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428 富士山浅間神社周辺の神社初参拝 ① 河口浅間神社 “ニニギは祀られているのか?”

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428 富士山浅間神社周辺の神社初参拝 ① 河口浅間神社 “ニニギは祀られているのか?”

20161212 

太宰府地名研究会 古川 清久


北関東の神社調査を終え、山梨県の勝沼を拠点に甲府盆地周辺の神社を見て回っていましたが、大学以来の親友のT氏(某王手自動車メーカーの子会社J社の少数派労働組合の委員長で数十年に亘って地労委、裁判闘争を続けた神奈川県の金属労協では知られたワレサ=ヴアエンサのような闘士で、学生時代は九州の某国立大学の全学闘争員会:全共闘ではない の委員長、筆者が書記長を分けた間柄でした)=文字通りの炭鉱労働者の息子に呼ばれ、彼の持つ山中湖に近い安手の別荘に向かいました。

以降、周辺で10社ほどの神社を見て回ったのですが、そのうちの一部をご紹介したいと思います。

 夕闇が近づき始める頃、訪れたのは式内社(名神大社)論社で河口湖村の通称河口浅間(アサマ)神社でした。


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良く知られるように、浅間大神 (アサマ大神)=木花開耶姫命(コノハナノサクヤヒメ)を祀る神社ですが、良く知られるニニギの尊のお妃としての姿は全くありません。

百嶋神社考古学のフォロアーならばご存じだと思いますが、高木大神の息子のニニギと速い段階で別れたコノハナノサクヤヒメは豊玉彦と共に鹿児島県の旧溝辺町(現湧水町)に移動し(前玉神社あり)、最終的には埼玉県行田市の埼玉古墳群の正面、前玉(サキタマ)神社の主神となっているのです。

祭神は浅間大神 (アサマオオカミ)木花開耶姫命(コノハナノサクヤヒメミコト)を指すとする。

社記によれば、天津彦彦火瓊瓊杵尊(木花開耶姫命の夫神)大山祇神(木花開耶姫命の父神)の両神を相殿に祀るという伝えもあるようですが、ニニギが祀られていないとする方が正しいと考えています。


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参拝殿に置かれた境内摂社の一覧 合祀社由緒


何度も述べてきた事ですが、コノハナノサクヤはトルコ系匈奴と考えられる大山祗命の娘で、大国主命の妹にあたります。

 筆頭の倉稲魂命=伊勢の外宮様=豊受大神が若宮稲荷という表現になっている意味は分かりませんが、面白いのは、高木大神を配慮したのか、別れたはずのニニギの姉に当たる栲幡千千姫命が白滝大神社として祀られている事です。

上下山神社として大山祗命が祀られているのは良いとして、スサノウ、ニギハヤヒ、ウガヤフキアエズ、ミズハノメ、大国主、少彦名命、カグツチノミコトと強面の神様が並んでおられます。

個人的に興味を持ったのは、火具土命が愛神社とされていることです。

多分、火の古語と言うより、古代語であるアヒ=アイが愛と表記されているのだろうと思います。

とここまで書いて、後で間違いに気づきました。読み落としていただけで、ただの愛宕神社で良いので

す。

初見の神社を云々すると見当違いのとんでもない間違いをしそうですので、その他の浅間神社を見せて頂ききたいと思います。


429 富士山浅間神社周辺の神社初参拝 ② 北口本宮冨士浅間神社 “神倭伊波礼比古命も…”

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429 富士山浅間神社周辺の神社初参拝 ② 北口本宮冨士浅間神社 “神倭伊波礼比古命も…”

20161212

太宰府地名研究会 古川 清久


山中湖畔で車中泊した後、朝一番で、数社を見て回りました。

 三番目に訪問したのが、ハイライトとも言うべき北口本宮冨士浅間神社です。


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見た目にも荘厳、豪奢、壮麗のどれを形容詞に使うのか迷うほどの美しさに圧倒されます。


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同社公式HP


祭神に関しては、尚、ニニギが残されていますが、これは神社庁からの要請を入れ受け入れたものと思いますが、初見程度で深入りする事はやめておきましょう。


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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


 私達が注目するのは摂社の祭神でありその配置です。

 特に重要なのは神殿の後ろに並べられた摂社群であり、その中に天津日高彦火火出見命(ニギハヤヒ)と初代天皇の神倭伊波礼比古命(カムヤマトイワレビコノミコト)があったことから興味深く見せて頂きました。


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まだ、浅間神社に関しては端緒に着いただけで、予断は避けておきます。

面白いと思ったのは、九州の二十三夜に対して、十七夜講(立ち待ち月)があるのです。

十三夜、十六夜、は知られていますが、十七夜は初めて知りました。


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東京中野の十七夜講社記念碑


浅間神社の主神コノハナノサクヤヒメはトルコ系匈奴と考えられる大山祗命の娘(母親は博多の櫛田神社の大幡主の妹の埴安姫)で大国主命の妹でもあります。

このような月を愛でる風習と通底している事が分かります。

スポット105 トレッキングで訪れた馬敷の大山祗神社

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スポット105 トレッキングで訪れた馬敷の大山祗神社

20170530

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回は、スポット103 太宰府地名研究会4月期トレッキングで獲得した細やかな成果 で取り上げた飯塚市馬敷の大山祗神社をご紹介したいと思います。


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道が狭く舗装も完全ではなく傾斜もきつい為、二トン車までは入りそうですが、普通車では、まあ、踏み込まない方が無難でしょう。

結局、上馬敷の公民館辺りに車を止めて歩く方が良いでしょう。

山沿いの道を少し歩けば、突然、森の中に社殿が見えて来ます。


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大山祗神社参拝殿神殿


今回のトレッキングは、古代の筑紫と筑豊(太宰府と飯塚)を繋ぐ要路の米の山峠越えルートの途上に如何なる神社が並んでいるかを考えて頂く事でした。

勿論、大山祗神社が並んでいる事に気付いてトレッキングを組んだのですが、この奥まった山蔭にも大山祗神社が鎮座している事を見た参加者も驚いておられたようで、それなりの成果はあったようです。

森の中の神社はそれなりの神秘性を感じさせるものであり、それだけでトレッキング参加者も満足したようでしたが、まずは、石柱の桜の紋章と瓦の破片の桜の文様が大山祗の娘の木花咲耶姫を表す事を理解して貰えたようです。

この点、「福岡県神社誌」との整合性に問題はないようです。

さて、大山祗神社が鎮座する「馬敷」ですが、実際には馬敷でも上馬敷にあり、隣には下馬敷があります。

この「馬敷」という地名が、熊本地震で全国的にも知られる事になった「益城」(熊本県上益城郡益城町)の置換え、民族移動による古地名の持ち出しによるものとの話は過去何度か行っています。

そして、その中間に存在するのが甘木(現朝倉市)であり、故)百嶋由一郎氏からは“甘木は、アマギと読んではいけません、ウマシキとお読みなさい”と聴いています。

宇摩志阿斯訶備比古遅(記) 可美葦牙彦舅尊(紀)…のウマシのはずなのですが、 味師内宿禰(ウマシウチノスクネ)のウマシは「味」、「甘」で置き換えられるのです。


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この大山祗神社への参道の途中には麻敷神社があります。無格社扱いなのか「福岡県神社誌」でも確認できません。

奥にある大山祗神社の元宮なのか不明ですが、同じく大山祗木花佐久屋姫を祀っているようです。

勿論、単なる地名の付合ではなく、神社、祭神、伝承…の対応を追求すべきなのですが、熊本はどころか、鹿児島+宮崎(古代日向国)に大山祗祭祀が色濃い広がりを見せている事は皆さん良くご存じの事と思います。

ちなみに、大山祗の墓と言われるものが宮崎県西都市の西都原第2古墳群にあり、大山祗を主神として祀る石貫神社(宮崎県西都市三宅4615-ロ)がその正面に鎮座しています。

娘の木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)を祀る神社が宮崎県西都市妻1に鎮座する都萬神社なのです。

当然にもこの一帯から北に向かって展開したのが、大山祗、木花咲耶姫祭祀であり、祭祀だけが独り歩きしたとは考え難く、当然、奉斎する民族、氏族も一緒に移動しているのです。

百嶋神社考古学では、宇摩志阿斯訶備比古遅と天御中主命との間に産れたのが大山祗であり姉の越知姫であり、その大山祗と埴安姫との間に産れたのが神太市姫、大国主命、木花咲耶姫となるのです。

前述の石貫神社(宮崎県西都市三宅4615-ロ)の石貫の地名移動が熊本県玉名市の石貫であり、そこからそう遠くない和水町には、江田船山古墳が鎮座しているのです。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


研究目的で、百嶋由一郎氏の講演音声CD、手書きスキャニング・データ、神代系譜スキャニング・データを必要とされる方は、09062983254 まで直接ご連絡下さい。

430 富士山浅間神社周辺の神社初参拝 ③ 冨士御室浅間神社 “ウマシアシカビヒコヂが…”

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430 富士山浅間神社周辺の神社初参拝 ③ 冨士御室浅間神社 “ウマシアシカビヒコヂが…”

20161212

太宰府地名研究会 古川 清久


428 富士山浅間神社周辺の神社初参拝 ① 河口浅間神社でふれた親友のT氏の案内で富士五湖周辺を散策しましたが、彼が勧めた一社で結構大きな発見をする事となりました。冨士御室浅間神社です。


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冨士御室浅間神社参拝殿


冨士御室浅間神社 カーナビ検索 山梨県南都留郡富士河口湖町勝山 富士河口湖町勝山3951


ご祭神

木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

天孫・瓊瓊杵尊の妻となり、火の中で皇子を無事ご出産なされたという故事から、良縁・子宝・安産・火防の御神徳が特に有名な富士山の女神。 また火山を鎮める水の女神ともされ、富士の豊富な湧水が多くの恵みをもたらした事から、流通、繁栄の神としても崇敬を集めている。

同社HPによる


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お気付きでしょうか?神殿に千木鰹木がないのです。

そもそもこれらの千木鰹木といったものは中国南部の山岳地帯のようにふんだんに木材が使える環境の民族の風習でしかなく、モンゴル高原、満州はもとより中国の華北、中原の風習ではないのです。

従って、北方系の神々にとっては太く長い木材を使える事が誇りでもステータス・シンボルでもないのです。

このことは、主神のコノハナノサクヤヒメの父神である大山祗命がトルコ系匈奴であったとする百嶋神社考古学と通底している事をついつい意識してしまいます。

さて驚いたのは神殿の背後に廻った時でした、幾つかの境内社があったのですが、その一つに別天神社、国津神社なるものがありました。

 それが何だ?と言われそうですが、問題は横に置かれた祭神名でした。

天御中主神、髙産皇霊神、神産皇霊神、可美葦牙彦舅神、天之常立神、伊邪那岐、伊邪那美とかかれているのですが、この中にほとんど見る事のない可美葦牙彦舅神(ウマシアシカビヒコジ)がおられたのです。

天地開闢神話に登場する一柱で「古事記」で宇摩志阿斯訶備比古遅神、「日本書紀」で可美葦牙彦舅尊とする神なのですが、通常は出雲大社の奥(客人神間)にしか祀られていない神様です。

そして、天御中主神の夫神にあたる方で、トルコ系匈奴と睨む方なのです。

 これまで、福岡の名島で遭遇した以外はなく、まず、めったにない神様なのです。

この一社を発見できただけで山を越え甲府盆地から出て来た価値があったと言うものです。

 この外には片山社、岩割社、天神社、雷社がありましたが、片山社は見当が付きません。

 岩割社は言うまでもなくイワサク、ネサク 磐裂根裂の神で、鉱物採取、金属精錬の神様です。

 ネサクが金山彦、イワサクがお妃の埴安姫で良いかと思います。


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431 富士山浅間神社周辺の神社初参拝 ④ 河口湖畔の八王子神社 “朝日がまぶしい早朝の一社”

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431 富士山浅間神社周辺の神社初参拝 ④ 河口湖畔の八王子神社 “朝日がまぶしい早朝の一社”

20161212

太宰府地名研究会 古川 清久


山中湖湖畔での車中泊から目を覚ますと快晴でした。北口本宮冨士浅間神社に行く途中で気に留まった神社があったので行き掛けの駄賃とばかりに参拝させて頂きました。


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お分かりでしょうか八王子神社です


それほど多くはないのですが、八王子神社は人吉市、荒尾市、大分県蒲江…など、これまでにも何度か遭遇しています。


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八王子神社御由緒


954年とかなり早い成立ですが、主神を素盞鳴尊とし天照大御神と素盞鳴命の子産み比べで産まれた御子神八柱を祀る神社です。

天之忍穂耳(阿蘇高森の草部吉見)、天之穂日命(ヤタガラス)、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須日命+宗像三女神とされていますが、百嶋神社考古学では熊野久須日命は女性神で男神ではないのになあという事と、山梨の豪族三枝氏が天津日子根命の後裔とされている事を考えると、どうしても、この天津日子根命の後裔が山梨一帯の開発に関与しているのではないかと思うものです。

では、天津日子根命とはどなたなのでしょうか?

「古事記」の冒頭に出てくることから、相当の有力者と思えるのですが、百嶋先生の資料には一ケ所だけ登場します。

それは、通常、「鳥ノ子系譜」と呼んでいるものですが、神沼河耳が天津日子根命として登場しています。

阿蘇神社の神殿奥深く、金凝彦の名で祀られていますが、同時に闇龗神(クラオカミ)でもあり、草部吉見=武甕槌=そして本当の意味での春日大神…でもあるのです。


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432 憧れの東金砂、西金砂神社(茨城県太田市) 北関東への神社調査 ⑨ 

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432 憧れの東金砂、西金砂神社(茨城県太田市) 北関東への神社調査 ⑨ 


ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161213

太宰府地名研究会 古川 清久


憧れの東金砂、西金砂神社と書きましたが、正直な気持ちです。

 今回、「常陸国ふしぎ探検隊」氏のご一行の案内により、今回は西金砂神社だけに訪問しました。

いずれ東金砂神社にも参拝する事にもなるでしょう。


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憧れと書いたのは神武天皇御巡幸に伴うバンブー・ボートによる上陸…のイメージだったのですが、祭神を見る限り、大国主命、少彦名命、国常立命(草部吉見)…でしかありません(これ自体がおかしいという意味ではないのですが)。

金砂となると、金鑚大神となると金山彦となり、その痕跡を探しても一向に読み取れない…、このため、立派な山上神社であるにもかかわらず、何か掴みどころがなく、実のところ山登りをしただけで終わってしまったのでした。

通常、「金砂」とは砂金のイメージであり、それだけで有難い神社なのですが、難解この上ない神社と言った印象でした。


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これがバンブー・ボートの痕跡なのかも知れません


金海伽耶から、そして、新羅のほうのイザナギ、スサノオの勢力戦いがあった。その中の一つ、スサノオのミコトと大国主のミコトが大喧嘩して、スサノオのほうが少し年上ですが、負けたのはスサノオのほうでした。その場所は一番の激戦地は播磨の国、現在の兵庫県の瀬戸内海のほうです。負けたのは新羅のほうで、金官伽耶のほうが勝ちました。この時の金官伽耶の日本における大親分である金越智は、現在の群馬県の国定忠治の赤城神社にも祀られて大変な勢いだったのですが、その落ちぶれぶりを見る前に、この人が日本の神社に祀られていたことを証明する歌を源実朝が残していてくれています『上野の勢田の赤城の韓社、大和にいかで跡をたれなむ』、朝鮮の王様が何で日本に神社としてのこっているのか、実朝さんはびっくりして歌を残しているんです。それくらい、中国大陸、朝鮮半島、日本との関係は入り混じって深い関係を持っていたという例の一つです。

イズミの話はしました。もう一つ、イズミとソネ、イズミの出発点は佐賀です。ソネの出発点は前原のソネ台地、三雲、伊都、そこがソネの出発点です。このソネとイズミが一緒になって、九州王朝神霊東遷のときに、九州王朝の古い神々をお守りして東へ遷ったのです。終点は、現在の奈良の天理市、天理王のみこと、天理王のみことは博多の櫛田神社の神様です。そこに到着するまでに、イズミ(佐賀)、和泉(大阪)、最後は、新イズミ、これは現在の天理市です。一方、ソネ(糸島)、何々ソネ、何々ソネ、終点はやはり奈良です。とにかくこの二つの系統が九州王朝神霊を大事にお守り申し上げた。この時の九州王朝神霊御東遷護送団の団長は女性です。圧倒的格式のスサノオのお嬢さんです。イツクシマ神社のイツクシマ姫です。この一団が何艘の船を従えたかは知りませんが、大きな船が小さな船を積んで東に遷ったんです。今、船と申しましたが、船の話、これは上陸用舟艇です。何十人かが乗る船で沿岸航路を通り、余り、離れないところを通っていきます。ところが上陸はできません。上陸はどのようにするかというと目無籠、小さな船、これをベトナムではバンブーボートといって、竹で作っています。そして牛の糞と土を混ぜて、竹の網目から水が漏れないようにしてつくります。これに56人乗れます。大きな船には必ずこの目無籠が何艘か積んであった。軽いです、竹製です。これが現在、茨城県の金砂神社で、72年に1度だけ祭礼をする金砂神社に残っています。これはベトナムの遺産です。従って、豊玉彦の先祖達は雲南から渡ってくるときに、雲南にいたときはやっぱり王様だったんですよ、王様の一族が海南島を経由して、琉球列島を経由して、琉球列島の中には台湾も含みます。台湾も琉球ですから、琉球のうちの宝島が現在では台湾と呼ばれています。日本の鹿児島の薩南諸島を通って、そして日本の各地に上陸する。一番多くの人が上陸した場所が、天草下島の北の端、苓北町です。天草の苓北町だけは天草市にならずに単独でがんばっています。それだけここは格式の高いところです。誰がここを治めていたかというと春日大神のはくおじ(伯父さん)さん、カムハエミミのみこと、この方がこの地区を治めていらっしゃいました。現在もその名残がたくさん残っています。上陸したのは黎(レイ)人です。この方達をもっと専門的に言うと、この黎(レイ)というのは、約4700数十年前に中国で三つ巴の戦いが展開されました。ヘブライ人、ヘブライ人、中華民族人、三つ巴の戦いです。結論勝利したのは中華民族の祖先、さっきの泰伯王の先祖です。こういう長い歴史を持ってるのが黎族です。この黎族が何千年の間に何々族、何々族と名のって、さっき面白い映画を作って忠臣蔵をやっているというのが苗族を名乗っているといいましたね。そして熊本の現在の新幹線新玉名駅のどまん前の玉名では、『ツージャ(チャ)ーツゥ:』、玉野の新幹線の駅前は『どしゃの里』と昔は言っていました。ここに天照皇大神宮(玉名大神宮)があるのです。ご祭神はアマテラス、その家来としてさっきお見せした鹿嶋大神がおられます。これは月とすっぽんです。アマテラスは大元帥です。片方の春日の大神は家来です。

