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481 第三次奥出雲調査に行かなければならない

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481 第三次奥出雲調査に行かなければならない

20170429

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


スポット099 奥出雲の仁田調査に行かなければならない において島根県仁多郡の調査に触れました。

これまで雲南市には何度か入っていましたが、奥出雲町までは入っていませんでした。

ところが、物部氏でもその筆頭に掲げられる二田物部の避退、拡散、展開地が現奥出雲町だったのではないかと気づき、二泊三日、往復1100キロの第一次奥出雲町神社調査(4月の第4週)を行いました。

と言っても、島根県神社庁作成の奥出雲町神社一覧から、直接、五十猛(ニギハヤヒ)を祭神とする4社を拾い出し実踏するだけの事でしたが、戻ってくると、やはり全ての神社を見る必要があるとの思いがつのり、再び、三泊四日、往復1100キロの第二次奥出雲町神社調査(4月の第5週)を行いました。

まとまった地域とは言え、奥出雲町の全ての神社を実際に踏み、実見し収録してくる事はこれまでにも無い事であり、それだけでも面白い試みでした。

結果、35社ほどを踏み、全体像が掴めると、ある程度の纏まらないイメージが湧いては消え、消えては湧いてくる様になりました。

百嶋神社考古学では現出雲を古代出雲とはしません。

あくまでも博多の櫛田神社の大幡主が列島に展開した多くのエリアが出雲だったのであり、現出雲はその一つだっただけの事なのです。

大国主命もこの大幡主の配下で活動していた大山祗の子であり入り婿だったのであり、宗像大社の本当の祭神も大国主命であり(だから宗像の神殿には男千木が立っている)、大国主命も少彦名命も北部九州で活動していたのです。

それは、これまで述べてきたところです。


ひぼろぎ逍遥

177 大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越ながらも…

176 少彦名命とは何か?

115 宗像大社の本来の祭神とは何か?


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

067 少彦名命とは何か?

066 宗像大社の本来の祭神とは何か?

027 宗像大社は8世紀初頭まで三女神を祀っていなかった! “本当の祭神は大国主命”

021 宗像大社の祭神は三女神にあらず!!


今のところの認識は、通常出雲系と呼ばれる大幡主系氏族が、その理由は不明ですが、この奥出雲に移り住み、海岸部の出雲は近畿大和朝廷の占領支配を受け、テーマ・パーク化されたものと考えています。

 その結果、この奥出雲町には本物の大幡主(出雲)系の神々が凍結保存されているものと考えています。


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 こうして行った35社の神社調査(全て初見)でしたが、実は一社だけ見落としていました。


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どうやら、写真はカメラ店に委託して確保できるのですが、実見する必要はある訳で、再び出雲を訪れる時に奥出雲に入る事になりそうです。


スポット099 奥出雲の仁田調査に行かなければならない

20170407

この間「先代旧事本紀」巻第三 天神本紀 筆頭二田物部の拠点を求めて調査を進めてきた事はお話ししていますが、既に、二田物部の故地には二田類似地名とニギハヤヒ祭祀とが共存している事実を認識している事から、これをメルクマールとして二田物部の移動を探っています。

現在のところ、最も南の①熊本県熊本市植木町田底二田に二田神社が…②福岡県八女市星野村仁田坂、仁田郷があり天照国照彦…祭祀が…③福岡県久留米市田主丸町石垣二田に二田月読神社(猿田彦祭祀あり)…④福岡県久留米市田主丸町中心部に三夜様=月読神社(猿田彦祭祀あり)が…⑤福岡県小竹町新多が…この地こそ二田物部の最大拠点だったと認識する研究者は多い ⑥島根県太田市に全国最大の物部神社が存在している事は言うまでもなく⑦新潟県柏崎刈羽原発に近い西山町に二田があり物部神社が…さらに⑧秋田県潟上市天王字上江川に二田があり二田神社が存在している事まで確認してきました。

どうやら、日本海ルートで北に避退した二田物部が見えるのですが、島根県にはもう一つの避退地があった事に気付きました。


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それが島根県(出雲国)の仁多郡(ニタ)郡です。


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島根県神社庁/仁多郡奥出雲町 神社一覧を見ると


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仁多郡には五十猛を祀る神社が四社確認できます。これまでにも何度か入っていますがこの四社は未見の神社であり、現地を踏めば、物部の移動について何らかの痕跡を確認できるのではないかと考えています。

勿論、五十猛とはニギハヤヒの別名であることは言うまでもありません。

以前にも一度触れましたが、分かりやすい例がありますので再度ご紹介しておきましょう。

山陰本線五十猛駅、静間(ここも建葉槌命と関係がありそうですが)、太田市…と駅が続きますが、物部氏の最大拠点の傍に五十猛駅があることは象徴的ですらあります。


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482 ヤタガラス(豊国主)はなぜヤタガスなのか?

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482 ヤタガラス(豊国主)はなぜヤタガスなのか?

20170429

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 ヤタガラスは知らぬ人のない神代史のスター中のスターの神様ですが、ただ、なぜ、ヤタガラスと呼ばれているのかについてはあまり考えられていません。

まず、豊玉彦は豊の国に居たから豊玉彦と呼ばれているのです。

 勿論、三種の神器の八咫(ヤタ)の鏡があるのですから、多分それの意味だろう…とか、身近な人物の説としては、豊前は求菩提山の八天狗を念頭に八人の烏(ヤタリガラス)説までもあるのです。

