの記事が見られ、その起源の古さをうかがわせる。「諸県」は現在の東諸県郡国富町に存在した地名で、この諸県君(日向国造であったとの説もある)の本拠地でもあったとされるが、当時はヤマト王権の影響力が及んでいなかった地域も多く、諸県地方が、諸県君の主領域と一致したかは不明である。

諸県郡が、明確に確認できるのは「続日本紀」からであり、「延喜式」において、ほぼその後の領域が確定された。    

ウィキペディア 20150506 1620 による



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212 こうばし 終了しました

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212 こうばし 終了しました

20150611

久留米地名研究会 古川 清久


以前、福岡県でも大都市の部類に入る大牟田市や大分県の竹田市を車で走っていて、「荒物屋」なる店を見つけて喜んだことがありましたが、今回もその類いの話です。

 既に幟を揚げた「荒物屋」という商売は探さなければ見つからないほどのものになりましたが、今回は、山平の屋号を付した製粉業=粉製品販売業とでも言うのでしょうか、涙が出て来るほど感動させる昔ながらの店を発見して心が癒された思いがしています。

 さすがに、「きなこ」を知らない人はいないと思いますが(と言っても原料が何かを知らない人は、結構おられるようです)、「こうばし終了しました」の意味が解らない人はかなり多いのではないかと思いますので、記録に留める事にしました。


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もしも、差し障りがあると申し訳ありませんので詳しくは申上げませんが、このお店は、水郷や北原白秋で知られる福岡県柳川市の一角にあります。

 

先に「黄な粉」からお話しますが、言うまでも無い事ですが、原料はもちろん大豆です。

きな粉(きなこ、黄粉)は、大豆を炒って皮をむき、挽いた粉である。加熱により大豆特有の臭みが抜け、香ばしい香りになる。語源は「黄なる粉」で[2]、黄な粉とも書く。

ただし実際には黄色ばかりの粉とは限らず、黄大豆を原料にしたきな粉は黄褐色なのに対し、青大豆を原料にしたきな粉は淡緑色なので、「青きな粉」や「うぐいすきな粉」と呼ばれる。

ウィキペディア(20150611 1300)による

 上方落語にも、定吉が御隠居から買いにやらされた抹茶の代用で青ぎなこの茶をたてる「茶の湯」という話がありますが、今時、重宝される抹茶に対して肩身が狭いのが「きなこ」です。

 正月でもアベカワがあまり食べられなくなりましたので、若い人にはますます縁遠く忘れ去られようとしているように思います。

 さて、「こうばし」です。あまり本気では調べてはいませんが、久留米、柳川、佐賀あたりは大体「こうばし」で通用するようです。また、熊本でも「はったい粉」と呼ぶようです。

 「ひぼろぎ逍遥」 104 はったい粉は、何故、はったい粉と言うのか? を読まれた方は、思い出されたかも知れません。

 もうお分かりでしょう。

 「こうばし 終了しました」とは「はったい粉の販売は終了しました。」…という意味だったのです。

 と言っても若い人にはまだまだ何の事だか…という方は少なくないと思います。

はったい粉

はったい粉(はったいこ、糗粉、麨粉)は、オオムギを炒って挽いた粉。別名は麦焦がし(むぎこがし)、煎り麦(いりむぎ)、香煎(こうせん)。香りは、大豆から作られる「きな粉」と混同されやすいが、色は灰褐色である。

ウィキペディア(20150611 1320)による

 なんとか、若い方も、お分かりになったと思います。

 「煎り麦粉」が最も分かり易い表現ですが、それでも「それが何だ?」となるかも知れません。

 つまり、実生活の中に存在していない事から実感が湧かないのでしょう。

現在では、趣味で自家製クッキーの中に入れたり、自家製飲み物に加えたり、自家製のパンの中に加えたり…といった形でしか利用されないため、その補足的な食材を実際に使う一部の人(自然食品愛好者…)しか知らないものになっているのです。

私自身も、普段の食材としている訳ではないのですから、このような食材を実際に製造し小売している店が現存している事に驚いた訳です。

 勿論、大麦も全国的に生産されている訳ですから、今でも、干物屋(これも少なくなっていますが)や農村部の道の駅などに行けば売られているでしょう。

だいたい、東日本では、「むぎこがし」、西日本では、「はったい粉」と呼ぶようですが、「こうばし」「きなこ」が、看板商品として売られている店が存在している事が懐かしくも嬉しかっただけの事なのです。

下の写真を見られればお分かりのように、中には黒砂糖のブロックや氷砂糖といったものもおいてあるようです。

表に置いてあるのは営業用(配達、仕入れ)の自転車なのでしょう。

昔は太いタイヤに頑丈な荷台に太い黒のゴム紐が巻かれたものが多くの街角で活躍していたものです。

戦後、シンガポール攻略戦に活躍した銀輪部隊の話がされていましたが、その延長上に、丸石自転車、ツバメ自転車、宮田自転車、セキネ自転車が造られたのでした。

戦後直ぐは自転車しか交通手段がなく、一台の自転車が公務員の一ケ月分の給料でようやく買えたといった話を先輩たちから聴かされていたものです。

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 このお店は柳川市でも市街地と農村部の境にあるのですが、確かに、仕入れと、加工、販売を考えれば、そのような場所が最適だったはずです。

 そこに、「町矢加部」という面白い地名があるのですが、この話は別稿とする事にしましょう。

そう遠くない将来、この店も何時かは閉められてしまうのかも知れませんが、2015年の梅雨の合間に得た人生の宝石のようなひと時でした。

と、ここまでは書いたのですが、どうも気になるのです。

ハッタイ粉=「コウバシ」とは言い切れないのです。

やはり、「コウバシ」には地方的なバラつきがあるようです。

ハッタイ粉の別名が麦こがしであるように大麦が原料なはずなのですが、一部には「コウバシ」は玄米を原料とするとするものが多々認められるのです。

実は写真のお店の「コウバシ」も玄米加工によるものです。

これについては多くの実例を踏み確認したいと思います。といっても実例自体が少ないため、「コウバシ」と呼ぶエリアを中心に数例、十数例確認すれば済むことですが、多少の時間が必要になります。

