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458(後) 続)荒津 様からのお尋ねにお答えして 

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458(後) 続)荒津 様からのお尋ねにお答えして 

20170309

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



丁度、うちの研究会の主力メンバーとしてblogをオンエアし始めた宮原誠一氏のblog №.4でこれについてふれておられますのでご紹介する事にしましょう。


6.住吉五神と海祗(わたつみ)の神

豊玉彦は海神と呼ばれ、後の天穂日命である。その父は大幡主であり、外洋航海の腕効きでもあった。海神・豊玉彦の二人の姫君、豊玉姫・()玉依姫は海童女二神と呼ばれる。

鵜草葺不合命は大海祗(おおわたつみ)であり、その子、豊姫・大海姫は海童少女二神と呼ばれ、福岡市の志賀海神社の祭神でもあり「少童(わたつみの)命」二神とも呼ばれる。

なお、志賀大明神は安曇磯良であり、安曇磯良・豊姫・大海姫はいずれも鵜草葺不合命の子である。この三神を総して、海祗(わたつみ)三神という。


高良玉垂宮神秘書 第435440

彦波瀲武鵜草葺不合尊と申すは住吉大明神のことなり。この御子に住吉の五神がおわします。

嫡男 表筒男尊 日神垂迹 玄孫大臣物部大連のことなり。これより大祝の家の初まりなり。

表津少童尊 女神におわします。

次男 中筒男尊 崇神天皇のことなり。

中津少童尊 女神におわします。

三男 底筒男尊 月神垂迹 高良大菩薩におわします。

高良玉垂宮神秘書 第1条

(前略) 彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神なり。

この御子に住吉の五神として、御子おわします。二人は女子、三人男子にておわします。

二人の女子の御名は、表津少童命、中津少童命なり。

男子三人おわします。嫡男大祝の先祖で御名は表筒男尊なり。次男崇神天皇の御名は、中筒男尊なり。三男高良大菩薩の御名は、底筒男尊なり。次男中筒男尊はこの地に留りて、崇神天皇となり給うなり。住吉大明神は明星天子の垂迹、大祝先祖 表筒男尊は日神の垂迹なり。高良大菩薩 底筒男尊は月神の垂迹なり。


高良玉垂宮神秘書 第1条

(前略) 異国征伐の時、幕の御文これなり。四方に光を放ちたまう故に門光と名付けたり。月神現れ給いて、半時後、明星天子の垂迹、住吉の明神、七句老翁と現れ給う。この御子嫡男、日神の垂迹、表筒男尊、二人あらわれ給う。

三男、月神の垂迹、底筒男尊、四王寺の山において、三人共に立ち給う。

皇后の前にて、住吉の明神のたまう。我子の三男月神垂迹底筒男尊は、応作天大将軍の再誕にして、天上の大力士なり。大将軍に就くとありければ、住吉高良両名を大将軍と定め給う。皇后日く、日神垂迹表筒男尊、副将軍定め給いて、三韓を攻め給う。


綿津見(わたつみ)三神といえば、底津綿津見神、中津綿津見神、表津綿津見神と代名詞的に語られてきた。しかし、正式には「わたつみ」は「海祗」であり、「海」は朝鮮語で「パタ」と発音する。海祗(わたつみ)二女神は少童命(わたつみのみこと)とよばれ、鵜草葺不合命・大海祗(おおわたつみ)の子、豊姫・大海姫を指す。志賀大明神の安曇磯良、豊姫、大海姫はいずれも鵜草葺不合命の子であり、この三神を総して、海祗(わたつみ)三神という。

鵜草葺不合尊は住吉大明神と呼ばれ、後に引退され、三人の男子に住吉の神祗をお渡しになる。

住吉三神を整理すれば

(嫡男) 表筒男尊 日神垂迹 玄孫大臣物部大連・安曇磯良

(次男) 中筒男尊 ()崇神天皇

(三男) 底筒男尊 月神垂迹 高良大菩薩・大政大臣物部保連・玉垂命となる。

福岡県の志賀島に鎮座する志賀海神社は海祗(わたつみ)三神を祀るという。


「宮原誠一の神社見聞牒」による


 blog「ひもろぎ逍遥」の綾杉るなさんもお書きですので参考のためにお読み頂きましょう。


さあ、続きを読みましょう。

嫡男の日神・表筒男の尊神功皇后の妹・豊姫と夫婦になった。
地上での名は太政大臣玄孫(ひまこ)大臣物部の大連天照大神のひまごという事から付いた名である。二人の間の御子は大祝日往子(おおはふり・ひゆきこ)という。
(玄孫って「やしゃご」と読むのが正解。ひまごは「曾孫」と書きますよね。)

三男の月神・底筒男の尊神功皇后と夫婦になった。
地上での名は物部の保連藤大臣。高良大菩薩
藤大臣と呼ぶのは、干珠満珠を借りた時の仮の名前。
皇后には九人の御子がいた。
四人は仲哀天皇との間の御子で、五人は高良大菩薩との間の御子である。
合わせて九人の御子を九躰の皇子と言う。
残った月神と日神は、神功皇后姉妹とそれぞれ夫婦になったんですって。
なるほど、だから20歳の若者の姿で現れたんだ。
この二組の夫婦は仲が良くて、一緒に皇宮に住んだそうですよ。
場所はどこだろ?文脈からは、高良山の麓なんでしょうね。
それとも、四王寺山の麓?(どちらも九州王朝の都の候補地だ!)


458-6

長男の日神は豊姫と結婚して、生まれた子供に大祝日往子という名をつけました。
この大祝家は神官を務める家系です。物部氏なんですね。
この日往子のお墓が、祇園山古墳だという伝承もあります。
さて、メインの月神は神功皇后と夫婦になり、二人の間には5人の子供が生まれます。
仲哀天皇との間の4人の子供と合わせて九人を九躰の皇子と呼びます。

458*7

どれもこれも、記紀とは全く系譜が違っています。
記紀に洗脳された頭には、何が描かれているのが理解に苦労しました。
この九人の御子の名前は『神秘書』には書かれていませんでしたが、
宝物殿に、それを書いた縁起書がありました!

1 斯礼賀志命(しれかし)     
2 朝日豊盛命(あさひとよもり) 
3 暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
4 渕志命(ふちし)
5 谿上命(たにがみ)
6 那男美命(なをみ)
7 坂本命(さかもと)
8 安志奇命(あしき)
9 安楽應寳秘命(あらをほひめ)

9人の名前が伝わってるとはスゴイです。
さて、これも系図にしてみようとして、はたと困りました。
これが生れた順に書かれているなら、最初の四人は仲哀天皇の御子たちになります。
高良大菩薩の子供じゃないんです。
単純に考えるなら、シレカシ命は仲哀天皇の嫡男になってしまいます。
(宇美神社で生まれたホムタワケの命はどうなる?)
どうしよう。辻妻を合わせられない。そうだ。
神功皇后は元夫の子供を4人連れ子にした。
だから、高良大菩薩にとっては、子供が9人になった。
そうだ、別に変じゃない。それで、いいのかな…。
(違う気もする…。とりあえずスル―しよう…。)
神功皇后はこの後、東征をせずに、高良山の麓で幸せに暮らした?
そうなると、記紀とはかなりの違いですね。むむむ。


先に“イザナギが外れ過ぎですが、イザナギか海童神かどちらかを祀られているのが荒津さんの御先祖ではないかと思うのです。”としました。

 最も重要な若宮八幡宮(若八幡宮)の祭神の解明に関して、当初から荒津の「荒」は朝鮮半島の伽耶国の安羅を置き換えたものである可能性が高いと考えて来ました。

 実は、この最も重要な神社の鎮座地が、これまた安羅国との関係を考えさせる久山町山田1863なのです。

 山田という極ありふれた地名の様に思われるかもしれませんが、この「山田」は大山咋=日吉神社=日枝山王宮=佐田神社=阿蘇北宮=松尾大社の祭神である大山咋神に関係の深い地名なのです。

 従って、山田さんと聞けば、まず、阿蘇草部吉見系(黎族)と宗像の市杵島姫(白族)との混血民族の末裔といった可能性を考えているほどなのです。一例ですが熊本県玉名市のHPをご紹介しておきましょう。


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山田の集落は、南北に細長い丘陵上に形成されており、もっとも北側に山田日吉神社が所在します。もともと日吉神社は、京都府と滋賀県の境の比叡山にあって、山の神である大山咋神(おおやまくいのかみ)を祭ってあり、そこを拠点とした山王信仰の総本山として有名です。また平安時代に最澄によって比叡山に天台宗の延暦寺が開かれると、神仏習合により一体化しつつ全国へ広まっていきました。

山田日吉神社には、本殿に大山咋神、西の相殿に白山比売神(しらやまひめのかみ)が祭ってあり、集落内には延暦寺の末寺とされる山田山吉祥寺もあります。その他にもお堂や石塔などが多くあり、一帯は玉名地方の天台宗の拠点的な地域であったと思われ、丘陵全体が「玉名の比叡山」と呼べるような状況であったと考えられます。

境内には推定樹齢200年の藤があり、満開の時期には1メートルを越える花房が垂れ下がります。歴史ある神社にふさわしい見事な藤で、熊本県の天然記念物に指定されています。


この大山咋神こそクマカブトアラカシヒコであり(熊本県甲佐町の甲佐神社、石川県七尾市久麻加夫都阿良加志比古神社…)、その子がツヌガノアラシト=藤原により第10代と格上げされた贈)崇神天皇になるのです(京都府敦賀市の気比神宮)。

 これについては、「ひぼろぎ逍遥」285 北北東に進路を取れ! ⑤ 石川県七尾市のクマカブトアラカシヒコ神社 を参照して下さい。

 このため、久山町にはどうしても伽耶の安羅国との関係が否定できないのです。


とすると、荒津さんがこの大山咋系=崇神系である可能性は容易には捨てきれないのです。

 お手紙でも「一族に漁業関係者はいない…」と書かれていたため、ニギハヤヒ~ウガヤフキアエズ~安曇磯羅の線では考え難いのです。

 勿論、ロケーションから考えて配下に海人族がいなかったはずはないのであり、その海人族が「海童神」を祀り、荒津氏は当たり障りのない「イザナギ」を祀っていた可能性はあるのです。

 百嶋由一郎最終神代系譜をご覧頂ければ分かるのですが、イザナギとイザナミの子にスサノウ(弟)と神俣姫(姉)が産まれるのですが、その神俣姫と神沼河耳=贈)綏靖天皇との間に産れたのが阿蘇高森の草部吉見となり、さらに、宗像の市杵島姫との間に産れたのが大山咋になるからなのです。

 「一族に漁業関係者はいない…」と書かれてはいたのですが、このクマカブトアラカシヒコ、ツヌガノアラシトは半島と博多、肥後の甲佐、京都の敦賀などを頻繁に行き来していた舵取りであり、その事は、贈)崇神による東征(初代神武天皇はあくまでも巡行なのです)の際にその水先案内をしたとされる椎根津彦(倭ウヅ彦)=舵取も贈)崇神の弟である事からそれが読み取れるのです。

 ここまで考えてくると、やはり、荒津さんは崇神の流れを汲む少数派の物部氏と見たいのです。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


神社研究のために百嶋由一郎氏のデータを必要とされる方は直接09062983254までご連絡ください


459 六号潜水艇の佐久間艇長が産まれた神社について “福井県若狭町の前川神社”

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459 六号潜水艇の佐久間艇長が産まれた神社について “福井県若狭町の前川神社”

20170310

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今時、佐久間艇長などと言っても誰もご存じない時代になってしまいましたが、軍国華やかなりし時代には国民の誰一人として知らぬ者のない人物であり、他の多くの偉人とともに教科書には必ず登場していた軍神級の人だったのです。死亡後は二階級特進大尉(海軍では「ダイイ」と呼ぶ)。


佐久間 勉

1879913日に福井県三方郡八村(現・若狭町)で、前川神社神官で小学校教員だった佐久間可盛の二男として生まれる。福井県立小浜尋常中学校攻玉社を経て、190112月に海軍兵学校29)を卒業する。後に内閣総理大臣を務めた米内光政は兵学校時代の同期生だった。

1903海軍少尉となり、同日中に巡洋艦「吾妻」に乗り組んで日露戦争を迎えた。日本海海戦時には巡洋艦「笠置」に乗り組んでいた。日露戦争後は水雷術練習所の学生として採用され、水雷母艦「韓崎」に乗り組んで勤務、さらに第1潜水艇隊艇長、第4号潜水艇長、第1艦隊参謀、「春風」駆逐艦長、巡洋艦「対馬」分隊長をそれぞれ歴任して経験を積み、1908には第六潜水艇隊艇長を命ぜられた。

19104月15、第六潜水艇は山口県新湊沖で半潜航訓練中沈没して佐久間以下14名の乗組員全員が殉職した。同年417日に第六潜水艇が引き揚げられ、艇内から佐久間の遺書が発見された。その遺書の内容は同年420日に発表されるや大きな反響を呼び、同日中に殉職した乗組員14名全員の海軍公葬が海軍基地で執り行われた。同年4月26には、佐久間の葬儀が郷里の前川神社で村葬として執行された。


第六潜水艇沈没と遺書


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後に水交社から写真版で出版された佐久間艇長の遺書

第六潜水艇が訓練中に事故を起こし、乗組員14名全員が殉職した。殉職した乗組員は、ほぼ全員が自身の持ち場を離れず死亡しており、持ち場以外にいた乗組員も潜水艇の修繕に全力を尽くしていた。佐久間自身は、艇内にガスが充満して死期が迫る中、明治天皇に対して潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、続いてこの事故が潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を記した後、次のような遺言を書いた。


謹ンデ陛下ニ白ス

我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ

我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ


その後、「左ノ諸君ニ宜敷」と斎藤実を初めとする当時の上級幹部・知人の名を記し、1230分の自身の状態を、そして「1240分ナリ」と記して絶命した。佐久間が記した遺書は39ページにも及ぶ長いものだった。沈没した潜水艇が引き上げられた後に発表された佐久間の遺書は、当時の国内外で大きな反響を呼んだ。国外(主に欧州)では同様の潜水艇事故の折、脱出しようとした乗組員が出入口に殺到し、最悪の場合は乗組員同士で互いに殺し合うなどの悲惨な事態が発生していた。それゆえ、出入口へ殺到せずに最期まで潜水艇を修繕しようとしていた佐久間および乗組員の姿は大きな感銘を与え、各国から多数の弔電が届いた。

国内では長らく修身の教科書に「沈勇」と題して掲載されていたほか、夏目漱石は事故の同年に発表した「文芸とヒロイツク」において、佐久間の遺書とその死について言及していた。

今日でも佐久間の命日には、出身地の福井県で遺徳顕彰祭が行われている。海上自衛隊音楽隊による演奏や、イギリス大使館付武官によるスピーチが行われている。

ウィキペディア20170310 0824による


それこそ司馬遼太郎や阿川弘之などが喜びそうな話なのですが、操船ミスとの話はあるものの、簡単に言えば、小型の潜水艇による瀬戸内海(岩国沖が分かりやすいと思いますが)での訓練中に、初期のシュノーケルの問題によって浮力を失い、14人の乗組員全員が酸素欠乏により死亡した海難事故だったのです。

それが、後世に伝えられる美談となった背景には、佐久間艇長自身は最後までその原因ついての記録を残し、クルーも最後まで持ち場を離れることなく任務を遂行し従容として死を迎えた事が、沈痛なる事故であるにも関わらず、あの反戦歌人とさえ言われた与謝野晶子でさえも賛美を送ったと言われるほど多くの人々の心を揺さぶったという背景があったのでした。

イギリスの海軍兵学校(Britannia Royal Naval College)は英国デヴォン州のダートマスにありますが、ゴスポート(Gosport)には王立海軍潜水艦博物館もあり、第二次世界大戦においても、なお、敵国であった日本の佐久間艇長の遺書のコピーは展示され続け、日本では忘れ去られて久しい佐久間 勉が世界の潜水艦乗り=サブ・マリナーが見習うべき模範として現在も掲示されているというのです。

戦後の日本ではそれこそ占領軍に従い、教科書からも消され、手のひらを返すかのように忘れ去られてしまったのですが、今や、地元や海上自衛隊関係者を除き、この人物を知る人は極端に少なくなっている事でしょう。我々も、本を読んでいるから知っているだけであり、実に悲しいばかりの話です。


第六潜水艇

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救難作業の結果、16日(17日)に引き揚げられ、内部調査が行われた。佐久間艇長以下、乗組員14人のうち12人が配置を守って死んでいた。残り2人は本来の部署にはいなかったが、2人がいたところはガソリンパイプの破損場所であり、最後まで破損の修理に尽力していたことがわかった。歴山丸の艦長は、安全面の不安からガソリン潜航をはっきりと禁止しており、また佐久間大尉もガソリン潜航の実施を母船に連絡していなかった。歴山丸の艦長は事故調査委員会において、佐久間大尉が過度に煙突の自動閉鎖機構を信頼していたことと、禁令無視が事故を招いたのだと述べている。また、事故調査委員会では、潜航深度10フィートと言う、シュノーケルの長さよりも深い潜航深度の命令があったと記録されているが、実際にそのような命令ミスがあったのか(このようなミスは考えにくい)、記録上のミスなのかは不明。

ウィキペディア20170310 0831による


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佐久間艇長の話を長々とせざるを得ないのは、韓国や中国ほどではないとしても、手のひらを返すかのような国民性と今なお続く米国(ユダヤ・マフィア)による占領支配への思いは置くとして、これからはこの佐久間 勉が産まれた神社(前川神社の佐久間可盛宮司の二男)の話になります。

 最近は、京都から福井辺りまでは頻繁に足を延ばすようになりましたので、この若狭町の前川神社には何度か参拝してきました。

折しも、201611月、福島、茨木、群馬、埼玉、山梨の神社調査から再び同社を訪れたものの、面倒な話(六号潜水艇に関する記事)を書かざるを得ないためこれまで棚上げにしていたのですが、ようやく気力が戻ったため、少しずつ思い出しながら書くこととしたいと思います。

 ただ、何故、前川神社と呼ばれているかについては未だに分かりません。

 由緒を見る限り、前川神社はかなり古い時代(1200年前)に滋賀県大津市坂本の日吉大社から大国主命を勧請した神社のようです。

ただ、日吉大社とは、本来、阿蘇の草部吉見と宗像の市杵島姫との間に産れた大山咋を祀る神社であり、筆頭に並ぶとしても、何故、山王七柱のうち大国主命を祀る神社となったのかはそれなりの背景があったように思えます。想像だけで良ければ、オオナムチこそが本来の祭神で山王からの勧請は後付でしょう。


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前川神社由緒と大津市坂本の日吉大社祭神


 由緒には、「八幡社、金比羅社を祭祀したが」とあるものの、誉田別=応神はともかく、何故か、大己貴命の下に金山彦命と書いてあるのです。

まさか書き間違ったとは思えないため、金毘羅=金山彦と誤って理解されているのかも知れません(一般的に通説では金毘羅は大国主とされますが…)。また、普通なら出雲大社から勧請しそうなものですが、何故、坂本の日吉大社から勧請したのかも不思議です。

そう考えながら境内を見ると、参拝殿に浜砂利が敷き詰められている事に気付きました。


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 どう見ても大己貴命を祀る神社に特有の石持ち神事の名残だろうと思ったのでした。

 そう考えるとこの地には元々大国主命を祀る人々が住み着いていたのであり、広い意味で言えば、博多の櫛田神社の大幡主の領域であり、その延長上に前川神社の社家の佐久間 勉も在った事を知ったのでした。


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現在でも佐久間艇長の生家は保存されています。

 多分、右側の写真の部屋で勉学に励んでおられたのだろうと思っています。

 今また、西太平洋波高しといった時代となってきました。

海底での戦いでも、今や米国の最新鋭原子力潜水艦にとっても手強いと言われる世界最高水準の「そうりゅう型」潜水艦と89式深々度魚雷という現代版酸素魚雷が、密かに、しかし、大活躍している時代に入っているのです。


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 百年の時の流れを越え、一般には忘れ去らされたとは言え、これら海自のクルーにはゴスポートの佐久間 勉艇長の敢闘精神が脈々と継承されているのだろうと思うのです。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


研究目的で百嶋先生の講演録(MP3方式CD)、神代系譜や手書き文書のスキャニング・データを必要とされる方は、09062983254までご連絡下さい。

スポット122(前) 大量の土壌流出と木材流出は今後も継続する“平野虎丸ブログのご紹介を兼ねて”

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スポット122(前) 大量の土壌流出と木材流出は今後も継続する“平野虎丸ブログのご紹介を兼ねて”

 20170925

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 朝倉から日田に掛けての洪水被害については、ひぼろぎ逍遥の特番として以下の二本を公開していますが、今回もその続編とお考えください。


スポット112  行政が引き起こした人災だと何故分からないのか?

スポット115  山に木がある方が安全だと思い込んでいる人に対して!