 まずは、百嶋由一郎最終神代系譜からヤタガラスの系統を確認して頂きましょう。


482-1

まず、ヤタガラスは豊玉彦(豊国主、鴨建角身命、天太玉もその別名です)と呼ばれていました。

 勿論、通説に沿った解釈に従えば、以下のようになります。


豊国主の尊には多くの異名がある。

古事記では、豊雲野神

日本書紀では、本文…豊斟渟尊  一書の一…豊国主尊・豊組野尊・豊香節野尊・浮経野豊買野尊・豊国野尊・豊齧野尊・葉木国野尊・見野尊  一書の二…葉木国

異名が多いのは、丁度、大国主尊の異名が多いのと同様に、重要な神格であるからに違いない。

それ故、私はこの神が最初の人神だと考えているのである。豊国主というのは、個人名ではなく職名だろう。多くの異名の内の幾つかは、個人名であるかもしれない。この神は、日本列島内で初めて出現した国、即ち「豊国」の首長である。豊国は、さほど大きな国ではなく、その中心は福岡県行橋市周辺であったと考えている。 但し、関連地域はかなり広範で、北は山口県の豊北町から南は大分県臼杵辺り迄で、

後の豊前・豊後・長門を含んでいたように考えている。というのも、この地方が、大陸との交易の重要地域であるからである。 玄界灘と周防灘の間に関門海峡があるが、この海峡は潮流が早く、古代に於いて船舶の通行は困難を伴う場所である。それ故、潮待ちの場所として、洞海湾と行橋が、重要性を持っていたと考えるのである。

延喜式内社では、「豊国主」として祭った神社はない。「豊斟渟命」として祭られている。 主祭神として祭る神社には、「野神社」愛知県豊田市野口町水分日面226「比比多神社」神奈川県伊勢原市三ノ宮1468 がある。

www.interq.or.jp/www-user/fuushi/5-anc/yorozu/8a-b6-toyokuni.htm


482-2 非常に正確に書いておられます。「豊国主尊」で検索すれば直ぐに出て来ます。

 一つ上には「豊雲野神:玄松子の祭神記」があり、普通はこちらを引用するのですが、実に簡潔かつ明瞭です。

 問題はヤタガラスが豊国主と言えるかですが、これについて、百嶋神社考古学を受入れた人々には{見えて来るのですが、多くのファクターを理解していただけなければ納得して頂けないと思います。

 つまり、多くの事象を押さえてくれば、ヤタガラスが豊玉彦でありそう解釈すれば全体の説明がつくといった性格のものなのです。

ただ、下賀茂神社(賀茂御祖神社)「古事記」「日本書紀」には、賀茂建角身命を金鵄八咫烏(きんしやたからす)であるとはしています。

 金山彦がどこにいて、大幡主がどこにいてその妹の埴安姫がどこにいて、櫛稲田姫がどこで産まれその間に誰(鴨玉依姫)が産まれたのか?

 現在、下賀茂神社は、自分たちがお祀りしている玉依姫は神武天皇のお妃などではないと本当の事を主張されているようですが、賀茂伝承ではタケツヌミノミコト(建角身命)の娘で火雷神=大山咋と結婚し崇神天皇(別雷神)を産んだとされ、風土記などで豊玉姫の妹(ここで注意すべきは腹違いの妹であること)で、当然、豊玉彦=海神の娘や賀茂別雷神=の母などとして数多く登場します。

繰り返しになりますが、「山城国風土記」逸文の賀茂神社縁起(賀茂伝承)には、賀茂建角身命の子で川上から流れてきた丹塗矢によって神の子(賀茂別雷命)を懐妊した玉依比売(タマヨリヒメ)が登場します。


京都の下鴨神社(賀茂御祖神社)の祭神の玉依姫命も、有力な女神の1人だ。こちらは山の神の賀茂建角身命の娘である。「山城国風土記」逸文に出てくる賀茂神社延喜に、玉依姫命が鴨川で水遊びをしていると、上流から丹塗矢(ニヌリヤ)が流れてきた。その矢は、実は大山咋神の化身で、拾って帰り部屋に飾っておくとやがて身ごもった。そうして産まれた男の子が上賀茂神社の祭神の賀茂別雷神である。byコトバンク


 人は移動し神も人であった事から移動し、その後裔達は等しくその先祖神を祀ります。

そのようにして、神々の移動もおこるのです。豊国主とヤタガラスとの直接的交点(接点)は見いだせないのですが、唯一、神魂命(タカミムスビ)の孫とまではされています。

勿論、百嶋神社考古学では孫ではなく子なのですが、一応、ここまでは確認しておきましょう。


山城の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。

『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導し、金鵄として勝利に貢献した。

『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。

賀茂建角身命には建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)と建玉依比売命(建玉依姫命、たけたまよりひめのみこと)の2柱の御子神がいる。建玉依比古命は後に賀茂県主となる。建玉依比売命は、丹塗矢に化身した火雷神(ほのいかづちのかみ)を床の近くに置いていたところ、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと、上賀茂神社の祭神)を懐妊し出産した。


 ここからはヤタガラスが豊国主であるとした場合、何故ヤタガラスと呼ばれたかを考えて見ましょう。


 豊玉彦、豊国主とは文字通り豊国の主であり、九州の北東岸(北九州~大分)から山口の西部域(豊浦、豊北、豊田…)に掛けての支配者であったと言えそうです。

 さて、この豊の国には求菩提山という山岳修験の山があり「鳥居畑」という地名があります。


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「鳥居畑」とはヤタガラスが居た秦氏の地とのイメージがあり以前から気にしていました。

 この求菩提には山岳修験の濃厚な伝承があり、八人の天狗と大天狗像が残されています。


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この天狗集団は英彦山系の山岳修験と対立したからか肥前の八天神社などの修験集団になったと考えています。

ここでもう一度地名の話に戻しましょう。この豊前一帯には非常に気になる地名が拾えるのです。


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一つは、豊前市の中心部の八屋であり、今は同じ豊前市になりましたが、北隣の椎田町の東西八田と地図には出ていませんが、八津田という地名、湊地名(湊は秦氏の港)が拾え多くの正八幡宮があるのです。


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豊前に濃厚な「八■」地名が拾える事は、秦氏が住んで居たからかも知れませんが、普通に考えれば、豊国主=豊玉彦は八田に居た烏天狗だから俗称としてヤタガラスと呼ばれたのではないかと考えられるのです。

 では「八」とは何でしょうか?