213 菊水史談会主催の古田史学の会古賀達也(編集長)講演会2015について

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213 菊水史談会主催の古田史学の会古賀達也(編集長)講演会2015について

20150611

久留米地名研究会 古川 清久

630日(土)に行われた久留米大学の公開講座「九州王朝論2015」古賀達也(古田史学の会編集長)による講演が行われた翌日の日曜日、熊本県和水町中央公民館に於いて、再び、熊本に舞台を移して同氏による「邪馬壹国から九州王朝へ」-江田船山古墳 九州年号の意味するもの- (資料代100円)講演が行われました。

 今回も百人の参加者がありましたが、驚く事に町外の参加者が七割となっていることです。

 この事を評価すべきかどうかはありますが、どう考えてもネットにより情報を得た方による参加が、熊本県北部でも農村部にあたる和水町に於いても多数派になっている事です。


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上) 講演中の古賀編集長 下) マスコミも取材に入った二度目の講演


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この講演会については人選も含めて昨年から当方も関わったのですが、大きな意味で九州王朝論の拡大、宣伝の一環と考え取り組んだ訳です。

 菊水史談会の台所事情は存じ上げませんが、遠来の講演者をお呼びするには経費も掛る事から、当会も過去、古田武彦先生の講演など久留米大学の公開講座を何度も利用させて頂きました。

 今後とも、同様の手法で肥後への九州王朝論の浸透を図って行こうと考えています。

 直近では、7月にも菊水史談会主導で、福永晋三講演会が行われる予定です。

 8/1 菊水史談会(和水町)主催、地名研究会協賛 「福永晋三講演会」 においで下さい!


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福永 晋三 「真実の仁徳天皇」 出版記念 夏季4連続特別講演スケジュール 


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711日には筑豊の田川郡大任町において内倉武久氏による講演会も計画中です。

徐々に、北部九州全域に於ける九州王朝論の浸透への作業が拡大して行きつつあります。

久留米大学の公開講座(九州王朝論)の拡大により、事実上、久留米地名研究会が一体化してしまったことによって、肥後、筑豊、新たな展開を見せていますが、地名研究会は、トレッキング中心の太宰府地名研究会、菊池(川流域)地名研究会の月例化とは別に、一方には秘密結社的、情報連絡機関のような存在へと移行しつつあるのかも知れません。

なお、個人的には九州王朝論者のはしくれと自認していますが、既に古田武彦氏の九州王朝論からは大きく逸脱しており(ブログ「ひぼろぎ逍遥」他を見れば明らか)、古田史学の会の会員といえば同会に対してご迷惑をお掛けする事になるのは明らかです。

現在のスタンスを最もよく表している百嶋神社考古学勉強会を619日からスタートさせる予定です。

今後とも、利権構造に胡坐をかいた学会通説派の嘘つき学者どもや、間の抜けた邪馬台国畿内説論者に対しては九州王朝論を擁護し応援したいと考え、その立場に立つ真面目な研究者の研究体制に対して関与し続け、古田史学の会、多元の会、東京古田会…等の九州王朝論者との関係は続けると思いますが、最も重要なのは、やはり「古事記」の95%が嘘だ!と言いきった故百嶋由一郎先生の業績を少しでも後世に残し、古代史研究による真実へと迫る端緒を残したいと考えています。

所詮、文献史学派は95%の嘘の上に成立しており、藤原の手のひらで泳いでいるに過ぎないのです。

214 ツアー・バスで30人が「納音菊水九州号対照表」を見にやってきた

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214 ツアー・バスで30人が「納音菊水九州号対照表」を見にやってきた

“関東の九州王朝研究拠点「多元的古代研究会」”

20150612

久留米地名研究会 古川 清久


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63日地元の公民館で九州年号対照表発見の経緯を説明する菊水史談会の前垣事務局長

久留米大学公開講座翌日の古賀達也(古田史学の会編集長)菊水史談会講演が終わったかと思う間もなく、今度は多元的古代研究会のツアーが、新たな九州年号対照表を一目見ようとおいでになりました。

個人的には過去何度となくお会いした方々でしたが、菊水史談会としては初めての組織だった来訪であり、会長や菊池(川流域)地名研究会メンバーの吉田宮司なども出迎え、短時間とは言え盛会となりました。


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左)江田船山古墳出土鉄剣を銘文入りTシャツ      右)納音菊水九州号対照表

 恐らく前垣事務局長でなければ発見できなかったと思うほどの偶然性の重なりと、「善紀」が九州年号であると言う知識を持っておられた前垣さんの知識、探究心、粘り、責任感、使命感の全てが併さって今回の好運へと繋がったものであることが良く分かる発見談でした。

 サラリーマン化した上に、学会通説に反する独自の研究姿勢を持つことも許されない学芸員やサブ研究者、教育委員会に調教されたガイドなどには凡そ発見できないものだった事が良く分かるものと言えるでしょう。

 現在の学会通説の権威に尾を振り、それに精通している事だけを鼻に掛ける学芸員には何の使命感も探求心もないことだけは容易に想像できるように思えます。

 菊水史談会の前垣事務局長がこの貴重この上ない対照表を発見できた最大の理由は、対象表冒頭の「善紀」が九州年号である事を知っておられたからですが、それには伏線があり、玉名市出身の古代史研究者で、最先端の九州王朝論の研究者である佃収氏の講演会を数年前に取り組んでおられ、同氏の同人「東アジアの古代文化を考える会」会報「古代文化を考える」や佃収氏の著書を丹念にお読みになっていたからに外なりません。

 正直に言えば、私自身も最先端を走る佃収研究の精緻さ明確さに引きずられており、古田直系の九州王朝論=古代史研究という常識には収まらなくなってしまっており、伝統的な九州王朝論者に対しても同意できない部分が拡大し続けています。

 その上に、百嶋神社考古学の洗礼を受けている事から、ハッキリ言えば、九州王朝論自体やその探求の手段としての4つの地名研究会そのものまでが負担に感じているところです。

 久留米地名研究会を中心にかなりの影響力を持つところまで成長してきたのですが、活動に追われ、自分自身の学習や独自の研究が疎かになっていることも非常に気になっているところです。

 それらのこともあり、今後の研究会全体の進むべき方向をどのように設定するかを考えているところです。

 今回、久留米大学の公開講座も一段落着いた事から、平日ながら619日に小規模ながら神社考古学勉強会の第一回会合を行い百嶋神社考古学の継承へ向けた作業を開始します。

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故)百嶋 由一郎 メモリアル 神社考古学研究会(勉強会)に参加しませんか?