神社伝承から見る古代史百嶋由一郎先生の世界

               --- もう一つの神々の系譜 ---            による

 

「常陸国ふしぎ探検隊」氏の一文をお読み頂きましょう。

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今回の探検は常陸太田市に鎮座する東・西金砂神社です。

百嶋先生をして何が祀られているのか全く分からないと言わしめた神社です。

山田川の谷をはさんで、東金砂神社は旧水府村天下野(けがの)に、西金砂神社は旧金砂郷町上宮河

内にあります。

次は西金砂神社です。以前は単に金砂神社と呼ばれていたようですが、1700年(光圀の時代)に

西金砂神社と呼ぶようになったと伝えられています。おそらくこの時に、東金砂神社がつくられたので

しょう。

<常陸太田市のHPより引用>

祭神は大己貴命と国常立命と少彦名命。大同元806)年に天台僧の宝珠上人が,社殿を造り祭壇を

設けて,近江国比叡山の日吉神社の分霊を勧請・祭祀したのが始まりとされています。

創建当時は,比叡山延暦寺の伽藍を模した七堂伽藍中堂を設け,千手観音を諸沢村堂平に,鐘楼と

経堂を赤土村太平山に建てたほか,中染村羅漢沢に十六羅漢を祀りました。


じつは鷲子山上神社もこの宝珠上人が勧請しています。こちらの創建は大同2年です。また、宝珠上人

が土地の人(栃木県旧馬頭町)になっています。常陸太田市寿町にある金砂神社では、宝珠上人は横

川(どこの?おそらく旧里美村の横川鉱泉)の人になっていて、祭神はオオナムチと猿田彦になってい

ます。

大同元年、2年創建の神社は全国的に多いようで、当時の朝廷から何らかの指示があったものと考え

られます。少なくとも最澄が帰国したのは805年ですから、806年に天台僧の宝珠上人が創建できる

はずはありません。

最澄にしろ空海にしろ一年足らずで留学から帰国したのですから、何をどれだけ学んできたのか自体

が疑問ですけど。なにしろ天才的な二人ですから、学ぶことはなかったのかもしれません。しかし経典

だけはしっかり持ち帰ったのでしょう。


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北関東調査の記念にと頂いた西金砂神社のお札


埼玉の金鑚神社も、天照、スサノウとなっており、金山彦は祀られていません。結局、この西金砂神社の実体は良く把かめなかったのですが、慌てる必要もないでしょう。

何故か写真を撮っていませんでしたが、この山上神殿からの眺めは感動的ですらありました。

また、参拝する機会もあるでしょう。

433 勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

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433 勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161209

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 山梨県甲州市勝沼の隣に山梨市があります。

 三階松、門光の神紋を打つ勝沼のぶどう寺大善寺からも直ぐ行けるところですが、大井俣窪八幡神社があります。

道すがら、多少、気になって参拝させて頂いたのですが、愕くことに、高良神社と若宮神社が立派な社殿の摂社として鎮座していたのでした。まさに犬狗も歩けば棒に当たるです。

 フィールド・ワークも馬鹿にならないと実感したのですが、このような幸遇はめったなにないものです。

 しかも、ひぼろぎ逍遥 416 那須与一の那須神社に高良神社を発見した! 北関東への神社調査 ①

でお知らせしたような小さな境内社ではなく、堂々たる摂社の様であり感動をさえ覚えました。

 どう考えても、この甲州まで九州王朝の氏族が進出しており、その痕跡が残されている事が見えて来たのでした。


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はじめに目に飛び込んで来たのは浮島状の社だったことから、直ぐに市杵島姫だと分かりましたが、どうやら、現在の宇佐神宮の中殿=第二殿の比売大神こと宗像三女神がごっそり移され末社扱いされているようなのです。

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当然にも、祭神の入れ替えが行われた事が一目で分かります。


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貞観元年(859)に宇佐神宮を勧請したとありますが、宇佐神宮が現在の一社三殿三神として神功皇后が加えられた時期に相当し、それまでは、高良神社、若宮神社が主で、背後の末社が鎮座していたのではないかと思うのです。

まず間違いなく比売大神こと宗像三女神は宇佐神宮勧請時点で持ち込まれたものでしょう。

では、本殿を御覧いただきましょう。


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縁起に依れば どうやら仲哀天皇と比売大神(宗像三神)が入れ替えられたように見えます

御覧のとおり、北殿とされる仲哀天皇が宗像三女神を追い出したようです。

摂社若宮八幡神社は寛治7年(1094)武田信玄の祖新羅三郎が勧請したと言う話は驚きです。

武田信玄のルーツが、何故、九州王朝の最後の天皇である仁徳を別に祀ったかは謎です(これは後で分かります)。


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堂々たる摂社ですが、間違いなく若宮神社と書かれています


驚いたのは向かって左端に置かれた高良神社の存在でした。

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 一般的に本州に入ると高良玉垂命とは武内宿禰のことだとされていますし、そう強弁する輩にも良く遭遇しますが、こちらでは、正しくも明確に分離されています。

そして、神殿背後こそ、本当に偉い神様がおられるのですが、神殿裏にはさらに多くの神々が…


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本殿背後の境内社 北野天満宮 道祖大神 久住大神 大宮神社 山王神社 八釼大神 白山大神 松尾大神


 まず、山梨県にも古田武彦九州王朝論に触れた方は少なからずおられると思うのですが、まずは、こういった神社も考えて頂きたいと思います。

 我々の目からは、九州王朝の天皇(実は藤原により第10代とされた開化)と、その子であり応神天皇の子などととんでもない濡れ衣を被せられた九州王朝最後の天皇(仁徳)が揃って大切に祀られているのです。

 恐らく、神社庁の最高位の特急神官クラスはこれらの背景も全て知っているはずなのです。

 神社庁が知らないとしても宮内庁は知っているはずなのです。

 九州王朝論を馬鹿にする薄汚い利権まみれの通説派の学者から学芸員、考古学協○といった間の抜けた人々も少しは自分の頭で物事を考える事をしないとそのうち大恥をかく事になるのではないでしょうか?

スポット107 九州王朝論の危機  “サンゴ礁からやって来た猿田彦”講演に見るあさましさ

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スポット107 九州王朝論の危機  “サンゴ礁からやって来た猿田彦”講演に見るあさましさ

20170701

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


sp107-1九州王朝論の危機と言った場合、それは九州王朝論者を自認する組織の危機と言ったものに収斂されるでしょう。

 凡そ教育委員会や自己保身に汲々となっている子飼いの学芸員などが、仮に九州王朝論に一部関心を示したとしても、シンパシーを持つはずもなく(このことは近年菊水インター付近の和水町の庄屋筋の屋敷で発見された「納音九州年号対照表」が一切無視された事でも明らかでしょう)彼らの寄って立つ基盤は学会通説であり、それに奉仕することが飯の種だからです。

 ところが、一時期、古田武彦よりも、さらに掘り下げた九州王朝論探究を目指した兼川 晋(公開講座でも講演)荒金卓也、以下、多くの講演者を産みだした某九州王朝論の研究会が次世代の研究者を全く養成できず、今や月例会(と言っても年に8回程度ですが)そのうち6回近くを教育委員会の学芸員や通説派に靡く他の残存郷土史会といったものに依存し御高説を拝聴し平伏するという状況に陥っている(と聴く)のです。

 一方、古田史学の会の会員の内部にも、安○美○の息の掛かった半通説派、東遷説派であり学会通説の別動隊である「邪馬台国シン○ジウム」なるものに同調し共催へと動く人々が現れるなど、古田武彦が一生を掛け貫き通した九州王朝研究への姿勢をいとも易々とかなぐり捨て同調する無様な動きが目立ってきているのです。

唯一、これまで佃収講演を行い続けて来た菊水史談会のみが、一貫して通説派の講演会を行なはず孤高を保ち続けているようです。

 これも熊本県内の某研究会で行われた発表ですが、「古事記」の猿田彦がひらぶ貝に挟まれて溺れ死んだ(「ひらぶ貝にてお且猿は猹田の神のひらぶ貝に手をくひ合せられて海におぼれてさりましつ」)と言う話を掘り下げる事もなくそのまま披露し、柳田国男、谷川健一の(南方起源説)だけを結び付けシャコガイか何かを引っ張り出し「サンゴ礁からやってきた猿田彦」という大道芸まがいの講演をやった神職(K県K市K神社)がいたのですが、そして、これがまた九州王朝論者の会のメンバーと言うのですから見るも無様で、恐らく故)古田武彦も嘆いている事でしょう。

話題作りや初心者対策のマヌーヴァならいざ知らず、猿田彦の三回公演のメイン・ディッシュというのですから恐れ入ります。これが行政に尾を振り私も使って下さいとするさもしいメッセジ(行政への売り込み)である事は明らかで実に情けない限りです。

sp1007-2つまり、上は○○シンポジウムの講演者(教育委員会の芸人)から果ては、調教された地元のボランティア・ガイドに至るまで肖りと集りとも言えぬ学会通説への擦り寄りを体現しているのです。

これらの動きは古田武彦を失った後の流動化と言えばその通りであり、利権集団と化した教育委員会、○古学協会、学芸員といった通説を宣伝流布する全国的傾向に向かう対抗軸の再構築こそが求められているのです。

 
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町興し村興し果ては世界遺産登録に狂奔する行政に迎合し、ありもしない邪馬台国探しや邪馬台国祭に協力し尾を振るさもしい人々によっては、古田史学が到達した地平さえも易々と譲り渡す事になるでしょう。

 そうした中で、高良山に残された「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)の書き下しを行い、再調査、再研究に取り組んでいる研究者がいます。40年近い筑後の神社調査と公開講座でも講演された百嶋由一郎神社考古学を結び付け最新研究を発表し続けているblog「宮原誠一の神社見聞諜」の管理者である宮原誠一氏です。

 勿論、文献の史料批判という概念がある事は十分過ぎるほど承知していますが、この「高良玉垂宮神秘書」は通説派が崇める「記紀」とは全く相いれない内容を持っており、それだけでも検討されるべき価値のある第一級資料と言うべきものであり、「記」「紀」の元になったのではないかと思える部分が多多あり、通説派への対抗への重要な要素を持っている一書です。

 これまで九州王朝論は「古事記」「日本書紀」を聖典とする歴史学者を相手に、「記」「紀」をベースに文献史学の立場から正攻法で立ち向かい大きな業績を上げて来ました。

 それ自体は素晴らしい業績ではあるのですが(「記」「紀」に依拠する通説派などは大嘘ですが)、そもそも「記」「紀」は藤原が造ったものでしかなく、所詮は勝者の歴史でしかないのです。

 ところが「宮神秘書」には「古事記」とは全く異なる世界が描かれており、九州~西日本全域の神社調査を行う限り「宮神秘書」に書かれる事との整合を数多く見出すのです。

 象徴的な事としては、筑後周辺には高良玉垂命と神功皇后とを夫婦神としてセットで祀る祭祀が確認できる事です。

 それが、藤原が創った「記」「紀」に整合しないとしても、九州王朝の中心地は九州北半であり、最低でも欠史8代に相当する事象はこの九州に探るべきなのです。

 それを奈良の周辺だけ調べて痕跡がいっさいないから架空であるとしたのがお粗末な欠史8代架空説なのです。ほとんど漫画の様な話で、これが畿内説論者とか言う人々の実態なのです。

 そして、この九州王朝の高良玉垂命と仲哀死後の神功皇后との間に産れた仁徳天皇こそが若宮神社とか若宮八幡宮…の祭神なのです。


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引き続きお読み下さい。


スポット108 なぜ神社は生き残れないのか?

20170706


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 年間300500社もの神社を見るようになってくると、どうしても神社へのシンパシーを持つようになってきます。

 以前取上げたK県K市のK神社のY神職のように大道芸紛いの興業(「サンゴ礁からやってきた猿田彦」)で行政や教育委員会に尾を振るどころかチンチンまでして自らを売り込もうとするようなさもしい古代史研究者なるものが居たにせよ、この神社への思いは強まりこそすれ弱まる事はありません。

 さて、小○竹○改革なる金融資本のアメリカへの売り飛ばしによって、国民の所得が実質半減した事は、どなたも身を持って実感されている事でしょう。

 実感を持たれない方であっても、ここ十年でセカンド・カーどころか車自体が一家一台に減り、軽自動車に変わった事や、若者の車離れが所得の低下と無関係と言える方はおられない事でしょう。

 本来ならばその失われた余剰が、室町期以来、日本の伝統文化の基礎となってきた、お茶、お花、書道、舞踊、音曲、詩吟…からピアノ、バイオリン教室に至るまでの様々な習い事から、最後まで残った実利的な学習塾でさえも、少子化、所得の低下によって倒産の憂き目に逢っているのですから、実利など全くない神社の賽銭箱のあがりなど盗まれこそすれ増える気配など全くないのです。

 これが、小規模な神社どころか参拝客が急増する大神社においても同様なのですから、事態は極めて深刻です。

 これも、押しも押されもしない大神社の幹部から聴いた話なのですが、「参拝者はブームで増えているけれども、交通整理や案内で人手が取られるだけで、お賽銭の方は全く入らないんですよ…」という状況で、賑わっているからと言って決して財政基盤が保持されているとは言えないのです。

 大神社に於いてさえこの有様なのですから、中小の神社に至っては想像するのも恐ろしい状況が進んでいる事が推察されるのです。

 そもそも神社へのお賽銭とかお寺へのお布施といったものに法的根拠は、一切、存在しません。

 このため氏子や檀家と言えども、所得が半減しギリギリのところで生活している状況では、賽銭やお布施を絞るのは致し方ない訳で、人は不要不急の支出をそぎ落とし生きて行くしか手段がないからです。

 結果、神社の社殿の老朽化、崩壊、放置が進んでいるのも事実であり、もうしばらくすると氏子組織が急速に崩壊する事が予測され、十年以内には再建されない神社が劇的に増えてくると考えられます。


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まず、お祀り、お祭り、社殿の清掃…といったものは、氏子の組織さえ残っていれば、よほど性質の悪い宮司でもない限り、ある程度継続する事は可能でしょう。

 しかし、年年歳歳、神社に対する強い親近感を持った氏子が高齢化し神社の行事から消えて行きます。

そのうち、注連縄の作り方から、御幣の作り方、神輿の繰り出し方…に至るまでメモ帳を手に確認しながらやらざるを得なくなってくるのです。

早晩、宮司本人が何も知らないといった状態さえ考えられる状況になりかねないのです。

氏子が経済的基盤を失い、ギリギリの生活を続けている中で、神社の行事に無報酬で呼び出されたり、寄進を求められたり、神社周辺の清掃草祓いに呼び出される時、元々法的根拠が存在しない中、何時まで継続できるかは、ウルトラマンのカラー・タイマー並みの危機的状況にあることは明らかで、神社が先に潰れるか、宮司が先に死ぬか、氏子が消えるか…どちらが先になるかと言った状態にあるでしょう。

多くの神社を見てきた者から見た神社一般の危機はそこまで来ているのです。


ではどうすれば良いのか


この問題に答えを出すには、それぞれの思想的スタンスが関係することから自ずと異なった結果が出てくる事になります。

まず、我々は神社研究から列島の古代を探っているだけであって、信仰心から神社を調べておられる方も一部にはおられるようですが、基本的には研究対象として神社を見ているだけなのです。

事実、私自身は戦前から存在した日本キリスト教団の牧師が経営する幼稚園に通い、その後も日曜学校に通い、クリスマス・キャロルの一員でもあったのですから(もっとも家自体は浄土真宗本願寺派の門徒でもあるのです)、凡そ、神社とか寺院とかいったものとは縁遠い存在だったのです。

従って、私自身の神社へのシンパシーとは列島の古代を今に伝える文化遺産、古代史の資料としてのそれであり、その神社を可能な限り正確に後世に伝えたいと言う事に付きます。

それは、大神社の参拝者を見下したような高慢ちきな伊勢あたりの禰宜(“良く神社の千木を問題にして質問してくる人がおられますが、それは素人の考えで…云々と言った”)や、前述の権力に尾を振るさもしい3K宮司が居たとしても変わらないのです。

勿論、信仰心を持った方、氏子総代といった方には異なる考えが有られるであろうことは言わずもがなでしょう。

単なる文化財としての存続への思いはあるのですが、神社とは建物そのものではなく、伝承、祭礼の在り様、摂社を含む祭神伝承、社殿の様式の一切であり、単に書類が残っていれば済むと言ったものではないのです。

このため、可能な限り神社を自分の目で確認する事が重要になるのですが、記録を残すだけにしても十年掛けても高々5000社程度の踏査に過ぎず、事実上は時間との競争になっているのです。

ところが、多くの神社を見ていると、厳しい条件であるにも拘わらず、神社の存続が確立していると思える神社に一つの特徴があることが見えてきます。


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これは経験的に分かる事ですので説明するのは難しいのですが、要は「顔の見える神社」は生き残り、「顔の見えない神社」は生き残れない のではないか…という法則です。

勿論、「顔の見える神社」とは、誰が祀られているのかを明示している神社の事であり、それが摂社、末社、分社の類まで明らかであり、我が奉斎する神は何者であると言う主張が伝わってくる神社と言う意味なのです。

この顔の見える神社は、他社に対して比較的に神社の清掃から寄進者の金額や集落の規模に対して寄進金額が多いとか、行事、祭礼がきちんと行われているという印象があるのです。

要は氏子の結束が強く、地域との連携も良く取れ、結果、参拝者への配慮もきちんとされている事になり、他社が徐々に存在価値を失って行くのに対して生き残り、最後は自らが地域全体主をも塗り潰してしまうと言う気概までが感じられる神社という事になるのです。

つまり、自らが何者であるかを主張する神社とは、自らの一族が祀る神はこの大神様であり、自らはその後裔の一族であると言う強いアイデンテティーの主張なのです。

しかし、ここで考えなければならない事は、時の権力の変化によって、別の勢力からの圧力を受け、絶えず祭神を入れ替えさせられたり、他の勢力の奉斎する神を押し付けられたり、元々の神を消し去られることさえも起こったでしょう。

しかし、政治情勢が変わればたちどころに元の祭祀と自らの主張を復活させ、一族の結束を再建するのです。

このような氏子一族の結束を強めるための教化に継続性を持たせるには、今はこの神を祀る事にはなっているが、本来の神はこの神であり、自らはその後裔なのであるという教化こそが顔の見える神社の意味なのです。

現在の一般的氏子の神社に対するシンパシーの希薄さには驚くべきものがあります。

誰が祀られているかを知らず、仮に知っていたとしても、それがどのような神であるかを誰も知らないと言う有様といった状態では何のシンパシーもなく神社を守ろうとする意識に影響するだろう事は言うまでもないでしょう。

この氏子への教化、自らの氏族の正統性、継承性、神社との一体性こそが神社の強さとなるのです。

問題は、明治期に県社とか郷社といったものに指定され、行政の庇護の元に入ろうと、本来の祭神さえをも捨て去り、隠し、入れ替え自らの氏素性を捨て去った神社が続出した事なのです。

戦時下の政策の一環として、国民統合のため「古事記」を中心にたった一つの統一されたメッセジで全ての国民を塗り潰してしまった事に起因しているのです。

結果、自らの誇りある伝承、歴史をかなぐり捨てることになった途端、氏子達にも嘘を教えることになった場合、一挙に、神社への尊崇、信頼、共鳴、一体感…の全てを失って行く事になるのです。

後は、泣こうが、喚こうが、脅そうが、虎の子の氏子の共感は戻ってこない事になるのです。

坊主や神主と言った曲がりなりにも清廉性、神聖性を売りにした人々が堕落すれば尊崇の念は消え失せるのであって、実はこの部分こそが危機の本質になるのです。

最低でも、K県K市のK神社のY神職のような研究者などと自認する大道芸人まがいのさもしい宮司の神社に未来が無い事だけは確実で、早晩潰え去る事になるでしょう。


スポット106 CO2温暖化論がデマである事をトランプが暴露してくれた!