 恐らく、秦氏の「秦」(ハタ)であり、その「ハタ」が「ヤタ」とも呼び換えられたのであり、簡略化された「八」がその表示となったものに思えます。

 従って、ヤタガラスとの呼称はこの豊前に居た時期から始まったのではないでしょうか。

 ここで冒頭の百嶋最終神代系譜をもう一度見て下さい。


482-7

ヤタガラスこと豊玉彦は、スサノウのお妃でもあった櫛稲田姫を妃にしています。

豊玉彦は伯母の子=従兄妹である櫛稲田姫をお妃とした事から、瀛氏の金山彦とより強い姻戚関係を結び秦氏の中心的存在となっています。

この金山彦は秦の始皇帝と姻戚関係を結んだのですが、その後先行して渡海し列島に移動しことからさんずい偏を付した瀛氏と呼ばれるようになったのです(始皇帝は贏氏)。

その後、秦も滅び、秦の臣民も王族も列島に移動して来たはずなのですが、それが秦氏であり、大幡主~豊玉彦と秦の始皇帝の一族との強力なスクラムが形成されたものと考えられるのです。

これについて詳しく知りたい方は、ひぼろぎ逍遥 159 秦の始皇帝と市杵島姫 外をお読み下さい。

 ついでに触れておきますが、この豊前市には山田という地名があります。

 山田とは京都の松尾大社の松尾大神、日枝山王権現、日吉神社、大山咋神に関連する地名であり、その子が贈)崇神天皇になっているのです。

 してみると、豊前市には後に下賀茂大社に祀られた豊玉彦の一族と、上賀茂大社の一族とが共に居たことになり、これらの人々が共に畿内へと進出した事が見えてくるのです。


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百嶋由一郎ヤタガラス神代系譜(部分)


 関連がありますのでヤタガラス系譜を見て頂きましたが、ヤタガラスはもとより、大山咋から贈)崇神まで二つ葵の神紋を使っている事が分かると思います。

 もしこれを二葉と見れば、豊前市の地図の青○の「二葉」という地名も関係性があるのかも知れません。


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483 豊前市の角田八幡宮は紀州の隅田八幡宮になったのではないのか?

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483 豊前市の角田八幡宮は紀州の隅田八幡宮になったのではないのか?

20170427

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 日田市から耶馬溪を経由し山国川を降り、大分県の中津市から福岡県豊前市を抜け関門から本州へと向かう事が多くなってきました。

その豊前市の北、椎田町との境に近い椎田道路の入口に気になる八幡宮があります。

通常、近畿大和朝廷に直結する八幡宮については、正八幡宮(本物の八幡)を例外としてあまり取り上げていませんが、良く手入れされた同社には思わず心が惹かれてしまったというのが実感です。


483-1

角田(スダ)八幡宮 カーナビ検索 福岡県豊前市中村567



祭神については後で考えるとして、この神社を取り上げた理由は、言うまでもなく隅田八幡宮人物画像鏡で知られる和歌山の隅田八幡宮を念頭に置いての事です。

 まず、角田神社、角田八幡宮なる神社は東大阪、北海道を始め幾つかあるのですが、この角田八幡宮は博多の櫛田神社の大幡主が祀られる正八幡宮であったと考えられる白族と言うよりも忌部の八幡宮であったように見えます。


483-2

言うまでもなく、豊前は秦氏=忌部=大幡主+豊玉彦の領域でした。

忌部はこの地を拠点に、讃岐、阿波、紀州へと移動した事は知られています。

 それが、熊野の神々であり熊野は熊本同様に隈の置換えでもあり隅田八幡宮の「隅」でもあるのです。

 隅田町真土があり北には龍王神社(これも豊玉彦=ヤタガラスなのでしょう)が鎮座しているのです。

 真土とは真の人々が住み着いた土地に見えますが、秦氏は秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ白族、瀛の一族、そして後には(秦そのものも滅び)その王族も豊前に入って来ているはずなのです。


483-3

483-4豊前の角田八幡宮の縁起にも「…幸人(シンノヒト)神祀を此地に建立して…」と出ています。

 そもそも角田八幡宮の鎮座地は「中村」であり、それだけでも橘一族(豊玉彦)との繋がりを感じさせますし、「福岡県神社誌」冒頭には「大字中■字小細」としていますが、誤植でないとしても、「中」は「那賀」「那珂」であり豊玉彦の領域を感じさせます。また、「小細」も大分の大在、小佐井、豊前市にも石清水八幡系の石清水田中家の紀氏の領地が点在しており、ここもその一つだったのではないかと考えています。

 いずれにせよ、そもそも紀州は紀氏の国である事から紀州なのであり、隅田八幡宮が鎮座する橋本市も濃厚な紀氏の領域なのです。

 豊前は、本来、大量の秦氏が住み着いた領域であり、紀氏もその一部だったのですが、多くの氏族、民族が入れ替わり本来の氏族が見え難くなっているようなのです。

 元は若宮こと仁徳(実は高良玉垂命と神功皇后との間に産まれた長子)が祀られていたという事からも、隅田八幡宮人物画像鏡は九州王朝のものなのです。


483-6


嚴島神社 山王神社 今宮神社 竃神社 八島神社 天満神社 大将軍神社 若宮神社 高良神社 松尾神社 諏訪神社 春日神社 若一王子神社 八王子神社 八坂神社 武内神社 猿田彦神社 天照皇大神宮 一言主神社 岩倉神社 稲荷神社 琴平神社


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隅田町芋生は製鉄、冶金の鋳物師の住み着いた地に見えますが、「真土」はそう見えます。