20150619

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久


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201311日に亡くなった 在りし日の百嶋由一郎先生

現在、仮称百嶋神社考古学研究会(勉強会)の設立の話が出ています(この小稿がオンエアする時には開始されているはずですが)。

久留米地名研究会のように大規模に月例会を持つのではなく、実際に神社を調べて廻っているフィールド・ワーカーの連絡、調整、親睦を図り、互いに疑問点を付き合わせ勉強しようという集まりです。

場所は、JR鹿児島本線春日駅から歩いて一分の自然食喫茶「くるま座」で行う予定です。

百嶋神社考古学はネット上でも関心を持たれており、今や関東地区からも新たに三名の方が百嶋先生の音声データ(40時間余り)や文字データを取り寄せ日々格闘されています。

熊本からも六名ほどの独自の神社研究グループから百嶋先生のデータを求められ研究を進めておられますし、地名研究会内部にも十名程度(これが実質的な神社考古学研究班ですが)、また、外部にも数名、百嶋先生のデータを熱心に調べておられる方がおられます。

これらのメンバーを軸に定期的な勉強会を始めようと言う話が持ち上がっています。

ゆくゆくは久留米地名研究会の日田市天ケ瀬温泉五馬高原研修所でも合宿を行いたいと考えています。

会合を持ちやすい場所と時間帯を工夫して継続し、ネット上でも呼び掛けを行えば、直ぐに20名程度の研究会にはなりそうですが、当面は、百嶋先生の講演録(玉音放送)聴きながら、分からない点を検討しあうところからスタートし、テレビ(HDMIタイプ)を設置し、パソコン、ワイファイで全国の神社を検討するとか、自分が調べて来た神社の祭神、祭祀氏族を互いに検討しながら、真実の神代史の復元を図りたいと考えています。

スタート時点での入会金(設立準備金=ほとんどTVの購入費用のみ)2000円+参加費5001000円(毎回の会場費資料代)程度を考えています。

今のところ、JR鹿児島本線春日駅に近いくるま座を考えています。ここは西鉄春日原駅からも歩いて510分であることから、まずは、会合するには最適であり、JR春日駅前には駅駐車場がありもあることから車でも参加しやすい場所です。問題は時間帯です。

今のところ平日の昼二時~六時までを考えていますが、仕事をお持ちの方は休みを取られるなり、仕事を調整するなりして集まって頂くしかありません。

平日の夜も考えましたが、逆に主婦の方は出辛くなるため、現在の参加予定者を考えての配慮です。

恐らく21世紀に入り日本でも最も神社に詳しかったと考えられる故)百嶋先生の千分の一も知識を持たない者ばかりで始める勉強会ですが、先生が持っていなかったインターネットという武器を最大限に生かし、情報だけは大量に入手できる事から、幾分かは補う事ができるものと考えています。

何よりも、次世代の神社研究者の養成、発掘、もしかしたら、逆に我々がこ教授頂ける方とも出会う事が出来るかも知れません。初心者歓迎!広く参加者を募ります。

連絡は くるま座(中島)まで(℡中島:09052892994orくるま座:092-592-8903随時)。

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参加したい方は、くるま座(中島)まで連絡して下さい(℡中島:09052892994orくるま座:092-592-8903随時)。

「古事記」「日本書紀」を知らない初心者も歓迎します(皆初心者です)どうせ古事記の95パーセントは嘘なのですから…。

 当面、集まれそうな人は78人ですが、少しずつ参加者は増えて行くでしょう。逆にあまり増やす必要もないでしょう。最近は地名研究会も久留米大学公開講座と組むほど大きくなってしまいましたので、いつの間にか私自身も質問を抑え、議論をしなくなっている事に気付いています。

 再度、地べたに這いつくばって、一から皆さんと議論し、内容を掘り下げて行く必要を感じています。

 まだ、仕事を終えた人が集まれる時間帯にするか、平日の午後二時以降にするかも決めていません。

 テーマは山ほどありますし、メンバー数名が二〇分程度の短時間のリポートを持ち寄って発表してもらう形にするかも決まっていません。


214-6

自然食軽食喫茶「くるま座」℡092-592-8903は駅から直ぐです


音声CDMP3方式)

21世紀に入り日本最高の「神社考古学」の研究者だった故)百嶋 由一郎氏の音声ドキュメント(40時間分)及び神代系譜等を実費程度でお分けしています。

ご連絡は古川(09062983254)まで随時。

214-6

全体で40時間程度のドキュメントになっています


※画像クリックで拡大表示されます
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この他に多くの神代系譜を含むスキャニング・データを提供できます


215(前) 求菩提山岳修験の残照 “求菩提山 宝地院との偶然の接触から” 

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215(前) 求菩提山岳修験の残照 “求菩提山 宝地院との偶然の接触から” 

20150615

久留米地名研究会 古川 清久


215-1

614日、百嶋神社考古学に関心を寄せる熊本在住の美人霊能者の二人に誘われ、どこに行くかもはっきりしないツアーに出ました。彼女たちはそれなりに認識していたのでしょうが、私が聞かされていたのは、行橋市のある寺に行き、法話を聴く…ということだけでした。

彼女たちの奇妙な力を多少は認識している事から、わざわざ熊本市内から行橋まで出て来るのだろうからそれなりに意味のあるイベントなのだろうという曖昧な認識のまま、予定の10時より20分ほど前までには無事に現地に到着し、さっそく住宅地内の寺に伺いました。

