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469 伊佐市(大口)で発見した若宮神社祭祀

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469 伊佐市(大口)で発見した若宮神社祭祀

20170330

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


阿久根から薩摩川内市の北のさつま町に入り伊佐市に入りましたが、旧大口(伊佐郡菱刈町と新設合併して伊佐市となった)の荒瀬神社という神社に参拝しました。


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勿論、初見の神社であり行き当たりばったりの調査でしたが、川内川の上流の多くの川が集中する地域だけに、何でもないような神社でも安易に無視はできないのです。

 特に、曾木の滝とも書かれる曽木の滝と(伊佐市大口宮人628-41)言う古代に於いても、ナイアガラ並みの巨大フォールの噂は全土に鳴り響いていたはずと思われる景勝地であることから、興味は尽きません。

 只の思い付きでしかありませんが、「削ぐ」「削ぎ落す」という言葉さえも、もしかしたらこの奇景から産み出されたのではないかと考えるほどの力を持った巨大滝なのです。

 滝はともかく何の変哲もない神社のようですが、ここでも若宮社に遭遇したのでした。

向かって右の摂社に天神社が、左のそれに若宮社がありました。

ただ、善神堂(百嶋神社考古学では道真の父としますが)は見落としたようです。


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向かって右に天神社が左の摂社と思われるものに若宮社がありました


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この旧郷社の祭神も触れておかなければなりません。

 ここでは「古事記」風に豊玉毘売命、豊玉毘古命を主神としていますので、そのまま考えれば、まずは、博多の櫛田神社の大幡主の一族=白族の直系のヤタガラスと、ヤタガラスと豊秋ツ姫との間に産れた豊玉姫(タゴリミホ)の二柱と見て良いでしょう。

 ただ、間違っても、産まれた鵜茅不合葺命が豊玉姫の妹の玉依姫神に養育され、後に玉依姫神との間に神倭伊波禮毘古命(=神武天皇)をもうける。などとは考えられないように。

 それは藤原による偽装であり、実際には山幸彦=ニギハヤヒとの間にウガヤフキアエズを産んでいるのです。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


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付近の地名を見ると、白木、諏訪、鳥巣、八坂町、太田、大口大田、千束松…とヤタガラス、スサノウ系の人々が大量に住み着いていた事が分かります。

 この民族配置からは、豊玉姫ではなく玉依姫の方が正しいように思えるのですが、決め手がありません。

 縁起にニニギが顔を出し高木大神の長女の豊秋ツ姫となっているのもその気配がするのです。


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曾木の滝


スポット128 林野庁が引き起こした九州北部豪雨災害によってとうとうJR日田彦山線までもが廃線に

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スポット128 林野庁が引き起こした九州北部豪雨災害によってとうとうJR日田彦山線までもが廃線に!

20171005

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 この間、朝倉~日田に掛けての九州北部豪雨災害について下記の五本のblogをオンエアしてきました。

スポット112 朝倉~日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした! 

20170713

スポット115 山に木がある方が安全だと思い込んでいる人に対して! 本当に豪雨が原因なのか?

20170719

スポット122 大量の土壌流出と木材流出は今後も継続する“平野虎丸ブログのご紹介を兼ねて”

20170925

スポット123 筑後川の南から北の被災地を眺める 悲しい棄民国家の現実

         “ここでも「災害地名」が意味を持っていた「道目木」「梅ケ谷」”   20171001

スポット125 朝倉から日田にかけての山々の行く末について

20171001

 本稿はその続編になります。


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彦山(英彦山)


 北部九州において彦山と言えば知らぬ人のない山岳修験の山であり、陰りが見え始めた登山の山でもあったのですが、山岳修験を恐れた明治維新以降の神仏混交修験の排斥によって今や凋落の一途を辿りつつある信仰の山です。宮司家だけは天皇家から「高千穂」姓を頂いて有難がっておられるのですが。

この福岡と大分の県境に聳える彦山の西の縁を縫うように走っていたのが、かつての日田彦山線でした


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さて、スポット112 朝倉~日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした! 

に於いて、このように書いていました。


 既にJR久大線の花月川橋梁(大分県日田市)が流されています。どう見ても短期間での復旧は望めず、

ゆふいんの森号(まさかバスによる代行運転できないので北九州周りにするでしょうが)は忘れ去られる

ところまで行くはずです。

JR九州は農水省に対して損害賠償請求する気はないのでしょうか?私の目から見れば因果関係ははっきりしているのですが?それとも高千穂鉄道同様に見捨てるつもりなのでしょうか?…

 皆さんは、あの高千穂線が2005年の台風による洪水(これも林野庁によるでたらめな人工林造成が原因)による橋梁流出によっていとも易々と切り捨てられ廃線となった事を覚えておられるでしょう。

所詮、JR九州とはそのようなものなのです。もしかしたらこれ幸いだったのかも知れません。民間企業とはそのようなものなのです。CIAの手先中曽根による国鉄分割民営化による情けない国策の結果です。


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林野庁の責任によって久大線の鉄橋が流され、湯布院の森号でさえ北九州の小倉から大分経由で湯布院に向かわざるを得なくなっているのですから、日田彦山線が影響を受ければ、切り捨てたくて仕方がない経営側にとっては勿怪の幸いとばかりに廃線への動きが加速してくる事は言わずもがなでしょう。


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現在、久大線に続き、この日田彦山線までもが存亡の危機に立っているのです。

 以下をお読み下さい。

JR九州 大雨 被害】日田彦山線は約30kmに渡り被害…JR九州「復旧かなりの時間」2017-07-11 19:50:01


JR九州は711日、大雨の影響で一部区間の運転を見合わせている日田彦山線と久大本線の被害状況を発表した。久大本線の光岡~日田間(大分県日田市)で橋りょうが流失したほか、日田彦山線でも大きな被害が発生している。[関連写真]日田彦山線は、城野(北九州市小倉南区)~夜明(大分県日田市)間68.7kmを結ぶ鉄道路線。全線が非電化単線で、城野方の列車は日豊本線に乗り入れて小倉駅まで、夜明方の列車は久大本線に乗り入れて日田駅まで運行されている。

75日の大雨では、添田(福岡県添田町)~夜明間の29.2kmで大きな被害が発生。添田~歓遊舎ひこさん間の第二彦山川橋りょうは橋脚が傾き、豊前桝田~彦山間の第三彦山川橋りょうも変形した。

彦山~筑前岩屋間の釈迦岳トンネルや筑前岩屋駅構内には土砂が流入。宝珠山~大鶴間でも土砂流入や盛土の流失が確認されている。大行司~宝珠山間では盛土と軌道が流失。大行司駅は路盤が崩壊した。

日田彦山線は添田~夜明間、久大本線はうきは~夜明~日田間で運転を見合わせており、久大本線ではバスによる代行輸送が行われている。JR九州は両線について「橋りょうの流失や線路災害など被害が発生しており、復旧にはかなりの時間を要する見込み」としている。

《レスポンス 草町義和》- 引用元 日田彦山線は約30kmに渡り被害…JR九州「復旧かなりの時間」(レスポンス)


 十分にお分かりになったと思います。

 日豊線の城野駅からとは言え、筑前夜明駅で久大線に連絡し、北九州の小倉から西豊後の要衝日田まで風光明媚な列車の旅が堪能できる日田彦山線は、その特異なロケーションによって北部九州でも残された名路線と思い続けて来ました。

 その日田彦山線までもが廃線の話が出てくるのですから、この情けないばかりの国家の劣化には驚くばかりです。

 思えば、この日田彦山線沿線は非常に魅力的なところでした。

 彦山への登山の基地であり彦山神社への参拝の駅であった彦山駅。

 確か、記憶違いでなければ、戦時下に多くの死者を出しながら突貫工事で建設された釈迦ケ嶽トンネル。

 その釈迦ケ嶽トンネルから滔々と流れ出す豊かな湧水の筑前岩屋駅。

息を呑むばかりの美しさを今に留める栗木野鉄道橋梁(下)。


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個人的な話ながら、桜咲く筑前岩屋駅から愚妻と二人の娘を日田彦山線のディーゼル車に載せて往復し、短いながらも日田彦山線とトンネルの旅を行いましたし、何度か格安で田舎が堪能できる千代丸温泉伊東屋にも泊まりました。

 筑前岩屋から山越えで何度も鹿田焼窯元にも足を向けました。


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薄汚い人工林の拡大とそれによって堆砂容量を大きく超え土砂が堆積続ける無駄なダムや効果もない、砂防ダム、三面張りのコンクリートで固められた清流…によって北部九州には見るべきところが一切亡くなった中、最後に残された心安らぐ懐かしい風景が徹底的に痛めつけられたのが今回の豪雨災害でもあったのです。最早、あの素晴らしいばかりの釈迦ケ岳トンネルの湧水も失われているのです。


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これまで朝倉を中心に書いてきましたが、旧宝珠山村(現東峰村)もとんでもない被害が出ているのです。この原因の一切が林野庁による長伐期施業という責任逃れの放置(投げ出し)政策の付け廻しが二十数年を経てとんでもない災害をもたらし始めたのです(まだこれは始まりでしかありません)。

 この無責任な政策を出した農水省、林野庁の腐敗官僚どもも、天下りするだけして己が懐だけ肥し責任追及も免れ、今や、人生を終えようとしているのです。まさに国賊としか言いようがありません。

 収益性から考えれば廃線に持ち込みたいはずのJR九州は、好機到来と考え廃線から放置するのか、住民を人質にして国から予算を引き出そうとしているのか不明ですが(財務省も馬鹿ではないはずで今回の災害の主因が林野行政にあった事は十分に理解しているはずなのです)、一応は資産であるはずの鉄路が寸断された理由が人工林にあった事は明らかなのですから、裏では実質的な損害賠償請求級の要求はしているはずなのです。

 そこから放置されているのが、林業とは全く無縁な窯元などの自営業者や旅館業者であり、観光客の激減、販路や経営そのものの喪失の危機を迎えているのです。

 何度も言うようですが、自分の杉山が崩れて自分の家族や自分の家屋や田畑が流されるのは自業自得でしかなく、嘘つきの行政を信じた馬鹿さ加減を恨むだけで済みますが、自らの林地が崩壊し他人の生活を破壊した場合は加害行為であり、本来は損害賠償の責を負うべき性格のもののはずなのです。

 ところが、林野庁の面子から、また、下級の自治体もチョッカイ議員どもも旗を振り率先して推進してきた事から、とんでもない大雨が降った事にしてホウカムリしているのが実態なのです。

 この恥ずべき国家の在り様には驚くばかりであり、東峰村観光大使やバカバカしいだけのゆるキャラ…などと言った不要のお飾りなど直ちに廃止し、本当に必要な行政施策と困窮している民衆を今こそ救わなければ住民そのものを失う事は明らかなはずでしょう。

 既に災害の発生から三カ月が経過しました。

恐らく、災害復旧を行なったところも再び規模を拡大させ一層大きな豪雨災害が襲う事になるでしょう。

 行政も本当の原因が人工林の崩壊にある事、それを押し進めた行政に責任がある事を明らかにし、本当の救世済民に舵を切るべきでしょう。

 そうでなければ、いずれ行政そのものが無用の長物として民衆から逃散(もうここには住めない…)という形で侮蔑され捨てられることになるのです。

 再建できていないところだらけの上に、再び秋の長雨が襲い寒い冬がやって来るのです。

 付近には、それこそ原鶴温泉やら筑後川温泉やらあるにもかかわらず、利権絡みの仮設住宅で人生を終えなければならない人々の悲しみが良く分かります。

 これは天災によるものでもなく、とんでもない大雨が降った訳でもなく、運が悪かった訳でもなく、家の建て方が悪かった訳でもなく、ただただ林野庁による度を越えた拡大造林政策とそのつけ回しによる長伐期施業という酷い責任放棄(棚上げ)政策の結果、林業や農業にすら関係のない一般の善良な人々の人生が奪われただけの事だったのです。

三カ月が経ち見せ掛けだけの黙祷をするのは結構ですが、終戦直後の一億総懺悔と同様に“全体で助け合おう“で誤魔化せば再び災害が襲う事になるのです。

農水省の予算を削減してでも自らが引き起こした人工林災害による損害賠償を行い、地域を再建すべきなのです。

にも拘らず配分の問題もあるのですが、無残にも災害義捐金が雀の涙となっているようなのです。

阪神大震災から激減したのですが、島原火砕流災害や奥尻島の津波災害の時には一戸当たり3000万円近い義捐金が配分されたのです(災害に逢った方が良かったという話も出たほどなのです)。

ところが、今回はその十分の一も出ないようで、それもこれも小○竹○改革とか言う国富としての郵政の売り飛ばした売国政策の結果、国民の所得が半減した事によってもたらされた国民経済の劇的縮小によりもたらされたものなのです。


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470 伊佐市で「柴刺」(シバサシ)に遭遇した

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470 伊佐市で「柴刺」(シバサシ)に遭遇した

20170330

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


以前、スポット68 「柴刺」(シバサシ)を書きましたが、これまで何度か遭遇した柴刺神事らしきものを鹿児島県伊佐市の一角で見掛けましたので報告したいと思います。

これについては、百嶋神代史研究会(仮称)グループの一員でもある スピリチュアルヒーラー宮古の縁側日記 の宮古女史によっても「柴刺(しばさし)古代の祭儀」として小論を公開されています。


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そうした中、鹿児島県伊佐市の外延部で柴刺神事の痕跡と思えるものを見掛けましたので、記憶に留めておきたいと書き留める事にしました。


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詳しい住所は分かりませんが、「布計」(フケ)集落への入口と言った伊佐市大口山野です


憧れの「布計」(フケ)集落を見たいと雨上がりの野辺の道を進んでいると、左手に手入れの行き届いた神社に遭遇しました。


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無格社八幡神社との事ですが、八幡の神は片鱗もありません


 国玉神という神様は数も少なくあまりはっきりしていませんが、恐らく大国主命か大幡主のどちらかで、彦火火出見尊、豊玉比売命は明治期に追加改変されたものと想像してしまいます。

「八幡の神は片鱗もありません」とはしましたが、実は、詳しく読んで頂くと三十六歌仙扁額についての記述に山野村の「正八幡」が出て来ます。

「正八幡」とは宇佐八幡宮以前の本当の八幡の意味であり、表向きはどうであれ実際には博多の櫛田神社の大幡主を祀る神社であり、その大幡主の子が豊玉彦(ヤタガラス)となる訳です。だから「玉」が付されているのです。

大体、宇佐神宮から最も遠い場所に無格社として八幡宮が置かれている事がおかしいのです。

 この際、今回のテーマは祭神ではないためどうでも良いとして、この神社の一角に「柴刺」神事の名残と思えるものに遭遇しました。

 馬場紀美史(宇佐神宮福岡出張所長)が書かれた「柴刺」の販促用襷には、以下のように書かれていました。


 …「柴刺」「柱立」は律令国家の誕生後、大きく変化していく。「柴刺」に限って言えば、祭場を修祓するための、或いは禁足境界を標示するための、つまり柳田國男が指摘する「忌刺」(斎刺)として変化していったのである。従ってこのような基本的誤謬が現在、「柴刺」イコール「注連張」の通念を生み出すに至ったものと考えられる。

 しかし何度も言うように「柴刺」は霊を虚空へ送りあげるための祭儀であり、決して注連を張るのと同義ではなかったものである。神―すなわち祖霊の還天と来臨が柴刺そのものであった事を理解する必要があるであろう。(本文より)


 一応、入門者の当方としては、「注連縄」による結界以前の聖域の表現と理解しておきます。

 この柴刺との遭遇については、熊本県芦北町を始めとして、これまでにも過去何回かありました。

 やはり、その多くが古い集落といった場所で、後しばらくの間はこの古い儀礼に遭遇する機会はあるものと考えています。以下はスポット68 「柴刺」(シバサシ)の一部です。


では、「柴刺」とは何でしょうか? 実は中国の少数民族の一つ彝(イ)族の儀礼でもあるのです。


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勿論、祭礼、葬礼などに於いて、色々な枝を刺すという儀礼、神礼の事なのです。

今でも茨城県では一部に残っているとも聴きますし、これに似たものを熊本県の葦北郡でも見たことがあり、列島にはどのような人々が入ってきたかを考える上で、重要な示唆を与えてくれるものとなっています。

…最後になりますが、“倭人とは何か“を考える時、「ワ」人と読むのではなく、「ウィ」もしくは「イ」=「ヰ」であるとすれば、この民族も列島に入って来ていたのではないかと思うのです。

それが「常陸国風土記」に出てくる武甕槌=鹿島大神による“同族だまし討ち”征服を思わせるのです。

その意味で同書の458pも我田引水的ですがご紹介しておきます。

雲南省麗江からの新興亡命者であった阿蘇氏に征服された先住者も広義の九黎族の一つだったはずなのです。だからこそ常陸の国の先住者は、歌や音色に魅かれて油断した所をだまし討ちされたのです。


