Quantcast
Channel: ひぼろぎ逍遥
Viewing all 723 articles
Browse latest View live

444 人吉盆地の最奥部で異彩を放つ白水阿蘇神社をご存じでしょうか?

$
0
0

444 人吉盆地の最奥部で異彩を放つ白水阿蘇神社をご存じでしょうか?

20170206

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 人吉盆地と言っても球磨川の源流部の一つ、水上村の最奥部に白水阿蘇神社があります。

 25日の多少雨模様の日曜日人吉盆地に熊本を対象に20人規模のトレッキングを行いました。


443-4

人吉と言えば青井阿蘇神社が頭に浮かんでこられる方が多いと思いますが、個人的には、多良木町の大宮神社、この白水阿蘇神社、相良村の雨宮神社、人吉市の矢具神社…が頭に浮かんで来ます。

 表面的にも阿蘇系神社が少ないのがこの相良藩領人吉の特徴ではあるのですが、青井阿蘇神社、白水阿蘇神社という阿蘇の影が付き纏っています。

 阿蘇神社も含めて阿蘇は後で覆い被さってきたものであって、その深層を見なければこれらの神社の本質は見えてこないでしょう。

 「熊本県神社誌」見ても祭神は建磐龍外二神とそっけないため考えなければなりません。


443-5

普通に言えば、人吉の神社の中でも異彩を放つパワー・スポット中のパワー・スポット風の神社ですが(パワー・スポットとは、広告代理店まがいの連中が宣伝のために利用した造語であり、「霊力」の漲るポイントとでも言うのでしょうが、皆さん言葉に踊らされており、何時しか忘れ去られる所がほとんどなのです)、確かにロケーションと言い、祭神と言いその範疇には十分該当しそうです。

しかし、都市部からの距離と言い知名度と言い、容易にはアクセスできない事から、神聖性、清浄性、神秘性を未だに色あせることなく漲らせている一社です。

まあ、簡単には来る事ができないためか、十年前に来たとき以来、この雰囲気は保たれ続けています。


444-6

これは恐らくスサノウの関係で考えるべきでしょう。

 この神紋は長崎県諫早市(旧南北高来郡)から島原市一帯に展開する四面神、温泉神社などに認められるもので、高木大神=高御産巣日神(タカミムスビノカミ)と考えているものです。

 それ以外の拾える情報は、境内の少し離れた所に梅鉢の神紋が打たれた摂社があり、白水稲荷大明神が置かれている事ぐらいでした。


444-7

今のところ、推定でしかありませんが、白水阿蘇神社の祭神は、恐らく阿蘇白川水源の白川吉見神社の本当の祭神である罔象女(ミズハノメ)であろうと考えています。

 熊本市を流れる白川の中国表記は白水ですし、その流れ出しの一つが南阿蘇の旧白水村(南阿蘇村)白川水源であることはご存じの事と思います。

 ここでも、草部吉見系が覆い被さって来ていますが、祭神は、スサノウのお妃で豊受大神(伊勢外宮の主神)の母神である罔象女(龍神)であり、阿蘇高森の草部吉見神の義理の母神でもあるのです。

 そう考えれば、摂社の白水稲荷大明神の存在も説明が着きますし、建磐龍が祀られる理由も説明が着くのです。


444-8


444-9

201725日 AM8:0018:00 

集合場所:熊本市東区戸島西1丁目29-3 ℡: 096-360-6671 ドラッグストアモリ駐車場

3040人の参加になりますので乗合調整を行います 緊急時連絡 ℡090-3198-6731(柿木)


444-10

444-11

2017年年頭 月遅れ新春3社詣りトレッキング・ポイント

  あさぎり町 杉姫稲荷神社 あさぎり町免田東1837 現地は分かり難いため注意して下さい!  

  天子神社  深田天子水公園 深田に行き天子水公演を探せば駐車場は百台分あります。

  天子神社  あさぎり町久鹿838 役場そば

  大宮神社  多良木町黒肥地1278 神紋を見ても重要度は分かるがこれも旧天子のみたまやと!


人吉盆地全域には2030ケ所に天子地名、天子神社、天子宮が散見されます。今のところ、相良氏入封以前の信仰圏の痕跡と考えています。百嶋先生もモーゼを祀るヘブライ系氏族の神社と言われていました。


445 人吉盆地に息づく明治期の教派神道系 杉山稲荷神社(あさぎり町)

$
0
0

445 人吉盆地に息づく明治期の教派神道系 杉山稲荷神社(あさぎり町) 

20170206

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


これも201725日(日)熊本を対象とした熊本神代史研究会(仮称)神社トレッキングで廻った神社の一つです。

340人規模とまではいきませんでしたが、雨の中20人規模の熱心な方により、同社の祭礼(初午)を見学させて頂きました。

ただ、小さな神社で「熊本県神社誌」には搭載されていませんし、神社に精通された方でもほとんどご存じない神社だと思います。

確かに、集落の氏神とかどこかの神社の境外摂社といったものではなく、どうやら同族集団の屋敷神か、その氏族の奉祭する神社といった面持を持っています。


445-1


 祠に入ると縁起らしきものが置かれており、稲蒼魂命、大貴己命、太田命、大宮姫命、保食命と五柱が祀られているようです。


445-2


稲荷ことウカノミタマ=父スサノオ、母神大市比売 古事記名/宇迦之御魂神 日本書記名/倉稲魂尊

ですが、表記には以下のように多くのバリエーションがあり、音にしか意味はないようです。


稻荷大明神(イナリダイミョウジン)稻荷大神(イナリノオオカミ)稲荷神(イナリノカミ)宇賀迺魂命(ウガノタマシイノミコト)宇迦之魂神(ウカノタマノカミ)宇賀命(ウガノミコト)宇加御魂神(ウカノミタノカミ)稲倉魂命(ウカノミタノミコト)倉稲玉命(ウカノミタノミコト)倉稲魂(ウカノミタマ)

・宇迦之御霊大神(ウカノミタマノオオカミ)倉稻魂大神(ウカノミタマノオオカミ)宇迦能御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)宇賀魂大神(ウカノミタマノオオカミ)宇迦御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)

・倉稲魂大神(ウカノミタマノオオカミ)宇迦之霊大神(ウカノミタマノオオカミ)宇迦之御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)倉稲御魂大神(ウガノミタマノオオカミ)宇賀乃魂大神(ウガノミタマノオオカミ)宇迦之御霊神(ウカノミタマノカミ)宇迦乃御魂神(ウカノミタマノカミ)宇賀魂神(ウカノミタマノカミ)宇賀能御魂神(ウカノミタマノカミ)宇迦御靈神(ウカノミタマノカミ)宇迦能御魂神(ウカノミタマノカミ)稻倉魂神(ウカノミタマノカミ)倉稻魂神(ウカノミタマノカミ)宇加之魂神(ウカノミタマノカミ)稲倉魂神(ウカノミタマノカミ)宇賀御魂神(ウカノミタマノカミ)食稲魂神(ウカノミタマノカミ)倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)倉稲玉神(ウカノミタマノカミ)蒼稲魂神(ウカノミタマノカミ)倉穂魂神(ウガノミタマノカミ)宇賀之魂神(ウガノミタマノカミ)宇迦野御魂神(ウガノミタマノカミ)宇迦御霊神(ウガノミタマノカミ)宇迦魂神(ウガノミタマノカミ)宇迦能魂之神(ウガノミタマノカミ)宇賀之御魂神(ウガノミタマノカミ)宇迦御魂神(ウガノミタマノカミ)宇加乃御玉御祖命(ウカノミタマノミオヤノミコト)宇迦魂之命(ウカノミタマノミコト)蒼稲魂命(ウカノミタマノミコト)倉稲御魂命(ウカノミタマノミコト)宇迦御霊命(ウカノミタマノミコト)宇賀之御魂命(ウカノミタマノミコト)宇迦之魂尊(ウカノミタマノミコト)倉稲魂尊(ウカノミタマノミコト)稲蒼魂命(ウカノミタマノミコト)宇加乃御玉命(ウカノミタマノミコト)倉魂命(ウカノミタマノミコト)宇迦魂命(ウカノミタマノミコト)稻倉魂尊(ウカノミタマノミコト)宇賀御魂命(ウカノミタマノミコト)稻蒼魂命(ウカノミタマノミコト)稻倉魂命(ウカノミタマノミコト)若宇迦乃賣命(ウカノミタマノミコト)宇迦之御魂命(ウカノミタマノミコト)食稲魂命(ウカノミタマノミコト)宇賀之美多摩命(ウカノミタマノミコト)宇迦御魂之命(ウカノミタマノミコト)宇迦神霊命(ウカノミタマノミコト)宇迦之魂命(ウカノミタマノミコト)倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)宇加之御魂命(ウカノミタマノミコト)宇加魂命(ウカノミタマノミコト)倉稻魂命(ウガノミタマノミコト)宇賀魂命(ウガノミタマノミコト)宇迦能御魂命(ウガノミタマノミコト)宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)宇賀能御魂命(ウガノミタマノミコト)宇迦能御命(ウカノミノミコト)宇賀霊神(ウガミタマノカミ)…と多くの表記がありますHP資料から)。


 一応、お稲荷さん(実は豊受大神、アメノウヅメ…)であり、稲蒼魂命、保食命に重複を感じますが、赤の幟は、堂々たるお稲荷様である事は間違いがありません。

 ただ、一点だけ奇妙に思うのは、注連縄が掛けられている事で、お稲荷さんに注連縄があるのはこれまで見たことがありません。

 ともあれ、雨の中、遠方から駆けつけられた氏子の皆さんは、百人は超えてはいないものの、最低でも50人は超えていたと思われ、遠来の熱心な信奉者をお持ちである事が分かります。

 ご迷惑が掛かると申し訳ないので差し控えますが、幟を寄進された方の名をみるとそれなりの傾向が見て取れ興味深く思ったところです。


445-3


初午にこれほどの遠来の氏子を集めるのは屋敷神程度の神社としては驚くべき事に思えます


縁起に依れば、稲蒼魂命、大貴己命、太田命、大宮姫命、保食命と五柱が祀られているようですが、印象として、この五柱は良くある組み合わせであって、神殿に置かれた杉姫大明神、粟島大明神、正徳大明神こそが本来の祭神のように見えるのです。


445-6


どう見ても杉姫稲荷こそが主祭神に見えます


そこら辺りが稲荷に注連縄が張られている理由かもしれません。

 杉姫稲荷という神社は、教派神道系の独立系教団が広島市にあるのですが、その系統の神社であるかは今のところ分かりません。


平和大通りから鶴見橋を渡り、比治山トンネルを抜けてすぐ、みみょう幼稚園を右に曲がり比治山の山すそを南に進むと赤い鳥居が見えてくる。再開発前の古い鳥居はもっと山裾にあったように記憶している。

445-4この神社は明治政府化の祭政一致の国家神道とされた神社神道の神社ではなく、黒住教、金光教、天理教などの明治政府が公認した教派神道である神道十三派の神理教の教師であった藤田宣彦が大正3年(1914)に創立した誠光教の神社である。            …中略…

藤田宣彦は小倉で誠光教を創始しているが、藤田家が信仰されていた杉姫稲荷の元に教団本部を移設した。祭神は天地御祖大神(主神)、杉姫稲荷大神(副神、水商売)、淡島大明神(婦人病)、金神さん(方位)である。

大根役者「杉姫稲荷本社~広島市南区段原南」より


 勿論、稲荷とはスサノウと大山祗系の神大市姫の間に産れた辛国息長大姫大目命(アメノウヅメ、豊受大神、支那津姫=草部吉見のお妃時代の名…)のことなのですが、杉姫という別名は聞いたことがないため、自らの奉祭する杉姫を稲荷に見立てて生延びた神社なのかもしれません。

 神理教は小倉在住の佐野経彦によってニギハヤヒを奉祭する教団として成立しましたが、どうやら、この杉姫稲荷はその分派の物部系の教派神道系教団であり明治の新興宗教の一派のようなのです。

 現在は外部から兼務宮司による祭礼が行なわれていますが、本来、独立の教団でありその必要性は全くないものと考えています。

 始めは天豊ツ姫(→阿蘇ツ姫→天比理刀咩→寒川姫→杉山姫と変名)と考えその方向で考えていたのですが、そうではなく、豊受大神=伊勢の外宮様=ニギハヤヒ=山幸彦のお妃そのものを祀る古い系統を引いた物部教団と考えられそうです。

 現在、佐野経彦が創った明治の神理教教団は格上の豊受大神ではなくニギハヤヒ(山幸彦)を主神としています。

 これに対して、この教団は豊受大神そのものを主神としているようでよりプリミティブ(こちらが本来の姿のようですが)な印象を受けます。

 古代に於いては、入り婿は次から次に切り替えられる政略結婚の駒でしかなく、重要なのはその御姫様なのです。

その意味で杉姫稲荷は本来の形を残したものであり、それを言えば京都の伏見稲荷も同様なのです。

ただ、この教団は、明治期に独立系教団として生き延びようとした物部教団だったと考えるものです。


445-5


百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

参考


445-7

445-8


百嶋由一郎氏が65年を掛けて作成された神代系譜80枚を希望される方は09062983254古川まで

446 「駛馬」(はやめ)“ はやめは古代の駅? ” ① 「駛馬」はこんな所

$
0
0
 

446 「駛馬」(はやめ)“ はやめは古代の駅? ” ① 「駛馬」はこんな所

 

20170206

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

 

 

本稿は大牟田市駛馬支所からの依頼を受け、20147月に「駛馬」という地名について講演したものを再構成して公開するものです。

 

ただ、パワー・ポイントとして作成したものをワード文書に戻して、web上にオン・エアする作業も効率が悪いため、今回は音声のないパワー・ポイントとしてそのまま公開します。

 

テーマは、大牟田周辺にも古代官道(分道)が存在し、それが九州王朝時代のものだったのではないかを探るものです。


446-1

446-2

446-3

 

現在は学会通説に阿る久留米地名研究会からは離脱していますのでお断りしておきます


446-4

446-5

446-6

446-7

446-8

446-9

446-10

446-12

446-12

446-13

446-14

446-15

 

447 「駛馬」(はやめ)“ はやめは古代の駅? ” ② 「駛馬」とは何か?

$
0
0

447 「駛馬」(はやめ)“ はやめは古代の駅? ” ② 「駛馬」とは何か?

20170206

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

本稿は大牟田市駛馬支所からの依頼を受け、20147月に「駛馬」という地名について講演したものを再構成して公開するものです。

ただ、パワー・ポイントとして作成したものをワード文書に戻して、web上にオン・エアする作業も効率が悪いため、今回は音声のないパワー・ポイントとしてそのまま公開します。

テーマは、大牟田周辺にも古代官道(分道)が存在し、それが九州王朝時代のものだったのではないかを探るものです。


447-1


447-2


447-3


447-4


447-5


447-6


44-7


447-8


447-9


447-10


447-11


447-12


447-13



スポット118 大分県神代史研究会(仮称)姫島トレッキングに見た研究者による研究会の可能性

$
0
0

スポット118 大分県神代史研究会(仮称)姫島トレッキングに見た研究者による研究会の可能性

20170731

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 これは姫島から国東半島を見たものです。両子山とか千灯岳とか文殊山とか言ったものなのでしょうが、関心がないのでどれがどれかは分かりません。

 姫島には五年ほど前に一度上陸していますが、今回、大分県から福岡県東部(つまり古代豊の国)で活動を開始した大分ブランチの精鋭メンバーと姫島の二社を巡るトレッキングを行いました。

 

sp118-1



私は登山は苦手ですが泳ぐのは大好きで半日でも岸に戻らず泳ぐ人間ですので、56キロの距離ですから急潮でなければ泳ぎ切れない事はないと思っています ただし、もしもに備えて随行船があればですが…

 


さて、今回、訪問したのは、当然ながら大帯八幡社と比賣古曾神社でした。

 これ以外にも姫島には稲荷社や石槌社など数社あるのですが、いずれも小さな祠程度のもので、一般的にはこの二社を見れば、一応の全貌は理解できると言えるでしょう。


sp118-2




瀬戸内海航路の要衝との側面は当然ながら、もう一つ大きな要素は姫島が巨大な火山島群の集合体であるということです。

 7つもの火山島群の集合体が姫島であるとすれば、島民(もはや2千人を切りましたが)は休眠中の噴火口に囲まれて、日々生活されておられる事になるのです。

 しかし、これは別の面か見れば恩恵でもあるのであって、古代にはなおさら黒曜石や金属といった鉱物資源から海岸にも大量の砂鉄が混ざっているなど、宝島でもあったのです。


sp118-3



五年前に姫島を訪れた時には、全く分からなかった二社の祭神でしたが、この間の百嶋神社考古学による教化によって、偽装、混濁、重畳によって複雑怪奇になっている祭神の解読もある程度できるようになり、研究者、探査者、記録者による研究会に舵を切って本当に良かったと考えています。

今回は、祭後の跡片づけの最中、全ての行程で大帯八幡社の宮司によるご案内を頂き、トレッキングの内容は非常に充実したものになりました。今回、姫島に上陸したのは五人でした。

 これ以外にも、いずれも大分に縁のあるblogerで百嶋神社考古学の洗礼を受けたお二人ほどが参加を希望されていましたが、日程の調整が難しく、宮司と併せ六人による神社踏査と会食と実に内容のあるものになりました。五人の内訳は、著書をもつ方二名、予定中の方一名、blogを持つ方四名(5blog)となり、最低でも記録を残せる人によるトレッキングである事が分かるのでした。

 当然、話は留まる事無く拡がり、互いに持ち合っていた疑問が解決すると言った成果もあがり、ただの物見遊山の普通の郷土史会レベルの域は遥かに超えたものとなったようです。いずれ、複数のリポートがネット上に公開されることになる事でしょう。今回、自身にとってもささやかな成果がありました。

それは、摂社の大帯八幡社の筆頭祭神である石土毘古神が誰であるかの見当がつかなかったのですが、宮司と併せ、推定が一致した事でした。

 【岩土社】・石土毘古神(イハツチビコノカミ)=大山祗?or大幡主or大山祗?+大幡主

宮司に対して“摂社の祭神で唯一見当の着かない神様がおられるのですが…、もしかしたら、「大山祗」or「大幡主」or「大山祗+大幡主」”で愛媛の石槌神社の祭神が持ち込まれているのではないですか…“と申し上げたところ、”そうでしょう…、姫島には大海という集落があり、そこにも愛媛の方から持ち込まれたとされる石槌山系の修験が入っており関係があるのではないかと…“といった話が飛び出したのでした。

 まさに、ひょうたんから駒でしたが、これも、フィールド・ワークによる現地踏査の賜物なのです。

比売語曽神社については別稿とさせて頂きます。


sp118-4



2017730日 日曜日 午前930 集合~出船(9:50発) 連絡は古川まで 090-6298-3254


集合場所:大分県国東市国見町伊美別宮社に集合! 参加費500


sp118-5

sp118-6




大分県東国東郡姫島村に鎮座する【大帯八幡社】(おほたらしはちまんしゃ)
御祭神[八幡社]
 ・帶中日子命(たらしなかつひこのみこと)  【仲哀天皇】
 ・息長帶比賣命(おきながたらしひめのみこと)【神功皇后】

 ・品陀和氣命(ほむだわけのみこと) 【應神天皇】 
     [元宮社](脇殿)
 ・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産靈神(たかみむすひのかみ) ・神皇産靈神(かむむすひのかみ)

村の産土の神です。
元治元年の大火で旧記・古文書等を消失したために由緒等は不詳ですが、姫島の伝説によると、氣長帶日賣命【神功皇后】三韓親征の際、豐國宇佐の海に御舟を進めた時、腹帶を海中に落とされました。その腹帶は海潮に流されて豐國の女嶋の稻積に漂着しました。これを見つけた稻積の住民18人が、腹帶を担いで南浦(現在地)に祀ったのが「大帶八幡社」のはじまりと伝えられているそうです。また、大帯八幡社の社名を記した正和元年(1312年)の棟札が広島県呉市に鎮座する亀山八幡宮に現存するそうです。

社殿中央の左右には、摂社・末社が並んで祀りされています。
写真を撮り忘れてしまい、たくさんお祀りされていたので社名も忘れてしまったのですが、塩竃社がお祀りされていて驚いたのは覚えています。また、参道の右手にも境内社がお祀りされており、その中に「禊社」もお祀りされていましたので、祓詞を宣らせて参拝させていただきました。
追記。一緒に参詣した友人が教えてくれました。(以下、合祀による境内社)
【岩土社】・石土毘古神(いはつちびこのかみ)
=大山祗?or大幡主or大山祗?+大幡主

【貴船社】・高淤加美神(たかおかみのかみ)=神沼河耳 闇淤加美神(くらおかみのかみ)=神俣姫
【住吉社】・表箇之男神(うはつつのをのかみ)=ウガヤフキアエズ・中箇之男神(なかつつのをのかみ)=贈)崇神天皇・底箇之男神(そこつつのをのかみ)=開化天皇(高良玉垂命)
【秋葉社】・火産靈神(ほむすひのかみ)=金山彦
【多賀社】・伊弉諾神(いざなぎのかみ)・伊弉册神(いざなみのかみ)
【惠美須社】・八重事代主神(やへことしろぬしのかみ)
【杵崎社】・志那津比子神(しなつひこのかみ)・志那津比賣神(しなつひめのかみ)
=阿蘇高森草部吉見+α
【山神社】・大山津見神(おほやまつみのかみ)
【猿田彦社】・猿田彦神(さるたひこのかみ)
=ニギハヤヒ(山幸彦)
【稻荷社】・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)=韓国大姫大目命(アメノウヅメ)
【鹽竈社】・鹽土老翁神(しほつちをぢのかみ)=大幡主武甕槌神(たけみかづちのかみ)・經津主神(ふつぬしのかみ)=山幸彦(猿田彦)ニギハヤヒ
【生目社】・藤原景清命(ふぢわらのかげきよのみこと)
【赤崎社】・素戔嗚神(すさのをのかみ)
【若宮社】・大雀天皇(おほさざきのすめらみこと) [仁徳天皇]
=開化と神功皇后の長子シレカシ
【八坂社】・須佐之男神(すさのをのかみ)・櫛稻田比賣神(くしいなだひめのかみ)
【天満社】・菅原道眞命(すがわらのみちざねのみこと)
【金比羅社】・大物主神(おほものぬしのかみ)
【祓戸社】・瀬織津比賣神(せおりつひめのかみ)
=櫛稲田姫・速開津比賣神(はやあきつひめのかみ)・=豊秋ツ姫 氣吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)=金山彦・速佐須良比賣神(はやさすらひめのかみ)

=鴨玉依姫

※※※※は百嶋神社考古学からの推定です…


現在、百嶋神代史研究会グループ全体の年間アクセス数は恐らく5070万件になるでしょう…

途中でコース変更が入る場合がありますのでご注意ください!