すると、そこの玄関には 求菩提山宝地院 と書かれていたのです。


求菩提山 宝地院 Kubote_san HOUCHIIN


求菩提山 宝地院 修験-歴史遺産の継承

 当院は、京都の聖護院門跡を本山とする末寺として開院の際、求菩提山の鬼門封じの寺として歴史のある「如法(ねほう)()宝地院」より継承し、「宝地院」を名乗るよう授けられました。現在、当院は聖護院門跡の末寺から離れ、「求菩提山 宝地院」として、古来より連綿と伝えられた求菩提山に伝わる山岳修験の伝統を守りつつ現在に至っております。

 近世以降、修験道は江戸幕府の政策もあって「本山派」「当山派」の二つに分かれましたが、聖護院はこのうち「本山派」の中心寺院でありました。そして1872年(明治5年)の修験道廃止令の発布の際には天台寺門宗に所属しておりましたが、1946年(昭和21年)、修験宗を設立(本山修験宗の設立は1957年)して天台寺門宗から独立しています。

天台宗寺門宗とは、日本天台宗本山の比叡山延暦寺で、円仁と円珍によってふたつに分かれた二派(山門派・寺門派)のうち三井寺に入った寺門派のことで、顕密一致の宗旨に修験道が加わるという特質があります。求菩提山は、明応31494)、熊野三山検校で聖護院門跡であった三宮道興法親王(さんのみやどうこうほうしんのう)(道興准后(どうこうじゅんこう))の入山によって聖護院に所属しました。

また、当院では、各地での法話参加者の増大にともなって、九州(行橋)、東京、名古屋、大阪へ各本院を構え、法話や講習会などを定期的に行ない、九州本院では開院当初より、「六峰会修験本坊」として連綿と続く山岳修験を守り続けております。1987年には120年ぶりに英彦山峰入修行を復興し、春峰、秋峰、寒行、断食籠行、盂蘭盆会、星供養会などの年中行事も、全国から多くの方々のご参加を受け毎年続けてまいりました。 
 現在、祈願・供養の作法、星供養会、盂蘭盆会を行い、山岳修験の形式を伝承する「五日間断食籠行」は開院当初より途切れることなく初冬に行なわれております。

各種の寺院行事には、全国から大勢の方々のご参加をいただき、山岳修験の伝統を古来のままに守り続けております。

「宝地院」HPより


行橋に入った辺りまでは真言か天台かは分からないものの、たぶん密教系の団体だろうぐらいの感覚でした。しかし、求菩提山山岳修験の一派となると、これなら少しは従来抱いて謎の解明に繋がるのではないかとにわかに色めき立ったのでした。

まず、求菩提山山岳修験は、いつの時代か国東の修験と衝突し西に逃げ、肥前に展開した八天神社などとなった…と理解していました。

また、福永晋三氏などが求菩提山山岳修験に象徴される大天狗+八天狗こそが八天狗=ヤタガラスとの説を提出されており、久留米地名研究会主催の杵島山トレッキング資料にも以下の様に書いています。


八天神社


一般的には、「祭神は、火之迦具突知大神・建速須佐之男大神・火の神に属される神々様です」などとされるのですが、この神社の本来の意味が分かる人はほとんどいないように思えます。

インターネット上に出てくる内容を見ても、全く実態をつかめていないといったところでしょう。

八天社、八天神社なるものが大分、福岡、佐賀、長崎の主要な山の頂上に祀られ、八天山も多い。

この祭神は求菩提山八天狗であるとするのが、九州王朝論者でも特異な位置を占める、東京の福永晋三(神功皇后紀を読む会主宰)氏であることを我々は知っています。以下ご参照あれ。


神武東征研究
 中国史書と日本書紀の整合性  


215-2邪馬台国成立の絶対年代
先に、『後漢書』倭伝と記紀を比較して、「倭国大乱」時に神武東征があったのであれば、そこで「倭奴国」が滅び、「邪馬台国」が成立したと見るべきだったのである。「歴年主無し」が、記紀のいわゆる「欠史八代」に相当し、卑弥呼は「邪馬台国大乱」の後、崇神天皇紀の頃に共立されたのであった。事実、神武朝(邪馬台国)は終に「後漢」に遣使することなく、「魏」に交替して初めて遣使したのである。故に、范曄は『後漢書』倭伝に、邪馬台国の女王卑弥呼の共立までを載せ、卑弥呼の遣魏使や魏朝の倭国記事(二四〇年の倭国遣使等)を載せていない。
 と書いたが、ここには一部誤りがあったようだ。倭国乱の始まりに関しては、やはり『魏志倭人伝』の方が正確であったようだ。
其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑彌呼
其の國本亦男子を以って王と為す。住まること七八十年。倭國亂れ相攻伐すること歴年。乃ち一女子を共立して王と為す。名づけて卑彌呼と曰ふ。
 この男子こそが神武天皇(大王)その人である。次の一文が「(王位に)住とどまること七八十年」の意であるとするとき、『日本書紀』「神武天皇紀」には、
辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に帝位に即く。
七十有六年の春三月の甲午の朔甲辰に、天皇、橿原宮に崩ず。
とあり、「(王位に)住とどまること七八十年」と「七十有六年、天皇、橿原宮に崩ず」とはものの見事に一致する。
 最後の倭奴国王が紀元一〇七年に在位した倭國王帥升と目されるなら、そこに最も近い「辛酉年」は「紀元一二一年」の絶対年代となる。
また、神武は七十有六年後に崩御する。倭国の春秋暦(二倍年暦)であるなら、崩御は「紀元一五八年」となり、「倭国の乱」はこの三年(あるいは一年半)後の綏靖天皇の庶兄手耳命謀殺から始まったと推測される。一五八年は後漢の桓帝の延熹元年に当たるから、『後漢書』倭伝の
桓霊の間、倭國大いに亂れ、更も相攻伐し、歴年主無し。
の記事も決して間違いではないようであり、霊帝の次の献帝の在位期間中(一九〇~二二〇)に卑弥呼が即位したのではなかろうか。ぎりぎり後漢時代に即位したからこそ、范曄は『後漢書』倭伝に、邪馬台国の女王卑弥呼の共立までを載せ、卑弥呼の遣魏使や魏朝の倭国記事(二四〇年の倭国遣使等)を載せなかったのだろう。史家としての良識を見てとることができよう。
『三国志』の二三八年の遣魏使の事実はもとより不動である。
 思えば、『後漢書』と『三国志』のいずれかが正しく、他方が誤りとするかのような「偏った邪馬壱国論」からは決して私のような分析は生じない。むしろ、『後漢書』と『三国志』は補完の関係にある正史と見るべきである。