神戸大震災辺りから怪しいのですが、3.11以降極端に激しくなった、所謂、頑張ろう日本!キャンペーンが醜悪である上に不評で、その後も熊本地震に継続されたまま徐々にトーン・ダウンと言った印象は拭えませんでした。

今回も同様にハーメルンの笛吹のような“朝倉~日田復興頑張ろうキャンペーン」が行われている様ではあるのですが、どうも事態が深刻過ぎて、全く頑張る気が出てこないといった印象が強いのです。

それは、“また雨が降ったらこんどは残った筋が崩れるんじゃないか?”“復旧しても、どうせまた流されてしまうだろう!”“儲かるのは産廃業者と土建屋さんだけで、いっそ廃業してよその町にでも移転した方がましじゃないか”…といった話が蔓延しているのが方々から聞こえてくるからなのです。

つまり、山の現場を把握していない都市部の人間であるとか、嘘つき学者にそのまま夢を教え込まされている現場も現実も知らない学生や、マスコミのリポーター女などとは異なり、朝倉や日田の都市近郊から農村部に住む人間は、“山の杉が一銭の金にもならず、森林組合に金を取られるだけ…”“何十年も前に一時金になった時期があったがボーナスをつぎ込んで手入れをしたけど大根一本の儲けも出なかった”“あれだけの流木の処理を日田のリサイクル発電所辺りに運んで処理して儲かっているらしい”“久大線の全線復旧も鉄橋工事に数年は掛かるために湯布院の森号はしばらく戻ってこない”“杉山は直ぐ崩るっですけんね”“杉山の中は草も生えるとらんけん石のゴロゴロしとるだけやけんね”“中国用に伐採して置いとった材木も一緒に流れてそいが壊しとっとさ…”“森林組合の職員は公務員とおんなじ給料ばもろうて良かばってん組合員はたかられよっだけくさ”“もう家ば建て直すよいか金のあーうちに娘んとこに行こうておもーとっ“”うちは百姓ばやめたけん無理してここに住まんでも良かけんね“…といった話ばかりが飛び交っているのです。

まさに、現場の理解は強固で、現地を認識できている人には、学者や行政の嘘が目に見えるのです。

それは都市住民と異なり、数十年前までは山に入り山に接して生きてきた人々だからこそ分かるのです。

見えないのは現場にも行こうともしない県や国などの役人たちだけで、彼らが創る醜悪な「頑張ろう○○キャンペーン」の嘘が丸見えで、現場を知る人々には一切効果がなく、まさに笛吹けど踊らずといった状況に陥っている事が手に取るように見えるのです。

こうして、何度も何度も多くの犠牲が積み上げられた結果、ようやく、徐々に、恐る恐る、林業の廃止への動きが出てくるのだろうと思うばかりです。正しい動きとはどうしても遅々たるものになるのです。




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画像はパスコによる

猫と言うよりヒグマの爪痕と言ったものですがこうなれば次の大雨では残りが崩れてくる事になります


 一週間ほど前ですが、今回の朝倉から日田にかけての豪雨災害に関する流出土壌の総量が凡そ1000万立米に上るという報道がなされたことから(確か九州大学の大学院だかのデータのようだったのですが、運転中だったので正確ではないかもしれません)、ネット検索を続けているのですが出て来ません。

 一方、崩落し流出した木材の総量は20万トンというとんでもない数字に上がっている事が、明らかにされています(以下)。


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ところが、行政にとって不都合な話は方々で消され続けているようです。

 どうやらこれだけではない様なのです。


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ネット上には多くの報告が出されていますが、直ぐに閉鎖される可能性があるため、早めに対応しなければならず大変です。これもクレームにより消されたのか、行政からの要請、圧力で消されたのか?


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とりあえず、20万トン(多分重量トンだと思いますので)でも凄い数字で、超六十年生の長伐期施業の放置針葉樹林地の一本当たりの重量が大雑把に1トンとして、20万本の杉が崩落し、何の責任も関係もない農家や住民や商工業者などの家や倉庫や工場やハウスなどを押し流したのですから、つくづく農水省、林野庁、県林業振興課、森林組合のバカの4乗が国家のためにも国民のためにも国土のためにも国民経済のためにも全く役に立ってないどころか、災害をもたらし、とうとう、人命の毀損まで引き起こし始めた事が分かるのです。この事を人災と言わずして何を人災と言うのか教えて欲しいものです。

そしてこれは今後も引き続き起こされる事を肝に銘じておかなければならないでしょう。


スポット122(後) 大量の土壌流出と木材流出は今後も継続する“平野虎丸ブログのご紹介を兼ねて”

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スポット122(後) 大量の土壌流出と木材流出は今後も継続する“平野虎丸ブログのご紹介を兼ねて”

 20170925

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



平野虎丸ブログのご紹介


そこで(流出土壌1000万トンの話がネット上から拾えない事から)これでは話にならないので、環境問題の例外ですが、トップ画面に右の下にリンクを張っている平野虎丸氏のブログをご紹介したいと思います。

氏は、プロの林業家であり、目白の取り締まりなどで全国的に知られた人で、その筋には恐れられた人でもあるのです。

植林をしない森の提案者として有名な環境保護活動家ですので、少しは毛色の違うリポートを読んで頂く事も良いでしょう。ひぼろぎ逍遥の右側の下にある三人委員会のブログの一つが彼のブログです。


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一月前の記事から幾つかお読み頂きましょう。


2017082017:07

「人工林が問題ではない」 九州大学准教授 水野秀明氏


平野虎丸です。ご訪問ありがとうございます。

朝倉の土砂災害について、福岡で放映された私が出演している番組のDVDを送って頂きましたので見た感想を書いてみます。

RKBの番組は、挿し木と実生のスギが本物と絵を使って詳しく説明され、スギ植林のこともはっきりと木材生産と解説されていましたから、皆さんにそれなりに納得して頂いたものと思います。

もう1本、テレビ西日本の番組は、私の説明と並行して九州大学准教授 水野秀明氏の現場解説がありましたが、これには驚きました。

タイトルは、「人工林は問題ではない」というものでしたが、解説に描かれているスギの根が実生でした。

実生と挿し木根の違いを無視するようでは、木を知らないと言われても仕方ないでしょう。

小さな土砂崩れは別にして、植林されたスギ山が崩壊している朝倉や日田の流木災害は、自然の山では起こり得ない災害です。

九州には自然の山にスギはほとんどありません。スギが並んでいる自然の山もありません。

たまに挿し木植林スギの実から成長したスギが12本とあるかもしれませんが、山全体にスギばかりが立っているような山は有りません。

そのスギも同じ樹から取った枝ですからクローンです。人間が植林して手入をしなければスギ山は出来上がらないものです。だから、人工林、というのです。

多種多様な樹木が競争し合って場所を取り合って生きているところが雑木山であり自然です。

世の中に同じ人間ばかりがいないように、自然界も同じ樹木ばかりが生きている場所は存在しないのです。

水野准教授による今回の土砂災害解説で?と思われるところは、

1、記録的な豪雨が主因であって、人工林が問題ではない。(人工林が崩壊しているにもかかわらず)

2、スギ植林地を「森林」と呼称.。(スギは木材生産のために植林されたものであって森林ではない)

3、流木が大量に溜まっている砂防ダムで流木が減らせると提言。

4、森林の持つ機能を超えた雨が降った。                      等などです。


1大量の流木発生によって、多くの家が流され人命が失われたのですから、スギを無視することはできません。

2、スギ植林地を「森林」と呼称しているのは「森林法」であり、行政が使う言葉です。国民が森林という言葉でイメージするのは自然の森です。

森林整備、というのは、スギ・ヒノキの人工林を整備することであり、木材生産準備のことです。森林も森林整備も法律用語です。

3、山をあちこち歩いてみましたが、砂防は流木で破壊されているところがほとんどであり、そのために築後川から有明海まで流れているのです。

砂防で流木をくい止めるのではなく、流木そのものを食い止めることが大事です。流木によって、家や人が流されないようにする必要があります。流木を食い止めるには、スギを植林しないことです。

4、水野准教授が言われている「森林」は、スギ植林による人工林のことです。スギ植林地が崩壊しているのであって、自然が創った雑木山が崩壊しているのではありませんから。

国民は、この「森林」という言葉や「森林整備」という用語に騙されないようにしましょう。これはスギ・ヒノキ植林を意味しています。

九州大学水野准教授の解説は「森林法」にも基いてスギ植林を70年近く続けてきた林野庁の解説です。昭和50年ごろには、九州の原生林はほぼ皆伐されました。

私にとっての森林は原生林です。300~400年生もの大木からなる原生林を伐採した私だからこそ、原生林の素晴らしさがわかり、国民の皆さんに本当の森の豊かさを伝えたいのです。

続きは次回に。

タグ :原生林森林法砂防ダム森林整備. 16拍手  rokuten1rokuten1 コメント( 0 )


あくまでも一般論ですが、「御用学者」という言葉は今も存在します。それにも及ばない見え透いた話で…「御用聴き」と言う方が適切な稚拙な御高説に聴こえます(個人的印象ですからどうにもなりません)。

仮に権力に尾を振るとしても、普通はもう少し上手にそれらしく説明しそうなものですが、誰もが分かるような話を堂々と否定できるところに価値があるのかも知れません。コメントする気にはなりません。


2017081300:08

池上彰のニュース解説 流木は国の政策が原因 テレビ朝日


平野虎丸です。ご訪問ありがとうございます。

811日放映された池上彰さんのニュース解説で、最近流木災害が増えているのは、国の政策が原因、という話があったそうです。

それも、「スギの根が張らないから」、というところまで話が出たそうです。

いいところまで来ていますが・・・。

根が張らないスギが原因で流木が大量に発生していることがわかっているのであれば、国は早急に、流木対策として上流域の沢の周辺のスギを伐採するべきではないでしょうか。

砂防は一基1億円から4億円かかるそうです。

大量の流木が出た場合、砂防は役に立ちませんから、倒木の恐れのあるスギは伐採しておくことが賢明です。

国が植えさせたスギですから、国の指導で伐採も出来るはずです。

全国から林業者が協力すれば、砂防を作るよりも早く、安くできます。

豪雨と成長した挿し木スギは、コンクリートを簡単に破壊します。

倒木しているスギの長さは20mほどありますが、根と言われるものの長さは、1mから15メートルです。

小さいスギは大きな災害は起こしません。平坦地のスギも、流木化していませんでした。

大量流木の原因は、浅い挿し木の根、というだけではなく、植えられた場所にも大きな要因があるのです。上流・急斜面・沢周辺です。

ところで、生産者という方から、「ヒノキはほぼ実生です」、というコメントを頂きました。ありがとうございます。

私は、実生ヒノキが倒木している現場を見たことはありません。

沢中心に災害が発生しており、沢にはスギが植林されているからです。

私が子供の頃には、ヒノキでもスギでも、枝をそのまま山に挿していました。

最近は挿し穂に発根させてから苗木にして植えていますが、昔は根も出ていない枝をそのまま山に挿していたのです。活着率は95%でした。

今後、日本の山のありようとしては、奥山は植えない森に戻して自然保護区とし、林業は実生であれ挿し木であれ平坦地で行うことがベストです。

林業は基本、自然破壊ですから、植林・下刈り・搬出などの作業がやりやすい場所で行うことが求められています。

そうすることで、農林業への動物の被害も減り、大きな土砂災害もなくなっていきます。

私へのご連絡は、携帯090-2082-6618です。いつでもどうぞ。

タグ :流木対策砂防ダム土砂災害.38拍手  rokuten1rokuten1  コメント( 0 )


2017080700:15

植林スギがなければ流木災害もない 

平野虎丸です。ご訪問ありがとうございます。

8月6日(日)、台風5号の風と大雨を警戒して高森に出かけませんでしたが、台風は東にそれて、熊本は大した雨も降りませんでした。

道路崩壊 流木災害さて、写真は先日、日本熊森協会さんが今回の流木災害現認についての私への取材動画を撮影されたときの模様です。

場所は、朝倉市山田地区で大量に流木が発生し家々を呑み込んだところです。

流木の始まりを探して山を登りました。

グーグルマップで見ると、2車線の立派な道路が走っているところですが、両側ともスギやヒノキの山になっています。


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小さな沢がありますが、以前にも土砂崩れが発生していて、砂防もありました。

低い里山なのに、どうしてこんなに多くの流木が発生したのか、という新聞記者さんの疑問からその原因を探して、先へ先へと歩き始めました。

流木整理の為道路は整備してあったので途中まで車で行き、あとは歩きました。


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崩壊始まり 山田流木災害の始まり2 山田地区左2枚の写真の沢が合流する地点に到達しました。

ここまで山を見てきて、ここの急斜面の挿し木スギの流失が、大規模流木災害の始まりであると確信しました。急斜面に植林された挿し木スギがほとんど流失しています。

道路崩壊 山田地区豪雨であふれた二つの沢の水と大量流木が向い側の道路にぶつかり、その勢いで道

路までが崩壊しました。


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豪雨による大量の水は、三ケ所から集まり、勢いを増し、挿し木流木と土砂、岩を巻き込んで下流へ流れ、両側に植えてある小さな挿し木スギを振動で巻き込みながら下の道路まで一気に下ったのです。

両側の山の沢や林道からも雨水が勢いよく流れてますます勢いが増していきます。

途中に「そばや」さんもあったそうですが跡形もありません。

斜面でなければ、これだけの勢いにはならなかったでしょう。

最初に崩壊した急斜面の大きな挿し木スギの塊がなければ、山田地区の大量流木も発生しなかった、と断言できる状況です。


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挿し木の根写真は沢にかろうじて残っていた挿し木スギの根ですが、地上部は斜めに傾いていましたから、今後台風や大雨で倒木します。

こういう木が今もあちこちにたくさん残っていますから、危険はまだ残っています。

山田地区上流部に挿し木スギを植林していなければ、今回のような大きな流木災害は起こりませんでした。

例え記録的な豪雨であっても。

この山の土砂崩れは成長した挿し木スギの崩壊が原因です。自然は簡単に山崩れしないように、樹木の根が地下深く侵入しています。

タグ :安倍総理大臣様流木災害挿し木スギ防災砂防ダム.16拍手  rokuten1rokuten1 コメント( 0 )


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お話から直ぐに山は素人だと分かりましたが、九大の情報を見ると、やはり林学の専門家などでは全くないようで、唯の泥屋さんのようですね。報道側ももう少し考えて人選されるべきではないでしょうか?

こんな話より、九大農学部にも関係する ひぼろぎ逍遥402 林野庁が引き起こした巨大山林崩落現場を十年ぶりに尋ねてみた“宮崎市田野町鰐塚山”でも読んだ方がよほど役に立つのではないでしょうか。

460 「象ケ鼻」 “阿蘇の大観峰の下に鼻を伸ばした象さんが寝そべっている”

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460 「象ケ鼻」 “阿蘇の大観峰の下に鼻を伸ばした象さんが寝そべっている”

20170312

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


阿蘇の阿蘇谷に一度もいった事がないという方はよほどの遠方ではない限りあまりおられないはずです。多くの方が最低でも一度ぐらいは足を踏み入れておられるものと思います。

 当然にも最大の観光スポットである阿蘇の噴火口から阿蘇神社や内牧温泉のあるエリアで、正面の大観峰と併せ普通は必ず目にされる風景だと思います。


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地名とは消されるものであり、以前の地理院地図や道路マップにも象ケ鼻として登載されていたと言う記憶を持っているのですが、どうやら都合の悪い地名と思われたものか現在の地理院地図にも記載がありません。


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阿蘇大観峰と古い地理院地図


現地は阿蘇観光中の名スポットであり景勝地の阿蘇大観峰から212号だか213号だかが尾根伝いに滑り降りる場所であり、冒頭の写真のとおり、象が鼻を伸ばして寝そべっている姿をそのまま地名にしたものと思います。

ただ、そうなると地名が付される時代に象を知っていた人物がいるだけでなく、相当多くの人々が象という概念を理解していた事にならなければおかしな話になる訳で、ナウマン象やマンモスならいざ知らず、一般の庶民が足だけを見たとか言われる象が入ってきたのは江戸時代の半ばの話であって、ましてや阿蘇に入ってきたはずは毛頭ないはずなのです。

してみると、明治になって徳富蘇峰とか蘆花といった文豪だか文士といった人々によって近代になって付された地名だったのではないかと思うものです。

ただ、現在では消された 上に、実際に象の鼻の形になっている事についての認識を地元の方さえもあまり持っておられないのではないかという気もするので、今回改めて取上げる事にしたものです。

まあ、自然地名については見た目で直ぐわかるところから一般にも誰でも分かるといったもので、ついでに、分かり良いものとしてもう一題ご紹介することにしたいと思います。


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鹿児島県の矢筈岳と開聞岳


もちろん九州にとどまりませんが、九州全域に矢筈(ヤハズ゙)と呼ばれる山があります。

多分、登山をされる方は、一つや二つは出くわした事のある地名であり山名だと思います。

矢を扱う事など全くない時代になり今や意味が忘れ去られていますが、もちろん矢を番えるくぼみをヤハズ(勝手に考えれば矢ホゾの転化か?)と言います。

実際のところ、これぐらいの窪みの方が連射、速射に素早く対応でき、深い窪みでは番えて発射にするまでに時間が掛ってしまうことから、それほど深い矢筈地名には御目に掛かった事がありません。


 の両端の弦(つる)をかける所。・・・②弓に矢をつがえる時、弦からはずれないために、矢の末端につけるもの。また、矢の末端。やはず。・・・⑦・・・帆を巻き上げる滑車のある部分に、綱がはずれないように作った木枠。                               (広辞苑)


私達が日常的に使う「そんなはずはない」さえもが、矢筈が起源であることが広辞苑に書かれています(③)。

まずは、身近なところから、佐賀県武雄市の南西部、長崎県との県境近くに、矢筈があり、唐津市の鏡山の東麓に矢作(ヤハギ゙)があります。この“ヤハズ”の話をする前に、“ヤハギ”を考えますが、こちらの方は矢を作り、矢羽(ヤバネ)を作る工人集団の住み着いた土地の事とされています。

さて、矢筈はかなり多い地名ですので、何例かを紹介させてもらいますが、山口県防府市の矢筈ケ岳、北九州市門司区大里の矢筈山、長崎県長崎市北西の矢筈岳、熊本県天草郡倉岳町の矢筈嶽、熊本県水俣市、鹿児島県出水市の県境の矢筈岳、宮崎県高千穂町の東、旧日之影町の矢筈岳・・・という具合に、多くの矢筈があります。

460-4さて、鹿児島県は薩摩半島のランド・マーク開聞岳の北西方向の頴娃町がありますが、ここにも矢筈岳があります。まず、山の姿を見れば一目瞭然でしょう(日本では窪みに意味があるようです)。 

二十年ほど前に、日本でもかなりヒットしたので覚えておいでかもしれませんが、アメリカのミステリードラマに「トゥイン・ピークス」がありました(アメリカではピークに意味があるのですね)。

タイトル・バックにも二つの峰が出ていたと思います。トゥイン・ピークスはアメリカ版の矢筈岳(ヤハズダケ)、矢筈岳とは日本版のトゥイン・ピークスとまでは言えそうです。


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461 白川稲荷の祭礼に出くわした “大分県杵築市大田の白川稲荷”

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461 白川稲荷の祭礼に出くわした “大分県杵築市大田の白川稲荷”

20170318

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


三月の三連休の初日、国東半島の付け根、半島南麓と言ってもかなりの山の中ですが、白川稲荷に行きました。

以前、国東半島の西の付け根、豊後高田の田渋荘の白川稲荷を訪ねた時、こちらの大田の白川稲荷にも廻ろうとしたのですが、場所が分からず引き返した事がありました。

 今回、大分県の豊後大野市清川町三玉宇田の宇田姫神社の写真を撮りに行ったついでに、白川稲荷に向かうことにしました。

 前の話をご存じない方もおられるでしょうが、簡単に言えば、京都の伏見稲荷の原点は福岡県春日市の白川伯王益寿稲荷であり、田渋荘のそれも大田のそれも九州での分社ではないのか?という話です。


ひぼろぎ逍遥(跡宮) 029 伏見稲荷様も九州出身 “春日市の白川伯王益寿稲荷”

ひぼろぎ逍遥     149 白川伯王益寿稲荷の分霊分社の発見か? “田渋荘の三宮八幡宮手前の小社”


 朝9時を回った頃に杵築市の中心部から北の山中に向かいましたが、かなりの山を越える事になりました。

 途中の道路脇にも白塚稲荷があるなど白川伯王家の神威が及んでいる事が明らかでした。


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バイパスも通行止めであったため旧道で移動しましたがようやく入口に辿り着きました


 偶然でしたが、春の大祭の日だったようです。


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同社由緒


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古い神体と思われる磐座と石の神殿


461-6あいにくながら、いつも用意している祝い袋が探し出せなくお賽銭は入れたものの、奉賀金を差し上げませんでした。

 祭礼はそれほど長くはなく、天気にも恵まれ良い御祭りだったようです。

 このような、集まるのも大変な場所で祭礼を続けられている関係者の皆さんには改めて頭が下がる思いです。

 さて、この祭礼の祝詞を聴いていると、祓戸神が頻繁に登場していました。まあ藤原が造ったもので当たり前と言えば当たり前ですが…。

 スセリヒメ(実は櫛稲田姫)、豊アキツヒメ、ハヤサスラヒメ…と聴き間違いでなければ、ハラエドの神というフレーズも出て来たようです。不信心ながらも有難いお札を頂きました。

 祝詞は関心が無く詳しい事は分からないのですが、常套句なのかもしれません。

 しかし、右に示した1.2.3の神々は、金山彦=カグツチの神の娘、孫娘に当たる三代の瀛氏の神々に高木大=タカミムスビの長女が加わったものなのです。


春日市に白川伯王益寿稲荷という古風な神社があります。

稲荷については、オコンコン様として以外は分からず、文字通り狐につままれてきたのですが、最近になって、ようやくその一部分が理解できるようになってきました。

「ひぼろぎ逍遥」でも、063 「神埼の櫛田宮内の二つの稲荷神社の祭神」として取り上げています。

さて、「白川王家」というものがあり、この白川伯王家に伝わる宮中秘事である天皇が行う「天子の行」など祭儀とそれにもとづく理論が「白川神道」であり天皇家と皇室のための神道があったとされていますが、これは明治維新前後に消えた(潰された)と聞き及んでいます。


「稲荷神」とは難解で、いまだに要領を得ませんが、製鉄に絡む神であることだけは確かです。

 それは、鳥居の色にも示されていますが、ここでは稲荷一般について語らず、京都伏見稲荷大社さえも上回るドエライ神社があると聴いていることをご紹介したいと思います。

 簡単に言えば、京都の伏見稲荷の原点がここであると言えばお分かりいただけるのではないでしょうか。

 幸いにも菊池川流域地名研究会メンバーで「牛島稔太のHP」のマネージャー牛島氏(最近会から離脱されましたが)が神社伝承から見る古代史」百嶋由一郎先生の世界--- もう一つの神々の系譜 --- で百嶋講演を文字化しておられますので、以下、白川伯王益寿稲荷について話されたことをご紹介します。


