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438(後) 天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した・”

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438(後) 天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した・”

20170125

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


その後の橘氏


 奈良麻呂の変の後、彼がどのようになったのかは分かりません(獄死とも言われます)。ただ、旧橘村の杵島山の麓には、橘氏の末裔が身を潜めたという伝承にとどまらず、奈良麻呂が擁立し敗死した道祖王(廃太子)の墓と言われるものまでが残っているのです。

島田麻呂が春日大社の造営に成功した後、直系の一群がどのようになったかも良くは分かりません。もちろん、全ての橘氏が奈良麻呂の変に参加したわけではなく、当然にも全てが根絶やしにされたというわけでもありません。しかし、その後も、反乱に参加した橘氏の一部はこの杵島山周辺に住み続けていたのではないかと思うのです。

 時代は飛びますが、鎌倉政権の一二三七年、頼朝の侍大将であった橘薩摩守公業が宇和島から杵島山の対岸の長島庄に総地頭として下向します。このとき河童も一緒に眷属(配下)として随行したという話もあるのですが、この橘公業が、その後の牛島、中村、渋江…という杵島の橘氏の直系の三家の始祖になるのです。恐らく、隠れ住んだ橘氏のことも、その末裔が住み続けていることも知り尽くした上での下向だったことでしょう。では、本当にそうだったのでしょうか。

橘公業以降の杵島山の橘氏については、「河童共和国」とも関係が深い神奈川大学大学院の小馬徹教授が、河童退治の神事などで知られる天地元水(てんちげんすい)神社(熊本県菊池市)の宮司・渋江家に伝わる大量の古文書を調査されていますが、そのことが、「河童信仰広げた肥後渋江家」として熊本日日新聞(平成一七年五月七日付け)に掲載されていますので、一部を紹介させて頂きます。


私は、河童信仰の淵源(えんげん)を嘉禎ニ(一二三六)年に伊予宇和荘(愛媛県)から肥前(佐賀県)長島荘へと転補入部した橘氏(その本家が後の渋江氏)まで、遡(さかのぼ)れると論じた。橘氏は先祖橘島田丸配下の内匠頭(たくみのかみ)が奈良春日大社造営に駆使した後で捨てた人形が狼藉(ろうぜき)したという古い神話を下敷きに、乾元年間(一三〇二-三年)、春日大社準(なぞら)えて潮見神社(佐賀県武雄市)を創建、橘(渋江)氏が使役した人形が河童の起源だとする話に鋳直す。この神話に基づくカリスマ性が在地勢力を圧倒、長島荘の支配を巧みに確立した、と(河童相撲考)。


橘公業以降の橘氏(牛島、中村、渋江…)についても多くの逸話がありますが、とりあえず、ここまでとします。

 なお、この杵島山の麓にいた橘氏の話については、その大半を、橘小学校の校長もされた、郷土史家の吉野千代次先生に教えて頂いたものですので、改めてここでお断りしておきます。

 この杵島山の山裾にはもう一つの興味深い話があります。それが、橘氏の存在をもっと鮮明にしてくれるのです。


稲佐神社(イナサジンジャ)


杵島山の東麓、杵島郡白石町(旧有明町)に鎮座する神社です。        

稲佐神社は平安時代初期にはすでに祀られていました。『日本三大実録』の貞観3861)年824日の条に、「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹生神ならびに従五位下を授く」とあり、これが稲佐神社が正史に現われた最初の記録です。また、社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」と記されています。

 平安時代になり、神仏習合(日本古来の「神」と外来の「仏」が融合)の思想が広まると、稲佐大明神をまつる稲佐神社の参道両側に真言寺十六坊が建立され、この一帯を「稲佐山泰平寺」と呼ぶようになりました。

この泰平寺を開いたのは弘法大師(空海)であると伝えられていて、今も弘法大師の着岸した地点が「八艘帆崎」(現辺田)としてその名をとどめています。また、「真言寺十六坊」は、この地方の大小の神社の宮司の立場にあったと言われています。


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八艘帆が崎(ハスポガサキ)


 ここには県道錦江~大町線が通っているのですが、稲佐神社付近にこの地名が残っています。

県道沿いの境内地と思えるところには、この八艘帆ケ崎の謂れについて書かれた掲示板が建てられています(平成四年四月吉日大嘗祭記念稲佐文化財委員会)。
 これによると、杵島山はかつて島であった。欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるとされています(稲佐山畧縁記)。                    

 百済の聖明王は仏教伝来にかかわる王であり、六世紀に朝鮮半島で高句麗、新羅などと闘ったとされていますが、五五四年に新羅との闘いの渦中に敵兵に討たれます。

これは、その闘いの前の話なのでしょうか?それとも、一族の亡命を意味するものなのでしょうか?また、火ノ君とは誰のことなのでしょうか。私には大和朝廷とは別の勢力に思えます。なお、聖明王は武寧王の子であり、武寧王は先頃の天皇発言で話題になった桓武天皇の生母がこの武寧王の子孫とされているのです(続日本紀)。

このような場合に頼りになるのがHP「神奈備」です。孫引きになりますが紹介します。佐賀県神社誌(縣社稲佐神社)から として 百済国の王子阿佐来朝し此の地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廟を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。と、あります。稲佐山畧縁記とありますが、掲示板の記述はこれによっても補強されます。今後も調べたいと思いますが、これらに基づくものと思われます。
 本来、「六国史」や「三大実録」あたりから日本書紀や三国史記を詳しく調べなければならないのでしょうが、当面、私の手には負えません。
 少なくとも、この伝承は、杵島山の東側の山裾まで有明海が近接していたことを語っています。


和泉式部は杵島山の麓で生まれ育った


万葉集」に「あられふる 杵島が岳を険(さか)しみと 草とりかねて 妹(いも)が手をとる」と詠われる杵島山では、かつて歌垣が行われていたと伝えられています。

私は、この地に揚子江流域から呉越の民、ビルマ、タイ系の人々が入ったと考えていますが、それはひとまず置くとして、 和泉式部は佐賀県白石町(旧錦江村)の福泉禅寺で生まれています。  

すぐそばには、百済の聖明王の一族が渡来(亡命)したとされる稲佐神社があります。式部は和泉守の橘 道貞の妻となり、父の官名と夫の任国とを合わせて和泉式部と呼ばれます。この道貞との間に小式部内侍が生まれます。夫とは後に離れますが、娘は母譲りの歌才を示しています。

 皆さんご存知でしょうが、百済の王都は錦江(クムガン)にありましたね。稲佐神社に聖明治王の一族の亡命伝承があるとすれば、錦江村の錦江がクムガンと無関係とは思えないのです。もしかしたら、和泉式部も百済系渡来人の子孫かも知れないのです。 

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和泉式部が育った塩田町


後に、式部は杵島山を西に越えた嬉野市塩田町の大黒丸夫婦に九歳まで育てられ京都に登り参内します。


438-8平安朝きっての歌人として名高い和泉式部は、佐賀県杵島の福泉寺に生れ、塩田郷の大黒丸夫婦にひきとられて9歳まで過ごしました。その後、式部は京の宮廷に召され、優れた才覚と美貌で波瀾に満ちた生涯を送ったと伝えられます。今でも嬉野市塩田町には和泉式部にまつわる地名や伝説が数多く残っており「五町田」という地名は式部が詠んだ「ふるさとに 帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらん」という歌に感動した天皇が大黒丸夫婦へおくった「5町の田圃」から由来するものです。「和泉式部公園」はこうしたロマンあふれる伝説の地に造られています(嬉野市のHPより)。  写真は和泉式部公園(嬉野市塩田町)


繰り返しになりますが、和泉式部は、この杵島山で生まれ育っています。

杵島山の東南側に位置する旧杵島郡有明町(旧錦江村)の稲佐神社の隣にある福泉禅寺(無論、式部の時代は曹洞禅ではありませんが)が生誕の場所で、その後、杵島山の西側に位置する藤津郡塩田町(現在は嬉野市塩田町)に移り、大黒丸夫婦に引取られて九歳までこの塩田郷で過ごしたのです。


今でも塩田町には和泉式部にまつわる地名や伝説が数多く残っており「五町田」という地名は式部が詠んだ「ふるさとに帰る衣の色くちて錦の浦や杵島なるらん」という歌に感動した天皇が大黒丸夫婦へおくった「5町の田圃」から由来するものです。

塩田町ホーム・ページから


その後、宮廷に召されることになるのですが、式部の最初の夫になるのが橘 道貞であったのです。

私には、この背後に杵島山の橘氏の存在があるように思えるのです。つまり、平安中期にも、杵島山から京都へ、京都から杵島への橘氏のルートが連綿として存在していたと考えられるのです。


スポット112 朝倉~日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした!

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スポット112(前) 朝倉~日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした!

20170713

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


20177月の九州北部豪雨では、福岡県朝倉市~大分県日田市に掛けての多くの山沿いの集落が悲惨な状況に陥っています。

しかし、本流の筑後川の堤防は決壊(決堤)、溢流(オーバー・フロー)もしていませんし、単に大雨が降って流れただけならば泣く人も全くいなかったはずなのです。


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画像は一例ですが、良く知られた場所の朝倉市杷木町の杷木ICの西側の被災地です。


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今のところどこが最も酷い災害地なのかが分からない状態ですが、まず、筑後川北岸(右岸)の朝倉から日田にかけての山間部を中心に局所的に被害が出ているようです。

実は、この局所的と言う認識が重要なのです。

一般的には朝倉市から日田市に掛けた全域で大規模な雨が降っているといった印象をお持ちの方が多いかも知れませんが(そういった発表がされているので当然でしょう)、メンバーにはブロガーでもある元気象庁の上級職員もおられ、等しくこの一帯に住む者として“全くそうではない”という話をしています。

大規模な災害が頻発した前後、私自身は日田市でも東の標高450メートルの阿蘇の外輪山の延長の様な所にいたからかも知れませんが、それほど大規模な大雨が降ったと言った印象はありませんでした。

あくまでも、被害は山崩れが起こった地域に集中しており、この人工林地の崩落が起こっていない場所では被害と言う被害は全く認められないのです。

問題は人工林地の崩落であり、テレビ報道を見続け確認を続けましたが、その崩落地の大半がと言うよりも殆ど全てが杉、檜(まあ大体は伐期35年のはずの杉林なのですが)の人工林地だったのです。

その前に気になる事があるので先に触れておかなければなりません。

それは、「線上降水帯」とか48時間降水量(見せかけ上これまでにない大雨が降った印象を与える)で550と言った新表現によって過度に大規模な大雨が降っているといった印象を植え付けようとしている(印象操作)ように思える事です。

それに連動して、“焼け跡に焼夷弾”と言った感のある責任逃れのためのメールがやたらと乱発されているのです。

こういった事を奇妙に思っていると、武田邦彦教授がユーチューブ上で十分納得できる話を早々と出しおられました。


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少なくとも私に関しては、行政や気象庁や大手マスコミは信用するに値せず、全くの嘘に近い情報を発信しているものと確信しています。

まずは、僭越ながらも武田教授の話を一つでもお聴き頂きたいと思いご紹介申し上げます。

今回の大雨報道、洪水報道の異常さについては武田教授が十分に話しておられますので付け加える必要などありません。

これも教授が指摘されていることですが、私が産まれた昭和28年の諫早大水害の時の降水量は、24時間(決して48時間ではないのです)1109㎜なのであり、遥かに多い(今回の4倍程度)降水量が確認されているのです。

つまり、この程度の雨(普通の大雨で来年でも今年でも再び起きる)はこれまでにも何度となく降っていたのであって、それ以上に大きな問題が背後に隠れている事に気付かなければならないのです。


諫早豪雨

諫早豪雨(いさはやごうう)は、1957725日から728日にかけて長崎県の諫早市を中心とした地域に発生した集中豪雨およびその影響による災害のこと。

諫早豪雨は気象庁が正式に命名したわけではないが、広く使われている呼称である。地元自治体やマスコミなどは諫早大水害(いさはやだいすいがい)の呼称も用いている。

以下の記述では、市町村合併によりすでに消滅している自治体もあるが、原則として豪雨発生当時の自治体名で示す。

南高来郡瑞穂村西郷では24時間降水量が1109mmという驚異的な降水量を記録し、6時間降水量と12時間降水量では日本歴代最高記録を記録している。


ウィキペディア(20170713 21:26による


長崎大水害(ながさきだいすいがい)は、1982年(昭和57年)723日から翌24日未明にかけて、長崎県長崎市を中心とした地域に発生した集中豪雨、およびその影響による災害である。

気象庁は長崎県を中心にした723日から25日の大雨を「昭和577月豪雨」、長崎県は「7.23長崎大水害」(7.23ながさきだいすいがい)と命名したが、本項では降雨・災害双方を区別しない通称の「長崎大水害」を項目名とした。

以下の記述では、市町村合併によりすでに消滅している自治体もあるが、原則として豪雨発生当時の自治体名で示す。

長崎市の北に位置する西彼杵郡長与町では23日午後8時までの1時間に187mmの雨量を観測。これは日本における時間雨量の歴代最高記録となっている。また西彼杵郡外海町では23日午後8時までの2時間に286mmの雨量を観測し、こちらも歴代最高記録となっている。…

…時間雨量では長与町役場に設置された雨量計で2320時までの1時間に187mmと、1時間降水量の日本記録となる値を観測。長浦岳の雨量計(アメダス)では19時までの1時間に153mm、同8時までに118mmの雨量を観測した。また、外海町役場に設置された雨量計で2320時までの2時間に286mmと、2時間降水量の日本記録を記録している。降り始めからの24時間雨量は長崎海洋気象台で527mmを観測した。

ウィキペディア(20170719 11:18による


299人の死者を出した長崎豪雨災害は527㎜であり、48時間で550㎜などと倍の嵩下駄を履いた朝倉は24時間に置き換えれば、その半分の規模でしかなかったのです。

今回の豪雨災害(一応豪雨としておきますが…)の特徴はどなたが見ても歴然とする杉、檜の流木の異常な多さでにり、どのように考えても売れもしない人工林を無理に植えさせ、売れないまま放置させていることから、急斜面に50年生、60年生といった通常の伐期を越えた大重量の危険な木材が崩れ落ちるのを待っていた事にあったのです(これを追認したのが「長伐期施業」という事実上の棚上げ政策です)。

これこそが拡大造林政策の付け回しによる負の遺産であり、今後、国民生活を脅かす危険な時限爆弾と言えるものなのです。

恐らく今回の災害復旧が完了する前後には再び別の豪雨災害が追い打ちをかけ、今回被災を免れた場所や復興したばかりの場所さえもが再び抜ける事になるでしょう。

事実、日田市の山国川流域では五年前の災害復旧の途上の場所が、またもや新たな洪水被害を受けている様なのです(まだ、現地に入れないため確認できないでいます)。


時限爆弾としての人工林地


 これについては、この間何度も書いてきましたので要点しか申し上げません(実際、バカバカしくてまじめに書く気にならないのです)。


 現在、人口減少の中で家は余り続けていますし、まず、需要が減少している事はお分かり頂けるでしょう。

 家を建てられる経済力を維持している都市住民の住居は、既に大半がマンションであり、鉄とコンクリートとガラスとプラスティックスと僅かばかりの外材(米松)だけで造られており、国産材が使われる余地はほとんどありません。

 その上に、売国奴小泉竹中改革以来、国民の所得が半減させられた結果、伝統的な和風住宅を建てられる財力を持った人は激減しており、所謂、大工さんが建てる様な和風住宅が減り、国産材(杉、檜)の需要は今後とも回復しません。

 現在、農水省、林野庁、県林業課、森林組合といったバカの4乗による新規植林、造林が継続されていますが、需要の回復は目を覆うばかりの惨状で、売れない国産材を処分するためにバイオマス発電と称して高コストの逆ザヤ発電により焼却処分されているのが実情なのです。


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 この問題を一時的に棚上げにするために60年生の育林などといった事実上の放置が蔓延し、伐期が遥かに超え搬出もままならない大重量の杉、檜(本来の伐期は3540年、4045年)が、表土を失った急傾斜にドミノ倒し並みの崩落の順番を待っている状態にあるのです。

 恐らく災害復旧が完了する前に再びどこかで同様の災害が見舞う事になるでしょう。

 福岡県の人工林率(H243.31)は全国第二位(64%)ですが、朝倉市周辺は、最も大きな地域です。、大分県は54%と多少低いのですが、大半の崩落地は日田杉の産地(日田は筑後川を利用した伝統的な杣山)であり、針葉樹林の山裾で大規模な洪水が起こった事が今回の災害の特徴なのです。

もしも広島県(33%)のように人工林比率の低い場所で今回程度の雨が降っていたとしても大した災害も出ることなく済んだことでしょう。全ては人工林地の崩落による山津波が下流に押し寄せた事が原因だったのでした。

 全ては戦後の拡大造林政策に端を発しており、並行して行われた大量の外材の輸入というチグハグな政策の中で、野放図な造林が放置された結果、無様どころか非常に危険な人工林地が放置された状態にあるのです。


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スポット112(後) 朝倉~日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした!

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スポット112(後) 朝倉~日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした!

20170713

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 恐らくバカの4乗の農水省以下は十分にこの事に気付いているはずで、だからこそ気象庁と組んで、史上ないような水増しされた大雨キャンペーンを張り、焼け跡に焼夷弾的な緊急大雨情報なり緊急避難通報ったものと考えます(国民ではなく省益を守るための責任回避キャンペーン)。

 山に木がある事が危険だなどと言えば信じられないかも知れませんが、エネルギー転換が起こった昭和40年以前まで、家庭の燃料は炭(木炭)、薪、豆炭、練炭…が中心で、現在、人工林地となっている多くの山は大半が広葉樹(クヌギ、ナラ、カシ…)の炭山や普通の里山だったのです。


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 この広葉樹は急峻な岩山にも根を張り(山を守り)、腐葉土を育み表土を豊かにしてきました。

逆に言えば、広葉樹であったが故に急傾斜地にも森を育み下流の集落を守ることができていたのです。

 伝統的な山の傾斜と言うものはその山の植生と土質によって決定されます。

 それは何百年と言った風雨にさらされた浸食と復林のバランスによって自ずと決定されてきたのです。

 ところがそのようにして形成された広葉樹の森の伐開後に杉、檜の幼木が植えられたのですが、始めのうちは順調に育ちます。何故ならばその地盤は何百年という永きにわたって育まれた腐葉土溢れる豊かな土壌をもった地面だったからです。

 ところが、針葉樹は腐葉土を育みませんし保水力がありません。しかも、根を張らないために表土を守る力が弱く、年年歳歳表土を流出流失させます。おまけに餌が無く動物が棲まない(棲めない)ため、山自体の栄養が循環せず土地一方的に痩せ栄養を失い続けます。

 林野庁は広葉樹林と針葉樹林とでは保水力にそれほどの差はないとの研究をヤラセているようですが、それは管理された人工林地の話であり、そんなものは全体の十分の一もないでしょう。しかも、そのモデル化された針葉樹林地でさえも、元々は広葉樹が何百年と言う永きに亘って育み造り出した土壌だったからなのです。つまり、何百年と育まれた伝統的杣山と保水力を比較しなければ意味はないのです。 

 その上、売れない針葉樹に手を入れる林地所有者はいなくなり、枝打ちも間伐も行われなくなり、針葉樹の森は真っ暗で下草も生えないため砂漠状になり、大雨の度に剝き出しとなった土壌は流出を続け、ついには限界を越えて崩落へと進むことになるのです。

 危険な人工林地が崩落への順番を待っている事がお分かり頂けたのではないでしょうか!

 このため、責任を回避するために、異常なまでの観測にない大豪雨といった印象操作報道を行っているように見えるのです。

 繰り返しますが、私が産まれた昭和28年の諫早大水害の時、24時間で1109㎜降っているのです。

してみると、今回の朝倉豪雨は48時間557㎜(二日間)とは200300㎜の4分の一程度の何時でも起こりうる大雨であり、その程度の雨でこれほどの被害が出たということは、今後も人工林崩壊による洪水が毎年どころか今年でさえ再発し、来年以降も頻発する事になるのです。


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こうなると、災害復旧としての道路復旧、農地復旧、住宅復旧自体も全く意味のない博打のようなものに見えるのですが、皆さんはこれでもまだ朝倉に家を再建し留まり住もうと思いますか?

何故なら、復旧しても直ぐに再び流される事になるからです。朝倉、日田から逃げ出すべき!

問題は個人の家屋や人生が押し流される段階から、地域経済全体が成立できない段階までレベルが上がり始めた事です。

 既にJR久大線の花月川橋梁(大分県日田市)が流されています。どう見ても短期間での復旧は望めず、ゆふいんの森号(まさかバスによる代行運転できないので北九州周りにするでしょうが)は忘れ去られるところまで行くはずです。

JR九州は農水省に対して損害賠償請求する気はないのでしょうか?私の目から見れば因果関係ははっきりしているのですが?それとも高千穂鉄道同様に見捨てるつもりなのでしょうか?


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 風倒木が話題になったのは30年近く前の1990年代初頭の事でした。三十年前は、まだ全般的な樹齢が低く、風で折れる事により根こそぎ倒れ林地崩壊にまでは進みませんでした。

懐かしくさえ感じますが、現在は売れない伐期を越えた大木が崩壊を待っている状態にあるのです。

既に、朝倉、日田に住むこと自体が危険な博打事に思える時代になっているのです。

この危機感を理解できる人はまだ少ないと思いますが、もう後戻りできないところまで来ています。

それほど事態は深刻なのです。


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最後に辛い現実をお伝えしなければなりません。

前述したように、今回の大雨は決して筑後川が決堤、溢流するといった降水量ではありませんでした。

洪水の原因はひとえに人工林地の崩壊であり、杉、檜の山が崩れて下流の集落を襲っただけの事なのです。

そこで考えて下さい。自分が植えた杉山に自分の家が押しつぶされるのは自業自得と言うか国に騙されただけの事ですが、他人の植えた杉山によって家族や家や田畑を流された人々は泣きねいりしなければならないのでしょうか?

私に言わせれば、これは自然災害ではなく予想できる崩落を放置した林地所有者の過失により生じた加害行為(刑事罰から言えば殺人)で損害賠償の対象としか見えないのです。

杉山の所有者は家や家族や田畑を流された他人に申し訳ないとは思わないのでしょうか?

そして、森林組合から市町村、県の出先レベルの職員はほとんど自らの頭で考える事が出来ない事から、分からないとしても、県の技術部門(こいつらも杉と檜の区別=慣れれば葉を観なくても幹を見れば分かる もつかないダメな連中かもしれませんが)から農水省の幹部は、ほとんど知っていながら放置しているという未必の故意に等しいものであり、国家レベルで言えば無能な官僚としか言いようがないのです。

これは、全体として見れば国家による殺人に等しいものであり、無能な国家、無能な官僚とその追従者たちが引き起こした国家的悲劇である事は明らかなのです。

これについては、針葉樹林に火を着けろ!と以前から主張していますが、災害直後、林業家であり、「日本政府の森林偽装」の著者でもある平野虎丸さんと話をしました。

平野さんは開口一番「殺人ですね…」と言われました。まさにその通りです。


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学者も仕事が来なくなる事から“原因は崩壊しやすい真砂土に原因がある”などとお茶を濁していますが、勿論、本質ではありません。

真砂土は昔から真砂土であって、近年になり崩落が激増している説明になっていない事は明らかでしょう。こんな連中は大嘘つきの所詮御用学者なのです。


針葉樹林に火を着けろ!については「ひぼろぎ逍遥」にリンクしているsp112-11から


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204. 宮崎県鰐塚山針葉樹林の大崩壊 ( 宮崎県内の全ての川が土砂で埋まる

針葉樹林に火を着けろ!

田 野

 宮崎市の西隣に、現在は同市と合併した旧田野町がありました。この南側に柳岳、並松山、朝陣野といった千メートル級の高峰が連なっていますが、その大山塊の最高峰が鰐塚山(1118.1m)です。
 さて、二〇〇五年九月に宮崎を通過した台風14号は、高千穂鉄道消失に象徴される大災害を宮崎県下全域にもたらしましたが、大規模な土砂崩れが頻発した北の椎葉村を圧倒的に上回る大規模な山腹崩壊(山体崩壊)を起こしたのが、この鰐塚山北麓の別府田野川流域でした。
 死者が存在しなかったためか、県外ではほとんど話題にもなりませんでしたが、見た事もないような規模の土砂崩れが起こっているのです。
 愚かな林学の走狗によって引き起こされた針葉樹林の問題についてはこれまでにも何度となく書いてきましたが、今回もこの樹齢の上がった危険極まりない針葉樹林地の実情を理解して頂くために気の重い論文を書くことになってしまいました。

なお、スタート直後ですが、「川の再生を願って」がオン・エアされています。併せてお読み頂ければ幸いです。



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438(前) 天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した・”

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438(前) 天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した・”

20170125

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


菊池市の西、中心街から菊池渓谷へと向かう尾根道を走り、篠倉から広域農道を南に登ると、原地区に入ります。

ここを通る県道沿いの一画に天地元水神社と言う変わった名の神社があります。

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宮司の渋江氏は熊本市内にお住まいのため、普段、神主や巫女さんと言ったものを見かけることはありません。

ところが、この神社縁起には驚くべきことが書かれているのです。

もちろん。橘 諸江が直接菊池に縁があったわけではありませんが、息子の奈良麻呂(奈良麻呂の変で失脚)直系、諸兄の孫の島田丸の末裔が鎌倉期に肥前長島荘(佐賀県武雄市)から菊池に入っているのです。まずは、下の由来(写真)をお読み下さい。

橘町、橘村といった地名は、長崎の橘湾、佐賀県武雄市の橘町、福岡県大牟田市の橘町、うきは市、橘田(橘の広庭宮)など散見されますが、武雄市の橘町は明治期に橘 諸江の一族が住み着いていたことに因んで橘村とされています。

初めて聞く話で不思議に思われることでしょうから、いくつかの物証をお示ししましょう。

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天地元水神社


奈良麻呂の変の廃太子道祖王の墓地


皆さんは奈良麻呂の変というものがあったことをご存知でしょうか?