 一方、豊前の角田八幡宮の縁起にある比咩大神(素戔鳴命)の姫とあるのは宗像三女神であり、現在の宇佐八幡宮の比売大神に対応するものでしょう。

 そもそも豊の国とは博多の櫛田神社の大幡主の領域であり、その子であるヤタガラスは豊玉彦とも呼ばれています。

 勿論、豊の国を支配していたから豊玉彦と呼ばれていたのです。

 さて、角田八幡宮には仁徳天皇が祀られています。そして境内には二つの摂社が置かれています。始めは、この二つの一社が仁徳天皇(高良玉垂命=開化天皇と神功皇后との間の長子)であり、もう一つが高良玉垂命ではないかと考えたのですが、「福岡県神社誌」(下巻294296p)によれば須佐神社(須佐能男尊)、琴牧神社(大物主神、崇徳天皇)とあります。

 ただ、「福岡県神社誌」がそう書いているとしてもその想定が全く間違いとも思えないのです(これは国東の神社群を見た経験からそう思うだけの事で今のところ根拠のない所謂カンの類です)。


483-10

「福岡県神社誌」(下巻294296p)によれば須佐神社(須佐能男尊)、琴牧神社(大物主神、崇徳天皇)


 一方、和歌山の隅田八幡宮には高良神社と若宮神社が祀られています。

 残念ながら高良神社の写真はないのですが、若宮(高良の若宮)の写真はあります。


483-11

和歌山の隅田八幡宮の境内摂社若宮


ここで、和歌山の隅田八幡宮の境内摂社祭神を対応するかどうか試みて見ましょう。


誉田別尊 足仲彦尊 息長足姫尊


嚴島神社 山王神社 今宮神社 竃神社 八島神社 天満神社 大将軍神社 若宮神社 高良神社 松尾神社 諏訪神社 春日神社 若一王子神社 八王子神社 八坂神社 武内神社 猿田彦神社 天照皇大神宮 一言主神社 岩倉神社 稲荷神社 琴平神社


 かなりの対応を示していますが、決定的と言うほどのものでもないようです。


483-12

隅田八幡神社人物画像鏡

隅田八幡神社人物画像鏡(すだはちまんじんじゃじんぶつがぞうきょう)は、和歌山県橋本市に所在する隅田八幡神社が所蔵する5 - 6世紀頃製作の銅鏡。鏡背の48字の金石文は、日本古代史、考古学、日本語史上の貴重な資料である。国宝に指定されている。…中略…

古代日本において大王号を記す金石文としては稲荷山鉄剣銘、江田船山鉄刀銘があり、この人物画像鏡も大王号がいつ頃から使われたのかを知る手懸かりになるものである。また、いつヤマトの王が大王と称されるようになったかを解明する手懸かりになるものの一つとして注目される。…中略…

「大王」の「大」、「男弟王」の「男」など、必ずしも釈読の定まらない文字が多く、銘文の内容についても異説が多い。また「癸未年」がいつに当たるかについては多くの説があるが、西暦443年とする説、503年とする説が有力である。いずれも、斯麻(しま)、開中費直(かわちのあたい、河内直、『百済本記』云、加不至(カフチ))、今州利はそれぞれ人名と解釈されている。

ウィキペディア(20170429 08:10による


「隅田八幡神社人物画像鏡」の40字の解読については、古田武彦による「日十大王年」説や元九州古代史の会の兼川 晋と坂田 隆の説が先行して存在するが、さらにそれらを融合し金石文の解読から九州王朝の存在を証明しようとする画期気的な発表が某氏によって久留米米大学の公開講座(九州王朝論)で行われているがここでは触れない。

 こうした先進的な研究も、本も出さずネット上にも露出しなければ、現代においては存在しないのと同義であり、時代の流れに埋もれ、再びでたらめな通説派が生き延びて行くだけになる事でしょう。

484 牛に曳かれて善光寺詣り

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484 牛に曳かれて善光寺詣り

20170501

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


信州信濃の善光寺と言えば知らぬ人のない列島を代表する古刹中の古刹ですが、この神社の紋章をご存じでしょうか?


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『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました。


484-2

この善光寺が無宗派の寺として知られています。

それは現在においても引き継がれ、宗派、男女の区別なく全国各地から参拝者が訪れています。

大勧進と大本願が、善光寺の住職として勤めており、大本願=お上人は尼僧で、男女の差別はないようです。住職は天台と浄土宗が多いのでしょうか、浄土宗の僧侶は尼僧で公家の出の人とされているとも聴きます。

 この善光寺には二度ほど足を運んだ記憶があるのですが、人の多さに圧倒され、早々に退散し、実際には周辺の寺や神社に足を延ばす事ばかりでした。

 さて、本題に入りましょう。善光寺には菊の御紋もあるのですが、ここには右離れ立ち葵の紋章が使われているのです。


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見落とされた方に、再度、お見せしましょう


484-4多少の宗派性は認められるものの善光寺には、宗派、男女、貴賤を問わず、無差別、平等の寺との伝統があることは間違いが無いようで、その理由は、奈良仏教(南都六宗派)、平安仏教(比叡、高野山)以前に善光寺が成立していた可能性があるからではないかと考えています。

いずれにせよ、善光寺は一生に一度訪れれば、往生がかなうと信じられています。だからこそ全国から参拝者が毎年大勢訪れる列島を代表する寺になったと言えるでしょう。


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百嶋由一郎神代(ヤタガラス)系譜


 これで、善光寺の性格が見えてきたと思います。

 博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神の妹の埴安姫と大山祗=コノハナノサクヤヒメの父神との間に産れた神大市姫=罔象女神=ヤタガラスのお妃の後裔が善光寺を支えている事がお分かり頂けたと思います。

485 天香香背男(アメノカガセオ)を祀る神社 大分県編 ① 佐伯市の星宮神社

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485 天香香背男(アメノカガセオ)を祀る神社 大分県編 ① 佐伯市の星宮神社

20170505

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久



現段階で長脛彦を祀る神社と考えている神社が九州にも十社近くあるようです。

 それは、「神奈備」氏によるもので、「天香香背男」と「神奈備」とでもダブル検索すれば、直ぐにそのデータが拾えます「天香香背男命を祀る神社一覧」…。

 これまで「岐神」(クナトノカミ)とか「長脛彦」(ナガスネヒコ)として探していた事から拾えなかったのですが、この「天香香背男」という北関東などを中心とする神名として無視していたもので検索すると、九州でもこの神名で存在する事に気付いたのでした。