この地域でとてつもない神社といえば、秘密になっているが春日市の須玖に出勢(いせ)の稲荷さんがある、御祭神は伏見の稲荷さんである。先ほどいった狗奴国の乱の整理を済まして、ほっとしている出勢の稲荷様、ただしその当時はまだ、出勢稲荷なんて申し上げないていないので、判りやすくいうと、伊勢の外宮様と申し上げておく。

そして、狗奴国の乱を起こしたのが、大山祇の神、別名、月読みの神です。齢は西暦2000年を基準にいきておられれば、即ち、積年1888歳である。そして、このスクの稲荷さんの叔父さんである大国主のみこと、この方は、狗奴国の乱の張本人、大山祇(月読みこと)の神の息子であります。その張本人と同じ責任を取らないといけない立場にあったのが、大国主のみことである。そして、これはそういう乱を起こしたからといって、乱を起こしたほうが悪いというわけではない。民族と民族の対決なので喧嘩してもどうということはない。とにかく、そういう過程を経て、日本という大和と言う国が出来上がったという一つの段階としてお考えて(ママ)下さい。

そこのスクの稲荷さんのお名前を申し上げます。白川伯王益壽稲荷(出勢の稲荷様の別の名前)


この神社はいつ消えてなくなるか分からない非常に重要な神社のため、あえてカーナビのデータを上げませんでした(もっとも、ナビでも分からない場所で心配はないのですが…)。

熱心な方だけに訪問して頂きたいからです。ただ、非常に分かりにくい場所にあるため下調べをして参拝されることをお勧めします。

参拝に際しては失礼がないように、また、存続のために多少の御寄進、お賽銭をお願いします。

もっと詳しくお知りになりたい方は「春日市誌」を何度もお読み下さい。

 正しいことが、分断され分からなくなっていますが、何度も読めばご理解いただけるかと思います。


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京都伏見稲荷大社の原点 白川伯王益寿稲荷神社



さて、問題は残されています。古代磐座祭祀から白川稲荷に発展した事は由緒に明らかなのですが、どこからの勧請ともされていません。しかし、白川の名は、天皇家の宮中祭祀を司った白川伯王家以外には考えようがありません。そして、明治維新によってその痕跡は消されたのでした。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 研究目的で百嶋由一郎神社考古学に関する音声CD、神代系譜、手書きデータを必要とされる方は09062983254まで

スポット140 太宰府地名研究会の神社トレッキングに参加しませんか? “先行繰り上げ掲載”

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スポット140 太宰府地名研究会の神社トレッキングに参加しませんか? “先行繰り上げ掲載”

20171027

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


現在、太宰府地名研究会では福岡、大分、熊本の三県に於いてトレッキングを行なっています。

 さすがに大雨ともなれば室内での勉強会に切替え延期にもしますが、小雨程度ならば傘を刺してでも可能な限り現場を踏むという方針で探査を続けています。

 このような、自らの頭と手足を使って調査をしようと言う姿勢なくしては古代の真実への扉を開けることはできないと考えているからです。

この点、古代史の多くが北部九州で起こっている…とする九州王朝論者にあっても、フィールドに一切出ようともせず、濃厚な伝承が残り重要な現場が存在するにも拘わらず一切調べようともせずに、薄っぺらな“邪馬台国本の読み比べ”を行っているようでは、結果として九州の現場など見向きもしない大嘘つきの学会通説派の尻押し団体となっているだけの事なのです。

 もっとも、○○研究会といった人々も現場は見て廻っていると言う方はおられるでしょう。

 しかし、○○検定とかボランティア歴史ガイドなどと称して通説派の学芸員が造った型通りのコースを丸呑みし、それ以外は一切誤りだ!などと調教され強弁する輩が産みだされる構造を容認しているだけの古代史ポイントを見て廻るだけで、調査旅行と称する慰安会をやっているだけでは何も発見できるはずはないのです。

 所詮、自前の講演会を行ったとしても右から聴いて左に貫けるだけのような人々集まりではどうにもならないのであって、自らの目と手足を使って現場を探索する気概と意志を持ち続ける人にだけ古代は微笑み掛けるのです(意志あるところに道は開かれる)。

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特に、1119日に予定している 神功皇后の生育地を探る! トレッキング(佐賀県佐賀市三瀬村)では、神功皇后の両親である父 息長宿禰王(オキナガノスクネ)と母 葛城高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)が住んでいたと考えられる(神功皇后もそこで産まれた?)佐賀県の北山ダム周辺の神社とそこに注ぐ初瀬川一帯を訪ねます。


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野波神社縁起


今も何がしかの真実を求め、例え一人であっても丹念かつ静かに神社を訪ねておられる多くの方がおられます。

これに対して、村興し町興し世界遺産登録に動員される情けない人々、また、かつては古田武彦九州王朝論に惹きつけられ通説から決別したと思い込んでいる方にあっても、自らは何も調べようともせず、後世に記録を書残そうともせず、当然、纏まった古代も描けぬまま、所謂、「邪馬台国本」を何の系統性もなく読み勝手に思い込み、「邪馬台国論議」だけで良しとしている恥ずべき人々もおられるのです。

このような人々に比し、経験はないものの若くも現場に入ろうと思う人の方が余程正しい軌道に乗っているものと思います。

勿論、神社ばかりではありませんが、肥前の東部から太宰府、久留米、八女、熊本、筑豊、豊前、豊後

…には多くの古代史の謎が封印されています。その一つにこの神功皇后の生育地もあるのです。

詳しくは、スポット131 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた!“宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”をお読み頂きたいと思います。

まず、神功皇后の母親(神)とされる葛城高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)ですが、三瀬村の東隣に脊振村があります(現佐賀県神埼市)。

ここに鹿路という集落があり(コミュニティ・バスのバス停は「桂木」)一言主神社までがあるのです。

実はこの地こそ故)百嶋由一郎氏が、“昔はここも「高良」と呼ばれていた九州王朝の中心的な集落であり、初期の九州王朝の安全な中心地であった”と言われている場所なのです。

付近には、旧背振村永江(表記が長柄、永江、長江…だったか覚えていませんが)があり、そのまま、葛城長江曾都毘古(古事記)(カツラギノナガエソツヒコ)を思い起こさせます。

ソツヒコの「ソツ」は、佐賀県旧牛津町(現佐賀県小城市)の牛津(ソツ)かも知れません。

sp140-4それだけに、その後裔である葛城高額比売命は旧脊振村、旧三瀬村一帯にいたと思われる葛城一族の後裔である可能性が否定できないのです。

一方、父親(神)の息長宿禰王(オキナガノスクネ)はひぼろぎ逍遥にリンクされておられる、「沖永氏は秋永氏である。」の顛末記というサイトにおいて書かれていますが、息長一族が現久留米市田主丸町一帯に拠点を持っていた事は確実で、その位置関係を考えると信憑性が極めて高いのです。


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第一義的には宮原誠一の神社見聞牒 No.25 神功皇后生誕の地・佐賀背振の野波神社 をお読み頂きたいのですが、関連してひぼろぎ逍遥 066 葛城のナガエソツヒコは神埼市(旧脊振村)桂木にいた でも触れていますのでついでにお読み頂きたいと思います。

このように福岡市内から一時間ほどの場所にも古代史の重要なポイントが無造作に転がっているのです。

してみれば、馬鹿げた○○古代史の会といったところで通説派と変わり映えのしない話を聴くのは止めてトレッキングに参加されては如何でしょう。

オープン参加ですので直接参加もOKです。      当日の連絡先:09052892994 09062983254

462 武田信玄も九州王朝系氏族の後裔だったのではないか?

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462 武田信玄も九州王朝系氏族の後裔だったのではないか?

20170319

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 右は宮脇淳子先生の「日本人が教えたい新しい世界史」に入っていた しおり なのですが、武田信玄の家紋が「花菱」でもあったと書かれているのです。

 一般的に、武田信玄の旗指物には「風林火山」と共に、「四割菱」が使われていた事はどなたもご存じのはずです。


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ところが、この「四割菱」のイメージが強すぎて、「唐花」を使っていたと言う事についぞ気づかなかったのでした。

 と、いうよりも、「四ツ目紋」「四面紋」の延長上に創られたものとの理解から、高木大神=タカミムスビの神の後裔との方向で考えていたからでした。

462-2結局、先入観のなせる業だったのですが、この間、山梨のぶどう寺に関するものを連続して書いてくると、やはり、三枝氏が仕えた武田氏そのものが、唐花紋の継承者であった事に気付いたのでした。

 話はこれだけと言うか、実際にはここから始まるのですが、我々、九州王朝論者の内部でも極めて特殊な「百嶋神社考古学」と言う過激な神社研究を行っている者の中ではかなりの常識になっているもので、ある時代に於いて九州王朝の本拠地であったと考えられる、久留米の高良大社の公称としての神紋は、確かに「左三ツ巴紋」と「木瓜」なのですが、私達の内部では、唐花こそ本当の神紋であり、それは外部に分からない様に今も隠されているという事を知っているのです。



462-3伊勢皇大神宮の神紋に気づかれたかたはいますか?門光です。開化天皇が四王子山にお立ちになった時に、まばゆいばかりの光が周囲に散ったのです。現在では、花菱といいます。これが高良神紋であり、住吉神紋です。門光以前の紋章は桐です。男は五七、女は五三の桐です。まだ日本が定まっていなかった頃は、九七があった。神武後継五瀬のみことが働いていた頃は九七の桐もあったのです。但し、十六葉菊は後鳥羽上皇が追加されたものです。従って、天皇家の紋章は、桐、門光(花菱)の二つです。宮地嶽さんは高良と同一神を祀っていることを隠すために、紋章切替をなさっている。三階松です、江差追分の江差町、牛深天草ハイヤの連中は船で全国を廻っていた。九州の王朝の行事を日本国中広めていた。


 してみると、高良大社の内部に「門光」が隠され、宮地嶽神社が「三階松」を表に出していると言う事実と、武田氏が「門光」=「唐花」を使い、その臣下である三枝氏が「三階松」を使用していると言う事実が対応している事に戦慄を覚えるのです。


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決定版知れば知るほど面白い! 家紋と名字 より


戦闘用の旗指物は大量に生産する必要性から簡略化された意匠になる場合が多く、唐花(門光)が四ツ割菱となった可能性もあるのですが、唐花と四ツ割菱に直接的な関係はなく、四面紋=四ツ目紋が四ツ割菱に変えられた可能性もあるのではないかと思うものです。

 つまり、女系は唐花(門光)で、ある時代、四ツ目を使う高木大神系氏族との通婚によって成立したのが武田氏かも知れないと言う仮説です。

 この辺りの作業は、どうしても郷土史的な掘り下げが必要となるため、今後の課題として残しますが、北関東から山梨に掛けて有名なタケコロ(建許呂命)がカギになりそうです。


建許呂命

建許呂命(たけころのみこと)は古代日本の人物。建己呂命建凝命とも書き(『新撰姓氏録』)、また天津多祁許呂命多祁許呂命(『常陸国風土』)、建許侶命(『先代旧事本紀』)とも書く。

『姓氏録』によれば、天津彦根命14世の子孫にあたり、中央氏族の三枝部連庵智造(以上大和国神別)、高市県主和泉国神別)の祖とされる。

地方にあっては『常陸風土記』に茨城国造(後の常陸国茨城郡にあたる国の国造、現茨城県中部。以下これに准う)の祖で、神功皇后朝廷に仕え、その子供が8人いたとされ(茨城郡条)、『旧事紀(国造本紀)』でも茨城国造の祖で、成務天皇の時代に初めて石城国造陸奥国石城郡。現福島県いわき市)に任じられたとある。

また『国造本紀』では、その子供が成務天皇の時代にそれぞれ

に任じられ、また、応神天皇の時代に別の子供が

に任じられている。

ウィキペディア 20170319 22:42 による


 現在、関心を持っているのは武田氏とその配下とされている三枝氏の関係であり、共に、天津彦根命の後裔としても、どちらが本来の本流であり、古代に於いてはどちらが格上の氏族であったのかといった事です。

 ここらになると、どうしても現地の研究に頼らざるを得ず、今後の作業になります。

 「新撰姓氏録」、「常陸国風土記」、「先代旧事本紀」、「旧事紀(国造本紀)」…といったところに登場する氏族ですからそれなりの大族であったことは理解できそうです。

 「天津彦根命の14世の子孫にあたり、中央氏族の三枝部連と庵智造(以上大和国神別)、高市県主(和泉国神別)の祖とされる。」云々は、常陸の氏族が九州からの植民であると思われるだけに、興味津々といったところです。

 今回は、武田が九州王朝の本当の神紋である「門光」を使用していたと言った事だけを頼りに引き延ばした薄い考察でしたが、こういうものの積み重ねで、また、新たな展開に繋がるのかも知れません。


天津日子根命 あまつひこねのみこと

敬愛するHP「玄松子」氏による

別名 天津彦根命:あまつひこねのみこと
…… 根の国へ向かう
建速須佐之男命は、高天原へ天照大御神に別れを告げに来た時、天照大御神は武装して迎えた。 建速須佐之男命は他意の無い事を示すため自分の持つ十握剣と 天照大御神の飾りの勾玉(八坂瓊五百津御統珠)を交換し、 誓約によって、建速須佐之男命は三女(多紀理毘売命狭依毘売命田寸津比売命)を、 天照大御神は五男(天之忍穂耳命天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命熊野久須毘、『日本書紀』の一書では熯速日命を加えた六柱)を生んだ。

鬘の珠から化生した神が天津日子根命。火か日に関係ある神か。
『日本書紀』一書では、天照大御神の首の珠を建速須佐之男命が口に含んで左の腕に生まれたとある。

天津日子根命は、凡川内国造(河内国)、額田部湯坐連(北茨城国造額田部連等)、 茨城国造(常陸国茨城郡)、倭田中直(大和国生駒郡内)、山代国造(山城国)、 馬来田国造(上総国望陀郡)、道尻岐閇国造(常陸国多賀郡の一部)、 周芳国造(周防国)、倭淹知造(大和国山辺郡)、高市県主(大和国高市郡)、 蒲生稲寸(近江国蒲生郡)、三枝部造の祖。


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スポット123 筑後川の南から北の被災地を眺める 悲しい棄民国家の現実  “ここでも「災害地名

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スポット123 筑後川の南から北の被災地を眺める 悲しい棄民国家の現実

 “ここでも「災害地名」が意味を持っていた「道目木」「梅ケ谷」”

20171001

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 日田市から筑後川の南(左岸)を久留米方向に走っていると秋晴れの空の下に痛ましい山肌が確認できるようになりました。

 言うまでもなく2017年九州北部豪雨と命名された降雨による針葉樹林地の大崩落の鮮明な爪痕です。


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写真は国道210号線沿いの道の駅から北の被災地を映したものです。

 全てが崩落地ではないとしても、見えない部分にも多くの崩落地があるはずで、農水省、林野庁が言う森は国土を守り水をつくっているなどの話がとんでもない大嘘である事がお分かりになるでしょう。


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 おいそれとは入れませんが、山の崩落現場に行けば、次は隣が崩れて来ることが素人目にも明らかなはずで、二次災害、三次災害、四次災害、五次災害、六次災害…と永久に繰り返される事は明らかでしょう。


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これは二枚目の写真の左三分の一辺りに有る「道目木」~「梅ケ谷」地区に関する記事です。

 
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この調査は、福岡県朝倉市内の13カ所のため池について、九州農政局、福岡県と合同で実施された。

 報告書によれば、流域で発生した土石流の影響や河川の浸食の影響で、一部のため池では決壊など重大な被害が発生したが、その一方で、上流からの土石流を池敷に貯留して下流の被害軽減に貢献したため池もある。

 例えば、多くの被害が報告されている朝倉市山田地区の鎌塚ため池の場合、上流からの土石流や流木と、山の神ため池の決壊土砂が鎌塚ため池の貯水池に流入し、設計より高い貯水位となったが、決壊を免れた。貯水池や洪水吐下部には土砂や流木が大量に堆積しており、山田地区への土砂・流木の流入を大きく軽減したと考えられるとしている。

 また、朝倉市杷木地区の梅ケ谷ため池では、上流の山腹から大量の土石流と流木が貯水池に流入したが、洪水吐の水路周辺の軽微な損傷にとどまり、ため池が砂防ダムの役割を果たし、下流の住宅などへの被害を大きく軽減したとしている。

 このように、土砂を受け止めて下流の住宅への被害を軽減したと思われるため池が、今回の九州北部豪雨では複数存在したと、報告されている。

 この調査報告書は、農研機構のホームページの

http://www.naro.affrc.go.jp/disaster20170705/files/survey_Report1.pdf

に公表されている。


元々、農業用水目的のため池が、自らの仲間である林野庁が引き起こした大災害をくい止めたと宣伝する事にどれ程の意味があるか分かりそうなものですが、もしも農水省所管の老朽ため池事業の導入が遅れていたならば、下流域への災害はさらに輪を掛けて大規模になった可能性があった事に目を瞑り吹聴せざるを得ない事自体に農水省の危機感が現れているのかも知れません。

要は、決堤には至らず溢流(オーバー・フロー)に留まっただけだったのです。

さて、我々地名に関心を寄せる者が注目するのはこの現場の地名です。

そうです。「道目木」と「梅ケ谷」地名です。

お分かりでしょうか?

「道目木」(ドウメキ)とは「造目木」(ゾウメキ)「座目木」(ザメキ)「后目木」(ゴウメキ)「宮目木」(グウメキ)…といった急河川に付される地名であり、言うまでもなく、ドウドウ、ゾウゾウ、ザアザア、ゴウゴウ…といった川のザワメキを表現したものなのです。

つまり、大雨が降った夜中などに水が一気に集まるような場所で、脅すつもりはありませんが水の音が谷に響き渡るような危険な場所に付けられる地名なのです。

一方、「梅ノ谷」にはある時代の記憶と言った意味が残されているはずで、洪水の結果、埋まった平地(これには良い意味と悪い意味があるでしょうが)を感じさせます。

「梅ノ谷」が梅が植えられた土地ならば美しい山里の風景で済むのですが、恐らく美しい文字に敢て変えざるを得ない悲しい過去も閉じ込められていた様にも思えるのです。


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こうした「災害地名」は災害後に気付かれれば注目され、その時だけマスコミも飛び着き脚光を浴びるのですが、平穏な何でもない時に口に出そうものなら、地価が下るとか縁起が悪いとか土地が売れなくなるじゃないかと攻撃されるのが関の山なのです。

 良いとこ「もっと早く言ってくれたら他所に移っていたはずなのに…」がせいぜいで、所詮、この手の話をする人間には良い事など一つもないのです。

 結果的には、ため池も溢流程度で収まり大事には至らなかったのですが、このような危険な土地の未来への「地名」のメッセジも意味がない時代に入っている事が良く分かります。

 それは、朝倉から日田に掛けての全域がおいそれと住む事もままならない危険地帯になってしまったのですから、このような「災害地名」も意味のない無用の長物となってしまったのです。


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要約

九州北部に甚大な被害をもたらした記録的豪雨。今回、被害を拡大させた理由の1つとみられている流木。災害復旧の大きな障害にもなっている。こうした事態を受け、国や自治体は会議を開催。流木の撤去を早急に行うべく話し合いが行われている。


 この梅ケ谷ため池には大量の針葉樹が流れ込んだと言われていますが、今回の洪水災害が針葉樹林の大崩落に起因している事は明らかです。

 もしも、このため池が決壊していたならば、東北大震災の凄まじさに隠れてほとんど知られていませんが、藤沼ダムという農業用ため池が決壊し8人が犠牲になっているのです。

農業用水目的のため池が、自らの仲間である林野庁が引き起こした大災害をくい止めたと宣伝する事にどれ程の意味があるか分かりそうなものですが、…と前述した意味がお分かり頂けたと思います。


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藤沼ダム

最大の地震動 442ガル、且つ 50 ガル 以上の震動が 100秒間も継続したことで堤体すべりが生じ、 北東部にある高さ18m、長さ133mの堤が決壊した。決壊により約150t の水が流出し、多くの樹木を巻き込んだ鉄砲水となって下流にある居住地域を襲った。 下流の長沼地区および滝地区では、死者7人、行方不明者1人、流失もしくは全壊した家屋19棟、床上床下浸水家屋55棟という被害を出し、田畑の土壌も多くが流失した。 東北大学大学院工学研究科の調査チームを率いる風間聡は、堤の状況や住民の証言に基づき、地震動によって堤は一気に崩れたのに違いないと言う。また、同チームはダムの下流約500mに位置する滝地区で高さ2mを越える泥水の痕跡を発見しており、水の力そのもの以上に流木による破壊が激しかったと考えられる[4]。なお、決壊直後の濁流を地元住民が携帯電話で動画記録している。

ウィキペディア(20171024 19:20による


それは、二十数年間に亘って放置してきた付け回しが廻ってきただけの事であり、林野庁による売れもしない伐期を越えた杉、桧の処理が放置された結果、植林から撤去費用という投下された資金の何百倍~何千倍ものもの代償を地域で支払わされる事になったのです。

では、崩れ落ちた(流れ出したという表現は森林管理の欠陥を覆い隠すトリックですのでご注意を…)二十万トンもの木材はとはどのように処理されているのでしょうか?