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スポット106 CO2温暖化論がデマである事をトランプが暴露してくれた!

20170616

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


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トランプ大統領、パリ協定離脱を発表 同盟国や米経済界に波紋


[ワシントン 1日 ロイター] - トランプ米大統領は1日(20170601:古川)、地球温暖化対策の国際枠組み「パリ協定」から米国が離脱すると発表した。残留を求めていた同盟国や米経済界首脳らの間には波紋が広がっている。

離脱は選挙公約通り。トランプ大統領はホワイトハウスで「米国は(パリ協定から)離脱する」と表明。同協定は同国の経済と雇用に打撃を与えると主張し、離脱は「米国の主権を改めて主張する」意味合いがあるとして「米国第一主義」を強調した。

大統領はさらに、「米国にパリ協定への残留を求めている国々は厳しい貿易慣行により米国に総額数兆ドルの負担を強いている。多くの場合、米国との軍事同盟への寄与が不十分だ」と述べた。

ただ、米政府が同協定への再参加、もしくは米国民と米企業にとってより公平な新たな条件について交渉を開始することも明らかにした。

米国の同盟国は遺憾の意を表明。フランス、ドイツ、イタリアの首脳は連名で声明を出し、協定は再交渉できないとした。

トランプ氏はまた、発展途上国による気候変動の影響への対策を支援する多国間の「緑の気候基金」への拠出を停止すると述べた。

パリ協定は2015年12月に米国を含む195カ国が合意。オバマ前米政権は2025年までに地球温暖化ガスの排出量を05年比で26─28%減らすと表明していた。

米国の離脱により、世界でパリ協定に参加していないのはシリア、ニカラグア、米国のみとなる。米国は温暖化ガス排出量が中国に次いで世界第2位で、世界の排出量の15%以上を占めるため、離脱の影響は大きいとみられる。


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冒頭からロイターの記事を読んでいただきましたが、大統領選挙中からトランプが“CO2温暖化論はデマである”とか“9.11はブッシュ一味による自作自演”…といったことを言っていた事を承知していたことから、当選後もそれを貫き通すことができるかどうかを注視していました。

ところが、世界政治の表舞台でパリ協定から離脱する事を堂々と言ってのけ、この巨大な国際的陰謀からアメリカは離脱するとしたのでした。

まず、温暖化そのものがデマであることについては、この「ひぼろぎ逍遥」でも、先行blogの スポット084 地球温暖化が嘘である事をNASAが認めた や スポット098 ケナフを植えたらCO2が減らせるなどと本気で考えた佐賀県職員
として行政が主張する科学的レベルがこの程度のものであることをお知らせしています。

また、CO2による地球温暖化なる虚構の大半が、実は、臨海部を中心とする都市のヒート・アイランド現象でしかない事を “打ち水大作戦の大間抜け アンビエンテ”でダブル検索して頂ければ、長文ですが、明らかにしています。

CO2温暖化論がデマであることについては武田邦彦教授が良く知られていますが、同教授が脚光を浴びる前の2003年前後から、槌田 敦氏と提携する近藤邦明氏の「環境問題を考える」“環境問題の科学的根拠を論じる”sp106-3でCO2温暖化論批判を続けておられた事から接触を持ち、そのサブ・サイトとしてのアンビエンテsp106-4として下世話な公共事業に関する話を5年に亘り連載させて頂きました。

今般、トランプ大統領は温暖効果ガス絡みの「パリ協定」からの離脱を表明し、二酸化炭素「温暖化説」は、すでに20数年前に否定された仮説でしかなく、反温暖化説の立場に変わったNASAも南極は「寒冷化」し続けていると昨年の夏前後から表明しています。

ロシア・プーチン大統領も地球温暖化は「詐欺」と言っていますし、簡単に言えば、アル・ゴアは只のピエロでしかなく、「CO2温暖化論」は、いずれ、ガリレオが面従腹背した現代版「地動説」やルイセンコ理論(ソ連邦のスターリニスト追従学者による)でしかなかったことが明らかになるでしょう。

特に錯覚させられているのは、列島全域どころか全世界の産業化された都市部に於けるヒート・アイランドによるものであり、国土交通省や農水省や厚生労働省が引き起こした(地表から水を奪う排水路の地下化=としのコンクリート化など)全域の乾燥化による温度上昇なのです。

要は地球温暖化などと錯覚させられているヒート・アイランド現象とは主として国土交通省が70年掛かって引き起こしたものであり、都市部から夕立を奪い(夕立が消えたことにより都市部は冷やされる事無く放射冷却だけが頼りとなっているのです)、東京オリンピックも含め熱中症でバタバタと倒れさす事になるこの怪奇な現象の責任の大半は物理法則を知らない国土交通省の官僚どもに起因しているのです。

まず、大体において、気温の観測点がヒート・アイランドの影響を受けている都市部に置かれている事であり、百葉箱の周りもアスファルト舗装で固められている事が影響しているのです。

もう一つの要素は、CO2が石灰岩やカンラン石、長石に閉じ込められていることは知られていますが、重要なのは海水(もちろん地表水であっても良いのですが)中のCO2で、サイダーやラムネの栓を抜き放置しておけば気が抜ける様に、温暖化する事によって大気中のCO2濃度が上昇しているという要素なのです。

これも因果関係を理解していない事から来る錯覚でしかなく、M氏などの科学性の欠けた気象予報官や利権学者の誘導に敏感になっておかなければならないと思うものです。

まあ、そういった話はここまでとして、NHKによるトランプのパリ協定離脱への報道ぶりの酷さを考えて見たいと思います。

以下はNHKの解説員による論説の一部です。


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トランプ大統領は、どのように今後の交渉をしようとしているのでしょうか?

これは、パリ協定に参加している国の義務を表した図です。

パリ協定では、参加国は、各国の温室効果ガスの削減目標を、国連に報告する義務がありますが、目標達成義務も、罰則規定もありません。

実はこの規定は「すべての国が参加」しやすいようにするための、苦肉の策として作られたものです。

しかし、アメリカがパリ協定の脱退を完了するまでの期間、この規定を利用すれば、実質的に温暖化対策の中身を行わないことも可能になります。

<今後の課題>

今後、私たちは、地球温暖化対策にどのように向き合っていけばいいのでしょうか?

ここで、必ずしも、トランプ大統領の一言で、すべてがだめになるというわけではないということを確認したいと思います。

それは、アメリカの中にも、今回の決定を批判する勢力が、数多くあるということです。カリフォルニアやニューヨークなどの州、アップル、アマゾン、グーグル、マイクロソフトなどのIT企業、石油大手企業にも、パリ協定にとどまるべきだとする企業が多くあります。

すでに世界的規模で、低炭素ビジネスが本格化し、温暖化対策が経済的にも好ましい流れができ始めているからです。

世界各国は、今後、トランプ大統領の発言に追随して、温暖化対策から逃げるのではなく、アメリカ国内のこれらの勢力と連携して、実質的な温暖化対策を目指す必要があります。

私は、トランプ大統領の決定には、科学的視点からも問題点があると思います。

ごらんのように、地球の平均気温は上がり続けており、このまま対策を講じなければ、平均気温は2100年で、最大4.8度上昇し、大規模な被害が世界中で起こるとされています。

現在のパリ協定の目標は、地球の平均気温の上昇を、産業革命から2度未満、できれば1.5度に抑えるというものです。しかし、残念ながら、アメリカも含め、各国が提示している現在の削減目標を、すべて達成しても、2度目標には届かず、3度前後にまで上がってしまうことが分かっています。このためパリ協定では、5年ごとに、各国の温室効果ガスの削減量を、さらに深堀りし、提案することを求めています。そもそも、現在掲げられている目標が、後退すること自体、あってはならないもので、トランプ大統領の発言がいかに問題かがわかります。

もうひとつ、気になることがあります。実はこの15年ほど、地球の平均気温が高止まりを続け、最近、急に上がり始めていることです。

地球温暖化による大気温の上昇は、そのエネルギーの一部が海に吸収され、海水の循環によって、海の深いところまで取り込まれることが知られていますごまかしの「ハイエイタス論」古川注

この循環が、最近弱まり、その結果、大気温が上昇しはじめているのではないかと指摘されています。

もしこの傾向が続けば、さらに温暖化が加速されることになります。

これらの科学的事実を見ると、地球温暖化に対して、私たちは、今後、対策を強めこそすれ、後退することは許されないということがわかります。

<まとめ>

地球温暖化は、広く、複雑に進んでいきます。その状況を正確に把握し、行動するためには、持続的な科学研究が欠かせません。

その意味で、トランプ大統領の、科学研究予算削減の動きも、大きな問題を含んでいるといえます。

日本は、これからどうしていくべきでしょうか?

温暖化の影響は、もちろん日本にも現れます。

日本は、持ち前の科学力と環境技術をさらに進め、世界に貢献しながら、低炭素社会を目指すべき国です。

そして、アメリカに温暖化対策の必要性を粘り強く説明し、ともに進む呼びかけをする責任があります。

日本のCO2排出量は世界5位。

それにふさわしい振る舞いと、リーダーシップが、今こそ求められているのではないでしょうか。

(室山 哲也 解説委員)


室山 哲也 解説委員のコメントを検討するまでもなく、ここ三十年来、地球が温暖化しているなどといった大嘘を宣伝し続けて来た事は明らかです。

とりあえず二例上げておきますが、思い出して下さい。


NHKスペシャル 気候大異変(1)異常気象 地球シミュレータの警告 2006.02.18

サイエンスZERO 省エネ家電で地球温暖化を防げ 2004.06.19  …


 バカバカしくて説明する気にもなりませんが、このCO2による地球温暖化とか温室効果ガスを制限しよう!などと言った大嘘を、税金を使って流し続けて来たのがNHKだったのです。

 ところが、我々の世代にとっては、小学校から高等学校ぐらいまでは、もう直ぐ氷河期がやってくるのではないか…と言うのが常識だったのです。

 その後、NHKが温室効果ガスによる地球温暖化というキャンペーンを大々的に始め、今や環境省、気象庁を中心に、嘘だと知っているくせにデマを流し続けているのです。

 科学者の方に聴けば、例外なく、“学者は皆あれがデマである事は皆知っているんですよ。ただ、そう言わないと予算が貰えないから同調しているだけなんですね…。”との事で、もはや平気で嘘がつける人間だけが学者に成れる時代になっているのであり、中世の宗教裁判となんら変わらない構造なのです。


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スポット084 地球温暖化が嘘である事をNASAが認めた をお読みください。


スポット084 地球温暖化が嘘である事をNASAが認めた

20170127


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


2017125日公開のユーチューブに於いて「地球温暖化」が嘘である事を認めたという動画が流され始めました。

元々、CO2の大気中濃度の上昇によって地球が温暖化している…(温室効果)という話が出始めたのが30年近く前のNASAのハンセンによるものであった事(1989年米議会上院での証言)を考えれば、ようやくNASAも真実を発表できるようになったのか?といった思いを強くします。


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全文はご自分で読んで頂くとして、ここではその背景を考えてみたいと思います。

 当然ながら敬愛する武田邦彦氏もすかさずユーチューブで話しておられます。

 嘘をつき続けているのは、気象庁とか政府とかNHK…という事になりそうです。

 まず、この二本を読めば(聴けば)概略は理解できると思いますが、CO2によって地球が温暖化しているなどといった事実上のデマ(NHKが率先してキャンペーンを張ったことを覚えておられると思います)が、その発信源であったNASAから転換が始まっている(始まっていた)という事実を確認して頂きたいと思います。すかさず武田邦彦氏も当然の事としてこの話を扱っておられます。


以下は、前blogを検索して下さい。

434 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜

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434 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載


20161217

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


以前、118 蘇民将来(ソミンショウライ)巨旦将来(コタンショウライ)として、宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社の「蘇民将来 巨旦将来」伝承を取り上げた事がありました。

近年、パワー・スポット・ブームで参拝客が増加している神社と聞いています。

もう一度「蘇民将来 巨旦将来」伝承を思い出して頂きましょう。


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祇園神社 カーナビ検索 宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町鞍岡6066


蘇民将来出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (20161219 21:41による


434-2蘇民将来護符(神戸・祇園神社)


蘇民将来(そみんしょうらい、非略体: 蘇民將來蘓民將耒巨旦将耒、など)とは日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない[1]。なお、岩手県県南では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。陰陽道では天徳神と同一視された。

説話 古くは鎌倉時代中期の卜部兼方釈日本紀』に引用された『備後国風土記』の疫隈国社(えのくまのくにつやしろ。現広島県福山市素盞嗚神社に比定される)の縁起にみえるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。

すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうのかみ、むとうしん)を裕福な弟の将来(『備後国風土記』では「或本作巨旦將來也」とあり、巨旦将来〈こたんしょうらい〉と表記され、金神のこととされる)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘にの輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。


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同社御由緒


 まず、縁起に依れば、曽男神(スサノウ)並びに冠八面大明神(クラオカミ)が主神であるとしているようです。しかし、御由緒の冒頭にはスサノウ、オオナムチ、イザナミが名を連ねています。

 奇妙ですが、多分、曽男神(スサノウ)並びに冠八面大明神(クラオカミ)が先住神で、後に三神+八神となったものと考えて良いのではないかと思います。

 少し分かり易いように一つずつお話をする事にしましょう。

 縁起による主神の曽男神(スサノウ)と冠八面大明神(クラオカミ)とは、百嶋由一郎氏の神代系譜(クラオカミ、タカオカミ系譜)によればお分かりの通り弟と姉になります。

 しかも、この神社は祇園山の裾野の祇園神社であり、通常祇園神社とはスサノウを祀る神社なのですから、クラオカミが祀られていてもおかしくはないどころか、むしろぴったりの場所となります。

 さらに驚くことに、この集落自体が鞍岡であり、クラオカミ=冠八面大明神を祀る地域を表している、どころか、クラオカミとは、この鞍岡に居たからこそクラオカミと呼ばれていたのではないかとまで思えるのです。


祇園神社 宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町鞍岡6066


 そこで、残りの神様を考えて見ましょう。伊弉册尊(イザナミ)は言うまでもなくこの二柱の神様の母神になりますから、当然と言えば当然で、奇稲田姫もスサノウのお妃ですから全く違和感はありません。

 「古事記」ではクシナダヒメを囲んで泣いていたとされる足名椎、手名椎もクシナダヒメの親神ですから当然の配神になります。

 そして、問題の蘓民將耒、 巨旦将耒ですが(両方とも雲南省麗江から進出してきた黎族)、蘓民將耒とは阿蘇高森の草部吉見=春日大神=武甕槌=鹿島大神の叔父にあたる神八井耳にあたり、巨旦将耒とは熊本地震で楼門が倒壊した阿蘇神社の最奥の神殿に祀られている金凝彦こと神沼河耳の事なのです。

 最後にこの祇園神社が鎮座する鞍岡は宮崎県五ヶ瀬町の一大字になりますが、神武皇兄五瀬(イツセ)命とは、この五ヶ瀬町の五瀬(ゴカセ)から取られた名前なのです。


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祇園神社の境内摂社の古我武禮神社=冠八面大明神がクラオカミなのです


ところが、祇園神社では御由緒にクラオカミ=神俣姫が書かれていません。

勿論、境内摂社の神としては書かれているのですが、闇淤加美神が、何故、そのような扱いになっているのかは分かりません。

実は西南方向1キロほどの所に祇園神社の境外摂社として冠八面大明神「古我武禮神社」があります。


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この冠八面大明神 古我武禮神社の由緒を読むと、間違いなくスサノウとクラオカミがこの地に居たのではないかと思いが高まって来るのですが、さらに重要なのは旅の途中で宿を乞うた武塔神(実は仏教化されたスサノウ)が一夜の宿を求めた相手方の蘓民將耒(恐らく草部吉見周辺)、 巨旦将耒(恐らく阿蘇神社周辺)であることを考えると、蘇民将来巨旦将来伝承も、この肥後、日向国境一帯を舞台として起こった事のようなのです。

単に浮ついた一過性のパワー・スポット・ブームだけでではなく、この宮崎県五ヶ瀬町と熊本県阿蘇高森の草部吉見神社一帯の神代史に目を向けて頂きたいものだと思うものです。


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435 山梨県韮崎市にも若宮神社があった

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435 山梨県韮崎市にも若宮神社があった

       20161222

太宰府地名研究会 古川 清久


武田信玄で知られる甲府盆地の北西域に韮崎市があります。

甲斐武田氏の拡大期に造られたとされるのが新府(シンプ)城ですが、別名、山梨県韮崎市中田町に置かれた韮崎城です。

山梨県のフィールド・ワークを続けていると、韮崎市の中心部に若宮八幡宮があることに気付きました。

 九州から西日本の神社を見ていると、高良玉垂命と若宮とされる仁徳天皇(大鷦鷯命オオササギノミコト)とがセットで祀られている祭祀形態に数多く遭遇します。

 その祭祀形態が ひぼろぎ逍遥 433 勝沼にも高良神社があった“山梨市の大井俣窪八幡神社” でお知らせした通り、甲府盆地の東の山梨市で見出せたのですが、今度は西の韮崎市でも発見できたのではないかと思ったのでした。


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同社の縁起が読めないため山梨県神社庁から拾って見ますと、祭神は大鷦鷯命で間違いないようです。

 

若宮八幡宮 御祭神:大鷦鷯命


韮崎市(旧河原部村)の産神で、天正十三(一五八五)年の棟札(韮崎市指定文化財)によると仁和年間(八八五~八八九)の創建と伝へられ、もとは七里岩の上にあったが天正十一年七月二十日暴風雨のため山崩れがあり、社殿は悉く倒壊したので、現在地を選び天正十三年十月棟上げ再建されたことが記されてゐる。この頃は武田家が亡び徳川家が入国し、武田家の例にならって社領の安堵はなされたものの、国内はまだ混沌としてゐたので再建がおくれたといはれる。その後寛文四年、貞享三年、天文二年、文化十四年、明治四年と社殿の新改築がなされ、舞殿は元禄八年再興されてゐるが、現在の本殿は明治四十一年、拝殿は昭和十二年、神楽殿は昭和五十六年の再建である。大祭は七月三十・三十一両日にわたって行はれるが「かはらべさんのていねっこぐり」といって正面石鳥居にかけた太い茅の輪をくぐる夏越の祓ひ神事は夜神楽、露店の灯りとともに夏祭りの風景となってゐる。