215-3

(『越境としての古代』6「神武は筑豊に東征した」(福永晋三)の一節)


邪馬台国年表
前一四 饒速日、豐葦原瑞穗國の笠置山に降臨。瓊々杵、日向の

クシフル岳に降臨。天満倭国=倭奴国が成立する。
饒速日は古遠賀湾沿岸部を領有、中洲皇都を建設。天物部八十氏が筑豊の山や島を領有し、「山島に居し、分かれて百余国を為す」。
瓊々杵は博多湾岸を領有し、百余国の一角を形成する。
後五七 倭奴国王、漢光武帝に遣使。金印を受く。天孫本紀に云う天香語山命か。

豊前の天台修験(聖護院系)求菩提山

後七〇 磐余彦誕生。後の神武である。
後八三 お佐賀の大室屋(吉野ヶ里遺跡)陥落。鸕 草葺不合尊の佐賀平野攻略戦。
一〇七 倭国王帥升、後漢の安帝に生口一六〇人を献ず。天孫本紀に云う天忍人命か。
    この頃から韓半島・倭奴国乱れ、以後、漢への遣使が途絶する。
一一四 磐余彦、冬十月、諸兄・諸皇子らと第一次東征を開始。
    十一月、岡水門に至り、軍備を整える。
一一五 春三月、遠賀湾を遡り、夏四月、長髄彦軍と交戦、五瀬命負傷し、敗戦。博多湾住吉神社近くの 

草香津に帰還。五月、五瀬命死去、竈山(宝満山)に葬る。竈山の高千穂の宮において、三年間再軍備。
一一八 春二月、第二次東征開始。「日を背にして戦う神策」を実行に移す。速吸門(関門海峡)に至り、珍彦を道案内とする。菟狹(宇佐)に至り、一柱騰宮に入る。    

数ヶ月、狹野嶽(求菩提山)に通い、頭八咫烏(求菩提山八天狗)一族と同盟を結ぶ。
六月、「天皇獨り、皇子手研耳命と軍を帥ゐて進む。既にして皇師中洲に趣かんと欲す。」
七月、頭八咫烏の案内で英彦山を下る。八月、「菟田縣の血戦」に勝つ。九月、天香山(香春岳)攻略にかかる。十月、赤銅の八十梟帥を国見丘に破る。十一月、彦山川水系を南下し、嘉麻川水系に入る。「十有一月の癸亥の朔己巳に皇師(みいくさ)大きに擧(こぞ)りて、磯城彦を攻めむとす。」立岩丘陵(飯塚市)に籠る磯城彦を攻めようとして、神武は川と海の混ざる広大な沼を徒歩で渡り、片島(飯塚市)に上陸、遂に「熊野の神邑」を攻撃し、磯城彦を滅ぼす。「天磐盾(立岩神社)に登り」、東征成就を天祖に祈願する。十二月、長髄彦との最後の決戦に臨む。「十有二月の癸巳の朔丙申に、皇師遂に長髓彦を撃つ。」苦戦を強いられたようだが、辛勝し、終に長髓彦を殺す。倭奴国滅亡。 長髄彦は年代が合わず、滅ぼされたのは、天忍人命・天忍男命のようである。饒速日の別の末裔は神武に帰順したようでもある。

一一九 春二月、「諸將に命じて士卒を練(えら)ぶ」。倭奴国の残存勢力を掃討する。
    三月、畝傍山(香春一ノ岳)の東南の橿原の地に帝宅の建造を命じる。この後、鞍手郡誌によれ 

ば神武は一旦、宝満山すなわち筑紫に陸路で凱旋する。
一二〇 秋八月、香春に戻って来た神武は、正妃を娶ろうとする。
    九月、「媛蹈韛五十鈴媛命を納(めしい)れて、以て正妃と爲す」天神の血統を入れる婚姻であ   

る。
一二一 「辛酉年の春正月の庚辰朔に、天皇、橿原宮に於いて帝位に即きたまふ。」邪馬台国創始。
    二月、論功行賞。「頭八咫烏、亦賞の例に入る。」求菩提山・英彦山から彦山川水系に沿って、  

今日の田川郡赤村より「烏尾峠」辺りまでの「飛ぶ鳥の明日香」の地の領有を認められたらしい。
一三六 神武、邪馬台国を巡幸。秋津島倭の国号始まる。
一四一 春正月、神渟名川耳尊のクーデター。手研耳命暗殺さる。天孫系から天神系に王権が移る。
一四六~一八九 倭国大乱(後漢書)。
一五八 春三月、神武崩御。秋九月、畝傍山東北陵に葬られる。
一七八~一八四  「漢の霊帝の光和中、倭国乱れ、相攻伐すること歴年」
一八九 卑弥呼共立か。(『三国史記』によれば一八四前後の即位も考えられる)
二三〇 「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州および亶州を求む」、三国志呉 

書「孫権伝」黄竜二年
二三八 卑弥呼、魏に遣使。景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝 獻,太守劉夏遣吏將 

送詣京都.
二四〇 魏使、邪馬台国に至る。正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國
二四三 卑弥呼、大夫伊聲耆
掖邪狗等八人を遣使。
二四五 正始六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授.
二四七 邪馬台国狗奴国と交戦。正始八年,太守王頎到官.倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,  

遣倭載斯・烏越等詣郡相攻擊狀遣塞曹掾史張政等.因齎詔書・黃幢,拜假難升米為檄告之.
二四八 卑弥呼死去。卑彌呼以死,大作塚,徑百餘步.
二四九~二五五?  再び倭国乱る。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人.臺與この間に即位か。
二六六 臺與、晋に遣使。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定.獻上男女生口三十人,貢白珠五 

千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹.政等以檄告壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺.