信じられないかもしれませんが簡単に言えば焼却処分されているのです。

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2017九州豪雨

流木を発電燃料に 大分県と日田市 福岡からも受け入れ検討

20170803 0300分 更新

記者:岩尾款

 大分県と同県日田市は2日、九州豪雨で大量に発生した流木を木質バイオマス発電の燃料として活用することを決めた。流木は河川の復旧工事や農業の足かせになっており、順調に進めば、福岡県内の流木も受け入れる方針だ。

 国土交通省の推計によると、大分県内の流木は日田市の大肥川や花月川の流域で約2万立方メートル。県や日田市は県建設業協会などの協力を得て流木を回収し、木質バイオマス発電の燃料となる木材チップを加工する「日本フォレスト」(日田市)に処理を委託する。同社は1年間に大分県の流木量以上の処理が可能で、木材チップは県内や九州一円の発電事業者に販売する。

 流木の表面に付いた泥や中に含まれる水分は、細かいチップに加工する作業の支障になる可能性がある。このため水分が抜きにくい根や泥は、流木を回収し、搬送する過程で取り除く。

 福岡県内の流木は朝倉市を中心に約19万立方メートルと推計(国交省)され、県などが処分後の活用策を検討している。大分県循環社会推進課の担当者は「日田市で発生した流木の処理を優先するが、隣県としてできるだけの協力をしたい」と話した。


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お分かりでしょうか?

何十年と掛けて育てた杉を単に運び金を払って燃やしているのです。

逆に言えば、とんでもない事に持参金付の燃料を貰って発電しているのです。

これが、情けないばかりの日本の林業の実態であり、それを許した国家の在り様なのです。

まず、そもそも、何故、林業地帯で主として杉を燃やす発電事業が行われているのでしょうか?

元々は、痛んだ杉の処理から始まるのですが、雪害は置くとして、まず、傾斜地の崩壊地に育った曲がった杉とか風倒木、端材、ダムや井関に流れ込んだ流木の処理が徐々に増えて来ました。

昔は、勿体無いと持って帰られそれなりの使われ方がされていたのですが、材の価値が低下するにつれてどうしても処分せざるを得なくなってきた上に、産業廃棄物の処分が利権と化して以降は、野焼きもままならず、自らが産廃業者として処分せざるを得なくなってきたのでした。


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ところが、現在はまともに育った杉自体でさえも全く売れない状態になり始めているのです。

このため、最近では立派な商品となるべきものさえもチップとされ燃やされ始めているといった馬鹿げた話が聞こえ始めているのです。

一応、発電しているのだから無駄ではないだろうと考えられる向きもあるでしょうが、火力だけに関して言えば樫(カシ)や椚(クヌギ)と言った広葉樹の方が遥かに火力は強く、だからこそ杉の炭など全く存在しないのです。

結局、40年から伐期を越え60年育てた杉が全く売れる事無く、家屋敷から田畑の一切を押し流し、迷惑どころか、生命や財産を奪い、地域と産業を破壊し、その処分に莫大な税金を投入し、挙句は、一部をチップにするとはポーズだけで(事実上需要はないのです)100のエネルギーを得るために10000を投下すると言った不効率極まりない発電事業を行い、自ら産廃業者に成り下がっているのが現在の林業であり、林野行政なのです。

そして、破綻しきった林野庁の天下り先の一つになっていると言うのですから国賊と言わずして何を国賊と呼ぶのか聴きたいところです。

463 延岡市郊外のバンの群れ

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463 延岡市郊外のバンの群れ

20170321

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


熊本在住者を対象とする2017320日の宮崎県五ヶ瀬町祇園神社周辺での雨の中での25人規模の第二次トレッキング(第一次は6人規模)を終え、そのまま帰るのもつまらないため高千穂から延岡に向かいました。

只の移動とは言っても、普通の道を避け、できるだけ別ルートを採用すれば別の神社に遭遇できるチャンスも拡大する事から妙な道を通っていると、延岡市の北の郊外で、奇妙な風景に出くわしました。

それは、比較的交通量の多そうな道路の脇でクイナの仲間と思われる鳥が数羽遊んでいたのでした。

野犬や野良ネコやイタチ…は心配がないのか?と思いましたが、一旦は通り過ぎ、再度、現場に戻って写真を撮る事にしました。

郊外とは言ったものの、場所は宮崎県延岡市夏田町319-○付近で、目の前には旭化成繊維不織布工場、旭化成メディカルMT岡富工場などが立ち並んでいます。


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クイナの仲間ではバンと大バンが比較的良く見かけるのですが(と言ってもそうめったに見掛ける事はありません)、佐賀県では水田や蓮根田などで結構見掛けましたし、30年ほど前に佐賀市の隣町の三日月町(現佐賀市)に住んでいた頃には家の周りの用水路と言うか川と言うかに十羽ほどのバンが住み着いていたので直ぐにその類である事が分かったのでした。

有名なのは、ヤンバルクイナですが、バンは嘴の上が赤く、大バンは嘴が白いと思っていれば、だいたい見当が付くのではないでしょうか?

では、ご覧いただきましょう。

ちょっと分かり難いかも知れませんが、嘴が白い事から大バンで間違いないのです。

間違っても、アヒルとかカモではありません。


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川の中を見ると、百匹は数えられる大型のボラが鯉のように泳いでいました。

 しかし、巨大住宅団地の直ぐ傍にバンがいるとは思いもよりませんでした。


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車には、常時、望遠鏡と財)野鳥の会による図鑑を入れていますので、気付いた時には確認するようにしています。

 少しずつでも野鳥の種類が分かるようになっていくのは楽しいのですが、このように普通の住宅地で野鳥や魚が確認できる所はどんどん減っています。

 勿論、バンも大バンも、大阪のオバン(関西を中心に分布する豹柄や光物模様の済州島出身の総連系)同様に生活力、抵抗力の強い鳥で、決してひ弱な鳥ではないのですが、このような大都市近郊の住宅街で普通に見掛けられるのは稀であり、この地域の方達は幸せな方であると思わざるを得ません。

 既に、農水省、林野庁の全土を針葉樹林化させてしまうという愚かな行為によって、ミネラルが欠乏した上に、土壌流出、保水力の低下によって川に弾力性が失われ、林野庁の利権構造によってダムは土砂で埋め尽くされ、川は砂利の流出によって瀬も淵も失われた賽の河原が広がっています。

 戦後70年の間に、あれほどいた魚が身の回りからほとんど消えてしまいました。

 農水省のほ場整備事業によって、どこにでもいたドジョウやメダカやホタルは元より、フナ子やタナゴも全て消し去られ、密かに釣り具メーカー(口先では環境を守りましょうと言っているのですが…)がバス倶楽部などに補助金を流して増殖、移植が行われたブラック・バスが蔓延してしまいました。

 川は上から下までコンクリートの三面張りによって魚やホタルの生息域を失わせましたし、カエルさえも激減し、結果、蛇も珍しい動物に思われる時代になってしまいました。

 この連中は、国民経済のためにも、国土保全のためにも、国民のためにも全く働いていません。

 昭和30年代から始められた遅れた拡大造林政策によって売れもしない針葉樹が急傾斜地に放置され、崩壊と洪水、土石流の順番を待っている状態です。

 また、そのうち、宮崎市田野町の鰐塚山の百万本もの針葉樹林の大崩壊のような無様な災害が起こる事でしょう。

 そして、その災害復旧事業によって、また、天下りを期待している事でしょう。

まさしく、国賊としか言いようがありません。

これについては、ひぼろぎ逍遥ではなく、「アンビエンテ」463-5「有明海諫早湾干拓リポート」から


204. 宮崎県鰐塚山針葉樹林の大崩壊 ( 宮崎県内の全ての川が土砂で埋まる Ⅱ )“針葉樹林に火を着けろ!”田 野 


をお読みください。


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百万本もの管理された450年生の針葉樹林が崩壊した宮崎県旧田野町の鰐塚山の崩壊現場(当時)


 林野庁は“針葉樹林の保水力は広葉樹林”のそれとほとんど変わりがないなどととぼけた実験結果をだしているのですが、問題は、その実験林の土壌、地盤そのものは、元々、数百年、数千年という広葉樹の営みによって培われたものである事が分かっていないか(馬鹿か)?

 知っていて偽装しているに決まっているのです(嘘つき)。

スポット124 ヤマタノオロチ退治異伝(「高良玉垂宮神秘書」)“宮原誠一研究のご紹介”②

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スポット124 ヤマタノオロチ退治異伝(「高良玉垂宮神秘書」)“宮原誠一研究のご紹介”②

20171001

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 太宰府地名研究会のエースに宮原誠一氏がおられます。

 氏は3040年に亘り筑前~筑後の神社研究を続けてこられましたが、百嶋由一郎神社考古学に接してようやく謎が解けたと言われています。

 既に、sp124-1としてblogを更新続けておられますが、まだ、スタートして間もない事から直ぐにアクセスが上がるという訳には行かないようです。

 このため、宣伝の意味を込めて、No.24 老松神社シリーズ ⑥ 大国主を祀る朝倉市下渕の神社を全文転載させて頂くことにしました。

 なお、「ひぼろぎ逍遥」、「同(跡宮)」にもリンクしていますので sp124-2、私の駄文よりもよほど立派ですので、是非お読み頂きたいと思って止みません。


宮原誠一の神社見聞牒(024)

平成29(2017)0928


No.24 老松神社シリーズ ⑥ 大国主を祀る朝倉市下渕の神社


神功皇后と羽白熊鷲(はしろくまわし)の戦闘で有名な福岡県朝倉郡筑前町(旧三輪町)弥永に大己貴神社がある。その北東約1.5Kmの下渕(したふち)に神功皇后と大国主が係わる老松神社がある。秋月への入口点の甘木待丸・三輪内村と秋月街の中間に当たり、楠の大木が繁る境内の広い神社である。ここは旧安川村であり、夜須川(甘木川の古名、現在の小石原川)が流れる。この秋月には大国主関係の神社が多くみられ、羽白熊鷲は大国主の匈奴熊襲を引き継ぐ朝倉匈奴の頭領であった。(匈奴熊襲とはトルコ系匈奴を指す)


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福岡県朝倉郡筑前町(旧三輪町)弥永の大己貴神社

第一の鳥居は「大神大明神(おおがだいみょうじん)」第二の鳥居は「大神神宮(おおがじんぐう」とある。


老松神社の福岡県神社誌によると祭神は神功皇后と「菅原神、吉祥女」となっている。

社殿には梅鉢紋が打たれているが、「菅原神、吉祥女」の菅原神は祀られていない。

神功皇后は本殿の後の摂社群のなかの忌宮神社に関連があるが、本殿には祀られていない。

このように、福岡県神社誌の祭神と実際の神社祭神の祀られ方には、随分と隔たりがみられる。


福岡県神社誌


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神功軍、熊鷲軍が戦った七つの戦場を「七ヶ森」と云い、ここ下渕は、その一つ「御府(みふ)の森」と云う。古くは、ここに老松神社の社殿があったが、明治22年に字「茶屋」に、大正3年に字「御府後」に移っている。

熊鷲軍は本丸の「秋月野鳥」に踏み込まれ、上秋月に後退する。今の秋月城跡の当たりで、この戦場を「梅園の森」と云う。この南の丘に八幡宮があり、ここを「宮園の森」と云う。八幡宮になる前の古宮の祭神は大国主である。熊鷲は大国主と野鳥の白山宮(妙見宮)を祖神として祀っている。

北東にそびえる古処山は妙見様の山(山頂には白山宮の上宮がある)、その東にある馬見山は大国主の山と古代人は崇めた。


最初に仲哀神功軍が熊鷲を攻めた時、軍卒が集まらず、大三輪社(大己貴神社の元宮)を立て、刀矛を祀り祈願したところ、軍衆が自ずと集まったと云う。兵卒の中には、穂波大分(ほなみだいぶ)で徴兵された者もおり、嘉穂は大国主の故地(穂波・桂川の出雲土師一帯)である故、大国主信奉者もいたことだろう。そのため大国主を大神神社に祀ることで、兵卒は安心感を得て集まったのであろう。

この大己貴神社の西約500mには大国主ゆかりの神社「日隅宮うずのみや」がある


やがて、羽白熊鷲との決戦は上秋月の愛宕神社がある付近の「椿の森」で行なわれた。この地は現在「千原(血原)」という地名で残っていると云う。

再度敗れた熊鷲軍は後退し、今の寺内ダム湖の荷原(いないばる)で羽白熊鷲は終焉を迎える。



以前から疑問だったのですが、逆賊「羽白熊鷲」も熊襲だったのではないかと考えて来ました。しかし、それ以上先に進む事ができずに留まっていたのですが、宮原氏ははっきりと大国主命(トルコ系匈奴)の後裔と謎解きをしてくれました。さらに、これも謎だったのですが、林田の三奈木神社の祭神が何故、大国主命であり、三奈木の三奈木神社と異なるのかも理解できました。まさに宮原氏によるブレーク・スルーに感謝します。併せて伊藤まさ子女史の研究も謎解きに寄与したのです。古川注


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社殿の外の社紋は梅鉢紋であるが、神殿正面には見えにくい所に剣梅鉢紋が打たれていた。

剣梅鉢紋は福岡県小郡市南端の西鯵坂(にしあじさか)の老松神社でも見かけた。


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百嶋神社考古学に影響を受けた宮原氏、伊藤女史…と多くのメンバーによる共同研究が実を結び始めています。ようやく「古事記」「日本書紀」がひた隠しにしてきた謎の解明が一挙に進み始めました。

残された時間はそれほど多くはありません。神代史を通じた古代史の解明にご理解を…。古川注


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神殿の後の摂社には、宮地嶽神社、忌宮神社、宇賀神社、宝徳神社、市杵島神社、田神社が並んでいる。宝徳神社は稲荷神社関係、宇賀神社は弁才天関係で、市杵島神社が大国主と直接関係し、祭神・市杵島姫は大国主の妃である。


宇賀神(ウガジン)と弁才天

仏教に説く穀物神で、弁才天と同一視され、密教にも取り入れられ、白蛇の形をとる。

宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)とは関係なく、仏教の弁才天と習合し、宇賀弁才天として祀られている。

弁才天信仰は奈良時代に始まって、金光明経の「八本腕弁才天」、

平安時代には琵琶を持った「密教弁才天」、

鎌倉時代には白蛇を伴った「宇賀弁才天」と変化している。

市杵島姫の神仏習合である弁才天は、インドの川の女神・サラスヴァティーに由来し、水辺に腰掛け、琵琶を奏でる優美な女神と表現される。このため、弁才天(市杵島姫)を祀る社は、多くが境内地の水辺や池の浮島に祀られている。規模の大きい神社では、社殿全体が池に囲まれている神社もある。


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神殿の側壁の彫刻は、天馬・馬が彫られ、匈奴熊襲の騎馬民族をうかがわせ、境内の灯籠には月形と鹿が彫られ、モンゴル騎馬民族の匈奴熊襲関係の神社と見てとれる。神殿には、その惣領である大国主が一人鎮座されている。


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老松神社の福岡県神社誌に記載されている祭神「神功皇后」と「菅原神、吉祥女」は祀られていなくて、実際には大国主一人が祀られている。

祭神を大国主とするには、まずい時代があったのであろう。神社名が老松神社であるから、祭神は菅原神でいいとしても、戦前であればこそ、祭神を神功皇后とすれば通りが良かったに違いない。

しかし、ここ、羽白熊鷲の本拠地、安川、秋月には神功皇后を祀る神社はない。ほとんど、大国主関連の神社である。それだけに、地元の人達には、羽白熊鷲は郷土の誇りであり、ひいきなのだろう。

大きな戦争・戦闘があれば、戦後処理が行なわれる。戦死者の弔いである。

最期の戦闘は今の寺内ダム湖の荷原(いないばる)で展開され、羽白熊鷲は戦死し、倭国大乱に次ぐ大戦争は終結する。寺内ダム湖の「池辺」にて両軍の戦没者の供養が行なわれた。

この戦いで神功軍はダム湖の西、今の秋月ゴルフカントリーの南の小高い山・喰那尾山(くいなをやま・栗尾山)山頂に陣を置いている。この山頂に大宝元年(751)喰那尾神社が「池辺」から遷宮する。現在の美奈宜神社の古宮である。

これら羽白熊鷲と古処山と美奈宜神社について、鋭い考察が一般ブログとして公開されている。伊藤まさ子管理人「地図を楽しむ・古代史の謎」の「12羽白熊鷲と古処山」2011-10-03 である。その一部を抜粋紹介。


(前略)美奈宜神社は延喜式に名のある式内社である。そして、同じ字、同じ呼び名でもう一つ神社がある。林田の美奈宜神社である。昔から、どちらが式内社か、地域を二分し論争が繰り広げられたとか。決着がつかないまま現在に至っているそうだ。

不思議な事がある。馬見山と寺内の美奈宜神社を結ぶと、馬見山→羽白熊鷲の墓(水の文化村)→寺内の美奈宜神社→林田の美奈宜神社と、地図の上ではラインがつながるのである。地図記号の小さな神社。小さな点のような神社記号を通るとは、偶然にしても出来過ぎに思える。(中略)

熊鷲が古処山を本拠地にしたのは何故だろう。考えられるのは、彼はそこから東の馬見山を遥拝していた?である。彼の神は馬見山に鎮座しておられた?のではないか。と言うのは、遠賀川の源流は、馬見山だ。この辺りでは、大神様を「おんがさま」と呼ぶ。馬見山は「大神様」と呼ばれる信仰の対象だったのだ。だから、遠賀(おんが)川の流れも馬見山から始まっている。一人納得してしまった。

羽白熊鷲の神が馬見山だとすると、古処山は、地図の上では何処と結びつくだろう。(後略)


熊鷲と古処山の位置


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筑紫の匈奴熊襲は、馬見山を大国主の山と崇めた。大国主は福岡県筑前町弥永の大己貴神社に主祭神として祀られている。第一の鳥居は「大神大明神(おおがだいみょうじん)」、第二の鳥居は「大神神宮(おおがじんぐう」とある。大国主は「義理の大物主」であり、「大神大明神」であり、地元では「おんがさま」と慕われた。大国主は筑豊の穂波の出雲・土師におられた。若い頃は義理の子・事代主(少名彦)と筑豊芦原の国造りをなされている。恐らく、伊藤氏の言われるように、「遠賀(おんが)川の流れも馬見山から始まっている」とあるように、遠賀川の名前の起源も「大国主・おんがさま」から来ているのであろう。

美奈宜神社といえば、もう一つの美奈宜神社がある。林田・蜷城(ひなしろ)の美奈宜神社である。ここ林田・蜷城では、羽白熊鷲の残党との終結戦が行なわれている。


蜷城地区振興会「蜷城(ひなしろ)の名の由来」 福岡県朝倉市林田

皇后、九州の悪者退治の時、潮干玉を使って川の水を枯らし、川蜷に頼んで一晩のうちに城を作り、今度は潮満玉を使って一度に水を入れ、水攻めにて滅ぼすようにと、神告を受られる。川蜷が守った里をニナシロと呼び、ニナシロがなまってヒナシロとなった、と云う。


「九州の悪者退治」とは羽白熊鷲の残党軍であろう。勝者の言い分である。

当ブログNo.3「3人の豊姫ともう一人の玉依姫」にも述べているように、「蜷」は「杭・柵」の置き換えであり、「蜷城」は「柵の城」という意味である。

ここで、大国主と熊鷲を中心に伊藤氏の「馬見山→羽白熊鷲の墓(水の文化村)→寺内の美奈宜神社→林田の美奈宜神社が、地図の上でラインがつながる」のである。

これらに関連して、美奈宜神社の社号の起源についてみてみる。

羽白熊鷲戦争によって、寺内の美奈宜神社と林田の美奈宜神社は、大国主と羽白熊鷲が基底にあり、同じ起源を持っている。

蜷城 → ニナキ → ミナキ と訛っている。この「ミナキ」が漢字で「三奈木」「美奈宜」が当てられた。社伝に「蜷ミナ」を「美奈」と訓()む、とある。好字が使用されている。

「三奈木」は寺内の地名として残っている。「蜷城」は林田の地名として残っている。「美奈宜」は神社名として両神社に使用された。

しかし、祭神になると、両神社の内容はかなり異なってくる。

寺内の美奈宜神社は主祭神が「天照大神」、林田の美奈宜神社は主祭神が「大己貴(大国主)」である。寺内の神社は勝者関係「天つ神」を祀り、林田の神社は敗者関係「国つ神」を祀る。

この後、説明が続くのだが、この件については、紙面をかなり要するので神功皇后を論ずる時に別稿で触れたいと思う。

() ここに記された「神功軍」は、神功皇后軍単独ではありません。正確には、開化天皇軍と神功皇后軍の連合軍であり、あえて神功軍と使用しました。神功皇后は仲哀天皇が第一次の羽白熊鷲戦争で戦死され、神功皇后は開化天皇の軍門に降られ、天皇の后となられている。


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464 列島のブラック・バスはなぜ急速に拡散し繁殖したのか?

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464 列島のブラック・バスはなぜ急速に拡散し繁殖したのか?

20170324

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 これは10年前に「環境問題を考える」のサブ・サイト「アンビエンテ」の一つ「有明臨海日記」に書いたものの復刻版ですが、これも誰がこんな悪事をやったのか?を後世に引き継ぐために書いておこうと思うものです。

 ここ二十年ほどで列島の隅々までブラック・バスやブルーギルといった外来魚が急速に繁殖し、川から池、沼、湖の在来魚が脅かされ消失へと向かっている事(もはや手遅れ)はどなたもご存じかと思います。

 一般的に言って、自然界における魚類の繁殖とは容易には行かないものです。

まず、アメリカから淡水魚のブラック・バスが太平洋を泳ぎ切り列島の河川に進出したはずは無い訳ですが、相当困難な想定をすれば、例外的ながら渡り鳥の足に着いた卵が鳥によって空輸され繁殖するとしても、長距離の移動で卵が生きている事はよほど良好な中継地や短時間での移動でもない限り成立しない事はお分かり頂けると思います。

只、はっきりしている事は、その後、急速にバス・ボーイが急増され、アメリカのバス・マンを気取ったバス・ボートに乗る猿まね(アホ)文化が蔓延し、多くの河川、湖沼に自然界に還元しないプラスチックス製のルアーやラインがブレークによって残され、野鳥や水生動物が苦しむ事になっているのです。


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No.070 20060928ブラック・バスはなぜ拡散したのか?