757(天平宝字元)年3月、孝謙天皇は、道祖王が喪中にも関わらず侍童と密通したとして、皇太子を廃太子にしました。 
 4月、孝謙天皇(25歳)は、新しい皇太子を公募しました。右大臣藤原豊成は、道祖王の兄である塩焼王を推薦しました。左大弁大伴古麻呂は、池田王(舎人親王の子)を推薦しました。
 藤原仲麻呂は、孝謙天皇が選ぶべきと進言しました。孝謙天皇は、不行跡の道祖王の兄である塩焼王は不適当でり(ママ)、池田王は親不孝であり、大炊王(舎人親王の子)は悪い噂を聞かないので皇太子に立てると提案し、群臣も賛同しました。
 大炊王は、藤原仲麻呂の長男である真従(早世)の未亡人粟田諸姉を妻としており、仲麻呂邸に同居していました。大炊王の立太子は仲麻呂の強い希望であったことがわかります。
 7月、橘諸兄(74歳)が亡くなると、その子奈良麻呂(37歳)は実権を失いました。仲麻呂の台頭に不満を持った奈良麻呂は、大伴古麻呂らと挙兵し、仲麻呂殺害・孝謙天皇廃位、塩焼王・道祖王らの即位を計画したとして、密告され、殺害されました。この計画に連座したとして、古来の名門である大伴氏や佐伯氏らが逮捕されました。
 前皇太子の道祖王も謀反の容疑をかけられ、藤原永手らの拷問を受けて、獄死しました。これを橘奈良麻呂の乱といいます。
 8月、孝謙天皇が譲位し、大炊王が即位して淳仁天皇(25歳)となりました。

hp「エピソード日本史」より


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概略は以上のようなものですが、橘 諸兄は縣(橘)犬養三千代の子であり、奈良麻呂は、また、その子、三千代の孫になります。そして、奈良麻呂の変の立太子「道祖王」の墓が旧橘村にあるのです(もちろん、奈良にもありますが、分骨されることは十分に想像できます)。

この道祖王の墓は地元でドウザノボチ(←ドウソオウサマノボチ)と呼ばれています。

では、なぜ、この地に道祖王の墓地があるのでしょうか?

橘 諸兄が太宰の権帥のとき、配下にいたのは吉備真備でした。

諸兄の後に真備が太宰の帥になっていますので、真備に匿われた可能性があると考えています。

何よりも、奈良麻呂の変の時期にも、また、後述しますが、和泉式部参内の時期にもこの杵島山一体と中央には橘氏のルートが存在していたものと思われ、さらに言えば橘氏の本貫地の一つであったのかも知れません。


 橘 諸兄とかっぱを祀る潮見神社


実は、天地元水神社と同様の、橘 諸兄を祀る神社がこの武雄市の橘町にもあるのです。

そして、その両方にも河童の話が伝えられているのです。


春日神社側の伝承として、「北肥戦志」に次の記録がある。(若尾五雄「河童の荒魂」(抄)『河童』小松和彦責任編集。シリーズ『怪異の民俗学3』より転載)
「昔橘諸兄の孫、兵部大輔島田丸、春日神宮造営の命を拝した折、内匠頭某という者九十九の人形を作り、匠道の秘密を以て加持するに、忽ちかの人形に、火たより風寄りて童の形に化し、或時は水底に入り或時は山上に到り、神力を播くし精力を励まし召使われる間、思いの外大営の功早く成就す。よってかの人形を川中に捨てけるに、動くこと尚前の如く、人馬家畜を侵して甚だ世の禍となる。此事遥叡聞あって、其時の奉行人なれば、兵部大輔島田丸、急ぎかの化人の禍を鎮め申すべしと詔を下さる。乃ち其趣を河中水辺に触れまわししかば、其後は河伯の禍なかりけり。是よりしてかの河伯を兵主部と名付く。主は兵部という心なるべし。それより兵主部を橘氏の眷属とは申す也。」

 さらにこの論文で若尾氏は、島田丸の捨てた人形は日雇いの「川原者」ではなかったかと推測している。


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hp「麦田 耕の世界」俳句禅善より


まだ、半信半疑の向きも多いと思いますので、もう少し補足させていただきます。

武雄市橘町の潮見神社には非常に濃厚な河童伝承があります。山頂には島見社(恐らく島とは杵島山のこと)が置かれ、相当に早い時代から、イザナミ、イザナギが祭られていたようですが、この潮見神社の祭神の一つに(恐らく主神でしょうが)橘 諸兄(上宮)があります。中宮には橘奈良麻呂、橘公業(キンナリ)、下宮には渋江公村、牛島公茂、中村公光(いずれも橘公業の末裔で分家筋)などが祭られています。

「奈良麻呂の変」後、橘氏は、そのかなりの部分が殺され、半数が没落しますが、それを悲しんだ犬養三千代が敏達天皇に働きかけ、春日大社の造営に奈良麻呂の子島田丸を抜擢(兵部太夫)させます。

その背後には、釘を使わぬ古代の寺院建築の技術を持った職能集団(河童とか兵主と呼ばれた)が囲い込まれていたのではと考えています。


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潮見かっぱの誓文


「奈良麻呂の変」後、橘氏は、そのかなりの部分が殺され半数が没落しますが、それを悲しんだ犬養三千代が敏達天皇に働きかけ、春日大社の造営に奈良麻呂の子島田丸を抜擢(兵部太夫)させます。その背後には、釘を使わぬ古代の寺院建築の技術を持った職能集団(河童とか兵主と呼ばれた)が囲い込まれていたのではと考えています。

詳しく知りたい方は、古川のHP「環境問題を考える」(アンビエンテ)から「兵主」をお読みください。橘氏と河童さらには兵主のことを書いています。ちなみに、武雄周辺では悪口で「ヒョス」が最近まで

使われていましたが、これは河童をあざけった兵主からきたものでしょう。


 橘 公逸(キンナリ)


武雄市橘町永島にある神社。旧郷社。祭神は上宮が伊ザナギ命・伊ザナミ命,中宮が神功皇后・応神天皇・武内宿禰・橘奈良麻呂・橘公業。下宮は今はないが,渋江公村・牛島公茂・中村公光を祀っていた。社伝によれば,往古この地は小島で島見郷と称し伊ザナギ・伊ザナミ2神を祀っていたが,その後橘奈良麻呂が恵美押勝との政争に敗れて当地に逃げのび土着したと伝える。さらにその子孫の橘公業が嘉禎3年(1237)にこの地の地頭となって赴任し,奈良麻呂の父橘諸兄をも合わせ,その他諸神を配祀して鎮守社としたと伝える。平安期安元22月の武雄神社社憎覚俊解状(武雄神社文書/佐史集成2)に「御庄鎮守塩見社」と見え,武雄社と並んで長島荘の鎮守の1つとされていた。また同地の橘氏の流れをくむ武蔵橘中村家の文書,寛元元(1243)年96日関東御教書案(鎌遺6235)には,99日の流鏑馬を土地の者が勤めないとあり,この流鏑馬は潮見社の祭礼に関わるものと考えられる。

当社には昔肥後国菊池経直が祭礼の流鏑馬に落馬して葬られたと伝える墓がある。

…(中略)…

当社は河童の伝承を有し,これは橘公業が当荘赴任の際に全国の河童がつき従って当地にやってきたためと言い伝えている。

社蔵の御正体(市重文)は元禄51692)年の再興銘を持つが、その銘に「本興建久六乙卯九月一日」とある。


以上、菊池(川流域)地名研メンバー(当時)牛島稔大のhp「牛島さんたちのル-ツに迫る」より。


この潮見河童は橘諸兄の子孫の橘奈良麻呂(子)、島田麻呂(孫)以来の河童伝承であることから、単なる伝承とかいったものではなく、なんらかの史的事実の存在を感じさせます。

実は、この橘村という名称は明治二二年の町村合併時に、橘諸兄の末裔が住みついたことにちなんで付けられたのですが、これだけでも、橘村が橘氏とただならぬ関係があることが分かります。

しかし、それ以上に、橘村と河童にも深い関係があるのです。

橘諸兄は第三〇代敏達(ビタツ)天皇(*)の第五代の葛城王ですが、橘の姓をもらい諸兄と改めます。

一時は藤原氏を押え権勢をふるうのですが、徐々に藤原仲麻呂が勢力を盛り返します。

諸兄の死後、仲麻呂の専横に怒ったか、危機感を覚えたかは分かりませんが、諸兄の子の奈良麻呂が藤原仲麻呂の打倒に決起するのです。

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しかし、これは失敗に終わり、橘氏、大伴氏から数百人の犠牲者を出すことになります(奈良麻呂の変/七五七年)。

当然にも多くの敗走者、亡命者が出たのでしょうが、この前後、大宰府は橘諸兄の影響が残っていたものと思われ(諸兄は左大臣と大宰師=ダザイノソツを兼ねていた時期があります)、その際に重用された吉備真備の援助によって身を隠した橘氏の一群がこの杵島山の山裾の橘村周辺に住みついたと言われているのです。

さて、ここから再び河童の話になります。和銅二年、藤原不比等が常陸の国(歌垣伝承の地)鹿島から春日大社(軍神)を奈良の三笠山の地に遷宮するのですが、その折に、滅ぼされた奈良麻呂の子である島田麻呂が兵部大輔(ヒョウブタイフ)として造営の責任者にされたといわれています。

このとき、呪文により九十九体の木の人形に命を吹き込み、一夜にして人手を集め遷宮を成功させたという話があるのです。

この話は、橘氏の配下に高層建築技術を持った渡来系の職能集団が存在したことを感じさせます。つまり、数百年前に江南から渡ってきた渡来系の人々が兵主部として、時の権力に付かず離れずの関係を持ちながら独立性を維持し、高層建築を請負う職能集団としての技術を保ってきたのではないかと思うのです。

 恐らく、常陸の鹿島の春日大社も彼らが建てたのであり、解体も、彼らによってしかできなかったと想像します。そして、搬送が可能な部材は全て運んだと思われるのです。


*)第三〇代敏達(ビタツ)天皇 :

欽明天皇の第二子で、…中略…欽明天皇二十九年(欽明紀は十五年とする)に立太子し 欽明天皇の崩御にともない即位した。『日本書紀』には「天皇仏法を信ぜずして、文史を愛す」と見える。


 「歴代天皇総覧」笠原英彦(中公新書)

438(後) 天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した・”

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438(後) 天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した・”

20170125

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


その後の橘氏


 奈良麻呂の変の後、彼がどのようになったのかは分かりません(獄死とも言われます)。ただ、旧橘村の杵島山の麓には、橘氏の末裔が身を潜めたという伝承にとどまらず、奈良麻呂が擁立し敗死した道祖王(廃太子)の墓と言われるものまでが残っているのです。

島田麻呂が春日大社の造営に成功した後、直系の一群がどのようになったかも良くは分かりません。もちろん、全ての橘氏が奈良麻呂の変に参加したわけではなく、当然にも全てが根絶やしにされたというわけでもありません。しかし、その後も、反乱に参加した橘氏の一部はこの杵島山周辺に住み続けていたのではないかと思うのです。

 時代は飛びますが、鎌倉政権の一二三七年、頼朝の侍大将であった橘薩摩守公業が宇和島から杵島山の対岸の長島庄に総地頭として下向します。このとき河童も一緒に眷属(配下)として随行したという話もあるのですが、この橘公業が、その後の牛島、中村、渋江…という杵島の橘氏の直系の三家の始祖になるのです。恐らく、隠れ住んだ橘氏のことも、その末裔が住み続けていることも知り尽くした上での下向だったことでしょう。では、本当にそうだったのでしょうか。

橘公業以降の杵島山の橘氏については、「河童共和国」とも関係が深い神奈川大学大学院の小馬徹教授が、河童退治の神事などで知られる天地元水(てんちげんすい)神社(熊本県菊池市)の宮司・渋江家に伝わる大量の古文書を調査されていますが、そのことが、「河童信仰広げた肥後渋江家」として熊本日日新聞(平成一七年五月七日付け)に掲載されていますので、一部を紹介させて頂きます。


私は、河童信仰の淵源(えんげん)を嘉禎ニ(一二三六)年に伊予宇和荘(愛媛県)から肥前(佐賀県)長島荘へと転補入部した橘氏(その本家が後の渋江氏)まで、遡(さかのぼ)れると論じた。橘氏は先祖橘島田丸配下の内匠頭(たくみのかみ)が奈良春日大社造営に駆使した後で捨てた人形が狼藉(ろうぜき)したという古い神話を下敷きに、乾元年間(一三〇二-三年)、春日大社準(なぞら)えて潮見神社(佐賀県武雄市)を創建、橘(渋江)氏が使役した人形が河童の起源だとする話に鋳直す。この神話に基づくカリスマ性が在地勢力を圧倒、長島荘の支配を巧みに確立した、と(河童相撲考)。


橘公業以降の橘氏(牛島、中村、渋江…)についても多くの逸話がありますが、とりあえず、ここまでとします。

 なお、この杵島山の麓にいた橘氏の話については、その大半を、橘小学校の校長もされた、郷土史家の吉野千代次先生に教えて頂いたものですので、改めてここでお断りしておきます。

 この杵島山の山裾にはもう一つの興味深い話があります。それが、橘氏の存在をもっと鮮明にしてくれるのです。


稲佐神社(イナサジンジャ)


杵島山の東麓、杵島郡白石町(旧有明町)に鎮座する神社です。        

稲佐神社は平安時代初期にはすでに祀られていました。『日本三大実録』の貞観3861)年824日の条に、「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹生神ならびに従五位下を授く」とあり、これが稲佐神社が正史に現われた最初の記録です。また、社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」と記されています。

 平安時代になり、神仏習合(日本古来の「神」と外来の「仏」が融合)の思想が広まると、稲佐大明神をまつる稲佐神社の参道両側に真言寺十六坊が建立され、この一帯を「稲佐山泰平寺」と呼ぶようになりました。

この泰平寺を開いたのは弘法大師(空海)であると伝えられていて、今も弘法大師の着岸した地点が「八艘帆崎」(現辺田)としてその名をとどめています。また、「真言寺十六坊」は、この地方の大小の神社の宮司の立場にあったと言われています。


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八艘帆が崎(ハスポガサキ)


 ここには県道錦江~大町線が通っているのですが、稲佐神社付近にこの地名が残っています。

県道沿いの境内地と思えるところには、この八艘帆ケ崎の謂れについて書かれた掲示板が建てられています(平成四年四月吉日大嘗祭記念稲佐文化財委員会)。
 これによると、杵島山はかつて島であった。欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるとされています(稲佐山畧縁記)。                    

 百済の聖明王は仏教伝来にかかわる王であり、六世紀に朝鮮半島で高句麗、新羅などと闘ったとされていますが、五五四年に新羅との闘いの渦中に敵兵に討たれます。

これは、その闘いの前の話なのでしょうか?それとも、一族の亡命を意味するものなのでしょうか?また、火ノ君とは誰のことなのでしょうか。私には大和朝廷とは別の勢力に思えます。なお、聖明王は武寧王の子であり、武寧王は先頃の天皇発言で話題になった桓武天皇の生母がこの武寧王の子孫とされているのです(続日本紀)。

このような場合に頼りになるのがHP「神奈備」です。孫引きになりますが紹介します。佐賀県神社誌(縣社稲佐神社)から として 百済国の王子阿佐来朝し此の地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廟を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。と、あります。稲佐山畧縁記とありますが、掲示板の記述はこれによっても補強されます。今後も調べたいと思いますが、これらに基づくものと思われます。
 本来、「六国史」や「三大実録」あたりから日本書紀や三国史記を詳しく調べなければならないのでしょうが、当面、私の手には負えません。
 少なくとも、この伝承は、杵島山の東側の山裾まで有明海が近接していたことを語っています。


和泉式部は杵島山の麓で生まれ育った


万葉集」に「あられふる 杵島が岳を険(さか)しみと 草とりかねて 妹(いも)が手をとる」と詠われる杵島山では、かつて歌垣が行われていたと伝えられています。

私は、この地に揚子江流域から呉越の民、ビルマ、タイ系の人々が入ったと考えていますが、それはひとまず置くとして、 和泉式部は佐賀県白石町(旧錦江村)の福泉禅寺で生まれています。  

すぐそばには、百済の聖明王の一族が渡来(亡命)したとされる稲佐神社があります。式部は和泉守の橘 道貞の妻となり、父の官名と夫の任国とを合わせて和泉式部と呼ばれます。この道貞との間に小式部内侍が生まれます。夫とは後に離れますが、娘は母譲りの歌才を示しています。

 皆さんご存知でしょうが、百済の王都は錦江(クムガン)にありましたね。稲佐神社に聖明治王の一族の亡命伝承があるとすれば、錦江村の錦江がクムガンと無関係とは思えないのです。もしかしたら、和泉式部も百済系渡来人の子孫かも知れないのです。 

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和泉式部が育った塩田町


後に、式部は杵島山を西に越えた嬉野市塩田町の大黒丸夫婦に九歳まで育てられ京都に登り参内します。


438-8平安朝きっての歌人として名高い和泉式部は、佐賀県杵島の福泉寺に生れ、塩田郷の大黒丸夫婦にひきとられて9歳まで過ごしました。その後、式部は京の宮廷に召され、優れた才覚と美貌で波瀾に満ちた生涯を送ったと伝えられます。今でも嬉野市塩田町には和泉式部にまつわる地名や伝説が数多く残っており「五町田」という地名は式部が詠んだ「ふるさとに 帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらん」という歌に感動した天皇が大黒丸夫婦へおくった「5町の田圃」から由来するものです。「和泉式部公園」はこうしたロマンあふれる伝説の地に造られています(嬉野市のHPより)。  写真は和泉式部公園(嬉野市塩田町)


繰り返しになりますが、和泉式部は、この杵島山で生まれ育っています。

杵島山の東南側に位置する旧杵島郡有明町(旧錦江村)の稲佐神社の隣にある福泉禅寺(無論、式部の時代は曹洞禅ではありませんが)が生誕の場所で、その後、杵島山の西側に位置する藤津郡塩田町(現在は嬉野市塩田町)に移り、大黒丸夫婦に引取られて九歳までこの塩田郷で過ごしたのです。


今でも塩田町には和泉式部にまつわる地名や伝説が数多く残っており「五町田」という地名は式部が詠んだ「ふるさとに帰る衣の色くちて錦の浦や杵島なるらん」という歌に感動した天皇が大黒丸夫婦へおくった「5町の田圃」から由来するものです。

塩田町ホーム・ページから


その後、宮廷に召されることになるのですが、式部の最初の夫になるのが橘 道貞であったのです。

私には、この背後に杵島山の橘氏の存在があるように思えるのです。つまり、平安中期にも、杵島山から京都へ、京都から杵島への橘氏のルートが連綿として存在していたと考えられるのです。

スポット112(前) 朝倉~日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした!

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スポット112(前) 朝倉~日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした!

20170713

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


20177月の九州北部豪雨では、福岡県朝倉市~大分県日田市に掛けての多くの山沿いの集落が悲惨な状況に陥っています。

しかし、本流の筑後川の堤防は決壊(決堤)、溢流(オーバー・フロー)もしていませんし、単に大雨が降って流れただけならば泣く人も全くいなかったはずなのです。


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画像は一例ですが、良く知られた場所の朝倉市杷木町の杷木ICの西側の被災地です。


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今のところどこが最も酷い災害地なのかが分からない状態ですが、まず、筑後川北岸(右岸)の朝倉から日田にかけての山間部を中心に局所的に被害が出ているようです。

実は、この局所的と言う認識が重要なのです。

一般的には朝倉市から日田市に掛けた全域で大規模な雨が降っているといった印象をお持ちの方が多いかも知れませんが(そういった発表がされているので当然でしょう)、メンバーにはブロガーでもある元気象庁の上級職員もおられ、等しくこの一帯に住む者として“全くそうではない”という話をしています。

大規模な災害が頻発した前後、私自身は日田市でも東の標高450メートルの阿蘇の外輪山の延長の様な所にいたからかも知れませんが、それほど大規模な大雨が降ったと言った印象はありませんでした。

あくまでも、被害は山崩れが起こった地域に集中しており、この人工林地の崩落が起こっていない場所では被害と言う被害は全く認められないのです。

問題は人工林地の崩落であり、テレビ報道を見続け確認を続けましたが、その崩落地の大半がと言うよりも殆ど全てが杉、檜(まあ大体は伐期35年のはずの杉林なのですが)の人工林地だったのです。

その前に気になる事があるので先に触れておかなければなりません。

それは、「線上降水帯」とか48時間降水量(見せかけ上これまでにない大雨が降った印象を与える)で550と言った新表現によって過度に大規模な大雨が降っているといった印象を植え付けようとしている(印象操作)ように思える事です。

それに連動して、“焼け跡に焼夷弾”と言った感のある責任逃れのためのメールがやたらと乱発されているのです。

こういった事を奇妙に思っていると、武田邦彦教授がユーチューブ上で十分納得できる話を早々と出しおられました。


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少なくとも私に関しては、行政や気象庁や大手マスコミは信用するに値せず、全くの嘘に近い情報を発信しているものと確信しています。

まずは、僭越ながらも武田教授の話を一つでもお聴き頂きたいと思いご紹介申し上げます。

今回の大雨報道、洪水報道の異常さについては武田教授が十分に話しておられますので付け加える必要などありません。

これも教授が指摘されていることですが、私が産まれた昭和28年の諫早大水害の時の降水量は、24時間(決して48時間ではないのです)1109㎜なのであり、遥かに多い(今回の4倍程度)降水量が確認されているのです。

つまり、この程度の雨(普通の大雨で来年でも今年でも再び起きる)はこれまでにも何度となく降っていたのであって、それ以上に大きな問題が背後に隠れている事に気付かなければならないのです。


諫早豪雨

諫早豪雨(いさはやごうう)は、1957725日から728日にかけて長崎県の諫早市を中心とした地域に発生した集中豪雨およびその影響による災害のこと。

諫早豪雨は気象庁が正式に命名したわけではないが、広く使われている呼称である。地元自治体やマスコミなどは諫早大水害(いさはやだいすいがい)の呼称も用いている。

以下の記述では、市町村合併によりすでに消滅している自治体もあるが、原則として豪雨発生当時の自治体名で示す。

南高来郡瑞穂村西郷では24時間降水量が1109mmという驚異的な降水量を記録し、6時間降水量と12時間降水量では日本歴代最高記録を記録している。


ウィキペディア(20170713 21:26による


長崎大水害(ながさきだいすいがい)は、1982年(昭和57年)723日から翌24日未明にかけて、長崎県長崎市を中心とした地域に発生した集中豪雨、およびその影響による災害である。

気象庁は長崎県を中心にした723日から25日の大雨を「昭和577月豪雨」、長崎県は「7.23長崎大水害」(7.23ながさきだいすいがい)と命名したが、本項では降雨・災害双方を区別しない通称の「長崎大水害」を項目名とした。

以下の記述では、市町村合併によりすでに消滅している自治体もあるが、原則として豪雨発生当時の自治体名で示す。

長崎市の北に位置する西彼杵郡長与町では23日午後8時までの1時間に187mmの雨量を観測。これは日本における時間雨量の歴代最高記録となっている。また西彼杵郡外海町では23日午後8時までの2時間に286mmの雨量を観測し、こちらも歴代最高記録となっている。…

…時間雨量では長与町役場に設置された雨量計で2320時までの1時間に187mmと、1時間降水量の日本記録となる値を観測。長浦岳の雨量計(アメダス)では19時までの1時間に153mm、同8時までに118mmの雨量を観測した。また、外海町役場に設置された雨量計で2320時までの2時間に286mmと、2時間降水量の日本記録を記録している。降り始めからの24時間雨量は長崎海洋気象台で527mmを観測した。

ウィキペディア(20170719 11:18による


299人の死者を出した長崎豪雨災害は527㎜であり、48時間で550㎜などと倍の嵩下駄を履いた朝倉は24時間に置き換えれば、その半分の規模でしかなかったのです。

今回の豪雨災害(一応豪雨としておきますが…)の特徴はどなたが見ても歴然とする杉、檜の流木の異常な多さでにり、どのように考えても売れもしない人工林を無理に植えさせ、売れないまま放置させていることから、急斜面に50年生、60年生といった通常の伐期を越えた大重量の危険な木材が崩れ落ちるのを待っていた事にあったのです(これを追認したのが「長伐期施業」という事実上の棚上げ政策です)。

これこそが拡大造林政策の付け回しによる負の遺産であり、今後、国民生活を脅かす危険な時限爆弾と言えるものなのです。

恐らく今回の災害復旧が完了する前後には再び別の豪雨災害が追い打ちをかけ、今回被災を免れた場所や復興したばかりの場所さえもが再び抜ける事になるでしょう。

事実、日田市の山国川流域では五年前の災害復旧の途上の場所が、またもや新たな洪水被害を受けている様なのです(まだ、現地に入れないため確認できないでいます)。


時限爆弾としての人工林地


 これについては、この間何度も書いてきましたので要点しか申し上げません(実際、バカバカしくてまじめに書く気にならないのです)。


 現在、人口減少の中で家は余り続けていますし、まず、需要が減少している事はお分かり頂けるでしょう。

 家を建てられる経済力を維持している都市住民の住居は、既に大半がマンションであり、鉄とコンクリートとガラスとプラスティックスと僅かばかりの外材(米松)だけで造られており、国産材が使われる余地はほとんどありません。

 その上に、売国奴小泉竹中改革以来、国民の所得が半減させられた結果、伝統的な和風住宅を建てられる財力を持った人は激減しており、所謂、大工さんが建てる様な和風住宅が減り、国産材(杉、檜)の需要は今後とも回復しません。

 現在、農水省、林野庁、県林業課、森林組合といったバカの4乗による新規植林、造林が継続されていますが、需要の回復は目を覆うばかりの惨状で、売れない国産材を処分するためにバイオマス発電と称して高コストの逆ザヤ発電により焼却処分されているのが実情なのです。


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 この問題を一時的に棚上げにするために60年生の育林などといった事実上の放置が蔓延し、伐期が遥かに超え搬出もままならない大重量の杉、檜(本来の伐期は3540年、4045年)が、表土を失った急傾斜にドミノ倒し並みの崩落の順番を待っている状態にあるのです。

 恐らく災害復旧が完了する前に再びどこかで同様の災害が見舞う事になるでしょう。

 福岡県の人工林率(H243.31)は全国第二位(64%)ですが、朝倉市周辺は、最も大きな地域です。、大分県は54%と多少低いのですが、大半の崩落地は日田杉の産地(日田は筑後川を利用した伝統的な杣山)であり、針葉樹林の山裾で大規模な洪水が起こった事が今回の災害の特徴なのです。

もしも広島県(33%)のように人工林比率の低い場所で今回程度の雨が降っていたとしても大した災害も出ることなく済んだことでしょう。全ては人工林地の崩落による山津波が下流に押し寄せた事が原因だったのでした。

 全ては戦後の拡大造林政策に端を発しており、並行して行われた大量の外材の輸入というチグハグな政策の中で、野放図な造林が放置された結果、無様どころか非常に危険な人工林地が放置された状態にあるのです。


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スポット112(後) 朝倉~日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした!

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スポット112(後) 朝倉~日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした!

