438(後) 天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した・”
20170125
太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
その後の橘氏
奈良麻呂の変の後、彼がどのようになったのかは分かりません(獄死とも言われます)。ただ、旧橘村の杵島山の麓には、橘氏の末裔が身を潜めたという伝承にとどまらず、奈良麻呂が擁立し敗死した道祖王(廃太子)の墓と言われるものまでが残っているのです。
島田麻呂が春日大社の造営に成功した後、直系の一群がどのようになったかも良くは分かりません。もちろん、全ての橘氏が奈良麻呂の変に参加したわけではなく、当然にも全てが根絶やしにされたというわけでもありません。しかし、その後も、反乱に参加した橘氏の一部はこの杵島山周辺に住み続けていたのではないかと思うのです。
時代は飛びますが、鎌倉政権の一二三七年、頼朝の侍大将であった橘薩摩守公業が宇和島から杵島山の対岸の長島庄に総地頭として下向します。このとき河童も一緒に眷属(配下)として随行したという話もあるのですが、この橘公業が、その後の牛島、中村、渋江…という杵島の橘氏の直系の三家の始祖になるのです。恐らく、隠れ住んだ橘氏のことも、その末裔が住み続けていることも知り尽くした上での下向だったことでしょう。では、本当にそうだったのでしょうか。
橘公業以降の杵島山の橘氏については、「河童共和国」とも関係が深い神奈川大学大学院の小馬徹教授が、河童退治の神事などで知られる天地元水(てんちげんすい)神社(熊本県菊池市)の宮司・渋江家に伝わる大量の古文書を調査されていますが、そのことが、「河童信仰広げた肥後渋江家」として熊本日日新聞(平成一七年五月七日付け)に掲載されていますので、一部を紹介させて頂きます。
私は、河童信仰の淵源(えんげん)を嘉禎ニ(一二三六)年に伊予宇和荘(愛媛県)から肥前(佐賀県)長島荘へと転補入部した橘氏(その本家が後の渋江氏)まで、遡(さかのぼ)れると論じた。橘氏は先祖橘島田丸配下の内匠頭(たくみのかみ)が奈良春日大社造営に駆使した後で捨てた人形が狼藉(ろうぜき)したという古い神話を下敷きに、乾元年間(一三〇二-三年)、春日大社準(なぞら)えて潮見神社(佐賀県武雄市)を創建、橘(渋江)氏が使役した人形が河童の起源だとする話に鋳直す。この神話に基づくカリスマ性が在地勢力を圧倒、長島荘の支配を巧みに確立した、と(河童相撲考)。
橘公業以降の橘氏(牛島、中村、渋江…)についても多くの逸話がありますが、とりあえず、ここまでとします。
なお、この杵島山の麓にいた橘氏の話については、その大半を、橘小学校の校長もされた、郷土史家の吉野千代次先生に教えて頂いたものですので、改めてここでお断りしておきます。
この杵島山の山裾にはもう一つの興味深い話があります。それが、橘氏の存在をもっと鮮明にしてくれるのです。
稲佐神社(イナサジンジャ)
杵島山の東麓、杵島郡白石町(旧有明町)に鎮座する神社です。
稲佐神社は平安時代初期にはすでに祀られていました。『日本三大実録』の貞観3(861)年8月24日の条に、「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹生神ならびに従五位下を授く」とあり、これが稲佐神社が正史に現われた最初の記録です。また、社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」と記されています。
平安時代になり、神仏習合(日本古来の「神」と外来の「仏」が融合)の思想が広まると、稲佐大明神をまつる稲佐神社の参道両側に真言寺十六坊が建立され、この一帯を「稲佐山泰平寺」と呼ぶようになりました。
この泰平寺を開いたのは弘法大師(空海)であると伝えられていて、今も弘法大師の着岸した地点が「八艘帆崎」(現辺田)としてその名をとどめています。また、「真言寺十六坊」は、この地方の大小の神社の宮司の立場にあったと言われています。
八艘帆が崎(ハスポガサキ)
ここには県道錦江~大町線が通っているのですが、稲佐神社付近にこの地名が残っています。
県道沿いの境内地と思えるところには、この八艘帆ケ崎の謂れについて書かれた掲示板が建てられています(平成四年四月吉日大嘗祭記念稲佐文化財委員会)。