 以前から不思議に思っていた謎が一つ解けました。これは業界に詳しい人物から直接聴いた話ですのでかなり正確だと思います。私の住む家の近くにある大型の農業用ダムにもブラック・バスやブルーギルが繁殖しているという話を聞き、どう考えても理解できずに実際に自分で釣ってみようと考え、十五年ほど前にそのダムに釣りに行った事がありました。もちろんバスはルアーで釣るのですが、同行の友人が一匹釣り上げ、私には釣れませんでしたが、ミミズも掘って持参していましたので、ウキ釣りで狙うと、直ちに二〇センチクラスのブルーギルが三十匹ほど釣れたのです。このため、我が家の猫達が腹いっぱい食うことになりましたが、ただ、どう考えても、あの辺鄙な農業用ダムに簡単に繁殖するとは考えられなかったのです。
 バス釣りがブームになりはじめたのは、確か少年漫画かなにかがきっかけだったと記憶していますが、瞬く間に全国でバスが繁殖したというのはどのように考えても不思議でした。"バス釣りに嵌った少年達が方々の池に放したのだ"と言われて納得してはいたのですが、実はそうではなかったのです。
 理由は至極簡単でした。竿やリールを売りたい釣具メーカーが、組織的に繁殖させたという事をその筋に詳しい関係者から聴いたのです。
 これで、永年の疑問が氷解したわけです。"釣場を守ろう""釣場をきれいに""種を守ろう"などといった耳ざわりの良いことを口にしながらも、裏では先細りしていた海釣り市場の代替として全国にバス釣りを普及させたという訳だったのです。
 まさか、メーカーがこのような乱暴なことをするとは考えもしなかったのですが、資本主義的生産とは実に気違いじみたものだと改めて認識したものでした。やはり、私はスターリンのような悪人には成り切れないようです。
 当然ながら、釣具メーカーはこの事を否定するでしょう。メーカーはバス釣りを広めたいというグループに対して、資金提供しただけだったのかも知れません。しかし、談合を否定する企業の裏で談合屋が密接に連携しながら動いているように、釣具メーカーの背後でバス・ファンを囲い込んだ別働隊が動いていたというのが真相らしいのです。


十年以上前に書いた小論でしたが、今も気持ちは変わりません。

既に、海釣りブームが高齢化により頭打ちになり、ダム建設や河川改修によって、渓流釣り、鮎釣りに進出するファンが凋落へと向かう中、釣り具の高級化、高価格化だけでは売り上げを確保できない状態に釣り業界自体が落ちいっていたという背景があり、そのさらなる背後には全体としての環境破壊が進んでいたのでした。

こうした中、破壊された環境でもしぶとく生きていけるブラック・バスを新たなビジネス・チャンスと考えた連中が居たことだけは間違いがないと思う様になっていました。

思えば、人口が集中する都市近郊の汚れた河川でも生きていけるブラック・バスは、商売としては将来性のあるターゲットだったのだと考えられるのです。

もうそろそろ良いでしょうから、ここで明らかにしておきますが、前文の冒頭で「これは業界に詳しい人物から直接聴いた話ですのでかなり正確だと思います。」とした“業界に詳しい人物“とは、既に廃刊となった関西系釣雑誌社の重役でした。

株)週刊釣りサンデーは1976年の設立当初から、週刊の釣り雑誌、並びに釣りや魚類に関した書籍・ビデオなどを出版し、1980年代~1990年代の釣りブームをリードする存在として著名でした。

十数年前に環境問題の集まりで、この雑誌社の、一応、重役としておきますが、ご本人とお会いし直接お聴きした話ですので、釣具メーカー(関西はその意味でも中心ですね)や業界の裏の裏まで知り尽くした方による証言だったのです。その後、同名で復刊したらしいのですが、勿論、全くの別の雑誌です。


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「有明海異変」を公刊したばかりでしたが、当時、海釣りでも新たなジャンルとしてサーフのキス釣りに進出し熱中していた時でもあったことから、釣りサンデー社から出された小西和人氏の「キスのすべて」(勿論、魚のキスですので…)を何度も読み返した頃でした。

 当然にも、バスを養殖しようとするだけではなく、バス釣りブームを造り出すために、多くの“やらせ漫画”が増産された事も事実です。

 世論操作による不正選挙はアメリカばかりではなく日本でも行われている事は確信していますが、その手法は元々アメリカからの輸入であり、とうとう自然環境までアメリカナイズされてしまった事になる訳です。

 残念なのは、愛読し敬愛していた「釣りキチ三平」の矢口高雄氏までもが「バスボーイ」を書くようになった事です。これ以降全く読みもしないし購入もしなくなってしまいましたが…。

背に腹は替えられないといった事なのでしょうか…さもしいと言うか、地に堕ちた…といった印象は拭いされません。釣りキチ三平もバスの蔓延に嘆いていることでしょう。

ネット検索を行うとこの問題に関して取り上げていた方がおられました。


2012-08-01 環境テロの片棒

[自然][日記]ブラックバス定着の悲劇 ブラックバス定着の悲劇を含むブックマーク CommentsAdd Star


 サカナについてせっかくだからもう一話。きのう正業の帰りに、市民公園の片隅にあるため池に立ち寄った。おととしブラックバスが勝手に放流され、タニシやザリガニが消えうせたせまい池である。

 トンボは飛んでいた。コシアキトンボとオオルリボシヤンマ、モノサシトンボを確認した。羽虫ではアメンボ・ミズスマシもいた。もしかしたらブラックバスは定着せず、2冬を越せぬまま絶えたのかな?としばらく観察をつづけていたが、残念ながらヤツらの稚魚と親魚がいた。定着してしまったらしい。

 ザリガニもタニシも復活した様子は無し。でも昆虫類はかろうじて根絶やしを逃れているようだ。他の水域からきているのかもしれないが。この周辺は山間ながら田んぼもあり、ため池はほかにもあるから。

 薄気味悪い外来魚を勝手に放す犯罪行為をぬけぬけとやらかす環境テロリストが、わが郷里にもいることが悔しくてならない。そういえば矢口高雄さんもブラックバス礼賛漫画を描いていた。『バスボーイQ』だっけか、あれをみて「なーんだ、ブラックバス釣りを楽しんでもいいんだ、バスを拡めてもいいんだw」と思いこんで実行する奴がいても不思議ではない。あるホームページから一文を拝借しよう。

☆矢口高雄氏軽蔑宣言!

●漫画家矢口高雄氏がついにバス・フィッシング漫画を描きました。先日、書店の漫画雑誌コーナーにそれを見つけて愕然としました。最近の矢口氏の発言のバス・フィッシング容認姿勢に危惧を抱いていたところでした。「ボクの学校は山と川」「ボクの先生は山と川」のエッセイや、日本の自然と人とを描いた漫画作品の大ファンであった私は、なにか裏切られたような気がしました。バス・フィッシングは環境テロです。子供たちにそれをそそのかす立場に立ってしまった矢口氏に対して私がこれまで抱いてきた敬愛の念は失せてしまいました。これからは、糸井重里や清水国明などと同様に軽蔑の対象となってしまいました。誠に残念です。

http://www.geocities.jp/masaketei/hundo-shi/bus.htm

464-3 なんということか。名の知れた漫画家が人気取りに走り、環境テロ行為の片棒を担ぐという悲劇に、漫画をみてバスのゲリラ放流者が増殖し、各地の湖沼の内水面が地獄絵と化す悲劇。断腸の思いで、矢口さんが招いた複数の悲劇を後世に伝え残すとしよう。

 さいわいというか、ここは狭い水域である。水をぬいて魚を分離することは難しくない。杉山客員教授は県内各地でバス駆除活動に汗を流している。いつか機会をとらえ、市にバス駆除を申し立て、郷土にふさわしくない外来生物の一掃をお願いしたい。

びんずいノートによる


公益財団法人 日本釣振興会なる天下り団体がありますが、外来魚の蔓延を放置するだけ放置して、取り替えしが着かない段階で実効性の全くない「外来生物法」なるザル法が制定されましたが(焼け跡に焼夷弾)、こういった方々が、偉そうな顔をして釣り場を守ろうとか自然を守ろうなどといったキャンペーンを行っているのです。単に、ダイワだとかシマノだとかいった業界から金を引出し甘い汁を吸っていると言うのが実態なのでしょう。

釣具メーカーも拠出金を集られたのでしょうが、免罪符とでも思っているのでしょうか?

私自身も熱心な釣りマニアで、釣竿だけでもジャンル別に50本は持っていますし、キス釣りでも一本10万円もする竿を持っていますが、このような構造に気付き、既に、釣りを十数年やめてしまいました。

ザル法の一端をご紹介しておきましょう。この天下り先を造るためにつくられた法律、制度だったのです。


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外来生物法とは

1. 釣り人として知っておくべきこと

平成1761日より「特定外来生物による生態系などに係る被害の防止に関する法律」(通称 : 外来生物法)が施行されています。

特定外来生物法による指定された魚のなかで、主なものは

○オオクチバス○コクチバス ○ブルーギル ○チャネルキャットフィッシュ です。

「外来生物法」では釣りをすることが規制されているわけではなく、次のような行為を行うことが規制されています。規則を守って釣りを楽しみましょう。

釣り人にとっては「1」、「3」、「6」に注意が必要です。

1 飼育・栽培

この法律では魚を飼育することそのものが禁止をされていますので、魚を家に持ち帰り池や水槽で飼うことはできません。また家に持ち帰ると③運搬の規則違反にもなります。

2 保管

3 運搬

魚を釣った場所から移動することはできません。釣った魚を自宅で飼うためや、人に見せるために運搬することはできません。

4 販売・譲渡

5 輸入

6 野外に放つ

釣った魚をその場で水中に戻すこと(キャッチアンドリリース)はこの法律では規制対象とはなりません。ただし、キャッチアンドリリースが条例などで禁止されている県や水域がありますので、釣りをする場合は事前に調べ、規則を守りましょう。釣った魚をその場所から移動させ、別の湖や川などに放つことはできません。また魚を移動させると③運搬の規制違反にもなります。

【外来生物法に違反した場合の罰則】

個人の場合、懲役3年以下もしくは300万円以下の罰金。法人の場合、1億円以下の罰金。


(公財)日本釣振興会(略称:日釣振-にっちょうしん)は、一般の釣り人や、釣具店・メーカー及び釣り関係団体等が会員になり、会員の会費や寄附で運営され、“釣りの健全な振興を図る”ための事業活動を行なっております。

主な事業活動としては、「放流事業」、「水辺環境美化保全事業」、「釣教育・釣振興事業」、「釣りマナーと安全対策の啓発事業」等です。


 今さらこんなザル法を作って良い事でもしているように装っているのが使命感のない官僚どもなのです。

465 杵 島 ② 1/2

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465 杵 島 ② 1/2

20170324

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は、「環境問題を考える」“環境問題の科学的根拠を論じる”のサブ・サイト「アンビエンテ」内の「有明海諫早湾干拓リポート」に掲載したものですが、九州王朝の中枢領域である有明海沿岸の古代を考察するものから改変なく編集を加え転載するものです。


68 杵 島 ("かつて有明海に巨大な島が存在した"…か?)


歌垣山


 私が住む佐賀県武雄市の南部に杵島山(キシマヤマ)という標高三〇〇メートルほどの山があります。

 とりたてて姿が美しいというほどのものではありませんが、"歌垣"伝承のある山として一部には知られています(大阪府の能勢町や茨城県筑波市と合わせて日本三大歌垣とされています)。

 また、古代史や考古学に興味をお持ちの方には、神籠石(コウゴイシ)を持つ山としても知られています(古代の山城の木柵の礎石と考えられている"おつぼ山"の神籠石はこの山の北西域に存在します)。

今回は"杵 島"としてこの山の西側に関する話をします。


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この山は数峰(勇猛山、犬山岳、杵島山、飯盛山、白岩山)からなっています。地図を見るかぎり歌垣山という山はありません。しかし、杵島郡(藤津郡にも跨っていますが)一帯の人々は、歌垣が行われたと伝わるこの山全体を杵島山と呼び、その東側中腹の丘陵を、親しみを込めて歌垣山と呼んでいるのです。もちろん、歌垣は筑波や能勢や杵島だけで行われたわけではなく、この外にも歌垣伝承のあるところは全国にあります。それどころか、江南系の農耕民族が住みついたと思える西日本の各地に広く分布していたはずなのです(この歌垣の話は八月以降に予定している小稿「兵主部」で書くつもりですので、今回、これ以上は触れない事にします)。
 ただ、西日本に顕著な夜這いの風習とは別に、"歌垣の風習は遠い上代に存在していたのではなく、部分的には現代まで実際に生きていた"ということは知っておいて欲しいと思います。
 一例をあげておきます。

永遠のベストセラー「忘れられた日本人」宮本常一(岩波文庫)"対馬にて"ですが、この本にはほんの半世紀前まで実際に歌垣が存在していたことを伝えています。対馬には島内に六つの霊験あらたかな観音さまがあり、六観音まいりといって、それをまわる風が中世の終り頃から盛んになった。男も女も群れになって巡拝した。

佐護にも観音堂があって、巡拝者の群れが来て民家にとまった。すると村の若い者たちが宿へいって巡拝者たちと歌のかけあいをするのである。節のよさ文句のうまさで勝敗をあらそうが、最後にはいろいろのものを賭()けて争う。すると男は女にそのからだをかけさせる。女が男にからだをかけさせることはすくなかったというが、とにかくそこまでいく。鈴木老人はそうした女たちと歌合戦をしてまけたことはなかった。そして巡拝に来たこれというような美しい女のほとんどと契(ちぎ)りを結んだという。前夜の老人が声がよくてよいことをしたといわれたのはこのことであった。明治の終り頃まで、とにかく、対馬の北端には歌垣が現実にのこっていた。巡拝者たちのとまる家のまえの庭に火をたいて巡拝者と村の青年たちが、夜のふけるのを忘れて歌いあい、また踊りあったのである。
 対馬の歌垣の記憶は宮本常一によって、潰え去ることなく今に甦りましたが、この他にも歌垣の痕跡を思わせるものがいくつか存在します。私は、以前から福岡県の大牟田市に近い高田町に濃施という地名があることが気になっています。詳しく調べてはいないのでなんとも言えませんが、場所と言い、地形と言い、この地で歌垣が行われたのではないかと考えています。もしかしたら、江南系の渡来人がこの地から大阪の能勢に移動していったのではないかと勝手な思いを巡らせています。


山の麓で鯨が捕れた

 はじめに、"41.六角川河口二〇㎞で捕獲された鯨の話"から話を始めましょう。
 一部を引用しようとも思いましたが、もともと、この話は、今回書く"杵 島"のプロローグの意味を持たせたものでしたので、部分的に引用すると全体のバランスが崩れてしまうように思えます。このため、全編を再掲しますので、既に読んでいる方は飛ばして先を読まれて結構です。

41 六角川河口二〇㎞で捕獲された鯨の話"

はじめに

 私の住む家から四キロほどのところに長崎自動車道"武雄北方"インター・チェンジがあります。有明海最奥部の住ノ江港から六角川河口堰を経てこの川を遡上すると、高速道路の橋梁直下を川が抜けることになります。
 干拓が海に向かって広がり続け、河口が沖に向かって伸びたこともありますが、このインター・チェンジ付近までは直線で一二キロの距離があります。しかし、この川は有明海沿岸域でも最も大きな蛇行を残す川であり、この付近までの河道延長は優に二〇キロになるのです。もしも、この内陸部の河川で一〇メートルを越す大型の鯨が捕獲されたと言ったら、皆さんは信じるでしょうか。しかし、その記録が実際に残っているのです。
 とりあえず、なぜこれほどまでの内陸部の河川で鯨が捕獲されたのかを説明しますが、それは"そこが海だったから"と言う方が分かり易いのかもしれません。まず、39.「城原川ダム建設を許すな!」でも引用した「佐賀県史」から見てみることにしましょう。

佐賀県史に書かれた六角川

 白石平野(*は広義の佐賀平野の一部であるが、さきに述べたところ(筑後川右岸の佐賀平野のこと:古川注)と種々相違した性質がある。まず、山麓は直接して扇状地がなく、地盤の沈降を示しており、六角川は河道が深く、潮汐が武雄盆地にまでおよぶ。土壌も安山岩や第三期層の砂岩、結岩などの風化土壌で佐賀平野のそれより重粘である。
 佐賀平野にきわだって著しかった堀がここでは小さくなり、分布も租となっている。そして水田の中に島とか馬道と呼ばれる小高い細畦の盛土がいたるところにみられる(小規模な利水のためのものでしたが、これはこの本が書かれた当時の景観であり、ほ場整備事業のなどの結果、現在ではほぼ消滅しています。 :古川注)。
 六角川と南の塩田川とを除けばこの平野には川らしい川がない。しかもこの両川ともに潮汐の干満の影響が強くはるか上流まで海水が逆流するので灌漑に役立たない。杵島山はわずか三〇〇メートルほどの山地で、山が浅くみるべき水系が発達しない」(「佐賀県史」昭和四三年)
 一方、佐賀平野の特徴は、「佐賀平野の諸川は背振山系から風化した花崗岩の砂礫を運搬して山麓に扇状地を作ったが、平野部でも河道はすぐ天井川となり、氾濫して河道を変えてきた」(同書)となります。 
このように上流から粒子の大きい堆積物(風化花崗岩=真砂土)が送りこまれる佐賀平野に対して、粒子が小さい泥中心の堆積物が送りこまれる白石平野では、「佐賀県史」に書かれているように、内陸部まで陸地の標高が低く海水が内陸奥深くまで入るのです。
 当然ながら、有明海沿岸域最大の蛇行も河道の深さもこのことによって多少とも説明がついたかと思います。
 繰り返しになりますが、佐賀平野に対して、白石平野から武雄盆地にかけては標高が低く、海から遥かに遠い内陸部まで潮が上がり、私が住む市街地のすぐ南側まで海が広がっていた時代があったことを感じさせます。その後、それは徐々に陸化していくのですが、それほど古い昔ではないほんの数百年前まで、相当に川幅の広い感潮河川(佐賀ではこれを江湖(えご)と呼びますが)、と言うよりも幅の狭い海が延びていたのです。

*)白石平野 : 佐賀平野の西側に隣接する六角川と塩田川にはさまれた平野で中央部に杵島山がある。

「多久御屋形日記」に見る鯨の記事

 「多久御屋形日記」という資料があるのですが、「北方町史」の年表にはこの資料に基づく記事が掲載されています。


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新橋上から六角川上流を望む左岸の三番目の樋門付近か?


迷い鯨多久領内にて斃死するの一件


 多久市の郷土資料館の館長をされている尾形善郎氏が書かれた「肥前様式論叢」という本があります。ここにこの話しがまとめられていますので引用させていただきます。

 鯨なるものとはるか縁遠くなった現在、有明海にそそぐ六角川の上流・杵島郡北方町の川筋(旧多久領)に鯨が泳ぎついたというニュースは誰もが信用しないだろう。しかし多久市立図書館に「新橋江筋入込候鯨図」(紙本墨書・堅五三㎝・横一〇八㎝)の絵図が保管され、その確たる証拠を残している。
 あわれむべし、この鯨は「惣長サ四拾尺、但色とろ色」「背より腹まで差渡七尺」「ひれ長サ六尺八寸、横三尺」「鼻先キより口ひげ迄七尺」尾の部分は「差渡四尺八寸」(「 」は絵図に付記されている記録、以下同じ)という子鯨である。この鯨は、たまたま対馬沖の海流から有明海に迷い込み、清流を求めて六角川の川口にさしかかったのであろう。そして肥前の景観にみとれながら川登りを始めたのが運のつき、我に返った時は北方町の「新橋より凡そ八丁斗」の地で、両岸は「多久私領志久村之内初袋」なる部落で、眼前には「多久私領医王寺村之内、猫之江(・・)家三軒」があり、鼻先に「井樋」の水がそそいでいた。ここでは身をよじるによじられない川幅で、海にもどるにもどれず運つきて「井樋」の清水に死水をとって斃死するに至ったのである。
 それから二四一年たった。この現場を巡検すると、国鉄北方駅前のバス停から西へ四〇〇m、北方町追分の信号、交差点があってこれから南に入って追分踏切を渡って医王寺の方へ六〇〇m行けば「新橋」がある。現在架梁中の橋下をくぐって川筋の土手沿いに西に八〇〇m程行った所が、鯨の斃死地である。この両側には「井樋」があり、川筋は絵図通り南にカーブしている。「猫之江家三軒」は今はなく、広々とした美田が続いている。夕日が落ちるとき、この「瀬土井」に立てば、あわれむべきかの鯨のとまどいとあわてぶり、ためいき、そしてあがきと絶望がひしひしと胸にせまってくるのである。
 この一件について多久邑校東原庠舎教授のち大監察を勤めた多久出身の儒者、深江順房(一七七〇一八四八)は、弘化四年撰した、「丹邱邑誌 巻五」(多久市立図書館蔵)に「元文四年、志久江筋(・・)鯨上り来而遂ニ腐損候」の一文を書き残している。
 また佐賀藩校弘道館助教をつとめた多久邑出身の儒者石井鶴山(一七四四一七九〇)は同書「巻一」の上欄に「北方八景」の詩をのせている。その一つに「猫江(・・)皈帆」の次の詩がある。
 「地析江門(・・)秋色開 千鯨噴浪雪山来 渡頭日落天如水 一片孤帆擁月回」と。さきの迷い鯨は、この句の千鯨の一頭であろうか。「猫江」の場所といい「江門」といい不思議さもさきの一件と一致しているのではないか。迷い鯨は鶴山先生五歳の時の出来事であった。幼き時の感傷が後でこの詩を生んだであろうか。
 鯨とは、南太平洋を悠然として泳ぎ渡る縁遠いもののようであるが、この迷い鯨はのどかなる多久領内を興奮させた縁深いもので親しみのもてる身近なる思いをさせるのである。

「肥前様式論叢」尾形善郎(元佐賀県立博物館副館長)