 そこで、押っ取り刀でゴールデン・ウィークの最中、一路、佐伯市に向かったのでした。


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天香香背男命を祀る神社一覧


福岡県浮羽郡吉井町大字福益1358 熊野神社摂社三光神社「天照皇大神 配 月讀神、天加賀世男神」

佐賀県鹿島市大字三河内丙1 三嶽神社「廣國押建金日命 合 星神ほか」

熊本県阿蘇郡南小国町赤馬場2364 冠神社「阿蘇大神 合 大年神、星神」

大分県佐伯市大字鶴望2421番地 星宮神社「香香世男大神ほか」

大分県佐伯市大字守後浦44番地 産靈神社「天香香背男神」


早速、ひぼろぎ逍遥 474 筑後にも長脛彦を祀る神社が存在していた “福岡県うきは市吉井町熊野神社”において、摂社三光神社を報告しましたのでお読み頂いた方もおられると思います。

 まだ、祭神云々の話に踏み込むだけの蓄積がないためここでは基礎調査を行っているだけです。

 実は、数日前、黒川温泉に近い熊本県南小国町の冠神社を見て来ました。

お見せするのも憚られる粗末なというか祀る人を失った神社でしたので、報告は差し控えますが、どのような地区にこの特異な神社が分布しているのかという実見の蓄積によって、神社を分析する事も少しずつ上がってくるものなのです。


天香香背男

『古事記』には登場しない。『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する。

本文(上述)では、経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかった[7]。そこで倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている[8][9]

…中略…

第二の一書では天津神となっている。経津主神と武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている。

鹿島神宮や静神社の社伝によれば、武甕槌命は香島(723年に鹿島と改名)の見目浦(みるめのうら)に降り(現在の鹿島神宮の位置)、磐座に坐した(鹿島神郡の要石とも)。天香香背男は常陸の大甕(現在の日立市大甕、鹿島神宮より北方70km)を根拠地にしており、派遣された建葉槌命は静の地(大甕から西方約20km)に陣を構えて対峙した。建葉槌命の陣は、茨城県那珂郡瓜連(うりづら)町の静神社と伝えられる。

「カガ(香々)」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる。神威の大きな星を示すという。平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。

星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。 しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。

全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。

天津甕星を服従させた建葉槌命(タケハヅチノミコト)は、天羽槌雄神と同一視されることもある。

茨城県日立市の大甕神社は、建葉槌命を主祀神とする(一説には素戔嗚尊とも)。 同神社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男が化したものと伝えられている。

葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方神と同一神とされることもあり、また、神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。

ウィキペディア (20170505 18:51による


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百段足らずの参道階段を登ると、真新しい参拝殿神殿がありました。


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祭神は香香背男大神(星のことをいう)ほか六神とありますが、この六神は明治以降の合祀のようです。

脇区内から天満社、富尾社(トミノナガスネヒコを思わせますね…)、水天宮の三社、星宮区内から聖社、藤原区内から牛王社、高畑区内から山王社 と書かれています。

 合祀された神社であり、逆に言えば中心的な神社だった事が分かります。

 藩の庇護を受けたことはまず間違いないでしょう。

 それは、直ぐ隣に神宮寺と思える臨済宗妙心寺派海福寺があったからです。


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実は、数日前、熊本県阿蘇郡南小国町赤馬場2364の 冠神社も見て来ました。

既に祀る人を失ったような神社でしたのでお見せしませんが、阿蘇大神に大年神と星神を合祀する神社は確実に存在していました。

 なお、再掲(下記)した玄松子氏のリストの外に、…

福岡県浮羽郡吉井町大字福益1358 熊野神社摂社三光神社「天照皇大神 配 月讀神、天加賀世男神」

佐賀県鹿島市大字三河内丙1 三嶽神社「廣國押建金日命 合 星神ほか」

熊本県阿蘇郡南小国町赤馬場2364 冠神社「阿蘇大神 合 大年神、星神」

大分県佐伯市大字鶴望2421番地 星宮神社「香香世男大神ほか」

大分県佐伯市大字守後浦44番地 産靈神社「天香香背男神」


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薩摩半島に岐(クナト)の神を発見した ② “鹿児島県出水市野田町の熊野神社”

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薩摩半島に岐(クナト)の神を発見した ① “みなみ薩摩市坊津の船戸神社”


の二つをひぼろぎ逍遥(跡宮)に掲載しています。

こちらは、天香香背男との表記ではありませんが、出雲大社の東数百メートルの出雲井神社と同様の岐(クナト)神と考えています。


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スポット135 ドライブ・レコーダーは日本の「恥の文化」を再生するか?

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スポット135 ドライブ・レコーダーは日本の「恥の文化」を再生するか?

20171019

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


戦後持て囃されたベネディクト女史による「菊と刀」という本があります。

元々、対日戦争目的で米国CIAから委嘱された日本人(日本国)研究によるもので、世界でも特異と思われている日本人(日本)の国民性を解析したとされる評価の高い研究とされているものです。


『菊と刀』は、ベネディクトの戦時中の調査研究をもとに1946年に出版された。ベネディクトは、フランツ・ボアズより教わった急進的な文化相対主義の概念を日本文化に適用するべく、恩や義理などといった日本文化『固有』の価値を分析した。本書は戦争情報局の日本班チーフだったベネディクトがまとめた5章から成る報告書「Japanese Behavior Patterns (日本人の行動パターン)」を基に執筆された[1]

倉智恒夫によれば、『菊と刀』の認識パターンは、フランス人のルイ・カザミヤンによるイギリス論、『イギリス魂-その歴史的風貌』(1927年、現代教養文庫)と共通するものがあるという。なおカザミヤンについては島田謹二の研究(白水社)がある。ほかに訳書は『大英国』(白水社)、『近代英国』(創文社)がある。