彝(イ)族の儀礼が残っているから伊佐という地名になっているのではとは思いませんが、彝(イ)族と混住していた黎族が鹿児島に入っている事には疑いを持ってはいません。

 指宿に「今給黎」姓が集中し「喜入町」があり「嘉例川」といった地名があることは大陸から黎族(分かり易く言えば阿蘇氏のこと)が入って来ている痕跡と考えている事はこれまでにも何度か触れています。


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「柴刺」に見える山野石井神社の儀礼


470-7これは馬場先生が「柴刺」の409pに挿入されていた雲南省の地図で、  が彝(イ)族の居住領域です。

これを見ると、雲南省麗江を主要な居住地としていた黎族(阿蘇氏)とも白族(豊玉彦=ヤタガラス、大幡主の御先祖)の領域であった昆明とも重なる事から、大口辺りに彝(イ)族が入っていても一向におかしくはないと思うのです。

 写真は神社の正面の風景ですが、古代には雲南省のような山上楽園だったように思えるのです。470-8

471 5000本のblogを書けるか

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471 5000本のblogを書けるか

20170401

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



現在、ひぼろぎ逍遥は №.390まで、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は №.310 これに加えてスポット+extra…と併せ800本近いblogを公開していますが、331日までに以下の470380850本(スポット外のストックもある)を書き上げ、年末まで150本ほどの公開準備ができています。

あれやこれやで、1000本近いblog40ケ月ほどで書き上げたことになるようです。

実質的にこれほどのストックを維持する必要性はないのですが、半年ほどの余裕を持っていれば、落ち着いて考え、公開時点での再編集と併せ、何とかお読み頂けるものを提供できるのではないかと考えているところです。

振り返れば、1000本近いblogというのも驚きますが、現在、最低でも月間20本はオンエアしている訳ですから、年間240本、4年で1000本に近づくのは当然で、ひぼろぎ逍遥(跡宮)が後発のため、その分をスポット+extra…が埋める勘定になる訳です。

平均5pとしても5,000p、普通の本が250pと考えれば、単純計算でも20冊近い本に相当する文章を書いてきた事になる訳です。

実際、共著を併せれば、商業出版で二冊の本を出しているのですが、本を購入して読む人が激減している状況では神社に関する本を出そうと言う気持ちはありません。

それよりも、神社や古代史や地名研究と言ったジャンルで、何かにつけて当ブログや当方の百嶋神社考古学の影響を受けたメンバーによる真実に数多く接触される機会が拡大する事の方を重視しています。

まあ、4年で約1000本というペースは、残りの人生で最大16年書いたとして、5000本、死ぬまでに約100冊分の文章をネット上に公開できる事になる訳です(現在の公開時点では1200本になっています)。


ひぼろぎ逍遥


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ひぼろぎ逍遥(跡宮)


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アクセス数も徐々に増大しており、後発のひぼろぎ逍遥(跡宮)だけでも、年度末の3月のアクセス数は14000件を超えていました(公開時点では20000件)。これが、全体では35万件(公開時点では4045万件)に相当すると申し上げている事で、明日には忘れてしまうような方々を集めて年に10回程度の講演会や研究会を行い、仮に高々10年続いたとしても100回程度のカラオケ・クラブ程度のものでしかなく、結果、何の業績も残せず潰え去ってしまう事に危機感を抱き、何とか新たな展開をしなければならないと考えていたのでした。

 既に、研究会を一から組織し、しかも行政や教育委員会に頼ることなく独立した研究を目指して来ました。しかし、自らお手伝いましょうとか、自分も研究したいので発表したいといった人を創り出す事はできませんでした。

 あくまでも研究者とは、単に本を読んだだけで発表して見たいといったカラオケ・クラブでマイクを話さないと言った人物の事ではなく、やはり群れることなく独立して研究を続けている人であり、会の外延部に屹立して存在しているのでした。

 このため、何の継承性もない只の親睦会的な会を中学校の生徒会の様に民主的に運営しようとも研究体制を拡大し研究者を束にしてゆく事はできないのでした。

 今後、残された活動できる期間が15年だったとして、その間に次の研究者を養成し、研究内容を後世にバトン・タッチし伝えてゆく必要性がある事から、研究者による研究会に切り替えなければならないのです。

 この点「日本書記」を学ぶ会とか「古事記」を読む会といったものとは全く異なり、真実の古代を探究する者の連合体を形成し、百嶋神社考古学という古代の真実への扉を開く鍵を託す任務がある事から、気楽なカラオケ・クラブを維持する暇はないのです。

 そのような程度ものであれば、教育委員会や村興し町興し団体に任せておけば良いのであって、私達は古代の深部にメスを入れて行きたいと考えています。

 まあ、真実を探求する事を目的にするのではなく、教育委員会に自分を売り込むために研究会をやりたいような3K宮司のようなさもしい人間には、およそ真実の扉を開くことなどはできないことでしょう。

 金儲けや自分を売り込むことを人生の目的にするような人間には何の価値もなく一生を終えることでしょう。


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大体このペースで 年間推移しますので、ひぼろぎ逍遥(跡宮)だけで、17万件のアクセスとなる訳です。

オンエア時点では、さらに増えており、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)の合計で年間4045万件ペースに上がっています(20171109

スポット129(前) 第2次スペイン市民戦争(想定)とカタルーニャ独立運動

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スポット129(前) 第2次スペイン市民戦争(想定)とカタルーニャ独立運動

20171005

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今また、州都バルセローナを中心にカタルーニャ地方の独立が脚光を浴びています。

明らかにEU崩壊の一部ではあるのですが、それほど腰の入ったものではない事も明らかでしょう。

 一応、1930年代の激動(19361939)が80年を経て今再び燃え上がり始めたとの印象も受けますが、一定の期間を経る間には政治的なスローガンとしての民族独立運動が必ず利用されるという法則性の様なものを感じざるを得ません。勿論、その背景、底流にあるのは民族問題とEUの問題でしょう。

そう言えば、マルクスも北アイルランド問題で悩んだと言う逸話(当時IRA穏健派はマルクス主義に接近していた)も残っています。民族問題とは意外と根が深いのです。 


カタルーニャ「独立」は第2のスペイン内戦を呼ぶか

Spain Is Flirting With Another Civil War

2017102日(月)2015

ジェームズ・バドコック


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「違憲」の住民投票を阻止するため投票所になだれ込む警官隊(101日、スペインのサン・ホリア・デ・ラミス) Juan Medina-REUTERS

<カタルーニャの独立をめぐるスペイン中央政府との対立は、もはや交渉で解決可能なレベルではなさそうだ>

スペイン中央政府とカタルーニャ州政府は過去5年間、カタルーニャの独立をめぐり対立してきた。住民投票の間もその後も、互いに一歩も引かない構えだ。

カタルーニャ州政府は、住民投票を違憲とするスペイン政府の反対を押し切って、101日に独立の是非を問う住民投票を行った。カルレス・プッチダモン州首相は同日夜、同州は独立国家となる権利を獲得したと宣言。一方では、投票を阻止しようとする警官隊と住民が衝突。州政府によると住民400人以上が負傷した。カタルーニャ側は、「賛成」多数となれば48時間以内にも独立を宣言するとしている。

中央政府はこれまで、カタルーニャが自治拡大への話し合いを求めても「ノー」の一点張りだったが、今や実力行使も辞さない構えだ。警察は、住民投票を力づくで阻止しようとした。すでに920日には、警察が州政府機関を家宅捜索し、住民投票の準備をしていた州政府関係者ら14人を逮捕した。従来は、取り締まりといってもポスターや投票用紙、投票箱の押収などに限られていたので、次第に強権化しているのは明らかだ。

独立阻止のため、中央政府がカタルーニャにどれほど圧力をかけるつもりかは分からない。中央政府は広範な法的拘束力を好きなように行使できる。自治権停止を定めた憲法の条項を引き合いに、実質的にカタルーニャ州政府を無力化することもできるのだ。

軍隊の投入が必要?

だがプッチダモン州首相率いる州政府を力ずくで抑え込むためには、軍隊の投入が必要になるだろう。中央政府の政治家たちは伝統的に、国内で軍隊を使うことには消極的だ。第二次大戦前、選挙で選ばれた左派「人民戦線」とフランコ将軍率いる反乱軍が戦い殺し合った「スペイン内戦」の悪夢を想起させるからだ。

もし国民に銃を向ければ、カタルーニャ州のみならずスペイン全土で中央政府は信を失う可能性もある。スペイン国民の多くは、中央政府とカタルーニャ州の分断を深めた元凶は、中央政府で保守与党を率いるマリアノ・ラホイ首相の強硬姿勢だと見ている。920日に中央政府の警察が州政府官庁を捜索したとき、数万人規模の住民が州政府官庁を取り囲んで抗議したことからも、中央政府に対する反発が危険水準まで高まっていることが分かる。

「もし中央政府の最終手段が武力行使なら、我々は勝ったも同然だ」とカタルーニャ州政府のホルディ・トゥルル報道官は言う。

カタルーニャ州では2014年にも独立の是非を問う「非公式」の住民投票を実施している。当時のアルトゥル・マス州首相は、憲法裁の差し止め命令に反して住民投票を強行して以降、公職追放の身だ。まったく同じことが、住民投票の新たな州法に署名したプッチダモンや州政府職員に起きないとは限らない。それでも州政府は、州政府に指図できるのは州議会を通じたカタルーニャ州民の民意だけだとして、中央政府によるいかなる決定も無視すると言っている。


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アルゼンチン・タンゴでも特に歌のタンゴに強烈なシンパシーを持ち続けている者としては、どうしてもスペインの動きには関心を持ってしまいます。

特に、学生時代に読んだ「カタルニア賛歌」のイメージが、今もなお鮮明に生きており、「カタルーニャ独立問題」といった話となると黙ってはいられなくなるのです。


カタロニア讃歌

『カタロニア讃歌』(カタロニアさんか、原題 Homage to Catalonia)は、英国の文学者ジョージ・オーウェルによるスペイン内戦のルポルタージュ。193612月から19376月までの間内戦に参加したオーウェルの体験を元に、彼による一人称で描かれている。

オーウェル自身のスペイン内戦での人民戦線側の義勇軍への従軍体験を描いたもので、フランシスコ・フランコ将軍指揮下の反乱軍(ファシスト軍)との戦いの模様や、バルセロナで起きた人民戦線内部での内紛・市街戦などを自らの経験を元に語っている。戦争の現実を飾らない文体で克明に描写し、また人民戦線側を内紛へと導いたスターリン主義と非人間的な政党政治への強烈な批判が語られている。同時に、そんな中でも人間味を失わないスペイン人とカタロニア人に対する、オーウェルの愛情と尊敬も語られている。

この体験は社会主義者でありヒューマニストであったオーウェルに大きな影響を及ぼし、オーウェルがより人間の顔をもった社会主義を志向し、非人間的で全体主義的なスターリン主義やソ連への批判を行うようになるきっかけとなり、後のスターリン批判の寓話である『動物農場』や全体主義国家への批判であるSF小説『1984年』を執筆する動機ともなった。

また、本書はスターリンや共産党への批判を含むため、当時オーウェルの属した左翼・リベラルの知識人たちからは非難され、高い評価を得られなかったが、彼の死後にその評価は高まった。20世紀後半のジャーナリズムに大きな影響を与え、現在では、ルポルタージュ文学の金字塔として高く評価されている。

英国の社会派エッセイストであったオーウェルは、スペイン内戦の勃発のニュースを耳にして、ファシストの反乱軍と戦うために、スペインのカタルーニャ地方へと赴き義勇軍に志願する。しかし、彼がそこで体験したのは、ロマンティックな英雄譚とは程遠い、退屈で物資に事欠き悲惨で汚臭にまみれた塹壕戦であった。

だが、数ヶ月ぶりに休暇で前線からバルセロナに戻ってきたオーウェルが目にしたものは、本来一体となってファシストに立ち向かうべき後方の人民政府(共和国政府)内で繰り広げられる愚かな権力争いであった。ソ連のコミンテルンの支持の元、政府内の主導権を握った共産党は、政府内の他の政党をトロツキストと決め付けて敵視し、彼らへの締め付けを強化していた。

休暇を終え、再び前線に戻ったオーウェルだが、負傷によりバルセロナへと後送される。しかし、そこで彼を待っていたものは、彼の部隊が所属していたPOUM(マルクス主義統一労働者党)の政府による非合法化、そして共産党とPOUMやアナーキストとの間で繰り広げられる市街戦と政府による逮捕・投獄などの恐怖政治だった。オーウェルの身の上にも、その手が及ぼうとするが……。

ウィキペディア(20171005 1942による


以前、スポット009として長いタイトルのブログを書いていました。


スポット009 「イスラム国」は西側が仕掛けた「ゴキブリ・ホイホイ」

“公共事業としての私的な戦争の口実として造られたISISというダミー人形を有志連合Coalition of the willingが攻める!”“アメリカと本気で闘おうと思う革命的ムジャヒディンは絶対に参加しないように”警告!駆除されてしまう!


この中で、「カタルニア賛歌」についても触れていますので、再度、ご紹介したいと思います。以下。



スポット129(中) 第2次スペイン市民戦争(想定)とカタルーニャ独立運動

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スポット129(中) 第2次スペイン市民戦争(想定)とカタルーニャ独立運動

20171005

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



話しは変わりますが、かつてのスペイン市民戦争に於いて、マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府(共和国派)=カタルニア共和国軍に対して、ヒットラー・ナチスに支援された右派の将軍フランコが反乱を起こしまたが、これに対抗しようと全世界の左派系の青年たちがカタロニア革命軍に身を投じ英雄的な戦いを繰り広げたのでした。

当時の人民戦線政府軍は無政府主義者の(アナルコサンジカリスト)CNT、アンドレス・ニンの反共産党系(トロツキスト)マルクス主義労働者党POUMTHE PARTIDO OBRERO de Unificacion Marxistaパルティード・オブレロ・ウニヒカシオン・マルキスタ)、スペイン社会労働党、スペイン共産党の寄り合い所帯だったのですが、次第にスターリンの物的援助を受けたソ連邦直轄組織のPSUCElPartido Socialista Unificado de Cataluña パルティート・ソーシャリスタ・ウニフィカード・デ・カタルーニャ)が専横を振い、革命的な左派系労働者を粛清して行き内部から破壊していったのでした(まあ、性質の悪い武装した民青のような連中です)。

この時も、PSUC が悪魔の働きを果たし、ヒットラーとの密約によって人民戦線政府を内部から破滅させたのでした(勿論、スターリニスト共産党による政治工作であることは言うまでもありません)。

全世界から革命の希望に満ちて集まってきた若きリベラリストや社会主義者は、俗に国際旅団と呼ばれましたが、この国際義勇軍の若者たちをスターリニスト=共産党が血祭りにあげていったのでした。

これはヒットラーとスターリンの密約により行われた事だったのです。

スターリンは自らにとって重要な東欧を安定させるためにスペインをフランコに譲り渡したのでした。

これが日本でも共産党が1960年あたりまで持ち上げ、思いっきり旗を振っていた偉大な後継者スターリンの手口だったのです。


スペイン市民戦争

人民戦線(じんみんせんせん、スペイン語Frente Popular)は、1936から1939までスペインにて存続した社会主義連合政権首班マヌエル・アサーニャ

§経緯[編集]

19314月の「1931412日自治体選挙」により共和派が勝利、ブルボン朝アルフォンソ13が退位すると、共和派農民労働者知識人は当時のソ連の繁栄の影響を受け社会主義政権発足を目指し始めた。当時スペイン国内に散在していた共産党をはじめとする社会主義政党をまとめ上げ、19362月16の総選挙で右派を抑えて勝利し、挙国一致内閣を成立させた。これは、フランスレオン・ブルム政権とともに、ソ連がコミンテルンを通じて各国の共産党に社会主義勢力や自由主義勢力との連合政権樹立を指示した人民戦線戦術の成功例であった。

これに反対する軍部・右翼・地主・旧貴族・カトリック教会などの保守階級は当時モロッコに赴任していたフランコ将軍を推しナショナリスト軍を結成、19367、人民戦線政府に対し反乱を起こす。これにより、スペイン内戦が開始された。

ソ連をはじめ、世界各国の社会主義政党、共和派、反ファシズム勢、国際旅団の援助を受け人民戦線はしばらくは持ちこたえたものの、ブルム政権が短命に終わった後のフランスや、人民戦線政府で勢力を拡大しつつあったスペイン共産党を嫌ったイギリスやアメリカは不介入を決定した。一方、ファシズム政権の誕生を期待したドイツイタリアなどのファシズム国家の大量の軍事支援を受けたナショナリスト軍は圧倒的軍事力で人民戦線を壊滅に追い込む。

拠点の一つであったカタルーニャ地方バルセロナが陥落したことで19392月に人民戦線政府は国外に亡命4月にナショナリスト軍は首都のマドリードを攻め落とし内戦は終結した。