絶滅した克鯨

 一九九九年(平成一一年)七月五日付「西日本新聞」に、"幻の鯨六角川をさかのぼった!?"多久市に伝わる江戸中期の絵図「絶滅した克鯨」と推定 という記事があります。

 多久市に伝わる江戸時代中期の絵図「鯨図」に描かれた鯨について、長崎大水産学部の柴田恵司名誉教授(七四)=長崎市石神町=が「日本近海では絶滅した(こくくじら)と推定される」と鑑定した。絵図は有明海に注ぐ六角川を河口から約一二㌔さかのぼった地点で描かれており、柴田さんは「回遊性のある克鯨が迷い込んだのだろう。川に上がった鯨の絵図は全国でも例がないはず」と語り、近く海事史研究史で発表するという。
 この絵図は、多久市郷土資料館が所蔵する「新橋江筋入込候鯨図」(縦約五十二㌢、横約百十㌢)墨書きで、一七三九(元文四)年作。場所は旧志久村(現在の北方町)の六角川上流との添え書きがある。旧多久藩の「多久御屋形日記」にもこのときの記述として「大魚が入り込んだ」と記されている。
 北方町は内陸で山が迫り、鯨が川をさかのぼってきたことなど想像もできない地形だが、周囲を山に囲まれた多久市東多久町の六角川に注ぐ牛津川の支流にかかる橋にも「鯨橋」の名前が残っている。 


「多久古文書村だよりNo.3」(昭和五六・三・三)


おかに上がった鯨

 複数の資料から、ほぼ、全体像が分かってきました。私の想像はこうです。
 「多久御屋形日記」には、牛津(小城藩)の猟舟とありますが、海で発見された鯨を、住ノ江(六角川河口、右岸の福富町、左岸の芦刈町にわたる港湾と漁港)あたりの漁師達が湾奥の浅瀬(といってももちろん干潟ですが)に追いこみ捕獲しようとしていたのでしょう。追い回しているうちにいつしか六角川に逃げ込まれ、とうとう二〇キロちかくもさかのぼり、身動きできなくなったところをようやく捕獲したということのようです。
 もちろん、当時の住ノ江は水運と漁労の集落があるだけで、鯨を専門に狙う"鯨組"などはもちろんなく、まず、鯨を仕留めるような""さえ一本も持ってはいなかったはずです。せいぜい、網とか綱で絡め捕る以上の方法はなく、実際には他人に捕られないように鯨の遡上に追走しただけだったと思うのです。当事の佐賀は、鍋島本藩のほかに、分家筋の蓮池藩、小城藩、鹿島藩などの支藩とその他の関係領地(家老領など)に分かれ、入り乱れていました(「佐賀県史」の図面参照)。まず、
住ノ江の漁師と北方(志久)の領民とは行政区分が異なり(*、当然ながら分け前についてはそれなりの対立が生じたはずです。しかし、獲物はそれを遥かに上回る値打ちがあり、お互いそれなりのものを得て収まったことも想像に難くありません。
 いずれにせよ、「鯨一頭、一村潤う」と言われたように、降って涌いたような宝物に住ノ江の漁師連も志久村の百姓もおおいに沸き立ったことでしょう。

*)六角川左岸の住ノ江(芦刈)は小城藩領、右岸の住ノ江(福富)は鍋島本藩領、捕獲された場所の現北方町(旧志久村)は多久領(鍋島家親類同格扱いの家臣領)だったようです。


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全長一二メートルの鯨が上る川

 記事によると捕獲場所は河口から一二キロということですが、あくまでもそれは直線距離です。当時は現在以上に甚だしく蛇行していたわけであり、やはり河道延長で二〇キロ以上はあったはずなのです。しかしたまたまそこで捕獲されただけであり、堰があるので止まっていますが、海水はさらに五キロ近くは上がるのです(この場所からさらに上流部の武雄市橘町には"潮見"という地名もあります)。少なくとも、二百六十年前には全長十二メートルの鯨が逃げ込むほどに大きな江湖が広がり内陸まで潮が上がっていたことを示す良い資料と言えそうです。もちろん当事の六角川の河道は今とはかなり異なり、川幅ももっと広く、現在の北方町中心部に近接して流れていたようです。
 この話しは一つのエピソードであり、ただのコラムとして読まれて結構です。少なくとも昔の六角川がいかに大きく、また、いかに内陸部まで大規模に潮が入っていたかということは分かります。今、昔の有明海に比べて潮汐が非常に衰えてきたと言われますが、それは、当然にも藩政時代以来の干拓の拡大による影響もあるでしょう。
 しかし、現在の有明海が農水省史上最悪ともいうべき"諫早湾干拓事業"の潮止め堤防の建設(ギロチン)によって、さらに潮流と潮汐が減退して赤潮が頻発するなど、環境が大規模に悪化していることを知って頂きたいのです。

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再び 山の麓で鯨が捕れた


 重要なのは以下の部分です。

 このように上流から粒子の大きい堆積物(風化花崗岩=真砂土)が送りこまれる佐賀平野に対して、粒子が小さい泥中心の堆積物が送りこまれる白石平野では、「佐賀県史」に書かれているように、内陸部まで陸地の標高が低く海水が内陸奥深くまで入るのです。当然ながら、有明海沿岸域最大の蛇行も河道の深さもこのことによって多少とも説明がついたかと思います。
 繰り返しになりますが、佐賀平野に対して白石平野から武雄盆地にかけては標高が低く、海から遥かに遠い内陸部まで潮が上がり、私が住む市街地のすぐ南側まで海が広がっていた時代があったことを感じさせます。その後、それは徐々に陸化していくのですが、それほど古い昔ではないほんの数百年前まで、相当に川幅の広い感潮河川(佐賀ではこれを江湖(えご)と呼びますが)、というよりも幅の狭い海が延びていたのです。

 このように、佐賀平野と白石平野とは同じように見えて全く性質の異なる平地なのです。佐賀平野はその堆積物の性質の違いから、扇状地や天井川を形成しますが、白石平野は粒子が小さい泥中心の堆積物が送りこまれるために、海の運搬作用によって絶えず攪拌され均平化されてきたのです。このため、六角川と塩田川に囲まれた白石平野とその延長である武雄盆地には扇状地がなく、極めて平坦でただ潮が引いた干潟に、海による運搬作用によって形成された土地ができてきたのです。
 杵島山はこの干し上がった干潟である白石平野に聳え立つ連峰です。逆に言えば、杵島山は干し上がった干潟である白石平野に取り囲まれているのです。このような地形の土地はあまりないために分かりにくいでしょうが、そのような場所だからこそ、山の麓でも大型の鯨が捕獲されたのです。こう考えてくると、この平坦な干潟が古代において海であったことが徐々に分かってくるのです。と、すると、白石平野にそびえる杵島山は、古代において有明海に浮ぶ巨大な島ではなかったのか、少なくとも大雨が続いて洪水となった時には一面海のような水没平野が広がり、誰が見ても島のような様相を呈していたことは想像できるのではないでしょうか。この思考の冒険が今回のテーマです。
 山の麓で鯨が捕れるという"日本昔話"のような話も、杵島山が島であったとすれば理解しやすくなるかもしれません。では、杵島山は本当に島だったのでしょうか。


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スポット125 朝倉から日田にかけての山々の行く末について

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スポット125 朝倉から日田にかけての山々の行く末について

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 日田市から筑後川の南(左岸)を久留米方向に走っていると秋晴れの空の下に痛ましい山肌が確認できるようになりました。

 言うまでもなく2017年九州北部豪雨と命名された降雨による針葉樹林地の大崩落の鮮明な爪痕です。


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写真は国道210号線沿いの道の駅から北の被災地を映したものです。

 全てが崩落地ではないとしても、見えない部分にも多くの崩落地があるはずで、農水省、林野庁が言う森は国土を守り水をつくっているなどの話がとんでもない大嘘である事がお分かりになるでしょう。


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おいそれとは入れませんが、山の崩落現場に行けば、次は隣が崩れて来ることが素人目にも明らかなはずで、二次災害、三次災害、四次災害、五次災害、六次災害…と永久に繰り返される事は明らかでしょう。


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と、ここまでは前もお伝えしました。さて、表土がはげ落ち始めた山はどうなるでしょうか?

 日本はその高温多湿の気候から放っておいても直ぐに草が生え、薮から森が復元するような天恵の風土を与えられた国です。

 しかし、急傾斜で表土の剥げ落ちた山肌には容易に森が戻って来るとは考えられません。

 保安林だろうがなんだろうが、剝き出しの荒地に植林しても無駄であることは明らかで、数十年と言った単位で、まず、荒地に近い場所でも岩が剝き出しの場所でも根が着く松やコスモスが表面を覆い始めてようやく表土の再生が始まるのです。

伐採した針葉樹林ばかりか、洪水で流れ出したような人工林地でさえ、反省のない林野庁の開き直りの強弁の結果、原因となった杉を懲りずに植林させていますが、流石にこの有様では“杉の苗木を植えろ”などとは言わない事でしょう。

こうしてようやく正しい自然の再生の動きが始まるのです。ここで思い出したのが司馬遼太郎でした。

 一旦表土が剥がれだしたら止まる事がないと知っている草原の民の経験(知恵)に関する話です。

 司馬遼太郎氏にはご迷惑かも知れませんが、彼が幾つかの著書や講演で話していたモンゴルの草原の表土の話があります。

この事の基礎に草原の民と農耕民との衝突とその思想の対立が存在していたのです。

草原で遊牧を続ける民にとって、最も許せない行為は、農業を行うために畑を造り表土をひっくり返す事だったのです。

日本のような頻繁に雨が降り気温が高い風土ならばいざ知らず、寒冷期には気温が極端に下がり、ほとんど雨らしい雨が降らず、頻繁に砂嵐や突風が吹き続けるモンゴル高原においては、ほんの数センチか多くても5センチ程度の僅かな土被りしか無い草原の表土を農耕と称して耕し作物を植えようとする事は取り返しのつかない破壊的行為であり、一旦表土が剥がれたならば、乾燥した上に無慈悲に吹き続ける風によって表土は乾燥し続け次から次に捲れあがり剥がれ続け、草原とは全く異なる砂漠になってしまう事を遊牧民は知っており、そのため生きる糧の元となる遊牧のための草原を守るために農耕民への攻撃を続け国境を犯し続けたというのです。

当然にも農耕民にもそれなりの言い分はある訳で、他に住む所もなく開墾に命を懸け必死で畑を造り作物を植えはじめたにも拘らず、頻繁に襲ってくる遊牧民に対して、農耕を知らぬ野蛮人として北狄(ホクテキ)=匈奴、鮮卑、靺鞨、契丹、蒙古、韃靼、突厥など北方諸勢を忌み嫌ったのでした。

現在の中国共産党政権も農耕民の政権(毛沢東は長江中流域の湖南省の出身)でしかなく、遊牧民の一派であるツングース系の清朝(金王朝)とは異なり、農耕を優先し開墾を持ち込んだために一気に砂漠化が進み、その延長上に、現在、北京郊外数十キロまで砂漠が忍び寄ってもいるのです。

どちらが正しかったかは言わずもがなであり、雨も降らぬ農耕不適地を開墾し、草原を農地にしようとすることは単に砂漠を押し広げる事にしかならないのですが、最終的にはどちらも生き残る事が出来ず、長期間放置される事によって、ようやく自然が復活し草原への回帰が始まり、動物が入りその糞尿や死骸による栄養の持ち込みによって美しい花咲く草原が復活するのです。

これも参考になると思いますのでお読み頂きたいと思います。


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ここでようやく朝倉から日田の山の将来についての話に戻る事にしましょう。

 山の表土も数百年数成年と言う単位で培われたものなのであって、決して一朝一夕にできるものではないのです。

 特に急傾斜地の表土ほど危ういものはなく、一旦、剥がれてしまえば容易には復活しない事は、雨に打たれ流され続ける事で一層剝き出しの岩盤のみが残る事になります。

 このように、一面覆が表土というレイン・コートでわれていたものの一角が破れてしまえば、隣接する残った表土には連鎖反応が起こり、僅かな雨でも次から次に崩れて来ることになるはずなのです。

 つまり、モンゴル高原の草原の崩壊と同じことになる訳です。

結果、国土面積の五割にも近づくばかりに、斜面や危険地に杉や桧の針葉樹を植えさせ続けて来た林野庁の馬鹿さ加減がようやく露呈する事になっているのです。

 土地を捨てられる人は土地を捨て、少しでも早く住居を移し、愚かなどころか危険な土地から逃散すべきなのです。

 それにしても、林学とは愚かさと同義になってしまったかのようです。馬鹿どもが!

かつて、民俗学者の柳田国男は、「大学はせつかく法科へ入つたが、何をする気もなくなり、林学でもやつて山に入らうか…」などと言ったと言われていますが、その時代は素晴らしいばかりの広葉樹の森が列島を覆い尽くしていたはずなのです。もう日本もおしまいですね。このころまで列島には節度をもった人々しかいなかったのです。次は被災者への災害義捐金の話でもすることにしましょう。まさに棄民です。

466 杵 島 ② 2/2

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466 杵 島 ② 2/2

20170324

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は、「環境問題を考える」“環境問題の科学的根拠を論じる”のサブ・サイト「アンビエンテ」内の「有明海諫早湾干拓リポート」に掲載したものですが、九州王朝の中枢領域である有明海沿岸の古代を考察するものから改変なく編集を加え転載するものです。


68 杵 島 ("かつて有明海に巨大な島が存在した"…か?)


提の浦(ヒサゲノウラ)の論証

長崎自動車道武雄・北方インターから四九八号線に入り、杵島山西側の山裾に沿って南に進むと、五分ほどで杵島郡から郡境を越え藤津郡塩田町に入ります。さらに五〇〇メートルも走ると北志田という地区にある"提の浦"という集落に出くわします(字名にも"提の浦"があり、掲示板もあります)。


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さて、この小論は有明海に臨む杵島山が文字通り""だったのではないかという作業仮説の検証をするだけのものですが、はじめに""(ヒサゲ)の話しから始めます。 
 ""とは「銚子の一種。銀・錫製などで、柄がなく弦(つる)のある小鍋形の器具。酒を注ぐのに用いる」(広辞苑)とされています。ただ、""(ヒサゴ)の方はともかくとして""(ヒサゲ)の方は明らかに死語になっています。

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提の浦


 "" (ヒサゲ)"干下げ"とも読め、潮が引いたら干上がってしまう浦とも考えられるのですが、事実、地形はそれを示しているのです。
 もちろん、有明海の西岸には多くの""地名があるのですが、海岸部ばかりでなく、相当の内陸部にも散見されます。この杵島山の東側の山裾には湯崎、川津、島津(いずれも杵島郡白石町)、南に近付けば、八艘帆が崎(ハスポガサキ)(*)錦江、廻江津(いずれも杵島郡白石町=旧有明町)という地名があり、さらに南側の先端には室島(杵島郡白石町=旧有明町)、深浦(同)があり、竜王崎が突き出しています。杵島山の東側から南端にはある程度の沖積平野か海成平野とでもいうべき干潟から発達した平野があり、太古には、直接、有明海に接していたことは疑いないと思います。 

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八艘が崎の看板


 また、竜王崎の崖下には国道二〇七号がかすめていますが、ここから北にかけて杵島山の山裾を通ると海食洞と思えるものも見かけるのです。
 北側には、樺島(杵島郡北方町)があり、鯨の話で紹介した六角川が流れています。さらに上流に入れば潮見神社(武雄市橘町)があり、今でもこの付近まで海水が上がってきます(この川の上流にも北浦という地名まであります)。さらにJR佐世保線の武雄温泉駅の付近にも私が幼少年期を過ごした西浦や天神崎という地名があります。 
 杵島山の北西側には、花島(武雄市武雄町)永島(武雄市武雄町、橘町)、楢崎、玉島(武雄市橘町)があり、西側に提の浦と久間(いずれも藤津郡塩田町)という地名が展開しています。このように杵島山は海湾地名に取り囲まれているのです。
 今回、この"提の浦"を取り上げたのは単に内陸部にあるということばかりではなく、もしも、ここまで潮が入っていたと仮定すると、杵島山西側の山裾の中でも最も標高の高いところであり(と言っても標高10メートルほどの全くの低平地なのですが)、この廻廊が水道であった可能性さえあり、結果として杵島山が文字通りの""であったことを最後に証明する痕跡地名にも思えるのです。

*)八艘帆が崎(ハスポガサキ):
 ここには県道錦江~大町線が通っているのですが、稲佐神社付近にこの地名が残っています。県道沿いの境内地と思えるところには、この八艘帆ケ崎の謂れについて書かれた掲示板が建てられています(平成四年四月吉日 大嘗祭記念 稲佐文化財委員会)。
 これによると、杵島山はかつて島であった。欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるとされています(稲佐山畧縁記)。
 百済の聖明王は仏教伝来にかかわる王であり、六世紀に朝鮮半島で高句麗、新羅などと闘ったとされていますが、五五四年に新羅との闘いの渦中に敵兵に討たれます。これは、その闘いの前の話なのでしょうか?それとも、一族の亡命を意味するものなのでしょうか?また、火ノ君とは誰のことなのでしょうか。私には大和朝廷とは別の勢力に思えます。
 なお、聖明王は武寧王の子であり、武寧王は先頃の天皇発言で話題になった桓武天皇の生母がこの武寧王の子孫とされているのです(続日本紀)。
 このような場合に頼りになるのがHP「神奈備」です。孫引きになりますが紹介します。佐賀県神社誌(縣社 稲佐神社)から として

 百済国の王子阿佐来朝し此の地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廟を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。

と、あります。稲佐山畧縁記とありますが、掲示板の記述はこれによっても補強されます。今後も調べたいと思いますが、これらに基づくものと思われます。
 本来、「六国史」や「三大実録」あたりから日本書紀や三国史記を詳しく調べなければならないのでしょうが、私の手には負えません。
 少なくとも、八艘帆ケ崎の伝承は、杵島山の東側の山裾まで有明海が近接していたことを思わせます。

"クマ地名"の論証

 前掲した久間(藤津郡塩田町)地名についても全国的には理解しがたいと思われますので、多少のコメントを加えておきます。ここで"久間"を海が近接していたことを示す地名として取り扱った理由は、これをいわゆる"クマ"地名と考えたからです。"クマ地名"は九州において顕著であり、一般的には河川邂逅部(川が海や大河川と繋がる部分)に付く地名です。福岡県では雑餉隈、七隈、三隈、金隈、月隈がありますが、佐賀県にも、松隈、日の隈、早稲隈、帯隈と多くの"クマ地名"があります。
 これは、大きな川が流れる大平野よりも小さな川が海沿いなどの低地に流れ込む場所の方が水を利用しやすく、最初の近代的な稲作農業(陸稲型の雑穀農業、縄文稲作はここでは考えない)はこういった場所で始められたのではないかと考えられているのです。
 一般的に、このような場所が九州の場合"クマ"と呼ばれていることが多く、稲作農業との関係で形成された地名とも言われています(もちろん朝鮮の"コマ"地名と考える説もあります)。
 簡略化すれば、川底の深い大河川からは引水することが難しいために、小河川や山からの湧水など利用しやすい場所に最初の水田が開かれたと想像されたためです。これが"クマ地名"であり、佐賀平野では貝塚ラインと並んで古代の海岸線を探る一つの指標ともされてきたものです。この地名については、宮崎康平による「まぼろしの邪馬台国」(講談社)にもある程度の説明がありますが、ここではふれないことにしておきます。広辞苑には『…②奥まって隠れた所。すみ。源氏物語(明石)「かの浦に静やかに隠らふべき侍りなむや」』とありますが、海に川が流れ込む場所は当然に奥まり、堆積によって平地が形成されますので、水田稲作の適地だったと想像できるのです。
 さて、杵島山は一周五~六十キロ程度の船形の細長い連山であり、その西側にも低山が延びています。その低地に六角川の支流である東川が北に向かって流れています。この川の支流が杵島山西側の山裾で標高が最も高い場所を流れていますが、その途中に"提の浦"があり、今でもそこから一キロ余りのところまで潮が上がっているのです(堰で止められていますが)。もちろん、一キロ余りといっても標高差は僅かであることはいうまでもありません。
 有明海沿岸には満潮時に潮がかなり奥まで上がる川が数多くありますが、この地域の浦地名は単なる川(淡水)の船着場でしかない"川津"とは異なり、あくまで潮に乗って舟や船が上がる川沿いの入江に付いたものと考えるべきでしょう。潮位は東京湾平均海面に基づくものですが、大潮の満潮時には相当奥まで潮は上がるものです。私は、最低でも"提の浦"という地名によって、ここまでは潮があがっていたのではないかという推定が可能ではないかと考えています。

籠(コモリ)地名の論証

 "提の浦"という地名による論証とは別に、ここまで有明海が奥まで入っていたという傍証がもう一つあります。六角川河口から河道延長で二五キロ以上、直線でも一五キロ以上はあると思える場所に明確な干拓地名が残っているのです。"提の浦"のさらに上流にある""地名です。
 籠と搦という干拓地名も有明海沿岸というよりは、鍋島藩とその属領であった諫早藩(この表現には長崎県民の抵抗が少なからずあるかもしれませんが、幕府直轄領であった長崎市周辺にも、また、大村湾岸東部地域を中心に鍋島藩の親戚筋の諫早藩領や鍋島藩の領地が存在したのです)にしかない地名であるため、これについても一応簡単なコメントを加えておきます。
 もちろん干拓地は全国にありますが、集中して存在するのは関東の霞ヶ浦、印旛沼周辺、福井県、新潟県の海岸部、岡山県の児島湾周辺と有明海、不知火海であり、それ以外にはそれほどまとまった干拓地はありません。一般的に全国の干拓地は新田、新開、開などと呼ばれていると思います。山口恵一郎氏による「地名を考える」(NHKブックス)という本がありますが、この本にも籠、搦地名が出てきます。