トレッキング注意事項玄海、太宰府合同地名研究会(トレッキング)実際には55ポイントを巡りますが、どなたもどこかの神社には心惹かれるものがあると思います。最近は神社の祭事、経営が非常に難しくなっています。お賽銭を準備の上安全に留意し参拝して下さい。神社に関して何かご質問があれば09062983254 古川までご連絡下さい。

参加申込等:090-52892994(中島)


sp118-7

448 「駛馬」(はやめ)“ はやめは古代の駅? ” ③ 古代官道とは何か?

$
0
0
 

448 「駛馬」(はやめ)“ はやめは古代の駅? ” ③ 古代官道とは何か?

 

20170206

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

 

 

本稿は大牟田市駛馬支所からの依頼を受け、20147月に「駛馬」という地名について講演したものを再構成して公開するものです。

 

ただ、パワー・ポイントとして作成したものをワード文書に戻して、web上にオン・エアする作業も効率が悪いため、今回は音声のないパワー・ポイントとしてそのまま公開します。

 

テーマは、大牟田周辺にも古代官道(分道)が存在し、それが九州王朝時代のものだったのではないかを探るものです。


448-1


448-2


448-3


448-3


448-5


448-6


448-6


448-7


448-8


448-9


448-9


448-10


448-11



 

449 「駛馬」(はやめ)“ はやめは古代の駅? ” ④ 九州王朝の古代官道とは何か?

$
0
0

449 「駛馬」(はやめ)“ はやめは古代の駅? ” ④ 九州王朝の古代官道とは何か?

 

20170206

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

 

 

本稿は大牟田市駛馬支所からの依頼を受け、20147月に「駛馬」という地名について講演したものを再構成して公開するものです。

 

ただ、パワー・ポイントとして作成したものをワード文書に戻して、web上にオン・エアする作業も効率が悪いため、今回は音声のないパワー・ポイントとしてそのまま公開します。

 

テーマは、大牟田周辺にも古代官道(分道)が存在し、それが九州王朝時代のものだったのではないかを探るものです。

 

 このあたりからいよいよ本題にはいります。始めは「腹赤」という不思議な地名の話から…


449-1


449-2


449-3


449-4


449-5


449-6



450 「駛馬」(はやめ)“ はやめは古代の駅? ” ⑤ 九州王朝の古代官道としか思えない!

$
0
0
 

450 「駛馬」(はやめ)“ はやめは古代の駅? ” ⑤ 九州王朝の古代官道としか思えない!

 

20170206

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

 

 

本稿は大牟田市駛馬支所からの依頼を受け、20147月に「駛馬」という地名について講演したものを再構成して公開するものです。

 

ただ、パワー・ポイントとして作成したものをワード文書に戻して、web上にオン・エアする作業も効率が悪いため、今回は音声のないパワー・ポイントとしてそのまま公開します。

 

テーマは、大牟田周辺にも古代官道(分道)が存在し、それが九州王朝時代のものだったのではないかを探るものです。


450-


450-2


450-3


450-4


450-5


450-6


450-7


450-8


450-9


450-10


450-11


450-12


450-13

450-14




 

451 神社の行く末について ② パワースポット・ブームという造られた現象について

$
0
0

451 神社の行く末について ② パワースポット・ブームという造られた現象について



20170212

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 パワースポットなる奇妙な和製英語(このため中点を入れていません)が流通し始めて早くも十数年といった印象を持つのですが、今回はその背景について切れ味の悪いメスを入れて見たいと思います。

 この現象の起源を探っていると、まともなものがほとんどない中、ビジネス・ジャーナルがありました。


451-1

御朱印ガールブーム、ネットでは批判殺到も、寺社は歓迎「女性が興味を持ってくれれば」

 

文=西山雄基/マーケティングコンサルタント


451-2
 

四寺廻廊の御朱印帳(「Wikipedia」より/菅原光聴)


 

 霊的な力が満ちている場所とされる「パワースポット」を訪れるブームが1990年代から徐々に高まり、今では「パワースポットめぐり」はすっかり一つのアクティビティとして定着した感がある。

 そんなパワースポットの一つである神社や寺院を訪れ、御朱印を集める「御朱印ガール」が急増している。

 御朱印とは、神社や寺院が実施している参拝者向けの押印といえる。僧侶や神職が寺院・神社やご本尊の名称・日付などを墨書することが多く、それを収集する女性が増えているというのだ。神社や寺院に行くと「御朱印はこちら」といった看板を立てているところもあり、目にしたことがある人も多いだろう。

 一説によれば、本来、御朱印は納経した証しとして頂くものだったといわれているが、現在では無料もしくは300円ほどで書いてもらえる気軽さもあり、「御朱印帳」を持ち歩いて集めている人が増えているのだ。実際、多くの寺社では10年前に比べて御朱印を求める女性が510倍に増えているという。

 

NHKで取り上げると、ネット上で大反響

 そんな御朱印ガールを、朝の情報番組『あさイチ』(NHK)が84日に紹介したところ、インターネット上で賛否両論が巻き起こり、大きな話題となった。番組内で登場した御朱印ガールたちが、週末ごとに御朱印を集めて回る姿や、「御朱印事務局」なる同好会のような集まりをつくっていることを見た人たちからは、「スタンプラリー感覚で集めているのは、いかがなものかと思う」「お参りではなく御朱印集めを目的にするのは本末転倒ではないか」などと批判する声が多く見られた。

 また、すでに御朱印を集めている人たちからは「御朱印ガールなどと騒ぎ立てられると、ブームに乗って集めているように思われてしまう」「一時のブームで集めている人は、神社の本当の良さを理解してないのではないか」「純粋にお寺や神社をめぐるのが好きなだけなのに、今後御朱印をもらいにくい」などと、単なる一時のブームで気軽に集めていると思われることを危惧する声が上がった。

ほかにも「テレビで御朱印ガールがはやっているなんて取り上げられると、困る寺や神社は多いのではないか」など、ブームに乗って急激に参拝者が増えることで神社や寺院に迷惑がかかることを懸念する意見もあった。

●神社や寺院は概ね好意的

 実際の神社や寺院は、どう思っているのだろうか?

 香川・琴平町の金刀比羅宮は、御朱印ガールを意識してカラフルなオリジナル御朱印帳を作成した。金刀比羅宮では、これまでも御朱印を授与してきたが、独自の御朱印帳はなかった。ところが最近、御朱印を求める人が急増したことで、御朱印帳の作成を思い立ったという。              

 NHKの朝イチの話はたまたま見ていたのですが、ここに至るかなり前から、既に神社を廻る若い女性が徐々に増えて来ているという印象は受けていました。

 多分、バブル崩壊後の日本社会の経済、制度、環境、家族、地域…の全てに亘る劇的変化が起こった時期と期を一にしているという印象を持つのです。

 こういった寺社に対するシンパシーの拡大は、既存の制度、社会の崩壊と重なるもので、終戦直後の新興宗教ブーム(霊友会:踊る宗教、PL教団、生長の家、世界救世教、立正佼成会…)もその一つだったと考えられるのです。

 バブル崩壊によって企業から社会から伝統的共同体から全体としての日本と言う国家から切り捨てられ投げ出された多くの人々(棄民)敗残者=負組(私もそうでしょう)が、自らとは何なのか?自らはどこに向かおうとしているのか?世界とは何なのか?古代とは何なのか?歴史とは何なのか?…といった多くの動機から、何時しか寺へ神社へと向かう流れが産まれたのだと思うのです。

 しかし、これはパワースポット・ブームの底に流れる地下水脈の様なものであり、終戦直後ほどの勢いはないものの現在も続いていると考えています。

その一つにオ○ム教団もあったのですが、それを支えたのも不公正な社会と富の偏在による不平等の常態化から固定化であり、そういった社会の転換の閉塞を打開する展望の消失と言ったものがあるように見えるのです。

 それは、寺院や神社の存立の危機が継続している事と期を一にしている様に見えるのです。

 一方、パワースポット・ブームとはそういった寺院、神社への関心の高まりへの肖りの構造でしかなく、言わば、軽薄なブームを人工的に形成した集りの構造であって本質的な意味はないと考えています。

 それは、寺院はともかく神社経営の危機=氏子組織の解体、加えて、長寿化によって隠され補われていたものの最終的な少子化、少産化による氏子自体の動員力の衰退がいよいよ効き始めたのであり、さらに小○竹○による馬鹿げた所得の半減化政策による経済力の壊滅によって神社への収入が一気に衰退していった時期に始まった生き残り戦略の結果生じたものだった様に見えるのです。

 かつて、幕藩体制下の伊勢詣、熊野詣、富士詣、大山詣といったものが、安定した社会における有り余る生産力の拡大とそれに伴う商品生産の拡大の中での国民経済の発露と言ったものだったのに対して、現在のパワースポット・ブームとは逆の衰退期に於ける神社の生き残り戦術の一環として仕組まれたものだった事が見えてきたのです。

 インターネット、HPblog…が一般にも普及し始めるのが十数年前でしたが、大手寺院、大手神社から高額な製作費を投入してHPを創り宣伝する傾向が顕著になっていきます。

 しかし、中小規模の神社に関しては旧来の制度にしがみつき、そのような新メディアに乗ろうとする傾向が全く進みませんでした。

 そうしているうちに、一気に神社の経営基盤が悪化し、非課税にも拘わらず社殿の改築費用の稔出もままならなくなっていったのでした。

 そうしたころ、ホーム・ページ制作会社や広告代理店(「船○総研」等々…)といったところが市町村のHPの製作が一巡した事から新規の需要を当て込んで、弱小神社群も含めて営業活動が開始されたようなのです。

 HPが造られた場合はメインタナンスも含めて安定した収入源が形成されます。

 今さらHPを慌てて作成しても既に競争相手は激増しており、単なるHPを創るぐらいでは最早見向きもされない時代になってしまった中で、神社間の生き残り競争に勝ち抜こうと意欲を持って造り出された架空の御利益(付加価値)こそがパワースポットなる得体の知れない概念であり、その言葉の発信源も、恐らくマスコミに重用されたインチキ女占い師(大体想像できるかと思いますが)辺りだったのではないかと考えているところです。

451-4

 

 確かに軽薄この上ないパワースポット・ブームではありますが、それを真面目な参拝客にとっては迷惑な存在と議論が噴出したのは既に過去の話であって、落ち着いて考えれば、元々、神社の御利益などと言ったものに科学的根拠とか確たる実績などないのであって、御利益などと言った古臭い手垢の付いたような言葉を変えることによって新たな需要を掘り起こしたとすれば、信じる者は救われる(=信じる者は足を掬われる)程度の話であって、それこそ信仰の自由になってしまうのですから傍からどうこう言うべき筋合いのものではない事になってしまうのです。

 一部ながら、眼病に効く明礬の含まれる霊泉の湧く神社とか、出産に必要な多くのミネラル分を含んだ冷泉の湧く神社とか、皮膚病に効く強烈な硫酸泉、硫黄泉の湧く温泉地の神社といった具体的かつ科学的な効能が考えられるパワースポットもあることは事実であり否定はしませんし、薬漬けにする妙なイカサマ病院に行くよりも、転地療養(これ自体ほとんど死語になりつつある懐かしい言葉になってしまいましたが落語で言えば江戸落語の「居残り佐平次」)を兼ねて湯治場に行く事も、御利益であり、パワースポットと重なるものですが、そういったもの以外の思い込み、言い切り、信じ込みだけで造られたパワー・スポットであったとしても、それを信じることによって自分の願いを達成する切っ掛けを与えるものが御利益の一歩とすれば、それはそれで良い訳であり、まずは、許される範囲のフィクションでありファンタジーとまでは言えるのでしょう。

 ただ、私達の様な神社研究者、神社探索者、古代史、神代史へのアプローチとして神社を徘徊する者にとっては、御利益と言ったものは二の次どころかサラサラ関心などはなく、実際にも移動中に交通事故を起こしてとんでもない御利益を被ったり、大怪我をしてとんでもない目に逢う方が多いのかも知れません。

 このため、探索者、分析者、解析者として信仰、御利益とは全く無関係に神社巡りをしている少数者もいる事を知って頂く事は面白いかもしれません。

 勿論、唯物論者の共和主義者なのであって、本来、御神籤を引いたりお賽銭を入れたりする事も、苦痛に思うのですが(エンゲルスから笑われてしまう)、神社の疲弊を見るにつけ、寂れたお社ほど清掃費ならとお賽銭を奮発する事にしているところです。

 日本では、多くの神社巡っていますと言うと、信仰心が篤い方とか信心深いと言った言われ方で、神社研究者という概念が全く無い事に気付きます。

 つまり、神社を調べるなどもってのほかであり、不敬極まりない大それた事と言った理解しかされません。

 つまり、神社を客観的に見るという事に対する認識が全く存在しないのです。

 この点、唯物論が発生した当の西洋では、キリスト教研究者とキリスト者(この言葉が不適切である事はイザヤ・ペンダサンこと山本七平も言っていますが…)とが分離しているのであり、まず、この点から言っても日本の神社研究者というものは異質であることが分かるのです。

 仮に存在したとしても、それは既存の大社や神社庁に奉仕し補足する程度のものに過ぎず、百嶋由一郎氏の様にその深層までを探索すると言った姿勢は全く存在しないのです。

 この点、宇佐神宮の禰宜であり研究者でもあった馬場紀美史氏(「柴刺」外著書多数)は例外中の例外と言った存在に思えます。

 ただ、神社が戦後の社会体制に組み込まれた制圧装置の一部であるという事を承知した上で、その底流に存在する謎、隠された真実の探索に至るには、最終的に強烈な反権力思考(とまで行かずとも権力からの独立性)を保持し続けていなければできないという印象は消せません。

権力に媚びを売り、尾を振ってまで近づこうとするさもしい人物には所詮そういった事は不可能であって、もし、やったとしても、所詮は道化師にならざるを得ないのです。

闘い続ける意思を保っているからこそ、真実への探索が可能なのであって、知識を行政などに売り込み芸人に成り下がるような薄汚い連中には、所詮、古代の探究とか九州王朝の更なる研究とか言った作業は凡そ不可能なのでありお笑い草といったものになりそうです。

 さて、話が逸れましたが、最後に地方の弱小神社の生き残りとパワースポットについて触れて終わりにしたいと思います。

 パワースポットとして売り出すにもそれなりのものが無い神社は、まず、不可能と言わざるを得ません。

 しかも、地域の人間から軽蔑されるような神官では鼻から相手にされない事も間違いない事でしょう。

さらに、一定の駐車場の存在なり、幹線道路からのアクセスと言った事も絶対的な必要条件であり、その一つでも欠ければ、ほぼ、生き残りは絶望的であって、地域への依存を強め教化し奉仕し信頼を高めて尊崇の念を高める以外に生き延びる道はないでしょう(それでも氏子は消え失せて行くのですが)。

 まず、真面目に労働していないのであって、地域の浄財、布施、寄進によって生延びている以上、偉そうな態度は取るべきではなく、ひたすら地域に這いつくばって生きて行くべきであるしかないのです。

 ただ、条件の整った神社間の競争はまさに激烈に始まっており、都市に人口が集中すればするほど、地方の弱小神社にはパワースポット頼みと言った状況に追い込まれていくことが目に見えるような気がします。

 まず、浮浪する都市からのさまよえる神社探訪者は今後とも増加し続ける事は間違いないでしょう。

 それは、都市には共同体が存在しないからであり、自らが何者であるかと言う答えを都市に求める事は益々不可能になるからです。

 しかし、まともな所得は都市生活者にしか与えられない社会構造になっていることから、どうしてもこの浮浪する人々を何とかして取り込まない限り生延びる事は不可能と言って良く、自らが何者であるかを求める都市型の事実上の氏子として取り込むためのストーリーを打ち立てない限り再建はおろか存続さえもできない時代が目前まで迫っているのです。

 まず、宗教家としてこれらの人々に訴える力を持たない神社に存続はできないと言えるのです。


スポット119 半島情勢急変の可能性 2018年4月 米国と中国が半島北に侵攻する …

$
0
0

スポット119 半島情勢急変の可能性 20184月 米国と中国が半島北に侵攻する …

20170916

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 一般的に、攻撃するぞと脅すだけ脅し警戒するだけさせておいて攻撃するなどあり得ない話であって、戦争目的の達成には、戦術的に相手の虚をつき、隙を突くのが上策であることは言うまでも無い事です。

 従って、凡そ「国連制裁」「禁輸措置」「海上封鎖」だと言った大騒ぎの末、艦隊(空母打撃群)を派遣し、反撃のために盛んにロケットだかミサイルだかを打ちかえしている時には決して本格的な戦闘から戦争には発展しないものです。その意味で、騒いでいる時には戦争にはならないものなのです。

 このため、「Jアラート」の警報などといったものは実際には役に立たない政府の国民向け宣伝放送でしかないでしょう。

sp119-1

元々、真淵睦夫(元モルドバ大使)が言われる通り、北朝鮮と言う国家は、米ソの緩衝地帯として人為的に残され存続を許された国家でした。

それ自体は帝国主義者とスターリニスト(スターリン)官僚との各々の思惑が働き相互対立相互依存と安定を固定化したものだったのです。

このため、朝鮮戦争勃発時に核爆弾を使ってまで北上しようとしたマッカーサーが奇妙にも解任され、わざわざ韓半島を分割支配する事を持って終わり、戦後秩序が形成されたのでした。

そして、韓国軍は一切闘わず早々と逃げ、多くの米国の若者の血だけが大量に流されたというのは有名な話でした。

それほど、韓国の人間と言うものは強者に色目を使い、勝とうが負けようが勝者、強者に尾を振るだけの人々なのです。

勿論、強国に囲まれた民族の唯一生き残るための術であり、仕方がない方途ではあったのですが、誇り高き列島人の感性には合わぬ許しがたい人々であると言えるでしょう。

この点、半島の北の国家は人工的に造られた国家とは言いながら(金日成が間島パルチザンの首領とか白頭山の英雄などと言った話は只の偽装であり、金日成自身も本物の抗日戦争の英雄の金日成ですらない=ウラジオストック周辺にいたロシア語が話せるソ連邦のエージェントだったのですが)、ソ連邦崩壊後のロシアからも見捨てられた徹頭徹尾独立した国家であり、何時でも北京を焦土と化すことができる攻撃力を保持しているだけでもアメリカの支配を受け続けている日本のような列島(劣等)国民よりよほどまともな民族国家とまでは言えるでしょう。

彼等が半島南部の人々とは異なる誇り高い気質を持った人々とのイメージを持つのは、高句麗(コグリョ)の好太王を連想させ、本当の悪質な民族である中国人(実際には漢人ではなく定着した鮮卑族)と闘い続けた民族とまで思うのは思い込み過ぎでしょう。何故なら本物の高句麗は列島の北関東に避退しているのですから。このため、半島情勢など考えたくもないのですが、降りかかる火の粉は払わざるを得ず、イヤイヤながらも考えて見る必要が出て来ました。

まず、北が核開発を行いそれに対してアメリカが抑え込もうとしていると言う構造によって十倍もふっかけられているイージス・アショア(一発10億円もする法外な価格の実戦的とは言えない兵器)が売り込めることになります(事実上はアメリカの経済破綻の救援資金=ヤクザノのみかじめ料なのですが…)。

同様ながら、とうとう韓国も「終末高高度防衛(THAAD)ミサイル」=発射されたミサイルを迎撃する高額兵器をいやいやながらも受け入れたのです。

古典的手法ながらアメリカの軍産複合体にとっては北朝鮮あっての商売であった事が良く分かります。

この南北対立(古くは東西対立)を利用し、絶えず危機感を煽り、防衛を強く意識させることをもって、軍事産業が生き延びていると言う側面を見ておかなければならないのです。

ただ、相互のエスカレート合戦は、何時しか暴発へと向かうもので、それさえも定期的に戦争をせざるを得ない米国にとっては織り込み済みのシナリオなのかも知れません。

そうした中、敬愛する副島隆彦氏から3分ほどの短いものながら重要なメッセジが流されています。


sp119-2


勿論、「これは予言であり予言は外れることがある」とは言われているのですが、要は、来(2018)年四月に米国海軍、空軍が北朝鮮を攻撃し、併せて同時的に中国軍が北に侵入し金正恩(キム・ジョンウン=김정은)を捕縛するか殺害するかし、金正哲(キム・ジョンチョル)と挿げ替える(北朝鮮と言う国家は残す)可能性がある! と言っておられるのです(誤りがあるとご迷惑になるのでユーチューブでご確認を…)。短いものですので是非お聴き頂きたいと思います。

副島隆彦氏は、実質的に唯一トランプの勝利を予測できたジャーナリストでありその洞察力の深さには感銘していますが、来年四月前後をさらに注視する必要があるでしょう。

戦争とはやらないと見せかけておいてやるのが普通であって、年度末のバタバタに追われる人々には所詮不意打ちになるかも知れません。

私には中国軍の旧瀋陽軍管区、現第五戦区が容易には周 近平によって平らげられないと考えていますが、もしも中国軍が=人民解放軍が国境を越えれば、北朝鮮は躊躇なく北京に向けて核ミサイル攻撃を敢行すると考えていますのでどうなのでしょうか?