人民戦線の敗因は社会主義政党間の不和や軍備の寄せ集めで対抗したことなどで、その後に多くの課題を残した。

人民戦線政府は敗戦後にパリに亡命(スペイン共和国亡命政府)、1940年のドイツ軍の侵攻メキシコシティに移転したものの、戦後は再びパリに戻り、フランコが死去した後の1977年に解散した。

§政党[編集]

スペイン共産党PCE

スペイン社会労働党PSOE

マルクス主義統一労働者党POUM

sp129-4人民戦線において最左派の政党。指導者アンドレウ・ニンレフ・トロツキーの秘書をしていたが、POUMはトロツキーが指導する「国際左翼反対派」とは一線を画していた。CNTと同様に独自の民兵組織を形成してフランコ軍に対抗し、自らの支配地域では地主制の廃止などを推し進めていた。人民戦線政府の主導権を握った共産党によって「ファシストの第五列」と規定されて弾圧により消滅した。ニンは193612月に追放され、翌19376月には収容所から何者かによって誘拐され、バラバラ死体で発見された。犯人については諸説あるが、スペインに潜入していたNKVDによるものとする見解が多数である。青年組織「イベリア共産青年同盟」を傘下に持っていた。

左翼共和党英語版)(IR

en:Republican Union PartyUR

全国労働者連合CNT

アナルコ・サンディカリズムを標榜する労働組合の連合体。建設労働者、靴屋、床屋など、現場労働者と職人を中心に組織された。実質的には政治組織イベリア・アナーキスト連盟FAI)に指導されていた。

バスク国民運動(esEAE-ANV) 指導者アンドレウ・ニンは日本ではアンドレス・ニンと呼んでましたね。

カタルーニャ社会主義統一労働者党PSUC

スペイン共産党系の組織。マルクス・レーニン主義を標榜し、「革命でなく反ファシズム戦争の勝利を」と主張して、「反ファシズム戦争を革命に」と主張するCNTPOUMと対立していた。スペイン共産党は、ソ連の援助によって急速に100万人を超える巨大政党に成長した。

労働総同盟UGT

18828月12に結成された社会党系組織。社会民主主義を標榜し、スペイン共産党と対立していたが、人民戦線の結成時に協力。

以上、ウィキペディアによる


スポット129(後) 第2次スペイン市民戦争(想定)とカタルーニャ独立運動

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スポット129(後) 第2次スペイン市民戦争(想定)とカタルーニャ独立運動

20171005

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


このスペイン市民戦争の敗北については、1960年代現代思潮社によって刊行されたジョージ・オーエルの「カタロニア賛歌」に良く描かれています。文庫本(ハヤカワ文庫)もありますので、今でも十分にネットで手に入るでしょう。確か五木寛之氏も『わが心のスペイン』を書いていましたね。


sp129-5


「カタロニア讃歌」

英国の社会派エッセイストであったオーウェルはスペイン内戦の勃発のニュースを耳にして、ファシストの反乱軍と戦うためにスペインのカタルーニャ地方へと赴き義勇軍に志願する。しかし彼がそこで体験したのはロマンティックな英雄譚とは程遠い、退屈で物資に事欠き悲惨で汚臭にまみれた塹壕戦であった。

だが、数ヶ月ぶりに休暇で前線からバルセロナに戻ってきたオーウェルが目にしたものは本来一体となってファシストに立ち向かうべき後方の人民政府(共和国政府)内で繰り広げられる愚かな権力争いであった。ソ連コミンテルンの支持の元、政府内の主導権を握った共産党は政府内の他の政党をトロツキストと決め付けて敵視し彼らへの締め付けを強化していた。

休暇を終え、再び前線に戻ったオーウェルだが、負傷によりバルセロナへと後送される。しかしそこで彼を待っていたものは彼の部隊が所属していたPOUMマルクス主義統一労働者党)の政府による非合法化、そして共産党とPOUMアナーキストとの間で繰り広げられる市街戦と政府による逮捕・投獄などの恐怖政治だった。オーウェルの身の上にもその手が及ぼうとするが……。

以上、これもウィキペディアによる

スノーデンが言う“「イスラム国」台頭は大国の陰謀!?”は恐らく間違いないでしょう。

これを、イスラム原理主義過激派による残虐行為を止めさせる現代版十字軍アホ(クルセイダース)などと考える間の抜けたB層はどうしようもないのですが、ネット上ではユーチューブで多くの識者が議論を展開しています。

馬渕睦夫氏はもとより、副島隆彦氏、リチャード・コシミズ氏、敬愛する鬼塚英昭氏、若きサユ・フラット・マウンド氏…。しかし、マスコミにも受け容れられる様なジャーナリストは山ほどおられますが、そういう方は恐らく軸足を権力に乗せておられるからであって、所詮御用学者の誹りは免れないでしょう。

政治ジャーナリズムは元より、この薄汚い政治に関わる気は一切ありませんので(どうせ国民の物というのは見せ掛けだけで、日本がどうなろうが知った事じゃない)疑問に思われる方は騙されないために自分でお調べになって下さい。とにかく恐ろしいほどの嘘とデマと陰謀と、虚構、捏造の世界が現代なのです。マスコミや政府が言う事を絶対に信用しないでください。

sp129-6 多分間違いないと思うのですが、国際金融資本は人為的に戦争を連続させアメリカの借金を帳消棒引きにして基軸通貨としてのドルを防衛しようとしているのです。

そして人口の半減どころか十分の一化を狙っているのです。

勿論、責任など持ちませんが、かつてユーロ・コミュニズムの一角を構成したスペイン共産党にもこの薄汚いかつてのスターリニストPSUCカタルーニャ社会主義統一労働者党の一部が加わっていたはずなのです。

今度の独立運動がおいそれと内戦にまで発展するなどとは思いませんが、どうしてもフランスのマクロン(ロスチャイルドの手先)などによる工作が入り、カタルーニャ独立派の運動は潰されることになるでしょう。ただ、今度の独立運動にはエゴイズムと偏狭な民族主義以上のものが感じられないのは、労働者の手による理想社会への運動がスターリニスト共によって潰されたため、手垢どころか泥まみれになっているからかも知れません。


カタルーニャ・ナショナリストとカタルーニャ分離主義者は、カタルーニャは財政赤字を埋めようとするスペイン国家によって経済的損害をこうむっていると主張する。また納めた税金よりも、受けるべき恩恵が少ないとする。これらの理由から、伝統的にカタルーニャは司法、行政、立法、文化、経済の各立場から、現在よりもさらに高度な自治を要求している。

象徴的な立場からは、カタルーニャはスペイン選手団の構成に加わらず、カタルーニャ独自の選手団を持つべきと論ずる。スペイン選手団とは明らかに区別して、非国家であるスコットランド、ウェールズ、マカオのように、国際的なスポーツイベントに公式に参加すべきという。

カタルーニャ・ナショナリズムとカタラニスモを区別しなければならないのは、カタルーニャの象徴や伝統を賞賛しながらカタルーニャ語という文化を守ることと、さらに大きな自治の獲得を説くことは、ナショナリズムのパラメーターのもとではその政治的アプローチが明確でないところである。しかし多くの調査によれば、カタルーニャ人の大部分がカタルーニャが国であると信じており、政治行動を行う機関ではないとし、スペイン国内でのカタルーニャ国の完全統合を説く。カタルーニャ独立運動という選択を排除しているのである。カタルーニャ独立運動では、カタルーニャ社会主義者党(PSC及びカタルーニャ緑のイニシアティブといった政党は『ナショナリスト』とみなされないが、カタルーニャ人として正式にカタルーニャは国であるという理念を守っており、現在の自治州の枠組みまたは連邦国家の定則においてスペインの一員であろうとする。

ウィキペディア(20171008 21:54による


まず、この程度の運動で軍隊を送り込む必要はないのであり、現代版フランコなど登場する余地はないはずです。いずれにせよ、かつてソ連邦擁護一辺倒だった社青同の向坂協会や何の知識も持っていなかった民青同盟に、始めから中国礼賛で列島最低水準の労働党などといった愚かな連中も、この「カタロニア賛歌」でも読めば自らの馬鹿さ加減が分かるはずなのですが、最早、間に合うはずなどないのです。

こういった間の抜けた疑似左翼によって、またもや労働者の数世代が失われてしまったのでした。



472 ここまでやるのか

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472 ここまでやるのか

20170412

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 これは大分神代史研究会(仮称)として国東半島を巡る41台という小規模な、しかし、非常に効率的なトレッキングを行っていた時に見た常夜灯の話です。

 取り立てて書くほどの事ではないのですが、昔は豊かだったと言う思いを強くするものだった事から書かざるを得なくなったのでした。


472-1


この常夜灯は大分県国東市来浦の八坂神社のものですが、灯篭に石の階段が付けられている事がお分かり頂けると思います。

 勿論、便利であり有難い物には違いはないのですが、ここまでしなくても踏み台や木製の階段を取り付ければ何でもない…と思ってしまいます。

 ただ、木製のものは雨に打たれれば直ぐに痛みますし、いちいち運ぶのも面倒ですから、良く良く考えれば合理的ではあるのです。

 狭いステップに足を載せて火を灯すのは怖いと言えば怖いのですが、このような事にまで気を遣うのが文明的と言えるのかも知れません。

 実際、国東半島でもこの来浦一帯は谷の幅(舌状台地と舌状台地の間隔)が広く、普通の意味での穀倉とは言えますし、国東半島には、佐原真が生きていたら封殺に躍起になったはずの謎の重藤遺跡(紀元前700年に遡る)の話もありますし、この国東市一帯には濃厚な金山彦祭祀が存在するのです。


20060131

国東で2万トンを生産した跡


国東半島・重藤遺跡ですね。朝日新聞記事(1977.9.23)あるが、発見者の上野鉄雄さん、九州大学考古学研究室では発表を控えている旨を鹿島昇さん、鈴木旭さんらが述べており、その事情を知らない?大分大学教育学部編「国東半島」や、窪田蔵郎さん「鉄の考古学」でも同遺跡出土鉄剣の年代測定値を載せています。春成教授らによる弥生時代溯上説、日本出土殷代遺物の確認(山形・三崎山出土青銅刀子は殷・安陽期と確定(平尾良光「古代東アジア青銅の流通」)。など)、亀卜・卜骨が弥生中期頃から確認、先の川崎真治さんの説から、克殷による弥生期開始の可能性はあるが、製鉄がフェニキア人と繋がるには海路ルート上の島々での鉄滓出土遺物が殆どない為に難題ですが、聖書に鉄を「赤土からとる」旨の記事(鹿島さん)、山の赤土を川や流水に流して山砂鉄をとる方法は確認が必要ですがほぼ同じらしく、ヒッタイトがあったトルコで「赤い河」意の川もあり、とにかく中継地でして石川三四郎「東洋古代文化史談」ではフェニキア人がインドネシア・バダック族を使っていた旨述べ、G・GERINI報告(Researches on Ptolemy's Geography of Eastern Asia)でフェニキア文字碑文というがブラフミー文字碑文か不明で大学図書館に本があり未確認で、タイ・バンチェン遺跡は当初年代より新しく、新日鉄のHPで述べる製鉄技術伝播ルートが今のところでは。因みに、「牛」文字は来たが動物の「牛」は後から来たようです。「牛」崇拝が先に来た。牛王宝印。また、鹿島さん(「バンチェン・倭人のルーツ」など)は重藤遺跡以外にも何箇所か遺跡があるそうです。最後に、貝紫染料の乾燥防止に蜂蜜を使い、聖書で蜂蜜の採り方が載ってます。また、すこし前に上野鉄雄さんの返信では「船の問題はどうか」が印象的でした。長々失礼しました。

先般、国立歴史民族学博物館・春成教授らにより「弥生時代開始期溯上説」が発表された。これにより吉野ヶ里遺跡の年代も大きく遡るようです。また、吉野ヶ里遺跡や多くの遺跡出土の甕棺からインド・タミール地方出土甕と共通するグラフィティーが大野晋さんにより確認され、吉野ヶ里遺跡でも確認された茜はインドから伝来する旨を上村六郎さんが主張し、弥生期出土ガラスもインドから伝来と肥塚さんらにより科学分析結果発表、川崎真治さんは吉野ヶ里遺跡からピッキングによる「牛」の甲骨文字刻字石を確認し、静岡・水窪石(川崎真治さん)、インドネシア(G・GERINI)、沖縄、フィリピンではフェニキア文字石などフェニキア関連品が確認され、インド・殷・中近東と日本との繋がりがありそうです。因みに、フェニキア人は地中海で貝紫織物を商品の一つとし、ゲルハルト・ヘルムさんは彼らがアカバ湾からインド周辺を商業地域とした旨述べ、インド・ブラフミー文字の起源はフェニキア文字との説からインドでも多く活躍したようで、後に「エリュトュラー海案内記」でもインド周辺の交易品として記載され、地中海の貝では数千から数万個で1gしか貝紫染料は採れないが、インド・太平洋周辺の貝(アカニシなど)では1個から1g程度採れるから、彼らフェニキア人が東南アジア経由で太平洋へ向かう動機になり、結果黒潮に乗り日本への可能性が大いにありうる訳です。染織研究の後藤捷一(ゴトウショウイチ)さんは中・南米伝統の貝紫染織を貝の違いだけでフェニキア由来と述べ(月刊「染織α」)、南米・パライバ碑文もフェニキア文字説があり、北米ではバリー・フェル教授が「紀元前のアメリカ」でフェニキア人往来説を述べたように、吉野ヶ里遺跡出土の貝紫布も彼らの可能性がある訳ですが、まだまだ問題点は残ると思います。長々と失礼しました。


472-2より


 こんなことを発表したら学会追放になるため隠されているのです。要は学問ではなく利権なのです。

 奥野正男教授の本(卑弥呼の時代奈良県では鉄は一切出土しない…)でさえ佐○ 真は握り潰そうとしたのですから推して知るべしと言うべきでしょう。

 話を戻しますが、これも杵築市安岐町でしたか歳ノ神で見掛けた巨大常夜灯です。これに至っては豪華の極み、贅沢の極みであり驚くばかりです。


472-3


 現在、国東半島が際立って豊かな土地であるという事は言えないでしょうが、少なくとも江戸時代まではかなり豊かな土地だったのではないかと思います。

 それは、多くの神社を見れば分かる事で、現在、寺社の経営が極限まで落ち込んでいる事を考えると隔世の感さえあります。


コラム 江戸時代の農民は豊かだった? 

 「四公六民」という言葉を聞いたことがありますか。江戸時代の年貢の割合のことで収穫の4割が年貢で6割が手許に残るというものです。今でいうと税率が40%と大変な負担感があり、「貧しい農民」という時代劇のイメージ通りになるのですが、実態は必ずしもそうではなかったようです。

 当時、年貢の計算方法には「検見法(けみほう)」と「定免法(じょうめんほう)」の2種類がありました。検見法とは実際の収穫高に応じて年貢の率をかけるものです。定免法とは一定の田地から取れる米の量を固定して、年貢も定額にするというものです。江戸時代も中ごろからは後者の定免法を取る藩が多かったようです。江戸時代は戦乱もなく農業技術が順調に発展した時代です。江戸時代前期には100石の収穫量だった田も江戸時代の後期には2倍の200石の収穫にまでなることも珍しくはありませんでした。100石の収穫に対して年貢は四公六民の40石ですが、実際には200石の収穫があるわけですから二公八民、税率は20%となります。そのうえ、自家で消費する野菜等には年貢は原則かかりませんので、生活実態は時代劇とはかなり違っていました。

所得税、住民税、社会保険料等を否応なく天引きされる現代のサラリーマンと江戸時代のお百姓さん、はたしてどちらが豊かなのでしょうか?