籠・搦・開
 遠浅の有明海沿岸は、主として近世以降、干拓が進められて新しい陸地が増えていった。こうした新開の土地は、ふつう新田(関東・北陸その他一般の名称)とか新開、(中国・四国に多い)とかの呼称がつけられるが、この地域ではここに特有な呼称がつけられている。籠(こもり)・搦(からみ)・開(ひらき)などの名称がこれである。
  干拓地は、とくに江戸前期から中期にかけて大量に増加したが、明治以後は~干拓というような地名も現れてくる。搦は柵(しがらみ)のことだが、これは干拓が前面に潮土井(または土井)と称する潮止堤(護岸)を築き、その内側を陸化していくことから来たと思われる。そして、干拓地の名称と同時に、堤防にそって形成された集落の名称ともなる。中略
  小地域的にみれば、この三者の呼称は分布する地域を異にする。ざっとみると、肥前すなわち佐賀県側には籠・搦が分布し、筑後川の東部つまり筑後すなわち福岡県側では開と呼ぶ。しかも、佐賀県側の川副(かわぞえ)付近では、内側つまりやや内陸に籠が、外側つまり海に近いところに搦が多い。


 籠、搦地名は特殊ですので、地元研究者の原口静雄氏(伊万里市)による「佐賀県西部の地名について」という論文もご紹介しておきます。


(こもり)と搦(からみ)


 佐賀平野の地形図を読むと有明海にのびる干拓地名に、新しく干拓されたところに搦、内陸部に蘢地名が見出される。同様に、伊万里湾でも東山城町松浦線の東山城駅付近に、「奥浦蘢一ノ割」「奥浦蘢ニノ割」の外側(海岸より)に「田土居尻搦」「新搦」などがあり、たしかに「こもり」が古くて「からみ」が新しい。中略
  蘢とは入江の静かな浅い海を人手でしめきった干拓造成であったところにつけられた地名であり、搦とは遠浅に杭を打ち、その間に横木をならべ石を置き干満交互に泥が「からみ」つくことから発生したもので、蘢よりも積極的に波にさからって築立てる差が認められるようである。年数さえたてば「からまった」泥土は次第に積み重なって高まり、そこをしめきった。

 諫早周辺の籠・搦地名は、鍋島藩の干拓技術が持ち込まれたものと思われますが、佐賀県全域で、そう呼ばれているわけではなく、幕府直轄領であった唐津藩(佐賀県の唐津市を中心とする北西地域)では開、灰といった干拓地名も認められます。このため、伊万里湾の南岸には搦地名が、北岸には灰地名が見られます(前述の原口静雄氏は灰坊、拝向、拝川、小拝浦などをあげておられますが、伊万里湾北岸では灰地名の外側に新田があるようです)。
 また、佐賀平野などを字単位で調べれば、内陸側に非常に多くの籠地名があり、その外側に搦地名が分布していますが、籠はそれほど労力を投入せずに締切る程度で陸化できた古い干拓地であり、搦は大量の労働力を組織的に投下し意識的に造られた比較的新しい干拓地のようです。
 籠地名と搦地名の説明にも多くをついやしましたが、この古い方の籠地名が"提の浦"の上流にあるのです。地形から判断して"提の浦"は前述の東川の右岸にあるのですが、この東川の右岸にあるのが天神籠であり、左岸にあるのが明神籠です。

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提の浦周辺図


 一応、"籠と搦という干拓地名も有明海沿岸というよりは、鍋島藩とその属領であった諫早藩にしかない地名であるため"としましたが、籠地名の方は、戦国期から場合によっては室町期以前にまで遡る可能性があるため、上記の表現が適切であるかは熟慮の余地があります。また、地域によっては籠地名と搦地名が逆転し、内陸部に搦地名がある場合もありますので(これは内陸部の篭地名が移住により持ちこまれたことによる逆転と思われます)、単純に判断することできませんが、杵島山西側の天神籠と明神籠はかなり古いのではないかと考えています。今後の古地図や古文書などによる調査が待たれますが、ここでは作業仮説と理解していただきたいと思います。


司馬遼太郎の"小便が南北に流れる分水点"


 しかし、さらに分水点を越え向こう側まで潮が廻らなければ杵島山が島であったことの証明はできません。

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分水点付近 498号線を南に進む


 事実、この志田地区を北流し六角川に流れ込む東川の支流と、南流し塩田川に注ぐ小河川は百メートル余りと近接し、事実上は数枚の水田で流下方向が異なるだけなのです。規模は違いますが、これに似た話が司馬遼太郎の「街道をゆく」芸備の道 に出てきます。
  

「ここは上根(かみね)というところですよ」
運転手さんがいった。
道路は遠くまでまっすぐについている。自然の地形としてこの北にむかって細長い平坦地は尾根なのか高原なのかよくわからない。
「このへんですよ、日本海へ流れてゆく川の上流と瀬戸内海へ流れてゆく川の上流とが一ツ所にありまして、そのあたりの人は立小便をします」
 運転手さんがいう。まさかと思いつつよくきいてみると、そういう習慣があるのではなく、平坦地に小便をして自分のゆばりが日本海へゆくか瀬戸内海へゆくかを見るのだということらしい。それも下界の物好きが創(つく)った笑いばなしにちがいなく、ともかくも一ツ在所で水の流れるむきが南と北とにわかれているのだということの地理上の落し噺(はなし)なのである。
 道はただひたすらに平坦なのだが、ごくわずかにすでに北の日本海にむかって傾斜しているのであろう。  
 このことは、一つの驚きである。
 広島県というのは瀬戸内海文化圏だとおもっていたのだが(事実そうではあるが)、それについての自然地理の面積は実にせまい。広島市街を出て太田川とその上流(根之谷川)をわずか二〇キロばかり北上しただけで、もう川が日本海にむかって流れているというのは、ただごとではない。
 分水点にちかいという上根から測って、川筋をたどりつつ島根県海岸の江津(ごうつ)(旧石見(いわみ)国)に出るには、一五〇キロもある。松江(旧出雲国)までなら、それ以上ある。

 普通の理解では"現在の標高が何メートルで、また、東京湾平均潮位がどれだけであり、いくら昔であっても最大潮位を考えればそんなところまで海水が入っていたとは考えられない"といったところで思考を中断させてしまうのですが、数千年(もちろん、二~三千年の意味ですが)の単位で物事を考えれば、多くの国造干拓地や諫早湾干拓堤防や熊本新港などといったものが全く存在しなかった太古の有明海は、現在よりもはるかに広い奥行きを持ち、その沿岸には多くの島や岬や沈み瀬などが存在する非常に変化に富んだ遠浅の海が広がっていたと思われるのです。浅く奥行きの長い海は潮汐がさらに増幅するとも言われ(イサカンの逆、イサカンのギロチン堤防建設の結果、潮汐が上下で六〇センチから一メートル近く減退したと言われています)上下で六メートルと言われる有明海の潮汐も、場所によっては、七メートルを超えるものだった可能性さえあるのです。
 また、杵島山周辺には他地域にあまり見られない特殊な墓制があります。一般には甕棺(カメカン)と呼ばれますが、敬愛する古田史学に従えば、甕棺(ミカカン)と呼ぶ蓋を合わせる二基の素焼きの甕に埋葬する(この墓制にそっくりなものが南インドにもあるとの話しも聞きます。南インドと言えば、国語学者の大野晋教授による日本語ドラヴィダ語起源説が直ぐに頭に浮んできますが、思考が全く追いつきません)もので、公共事業による工事などでも杵島山周辺からはおびただしい甕棺が出ています。また、終戦直後までは、杵島山西部では製陶業が盛んでした。このため杵島山とその西の西山は燃料を取り続けるためのものであり、海の運搬作用による堆積ばかりではなく、森林伐採の結果の土壌流出による堆積が上乗せされているものと考えられます(年一ミリとしても二千年でニメートルですから)。古代には堆積も今ほどではなかったはずであり、古代において六角川の支流と塩田川の支流とがつながっていなかったとしても、"53.船 越"で書いた意味での水道は存在したことは間違いないのではないかと考えるものです。


杵島山は出島だった


 現在の六角川と塩田川の支流が近接しているとしても、山を取り囲んで繋がり、また、潮が上がってこなければ、杵島山が島だったことの証明できません。
 では、この可能性はあるのでしょうか、縄文海進期を念頭に置いて有明海の図鑑などには良く「弥生時代の貝塚線から判断して4,0005,000年前は有明海の中の大きな島であったと推定されている」などと書かれていますが、仮にこの時期に"杵島山が島ではあった"としても、私が考えているのは、そのような古い時代のことではなく、縄文晩期~弥生前期への移行期の話であり(稲作で画期するのか土器で画期するのか明確ではないようですが、ようやく縄文稲作が認知され、五百年ほど遡ることになってきました)かなり、可能性の薄い想定です。つまり、島という大和言葉が確立して、一定の支配力を持ってこの土地に定着した時代(これが難しいのですが、逆に、杵島山が島だった時代に島という言葉が確立したという想定も含めて)、この山が島の形状をしている時代に杵島という名前が付けられたのではないか、もしくは、かつて島だった時代の記憶や伝承が継承され定着したのではないかと想像を巡らすのです。
 九州大学大学院理学研究科の下山正一助手らは地質調査に基づき、古代の海岸線を復元ざれていますが、特集「有明海大全」掲載のコラム1「有明海のなりたち」添付図面=図2-筑後平野の表層粘土分布によると、残念ながら杵島山は陸続きになっていました。同助手と短時間ですが電話でお話したことがありますが、"夢を潰すようで悪いけれども、杵島山西部には低い溶岩台地があるために潮は越せなかったであろう。ただし、船を担いで運ぶという意味での水道は十分に可能性があったのではないか"との話でした(不正確な場合はご容赦いただきます)。

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 私の杵島山が島であったという作業仮説は下山研究により脆くも崩れ去りましたが、南北七~八キロの大山塊が、出島か船を接岸させたような形で実質わずか数百メートル程度の廻廊によって繋がっていたということは、洪水期や高潮時には、文字通りの低平地に浮ぶ島の様相を呈する景観が出現したはずです。実際に島のように見える時は頻繁にあったのではないかと考えられ、そのことによって、杵島という名が付けられたのではなかったかと思うものです。
 この陸続きとなっている延長は添付図面=図2-筑後平野の表層粘土分布から見ると、一~一,五キロ程度の陸続き(海成粘土分布限界線ラインではなく、非海成粘土分布域から私が勝手に推定)になるのですが、私は最高潮位の、川床(標高で二メートルほど下がる)で考えているために可能性は高まるのではないかと考えています(添付図面の数字は標高です)。


縄文早前期、弥生時代末期の海岸線

 杵島山は万葉集に歌われるとともに、歌垣の伝承がある山です。中国の雲南省、貴州省など(照葉樹林帯)の少数民族に今なお生きる歌垣の習俗がこの杵島山にも存在し、この歌垣の行なわれる日には西から久間水道(仮称)を渡って適齢期の男女が伴侶を探して恋歌を掛け合っていたのではないでしょうか。 
この場所を通過するたびに、杵島山西麓の分水点に近い「提の浦」に南北から小船が入る姿を夢想するこの頃です。

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玉島古墳から南方を望む


 前述したとおり、最低でも、53.船 越で書いた意味での水道は存在したと思われますので、この場所に古代の官道が通っていたことと合わせ考えれば、いまさらながら、この場所の重要性が見えてくるのです。杵島山西側に位置し、水道、陸道のボトルネックにあたるこの場所は、「おつぼ山の神籠石」の存在が示すように極めて重要な場所であったと考えられるのです。
 それはともかくとして、有明海の奥行きを決定的に奪い、"潮汐振幅を著しく減退させた「イサカン」の破壊性、破滅性、犯罪性は明らかではないか"と、今さらながら思うものです。


スポット126 ピアノの撤去に見る日本の文化的後退と日本そのものの売り飛ばしについて

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スポット126 ピアノの撤去に見る日本の文化的後退と日本そのものの売り飛ばしについて

20171001

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 ピアノの買い取り事業がTVでも宣伝されていますが、さぞかしピアノの需要があるのだろうと思うのは当然ながら全くの誤りになります。

 個人的な話で恐縮ですが、台湾からの一文無しの引揚げ者家族と言う裕福でも何でもない家庭環境だったのですが、親の思い入れからか、個人的にはヴァイオリンのお稽古に通わされないまでもピアノの教室に通わされ掛けて直ぐにものにならずに辞めてしまった過去を持っています。

このため、何故かようやく家を手に入れる頃の引っ越し後の家にはピアノがあり(多分、教員をしていた私の妹のために買ったのだと思いますが)、陸軍の将校上がりで公職追放を食らいようやく中学校の教師の職を得た父が少しずつアップ・ライトのピアノを弾いていたことから、私が実家の隣に家を建てる頃には、愚妻が持ち込んだ同じくアップ・ライトのピアノと併せ二台ものピアノがあったのでした。

 おまけに、私の娘二人もピアノを習っていましたので、一時期、私の父、私の妹(小学校の教員)、愚妻に二人の娘と言う五人もが下手なピアノを弾いていたのを思い出します。

 私も子供のころからクラッシックを聴かされていましたから、高校時代には勉強時間はFM放送でクラッシックを中心に、毎日8時間はバック・グランドとして聴き続けていました(要は掛けっ放しですが、クラッシックが大半だったことから三年間で6,000時間は聴いた事になるでしょう)。

 このため、高校時代には大抵のクラッシクの曲は何なのかがある程度見当が着く様になっていたのです。

 ところが、ロックやジャズやタンゴ…と聴き込んでいくと、結局、アルゼンチン・タンゴそれも19340年代の歌のタンゴに嵌ってしまい、今やロックやジャズやタンゴしか聴かない様になっているのです。

 結局、鼻もちの成らない金持ちの文化には嫌悪感が先に立ち、大学に入って以降、全くクラッシクは聴かない様になってしまいました。

 今や娘も結婚することから、まだ、弾ける人間は4人(一人は去年から関東に…)いるものの、二台のピアノが埃を被り始めているようなのです。


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「ちょーだい」の名台詞で有名な大財津一郎氏が「ピアノ売ってちょーだい」とアピールする○○ピアノが業界ナンバー・ワンとのふれこみではあるのですが、元手いらずの上に人手を使うだけの商売である事から非常に効率が良く、今や多くの業者が参入し、まさに不要なピアノの処分、再生、再販…が産業化されているようです。

 ピアノを弾いていた母が死んで十年、誰も弾かないし弾けないから邪魔になるだけで、廊下も狭いし、ご近所にも迷惑だからと手放す家庭が激増している様なのです。



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それでも、全国で静岡県だけのようですが、ヤマハ、カワイと年間3万から4万台(280億円)は出荷されているようです(最盛期の十分の一)。

多分、これには海外向けが含まれており、これが全量国内向けではない上に、輸入ピアノもあることから一概には言えませんが、仮に条件が変わらないとしても、全体としては人口減によって下がる傾向にある事だけは間違いないでしょう。

 とは言うものの、行政の発表は企業や国家の思惑が入っている事からそのままでは受け入れられないと考え、ネット検索を繰り返していると、業界に精通した方の生の話が公開されていました。


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私は長い間、日本はピアノ生産台数で世界一だと思っていた。「日本が世界のピアノの4割を生産」というのは、1980年代はあながち誇張ではなかった。品質では欧米の老舗には今一歩譲るが、何と言ってもピアノは工業製品である。世界に冠たる日本の工業力が、楽器生産においても日本を世界のトップにした。しかし、残念ながらこれは今や遠い過去の話である。

最近発表された統計によれば、昨年の日本のピアノ生産台数は9万4千台。アップライトとグランドの比率は、ほぼ9:1輸出に大きく依存、これは昔も今もほとんど変わっていない。日本のピアノ生産台数が10万を割ったのは、何と1962年以来47年ぶりだそうだ。ピークの1980年には年間39万台が作られたと言うから、現在の4倍以上もの生産規模があったわけだ。

日本経済が沈滞し始めて久しい。「失われた20年」という言葉もある。所得は増えない。一方でピアノの値段は下がっていない。子どもの数は減る一方で、おけいこ事も多様化している。子どもは塾で忙しい。「隣も買ったからうちも」という横並び意識も、今や希薄だ。競合品である電子ピアノは、価格が安く、性能は向上している。要するに、ピアノ市場が縮小しているのだ。

お隣の中国はと見ると、何と年間生産台数が27万5千台。日本は中国に抜かれただけでなく、中国のピアノ生産が日本の3倍もあるのだ。トップは「珠江」(Pearl River)という広州のメーカーだ。さぞや欧米に売りまくっているのかと思いきや、輸出は6万台だけ。つまり大半の製品は、中国国内で売れている。つまり中国の中産階級が家庭用ピアノを買うようになっている。

中国の教育熱はすざまじい。受験戦争の苛烈さも、日本の比ではない。一人っ子政策で、子どもは一人しかいないので、その一人に徹底的にお金をかける。中国の子どもは、今や「小皇帝」といわれるそうだ。おけいこ事への親の熱意も同じ。ピアノの場合は「小女帝」かもしれない。とにかく猫も杓子もピアノ教室、である。どこかの国の30年前、40年前を見る思いがする。

こういう話は、韓国、台湾、香港では、十年前から聞かれたから、どうやら東アジア特有の現象らしい。所得水準が上がると、教育にお金をかけるようになる。大学に行かせる。楽器を習わせる。音大生が増える。その結果町にピアノ教室がさらに増える。楽器メーカーが販売戦略として、これを後押しする。中国で珠江ピアノ教室が、全国の町や村にできる日も遠くないだろう。

sp126-4アメリカは豊かな国だが、猫も杓子もピアノにはならない。学校で音楽は必修ではない。家にピアノがない中流家庭も多い。ピアノを買っても、熱心にピアノ教室に通わせないので、ホコリをかぶった家具になる速度は、日本以上だ。一方で英才教育の国で、天才ピアノ少年は13歳でもジュリアードに入ったりする。ごく一部のプロ集団と9割の音痴の国、それがアメリカだ。

それにしても、日本のピアノ産業はどこへ行くのだろう。ヤ○ハが世界のマーケットを席捲した時代は終わりつつある。国内市場の成長は見込めない。数ではなく質で勝負しなければならない。しかし日本のピアノが、ベヒシュタインやスタインウェイ、プレイエルのように、高品質・高価格路線に移れる可能性はあるのだろうか。私はこの点では、どうも悲観的になってしまう。


十年前に書かれたブログですが、実に明快で良く分かります。

まさしく七年の間にさらに半分(半減)以下に落ち込んでいる上にその背景が顕著に分かるのです。

 さて話はここからです。

 不要になったピアノを必要とされる方に使って頂く方が有難く、資源も無駄にならないとかエコロジカル(実に安っぽい言葉になりましたね…)と、好感を持って見ておられる方もおられるのではないでしょうか?

 しかし、実はそうではないのです。

 元々、ピアノ生産が好調だった時代、かつては、10,000台生産されたら1,000台が解体処分されるといった話も聴いていたのですが、最早、ピアノが弾ける子は苛められ自殺に追い込まれると言った風潮が蔓延するほど日本という国家はボロボロになってしまったのです(どうせ苛めたのは土建屋か産廃業者の娘)。

 ピアノ教室は閉鎖され、ピアノの先生も生徒を失いパートの弁当屋に働きに出る始末で、日本の文化的後退現象は、御茶、御花から始まり、書道、算盤(そろばん)…(以下省略)に至るまで社会の隅々まで起こってしまっているのです(それもこれも小泉進○郎の親父や竹中○蔵以降顕著になったのですが)。

 では、最後にネット上のブログをご紹介しましょう。


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非常に高品質なんですよ、日本のピアノは。だから修理済みのピアノを輸出しています。

タケモトピアノは、お客さんから買い取ったピアノを日本国内では売ってない!

買い取ったピアノを修理してピカピカにし、100%海外に輸出して儲けている会社なのです。

出典TBS「がっちりマンデー!!

取引国

世界50ケ国以上

アメリカ合衆国、カナダ、スペイン、英国、ドイツ、オランダ、イタリア、フランス、ポルトガル、マレーシア、フィリピン、 ベトナム、シンガポール、オーストラリア、香港、台湾、韓国、中国など。

修理にかかった時間はわずか10分。この工場では、28人の技術者が1ヶ月に1600台のピアノを修理しています!そんなタケモトピアノは、ピアノ修理だけで年間売上げ、なんと!30億円!

毎年2万台を販売しているそうなので、売値は単純平均で15万円と意外と安価です。

出典

ピアノ売ってちょーだい! タケモトピアノの秘密とは? | ノマドエクスポーター アマゾン海外販売編

数万円くらいで買い取ったピアノを、職人の技で再生。音の特性・機能だけでなく、外装も新品同様に蘇らせる。職人の労賃 3/日、引き取り3万、管理2万としても、1台あたり、5万円以上の利益は出ているのだろうと推測。

出典

タケモトピアノ | プロセスを変える - 楽天ブログ



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十分にお分かり頂けたと思います。

 かつて世界トップの生産量を誇った日本製ピアノは、ここでもボロ負け状態に落ち込んだ上に、小○泉竹○改革以降による所得の急落に加えて、国富のアメリカへの売り飛ばしよって、国内の需要そのものから、将来のピアノの購買層となるピアノ教室に通う生徒から先生までの全ての文化とそれを支える社会風土の一切を押し流してしまったのでした。

 最早、音大のピアノ学科に進もうとするお嬢様も調律師も音楽教室の経営者も、そして音楽大学そのものも、全てが消失し日本で無用の長物となった高性能ピアノが、中国、台湾、香港、韓国、ベトナム、マレーシア、シンガポールの富裕層、日本では失われた中間層へと売り捌かれている事が分かるのです。

 結局、バブル絶頂期までアメリカさえも追い落とす勢いだった日本は、完全にアメリカに食い物にされ、これからも、保険制度、医療制度、そして日本の主力産業の株そのものが全てアメリカ、中国の虚構の上に膨張された偽通貨によって買い漁られ、そのうち列島内に日本人立ち入り禁止の中国人居留地と言ったものが急増する事になるでしょう。それもこれも小○泉竹○と連動する腐敗官僚どもがやった事なのです。

 苛めとやっかみから弾けると言えない子供がこっそりとピアノを習い、巷ではAKB○○などといった恥知らずで、大騒ぎする角兵衛獅子(かくべえじし)紛いのお遊戯集団だけが脚光を浴びる愚かな国に成り下がった事は、まさにマッカーサー以来の日本人劣化政策が完全に完成したと言える事になりそうです。

 次は、医者や大学教授や弁護士…といったハイ・クラスの人々が路頭に迷う時代が来ることでしょう。

467 高之口 “目で見て分かる地名?”