ベネディクトは、日本を訪れたことはなかったが、日本に関する文献の熟読と日系移民との交流を通じて、日本文化の解明を試みた。『菊と刀』はアメリカ文化人類学史上最初の日本文化論である。

『菊と刀』は日本文化の価値体系の独自性を強調する。しかし、懐疑する傾向も見られる。すなわち日本文化が西洋文化とは対極の位置に置かれていることに、批判の目が向けられている。また、日本の文化を外的な批判を意識する「恥の文化」と決め付け、欧米の文化を内的な良心を意識する「罪の文化」と定義したことへの批判もある。

ただ、ベネディクトは教え子たちに「『菊と刀』はあまり読まないように。」と言ったとも伝わる。

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ルース・ベネディクトの研究はアメリカ向けのものであり、戦争に勝つための情報戦の一部であり、決して日本人を正しく分析したものとは言えないのでしょう。

ただ、全軍突撃命令が出て大半の日本軍兵士が玉砕したにも拘わらず、不思議にも、命令に反していち早く投降し、食に与った日本軍兵士の一群もあり、それを良く調べると、大阪辺りの兵士で「俺=ワイは日本人じゃない朝鮮人だ…(在日といっても日本併合下=日本編入下の朝鮮であり、一応、当時は日本人なのですが…)。

といった話は良く聴いており、ここら辺りに民族性、国民性を考えさせる部分があるのです。

少し拾って見ましょう。


柩(ひつぎ)を作るのを手伝った人は、もてなしを受ける。だからその人は、ふるまってもらう食事の一部なりとも負担しようと、遺族のところにいくばくかの米を持参する。


人前で嘲笑されたり拒絶されたりするか、そうでなければ、嘲笑されたと思い込むことが恥の原因となる。いずれの場合も、恥は強力な強制力となる。しかしそれが作動するためには、見られていることが必要である。


私は礼儀作法を完璧に身に付けていることを誇りとしていた。日本人ならだれでもそうであるように。ところが誇りはひどく傷つけられた。ここアメリカに来てからはどうすれば礼儀正しく振る舞えるのか分からず、自分で自分に腹が立った。また、周囲に対しても怒りを覚えた。


所謂、日本人論というものが流行った時代もあったのですが、中でも先鞭をつけ脚光を浴びたのは、「日本人とユダヤ人」のイザヤ・ペンダサンこと山本七平氏だったでしょう。


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さて、戦後の経済復興期はともかくとして、共同体そのものであった農村経済の過剰労働力を都市に送り込み続けた地方=故郷=親元では(要は資本家だけに都合の良い家族や共同体の解体だったのです)、ベネディクト女史が言った「恥の文化」が残っていたのですが、それ自体は徐々に小さくなり、都市部では“隣に住んでいる人が誰なのかも知らない”と言った共同体無き社会が拡がり続けて来たのです。

結果、都市部では「旅の恥はかき捨て」といった状態が静かに遍く広がり、「恥の文化」がほとんど機能しなくなってしまったのでした。

勿論、全国性を持った企業とか単独でも大きな企業とかいった中では「恥の文化」は機能しており一概には言えないのですが、都市化が進めば進むほど「恥の文化」が機能しなくなるとまでは言えるのではないかと思うものです。

特に酷いのは、通常、自らが住む地域から外れて広域で移動する車社会に於いては、地域とか自らが所属する企業と言ったものから分離、遊離し、殆ど「恥の文化」が機能しなくなっていたのでした。

ところが、「このハゲー」で、一世を風靡した元自民党の豊田真○子議員のICレコーダー音声公開に


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続き、今回の東名高速両親死亡事故問題の煽り男(あくまで被疑者ですので、一応、名は伏せますが)を公にして暴いたドライブ・レコーダーの普及(一般化)は、本質的には意味は異なるものの、「恥の文化」を機能させる「世間の目」を復活させる大きな役割を果たす可能性が出て来ているのです。

まず、経験的に言えるのですが、普段に目にする道交法無視の幅寄せ運転、煽り運転、危険運転をやっているのは、傾向として黒塗りの車に乗りたがり(これ自体が警察車両とか自衛隊車両といった強い物=者に憧れる権力志向型の弱者なのですが…)、同時に777,888333…ナンバーを好む(一目でパチンコしか娯楽がない頭が空っぽなその手の人間と分かる)在日系の土建屋、産廃業者などで、個人的には20年ほど前から、黒塗りの車が来たらパトカー同様に警戒するという習性がしみ込んでいます。

1970年代までは、自家用車の大半が白、メタリック系が殆どで、それほど、黒塗りの車を好む傾向が増大しているのです。

この手の人間は、ヤクザ同様の思考性、指向性、嗜好性を持っている者と考え、それだけである種の選別、人物判断を行うメルクマールとして利用しています。

話を戻しますが。


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勿論、かつては「国民総背番号制化」「監視カメラ」肖像権の侵害とか監視社会化とか危機が叫ばれたのでした。しかし、それは構成員が均質で、同じような行動様式を示す人が大多数派を形成していた時代の話であって、これが破れた社会(在日、外人を多く含む都市住民が大半になった)に於いては、最早、後戻りができない所まで来てしまっていたのでした。

特にジョージ・オーウェルの「アニマル・ファーム」(動物農場)を読んだものとしては、ソ連邦の秘密警察による徹底した監視社会(中国も同様ですが…)への抵抗を標榜していた訳で、このような人権と監視、人権と安全とは絶えず裏腹の関係にある訳で、逆に、日本における警察の取り締まりから尋問に至るまで、ICレコーダーや極小型の音声画像の収録機材を持たないと警察の任意の聴き取りも危険な時代となっており、逆に警察自体がそれらの機材を取り上げて尋問を始める事にもなりかねない時代に入っているのです。