「〇〇の上の雲」とか幕末維新の志士を英雄としてとらえるドラマが盛んに放送されています。「江戸時代は貧しく、明治時代は明るかった」という図式を私たちの頭の中に刷り込む目的がここに隠されていると思うのは筆者だけでしょうか。(2011.8.23)


472-4による


 まず、木下藤吉郎は下人以下の身分(そういえば秀吉が入婿となった木下家の後裔が杵築藩でしたね)…といった話は、徳川家が豊臣を貶めるためのものであり、江戸時代は鎖国政策のもとで欧米に遅れたとか、士農工商の身分制度によって百姓は苦しめられ、飢饉と百姓一揆が続発していた…といった話も明治政府が宣伝のために吹聴したものでしかないのです。そもそも、被差別部落も江戸時代からといった話さえ大嘘で、蝦夷地の侵略以来の東北経営によって移動させられた俘囚によって近畿大和朝廷(天皇家)が被差別部落を創ったのです。

 それを物語るかのように北関東以北、沖縄には被差別部落が存在しないのです。

 そのような難しい話をすることもないのですが、戦後は特に酷く、アメリカに国家の富を貢いでその片棒を担いだ報酬を貰う官僚や政治家がいっぱいいるようで、今回も、東芝にウェスチング・ハウスの買収を勧めてキックバックを貰った官僚や官僚OBがいるようです。

 まさに国賊、売国奴ですね。しばらく前は郵政民営化で、小○竹○中改革でパ○ナに…。次はいよいよ国民健康保険の廃止でアメリカの保険に門戸開放の工作が進んでいるようです。ここでも厚生労働省が…。

 確かに物質的には豊かとは言えませんでしたが、敗戦の憂き目にあったものの、半世紀前までの日本は、石屋さんも板金屋さんも下駄屋さんも桶屋さんも大工さんから左官さんまで皆誇りを持ってちゃんと暮らして行けたし、野良には人や子供が溢れ、祭も盛大に行われ、境内はいつも手入れが行き届いていました。

 もう取り返しはつかないでしょうね。

 もはや、古き良き日本は山田洋二監督の映画や宮本常一民俗学にしか残っていないのかも知れません。


472-5

たまたま遭遇した国東市の岐部神社の春の大祭


473 山口県美祢市厚保の神功皇后神社

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473 山口県美祢市厚保の神功皇后神社

20170417

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


高速は関門橋周辺のみの利用で、往復1100キロを二泊三日で走り抜き 島根県奥出雲町の4つのニギハヤヒ系神社の調査を終えて九州に戻る途中、JR美祢線の厚保(アツ)駅、中国自動車道美祢西ICに近い神功皇后神社を見せて頂きました。


473-1


下関の忌宮の勧請神社でありそれほど古い神社ではない事は直ぐに分かりました。

 それは、境内に古い神様が残されていない(摂社、末社、分社…)事からも明らかです。

 ただ、神殿脇に天満宮が残されている事だけが気になります。

菅原道真はスサノウ(実際には長脛彦)系と大幡主(実際にはヤタガラス)系の本家同志により産まれていると百嶋由一郎氏は話されていましたが、この一帯には後者に関連する地名がかなり拾えることから、この天満宮が先行して存在していたところに忌宮の神々が持ち込まれたものと思われます。

当の忌宮も、本来は忌=瀛(イン)部の神社なのですが(九州王朝最後の天皇である若宮も祀られている)、その構造がそのまま持ち込まれ、とりわけ道真を祀るとする天満宮が神殿脇に摂社として残されたもののように見えるのです。

この神社自体にはこれといった謎はないのですが、この神社の前には古代官道が通っていたと考えられます。


473-2
473-4


詳しく触れるつもりはありませんが、恐らく九州王朝の古代官道の延長と思われるものが、この地から東と北に延びていたようです。

 これについては、ひぼろぎ逍遥446450で概略を書いていますが、この山口県下にもその痕跡があるのです。

 一つは九州で筑後から肥後に掛けて数多く拾える古代官道地名の「車路」「車地」に対応する「車地」がそのまま国道2号線に存在するのです。

 このことは、国道2号線は九州王朝の古代官道をベースに造られている可能性があるのです。

 美東町の「鞍掛」も官道地名なのですが、これは時代もコースも異なるようです。

 そこで、JR美祢線の厚保(あつ)駅に置かれた掲示板をお読み頂きましょう。


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話が拡散して申し訳ないのですが、どうも気になるのでコメントを加えておきたいと思います。

「阿」は湿地の意味で「津」は交通位置を示す地名であったあったようだ。と書かれていますが、「阿津」(アツ)自体が湿地を意味していると考えます。

 関東に、世田谷、渋谷、保土ヶ谷、日比谷…と「谷」と書き「ヤ」と発音する地名が数多くある事はどなたもお分かり頂けるでしょう。関東の台地の浸食谷の湿地がヤツ、ヤチなのですが、この厚保も厚狭川の氾濫地であり「ヤツ」と呼ばれてもおかしくない地形です。「阿」ではなく「阿津」が湿地なのです。

 この「谷」(ヤ)地名は、本来、「ヤツ」「ヤッ」「ヤッツ」「ヤチ」「ヤト」…と呼ばれるもので、後に「ツ」以下の部分が省略され脱落したものでしょう。

 ただ、「ヤツ」(YATU)が「アツ」(ATU)と発音されていたもしくは転化(変化)したものに思えるのですが、「アツ」→「ヤツ」なのか?「ヤツ」→「アツ」なのか?は、なお、不明です。

 それは、関東の「ヤツ」地名が鹿児島でも拾えるからです。


473-6

一例ですが、 鹿児島県出水市野田町下名の「屋地」(ヤヂ)です。

 島津氏には下向説、土着説もあり、関東系の敗残者が島津に墜ちた可能性もあるのですが、鹿児島県のヤツ、ヤチ…地名はそれほど少ないものでもなく、むしろ南から北、東へと展開した可能性も考える必要性があるのです。

 この「厚保」の隣には「伊佐」(鹿児島県伊佐市)という地名もあり、薩摩との関係も意識せざるを得ません。そもそも、美祢市の「美祢」も佐賀県の旧「三根」郡に対応しますし、九州との関係は濃厚です。

 10世紀の延喜式に「阿津」(アツ)とあり、厚保」となったのは後の事である。「保」は公地の行政単位の庄、郷、保とあり、その保で後に「厚」を後で加えものであるという。

も違和感が付き纏います。

福岡県小郡市大保に「大保」があり、飯塚市「大分八幡宮」があり、大分「だいぶ」と読み太傅(天子の師傅となる官)の事である。すなわちここは天子の養育に携わる府が置かれた場所である(「大伝府」)。

 太宰府は言うまでもない訳で、大保(オオホではなくオオフと呼んでいた可能性もあるのです。

仮に「保」が行政用語としても、「厚保」の「厚」は「阿津」の「阿津保」では三文字になるため、所謂、好字令により「阿津保」は「厚保」と換えた可能性を考えてしまいます。


473-7


JR美祢線厚保駅は「あつ」駅と呼ばれているのです


 九州の「車路」地名をご紹介しておきましょう。勿論、これ以外にもあります。


473-9


PP「駛馬」(はやめ)“ はやめは古代の駅? ”から(上) 宇部市の2号線「車地」(下)


473-10

474 筑後にも長脛彦を祀る神社が存在していた “福岡県うきは市吉井町熊野神社”

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474 筑後にも長脛彦を祀る神社が存在していた “福岡県うきは市吉井町熊野神社”

20170419


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


2017414日~16日に掛けて往復1100キロを二泊三日の行程で 島根県奥出雲町の4つのニギハヤヒ系神社調査を行ってきましたが、その過程で長脛彦の別名である天香香背男(アメノカガセオ)、星神香香背男(ホシノカガセオ)、香香背男(カガセオ)祭祀が出雲にも存在している事に気付きました。

 そこで、改めてネット検索を試みると、これまで天津甕星祭祀は北関東のものとの認識でしたが、それが日田市の隣町のうきは市吉井町の賀茂神社にあり、九州でも福岡、佐賀、熊本に三ケ所、大分県に二ケ所存在している事に気付いたのでした。

なぜ、これがそれほど重要かを知って頂くためには、まず、長脛彦を認識してもらう必要があるでしょう。


長脛彦

『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。

饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある。

旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている。

ウィキペディア(20170419 0720による


島根県仁多郡奥出雲町亀嵩1284 湯野神社

祭神 大己貴命、少彦名命、迩迩藝命、事代主命

合祀 三保津比賣命、大年神、御年神、若年神、香香背男命、素盞嗚命、國常立命、國狹槌命、豐斟渟命、武甕槌命


474-2    敬愛する
474-1による


香香背男を祀っている神社

福岡県浮羽郡吉井町大字福益1358 熊野神社摂社三光神社「天照皇大神 配 月讀神、天加賀世男神
佐賀県鹿島市大字三河内丙1  三嶽神社 「廣國押建金日命 合 星神ほか」
熊本県阿蘇郡南小国町赤馬場2364  冠神社 「阿蘇大神 合 大年神、星神」
大分県佐伯市大字鶴望2421番地  星宮神社 「香香世男大神ほか」
大分県佐伯市大字守後浦44番地  産靈神社 「天香香背男神」

頻繁に利用させて頂いている474-3による


 この長脛彦祭祀については、本物(神武僭称崇神ではない)のカムヤマトイワレヒコと衝突した、スサノウと櫛稲田姫との直系長子という栄えある逆賊の痕跡だけに、注目せざるを得ないのですが、三光神社が大阪の真田丸跡地にあることから、もしかしたら幸村贔屓により関西から持ち込まれた可能性もあり慎重に考えるべきかも知れません。

 現在、この長脛彦祭祀については、南薩摩の坊津の船戸神社と北薩摩の出水市(旧野田町)の熊野神社を発見しており、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下の二本をお読みください。

坊津の船戸神社の「船戸」は岐神(クナトノカミ)のクナトの置換えですね。


474-4


474-5

474-6

福岡県神社誌中巻252p


 「福岡県神社誌」によれば、祭神はイザナミ、速玉男命(大幡主)、事解男命(金山彦)、大山祗命ということになり(イザナミはイザナギと別れ大幡主のお妃となっています)紛れもない熊野神社です。

 さて、懸案の長脛彦です。


474-7

そもそも1776年になぜ勧請されたのかが不明ですが、とりあえず起源が新しいとすれば、天加賀世男が元々は祀られていなかった事から一応謎は解けたことになります。

 この三光宮という摂社を勧請した人々が、この天加賀世男神に所縁のある人々だったのかです。

 神武天皇に対立した富の長脛彦を奉斎する人々は、スサノウと櫛稲田姫との直系の一族の後裔になる訳で、付近を見ると、福富小、中学校(福富:しこ名)があり、富永(吉井町)という集落がある事に気付きます。また、「福岡県神社誌」中巻213pの「賀茂神社」を読むと富郷が書かれており、古くは富郷と呼ばれていた事が分かります。

ここでは筑後で那賀須泥毘古、登美能那賀須泥毘古を探る基礎調査の一環をお知らせした事になります。


474-8

百嶋由一郎「三宝荒神系譜」神代系譜


そもそも櫛稲田姫は金山彦(瀛氏)と埴安姫(大幡主系白族)との間に産れていますから、長脛彦は瀛氏の正統後裔氏族であることが分かります。

その民族対立の結果、列島王権が成立していく事が分かります。

勿論、その氏族は中国や半島のように根絶やしにされる事は無く共存が図られていったのです。


研究目的で百嶋由一郎氏の資料(音声CD,系譜…)を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい

 

475 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社 ① “福岡県うきは市 賀茂神社から”

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475 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社 ① “福岡県うきは市 賀茂神社から”

20150623


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


475-1

うきは市 賀茂神社


多少、遅れ馳せの感がありますが、本物の豊玉彦(ヤタガラス)を主神とする神社をご覧に入れます。

久留米市を流れる筑後川を遡ると、左岸にうきは市があり、日田市に至ります。

このうきは市から日田市にかけては物部氏、大幡主(賀茂族)、ウガヤフキアエズの匂いがするエリアです。ついでに言えば、日田市に玉川地区があるのも関係なしとしないのです。

この大幡主、その子豊玉彦(ヤタガラス)のエリアには「隈」地名があることは何回か書いていますが、ここも同様で、東隈、西隈があり、隈上川が流れ、上流には笹の隈があり、隈地名が直ぐに拾えます。

「隈」地名は、熊本から大幡主の一族が地名を持って筑後川流域、博多周辺に展開した痕跡なのです。


カーナビ検索 うきは市浮羽町山北1


475-2

まず、この神社は“美しい”の一言に尽きます。

殷の鳥居の変形ではないかとも思える荘厳な門と立派な参拝殿、水路を巡らした庭園風の庭、神社の性格とか祭神云々の話に入る前に、その荘厳、神秘性に圧倒されてしまいます。

また、羅針盤状の暦盤が天井に置かれているのも印象的です。

この一族が、星(天文)を観測し航海を行い、暦を創り司る人々であった事が分かります。

博多の櫛田神社(大幡主の本拠地=熊野の出戻り本山)にも暦盤が置かれていますね。


475-4

これが京都の下賀茂神社のルーツではないかとお考えになる方がおられると思いますが、その方向で考えられて構いません。間違いないと思います。

まず、友好blogの「ひもろぎ逍遥」(もっとも、先方はこちらを「迷惑biog」とされていますが)の綾杉女史のコメントから見ましょう。なお、文中のくじらさんは久留米地名研究会の事務局次長のO氏です。


「山北」は福岡県浮羽市にあります。まずは、くじらさんのコメントの概要。これは神武天皇 伝承の宮々(1)でいただいたコメントです。ところで、すでにご承知かもしれませんが、加茂大神がこの国に最初に光臨したといわれる神社が浮羽市にあります。山北の加茂神社といいます。(http://ja.wikipedia.org/wiki/賀茂神社_(うきは市))境内摂社の三次神社は浮羽でも最も古い神社とのこと。アジスキタカヒコネの伝承とあわせて考えるとおもしろいですね。境内には非常に古い古墳があり、かつてはこの付近が筑後川の河口だった時代があったと思われます。物部郷も近くにあり、大陸からの渡来系氏族の重要な拠点のひとつと考えられます。

くじらさん、こんばんは。「山北」ですね。それなら知ってるかも (^-^)物部氏はかなり古いですね。想像以上。あれほど福岡の広いエリアに分布するには、100年200年じゃないような。何々、アジスキタカヒコネですか。この神は、大国主命と宗像三女神のタギリ姫の間に生まれた神ですよ。高良山の麓にも祀られていて、気になる神です。うきは市の賀茂神社は加茂大神が最初に降臨?興味津津。早速ウィキペディアを引用してみましょう。


縁起 当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。境内では縄文土器、石器、群集石棺群などが出土している事から鑑みこの旧記が有る真実を伝えているものと考えられる。賀茂神社社家の初代は、武内宿禰(たけうちのすくね)(孝元天皇の曾孫)19世 波多臣広庭(はたのおみひろにわ)の後裔、波多次郎救家の嫡男 久家和州 としている。(熊懐氏参照)

祭神 神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)(神武天皇)賀茂下上大神(賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと))う~む。宇佐から山北へ。そして八咫烏となった。これは奥深い伝承ですね。いつかチャレンジしたい…。


そもそも、このうきは市一帯には、千束、千足(チツカ、センゾク…)、姫治(ヒメハル:紀氏が治めるの意味かも)、内ケ原(ウチノシコオ?)、白土(もちろん白川伯王=の系統の方々が住む土地の意味ですね)という物部氏、白族系統の地名が拾えます。

さらに言えば、日田市にも隈地名(星隈など3隈地名が…)があり、豊玉彦を意味する玉川地名まで存在しており、この古代筑後湾の湾奥好地が、大幡主と豊玉彦の支配下にあった事が分かるのです。

注目して頂きたいのは、この二つ葵の神紋です。重要なので次回以降に廻すことにして、まずは、この秀麗かつ気品に溢れた本物中の本物のヤタガラスの神社の画像をお見せします。

ただし、前述1651年の旧記による「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」とあるのはそのままでは受け容れられません。

日向から東征したのは、藤原が第10代とする贈)崇神(ハツクニシラススメラミコト)の事であり、もしも、ここが降臨した地であるのならば、賀茂大神ことヤタガラスは肥後から浮羽はに入り、後に博多に入ったのかも知れません。

 ただ、神武とヤタガラスとは同時期に活躍していますが、宇佐を基盤にした崇神が本物の神武やヤタガラスに出あうはずはないのです。

少なくとも、本物の神武(カムヤマトイワレヒコ)とヤタガラスに関係のある重要な神社であるとまでは言えると思います。 


475-5


476 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社 ② “福岡県うきは市 賀茂神社から” (再考)

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476 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社 ② “福岡県うきは市 賀茂神社から” (再考)

20150630

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


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福岡県うきは市 賀茂神社


前ブログ ひぼろぎ逍遥 132 葵の紋章のルーツ立ち葵の神社 “福岡県うきは市 賀茂神社から”

おいて、久留米市と日田市の中間にヤタガラスの神社が存在することをお知らせしましたが、実は、まだ十分に納得できないままでいます。

 一応はヤタガラス(豊玉彦)の神社としたのですが、本来はそうだったが、今は、藤原が第10代と大幅に格上げされた贈)崇神系の神社に半分近く変えられている(乗り取られている?)という意味なのです。

 良く考えるとそのことがようやく分かってきたもので、今回は、これに関する補足作業になります。

 神社が誰を祀っているかを考える時、注意しなければならないのは、何を主たる指標にするかです。

まず、郷土史家、史談会、教育委員会…といった通説派の方々は、概して「記紀」「風土記」「神社誌」「神社庁見解」「市町村誌」「縁起書、由緒書」「社伝」…の順に説明される事でしょう。

 ところが、九州王朝論者でも、そのまた少数派である神社考古学(百嶋神社考古学)の者は、本当の神代の舞台であった九州の現場と「記紀」、社伝と「風土記」「神社庁見解」とに多くの齟齬、食い違いがあることを知っているのです(つまり「記紀」による古代史の偽装)。