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 467 高之口 “目で見て分かる地名?”

20170326

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 以前にも矢筈とか鏡山とか言った目で見て分かる地名を取り上げて来ましたが、これはお分かり頂けるかどうかは分かりません。

 鹿児島県の阿久根市から薩摩川内市に向けての3号線は交通量も少なく美しい外洋が広がる風光明媚な所だけに頻繁に通る道なのですが、ここを通過するたびに、「高之口」という奇妙な地名が理解できずに悩み続けています。

 普通、この手の地名は別の地区への入口と言った場合が多いのですが、そうでもないようなのです。

 さつま川内市側に川内高城(センダイタキ)温泉があり、往年の湯治場だったのですが、ここへの入口はもう少し南に降った西方辺りであり、高の口から落(平家の落人集落との説も、瀬戸内海の越智説も…)辺りを経由するのでしょうが、愛宕の大山塊を越えて入るにはルートとして不適ではないかと思うからです。


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結局、“鷹の口”ではないかと言うのが今のところの作業仮説なのですが、阿久根(アクネ)市だけに色々と考えあぐねています。

 まず、鷹(タカ)と呼ぶか、鷲(ワシ)と呼ぶか鳶(トビ)と呼ぶかもありますし、嘴(クチバシ)をクチと呼ぶかハシと呼ぶかが民族ごと氏族ごとに異なる事から仕方なくクチバシと呼んだのだろうと想像しています。

 鷹橋とか高橋などと書かれていれば、ハシボソガラス、ハシブトガラス、オオソリハシシギ…の例があるように、そのようにも思うのですが、今のところただの思い付きに過ぎません。


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このように、「延喜式」とか「和名類聚抄」…といった文献に全く出てこない地名に関しては、多くのファクトを抑えて帰納演繹的考察を行う以外に方法が無いため、類型が存在しない場合には、結局、思い込み、想像、思いつき程度のものになってしまいます。

この地区の龍王神社は見たことがありますが、そこから得られるイメージもこの地名の謎解きには追い付きません。


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以前、阿久根の市史などには目を通しているのですが、郷土史の面からもこれ以上踏み込めません。

 印象としては、赤崎鼻がこの地名の発信源ではないかと考えていますが、決め手がありません。

 

スポット127 崇神天皇とは誰か?

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スポット127 崇神天皇とは誰か?

20171001

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 これは百嶋神社考古学でも最重要のテーマであり、後期の九州王朝でも高良玉垂命や神功皇后が活躍した時代に臣下として活動した崇神天皇の正体を具体的に明らかにされておられる方がある事を公開し、多くの方々に検討して頂きたいと提起するものです。


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歴史家。1939年生まれ。1958年熊本県立玉名高等学校卒業。1962年東京教育大学理学部数学科卒業。コンピュータ販売会社勤務。95年退社。東アジアの古代文化を考える会会員。『古代文化を考える』(同人誌)編集・事務局。

sp127-4•『古代史の復元 1 倭人のルーツと渤海沿岸』ストーク 1997

•『古代史の復元 2 伊都国と渡来邪馬壹国』ストーク 1998

•『古代史の復元 3 神武・崇神と初期ヤマト王権』ストーク 1999

•『古代史の復元 4 四世紀の北部九州と近畿』ストーク 2000

•『古代史の復元 5 倭の五王と磐井の乱』ストーク 2001

•『古代史の復元 6 物部氏と蘇我氏と上宮王家』ストーク 2004

•『古代史の復元 7 天智王権と天武王権』ストーク 2007

•『古代史の復元 8 天武天皇と大寺の移築』ストーク 2010

•『古代史の提言 1 新「日本の古代史」 上』ストーク 2014

•『古代史の提言 2 新「日本の古代史」 中』ストーク 2015


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佃先生には過去五回程度お逢いしていますが、寡欲で極めて控えめな方で、本物の研究者と言った印象を受けています。

 九州王朝論者と言えば、九割方が古田武彦の信奉者といったところでしょうが、絶えず少数派に流れる私のような人間にとっては、神にも等しい本物の研究者であり、素晴らしいばかりの十著を公刊されているのです(写真は久留米大学で講演中の佃 収 氏)。以下、同人誌「古代文化を考える」69号 91p


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スポット127(後) 崇神天皇とは誰か?

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スポット127(後) 崇神天皇とは誰か?

20171001

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


これ以上は著作権の問題もあり引用できませんが、佃先生の研究内容の宣伝としてお許し頂けるでしょう。

 佃先生は殆どの対外史書を読みこなし、尚且つ普通では取り上げられる事の全く無い「契丹古伝」も駆使され解明を進めておられます。以下、ネット上の「契丹古伝」から…一部を引用したもの。


十世紀に書かれた東アジアの歴史書(?)の一つ。ただし極東の漢字文明圏における正式な歴史書の体裁に則ってはいない。遊牧民の立場から漢民族を侵略者として、中国大陸の歴史を中国歴代正史とはまったく異なる歴史観で捉えなおした短編書物。

通例、歴史書とされるが、むしろ「史論」書である。歴史論文か歴史随筆、または歴史論談を装った政治宣伝文書との一面もある。

「契丹」はキタイ帝国。『契丹古伝』は「キタイ人によって伝えられた古伝」の意味。しかし契丹人はそれを伝えようとした主体的な当事者ではあるが、古伝の内容それ自体は契丹人についての古伝ではなく、別の民族のものである。

『神頌叙伝』(しんしょうじょでん)ともいう。どちらの名称でも同じであるが、しいて区別すれば、『契丹古伝』は、解釈された内容・語られている歴史・原書をとりまく諸研究、等までをも包括的にいう傾向があるのに対し、『神頌叙伝』は文献そのもの・原典原文・文字づら、等をさす傾向がある。神頌叙伝も参照。…

…原物は、古陵墓より発見された秘物であるが、漢字で綴られてはいるものの、言辞は漢語と異なるもの(異民族の言葉を音写した部分、長い固有名詞など)があり、普通の中国人には理解できない部分の多い、読みにくい書物であった。兵禍を恐れていずこかに移動した後に、奉天城外の「黄寺」に厳重に託された。(ここでいう「黄寺」とは何かについては諸説あり、道観(道教寺院)だという論者もいる。また単なる地名としても「黄寺」という地名は近辺に最低でも二ヶ所ある。黄帽派チベット仏教の寺院という説が最有力か?)

その寺の僧の知人に廣部精という博識の日本軍人がいた(廣部精は軍人であるとともに支那語の教育研究や日常語についての研究など支那語学の方で有名な実在の人物。のちに大隈重信や渋沢栄一らとともに「孔子教会」を設立)。廣部も寺僧もこの巻物を解読はできなかった。

ところでその頃、鴨緑江軍兵站経理部長の濱名寛祐(号は「祖光」・「極光」。経歴の明らかな実在の軍人)は奉天城外の黄寺に駐屯していた。明治3811月から翌392月までの間のある日、濱名は部下(鴨緑江軍兵站経理部員)の廣部精から奇妙な巻物を見せられた。濱名は漢学者の家に生まれたこともあり、漢文には堪能であったが、この難解な古巻には句読点さえつけることができなかった。寺僧はこの巻物の書写を堅く拒否したが、好奇心旺盛な廣部は庫院の管理者の一人を籠絡して、密かにその写本を作成した。廣部はこの自分の写本を濱名に貸し与えた。


 慕容廆(ボウヨンギ)=鮮卑族 と言えば、高句麗(コグリョ)広開土王を描いた「太王四神記」の後半に登場する後燕の王でしたが、その慕容廆に追われた依羅国の王子扶羅が渡海し、半島の南部に拠点を


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2007911日から125日まで韓国MBCで放送されたテレビドラマ(時代劇)


築き、倭人と更に渡海し列島の贈)崇神(ハツクニシラススメラミコト)=ツヌガノアラシト(敦賀=ツヌガに居た安羅伽耶からやって来たシト=人)なのです。

 恐らくこの贈)崇神辺りから近畿大和朝廷の萌芽が産まれたものと考えているのですが、まだまだ探求は続きます。


 最後になりますが、所謂、邪馬台国本をお読みになっておられる邪馬台国ファンの方々はともかくも、九州王朝論者の方で「東アジアの古代文化を考える会」の著書をお読みなっておられない方はかなりおられるものと考えています。

 レベルの高さとその厚みを考えると、単に藤原が捏造したものと理解しているものの、「記」「紀」を聖典化し同時に振り回され続けて来た九州王朝論から是非とも離脱して頂きたいと考えています。古川


新しい「日本史(古代)」の提言(佃收)


歴史の解明は「時間(年代)」と「空間(場所)」の究明である。 「時間」と「空間」を究明するには


1. 論理的であること(根拠を明示すること)
2.
科学的であること(物的証拠を提示すること)

これが「歴史研究」の基本であり、どうしても必要なことであると考えて、研究を続けてきた。

日本古代史の基本的ないくつかの点について、私が得た結論を示し、新しい「日本史(古代)」を提言いたします。既存の日本古代史との違いに最初は驚かれる方もあるかもしれません。じっくり私の本を読んでいただき、科学的・論理的に検討・検証して、史実を求めていただきたいと思います。

1. 「天孫降臨」は史実である。
『古事記』に記述されている天孫降臨の地は福岡県福岡市西区の「日向川」付近である。そこの「吉武高木遺跡」から『宮下文書』に記述されている通りの「大型建物跡(長井宮)」と「三種の神器」を埋葬した木棺が出土している。福岡市西区が天孫降臨の「筑紫の日向」である。また、「神武東征(逃亡)」も史実であり、「神話」ではない。

2. 後漢時代の「倭国」は朝鮮半島南部にあった。日本列島にあったのではない。「倭国王帥升」は朝鮮半島の「倭王」である。「倭国(大)乱」は朝鮮半島南部の「倭国」の出来事である。

3. 220年~230年」頃、朝鮮半島の倭国は韓に侵略されて亡びる。卑弥呼は北部九州に逃げて来て伊都国王朝と戦い勝利する。「238年」に魏へ朝貢して「倭王」となる。日本列島に初めて「倭国」は誕生する。朝鮮半島の倭国の再興である。

4. 日本史に「貴国」がない。神功皇后が樹立したのが「貴国」である。現在の日本史は欠陥の日本史である。

5. 4世紀~5世紀」に多くの渡来人が来る。これらの渡来人を「万世一系」の天皇に組み入れている。『古事記』『日本書紀』の「万世一系」は天武天皇による「捏造」である。

6. 「倭の五王」は「筑紫君」である。日本列島を統一している。

7. 「倭王武」は日本列島で初めて天子となり、年号を建てている。「年号」は「九州年号」から現在まで続いている。

8. 531年」の「磐井の乱」で物部麁鹿火は主君筑紫君(倭の五王)を伐ち、「物部麁鹿火王権」を樹立する。「538年」の「仏教伝来」は物部麁鹿火王権下での出来事である。

9. 552年」に物部尾輿は物部麁鹿火王権から王権を奪い、福岡県鞍手郡に「俀国(阿毎王権)」を樹立する。

10.『隋書』の「日出る処の天子」は「俀王多利思比孤」であり、「聖徳太子」ではない。

11.591年」に上宮法皇は「肥前の飛鳥」に「上宮王権」を樹立する。

12.上宮王権の入り婿である「舒明天皇」は肥前の宮所に「百済大宮」「百済大寺」を建立する。今の佐賀県諸富町大堂である。息子の「中大兄(天智天皇)」は肥前南部で生まれ育っている。
645年」の「乙巳の変」は「肥前の飛鳥」での出来事である。

13.635年」に「天武天皇の父」は「阿毎王権」の上に君臨して「天武王権」を筑前の宗像に樹立する。
『日本書紀』は「天武天皇の父」を抹殺している。

14.649年」に「上宮王権(皇極天皇)」は「天武天皇の父」に「王権」を剥奪される。「上宮王権(皇極、斉明天皇)」は「天武王権」の支配下に入る。「中大兄皇子」は「皇子」ではなくなる。「皇極紀」から「中大兄」になっている。

15.656年」に「斉明」は「天武天皇の父」から逃れるために「肥前の飛鳥」から「大和の飛鳥」へ移る。

16.661年」に「天武天皇の父」が崩御し、「天武天皇」が即位する。「663年」の「白村江の戦い」を戦ったのは「天武天皇」である。斉明や中大兄ではない。

17.「天智と天武」は兄弟ではない。「王権」が異なる。

18.668年」に「中大兄」は「大和の飛鳥」から近江へ移り、「天智王権」を樹立する。

19.672年」の「壬申の乱」は「天武王権」と「天智王権」の戦いである。

20.「高市皇子」は天武天皇の後に即位して「高市天皇」となっている。その子は「長屋親王」である。

上記の内容は、『新「日本の古代史」(下)』(平成2971日発行)の巻末の「おわりに」のところで、まとめて述べているものと同じものです。

佃收著作集ホームページ作成委員会より

日本古代史は多くの謎に包まれています。よく言われている謎を10ほど書き並べてみます。


日本古代史の謎

天孫降臨の地はどこか。宮崎県か福岡県か・・・。どのような歴史的事実があって、天孫降臨の物語が生まれたのか。それとも、これは全くのフィクションなのか。

1. 卑弥呼はどこから来たのか。邪馬台国はどこに在ったのか。

2. 大和朝廷の祖とされる神武天皇は実在の人物なのか。実在だとすれば、どこを出発してどのような経路で大和に辿り着いたのか。

3. 「宋書」倭国伝に記されている5世紀の倭の五王讃、珍、済、興、武は天皇であったのか。また、6世紀初めの磐井の乱の磐井は本当に大和朝廷の臣下であったのか。

4. 「隋書」俀国伝に記されている王が隋の煬帝に国書を送っている。有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」である。また、「王は妻をもち、後宮に五、六百人・・・」とある。このときの天皇は本当に女帝の推古天皇で、書を送ったのは聖徳太子としていいのか。聖徳太子については、十七条の憲法を制定し、三経義疏を書いたとされるが、実在の人物なのか。

5. 古代史で大きな影響力を持ったとされる蘇我氏や物部氏はどのような存在だったのか。

6. 「大化の改新」は最近では「乙巳の変」と呼ばれている。朝鮮半島で起こったこととか九州で起こったこととかの説もある。本当に奈良で起こったことなのか。また、この時期から律令制度は本当に出発していったのか。

7. 天智天皇と天武天皇は本当に兄弟なのか。天智天皇は天皇として大和を支配していた時期があったのか。あったとして、どのような理由で大津に遷都したのか。

8. 万葉集に「日本紀」と「日本書紀」の両方の記載がある。両者は同じものであるとする解釈が一般的だが、本当に同じものとしていいのか。同じものなら、どのような理由で名前が違うのか。

9. 奈良の法隆寺は670年に完全焼失したという記述が日本書紀にある。一方、法隆寺の五重塔の心柱に594年に伐採されたヒノキが使われている、と奈良国立文化財研究所が発表している。法隆寺は本当に焼失したのか。それとも日本書紀の記述は誤っているのか。

10.

古田武彦氏の九州王朝説

このような謎に対して、多くの魅力的な書物が作家や研究者などによって著されてきました。その中でも、古田武彦氏は40年以上前に、様々な検討の結果、魏志倭人伝の邪馬台国は邪馬壹国であることを指摘するなど、日本の古代史の解明に大きな足跡を残されました。2010年ミネルヴァ書房から古田武彦古代史コレクションが発刊され、発刊のことばでは「・・・・古田氏を抜きにして、論争は成立しうるのか。・・・古田史学のこれまでの諸成果を・・・順次復刊刊行し、大方の読者にその正否をゆだねたいと思う。・・・」とある。

佃收氏の九州王権説

私たちは、次の2つの条件を満たす日本古代史を探していました。1つは古田武彦氏の提起した問題意識をしっかり受け留めていること、2つ目は三国志、後漢書は言うに及ばず、契丹古伝、三国史記や桓檀古記などの中国や朝鮮の文献も調べるなどして、東アジア全体の歴史の流れの中で総合的に日本古代史を構成しているという条件です。

この条件を満たしているものに、ついに私たちは出会いました。佃收氏は、『新「日本の古代史」()』と『新「日本の古代史」()』及び古代史の復元シリーズ全8巻を出版されています。作成員会は、すべてに目を通して、大きな感激を得ました。佃收氏の著作は、日本の古文書はもちろん中国や朝鮮の古文献をも参照し、古墳などの遺跡から出土する物的証拠などとを比較検討することから論を組んでいます。著者の想像力だけによる論考ではなく、常にその証拠を示し、歴史的事象の時と場所を特定しながら古代史の解明に取り組んでいます。有名な古田氏の九州王朝説とはまた別の九州王権説を展開される佃氏の著作は、日本古代史の解明に大きく寄与できる内容であると思われますが、一般にはほとんど知られていません。

そこで、佃收著作集ホームページ作成委員会は、著作を紹介すると共に、多くの皆様に佃氏の詳細で緻密な論考に直接接していただくために、『新「日本の古代史」()』、『新「日本の古代史」()』、「古代史の復元」シリーズ全8巻を全文アップロードしました。

佃氏の著作に触れられた皆様が、日本古代史の解明に向けて少しでも参考になることがありましたら、作成委員会としては大変幸甚に存じます。


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468 阿久根山中の若宮神社二題

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468 阿久根山中の若宮神社二題

20170329

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


2017325日のトレッキングを終え、天気も持ちそうだったことから、そのまま、北薩に向かいました。

まず、研究会としてのトレッキングは“皆で初見の神社を廻りましょう“ではありません。

つまり、自らの企画である場合は何度かの下見を行いこの神社はこう言うものだと考えるので皆さんはどうお考えになるのかご覧く下さい…であって、単純に一から見ようと言う気楽なハイキングを行っている訳ではありません。

ただ、他のメンバーの企画の場合は蓋を開けなければ分からないものになる事から、実に、興味津々といったものになります。

従って、会のスケジュールから外れた一からの調査となると、途端に解放されたフィールド・ワークになる訳で、探検の様な楽しいものになります。


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海退によって大量の平地が出現した出水に対して海退によっても僅かな平地しかできなかった阿久根


 今回北薩に南下した理由は、出水市に編入された旧野田町の熊野神社の境内摂社 八衢比古(ヤチマタヒコ)、八衢比売(ヤチマタヒメ)(通説ではサルタヒコとアメノウヅメと解釈されるのですが、実は、神武天皇に逆らった逆賊の長脛彦兄妹なのですが)に猿田彦の三神の写真の撮り直しが目的だったのです。

 それが終わると、後は好きなように見て回る事になる訳です。

 阿久根と言えば海岸部に目が向きますが、今回はあまり入らなかった背後の広大な山間地に踏み込みました。

 犬も歩けば棒に当たる…の通り、二つの若宮社を発見しました。

 阿久根では、十数年前に海岸部のアコウの大木が残る脇本浜の一角に若宮社を一社見つけていましたが、これでこの孤立した若宮社の連れを見出した事になり、それなりに大きな高良大社+若宮神社という古い九州王朝時代の祭祀形態の名残の様なものが存在した痕跡を発見した思いがしています。

 本来は、高良神社+若宮神社という複合だったと思っていますが、今のところ高良神社の方については発見していません。

 国東半島ではこの複合が残っているのでそう考えているだけなのですが、もしかしたら若宮神社=仁徳天皇(九州王朝の最後の天皇)を単独で祀る祭祀形態が残っている可能性も考えておくべきかも知れません。

 これについてはもう少し多くのファクトを押さえないと推定できそうにありません。


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今回調査に入った領域は、国道3号線が通る阿久根市の中心部がある海岸線から遠く離れた愛宕山の東麓一帯の尾崎、弓木野の二地区でした。

 元々は、カーナビで発見した弓木野(「ユキノ」と呼んでいるのでしょうか、野良に人がいないため確認できませんでした)の若宮神社でしたが、そこへの移動の途中の尾崎地区で気になる神社を発見した事から参内させて頂くと、案の定若宮神社が鎮座していたのでした。


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愛宕山の北麓でカーナビに現れた若宮神社


 最近はカーナビのおかげでかなり興味深い地名や神社を発見できるようになりました。

 このカーナビのデータには行政が破壊し続けた旧地名、旧しこ名などの情報が残されている場合もあり、古いものほど貴重な文化財と言えそうです。


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どうも明治期、若宮神社に付近の大山祗や宇気毛知(豊受大神)神、薬師大神(不明)といったものが合祀されたようです。

 この限りでは、高良神社の痕跡はないようで、今のところなんとも言えません。

 次に向かったのは、元々の目的地である弓木野地区の若宮神社でした。


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神殿は至って簡素ですが、紛れもない若宮神社です


 今のところここまでしか分かりません。

 阿久根の山中に若宮神社を守る人々がかなりの規模で息づいていた事だけは間違いがないでしょう。

過疎化が急速に進んでいます。それどころか、新幹線のルートからも外され、阿久根市の中心街でさえもが存続できず、巨大ディスカウント・ストアーAZだけに大挙してお客が集中しているといった有様なのです。


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弓木野公民館の傍に置かれた地域の掲示板を見ると、愛宕山という名称からも分かりますが、この一帯には山岳修験が広く覆っていた時代があったようです。


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ここでは、阿久根の山中に山岳修験の勢力が存在し、その奥懐に若宮神社を祀る祭祀圏が存在していた事を確認しておきたいと思います。

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