 なほ、末社稲荷社は本町に一橋陣屋があった際の鎮守神で宝暦五年仁木代官の時武州王子から勧請されたもので、後寛政六年遠州相良へ領地替となったため神社に移し祀ったものである。また社前の鶴亀の松は韮崎市天然記念物に指定されてゐる。


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高良玉垂命を祀る高良神社、玉垂宮が併祀される事が多い事から、ここでは祭神が隠されているか、境外に別社とされているのではないかとネット検索を続けましたが発見できませんでした。

 百嶋神社考古学の立場からは、神武を筆頭に所謂、欠史8代とされる懿徳、孝霊、孝元、開化、飛んで仁徳が九州王朝系の最後の天皇(若宮八幡)とします。

 それ以外の、綏靖、安寧、孝安、孝昭は藤原が自らのウイングを広げるために格上げして挿入したもので、ここからが本物の天皇とされる贈)崇神こそ高良玉垂命の臣下でしかないでっち上げの天皇とします。

 まさに、その最後の天皇が仁徳天皇で、恐らく、高良玉垂命(第9代開化天皇)とその長子(母神は神功皇后)仁徳天皇を奉祭する氏族が、逃亡か進出かは不明ですが、8世紀前後に、この韮崎一帯に住み着いたのではないかと思うものです。高良玉垂命の長子である斯礼賀志命こそが仁徳と考えています。


〔高良玉垂命と九人の皇子(九躰皇子)〕

高良玉垂命(初代)――――― 斯礼賀志命(しれかし)→ 隈氏(大善寺玉垂宮神職)へ続く

物部保連(やすつら)  ―― 朝日豊盛命(あさひとよもり) →草壁(稲員)氏へ続く

            ―― 暮日豊盛命(ゆうひとよもり)

            ―― 渕志命(ふちし)

            ―― 渓上命(たにがみ)

            ―― 那男美命(なをみ)

            ―― 坂本命(さかもと)

            ―― 安志奇命(あしき)

            ―― 安楽應寳秘命(あらをほひめ)

              ※読みは「草壁氏系図(松延本)」によった。

九州王朝の築後遷宮 玉垂命と九州王朝の都(『新・古代学』古田武彦とともに 第4集1999年新泉社)  

スポット109(前) 列島(劣等)民族の今後の生き方について“東芝が嵌められタカタも食い物にされ

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スポット109(前) 列島(劣等)民族の今後の生き方について“東芝が嵌められタカタも食い物にされた”①

20170701

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 シャープが格安で売り飛ばされ、今また東芝、タカタが食い物にされています。

 そもそも、クズ同然のウエスチィング・ハウス社の買収を勧めたのは経済産業省の官僚だったのです。

 このことは以前から指摘されていたのですが、何故か、マスコミは一切追及してきませんでした。

 3.11の福島原発の無様な姿を知った後でさえも、「不況から脱出するには国際競争力のある日本の原発建設技術を活用すべきで十分に輸出できる競争力を持っている…」といった話が、評論家なるペテン師からまことしやかに飛び交っていた事を、まだ、覚えておられると思います。


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アメリカでは3.11前後から原発の需要は消えていました。それを知っていたからこそ、米国の原発の将来を見越した性質の悪い連中が日本企業(東芝、日立しかない)に売り逃げようとしたのです。

そして、お人好しの日本人だからこそ狙われたのです。

そもそもアメリカ人とは数百万人のインディアンをバッファロー同様に皆殺しにして国土を奪っていった連中なのです。

インディアン(人殺共が今はネイティブ・アメリカンなどと言葉を変えていますが)は、自尊心が強く独立性、孤立性が強い狩猟民であった為に農耕用奴隷(コットン・フィールド)としては使えなかった事から生き残れず、だからこそ、従順に働くアフリカの黒人奴隷が、遠路、悪名高い奴隷貿易によって採用されたのでした。

このため、アメリカ・インディアンには痩せた居留地が与えられ、動物園の見世物の様な生き方しか許されなかったのでした。

それはともかくも、少しネット情報を拾えば、…


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 この背景には、米国の原発政策の転換がありました。スリーマイル島の原発事故以降、米国では原発新設が難しくなっていました。しかし、2005年にブッシュ政権が包括エネルギー政策法を作り、いわゆる原子力ルネッサンスを喧伝した。これにより、米政府は電力会社や原子炉メーカーに多額の補助金を出したり、税制を優遇するなど、原発新設を後押しするようになったのです。

 これに最も敏感に反応したのが日本の経済産業省、中でも今井尚哉資源エネルギー庁次長(現・首相政策秘書官)と柳瀬唯夫原子力政策課長(現・経済産業政策局長)の二人です。彼らは原子力産業の日米一体化を進め、日米の電力会社や原子力メーカーが協力して原発を建設するような枠組みを作り上げていきました。

 その意味で、東芝のWH買収は、経産省にとっても都合の良いことでした。もっと言えば、経産省が東芝に「買え、買え」と後押しした。というのも、この買収劇は国際的な原子力産業の秩序を大転換するものであり、東芝の一存でどうにかなる問題ではないからです。


sp109-3…直ぐにこういった記事が拾えます。

 要は、旧通産の腐敗官僚どもがアメリカの原子力マフィアの代理人として動き、思いっきり粉飾決算されツケで固められたWH社を高値で東芝に売り込み、恐らくその手数料(キックバック)を懐に入れ、東芝の社員が路頭に迷うはめに陥ったというのが真相の様なのです。

 少し前にこれに似た例があった事を思い出してください。

 始めはマスコミを最大限利用した簡保のつまみ食いキャンペーンが仕組まれ、確かに私物化されていたとは言え郵政族が防衛してきた国富を外資に売り渡したのが小○泉竹○郵政改革だったのです。

 それもこれも「年次改革要望書」なるアメリカから日本への要求を丸呑みし、日本の資産を外資に売り飛ばした事を「改革」などと多くのダメな国民が錯覚させられたのでした。

 このためには、国富の売り飛ばしに反対し正論を主張し続けた植草一秀教授が邪魔になり、捏造された破廉恥事件で貶められ(毎日新聞の西山太吉が嵌められた事と同じ構造=裏権力による常道手段 写真下)、無理やり日本の金融がアメリカ金融フィアこじ開けられたのでした(文部官僚の前川氏にも再び使われましたが…)。

 この小○、竹○一派(アメリカのエージェント)が改革勢力などではなく、国富をアメリカの金融資本に売り渡しただけの存在でしかなかった事がようやくお分かりになったことでしょう。

sp109-4結果、国民の所得が半減し(大手ゼネコンを始めとして中小土建業に勤務する建設労働者の賃金が半減した事は良くご存じだと思います)、竹○だけがパ○ナの代表に納まり法外な報酬を個人的に受ける事ができたのでした。

 もはや、政治家や官僚どもが国家のためにも国民のためにも国土のためにも国民経済のためにも一切働いていないという事が明らかになった瞬間でもあったのです。

 こうして、寺社のお賽銭から書道教室、お茶、お花、ピアノ教室(ピアノが弾けると苛められるので人前ではピアノを弾かないのが処世術になってしまった)、…全てが成立しなくなり、日本文化の基層が全て洗い流される事になったのです。

 このような中、世界的なエア・バック・メーカーのタカタの破綻が起こりました。

勿論、十数年前のエアバックの破裂に伴う事故の対応を巡るものではあったのですが、そもそも急速に拡大したエアバックの装着と日本とは全く風土の異なる非常に激しい気候の全米での急激な展開への対応の問題もあり、その隙を最悪の訴訟国家で狙われ、抵抗力のない従順な羊はとうとう美味しい食い物にされた事になったのです。

sp109-5 東芝とタカタが食われたのですから、順当に考えれば、次に狙われるのは、日立やジェコー…かとなるのですが、恐らくユダヤ金融マフィアは、もっともっと巧妙な手段で思いもしないような企業を食い潰しに来ることでしょう。

 何故なら、もはやアメリカと言う国家は兵器以外、競争力のある商品は何も造れない造らない血に飢えた国家になっているからで、他人の努力を食い潰して生きて行くしかできなくなっているからなのです。

 血の滲むような努力をしてようやく世界企業にまで成長し、これからようやく投資したものを回収しようとする段階になって収穫の全てが巻き上げられるのですから、その無念さと同社の労働者の絶望には想像に絶するものがあります。

アメリカの国家と官僚機構の占領は続いているのです。

 東芝の場合は、マーク1型で有名になった原子炉建設により福島県という列島で三番目に大きな県を焦土にした原発を造り続けた企業なのですから、その犠牲となり人生をめちゃくちゃにされた人々の恨みや悲しみを考えれば、「ざまあみやがれ」とは言わないまでも、ある種因果応報というか腑に落ちる部分もあるのですが、タカタは単に食い物として意図的に狙われた感があり、今後も外国貿易、株式偏重経済、輸出偏重型経済、意図的な円安政策(これもアメリカの金融資本が日本を買い叩く為に持ち込まれたアメリカの指示による政策でしかないのですが…)によりアメリカの経済支配は続く事になるのでしょう。

 本来ならば、一㌦50円でもおかしくない経済力を持っているのですが(アメリカは国債とか証券といったタヌキの葉っぱのようなインチキ貿易商品しか持っていないのですから、いくらアメリカ国債を持っていても日本に必要なものは全く手に入らないのです)、円よりもドルが異常に高く評価されている事によって日本の生命保険(あひるガーガー保険…)、損害保険、株式など企業買収は易々とでき、経営状態の良い企業であっても、札びらで頬っぺたを叩く様に買い叩く事ができるのです。

 それが、円安政策が意図的に続けられている理由なのです。

 要は日銀も経済産業省もアメリカ金融資本のエージェントなのです。

 しかし、「円安政策を続けている事からトヨタは輸出できるし、国民経済は安定して回って行けるんだ…」という方が必ず出てくるのです(これほど優れた高級車を造りながら庶民は中古の軽に乗っている)。

 ところが、そうして節約に節約し溜め込んだ貯えが全て刈り取られているのですから、いくら忍従しても一部の協力者(売国奴)だけが私腹を肥し良い思いをするだけなのです。

百歩譲って輸出で生きていける日本は円安政策しか取れないと言う愚かな国策に対してどうすべきかを考えようではないですかと言うのがこれからお話しする事なのです。


アウタルキー経済への回帰


アウタルキー経済と言っても最近は耳慣れない言葉ですので、一応、再確認しておきますが、想定しているのは自己完結的であった江戸幕藩体制化の経済です。


アウタルキー3] 【ドイツ Autarkie

一国または一経済ブロックが経済的に自給自足できる状態。また,それを目的とする経済政策。帝国主義時代には次第に封鎖経済を意味するようになった。自給自足主義。

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グローバリズムという新型の幽霊によってアメリカどころか全世界の人々が生業と人生を失い、目の前の生活にも苦しんでいる(ウォール・ストリートを占拠せよ!)のですから、突飛な話と切り捨てる事なくある程度本気で考えて頂きたいと思います。

例え外国貿易によって特定の産業が競争力を維持し大きな利益をもたらそうとも、その利益を丸のまま強奪されるのですから、いっそ外国貿易そのものを止め必要なものは国内で必要なだけ生産すべきではないかというのが提案の骨子です。

まず、幕藩体制化の日本というものは飢饉と百姓一揆が頻発し、身分差別の中で多くの食うや食わずの民衆が武士に虐げられていた…といった話が実しやかに語られ続けていますが、それは明治の維新政府がその正当性を宣伝するために流したものであり、戦後もその政権の延長上にあるため今もその誇張された表現の上に思考が膠着しているものと理解されます。

勿論、俗に「鎖国政策」と言う過度に誇張された表現がされたものの、当然の事として、頻繁に外国人が訪れていた訳でもなく(韓国の留学生が買春して学費を稼いだり、中国からの技術研修生が密輸で稼いだり…)、大量の外国の物資が列島の津々浦々まで行き渡っていた訳でもありませんでした。

この「鎖国政策」と呼ばれるものは、事実上、幕府による貿易の独占でしかなく、その貿易による収益の独占だったのです。

本当に必要な(?)胡椒、砂糖、朝鮮人参、ガラス製品、書籍…といったものが持ち込まれ、銀、銅、樟脳、有田焼、などが輸出されていたのですが、ご覧の通り絶対に必要な物資という印象はありません。

当然、琉球を通じた薩摩の密貿易は存在したのですが、鎖国されていたが故に「抜荷」は実に高値で取引でき、実に美味い交易であったはずです。

してみると、幕藩体制化の経済と言うものは、ほぼ、必要なものは全て列島内で充足されていた訳で、他国に迷惑を掛けることもなく、自らの文化と伝統を守り、独立的であり、かつ、対外的には平和な世界を創り上げていたのでした。

確かに西洋列強によって植民地とされない様にするためには停頓を解除し追いつき追い越す必要性はあったのですが、当時の日本人の識字率は世界最高水準であり、瞬く間に西洋の技術を我が物とし、その延長上に現在がある事はご存じの通りです。

さて、ここからが肝心な所です。

日本は資源がない国であり、加工貿易(海外から原材料を輸入しそれを加工して海外に売る事)により生きて行くしかない…といった話が実しやかに言われ続けています(P.ドラッカーへの過大な信奉も)。

問題は、これが本当かどうかなのです。鉄鉱石はともかくとして石油や天然ガスは日本近海に幾らでもある事は青山繁晴氏の話を持ち出すまでもなく良く知られており、同時に知らされていないだけなのです。

それは、アメリカの石油メジャーの利権を犯す事になることから、経済産業省は積極的に開発するはずもなく(そんなことをやれば省内で出世できなくなるため誰もやらない)、古くはエネルギー革命だとか言われながら、日本の石炭産業(炭労)を徹底的に潰しアメリカの石油メジャーの市場に変えたのでした。

ついでに言えば、北方領土返還交渉の中で生じたロシアの液化天然ガスを格安で持ち込めるというオファーも、所謂、「宗男ハウス」問題で潰されたのでした。

日本は世界最高の技術力を持った国家であり、色々な選択枝があるのですが、全てはアメリカの指示で政策が決定されている事から独立国とは名ばかりで、実際には非常に狭い選択しか許されていないのです。

このため、官僚どもは、殊更、日本は資源のない国であり…云々と言うデマを流し続けているのです。

もう少し石油に拘ってみましょう。韓国が占領した竹島です。この近辺にも膨大なメタン・ハイドレートが確認されており、韓国に独島を占領させた背後にはアメリカの石油メジャーが絡んでいる(た)と見たいのですが、無論、確証があっての事ではありません。

少なくともアメリカは、韓国であれ日本であれ、独自にこれらを開発させることは許さないだろう事は明らかなのです。

次は、海底のマンガン団塊に大量に含まれる希少金属です。日本の海洋資源はアメリカ以上と考えられます。それは多くのプレートが鬩ぎあう場所であるからですが、これらを開発できる技術を持つのは世界でも数ケ国しかなく、ロボット、深海作業船の建造を含め日本は間違いなくそのトップを走る国なのです(それは海自の潜水艦。そうりゅう型を筆頭とする潜水艦建造技術だけでも十分に説明が可能でしょう)。

しかし、遅々として進まない背景にはやはりアメリカの影(アメリカによる規制=妨害)を見るのです。

「でも、食料は…」という人がいるでしょう。

既に補助金が貰える減反政策は2018年度で終了します。

しかしこれまでの間に実質的には5割減反に近いところまで近づいた上に、高齢化、過疎化による耕作放棄が進み、簡単に言えば、静岡県以北の作付面積だけで国内の米生産は充足しているのです。

 残りの耕作面積だけで、恐らく国民が必要な食料は十分に確保できるはずであり(最悪、米と本物の塩と魚があれば生きて行けるのです)、それ以上に収量よりも目先を変えた商品作物(伊勢○○、富士○○…うるさい限りです)に狂奔しているのが実情である事は皆さん良くお分かりでしょう。

 既に、ドローン、ロボット(ロボット・トラクター)、ビル内での野菜生産…と劇的な変化が農業分野でも起こりつつあります。

人口減少が止まらない縮小国家の国民が必要とする食糧生産が賄えないはずはないのです。

それよりもアメリカの国内事情の皺寄せにより、自由な発展が制限される事の方が遥かに大きな阻害要因なのです。

本当に必要な物資だけに貿易を限定すること、他国の経済に干渉し自国の経済も干渉される外国貿易を徐々に縮小し最終的には止め、国内で必要とする高品質で高付加価値の生産と消費だけで経済を循環させれば良いだけで、何も韓国や中国で造られた百円ショップ商品で惨めに暮らす必要はないのです。

そんな安物が入って来なければ高付加価値商品のキャッチ・ボールによっても経済を回す事は十分に可能なのです。

簡単に言えば、ユニクロが何故成長したかと言えば、他の企業が従来型の真面目で本物の生産を続けている中で、後に新たなビジネス・モデルなどと称せられることになるのですが、いち早くかつて超低賃金だった低賃金の中国での生産に踏み切り、実際には委託生産による実質的な輸入業者(コロニアル資本家)として、法外な収益を上げただけの事なのです。

結局は、アメリカへの進出企業同様に、共産党による暴力的な支配によって、その後進出した企業がそのあがりさえ国内に持ち帰る事も出来ないようになっているのですが、ユニクロ自体は、2015年の段階で中国での生産は終了しているのです。抜け駆けがなく、抜け駆けさえ認めなければ…きちんとした当たり前の利益と品質を維持し、国内だけで交換すれば良いだけなのです(地産地消の世界版なのです)。


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文部省はこの「鎖国」という正しい政策を表現した言葉さえも教科書から消そうとしているようです


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スポット109(後) 列島(劣等)民族の今後の生き方について“東芝が嵌められタカタも食い物にされ

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スポット109(後) 列島(劣等)民族の今後の生き方について“東芝が嵌められタカタも食い物にされた”①

20170701

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


そもそも、秀吉から家康に引き継がれたこの外交政策は、イエズス会の宣教師(ルイス・アルメイダ…)などが、黒色火薬一樽と婦日本の婦女子50人とを交換し、実質的にはアフリカの黒人奴隷の三角貿易と同様の構造でバダヴィアなどに娼婦として送り込んでいた(一説には35万人とも)事を知ったからだったのです(これについてはネット検索をされればミッション系ではなくプロテスタント系の牧師さんなどが色々な事を書いています)。

明治維新政府とは、そもそも背後にいたユダヤ金融マフィアの資金と武器と力を借りて実行した事から(中東のバラ革命などと同様)彼らを悪く言えず、大東亜以降の永久占領下においてもアメリカやバチカンを批判する事はしないのです。