以前、スポット095 朝鮮半島が北主導で統一される!20170224 を持って半島問題を取り上げましたが、再び掲載しておきます。

個人的には、この実質的に野放しとなった独立国家北朝鮮を、列島の防衛、対米独立、対中対抗のために裏からロシアと手をくみ、今後も継続されるであろう中国の横暴と経済破綻に備えるべきと考えるのですが、この腐りきったアメリカに富を強奪され続ける列島権力がどうなろうが所詮は金持ち共の持ち物なのですからむしろ潰してやりたいと考えるこの頃です。アメリカが潰れれば独立でき中国に対抗できる。

私の考えは既に以下の二稿で明らかにしています。

スポット109 列島(劣等)民族の今後の生き方について“東芝が嵌められタカタも食い物にされた”①

スポット111 列島(劣等)民族の今後の生き方について“東芝が嵌められタカタも食い物にされた”②

列島(劣等)は軍事産業に戻し幕藩体制化の様な新型のアウタルキー経済に戻すべきと考えています。

再掲)スポット095 朝鮮半島が北主導で統一される!

20170224


経済破綻から、さらに深刻な国家的消失へと進みつつある韓国(南鮮)ですが、一昨年の年頭以来、“北朝鮮主導により半島が統一される”という話がネット上では静かに流れていました。

 他にもありますが、まず、中丸女史によるものが代表的でしょう。

明治天皇の落胤系の孫にあたる国際政治経済ジャーナリスト中丸 薫女史ですが、15年の冬に福岡市内で一度お目に掛かる機会を得て一言二言お話ししたこともあります。

ネット上の有名人のお話しながら、半島情勢に関しては聴いた当初の段階では耳を疑ったというのが正直な実感でした。

ただ、サムソン危機、韓進海運倒産、大宇造船危機、朴政権の事実上の崩壊(オンエア時点では韓国の事ですから、弾劾か)…と、ここに来てその現実性、信憑性が急速に高まりつつあるように思えるのです。


sp119-3


元々、年から年中嘘をつき続け手のひら返しを繰り返しているような大陸人と半島人に対しては、敬遠(敬じながら遠避けて)し一切手を出さないのが肝要…と思い、考える事さえ避けていると言うのがこの間の正直な感想でした。

しかし、非常に突飛な話に思われるとは思いますが、歴史とか国際政治といったものには裏の裏にまた裏があり、その奥にも隠し袋があるというのが本質なのです。

sp119-4恐らくそれを読み解かなければ真相は全く見えてこないのであって、近畿大和朝廷が奈良に始まったとか、邪馬台国が奈良にあったなどと信じ込まされておられるような方々には、凡そ死ぬまで真相の一部にも辿り着けないまま潰え去って行かれるだけなのであり、その点、現実の国際政治も古代史、神代史と同様なのです。

sp119-5まず、鉱物資源に恵まれるものの半島の辺境に閉じ込められた人口2500万人の北朝鮮(北韓:呼称などどうでも良い)など現在の米軍の力を持ってすれば一週間程度で制圧できるはずであるにも関わらず、ソ連邦崩壊から36年を経過してもどうして存続できているのかという問題を考えておかなければならないでしょう(実体はCIAの管理下にある)。

恐らく米国が必要な時には直ちに役に立つ切り札、手駒として温存させているという事が真相ではないかと考えています。

まず、ソ連邦崩壊後も半島の緩衝地帯(Buffer Zone)として存続させておくというメリットは直ぐに想像する事ができます。

直接的には何時崩壊しても良いようにと設えられた予防的な難民の収容所として存続させられたというのが実態だったと考えています。北朝鮮は人為的に残されたのであり、

だからこそ、朝鮮戦争において北京まで進むとしたマッカーサーは解任されたのです(馬渕大使)。

では、兇悪危険国家北朝鮮が存在している事によってどのようなメリットがあるか考えてみて下さい。

米国は人為的に北朝鮮を残す事によって、アメリカの存在感(プレゼンス)を維持し高める事ができる上に、ならず者国家北朝鮮の存在は、日本、台湾、韓国などを対象に、アメリカ製の一世代前の兵器を法外な値段で在庫一斉処分ができる事になるのです。

それでも“核兵器を持たせているのは余りにも危険極まりない選択ではないか?”と思われる方がおられると思います。

しかし、質と量から考えてアメリカ本土に対しては問題のないレベルでしかなく、たかだか列島の一部が焦土と化す程度ならば米国にとっては許容範囲である以上に、もしも、北朝鮮と米国との水面下において密約が成立しているのであれば(北朝鮮は元々米国によって許容されていると中国は理解しているはずです)、その核ミサイルは米国ではなく北京を直接狙っているとも考えるべきなのであり、事実上、かつてキューバに置かれたソ連製ミサイル同様の物が北朝鮮による限度付の偽ドルで維持されていると考えれば、朝鮮人民軍とは事実上中国に向けられたアメリカの傭兵部隊でさえあると考えられるのです。

正に、米中露韓日の鬩ぎ合いに生じた空白に秘密の構造が成立している事に戦慄を覚えるのです。

既に、長期的には中国の方が危険なものであって、いつでも利用できる ならずもの国家としての北朝鮮(北韓共産集団)の存在とは、ISISを使ってシリアを我がものにしようとしたヒラリーの事を考えれば、同様になお利用価値のある人工国家とまでは言えるのです(もちろんこれはトランプ登場以前の話であって、現在では大きな変化が起きている可能性は十分にありますが…)。

普通には経済制裁による禁輸措置によって石油を止めさえすれば北朝鮮はたちどころ行き詰まるなどと思われているかもしれません。しかし、実際にはそう簡単な構造になっている訳ではないのです。

それは、中国軍内部にも事実上の軍閥に近い分裂構造が存在している事を見なければならないのです。

そもそも、内モンゴルには大量のモンゴル系民族(実は人口的には二割以下)が存在しているように、北朝鮮と国境を接する中国側にも多くの朝鮮人が住んでいる(吉林省延辺朝鮮族自治州40%、吉林省長白朝鮮族自治県)上に、漢族とは異なるツングース系民族を大量に抱え込んでいるのですから、朝鮮族を含む非漢族は中国軍内にも深く浸透しており(かつての間島パルチザンならぬ馬賊、満州匪賊…がその後の瀋陽軍区の中核部隊となった)、仮に中国(習近平政権)が北朝鮮を攻撃しようとでもするならば、北朝鮮の核ミサイルが目と鼻の先の北京に直接打ち込まれる上に、旧瀋陽軍管区が北京の要請を聴くかどうかは極めて疑わしいのです。

そこで、瀋陽のトップであった徐才厚(ジョサイコウ)が四川省に送られ病死させられ、一旦は牙が抜かれたように見えるのですが、それで習近平政権が安定したとはとても言えないのです。

もしも習近平が本気で北朝鮮への制裁へと動くならば、旧満州としての瀋陽軍区と北朝鮮との連携が一夜にして形成され、昔の高句麗にも似た巨大な北方勢力が反習近平で対抗し、北朝鮮の核ミサイルは北京へと打ち込まれる事も覚悟しておかなければならないのです。

これと対抗するはずの中国の核は、遠いハート・ランド四川省成都周辺に展開しているため、直ちに反撃できる構造でもないのです。

sp119-62016.10.10 01:00更新

【野口裕之の軍事情勢】

反習近平派の拠点、中国人民解放軍「瀋陽軍区」が北と通じてクーデターを計画している!

sp119-7 北朝鮮の核ミサイルはワシントンや東京を狙っているとは限らない。北京も含めるべきではないか。一方で、小欄の目には北朝鮮と中国の国境が映らなくなっている。「対立する北朝鮮と中国」「中朝一体化」という一見矛盾する情勢のナゾ解きが、今次小欄のテーマ。ナゾ解きは衝撃的な結末を迎える。旧満州東部からロシア沿海州南西部、つまり朝鮮半島に接する中国側は李氏朝鮮時代(1392~1910年)以降、多数の朝鮮人が移住した。深い森林でおおわれ、朝鮮総督府の支配も届かず、無頼の朝鮮人や支那人の匪賊・馬賊の格好の根拠地となった。越境して朝鮮半島北部(現・北朝鮮)の町村を襲撃、無辜の朝鮮人らへの略奪・殺戮を繰り返した。絵に描いたごとき無法地帯であったのだが、「無法地帯」は現在も変わりがない。ただし、支那人の匪賊・馬賊は中国人民解放軍になり、北朝鮮襲撃ではなく、逆に武器・エネルギー・食糧・生活必需品を密輸し、支援している。国連や日米韓などが北朝鮮に経済制裁を科している状況をよそに、密輸とは不届き千万だが、中国人民解放軍が制裁の動機である北朝鮮の核・ミサイル開発まで支援しているという観測が、安全保障関係者の間で流れている。現下の厳しい制裁にもかかわらず、なぜ北朝鮮が経済力を保ち、核・ミサイル開発の技術的向上を続けられるのか?なぜ金正恩指導部が強気の姿勢を転換しないのか?この観測で説明できる。

 「朝鮮半島の非核化」を進めたい旨を公言する習近平・国家主席はウソつきということになるが、ウソをつかせる複数の要因が存在する。例えば、そもそも人民解放軍は、軍中央の支配が届きにくい半ば独立した軍閥。従って、習主席に逆らってでも北朝鮮を支援したい軍閥と、習主席に忠誠を誓う軍閥に大別される。背景には利権と政争が薄汚く絡み合う。北朝鮮の核・ミサイル開発を阻止するには、北を支援する中国人民解放軍を習近平派の人民解放軍が掃討しなければ、決着がつかぬやもしれない。中国国内で、内戦が始まるのだろうか。


経済制裁、天候異変、洪水、経済の専軍政治化…といつでも瓦解しそうな報道が繰り返されるにも拘らず、しぶとく生延び、核ミサイル開発を継続する北朝鮮の存在は、奇妙を越えて既に米国の承認を得ていると考えてこそ理解できるのであり、表面の話とは別に、したたかな暗闘が存在していると考える方が正しいようです。

そもそも軍区を変更した中国の事情にも、習近平に対抗し独自に動こうとする旧瀋陽軍管区を脅威と考えていた節があるのですが、もしも中国経済も瓦解し、かつての黄布族の乱のような内戦状態になれば、この5戦区(旧7大軍区)も含めた軍区ごとに割れた軍閥割拠といった事態になりそうな気がしています。

また、韓国経済の崩壊によって親北韓政権が成立した場合には、北からの南進や中露が絡んだ連邦制や信託統治を含めたさまざまな変化が訪れる可能性を見ておく必要もあるでしょう。

今後は全く予測が着きません。まさか!何が起ころうとも再度の日韓併合だけはやめるべきでしょう。

さて、話は変わります。“弱腰のオバマと違ってトランプは中国に本気で立ち向かうであろう“とか、ヒラリーが勝つべきであり、勝つとしか考えていなかった安倍が手のひらを返したようにトランプとの蜜月ぶりをアピールしたのはまだ記憶に新しいと思います。

就任予定のトランプは台湾の蔡英文総統と電話会談し、1979年に国交断絶をして以来の「一つの中国」の見直しでもするかのように装い、中国も激怒して見せたのですが、同じころ、トランプの新たな庇護者となったキシンジャーは習近平と密かに会談していたのでした。

そして、トランプは“「一つの中国」を守る”とのキッシンジャー風のメッセジを送り、国際的なトランプ支持派、ヒラリー支持派を翻弄し手玉に取るような動きを見せているのです。

今後もどのような変幻自在を見せるかは分かりませんが、恐らく、埋め立てが完了した南沙を攻撃すると脅しを掛け、巨大な埋蔵量が確認されている海底油田への支配権を握る事が目的なのでしょう。

アメリカにとってはちゃちな中国海軍など苦も無く捻る事ができるのですが、大きな問題もあるのです。

それは、もしも中国と海戦から全面戦争と拡大すると、米軍では核を使用しない限り手におえない陸上戦に持ち込まれて人を人と思わぬ人海戦術で泥沼に引き込まれるため、結局、米中衝突には至らないと言う避ける事のできない筋書きが存在するのです。

結局、南沙についてはこれ以上触れさせず、近づけさせないとして…将来的な石油資源を確保しよう(開発させない事も含めて)と言うのが米国の思惑なのだろうと考えるのですが、南シナ海での米中激突といった衝撃的な宣伝自体がカモフラージュである事も見ておかなければならないのです。してみると、台湾の蔡英文と安倍は前座として利用されただけのピエロだったという事になりそうな気がしています。

既に、ダビデ=デイビッド・ロックフェラーの後継となったキッシンジャーは、再度、親中派(実はマキャベリストの等距離外交派)の小沢を担ぎ出そうと、既に安倍降ろしが始まっているのではないかと思えるのです。まず、森友学園を巡る動きが何故唐突に生じたのかも考えて見るべきでしょう。

かつて小沢と袂を分かった小池がどう動くか、情報に操作されるB層はどうにでも操れると尚も考えているのです。そういえば、電通が何故叩かれているかも考えてみるべきでしょう。

まあ、米中戦争を考え地球人口の五分の一化を考えていた節のあるヒラリーによる南沙攻撃は老後の楽しみとして面白いものだったのですが、既に、自然破壊が極限まで進んだ列島には愛国心など持っていない事からどうなろうが知った事ではない…とまで思うこの頃です。


南シナ海には、豊富な天然資源があるとされ、中国、台湾、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、ベトナム、インドネシアがスプラトリー諸島(南沙諸島)などをめぐって、7カ国が領有権を主張している。また東シナ海においても、日本、中国、台湾が領有権を主張する尖閣諸島 (中国名:釣魚島)付近でも、石油の埋蔵が確認されている。中国メディアは4日、中国海洋石油総公社(CNOOC)の李緒宣研究員が、「南シナ海の石油埋蔵量推定値が230億トンであるとし、『第2のペルシア湾』だ」との見解を明らかにしたと報道した。2008年の中国政府の調査では、中国内の石油埋蔵総量は246億トンと発表されており、南シナ海の推定値は、現在の中国全体の原油埋蔵量とほぼ同量といえる。この海底資源を争って、周辺各国が権利主張を行っている。

一方、東シナ海の尖閣諸島問題に関して、台湾の馬英九台湾総統が「中国、日本、台湾が尖閣諸島の領有権を争う真の理由は、大量の石油埋蔵のためだ」と語ったと台湾メディアが4日、報じている。

1969年から70年にかけて国連が行った調査では、東シナ海の海底油田の石油埋蔵量は、約1000億バレル(約150億トン)とされており、世界第2の産油国のイラクに匹敵する量だ。

sp119-8
による

スポット119 半島情勢急変の可能性 2018年4月 米国と中国が半島北に侵攻する …

$
0
0

スポット119 半島情勢急変の可能性 20184月 米国と中国が半島北に侵攻する …

20170916

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 一般的に、攻撃するぞと脅すだけ脅し警戒するだけさせておいて攻撃するなどあり得ない話であって、戦争目的の達成には、戦術的に相手の虚をつき、隙を突くのが上策であることは言うまでも無い事です。

 従って、凡そ「国連制裁」「禁輸措置」「海上封鎖」だと言った大騒ぎの末、艦隊(空母打撃群)を派遣し、反撃のために盛んにロケットだかミサイルだかを打ちかえしている時には決して本格的な戦闘から戦争には発展しないものです。その意味で、騒いでいる時には戦争にはならないものなのです。

 このため、「Jアラート」の警報などといったものは実際には役に立たない政府の国民向け宣伝放送でしかないでしょう。

sp119-1

元々、真淵睦夫(元モルドバ大使)が言われる通り、北朝鮮と言う国家は、米ソの緩衝地帯として人為的に残され存続を許された国家でした。

それ自体は帝国主義者とスターリニスト(スターリン)官僚との各々の思惑が働き相互対立相互依存と安定を固定化したものだったのです。

このため、朝鮮戦争勃発時に核爆弾を使ってまで北上しようとしたマッカーサーが奇妙にも解任され、わざわざ韓半島を分割支配する事を持って終わり、戦後秩序が形成されたのでした。

そして、韓国軍は一切闘わず早々と逃げ、多くの米国の若者の血だけが大量に流されたというのは有名な話でした。

それほど、韓国の人間と言うものは強者に色目を使い、勝とうが負けようが勝者、強者に尾を振るだけの人々なのです。

勿論、強国に囲まれた民族の唯一生き残るための術であり、仕方がない方途ではあったのですが、誇り高き列島人の感性には合わぬ許しがたい人々であると言えるでしょう。

この点、半島の北の国家は人工的に造られた国家とは言いながら(金日成が間島パルチザンの首領とか白頭山の英雄などと言った話は只の偽装であり、金日成自身も本物の抗日戦争の英雄の金日成ですらない=ウラジオストック周辺にいたロシア語が話せるソ連邦のエージェントだったのですが)、ソ連邦崩壊後のロシアからも見捨てられた徹頭徹尾独立した国家であり、何時でも北京を焦土と化すことができる攻撃力を保持しているだけでもアメリカの支配を受け続けている日本のような列島(劣等)国民よりよほどまともな民族国家とまでは言えるでしょう。

彼等が半島南部の人々とは異なる誇り高い気質を持った人々とのイメージを持つのは、高句麗(コグリョ)の好太王を連想させ、本当の悪質な民族である中国人(実際には漢人ではなく定着した鮮卑族)と闘い続けた民族とまで思うのは思い込み過ぎでしょう。何故なら本物の高句麗は列島の北関東に避退しているのですから。このため、半島情勢など考えたくもないのですが、降りかかる火の粉は払わざるを得ず、イヤイヤながらも考えて見る必要が出て来ました。

まず、北が核開発を行いそれに対してアメリカが抑え込もうとしていると言う構造によって十倍もふっかけられているイージス・アショア(一発10億円もする法外な価格の実戦的とは言えない兵器)が売り込めることになります(事実上はアメリカの経済破綻の救援資金=ヤクザノのみかじめ料なのですが…)。

同様ながら、とうとう韓国も「終末高高度防衛(THAAD)ミサイル」=発射されたミサイルを迎撃する高額兵器をいやいやながらも受け入れたのです。

古典的手法ながらアメリカの軍産複合体にとっては北朝鮮あっての商売であった事が良く分かります。

この南北対立(古くは東西対立)を利用し、絶えず危機感を煽り、防衛を強く意識させることをもって、軍事産業が生き延びていると言う側面を見ておかなければならないのです。

ただ、相互のエスカレート合戦は、何時しか暴発へと向かうもので、それさえも定期的に戦争をせざるを得ない米国にとっては織り込み済みのシナリオなのかも知れません。

そうした中、敬愛する副島隆彦氏から3分ほどの短いものながら重要なメッセジが流されています。

 
sp119-2

 

勿論、「これは予言であり予言は外れることがある」とは言われているのですが、要は、来(2018)年四月に米国海軍、空軍が北朝鮮を攻撃し、併せて同時的に中国軍が北に侵入し金正恩(キム・ジョンウン=김정은)を捕縛するか殺害するかし、金正哲(キム・ジョンチョル)と挿げ替える(北朝鮮と言う国家は残す)可能性がある! と言っておられるのです(誤りがあるとご迷惑になるのでユーチューブでご確認を…)。短いものですので是非お聴き頂きたいと思います。


副島隆彦氏は、実質的に唯一トランプの勝利を予測できたジャーナリストであり、その洞察力の深さには感銘していますが、来年四月前後をさらに注視する必要があるでしょう。

戦争とはやらないと見せかけておいてやるのが普通であって、年度末のバタバタに追われる人々には所詮不意打ちになるかも知れません。

私には中国軍の旧瀋陽軍管区、現第五戦区が容易には習 近平によって平らげられないと考えていますが、もしも中国軍が=人民解放軍が国境を越えれば、北朝鮮は躊躇なく北京に向けて核ミサイル攻撃を敢行すると考えていますのでどうなのでしょうか?