三六七 邪馬台国、神功天皇に滅ぼされる。
三六九 水沼の皇都(大善寺玉垂宮)建設される。新・邪馬台国の創始。


849-1423 佐賀県嬉野市塩田町谷所乙766 0954-66-4205カーナビ検索入力用

215(後) 求菩提山岳修験の残照 “求菩提山 宝地院との偶然の接触から” 

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215(後) 求菩提山岳修験の残照 “求菩提山 宝地院との偶然の接触から” 


215(前) 求菩提山岳修験の残照 “求菩提山 宝地院との偶然の接触から”  の続きになります。


八天神社に関して、冒頭に「祭神は、火之迦具突知大神・建速須佐之男大神・火の神に属される神々様です」を引用しましたが、火之迦具突知大神とは秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦=金鎖大神の事であり、その金山彦と姻戚関係を結んだ白族(白川伯王)の大幡主、その子である豊玉彦=ヤタガラスも同族に成る訳です。

と、ここまでは認識していたのですが、今回の 求菩提山 宝地院(九州本院) の御法話の集まりに参加しても一向に山岳修験の話も聴けず、ただただ、高額商品(遠隔思念波通信費、結界のためのセラミック、究極の後戻り、スマホアプリ・グラビトン…)の販売の話ばかりにうんざりしていたのですが、唯一印象に残ったのは、盂蘭盆会(ウランバナ)の一環として、苅田町と小倉南区との境界に近い、苅田町西域山中にある白山多賀神社、及び青龍窟へ、そして高天原への送り盆(送り火)が行われていることでした。

実は、苅田町の白山多賀神社(そばには山王権現も)と青龍窟へはまだ訪問していないのですが、故)百嶋由一郎先生からは、「この青龍窟は全国の青龍大権現(権現とは神と仏とが一体化したもの)の本山であり、極めて重要なところだからぜひ行きなさい」「霊能者の多くがこの青龍窟だけは特に強い霊感を感じる…」と言われていたものでした。

多賀神社はイザナギ(昔氏)、イザナミ(白族)を祀るものですが、白山多賀となると、当然にも、表看板は白山姫=天御中主であり、白族主体の瀛(イン=秦の始皇帝の姻戚)氏の神社です。そのことを象徴するように、山の麓の地区には、白川小学校、白川公民館、白川郵便局、諏訪神社、貴船神社…があり、白族の拠点である事が一目瞭然のように分かるのです。

そもそも白山姫とは、天御中主の事です(「古事記」は男女の別はないとしていますが、勿論白山姫という女神なのであり、その夫は出雲大社の客人間に隠されていますが、ウマシアシカビヒコチなのです)。

求菩提山山岳修験と白山多賀神社さらには青龍大権現との深い関係の一端が垣間見えた思いがした瞬間でした。

勿論、同修験を問わず、山岳修験の多くが明治の狂信的吉田神道による神仏分離政策の犠牲になったのですが、神道、仏教を問わず、宗教はその時々の政権の在り様によって大きく揺さぶられ、あるものは領地を奪われ、あるものは祭祀権を奪われ、あるものは焼かれ、あるものは追放され、権力に振り回されてきたのです。その何れかの流れの中で求菩提山岳修験も古い時代に消されたのでしょうが、行橋の一角にこの一派を発見したのは新鮮な驚きでした。

多くの天台系の人々も古い時代に犠牲になったのですが、特に九州では寺領や後代にも檀家を失った天台系の寺院、一派が非常に目に付きます。これも、勿論、九州王朝から近畿大和朝廷への転換が遠因と考えています。

彼らは八天神社の様に竈神や火の神を祀るとして何がしかの寄付を得て祈祷寺や山法師として生き延びて来たのです。

これに対して多くの檀家を持ち寺受制度とその延長上にのうのうと存在し続けて来た多くの堕落した寺々が社会の劇的変容によって今や檀家消滅、従って寺と教団の壊滅へとひた走っているのです。

逆に言えば、祈祷寺、山法師系祈祷社として生き延びて来た者の一部が今後の社会に適応できるのです。

キリスト教原理主義者が多数派のアメリカに於いても、宗教の民営化とでも呼ぶべきネット・マーケティングと結びついた新興勢力の教団だけが勢力を拡大させています。その実態は宗教ビジネスです。

その点、戦争の民営化としての現代戦=テロとの戦いという公共事業化された戦争です。


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百嶋由一郎手書き資料より


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洞口ホールには、豊玉姫を祀る祭壇が残っています。この豊玉姫は宗像大社のタゴリヒメ=タゴリ・ミホ(田心姫)のことですね。                      苅田町HPより画像借用


竹中、小泉という売国奴コンビの跳梁跋扈以降顕著になりましたが、日本も国家自体がアメリカに売り飛ばされている状態にあり、所詮、宗教も商品とされ、商品と共に拡大し生き延びる時代になったのでしょう。買いたい人は買えば良い、騙されたい人は騙されれば良い、そこに希望と後ろめたさ(水子供養も金儲け…)の免罪=癒しが得られるのであれば…。

信じる者は救われるのであり、同時に、信じる者は足を掬われるのです。

当方は、尚、多くの神社を訪問し続けていますが、決して神信心などからではない事だけが唯一の救いかも知れません。

同行の二人の霊能者のうち、ウイグル系のK女史は霊障からか急に気分が悪くなり車に戻り、もう一人の隣国の某大統領似の新羅系女史は白山多賀神社や青龍窟には足も気も向かないそうですから、そのうち単独で訪問する事になりそうです。