20170713

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 恐らくバカの4乗の農水省以下は十分にこの事に気付いているはずで、だからこそ気象庁と組んで、史上ないような水増しされた大雨キャンペーンを張り、焼け跡に焼夷弾的な緊急大雨情報なり緊急避難通報ったものと考えます(国民ではなく省益を守るための責任回避キャンペーン)。

 山に木がある事が危険だなどと言えば信じられないかも知れませんが、エネルギー転換が起こった昭和40年以前まで、家庭の燃料は炭(木炭)、薪、豆炭、練炭…が中心で、現在、人工林地となっている多くの山は大半が広葉樹(クヌギ、ナラ、カシ…)の炭山や普通の里山だったのです。


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 この広葉樹は急峻な岩山にも根を張り(山を守り)、腐葉土を育み表土を豊かにしてきました。

逆に言えば、広葉樹であったが故に急傾斜地にも森を育み下流の集落を守ることができていたのです。

 伝統的な山の傾斜と言うものはその山の植生と土質によって決定されます。

 それは何百年と言った風雨にさらされた浸食と復林のバランスによって自ずと決定されてきたのです。

 ところがそのようにして形成された広葉樹の森の伐開後に杉、檜の幼木が植えられたのですが、始めのうちは順調に育ちます。何故ならばその地盤は何百年という永きにわたって育まれた腐葉土溢れる豊かな土壌をもった地面だったからです。

 ところが、針葉樹は腐葉土を育みませんし保水力がありません。しかも、根を張らないために表土を守る力が弱く、年年歳歳表土を流出流失させます。おまけに餌が無く動物が棲まない(棲めない)ため、山自体の栄養が循環せず土地一方的に痩せ栄養を失い続けます。

 林野庁は広葉樹林と針葉樹林とでは保水力にそれほどの差はないとの研究をヤラセているようですが、それは管理された人工林地の話であり、そんなものは全体の十分の一もないでしょう。しかも、そのモデル化された針葉樹林地でさえも、元々は広葉樹が何百年と言う永きに亘って育み造り出した土壌だったからなのです。つまり、何百年と育まれた伝統的杣山と保水力を比較しなければ意味はないのです。 

 その上、売れない針葉樹に手を入れる林地所有者はいなくなり、枝打ちも間伐も行われなくなり、針葉樹の森は真っ暗で下草も生えないため砂漠状になり、大雨の度に剝き出しとなった土壌は流出を続け、ついには限界を越えて崩落へと進むことになるのです。

 危険な人工林地が崩落への順番を待っている事がお分かり頂けたのではないでしょうか!

 このため、責任を回避するために、異常なまでの観測にない大豪雨といった印象操作報道を行っているように見えるのです。

 繰り返しますが、私が産まれた昭和28年の諫早大水害の時、24時間で1109㎜降っているのです。

してみると、今回の朝倉豪雨は48時間557㎜(二日間)とは200300㎜の4分の一程度の何時でも起こりうる大雨であり、その程度の雨でこれほどの被害が出たということは、今後も人工林崩壊による洪水が毎年どころか今年でさえ再発し、来年以降も頻発する事になるのです。


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こうなると、災害復旧としての道路復旧、農地復旧、住宅復旧自体も全く意味のない博打のようなものに見えるのですが、皆さんはこれでもまだ朝倉に家を再建し留まり住もうと思いますか?

何故なら、復旧しても直ぐに再び流される事になるからです。朝倉、日田から逃げ出すべき!

問題は個人の家屋や人生が押し流される段階から、地域経済全体が成立できない段階までレベルが上がり始めた事です。

 既にJR久大線の花月川橋梁(大分県日田市)が流されています。どう見ても短期間での復旧は望めず、ゆふいんの森号(まさかバスによる代行運転できないので北九州周りにするでしょうが)は忘れ去られるところまで行くはずです。

JR九州は農水省に対して損害賠償請求する気はないのでしょうか?私の目から見れば因果関係ははっきりしているのですが?それとも高千穂鉄道同様に見捨てるつもりなのでしょうか?


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 風倒木が話題になったのは30年近く前の1990年代初頭の事でした。三十年前は、まだ全般的な樹齢が低く、風で折れる事により根こそぎ倒れ林地崩壊にまでは進みませんでした。

懐かしくさえ感じますが、現在は売れない伐期を越えた大木が崩壊を待っている状態にあるのです。

既に、朝倉、日田に住むこと自体が危険な博打事に思える時代になっているのです。

この危機感を理解できる人はまだ少ないと思いますが、もう後戻りできないところまで来ています。

それほど事態は深刻なのです。


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最後に辛い現実をお伝えしなければなりません。

前述したように、今回の大雨は決して筑後川が決堤、溢流するといった降水量ではありませんでした。

洪水の原因はひとえに人工林地の崩壊であり、杉、檜の山が崩れて下流の集落を襲っただけの事なのです。

そこで考えて下さい。自分が植えた杉山に自分の家が押しつぶされるのは自業自得と言うか国に騙されただけの事ですが、他人の植えた杉山によって家族や家や田畑を流された人々は泣きねいりしなければならないのでしょうか?

私に言わせれば、これは自然災害ではなく予想できる崩落を放置した林地所有者の過失により生じた加害行為(刑事罰から言えば殺人)で損害賠償の対象としか見えないのです。

杉山の所有者は家や家族や田畑を流された他人に申し訳ないとは思わないのでしょうか?

そして、森林組合から市町村、県の出先レベルの職員はほとんど自らの頭で考える事が出来ない事から、分からないとしても、県の技術部門(こいつらも杉と檜の区別=慣れれば葉を観なくても幹を見れば分かる もつかないダメな連中かもしれませんが)から農水省の幹部は、ほとんど知っていながら放置しているという未必の故意に等しいものであり、国家レベルで言えば無能な官僚としか言いようがないのです。

これは、全体として見れば国家による殺人に等しいものであり、無能な国家、無能な官僚とその追従者たちが引き起こした国家的悲劇である事は明らかなのです。

これについては、針葉樹林に火を着けろ!と以前から主張していますが、災害直後、林業家であり、「日本政府の森林偽装」の著者でもある平野虎丸さんと話をしました。

平野さんは開口一番「殺人ですね…」と言われました。まさにその通りです。


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学者も仕事が来なくなる事から“原因は崩壊しやすい真砂土に原因がある”などとお茶を濁していますが、勿論、本質ではありません。

真砂土は昔から真砂土であって、近年になり崩落が激増している説明になっていない事は明らかでしょう。こんな連中は大嘘つきの所詮御用学者なのです。


針葉樹林に火を着けろ!については「ひぼろぎ逍遥」にリンクしているsp112-11から


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204. 宮崎県鰐塚山針葉樹林の大崩壊 ( 宮崎県内の全ての川が土砂で埋まる

針葉樹林に火を着けろ!

田 野

 宮崎市の西隣に、現在は同市と合併した旧田野町がありました。この南側に柳岳、並松山、朝陣野といった千メートル級の高峰が連なっていますが、その大山塊の最高峰が鰐塚山(1118.1m)です。
 さて、二〇〇五年九月に宮崎を通過した台風14号は、高千穂鉄道消失に象徴される大災害を宮崎県下全域にもたらしましたが、大規模な土砂崩れが頻発した北の椎葉村を圧倒的に上回る大規模な山腹崩壊(山体崩壊)を起こしたのが、この鰐塚山北麓の別府田野川流域でした。
 死者が存在しなかったためか、県外ではほとんど話題にもなりませんでしたが、見た事もないような規模の土砂崩れが起こっているのです。
 愚かな林学の走狗によって引き起こされた針葉樹林の問題についてはこれまでにも何度となく書いてきましたが、今回もこの樹齢の上がった危険極まりない針葉樹林地の実情を理解して頂くために気の重い論文を書くことになってしまいました。

なお、スタート直後ですが、「川の再生を願って」がオン・エアされています。併せてお読み頂ければ幸いです。



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439 熊本神代史研究会(仮称)月遅れ新春三社詣りトレッキング “人吉盆地に天子宮を探る”

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439 熊本神代史研究会(仮称)月遅れ新春三社詣りトレッキング “人吉盆地に天子宮を探る”

20170123

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 これまでにも何度か、熊本を中心に神社を巡るトレッキングを行っていますが、2017年月遅れながら新春三社詣りトレッキングを行う事となりました。


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写真は2106年の山鹿市でのトレッキング


 12月の講話に続き今回は人吉盆地で4社ほどを巡るトレッキングとなる予定です。

 今回も3040人程度の集まりになる事から事故にならないように気をつけなければならないと思っています。

 このblogがオンエアされる時には既に終了している事と思いますが、4社を廻る際に用意した配布資料をそのままお読み頂くのも良いと考え公開する事にしました。

 以下…。


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あさぎり町杉姫稲荷神社(免田)② 天子神社(深田天子の水公園)深田に行けば分かる

 天子神社(久鹿838)役場そば ④ 大宮神社(多良木町黒肥地1278) 


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2017年年頭 月遅れ新春3社詣りトレッキング・ポイント


  あさぎり町 杉姫稲荷神社 あさぎり町免田東1837 現地は分かり難いため注意して下さい!  

  天子神社  深田天子水公園 深田に行き天子水公演を探せば駐車場は百台分あります。

  天子神社  あさぎり町久鹿838 役場そば

  大宮神社  多良木町黒肥地1278 神紋を見ても重要度は分かるがこれも旧天子のみたまやと!


人吉盆地全域には2030ケ所に天子地名、天子神社、天子宮が散見されます。今のところ、相良氏入封以前の信仰圏の痕跡と考えています。百嶋先生もモーゼを祀るヘブライ系氏族の神社と言われていました。

  杉姫稲荷神社 この神社には同系統と考えられる広島市の杉姫稲荷神社があります。明治政府の祭政一致の国家神道とされた神道の神社とは別に、黒住教、金光教、天理教などの明治政府が公認した教派神道系神道十三派の神理教の教師であった藤田宣彦が大正3年(1914)に創立した誠光教の神社です。


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天子神社(深田天子の水公園)=フリー・メイソンの三角定規とコンパスの神額を抱く天子神社)


ひぼろぎ逍遥021 人吉盆地にユダヤの紋章を持つ神社がある


この神社はこれまで続けてきた天子宮調査の一環で発見したものですが、あまりにも衝撃的な神紋だけに、散逸する前に記録に留めておこうと、今回公開することにしました。

九州の西半分、熊本県を中心に相当数の天子宮、天子神社、天子社なるものが存在します。

一部は、京都、岡山、兵庫県などにも存在、もしくは痕跡を留めており、これについては、百二十本に上る短文を書いています。ネット検索で「伊倉」“天子宮は誰を祀るか“と検索すると、当方のものにアクセスできますし(五十本近く公開しています)、天子宮などと検索しても色々出て来ます。

いずれ百二十三本全部を画像付きでアップするつもりですが、教育委員会も神社庁も学者も無視している神社ですので、ほとんど纏まった研究がなされていないようです。

ただし、この紋章は他の天子宮や他の神社にも見ないものであることから、天子宮の全てがこの手のものであるという判断は、まだ、なお危険です。

しかし、なぜこんな紋章が神額にあるのかについては誰も説明できないのではないでしょうか?ここでは天子宮に関する周辺調査や人吉の天子神社の分布(かなりの=20ケ所以上の痕跡があります)については触れません。また、ユダヤ云々、日ユ同祖論も避け画像だけをお見せすることにします。


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 天子神社  あさぎり町久鹿838 あさぎり町役場そば


ひぼろぎ逍遥362 熊本県あさぎり町久鹿の天子神社に再訪 でも再度取り上げた神社です。


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景行天皇の熊襲退治の話から大足彦忍代別尊と推定されていますが、明治期に造られた話と考えられます。

 今回、「熊本県神社誌」を見て気付いたことがありました。

 それは、この久鹿の天子神社は岡留の熊野神社(旧免田町乙1579)諾冊二神、速玉男神の境外摂社だったのです。摂社は6社あり、その筆頭が天子神社ということなのです。

 そう考えると、ヤタガラス(速玉男)を祀る熊野神社が景行天皇(勿論、百嶋神社考古学では景行は天皇ではないのですが)の下に扱われる事はやはり異常に思えるのです。


熊野神社(旧免田町乙1579)諾冊二神、速玉男神


1. 天子神社  免田町久鹿838     景行天皇

2. 熊野神社  免田町築地4119    熊野三神

3. 厳島神社  免田町黒田1471    市杵島姫命

4. 熊野神社  免田町吉井1997    熊野三神

5. 白木神社  免田町永才2371    天之御中主神

6. 八幡宮   免田町八幡町1840   応神天皇外二神


八幡宮のある八幡町は、それこそ近畿大和朝廷の占領軍集落か、相良一族入府の占領軍集落でしょうが、それを除けば、天子神社の景行天皇という配神が異常であることは明らかで、まず、景行天皇は祭神の入れ替えであろうことは明らかでしょう。

 天御中主も市杵島姫も白族=大幡主の一族であり、伝統的にこの旧免田町のエリアは熊野系の地域だった事は明らかでしょう。

では、天子宮の祭神とは何でしょうか?

これについては、伊倉 天子宮は誰を祀るか?全て公開した後皆さんで考えて頂きたいのですが、この天子宮調査を行っていた当時は、九州古代史の会の中心的メンバーであった荒金卓也氏の説に沿い、その裏を取るための調査をしていたのであり、荒金氏による「多利思北孤」説を軸に考えていました。

 しかし、百嶋先生は“あれはヘブライ系集落でモーゼを祀っている”と言った趣旨の話をされていました。

 当時、“とんでもない事をおっしゃる方だなあ”と驚いたものでしたが、今は、やはりそれが正しいと思う様になりました。

 肥後でも八代から球磨川流域、人吉盆地一帯は、相当に古い時代に入った人々が住み着いているようなのです。


  大宮神社  多良木町黒肥地1278 


ひぼろぎ逍遥315 人吉盆地の懐深く最高格式神社に再訪  “熊本県多良木町の王宮(オウグウ)神社“

で触れています。


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人吉盆地の神社を考える時、真っ先に頭に浮かんでくる神社は青井阿蘇ではなくこの多良木町黒肥地の王宮神社です。十年ほど前、この人吉盆地の最深部を走り回り、天子宮(天子社、天子神社)と呼ばれる奇妙な神社群を調べていました。実は、この王宮神社も天子宮が同町の久米地区から移動してきたものなのですが(以前はその表示板が存在した)、天子宮に関してはひぼろぎ逍遥(跡宮)で独立したリポートを掲載中であるためここでは触れません。

 まず、熊本県南半部には〇〇木という(恐らく半島系)地名が数多く拾えます。

 球磨川の左岸には白木、久多良木(百済木川が球磨川に注ぐ)もあり、隣町の錦も含め多良木もその一つと考えられるのですが(そもそも百済はペクチェであり、クダラと呼んではいないが、新しい多良に対して旧い多良が「百済」クダラと呼ばれたとしたのは「百済の王統と日本の古代」を書いた兼川 晋氏でした…)、この神社の性格がそれに繋がるかどうかも、なお、不透明です。

 ただ、そういった背景には関わらず、社殿の美しさ、気品、古代を感じさせる神秘性…の一切が閉じ込められ、多少とも相良以前を感じさせるのがこの王宮神社です。

 例によって「熊本県神社誌」(264p)を見ると抑制気味ながらもこの神社が唯ならぬものであることが読みとれるのです。

 まず、黒肥地神宮(王宮)と大書(ボウルド表記)され祭神も神武天皇の一柱とされているのです。

 社殿(神殿)に打たれた神紋も五七桐であり、祭神と神紋はすっきりと一致を示しています。

 ましてや、神武僭称第10代崇神(ハツクニシラススメラミコト)の片鱗など欠片もないのです。

 この神社が、高原町の狭野神社と並ぶ本物の神武(カムヤマトイワレヒコ)天皇を祀る数少ない神社であることは、まず、間違いないでしょう。

 そして、前述のように「太郎・田部忠綱当郷に来たって久米蓑毛に住し、帝廟を勧請して王宮大明神と崇祀った。その後現在地に遷座」と書かれているのです。

 そこで、久米に現在も残されている久米熊野座神社(多良木町久米1098)の祭神及び久米に在る境外摂社五社の配神を見ることにしましょう。

 まず、久米は神武の戦闘集団(海兵隊と言うよりさしずめ古代の海軍陸戦隊)でした。

 この久米が付された土地ですから、単に勇壮さに肖って付された地名とも思えず、古代の何らかの関係者(例えば大友旅人の隼人征伐にも参加した久米族の末裔の残留者…)が住み着いた土地ではないかとも思えるのです。

 では、この久米郷の摂社を「熊本県神社誌」からご覧ください。


 久米熊野座神社  熊野三神          白族

 若宮神社     健磐龍命外二神       阿蘇系(多少疑問?)

 治頼神社     相良治頼          相良氏(実体はニギハヤヒ系ではないか?)

 菅原神社     菅公            菅原系(白族かスサノウ系か?)

 年神社      大年、御年、若年神     草部吉見系

 八坂神社     素戔嗚尊・櫛稲田姫     スサノウ系


 確かに戦闘集団の形跡があるのですが、今後、丹念にこの6社を見せて頂く事にしたいと思います。

 では、社殿をご覧ください。


 確かに神日本磐余彦命を祀る宮である事を表すかのように、五七桐の神紋が打たれています。

なお、境内社として健磐龍とされた若宮が、源嶋社(当方未確認)二社が置かれていますが、由緒を見る限り、玉依姫命、健磐龍命、比売命なる三神が加えられており、「熊本県神社誌」とは異なっています。

これは、多分、阿蘇系三神が後に追加されたものと思います。

本来、人吉盆地一帯は阿蘇系の領域ではないはずなのです。

それは、人吉、球磨地方全域の神社の配置を見れば明らかで、青井阿蘇も本来は阿蘇系神社ではないはずなのです。

少なくとも、王宮神社は単に初代神武=神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコ)を単独で祀る神社であったはずで、相良侵入以前の古い神域を表す貴重かつ、人吉郡内最高高格式の神社が、この多良木の王宮神社だと思うのですが、“皆さんにも青井阿蘇から足を延ばしてご参拝頂きたい“と思ってやみません。


035 伊倉 三十五 “人吉盆地最大の天子神社の発見(多良木町王宮神社)”もネットに流しています


まず、人吉盆地最大の神社は人吉市街地の中心部に鎮座まします青井阿蘇神社ですが、第二の神社はと考えるとこの王宮神社になるのかも知れません。それは社殿の規模による印象に過ぎませんが、どうもこの神社が天子宮に思えるのです。この神社は前日下見をしていましたが、表看板としては神武天皇が祀られており、今まで見てきた天子宮とは異なります。

しかし、その後驚く事に気が付くのです。きっかけは、伊倉 三十四“球磨焼酎と多良木町久米の天子”に登場頂いた住吉先生との雑談でした。久米の天子に天子という字地名と湧水地が一致していた事を確認した直後でしたから、なお一層鮮明でしたが、実は先生のお住まいの場所が王宮神社の裏手の集落で「天子前」だと言うのです。私は「じゃあ、天子とは王宮神社の事じゃないですか・・・(そうに決まっていますよね)」「そうじゃないと思っていたが、あんたの話を聴いていると考えが変わってきた・・・」といった会話が車中で飛び交ったのでした。

今後、王宮神社について『肥後神社誌』などの調査を行う事、字地名と現在の王宮神社の位置関係の確認、神社自体の調査が必要になります。しかしこれらの基礎的な事を既存の地元郷土史に明るく熊本地名研究会の重鎮でもある住吉先生がご存知でないはずはないのであって、それほど期待はできません。八世紀に消された古代王権の痕跡が探れ、既存の残存史書からその片鱗が簡単に発見できるとは考えられないからです。

ここでの考え方として注意すべき点があります。それは、元々「天子」があった場所の上に破壊的に王宮神社が造営されたのであり、本来の天子宮とは全く性格の異なるものであるとも考えられるのです。言い換えれば、反「天子」とでも呼ぶべきものである可能性も否定できないのです。しかし、仮に、反「天子」が「天子」の上に聳え立ったのであれば、隣接する「天子前」なる字名を残しておくとは考え難いのですがいかがでしょうか。

社伝からすれば、神社の造営は征服者であるはずの大友、久米によるものであると言えるでしょう。もしも、大和朝廷の武闘派が征服後に持ち込んだ神社であれば、「八幡」とか「伊勢」とかにしそうじゃありませんか。

私見はこうです。社伝に「・・・帝廟(天子のみたまや)を勧請した・・・」とあるように、やはり元は天子宮だったはずなのです。それは破壊した後の再建である可能性が否定できません。球磨川左岸には大字久米があります。恐らく征服者達は征服後の抵抗と多くの残虐行為への謝罪を込めて天子宮を復活せざるを得なかったのでしょう。しかし、「天子宮」、「天子の御霊廟」との名称は残す事ができずに、折衷的な「王宮神社」とされたように思うのです。

もちろん、字地名(原初地名)の成立の時期をどこまで遡るかの問題はあります。一説ではありますが、この王宮神社は「久米の元天子」と呼ばれていることがネット上に出てきます。さらに、王宮神社の下手から多良木中学校に渡る橋があるのですが、それが天子橋という名なのです。どう見ても王宮神社は天子宮に思えるのですが、これも住吉先生から教えていただいた事です。

また、「その後、現在地に遷座したもので祭神は神武天皇である。」との社伝ですが、地元の被征服者に対しては「天子神社」、公式には神武天皇としたため「王宮」神社となったとも思えるのです。


・・・多良木源島に帝廟(天子のみたまや)を勧進した。その後現在地に遷座したもので、祭神は神武天皇である。

楼門の解説(熊本県教育委員会)昭和37


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大宮神社は、まず、人吉盆地第一の超高格式神社と考えています。

資料について必要な方は09062983254古川まで


スポット113(前) 盛り蕎麦と掛け蕎麦  “籠池氏と加計氏とはどのような人々なのか?”

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スポット113(前) 盛り蕎麦と掛け蕎麦  “籠池氏と加計氏とはどのような人々なのか?”

20170713

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 当然にも森友学園と加計学園の関わるお話です。

通常、国会の審議など、与野党を含めたグルによるお笑い番組=猿芝居=八百長=やらせ…としか考えていないのですが、今回の「閉会中審査」に関しては、正面切って正統性の主張がぶつかりあう議論が効けるかも知れないと思えた(初めて国会審議といったもののそれこそ劇場性に綻びが見えた)事から、蓮舫氏から青山繁春氏など…、車を止めてまで全てラジオで聴かせて頂きました。

勿論、このくだらない見せかけだけの民主主義制度など何の価値も見出していないため、今後の選挙に於いても、これまで同様投票に行くつもりは毛頭ありません(選挙で投票に行くほど政治意識は低くないつもりですので)。


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私自身も完全には勤め上げられなかった某藩の下級藩士であった事から、役人の生態にはそれなりに精通しているつもりです。

このため、見上げる様な高級官僚の在り様に一抹の、しかし、深刻な対立とひずみが生じている事は良く分かりますし、背後に何らかの政治的変動が起こっている事も想像が付きます。

しかし、そのような薄汚い政治の話など一切関心はありませんし、そのような話をするのは今回の目的ではありません。

当方は神社研究者です。従ってその観点から見ているとある種の面白い現象が見えることから、この側面だけに光を当てて調べて見ようと思ったものです。

まず、お二人の素性から考えて見ましょう。森友学園の籠池 泰典氏と加計学園の加計 晃太郎理事長です。

 森友学園の籠池 泰典 前理事長

「籠池泰典」

195327日 香川県高松市にて生誕。実家は海運業だった。

19634月 籠池海運の倒産に伴い一家で兵庫県尼崎市へ転居。

19773月 関西大学商学部を卒業。4月 奈良県に新卒で採用[5]

1979年 森友学園創立者の娘と結婚。…以下省略        ウィキペディア(20170716 10:43


sp113-2 まず、「籠池」という姓自体が非常に珍しいものである事は始めから気付いていました。

 しかし、まさか全国で13件もの希少な姓氏とは思いもしませんでした。

 勿論、少ない姓というものはそれなりに意味のある重要な氏族である場合が多い事から、ご本人の類まれなキャラクター(まず、吉本興業でも直ちにトップスターになれるという事は政治家としても素晴らしいタレント性を持った方でしょう)にも拘らず、それなりに謂れのある氏素性であることが分かってきたのです。

 特に香川、兵庫(淡路島南部限定)に中心がある事から、それだけでもある種のイメージが湧いてきます。讃岐、阿波から熊野に掛けては忌部=豊玉彦=ヤタガラスの領域ですね。


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高松と言えば田村神社ですが、大幡主と山幸=ニギハヤヒ、孝霊、孝元、開化の流れのエリアなのです。


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香川県高松市にある神社。709年創祀。祭神は田村大神(倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、天隠山命(あめのかぐやまのみこと)、天五田根命(あめのいたねのみこと))讃岐国一之宮。「定水(さだみず)大明神」「一宮大明神」とも呼ばれる。                            (コトバンク)


祭神は以下の5柱で、「田村大神」と総称される。

倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)

五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと) 別名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)。

猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)

天隠山命 (あめのかぐやまのみこと) 別名を高倉下命(たかくらじのみこと)。

天五田根命 (あめのいたねのみこと) - 別名を天村雲命(あめのむらくものみこと)。

田村大神について、中世の書物では猿田彦大神[2]や五十狭芹彦命を指すとされ、近世には神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命など様々で一定していない。社殿創建前は井戸の上に神が祀られていたという社伝から、元々は当地の水神(龍神)であったとする説もある。        (ウィキペディア)


さて「籠池」ですが、「籠」とは何でしょうか?まず、天橋立の籠(コノ)神社が頭に浮かびます。

 この「籠」については、佛教大学の 黄 當時教授からポリネシア系言語のカウヌイ、タウヌイという大型の外洋性カヌーの置換えとの説が提出されています。

 「コノ」は「カヌー」の置換えで、「カウ」がポリネシア語の船で「ヌイ」が大きいという意味の後置修飾語という話です。

 詳しくは太宰府地名研究会のHPから以下を検索して下さい。


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その意味で、籠池氏のご先祖が海運業をされていた事、伊勢から東海に広がる、籠神社の宝物、物部の海部の「海部文書」があること、伊勢神宮にも繋がる一族にも思えてくるのです。

伊勢も大幡主とヤタガラスのエリアです。


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また、籠池の籠は「籠目紋」の「籠」である可能性も見て取れるのです。

 ユダヤの神紋とも重なり、大幡主系の伊勢神宮、大江山皇大神宮、籠神社、上賀茂神社、下賀茂神社…

といった伊勢の物部氏との関係を意識せざるを得ないのです。


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籠(かご)の目=ユダヤの六芒星の内側が籠目紋とも言えますが、六芒星そのものでもあるのです。

また、僅かですが籠池さんの顔つきにポリネシアンの影が見え、その背景(南方系海洋民)が見えてきた気もしませんか?