以前、スポット095 朝鮮半島が北主導で統一される!20170224 を持って半島問題を取り上げましたが、再び掲載しておきます。

個人的には、この実質的に野放しとなった独立国家北朝鮮を、列島の防衛、対米独立、対中対抗のために裏からロシアと手をくみ、今後も継続されるであろう中国の横暴と経済破綻に備えるべきと考えるのですが、この腐りきったアメリカに富を強奪され続ける列島権力がどうなろうが所詮は金持ち共の持ち物なのですからむしろ潰してやりたいと考えるこの頃です。アメリカが潰れれば独立でき中国に対抗できる。

私の考えは既に以下の二稿で明らかにしています。

スポット109 列島(劣等)民族の今後の生き方について“東芝が嵌められタカタも食い物にされた”①

スポット111 列島(劣等)民族の今後の生き方について“東芝が嵌められタカタも食い物にされた”②

列島(劣等)は軍事産業に戻し幕藩体制化の様な新型のアウタルキー経済に戻すべきと考えています。

再掲)スポット095 朝鮮半島が北主導で統一される!

20170224


経済破綻から、さらに深刻な国家的消失へと進みつつある韓国(南鮮)ですが、一昨年の年頭以来、“北朝鮮主導により半島が統一される”という話がネット上では静かに流れていました。

 他にもありますが、まず、中丸女史によるものが代表的でしょう。

明治天皇の落胤系の孫にあたる国際政治経済ジャーナリスト中丸 薫女史ですが、15年の冬に福岡市内で一度お目に掛かる機会を得て一言二言お話ししたこともあります。

ネット上の有名人のお話しながら、半島情勢に関しては聴いた当初の段階では耳を疑ったというのが正直な実感でした。

ただ、サムソン危機、韓進海運倒産、大宇造船危機、朴政権の事実上の崩壊(オンエア時点では韓国の事ですから、弾劾か)…と、ここに来てその現実性、信憑性が急速に高まりつつあるように思えるのです。

 
sp119-3

元々、年から年中嘘をつき続け手のひら返しを繰り返しているような大陸人と半島人に対しては、敬遠(敬じながら遠避けて)し一切手を出さないのが肝要…と思い、考える事さえ避けていると言うのがこの間の正直な感想でした。

しかし、非常に突飛な話に思われるとは思いますが、歴史とか国際政治といったものには裏の裏にまた裏があり、その奥にも隠し袋があるというのが本質なのです。

恐らくそれを読み解かなければ真相は全く見えてこないのであって、近畿大和朝廷が奈良に始まったとか、邪馬台国が奈良にあったなどと信じ込まされておられるような方々には、凡そ死ぬまで真相の一部にも辿り着けないまま潰え去って行かれるだけなのであり、その点、現実の国際政治も古代史、神代史と同様なのです。

まず、鉱物資源に恵まれるものの半島の辺境に閉じ込められた人口2500万人の北朝鮮(北韓:呼称などどうでも良い)など現在の米軍の力を持ってすれば一週間程度で制圧できるはずであるにも関わらず、ソ連邦崩壊から36年を経過してもどうして存続できているのかという問題を考えておかなければならないでしょう(実体はCIAの管理下にある)。

恐らく米国が必要な時には直ちに役に立つ切り札、手駒として温存させているという事が真相ではないかと考えています。

まず、ソ連邦崩壊後も半島の緩衝地帯(Buffer Zone)として存続させておくというメリットは直ぐに想像する事ができます。

直接的には何時崩壊しても良いようにと設えられた予防的な難民の収容所として存続させられたというのが実態だったと考えています。北朝鮮は人為的に残されたのであり、

だからこそ、朝鮮戦争において北京まで進むとしたマッカーサーは解任されたのです(馬渕大使)。

では、兇悪危険国家北朝鮮が存在している事によってどのようなメリットがあるか考えてみて下さい。

米国は人為的に北朝鮮を残す事によって、アメリカの存在感(プレゼンス)を維持し高める事ができる上に、ならず者国家北朝鮮の存在は、日本、台湾、韓国などを対象に、アメリカ製の一世代前の兵器を法外な値段で在庫一斉処分ができる事になるのです。

それでも“核兵器を持たせているのは余りにも危険極まりない選択ではないか?”と思われる方がおられると思います。

しかし、質と量から考えてアメリカ本土に対しては問題のないレベルでしかなく、たかだか列島の一部が焦土と化す程度ならば米国にとっては許容範囲である以上に、もしも、北朝鮮と米国との水面下において密約が成立しているのであれば(北朝鮮は元々米国によって許容されていると中国は理解しているはずです)、その核ミサイルは米国ではなく北京を直接狙っているとも考えるべきなのであり、事実上、かつてキューバに置かれたソ連製ミサイル同様の物が北朝鮮による限度付の偽ドルで維持されていると考えれば、朝鮮人民軍とは事実上中国に向けられたアメリカの傭兵部隊でさえあると考えられるのです。

正に、米中露韓日の鬩ぎ合いに生じた空白に秘密の構造が成立している事に戦慄を覚えるのです。

既に、長期的には中国の方が危険なものであって、いつでも利用できる ならずもの国家としての北朝鮮(北韓共産集団)の存在とは、ISISを使ってシリアを我がものにしようとしたヒラリーの事を考えれば、同様になお利用価値のある人工国家とまでは言えるのです(もちろんこれはトランプ登場以前の話であって、現在では大きな変化が起きている可能性は十分にありますが…)。

普通には経済制裁による禁輸措置によって石油を止めさえすれば北朝鮮はたちどころ行き詰まるなどと思われているかもしれません。しかし、実際にはそう簡単な構造になっている訳ではないのです。

それは、中国軍内部にも事実上の軍閥に近い分裂構造が存在している事を見なければならないのです。

そもそも、内モンゴルには大量のモンゴル系民族(実は人口的には二割以下)が存在しているように、北朝鮮と国境を接する中国側にも多くの朝鮮人が住んでいる(吉林省延辺朝鮮族自治州40%、吉林省長白朝鮮族自治県)上に、漢族とは異なるツングース系民族を大量に抱え込んでいるのですから、朝鮮族を含む非漢族は中国軍内にも深く浸透しており(かつての間島パルチザンならぬ馬賊、満州匪賊…がその後の瀋陽軍区の中核部隊となった)、仮に中国(習近平政権)が北朝鮮を攻撃しようとでもするならば、北朝鮮の核ミサイルが目と鼻の先の北京に直接打ち込まれる上に、旧瀋陽軍管区が北京の要請を聴くかどうかは極めて疑わしいのです。

そこで、瀋陽のトップであった徐才厚(ジョサイコウ)が四川省に送られ病死させられ、一旦は牙が抜かれたように見えるのですが、それで習近平政権が安定したとはとても言えないのです。

もしも習近平が本気で北朝鮮への制裁へと動くならば、旧満州としての瀋陽軍区と北朝鮮との連携が一夜にして形成され、昔の高句麗にも似た巨大な北方勢力が反習近平で対抗し、北朝鮮の核ミサイルは北京へと打ち込まれる事も覚悟しておかなければならないのです。

これと対抗するはずの中国の核は、遠いハート・ランド四川省成都周辺に展開しているため、直ちに反撃できる構造でもないのです。

sp119-6 2016.10.10 01:00更新

【野口裕之の軍事情勢】

反習近平派の拠点、中国人民解放軍「瀋陽軍区」が北と通じてクーデターを計画している!

sp119-7  北朝鮮の核ミサイルはワシントンや東京を狙っているとは限らない。北京も含めるべきではないか。一方で、小欄の目には北朝鮮と中国の国境が映らなくなっている。「対立する北朝鮮と中国」「中朝一体化」という一見矛盾する情勢のナゾ解きが、今次小欄のテーマ。ナゾ解きは衝撃的な結末を迎える。旧満州東部からロシア沿海州南西部、つまり朝鮮半島に接する中国側は李氏朝鮮時代(1392~1910年)以降、多数の朝鮮人が移住した。深い森林でおおわれ、朝鮮総督府の支配も届かず、無頼の朝鮮人や支那人の匪賊・馬賊の格好の根拠地となった。越境して朝鮮半島北部(現・北朝鮮)の町村を襲撃、無辜の朝鮮人らへの略奪・殺戮を繰り返した。絵に描いたごとき無法地帯であったのだが、「無法地帯」は現在も変わりがない。ただし、支那人の匪賊・馬賊は中国人民解放軍になり、北朝鮮襲撃ではなく、逆に武器・エネルギー・食糧・生活必需品を密輸し、支援している。国連や日米韓などが北朝鮮に経済制裁を科している状況をよそに、密輸とは不届き千万だが、中国人民解放軍が制裁の動機である北朝鮮の核・ミサイル開発まで支援しているという観測が、安全保障関係者の間で流れている。現下の厳しい制裁にもかかわらず、なぜ北朝鮮が経済力を保ち、核・ミサイル開発の技術的向上を続けられるのか?なぜ金正恩指導部が強気の姿勢を転換しないのか?この観測で説明できる。

 「朝鮮半島の非核化」を進めたい旨を公言する習近平・国家主席はウソつきということになるが、ウソをつかせる複数の要因が存在する。例えば、そもそも人民解放軍は、軍中央の支配が届きにくい半ば独立した軍閥。従って、習主席に逆らってでも北朝鮮を支援したい軍閥と、習主席に忠誠を誓う軍閥に大別される。背景には利権と政争が薄汚く絡み合う。北朝鮮の核・ミサイル開発を阻止するには、北を支援する中国人民解放軍を習近平派の人民解放軍が掃討しなければ、決着がつかぬやもしれない。中国国内で、内戦が始まるのだろうか。


経済制裁、天候異変、洪水、経済の専軍政治化…といつでも瓦解しそうな報道が繰り返されるにも拘らず、しぶとく生延び、核ミサイル開発を継続する北朝鮮の存在は、奇妙を越えて既に米国の承認を得ていると考えてこそ理解できるのであり、表面の話とは別に、したたかな暗闘が存在していると考える方が正しいようです。

そもそも軍区を変更した中国の事情にも、習近平に対抗し独自に動こうとする旧瀋陽軍管区を脅威と考えていた節があるのですが、もしも中国経済も瓦解し、かつての黄布族の乱のような内戦状態になれば、この5戦区(旧7大軍区)も含めた軍区ごとに割れた軍閥割拠といった事態になりそうな気がしています。

また、韓国経済の崩壊によって親北韓政権が成立した場合には、北からの南進や中露が絡んだ連邦制や信託統治を含めたさまざまな変化が訪れる可能性を見ておく必要もあるでしょう。

今後は全く予測が着きません。まさか!何が起ころうとも再度の日韓併合だけはやめるべきでしょう。

さて、話は変わります。“弱腰のオバマと違ってトランプは中国に本気で立ち向かうであろう“とか、ヒラリーが勝つべきであり、勝つとしか考えていなかった安倍が手のひらを返したようにトランプとの蜜月ぶりをアピールしたのはまだ記憶に新しいと思います。

就任予定のトランプは台湾の蔡英文総統と電話会談し、1979年に国交断絶をして以来の「一つの中国」の見直しでもするかのように装い、中国も激怒して見せたのですが、同じころ、トランプの新たな庇護者となったキシンジャーは習近平と密かに会談していたのでした。

そして、トランプは“「一つの中国」を守る”とのキッシンジャー風のメッセジを送り、国際的なトランプ支持派、ヒラリー支持派を翻弄し手玉に取るような動きを見せているのです。

今後もどのような変幻自在を見せるかは分かりませんが、恐らく、埋め立てが完了した南沙を攻撃すると脅しを掛け、巨大な埋蔵量が確認されている海底油田への支配権を握る事が目的なのでしょう。

アメリカにとってはちゃちな中国海軍など苦も無く捻る事ができるのですが、大きな問題もあるのです。

それは、もしも中国と海戦から全面戦争と拡大すると、米軍では核を使用しない限り手におえない陸上戦に持ち込まれて人を人と思わぬ人海戦術で泥沼に引き込まれるため、結局、米中衝突には至らないと言う避ける事のできない筋書きが存在するのです。

結局、南沙についてはこれ以上触れさせず、近づけさせないとして…将来的な石油資源を確保しよう(開発させない事も含めて)と言うのが米国の思惑なのだろうと考えるのですが、南シナ海での米中激突といった衝撃的な宣伝自体がカモフラージュである事も見ておかなければならないのです。してみると、台湾の蔡英文と安倍は前座として利用されただけのピエロだったという事になりそうな気がしています。

既に、ダビデ=デイビッド・ロックフェラーの後継となったキッシンジャーは、再度、親中派(実はマキャベリストの等距離外交派)の小沢を担ぎ出そうと、既に安倍降ろしが始まっているのではないかと思えるのです。まず、森友学園を巡る動きが何故唐突に生じたのかも考えて見るべきでしょう。

かつて小沢と袂を分かった小池がどう動くか、情報に操作されるB層はどうにでも操れると尚も考えているのです。そういえば、電通が何故叩かれているかも考えてみるべきでしょう。

まあ、米中戦争を考え地球人口の五分の一化を考えていた節のあるヒラリーによる南沙攻撃は老後の楽しみとして面白いものだったのですが、既に、自然破壊が極限まで進んだ列島には愛国心など持っていない事からどうなろうが知った事ではない…とまで思うこの頃です。


南シナ海には、豊富な天然資源があるとされ、中国、台湾、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、ベトナム、インドネシアがスプラトリー諸島(南沙諸島)などをめぐって、7カ国が領有権を主張している。また東シナ海においても、日本、中国、台湾が領有権を主張する尖閣諸島 (中国名:釣魚島)付近でも、石油の埋蔵が確認されている。中国メディアは4日、中国海洋石油総公社(CNOOC)の李緒宣研究員が、「南シナ海の石油埋蔵量推定値が230億トンであるとし、『第2のペルシア湾』だ」との見解を明らかにしたと報道した。2008年の中国政府の調査では、中国内の石油埋蔵総量は246億トンと発表されており、南シナ海の推定値は、現在の中国全体の原油埋蔵量とほぼ同量といえる。この海底資源を争って、周辺各国が権利主張を行っている。

一方、東シナ海の尖閣諸島問題に関して、台湾の馬英九台湾総統が「中国、日本、台湾が尖閣諸島の領有権を争う真の理由は、大量の石油埋蔵のためだ」と語ったと台湾メディアが4日、報じている。

1969年から70年にかけて国連が行った調査では、東シナ海の海底油田の石油埋蔵量は、約1000億バレル(約150億トン)とされており、世界第2の産油国のイラクに匹敵する量だ。

sp119-8
による

452 三味線十万丁

$
0
0

452 三味線十万丁

20170212

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


452-1桂米朝全集のどの噺だったかは覚えてないので不正確ではありますが、明治の初めには関西から阿波辺りまで三味線が十万丁もあったといった話をされています(どの噺だったかが分からないのですが、調べるには百題からの話を聴かなければならないのでここでは省略します)。多分、「軒づけ(カドヅケ)」だったような気がしています。

CD、レコードの無い時代の事、宴会、接待は商家の営業の一環であり必要な時にはいつでも音曲を用意できるようにと家人に三味線、鐘、太鼓を打てる者を置く必要もあったのでした。

このため、商業の中心地であった大阪では、読み書きそろばんにとどまらず、商家と言わず家主と言わず、一般の職人の子弟でさえも習い事として三味線を習わせれば、それだけで大店に勤められる可能性を高めると言った習わしがあったようなのです。

 勿論、浄瑠璃、長唄、常磐津、清元、義太夫、新内節、小唄、端唄、座敷歌…(今さらながら魅力的ですね)と言ったものが大流行していたのですから、三味線が大量に造られたのは当然ですし、町屋の辻ごとに一人ぐらいは三味線を弾ける人がいて、ちょっと歩けば、方々にお三味線の師匠(オッシサン)が居てオシャミの音が聞えていたことになるのです。

 今や、三味線を弾ける方を探す事はかなり難しいことはどなたもお分かり頂けるでしょう。

 私も、今、現在、三味線を弾ける人を教えてくれと言われてもとっさに浮かぶのはお二人しかおられません。

 しかし、中学の頃までは、隣に住まれていた小学校の女性教師(隣の家のおばさんですが)が三味線をお持ちで、時たまその音が聞えていた記憶を持っており、まだまだ、四、五十年前まではそういった名残が感じられている時代だったのです。

 してみると、明治から昭和の初めの頃までの三味線、十万丁とは驚くべき数字であった事が理解できて来るのです。

 落語の出囃子、お囃子に三味線、太鼓がある事は当然ですが、落語というか寄席の芸能の一部としても、数少ない音曲師という限られた領域が存在(例えば、うめ吉さん)しており、その辺りから米朝師匠も、その十万丁という数字を三味線職人組合とか問屋筋(そんなものがあるかは不明ですが)などからお聴きになっていたのだと思うのです。


452-2


銭儲けこそが最重要の商都大阪において、読み書き算盤ではなくこういった芸事に多くの人々が参加し、街角のあちらこちらで、トテチン、チリトテチン、ベンベン…とやっていた事を思えば、A○B4○と言った他愛もないものに狂奔する馬鹿げた世相には怒りから情けなさを禁じ得ないと言ったところです。

 とりあえず三味線、小唄のお師匠さんからのお稽古事といったものから話を始めたのですが、ここ五十年ほどで、ピアノ、ヴァイオリン、社交ダンス…はともかく、琴、日本舞踊、お茶、お花、習字、算盤、…といった習い事、お稽古事といったものが消失し始めている事に気付くのです。

 ただ、役人の中では武家の作法として静かに継続している謡(ウタイ)=謡曲だけはそれなりに続いているのは昇格と天下りのためでしょうか?