勿論、さらに目立たない小型の収録機能を持った物が開発されるでしょうから、結局は江戸時代のいたちごっこ(ねずみごっこ)になるのですが。

ここで、考えるのが監視社会への急速な移行です。


動物農場


『動物農場』(どうぶつのうじょう、原題: Animal Farm)は、1945817日に刊行されたジョージ・オーウェルの小説。動物たちが飲んだくれの農場主を追い出して理想的な共和国を築こうとするが、指導者の豚が独裁者と化し、恐怖政治へ変貌していく過程を描く。スペイン内戦に自ら参加した体験を持つオーウェルが、人間を豚や馬などの動物に見立てることで20世紀前半に台頭した全体主義やスターリン主義への痛烈な批判を寓話的に描いた物語である。

ウィキペディア(20171019 18:01による


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ジョージ・オーウェルはスターリニストに占拠されたソビエト共産党下のソ連邦を念頭に、情報統制社会を描いたのですが、現在のアメリカに於いても、民主化された社会、人権国家などと言うのは大嘘の幻想でしかなく、新聞からTVから有線放送、ラジオ、映画に至るまで、監視下に置かれている訳で、その最たるものがインターネットによる情報収集なのです。

ご存じの、「2チャンネル」「阿修羅」とか反政府、反社会的な言動もどんどん書き込めるサイト自体がゴキブリホイホイそのものでしかなく、全ての危険思想を持つ人々を集める誘蛾灯となっているのです。

それ以上に、携帯電話やネット上の全ての情報が集められているのであって、ソ連や中国だけが監視社会という訳ではないのです。勿論、日本政府の情報も全てアメリカの監視下にあるはずなのです。

ともあれ、ICレコーダーによる音声のネット上の拡散とかドライブ・レコーダーの画像のネット上の公開というものは、一面、喪失して久しい「恥の文化」の一部の再構築といった効果を持つ可能性がある事に気付くのです。

まず、あまり知られてはいないのですが、タクシーは全てドライブ・レコーダーで常時、収録されており、その移動ルートさえも自動的に記録されているのです。

これ無くしては、タクシー会社も防衛ができないのです。

ところが驚くことに、思わぬ副産物としてタクシー・ドライバー自体のマナーの向上が生まれ(監視されているため辛い事は十分に理解できますが)、客とのトラブルにも対抗できるようになっているのです(知らぬは乗客ばかりなりなのです)。

従って、一般の車両に於いてもドライブ・レコーダー登載車両の人は運転マナーが良くなると言う良い効果が生まれているのです。

これについては方々に設置されている監視カメラも同様の機能を持つ物であり、共同体が解体してしまった以上、これらが、直接、政府管理とか警察管理といったものではなければ容認せざるを得ないのではないかと思うものです。

それでなくても、韓国人、中国人、在日、在特も含めたその他外国人による犯罪の増大が予測される状況にある訳で、背に腹は替えられないと言ったところまで来ているのです。

既に、日本のヤクザは取締りが強化され、パチンコ業界まで風前の灯といった状況になっていますが、反作用として外国人のゴロツキ集団に日本のヤクザの組織が追い捲られている状態にあるのです。

つまり、人手不足と少子化の中、ヤクザの後継者も少なくなっており、ゲームお宅や度胸のない連中ばかりになっている事から、悪質な中国人、韓国人ゴロツキにも対抗できなくなり始めているのです。

いずれ、パチンコ業界は劇的な沈滞を迎えるはずで、代わってカジノが横行しアメリカのマフィア(ロックフェラー系)に支配される水先案内人になっているのが、平成維新とか叫んでいる新興の第2与党を目指す関西の在日集団なのです。

話が逸れましたが、日本人の「恥の文化」といったものは、簡単に(裏返て)言えば、“人の目さえ無ければ恥ではない”という脆弱な基盤の上に成立していた物です。

その証拠に「旅の恥は掻き捨て」とばかりに伊勢参りの無礼講(ジョロカイ=女郎買い)も存在していたのです。

このように、日本人の「恥の文化」とは西洋流の宗教的価値観に基づく絶対的規範ではなく、「人様の迷惑にならない様に生きなければならない」「人様に後ろ指を指されない様に生きなければならない」「親の顔に泥をぬるような真似だけはしないでくれ」「人から笑われないような生き方をしなさい」といった「人の目」を気にする相対的規範に基づく文化であった事から、「人の目」の再構築無くしては日本人の文化の維持もままならない状態にあった訳で、車社会、都市化といった「世間の目」「他人の目」が追いつかない事による社会の劣化はどうしようもない崖っ淵に直面していたのです。

総選挙などどうせ不正選挙ですからどうでも良いのですが、実に豊田真○子様には感謝感激といった劇的効果を上げ、これで理念など全くなく利権とエゴだけの糞議員どもも少しは身を律する可能性が出てきたかも知れないのです。勿論、糞議員の資質の向上など期待している訳などではなく、所詮、焼け跡に焼夷弾の類の話でしかないのですが。

果たして、ドライブ・レコーダーが「人の目」にまで成長してくれるかどうかまでは分かりませんが、どうやら、危険極まりない無政府状態になり始めていた日本社会でしたが、多少の光明と言えば言えるのかも知れません。

数十年後、豊田真○子と幅寄せ男のI氏は、列島文化の再構築の切っ掛けとして、急速にICレコーダーやドライブ・レコーダーを普及させた功労者として銅像が立つことになるかも知れません。

これまで、絶対的規範は元より、「人の目」「他人の目」「世間の目」と言う相対的規範しかを持ってこなかった列島人は、ここに来て、ようやく失って久しかった「他人の目」を意識するようになり、代わりになる物を再建できることになったのかも知れません。

最低でも、「幅寄せ男」による危険運転による報道が連日行われて以降、多少ともドライブ・マナーが良くなったような気がするのですが、気のせいかも知れません。

日本人とはこのように従順で争いを避ける人々だった訳で、だからこそ大陸や半島から逃げて、箱庭のような平和な社会を創り上げたのでした。

再び新倭国、新日本国を造るために逃げ出すべき天地を探さなければならなくならないように願います。


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スポット136(前)  No.17 長髄彦の反乱と鬼門荒神 (宮原誠一論文のご紹介)