 加計学園の加計 晃太郎理事長

「加計 晃太郎」

加計 晃太郎(加計 孝太郎、かけ こうたろう、1950年または1951年生まれ)は、日本の学校法人経営者。学校法人加計学園理事長・総長、広島加計学園長、フィンドレー大学理事、日本私立大学協会理事、岡山県国際交流協会理事、岡山県郷土文化財団理事。岡山県日中教育交流協議会参与。特定非営利活動法人日本・ミャンマー医療人育成支援協会顧問、岡山北ゴルフ倶楽部理事。

広島県出身。立教大学文学部卒業。カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に語学留学。父は加計学園グループ創始者加計勉。語学留学中にアメリカで安倍晋三と知り合い、以来、交友がある。

ウィキペディア20170716 15:04


sp113-8 中々気品のある風格ある方ですが、私にはこの方の素性が直ぐに分かります。

 まず、元首相の岸信介の孫で 安倍晋三とは従兄弟で親戚関係である事は知られています。しかし、当方にはもっと違った側面が見えているのです。

皆さんは「白川伯王家」というものをご存じでしょうか?

 詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)” ひぼろぎ逍遥 369 安芸太田の長尾神社と飯塚市鹿毛馬の厳島神社 ひぼろぎ逍遥 322 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑤ “広島県旧加計町中心部の長尾神社”をお読み頂きたいのですが、要は、明治維新まで天皇家の宮廷祭祀を司っていた白川伯王家(ヤタガラス系裏天皇)の流れを汲む人々の一部(恐らく主流)が加計(カケ)姓を名乗っているのです。

 その前に加計姓の分布を例によって姓名分布&ランキングからご覧いただきましょう。


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こちらも56件(あくまでも姓名分布&ランキング調べによるものですが)と、こちらもそれなりに有力な氏族、家系である事が分かるのです。

そこで、中国自動車道に「加計スマートIC」があることを思い出して下さい(広島県山県郡安芸太田町加計)。


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スポット113(後) 盛り蕎麦と掛け蕎麦  “籠池氏と加計氏とはどのような人々なのか?”

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スポット113(後) 盛り蕎麦と掛け蕎麦  “籠池氏と加計氏とはどのような人々なのか?”

20170713

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この安芸太田町加計に長尾神社という目立たない神社があるのですが、ひぼろぎ逍遥 322 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ⑤ “広島県旧加計町中心部の長尾神社”では、このように書いています。


いずれにせよ、旧加計町から安芸太田一帯は物部氏を思わせるものが多数感じられます。

その本体が何であるかを判断する根拠の一つに厳島神社の一族=白族=大幡主=ヤタガラスが関係している事だけは確かです。

また、「紀氏の荘園・姓(国別 )」によれば、


鎌倉時代の終わり頃(1331頃)大田川の上流、戸河内町に来栖という土豪がいてこの土居を中心に勢力を張った。郷内に各地に一族、庶家を分封して所領の確保をはかる、太田郷。

栗栖氏の先祖は京都の「栗栖野」(現在の山科区栗栖野)に住んでいたという説がある(栗栖氏の先祖は石清水八幡宮第32代神主の田中宗清の子となっている)「発坂城」は栗栖氏の総領家が代々本拠にしたといわれる。

この地方は古くから厳島神社の社領であり、栗栖氏は厳島神社の神主家である藤原氏の支配下の神領衆の一人とも言われている。

HP「紀氏の荘園・姓(国別 )」より


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この加計の一帯に厳島神社の宮司家の一族が入っている事は確実なのです。

では、この加計という地名はどこを起源としているのでしょうか?

これについても、ひぼろぎ逍遥 369 安芸太田の長尾神社と飯塚市鹿毛馬の厳島神社 でこのように書いています。

それは、加計インターの「加計」という地名についての話です。これについては前回のリポートを書く時点でも気付いていましたが、この地に住み着いていた人々のルーツについて思い当たる事があるのです。

厳島神社からの宗像三女神の勧請で、加計(カケ)地名ならば、この地に住み着いた人々は、福岡県飯塚市の鹿毛馬(鹿毛馬神籠石で著名)からの移住者、若しくは縁故者としか考えられないのです。

飯塚市鹿毛馬の地名の意味は鹿毛の間の意味で、中間、赤間、福間、和間、須磨、大間…といった湾奥地名の一つで(古代遠賀湾の最奥部)、本来、地名の根幹は「鹿毛(カケ)」=「加計」にあります。

しかも、この地にある飯塚市鹿毛馬の厳島神社は、本来は宗像大社や宮島の厳島神社よりも遥かに高格式の神社(白川伯王家)と考えられ、その一族、縁故者の移住(避退)によって、この安芸太田の地に入られたのだと思うものです。


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この鹿毛馬の厳島神社については、ひぼろぎ逍遥230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”外で書いていますので参考にして下さい。

 なお、地図の「鹿毛馬」の隣の大字が「佐與」であることがお分かり頂けると思いますが、厳島神社の社名のルーツである市杵島姫(瀛津嶋姫)の別名である佐與、佐用、佐用…であることがお分かり頂けると思います。市杵島姫はこの地で産まれたか?幼少期をすごされたからこそ佐用姫とも呼ばれたのです。


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詳細はこれらを読んで頂くとして、広島県の出身とされる加計学園の加計 晃太郎氏が、この白川伯王の一族の後裔のお一人であり、この一帯で有名な「加計隅屋鉄山」の経営者の一族の後裔の人物である可能性も非常に高いように思うのです。


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さて、ひぼろぎ逍遥(跡宮)106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”にはこのように書いていました。


百嶋由一郎先生から“飯塚市鹿毛馬の某神社が白川伯王の流れを汲む本家であり、厳島神社の元宮、白川伯王家の源流の一族の神社である”と聞かされていました。

 正面の鹿毛馬(カケノマ)神籠石については、過去何度か訪れていましたが、神籠石の踏査などをやると大抵はくたびれ果ててしまい、目の前の神社でさえ見に行こうなどとは中々思わないものです。

 また、飯塚市の中心部からもそれほど遠いところではないため、何時でも行けるとなると意外と足が向かわなかったのでした。とは言え何時かは時が訪れるものです。

今回は、筑豊でも香春神社(縁起式内社)の再撮影など田川郡内を走り回っていたのですが、急に思い立ってカーナビで距離を測ると、山越えルートで移動すれば15キロ、20分もあれば行ける事に気付き、天気も良い事から課題であったその某神社(百嶋先生は最後まで公表されませんでしたので)に向かう事にしました。


以前も触れた事がありますが、「白川神道」など聴いた事もないという方のために、学者の権威を無視するためにも、敢えて彼らが無視する ウィキペディア(20150417 2030を紹介させて頂きます。


白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元

白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上家である。花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り臣籍降下して神祇官長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた。


白川伯王家の成立

白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「」を名乗られたことである。「王」の身位天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。

…中略…

吉田家との地位逆転

室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏吉田兼倶吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた。

家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった。

江戸時代の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。


王号返上と家系断絶

明治時代になると王号を返上し、白川家の当主の資訓子爵に叙せられた。資訓の後を継いだ資長には実子がなく、伯爵上野正雄北白川宮能久親王庶子)の男子の養子に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶となる。

 


白川伯王が何かついては、既にひぼろぎ逍遥 159 秦の始皇帝と市杵島姫、173
博多の櫛田神社の祭神とは何か?で説明していますので詳しい説明は省きます。

 ただ一点、明治期になり神祇官の指示によって白王姓を名乗るのはまかりならん(天皇家に対して不敬である)として「白王」姓を「白土」姓に変更され、この宮司家は白+(土+、)を名乗っているのです。

ここまで見てくると、加計姓を名乗った人々とは、朝倉日田の大災害で多くの人々が犠牲になっている最中に、自らの世界遺産登録を喜ぶ今の宗像大社や安芸宮島の厳島神社などよりも遥かに高格式の飯塚市鹿毛馬(カケノマ)の厳島神社に起源を持つ白族(博多の櫛田神社の大幡主の一族)であり、下賀茂、上加茂にも通じる豊玉彦、ヤタガラスの後裔、つまり裏天皇家の一族の様に見えるのです。

では、安倍晋三と仲良しのお友達だった方々との関係が、何故、ガタガタし始めたのでしょうか?

今年の二月に スポット095 朝鮮半島が北主導で統一される! 20170224 で、以下のように書いていました。

既に、ダビデ=デイビッド・ロックフェラーの後継となったキッシンジャーは、再度、親中派(実はマキャベリストの等距離外交派)の小沢を担ぎ出そうと、既に安倍降ろしが始まっているのではないかと思えるのです。まず、森友学園を巡る動きが何故唐突に生じたのかも考えて見るべきでしょう。

かつて小沢と袂を分かった小池がどう動くか、情報に操作されるB層はどうにでも操れると尚も考えているのです。

そういえば、電通が何故叩かれているかも考えてみるべきでしょう。

籠池氏と加計氏は共々日本会議のような安倍政権を支えたお友達なのでしょうが、そもそも系統の異なる勢力の方なのでしょう。

今回、籠池氏は切り捨てられ、加計氏はまだ関係を維持している(安倍を切り捨てることをためらっている)と思われます。

この温度差は、統一教会なども含め、安倍を支えた勢力内部に内紛、衝突が起こっており、既に内部分裂が起こっている可能性が考えられますが、奥の院の様子は伺い知る事はできません。

この延長上に現在もあるのですが、安倍の応援団として動いていたヤタガラス系の人々が、キッシンジャー(彼は伝統的親中勢力であることは明らかですね)が引き継いだとされるロックフェラー系ユダヤ・マフィアの指示で反中国を標榜する安倍を降ろす方向で動き始めたのかも知れません。

ここでは厳島神社の一族がどのような流れなのかを百嶋由一郎最終神代系譜で確認しておこうと思います。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


この黄枠の三姫君こそ三女神=市杵島姫、豊玉姫(タゴリヒメ)、鴨玉依姫(タギツヒメ)なのです。

白川伯王~大幡主~ヤタガラスの後裔なのです。


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440(前) 安 保(アボ) “「船王後墓誌」に見る「青」地名”

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440(前) 安 保(アボ) “「船王後墓誌」に見る「青」地名”

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20170126再編集(20100409

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


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民俗学者の谷川健一といえば、『青銅の神の足跡』『白鳥伝説』などで著名であるこというまでもありません。古代史を探求する人々のなかにも、少なからずこの傍流の探求者の影響が底深く浸透していることについては否定することができないでしょう。

ただ、吐き気を催すような『東日流外三郡誌』偽書問題の空騒ぎでは、歳の功からか?学者諸氏の先頭に名を連ね祀り上げられたことでも知られています。はたしてそれが、誠実な学者の姿勢を示したものだったものか、ただの御用学者どもが尻尾を振った揃い踏みに加わったものに過ぎなかったのだったかは将来に待つこととし、ここでは、氏の業績として良く知られた地名の研究から話を始めることにしましょう。

氏は沖縄など南西諸島に数多く分布する奥武(オウ)島や青の音の付く地名の研究から、本土の「青」地名は古代まで遡る葬地ではなかったかとしたのです。

※奥武島は南城市、久米島、座間味村、名護市など


谷川健一の「青」論


 詳しくは氏の著作その他に当たられるとして、ここではその一端を引用します。


 …沖縄では青の島は死者の葬られた島につけられた名前である。習俗の中で葬制はもっとも変化しにくいものである。もし本土の海岸や湖沼に「青」を冠した地名があり、そこが埋葬地と関係があり、また、海人の生活をいとなんでいるならば、南方渡来の民族が移動して、本土の海辺部に定着した痕跡をたしかめる手がかりを得るのではないかと私は考えた。…


…たとえば鳥取市の西にあたる湖山池(こやま)の南岸には、青島が浮かんでいる。そこは縄文、弥生、古墳期にわたる遺物を出土している小島である。この湖山池には江戸時代に水が汚されるという理由から、火葬の灰を流すことを禁じた法令が出たといわれている。つまり、青島がかつては水葬の地であったことを暗示させる風習が江戸時代までつづいていた。湖山池より更に西の東郷池の浅津(あそうず)ではかつて墓のない村が八百戸もあり、火葬したのちに遺骨の一部を残して他の遺骨や灰を東郷池に捨てたという。田中新次郎はこれを水葬の名残と見ている。…


『日本の地名』(岩波新書)から“沖縄の青の島”


…対馬の西海岸にある青海(おうみ)という集落では、埋め墓は波打ち際にあり、詣り墓、供養する石塔は、すぐそばのお寺にある。したがって、死体そのものは波にさらわれていくのに任せるのである。…


近著『民俗学の愉楽』(現代書館)から“青の島とようどれ”


船王後墓誌と安保(アボ)


船王後(船氏王後)墓誌は江戸時代に柏原市松岳山古墳の墳丘上部から出土した約30cmの銅製の板で表と裏に一六二の文字が刻まれていますが、錆によって完全な判読は難しいとされています。ただ、裏の方は保存程度が良く、ある程度は読めるようです。

 この船氏は河内国丹比郡を本拠とする渡来系氏族といわれ、その王後は舒明天皇から冠位第三等の位を授けられたとされています。

 一応、現存する最古の墓誌であり、山城国の小野毛人の墓誌とともに注目されていることはいうまでもありません。

これに関して、東京古田会ニュースNO.13120103月)に古田武彦氏による「近世出土の金石文(銘板)と日本歴史の骨格」という論文が掲載されました。ただ、この趣旨は今回私が述べようとするものとは別のものになりますので、一般的な未読の方も考えて概略を紹介しておきます。


 その第二は、「船王後墓誌」である。大阪府柏原市の古墳から出土し、現在三井高遂氏の所蔵となっている。

 「惟船氏故 王後首者是船氏中祖 (中略) 即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」の長文である。その中には三人の天皇と、当人船王後との関連が語られている。

 辛丑(641)十二月三日が「庚寅」。夫の死。戊辰年(668)が妻の死。干支との関係から、「時限」が特定できる。ところが、関連する天皇名は

 ①(おさだ)宮 ②等由羅(とゆら)宮 ③阿須迦(あすか)宮 

 の三天皇であるが、従来当てられてきた三天皇(敏達・推古・舒明)とは、ピッタリ"対応"はしていない。たとえば、阿須迦天皇は推古でなく、舒明に当てざるをえない、等である。

 その上、致命的なのは三天皇間の用明・崇峻・皇極・孝徳・斉明・天智(585671)等の天皇名がすべて「無視」されている点である。この銘版は「天皇名と当人との対応」が主眼である点から見れば、不可解である。

 さらに、当の船王後が「大仁」にして「品第三」という顕官であるのに、日本書紀に一切その名が出てこないのである。

 以上、2例とも「同時代史料」としての銘版は(金石文)と、日本書紀・続日本紀が一致しないこと、この事実は何を物語るか。他でもない。日本書紀・続日本紀の側の「造作性」と「虚構性」をしめす。この帰結以外にはない。 


2009103日 近世出土の金石文(銘版)と日本歴史の骨格 古田武彦


同日 東北大学文学部で行われた日本思想史研究会10月例会で報告(『年報日本思想史』第9号に、収録予定。) 


 さて、古代史よりも地名や民俗学に関心を寄せる者として、また、地名研究の側面から古代史に近接しようとする者として、この古田論文に書かれていた原文にしばし釘付けとなりました。驚いたのは、大変失礼ながら先生の論旨である記紀の矛盾などではありません(その点についてはただただ傾聴するのみです)。

私の関心事は、「即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」の「安保」とは墓、墓所、葬地を意味しているのではないかという一点でした。六〇年安保の安保ですから、勢い、安らかに保ちとか解釈しそうですが、そのような意味ではないように思うのです。 

若輩者による我流の読みとしては、「即ち安保(アボ)をなす。万代への霊基は牢固(しっかりしていて)にして、永劫(未来永劫までの)の宝地なり」となるのですが、当然にも動詞は「為す」となり、同時につくるという意味を持ってもいます。

要するに、ここに書かれている「安保」とは文の流れからしても、墓、聖地の意味ではないかと考えたのです。

 では、安保(アボ)を本当に墓所と葬地と考えられるのでしょうか?

実は、実際に安保という表記の地名があるのです。一般的に、青地名は日本海側に特に多く、山口県長門市仙崎港沖の青海島、丹後半島は舟屋で有名な伊根の青島(アオシマ)、福井県小浜市の蒼島など数多く認められますが、「アボ」と読める地名を九州で数例を確認しているのです。ご紹介しましょう。


安 保(アボ) “天草上島と長崎市香焼に残る古代の葬地名”


奇妙な地名対応


長崎市香焼町の東海岸に安保(アボ)と梅ノ木という地名があります。

ところが、熊本県の天草上島の不知火海に面した旧栖本町、倉岳町の境界にも、阿房(アボ)、阿保(アボ)と梅ノ木という同様の地名群が存在するのです。

まず、表記は異なるもののアボと呼ばれる全く同じ地名が離れた場所にあり、同様に複数の関連地名が近接してある場合、ただの偶然として済ますことはできません。 


長崎市香焼町 東海岸一帯の安保(アボ)、梅ノ木「長崎県広域・詳細道路地図」昭文社


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※ 昭文社の道路マップを使用していますが、著作権の問題があり、解像度を極限まで落としています。


天草上島の南海岸、旧栖本町、倉岳町境界の阿房(アボ)、阿保(アボ)、梅ノ木

同じく「熊本県広域・詳細道路地図」昭文社


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このあまりにも不思議な地名対応についてひとつの仮説を立てました。まず、…

1)阿房、阿保、安保と表記されるものの、等しくアボと呼ばれていることから、恐らく、谷川健一によって提唱された葬地としての青(アオ)地名であり、古くは水葬がおこなわれていた土地、場所と考えられるのではないか。 

2)近接する梅ノ木という地名は、この水葬が禁止され埋墓に切り替えられたものではないか。

3)梅ノ木地名は、青地名が単独で存在する場合は、水葬地が同一の場所で埋葬墓に切り替えられたとも考えられるが、近接して並存する場合は水葬地が埋葬の不適地であったため別の地を求めた可能性もあり、水葬と埋葬が並存した時期があったとも考えられる。

4)アボは青(アオ)地名の変化形であり、粟、安保、安房、阿保、阿房、檍…と表記されている。当然にも同じ言語文化や葬送儀礼を持った民族集団が移動したと考えられる。


アボと梅ノ木


もしも、この想定が正しければ、既に久留米地名研究会で“高良岬の麓から”33.青木(アオキ)として書いた青地名の説明が必要になってきます。それは同稿を読まれるとしても、青と言えば、当然にも大家谷川健一を無視することはできません。谷川氏は安保(アボ)という表記のアオ地名を取り上げていないため、阿房、阿保を含めたアボ地名なるものは地名研究にも先例がないものであり、未知の分野に入り込んだことになります。

 また、アボと梅ノ木(恐らく埋ノ木)の組合せはあまりにもできすぎた話ですが、この例は外にもあるようです。もとより、単独での梅ノ木地名は多くの例があるのですが、宮崎県小林市と高原町の境界に蛇行して流れる辻ノ堂川左岸の小林側に阿母ケ平鉱泉があり、右岸の高原側に梅ノ久保という地名があるのです。ここではこのような地名対応がほかにも存在していることだけをお知らせしておきます。


天草の阿保、阿房


アオではなく、アボと呼ばれる地があることは、江ノ島(現長崎県西海市)のアボ鼻や屋久島の阿房(ここには粟生という地名もあります)を始めとして知っていましたが、前述の天草の阿保も釣りで何度も訪れていたところから以前からなじみのある土地ではありました。

しかし、最近になって長崎市香焼の安保がアボと呼ばれていることを地元教育委員会に確認し、さらに、両方に梅ノ木があることに気づいて以降、一刻も早く現地を踏み確認したいという思いにかられていました。

二〇〇九年夏、ようやく機会を得て佐賀から有明海大迂回のコースで天草上島に向かいました。

阿保、阿房は直ぐに見つかります。まず、地図を見ると、旧栖本町側に阿保というバス停があり、阿房は旧倉岳町側にある地名のようです。

現地に着いて直ぐに傍らの家を訪ねて数人のご老人からお話をお聴きすると、

 阿保は入江の西側通路沿いにあり栖本町の集落である

 二十年ほど前までは入江東側の倉岳側にも数戸の家があった

 阿保は漁業権のない集落で、船大工、漁具作り、鉱泉を沸かして訪れる漁師などから湯銭を取っていた

 湾奥には農業を行う家が数戸ある

 一人の老女から「嫁いだ頃、昔は刑場だったという話をお爺さんから聴いたことがある」という話を採集した。

と、いったことが確認できました。八十歳近いご老人からの話ですから、今のうちに採集しておかなければ、恐らく十年程度で散逸する話ですから非常に貴重です。

ここで重要と思うのは、恰好の入江のある集落であるにも関わらず、漁師は全くいない、つまり、漁業権をもたない集落であったという事です。

谷川健一の『日本の地名』にも、「地先の海の権利は地元の漁民がにぎっており、…」

(ソリコ船に乗ってやって来た人々)と、ある種の差別を受けた漁師集落の話が出てきますが、そのような人々であったからこそ、辺鄙な村境にしか住むことが許されなかったのであり、不要になった土地だったことが推察されたのです。そして、決め手は全くないものの、この地が、かつて、水葬が行われていた場所ではなかったかという想いが一層深まったのでした。

次に梅ノ木に向かいました。梅ノ木(埋ノ木)が水葬を禁止された後の埋葬地であるという推定はあまりにも安直で信じがたいものですが、なによりも現地を見るべきでしょう。

しかし、実際のところ驚きました。小高い小丘に濃厚な墓地があったのです。聴取りはこれからですが、確信は一層強いものになったことだけは申し上げて良いと思います。


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440(後) 安 保(アボ) “「船王後墓誌」に見る「青」地名”

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440(後) 安 保(アボ) “「船王後墓誌」に見る「青」地名”

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20170126再編集(20100409

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久



青葉を除く青地名(九州、山口) ※注意:全てのリストアップではありません。


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※ 相賀は自信がありません。佐賀県には太良町に青木平という小字はあります。


香焼の安保


長崎市内の渋滞を避け直接野母崎(長崎半島)に入る道もないことはないのですが、当然にも悪路になります。野母崎の東海岸はその地形の険しさから道路改修がままならないのですが、このような僻陬の地を好む者にとっては格好の民俗学的トレッキングとなるのです。

ともあれ、野母崎の付け根の香焼は、今も造船所がフル稼働といった様子でした。国際的な物流が大規模に崩壊したにも関わらず、かつての造船ラッシュ時に建造された船の買い替え需要などから、なおも新船建造の注文がかなりあり、手持ちの建造計画が残っているようです。

戦前、戦中は川南造船が陸軍相手に上陸用舟艇やら軍用船を造っていたのですが(香焼では陸軍の輸送用潜水艦“○ゆ”も造っていたと聞きます)、現在では持ち主が替わり、三菱重工の巨大な造船所に変貌しています。

陸軍のご用達であった川南造船は戦後の造船疑惑の中で意図的に潰されたようですが(米国は米内、井上、山本といった親英米派の海軍系を許した?)、その後を引き継いだ三菱長崎の工場として、傍目からだけですが今もそれなりの活況を呈しているようです。

 目的地の安保は確かにアボと呼ばれていました。早々に集落を見て廻りました。今は住宅が建て込みそれなりの町でしたが、どうも歴史を感じさせないのです。

 バス乗り場にたむろしている年金生活者と思しき老人の中に割って入り、お話をお聴きすると、

1) ここはかなり海側に埋立てが進んでおり、六、七十年前の海岸線は五〇~一〇〇メートルは引っ込んだところにあった。

2) 戦前は数えるほどの家しかなかった。話を聴いた老人が小学生の頃も、元から住んでいた家は数軒しかなかった。現地は小山を背中にした幅の狭い浜辺でしかなく、農業はもとより、漁師の集落でもなかった。

3) 戦前は香焼炭鉱や川南造船所向けの物資の積み降ろし用の船着場だった。

4) 戦後はボタによって埋め立てられたところに炭鉱住宅などが建てられ、それなりの町ができたが、閉山後は跡地を買い取った開発会社が住宅地として分譲し家が建て込んだ。

5) 隣の尾ノ上は漁師の集落だったがここには漁師はいなかった。

6) 埋葬には梅ノ木鼻の付け根に埋めに行っていた。

 以上ですが、重要なのは阿保との呼び名はあるものの、元々は人の住む集落ではなかったということです。周辺の集落の配置状況から推測すると、安保は香焼島(昔は独立した島だった)でももっとも辺境の場所であり、もしも水葬が行われていたとすればここしかないように思えたことです。

 最後に、梅ノ木の確認に行きました。かなり高い岬が北に伸びています。先端まではおいそれとは入れないようですが、その付け根辺りには想像通り墓が密集していました。

 墓はどこにでもあると言われればそれまでですが、少なくともそのような感覚を超える頻度のように私には思えるのです。         


 そもそも、香焼島もなにやら葬地を思わせるのです。
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安保 清種


安保、阿保、阿房といったアボ地名について考えを巡らせていると、安保清種(アボキヨカズ)のことを思い出しました。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」が再びクローズ・アップされていることもあり、今後、安保海軍大将の話も耳にすることも多少はあるでしょう。

戦前の濱口雄幸(ハマグチオサチ)内閣における海軍大臣であり、日本海海戦時の巡洋戦艦三笠(黄海海戦では矢作?)の砲術長としても知られる人物です。

ここで、515事件、統帥権干犯問題、海軍の艦隊派と条約派の対立についての話までするつもりはありませんが、阿川弘之の著書にも良く登場する人物であり、これまで考えて見れば気づかなかったことが逆に不思議になります。

取上げるのは当然にも安保という姓でありその背後にある地名です。ここから安保清種

の周辺調査を始めることになりました。

驚いたのは安保が私の地元の佐賀県の出身であったということでした。鹿児島かと思っていましたが、これには正直驚かされました。佐賀には安保という地名はおろか姓もありません。ただ、調べているうちに本名は沢野であり、林家の養子になっているようなのです。さらに、林は安保に改姓していると知り、納得もし安心もした次第です。

実父は海軍草創期の沢野種鉄であり佐賀中学から海軍兵学校18期生となる。規定局長の林清康少将(のち海軍中将)の長女との縁談が進み林家の養子となる。養父と実父から「清」「種」の字を貰い林清種に改名している。後に男爵に叙せられた清康中将が安保姓に改姓したため、この時点で世に知られる安保清種の姓名となる。一九九〇年、養父の死去に伴い男爵となる。

一九二七年、海軍大将に就任し一九三〇年には濱口内閣で海軍大臣となる。その後、統帥権干犯問題から海軍でも英米派が後退し、徐々に条約派は力を失って行くことになるのですが、面白過ぎるので深入りしないことにしましょう。