これによると、杵島山はかつて島であった。欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるとされています(稲佐山畧縁記)。
百済の聖明王は仏教伝来にかかわる王であり、六世紀に朝鮮半島で高句麗、新羅などと闘ったとされていますが、五五四年に新羅との闘いの渦中に敵兵に討たれます。
これは、その闘いの前の話なのでしょうか?それとも、一族の亡命を意味するものなのでしょうか?また、火ノ君とは誰のことなのでしょうか。私には大和朝廷とは別の勢力に思えます。なお、聖明王は武寧王の子であり、武寧王は先頃の天皇発言で話題になった桓武天皇の生母がこの武寧王の子孫とされているのです(続日本紀)。
このような場合に頼りになるのがHP「神奈備」です。孫引きになりますが紹介します。佐賀県神社誌(縣社稲佐神社)から として …百済国の王子阿佐来朝し此の地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廟を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。…と、あります。稲佐山畧縁記とありますが、掲示板の記述はこれによっても補強されます。今後も調べたいと思いますが、これらに基づくものと思われます。
本来、「六国史」や「三大実録」あたりから日本書紀や三国史記を詳しく調べなければならないのでしょうが、当面、私の手には負えません。
少なくとも、この伝承は、杵島山の東側の山裾まで有明海が近接していたことを語っています。
和泉式部は杵島山の麓で生まれ育った
「万葉集」に「あられふる 杵島が岳を険(さか)しみと 草とりかねて 妹(いも)が手をとる」と詠われる杵島山では、かつて歌垣が行われていたと伝えられています。
私は、この地に揚子江流域から呉越の民、ビルマ、タイ系の人々が入ったと考えていますが、それはひとまず置くとして、 和泉式部は佐賀県白石町(旧錦江村)の福泉禅寺で生まれています。
すぐそばには、百済の聖明王の一族が渡来(亡命)したとされる稲佐神社があります。式部は和泉守の橘 道貞の妻となり、父の官名と夫の任国とを合わせて和泉式部と呼ばれます。この道貞との間に小式部内侍が生まれます。夫とは後に離れますが、娘は母譲りの歌才を示しています。
皆さんご存知でしょうが、百済の王都は錦江(クムガン)にありましたね。稲佐神社に聖明治王の一族の亡命伝承があるとすれば、錦江村の錦江がクムガンと無関係とは思えないのです。もしかしたら、和泉式部も百済系渡来人の子孫かも知れないのです。和泉式部が育った塩田町
後に、式部は杵島山を西に越えた嬉野市塩田町の大黒丸夫婦に九歳まで育てられ京都に登り参内します。
平安朝きっての歌人として名高い和泉式部は、佐賀県杵島の福泉寺に生れ、塩田郷の大黒丸夫婦にひきとられて9歳まで過ごしました。その後、式部は京の宮廷に召され、優れた才覚と美貌で波瀾に満ちた生涯を送ったと伝えられます。今でも嬉野市塩田町には和泉式部にまつわる地名や伝説が数多く残っており「五町田」という地名は式部が詠んだ「ふるさとに 帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらん」という歌に感動した天皇が大黒丸夫婦へおくった「5町の田圃」から由来するものです。「和泉式部公園」はこうしたロマンあふれる伝説の地に造られています(嬉野市のHPより)。 写真は和泉式部公園(嬉野市塩田町)
繰り返しになりますが、和泉式部は、この杵島山で生まれ育っています。
杵島山の東南側に位置する旧杵島郡有明町(旧錦江村)の稲佐神社の隣にある福泉禅寺(無論、式部の時代は曹洞禅ではありませんが)が生誕の場所で、その後、杵島山の西側に位置する藤津郡塩田町(現在は嬉野市塩田町)に移り、大黒丸夫婦に引取られて九歳までこの塩田郷で過ごしたのです。
今でも塩田町には和泉式部にまつわる地名や伝説が数多く残っており「五町田」という地名は式部が詠んだ「ふるさとに帰る衣の色くちて錦の浦や杵島なるらん」という歌に感動した天皇が大黒丸夫婦へおくった「5町の田圃」から由来するものです。
塩田町ホーム・ページから
その後、宮廷に召されることになるのですが、式部の最初の夫になるのが橘 道貞であったのです。
私には、この背後に杵島山の橘氏の存在があるように思えるのです。つまり、平安中期にも、杵島山から京都へ、京都から杵島への橘氏のルートが連綿として存在していたと考えられるのです。