 そう思って、これらの現象がいつ頃から始まっているかを考えはじめました。

知り合いの書道家から聴いた話によると、“二十年前までは書道教室の生徒数百人を数え、親父と二人でやっていれば無理をしなくても左うちわで暮らせた“と言っておられる事を聴くと、どうやら、こういった必ずしも実利的ではないお稽古事、習い事産業が、ここ二十年で劇的に縮小しているのではないかという事に気付いたのでした。

原因は、中曽根による国鉄民営化(1987年)~バブル崩壊(1995年)、日本の国富を米国に売り飛ばした売国奴小○、竹○改革以外には無さそうです。

この頃から日本人の生活は急速に苦しくなり、若者にはまともな職がなく、薄汚い土建屋、産廃業者といった金持ちのドラ息子ドラ娘だけが裏口入学し、大手企業にコネだけで裏門就職してベンツを乗り回し、貧乏ながらも真面目に勉強した国立の理工系の優秀な学生がパチンコ屋で働かなければならないはめになり、まともな家族が創れない事から結婚を避け、一気に少子化、少産化、無婚化に走ることになったのでした。

結局、中曽根~小泉~安倍に至る歴代米国従属政権の中で日本に蓄積された膨大な富が色々な方法でユダヤ金融資本に吸い上げられ、貢がれ、その間に多くの国民が犠牲になり、優雅な習い事、お稽古事葉おろか最低限の教育への投資さえも削り尽くし、世界に冠たる独特の伝統文化から教育水準を維持する現代版寺子屋(公教育は壊滅していますので)としての学習塾などへの教育投資も絞りつくし必死で生きている国民経済、国民文化の衰退を図らずも発見した次第です。

こんなことを平気でやっている行政権力に対して、何の批判もなく尾を振って取り入ろうとするようなさもしい3K宮司のような方々に、古代史の真実とか九州王朝の探究と言ったものが凡そできるとは考えられないのですが、話が逸れてしまいますので削除も面倒ですので引き戻す事にしましょう。

では、少し古い記事ですが、ここで、日経ビジネスをお読み下さい。

「レジャー白書」が正確かどうかはともかく、如何に正確な調査を行うかは国家の任務ではないのであって、国民の富と国民の生活と国土を防衛する事のできない(する意志が全くない))分析は寂しいだけの事なのです。


452-32009122日(水)


静かなブームの裏で進む担い手の減少 誰が「和文化」守り、楽しむのか

上山 信一,山高 一雄,ハイ 明恵


 神奈川県川崎市の公共施設、一般にも広く貸し出されているこの茶室に毎月1回のペースで集まってくる6人の女性たちがいる。彼女たちは名づけて「先生難民」だ。全員が、数年から10年以上「裏千家」でお茶をいそしんできた。ところが、昨年6月、自分たちの先生が高齢を理由に引退してしまった。次の師匠が見つからず、自主的にお茶会を催すことになった。

 主催者の石塚晶子さんは、小学館が発行している和文化を中心としたライフスタイル月刊誌「和樂」の編集幹部でもある。「先生が引退しても次の先生が見つからず困っている難民が増えているようだ。運よく次の先生が見つかってもその人も高齢というケースも少なくない」という。「和」文化の象徴でもある茶道が象徴するのは、指導者の高齢化による担い手の減少だ。

 このところのヒット商品では、一見「和」がブームである。緑茶や「和スイーツ」など日常生活の中でも和のテイストの商品が溢れる。ホテルなどでも和風の装いの部屋が人気を集める。「和」文化ブームは国内だけではない。米国ではスシや緑茶がブームだし、古い例ではアロハシャツがある。これはハワイ移民の日本人が日本の着物を子供用のシャツに仕立て直したことに由来する。

 しかし、ブームになっている「和文化」は実はホンモノの「和文化」ではない。あくまで「和風」でしかない。華道、茶道、和菓子、琴、柔道、剣道、書道など日本の伝統文化は衰退の一途をたどっている。今回は「和文化」の産業モデルの再構築を考える。

書道や剣道は小中学校で習うのに、沈む「和」産業

 「和文化」の全体を市場として捉えたデータは見当たらない。だが和文化関連のおけいこ事、趣味の市場の規模はわかる。例えば、茶華道は約1870億円、書道が約800億円、邦楽が約820億円である。(日本生産性本部『レジャー白書2006

 参加人数は減少しつつある。例えば囲碁、将棋、武道、邦楽、書道、お茶、お花、おどりなどの参加人数は1998年から2006年の8年間におよそ20%も減少した。(同)


452-4

スポット120 緊急リポート 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の古代官道と勅使門”

$
0
0

スポット120 緊急リポート 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の古代官道と勅使門”

20170916

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


一昨年は単独行で日本海沿いに山形の手前まで主要な神社を見てきました。また、昨年の11月には、百嶋神社考古学の研究拠点の一つである茨城県常陸大宮を基地に周辺の埼玉、茨木、栃木、福島の各県の神社に訪問し、取って返して山梨市から富士五湖の周辺の神社を踏査してきました(富士吉田市にも調査用の居留地が確保されていますので)。

現在、熊本、福岡両県に続き、仮称)大分県神代史研究会を軸に大分県下でも神社トレッキングを続けていますが、今のところ月例で国東半島全域の神社調査を行っています。

これとは別にトレッキングの延長上ながら個人的な作業として西日本全域の神社探査も継続して行っています。この複数の過程で非常に重要な「勅使門問題」に気付くに至りました。

まだ、十分には掘り下げてはいませんが、まずはこの重要な事実に気付いて頂き、全国の真面目な研究者の皆さんに検討、批判を深めて頂きたいと提案するものです。

勿論、藤原一族、近畿大和朝廷によって隠され続けて来た歴史ですから容易には復元できません。

学会通説派は元より、九州王朝論者にあってもアカデミズムに毒された方々はせせら笑う事でしょう。

しかし、事は1500年も前の話であり元々完全な復元ができるはずもはく、「古事記」の95%が嘘だと言い切った故)百嶋由一郎氏を信奉する人々の中からしかこのような事実には気づくはずはなかったのです。

普通の古代史探究者の方々は、ただひたすら文献史学の立場から繊細に(細々と)「記紀」の欠陥を追求し真実らしき痕跡を追求するしかないのであって、元々、都合の良いように藤原が造っただけのただの虚構の書でしかないものを精査する事にどれ程の意味があるのかと思わざるを得ないのです。

ここで重要なのは、九州王朝の存在を追求する者にはその大凡のアウトラインが分かれば良いのであって、まずは、そういった観点でお話を進めたいと思います。

話は数年前にまで遡ります。過去何十回と訪れている大分県の国東半島ですが、姫島正面の伊美別宮社~岩倉社~岐部神社~…と九州王朝系の高良玉垂命と若宮社が脇殿として抱く神社が並んでいます。

その中でも、岐部神社にあまりにも立派すぎる神殿への脇門が造られている事にようやく気付き不思議に思っていました。


sp120-1


これは橘一族(紀氏)の石清水八幡宮国東別宮、伊美の別宮社の神殿内摂社 左)高良社、右)若宮社


さらに、今年になり国東半島の付け根と言うべき豊後高田市の若宮八幡社に豪華この上ない勅使門風の神殿への脇門を見出すに至り、今回の但馬の朝来市に勅使門を持つ神社が二社存在している事の対応に気付いたのでした。

このようなものも、何度も訪れて初めて気付くもので、そう言えばあそこにもあったと思うようになりようやく気付くものなのです。


sp120-1


そして、今回の但馬の粟鹿神社と赤淵神社の勅使門を見るに及ぶや、これは近畿大和朝廷に先行する九州王朝の勅使門の痕跡ではないかと考えるようになったのでした。

今般、丹後、丹波の神社踏査に続き、但馬でも朝来の調査に入ったのですが、新たに兵庫県朝来市の二社に九州王朝の時代としか考えようのない勅使門を確認した事から、改めてこの重要さを認識し全国の皆さんに関心を向けて頂きたいとお知らせしようとするものです。以下は赤淵神社の石碑文です。


仰 赤淵大明神 人皇始以来第九代開化天皇御代也 是時皇子四道将軍祀彦坐王 是粟鹿大社之流也 彦坐王為但馬國造子孫代々國造而 司神事執行政務開 拓國土劃治水振興農業以愛民生偉業烈烈恩澤普及 自是營一祠祀歴代國造赤淵 大明神是也

號日下部表米宿禰命 赤淵宿禰五世孫而忠功有奉聞 丹後丹波但州三箇國可為 守賜宣使本國也

因在所窮見給枚田郷内高山麓淵有之淵尋赤淵云 平城守東向赤淵大明神奉祝之 宮也 赤淵神社合祀久世田庄勘納岡表米明神奉祝 然而惣名日下部姓始祖神表 米御子在所分附給 朝倉 絲井 奈佐 日下 八木 本山 太田垣 宿南 姓 是也 属者尊崇殊厚是皆在所名也 日下部表米流丙与繼為子孫不依上下男女可奉 仰 昭和四十五年三月二十七日赤淵神社為國重要文化財 枚田郷赤淵神宮司佐 宗氏同郷地頭枚田氏始氏子連之厚思奉謝 茲来裔氏旌考證家傳祈念之建碑傳永 世者也 -赤淵神社境内石碑-


ここには、9代「開化天皇」の名が出てきます。「百嶋神社考古学」では高良玉垂命その人なのです。


sp120-4


左)同社由緒  右)境内の石塔と急遽大阪からお呼びした内倉武久(元朝日新聞記者)氏


青枠の「常色元年」が九州年号である事がお分かり頂けますね…従ってこの時代に使われた九州王朝の天皇の一族とその勅使だけが使える門であることが推定できるのです。

なお、勅使門の問題には踏み込んでおられませんが、古田史学の会の古賀達也氏により、この赤淵神社の九州年号「常色」についてブログ5本(実質2本)で検討を加えておられます。

1. 636 2013/12/21 1ドルの『邪馬壱国の証明』の邂逅 791話 2014/09/24 所功『年号の歴史』を読んで(3)697 2014/04/22 『古代に真実を求めて』17集の採用稿 第690話 2014/04/06 朝来市「赤淵神社」へのドライブ 古賀達也の洛中洛外日記 '14  以上。


古賀氏も一度は現地を踏み、九州年号の「常色」について取り上げられておられますが、残念にもこの勅使門の存在のあまりにも大きな重要性についてはお気づきになっておられないようです。


九州王朝の古代官道


九州王朝の古代官道については、神社調査の中で 「車路」「車地」…地名に関しては九州島以外でも何度か遭遇していますし、福岡県大牟田市の「駛馬」地名や宇佐神宮の「駅館」地名にしても近畿大和朝廷の付したものではないと考えてきました。


sp120-5


詳しくは「ひぼろぎ逍遥」のblogを読まれるとしても、この事を強く意識したのは宇佐神宮の「勅使道」問題でした。

 誰がどう考えてもおかしいと思うのが宇佐神宮への勅使道であり、東からやってくるはずの近畿大和朝廷の勅使がどうして宇佐神宮から西にしか伸びていない勅使道を使うのか…との疑問が消えなかったのです。それが、当時「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)に宇佐神宮リポートを書いた動機でもあったのです。


sp120-6

sp120-7


ご覧の通り、宇佐神宮の脇から寄藻川を跨ぐ呉橋を渡り、西(北西)に延びているのが勅使道であり、同じく呉橋を持つことで有名な薦神社(中津市)を経て、豊前市の大冨神社(勅使井戸を持つor金富神社へと西へ西へと延び、採銅所のある香春神社を経て宇佐の元宮とも言われる飯塚市の大分八幡宮から米の山峠を越え太宰府、小郡、久留米(恐らく大善寺玉垂宮)へと延びていたものと考えられるのです。

こんなものが近畿大和朝廷が造った勅使道であり、それを使用していたなどと言うのは大嘘と言うより、ほぼ漫画に近く、事実、道鏡事件(宝亀3年 772年)の和気清麻呂は宇佐神宮の東で寄藻川の下流に鎮座する梶鼻神社の船繋石に舟付し上陸しているのです。


sp120-8


当初、呉橋は勅使道に掛けられていたもので、そこ(宇佐)が終着点ではないかと考えていました。

しかし、紀氏の牙城であり、九州年号を持つ石立山岩戸寺などがある六郷満山の国東まで勅使道が延びていなかったなどと考える事が土台大きな誤りでした。

当然、宇佐神宮を越え、仏教王国の国東まで勅使が行っていたと考えておくべきだったのです。

 これらの事実を知っていたことから、この但馬(兵庫県北半部)の勅使門も元々は近畿大和朝廷のものではない…と徐々に理解が及んだのでした。

九州の「風土記」は良く知られていますが、遠く飛んで「播磨国風土記」が存在します。

当然、ここにも初期の九州王朝の植民国家と呼ぶべきものが存在していたはずなのです。

一方、赤淵神社の元宮とも言える粟鹿神社の由緒を見ると、天武から後宇多天皇までの間に三度の勅使の派遣記事が書き留められています。では、それ以前はなかったのでしょうか?

恐らく、継体天皇の25年(531)年の創立という古い神社である事から(勿論、「二中暦」など九州年号の一部には継体があるものもあるのですが)、776年になって勅使門が造られ、以後、二回勅使が派遣されたと考えるのは間違いでしょう。


sp120-9


赤淵神社「伝説」(パンフ参照)にある新羅からの侵攻を受け半島情勢が緊迫している時期に
sp120-10こそ勅使は派遣されているはずであり、それ以前にも勅使が送られていたと考えられるのです。

 今、考えを思い巡らせているのはこの但馬の国の性格についてです。

 まず、豊岡市、養父市、朝来市の三市とは、福岡県の遠賀川河口の岡垣町の豊の岡の意味であり、養父市も肥前国(現佐賀県鳥栖市)の養父郡の置換え(現鳥栖市養父町)であり、朝来市も筑前国の朝倉郡(現朝倉市朝倉町=朝来町)の置換えなのです。

 その上、但馬の国とは現在の宗像大社の鎮座地である福岡県宗像市大字田島そのものなのです。

 さて、故)百嶋由一郎氏は、“九州王朝は但馬の国に逃げています”“但馬には九州の地名がゴロゴロしていますし、現地では九州の言葉が話されています…”“その九州王朝を支えたのは橘一族です”と言われていました。

播磨も同様ですが、兵庫県の北半部の但馬地方の地名を見ると、半分近くは九州の地名ではないかと思えるものばかりが拾えます。

その事を強く意識したのは養父市の市役所の傍にある「朝倉」という地名を見た時だったのですが、浅井朝倉連合軍で知られた朝倉義景の御先祖も、敦賀に入る以前はこの養父(養父市屋岡)に居たのであり、弟の小佐氏(小佐も福岡市の日佐=オサですね)に譲り敦賀に進出したのです。

多くの地名はご自分で調べられるとして、これらの地名が713年の所謂「好字令」以降の二字の好字の地名である事から、どうやら九州王朝が滅亡する切っ掛けとなった白村江の戦い(白江戦)前後からの動乱、701年の九州王朝滅亡、749年の九州王朝の宗廟を宇佐に譲る(「高良玉垂宮神秘書」)の時代に追い詰められた九州王朝が、近畿大和から最も遠い場所に避退したのが但馬への移動だったのではないかと考えています。

何故ならば、海路が全てであった時代、仮に奈良大和から難波へさらに瀬戸内海を渡り関門海峡を抜け、遠路日本海側に倍の航路を移動しなければ到達できない但馬の地こそが安全な地であり、それは但馬の真裏に形成された平安京成立(794年)まで続くのです。

つまり地名と政治情勢から考えて、701or713年(好字令)から794年までの間に元々九州王朝の重要な経営拠点であったと考えられる但馬へ避退したものと考えられるのです。

この間、養父市大屋町の御井神社(養父市を中心に10社程度)=久留米市の高良山直下の御井町の御井を軸に調べて来ました。

朝来市(ここにも高良玉垂命と神功皇后の間に産まれた長子=仁徳天皇=斯礼賀志命(シレカシノミコト)を祀る若宮神社が5社程度拾える但馬の最奥部の朝来市もさらに調査を進めるべきと考えています。

この朝来市を中心とするリポートも既に10本程度を書き上げていますが、掲載の順番もあり、来年の初夏以降になりそうです。

なお、但馬と九州北半部の地名対応に関しては六年前に書いています。

ただ、故)百嶋由一郎氏の添削が入っている事から調査を優先し棚上げにしていたことから公開していません。

このため、今後遅れ馳せながら公開したいと考えていますので、この点はご容赦願います。

ただ、詳細な地図を持って見比べれば直ぐに分かる事ですからご自分で試みて頂ければ良いだけです。

また、今後、但馬周辺の方のご協力を頂けると有難いのですが…。

既にメンバーの一部から、「赤淵~粟鹿神社ラインは南丹市(小)大淀比神社(式内)を掠め、麻気神社に繋がる」との連絡を頂きました。

一方、内倉先生からも直ちにコメントを頂きましたので公開しておきます。


古川さん「緊急レポート」の送付、謝謝。日本列島の古代史の真実をあばく いいレポートと思います。たくさんの人に読んでもらえればいいですね。

ただ、小生など全体像をつかんでいる者はよくわかるのですが、一般的な人が読む場合を考えれば、全体的にやや説明不足気味です。初めての人、知識不足の人が読んでも納得できるように書けば、さらに

いいレポートになるのではないかと感じています。以後、そのことに気をつけながら書いてください。重複もいとわずに。

書き手はわかっていてもほかの人が充分理解できるかは別問題ですよ。ついでですが、レポートの中にある「継体」という年号はありません。「継体天皇即位後25年」という意味です。機会を見て訂正されたらいいと思います。それと「式内社」というのは新しく誕生した大和政権にとって都合の良い、あるいは新政権に屈服した神社を顕彰した制度です。「古い歴史を持つ神社」ということではありません。もちろんそれはご存知のことだと思いますが、そのこともまたしっかり書いておかれた方がいいと思います。

小生のブログも大分読者が増えてきました。先週はなんと7000人を越える人が見に来てくれました。「関西における熊曾於と紀氏の足跡をさぐる」という表題に引かれた一時的な現象かもしれませんが、喜んでいるところです。

ちょい多忙なため、関東への調査旅行に同行できないのは残念ですがまたの機会に!うっちゃん先生


なお、継体天皇の25年という書き方の事は九州年号の継体の意味ではない事は理解していましたが、初稿は曖昧なまま書いていました。

以下、「新古代学の扉」の「九州年号総覧」古賀達也から一部抜粋。


継体  五 元丁酉 五一七~五二一    善記  四 元壬寅 五二二~五二五

                     (同三年発誰成始文善記以前武烈即位)

正和  五 元丙午 五二六~五三〇    教倒  五 元辛亥 五三一~五三五

                     (舞遊始)

453 荒津 様からのお尋ねにお答えして

$
0
0

453 荒津 様からのお尋ねにお答えして

20170213

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 愛知県にお住いの荒津という姓の方から“自分のルーツを探しており福岡市を訪れたいが…“という話が、百嶋神社考古学に関心をお寄せいただいている実質的なメンバーでもある愛知県在住のYさんを通じて持ち込まれました。

 まず、「荒津」という姓がそれほど多くない(全国でも500以下だろう…)ことは経験的に分かります。


453-1


これまで地名研究に携わってきたことからこの手の話は頻繁に入るのですが、まず、いつも利用させて頂いている「姓名分布&ランキング」というサイトから「荒津」姓の全国分布を見る事にします。

 結果は明瞭でした。この手のケースでもこれほど鮮明な結果が現れる事はなかなかありません。

 500件どころか、全体でも100件にも満たない姓であり、比較的判別の付く氏族である事が分かります。

 ご覧の通り、全国で79件中 ① 福岡県(福岡市東区~西区糸島半島東部) 54件 ② 愛知県(ほぼ渥美半島付け根の豊橋市一帯) 14件 ③ 兵庫県(神戸市長田区、灘区~) 3件…という分布を示しています。

 初見ながら、どのように考えても福岡県から兵庫県を経由し、紀伊半島を迂回し東海に進出した小規模ながらもかなり有力な小氏族である事が見て取れます。もう少し詳しく見る事にしましょう。


453-2

453-3


兵庫県に関してはご自分でご覧になって頂く事にしますが、これは、姓名の分布から見た全国傾向であり、今度は地名の分布を見て頂きましょう。

博多湾岸の「荒津」という地名に関しては、問い合わせを頂いた時から頭に浮かぶ事がありました。

それは、「荒津」、「荒江」、「荒戸」と言った地名が古代博多湾の湾奥、汀線、室見川支流の流域に分布しており、故)百嶋由一郎氏からも、“この「荒」(アラ)は、半島でも伽耶の安羅国の意味ですよ”と聴いていた事から、今回もその線で考えるべきであろうと言う予想を建てる事にしました。


453-4

まず、ごく大雑把に言えば、大濠公園の湖は古代の博多湾の「草ケ江」の名残なのです。

それを意味するのが「荒戸」という地名であり、「荒津」から「草ヶ江」への通路としての荒「門」であり、「草ケ江」の「草」も「茅」(実は朝鮮半島の伽耶)の置換えと考えられるのです。

模倣とされるのを嫌うため、勿論、設計者は認めないでしょうが、中国浙江省の杭州市にある名所中の名所である西湖を模して整備された事は明らかで、古代においても国際都市であった博多(福岡ではない)には、現在でも大博通(これも実は呉の太伯の大伯通りの意味と考えられる)も存在しているのです。