一九三四に予備役編入、三五年後備役に編入となり四〇年に退役。一九四八年に七十七で没。

 林清康中将の林家は広島県とのこと、安保村の出身であったかまでは調べられませんが、尾道市の沖合に浮かぶ向島、向島町に安保村があったことは分かっています。

特に、尾道が民俗学で良く取上げられる家舟の拠点であり、土地も漁業権も持たぬ海洋民とアボ地名との関係が一層強まったように思えます。

恐らく、遠い昔(民俗学ではそのようにしか言えない)、揚子江流域から渡ってきた人々がもたらした言葉や地名にアボもあったように考えるのですが、ここから先は、無論、暴走となるでしょう。


アホとバカ


ここで、さらに面白い問題に気づきます。もはや、アオ、アボが古代の水葬の地であったことに疑いを持つことはできませんが、それとは別に、関西のアホと関東のバカという言葉もこの葬地と関係があるのではないかと考えていました。アホはアオ、アボが起源となっている。馬と鹿で説明されるバカも実はバカ(墓)が起源ではないかという仮説です。

もちろん、馬と鹿に別の逸話があることは存じていますが、何でも疑ってみるのが古川定石です。ただ、これも思考の暴走に過ぎず、葬地を意味する言葉と偶然の一致に過ぎないのかもしれません。

それは、馬鹿(バカ)が古く、阿房(アホ)が新しい言葉であり、その分布から方言周圏論(同心円の外側に古い言葉などが残る)で説明できるからです。これは、ほぼ十五年前に出版された松本修による『全国アホバカ分布』(大田出版)に書かれていることですが、東のバカ、西のアホではなくアホの外側にバカが分布しているからです。

 この至ってまじめな民俗学的考察には、阿房という言葉が平安末期に中国の南部から入ってきた可能性があることが触れられており、アボという言葉が比較的新しいものであることが書かれているのです。もちろん、このすばらしいまでの先行図書を概ね受け入れているのですが、まだ、僅かな可能性を残しておきたいと思うものです。

 いつの時代においても、運悪く政治的騒乱に敗残した人々は、命までは失わなかったものの全ての財産を奪われ土地を追われます。自ずと普通の人が嫌う危険地や墓地など条件の悪い場所に住み着くことになるのですが、そのような敗残者(楯突くからこうなるのだ)を嘲る言葉としてアホとバカが生まれたのではないかという意味です。五〇〇ページ近い『全国アホバカ分布』にはかなり正確な分布図が作成されていますが、もしかしたら、ある時代の敗残者(従って政変)が反映されているのかも知れないのです。


秦の始皇帝の王宮は阿房村にあった


もしかしたら阿房宮や始皇帝陵と関係があるのではないかという話ですが、さらに一層、推論が過ぎるでしょう。ただ、大陸の征服者が先住者の聖地、陵墓を破壊し自らの王城や墓所とする例があることを知っています。とすると、多くの古文献が「倭は呉の大伯の後」(周の大伯)を伝えるのですから、倭人が周の末裔と言えなくもなく、同一民族ではないとしても、阿房村の周辺に住んでいた先住民族の言語が倭人に継承されていたのではないかと考えたのですが、暴走に過ぎません。

一般的に、「民俗学の手法では応仁の乱前後までしか遡れない…」といったことが言われます。今回の確認は一例に過ぎないものの、大きく遡行するものであり、改めて地名の遺存性に驚きを感じるものです。

一応ここでは、安保という言葉や地名がこの時代(七世紀)まで遡り、同時に一定の示標とできるということを確認したにとどまるでしょう。


青谷上寺地遺跡と巨大墓地


鳥取市に考古学界で、今、脚光をあびる青谷上寺地遺跡があります。山陰本線青谷駅のそばの資料館に行くと、脳の化石とか、我々の眼からは隼人楯としか言いようのない逆S字型渦巻き紋の残る板とか面白いものが身近に見学できるのですが、二〇〇九年夏、内倉武久氏(『太宰府は日本の首都だった』など)ほかと共に現地を踏みました。

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資料館で二時間余り詳細に展示物を見たのですが、元々、青谷を青地名の一つとして来ている私は、周辺調査に入りたくてしかたがありませんでした。当然にも水葬の痕跡を何か探れないか?でしかありません。当然にも、民俗学者の宮本常一がそうしたように、背後地の小丘に登り、まず、町全体を見渡すことから始めましたが、遺跡から直ぐの浄土宗と法華宗でしたか、二寺の裏手の小丘に登ると、息を呑むばかりの、巨大墓地を見出したのです。まず、最低でも一辺三五〇メートル(一○万平米以上)はあろうかというもの凄さなのです。感情の高まりから多少割り引いて頂いたとしても、中学校のグランド3個分と言えば理解してもらえるでしょう。

古代において巨大な潟湖(セキコ)であったはずの青谷は、その時代、日本海側の重要な港湾集落(都市)であったはずで、多くの海洋民が乗り入れ、半ば住み着き、根城としていたことが想像できます。

そして、この巨大墓地が往古の海の民の水葬の歴史の上にあることは、まず、まちがいがないのではないかと思うものです。


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次の画像は資料館に展示されていた航空写真を手持ちのいい加減なデジタルカメラで撮ったものであり、ハレーションもあって判りにくいかもしれませんが、小丘の中央が全て墓地なのです。学校のグランドと比較していただけることでしょう。

最後になりましたが、出雲大社で有名な出雲半島北岸にある小さな浦々の集落には、どこにもほど遠くない無人島がありますが、驚くことにその多くを青木島と呼んでいることもお知らせして本稿を閉じたいと思います。十数代まえまで、彼らはその毎日見る沖合いの小島に自分たちの身寄りの死体を置き続け、先祖への祈りを重ねてきたことでしょう。


資料 「青」地名


最後に、青島、青木、青井、青山、青江…といった青(アオ)という音の付く地名について正統派の論考をとりあげます。地名研究の世界では既に確立した概念であり、先行する立派な論稿も数多く出されていることから、今回は自説を抑えながら、広く多くの説を紹介することで地名の新たな側面を切り出したいと思います。

私がこのアオという地名をはじめて意識したのは三十年も前のことでした。長崎の市街地から南にニ、三十分も走ると香焼町に入ります。戦前、戦中は川南造船が陸軍相手に上陸用舟艇やら軍用船を造っていたのですが(香焼では陸軍の輸送用潜水艦“○ゆ”も造っていたと聞きましたが詳細はこれからです)、現在では持ち主が替わり(戦後の川南の造船疑獄事件も一因)三菱重工の巨大な造船所に変貌しています。今でこそ造船所の建設などによって半島状になっていますが、もちろん、古くは島だったのでしょう。

さて、この半島の東岸に安保(あぼ、あほ)と呼ばれる地区があります。「安保条約」の「安保」ですから、その時は単に驚いただけでしたが、今になって考えれば、阿保、阿翁、粟生、青、藍、檍…などと表記される特殊な海岸地名を発見した瞬間だったのです。

長崎県ですが、中五島の青方は良く魚釣りに行っていたところでした。近場では、これまた釣りのフランチャイズだった伊万里湾の青島、鷹島の阿翁(アオ)の浦、阿翁崎があります。久留米から見れば、筑後川左岸の久留米市城島町に青木がありますが、ここは元々青木という地があり、目の前に出来た青木島までも地続きになっています。 

福岡市内にも青木があります。西区今宿の生の松原と長垂の海水浴場との間の明治の旧青木村があり、古くは湿地帯であった福岡空港(板付空港)の真中辺りから東の丘陵地にかけても青木という地を確認できます。熊本県では玉名市の東、伊倉台地の縁に青野が、菊地川右岸の横穴墓地帯に青木があります。このように、いずれも大河川か海(かつてそうであったところも含めて)や沼に面するところに分布しているのです。


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一方、頭に浮かんでくる有名な地名としては、宮崎県の観光地の青島、人吉の青井阿蘇神社の青井地区、耶馬溪の青の洞門、遠くは、東京の青山御苑(この墓地については実は偶然なのですが)、富士の裾野の青木ヶ原、山口県の青海島…といったものがあります。

この一群の地名が何を意味しているのかを考えるのが本稿ですが、若々しい、青々とした木々や草々が生茂る土地ということで良ければそれで良いのですが、古来、その背後には驚くような事実が横たわっているのです。まずは、ネット上にある青地名をいくつか紹介致しましょう。


姫路の地名色模様


インター・ネット上に「姫路の地名色模様」“姫路の小字地名の由来”というサイトがあります。落ち着いた内容で非常に気に入っているのですが、これに「青」“あお”という好文が書かれています。書かれたのは、20050816日となっています。私も姫路に降りた時にはいずれ足を向けてみたいと考えています。


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海岸線に近い的形隧道をくぐり抜けた電車は辺りの木々をゆすり、茶褐色に色あせた葉が空に煽られて一瞬ざわつく、風の静まる間もなく下り電車がトンネルに吸い込まれていった。
 的形と八家地区の境域となる下坂山の東に、小字で言うなれば「青」の西南隅を占めていた下坂池の大半が埋めたてられ、公園になったのは昭和四十年代後半のこと、山の南斜面に緩やかに広がる畑地が、その好立地条件ゆえに住宅地へと変貌した。
 日本地名研究所の谷川健一所長は、青という地名について、青年だとか青春に代表される未熟さの代名詞ばかりでなく、青ざめた死の色でもあると述べている。沖縄の地理学者、仲松弥秀氏は、沖縄では奥武(おー)と呼ばれる地先の七つの島が、いずれももと古い葬所となっていたと推定する。この「おー」は青から由来するものであるとの論に「青の会」を主宰する谷川氏も賛同、「もし本土の海岸や河川の流域に青を冠した地名があって、一つには埋葬地と関係があり、二つには海人族とつながりがあるならば、それはなにがしか民族移動の痕跡をたしかめる手がかりともなろう」と記している。
 的形の小嶋地区にある「青」について、自治会長、前畑孝雄氏は、昭和三三年姫路市に合併するまで「青」は地区の焼き場だった、火葬以前はセンドという三昧場で、土葬の古くなった墓穴にズッポリと長靴の足をとられた、と往時の記憶をたぐりよせる。
 町内の福泊は行基が定めたという摂播五泊の一つで、もとの名を韓泊といったが、韓の訓みが空に通ずるのを嫌い福泊になったとのいきさつがある。的形は瀬戸内海でも有数の古代製塩の伝承地で、海の突端の岬に「行基ガ鼻」という地名が残っている。行基は、百済からの渡来一族で、すぐれた築堤の技術をもって塩田を切り開き、塩作りを広め、人びとのために尽くしたことから行基菩薩と呼ばれた。


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たった一文字だけの「青」地名に、こんなに深い歴史の蔭が投影されていようとは、だから地名は面白い。

もう一本、ネット上からご紹介しましょう。

「目からウロコの地名由来」です。ここにも「青」の地名という好論があります。


目からウロコの地名由来 “「青」の地名”


『人間(じんかん・にんげん)至るところ青山(せいざん)あり』の「青山」とは「骨を埋めるところ・死に場所」という意味だ。つまり、「人間にはどこでも生きてゆける場所があり、生まれ故郷ばかりが生活の場ではない。人はどこにでも死に場所はあり、広く世に出て活躍すべきである」という金言なのだ。このように「青」はブルーの色を表すほかに、死者の埋葬地にも付けられる地名でもある。大阪府藤井寺市青山は「古市古墳群」のど真ん中にある「青山古墳」の南にある集落で、新興住宅地となっている。まさに死者の埋葬地の
440-15「青」地名である。ちなみに、東京都港区にある「青山霊園」の「青山」とは、美濃国郡上藩主の青山家の下屋敷に由来するもので、霊園はその屋敷跡に造営されたものだ。偶然ではあるが、「青山」はまさに墓地にふさわしい地名であった。福島県会津坂下町の青津には、亀ヶ森古墳と鎮守森古墳があり、隣接して青木もあり、墓地の意味の「青」だ。谷川健一は沖縄にある「奥武(おう)」に注目し、「奥武」は「青(あお・おう)」であり、死者の埋葬地に由来する地名であるとした。沖縄県には奥武島が南城市、久米島、座間味村、名護市にあり、那覇市の奥武山公園、北中城村の奥武岬等がある。本土には「奥武」は無いが、「あお」地名の「青」「粟生」「阿保」「阿尾」等がある。果たしてこれらは埋葬地と関係があるのだろうか。ところで「青」の地名が日本海側に集中していることは早くから注目されてきた。谷川氏は、「青」地名は埋葬場所との関連とともに、古代海人族の居住地でもあることを示唆し、日本海側に集中しているのは、彼らが対馬海流に乗って移動した結果だという。西から目をこらして拾ってみた。朝鮮海峡に臨む長崎県対馬市青海、壱岐市の青島、松浦市の青島、山口県下関市粟野、長門市青海島の青海、萩市青長谷、萩市青海、島根県浜田市青浦、浜田市の青川、江津市青山、江津市青波、出雲市青野、松江市の青島と青木島、米子市粟島と粟島神社、隠岐の島町の青島崎、海士町青谷、鳥取県琴浦町粟子、鳥取市青谷、鳥取市の青島、京都府伊根町の青島、舞鶴市青井等は死者を葬った場所と関係があると思う。さらに東へ行くと、福井県高浜町には青葉山、青戸入り江があり、青という集落もある。そこには「JR青郷(あおのごう)駅」があり、いずれも海人と死者に関わる地名だとされる。福井県小浜湾に浮かぶ蒼島はかつて青島と表記していた。若狭湾に突き出た小浜市の大島半島ももしかして青島(おうしま)だったかもしれない。まさか「あおはま」が「小浜(おばま)市」、「あおい」が「おおい町」に転訛したとは・・・思えないこともない。小浜市には青井という地名もある。さらに東へ、石川県金沢市粟崎、羽咋市粟生(あお)、穴水町青島、七尾市青島、富山県魚津市青島、入善町青木と青島、新潟県糸魚川市青海、柏崎市青海川、新潟市青山とつづく。「大」が「青」である良い例として、新潟県糸魚川市青海の大沢地区には、「青澤(おうさわ)神社」がある。また、奈良県の「大和青垣国定公園」の「青垣」は、古くは奈良盆地を大きく囲うようにしてある山々を総じて称したもので、やはり大垣の意味合いをもっていたと思う。「青」は「粟」にも変化している。石川県金沢市粟崎はもと青崎といい、砂丘堤にある羽咋市粟生ももと青と表記した。能美市粟生町や富山県氷見市阿尾は果たして埋葬地と関係があるのだろうか。日本海岸以外の「アオ」地名を追ってみる。兵庫県小野市粟生は、加古川と万願寺川の合流点にあり、「合う」を意味する「アオ」ではないのか。同じように、菊池寛の小説「恩讐の彼方」の舞台となった「青の洞門」は、大分県中津市本耶馬溪町の「青」という地区にあるがゆえにその名がついた。「青」は山国川と跡田川の合流点にあり、やはり川が会う場所に付けられた地名だと思う。徳島県吉野川市粟島は吉野川の中洲にあり、かつては埋葬地であったという。熊本県人吉市中青井、香川県詫間町粟島、新潟県粟島の由来は良く分からない。近鉄大阪線の長い「青山トンネル」で有名な三重県伊賀市青山町は、旧阿保(あお)村他3か町合併時の瑞祥地名というが、町名を青山に決定する際には、その中心的集落の「阿保」を意識したと思われる。この「阿保」は「アワ」に通ずるものであり、大阪府松原市阿保と同じように低湿地の意味だと思う。宮崎県の名勝「青島」は青島神社の神域だが、和歌山県日高町阿尾と同じく、水葬の地と関係があるかもしれない。岐阜県大垣市の西部に「青墓町」と「青野町」がある。付近には古墳があるが、大墓、大野が訛ったものと思う。東京都葛飾区青戸は駅名を「青砥駅」と表記するが、地域の人は「おおと」と発音し「大戸・大渡」として中川の渡し場だったことが分かる。江東区の青海(あおみ)や目黒区の青葉台は、長崎市青山や千葉県千葉市青葉町、宮城県仙台市青葉山のように、周囲の景観からして明らかに瑞祥地名だ。伊豆諸島の青ヶ島は青い海そのものだろう。富士山麓の青木ヶ原は昔、ソウズカと呼びこの青はお墓のことだという。


それにしてもソウズカノババは知られていますね。


岩手県九戸郡山形村における葬墓制等の民俗調査 ... - 成城大学リポジトリ

https://seijo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common...id...

小松清 著

半は、誰のためのものだか分からないとか、ソウズカノババまたは無. 縁のためのものとかいわれる。 摩物 死者が生前に愛用した靴とか下駄とか草履などのりっばな履物一足を、. 埋葬後に埋葬した所に立てた塔婆に下げる。これをうずめはしない。愛用の履.

スポット114 ヤマタノオロチ退治異伝(「高良玉垂宮神秘書」)“宮原誠一研究のご紹介”

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スポット114 ヤマタノオロチ退治異伝(「高良玉垂宮神秘書」)“宮原誠一研究のご紹介”

20170718

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 太宰府地名研究会のエースに宮原誠一氏がおられます。

 氏は3040年に亘り筑前~筑後の神社研究を続けてこられましたが、百嶋由一郎神社考古学に接してようやく謎が解けたと言われています。

 既に、sp114-1としてblogを更新続けておられますが、まだ、スタートして間もない事から直ぐにアクセスが上がるという訳には行かないようです。

 このため、宣伝の意味を込めて、No-014 金山彦と竈荒神 を全文転載させて頂くことにしました。

 なお、「ひぼろぎ逍遥」、「同(跡宮)」にもリンクしていますのでsp114-2、私の駄文よりもよほど立派ですので、是非お読み頂きたいと思って止みません。


2017-07-16 15:30:00

テーマ:神社祭神 百嶋神社考古学

宮原誠一の神社見聞牒(014)
平成29(2017)0716

No.14 金山彦と竈荒神


私が少年の頃、田舎の台所は横に炊事場があり、その炊事場は土間であった。そこに、井戸水をくみ上げる手押しポンプと流し台と竈(かまど)あり、私の地方では「かまど」を「くど」といっていた。羽釜でまきを燃やし炊飯するのである。一番の難点は残り火の不始末から火事火災を起こすことが度々あった。当時の火事の第一原因は、この「かまど」の火の不始末であった。今はガスコンロ、IHヒーターと科学の近代化で、火災の原因は減り、てんぷら揚げの引火、タバコの不始末等が原因に上ってきた。
その台所・炊事場の柱に火炎を背に、右手に剣を持った「いかめしい大明王」の護符が貼ってあった。火災防止の神様であると祖母は云う。「竈荒神」様である。
父から、この竈荒神様の前で「オン ケンバヤ ケンバヤ ソワカ」と唱えると、荒神様が守ってくださると教えられた。今でも、この荒神祭文「オン ケンバヤ ケンバヤ ソワカ」が記憶に残っている。
この竈荒神様。不動明王みたいな形相に鬼のような厳しい表情をされているが、実はそうでなくて、やさしい神様である。


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天満神社 福岡県田主丸町亀王 境内社「秋葉神社」と祭神「金山彦・軻遇突智神」

ひところ、三宝荒神と云う名を良く耳にしたが、最近は余り聞かなくなった。
先の竈荒神様の護符も「不動明王みたい」なものではなくなり、一般神社の四角ものの護符に変わって穏やかになっている。
その三宝荒神であるが、神仏習合の仏教の「仏 宝 僧」の三宝を守護する神とされるが 根拠となる経典や教義は見当らない。仏教の菩薩 道教 陰陽道 修験 神道などの日本の宗教土壌のなかで複雑に融合しあい造りだされた神といえそうである。
中国で独自に編纂された経典『无障礙経』(むしょうげきょう)では、如来荒神(にょらいこうじん)、麁乱荒神(そらんこうじん)、忿怒荒神(ふんぬこうじん)の三神と説いているが、根拠はない。

竈荒神様の荒神祭文に絡んで、物部氏の鎮魂法の呪詞を参考までに。


物部鎮魂法の一部
足の裏を合わせたあぐらを組み、両手の指を組んだまま、左振り、右、前、後、中と体を振る。「ひ」で一回、「ふ」で一回、・・・「と」まで10回、力を込めて振る。「一二三四五六七八九十」(ひふみよいむなやこと)と唱えながら、そのあとに「布瑠部由良由良止布瑠部」(ふるべゆらゆらとふるべ)と唱える。


福岡県大宰府北谷の寳満宮。昔は寳満宮竈門神社といった。
筑紫野市山家の山家宝満宮の北西の太宰府市内山に宝満宮竈門神社が鎮座する。大宰府政庁(都府楼跡)の鬼門に当る宝満山に大宰府鎮護のために祀られたと云う。
祭神は玉依姫、相殿 神功皇后(左)、応神天皇(右)となっている。
竈門荒神の竈と荒神が結びつくのであるが、その竈門についての由来記がある。


「竈門山」名の由来
「竈門山」という名の由来は、この山の九合目にある竈門岩によるという説と『筑前国続風土記』には、この山が、カマドのような形をしていて、常に雲霧が絶えず、それがちょうどカマドで煮炊きをして煙が立ち上がっているように見えるので竈門山というのだと書いてあります。これは太宰府天満宮方面から見る山の姿です。
多くの方に最も親しまれている「宝満山」の呼び名は、神仏習合によって、この山に鎮まります神が、「宝満大菩薩」とされたところから、山伏の活躍と共に「宝満山」の名称が広く浸透して今日に至っています。


宝満山の名は、山家宝満宮の祭神・宝満大菩薩が勧請され、山伏の活躍によって広められた、とある。また、竈門山の名は、竈門岩と太宰府天満宮方面から見る山の姿が竈に似ていることに因む、とある。竈荒神様の一人に鴨玉依姫が百嶋神社考古学では当てられている。


三宝荒神に戻って、三宝荒神は一人の神様を火神に、二人の神様を竈神に据えることが多い。各地の荒神社をみてみると、火神には、素盞鳴尊、彦火々出見命、金山彦が当てられることが多くあり、竈神には奥津彦神、奥津姫神(長髄彦姉弟、大山咋・玉依姫)、を当てるのがみられる。
荒神様の神徳は「水神」、「農業神」でもあり、「牛馬の守護神」でもあり、「火災防止の神」、「招福の神」でもあり、幅広い霊力ある神様でもある。
竈荒神、三宝荒神共通に見られる神様が金山彦である。
別名「迦具土神、軻遇突智神(かぐつちのかみ)」、と云う。
金山彦は製鉄の神様であり、鉱山開発の神様であるとも云う。有名なのは、「天叢雲の剣 あめのむらくものつるぎ」を作られた神様であるという。


金山彦と櫛稲田姫(くしなだひめ)について、百嶋由一郎先生講演から。


百嶋由一郎先生講演「菅原道真の先祖神は何か」2012121
一番最初の九州王朝親衛隊金山彦はどこにおられたか、それは福岡県前原曽根の平原。天照大神の古墳のあるところ、曽根一族が九州王朝の初代親衛隊長金山彦です。金山彦が九州王朝の治政がある程度落ち着いたところで、金山彦の本来の仕事である貴重な鉱物資源を堀るために、場所を移して、ある程度住んでおられた場所が熊本県の山鹿です。
従って、山鹿で神武天皇のお后・吾平津姫をお生み申し上げ、今度は、金山彦の嫁さん(大市姫)が変わって、埴安姫のお子さんとして櫛稲田姫をお生みになった。櫛稲田姫の出身地は熊本の稲田ですが、櫛稲田の名前で有名なのは佐賀の神埼(櫛田神社)です。そのほかの櫛稲田はあとでとっつけたものです。


百嶋由一郎先生講演「玉名・山鹿・菊池の神々」201225
福岡市の隣の糸島市に曽根丘陵地があります。ともかく、昔も今も住むのには一等地です。ここに住んで居られた天照大神及び神武天皇のお姉弟を守っておられたのが金山彦九州王朝親衛隊長だったんです。この金鑚大神はある程度の年齢になってから、嫁さん(大市姫)をもらって、熊本県相良の土地で吾平津姫をお生みになりました。この土地では金山彦になっています。紋章はこれ"円天角地に十字剣"ですよ。そして今度はお后が変わりまして(埴安姫)、おなじ近くで櫛稲田姫をお生みになりました。

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百嶋神代系譜・大幡主・月読命・伊弉諾命・金山彦 神代系図(2)


出雲地方のヤマタノオロチ神話は有名で、ほぼ誰もが知っておられることと思う。
足名椎(あしなつち)夫妻とその娘・櫛稲田姫をヤマタノオロチ(八岐大蛇)から素戔嗚尊が救う物語で、退治したヤマタノオロチを切り裂いたら、アメノムラクモ(天叢雲)の剣が出てきたという話である。
実は、この説話は大山祗と金山彦との争いを説話化したものと云われている。
大山祗と金山彦との百年戦争と言われ、ヤマタノオロチの説話の材料にされ、金山彦夫妻が足名椎夫妻、大山祗はオロチに例えられる。その争いを仲裁したのが素戔嗚尊である。オロチ問題が終わったことは二人の豪族間の争いが終結したことを意味する。


金山彦と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)について、百嶋由一郎先生講演から。


百嶋由一郎先生久留米大学講演「九州王朝前夜」2011716
自分たちの一族である長髄彦が神武天皇に対して弓を引いた。それで、それをお詫びするために長髄彦の親父である素戔鳴は大変苦労されて、何とか天照大神にお詫びする方法を考え出された。それが、天叢雲(あめのむらくも)の剣の献上です。天叢雲の剣でピンとこられない方は、ヤマトタケルが後々お使いになった草薙の剣です。
その献上の使者として、お立ちになったのが少年、大山咋(天葺根命アメノフキネノミコト)。これは佐賀におけるお名前です。後々のお名前が比叡山の日吉大社、熊本にいる頃は国造神社です。


百嶋由一朗先生講演「神社研究会」2011528
素戔鳴尊が暴れられて、天照を困らせられました。それで周囲から反発を食らいまして、素戔鳴はそれを後悔して、天叢雲の剣を打って、それを天照に献上なさいました。その献上の使者となったのが佐田大神です。その時は、まだ若い青年でした。この功績で佐田大神となったのです。ところが、出雲佐田大社は大社から格下げされてしまいました。その理由は、佐田大神(福岡・熊本では大山咋の神といいます)の長男坊主(稲飯命)がこともあろうに熊襲(羽白熊鷲)とタイアップして神功皇后に喧嘩を仕掛けたのです。それで、息子の馬鹿騒ぎによって大神の大を消されたのです。それで出雲の佐太神社となったのです。挙句の果てに、猿田彦大神に勘違いされています。