不審に思われる方はご自分でお調べ下さい。一応、一例ですがご紹介しておきます。


ポルトガル人による日本人などのアジア人の奴隷貿易 アジア人の奴隷[編集]

ポルトガル人が日本人に1543年に初めて接触したのち、1617世紀を通じ、ポルトガル人が日本で日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけるという大規模な奴隷交易が発展した[1][2]。多くの文献において、日本人を奴隷にすることへの抗議とともに、大規模な奴隷交易の存在が述べられている[3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。国王セバスティアン1世は日本人の奴隷交易が大規模なものへと成長してきたため、カトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した[13][14]

日本人の女性奴隷は、日本で交易を行うポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、黒人水夫に対しても、妾として売られていた、とポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラ(Luís Cerqueira)が1598年に書かれた文書で述べている[15]。日本人の奴隷はポルトガル人によってマカオに連れて行かれ、そこでポルトガル人の奴隷となるだけでなく、一部の者はポルトガル人が所有していたマレー人やアフリカ人の奴隷とさせられた[16][17]

豊臣秀吉は自国の民が九州において大規模に奴隷として売買されていることを大変不快に感じ、1587724日にイエズス会の副管区長のガスパール・コエリョに手紙を書き、ポルトガル人、タイ人、カンボジア人に日本人を買い付けて奴隷にすることを中止するよう命じた。また、インドにまで流れ着いた日本人を連れ戻すよう言い渡した[18][19][20]。秀吉はポルトガル人とイエズス会をこの奴隷交易について非難し、結果としてキリスト教への強制改宗が禁止された[21][22]。 ウィキペディア(20170705 1954


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「日葡辞書」やルイス・フロイスの「日本史」(部分的にしか読んでいませんが…)は素晴らしいのですが、カトリコの宣教師などただの人でなしの人買いの武器商人でしかなかった事が分かるのです。

現在でも文部省はこの事実を教えようとすらしていないのです。それは日本の支配者がアメリカだからでしょう。

さて、ここで、江戸時代の貿易品であった有田焼、伊万里焼の事を考えて見ましょう。

これは、有田焼の業者から直接聞いた話ですが、“もう20年以上前から、有田焼は一部の高級品は別として経費の掛かる現地生産を縮小から終了させ、デザインだけを指定し中国での半製品から実質完成品を持ち込み有田焼のブランドで売っている”との事でした。


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つまり、実質的に安物しか買わない買えない庶民にとっての有田焼は存在していなかったのです。

結局、陶器市なるもので客寄せイベントだけを行い、中国生産の「有田焼」を通常の値段で販売しているからこそ売上高は減ったとしても販売元だけは何とか食えている(た)だけで、デザイン、絵付師、実際に焼き上げる職人、さらには中級品以下の転写屋から果ては縄で包装する業者に至るまで、とっくの昔に消え失せてしまっていたのです。

半耐久消費財である焼き物が過剰生産の中で将来とも生き残れるかは別にしても、最低でもこれまで消えて行った職人達にも、それなりの給料を貰い、誇りを持って生きて行け国民経済に貢献できていたはずだったのです。

勿論、技術革新は江戸時代にもあった訳で、後家さんの唯一の収入源であった脱穀作業が、センバコキの登場によって消失してしまったり、どぶろく生産が清酒にとって代わられた様に、封建体制化の江戸時代においても資本主義的な商品生産、商品経済は勃興期を迎えており、国内で必要な物の大半は外国に依存する事無く国内で全て賄え、平和で安定した経済体制が維持できていたのでした。

日本の対外政策を見ると、遣唐使を派遣していた時代から、それを廃止して閉鎖型の社会に変えた時代、ご存じの通りの鎌倉期の閉鎖型農業国家、平家の対宋貿易の時代、源氏~北条氏による鎌倉政権の閉鎖政策、足利将軍家による室町期の倭寇を排除した対明勘合貿易の時代、ご存じの宣教師が乗り込んでくる戦国期の外交喪失開放時代、その反動としての鎖国時代、そして文明開化の明治時代…と開放型、閉鎖型が交互に入れ替わる社会だったのです。

これは、良い悪いの問題ではなく、列島を取り巻く情勢の変化によって、大陸に強国が登場し、国益を損なう恐れがある場合には貝が蓋を閉じるが如く閉鎖し、大陸が混乱し分裂国家の時代になれば、新しい技術、文化、思想を受け入れても安全であり、単に扉を開け開放政策を採れば良いだけであって、常時開けっ放しで自由貿易をやる必要など全くないのです。勿論、シー・レーン防衛も低減できるのです。

別に永世閉鎖国家にするべきだなどと言っているのではなく、日本の独自の文化と独自の経済政策=経済利益を守るには、自由貿易よりも厳格な管理貿易から貿易の廃止へと向かった方が望ましいと考えているのです。

そうすれば、海洋資源開発、海底の石油、メタン・ハイドレート、液化天然ガスの開発、航空宇宙技術など自由に行え、高高度技術の多品種少量生産によって内国経済は十分に賄え潤せ、全ての日本国家の成員が誇りを持って生きて行けるでしょう…。という提案なのです。

そうでなくても、既に日本の貧困はアメリカ以上に急激に進みつつあります。

かつての日本には国立大学の授業料が年間12,000円という時代がありました(私の入学年度から36,000円=36万円ではないのです になったので個人的にはその恩恵に与っていませんでしたが)。

このことは、全ての国民に高等教育の機会を均等に与え、全国津々浦々まで張り巡らされた国鉄によってほぼ全ての地域からの就学が可能な国家が成立していたのでした。

それを徹底的に潰したのが売国奴中曽根による国鉄改革(国労潰し)だったのであり、それ以降の日本は決定的な格差社会へと変貌していったのでした。

今や、三度の食事にありつけない児童(終戦直後は欠食児童と呼ばれていましたが)が巷に目立つようになり、バブル崩壊以降の二十年の停滞期に明るい未来どころか人生を失った若者たちが社会の半数を占める様な時代になっているのです。

特に悲惨なのは、就労の機会を奪われるどころか始めから与えられなかった女性であり、この一群から少子化、少産化、無婚化が始まり、とうとう大規模な国家の縮小が始まったのでした。

悪者が誰だったかは明らかでしょう。 

結局、猛獣や化け物が棲む大陸国家の人でなしどもを相手にする外国貿易そのものは、平和な島の羊にとっては悪なのであり、現代版鎖国政策へと舵を切る時期が近付いているように思うのですが、それを見る事無く終焉を迎える事になりそうです。

熱い中たくさんの資料をお送りしてご迷惑とは思いますが、あまりにもひどい事が列島で引き起こされており書かずにはいられないのです。

故意かどうかは置くとしても、熊本地震に引き続き、こんどは朝倉、日田が酷い目に逢っています。

それに、48時間降水量(二日で550㎜など普通の大雨でしかない)などと言った水増し印象操作により、普通の大雨をあたかもとんでもない大雨のような表現で責任逃れをし、40年ほどで切らなければならない杉を売れない事から放置し総崩れが始まったようなのです。

私が産れた昭和28年の諫早大水害は24時間で1109㎜、35年前の長崎大水害は24時間で600㎜なのです。

朝倉、日田程度の雨は毎年でも降るのです。ということは災害復旧工事が無意味なのです。

なぜなら、復旧できたとしてまた災害が起きるのです。それは、日田が5年前の復旧が終わる前に再び洪水に見舞われたのです。

436 冬至の日の小規模トレッキング “熊本県御船町の玉来神社、駄野神社”

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436 冬至の日の小規模トレッキング “熊本県御船町の玉来神社、駄野神社”

 20161222

太宰府地名研究会 古川 清久


 熊本の神社トレッキング・メンバーから、“今回は3040名単位の大規模な神社詣りをやめて、熊本市の被災地の鎮魂のために身近な神社に参る事にします。”と連絡が入りました。

 声を掛ければ十分なメンバーが集める事は可能なのですが、今回、そのような半ば浮かれた気分になれなかったのには、やはり、熊本地震の事があったのだと思います。

 そこで、56人の小グループで震源地に近い益城町の津森神社に集合しました。

 当方もブログを書いているばかりだと、頸肩腕症候群になりますので、気分転換とばかりにのこのこ出てきた訳です。

 天気予報では雨だったのですが、完全に外れで、朝から上天気でした。

 津森神社は神武から何故か綏靖をはずし(神社縁起はそう書いてないのですが、「熊本県神社誌」ではそう書いている)第29代欽明天皇までを祀る珍しい神社なのです。


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 印象としては、肥後の古社ながら神殿摂社に阿蘇系が祀られていない神社という特徴を持っています。

 しかし、宮司は甲斐であり、一目阿蘇系の名であり不思議なのです。

 今回、震源地そのもののような場所にも関わらず、何故かほとんど被害を受けなかったのです。

 この神社は非常に重要ですので、いずれ別稿として書くつもりですが、ここでは五七桐紋を頂く重要な古社とまでしておき、普段訪れないような忘れられた二社をご紹介したいと思います。

 既に、限界集落を先頭に、多くの小さな神社が祀る人々そのものを失い、潰え去って行きつつあります。

 津森神社を出て最初に訪れたのは御船町の玉来(タマライ)神社でした。

 訪ねる人はいないと思いますが、現地は非常に分かり難い事から、熊本県上益城郡御船町田代950 ℡ 096-281-9177 の玉来郵便局でお尋ねになる事をお勧めします。

そこからは、十分、歩いても行ける場所なのです。


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玉来神社 カーナビ検索 御船町田代1248 祭神 菅公



見ての通りの小集落の神社ですが、反ってそれなりの信仰心を感じてしまいます。

 

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このバス停の直ぐ上に祠がある事から玉来地区の鎮守様であることが分かります


 まず、玉来(タマライ)という地名が珍しいと思われる方は多いと思います。

 この地名については、民俗学者の故)谷川健一が、狩り集らい(狩りをする前に神前で山の神の狩の許しを請い、段取り分担を付けるために集まった場所)=玉来として書いていますが、彼の念頭にあったのは、大分県の玉来地名だったようです。

荒城の月で知られる豊後竹田の一つ西側にJR玉来駅があり、玉来川が注いでいますし、鹿児島県南さつま市の金峰町周辺のでも認められますが、谷川は気づいていなかったようですが、阿蘇の波野村、この御船町の玉来…など九州では56ケ所はあるのです。

この「玉来」地名については、奈良県の玉置神社と関係があるのではないかと考えています。

ただ、今のところ玉置→玉来、玉来→玉置のベクトルは分かりません。

南北朝争乱期に、宮方のネット・ワークで山岳修験が関わっていたのではないかと考えていますが、今のところそこまでです。


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菅公とお妃なのでしょうか?


 さて、「熊本県神社誌」を見るとこの神社は付近にある旧村社駄野神社の摂社とされています。

 この駄野神社も見て頂きますが、建物の損傷はそれほどないようですが、熊本地震によって鳥居、参拝殿、手摺、参道には大きな被害が出ています。

 ただでさえ神社の存亡が囁かれているのですから、小集落だけに再建は容易に進まないでしょう。


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玉来神社が85戸の氏子に対して、駄野神社は1029戸の氏子を持つ大神社(旧村社)です。

 「熊本県神社誌」によれば、現在は、阿蘇の三、四、五、六宮(阿蘇神社の三~六宮となると草部吉見系)を祀る阿蘇系神社とされています。

 ただ、多分それは違うであろうとの思いがありました。

概して阿蘇系の神々が肥後の多くの神社に覆いかぶさっているのは南北朝争乱期以降の事であり、それ以前は、菅原系、大山祗系(トルコ系匈奴)の神社が多かったはずなのです。

そう思って境内を見回すと、直ぐに大山祗神社があったのです。

この点、朝来山(アサクナヤマ、チョウライサン)の南をアサクナから連想し邪馬台国に敵対した狗奴国(クナコク)ではないかとの仮説が出されているのです(邪馬台国と狗奴国と鉄)。


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数年前に菊池秀夫氏を現地に案内しましたが、その後、朝倉地名の移動、全国展開と併せ考えると、この狗奴国の勢力の北上、全国展開こそが物部氏の跳梁跋扈と連動しており、この勢力こそが大山祗を奉祭する人々であることが見えてくるのです。

 まさに、この玉来地区に鎮座する駄野神社に大山祗が祀っているとすると、それはまさにこの朝来山の南であり、狗奴国の領域にもなるのです。

 そして、駄野神社の駄野とは製鉄を行う時に必要となる大量の燃料の木炭、柴、薪の集積地であり、製鉄地帯には、駄野、駄ノ原、…といった地名が付き纏うのです。

 西原村、益城町、御船町一帯も古代製鉄が確認できる場所でありうなずけるのです。


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この写真は冒頭に書いた玉来郵便局です。

 麻生交通のバス停がありますが、「牧の原」となっていることがお分かり頂けると思います。

 かつて、この地には阿蘇氏の「牧」が置かれていたことが、この「牧の原」と言う地名からも想像できそうです。

スポット110 三峯神社の殷の鳥居 ”金山彦系神社(埼玉県秩父市)”

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スポット110 三峯神社の殷の鳥居 ”金山彦系神社(埼玉県秩父市)”

20170704

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 秩父の山奥、標高千メータに鎮座する古社 三峯神社 をご存じでしょうか?

 テレビのワイド・ショーでも取り上げられる、関東ではかなり有名なパワー・スポットとして知られる神社です。

この神社が有名になったのは、この神社から月に一度出される「白い氣守り」(2000円)を浅田真央が持っていたということから人気が沸騰したようですが、毎月一日にはそれを求める車が大渋滞を引き起こしているという話です。


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20キロを超える渋滞とは驚きますね


さて、「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」がそのようなパワー・スポット騒ぎ如きを取り上げるつもりはありません。

 一連のテレビ報道で、この神社も殷の鳥居を持つ神社であった事に気付いたからです。


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 ちなみに、この殷の鳥居(三つ鳥居)を持つ神社のリストがネット上にありましたので参考のために出しておきます。

三峯神社(埼玉県秩父市)美和神社(長野県長野市)三輪神社(愛知県名古屋市)

大神神社(奈良県桜井市)檜原神社(奈良県桜井市)坐摩神社(大阪府大阪市)白峰宮(香川県坂出市)

古代の秘境!?日本に7つしかない「三ツ鳥居」由来が謎すぎる。より引用したもの。


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日本に七つしかないとされていますが、勿論、早とちりです。

それは大した話ではないので措くとして(言った以上は、一応後段に西日本の実例を並べておきます)、注目するのはこの神社の祭神です。

 百嶋神社考古学の立場からは、この鳥居を使用する氏族(民族)は金山彦系と考えています。

金山彦と言えば「古事記」で金山毘古神、「日本書紀」で金山彦神とする製鉄神ですが、関東ではイワサク、ネサクの神と言う方が分かり易いかも知れません。

 勿論、同社縁起にはそんなことは書いてありません。


当社の由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。

尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が我が国をお生みになられたことをおしのびになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。これが当社の創まりであります。 

その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。

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 この祭神に関しては、いずれsp110-7のK氏が書かれると思いますので、二階どころか二十階から目薬のような話をするのはやめておきましょう。

 いずれにせよ、金山彦やその後裔のナガスネヒコ、オキツヨソタラシヒメの、つまり、カガセオの系統の神が祀られているのではないかと考えています。


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最後に西日本の殷の鳥居をお見せしましょう

岐神(クナトノカミ)=出雲井神社の祭神=長脛彦(ナガスネヒコ)の祭祀をご覧頂きましょう。


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劇的なまでの強烈な印象を受けますが、殷の鳥居が置かれています。

 今まで、長浜神社以外ではこの鳥居に遭遇した事は3社、4回しかありません。

 佐賀県嬉野市塩田町の八天神社、福岡県吉富町の八幡古表神社(二基)、国東市国東町来浦の八坂神社


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勝手ながら、この岐神についても解説を省略します。関心をお持ちの方は、先行して以下をお読みください。

 このタイプの鳥居は三つ鳥居とも呼ばれますが、殷の鳥居とも呼ばれます。まだまだ遭遇していないものがあるとは思いますが、数は多くはありません。ヤマトタケル伝承が伝えられる三峯神社にしても、金山彦の後裔たるナガスネヒコ、オキツヨソタラシヒメの後裔にヤマトタケル、仲哀があるのですから当然と言えるでしょう。つまりカガセオの系統の神社なのであり、だからこそ殷の鳥居を持っているのです。


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437(前) 勝沼ワインの里の大善寺 

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437(前) 勝沼ワインの里の大善寺 

20161204

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

 

“ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(上)


以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)において、甲州ワインで有名な ぶどう寺 が、まぼろしの九州王朝宮廷舞とも言われる筑紫舞で知られる福岡県福津市の宮地嶽神社と同様の三階松の神紋であることなどをお伝えしました。


213 勝沼ワインの里の大善寺 ② “大善寺の全国的傾向”

212 勝沼ワインの里の大善寺 ①“山梨県甲州市勝沼町勝沼の五所神社の神宮寺”


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そもそも、「ぶどう」と言う言葉自体に心が揺り動かされます。

 まず、「ぶどう」が本来の和語(実はそんなものは架空のもので実際には存在しないのですが…)、大和言葉(天照=卑弥呼の時代畿内大和はただの辺境の地であり方言地帯)と置き換えてもよいのですが、そういった響きを持ちません。

 「スイカ」でさえも「西瓜」と同様にシルク・ロードから伝わった西方の果物(瓜)であることは受け入れられているにも関わらず、「葡萄」が外来語であることはあまり触れられてはいません。


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この「葡萄」という外来語、それもかなり古い時代に持ち込まれた言葉であることは容易に想像が付きますが、ギリシャ語説、ペルシャ語説があり未だはっきりと確立した定説を見ません。

一応、ネット上でほとんどの説を読ませて頂きましたが、神社研究の面から言えば、どうせトルコ語かペルシャ語辺りだろうと思っていましたが、ペルシャ系言語budauが持ち込まれているとすると符合する面が多々ある事から、とりあえずはペルシャ語起源という線で考えて見たいと思っています。

 そもそも葡萄の種や稲の粒や小麦の粒などといった小さなものは、戦略物資として禁輸し取り締まる事などできません。

 戦略物資とされた絹織物の原料を造る蚕でさえ冠だか髪の中に隠され何時かは持ち出されてしまったのですから(ホータン王に嫁ぐ中国の王女が、冠の中に蚕と桑の種を隠して持ち込んだという逸話)、どんな荒れ地でも乾燥地帯でも、否、乾燥地帯ほど僅かな水さえあれば甘く実を付ける葡萄はステップロードといった乾燥地帯に生きるの民にとってはこの上もなく有難い果物だったに違いなく、シルク・ロードから列島に進入してきた人が生きるために携えなかったとは到底思えないものの一つだったはずなのです。


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イランの有名な果物と言えばザクロ。初秋のこの季節、市場のみならず道路脇には、ザクロを荷台に山積みにした小型トラックが多く見られるようになる。ザクロはペルシャ語で「アーナール」。

そして、アーナールと共に、秋になると「ペルシャの市場」に登場するのがアングール(ブドウ)である。

イランは知る人ぞ知るブドウの名産地。イランでは約30種類のブドウが市場に出回っている。生のブドウの実も勿論だが、ミックス・ナッツに含まれるレーズンもなかなか美味である。

イランへブドウが伝わったのは古代ペルシャ時代、エジプトから。

そして、シルクロード、中国を通って葡萄は我が国へともたらされた。

実は日本語の「ブドウ」という名前、ペルシャ語が語源だということをご存知の方は少ないのではないだろうか。ただ、ペルシャ語とは言っても、古代ペルシャ語、である。

アケメネス朝時代、ペルシャ帝国のフェルガーナ(現在のウズベキスタン)地方で、「ブータウ」と呼ばれていた品種が中国へともたらされ、中国で音写された「葡萄」という名前が、日本語にも採用されたのである。

シルクロードを通って古代のペルシャから日本へもたらされたものは、伝統・文化を見ても数多くあるが、広義の意味でのペルシャからもたらされた食材も、古代の文化交流の跡のひとつであろう。

またブドウと言えば、ワイン。有名なシラーズ・ワインは、イラン南西部の都市シーラーズにちなんで付けられた。シーラーズはもともとブドウの産地として有名で、イスラーム革命(1979年)前にはワインの名産地としても知られていた。

アルコール類が完全にご法度である現在のイランでは、シーラーズ産のブドウは、ワインの原料として海外へ輸出されているそうだ。


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良いものだと分かれば、良い品種ならばなおさら「種」は一世代でたちまち拡散します。

所詮、四六時中見回り個人で独占する事などできないからです。

 特に、干しブドウは有難いもので、黄檗宗僧侶の僧侶河口慧海の「チベット旅行記」を持ち出すまでもなく、旅行に最適な携行食でもあったのです。

 では、勝沼にブドウを持ち込んだのはいかなる人々だったのでしょう。

 その前に、勝沼に於けるぶどう栽培はいつまで遡れるのでしょうか?