 この点、「記紀」に併せてテーマ・パークとして整合性があるように創られた畿内、出雲…などとは全く異なる話になるのです。

 何度も言っている事ですが、まず、祭神は時代の動きに合わせ変えられます。

本来の祭神は、残されるとしても摂社に移されることがありますし、隠され、新たに入れ替えられ、加えられ、社伝(縁起、由緒)も改竄されます。

ここで、前述した何を主軸に探るかですが、①祭神の組合せ ②祭神の表記 ③夫婦神の場合の妃の名 ④親子神の場合の子神の名 ⑤神紋 ⑥縁起 ⑦宮司などの伝承 …といったものになります。

そろそろ本題に入りますが、うきは市の賀茂神社に限定して言えば、百嶋由一郎先生が講演中にうきは市の隣、久留米市に田主丸町に「豊城というところがありますが、贈)崇神天皇の子である豊城入彦が宇佐から入って来ています…」と言われていました。

ここで重要になるのがこの賀茂神社の神紋の二つ葵です。そして贈)崇神天皇もこの神紋を使っているのです(葵神紋参照)。


476-2

元々、この筑後川左岸の田主丸、旧うきは町に掛けては、大幡主とその子ヤタガラスの領域だったようですが、後に(開化天皇=高良玉垂命と神功皇后)の時代に贈)崇神天皇の子である豊城入彦が宇佐から入って来ているようなのです。


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久留米市田主丸町豊城


豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)は、記紀に伝わる古代日本皇族

10崇神天皇皇子である。『日本書紀』では「豊城入彦命」「豊城命」、『古事記』では「豊木入日子命」と表記される。

東国の治定にあたったとされ、上毛野君下毛野君の始祖とされる。

ウィキペディア20150630より


しばらく前から、宇佐市安心院の妻垣神社=足一騰宮=一柱騰宮に入った神武天皇とは、贈)崇神天皇のことであることが分かるようになっていました。

してみると、前ブログで引用した“宇佐から入ったとする賀茂御神”という行直大宮司の慶安4年(1651年)の旧記(後段)の話は、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)と、随行した本物の豊玉彦(ヤタガラス)の話が基礎にあり(両者が同社に同時に居た可能性も含めて)、それが神武僭称贈)崇神とその子豊城入彦の話と重なり、本来の祭神の本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)と本物の豊玉彦=賀茂建角身命に神武僭称崇神とその母親である鴨玉依姫=神直日が挿入され本物の神武であるように描こうと


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百嶋由一郎 神代系譜(葵の神紋)


しているように見えるのです。

現在、同社の祭神はこのように書かれていますが、

神日本磐余彦尊 カムヤマトイワレヒコ(神武天皇 はOK。

賀茂建角身命 カモタケツノミコト(賀茂下上大神) は京都の意味で書かれているようですが、下賀茂神社のみOK。上賀茂神社は、神武僭称崇神天皇と考えており誤りだと考えます。 従って半分OK。

玉依姫命 タマヨリヒメノミコト は神武の育ての母とする通説に沿った意味で書かれているようです。

これは、本物の神武天皇の母である神玉依姫の事か賀茂別雷命=神武僭称贈)崇神天皇の母である鴨玉依姫の事か判読できません。 従って保留します。

賀茂別雷命 カモワケイカヅチノミコト は、当然、神武僭称贈)崇神天皇=豊城入彦の父 でしょう。

476-5 ただ、これも上の玉依姫が神武の母であれば、この賀茂別雷命だけが追加挿入されたものであり、鴨玉依姫であるならば、本来の祭神は神日本磐余彦尊賀茂建角身命の二神であった事になります。結論としては、各々、京都の下賀茂神社、上賀茂神社の元宮の可能性があります。

 ただ、そのルーツは熊本市、それ以前は天草市苓北、海南島の加茂(現存地名)、雲南省昆明…になるはずです。


当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。

ウィキペディア20150630による

今回はかなり難しい解析になりました。まだ良く分からない部分がありますが、うきは市の賀茂神社の

神紋は、476-6であり、ウキペディア氏は現物を見ておられないのかも知れません。

葵の紋章は百嶋由一郎 神代系譜(葵の神紋)のように、立ち葵でも右割れ、左割れと多岐に分かれ、ウィキペディア氏が示されたものは滋賀県の日吉大社の神紋を出されています。

当然にも大山咋=大直日=佐田大神の神紋なのです。

 崇神は、その母親が豊玉彦(ヤタガラス)の実の娘である事から、自らをヤタガラスの正統直系とでも考えたのでしょうか。

 いずれにせよ、ヤタガラスは旧浮羽町から日田市に掛けて多くの痕跡を残しています。

 一方、神武僭称贈)崇神の父親である大山咋=大直日=佐田大神は鴨玉依姫とこの一帯で出会い、旧甘木市佐田(現朝倉市)佐田町(と言っても山の中ですが)に住み、現在の佐田川流域(筑後川右岸)で活動した事だけは間違いがないのです。

そして、その痕跡の一つがうきは市の賀茂神社になるのです。


476-7

と、ここまで書いてきましたが、ヤタガラス(豊玉彦)は大幡主の子であり、博多で産まれたはずです(博多の櫛田神社は熊野からの出戻り本山であり、紀州の熊野は後の本拠地です)。

 では、父親の大幡主が博多に移動して来る前はどこに居たのでしょうか?

 それについても、故百嶋由一郎氏は、“隈地名のルーツは熊本であり、現在、熊本城が置かれている熊本市の千葉城町こそ隈本(加藤清正により熊本と変えられた)であり、そこが肥後における本拠地だったと”されていたようです。

 この点、大幡主の父は白川伯王であり、当然の事として、熊本市を貫流する白川(中国風には白水)が白川伯王から付されたものである事とも符合するのです。

 しかし、その前にも辿るべき故地があります。

天草下島の苓北町、中国海南省の海南島の加茂、雲南省省都昆明まで辿る事ができる事はこれまで草部吉見神社との関係で繰り返し述べて来たところです。


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スポット130 九州北部豪雨災害の崩落木材が燃えている!

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スポット130 九州北部豪雨災害の崩落木材が燃えている!

20171009

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この写真は2017107日朝8時丁度に研修所がある別荘地正面から、通称、日田のグリーン発電所が出す煙を元朝日新聞記者の内倉武久氏と共に確認したものです。

 当日は逆転層も起こっており、左(南)にも煙が棚引いています。


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時間をおいて太陽が雲から出てきて日差しが強くなった時に写した写真です


 所謂、流木と称せられているのですが、災害の最大の原因となった倒木、崩落木の膨大な山は仮置場にも困り、小学校の運動場などに山積されているのです(決して所有者不明の流木ではなく倒木なのです)。

 問題はその量で、2017.7.13 19:49更新)によると、「今回の豪雨は大量の土砂や流木で、1週間以上が経過しても約20人と連絡がとれず、自衛隊などが捜索を続行。福岡県は13日、朝倉市と東峰村の流木は少なくとも36万立方メートル、重さにして20万トンとの推計値を公表した。流木の多くは上流域の山林に植樹されたスギやヒノキで、土砂崩れとともに川に流され、道路や水田などに積み重なっている。」…36万㎥、20万トンに上るのです(福岡側のみ)。

 我々は多少過大ですが仮に一本1トンとしても数十万本もの針葉樹が崩落して処分せざるを得ないものになったのです(実際には大分県側のものもありますし、海まで流れた流出木までもあるのですから、これ以上のものになることは言うまでもありません。日田市側のものは夜明ダムで止まっているため大分県側の流木はとりあえず無関係とは言えますが…)。

 2005年でしたか…、宮崎県宮崎市(旧田野町)の鰐塚山の管理された国有林地の大崩壊も百万本クラスでしたので、どうやらそれに次ぐ1/5程度の規模のものになりそうです。


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無論、有償ですが、膨大な経費を掛けて焼却処分が続けられているのです。

 具体的には確認できる立場にはありませんので不確かですが、域外からもどんどん持ち込むと聴いていますので、既に(いずれか?)、朝倉市、東峰村(福岡県側)のものも燃やされて(される)いるものと考えているのです。勿論、日田市側のものは当然燃やされているでしょう。


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参考にできる情報は限られていますが、恐らくこの程度の処分費用は掛かっていると考えられます。

 ただし、実際にそれだけ掛かるという意味ではなく処分費用は行政からの丸取りですから相当にふっ掛けられているはずです。

 ミルトン・フリードマンが言ったように(古い本ですが「選択の自由」)、人は自分の金を他人に使う時に最も慎重になり、他人の金を他人のために使う時に最も好い加減になるものです(自分の金を自分に使う他人の金を他人のために使う場合もありますが)。勿論、公共事業とは間違いなく後者に該当します。



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確認できませんが、搬送費用は別としても、㎥当たり10,800円の費用が掛かるというのです。

 余りにも高額な単価であり、かなりの疑問がありますが、一先ずは受け入れることにしましょう。

嘘をつかないはずの行政絡みの話ですから、誤りとしても許容の範囲でしょう。

 その一つに、産業廃棄物処分に於ける「原則野焼き禁止」(当初の導入時期には「原則」が付き恐る恐る=こんなに儲けて良いのかな…でしたが)、今や野焼きができないという原則が貫徹し?、行政自らが決めたくだらないルールによって、膨大な税金が一部の特定の業者に流し込まれる事になっているのです。

 それもこれも、収益から言えば一本当たり大根の値段程度の木材の処理に、法外な金額が消費されていることからきているのです。

 リサイクル発電所に於いて、一本の木材を仮置き場=貯木場から運び、一部はチップに加工し、チップにできない(しない)ものを燃やすためにも膨大な人件費、施設費、経費が掛かっているのです。

 この金を貰って仕入れた木材を燃やして発電したとしても、原発以上のものすごい経費を掛けた非効率な発電になっている(本来ならばこんな電力は高すぎて買えないもの)のですが、原則野焼き禁止が宝の山の源泉となっているのです。

 このために幼稚園の野外での焼き芋が禁止され、神社の落葉を正規のゴミ袋で産廃業者に渡さなければならなくなったのであり、家庭の庭木を燃やしても通報されてしまい警察が駆けつけると言うくだらない構造が産まれたのです。

 この野焼き禁止を徹底させるために全国の産廃業者、その当時の予定者どもはその配下の手下どもを使って自治会の行事や農家の焼却から家庭の焼却から大工、左官など中小の商工業者に至るまで、焼却処分している人間を見つけたら直ちに通報し徹底的に潰したのでした。

そして、小規模な伝統的焼却業者はダイオキシン問題(実はこれも捏造だったのですが)を利用して新興の産廃業者が土建業者に続き日本の富を懐に入れる薄汚い利権集団として登場したのでした。

 このように、国家の富を食い物にする構造の肥大化によって国家財政が破綻し、国力を落し続けているのです(原発の後始末の法外な処理費用は元より、このような箍の外れた国家は国民には敵対物でしかないのであって早く潰れてしまった方が余程ましなのです)。

 実際そのような方向で進みつつあるようで喜ばしい限りです(早く財政破綻によって潰れてしまえば存続できなくなるのですから)。

 恐らく今後も頻発するであろう朝倉~日田に掛けての人工林崩壊によって、国家財政の破綻はさらに一層明瞭になっていく事でしょう。

早く潰れてしまえば変化も早くなる…。行政の長などやらない方が得な時代(賄賂も利権も消失し苦労とノイローゼと嘘だけが残る…)がやって来てこそ正しい時代が始まるのです。

スポット131 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた!

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スポット131 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた!

“宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”

20171010


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)には百嶋神社考古学の影響を受けた多くの研究者によるblogがリンクされています。

その中でも、宮原誠一氏sp131-1「宮原誠一氏の神社見聞諜」の最新号(現時点)に重要な論稿が掲載されましたのでご紹介を兼ねて全文を掲載したいと思います。同サイトを是非お読み下さい。

北部九州には神功皇后伝承が色濃く残されていますが、「日本書紀」に書かれた嘘話を真に受けていては古代の深層にはまったく辿りつく事などできません。宮原氏は抑制して書かれていますが、他の研究などと併せ考えれば正しい者と考えています。是非お読み下さい(古川)。

宮原誠一の神社見聞牒(025)
平成29(2017)1006

No.25 神功皇后生誕の地・佐賀背振の野波神社

1.王家の谷の野波神社と下ノ宮

佐賀県背振山南麓は古代の王家の子を養育するのに適した地であった。嘉瀬川上流の川上渓谷、城原川上流の背振渓谷があり、それらの渓谷の上流は北山ダム付近に集まる。その背振渓谷は、往古、素戔嗚(スサノヲ)系の支配領域と言われた。
かつて、北山ダム湖に沈む前の「野波(のなみ)の里」は神功皇后生誕の地という伝承がある。そこには、神功皇后を祭神とする野波神社があり、皇后(息長足媛おきながたらしひめ)の両親を祭神とする下ノ宮があり、この地域に息長足媛の伝承が残っている。
息長足媛の系図を百嶋神社考古学神代系譜からみると、父・息長宿祢(おきながすくね)と母・葛城高額媛(かつらぎたかぬかひめ)となっており、息長宿祢は父・建南方(たけみなかた)と母・奈留多姫(なるたひめ)であり、建南方は父・天忍穂耳命(あめのおしほのみみのみこと)と母・瀛津世襲足姫(おきつよそたらしひめ)であり、瀛津世襲足姫は素戔嗚尊の子であり、息長宿祢は素戔嗚直系の血筋である。葛城高額媛も素戔嗚尊四世の孫である。息長足媛の父母は共に素戔嗚系の流れとなっている。
伝承からして、息長足媛は父母が住む佐賀背振の野波の里で生まれ育ったと考えることができる。
しかし、神社由緒には神功皇后伝説特有の付会がみられ、野波の里は皇后生誕の地として可能性があるに留め置き、関連神社を紹介します。


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ここ十年程で、二、三度訪問した経験がありますが、当時は「神功皇后伝承」には関心がなく、野波神社、下ノ宮の事は承知していましたが、他の問題(米田良三氏が「長谷寺」で書かれた三瀬村に長谷寺があったという提起との関係も不明なまま)、棚上げ状態にしていました(古川)。


場所が分かり難いと思いますので、お知らせしておきたいと思います。

福岡市から三瀬トンネルを抜け三瀬村に入ると、杉神社から大瀬の大桂に向かう一帯に、九州王朝倭国の長谷寺があり(杉神社正面の鏡神社に長谷寺への桟橋の橋脚が存在した)、現在の北山ダムに沿い東に進んだ辺りに野波神社があり、下ノ宮は北山湖の湖底に沈んだのでした。

 神功皇后は滋賀県米原辺りの息長氏の一族であろうとか、近江出身であろうなどと通説に沿ったデタラメがまかり通っていますが、北部九州の神功皇后伝承は「紀」に合わない部分が多々ある事は知られていますし、どうやら、肥前の神功皇后伝承は唐津を除いて消されているようです。

 神功皇后を追い求められる方もこのような明瞭な伝承が残されている事を知るべきでしょう(古川)。


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神殿の千木は主祭神が女性神であることを示す。


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初瀬川が北山湖に注いでいます。長谷寺が存在した痕跡地名ですが、神功皇后の両親も知っていたのです


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米田氏は以下のように述べている。「『源氏物語』の舞台の中心は倭国の時代の九州であった。京は大宰府都城であり、京から出掛けた 〝初瀬の御寺〟 も奈良ではなく、九州北部にあったはずである。私は佐賀県神埼郡三瀬村にあったと考えている」

 この部分は私を大いに刺激し、生まれて始めて長谷寺を訪れるきっかけとなった。現在の長谷寺の本堂、観音様は517年に完成し、721年に現在地に移築されたという米田説を信じた上での訪問である。訪れた時の印象は 〝感動〟 の一語に尽きる。時のたつのも忘れ、1時間以上大悲閣前の舞台でボーっとしていた。もちろん、現地の解説ボードを信ずればこうはならない。観音像は今までに6回焼失し、現在のものは室町時代に作られた7代目であり、本堂は江戸時代のものであると記されている。巨大木造彫刻十一面観音像の制作年代の説明に約1000年の開きがあるのだ。

 その後も先の引用部分のことが心の隅に引っかかり、2002年8月、三瀬村の観光協会に「村で一番古いお寺は?」と問い合わせたところ、反田という集落に長谷山観音寺という寺があったが、昭和38年、子供の火遊びが原因で焼けてしまったということであった。

 ネーミングからすると、幻の長谷寺は昔ここに建っていたに違いないと思い、2007年11月、日帰り弾丸ツアーで現地を訪れ、地元のお年寄りに焼失前の寺の様子を聞いた。

 この長谷山観音寺の件と、その西にある「宿」という名の集落がじつは椿市ではないか、と米田氏に電話したのだが、当時、氏は幻の長谷寺発見については著作で述べている程には意欲的ではないようであった。これほどまでに著者にプッシュし続ける自分は日本のシュリーマンになったような気分であった。