天叢雲の剣は、素戔鳴尊が天照大神にお詫びする方法で考え出された。それが、天叢雲の剣の献上で、金山彦が天叢雲剣を打って、献上の使者となったのが、若き大山咋・天葺根命であった。

「ヤマタノオロチと天叢雲の剣」について、高良玉垂宮神秘書第1条から。


高良玉垂宮神秘書第1条
天岩戸の後(中略)樋の川の奥へ入り給う。その川の川上より箸一対流れ下る、人が在ると思し召し、川を伝いに入り給う。片原に在家見えたり。立ち寄りてご覧ずるに、夫婦と姫一人みえたり。泣き悲しみ限りなし。スサノヲ尊、尋ね給う。いかなる人にてあるか?答えていわく。この浦は三年に一度、この川に「いけにえ」あり。今年はわが姫に当たりて、男の肌に触れない女を「いけにえ」に供えるなり。スサノヲ尊聞こし召す。ここに至って、そういうことであるならば、悪龍を退治すべしと仰せおれば、翁、答えて申す。御意にそうすべし。喜びいわく、翁夫婦の名を足名椎(あしなつち) 手名椎という。姫の名を稲田姫と云うなり。
スサノヲ尊その意を得て、まず、「ヤハシリ酒」という毒酒を作りて、舟一艘に積み、上の社に段を構え、姫の形に人形を作り置きたまう。
風水龍王、人形の形が酒に映りて、酒の下に人があると思いて、毒酒を飲み干す。もとより、かくのごとくせんがための企みであれば、川岸に酔い臥したり。スサノヲ尊、これをご覧じてトツカの剣を抜きて、散々に切りたまう。八の尾をことごとく切り給う。その中の一つに切れない尾があり、ご覧ずるに、氷のごとくになる剣あり。取りてご覧ずるに、後の天照大神の三種のうちの宝剣なり。この剣は近江国の伊吹山にて失いたまう。(中略)
スサノヲ尊、宝剣をもって、もとの斎所にもどられ、神たち集まりて、この宝剣を天照大神に贈呈され、喜びはかぎりなし。その時、スサノヲ尊と天照大神仲直りたまう。
(中略)
この宝剣は風水龍王の八つの尾の中の尾にあり。剣のあるところから煙立ちて叢雲のごとくに在るにより、叢雲の剣と申すなり。
その後、草木に火をつけ国土を焼かんせしを伝え聞き、この剣をもって草をなぎ払いたまう。この時より草薙の剣と申すなり。


記紀の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)説話の原典であろう。オロチを騙していかに毒酒を飲ませるかがよく表現されている。考えてみれば、オロチも単純で、酒甕に映った人形姫を、その酒下にいる姫と思って酒を飲み干すのであるから。
「剣のあるところから煙立ちて叢雲のごとくにあるにより、叢雲の剣と申すなり。」
叢雲とは気象学的に積雲もしくは積乱雲に近い雲といわれる。おそらく、たたら製鉄の折、溶鉱炉から立ち込める炎と煙がその様に見えたのであろう。

素戔鳴尊は天照大神へのお詫びに宝剣を献上するため、金山彦に叢雲の剣の製作を頼んだ。
金山彦はその製作にあたり、砂鉄と炭を原料に「たたら溶鉱炉」を造り、溶けた砂鉄から玉はがねを取り出した。そして、力の限り鋼を打ち宝剣をつくり上げた。その時の形相が今の不動明王の姿に似ていたのであろう。金山彦の後ろに映る溶鉱炉から立ち込める炎は後背の炎に、剣を打つ鍛冶の姿は顔を赤くした鬼の姿に見えたのであろう。
そこで、金山彦のイメージが三宝荒神の不動明王と重なった。背後に炎を背負い、右手に剣を持った不動明王の姿になった。金山彦の姫君・吾平津姫(あいらつひめ)は後の神武天皇・大白太子の后である。その金山彦の姿がいかめしい不動明王の姿とは、イメージが合わない。
そして、金山彦は製鉄の神様であり、鉱山開発の神様となり、溶鉱炉の炎を制御し、火災防止の神様に祀り上げられた。

金山彦は火災防止の神様と祀られている秋葉神社の祭神である。別名、「迦具土神、軻遇突智神(かぐつちのかみ)」、と云う。
昔、村中で大火があると、村神社の境内に火災防止・再発防止のために秋葉神社が境内社として建立された。大火が村中に及ぶと村神社の秋葉神社となることもあった。その例が、福岡県田主丸町片の瀬新町の秋葉神社である。本来の町中には須佐能袁(すさのお)神社が町を守るため鎮座されている。


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秋葉神社  福岡県田主丸町片の瀬新町


福岡県田主丸町片の瀬 宝暦7年(1757) 本町新町全焼。

明治44年6月本町で14戸を焼失する。


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福岡県田主丸町片の瀬本町の鎮守・須佐能袁(すさのお)神社

以上転載


 息をも飲む素晴らしい分析です。自身も「高良玉垂宮神秘書」の解析作業に入らなければならないと考えていたところですが、遠方の神社調査への思いが強く放置してきました。

宮原研究はそれを埋めて余りある物を持っています。是非とも多くの読者がお読みになる事を希望します。

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「高良玉垂宮神秘書」    百嶋由一郎三宝荒神系譜


 これまで、「出雲神話の舞台は九州である」という事をお伝えしてきました。一例ですが、


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大宮神社と猿田彦大神 ④ 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県山鹿市で産まれた! ”


では、菊池川を肥後の肥の川と見立て、金山彦、埴安姫(アシナヅチ、テナヅチ)の間にクシナダヒメが産まれている事から、スサノウのヤマタノオロチ退治の舞台は熊本県の山鹿市であろうと考えていましたが、宮原研究では北部九州でも他の地域をお考えになっていたようです。


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 これについては直接お書きになっていませんが、福岡市の油山の麓には樋井川が流れ桧原(ヒバル)と柏原(カシワラ)が存在しているのです。

百嶋先生もご指摘の通り、桧原には天照(姉)が柏原には神武がいた…と言われていました。

勿論、「古事記」のインチキ神話では、天照と神武が姉弟などとは書かれていませんが…、百嶋神代系譜では腹違いの姉弟なのです。

 出雲が藤原により造られたテーマ・パークでしか無い事が幾分かはお分かりになったでしょうか。

スポット115(前) 山に木がある方が安全だと思い込んでいる人に対して!本当に豪雨が原因なのか?

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スポット115(前) 山に木がある方が安全だと思い込んでいる人に対して! 本当に豪雨が原因なのか?

20170719

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


針葉樹、ここでは杉、桧を考えています。

勿論、針葉樹はこの二つだけではありませんが、松は炭鉱の坑木や鉄道の枕木(これは栗が多かったですかね)などの需要が消えており、クロマツなど防風林として以外は、人工林は事実上存在していません。

高野槇は古代には棺桶に使われましたが、大木の槇はもはや探さなければありません。

栂にしても絶対量は激減したままです。他には日本固有種のあすなろもありますが、主要には杉、桧であることが分かります。

今回の九州北部豪雨災害に関して極めて目立った特徴は膨大な数の流木と称せられるものの存在でした。

まず、「流木」と表現されている事自体に責任の所在と責任そのものを薄めようとする意図を感じるのですが(誰の物でもない漂流物…)、これらの大半が杉であることから、本来は全て所有者のある造林地の一部崩壊によって押し流されたというより崩れ落ちた伐期を越えた成木(伐期は通常は35年)と、切り倒されたものの売れないために斜面に放置されている間伐材と根っこだけも一部には含まれているはずです。

これらが破壊的な力により人も家も工場も田畑も全てを押し流したのですから、そもそも山林の所有者の責任が放置されていること自体が異常と言わざるを得ないでしょう。

逆に言えば、この問題を不問に伏すために、殊更、記録的大豪雨による災害であると強調している様にも思えませんか?


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九州北半部で雨の地域は動くのですが、被害が集中した朝倉~日田は514日を中心とする地域での大雨となったのでした。実際のところ、いつどのように災害が広がったかは簡単には把握できません。必ずしも最大の大雨が降った時期と災害が発生した時期とが一致しているとも言えないようです。

バラつきが大きいのですが、「平成297月九州北部豪雨」で検索すると以下のようになります。


5日午後には、二方向から流れ込んだ湿った空気が福岡県朝倉市付近で合流し線状降水帯が発生、同じ場所で長時間猛烈な雨が降り続いた[6]。福岡県朝倉市、うきは市久留米市東峰村佐賀県鳥栖市大分県日田市などで1時間に100mmを超える雨量がレーダー観測から解析された[7]。特に、朝倉市付近では3時間で約400mm12時間で約900mmの雨量が解析され[8]、気象庁以外が管轄する雨量計では、朝倉市寺内で51520分までの1時間降水量169mmを観測。 また朝倉市黒川の雨量計では52050分までの9時間降水量778mmを観測するなど、その降水強度は激烈を極めた。 

ウィキペディア(20170721 0531

以下は、

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による、平成247月九州北部豪雨  平成24(2012)711日~714日に関する昭和297月の九州北部豪雨の雨量の公表値です。


13日は佐賀県、福岡県を中心に、14日は福岡県、大分県を中心に大雨となった。福岡県八女市黒木(クロギ)では、141130分までの24 時間降水量が486.0ミリ(128.4%)となり、観測開始(1976年)以来1位の記録となった。

 この4日間の総降水量は、福岡県筑後地方、熊本県阿蘇地方、大分県西部で500ミリを超えた観測所が計5地点あり、筑後地方では7月の月平年値の150%以上となった観測所が2地点あった。


念のためにウィキペディアでも確認しておきましょう。


72時間雨量熊本県阿蘇市阿蘇乙姫:813.5ミリ(7141620分まで)福岡県八女市黒木:646.5ミリ(7141140分まで)福岡県久留米市耳納山:585.0ミリ(7141410分まで) 以上を含む全7地点で観測史上1位の値を更新した。大分県日田市椿ヶ鼻:642.5ミリ(7141620分まで)

20170719 12:03

 
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情報速報ドットコムでも気象庁からのデータにより以下のように伝えていました。


記録的な大豪雨となった九州北部ですが、7月7日も大雨が予想されています。気象庁によると、7日は九州全体が雨模様となる見通しで、福岡県や大分県ではかなり強い大雨になる可能性が高いとのことです。

これまでの48時間に降った雨の量は、福岡県朝倉市で557ミリ、大分県日田市で376.5ミリに達しています。地盤が緩んでいる場所も多く、追加の大雨によって土砂崩れや洪水の危険性が高まると言えるでしょう。

気象庁は特別警報に関しては6日昼に解除を発表しましたが、その後も九州の広い範囲で警報を継続しています。多い場所では200ミリ以上の大雨が予想されていることから、改めて備えを強化する必要がありそうです。


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「線上降水帯」といった新造語までを駆使してとんでもない雨が降ったような印象を与え、さらに実態を大きく見せるために48時間降水量という普段使わない基準で557㎜の大雨が降ったようにと見せているのです。

落ち着いて、24時間雨量として見れば日量は280㎜という通常ありうる程度の普通の大雨だった事が確認できると思います。

記録にない大雨、史上類を見ない豪雨、記録的雨量…と連発されましたが、マスコミは低下し続ける視聴率を上げるため嬉々として過剰報道を続けていた事はご存じの通りです。

では、本当にそれほどの記録的な豪雨だったのでしょうか?

当方の世代としては、まず、大量の地滑りで299人が亡くなった長崎の豪雨災害が頭に浮かびますが、この時には脚色された48時間などではなく24時間で527㎜の降水量が記録されているのです。


長崎大水害

時間雨量では長与町役場に設置された雨量計で2320時までの1時間に187mmと、1時間降水量の日本記録となる値を観測。長浦岳の雨量計(アメダス)では19時までの1時間に153mm、同8時までに118mmの雨量を観測した。また、外海町役場に設置された雨量計で2320時までの2時間に286mmと、2時間降水量の日本記録を記録している。降り始めからの24時間雨量は長崎海洋気象台で527mmを観測した。

24日は、梅雨前線が南下、島原半島や熊本県を中心に大雨となり、熊本市で日降水量394.5mmを観測。25日は九州南部や紀伊半島南部で100mmを超える大雨となった。

ウィキペディア(20170719 12:39)



また、私が産れた年ですが、同じく長崎県で起こった諫早大水害では、さらに凄い雨が降っているのです。実に24時間降水量が1109mmなのです。

もうお分かりでしょう。今回の朝倉~日田で起こった洪水とは、普通(再び今年中にも、毎年でも起きうる)の大雨だったのです。

実はこの方が深刻な事態であり、今後、いくら道路や河川や橋を復旧しょうが、涙ながらの絶望的な努力で住宅や工場やハウスを再建しようが、数年を待たずして普通の大雨によって再び大洪水に見舞われる可能性があるのです。

今の国民経済に土建業者や産廃業者(彼らは願ってもない特需であり、ビジネス・チャンスなのですから)でもない限り、このような酷な犠牲から立ち上がれるとは思えないのです。


諫早豪雨

諫早豪雨(いさはやごうう)は、1957725日から728日にかけて長崎県の諫早市を中心とした地域に発生した集中豪雨およびその影響による災害のこと。

諫早豪雨は気象庁が正式に命名したわけではないが、広く使われている呼称である。地元自治体やマスコミなどは諫早大水害(いさはやだいすいがい)の呼称も用いている。

以下の記述では、市町村合併によりすでに消滅している自治体もあるが、原則として豪雨発生当時の自治体名で示す。

南高来郡瑞穂村西郷では24時間降水量が1109mmという驚異的な降水量を記録し、6時間降水量と12時間降水量では日本歴代最高記録を記録している。


ついでに確認しておきますが、40人もの犠牲が出た広島の豪雨災害(これは崖も崖地の広葉樹林地の一部が崩れたのですが)も、2014(平成26)年820日の午前1時から4時までの3時間、広島市安佐南区と安佐北区の局所的な範囲で、同じ場所で積乱雲が次々と発生する“バックビルディング現象”により、過去観測史上最大の300ミリ近い猛烈な雨が降った。」


3時間降水量は300㎜以下、つまり時間雨量100㎜で普通の雨なのです。


さて、重要なのはこれからです。記録的大雨と言う責任逃れの見え透いたテクニックは直ぐに化けの皮が剥がれましたが、問題は危険極まりない売れない大木が急傾斜地に放置され、今後とも崩れ落ちる順番待ちの状態になっているという事実が認識できるかどうかなのです。

正しい認識、情勢の把握なくしては、正しい対策も立てられないはずなのです。

勿論、林野庁が数十年の永きに亘って放置したサボタージュですから簡単には立てられないでしょうが。

まず、杉の一般的な伐期は通常3540年(桧は4045年)とされています。

しかし、阪神大震災(1995年)前後から顕著になるのですが、和風住宅の新築需要に変化が生じ、米松を材料としたプレハブ住宅に中心が移り、杉、桧の需要が急激に落ち込みます。

勿論、売国奴小泉竹中による所得の半減も原因の一部となっていることは言うまでもありません。

このため間伐材どころか、立派な木材が全く売れないため、膨大な数の伐期を越えた大量の成木が山に滞留し始める事になったのでした。

このあたりの事情を良く説明するのが「長伐期施業」なる事実上の責任放棄、棚上げ政策だったのです。

以下は石川県の林業試験場によるパンフレットですが、ネット上にも公開されており、全国的にも同様の方針が取られていることから実態を素早く理解できるでしょう。

非常に分かり易いので興味をお持ちの方は検索の上お読み頂きたいと思います。

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sp115-6このままでは針葉樹が売れないという事実を棚上げにし、60年生の大木に育て上げればいずれ樹価は上がり森も守れます…などと拡大造林の付け回しに二度目の大嘘をつき、開き直って高らかに歌い上げたのがこの恥知らずな政策だったのです(もはやこれも超え始め、そのうち80年でも良いと追認するのでしょうか)。

こうして、拡大造林木政策に踊らされ急増された売れない杉が大量に放置された結果、今や、急傾斜地に危険極まりない大重量の杉がギリギリで乗っかっているという異常な状態が出現したのでした。

まさに、国家としても農水省としても、林野庁から末端の県林業課から森林組合に至るまでのバカの4乗5乗が、多くの犠牲と悲劇を産みだしたとしか言いようがありません。

これが国策であり、国と国土と国民と国民経済を守る施策だと言うのですから、ほとんどお笑い草としか言いようがありません。

良い事だけしか書いていない「杉のきた道―日本人の暮しを支えて」(1976) (中公新書)を読んだ方達だからでしょうが、今やこの本も悪魔の囁きのようなものに思えてしかたがありません。

恐らくこれらの杉も、今は亡き祖父の代が自らの子孫のためにと汗水流して植えたものだったはずですが、まさか、無駄になるどころか、他人の命や財産を押し流し、他人の人生も台無しにするものになるなどとは思いもしなかった事でしょう。

まず、60年生の杉を搬出する事も大変な作業である上に(もっとも、林業家の平野虎丸氏によれば、林業も機械化が進み女性でも可能になったとは言われていますが…)、仮に採算を度外視して市場に出したとしても、実際には何本も売れるはずもなく、たまに大寺院や大神社で僅かに使われるのが関の山といった事にしかならないのです。

そもそも、檀家から氏子組織の希薄化、消失によって、現在の寺院や神社が十年後、二十年後にも木造の建築で造営ができるとはとても考えられる状態ではないのです。

恐らくコストの問題から昔の公衆便所のような安っぽいコンクリート製の寺社ばかりになってゆき杉や桧は置いてきぼりになるでしょう。

こうして、事実上の政策放棄とも言える「長伐期施業」という悪魔の国策が継続されることによって、今後も林野庁による隠れた殺人、国民への加害行為、良くても未必の故意による殺人が継続されることになったのです。

この責任逃れの棚上げ政策を指揮した連中は、事実上の産廃事業でしかないバイオマス発電などにいち早く逃げ込み法外な報酬を手にしている事でしょう。

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トランスフォーマーなみの林業用ロボット


どれだけ危険であるかは、事実としての森林崩壊によって既に明らかになっていますが、今後も証明され続けるでしょうが、もう少し詳しく考えて見ましょう。


広葉樹林地には広葉樹林地の傾斜が針葉樹林地には針葉樹林地の傾斜が自ずと形成される



スポット115(後) 山に木がある方が安全だと思い込んでいる人に対して! 本当に豪雨が原因なのか

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スポット115(後) 山に木がある方が安全だと思い込んでいる人に対して! 本当に豪雨が原因なのか?

20170719

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



ほんの3400年ほど前までは、水運の効いた一部の御用林や寺社領地の杣山以外人工的な針葉樹林地などと言ったものは存在していませんでした。

対して今のような人工林地というものは高々670年で急造されたものでしかなく、昔の里山は何十種類もの多様な広葉樹が生い茂り村々には豊かな山が広がっていたのです。

この千年~二千年を超えた照葉樹、広葉樹の森というものは、一部に都市近郊や産鉄地において恒常的な炭山としての利用はあったものの、30年もあれば再生する日本の天恵の風土に支えられ、切っても、切っても、しばらくすれば再生する安定した森だったのです。

結果、その樹勢と樹種と土壌(風化花崗岩、玄武岩質…)に風や雨による浸食の程度によって樹林地の土壌から下草の在り様や山の傾斜さえも自ずと決定されてきたのでした。

このため、元々、僅かしか存在しなかった杣山では、徹底した間伐、枝打ち、下草払い…が行われたとしても、広葉樹が卓越した普通の里山浸食の程度は、十分に高かったはずであり、多くの風雨にさらされ安定したその山特有の緩傾斜の地面が形成されていたはずなのです。

従って、山というものは広葉樹林地には広葉樹林地としての固有の傾斜が持たされているのであって、その広葉樹起源の樹林地に全く不自然な針葉樹を大量に植えれば、幼木からギリギリ通常の伐期までは持つとしても(これも極めて怪しげですが)、大重量の大木を支える力は全くないのであって、日々重量を増しながら崩れ落ちる順番を待っている状態が生じてしまう事になってしまうのです。

では、伐期を過ぎた針葉樹の問題を考えて見ましょう。正確な木材の体積である石(こく)を出す方法はあるのですが(1石は278,000cm3)、ここでは簡単な方法で考える事にします。

三角錐の体積(従って重量)は以下のようになります。

円錐では底面の半径をrとすると S=πr2 だから
sp115-8になり、半径の二乗になります。

仮に35年生が60年生から70年生になり半径が1.5倍から倍になったとしましょう。

一応、樹高はそのままとすれば、2.25倍から4倍になることはどなたもお分かり頂けるでしょう。

この三倍近くに跳ね上がった危険極まりない大重量(1000㎏程度)の木が根も張らず、腐葉土もなく下草もなくただただ洗い流され続ける痩せた砂漠のような土壌にギリギリ乗っているのが現状の朝倉~日田に掛けての大面積の針葉樹林地であって、今後とも僅かな雨で崩れ続ける可能性を高め続けているのです。

このそら恐ろしい事実に対して林野庁は既に十分に気付いているはずです。

気付いているからこそ、記録にない大雨のせいにし、その場しのぎで、自らの責任追及から逃げおそうとしているように見えませんか?

そして、人生を狂わされた犠牲者に対して、ものを言わせぬ「頑張ろう朝倉~日田」コールが早々と始まっているのです。善意のボランティア活動をされる方への敬意は表しますが頭が悪いとしか思えません。

そう言えば、20127月二度に亘って起こされた日田の豪雨災害から粗方復旧が終わったのはつい先だっての事ではなかったでしょうか?

この崩壊を続ける人工林地の問題が解決しない限り、これと同じ現象が今後とも永久に続く事になると考えるのはそれほど突飛な話ではないと思うのですがいかがでしょうか?

ただでさえ動植物が消え根も張らず腐葉土も醸成せず、一方的に土壌と栄養を失い続ける人工林地にこの大重量となった大木が並んで乗っているだけの状態なのです。

お分かりでしょうか?広葉樹林ならば十分支えることができるはずの急傾斜地に、このただただ危険なだけの大木が、ちょっとでも触れば崩れ落ちる状態で放置されている状態が如何に危険極まりないものであるかという事を誰も言わず、ただただ大雨のせいにしたり、はたまた、崩れやすい真砂土(風化花崗岩)のせいにしてお茶を濁し、決して農水省が引き起こした大失敗を、誰一人として追求しようとしていないのです。

勿論、真実を追求すれば、明日から仕事が来なくなることから、本当の事は一切言わないのが学者の良心ならぬ用心なのです。このような連中を御用学者と言ってきたはずですが、最早、恥を知らない連中ばかりが幅を利かせているのです。

恐らく気象庁と林野庁は気脈を通じて今回の記録にない大豪雨キャンペーンを張っていると思われます。

そして、芸人と外人とオカマとハーフだけで安物番組を作り続け誰も見なくなった地上波ですが、ここぞとばかりに嬉々として災害報道に奔走しています。

災害となると視聴率が上がるため、少しでも減り続ける広告収入を繋ぎとめようと必死になっている事が透けて見えますが、この人工林の放置問題を取り上げない限り、凡そジャーナリズムなどと大言することなどできないでしょう。また、来年か再来年、更に拡大した災害報道を繰り返す事になることでしょう。


良く言われる話ですが一応確認のために


sp115-9前述したとおり、自然林(こんなものは事実上存在しませんが)であれ二次林であれ、本来の植生に根ざした広葉樹の山というものは、長年月の間の台風や豪雨、暴風、山火事、地震など、想像できるありとあらゆる災禍を経験したことによって、その山体の傾斜さえも幾度もの大きな崩壊を経てそれなりに安定したものになっています。

広葉樹はオーバー・ハングの急峻な岩場の割れ目にさえも根を張り、垂直の壁にへばり付いても幹を支えます。

それに背丈も低く、樹体自体もしなやかであるために、風雨にも強く広く根を張ることによって水も土も保ってくれるのです。

これに対して、現実の針葉樹の森の地面は乾燥化しており、砂漠のような状態にあります。

この問題は都市部に住む方々には非常に分かりにくいと思いますので、過去何度も書いてきたことですが、多少の説明を加えたいと思います。
 収益が見込めないため間伐も枝打ちもされず、このため陽が刺さず根を張るような下草は一切生えず、昼なお暗い針葉樹林の下には、一応、杉山は落下したほとんど腐らない杉の葉に覆われてはいますが、事実上は剝き出しの土壌を失った地面があるだけなのです。

このため一旦雨が降り出せば、残された土壌が一方的に流され続け、ほとんどが礫質の砂漠のような状態になっているのです。

本来、針葉樹はシベリアのタイガのような、それほど風も吹かない安定した高緯度高圧帯の平地から緩傾斜地帯で育つものなのです。

そもそも、このような樹種を日本のような急傾斜地に植えることが始めから誤りといえば誤りなのです。

一般的に、造林地は広葉樹の森を皆伐してスギ、ヒノキが植えられてきたのですが(短期皆伐方式)、その傾斜とは元々広葉樹の森であったことにより長年月の間に形成され安定したものになっているものであり、戦後に急造されたようなにわか仕立ての針葉樹林を造るのに適した傾斜ではないのです。

保水力を失った針葉樹林が一気に雨水を押し流しているだけでもそら恐ろしいのですが、根を張らず、豊かな腐葉土も形成しない針葉樹が傾斜地に存在している事がどれほど危険な事なのか、ようやく認識されたのが今回の九州北部豪雨災害だったと言えるでしょう。

決定的な転機は阪神大震災前後なのですが、この現象はそれ以前から徐々に始まっており、少子化と国民の所得の低下による住宅着工件数の半減に加えて、住宅のプレハブ化により輸入された米マツによるパネル工法が蔓延し、現実に、杉、桧を使う在来工法による和風建築が激減する二十~二五年より以前から起こっていたのです。

それが、都市の住宅が、ほぼ、鉄とコンクリートとガラスとプラスティックスで造られるマンションに移行していることと併せ考えれば、全国の杉、桧はその一部を除いて、三~四十年前ほど前から材価は劇的に低下し、ほぼ、売れなくなっていたと考えてまず間違いないでしょう。

このことから、七~八〇年代から間伐も枝打ちも行われないまま、放置されていたと考えられるのです。

こうして山の土壌は大雨のたびに流れ出し、事実上は石ころの砂漠の上に林が乗っているだけになっていたのです。 

砂漠に保水力が無いのはあたりまえであり、山の乾燥化が驚くべき状態にあることは自明でしょう。

このように書くと造林の正当性を強弁する林野庁や林業関係者から反論が聞こえてきそうです。

しかし、この問題に対する直接的な説明という訳ではありませんし全く目立たないものでしたが、国も認めざるを得ない新聞記事がありましたので、古い事は承知ながらここで紹介しておこうと思います。