では、「荒津」姓に最も関係があると思われる「荒津」一帯で関連のある神社を調べて見ましょう。

「荒津」では一社だけ思い当たる神社があります。西公園の北に鎮座する光雲(テルモ)神社です。


453-5


そして、西公園の山も古くは「荒津山」と呼ばれていたそうですから、(地元の研究者からのアドバイス)「荒津」の地名の発信源がこの地であろう事は疑い得ないでしょう。


453-6


「福岡県神社誌」上巻(64p


 お分かりの通り、旧県社)光雲神社は黒田氏入府によって持ち込まれた神社ですから、荒津神社こそが元々古くからこの荒津の地にあった神社である事が分かります。

当然、境内末社の日吉神社も光雲神社との関係はなさそうですが、付近の住吉神社と併せて関係がありそうです。

 では、荒津神社の祭神を考えて見ましょう。神武天皇、大物主神、金毘羅神の三神となっています。

まず、百嶋神社考古学では、博多の住吉神社の祭神は中筒男命であり、その実体も、神武僭称第10代贈)崇神の事であって、当然、荒津の住吉もこの崇神(ハツクニシラススメラミコト)と考えます。

とすると、大物主神、金毘羅神が誰かと言う話になるのですが、大物主は「主」という尊称を使用している事から、恐らく博多の櫛田神社の主神である大幡主(「主」がありますね)の傘下の大国主命かスサノウ(こちらも同じく大幡主の傘下です)であり、金毘羅様も通説では大国主命とされますが、百嶋神社考古学では大山咋=日吉神社=山王社…としますので、その三神の一族と「荒津」氏は関係があるように思えるのです。

 ここで視点を変えて見ましょう。小規模ながら福岡の近世史にも「荒津」氏が登場するのです。

 場所は福岡ICに近い福岡市東部の糟屋の一帯で、「荒津」姓が集中する第二のポイントです(黄)。

 一部ではありますが、北九州市立自然史・歴史博物館の中西義昌氏の論文をご覧ください。


453-7


荒津氏が拠点としていたと思われる福岡ICのある一帯は、福岡市東部の多々良川の河口に近い場所で、あり、恐らく、古代には汀線に近いまさにウォーター・フロントといった場所であって、同時に、南北朝争乱期にも多々良浜の合戦が行われた要衝でもあるのです(戦国期にも激戦が行われています)。

この要衝に居た氏族となると、それこそ重要な中核部隊であり、同時に水戦にも長じた勢力であった可能性が考えられそうです。


足利勢は、筑前国宗像(現在の福岡県宗像市周辺)を本拠とする宗像氏範らの支援を受けて宗像大社に戦勝を祈願し、筑前国の多々良浜(福岡市東区)に布陣した菊池氏率いる宮方と戦うが、足利軍は約2千騎に過ぎなかった。兵力の差は歴然で、少弐貞経が足利軍のために調達した装備は菊池軍の大宰府攻撃の際に焼失していたため、当初は宮方の菊池軍が優勢であったが、菊池軍に大量の裏切りが出たため戦況は逆転し、菊池軍は総崩れで敗走し、阿蘇惟直は戦死した。    ウィキペディア(20170213 1909


当然にも要衝ですから、古くから多くの有力氏族がひしめき合っていたようです。

まず、八田はヤタガラス=豊玉彦系の氏族(白族)であり、猪野は現在も皇大神宮があるニギハヤヒ=山幸彦系の拠点でしょう。また、山田も大山咋=日吉神社=山王社…系統の氏族と思われますし、神武僭称贈)崇神天皇系統の氏族が展開していた様に思えます。

まだ、断定はできませんが、久原姓は桑原姓とかなりの重なりがある事から、「桑原」は桑の木を植え蚕を飼い生糸、絹織物生産に携わった人々が住み着いた場所に付けられる傾向があり、秦氏、豊玉彦(ヤタガラス)系統と考えて良いように思えます。

城戸氏も他の地域から類推すれば、橘諸兄の橘一族=豊玉彦系かも知れません。

宇美の神武(コウタケ)や桜井は、贈)崇神に続く事になる草部吉見系=春日大神=鹿島大神=武甕槌系と考えられ、恐らく阿蘇系(黎族)氏族で良いように思えます。

鎌田については「ひぼろぎ逍遥」202208 釜蓋 ①~⑦で書いた民族と思われ、知多半島にも展開した民族(恐らく漂海民のバジャウ)と考えていますので参考にして下さい。

ここまで見てくると、この「荒津」氏はどのような人々なのでしょうか?

朝鮮半島の安羅伽耶から進出してきた大山祗系(トルコ系匈奴)なのか、それとも大山咋系なのか、もう少し情報が欲しいところです。

なお、この久山~糟屋の一帯は交通の要衝である事から、現在でも、非常に交通量が多く、フィールド・ワークの絶対量が少ない事から、今のところ直ぐに結論を出せる状況にはありません。

久原地区だけでも、スサノウ系の須賀神社、天御中主系白山姫神社、乙宮神社(恐らく阿蘇系)、木寄神社(不明)…が散見され、フィールド・ワーク後に再度書く事にしたいと考えています。


453-9


参考 百嶋由一郎手書きデータ第1集より半島の「伽耶国」


453-10


数字は成立順を表しています


「荒津」さんは、愛知県名古屋市昭和区川名本町付近の方と聴いています。ここには延喜式内川原神社(別名川名の弁天様 川名本町4-4)があり、日の神、埴山姫神(土の神)、罔象女神(水の神)を祀っているようです。この点から言えば、「荒津」様もスサノウ系か大幡主系氏族である可能性はあると考えられそうです。勿論、いつも申し上げる通り、日本列島に住む人々は全て半島や大陸からの渡来系民族が融合し合ったものと考えています。それでは答えにならないため、ここでは伽耶の安羅から45(謎の世紀)世紀に進出してきた民族と考えられそうですが、現段階では一応、大幡主系の白族としておきます。

454 『ドイツ農民戦争』(エンゲルス)と「聖書物語」の世界

$
0
0

454 『ドイツ農民戦争』(エンゲルス)と「聖書物語」の世界

20170213

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


それこそ十年以上前に、「環境問題を考える」という近藤邦明氏のサイトのサブ・サイト「アンビエンテ」内の「有明臨海日記」という簡単なコラムに 『ドイツ農民戦争』(エンゲルス)とベネセラの反米政権 という妙なコラムを書いた事がありました。その全文は以下の通りです。

これについては、現在でも以下から「環境問題を考える」と言うトップ・サイトのサブとして読むことができます。


454-1


154 20061217 『ドイツ農民戦争』(エンゲルス)とベネセラの反米政権

 エンゲルスに『ドイツ農民戦争』というあまり知られていない著作がありますが、それでも『選集』はもとより、青木書店などの文庫本にありますので、かつては一般的な著作であり、その筋の人ならば、当然、読むべき指定図書であったはずなのです。
 もちろん、十六世紀、バイエルンを除く全ドイツで起こった農民一揆を描いたものですが、"チューリンゲンの指導者にトーマス・ミュンツアーがいると知ってマルチン・ルッターが日和った"という逸話も残っています。まあ、ルーテル教会のお偉方がなんと言おうが、ミュンツアーが民衆と死んだ革命家であり、英雄であったのに対して、ルッターは口先だけのくそ坊主でしかなかったということでしょう。

こんなものを崇めている連中の気が知れないばかりです。
 この『ドイツ農民戦争』には、現在でも存続するフーター派、メノー派を始めとする多くの再洗礼派(プロテスタント急進派)のセクトが登場し、その英雄的闘争の記録を読むだけでも面白いものです。


454-2


マルクスは当時の後進国であるドイツにおいても、農民戦争に側面支援された状況下ではプロレタリアートによる権力奪取が可能ではないかと想定していた(マルクスの「永続革命論」といわれるもので、後にトロツキーはこのエッセンスを永続革命論に発展させた)と言われているのです。
 かつて、南米はアメリカの裏庭と呼ばれ、多くの反米勢力はチリのアジェンデ政権を始めとして、何度となくCIAなどの非合法的工作(内政干渉)によって破壊させられてきました。
 「人口一千万人のチリで、一〇万人の党員を持つチリ共産党がアジェンデ政権を支え人民連合政権を樹立し、現在、社会主義を目指した平和革命が実行に移されている。日本の人口ならば、百万人の党員で同じ事が実現できる。」などととぼけた話をしていた某県委員長やそのエピゴーネンがいましたが(そのうち“不屈の百年”を祝う事になる「前衛党」さん 20170214、結果は一九七三年九月に軍部のクーデターによってあっさり倒されてしまったのです。こんな事は当たり前のことであり、その必然的帰結を予測し警鐘を乱打しつつ労働者の武装を準備するのが前衛党であったはずなのですが、まずは、このような指導部では、千年経っても労働者は解放されないとしか言い様がないでしょう。
 記憶に新しいところでは、ペルーはあの日系の虐殺者アルベルト・藤森によって、セルパを先頭とするMLTA(エムエルテーアー)の英雄的ロス・ゲレロス(ゲリラの複数形)が虐殺されました。
 現在、左翼が全面的な後退を見せる中、唯一、反米の幟を上げ支持を拡大するベネセラ(ベネズエラ)のチャベスは大統領選挙に三選勝利し、より一層、反米の姿勢を鮮明にしています。このような政権が、本来、永く存続できるはずはないのであり、アメリカの非合法活動によって、とっくの昔に潰されていても決しておかしくはないのです(一九九三年に成立した十七の少数政党によるカラカス政権を引き継ぐ形で、一九九八年にチャベスが大統領に当選)。
 しかし、その権力を維持できている例外的条件を考えると、ヒズボラのレバノン、ハマスのパレスチナ、そして、アメリカが勝利できない事が鮮明になってきたイラク内戦、再度復活したタリバンのアフガニスタンと、ブッシュが中東の蟻地獄に嵌り、事実上の十字軍的敗北に陥っているためと考えられるのです。
 イスラム原理主義を持ち上げるつもりはさらさらありませんが、彼等がやっていることは古い言葉で表現すれば、"民族解放戦争"であることは間違いなく、ここ百年あまり中東を自らの利権のためだけにズタズタに引き裂いてきたのは帝国主義諸国家(イラク、シリア、レバノン、イスラエル、パレスチナ、クエート、サウジアラビア・・・と好き勝手に分割してきたのはイギリス、フランス・・・、)であったのであり、正当性がブッシュにないことだけは確かでしょう。
 ほとんど真面目に分析などしていないのですが、このように、チャベスの権力は、マルクスやトロツキーが想定した、「農民戦争」に側面支援された擬似的「労働者的政権」という意味を持っているのではないかと思うこの頃です。
 現在、日本は勇ましくも愛国心の高揚を謳いあげ、憲法改正から新たな海外派兵へと向かおうとしていますが、本音を言えば、今後ともアメリカの十字軍と共に中東に釘付けになる事を願うものです(現在は航空自衛隊による「人道援助」だけになっているようですが)。そして、できるだけ早く無邪気にはしゃぎ続ける改憲派の馬鹿さ加減が明らかになり、大恥をかき、その失敗が明ら様になることを期待するものです。馬鹿は死ななきゃ直らない。どうせ日本を潰し植民地化した親米勢力でしかないのですから。 
 さしずめ、イスラム原理主義者による遊牧民戦争に側面支援された反米権力の存続のためには、今後ともブッシュ十字軍が中東に釘付けになり続けて欲しいと思うものです。 
 いずれにせよ、日本の愚かな外交がどうなろうが、関心は全くありませんし、働きかけをするなど思いもよりません。アラー・アクバル!

 皆さん、今後ともアメリカの海外戦略に全面的に乗せられ、日本民族の誇りも忘れた改憲派を支持されてはいかがでしょうか?そもそも、日本はアメリカと戦ってボロ負けに負けた国家のはずなのですから。恐らくイラク戦争に敗北するのはアメリカになるでしょう。


 十年前に書いた原文のままですが、今、改めて読むと、情勢分析が甘いと言うか緩いと言うか、背後ではもっと恐ろしく凄まじいものであった事が分かっています。

これについては、既に下のスポット009で書いていますが、十年前に『ドイツ農民戦争』(マルクス)とベネセラの反米政権 で書いた当時は、まだまだ各勢力の勢力配置への理解が甘く、それが見えてくると、情勢を利用はしても、単純には肩入れはできない…といった印象は拭えません。

 それほど、ネオコン、CIA、ヒラリー…と言った連中が人為的にゲリラ組織、反政府組織(その中には本当に悪政と闘い革命による解放のために懸命に努力している組織もあるのですが)に資金援助と称して接近し、自らの株価操作から資金の強奪、革命組織に手を突っ込み、石油の強奪から内乱を煽り、内政に干渉し(これがヒラリーの私的メール問題の深部なのです)、私腹を肥やし続けている姿が見えてしまうのです。僅かな良心からか、オバマは嫌になり最後は何もやりたくなくなり、委縮してしまったように見えますが、鬼女ヒラリーは人間とは思えない酷い事を密かに続けとうとう当局からバーレンへの出国を阻止されてしまったようです。いずれ裁判が始まる事でしょう。

 どうせ、ベネセラのチャベスの早い死も、ネオコンが仕組んだ事なのでしょう。


スポット009 「イスラム国」は西側(実はヒラリー=ネオコン)が仕掛けた「ゴキブリ・ホイホイ」“公共事業としての私的な戦争の口実として造られたISISというダミー人形を有志連合Coalition of the willingが攻める!”“アメリカと本気で闘おうと思う革命的ムジャヒディンは絶対に参加しないように”警告!(ついでに)駆除されてしまう!


話が大きくそれてしまいましたが、異端、極少数派…と言ったものに対するシンパシーが強く、宗教的セクト争いに対する興味も異常に強い当方としては、マルクスの『ドイツ農民戦争』とは、それこそ血沸き肉躍る面白くてたまらない当時も複数回読んでしまった一冊でした。


454-3


誰か、エンゲルスの「ドイツ農民戦争」やマルクスの「フランスの内乱(パリ・コンミューン)」のように、中近東と言わず全世界のイスラム原理主義者による反政府勢力についての科学的分析を行い、鮮やかに描いてくれないかと思うものです(もう関心が神社に移っている事から、既にどこかで誰かが書いていて気付いていないだけなのでしょう)。

いずれにしても、真実を追求し続けようとする人々は絶えず分裂し、独立性、純血性を保とうとするのであって、権力に尾を振り擦り寄ろうとするさもしい人物には侮蔑を与え続けるものなのです。

 その行き着いた先が、ピルグリム・ファザーズに始まるアメリカのキリスト教原理主義者であり、アメリカ自体も既に狂信的原理主義国家なのです。

 もうソ連邦崩壊から26年が経過しその時点からアメリカと中東が始まっている事を考えれば、既に25年は確実に経過しているのであって、イスラム教原理主義者とアメリカのキリスト教原理主義者(そもそも、アメリカとは弾圧され新世界に脱出したヨーロッパのキリスト教原理主義者によって打ち立てられた原理主義国家なのであり、だからこそ、現在でも地球は平らだと教える州があるのです)による「百年戦争」は、まだまだ人為的に続けられる事になるでしょう。

 モーセの旧約聖書の『出エジプト記』からユダヤ12氏族の東方退避は元より、今後とも弱い民族、弱小国家、少数宗派…といった弱き美しき民は、「聖書物語」の世界の様な民族弾圧、民衆弾圧、戦争、災禍、殺戮、暗殺…と受難を背負って歩かなければならないようです。

 数万、数十万の死者と数百万人の難民を産み出す現代も、「聖書物語」の世界と全く変わらないのです。

 国連なる組織が只の戦勝国クラブであり薄汚い官僚機構でしかない事がこの間全く役に立っていない事からどなたもご理解になっていることでしょう。

親族どころか本人の賄賂塗れである事が追及されかねない事が分かり、お隣のお困りの国の大統領選から早々と撤退した潘 基文(パン・ギムン)も国連がどのような組織であるかを如実に表した好例と言えるかもしれません。

454-4好い加減、IOC~ユニセフ(○○ちゃんを救おう…マンスリー・サポート・プログラム)~WHOが集金と陰謀のためのイカサマ組織でしかないという話が飛び交っている事をご本人たちはもとより、尻尾になって甘い汁を吸っているさもしい方々にもそろそろ認識してもらいたいものです。人為的に戦争を興して金儲けをした上で、また救援すると称して美味い目にあっていると言われているのです。そもそもユダヤ・マフィアどもは人口を十億人に減らそうとしていると言われているのですから。 私は風評に弱いため直ぐにそういった話に乗せられてしまうのです。


455 アイヌ語地名アラカルト ①

$
0
0

455 アイヌ語地名アラカルト ①

20170301


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は十年ほど前にアンビエンテ内の「有明臨海日記」へのコラムとして書いていたものですが、オンエア予定ではあったものの技術的な問題でお蔵入りしていたものです。

今、読むと他愛もない内容ではあるのですが、試験的文書としてそのまま公開する事に致します。


001 御岳山(ウタキヤマ)と愛宕山(アタゴヤマ)


二〇〇七年の熊本地名研究会による「球磨盆地・地名研究会」シンポジウムに提出された日本地名研究所・会員の村崎 恭子(元横浜国大教授)による「アイヌ語と日本の地名」という論文に掲載された日本語地名とアイヌ語の対応表にはオタ地名がありました。

オタは砂浜、砂とされています。オタ地名が単に小さな田んぼなどという素朴なものでないことは、ほぼ、間違いがないのではないでしょうか。すると、記紀や万葉集に出てくる奈良県の宇陀(ウダ)も含めて考え直す必要がある訳で、非常に興味深いテーマが横たわっているように思います。

 何故ならば、九州では大事をウーゴトと、オッタマゲタをウッタマガッタ、栂(トガ)を栂(ツガ)と発音する様に、中央のO音をU音で発音する傾向が認められます(瀬戸内海に面した大分県を除く)。

仮にウタが砂、砂浜(アイヌ語では必ずしも海であることを意味しない)であるとすれば、その地名は数千年前に遡る縄文語とも言うべきものになる可能性もあり、何か府に落ちた感じがするのですが、これは私だけの感性かも知れません。

村崎教授に対する愛宕山とアイヌ語のタップコップ(たんこぶ山)に関する質問の後に、もう一つ欲張った質問を谷川健一先生になげかけました。

それは、「ランドマークとしての沖縄のウタキとアイヌ語地名としての愛宕山に関係があるのではないか?」というものでした。谷川先生は「沖縄のウタキは平地にあり、関係はない。平地にあるんだから。と」直ちに否定されました。

もちろん、これは私が端折った質問をしたからでした。大半のウタキが集落傍の平地にあることは承知しているのですが、全てのウタキが平地にあるのではなく、本ウタキと呼ばれるものがあるのです。一般的に平地のウタキは本来のウタキが山の上など遠方であるために手近な遥拝所として整備されたものである場合(お通しウタキ)が多く、宮古諸島の大神島など海人(ウミンチュ)が日々遥拝していたものこそウタキの原初的形態である可能性が高いのです。

これについては『日本の都市は海からつくられた』上田 篤(中公新書)の“Ⅳお通し御嶽”お読み頂きたいと思います。実際、トカラ列島の半分に御嶽山がありウタキであり、あったことが推定されるのです。


455-1

あとは、ウタキとタップコップとの関係ですが、しばしば、愛宕山と御嶽山とが重なっている場合があることから、関係があるのではないかと考えたのでした。

私はかなり前から南西諸島の御嶽山が九州まで伸びているのではないかと考えてきました。そして、薩摩半島の開聞岳と佐賀県江北町の御岳山を提案したのですが、これについては、50御嶽(ウタキ)を読んでいただくとして、この問題はアイヌ語、縄文語にからむ壮大な問題に繋がってくるのです。最近読んだ『縄文語の発見』小泉保 の衝撃と言い、古代史家の古田武彦氏の縄文語の提案と言い、極めて興味深い深刻な問題を抱えているようです。

山田秀三の九州のアイヌ語地名に触れた経緯、森崎先生も九州のアイヌ語地名を探っておられたことなど、既に、九州におけるアイヌ語地名を一笑に付す時代は終わったかと思いますが、一旦は九州を含めて日本列島に遍く広がったアイヌ語が南西諸島まで及んだ可能性、南西諸島から北上したウタキ地名がタップコップ、愛宕地名に影響を与えた可能性、アイヌ語と並立する古代縄文語の想定など多くの謎が横たわっているのです。


002 愛宕山(アタゴヤマ)


普通はNHKのラジオ放送発祥の地である東京の愛宕山を上げるべきでしょうが、喜六、清八が登場する上方落語の名作に「愛宕山」があります。こちらは京都(キョウトウ)で、嵐山の渡月橋からその特異な山容を確認する事ができます。

戦中派にとって、「愛宕」といえば直に思いつくのが日本造艦技術の結晶高雄型重巡(条約型重巡)「愛宕」かも知れません(第一次ソロモン海海戦で活躍。レイテ沖海戦で海没)。この「愛宕」も京都の愛宕山から採られたものです。