 後でわかったことだが、この寺は1521年、神代大和守勝利と言う人が伝説の長谷寺に憧れ創ったものであるらしく、私の努力は空振りに終わった。

 しばらくして、米田氏から倭国長谷寺の所在地が同定できたと連絡が入った。国土地理院の地図を凝視しているうちに閃いたというのだ。そこは「源氏物語画帖」玉鬘の巻、『枕草子』、『住吉物語』の描写にぴったりマッチするというのだ。

 ここで混乱しないように言っておかねばならないのは、3作品ともオリジナルは倭国の時代のものであるということである。『源氏物語』は一昨年「千年紀」と大騒ぎしていたが、正確には、もう350年ほど遡り、現代の作家が江戸時代初期の物語をパクるようなことが平安時代に行われていたのだ。


倭国長谷寺跡の発見 - AB&JC PRESSによる





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2.野波神社の吉田藤雄氏の神社案内板について

吉田藤雄氏の神社案内板の最後の部分の1月7日の「ドンド焼き」の記述では、仲哀天皇は神功皇后と武内宿弥の間に生まれた子と思わせるような記述であり、仲哀天皇が野波の里で生まれたかのようなっている。
しかし、野波神社の由緒、下ノ宮の由緒からすると、皇后の両親、息長宿祢と葛城之高額媛が野波の里におられ、皇后が1月7日の「ドンド焼き」の日に生まれたと、捉える方が自然ではなかろうか。また、1月7日の「ドンド焼き」の朝、皇后が産気づかれて、仲哀天皇が生まれたとされるのは、ほかの皇子とも取れるが、誉田別皇子が筑前宇美の地で出産された以外に信頼できる伝承はない。
別の考え方として、この話が新羅征討後のものであれば、周囲に大雀命・菟道穉郎子が祀られており、開化天皇と皇后の皇子の出産ととれ、九体皇子の内の三名?の皇子が野波の里で出産されたと考えることもできる。
また、新羅征討のおり、筑肥を通過とは、朝倉市蜷城の美奈宜神社の由緒からすると、筑後川の大善寺の往来と考えられるが、「筑肥通過の折、この地に寄られて・・・」という伝承は神功皇后伝説特有の付会ではなかろうか。また、神功皇后の時代に「ドンド焼き」の行事があったであろうか。どうも、神功皇后特有の伝説が神社由緒に記載されると、由緒の信頼度が落ちるような気がしてならない。
ということで、神社案内板の最後の部分は認識の誤りとみるが、この由緒の全てを否定するものではありません。


3.神功皇后伝説

日本書記の神功紀で、荷持田村(のとりたのふれ)の羽白熊鷲(はしろのくまわし)討伐のおり、筑紫野を神功軍が通過時、「旋風がにわかに吹いて皇后の御笠が吹きとばされ、時の人はそこを名づけて御笠(みかさ)という」、「羽白熊鷲と層増岐野(そそきの)で戦闘となり、ついにこれを滅ぼした。皇后は近臣に'熊鷲を取ることを得て心安らかになった'と言ったので名づけて安という」の地名説話がある。
しかし、御笠地名の近くには御笠山(宝満山)があった。
戦闘勝利した「安」については、秋月の入口の旧安川村に「安川」が流れ、ここ一帯を「安野」といった。この時点では、熊鷲は討伐されていない。敗退して秋月盆地に陣を建て直している。旧安川村の中心付近にある老松神社の社伝では、ここを「御府の森」といい、この神社は大国主一人を祀る。この神社の近くの北の山裾の楢原に「奇志神社」という聞きなれない秘密めいた神社がある。大国主を主祭神とするが、社紋は神功皇后の紋があり、熊本県山鹿市の「志々岐阿蘇神社」と同じ神額の額縁を持っている。この志々岐阿蘇神社は大国主、建南方を主祭神とする。「奇志」の名は、この志々岐阿蘇神社の「志々岐」をもじったように見える。また、「志々岐」は「ししき」「そそき」と訛り転化しているようにも聞こえる。
この「岐」は「城、柵、木」と同意語で、志々の柵、そその柵、つまり、砦、陣所ではなかろうか。その「そそき野」で戦闘の激突があった。層増岐野は、ここ、旧安川村から続く旧甘木市一帯をいうのではなかろうか。
神功皇后伝説の「御笠」、「安」は語呂合わせで、後世の府会のように思えるのだが、ここでの私の話も語呂合わせと取られそうです。


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「志々岐」の名を持つ他の神社  志々岐神社 福岡市早良区内野


祭 神 神功皇后、十域別王命、稚武王命(二人は仲哀帝の弟でヤマトタケルの皇子)


百嶋神代系譜・素戔嗚尊・神功皇后 神代系図(8)


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4.野波神社、下ノ宮の概要

① 野波神社

所在地 佐賀県佐賀市三瀬村大字杠(ゆずりは、中谷) 1358-41
祭 神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比咩大神(淀姫神)
由 緒(要約)
西暦268年に創立。
社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地に寄られたと云う。明治43年村内の無格社が整理統合され、祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。
昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年1213日に遷座式を執行した。昭和2848日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。

下ノ宮
所在地 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口
祭 神 息長宿祢命・葛城之高額媛命
由 緒(要約)
創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるが、本宮よりも上流に祀られ「下ノ宮」というが、息長足媛命が皇后になられてより、立場違いにより、後に「下宮」となったのであろう。
野波神社の例祭時、当宮との間に皇后の御神輿の上り下りの行事が行なわれている。

 

5.資料・佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」HPから

①「三瀬村史」による野波神社
社号 野波大明神
祭神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比咩大神(淀姫神)
應神天皇の御代、西暦268年に勧請された神社で当地では最も古く、棟木札銘(昭和28年焼失)には次のような記録が残されていた。
 文中2(1373)再興。
 長禄2(1458)再建。
 元亀2(1571)再々建。
 宝永元年(1704)再々々建。
 天保14(18433月、1575年祭施行。
今から1700余年前の古墳時代初期に勧請されたことになる。
社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地にもおいでになって、宇土の大石に腰をおろして休息せられる時、一帯の風光を眺められて「最も能き野奈美哉」と仰せられたので、この一帯を野波の里とよぶようになった。また、大石の前の河で御裾を麗がれたので、その地を渡瀬の手洗松と言い伝えられた。その御遺跡に御社を営み、古くから神埼佐賀七山の宗廟として崇め、上下の信仰が厚かった。七山というのは、杠・関屋・小副川・菖蒲・畑瀬・松瀬・名尾の七山である。
室町時代、嘉吉2年(1442)の初春には、阿波の国の住人杠日向守が下向して当地の領主となり、神田五町歩を寄進して年々の祭祀を盛んにした。その後、天正年間(15731591)の頃には、神田等多数の領主から寄進があって、年中盛大な神祭りが行なわれたという。降って江戸時代の延宝2年(16742月には、杠権右衛門尉藤原吉満が、「七山宗社」の額と「宝物」数種を寄進して祭祀を行なった。
近代になって、明治61031日村社に指定され、同431013日に神饌弊帛料供進の指定を受けた。また、同年には村内の無格社が整理統合され、それらの祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年1213日に遷座式を執行した。
昭和2848日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。このとき焼失したもの。
  「七山宗廟野波大明神」-拝殿入口の額
  「七山宗社」-弊殿入口の額「銚子」二、「瓶子」 三、何れも木製

  「表札」-神社の伝説口碑を記したもの
御神体は古来「グミの木」と言われていたが、陶器製のものだけが焼け残っていた。
昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。海や河川にかかわりの深い祭神淀姫神の霊示が具現されたのであろうか、ダム湖水を眼下に見おろす中谷山の現地に社地社殿が構築され、同年12月遷座式が盛大に執行された。
淡島明神 野波神社の境内には、別に淡島明神を祭った小社殿がある。土地の人は「あわしまさん」とよんでいる。何時の頃勧請されたかは明らかでないが、淡島信仰は和歌山市の淡島明神を中心として広まったと言われ、江戸時代中期の元禄年間ごろから、淡島願人とよばれる一種の物もらいが、諸国を巡歴して婦人病に効験あらたかな神として信仰をすすめた結果、民間に広く普及し、とくに花柳界の女性の間に広く信仰されるようになった。
和歌山市加太町にある加太神社が淡島明神として著名で、祭神は少彦名命・大己貴命(大国主命)・息長足媛命(神功皇后)の3柱で、婦人病に霊験あらたかとされ、縁結び・医薬・海上鎮護の神として信仰される。
野波神社の淡島明神も、もちろん婦人病に効験あらたかとされ、安産・長寿・海上河川鎮護の神として、山内山外の人々に信仰されてきたのである。
出典:三瀬村史p710

②「三瀬村史」による「下ノ宮」
社号 下ノ宮 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口
祭神 
息長宿祢命・葛城之高額媛命
創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。
下宮が本宮よりも上流に祀られているところに不可解な点もあるが、祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるので、上流に祀られていても不思議ではない。
野波神社の例祭のときには、現今でも当宮との間に御神輿の上り下りの行事が行なわれている。
出典:三瀬村史p712


青字の明朝体は宮原誠一氏の原文、黒字のゴシック体は古川による挿入文、赤字の明朝体AB&JC PRESSによる。

この野波神社、下ノ宮の伝承が荒唐無稽な話として否定される方は多いでしょう。しかし、滋賀県からやってきているはずだとおっしゃっておられる高名な方々のお話に根拠があるとお思いでしょうか?只の推定でしかなく何もないのですよ!それならこの現地伝承が何かを御説明頂きたいものです(古川)。


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477 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社 ③ “福岡県うきは市 賀茂神社から” (再々考)

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477 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社 ③ “福岡県うきは市 賀茂神社から” (再々考)

20170419

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



上天気に誘われ、太宰府地名研究会のトレッキングの下見や付近にある別の未踏社(熊野神社)の実踏調査もあり、久々にうきは市の賀茂神社を訪れました。

 既に、スポット(1718)としてひぼろぎ逍遥4756を公開していますが、本稿はその続編となります。


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賀茂神社 カーナビ検索 福岡県うきは市浮羽町山北1 ℡ 0943-77-8718


祭  神   神武天皇 玉依姫 加茂別雷神

境内神社   天満神社(菅原道真) 五穀神社(保食神、稲次正誠) 琴平社(崇徳天皇)

猿田彦神社(猿田彦命) 秋葉社(軻具突智命) 稲葉社(保食神)

春日社(天児屋根命)

境内摂社   日吉神社(大山祗神) 三次神社(景行天皇、菅原道真)   「福岡県神社誌」による


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「福岡県神社誌」と同社縁起には多少の違いがありますが、“ヤタガラスに化した賀茂大神の先導により大和への…”の部分は考えさせられます。

賀茂別雷は明らかに崇神(神武僭称ハツクニシラス)です。神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)を筆頭に書き崇神を別書していることから、神武天皇と賀茂武角身(ヤタガラス)は本物で、玉依姫については神武天皇を産んだとする本物の玉依姫なのか、崇神を産んだ鴨玉依姫なのかは、なお、不明です。

どうも、下賀茂系統が上賀茂系統に覆いかぶさってきた印象を受けるのですが、その思いを強くしたのは、境内摂社に三王宮を確認したからです。「福岡県神社誌」では、日吉神社(大山祗神)と書いていますが、恐らく誤植か誤りで日吉神社(大山咋神)が正しいものと思います。

本殿より高い位置に境内摂社三王宮が置かれていたのですが、これまで神額が読み取れず、中を確認し、ようやく山王宮であることに気付いたのでした。三王宮は日枝山王権現、山王宮であり、日吉神社であり、大山咋、松尾大神であり、崇神天皇の父神(母神は鴨玉依姫)である事は言うまでもありません。


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478 集落からの参道のない神社 “佐賀県鳥栖市下野町下水天宮”

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478 集落からの参道のない神社 “佐賀県鳥栖市下野町下水天宮”

20170420

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


筑後川を挟んだ対岸の佐賀県鳥栖市にも水天宮が在ると言う話はそれとなく聞いていました。

 「宮原誠一の神社見聞諜」の宮原氏の案内で、この謎の「下水天宮」に訪れることになりました。


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 宮原氏によると「この神社には進入路が無くて下野の集落に入って歩いて探しても参道らしきものが一切みあたらないため付近の老松宮には行けるが、この下水天宮だけには辿り着けない…」という話で、要は、その神社を祀るはずの氏子集落から参道が存在しないこと自体が異常なのです。

 勿論、社殿も造られ、花崗岩の大鳥居もあるのですから進入路はあるのですが、それは宝満川と筑後川の合流部分の堤防から直接降りる道として存在しているのであって、古い時代に神社に堤防から降りる参道などあるはずがないのであり、それは古くから集落から入る参道は存在していなかった事になるのです。

 勿論、神社がある以上参道はあるはずで、恐らく個人の自宅を抜けて入る参道が存在していたはずなのです。

 ともあれ神社を見る事にしました。


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椿の森の中といった感じですが、鳥居の位置も引っ込んでいる事から、外からは何も無いようにしか見えない事でしょう。


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社殿の裏には、龍神、中央神(さすがは佐賀県ですね佐賀県だけに限定的に存在する中央神が…青森の日本中央碑)、多分、圃場整備などで寄せられたものでしょう。


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 中央神                     龍神


 さっそく「佐賀県神社誌要」を調べましたが、老松宮はあるものの、下水天宮は記載がありません。

 集落での聴き取りもしていない事から迂闊な事は言えませんが、そもそも集落で祀られていたのかさえも分からないといった印象を持ったのでした。

 ところが宮原氏は丹念でそれなりの事情に精通されており、“集落で祀られており、多くの古文書も残されている…と即座に反論されました。

その通りなのでしょう。ただ、印象としては集落との繋がりの様なものが見いだせず、思考の暴走が勝ってしまったのでした。 錯覚いけない良く見る宜し…。


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これは鳥居、参道正面


 帰りがけになって理由が分かり、謎が氷解しました。

 それは、安徳帝潜行が関係しているのです。


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現地掲示板


 壇ノ浦の安徳帝と二位尼(平時子)の話は良く知られています。

見てきたような話にはなりますが、攪乱のため、十手ほどの影武者(ダミー)が逃げ、本物の安徳帝は一旦北の対馬に逃れ後に南下し奄美大島の長浜から喜界ケ島に御所を移し現在でもその後裔がおられるようです。

百嶋先生は実際に十数年前まで文通をされており、現代の安徳帝の一代前の安徳帝と文通しておられたと聴いています(現物も保存されています)。

さらに、その奄美への逃亡には、八女の黒木の一族が全面的に協力したとも聴いており、いずれ公開する時も来るでしょう。

勿論、本物の安徳帝も潜行された可能性はあるのですが、ダミーにはダミーとしての任務はある訳で、その限りで最も危険な役割を果たした本物のダミーが久留米に潜行していたのではないかと考えています。  

そしてその末裔もおられるようなのです。

実は、いつも利用させて頂いている「姓名分布&ランキング」で安徳姓を調べると、全国で181件存在する中で、実に106件までが福岡県、それも64件が久留米市に存在しているのです。


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十分にお分かり頂いたと思います。

 安徳帝の逃亡に関係していたのは水天宮を奉斎した氏族であり(天御中主命を祀る白族)、水天宮は集落からも容易には立ち入れない、しかも、集落の監視を抜けなければ入れない場所に潜行地が置かれ、逃亡完了後もダミーとしての任務を全うした人々=平氏の特殊部隊が久留米~八女の一帯に密かに隠れ住んでいた可能性を否定できないのです。

 これが集落からの参道が存在しない事の理由だと気づき迫る夕闇と夕方のハードな交通渋滞から追われ逃れる様に宮原氏のご自宅に戻ったのでした。


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スポット132 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝論研究の未来のために”

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スポット132 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝論研究の未来のために”

20171011

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


九州王朝論を象徴する古田武彦が鬼籍に入って数年が経ちましたが、いよいよ九州王朝論を継承するとする団体が古田も驚くばかりの堕落への一途を辿っているようです。

 現在、九州王朝論者と言った時、必ずしも古田武彦を意味すると言った単純な構造には無い事は言うまでもありません。

 私自身も含め、ここ五年ほどで佃 収 九州王朝論の引力に惹き付けられ続けており、いずれ完全に佃収惑星の軌道を周回する衛星になってしまうと考えています。

 それほど佃収氏のフィールド・ワークに裏付けられた論証は精緻であり、かつ、その著作の厚みも、既に十冊を越えているのです。それでなくても米田良三研究や内倉武久研究もあるのですから。

新参の方はともかくとして、古参の九州王朝論者の組織のメンバーがこの内容も知らずに九州王朝論を云々している状況には情けない限りであり、それだけでも悲しい話です。

 一方、私達は既に百嶋由一郎と言う稀代の神社考古学者が描く神代史(実際には古代史の少し前の九州王朝前夜の世界なのですが)に移行しており、無関係とはまで言わないまでも既存の九州王朝論やそれらの団体からは独立した世界に入っており、既にどうでも良いと言えば良いのですが、古田亡き後の九州王朝論系の団体が総崩れ状態となっている事に驚きと興味を持って見物しているところです。