「保水力の調査自然林が優位」川辺川「緑のダム」構想がそれです。

「国交省の川辺川ダム計画(熊本県)の代替案『緑のダム』構想を検証するために、同省とダム反対派が共同で実施した林の保水力の調査で、川辺川上流の人工林の斜面を流れる水量が、自然林の約六倍であることが分かった。研究者は『自然林の保水力の優位性を裏付ける』と主張。同省は『雨量全体から見れば差は無視できる』としている。」(二〇〇四年一〇月二日付け朝日新聞)

記事には「緑のダム」構想とありますので、恐らく広島大学の中根周歩教授などが関与されていたものと思うのですが、林野庁としては認めたくはないが認めざるを得ない身内から証人が出てきたような思いでしょう。

私の目からは、現在の林野行政というものは、もはや国家のためでも、国土のためでも、山林所有者のためでもなく、林野行政担当者、事実上の公務員と言える森林組合職員、結果的に補助金を受ける林業者や砂防ダム、林道その他の建設業者のために存在しているように見えるのです。

少なくとも、"自分たちは森を育て国土を守る良い仕事をしているのだ"などといった、思い上がりとも錯覚とも言えぬ愚かで誤った認識だけはそろそろ払拭してもらいたいものです。

これがもし"林学なのだ"と言うのであれば大笑いとしか言いようがありません。

彼らを全て杉林に吊るし首にしたいところですが、彼らには敗戦後まで残されていた豊かな広葉樹の山を復元する義務が残っているのです(もちろん、針葉樹林に火を掛けて放置した方が、よほど早く確実なので、吊るし首にしても一向に構わないのですが…)。

このままにしてもらっては、20059月に宮崎で発生したような大規模な森林崩壊(土砂崩れというにはあまりにも規模が大き過ぎる、百万本の杉、桧が倒れた宮崎市田野の管理された国県有の巨大造林地)が、今後も頻繁に起こり続けることになるのです。

今となっては、所詮、大半を輸入に頼るのであったのならば人工林など造らずにいた方がどれ程良かったかと思うのですが、原因は、大半の都市が焦土と変わった本土空襲による木造住宅の消失でした。

この本来安定していた山の利用が一変させたのが大東亜戦前後の木材需要の逼迫であり、戦後多くの山が禿山になったとの話もあったのですが、今となっては確認の方法がありません。

その後、都市化の進展に伴う都市住民の増大による燃料の需要の増大によって、多くの広葉樹林としての里山が切られ木炭が生産されたのですが、エネルギー転換によって、練炭、豆炭、石炭などの家庭での利用が進み、プロパン・ガス、都市ガス、灯油が家庭用燃料の主力になって行くと、最後の炭山が切り払われ針葉樹が金になるとの一時的なブームが起こりそれに便乗した拡大造林政策が大手を振って跋扈し始めたのでした。

もし、国内の需要を国内で満たすのであれば兼松あたりから始まったフィリピンからの南洋材の輸入はすべきではなかったし、外材の輸入に頼るのであればこれほどの針葉樹林地は必要なかったのでした。

このチグハグナ政策が惰性で放置されとうとうとんでもない災害が大規模に起こり始めたのです。

勿論、伝統的な和風建築や優雅な寺社建築を維持するためにも必要な木材は国産材で賄うべきであると考えていますが、大半がマンションと安物のプレハブに移行した現在の日本では再び江戸時代程度の杣山だけで十分な時代に入っていると思うのです。

そして、無駄な造林地は逐次処理し伝統的な里山に戻して行けば、紅葉も復活し、花粉症も消え、川には魚が戻り、洪水の頻度も劇的に下がる事でしょう。

害悪しか引き起こさない現在の林野行政を清算し、全てを解雇せよと言うのが酷であれば、国土再生庁とか森林復興庁とでも名を変え、危険な針葉樹を皆伐し豊かな広葉樹の森を造るために放置すれば良いのです(広葉樹植林より放置された再生林の方が余程効率的なのです)。

まあ、自らの失敗は決して認めないでしょうから、今後このような災害が頻発し国民の大反発が林野庁に向けられない限り彼らは改めない事は分かっています(現時点でも林野庁に石を投げる人が出て来ても一向におかしくないのですが)。

しかし、かすかな期待があります。

それは山仕事をやれる若者が全く供給されないと言う現実が解決する事になりそうなのです。

なぜなら、林業が成り立たない上に、そのうち担い手そのものが消え失せるからです。

こうして新規植林が縮小から終了し、人工林地は崩壊し続け、洪水、土砂崩れが頻発し、復旧すれども復旧すれども災害が頻発し、ようやく過去の林業が馬鹿げたものだったかが明らかになり、本来の広葉樹林の再生が始まるだろうと思うのです。これが、日本の森の悲しい現実なのです。


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441 下賀茂神社の祭神は、何故、賀茂建角身(カモタケツヌミ)命と呼ばれているのか

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441 下賀茂神社の祭神は、何故、賀茂建角身(カモタケツヌミ)命と呼ばれているのか

20170203


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今回は皆さん良くご存じの下賀茂神社のお話です。


十五年ほど前に一度訪問させて頂いただけの身ながら、勝手な話をさせて頂くことになりますが、その点は平にお許しを頂くとして、ここではその深層には踏み込むことはせずに、表面的かつ側面的な話をさせて頂くことにします。

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下賀茂神社


賀茂御祖神社(下鴨神社) カーナビ検索 京都府京都市左京区下鴨泉川町59 ℡:075-781-0010


御祭神と御神徳


441-2正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」とよびます。

京都は鴨川を中心に町づくりがなされており、鴨川の下流にまつられている

お社というところから「下鴨(しもがも)さん」とか「下鴨神社(しもがも)」と親しくよばれています。

東西の両本殿はともに国宝に指定されています。

【ご祭神】

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと) 西殿

玉依媛命   (たまよりひめのみこと) 東殿


賀茂建角身命は、古代の京都をひらかれた神さまです。

山城の国一宮として京都の守護神としてまつられています。

平安京が造営されるにあたって、まず当神社に成功のご祈願が行われました。

以来、国民の平安をご祈願する神社と定められました。

 山城国『風土記』などに、玉依媛命が鴨川で禊(みそぎ─身を清める儀式)を

されているときに、上流より流れ来た丹塗の矢を拾われて床におかれたところ、

矢は美しい男神になられ、結婚された。

そしてお子をお生みになったとの神話が伝えられていますので、古くから縁結、

子育ての神さまとして信仰されています。

当神社は、国家国民の安穏と世界平和をご祈願する守護神であるとともに、厄除、

縁結、安産、子育、交通安全など人々の暮らしを守る神さまです。

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下賀茂を考えるに際して、まず、故)百嶋由一郎氏が残された神代系譜(ヤタガラス・バリアシオン)を見て頂きます。

祭神の賀茂建角身命がヤタガラス(豊玉彦)であることには異論はありません。

しかし、もうお一人の祭神の玉依姫がどなたなのかが問題なのです。

一般的には神武天皇の産みの親が豊玉姫で、育ての親が玉依姫などとされますが、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)をお読みの方には、それこそが上賀茂神社(賀茂雷神社)の主神賀茂別雷大神=贈)崇神天皇が初代神武天皇を僭称するための仕組みでしかない事が段々とお分かりになってきたと思います。

そうです、下賀茂の祭神とされる玉依姫とはヤタガラスと櫛稲田姫(セオリツヒメ、イカコヤヒメ)=元スサノウのお妃 との間に産れた鴨玉依姫であり、父と娘が祀られているのです。


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百嶋最終神代系譜(部分)



そして、その偽装された豊玉姫と玉依姫のお二人とは百嶋最終神代系譜の黄枠の豊玉姫と鴨玉依姫のお二人なのです。


そして、このことは下賀茂神社も十分ご存じの事だと承知しています。

 実際には藤原が偽装した「古事記」「日本書紀」はご迷惑なのだと理解しているのですが…最近、この玉依姫とは神武天皇の育ての親の玉依姫ではないと本当の事を言われ始めたと聞き及んでいるのですが、まだまだ明瞭には主張されてはいないようですね。


では、そろそろ本題に入りましょう。「賀茂建角身命」の呼び名が気になるのです。

 普通に読めば、「カモタケツミノミコト」ですね。

 しかし、賀茂建角身命(かもたけつみのみこと) 西殿 と書かれているのです。


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441-5これまでも何度か書いていますが、九州(現在は大分県北部の瀬戸内海側沿いを除く)では、標準語のO音がU音と入れ替わる場合が数多く認められます。

「今日は大事(オオゴト)をしでかした」→(ウーゴト)、栂(トガ)→栂(ツガ)、ホウヅキ→フウヅキ、遊び呆(ホウ)ける→呆(フウ)ける…

というように、九州ではU音で発音されるものが、畿内というより九州島外ではO音として発音される傾向が顕著になるのです。

ここまで言えば、お分かりになったと思いますが、ヤタガラスの一族の故地は畿内や紀国などではなく九州だったのです。

そもそも、豊玉彦とか豊玉姫とかどこに居たと考えておられるのでしょうか?神武僭称贈)崇神天皇さえ九州にいたのですし、その子である豊城入(ニュウ)彦も豊の国に居たから豊の字が付されているのです。

勿論、“それは近代の方言じゃないか!神代の祭神の名前に反映されていると言う保証は何もない…”などと強弁される畿内説論者などが出てこられる事は容易に想像できますが、じゃあ、逆に、何故、そう呼ばれているか読まれているかについて積極的に説明できるものをお持ちなのでしょうか?と問えば良いだけの事なのです。

右は、少し古いのですが、講座方言学「九州地方の方言」(10p)九州方言の概説 上村孝二1三 音韻 1 母音 の一部です。

遠い神代を探るには何でも使わなければ届かないのです。

それを、始めから“神世の話ですから“”欠史8代を議論する等気がふれている“などと封殺されるのは愚かな事だと思うものです。

最後になりますが、下賀茂神社には橘殿があります。

豊玉彦ことヤタガラス=賀茂建角身命の流れから後の橘一族が出てきているのですが(故百嶋由一郎氏も豊玉彦と聴いたら橘一族を頭に描いて下さい。)と言われていました。


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スポット116 災害復旧に意味があるのか!

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スポット116 災害復旧に意味があるのか!


20170725

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 20177月に起こった朝倉~日田にかけての豪雨災害は「九州北部豪雨」と名付けられ、さも、とんでもない大雨によって引き起こされた天災といったマスコミも加担した大量宣伝がなされ、復旧に頑張るしかありません…といった空気づくりが行われています。まあ、要はいつものやり方ですが…。


 問題はそれが奏功するかどうかなのです。既に、二本のblogで粗方のリポートを書いていますが、最初の被害が出て3週間経過した現在、変更する気はありません。


スポット112 朝倉~日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした!


スポット115 山に木がある方が安全だと思い込んでいる人に対して! 本当に豪雨が原因なのか?


 その後、林業家の平野虎丸氏と医師の堀田宣之先生と熊本市内に集まり、今回の豪雨災害を半日に亘って議論しました。


 開口一番、私はどうせ選択はできないはずですが“針葉樹林に火を掛けろ!”と口火を切りましたが、話を進めるために、虎丸さんに対して“殺人ですよ!とは、実際、その通りですが…良く言いましたね…”と、針葉樹林の大規模な崩壊がいよいよ本格的に始まり、その危険性は増しこそすれ緩和される事は一切ないとの予測を話し合ったのでした。


sp116-1

某局TVクルーと現地に入った平野虎丸氏


 今後、定期的に集まり、この人工林の問題を議論して民間人の立場からユーチューブ上に提案しようという会合をもったのでした。


 これで、粗方の方向性は纏まったのですが、総論から入り各論へと話を進めたいと考えています。


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さて、本題に入りますが、“災害復旧に意味があるのか!”などと書くと「何を突飛な事を…」と言われる事は十分に承知のうえで議論に入ります。

極めて簡単な事なのですが、皆さんは、災害で流された家をダブル・ローン組んだ上で涙ながらで再建し、数年を待たずして再び災害に逢うとしたら、元の土地に住もうと思われますか?

 田畑や宅地の在る方に言うのは酷でしょうが、財産を持たない方であれば、できるだけ早くこの地から離れ、安全な地を探される方が無難ではないかと思います。

 それほど危険極まりない山になっているという事なのです。

 既に前blogに於いて今回の雨が大雨だったとしても普通の大雨でしかなかったことはお伝えしました。

 例の48時間降水量という見え透いた小手先で550㎜降ったとしても、24時間降水量は高々275㎜でしかないのであり、これは昭和28年の諫早大水害の24時間降水量1109㎜の4分の1でしかないのです。

 西日本でも北部九州のこの一帯は頻繁に雨に襲われるのであって、来年と言わず、今年の秋の長雨でもこの程度の雨が降る事はどなたでも容易に予想できると思います。

 しかし、今回崩れた所は危険な所だったから崩れてしまった以上、暫くは安定し崩れることはないだろうと思われる方もおられるかも知れません。

 今回が崩れやすい場所が崩れて残りは当分の間は大丈夫間という事ならばそれでも良いのですが、事はそう簡単ではないのです。

 まず、針葉樹とは何かです。

 針葉樹は地球上の森林域の全域に分布していますが、多くの場合は広葉樹に混在しており、大量に分布するのはタイガと呼ばれる亜寒帯であり、シベリア・北アメリカ大陸の高緯度高圧帯と呼ばれるそれほど、雨も降らず大風も吹かない安定した気候に広大な針葉樹林が広がっているのです。

 本来の針葉樹林とはこのような安定した気候の緩傾斜地や平地に杉や桧が群生する広大な森の事なのです。

 そもそも、頻繁に台風が襲来し大雨が降るような複雑な地形の急傾斜地に杉や桧を植える事が異常な上に危険極まりない事であって、きちんと管理されていたとしても急傾斜地に植えられた場合には、大木になればなるほど重量が増し崩れる可能性が増して行くのです。

 平地の杉はよほどの大風でも吹かない限り倒れるとしても問題が起こる事はないでしょう。

しかし、列島は平地が三割もなく、それは住居地であり農地である以上、木材を育てる場所は傾斜地しかないのです。

そのためには伐期を過ぎた大重量の木は適宜伐採し処理しない限りこの危険性は拡大さえすれ、決して安定する事はないのです。

都市の住宅は鉄とコンクリートとガラスとプラスティックスと僅かな外材で造られる上に、地方でもマッチ箱のようなプレハブばかりになり、所謂大工さんに頼むような伝統的な和風の建築は激減し、大寺院や大神社でも高額となる木造の建物を避け鉄骨のコンクリートの建物ばかりとなり、もはや、超樹齢の木材が売れる気配は全く存在しないのです。

こうして、拡大造林政策の付け回しの結果、伐期を過ぎた60年生、70年生の大重量の木が売れる当てもなく今後も放置され続けられるのです。


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朝倉市山田~志波地区奥の山林崩壊現場の惨状 パスコ社「朝倉市水害 ため池決壊現場」による


 凄まじい画像です。どこが針葉樹の森が山を守っているのでしょうか…?守るどころか自ら森の崩壊の原因になっているのですから大笑いです。林野庁や県の林業課の方々に聴いて見たいものです。

 これでも、針葉樹は広葉樹に対して保水力に差はないなどと言い続けるのでしょうか?

 広葉樹の森が数千年の時間を掛けて創り出した地面に針葉樹を植えて針葉樹の森からの流出量は広葉樹の森からのそれと大差はなかったなどととぼけた研究をやっているのですからペテンも良いところです。

 酷いのは環境保護とか水問題とか筑後川流域の水問題を云々している団体でさえ、このペテンに引掛かるのですから、物事の本質を掴む力のない人たちはどうしようもないのです。

 御追従研究も馬脚を現したといった感がありますが、多くの人命を奪った事実が実証してくれたのです。


これが戦後60年掛けて林野庁がやった(長伐期施業)ことです。次は残りが崩れて来ます。

 急いで大型の砂防ダムを造り(当然国土交通省に奪われるでしょうが、国営農地防災事業なのか治水を目的する農地防災ダム)、被害者の悲しみと絶望を尻目に、また、天下りして金儲けをする事でしょう。

 これが国土を守り豊かな森林を育む林野行政だと言うのですから大笑いです。国賊ども恥を知れ!

 通常、560年に一度と言うような災害であれば、人の人生においてあるかないかのような災禍となるのであって、家族のため先祖のために「頑張って再建しよう…」とは一応なるのですが、この山の惨状を見れば、今後も何度となく災害が襲う事が容易に分かるはずなのです。

今の状態では、谷筋や、今回は崩落を免れた残りの危険な造林地の木材の撤去といった当然やるべき事はあまりにも面積が大きくて実質的には手の打ちようがないはずであり、結局、あの見苦しい大型の砂防ダムで対応する以外にはないはずです。

“山に木を植え国土保全を図る”などと大見えを切っていた恥ずかしさも棚上げし、造林による収益(こんなものは杉一本は大根程度)の何十倍何百倍も金を掛けダムで潤うのは天下り官僚と実質ファミリー企業だけという事になるはずなのです。

もう良い加減に、傾斜地の崩落を杉や桧が保全しているなどと言った大嘘をつき続けるのはやめて、かわいそうな住民のために本気で超伐期針葉樹の撤去作業を始めたらどうでしょうか?

勿論、よっぽどの馬鹿記者でもなければ今回の大災害が人工林の崩落が原因である事は誰でも知っており、ただ、あまりにも大きな反応が出ることから、それを言わないだけの事であり、防災関係の学者も知っていながら崩れやすい真砂土のせいにするなど自己保身に走っているだけなのであり、最早全てがバレているのですから。いかに大袈裟に史上ないような大雨が降ったなどと吹聴しようが、この程度の雨はいつでもやってきます。「この歳になってこんな地獄は二度と嫌ですね…」とは、朝倉の被災地の老女の言です。

列島民族はお人よしというか、相手を思いやる心が強すぎることから騒がず喚かず耐えてゆこうとするでしょうが、数年単位でこのような災害が繰り返されるとした場合でも、行政への(特に林野庁への)責任追及の声が上がらないでしょうか?

それを望みはしませんが、多分、そうならない限りこの馬鹿げた国策の転換は起こらないでしょう。

インパール作戦も多くの犠牲を出すことによって終ったのでした。

“「大本営、総軍(南方軍)、方面軍、第十五軍という馬鹿の四乗がインパールの悲劇を招来したのである」佐藤幸徳(第31師団長)”

そら恐ろしくさえなりますが、農水省、林野庁、九州森林管理局、県林業課…は一体どうするつもりなのでしょうか?既に宮崎県旧田野町の鰐塚山の百万本の管理された国有林が崩壊した事は十分知っていたはずなのですから。災害復旧直後の道路や橋が再び流されるという多くの事例が財務省、会計監査から指摘されるまで政策転換はおこらないでしょう。いったい何人死ねば良いのでしょうか?


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442 江戸荒物

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442 江戸荒物

20170204

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



「荒物屋」という言葉が事実上の死語になって久しい感じがするのですが、息抜きのためにも、たまには民俗学的な軽い話をすることにしましょう。

 タイトルを「江戸荒物」としたのは、先年亡くなった上方落語の故)桂 米朝師匠の「江戸荒物」から採題したもので特別な意味はありません。


442-1 桂米朝全集


特選!!米朝落語全集 第31CD「替り目」/「江戸荒物」


 米朝師匠自身もその噺の中で、「荒物屋」と言っても、もう、若い方には何のことだかお分かりならない…といった話し方をされていますが、収録された時期からも相当な期間が経過していますので、この状況は更に深まっていると思います。


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非常に有難い事に、YouThubeでも動画で視聴できますので、関心をお持ちの向きには試みて頂きたいと思います。

 神社調査のために長距離の移動をしますが、鬼平犯科帳の中村吉衛門朗読の「古事記」ばかり聴くのも飽きてくると、米朝、枝雀、志ん生、圓生、文楽、小三治、松鶴、五郎…(談志、円楽は遠慮しますが)を旅の伴とするのですが、久しぶりに「江戸荒物」を聴いて、まだ、九州には「荒物屋」が残っている事を考えていました。

 若い方のために、一応、「荒物」を説明しておきますが、雑貨店と言っても、イメージが湧かないと思いますので、まず、百円ショップ、ホーム・センター、ディス・カウント・ストアー、リサイクル・ショップの小型版と考えて頂いた方が良いでしょう。

 まあ、安物の(安手の)家庭用品が売られていた何でも屋と言ったものと言えばお分かり頂けるでしょうか?

 浴用石鹸といった言葉さえ死語になりつつありますが、安物の洗濯石鹸は荒物屋でも売りますが、高級な浴用石鹸となると化粧品店とか薬局に行かなければいけませんし、安物の下駄なら下駄屋や履物店に行かなくても荒物屋で十分足りたのです。

 要するに、庶民向けの安物雑貨店が荒物屋であり、安物の日用品雑貨が並ぶ便利な店だったのです。

それを学者先生に書かせると、格調高く、以下のようになります。




442-3日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 荒物屋 あらものや


荒物を小売りする店。荒物とは粗雑な道具類のことで、小間物(こまもの)に対していった。江戸初期には現れ、そこでは旅の荷造りの薦(こも)・渋紙・縄・細引や、差木履(さしぼくり)、塗木履を売っていた。その後、取り扱う商品は変わってきて、多くの日用雑貨、たとえば笊(ざる)や桶(おけ)といった台所用具、草鞋(わらじ)、箒(ほうき)、塵(ちり)取り、浅草紙、下蝋燭(ろうそく)などがあった。荒物屋は今日では日用雑貨商にあたるものといえる。[遠藤元男]


五、六年前までは、「荒物屋」と幟を揚げた荒物屋が、福岡県大牟田市の中心部に二店舗、大分県竹田市の中心部に一店舗、商品も潤沢に並べられていましたので、必要もないのに何かを買った記憶がありますので、大型店が出店し難い所とか、観光客が訪れるレトロ村と言ったところでは存続できているかもしれません。

しかし、大牟田市のそれは例外的に生延びていたもので、ある種鮮烈な印象を与えてくれます。

さて、噺の概略は熱心な方がおられますので、ネット上から拾ってきました。


江戸荒物

【粗筋】

 喜六という男が「東京荒物」という商売を始めた。品物は他の荒物屋と同じだが、台詞を全部江戸ッ子弁にして、

「さあいらっしゃい、何でもあります」

 と言っていれば、勢いにだまされて買ってしまうだろうという目論見(もくろみ)。インチキ江戸弁で商売を始めたが、最初の客は日本語が通じないと逃げ出してしまう。次に来たのは本物の江戸ッ子、本物の江戸弁は喜六を圧倒、男は只同然で品物を持って行ってしまう。がっかりしていると、今度は田舎娘が現れ、

「うちかたさァに、なァしろはァのつんずべなァのォざァちゅうでおざちゅでェのォ」

 と言う。何度か繰り返させてようやく、

「家の方に、七尋半(ななひろはん)の釣瓶縄(つるべなわ)がないとおっしゃってござるでのう……」

 と言っているのだと理解したが、生憎(あいにく)なことに縄だけは仕入れて いなかった。

「どう言えばいいのやろ。『おまへん』では大阪弁か……『あります』の反対やから……ないます、ないます」

「あんれまあ、今から綯(な)っていたんでは間に合わねェ」

【成立】

 埋もれていた大阪噺を桂米朝が発掘したもの。江戸と大阪、更に田舎の言葉を使い分けるだけでなく。現在はざる・天秤棒・たわしという品物も説明が必要……案外面倒な噺である。大阪漫才では不思議な江戸弁が用いられるが、米朝は枕でその勘違いを説明し、なかなか見事なな江戸弁を用いていた。

 笑福亭松鶴の速記本では、田舎娘の言葉を、

「行き方さあになあしろなあのつんるべ、なあの、あざわちょうで、なかろまいかのう」

 としている。本文のものは米朝が演じていたものを、私が聞いたミミコピ。一度聞いただけで録音がないので、違っていたらすみません。CDが出ているようですが、入手していないので、お持ちの方はチェックしてお知らせ下さい。

【蘊蓄】

 本来荒物屋は台所用品の店だが、間に合わせに使う雑貨を並べるようになった。良い物は専門店で買うが、間に合わせならほとんど荒物屋で間に合った。

 歌舞伎『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし=俗にお富与三郎:嘉永6)』には、荒物屋の様子が記載されている。

「暖簾(のれん)口、上の方へ間平戸、暖簾口より下手(しもて)へ小間物、荒物、別々の棚、引出しの書割(かきわり=舞台装置を絵で描いたもの)。此前( このまえ)、歯磨(はみがき)、松脂(やに)、梳油(すきあぶら)等の掛け札。 此前、欄間(らんま)より本支の手拭他、大分下げ、この手拭と共に金太郎の顔など附きし仕立て腹掛け、此下へ巻き手拭地を並べし箱台。曲げ紐、小間物の箱並べ、下手、一間の屋体。前づら、こゝに腰障子、これへ地染めの手拭、小間物、荒物品々、後ろ壁、これへ天地膏(こう=膏薬)その他、妙ふり出しの張り札」


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面白いと思ったのは、関東でも関西でも「荒物」、「荒物屋」といった言葉が共通しているのですが、それに対して、実際に売られている物の呼び名はかなり違っている事です。


噺の中で取り上げられている「荒物」でも東西で呼び名が異なっているのは、まず、「カンテキ」です。


関東 七輪(チリン)        関西 カンテキ        九州 七輪(チリン)

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関東 天秤棒             関西 オウコ         九州 天秤棒

天秤棒とは勿論 物を荷う棒の事で、「オウコ」には「朸」「枴」とあまり使わない漢字表記もあるようです。


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関東 ザル              関西 イカキ         九州 ザル

デジタル大辞泉の解説 い‐かき【笊=籬】竹で編んだかご。ざる。


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関東 ヘッツイ            関西 クド          九州 クド、カマド、ヘッツイ

 写真は後期の高級なものですね。


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関東 タワシ             切藁(キリワラ)       九州 タワシ 

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左がタワシで右が切藁ですが、タワシの登場が切藁を駆逐したのです。左官さんはまだ使っておられるのを知っています。私も安もんの日曜左官はできますので。

 カンテキは焼肉屋として「カンテキ屋」が生きていますので、死語にはなっていませんが、オウコ、イカキ、クド、キリワラに至っては絶滅危惧種であることは間違いないでしょう。

 草鞋(ワラジ)からハタキからホウキから洗濯板、蝿取り紙、蝿叩き、尿瓶、金魚鉢、湯たんぽ、洗濯石鹸…と、ありとあらゆるものが荒物屋には売られていましたが、それらのかなりのものが現代の実生活から消え、今や骨董商との区別さえ着かなくなりつつあるようです。