落語の「愛宕山」はともかくとして、全国に多くの愛宕地名が存在します。以前からこの“愛宕山のアタゴとは一体何か?”が気になっていました。

もちろん、愛宕不動尊が置かれた場所が愛宕だと言えばそれまでなのですが、どうもそのような単純な話ではないのです。

北部九州で愛宕と言えば、福岡市西区の愛宕神社、愛宕山がまず頭に浮かびます。この愛宕山はほんの三~四十年前までは博多湾に突き出した岬であり、近年の埋立てによって内陸の急峰になりましたが、古くは博多湾に浮かぶひときわ目立つ山だったはずです。今でも頂上には愛宕神社があり車でも登れますが、梅が枝餅をほうばりながら博多湾を一望できるはずです。

一つでは信用して頂けないと思いますので、もう一つはっきりしたサンプルをご紹介しょう。

佐世保市の西に相浦という港町があります。現在も自衛隊の相浦駐屯地があるように、戦時中にも陸海軍の基地があったところです。また、九十九島一帯でのキス釣りにでかける拠点としてきた港でもあります。

まず、佐世保の市街地はこの相浦地区ではなく、佐世保駅を中心に拡がっています。それは、明治以来、海軍工廠がこの地に置かれ(現SSK佐世保重工業)人口が急増したからであって、古代においては川もない佐世保よりも、この相浦こそが中心地であったと考えられます。当然ながら、ランドマークである愛宕山の東側に流れる相浦川一帯も古くは相当奥まで湾入していたはずで、この愛宕山の対岸になる相浦川左岸の小丘陵はまさに波際線に近い一等地であったように思えます。

もちろん、九州でもこの他に多くの愛宕山、愛宕崎といった地名が最終されます。

さて、本題に入りましょう。問題の愛宕です。

後世、愛宕不動尊、愛宕神社が置かれたことによって名付けられたものがあるとしても、

アタゴという言葉はどうも日本語では理解できず、他に起源を持つもののように思ってきました。

 そのような中、二〇〇七年の熊本地名研究会による「球磨盆地・地名研究会」シンポジウムに参加しました。その報告の一つに、日本地名研究所・会員の村崎 恭子(元横浜国大教授)による「アイヌ語と日本の地名」がありました。村崎先生は、金田一、服部と続く第一級のアイヌ語の研究者なのです。

これまで「地名は時間の化石」でもいくつかのアイヌ語地名を取上げてきましたが、私は九州にもアイヌ語地名があると考えてきました。

シンポジウムの資料集にある村崎先生の論文を読むとアイヌ語地名の代表的なものが例示されていましたが、この中で目が止まったものに、


tap kop(タプコプ)たんこぶ山 (漢字と地名例)達古武、達布、康子、田子、竜子


がありました。

 私は、愛宕山のアタゴはタップコップが置き換えられたものと思いました。このため、シンポジウムの最後に村崎先生に質問し、概略、アタゴはタップコップの置き換えと考えられるか?と質問したのですが、「・・・アタゴはタップコップと考えることはできると思うが、それには愛宕山が独立した山であることが必要になる・・・」(テープ起こしではないため表現が不正確である事はお許し願います)とのことで、否定より肯定に近いものと受け止めた次第です。

 愛宕をタップコップとしたのは私の独創であろうと大発見したような気がして帰ってきたのですが、インターネットによる裏取りをやってみると、アイヌ語地名の研究者として多大な業績を残された故山田秀三教授(アイヌ語地名の分布を基本的に東北地方に限定されていますが)も愛宕とタップコップの関係を調べていたということが分かりました。

 結局、私の直感は後追いに過ぎず、ただの二番煎じとはなったのですが、山田秀三教授の後追いならば光栄とさえ言えるかもしれません。

tap kopには他にも類型があります。田子の浦です。皆さんも愛宕、田子の浦、多古・・・といったものに思い当たるものはありませんか?


455-2

大宮姫神社から西に見える相浦のランドマーク愛宕山


003 田子島


長崎市の多比良町に田子ノ浦があります。

ここは、今年の熊本地名研究会(日本地名研究所/谷川健一)のテーマとなったアイヌ語地名tap kop(タプコプ)たんこぶ山》の候補地の一つと考えている場所なのです。もちろん、田子ノ浦の田子です。

愛宕不動尊、愛宕神社の愛宕地名も同種のものですが、今年の「球磨盆地・地名研究会」シンポジウムでは日本地名研究所・会員の村崎恭子(元横浜国大教授)による「アイヌ語と日本の地名」が報告されました。村崎先生は、金田一京助、服部四郎と続く第一級のアイヌ語の研究者です。

これまで「地名は時間の化石」でもいくつかのアイヌ語地名を取上げてきましたが、私は九州にもアイヌ語地名があると考えています。

今回のシンポジウムの資料集にある村崎先生の論文を読むとアイヌ語地名の代表的なものが例示されていますが、この中で目が止まったものに、


tap kop(タプコプ)たんこぶ山 (漢字と地名例)達古武、達布、康子、田子、竜子


がありました。

 当日、愛宕山のアタゴはタップコップが置き換えられたものと思いました。このため、シンポジウムの最後に村崎先生に質問し、概略、アタゴはタップコップの置き換えと考えられるか?と質問したのですが、「・・・アタゴはタップコップと考えることはできると思うが、それには愛宕山が独立した山であることが必要になる・・・」(テープ起こしではないため表現が不正確である事はお許し願います)とのことで、否定より肯定に近いもののと受け止めた次第です。

 愛宕をタップコップとしたのは私の独創であろうと、あたかも大発見したような気がして帰ってきたのですが、インターネットによる裏取りをやってみると、アイヌ語地名の研究者として多大な業績を残された故山田秀三教授(アイヌ語地名の分布を基本的に東北地方に限定されていますが)も愛宕とタップコップの関係を調べていたということが分かりました。

 結局、私の直感は後追いに過ぎず、ただの二番煎じとはなったのですが、山田秀三教授の後追いならば光栄とさえ言えるかもしれません。

tap kopには他にも類型があります。田子の浦です。それが今回の田子ノ浦探訪となった訳です。


地図から想像すると、かつての田子ノ浦はかなり目立った“たんこぶ山”が入江に突き出していたと想像できるのですが、今や埋立てや護岸工事が進みその景観は全く失われています。ただ、私自身は静かな確信を得た気がしています。まず、この多比良町のタビラ地名もアイヌ語の崖地名の可能性が感じられるからです。

一応、写真も掲載しておきましょう。

さて、取って返して野母崎に向かいました。目的地は野母崎南岸の田子島です。これは確信がありました。どのように考えても tap kop(タプコプ)たんこぶ山(島)地名としか思えないからでした。

恐らく、この地名が成立した当時(三千年以上前かも)も、湾曲した美しい入江に小さな島が浮かんでいたことでしょう。ただ、この不必要としか言い様のないテトラ・ポッドだけは困ったものです。この工事で土建屋がせしめた税金はいったいどれくらいだったのでしょうか?

ともあれ、この野母崎にもアイヌ語地名の候補地がいくつかあります。

インゲリ鼻です。まだ、調査段階ですが、アイヌ語の“インカルシュペ”ではないかと考えています。ただ、これは別稿としましょう。


455-3

スポット121 ひぼろぎ逍遥+ひぼろぎ逍遥(跡宮)のアクセスが年間40万ペースに上がった

$
0
0

スポット121 ひぼろぎ逍遥+ひぼろぎ逍遥(跡宮)のアクセスが年間40万ペースに上がった


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 これまで、ひぼろぎ逍遥+ひぼろぎ逍遥(跡宮)のアクセスは凡そ日量1000件程度=年間35万件前後と申し上げて来ました(累計は不明ですが、ひいき目に見て100万件程度でしょうか)。


 しかし、今夏の実績を見ると、日量1,1001,200件に上がっており、公開しているblogの本数も1,000件を越え、どうやら従来の二割増しの年間40万件ペースに上がったような印象を受けています。


 4年弱でここまで成長してきたとすると、来年にはこの二本立のblogだけでも年間50万件まで上がる可能性が出てきたようで、一重に貴重な時間を費やし読んで頂いている方々に感謝申し上げる次第です。


 今後の長期的な目標(十数年後)としては、一応、二本立てで年間百万件を目指す事になるでしょう。


 この点、内容の面では古田史学の会の「新古代学の扉」に対し十歩も百歩も、十倍も百倍も劣ります。

sp121-2


現在、「新古代学の扉」のアクセス累計sp121-1130万件(詳しくは分かりませんが、本日現在、通算15年程度?の実績で年間10万件程度)であることから、当方の累計アクセス数だけから言えば、十分に追走できるところまで来たと考えています。


ひぼろぎ逍遥87日以降省略)


sp121-3

あくまでも8月の実績ですが参考に…


 「ひぼろぎ逍遥」8月実績 月間14,758件(年間15万件以上)


 無論、ネット上のアクセス数とか順位とかいったものはプロバイダーなどにより操作されています。


行政や裏のスポンサーの意向に沿って、アクセスし難く操ったり、甚だしくは全く消されたりしますで、このような数字そのものには踊らされないようにすべきでしょう。


ただ、あくまでも8月の実績ですが、月間15,000件弱になっています。そして、半年前からの傾向ですが、後発の「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)が月間20,000件弱と追い越し逆転しています。


 そのような、プロバイダーなどの不当な動きに素早く対応できるように、blogHPを二本立て、三本立(実は五本立てなのですが…)にしていますし、新たに今度は本当の匿名のサイトを創ろうかとも考えているところです。


以下は「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)の8月実績 月間18,556


sp121-5


「ひぼろぎ逍遥」8月実績 月間14,758件+「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)8月実績 月間18,556件…


と、ほぼ、月間34,000件程度と年間40万件を超えるところまできました(9月実績はこれを越えそうです)。


 百嶋由一郎神社考古学を意識した連携サイトは20件に近づき(また一つ青森県下から加わります)、自らの頭と足を使って記録を残し、書き留めようと探査に廻る人、ネット検索を続け解析に集中する人、blogを書き続ける人、出版を行った人、出版の準備に調査を続ける人…と、○○研究会とか○○古代史の会とか言うただの親睦会=カラオケ・クラブとは異なる研究者による研究会の態勢ができて来ました。


 古代史の研究会とか、九州王朝論を意識した地名研究会などと称して見ても、自らは何も調べる事も無く、所謂、邪馬台国本と古代史本とかいったものだけを無系統かつバラバラに読んだだけで偉そうな議論を行い、内輪だけのカラオケ・クラブのような発表で満足する人達による研究会は対外的には全く力を持たず、いずれさもしいだけのコアのメンバーが消えれば、雲散霧消化し何らの業績も残すことなく潰え去る事になるのです。


 現在の高度に情報化された社会では、凡そ本も出さず、ブログやホーム・ページも持たない人々はこの中では存在していないのと同様の扱いしか受けないものと全くの同義でしかないのです。


 現場に入らず、観光旅行のような調査を行い、ブログはおろか、本を出すどころか文章も書かず、本の切り取りと資料だけで勝手な思い込みだけの発表をしたり、利権まみれの教育委員会関係者や学芸員の御高説や講演を有難く賜わり、学会通説のパンフレットを配布するような団体に成り下がった瞬間から、それらは古田武彦が切り開こうとした市民による研究体制の確立など遠く及ばず、その堕落は、村興し、町興し、果ては世界遺産登録と言った行政主導の通説による塗りつぶしに陥る事にしかならないでしょう。


 結局、自分では何も調べようともしないで、邪馬台国本ファンとか九州王朝論ファンなどといった、ただの興味本位の方々の団体では、一部のさもしい=浅ましい人物(人間ではない)だけが教育委員会に使って下さいとばかりに尾を振り、評価され、通説に沿った発表して自己満足に陥るだけの事になるのです。


堕落とはそのような事を言うのですが、それでは九州王朝論と言った通説と異なる真実など発掘できるはずなど一切なく、それ以前に気迫も意志もないだけの事なのです。


sp121-4

sp121-6


まだまだ、ありますが、目安としている紙数制限からこれまでとし、以降は別立てでご紹介します。


 地名研究会の十年に近い活動の中で、私の目から見て本当の研究者、探究者と言える人に出会ったのは十人に満たない数でしたが、無論、会員内部では僅かでした…(ただの口ぱくのカラオケ・クラブでは研究者は生まれない)その中でも最も特筆すべき本物の研究者と言えるお一人がこの伊藤女史でした。


その上に、豊前、豊後を対象に神社研究を進める「ひとつあがりのカフェテラス」や、筑前、筑後を対象に神社研究を掘り下げる宮原誠一氏の新blog「宮原誠一の神社探訪諜」が加わり、研究内容はネット上に束として公開され徐々に厚みを増しています。


このようなブログは本人亡き後も数十年は残す仕組みを創るつもりですので、百嶋神社考古学を軸とした神代史(実は古代史なのです)研究は確実に後世にバトンタッチできることになるはずです。


そのためにも人を残す必要があり、学芸員のお話を拝聴するような只の親睦会でしかない研究会の業績は全く残らないまま消失する事になるでしょう。


九州王朝論系の研究会と称して学会通説に主ね、教育員会関係者や学芸員から御高説を拝聴するどこにでもあるようなつまらない研究会も横行していますが、本物の研究とは村興し、町興しとは無縁でおいそれとは受け入れられないものであるからこそ探究の価値と独自性があり貴重なのです。


これらの団体もしばらくすれば、行政の予算の消失に併せて何の業績も残すことなく消失し、既に刊行された本物の研究者の本しか残らず、いつしか忘れ去られてしまう事でしょう。


研究者とは独立して電信柱の様にバラバラに存在しているのであって養成できるものではないのです。


 伊藤女史の著書は不知火書房092-781-6962に注文し取り寄せが可能ですし、blogは常時ハイピッチで書かれ続けています。


sp121-7

今夏、民間研究者中の研究者である伊藤正子女史による講演があいつで行われます。

 7月の講演に参加できない場合は、盆明けの和水町の講演(こちらの方が安くて長時間の講演になりお得かも知れません)を聴くことができます。本blogの読者の皆さんもぜひお聴き頂きたいと思います。


 78() 13時~1430分   会場:久留米大学 御井キャンパス500号館51A教室

「人麻呂と持統天皇 ―万葉集の不思議―」 伊藤正子(太宰府地名研究会)


 820日(日)13:30~         会場:和水町中央公民館 (℡0968-86-2022

             菊水インターから南へ3㌔ 車で3

「人麻呂と持統天皇 ―万葉集の不思議―」 伊藤正子(太宰府地名研究会)

参加費200円(資料代)菊水インターから南へ車で3分


sp121-7


伊藤女史の最新稿です。なお、私は伊藤家のマスコット猫の外戚にあたります。藤原氏なみですね。


sp121-8


これは伊藤女史の講演用のパワー・ポイントの一部です。

 宗像大社と言えば、宗像三女神を祀る神社として知らぬ人のない神社ですが、百嶋神社考古学では本来の祭神は大国主命であるとします。

この歌には8世紀初頭まで宗像大社の祭神はオオナムチ、スクナヒコナであった事が書き留められているのです。

 この歌の存在を教えて頂いたのも故)野際陽子似の伊藤女史だったのです(写真も故野際陽子さんです)。

 まだお若いので研究は今後も続くものと確信しています。

 

456 アイヌ語地名アラカルト ②

$
0
0

456 アイヌ語地名アラカルト ②

20170301

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


004 七面岳(ヒレメウシ)

恐らくどこの山だかお分かりにならないでしょう。しかし、熊本県の阿蘇五岳の一つだと言うとさらに驚かれるでしょう。

今や、通常の地図にも国土地理院の地図にも根子岳としてしか表記されていないと思いますが、七面岳(ヒレメウシ)とは東端の根子岳のことで、私自身も昔の地理院地図に根子岳(七面岳)と併記されていたのを見た事があります。

私は学生時代に山歩きのサークルに所属していましたが、ゼミの教官などとこの山に登り、下山の途中、東の尾根で落雷に襲われ、非常に危険な目に逢った事を今でも鮮明に覚えています。ノコギリの歯のように尖ったいくつもの峰を持つこの山は、阿蘇五岳の中でも際立って印象的なシルエットを見せています。

もちろん、根子岳を木の根っ子と思えば、確かにそれらしくは見えますが、これは北の阿蘇谷側から付けられた地名であるのに対して、七面岳とは南の南郷谷の方から付けられた山の名称なのです。

このあたりのことについて一九八三年に書かれた本がありますのでご紹介しましょう。


・・・阿蘇山の場合、陸軍参謀本部地図班は阿蘇谷の宮地を根拠として、地図作成を行った。この明治三十五年発行の地図が一般に通用している五万分の一の地図である。一方、これに先立ち、農商務省地図班は南郷谷に白川を根拠地として、地図作成作業を行っている。これは明治十六年に発行なされた。一つの山でも、見る方向や谷が異なり、部落が異なると呼び名が違う場合がある。阿蘇谷の方は、郡役所の案内で作業を行い、地名のつけ方についても阿蘇五岳の中央河口丘の東端にあるピークを「根子岳」と記載した。しかし一方、南郷谷の方は、古老の言や古文書を渉猟して、「七面岳」と記載した。古くは「ヒレメウシ」または「七面岳」と呼ばれていた(前熊本大教授、前々京大阿蘇火山研究所長であった南葉教授とは、「ヒレメウシ」とは鋸の歯のようにとがった山という意味のアイヌ語であると、私に語ってくれた。・・・)。


『九州の先住民はアイヌ』(新地名学による探求)根中治/葦書房


456-1

阿蘇の根子岳 別名 七面岳(ヒレメウシ)


特に山について、移動が困難であった時代には、一つの山に対して別の名が付けられる事は決して珍しいことではなく、佐賀県唐津市の鏡山が別名領布振(ヒレフル)と呼ばれ、別府温泉の西の大平山が扇山とも呼ばれるように、今でもこのような例はかなり採集できます。

文中には明治の農商務省地図班が地図を作成する上で、現地での古老の言の聴き取りや古文書の調査がされている点など、より民俗学に近い手法で採集された事が想像できます。

「七面岳」とは、恐らく「ヒレメウシ」という数千年の単位で継承されてきた地名が「七面岳」として書き留められたものと思われます。少なくともその可能性は否定できないでしょう。

私は、思索の冒険、暴走を止められない人間ですので、北の阿蘇谷に進出してきた新興民族に追い落とされたアイヌ、もしくは縄文系の先住民が、黒川、白川の大峡谷を最後の防衛ラインとして南郷谷辺りに命脈を保っていたのではないかなどと考えてしまいます。

九州のアイヌ語地名については今後も取上げて行くつもりですが、佐賀県に限定しても脊振山の辰巳谷(ポロメキ)、ズーベット山、東松浦半島のトリカ崎、枝去木(エザルギ)、江北町の佐留志(サルシ)・・・とアイヌ語めいた奇妙な名前が採集されます。これらについても、いずれ取上げたいと思います。


005小吹毛井(コプケイ)


宮崎市の鵜戸神宮と言えば、有名な青島の南にある観光スポットです。かつては新婚旅行の定番とされ、多くの新婚カップルが訪れた海蝕洞に造られた有名な神社(旧官幣大社:祭神はウガヤフキアエズ)があることでも知られています。この入口に吹毛井(フケイ)という奇妙な地名があるのです。


フケイとは何か?004七面岳(ヒレメウシ)で引用させて頂きましたが、『九州の先住民はアイヌ』(新地名学による探求)を書かれた根中治氏は、これについてもアイヌ語地名として紹介されています。


熊本大学の南葉教授と一緒に宮崎市周辺の天然ガスの調査に出かけた。調査行の途中、有名な鵜戸神宮に一緒に御参りした。お宮は太平洋に突き出した鵜戸岬の突端にあり、祭神は海幸彦・山幸彦の伝説を生んだ()草葺(がやふき)不合(あえずの)(みこと)(神武天皇の父君)である。()(ざい)寅雄教授(東海大学教授、『日本語大漂流』の著者)によれば、海幸彦は火照(ほてり)・山幸彦は火遠理(ほおり)で、ホテリは「舵取り」、ホオリは「喜びを与える」の意であり、ポリネシア語で海幸・山幸の意になるという。・・・(中略)・・・

   バス停より山を越えて海岸の方へ降りて行くと、大きい水成岩(日南層群)の海蝕岩窟があり、神殿は、その大きい岩窟の中にある。・・・(中略)・・・

   この鵜戸神宮の入口、宮崎交通のバスの停留所の地名が「()毛井(けい)」である。南葉教授は私にそのバス停の看板の地名を指示して「この吹毛井というのは“プケイ”岩窟のあるところというアイヌ語である」とおっしゃる。・・・(中略)・・・