 か、と言って、古代史ファンなる者が邪馬台国畿内説やその安物の亜流でしかない「邪馬台国東遷論」とかに収斂されているかと言うとそうではなく、古代史への一般的な関心の高まりとか探究心それ自体が消失して行っている(全体としての劣化)事を感じているのです。


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このため、古代史関係の学者と考古学協会系の利権集団も真面目に調査も研究もやっていないのであり、それは「邪馬台国畿内説」の立場からのブログやHPなどが花盛りでない事からもお分かりになる通り、説得力を持って勢力を拡大させているといった状況にもないのです。

そこにあるのは、自ら研究する意欲も時間も資源も失った只の団塊の世代以降の中年の古代史ファンが蠢いているだけで、仕方がなく、既存の村興し町興しといった教育委員会とか学芸員と言った既存の学会通説に尾を振り奉仕する官製研究に動員され、とうとう九州王朝論者のメンバーまでもが絡め取られつつあるという惨状を呈しているのです。

 情けないのは、十年前までは自らの頭で考え研究や調査や記録をする民間研究者が居たのですが、彼らが引退するに至ると、自らは何も調べようとはせず、現場に行こうともせず、ただ単に所謂「邪馬台国本」を読み齧り、良くて九州王朝論者の書いた本を読み、さも分かったかのように吹聴し、学会通説に基づく情報も知っておくべしとして、教育委員会関係者や学芸員と称する怪しげな連中のデマ情報を拝聴するばかりか真に受け、それも自らのメンバーからの研究発表など出せない事から、年八回の講演でさえも半分以上も外部の通説派(教育委員会関係者や学芸員)に依存し心服して拝聴しようとしているのですから、その為体は情けないばかりです。

 こういう方針を打ち出しているのが元ブントの阿呆ネイチャン(bundは元々大衆レベルの思考しかできない)と自らは何の発表もできない商売人なのですから、いっそ九州王朝研究など止めてしまう方が恥を晒さずに良いのではないかと思うばかりです。

 要は、現場に入り汗を流して調査をしないような方々が他人の研究を齧りとってくだらない談話をしているだけでは、どこにでもある通説派の郷土史会などと何の変わり映えしないものであり、業績を残す事も九州王朝論を深化させることもできずに、いずれ従容として消え失せて行く事にしかならないはずです。

 今から35年も前でしたが、古田武彦全盛の九州王朝研究が熱心に行われていた時代だったと思いますが、別件で福岡市の公共施設に行った事がありました。

たまたま、部屋を間違えてある部屋に入るとどうも九州王朝論の研究者が集まっておられたのです。

既に古田武彦の初期三部作はもとより、「古代は輝いていた」の三部作などを読んでいた時期だった事から、「私も古田九州王朝論に魅了されている一人です…」とお話しして意気投合した事もあったのですが、元より別の集まりへの参加が目的であった事から連絡先だけメモして、それ以降二十年経った後に別団体の「古田史学の会」に入ったことを記憶しています。

ただ、当時の現場を重視する姿勢、自らも九州王朝論研究の一翼を荷おうと熱心に活動されていた現場を目撃していたのでした。

当時は、文献史学はもとより、九州王朝の中心部である九州島というというポジションを生かしたフィールド・ワークを怠らない姿勢どころか、自ら職を辞し韓国に渡り数年生活する中で自らの研究を求めた人物さえ生み出したのですから、それに伍す人々=研究者が集まっている事が感じられたのです。

最早、昔日の面影など全く認められない只の親睦団体に堕し、調査旅行と称して型通りの観光地見学でお茶を濁すのですから嘆かわしい限りです。

最早、このような人々から注目すべき新たな研究など決して生まれないどころか、そのうち学会通説に奉仕し教育委員会に利用されるだけの団体に成り下がる事でしょう。

問題は、この間入れ替わってきたメンバーであり、既に古田武彦の本も満足に読んだこともないようなただの古代史ファンといった若手が過半数を占める様な状態になっている事です。

既に、九州王朝論研究の進展が全く見込めないというレベルにある事は言うまでもなく、それらから離脱できた神代史研究のものだけは今後とも現場を解読し古代を見通す事が出来るのかも知れません。

このような九州王朝研究団体から離脱できて本当に良かったと思っていますが、このような話は元よりどこからか伝わって来るもので、「もうこんな研究体ではだめだ…」「自分では何も調べないし文章も書けないくせに会だけを運営している」「方針を出しているやつ自身が投げ出して辞めたいと思っているくせに、議論をさせようとする姿勢も何もない…」「学芸員とか教育委員会関係者の話ばかりでヘヘーと心服しているんですからどうにもなりませんね…」と複数の人から話を聴くと、既に古田武彦が一生を賭して切り開いた「九州王朝論」など忘れきって、自らも感動を忘れた人々の集まりに堕している事が今さらながらに分かるのです。

これらの人々(○○古代史の会…外)が十年前までは古田武彦九州王朝論はだめで自らはそれを乗り越えると息巻いていたのですから昔日の感があります。まさに恥を知れ!でしょう。

最早、研究者による研究会、最低でも著述者、記録者、年代記録者、映像記録者、伝承収録者、ブロガー、取材者、広い目でいう所のフィールド・ワーカーによる連合体、情報調整機関として再建すべき時代が来ている事に気付くべきなのです。

九州王朝論の本拠地であるべき九州に於いてこの有様なのですから、古田武彦という独立性の強い稀代の研究者が存在した時代にだけ「九州王朝論」が花開き、古田武彦亡き後、その著作が凍結された形で残されたのだと理解します。

そして、個人的には佃収九州王朝論と百嶋由一郎神社考古学との整合性を追求する作業に入ろうとするものです。

既に、百嶋由一郎の影響を受けた神社研究者は全国に二十人を数え(とりあえずブロガーだけの数字ですが、アクセス数だけでも年間百五十万になるでしょう)、ただ利権に乗っただけの通説派の学芸員の話を拝聴し翌日には忘れてしまうような好い加減な邪馬台国本読者ではなく、自ら調査を行いブログを書く行動する研究者の連合体が形成されているのです。

 人の話を真に受け拝聴するだけの人々はそのソースが換えられれば、そのまま同調する人々でしかなく、研究者でも探査者でも解析者でも記録者でもないのです。

 個人的には古代史の世界から離脱できたことから一切悩みが無くなったのですが、既存の「古代史」には国家、現体制に繋がる嘘がまかり通っているという事を理解し、既存の情報を一切信じる事無く一から調べて深層を探る事無くしては真実に辿り着けない事だけは確実なのです。


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当時全力で取り組んだ宮地嶽神社の筑紫舞講演と併せて行われた講演中の古田武彦と800人の聴衆

479 粗削りな鳥居が魅力的な 糸島市(旧二丈町)の大田神社

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479 粗削りな鳥居が魅力的な 糸島市(旧二丈町)の大田神社

20170420

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 多くの神社に訪れていると、やはり心惹かれる神社というものはあるものです。

まさに、目に焼き付いて離れない強烈なイメージを残す神社が糸島市(旧二丈町)の大田神社です。

 昨今は味気のないコンピューター制御による機械カットの立派な鳥居や石塔や灯篭ばかりが目につきますが、この手造りの粗削りな石の鳥居には本当に驚かされました。

 実際にこれを加工し組み立てる事を考えると、その困難さは想像するに余りあります。

 仮に組み立てる事は出来るとしても、実際にバランスを維持できるか、寸法が合い嵌めこむことができるのか、“ちょっと調整するからそっちを持っておいてくれ…”などとは簡単にできないことは明らかで、良くぞ造ったものだと驚きも感服もしたものです。

 正確に対称性を持った物を正確に計測して造ることは不可能ではありませんが、非対称性の物を正確に加工し組立てることは逆に難しいはずなのです(これは昔の木造建築の大社の梁も同様ですが…)。


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縁起と「福岡県神社誌」上巻119p を見て頂きましたが、太田命と猿田彦命を軸に考えます。

割り切った人間や、通説をそのまま受け売りするような方は別として、この太田命が何者であるかは多くの研究者にとっても謎なのです。

 島根県の太田市には物部神社があり、ニギハヤヒ=猿田彦=山幸彦の子(もしくは数世の孫)とされるウマシマジが祀られています。

 大田命も、当然、この手の物部系統の人物と考えたいのですが、そう簡単には行かないのです。

 「古語拾遺」は天目一箇神としていますが、天の目一つは製鉄神であり、数は少ないものの熊本などでも数社遭遇しています。

 百嶋神社考古学ではこの神をヤタガラスの後裔の武夷鳥(タケヒナドリ)=道真の祖とします。

 下の極秘神代系譜をじっくり見てもらった上で武夷鳥を考えるとアメノウヅメは猿田彦の妃ですから、ギリギリ太田命が猿田彦の後裔である=武夷鳥が猿田彦の義理の義理の後裔=子であるとまでは言えるのです(勿論、可能性を探っているだけで決めつけるだけの決め手はありません)。

 ウマシマジも当然ながら猿田彦の後裔ですし、候補はいっぱいいるのです。

 当研究会の内部では大田命を大山咋とする説が有力なのですが個人的にはフォローできていません。

 ここでは、猿田彦のお妃がアメノウヅメですから、姻戚関係が重複する神代の事、義理の義理の関係で親子=後裔の関係が成立する事を理解して頂くしかないものと思うものです。

 今回は煮え切らない内容で申し訳ありませんでしたが、神代史でも最も難しい問題が横たわっており、この大物主問題、太田命については回答を出せたらと考えています。

 ここでは、荒削りの手造り鳥居の素晴らしさをお知らせした事に留めます。


大田神社 カーナビ検索 糸島市二丈一貴山1016


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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)




研究目的で百嶋由一郎氏の資料(音声CD,系譜…)を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい


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スポット133 緊急提言 全国の将棋ファンの皆さんに! “放射性粉塵が首都圏を襲う”

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スポット133 緊急提言 全国の将棋ファンの皆さんに! “放射性粉塵が首都圏を襲う”

20171017

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


最近は大盤解説会とテレビやネットの観戦しかしなくなりましたが、私自身もかつては将棋連盟に所属していたヘッポコ将棋指の一人でした。

一応は35万円の将棋の駒まで買ったのですからそれなりの将棋ファンだったのです。

 既に、棋士がコンピュターに勝てなくなっているという現実、さらには龍王戦に於ける不正疑惑(これについても三浦が不正を行ったとは考えられないのですが…)や、将棋人口の激減から上海の将棋人口が列島を上回る可能性…と、いずれ将棋界に激震が走るだろうと考えて来ました。

 古代史や神代史は元より、政治、経済、国際情勢…と大嘘がまかり通っている中で、将棋だけは信じられる。それしか信じられるものが存在しないという思いを今尚深めています。

つまり、例えば羽生VS谷川といった闘いにだけは不正もなく真実が存在しているという最後の砦であり、不正選挙や人工地震そしてアメリカによる日本経済の完全乗っ取り(これはほぼ完了しつつありますが)といった信用できないものが増加し、現実味を増している中でも唯一信頼できる不正の無い物との思いを深めていました。

実に他に信用できるものが全く存在しなくなっているのが今の列島社会の現実なのです。

 この間、CO2温暖化論という国家的デマ(フォッケー・スティック捏造事件によって大恥かいた上に、発信源だったNSA自身が南極の陸氷は増大していると報告している…)や、石油枯渇(オイル・ピーク論)どころかEV車への転換から本来は石油の暴落の可能性が起きている事、それどころかヒート・アイランド現象でしかないものを温暖化のせいにして自らの責任をごまかしている国土交通省、九州北部豪雨災害においても豪雨を原因として自らの責任から逃げ回る農水省…と大嘘がまかり通る中、熊本地震によって家に戻る事が出来ない避難者は今も34万人を数えるといった実質的な国家による棄民が続いているのです。

 これが偽らざる今の日本の実情なのであり、朝倉~日田の被災者にも雀の涙程度の災害義捐金しか支給されないという事実の確認であり、これが国家か?国家なのか?そして「小泉竹中郵政改革」とかいう売国政策で日本の富をアメリカに売り渡した連中だけが私腹を肥やしているのです。

 そうした中、またもや衝撃的な事実(検証が不能なためあくまでも可能性でしかありませんが)将棋ファンにとっては驚くべき話がネットから拾えましたのでご紹介したいと思います。以下、wantonのブログから。要約すれば福島の放射性粉塵が思考を狂わせている可能性が指摘されているのです。

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何かが起こっている! 2017-04-01 17:33:01 管理人


本題に入る前に、少し気になったことを書きます。2016年の春の選抜高校野球ですが、大変面白い現象がありました。ベスト8に入った東日本のチームは、なんと、たった1校でした。準々決勝は以下の通り。第1試合 智弁学園(奈良)-滋賀学園(滋賀)第2試合 龍谷大平安(京都)-明石商(兵庫)

3試合 木更津総合(千葉)-秀岳館(熊本)第4試合 高松商(香川)-海星(長崎)見ての通り、千葉の木更津総合・・ただ1校です。

私は、高校野球にはあまり関心がないのですが、今年の2017年は時おり、ニュースや新聞などを見ていますと、いつも、西日本勢ばかりが勝っている事に気づきました。

2017選抜高校野球、10日目終了時点のトーナメント表です。偶然もあるとは思うのですが、しかし…確率的にいって、東日本勢がベスト8に4校入っていてもおかしくありません。

しかし、群馬の健大高崎と岩手の盛岡大付属の2校だけ。たった2校とは、何かおかしくありませんか?

せめて、3校くらいだと何も思わないのですが…。しかもベスト4には、東日本勢はゼロ。もしかするとですが、放射能汚染と被曝が関係しているかもしれないと、直感的に、ふと、そのように感じたのでした。

だって、ベスト8の試合で、群馬の健大高崎と岩手の盛岡大付属の2校を除いて、東日本勢は全て、姿を消しているのですから・・・。これを全くおかしくないなんて、寧ろ、東日本の高校野球に対して失礼でしょう。皆さんは、どのように感じられたでしょうか?

さて、本題に入ります。昨日、将棋の世界で衝撃的なことが起こりました。なんと、現役棋士の中でも最強の一人とされていた森内俊之九段が、フリークラスに転出することを発表しました。


森内九段のコメント


この度、フリークラスに転出することに致しました。平成28年度のA級順位戦で降級となったことを受けて出した結論です。順位戦での歴代連勝記録更新や、名人戦での数多くの対局など、思い出深い経験を沢山させていただきました。感謝の気持ちでいっぱいです。今後は、その経験を生かして、対局者とは別の立場で順位戦・名人戦を盛り上げていければと思っております。どうぞよろしくお願い申し上げます。              日本将棋連盟 棋士 森内俊之出身地  神奈川県横浜市


名人位 31歳にして念願の初タイトルとなる名人位を獲得 竜王位 2003年度は、羽生竜王から竜王位を奪取。王将位 第53期王将戦七番勝負、羽生王将を421千日手で降し、王将位を奪取。名人位

2004年度の第62期名人戦七番勝負において、羽生名人に42敗で勝ち、名人位を奪取。棋王位 2006年(2005年度)、羽生から棋王を奪取して二冠(名人・棋王)となる。永世名人 2007629日、第65期名人戦で郷田真隆の挑戦を受け、43敗で防衛。通算5期獲得となり永世名人(十八世名人)の資格を得た。名人位 2011622日に行われた最終第7局を123手で制し、遂に名人位を奪還。

2012年度、42敗で名人位を防衛。2013年度、41敗で名人位を防衛。9連覇中だった渡辺明竜王を41敗で破り、竜王位を奪還。これらの活躍により、2013年度将棋大賞で2度目の最優秀棋士賞を受賞した。タイトル獲得合計 12期 一般棋戦優勝回数 13回 順位戦クラス A級以上連続22

<引用終わり>------------------------------------


将棋の世界では、順位戦が全ての基本となります。

A級 B1組 B2組 C1組 C2組 フリークラス A級を陥落したばかりの時に、フリークラスに転出することの意味は、名人戦からの事実上の引退を意味します。まだ、46歳の若さです。一度、A級を陥落したとしても来期、また上がってくればいい訳です。しかし、昨年度の成績はガクっと落ちています。2016年度成績、勝率~3割6分 まさに、急降下の一途といった感じがしてなりません。46歳という年齢からすれば、あと15年は現役でバリバリに出来るとほとんどの関係者が思うはずです。突然のフリークラスに転出するには、本人にしか知り得ない何かがあったと考えられます。以前のように、頭が回らなくなった。体調が、疲れやすく・・あまり良くない。2014年の名人戦2014年、森内俊之名人は、挑戦者、羽生善治に4連敗を喫し、名人位の座から陥落しました。名人といえば、将棋の世界では最高の名誉とされています。その最高のひのき舞台で、居眠りすることは、通常起こり得ません。しかし、それが現実に起こってしまいました。


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【2014年名人戦】対局中に居眠りをしてしまい羽生善治に起こされる森内俊之


 どちらの手番かというと、森内俊之名人だそうです。自分の手番の時に寝るなんて、絶対に有り得ないでしょう。

寝るというよりも、一時的に気絶していたというほうが適切かもしれません。羽生善治さんの大きなカラ咳に、身体が反応しましたが、やはり、また寝ていました。森内俊之名人の脳内で、何かが起こっていたのでしょうか?