甲州(ぶどう)

甲州種の原産地はヨーロッパであるとされ、日本での甲州種の発見時期には甲州市勝沼地域の上岩崎・下岩崎を発祥とする2つの伝承がある。

一方の説は、文治2年(1186年)上岩崎の雨宮勘解由(あめみやかげゆ)という人物が、毎年327日に行われる石尊祭りに参加するために村内の山道を歩いていたところ、珍しい蔓草を発見したとする説である。雨宮勘解由はこの蔓草を家へ持ち帰って植えたところ、5年後に甘い果実がなったという。もう片方の説は雨宮勘解由に遡ること500年あまり、奈良時代の大僧行基がこの地に大善寺を建立した際に、ぶどうの木を発見したとする説である。これらの種が現在の甲州種であるとされている。ヨーロッパ原産の甲州種がこれほど古くからこの地区にあるのかなど、謎の部分が多い。江戸時代初期の甲斐の医師である永田徳本が、現在行われているぶどう棚による栽培法を考案したと言われている。

戦国期には日本におけるぶどう栽培を記した宣教師日記があるものの、考古学的には盆地西部の大師東丹保遺跡から中世の野生種ぶどうが出土した事例があるのみである。甲府城下町からは栽培種ぶどうが出土しているが、考古学的な栽培種葡萄の移入経緯は解明されていない。文献史料においては江戸期には葡萄をはじめ桃、梨、柿、林檎、栗、石榴、銀杏(または胡桃)の甲州八珍果と呼ばれる内陸性気候に適応した果樹栽培が行われ地域産物として定着しており、荻生徂徠『甲州紀行』などの紀行文や『甲斐国志』などの地誌類には勝沼がぶどうの産地であることが記されており、食の図鑑である『本朝食鑑』や農学者としても知られる佐藤信淵らの紀行文中でも甲州物産の第一に挙げられている。

江戸時代の長者ランキング「日本長者分限帳」天保7年(1836年)には西の前頭に甲州の大金持ち、大金屋善四郎がぶどうで財を成したとあるが、日本テレビ「木曜スペシャル」による調査では郷土史などで名前を発見することはできなかった。

また、俳人松尾芭蕉は「勝沼や 馬子も葡萄を食ひながら」の句を詠んでいる。正徳年間の検地帳によれば栽培地は八代郡上岩崎、下岩崎、山梨郡勝沼村、菱山村のごく限られた地域であったが、江戸など都市部を市場としてぶどうや加工品が生産され、甲州街道を通じて荷駄で江戸へ搬送された。江戸後期には栽培地が甲府近郊に拡大し、明治には殖産興業により産業化する。

ウィキペディア(2016 1306による


ぶどう寺のご住職のお話によると、この記事も部分的に混乱しているところがあるとのお話であり、雨宮勘解由の話にしてもぶどう寺の境内地との事であり、もう少し詳しく調べる価値(必要ではなく)があるだろうと思います。

 一般的には、米こそが主要作物であり、その増産にやっきになっていた藩政時代にぶどうの生産が推奨されるなどあり得ない話であり、ましてや山国の甲斐の事、その事情はさらに大きいはずで、とてもぶどうの生産などと考えてはいたのですが、ぶどう寺を行基が造ったという話、その時代まで栽培種のぶどうが勝沼の地に息づいていた事、水捌けのよい傾斜地(通常の作物の適地ではない事)を合わせ考えると、最低でも八世紀前後まで十分に辿れるのではないかと思うものです。

 そう考えるのは、大善寺が行基の時代に建立されたという話が本当であれば、その時に御本尊のぶどう薬師=薬師如来像がなかったなどとは考えにくいのであって、寺があるから御本尊が造られるのではなく、御本尊があるからこそ雨風を遮る覆いを掛けようとするのが道理であるからです。

 少なくとも、ぶどう寺=大善寺が建立された時点では特にぶどうを意識し民衆に豊かさと惠とを伝えようとする思想と、それを体現した甘いそれこそぶどう糖を与えてくれる薬師如来像が造られたと考える事は理に叶う事のように思えるのです。

437(中) 勝沼ワインの里の大善寺 

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437(中) 勝沼ワインの里の大善寺 

20161204

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


“ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(中)


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さて、「葡萄」という言葉をペルシャ語のbudauと仮定すれば、多少面白い事が見えて来ます。


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百嶋神社考古学ではスサノウはイザナギとイザナミ(瀛氏の金山彦の妹でイザナギと別れた後、熊野フスミと名を変え櫛田神社の大幡主のお妃になっている)の間に産れた新羅の王子様であり、スサノウはペルシャの第二の都であるスーサにちなんでいるとします。


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スーサは、現在のイランの西南部に位置し、エラム王国時代、アケメネス朝ペルシャ時代には、王都として栄えた都市。現フーゼスターン州シューシュ。

ウィキペディア(20161204 14:26による



ここで武田信玄を考えて見ましょう。武田信玄が自らのルーツを新羅三郎としているのは有名です。諸説ある事は重々承知していますが、少し長いのですが、以下が興味深いのでお読み頂いたいと思います。


今日は『武田信玄と朝鮮半島』の最終回です。四の五の言わず、本題を短めに書きます。信玄のルーツをたどると、先祖は『源義光:みなもと の よしみつ』と言います。彼の本名は『新羅三郎義光:しんらさぶろうよしみつ』といいます。日本での出身は近江、現在の滋賀県となっています。歴とした朝鮮半島渡来人であり、『新羅国:しらぎこく:신라국』の人です。

Wikipediaや、インターネットでは「滋賀県の新羅善神堂(三井寺の近く)で元服をしてこの名前を授かった、新羅人ではない」と書かれていますが、これは間違いです。私も最初の頃は、そう信じましたが、渡来人文化の書籍などで有名な、金達寿氏の『日本の中の朝鮮文化 7』にも武田信玄の先祖は渡来人と書かれています。その他、新羅善神堂や、静岡県浜松市史書などを調べると、分かってきます。これは明治以降に歴史を湾曲し、今に至るのだと私は思っています。詳しい内容は文章の後半に、私が簡単に書きましたので、お時間のある方はご参考にしてみてください。

つまり、前回書いたように『信玄の母の系統も朝鮮半島渡来人』『武田信玄直系も朝鮮半島渡来人の血筋』つまり武田信玄は朝鮮半島渡来人の血を、色濃く引き継ぐ人物ということになります。余談ですが信玄の旗『風林火山』の孫子の兵法も、中国から朝鮮半島渡来人が日本に持ち込んだものとされています。

そして、2013.5/13は、今からちょうど、440年前の1573.5/13に武田信玄が亡くなった日でもあるのです。さあ皆さんここまで知ったのですから、今日から武田信玄について、もっともっと知りましょう。

※源義光についての参考(お時間のある方はお読みください)

今回この結論に至るまで長い時間を費やしましたが、以下の内容でつながると思います。

浜松市に中田島砂丘という日本三大砂丘があります。この近くに新羅大明神という神社があります。だいぶ規模は小さくなり、中々見つけにくいのですが、これについて『浜松市史』の編集にたずさわった渥美清一氏が『浜松の新羅大明神と小笠原基長』という本にかなり詳しく書いています。

この本によると、浜松の新羅大明神は1723年の江戸時代に創建されたようです。そして小笠原基長が自分の祖神である滋賀県の新羅善神堂から勧請し、建てたそうです。さてこの小笠原基長という人物の先祖は、源義光で別名:新羅三郎義光であることから、新羅大明神を立てることは当たり前のことであったようです。

ここで次の本になるのですが、小笠原基長は生前に『新羅大明神祀記』を書き残し、次の文章を残しています。

「新羅善神堂は元々朝鮮半島渡来人の大友氏の神社であり、創建を新羅三郎義光がたずさわり、その上、新羅大明神の氏人(同族の意味)である。」と書かれています。滋賀県の新羅善神堂は新羅系渡来人が建てただけでなく、義光自身が氏神を敬ったということなのです。また氏人とあることから新羅人ということも分かります。

つまりWikipediaや、インターネットなどで書かれている『源義光が新羅善神堂で元服して名前を新羅三郎義光にした』というのは間違いであり、源義光は歴とした渡来人だったのです。新羅三郎義光と名を改めたのは、先祖の名に戻りし行為だけでなく、自ら新羅一族の後裔(子孫)であることを名乗った行為だったのです。

そしてその直径の子孫、武田信玄は母も父も渡来人の血を引く子孫なのです。


「『蒼天求白雲』~結構知られていない日本史と朝鮮史の接点~」による

 


学会通説の学者や教育委員会の学芸員などと称する方々は利権まみれの上に自己保身だけですので在野の研究者の説にしか真実は拾えないと確信しています。こんなことは原子力災害、地震予知、火山予知などの無様な実例で皆さん十分にお分かり頂いているものと思います。

 ここで、ようやくペルシャ語のbudauと中国語の「葡萄」日本語の「ぶどう」の接点が見えて来ました。

 しかも、武田信玄の幼名が勝千代で、その子武田勝頼は、ワインの産地勝沼の奥に逃げ込み武田家は滅びるのです。


もはや、葡萄がペルシャ語であるかギリシャ語であるかアラビア語であるかはあまり気にする必要はないと思います。中近東に広く栽培された葡萄はシルク・ロードを通り、種のたった一粒でも持ち込まれさえすれば列島にも根付いたのですから。

 その種を運んだ人がスサノウ系、新羅系の人々だったとして、甲州にはそういった人々を受入れる場所であった事が解ればそれで十分なのです。


黄泉平坂の葡萄


サノウ、イザナギ、イザナミを考えていると、思いついたことがありました。

 イザナミが死んだのを悲しみイザナギが黄泉の国に行った時の話にブドウが出てくるのです。

 

男神・イザナギと一緒に国造りをしていた女神・イザナミが亡くなり、悲しんだイザナギはイザナミに会いに黄泉の国に向かう。イザナミに再会したイザナギが一緒に帰ってほしいと願うと、イザナミは黄泉の国の神々に相談してみるが、けして自分の姿を見ないでほしいと言って去る。なかなか戻ってこないイザナミに痺れを切らしたイザナギは、櫛の歯に火をつけて暗闇を照らし、イザナミの醜く腐った姿を見てしまう。怒ったイザナミは鬼女の黄泉醜女(よもつしこめ。醜女は怪力のある女の意)を使って、逃げるイザナギを追いかけるが、鬼女たちはイザナギが投げる葡萄や筍を食べるのに忙しく役に立たない。イザナミは代わりに雷神と鬼の軍団・黄泉軍を送りこむが、イザナギは黄泉比良坂まで逃げのび、そこにあった桃の木の実を投げて追手を退ける。最後にイザナミ自身が追いかけてきたが、イザナギは千引(ちびき)の岩(動かすのに千人力を必要とするような巨石)を黄泉比良坂に置いて道を塞ぐ。閉ざされたイザナミは怒って、毎日人を1000人殺してやると言い、イザナギは、それなら毎日1500人の子供が生まれるようにしようと返して、黄泉比良坂を後にする。

ウィキペディア(20161204 14:36による

 


してみるとイザナギは予め「葡萄」「筍」を用意していたのでしょうか?おかしな話ではありますが、所詮、「古事記」の95%は嘘というのは百嶋由一郎先生の常套句でした。

 しかし、スサノウの親父であるイザナギは葡萄を知っていたと考えられていたからこそ葡萄を投げて脱出したとされたのです。前ブログ

 その子であるスサノウ、そしてそのスサノウ系の人々が大挙甲斐に侵入したとすれば、葡萄の種の一粒でも持った人が随行していたと考える方がむしろ自然なのではないでしょうか?

 

“ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(下)

 

雨宮姫の論証

 

前ブログ 341 勝沼ワインの里の大善寺 ③“ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(上)において、以下のウィキペディア(2016 1306による記事をご紹介しました。

 

甲州(ぶどう)

甲州種の原産地はヨーロッパであるとされ、日本での甲州種の発見時期には甲州市勝沼地域の上岩崎・下岩崎を発祥とする2つの伝承がある。

一方の説は、文治2年(1186年)上岩崎の雨宮勘解由(あめみやかげゆ)という人物が、毎年327日に行われる石尊祭りに参加するために村内の山道を歩いていたところ、珍しい蔓草を発見したとする説である。雨宮勘解由はこの蔓草を家へ持ち帰って植えたところ、5年後に甘い果実がなったという。

 


この記事に登場する「雨宮」というかなり珍しい姓の方に対して思い当たるところがあるのです。

 まず、雨宮姓の全国分布をご覧ください。

 ぶどう寺のご住職お尋ねしたところ、甲州盆地には非常に多い姓との事でした。

 

まず、山梨県が発信源であることは一目瞭然ですね。

ところが、以下の一覧表を見ると熊本県に1件だけ雨宮姓が確認できるのです。

この意味がお分かりの方はそれほど多くはないと思います。

 それは、この姓が悲劇の雨宮姫に所縁のある方での可能性が非常に高いのです。

 まず、熊本県内には確認しただけで4社の雨宮姫を祀る神社があります。

 それについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)233 人吉盆地の雨宮神社(熊本県相良村)再訪 “悲劇の雨宮姫”などをお読み頂きたいのですが、この雨宮姓の方を発見し、甲州盆地に阿蘇氏が進出している事を神社の面からも実感したところです。

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ご覧の通りですが、熊本県宇城市に1件だけ雨宮姓の方が確認できるのです。

この宇城市(旧不知火町)でもどこに所以の有る方であるかも多少の見当が付くのですが、それについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)082 神武天皇の正妃アイラツヒメ(蒲池姫)を祀る神社 “郡浦神社(熊本県宇城市三角町)”などについても関連してお読み頂かなければ理解できないかも知れません。

437(後) 勝沼ワインの里の大善寺 

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437(後) 勝沼ワインの里の大善寺 

20161204

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

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まず、非常に分かり難いのですが、雨宮姫のお母さんである天豊ツ姫は、高木大神=高御霊神の次女である栲幡千千姫命を母として阿蘇高森の草部吉見=所謂春日大神=武甕槌=鹿島大神を父として生まれたお姫様でした。

 ところが、列島大率呉の太伯の流れを汲む本物の神武天皇の子である懿徳天皇(藤原により第4代とされた)の皇后になっておられたのですが、皇后陛下かっぱらいか、駆け落ちか、浮気かは不明ですが、現在阿蘇の主祭神とされている健磐龍のお妃になられて雨宮姫を産んでおられるのです。

 ところがそれでも納まらず、最期は豊玉彦(ヤタガラス)のお妃として天日鷲をお産みになり、その御子が天富命の一族になっているようなのです(恐らくこれが栃木、茨城県境の鷲子山神社の一族につながるのではないかと考えています)。

 このように複雑というより怪奇ですらありますが、一面、古代とは大らかだったとも言えるようで、結果、阿蘇氏はこの事を隠していますし、この事実を気にしてか天豊ツ姫は、阿蘇ツ姫(健磐龍妃時点)→天比理刀咩(ヒリトメ)→寒川姫(寒川神社も散見されます)→杉山姫(神奈川県一帯に多くの杉山神社が在りますね)と名を変えておられます。

そして、この栄えある皇后陛下の娘である雨宮姫は、後に、阿蘇の新(ニュウ)彦と一緒になられ、現在の阿蘇家を継ぐことになる阿蘇惟人の母となられ、神武僭称贈)第10代崇神天皇の父となる大山咋(阿蘇では速甕玉命と呼ばれる)、松尾大神、佐田大神…のお妃にもなられているのです。

この辺りは前後関係が不鮮明で解読作業中です。

この問題が非常に難しく、百嶋神社考古学の関係者の内部でも意見が分かれていますが、阿蘇家も神社庁も恐らく本当の事実は知っているはずで、是非公開し本当の歴史を明らかにして欲しいと思っているところです。

というのは、表向きの話であり、どうせそんなことは出来やしないし、最期まで隠そうとするであろうと言うのが偽らざる気持ちであり、むしろ罵倒する材料を残し続けておいて欲しいものです。

いずれ、ウイキリークスのような状況になる事でしょう。


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研究目的で百嶋神代系譜、同講演音声CD、同手書きデータ等を必要とされる方は、何時でも09062983254までご連絡ください。

 現在、多くの神社研究者がフィールド・ワーク、インターネット検索、文献、古文書による研究と作業を続けていますが、関心をお持ちの方はオープン参加としているトレッキングにも、各地で行っている研究会合にも参加して頂きたいと思います。


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“ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)

 

三枝氏とは何者なのか?

 

大善寺 (甲州市)

正確な創建年代は不明だが、寺伝に拠れば奈良時代に行基の開創を伝え(延慶3年(1310年)「関東下知状」)、本尊である薬師如来像の様式などから創建は平安時代前期と考えられている。薬師堂は天禄2年(971年)に三枝守国による建立とする伝承がある。(天文14年(1545年)「大善寺諸堂建立炎上記」)によれば、在庁官人として甲府盆地東部の東郡地域で勢力を持った古代豪族である三枝氏の氏寺とされる。

ウィキペディア(20161204 22:46による


この三枝氏が三階松の家紋を使う事から、ようやく大善寺そのものを表す紋章ではなく、スポンサーとしての三枝氏を表しているという事に気付きました。

では、三枝氏とは何者なのでしょうか?