   アイヌ語とポリネシア語のかかわりについては後に述べる。

私はこのようにして、言語学者や地名学者でもない二人の自然科学系の学者から、九州南の果てにあるアイヌ語地名の話を聞かされたのである。


『九州の先住民はアイヌ』(新地名学による探求)根中治/葦書房


吹毛井(フケイ)と吹毛井(コプケイ)が対応している事は間違いありません。これは付近を通るJR日南線の北一〇キロほどの区間に内海駅、小内海駅があり、小目井(こちらは大目井は消失していますが、かつては北の富士川、伊比井川のどちらかに同地名があったと思われます)があることでも推察されます。

私が現地を踏んだのは三十年も前ですが、地図でこの鵜戸神宮の南に小吹毛井(コプケイ)という地名があることには知っていました。小吹毛井とは、小さな海蝕洞のある土地となる訳ですが、確かそのような話を聞いた事があります。これについてはそのうち確認したいと思っています。


456-2


006 アイヌ語地名とアカデミズム


既に004 七面岳(ヒレメウシ)などで取上げたアイヌ語地名について、

かなり違和感をお持ちの方が多いと思いますので、この際、この問題について簡単にふれておこうと思います。

 九州の地名をアイヌ語で説明をすると、通常は、学者、研究者ばかりではなく、一般の方々にもそれだけで馬鹿にされてしまいます。

学会では東北地方まではアイヌ語地名の存在を認められていますが、それ以外となると簡単ではありません。この傾向はアイヌが北方ルートで日本列島に渡って来たとする向きが多く、大陸と日本列島が繋がっていた時代に半島経由で南から入って来るルートは無視されるきらいがあるからです。

 もしも、南方ルートが認められ、いったんはアイヌ系の人々が列島全体にあまねく広がったことが想定されれば、九州のアイヌ語地名についても、その存在の可能性について多少は信用していただけるのでしょうが、時代は、まだ、そこまで到達していないのかも知れません。

 ここで、谷川健一氏がアイヌ語についてどのように考えているかを見て、当面の答えにしたいと思います。


ともかくも、柳田はアイヌ語地名を白河以北にとどめて考えてはない。それどころか東日本に分布する堂満や当間という地名がアイヌ語であるとしている。これからしても、柳田が単一民族国家の考えに基礎を置いた一国民俗学に加担したものではないことが確かめられる。そこで私どもは、アイヌ語地名が白河以南にも残存する可能性を原則的に認める必要がある。その上でアイヌ語地名の取扱いには思いつきや語呂合わせを避けた慎重な取扱いが要求されよう。

 『日本の地名』谷川健一(岩波新書)


東北地方のアイヌ語地名については、金田一京助や山田秀三など、少数の研究家の業績のほか見るべきものはない。日本を相対化する武器として、東北のアイヌ語地名は限りなく重要である。しかるに、日本の諸学問は今なおその価値を認めることに冷淡である。


 『柳田国男の民俗学』谷川健一(岩波新書)


ヒレメウシは阿蘇の根子岳の話でしたし、コプケイは宮崎県の鵜戸神社の話でしたが・・・。

 

再 掲


・・・阿蘇山の場合、陸軍参謀本部地図班は阿蘇谷の宮地を根拠として、地図作成を行った。この明治三十五年発行の地図が一般に通用している五万分の一の地図である。一方、これに先立ち、農商務省地図班は南郷谷に白川を根拠地として、地図作成作業を行っている。これは明治十六年に発行なされた。一つの山でも、見る方向や谷が異なり、部落が異なると呼び名が違う場合がある。阿蘇谷の方は、郡役所の案内で作業を行い、地名のつけ方についても阿蘇五岳の中央河口丘の東端にあるピークを「根子岳」と記載した。しかし一方、南郷谷の方は、古老の言や古文書を渉猟して、「七面岳」と記載した。古くは「ヒレメウシ」または「七面岳」と呼ばれていた(前熊本大教授、前々京大阿蘇火山研究所長であった南葉教授とは、「ヒレメウシ」とは鋸の歯のようにとがった山という意味のアイヌ語であると、私に語ってくれた。・・・)。


『九州の先住民はアイヌ』(新地名学による探求)根中治/葦書房

 

熊本大学の南葉教授と一緒に宮崎市周辺の天然ガスの調査に出かけた。調査行の途中、有名な鵜戸神宮に一緒に御参りした。お宮は太平洋に突き出した鵜戸岬の突端にあり、祭神は海幸彦・山幸彦の伝説を生んだ()草葺(がやふき)不合(あえずの)(みこと)(神武天皇の父君)である。()(ざい)寅雄教授(東海大学教授、『日本語大漂流』の著者)によれば、海幸彦は火照(ほてり)・山幸彦は火遠理(ほおり)で、ホテリは「舵取り」、ホオリは「喜びを与える」の意であり、ポリネシア語で海幸・山幸の意になるという。・・・(中略)・・・

   バス停より山を越えて海岸の方へ降りて行くと、大きい水成岩(日南層群)の海蝕岩窟があり、神殿は、その大きい岩窟の中にある。・・・(中略)・・・

   この鵜戸神宮の入口、宮崎交通のバスの停留所の地名が「()毛井(けい)」である。南葉教授は私にそのバス停の看板の地名を指示して「この吹毛井というのは“プケイ”岩窟のあるところというアイヌ語である」とおっしゃる。・・・(中略)・・・

   アイヌ語とポリネシア語のかかわりについては後に述べる。

私はこのようにして、言語学者や地名学者でもない二人の自然科学系の学者から、九州南の果てにあるアイヌ語地名の話を聞かされたのである。


『九州の先住民はアイヌ』(新地名学による探求)根中治/葦書房


007 『縄文語の発見』小泉保 の衝撃


元言語学会会長、大阪外国語大学教授、関西外国語大学国際言語学部長を歴任された小泉保教授の『縄文語の発見』が出版されたのは九七年ですから、三版まで重ねたこの本を十年遅れで読んだ事になります。手に入れて二日余りで読み上げましたが、これまで自分が不思議に思っていた問題がかなり解決したような気がしています。

内容を説明するなどむろん不可能ですが、簡単に言えば、日本語の方言形に比較言語学の手法を適用してその祖形を求め、さらに、方言の分布について地域言語学的考察から縄文晩期の日本語を復元されているのです。

一般的には、稲作の普及と連動する弥生時代の言語がその後の大和言葉に繋がり、それ以前の言語を考えるにも、その起源、系統をチベット、ビルマ、タミール、ツングースなどの外部に求める傾向が強く、弥生時代の言語は先住の縄文人の言語とは全く別系統でその駆逐によって成立したと考えるものが一般の大半の日本語起源論のようです。

ところが、小泉教授は前述の手法によって復元された縄文晩期の日本語は沖縄や東北地方の言語に近く、その言語が縄文晩期の言語に近いものとされているのです。この事に関して、我が古代史にも関係する重要な部分を、一部ですが紹介したいと思います。


・・・弥生語交替説の弱点は弥生語を奈良時代の言語そのものと見なしていることになる。そもそも弥生語はいかにして形成されたか。これについて、交替説はあいまいな形でしか説明していない。弥生語は北九州において成立し、やがて畿内に移動したという見解が有力である。そこで、北九州における弥生語の形成について、次の三通りの考え方ができると思う。


1)渡来人の言語が弥生語である。

2)北九州方言が弥生語である。

3)北九州方言が渡来人の言語の影響を受けて弥生語となった。


1)の仮説については、渡来人の出自が明確でない上に、渡来者の数がそれほど多くなく、断続的であったということから、渡来者の言語が弥生語となった可能性はきわめて少ないであろう。

2)北九州方言が弥生語になったとするならば、九州の縄文語がそのまま弥生語の前身であったということになる。

3)渡来人の言語的な訛が九州縄文語に作用したということは十分考えられる。

2)と(3)の仮説はともに九州縄文語を前提としているから、その直系ともいうべき奈良時代の言語に九州縄文語の特徴が継承されていると考えられよう。筆者は(3)の立場にあって縄文語を再現しようと企てている。九州縄文語は琉球縄文語によって、その原形を伺い知ることができるであろう。だが、これ以外に縄文語の候補があるが、これ以外に有力な縄文語の候補がある。まず、この辺から手をつけていこうと思う。


『縄文語の発見』小泉保


日本語成立の起源については、過去、多くの提案がなされてきました。最近でも、茂在寅夫教授の南方系海洋民言語起源論や大野晋教授のドラヴィダ語起源説が話題になりましたが、このように外来の言語が日本語になったとか、日本語に大きな影響を与えたという考え方が普通であり、私達もそのように受け入れてきました。小泉教授の提案は、まず、原縄文語が前期九州の縄文語となり、渡来語の影響を受けながら原弥生語になり、さらにそれが弥生語となり関西方言になっていったとするものです。今後、もっと注意深く読みイメージを強化したいと考えています。

456-3

457 “田原神社とは何でしょうか?”との問い合わせについて 熊本県小国町田原の田原神社

$
0
0

457 “田原神社とは何でしょうか?”との問い合わせについて 熊本県小国町田原の田原神社

20170306

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 blog「ひぼろぎ逍遥」の読者の方からこの研修所からもそう遠くない場所に田原神社というのがあるがどのような神社かとのコメントが寄せられた事がありました。

 このコメントが送られてきた当時でもその存在には承知していたのですが、いつでも行ける神社には足が向かないもので、それきりにしていたものです。

 この手の問い合わせに逐一対応できないというのは当然ですが、“自らはここまで調べていますがこの部分が分からないのでどのように思われますか?”ならば、多少は対応しようという気になりますが、“軽い興味で結果だけを得たい”といった問い合わせに対しては触手が動かないのは致し方なかったのです。

 恐らくスーパー林道か高規格広域農道なのでしょうが、日田市の中心部から玖珠と小国の間辺りに抜ける髙規格の道路が集落を避けて造られています。


457-1

高原神社 カーナビ検索 熊本県小国町下城高原


 山の稜線に沿って縫うように造られた道路ですから、高規格ながらも長延長となり普段は利用しませんが、ここを通るとカーナビに田原の集落と田原神社が出てくることから山上集落とも言うべき場所だけに興味を持っていました。


457-2

分かり難いでしょうが、杖縦温泉の東側の山上高原の一角にこの田原神社が鎮座しているのです


 ただ、近いにもかかわらず気が進まなかった理由は、この手の小集落の神社には由緒書から神名帳といった物もなく、神紋などもないものが多く、徒労に帰すことが多い事もありました。

 さて、予想していた事とは言いながら案の定、祭神の記述がありません。

 小国町教育委員会に問い合わせれば分かるかもしれませんが、「熊本県神社誌」にさえ記載のないものが容易に見えてくるとも思えません。


457-3

現地は小国町下城にあるのですが、ご覧のとおり高原神社なるものはありません。

 元々、この地は戦後の開拓集落かと思ったのですが、どうも下城集落の一部として日当たりの良い山上へと上がったもののように見えます。


457-5

参考になりそうなものは神殿脇の装飾模様だけですが、「丸に篠笹」紋は清和源氏の系統と考えられますので、恐らく、鎌倉期に小国の満願寺を中心に探題が置かれ、源家家臣団、関東武士団、平氏では北条氏が入っているようで、下城神社(「熊本県神社誌」参照の事)の祭神が北篠定宗命とある事からもある程度推測がつきます。

当然にも、笹紋の下に牛があしらわれている事は、先住者か配下にスサノウを奉斎する氏族が居た事も考えられそうです。


457-5

高原神社とはあまり耳慣れない神社ですから、始めは、高原という地名から付された神社であると甘く考えていました。

しかし、どうもそうではないような気がしてきました。

勿論、本物の神武天皇=カムヤマトイワレヒコ(神武僭称贈崇神=ハツクニシラススメラミコトとは別)の出身地である宮崎県高原町の狭野神社も頭に入れてはいるのですが、それは、奈良県の高原熊野神社や栃木県の高原山神社との関係がありそうなのです。

一般的に熊本県は阿蘇氏ばかりが目立ち阿蘇系神社ばかりがあるとお思いの方が多いと思いますが、実際には、県下の三千数百社中一千数百社が菅原神社であることはあまり知られていません。

この小国町でもご覧になれば分かるように、二十社ほどの中の半数弱が菅原神社であることがお分かり頂けると思います。

この意味の見当はある程度着いていますが、これについてはいずれ別稿とするものとして、どうも高原神社人々は菅原を奉斎する土着の人々とは別の氏族の様に見えてしまうのです。

勿論、牛が描かれていますので、菅原神を奉斎する人々が配慮されている事は見えるのですが、高原神社の主神とは、やはり、前述の神社との関係を考えるべきではないかと思うものです。

 情報が少なすぎる事から、小国町の図書館、役場を探し回りましたが、徒労に帰し、当面、調査を保留する事にしました

ネット上には島根県松江市の田原神社が出て来ます。

この神社の存在は知っていましたし、今年の元旦もこの神社の前を通過していますが、まだ訪問するまでには至っていません。


主祭神

東殿:武御雷之男神、経津主神、天津児屋根命、姫大神

西殿:宇迦之御魂神

配神

東殿:天手力男神

西殿:奥津日子命、奥津日売命、波邇夜須毘売神、須佐之男命、櫛名田姫命

東殿は、『出雲国風土記』島根郡条の田原社に比定される。元々、北方の春日町田原谷(城北通り沿いに田原谷池有り)に鎮座した田原神社、或いは春日神社である。『雲陽誌』によれば、江戸期には、奥谷にあって春日四社大明神と呼ばれていた。

ウィキペディア 20170308 19:28による


 これ以外にも幾つかの田原神社が拾えますが、あまりにも情報が少なく届きません。

458(前) 続)荒津 様からのお尋ねにお答えして 

$
0
0

458(前) 続)荒津 様からのお尋ねにお答えして 

20170309


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ひぼろぎ逍遥 453 荒津 様からのお尋ねにお答えして において「荒津」という姓について取り上げました。これはその続編になります。

blogと併せお読み頂く必要があるため、関心をお持ちでない向きにはお読み頂く必要は全くありません。


 愛知県にお住いの荒津という姓の方から“自分のルーツを探しており福岡市を訪れたいが…“という話が、百嶋神社考古学に関心をお寄せいただいている実質的なメンバーでもある愛知県在住のYさんを通じて持ち込まれました。まず、「荒津」という姓がそれほど多くない(全国でも500以下だろう…)ことは経験的に分かります。…以下省略


荒津姓というものがあり、福岡市と関係がありそうだと言うだけで書いたのが ひぼろぎ逍遥 453 でしたが、その後、当のご本人からかなり詳細な内容を含んだお手紙を頂きました。

 今回は、前blogの誤りについてのご報告をし、併せて修正し補足的見解を追加するためのものです。

 お手紙は公開を前提としたものではないため、一部しか書けませんが、以下の様に書かれていました。

 まず全国の荒津の分布についてですが、…」として、当方で勝手に推論を展開していた荒津姓の分布拡散の時期を古代に遡らせて考えていたことが誤りであった事が早々に分かりました。

 つまり、ほとんどの荒津姓の東海、関東への展開拡散は、同族が明治以降に移動した事によって起こった事が書かれていたのでした。

 これは当方の推測の限界であり、分布だけからは移動の時期を容易に特定できない欠陥を突かれた事になったのでした。

 当方としては、荒津姓を物部の一派と考えたことから、どう見てもその拠点であった兵庫、愛知にピークがあったことから…つまり、出来過ぎとも言うべき愛知の伊那谷の入口のような場所にお住まいだった事から早とちりしたのでした。

 一例ですが、籠神社、「海部文書」から物部の一派が東海から信濃に展開した事などを意識せざるを得なかったからでした。


458-1


それほど、古代に於いては東海から信濃への物部の展開は有名な話であり、その先入観に影響を受けていたからでした。


458-2

今さら言っても只の弁解にしか思われないでしょうが、福岡県の54件、愛知県の14件、兵庫県の3件、神奈川3件という事から生じた分布の魔術に引き摺られてしまったのでした。

 お尋ねの荒津さんは既に十分にお調べになっていたようで、当方が俄(にわか)仕立てで好い加減に書いた事を上回る調査をされておられました。

光雲神社の摂社荒津神社も数度足を運ばれていたようですし、福岡市東部久山の荒津氏の本願地周辺も十分にお調べになっておられたのでした。特に慧眼と思ったのは、久山町周辺の荒津氏と城戸氏に関する焦点の当て方でした。

 城戸氏は恐らく橘一族で間違いはなく九州王朝系の氏族であり、もっと踏み込めば白族系(大幡主、ヤタガラス系)の人々のはずです。ただし政略結婚により混血が進み大山祗(トルコ系匈奴)系とも考えられます(まさか城戸は匈奴の置換えではないでしょうね)。

 重要なのは、城戸氏と共に建立し維持してこられた若八幡宮(「福岡県神社誌」では村社若宮八幡宮)

を重視されている事です。

 ただ、荒津氏は橘一族とは異なる系統の氏族だろうと考えていましたが、なお、決め手を欠いています。

お手紙にあったように、本願地である福岡の若八幡宮で伊弉諾、海童命(実は豊姫、大海姫)を祀っている氏族だとすると、どうも、百嶋神代系譜に於けるニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦の息子にあたるウガヤフキアエズ、その子である安曇礒羅系統の氏族ではないか?とまでは言えそうです。

尚、この荒津氏が何者であるかの解明はできていませんが、物部氏であろうことは、ほぼ、間違いないでしょう(そもそも武士=モノノフとは物部の事なのです)。

ただ、安羅伽耶から入ってきた贈)崇神天皇系(大山咋系)である可能性も残しておきたいと思います。

荒津さんは、久山町は元より、苅田、箱崎、宇佐…と神社ばかりではなく寺院もお調べでした。

当方は単に荒津さんの頭をかき乱しただけなのかもしれませんが、今後ともお調べになった若八幡を始めとして久山町を中心に調べて行きたいと思っています。

とは言うものの、距離では百キロを越え、渋滞の酷い所であることから、おいそれとは調べる訳にも行きません。

また、現在、フィールド・ワークといっても知識を持った古老とか優秀な宮司といった方に出会う事は稀で、ほぼ、聴き取りが困難な状態になっています。

「福岡県神社誌」を軸にネット検索を駆使して調べて行きたいと考えています。

まず、重要なのは、荒津氏の本願地であったと考えられる久原です。

 久原とは製鉄、冶金の民がいた場所という印象を経験的に獲得しています。また、桑原とも重なり、桑原が桑の木を植え養蚕から繊維、絹布生産という秦氏=大幡主系の居住地であることが見えて来ますが、当然にも、付近には天御中主=妙見神を奉斎する神社が拾えます。

 ここでは、まず、村社若宮八幡宮の縁起から考えて見たいと思います。


458-3

「福岡県神社誌」上巻112


 記述から直ぐに博多に多いエベスさんこと古々代ヘブライ系の人々(具体的には縁日などで夜店などを出すヤシの人々=神農様を奉斎する)が、木寄神社から事代主を持ち込んでいる事が分かるため、残る仁徳天皇、イザナギ、海童神の三神で考えて良いと思います。

 若宮八幡宮とはされていますが、宇佐神宮の権威を受入れ八幡宮としているのであって、応神も神功皇后も宗像三神も祀っていないことから、一時期受け入れたものの現在は祭神を元に戻したようです。

 城戸氏は紀氏の可能性が高く、九州王朝の本拠地であった久留米市の高良大社の中枢氏族であり、彼等こそ九州王朝の最後の天皇であった仁徳(高良玉垂命と神功皇后との間に産れた長子 斯礼賀志命=シレカシノミコト)を奉斎していると見て良いでしょう。本当は大山祗系の匈奴の可能性を残したいのですが。 

若宮八幡宮の祭神を見て多少は荒津さんの御先祖が見えて来ました。

イザナギが外れ過ぎですが、イザナギか海童神かどちらかを祀られているのが、荒津さんの御先祖ではないかと思うのです。

 イザナギはどなたもご存じの開闢神ですが、百嶋神社考古学では新羅系昔(ソク)氏と考えています。

 では、海童神とはなんでしょうか?住吉の三筒男命は結構知られていますが、少童、海童はあまり知られていません。

 これについては普通の史書では全くだめで、久留米の高良大社の「高良玉垂宮神秘書」(グウジンヒショと読むべし)を読み解く以外に方法がありません。


458-4

若宮八幡宮


手持ちの写真が見つからないため458-5様の画像を借用しています


458-6


若宮八幡宮 カーナビ検索 福岡県久山町山田1863



Viewing all 723 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>