神奈川県横浜市は、ストロンチウム汚染の特に酷いところです。ウラン鉱山からの風が吹くと、次々と皆が眠りに落ちるhttp://ameblo.jp/64152966/entry-12109620649.html


アメリカのスターングラス博士が、脳の神経細胞のニューロン間通信に使われるカルシウムイオンの替りにストロンチウム90が脳に入ってしまった場合、前頭葉でそれがβ崩壊したら、突然の意識消失やてんかんのような症状が起きると言っている。これが突然倒れる人が関東圏で増えている原因だ。

被曝脳症 危機感の減退 時刻感覚の減退 食欲増大 複雑な思考の回避 感情の鈍化 遊びへの欲求の増加 転びやすい 計画性の減少 複雑な文の回避 単純ミスの増加 短期記憶力の減退 長期記憶の取り出しの失敗 甘えと自己主張の増加 他人の感覚への共感の減退 状況把握の鈍化 滑舌が悪化

<引用終わり>------------------------------------

管理人

森内俊之名人から名人位を奪取した羽生善治名人でしたが、昨年、2016年の名人戦で、関西の若手・佐藤天彦8段に1勝4敗で、名人位を奪われてしまいました。将棋界の頂点に君臨する羽生善治さんも又、東京在住です。囲碁・将棋などの知的競技の世界。野球やサッカーを始めとしたあらゆるスポーツ競技。

私は、311以降、今後10年に渡って西高東低になっていくのではないかと何年も前から予想しつつ危惧していました。いきなりではなく、徐々に・・・

そして、痛切に感じることは、著名人のガン死亡が断然に多いこと。著名人の8割は首都圏に住んでおられます。とても偶然とは思えません。もう数年もすると、誤魔化せなくなるでしょう。多くの人が騒ぎ出すのも時間の問題のように思います。

タレントの小林真央さん、元女子プロレスの北斗晶さん、元プロボクシング世界チャンピオンの竹原真二さん…いずれも、ガン闘病中…俳優の平 幹二朗さん(82才)、急性心不全か?20161022日死去。

俳優の松方 弘樹さん(74才)、脳リンパ腫で2017121日死去。俳優の渡瀬 恒彦さん(72才)、胆のうガンの為、2017314日死去。フォークシンガー加川良氏が急性骨髄性白血病に空手家,聖心館空手道館長黒澤浩樹氏(54)が急性心不全により死去 ガンも心筋梗塞などによる急性心不全も被曝が深く関係していると…つとに有名です。なので、大変気になるところです。


 最近の将棋界の話として一番衝撃的だったのは“森内の早すぎる引退”であり、当時から何故だろうと不思議に思っていました(つい最近も森内俊之九段は紫綬褒章をもらっていますね)。

 しかし、wantonのブログ読ませて頂き謎が氷解しました。

 最早、唯一、信頼していた「将棋」の世界に於いても個人の力ではどうすることもできない力によって勝敗が左右されているという許しがたい事実に直面し、将棋への熱が冷えてしまった思いもしています。

 渡辺 明と羽生善治が激突する今期の将棋龍王戦の大盤解説会にも可能な限り参加するつもりだったのですが実に悲しい限りです。

ちなみに渡辺 明の居住地は東京都葛飾区、羽生善治の居住地は埼玉県所沢市なのか八王子市なのか公表されていない以上不明ですが、ほんの僅かな差で勝負が決まる世界であるため、この要素が影響しなければと願うばかりですが、どうせ危機は一層深化して行っているはずなのです。

これが、アメリカの指示の元、福島県知事さえも陥れ、積極的に原子力政策を推進した糞議員、糞官僚どものもたらしたものだったのです。

言うまでもなく、アメリカのエージェントして原子力推進の旗を振ったのは、アメリカの手先である中曽○(そもそもCIA職員の試験を受けた売国議員)、読○新聞、日○レ、正○松○郎、渡辺○雄 といった原子力マフィアでした。

原子力政策を推し進めたのは言うまでもなく自民党と国賊としか言いようのない売国官僚と自民党の尻尾となった地方の糞議員どもだったのです。


原発に反対した前福島県知事にまつわる話が日本の話と思えない件【脱原発】


sp132-4佐藤栄佐久

出典blue.ap.teacup.com佐藤栄佐久日本の政治家。参議院議員(1期)、福島県知事(5期)、全国過疎地域自立促進連盟会長を務めた。元外務大臣の玄葉光一郎は娘婿。20069月に実弟が関与した汚職事件の追及を受け、5期目の任期途中での辞職を表明。928日、福島県議会の同意を得て知事を辞職した。後日、自身も収賄の容疑で逮捕される。

当初は原発には賛成であったが、東電の隠蔽等を目の当たりにし反原発の立場に転向

福島第一・第二原発で、原発の故障やひび割れなどの損傷を隠すため、長年にわたって点検記録をごまかしてきた

出典

佐藤栄佐久前福島県知事は「反原発派」だったから逮捕されたのか、 地検特捜部の犯罪! - 株式日記と経済展望

福島第一原発、そして第二原発では故障やひび割れがたくさん見つかっていました。ところが、その点検記録を書き換えて、なかったことにしていたのです。

出典

外国特派員協会記者会見:冒頭発言全文 - 佐藤栄佐久 公式ブログ

「原子炉圧力容器下部周辺などの高い被曝が予想される作業では、線量計を外し、高い数値が出ないようにしていることがあった」(200310月)

出典

福島原発の真実

事故を隠蔽してまで原発の安全性を主張する政府・東京電力への対処と、高速増殖炉もんじゅやプルサーマル計画に代表されるプルトニウム中心の核燃料サイクル計画の将来性への不信が、政府の押し進める原子力推進政策への対抗的な姿勢につながっていった

出典

『福島原発の真実』(平凡社、2011年)

福島原発

出典

www.47news.jp

福島原発 

その結果彼は身に覚えのない冤罪で失脚させられる

20069月に実弟が関与した汚職事件の追及を受け、5期目の任期途中での辞職を表明。

出典

佐藤栄佐久 - Wikipedia

928日、福島県議会の同意を得て知事を辞職した。後日、自身も収賄の容疑で逮捕される。

出典

佐藤栄佐久 - Wikipedia

前福島県知事の有罪確定へ ダム工事めぐる汚職事件 - MSN産経ニュース

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/121016/trl12101619020001-n1.htm

福島県発注のダム工事をめぐる汚職事件で、収賄罪に問われた前知事、佐藤栄佐久被告(73)と、収賄や競売入札妨害(談合)の罪に問われた実弟の衣料会社元社長、祐二被告…


どっちにしても、


原発再稼働で日本は終わる @kinmiraixx

東京湾の穴子から7万ベクレル検出。江戸前は終わった。せっかく水質が改善され江戸前が復活してきたのだが、今回は二度と戻らぬ放射能汚染。汚染魚介類を食すのは、江戸っ子の「粋」ではなく単なる「毒喰らい」に過ぎない。江戸前寿司に限らず、食するときは気をつけよう。

とか

東京湾岸と千葉が20トン劣化ウラン地獄に! 汚染の事実を知る内閣府官僚とイオンは千葉から脱出

とか

東京湾の放射能汚染状況はすさまじい!【海上保安庁・日本近海放射能調査結果263月】
http://sharetube.jp/article/1353/

アメリカ政府有名機関「赤坂や六本木に子供を連れての赴任は危険」と指摘⇒転籍中止の現実

http://sharetube.jp/article/3153/


いくらでも拾えるのですから 毎日、毎日…天気予報などに一喜一憂している状況にはないのです。

民放に登場するCO2温暖化論などに汚染された(意図的に嘘をついている可能性もあるのですが)インチキ気象予報士などの話などほとんど意味のない話である事が分かるのです(もっと本当に必要な重要な事実をしゃべれ!としか言いようがありません)。

最早、大学とか研究機関とか知的な集約型の産業は東日本には置くべきではないでしょう。

土建業者と産廃業者は元々国賊ですからどうでも良いでしょうが、賢い人間は臨海部を避け、できるだけ川上(上流部)に住み、どうせ産地偽装でしょうが、できるだけ沖合で採れる外洋性の魚を食べるべきでしょう。どっちにしても数百年間、福島はとうてい処理は元より、抑え込むことなど不可能で、法外な金で復興作業が行われている様に見えている(見せかけ)だけで、身体障碍者と知的障害者となった日本は膨大な復興費用を引き摺りながら、中国と言う凶暴な嘘つき国家と対峙しなければならなくなったのです。最早、日本はどうにもならない!ざまあみろ!最後はこの売国奴の金持ち連中も毟り取られるのです。


原発に旗を振った人間は恥を知れ!このさもしい人間が村興し町興し世界遺産登録に走ってもいるのです。

480 海から追われた大山祗命  “大分県玖珠町の三島神社”

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480 海から追われた大山祗命  “大分県玖珠町の三島神社”

20170421

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



あまり知られていませんが、日田から宇佐への間に玖珠町(JR豊後森駅)があり三島神社があります。

 それは、この神社が三島神社ではなく末廣神社と呼ばれているからかも知れません。


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末広神社への参道ですが登城道路ですね


末広神社(三島神社) カーナビ検索 大分県玖珠郡玖珠町大字森864 ℡0973-72-4792


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角埋山に角牟礼城があり森地名が存在する正に大山祗の本拠地です(意味は後述)


まず、大分県には所謂神社誌がないため、いつも見せて頂いているサイトからご紹介させて頂きます。


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末廣神社(玖珠町森)【訪問日】西暦2009111

【場所】大分県玖珠郡玖珠町大字森864番【祭神】天御中主神、大山積神

末廣神社は童話の里で有名な玖珠町森の角群山麓に鎮座する。神社周辺は三島公園として整備されている。

 神社正参道入口となる神社北側の清水御門。門に向かって左側の土手から年中涸れることなく清水が沸いていることからこの名で呼ばれる。豊後森藩久留島家は石高が少ないことから築城を許されずこの一帯を森陣屋として藩政を行っていたが、八代藩主久留島道嘉が神社改築を口実に城門に見立てたこの清水御門を始め、石垣や庭園、天守閣に見立てた二階建ての茶屋など大規模な造営を行った。

 創始は慶長六年(1601年)、瀬戸内海水軍村上氏の流れを汲む久留島氏が豊後森藩一万四千石に移封された際、出身の伊豫国一宮で大三島に鎮座する三島宮(現在の 【大山祇神社】 )を勧請して藩の守護神としたのが始まり。明治五年に当地方で以前から祀られていた妙見宮を合祀、翌6年には社名を末廣神社と改称した。

 拝殿に架かる神額。『日本総鎮守』とは、平安時代に朝廷から大三島の大山祇神社に下賜された号。本社の【大山祇神社】は古くより山、海を司るとともに戦の神としても崇められ、朝廷や武士から広く信仰された。…中略…本殿大棟には「折敷に縮三文字」の社紋。豊後森藩主久留島家も同じ紋を家紋としていた。以下…略載…


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豊後森藩の久留島氏と言えば元は伊予の来島水軍の頭目であり、豊臣時代に一万数千石の大名となっています。

秀吉の朝鮮出兵時に水軍の将として出兵し李舜臣と戦い兄弟で戦死しています。

 この来島氏は徳川時代に久留島と改姓し、伊予から九州の山中に移されこの豊後森の一万石ほどの小大名となっているのです。

どう考えても、豊臣政権下から始まる鎖国政策の延長上に海賊(水軍)を根絶し、徳川時代に入っても幕府が外国貿易を独占(鎖国)しようとしたことから排除された様に見えるのです。

熊野の九鬼水軍と同様に、久留島氏も海と切断された山奥に閉じ込められた事は間違いないようです。

 さて、末廣神社ですが「ぐんさん物見遊山記」にも書かれているとおり、元は三島神社でしかなく、それも高々四〇〇年程度のもので、祭神にしても在地神は天御中主命(これについは現在も末廣神社の正面に妙見社があることからも分かります)は明治期に持ち込まれたもので、元は大山積神(大山祗命)が単独で祀られていた事が分かります。

 では、参拝殿を見て頂きましょう。


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当初、大三島に天御中主神(白族)祭祀はないと理解していましたので大山積神(越智族)との祭祀には多少違和感を持ちましたが、考えれば母神(父神はウマシアシカビヒコチ)であることから氷解します。


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秋葉社は言うまでもなく金山彦であり輪遇突智命と書かれていますが、軻遇突智が輪遇突智と書かれているのは初見です。

しかし、豊後で宇佐八幡神宮の応神が絡んでいない神社は清々しい感じがします。

市杵島姫が姫大神で多少は嚙んでいるのですが、やはり、愛媛の大三島の大山祗神社が九州のど真ん中に持ち上げられた事から応神が進出する間がなかったのでしょう(この時期には応神の権威などない)。

 さて、ここまではどなたも理解して頂ける話ですが、ここから先は部分的にも百嶋神社考古学に触れた方でなければ理解して頂けない禁断の領域に入る事になります。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


ウマシアシカビヒコチは政治的配慮で隠されていますが、祭神の二柱(黄枠)と五社殿の五柱(青枠)が、大山祗系(実はトルコ系匈奴)と瀛氏、白族、スサノウ系の重要な神様が揃い踏みとなっています。

 詳しく見て行けば、この配神にも来島一族にとってはもっと深い意味があるような気がするのですが、今のところ分かりません。

 この話はここまでですが、大山祗系が実はトルコ系匈奴(ウマシアシカビヒコチ=伽耶金海の金越智)であるという事を百嶋先生から聴かされています。

 同氏は熊本県現和水町の江田船山古墳出土の鏡(象嵌太刀ではない)の文字(金石文)の解読から、この鏡を造った一族(典曹人…)がモンゴル高原から進出してきた人々である事を書き遺しています。

 そして、室、諸、群、無礼、牟礼…がそのメルクマールとなる事に気付いておられたのです。


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久留米の高良大社が鎮座する高良山はかつて高牟礼山と呼ばれていましたし、日向や薩摩から豊後大野一帯、周防の防府市一帯、国東半島…とこの「群」地名が数多く分布しており、これがシルクロード一帯で使われた集落、砦、村…に当たる概念でそれが村となっている事までもが見えて来るのです。


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そこで、冒頭の地図をご覧ください。来島一族が持ち込んだ後発の地名なのか、元々あった地名なのかは不明ですが、角埋(ツノムレ)山に角牟礼(ツノムレ)城が築かれているのです。


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久留島(来島)一族は肥前(長崎県)の彼杵郡大村藩(現大村市)にも入っていますが、この大村湾、大村藩自体が「群」(ムレ、ムロ、ムル、ムラ…)地名の「村」である事がお分かり頂けるでしょう。

 ここは、捕鯨の基地でもあったのですが、それ自体がそもそも来島水軍の統制の取れた軍事行動(艦隊行動)としての操船でもあったのです。

 だからこそ競艇大村ボートも置かれたのですが、ここで面白い事に気付きます。

 競艇発祥の地、大村競艇と言えば思い出すのは競艇日記の蛭子さん(今はバス旅タレント)ですね。

彼は天草牛深の出身で長崎の商業高校を出てガロで漫画家としてデビューしますが、百嶋神社考古学では恵比須さんは事代主命(古々代ヘブライ)になります。




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まさに恵比須顔

 静岡の三島神社は大山祗から事代主に替わりまた併祀されたのですが、恵比須さんの下剋上と表現されたのも百嶋先生でした。

 最後に大山祗と言う山の神様が何故伊予の大三島に祀られたのか、しかも、それがトルコ系匈奴とはとお考えの方がおられると思います。

 実は大三島の大山祗神社にも痕跡があるのですが、博多の櫛田神社の大幡主命という海人族を支配する神と陸上戦を支配する馬を使う大山祗との擬神体を形成しており、海軍と陸軍の統合軍の意味も備えていたのです。従って配下には海人族が支える構造が存在していたのです。


なお、ひぼろぎ逍遥 スポット088 大山祇神社史料が伝える孝霊天皇 安城市 山田 裕

をオンエアしています。これはメンバーの山田 裕氏による 伊予の三島の大山祇神社の精緻な研究ですので関心をお持ちの方はお読み頂きたいと思います。


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祭神として松尾社(大山咋)があることは気づきませんでしたが、また、参拝することもあるでしょう

 天御中主命と大山積神とは母と子に当たり、現在も、末廣神社正面に天御中主命を祀る神社が存在します。


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