 

三枝氏は三枝連(さいぐさのむらじ)の流れで、三枝連は天津彦根命の末裔であるという。「三枝連」の由来は顕宗天皇の治世の時、諸氏を集めて祝宴が開かれた際、庭に三茎の草があり、これを天皇に献上して三枝連を賜ったという逸話に由来するとされる。しかし、この説に『寛政重脩諸家譜』は疑いを示している。

山梨県甲州市に所在する柏尾山経塚は、出土した経銘文により平安時代の康和5年(1103年)に勧進僧・寂円により造営されたと判明する。康和5年在銘の経筒には関係者として三枝守定・守継ら三枝氏の一族の名が見られる。また、山梨県笛吹市の福光園寺本尊の吉祥天像は鎌倉時代の寛喜3年(1231年)に仏師・蓮慶により制作されたとする墨書銘を有し、檀越として三枝氏の一族の名も記されている[7]

ウィキペディア(20161204 22:52による


しかし、三階松の家紋を使う一族が天津彦根命の末裔と知って驚きました。

天津彦根命とはスサノウと子産み争となり天照が産んだ五柱の男神の一つだったからです。

 

天津彦根命

アマツヒコネは、記紀等に伝わる日本神話の神。

『古事記』では「天津日子根命(あまつひこねのみこと)」、『日本書紀』では「天津彦根命(あまつひこねのみこと)」、他文献では「天都比古禰命」とも表記される。

アマテラスとスサノオの誓約の際にアマテラス(天照大神)の玉から生まれた男神5柱のうちの1柱で、多くの氏族の祖とされる。


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三枝氏は甲斐源氏が発祥する遥か以前に、大和朝廷から甲斐に派遣された国守級の在庁官人の出身であることは疑いない。『日本書記』の福草部の姓氏録に「三枝連」の名が見え、『続日本後記』の承和十一年(844)の項にも三枝直平麻呂の名が見えている。
三枝氏前史
 このように三枝氏は甲斐の古豪族で、律令時代には郡司をつとめ、甲斐の産物を大和朝廷に献納していたものと思われる。昭和三十七年、山梨郡勝沼町柏尾山の工事現場で康和五年(1103)銘の経筒が発掘された。それには、大善寺の大檀那三枝宿禰守定・守継、藤原朝臣基清らが経筒を仏前に供え、見晴らしのいい柏尾山に埋めるまでの経過が刻まれていた。経筒に刻まれた守定・守継が戦国時代に武田氏に仕えて活躍した三枝守友の遠い先祖であることは間違いないだろう。ちなみに、大善寺は三枝氏が創建した関東でも屈指の古刹である。


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ところが、通説、定説は良いとして、この天津彦根命と言うのが少し理解しにくい一族なのです。

 以下は、百嶋由一郎氏が作成した「鳥子系譜」と呼んでいるものの一部で、唯一、この系譜にだけ天津彦根命がでて来ます。


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驚くことに、阿蘇氏でも、現在、阿蘇神社の一番奥の神殿に金凝彦(カナコリヒコ)の名で祀られている神沼河耳のことなのです。

 実は藤原氏によって第2代綏靖天皇と格上げされた有力人物であり、スサノウの姉の神俣姫との間に阿蘇高森の草部吉見(所謂春日大神=武甕槌=鹿島大神…)を得ている古代に於いてはトップ・クラスの有力者なのです。

 しかも、お妃が神俣姫(丹生津姫)となると鉱物採取、金属精錬に長けた一族であることは明らかで、古代には甲州の金、銀の開発にも力を持っていたことが容易に想像できるのです。

 ただ、阿蘇氏の神沼河耳の後裔氏族とする三枝氏が三階松の神紋を家紋として採用しているという事に繋がりを見出せないでいたのです。

そうするうち、百嶋神代史研究会のU女史(こちらはフィールド・ワークを抑えてただひたすら百嶋資料とネット検索で全国の神社を調べていると言う九州では最も百嶋神社考古学に精通した方です)からアドバイスを受けていると、三枝氏の「三枝」は「サエ」であり「佐用」「佐與」のことで、宗像三女神の筆頭市杵島姫(別名が佐用姫、佐代姫)を意味しているのではないかと言われたのでした。

面食らいましたが、確かに可能性があるのです。

まず、天津彦根命の第二代の草部吉見=武甕槌大神は市杵島姫への入り婿となり、大山咋=松尾大神=佐田大神(断じて猿田彦ではない)=日吉神社、日枝神社=山王神社の父となっているのからです。

始めは、三枝氏の三枝は三階松を意味しているのだろうと安直に考えてはいたのですが、三枝が「佐用」「佐與」「佐用」の置換えだったとは驚きました。

興味をお持ちの方は、兵庫県佐用町の佐用神社、福岡県飯塚市の厳島神社外をお調べ下さい。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)230白川伯王家源流の神社初見“飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)273 兵庫県佐用町の佐用都比売神社とは何か? 他も参考になるでしょう。

してみると、栄えある三枝氏とは、子産争いでスサノウと天照が共に産み分けた両系統から共に血を受けた有力氏族だったことが見えて来たのです。

ここら辺りが武田氏滅亡後も徳川氏の重臣となった三枝氏の手腕を思わせるところです。


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まだ、納得されていない方は多々おられると思いますので、少し分かりやすい例をお示ししましょう。

 奈良県桜井市に狭井神社があり、奈良市の大物主神社の摂社率川神社や同社の「三枝祭」といったものまでがあります。

 まず、狭井神社ですが、祭神は換えられているようですが、市杵島姫は鎮女池に残されています。


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また、奈良市の率川神社では、さいぐさの祭が行われています。


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さいぐさのまつり【三枝祭】

古代律令祭祀の一つで,孟夏(陰暦4)の祭。当時の令の解説書《令義解》によれば,〈率川社(いさがわのやしろ)の祭なり。三枝花を以て,酒罇(みか)に飾りて祭る。故に三枝という〉という。《延喜式》の四時祭の規定では,小祀とされた。三枝花は,その枝が三岐に分かれるところからの命名で,一説に百合花という。率川社(率川神社)は,奈良県桜井市に鎮座する大神(おおみわ)神社の摂社で,奈良市内にまつる。この祭は,平安末ごろには衰退したものと思われ,《公事根源》では,2月と11月の項に率川祭が記され,三枝祭との混同さえうかがえる。

世界大百科事典 第2版の解説 による

 

この率川神社も、祭神を媛蹈韛五十鈴姫命 (御子神) 中殿 狭井大神(御父神)向かって左殿 玉櫛姫命(御母神)向かって右殿 としてはいますが、事代主(蛭子)系一族が祭神、伝承を換えている事が私達の目から見れば分かるのですが、それを説明するには膨大な説明が必要になるためここでは、省いておきます。ただ、市杵島姫は鹿島大神(甑島にも鹿島町がありますね)と共に(実はご夫婦で大山咋をお産みになっています)阿多から甑島を経て、東へ、そして甲府(天津司舞の天津司神社)へも、果ては男鹿半島まで神武東征ではない即位前の神武巡行に随行されていますが、説明は困難です。

ここでは、三枝祭のシンボルは笹ユリとか山百合とされていますが、実は鹿児島県いちき串木野市沖に浮かぶ鹿児島県甑島の鹿の子ユリの事であることだけを申し上げておきます。


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三枝祭

 

このお祭りは、『さいくさのまつり』と申し、毎年六月十七日に執り行われる当社の御例祭であります。

このお祭りの起源は古く文武天皇の大宝年中に属し、御本社で行われる鎮花祭(はなしずめまつり)と共に、特殊な神事として由緒深いお祭りであります。その名の起こったわけは、三枝(さいくさ)の花(笹ゆりの花)をもって酒樽を飾ってお祀りするからであると思われます。

むかし、当社の御祭神媛蹈鞴五十鈴姫命が本社三輪山の麓、狭井川のほとりに御住居になり、その附近には笹ゆりの花が美しく咲き乱れていたことが国史に見えておりますが、その御縁故によって後世御祭神をお慰め申す為に酒樽に笹ゆりの花を飾っておまつりする様になったと言い伝えられています。笹ゆりの

花は本名佐韋(さゐ)といいますが、三枝祭はこの故事によるのであります。このお祭は古くから国家の祀典として重んぜられ、光孝天皇の御代には勅田を奉られ、醍醐天皇の御代、この祭儀は神祇官から幣物を祝(はふり)につけて日を選んで行われ、又馬寮から神馬を献られるなど非常に丁重なお祭が行われ       たのでありますが、後世いつの間にか中絶していたのを明治十四年再び古式の祭儀に復興せられ、現在に及んでいるんであります。このお祭の特に異なっている点は、黒酒、白酒を『罇(そん)』『缶(ほとぎ)』

と称する酒罇に盛り、その酒罇の周囲を三輪山に咲き匂う百合の花でふさふさと飾り、優雅な楽の音につれて神前に御供えされる事であります。又神饌は古式により熟饌に御調理申し上げて折櫃に納め、柏の葉を編んで作ったふたをし、黒木の御棚にのせて御供えいたします。この三枝祭は本社の鎮花祭と共に、疫

癘の鎮遏を祈請することを本旨とするお祭であります。」

 

三枝(さくさ)の花


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花にまつわるエトセトラ による


 結局、三枝とは鹿の子ユリの事であり、それをこよなく愛した市杵島姫は別名佐與媛と呼ばれ、飯塚市鹿毛馬の厳島神社の傍にも「佐與」という大字が残され、兵庫県佐用町には佐用神社があり市杵島姫が祀られているのです。

ひとまず、三枝氏の一端を垣間見た思いがしますが、なかなか容易に結論までは到達できないようです。

 ただ、今回、勝沼の大善寺に訪れ、一番驚いたのは、三枝氏によって建立された国宝薬師堂の最上部に、三枝氏の三階松に囲まれた門光=唐花紋を発見した事でした。

 この神紋は九州王朝との関係を取り沙汰される福岡県久留米市の高良大社の内部に密かにおさめられている神紋であり、現在、高良大社では近畿大和朝廷によって支配されて以降(749~)臣下としての木瓜紋と住吉の左三巴だけを表に出していますが、故)百嶋由一郎門光氏からは門光=唐花紋が伏せてあるとお聴きしています。

 この事は当の高良大社では十分にご存じのことだと理解しています。

 この神紋を発見したとき、実は、宮地嶽神社の三階松以上に驚きました。ここでは公開されていますのでご覧ください。


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ここでは、門光=唐花を両脇から三階松が支える構図になっており、三枝氏の一族の思いを垣間見た気持ちがします。

 してみると、ぶどう寺こと柏尾山大善寺とは久留米市大善寺玉垂宮天台宗大善寺と無関係などとは全く言えなくなったようです。

スポット111 列島(劣等)民族の今後の生き方について“東芝が嵌められタカタも食い物にされた”②

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スポット111 列島(劣等)民族の今後の生き方について“東芝が嵌められタカタも食い物にされた”②

20170707

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


先に、スポット108 列島(劣等)民族の今後の生き方について“東芝が嵌められタカタも食い物にされた”① を書きましたが本編はその続編になります。


 シャープが格安で売り飛ばされ、今また東芝、タカタが食い物にされています。

 そもそも、クズ同然のウエスチィング・ハウス社の買収を勧めたのは経済産業省の官僚だったのです。

 このことは以前から指摘されていたのですが、何故か、マスコミは一切追及してきませんでした。

 3.11の福島原発の無様な姿を知った後でさえも、「不況から脱出するには国際競争力のある日本の原発建設技術を活用すべきで十分に輸出できる競争力を持っている…」といった話がまことしやかに飛び交っていた事を覚えておられると思います(このような評論家はそいつらの回し者だった事が分かります)。


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アメリカでは3.11前後から原発の需要は消えていました。それを知っていたからこそ、米国の原発の将来を見越した性質の悪い連中が日本企業(東芝、日立しかない)に売りつけようとしたのでしょう。

そして、お人好しの日本人だからこそ狙われたのです。

そもそもアメリカ人とは数百万人のインディアンをバッファロー同様に皆殺しにして国土を奪っていった連中なのです。

インディアン(人殺共が今はネイティブ・アメリカンなどと言葉を変えていますが)は、自尊心が強く独立性、孤立性が強い狩猟民であった為に奴隷としては使えなかった事から生き残れず、だからこそ、従順に働くアフリカの黒人奴隷が採用されたのでした。

このため、アメリカ・インディアンには痩せた居留地が与えられ動物園のような生き方しか許されなかったのでした。… 以下。

お読みでない方は スポット108 を検索して下さい。

前回の提案は、外国貿易を縮小し、時期を見てできれば廃止し、アウタルキー経済へと脱皮すべきではないかとするものでした。

国際貿易が遍く広がっている中で何を馬鹿な事を…というご意見があることは重々承知しています。

しかし、貿易と言うものは、例えば、塩の様に本当に必要とされる物資を欠乏する地区に送り、代わりに(帰路に)余剰産品を運び交換する事は許されるでしょう。

しかし、大量生産された高品質の安い綿織物を他国に売り込み、その国の地場の綿織物産業を圧迫する事が良い事かどうかは言わずもがなであり(それが弱肉強食の世界秩序ではあるのですが)、多少の切磋琢磨は許されるとしても、他国の経済を徹底的に破壊する事は現代に於いても許されるべきではないと考えるべきではないでしょうか?

理念としての、また、夢としての自由貿易は許されたとしても、現実の自由貿易には多くの矛盾が存在するためそのまま持ち込むべきではないのです。

では、どのような方法で、現段階で理想とするアウタルキー経済へと移行するかを考えるのが今回のテーマです。


アウタルキー経済としての軍需産業



sp111-2実は、アウタルキー経済とは言えないまでも、それを理想とするそれにかなり近い存在があるのです。

そうです、軍需産業です。

ここでは、どうせ一度として守もられた事も無い「憲法」などを遵守すべきだ!とか憲法違反だ!などと言った茶番の議論を真面目に考える必要は一切ないのであって無視します。

ここでは、極力戦争をしないで済むためには軍需産業を強化し軍事力を強化するべきであろうという提案をしているのであって、現状のアメリカに支配され続けている嘘「独立国家」になどに一切、未来は存在しないのです。

“軍需産業がアウタルキー経済を理想としている…”と言っても、何のことだかお分かりにはならないでしょうが、仮に一部であったとしても戦闘機の代替性のない重要な部品が台湾や韓国や中国からの輸入品だったとしたらどうなるでしょうか?

緊急事態に対応できない事は直ぐにお分かり頂けると思います。戦時下に中国から輸入できますか?

このように、経済封鎖や多くの妨害に対しても対処できる問題がないだけのストックを常時用意しておくとか、全ての重要部品は国産化し常時調達できる様にしておく必要があることはお分かり頂けるのではないでしょうか?

と、いうことは、コストを問題とせず(勿論、極力安くすることによって部品のストックの絶対量が増えることになりますので極力下げるべきでしょうが…)、一切、輸入に頼ることなく補給できる体制が出来上がる事になるのです。

という事は、ボルト・ナットの一組から国内で調達される経済体制が成立するのであって、外国の調達事情を一切気にすることなく安定したコスト、適正な利益、安定した品質(勿論適正な競争は入れるべきですが)で経済が循環する事になり、国内の雇用と技術が同時に守れ、国家への帰属性の強化と技術流出も防げることになるのです。

一応、国家への忠誠心を求めた場合の話ですが…(個人的には既存の国家に帰属意識など一切なく、むしろ国家の破壊者のつもりなのですから)。


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それどころか、日本の航空機製造技術はアメリカにとっては驚異であることから、過去何度となく妨害され続け、二戦級三戦級の旧型兵器を法外な値段で売りつけ有難がって買い受ける構造を強制されてきたのでした。

三菱航空機を筆頭に開発・製造が進められている小型旅客機のMRJが、多少は技術的な問題はあるとしても繰り返し妨害を受け(当然、競争相手となる米国航空機産業からの)販売延期となり、幸いにもホンダはなんとかビジネス用ジェット機もようやくテイク・オフできることになったのでした。


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三菱MRJ ホンダ・ビジネス・ジェット


 軍需産業と平和産業というモデル化された概念は単純過ぎますが、資本主義社会でのこれらはどちらにしても害悪をもたらします。

まず、軍需産業は文字通り大東亜の戦役の大敗北から現在まで続く米国による占領と国富の強奪をもたらし続けています。

しかし、仮に現在の平和産業を中心とする経済と言えども、土建国家も必要性のない無駄なダム建設(税金のダム遣い)、拡大造林政策の放置による山林崩壊大洪水を連発させ、さらには野放図な都市のコンクリート化によって熱中症が頻発するヒート・アイランド列島化…外の自然破壊と環境破壊と文化伝統の破壊をもたらしています。

結局、時計の振り子と同様に、時として右に触れ軍事国家に向かい、時として左に触れ平和国家に向かい、強欲で血に餓えた資本は国民や国土や国家さえも犠牲にして絶えざる破産をもたらし続けているのです。

こう言うと、直ぐに“福祉国家とか文化国家とか科学国家”言った選択をモデル化する一連の錆びついた思想の人々(これもアメリカの回し者ですが)がおられるのですが、これを維持確立するには、強力な防衛力が必要で、アメリカ以上に嘘つきで凶暴な大陸国家中国を出現させてしまった以上(これは私腹を肥やすためのピンハネに利用された中国への3兆円とも言われる借款供与=こんなものを中国が返還するはずは全くないのです…を持ち込んだ伝統的中国派=旧田中派、旧竹下派の失策)、極めて難しいというよりも不可能な選択なのです。

所詮、我が国家も他国と同様に国民には凶暴なものなのです。

これらの事を認識した上で、結局、どちらかしか選択できないのであれば…という意味での選択をどうするのか?どうなるのか?という議論をしているのです。

少なくとも戦前は富国強兵政策とは名ばかりで、道路整備やインフラ整備などはほとんど放置されたまま、もっぱら軍艦、航空機…といった兵器生産だけで経済が回っていたのでした。

農業、鉱業、水産業…はあるものの、実質、それ以外の産業と言ったものは事実上存在しなかったのです。

当時、原料としての屑鉄、石油はアメリカから、ゴムはマラヤから、ボーキサイト(航空機用アルミニウムの原料)はインドネシアから…と、戦略物資が全く確保されていなかったのですが、少なくとも、兵器生産に関しては、ほぼ、純国産化されていたのです(だからこそ日本経済は今なお強力なのです…もうしばらくで消え去るでしょうが…そもそも戦後復興は日本の独立した軍事技術の民生転用から始まったのです)。ニコン(日本工学の測距義)、ペンタックス…、古河、湯浅の潜水艦用バッテリー…

これをアメリカなど一切の外国勢力からの制約、干渉を受けずに全て国産化し、対外的にも売り付けず、買い付けもせず、国内だけで必要な物だけを必要なだけ生産する経済へと舵を切るべき時が来たと考えるのです。