 ましてや、「江戸荒物」に登場した「つんるべ、なあ」に至っては、釣瓶から説明せざるを得なくなり、大変な世の中になって来たようです。

 実際、私どもの幼少期までは、滑車を使わない、跳ね上げ棒式の釣瓶式井戸が存在しており、そこにも釣瓶縄があった訳です。


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左が跳ね上げ式 右が釣瓶式井戸


 私達はほんの五、六十年前までそのような生活環境で生きてきたのであって、決して、ビバリーヒルズや六本木ヒルズでの生活が当たり前で永遠に続くなどと考えてはならないのです。

 六本木ヒルズの高層ビルなど、電気と水道が失われれば(勿論、自家発電と自前の井戸ぐらいは準備してあるはずですが)、只の不衛生な牢獄になってしまうものなのです。

 米朝師匠は噺の中で“日清戦争”より前の話だと言われていますが、都市化、近代化の早かった関西地区に対して、多少とも地方のそれも県境と言った辺境の田舎暮らしを知っている私にとっては、懐かしくもあり、考えさせられる短い話です。

 米朝40選集は、今でもバラで購入が出来そうですので、カビが生えて聴けなくなったCDもあることから再度購入し今後も聴き続けたいと思っています。

スポット117 ヒート・アイランドを引き起こした無能な国土交通省 “熱 禍”

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スポット117 ヒート・アイランドを引き起こした無能な国土交通省 “熱 禍”

20170828

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 最近、大都市のゲリラ豪雨や地方の小規模な都市型豪雨それに竜巻被害、さらには高温注意報と言ったものが頻繁に伝えられる傾向が顕著になってきました。

 しばらく前までは省エネのために「エアコンは28℃以下に設定しましょう…」など言っていた舌の根も乾かないうちに、今度は「エアコンを適切に利用し熱中症予防を計りましょう…」と責任逃れに動いているのですから整合性も論理性も何もないメッセジを流す事だけが目的で、何の役にも立っていない行政をさも役に立つもに見せようとしている様にしか見えません。

 2017年の夏は西日本では猛暑、それも、最低気温が30なりかねないとんでもない酷暑で、逆に東日本では夏らしい日がないものの、急激な突風や局所的豪雨と一万発もの雷が落ち、それに竜巻が起こるは、雹が降るといった急激な上昇気流を思わせる現象が起こっている事が明らかになってきました。

 この問題については、sp117-1などで「打ち水大作戦の大間抜け」として長文(40p)を公開していますので、お読み頂けば概略はお分かり頂けると思います。

sp117-2

これには後半に熱 禍(打ち水するより、コンクリートを引っ剥がせ!)有明海・諫早湾干拓リポート編集長 古川清久(元自治体職員)熱 河(ネッカ)を加えています。ただ、全文がより一層長くなり実戦的でない文章になっているかも知れません。

ここでは、普段読んで頂けない「熱河」の冒頭の部分だけをご紹介しておきます。



sp117-2私が勝手に創り出しただけのものですが、ヒート・アイランドの意味を持たせた造語で「熱禍」(ネッカ)と読みます。"ネッカ"と言えば、ついつい満洲事変から支那事変の泥沼に引き摺り込まれるきっかけとなった満洲(国)の一省、熱河省を巡って行われた「熱河作戦」(*)を思い出してしまいますが、これについて書き始めては、最初から脱線になってしまいます。

ただ、敗戦から七十年を経て、ひとりよがりの国土交通省の官僚によってもたらされたヒート・アイランドという名の新たな敗戦(国民が蒙る災禍を敗戦と言うならば)を思う時、「熱禍」から「熱河」を思い浮かべる事に全く必然性がない訳でもないのです。

まず、ヒート・アイランド現象は人間の手ではどうしようもない天災とか異常気象、さらには天変地異とかいったものでは全くなく、ここ数十年で到達した国土交通省を先頭とする国家機関(農水省など)の暴走(かつての武藤章や牟田口蓮也といった連中が引き起こした陸軍の暴走)によってもたらされた人災、国による国土、生活環境の決定的破壊でしかないのであり、この無能極まりない国家機関という国民と国土への敵対者=国賊によって引き起こされた第二の敗戦に等しいものなのです。

"""わざわい"であり、鬼のなす業(ワザ)のハヒ=ありさま のことですが、人間というよりも国土交通省のもたらした災難のことを意味するものと思っていただいて構いません。

それはともかくとして、前段の「"打ち水大作戦"の大間抜け」がヒート・アイランド問題の総論とでも言うべきものであった事に対して、今回は、国土の再建に向けた各論になるものであり、さらに下世話な話をしたいと思います。熱河作戦満洲国は満洲事変により中国東北三省、内蒙古(熱河省)に成立した植民地国家(私は本来、満洲は満洲族の国土であって漢族のものなどではないと考えており、"日本が中国を侵略した"といったありきたりの議論に単純にくみすることはしません。満洲が中国の領土であるという議論は歴史を鵜呑みにする人間の言う事でしかなく、傀儡政権といった政治的な意図を持った蔑称は使いませんが)でした。その熱河省の主席であった汪兆銘派の湯玉麟(トウギョクリン)は張学良と通じ、熱河省奪還 のための抗日軍を組織して侵入を繰り返します。


sp117-3このため、一九三三年、関東軍は熱河作戦を発動し山海関を占領するに至ります。満洲事変の元凶であった石原莞爾は満洲を確保する事を第一義的課題として長城線を越えて中国本土に入るような戦線の拡大には一貫して反対しますが(山海関を越えるな!)、満洲国内である熱河すら安定せず、その後の北支事変へと発展していくのです。

この作戦は、緒戦では関東軍の機動作戦が図にあたって、約十日間で熱河省を掃蕩(そうとう)したが、三月初旬、喜峰口をはじめ、長城線重要関門を攻撃する段になって中国中央軍の頑強な抵抗にあい、予想外の苦戦を味わわなければならなかった。そのために、戦闘は長城線を越えて、やがて後のらん(三水偏に糸+言+糸、下に木)東作戦につらなるのである。「関東軍」在満陸軍の独走 島田俊彦(講談社学術文庫)※ 今回、満州の表記を"満洲"としました。前述の島田俊彦による 「関東軍」在満陸軍の独走 においても、表記は"満州"とされていますので、必ずしも拘る必要はないのですが、ツングース系の民族である"マンチュリア"の表記は、水に生きる民との認識から"満洲"とされたのであり、本来、その方が正しいと考えるからです。

中国共産党政権はこの民族が打ち立てた国家である清国の存在をよしとせず(漢族が清国によって支配されていた)、水に生きた独立した民族の記憶を消したいと考えているかのようです。


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この「熱禍」と「熱河」とを掛けた妙なタイトルも、冒頭以外は全てヒート・アイランドの話ですから、良くも書いたものといった印象を我ながら持つところです。

ただ、「熱禍」も現代版関東軍としての国土交通省の暴走の結果引き起こされた国家的破滅としてのヒート・アイランド現象をCO2温暖化論などで誤魔化していると言った構造があるためどうしてもダブル・イメージで意識してしまうのでしょう。


熱禍(ヒート・アイランド現象)は国土交通省が引き起こした


既に「打ち水大作戦の大間抜け」で多くを語っていますので、ここでは箇条書き程度で現在の都市型豪雨の問題を取り上げて見たいと思います。


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 かつて列島のどこででも認められた夕立が消えた事はどなたもお気付きになっているでしょう。

昔は、ほぼ、毎日、夕方になると決まって空がゴロゴロ鳴り出し、瞬く間に雨が降って来て急いで家に戻ったり、取り込みそこなっていた洗濯物を丸めて取り込んだりしていたものですが、比較的森林の残った山間部の集落でも3~4日おきでも降らない傾向が目立ってきているようです。

この理由の多くは、地表に水が存在しなくなっている事に起因しており(農水省や国土交通省によって三面張り側溝が山にまで昇り乾燥化が進んでいるのです)、日射と熱気によって水蒸気となった水は上昇気流によって高空に持ち上げられ一気に冷やされ夕立として地表に戻り地表を冷やし心地良さ与えてくれていたのです(夕立)。空から降ってきた天恵の水を一気に道路側溝から下水溝、下水道さらには大型地下排水溝へと流し込みそのまま海に捨てているのですから、ちょっとでも降った雨は地表に滞留する事無く、二度と次の夕立の材料となる事はないのです。

 道路側溝を透水性のものにするとか、一気に流さない溜水式のものにするとか、都市部の全ての駐車場

の舗装を透水性のもの、または土を残し煉瓦と芝生もしくは自然のものにするとか方法は幾らもあったはずなのですが、戦後一貫してそれを怠り放置し、目先の経費と施工の簡素化のみに腐心した結果、雨が上がればカラカラで、直ぐさま熱気が再来すると言う馬鹿げた構造を放置したのが国土交通省だったのです。

 車が殆ど通らない歩道の舗装など土と煉瓦で施工しても良いはずなのですが、経費と施工だけを口実に老人に照り返しのキツイ歩道を歩かせているのも彼らなのです(まあ天下り先の施工だけを気遣っている結果ですが)。

 江戸時代までは上水も野天の川のような用水路(多摩川浄水=江戸の六上水の一つ)でしたが、ご存じの通り、山間部に大量に造られ今や全く溜まらなくなってきたダムから暗い導水管で延々と運ばれ、地表に現れる事が無い事はご存じの通りです。

従って、上水は剝き出しの浄水場以外、熱循環、水循環に一切寄与していない事は明らかです。

 では、今度は下水道を考えましょう。これは非常に大きな要素を含んでいます。

水道の蛇口から出た水は、お風呂の排水であれ、トイレの洗浄水であれ、台所の炊事の水であれ一気に下水道管に吸い込まれ(雨水混入方式が主流)、これまた熱循環、水循環に寄与していない事も明らかです。

 家庭や公園などの側溝ばかりか、川の護岸、道路の街路に至るまでコンクリートやアスファルトで固められ、薮は切払われ西洋の猿まねとしての芝生に変えられ、地表に滞留する水は益々減っています。

 都会は所得の髙い人々が住んでいる事から、大都市近郊の森は切払われ、芝生に変えられた結果、愚かなゴルフ場に変えられてしまいました。この構造が凄まじく、雨によるクローズを防ぐために直ぐに水を吸い込み一気に排水溝から河川に流れ込むような真砂土を多用した構造に変えられています。

これまた緑に見えるだけの乾燥化したコースの連続でヒート・アイランドの温床と化しています。

 都市に残された水は学校や公園や神社などの僅かな池の水しか無いのですが、それさえも危険であるとか、蚊が発生するとして水が抜かれ、減らされ、都市には纏まった水が存在しない事がお分かり頂けるのではないでしょうか?

 残るのは国土交通省所管の河川になるのですが、都市では道路拡張のために覆いが掛けられ実質伏流化されその蒸気は天まで昇って行きません(現代版カナート)。

川は洪水を起こさない様に押し流す事しか考えられておらず、直線化され、平坦化され、大雨の時には一気に流れ、溜まるところも無い事から稚魚はおろか親魚も棲めない生物もいない川にしてしまったばかりか、直線化し流速が上がる事からコンクリートで固めここでも水の保水性は消え只の無味乾燥な三面張り水路(事実上の大型雨樋)に変えられてしまったのです。このように雨の上がった都市河川に水が存在してもその絶対量が非常に少ない事がお分かり頂けたと思います。

 では、現在、一体都市の水はどこにあるのでしょうか?

荒川などの大河川はともかくとして、マンションの屋上タンクとか水道管の中といったものしか浮かばないでしょうが、エアコンに当たれないホーム・レスの汗とか、最低気温が30になる飲み屋街のホステスの涙とか、たまに鳴り物入りで行われる間の抜けた打ち水大作戦の再生水とか、中国人や中高年の立小便とか後は車の排気ガスに含まれる水蒸気といったものになります。


結局、都市部の水循環、従って熱循環に寄与する水とはこの程度しかないのであって、夕立が非常に降り難い都市構造になっている事がお分かり頂けると思います。夕立が無くなれば地表の温度は下がらない。

そして、戦後一貫してこれを推し進めたのが国土交通省であり、厚生労働省(上下水道)や農水省(都市近郊上下水道)といったその他の省庁であった事はお分かり頂けるのではないでしょうか。

 このように、都市部の表面に水がなくなった結果、極端に夕立が降り難くなったのですが、当然、熱せられやすく冷めやすい都市になり、強烈なヒート・アイランド現象が起こっているのです。

 従って、最も熱せられ易い場所から上昇気流が頻発し、最近、熱中症ばかりではなく、竜巻や突風や雹や雷そして都市型豪雨が頻発している理由がお分かり頂けるのではないでしょうか?

 それもこれも全ては国土交通省以下の馬鹿官僚どもが、国家や国民や国土や国民経済を無視して天下り先の事しか考えてこなかった事の結果引き起こされた無策の象徴でしかないのです(自覚もしていない)。

 では、都市型豪雨災害は何故頻発しているのでしょうか?都市に水がないとすると、その水の供給源はどこにあるでしょうか?

 東京、大阪、名古屋、福岡、横浜…と大都市は例外なく臨海部に立地しています。

そうです、その水は海から送り込まれているのです。

 海からの湿った蒸気と風向きが一致し、上昇気流として高空に押し上げられた場合、局所的ながら水槽をひっくり返したような雨が一気に降って来るのです。


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それが花火大会や盆踊りや多くのくだらないイベントを中止させているのですが(このような馬鹿げたイベントに足を向ける人と知能指数は恐らく反比例しているでしょう)、今後ともこの傾向は増加し続ける事になるでしょう。

以前も書きましたが、この臨海部の都市型豪雨は海が近くにあるか海からの湿った空気が送り込まれやすい場所でしか雨が降らない傾向を示しており、今後とも大都市の後背部にある山奥のダムに水が貯まらないという傾向が顕在化してゆくはずです。その上に海岸の臨海部が全てヒート・アイランド化しているという事は、内陸部まで海からの湿った空気が送り込まれる事無く、その手前で上昇気流となり降ってしまい、ダムがカラカラになる事が今後一層顕在化していく事になるでしょう。

「打ち水大作戦」なる国土交通省や環境省が行うイベントは、自らの失策、無策をカモフラージュするための物なのか?本気で効果があると思ってやっているのか?只の気がふれたイベントなのか?全く不明ですが、東京オリンピックを8月にやろうと言う馬鹿さ加減と併せ、熱中症の続発をどう考えているのか全く理解できません。既に熱中症による死者は急増中で、国土交通省による殺人と言っても良いはずです。

もっとも、あのようなくだらない国際イベントは廃止すべきと考えていますので、熱中症の続発は今から楽しみな限りです。このような犠牲無くしては政策の転換は起こらないのですから是非ともオリンピックによる熱中症による大規模な死者が欲しいものです。

多分、人工ミスト装置などを大量に売り込むビジネス・チャンスとでも考えているのかも知れませんが、いずれ魑魅魍魎共が蠢きはじめる事でしょう。



sp117-7さて、話を急ぎましょう。

 この無策とも言うべきヒート・アイランド現象に対して一気に都市の気温を下げる魔法の杖があるのです。これだけで、恐らく戦後始まった都市の気温上昇の半分は取り戻せる事になるでしょう。

 右はシンガポールの富裕層向けの屋上プールですが、こんな贅沢な物はヒート・アイランドを抑えるためだけならば全く必要はないのです。

 単に、屋上に水があれば良いだけだからです。

それは、ビルの屋上緑化、屋上プール化に補助金を出すなり固定資産税を下げるなりすれば、ほとんど金を使わずに温度を下げる事が可能になるのです。

それに加えて家庭内の雨水の貯留施設や側溝の地下浸透化、ショッピング・センターなど大型店舗の駐車場のコンクリート、アスファルトの撤去もカウントできれば、効果はもっともっと上がるでしょう。

 ビル屋上のプール化は防水モルタル舗装やゴムやプラスチックスによるプール化など方法は幾らもありますが、水道も必要なく、たまに降る雨を510センチも溜めれば良いだけなのです(これは排水溝に枠を嵌め必要な高さまで水位を調整すれば良いだけなのです)。

恐らくこれだけで大都市面積の3分の1は水がある事になり、一気に都市気温を下る事ができるでしょう。


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残るカラカラ砂漠は国土交通省所管の道路周辺だけとなり、そのうちそれさえも批判され、歩道を始めとしてヒート・アイランドを抑える動きが出てくるはずです。

 こうしてCO2温暖化論といった国家的デマ(大嘘)の根拠とされてきた観測地点(百葉箱)の大半の温度も一気に下がる事になるでしょう。このデマに加担してきたNHKと気象庁は何と説明するでしょうか?


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勿論本物の森ではないため保水性の程度は低く気休め程度ですが コンクリートよりはましなのです


 いずれにせよ、“CO2濃度の増加による地球温暖化の結果だから仕方がない事なのだ”などと諦めさせられてきた大嘘が、実は戦後70年掛けて破壊され続けてきた都市の水循環、熱循環の結果でしかなく、その主因が、近視眼的な国土交通省の役人どもによって引き起こされている事が分かるはずです。

 単なる物理法則なのですから元に戻す以外本質的な解決方法はないのですが、屋上緑化、屋上浅プール化により劇的に温度を下げ、夕立を復活させる程度までなら下げることは可能だと考えています。

 本来、列島は海に囲まれていて、温暖化の影響など全く受けない洋上の楽園だったのであり、京都~パリ議定書などサインする必要性も全くないはずだったのです。

 仮に大嘘のデマでしかない地球温暖化が本当だったとしても、本来、影響を受けるのは中国大陸、インド大陸、ヨーロッパ大陸、アメリカ大陸の内陸部だけだったはずなのですが、いち早くサインして唯一真面目に実行しているのが日本だけと言う馬鹿げた結果に陥っているのが騙されやすい島国の列島(劣等)民族としての日本人なのです。

 最後になりますが、実は、ヒート・アイランド現象は都市部だけの問題ではありません。

農村部や山間部でも同様の現象が起こっており、それが今夏の朝倉~日田の豪雨災害とも関係しているのです。

それについてもネット上にアップしている「打ち水大作戦の大間抜け」をお読み頂きたいと思います。

443 蜂の巣城の「蜂」とは何か? 下筌ダムの湖畔から

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443 蜂の巣城の「蜂」とは何か? 下筌ダムの湖畔から

20170206

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「蜂の巣城」と聞いてピンとくる方も減ってきたと思いますが、九州最大の大河筑後川の上流部に造られた下から松原ダム、下筌ダム辺りの話です。


443-1.

 この二段式ダムの建設当時蜂の巣城攻防戦を闘った故)室原知幸氏を中心に闘われ敗れ去った大闘争が存在した事を知る人は少なくなっています。

 それどころか、徹底的に苛め抜き、強権をもって土地を取り上げた旧建設省の下請けサイトで故)室原氏を讃え、その歴史を伝える天下りサイト(「ダ○文学」外)が現れるようになると、こういうさもしい御用売文屋の生き様を哀れにすら思わざるをえません。

 この手の売文屋やダム・フォト・コンテストに群がる写真屋といった人々は、まず、軍歌を創り、国威発揚絵師となり、従軍神官、従軍僧となり国策に尾を振った連中と変わらないと思わざるを得ないのです。

 そのダムさえも急傾斜地に杉檜を植える愚かな農林行政によって著しい堆砂が生じている事は想像に難くありません。


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環境の破壊はまだ目立っていなかったことから環境問題の視点は乏しかったのですが、日本最初の住民運動、公共の福祉(ダムの建設がだそうです)のための私権の制限といった事が争点となり、蜂の巣城攻防戦が闘われたのでした。

 60年安保闘争、三井三池の総労働総資本の激突といった時代で小学校に上がるか上がらないかといった幼少期でしたが、第一組合と第二組合との激突といった報道の合間に、この蜂の巣城攻防戦についてもラジオに噛り付いて(テレビはそれから五年ほど先の東京オリンピックで一般化したのです)聴き入っていた事を今でも鮮明に記憶しています。

 この下筌ダムサイト、ダム湖(蜂の巣湖)の横を、熊本神代史研究会トレッキングのためにと日田市天ケ瀬町から山越えで菊池市、山鹿市から熊本市中心部に移動するために足しげく通っているのです。

 一時期、熊本地震の影響で、このルートが一部通行止めになったりしたこともあったのですが、印象深かったのは、ダム湖の水位がぐっと下げられていた事でした。

 単に降水量が下ったというレベルではなく、地震が頻発していた四~五月の水を溜めなけなければならない時期ながら、これほど水位を落している事に、「やはり」と思ったのでした。

 事実、ダム湖の周りには地震の影響と考えられる崩落個所も散見され、堤体の崩壊さえも恐れて水位を下げていたのではないかと思ったのでした。

 実際、できたばかりのダムの湛水による水位上昇によってダム湖の壁面が崩落し、津波が起こって生じた洪水が下流の集落を襲い、20003000人の死者を出したバイオント・ダムの例もあり、ダムが危険極まりないものである事を知っていて知らぬふりをしている国土交通省もさすがに怖くて、責任感が強かったのか、それとも責任逃れのために水位を下げたのだろうと思ったのでした。


ヴァイオントダム(イタリア語: Diga del Vajont)は、イタリア北東部を流れるピアーヴェ川の支川・ヴァイオント川に建設されたダム。1960年に竣工したが、1963109日に犠牲者2000名以上を出す地すべり・溢水災害を引き起こし、放棄された。

日本では「バイオントダム」と記されることが多いため、本記事でもこの表記を用いる。

ウィキペディア(20170206 14:02による


内陸部のダムも決壊していた 福島・須賀川、7人が犠牲


一方、ダム自体の決壊による被害も東北大震災の大津波の印象に紛れてほとんど知られていませんが、こちらは農水省所管の老朽化したダムが地震によって決壊し、8人が犠牲になったのですから、日本の様な地震国に於けるダムの存在がいかに危険極まりないものであるかを如実に明らかにしたものといえるでしょう。ダムは千年もつとか、国の宝などと吹聴し建設を推進した連中の顔を見て見たいものです。


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津波の被害が東北の沿岸部を襲ったとき、遠く離れた福島県の内陸部でも、濁流に多くの人がのまれていた。須賀川市西部にあるダム湖の決壊。7人が命を落とし、いまも1人が行方不明のままだ。

 須賀川市長沼地区にある「藤沼湖」は1949年、農業用のため池として造られた。高さ18メートル、幅133メートルのダムが水をせき止める構造。周囲に温泉やキャンプ場もでき、観光地としても知られた。

 下流の集落で農業を営む江連百合江さん(53)は3月11日、2度の大きな揺れに襲われ、2人の孫と裸足で家を飛び出した。すると、ダンプカーが近づくような音が響き、山の尾根越しに黒い水が渦を巻いて押し寄せてくるのが見えた。決壊したダムから流れ出た約150万トンの水が一気に集落に押し寄せた。隣の家は流木につぶされ、住んでいた小針トシさん(73)が亡くなった。

 別の集落にある二瓶美代さん(84)の自宅にも、1メートルの高さの水と流木が流れ込んだ。「2階に避難しようとしても上がれず、柱にしがみついた。35年住んでいて初めての恐ろしさだった」。一緒にいた友人は約10メートル流され、桜の木につかまって助かったという。

 14歳から89歳の男女7人が犠牲になった。1歳の男児の行方は今も分かっていない。住宅の全壊19戸、床上・床下浸水55戸。現場は流木と岩に覆われ、橋の欄干はもぎ取られた。水が流れ出た湖は干上がり、往時の面影を残すのは湖畔に咲くサクラだけだ。

 県によると、ダムは土を盛ってコンクリートブロックで覆って造られていた。老朽化で水が漏れたため、県が94年度までにセメントを注入するなどの改修工事をした。被災した住民によると、その後も「水が漏れていて耐震性に問題がある」と補修を求めていたという。

 命と家は助かった江連さんだが、農業機械が流されてしまって仕事ができない。「浜通り地方の津波被害が注目されているけれど、内陸部でもこんなにひどい所がある。原発災害と同じように、人災として補償してほしい」と訴えている。(山吉健太郎、竹谷俊之)


201153191分 「朝日新聞デジタル」による


百五十万トンもの水が一気に流れ出したのですから、昔でも奉行クラスが切腹してもおかしくないはずなのですが、管轄は県農林部なのか農水省なのかは調べる気もないものの、お粗末としか言いようがありません。

 恐らく、地震、津波のためとして逃げ回ったのでしょうが、ダム(国土交通省の基準ではこれはダムに該当するかどうは業界の取り扱いでしかないためこの際無視します)がいかに危険極まりないものであるかが良く分かると思います。

 そもそも、ヨーロッパ・アルプスとか北欧のフィヨルド地帯のように、安定した陸塊が氷河によって削られたような地形ならばいざ知らず、世界最大の地震列島に於ける谷間というものは、それ自体が断層線に起源を持つものが大半であって、ダムの堤体そのものもその危険極まりない構造線、断層線上に置かれているものばかりなのです。

 本格的なダムの決壊による死者の出現と言う大事件も福島原発事故の危機によって目が逸らされ、私自身も、当時は、小さな新聞記事で知っただけでした。

 このような胸糞が悪くなるような話はそろそろ終わりにして、最後に、蜂の巣城攻防防戦の舞台となり、ダム湖の名称にまでなった地名(これが大字だったのか小字だったのかまでは確認していませんので悪しからず…売文屋のように税金を懐に入れる術は知らないため悪しからずご容赦)の「蜂の巣」とは何なのかをお知らせしておきます。

 簡単に言えば、山や崖に囲まれた様な「盆地」と言うより“臼状の土地”に八、蜂、鉢といった表記で蜂の巣、鉢の巣、八の巣といった地名が成立したと考えられるのです。つまり鉢被り姫のだったのです。


佐賀県武雄市山内町大字宮野 蜂の巣バス停(臼の川内線)

茨城県常陸太田市上宮河内町蜂巣

熊本県天草市本町本八久保

熊本県宇土市八久保

栃木県大田原市蜂巣

宮城県東松島市宮戸蜂巣

宮城県石巻市桃浦蜂巣

福島県白河市東上野出島蜂久保

福島県須賀川市志茂蜂久保

高知県幡多郡大月町蜂ノ巣

愛知県北設楽郡東栄町東薗目蜂巣

秋田県にかほ市象潟町横岡蜂巣

愛知県あま市蜂須賀                  蜂須賀小六もこの辺りの出ですかね?


 後は、ご自分で探して下さい。まだまだ幾らもあります。ただし近畿は少ないようです。

関西は、甕(カメ)と言うため、鉢に準えた地名が少ないようです。

 そうです。蜂の巣城攻防戦で故)室原氏がこしらえた団結小屋は摺り鉢状の地形の縁にあったのであり、古来、摺り鉢の底の様な土地だったから蜂の巣と表記され、今も、蜂の巣というダム湖と歴史にその名残を留めているのです。

 以前、ダム湖の傍にある室原家の墓所を訪ね献花した事がありましたが、安らかに眠られる事を…。

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