特に興味があるのは、白山多賀神社そばにある山王権現社(大山咋=佐田大神)の在り様です。


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青龍窟(青円)    白山多賀神社(緑円)


※画像クリックで拡大表示
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百嶋最終神代系譜の一部


宝地院で非常に面白かったのはセミナーの進行役を務めた女性の中に一人の首長族を発見した事です。

明らかに首長族なのですが、このタイプの女性にあったのはこれで二度目です。

「究極の後戻り」ならぬ「先祖帰り」ですが、ビルマ、タイに住む少数民族で自称カヤン族とするチベット系民族とされています。

もっとも、カヤン族の首が長いのは遺伝ではなく矯正ですので、民族云々の議論は不当ですね。深謝。

216 故)百嶋由一郎氏が「福岡歴史研究」に寄稿していた “「歴研」20007タクラマカン見聞録

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216 故)百嶋由一郎氏が「福岡歴史研究」に寄稿していた “「歴研」20007タクラマカン見聞録”

20150616

久留米地名研究会 古川 清久

福岡歴史研究会という団体があります。個人的にも五年程前に一度関係した事がありましたが、九州王朝論に立っている訳でもなく、強烈な印象も持たなかったため、特別な関係を持とうとは一切考えてきませんでした。NPO法人化され、行政を利用するとしながら、どうせ学会通説に依存し行政機関の下請け広報機関に成り下がってしまうのはご免なため今後とも強い関係を持とうとは思っていません。

国土交通省や農水省などの各セクターの広報誌(ダム、下水道、林野…)も戦時広報誌と同様の存在でしか在りません。国威発揚に動員された作家、画家、音楽家、舞踊家、技芸師…が如何に多かったことか情けない限りです(「がんばろう日本キャンペーン」、「オリンピック」「サッカー」…)。

ただ、原稿を依頼されて、「雑餉隈」という一文を寄稿した事はありました。
216-1歴史研究とは学会通説を知り、それを吹聴することではなく、その深部の古層を探る事であり、ましてや地域の歴史を行政機関の下請けとして僅かな金を貰い宣伝して回るものではないのです。

ともあれ、百嶋先生の残された資料を整理していると、二〇〇一年に歴史研究に寄稿されていたことが分かりました(福岡県会員とされています)。

これほどの知識を持つ人ですから主筆となっても決しておかしくないはずですが、背後に行政機関とか学芸員、教育庁の目があるとなると、百嶋先生のようなお話は荒唐無稽な話としてあしらわれてしまうのが関の山で、寄稿文の様などうでも良い内容にしか出されなかったのだろうと思うものです。

ともあれ、先生の文章をご覧いただくことにします。 

画像が鮮明でなく申し訳ないのですが、元々の先生からの資料がコピーを繰り返したものだから致し方ありません。

経歴を「神代史の講師十余年経験」と控えめに書いておられるのが印象的です。

「玄奘三蔵(クマラジュー)が白氏である」「タジク人の石城(タシクルガン)」…云々は先生でなければ書けない内容ですね。

 日本のタシクルガン(四国の高松)についても気付いておられたようですが、この話は別にしましょう。

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extra16 宇佐神宮とは何か? ⑯ “勅使来訪により呉橋が一般公開された”そこで見たものは!

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extra16 宇佐神宮とは何か? ⑯ “勅使来訪により呉橋が一般公開された”そこで見たものは!

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150529

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


宇佐神宮の呉橋が一般公開されるとの耳寄りな情報が入りました。

始めは行かないつもりだったのですが、後悔しそうな気がして急遽予定を変更し、丁度久留米大学の公開講座の講演で九州に来られていた内倉武久氏と川崎町在住のN氏と三人で宇佐に乗り込むことにしました。

呉橋は普段は渡ることが出来ません。この中がどうなっているのかは以前から気にしていました。

まさか柵を越えて勝手に入るわけにも行かず(恐らく不法侵入罪に相当)、問題を棚上げにしていたのですが、いい機会が巡ってきたものです。

8億円を掛けた上宮の大改装に伴う勅使の来訪に伴い一般公開となった次第のようですが、ちょと奇妙な感じはします。

勅使来訪だからこそ、一般の者は一切通行させないとするのが普通のような気がするのですが、まあ、それはどうでも良いことです。

呉橋公開となれば多くの方が押し掛けるのではないかと考えていたのですが、平日とあってか、いたって参詣者も少なく、ゆっくり落ち着いて見学することが出来ました。

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当 方は、内部に装飾や、文字などが残されていないか?何故、宇佐神宮に呉橋が置かれているかが推察できる何らかの情報が残されているのではないか…と、色め き立っていたのですが、中に入ると意外とシンプルで、装飾と言っても、一つ巴の神紋が一定の間隔で彫られていただけでした。

 勿論、入口には公式の宇佐神宮の神紋とされている左三つ巴(足長)紋が打たれていますが、内部には何故か一つ巴が打たれていたのです。

 一つ巴紋となると、直ぐに思いつくのが、お隣の中津市の薦神社であり、ここには神殿の方々に、一つ巴、二つ巴、三つ巴紋が付され、確か御賽銭箱が一つ巴だったように記憶しています。

 薦神社は到津家が追放される前までの宇佐神宮宮司代行を出していた神社であり、同じく呉橋が置かれている事で知られていますが、この神社については第10代とされる贈)崇神天皇の関係した神社であるといった趣旨で、故百嶋由一郎先生も話しておられました。

 その第10代贈)崇神天皇の神紋こそ一つ巴であり、薦神社の呉橋の内側にも同様の神紋が打たれている可能性が急浮上してきました。

 やはり、現地は自分の目で確認すべしと思うばかりです。

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恐らく!久留米市大善寺玉垂宮――西に向かう――(呉橋)薦神社――(呉橋)宇佐神宮