まず、海洋開発による海底資源(マンガン団塊)開発へと踏み出せば、巨大な需要と供給が見込めるのです。

当然、海底開発用のロボットや工作船など新たな経済発展が望め、まともな給料が貰えず、一方的に未婚率が上昇し出産率が低下するという人口減少化への歯止めとなり、異質な大陸人どもの増加もくい止める事ができるのです(良く日本は難民、亡命者の受け入れに冷淡だと言われますが、それは表向きの議論でしかなく、裏では甘い入国審査、外国人チャックの甘さから、実態としては百万~数百万人人に近い中国人を中心とする外国人が入っていると言われているのです)。

今後の雇用を考える時、機械化、ロボット化、コンピュータ化…と表現は色々あるでしょうが、要は大量生産によって、単価が下がり従来の伝統的産業が全て廃業を余儀なくされてきた事を考えれば(下駄職人、ブリキ職人、桶職人、傘職人、鍛冶屋、大工、左官…)、今後はガス・ステーション(ガソリンスタンド)、スーパーのレジのロボット化が進み、手に職のない主婦の唯一の職業であったものが消えるどころか、ドローン化、ロボット・カー、ロボット・トラクター…の登場によって、タクシー、バス、トラック輸送…のドライバーが職を奪われ、土地の測量、調査から生産現場でも省力化、無人化が一層進み、人が何をやって生きて行くのか…といった事からこれも別のテーマとして取り上げなければならないベーシック・イン・カムの問題も必要となっている状況なのです(これについては、スポット047 スーパー・マーケットのレジのロボット化とスイスのベーシック・インカム を書いています)。


軍需生産は意味のある高度な技術による雇用を創り出し易い


量産化される民生品と異なり高度兵器に必要な部品は少量多品種生産になりやすく、単に画一化された部品を大量生産するという物量生産の時代から少量でも多様な生産が重要になっている事は明らかで(戦場では逆に単純化して共通化され安価で大量に使われるべきなのですが)、ロボット化によって失業する人々の雇用を一気に吸収する魔法の杖になる事でしょう。

かつてヒットラー・ナチスによる軍需生産への梃入れは疲弊したドイツ経済を一気に蘇らせ、大量の失業者を一気に吸収しました。

当時はケインズ主義が頭を持ち上げはじめた時代なのですが、一般的にはアメリカの1929年恐慌に端を発した大不況がニュー・ディール政策やテネシー川流域開発公社(TVG)などによって蘇ったなどと説明される向きがあったのですが、実際には、第二次世界大戦~太平洋戦争による特需(実は参戦を予定して軍需生産は参戦前から拡大されていたのであって日本は嵌められているのですが)によって蘇ったと言うのが正しいのです。

その意味で、小室直樹博士が言った通り、ヒットラーは最大で最初の大規模なケインズ経済の体現者であったのであり、ドイツの機甲師団もそれによって出現したのでした。


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勿論、山を動かそうが、アウトバーンを造ろうが、Uボートや戦艦ビスマルクを造ろうが、パンテルやティーゲル型戦車からユンカース・シュトゥーカを造ろうが有効需要は創出できるとされています。

確かにアウトバーン自体は残り戦後復興にも役に立ったのですが、土建業者の雇用を増やすよりは高度な部品を生産する労働者、技術者、科学者を養成する方が将来的には有益で、それが、ドイツの戦後復興に劇的な効果をもたらしたのでした。

この日本の失われた20年の間に、海外シフトが一気に進み、多くの若者たちが非正規雇用の増大によってまともな職を与えられず結婚をあきらめました。

このことによる少子化第二世代によって本当の人口減少は今から始まるのですが、既に始まっていた人口減少と団塊世代の大量退職によってようやく雇用がバランスし始めているのです。

そして、ドローン、ロボットの普及による更なる雇用の喪失による人口減少を食い止めるにはベーシック・イン・カムと軍需産業の大規模な復活がアウタルキー経済の重要な核になるのです。

お断りしておきますが、私自身はナチスの信奉者でもなければケインジアンでもなければ、軍国主義者でもありません。

しかし、日本の歴史を見る限り、対外開放政策を採った時代と内国経済重視の政策を採った時代とが相互に交代している事が分かるため、明治維新以来、アメリカ、イギリスのユダヤ金融資本に操られ、過度に開放し敗戦によってもさらに列島の独立性、独自性が失われている事実を見るならば、鎖国型経済に一旦戻し日本海を堀として今後の世界資本主義の行き詰まり、大崩壊に備えた方が賢明であると思い至った事から、それをソフト・ランディングさせるためには、軍需産業へのシフトが望ましいと考えたまでの事なのです。

中国、アメリカ、ロシアが隣国としてある以上、不沈空母の列島といえども、ハリネズミと言うより、もっと静かな雲丹型国家として自らの卵巣だけを増大させる豊かな列島民族の国家を目指すべきではないかと思うのです。

島国に住む毛色の変わった列島民族であった事から、嘘つきで残忍な外国人との付き合いに成れていない劣等民族である以上、ハリネズミから草食系の雲丹として静かに生きて行くべきであると思うのです。

勿論、シー・レーン防衛も低減できます。やることは外にも幾らもあります。

倒産する東芝を海軍工廠なり航空廠なり宇宙廠として蘇らせ、蓄積された技術を間違っても嘘つき国家の中国や、さもしい韓国人や人でなしのアメリカの手には渡してはなりません。

ロボット化された深々度魚雷を搭載した無人の小型ロボット潜水艦隊(居住スペースから食料や空気を必要としないためこれほど効率的な兵器はありません)や無人航空隊の量産に乗り出すべきでしょう。

当然、少子化によって戦場に立てる兵士がいないはずで、地上戦に対応できるロボット機甲師団の建設や宇宙軍からサイバー軍の拡大が必要となるでしょう。

恐らく核ミサイルの開発は数日でできるはずですが(青山繁春氏はワン・ナイト・オーバーとも)、量産体制を確立させ実戦配備するには、意味のないダム建設や無駄な原発の建設など一切やめるべきでしょう。

産業さえ生み出しさえすればそのような危険なものは一切必要ないはずで、原発跡地を軍事基地化して行くべきでしょう。

幸いなことに立地は防衛にとって便利な場所にあるのです。

原発の存在の方が遥かに危険であり、非効率である事は言うまでもありません。

最新兵器のレールガンには大量の電力が必要とされることから、発電所にレールガン基地を造る事は立地上極めて合理的なのです。


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列島民族は元寇や日本海海戦のように祖国防衛戦争は非常に上手なのですが、古くは白村江=白江戦、太閤殿下の朝鮮征伐、日支事変(北京取った南京取った…)、勝利したとしてもパール・ハーバー攻撃に見る詰めの甘さに見る様に、外地での攻略戦争は得意ではありません。

 今後も祖国防衛戦争はやらざるを得ないとしても、遠征戦についてはどうせ失敗するのでやるべきではありません。

問題は空からの核ミサイルによる脅威ですが、中国は日本の30万以上の都市には照準を合わせており全て核ミサイルを同時に打ち込む準備ができていると言われています。

それもこれも田中角栄時代に与えられた大型借款供与が回されたことは間違いないでしょう(当時の貨幣価値を考えれば膨大な資金が与えられたのです)。

中国海軍など恐れるに足りないのですが、この問題に対抗する体制を構築する事なくしては中国の横暴は決して止まる事はないでしょう。

438(前) 天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した・”

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438(前) 天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した・”

20170125

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


菊池市の西、中心街から菊池渓谷へと向かう尾根道を走り、篠倉から広域農道を南に登ると、原地区に入ります。

ここを通る県道沿いの一画に天地元水神社と言う変わった名の神社があります。

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宮司の渋江氏は熊本市内にお住まいのため、普段、神主や巫女さんと言ったものを見かけることはありません。

ところが、この神社縁起には驚くべきことが書かれているのです。

もちろん。橘 諸江が直接菊池に縁があったわけではありませんが、息子の奈良麻呂(奈良麻呂の変で失脚)直系、諸兄の孫の島田丸の末裔が鎌倉期に肥前長島荘(佐賀県武雄市)から菊池に入っているのです。まずは、下の由来(写真)をお読み下さい。

橘町、橘村といった地名は、長崎の橘湾、佐賀県武雄市の橘町、福岡県大牟田市の橘町、うきは市、橘田(橘の広庭宮)など散見されますが、武雄市の橘町は明治期に橘 諸江の一族が住み着いていたことに因んで橘村とされています。

初めて聞く話で不思議に思われることでしょうから、いくつかの物証をお示ししましょう。

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天地元水神社


奈良麻呂の変の廃太子道祖王の墓地


皆さんは奈良麻呂の変というものがあったことをご存知でしょうか?


757(天平宝字元)年3月、孝謙天皇は、道祖王が喪中にも関わらず侍童と密通したとして、皇太子を廃太子にしました。 
 4月、孝謙天皇(25歳)は、新しい皇太子を公募しました。右大臣藤原豊成は、道祖王の兄である塩焼王を推薦しました。左大弁大伴古麻呂は、池田王(舎人親王の子)を推薦しました。
 藤原仲麻呂は、孝謙天皇が選ぶべきと進言しました。孝謙天皇は、不行跡の道祖王の兄である塩焼王は不適当でり(ママ)、池田王は親不孝であり、大炊王(舎人親王の子)は悪い噂を聞かないので皇太子に立てると提案し、群臣も賛同しました。
 大炊王は、藤原仲麻呂の長男である真従(早世)の未亡人粟田諸姉を妻としており、仲麻呂邸に同居していました。大炊王の立太子は仲麻呂の強い希望であったことがわかります。
 7月、橘諸兄(74歳)が亡くなると、その子奈良麻呂(37歳)は実権を失いました。仲麻呂の台頭に不満を持った奈良麻呂は、大伴古麻呂らと挙兵し、仲麻呂殺害・孝謙天皇廃位、塩焼王・道祖王らの即位を計画したとして、密告され、殺害されました。この計画に連座したとして、古来の名門である大伴氏や佐伯氏らが逮捕されました。
 前皇太子の道祖王も謀反の容疑をかけられ、藤原永手らの拷問を受けて、獄死しました。これを橘奈良麻呂の乱といいます。
 8月、孝謙天皇が譲位し、大炊王が即位して淳仁天皇(25歳)となりました。

hp「エピソード日本史」より


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概略は以上のようなものですが、橘 諸兄は縣(橘)犬養三千代の子であり、奈良麻呂は、また、その子、三千代の孫になります。そして、奈良麻呂の変の立太子「道祖王」の墓が旧橘村にあるのです(もちろん、奈良にもありますが、分骨されることは十分に想像できます)。

この道祖王の墓は地元でドウザノボチ(←ドウソオウサマノボチ)と呼ばれています。

では、なぜ、この地に道祖王の墓地があるのでしょうか?

橘 諸兄が太宰の権帥のとき、配下にいたのは吉備真備でした。

諸兄の後に真備が太宰の帥になっていますので、真備に匿われた可能性があると考えています。

何よりも、奈良麻呂の変の時期にも、また、後述しますが、和泉式部参内の時期にもこの杵島山一体と中央には橘氏のルートが存在していたものと思われ、さらに言えば橘氏の本貫地の一つであったのかも知れません。


 橘 諸兄とかっぱを祀る潮見神社


実は、天地元水神社と同様の、橘 諸兄を祀る神社がこの武雄市の橘町にもあるのです。

そして、その両方にも河童の話が伝えられているのです。


春日神社側の伝承として、「北肥戦志」に次の記録がある。(若尾五雄「河童の荒魂」(抄)『河童』小松和彦責任編集。シリーズ『怪異の民俗学3』より転載)
「昔橘諸兄の孫、兵部大輔島田丸、春日神宮造営の命を拝した折、内匠頭某という者九十九の人形を作り、匠道の秘密を以て加持するに、忽ちかの人形に、火たより風寄りて童の形に化し、或時は水底に入り或時は山上に到り、神力を播くし精力を励まし召使われる間、思いの外大営の功早く成就す。よってかの人形を川中に捨てけるに、動くこと尚前の如く、人馬家畜を侵して甚だ世の禍となる。此事遥叡聞あって、其時の奉行人なれば、兵部大輔島田丸、急ぎかの化人の禍を鎮め申すべしと詔を下さる。乃ち其趣を河中水辺に触れまわししかば、其後は河伯の禍なかりけり。是よりしてかの河伯を兵主部と名付く。主は兵部という心なるべし。それより兵主部を橘氏の眷属とは申す也。」

 さらにこの論文で若尾氏は、島田丸の捨てた人形は日雇いの「川原者」ではなかったかと推測している。


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hp「麦田 耕の世界」俳句禅善より


まだ、半信半疑の向きも多いと思いますので、もう少し補足させていただきます。

武雄市橘町の潮見神社には非常に濃厚な河童伝承があります。山頂には島見社(恐らく島とは杵島山のこと)が置かれ、相当に早い時代から、イザナミ、イザナギが祭られていたようですが、この潮見神社の祭神の一つに(恐らく主神でしょうが)橘 諸兄(上宮)があります。中宮には橘奈良麻呂、橘公業(キンナリ)、下宮には渋江公村、牛島公茂、中村公光(いずれも橘公業の末裔で分家筋)などが祭られています。

「奈良麻呂の変」後、橘氏は、そのかなりの部分が殺され、半数が没落しますが、それを悲しんだ犬養三千代が敏達天皇に働きかけ、春日大社の造営に奈良麻呂の子島田丸を抜擢(兵部太夫)させます。

その背後には、釘を使わぬ古代の寺院建築の技術を持った職能集団(河童とか兵主と呼ばれた)が囲い込まれていたのではと考えています。


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潮見かっぱの誓文


「奈良麻呂の変」後、橘氏は、そのかなりの部分が殺され半数が没落しますが、それを悲しんだ犬養三千代が敏達天皇に働きかけ、春日大社の造営に奈良麻呂の子島田丸を抜擢(兵部太夫)させます。その背後には、釘を使わぬ古代の寺院建築の技術を持った職能集団(河童とか兵主と呼ばれた)が囲い込まれていたのではと考えています。

詳しく知りたい方は、古川のHP「環境問題を考える」(アンビエンテ)から「兵主」をお読みください。橘氏と河童さらには兵主のことを書いています。ちなみに、武雄周辺では悪口で「ヒョス」が最近まで

使われていましたが、これは河童をあざけった兵主からきたものでしょう。


 橘 公逸(キンナリ)


武雄市橘町永島にある神社。旧郷社。祭神は上宮が伊ザナギ命・伊ザナミ命,中宮が神功皇后・応神天皇・武内宿禰・橘奈良麻呂・橘公業。下宮は今はないが,渋江公村・牛島公茂・中村公光を祀っていた。社伝によれば,往古この地は小島で島見郷と称し伊ザナギ・伊ザナミ2神を祀っていたが,その後橘奈良麻呂が恵美押勝との政争に敗れて当地に逃げのび土着したと伝える。さらにその子孫の橘公業が嘉禎3年(1237)にこの地の地頭となって赴任し,奈良麻呂の父橘諸兄をも合わせ,その他諸神を配祀して鎮守社としたと伝える。平安期安元22月の武雄神社社憎覚俊解状(武雄神社文書/佐史集成2)に「御庄鎮守塩見社」と見え,武雄社と並んで長島荘の鎮守の1つとされていた。また同地の橘氏の流れをくむ武蔵橘中村家の文書,寛元元(1243)年96日関東御教書案(鎌遺6235)には,99日の流鏑馬を土地の者が勤めないとあり,この流鏑馬は潮見社の祭礼に関わるものと考えられる。

当社には昔肥後国菊池経直が祭礼の流鏑馬に落馬して葬られたと伝える墓がある。

…(中略)…

当社は河童の伝承を有し,これは橘公業が当荘赴任の際に全国の河童がつき従って当地にやってきたためと言い伝えている。

社蔵の御正体(市重文)は元禄51692)年の再興銘を持つが、その銘に「本興建久六乙卯九月一日」とある。


以上、菊池(川流域)地名研メンバー(当時)牛島稔大のhp「牛島さんたちのル-ツに迫る」より。


この潮見河童は橘諸兄の子孫の橘奈良麻呂(子)、島田麻呂(孫)以来の河童伝承であることから、単なる伝承とかいったものではなく、なんらかの史的事実の存在を感じさせます。

実は、この橘村という名称は明治二二年の町村合併時に、橘諸兄の末裔が住みついたことにちなんで付けられたのですが、これだけでも、橘村が橘氏とただならぬ関係があることが分かります。

しかし、それ以上に、橘村と河童にも深い関係があるのです。

橘諸兄は第三〇代敏達(ビタツ)天皇(*)の第五代の葛城王ですが、橘の姓をもらい諸兄と改めます。

一時は藤原氏を押え権勢をふるうのですが、徐々に藤原仲麻呂が勢力を盛り返します。

諸兄の死後、仲麻呂の専横に怒ったか、危機感を覚えたかは分かりませんが、諸兄の子の奈良麻呂が藤原仲麻呂の打倒に決起するのです。

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しかし、これは失敗に終わり、橘氏、大伴氏から数百人の犠牲者を出すことになります(奈良麻呂の変/七五七年)。

当然にも多くの敗走者、亡命者が出たのでしょうが、この前後、大宰府は橘諸兄の影響が残っていたものと思われ(諸兄は左大臣と大宰師=ダザイノソツを兼ねていた時期があります)、その際に重用された吉備真備の援助によって身を隠した橘氏の一群がこの杵島山の山裾の橘村周辺に住みついたと言われているのです。

さて、ここから再び河童の話になります。和銅二年、藤原不比等が常陸の国(歌垣伝承の地)鹿島から春日大社(軍神)を奈良の三笠山の地に遷宮するのですが、その折に、滅ぼされた奈良麻呂の子である島田麻呂が兵部大輔(ヒョウブタイフ)として造営の責任者にされたといわれています。

このとき、呪文により九十九体の木の人形に命を吹き込み、一夜にして人手を集め遷宮を成功させたという話があるのです。

この話は、橘氏の配下に高層建築技術を持った渡来系の職能集団が存在したことを感じさせます。つまり、数百年前に江南から渡ってきた渡来系の人々が兵主部として、時の権力に付かず離れずの関係を持ちながら独立性を維持し、高層建築を請負う職能集団としての技術を保ってきたのではないかと思うのです。

 恐らく、常陸の鹿島の春日大社も彼らが建てたのであり、解体も、彼らによってしかできなかったと想像します。そして、搬送が可能な部材は全て運んだと思われるのです。


*)第三〇代敏達(ビタツ)天皇 :

欽明天皇の第二子で、…中略…欽明天皇二十九年(欽明紀は十五年とする)に立太子し 欽明天皇の崩御にともない即位した。『日本書紀』には「天皇仏法を信ぜずして、文史を愛す」と見える。


 「歴代天皇総覧」笠原英彦(中公新書)

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