まず、呉橋については、宇佐神宮が何故「呉橋」を残しているのかという問題が横たわっています。

宇佐神宮自体でも答えに窮してか、「呉の工人によって掛けられたから呉橋と呼ばれている…」といったほとんど回答にならないもので済ませてあります。

呉の工人とは「三国志」の呉ではなく、春秋戦国の呉のはずですから、直接、宇佐神宮と結びつくとは考えようがないのです。

 私自身も宇佐神宮の性格からどう考えても結びつかない事から、ずっと疑問だったのですが、百嶋由一郎先生の答えは明確でした。


宇佐神宮も元は九州王朝の神宮だった。

九州王朝の正統皇統は呉の太伯(従って中国ナンバー・ワン周王朝)の末裔であったから呉橋を使っていた。

応神天皇など正統皇統の天皇ではない(別王)=ワケオウ ため呉橋を渡る資格はなかった。

以下は古川による推測

宇佐神宮は九州王朝の神宮を簒奪した証拠、若しくは、戦利品として呉橋を残している。

薦神社から大富神社、大分八幡宮、太宰府を経由し、高良大社、大善寺玉垂宮へと古代の勅使道は延びていた。

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extra17 宇佐神宮とは何か? ⑰ “宇佐神宮の上宮に鎮座する三摂社を確認した?”

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extra17 宇佐神宮とは何か? ⑰ “宇佐神宮の上宮に鎮座する三摂社を確認した?

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150608

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


120 宇佐神宮とは何か? ⑯ “勅使来訪により呉橋が一般公開された”そこで見たものは! 20150529 おいて、「呉橋」の開放を行なわれた事はお話しましたが、元々、勅使の訪問も上宮の修理完了に伴う本殿遷座祭に対して行われたものでした。

実際の勅使訪問は前日だった様です。今回は呉橋の内部を見ることだけが目的であり、上宮まで足を延ばすことをためらいましたが、上宮については手元に工事中の写真しかなかったこともあり、天気も良い事から改修工事が完了した上宮の写真を撮りに行く事にしました。

期待していないと良い事が起こるのは良くある事ですが、いつもは格子戸により隠されている上宮の内部が、勅使の来訪による完全開放(内側から矢を射掛けるなど敵意を持っていない事を示すための儀礼でしょうが)により全て見通せたのでした。

皆さんも上宮に行かれた方は多いと思いますが、実質的なシールドがあり、勅使門の内側も含め、決して内部は見えない様になっていたはずです。

これが、今回、堂々と見る事が出来たのは幸いでした。

上宮の内部に北辰神社、春日神社、住吉神社の三摂社が納められている事は以前から承知していましたが、過去一度も見た事がなかったため、始めて見る上宮の姿にしばらく興奮が収まりませんでした。

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普段は勅使門と併せ格子窓により内部は一切見えない

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この三つ摂社の存在こそ、一社三殿三神が完成する700800年代初頭の宇佐神宮の勢力配置を示したものと考えられるのですが、研究者も含めほとんどの方はこの三摂社については注意を払われていません。

700年代に応神が祀られ、数年を待たずして比売大神が加わることにより一社二殿二神となり、百年後に新たに神功皇后が加わり現在の一社三殿三神体制が成立するのですが、このことについては、以前公開したブログ「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)097 宇佐神宮とは何か? ⑦“宇佐神宮の向こう側”、098宇佐神宮とは何か? ⑧“神宮の故地か?今も上宮内二摂社が院内町に鎮座する”をお読み頂きたいと思います。

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写真上(左:春日神社、右北辰神社)写真下(住吉神社)

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宇佐神宮庁発行の宇佐神宮社殿配置図について五~十年程前までは、一般にも広く配付されていましたが、現在ではほとんど知られていません。

何か不都合な事があるのかもしれませんが、この事実を知らないまま議論する事の危うさを、まずは、知るべきでしょう。

何よりも、「高良玉垂宮神秘書」に記載されるように、高良大社が宇佐神宮に対して九州(王朝の直轄領域としての九州)の宗廟を749年に譲った(奪われた)事によって、近畿大和朝廷の神宮として立ちあがった同社の性格を理解すべきであり、あくまでも、この上宮内三摂社の存在は、800年代の神宮皇后が加えられた時の勢力配置を象徴しているものとして考えるべきものと思われます。

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左から一の御殿(応神天皇)、二の御殿(比売大神)、三の御殿(神功皇后)


 応神天皇の後見人 春日大神(実は阿蘇の草部吉見神)

 比売大神の後見人 北辰神社(宇佐神宮の公式見解は宗像三女神だが見解は分かれる)

 神功皇后の後見人 住吉大神(実はウガヤフキアエズから三種神器を返還された第二期住吉大神

=久留米の高良大社の主祭神 高良玉垂命=第9代開化天皇)


従って、そもそも700年以前(九州王朝の時代)までは、藤原氏によって第10代と格上げされた応神天皇が元々祀られていたはずはないのであり、それ以前は、九州王朝の神宮だったと考えるべきなのです。

稀代の神社考古学者百嶋由一郎先生も、「宇佐神宮は九州王朝の神宮だった事は明らか…」「ただし比売大神とは宗像の三女神を表している…」とされていました。

個人的には、当初、九州王朝の神宮として「比売大神」を呉の太伯の裔としての「姫氏」を考えていたのですが、これについては、現在、否定する方向で考え直しています。

そ もそも、当時(七世紀前後)の豊前一帯は、半島から多くの秦の難民(万里の長城建設の労役から逃亡した秦民、秦王朝滅亡に伴い逃げて来た王族を含む大陸系 秦民=現在の中国人とは民族的にも全く異なる)が大量に入って来ており、人口も文化も急速に発展していました。このため、本来は北辰神社(天御中主命他) を奉祭する人々が大量にいたのであり(八王子神社もその一つか?)、そのような人々が九州王朝の下で維持していた神社であったと思われ、秦氏の重要性か ら、九州王朝の勅使道が久留米市の大善寺玉垂宮から高良大社下宮、太宰府、飯塚市の大分宮、香春町の香春神社、豊前市の大富神社、中津市の薦神社を経て宇 佐神宮まで延びていたものでしょう。今回は、その一端が文字通り垣間見えた一瞬でした。

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