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スポット136(前)  No.17 長髄彦の反乱と鬼門荒神 (宮原誠一論文のご紹介)

20171019

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


既に、スポット 101 飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か? “鳥見の長脛彦は飯塚にいた”

20170515)として福岡県飯塚市の高宮八幡宮に長脛彦が居たのではないかという仮説を提出しました。

これをどのようにお読みになったかは皆さんのご判断になりますが、この神社に同行されたメンバーの宮原誠一氏が同神社に関して新稿をアップされていますのでsp131-1、宣伝の意味でご紹介致します。

宮原氏は、私が取り上げなかった別の側面からさらに深いアプローチを試みておられ、このような異論の衝突、混淆、対抗こそが研究をさらに一層掘り下げ深化させるものと考えています。以下全文掲載。


宮原誠一の神社見聞牒(017)

平成29(2017)0804

No.17 長髄彦の反乱と鬼門荒神


1.福岡県飯塚市伊岐須の高宮八幡宮

「ひぼろぎ逍遥」管理人古川清久氏と5月に飯塚市伊岐須(いきす)の高宮八幡宮を訪問し、この神社の性格について調査を試みた。

「伊岐須」という変わった地名の高台に高宮八幡宮は鎮座している。出発前、地名からして、彦火々出見命の「伊の大神」、長髄彦の「岐(くなと)神」、素戔嗚尊の「須佐」が関連して付けられた地名と想像していた。廻りには「伊」がつく地名が多い。

詳しくは、ひぼろぎ逍遥 20170619日 スポット 101 飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か?“鳥見の長脛彦は飯塚にいた” 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川清久 の報告を参照されてください。

神社の社殿、祭神、境内社、そして廻りの地形・神社をみていると祭神の入れ替えが想定できた。上古は素戔嗚尊・長髄彦、次に天忍穂耳命による貴船神社の高淤加美神、次に大山祗・大国主、次に彦火々出見命(ニギハヤヒ)関連の物部氏、最後に八幡神の上塗りと想定した。

素戔嗚尊・長髄彦親子は、ここ飯塚市一帯におられたことがあるようだ。もともと、上古の豊前から筑豊にかけては新羅系氏族、素戔嗚尊の支配領域である。ここに、岐神である長髄彦の所在を想定できた。境内で思いを巡らせている時、気になったのが、岐神、「くなとのかみ」という文字と読み方である。すんなりと受け入れることが出来なかった。


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福岡県飯塚市伊岐須の高宮八幡宮


2.岐(くなと)神とは

素戔嗚尊(すさのおのみこと)の家系には名前に「岐(また)」がよく付く。


 伊弉諾命(いざなぎのみこと) 伊邪那岐命『古事記』 素戔嗚尊の父

 素戔嗚尊(すさのおのみこと) 速岐神(はやまたのかみ)

 長髄彦(ながすねひこ)    岐神(くなとのかみ) 素戔嗚尊の子

 神俣姫(かみまたひめ)    素戔嗚尊の姉


「岐」という漢字は、一般的には「わかれる」別れ道、と捉えられることが多い。これは状態を意味しているのであって、動態の意味として「別れ道であるが故に踏み止まる」という意味を持つ。拡大解釈をすれば、「岐」という漢字は次のように使える。


 「岐(くなと)」 ->「来な人(くなと)」 来てはいけない人

 「岐門(くなと)」「岐戸(くなと)」->「通ってはいけない所」


(くなと)神とは「来てはいけない神」なのである。


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飯塚市伊岐須の高宮八幡神社


3.伊邪那岐命と岐神

日本書紀における「岐神」の記述

日本書紀「神代上」第五段一書第六 省略解釈

「イザナミから逃げるイザナギが黄泉津平坂(よもつひらさか)で、『これ以上は来るな』と言って杖を投げた。これを岐神(くなとのかみ)という。」

杖は村の入口や岐路に立てられて邪悪なものの侵入を防ぐ役をした。


「日本書紀における『岐神』の記述」では、イザナミとイザナギの立場が入れ替わっているように思える。逃げるのはイザナミである。イザナミはイザナギと離縁し、大幡主のもとにやって来る。そして、追いかけてきたイザナギに杖を建て侵入を防ごうとした。岐神(くなとのかみ)はイザナギであった。

伊邪那岐命の名の由来であるが、伊都国()、奴国()、邪馬壹国()には入れない神、つまり、福岡県筑豊西部から西方面の九州北部沿岸地方には入ってはいけない神という意味になる。どうしてそういう意味なのか分かりません。次ぎの祝詞(のりと)にも関係してきます。

イザナギについては、まだ不名誉な記述がある。有名な御祓いの祝詞(のりと)である。


祓詞(はらえことば)

「掛()けまくも畏(かしこ)き 伊邪那(いざな)(ぎの)大神(おおかみ) 筑紫の日向の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿()()()(はら)に 御禊(みそぎ)(はら)へ給(たま)ひし時に生()り坐()せる祓(はらえ)()の大神(おおかみ)(たち) 諸諸(もろもろ)の禍事(まがごと) 罪 穢(けがれ) 有()らむをば 祓へ給ひ 清め給へと白(まお)す事を 聞こし食()せと 恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(まお)す」


祓詞(はらえことば)を解釈すると、


「伊邪那岐命は筑紫の小戸の阿波岐原にて、祓戸の大神達の「禊祓」を受けている。

立ち会った祓戸の大神達は、自らの身辺を「祓へ給い清め給へ」とお願いしている。」


と解釈できる。この時、伊邪那岐命が受けた「禊祓」とは、どういう状態を言うのであろう。

私には伊弉諾命が罰を受けているように思える。伊弉諾命は何か悪いことでもしたのであろうか。そして、その処罰に祓戸大神たちが立ち会った。祓戸大神たちは誰に「祓へ給い清め給へ」とお願いしたのであろう。それとも、自ら自浄能力を持ち合わせていたのであろうか。


祓戸大神(はらえどのおおかみ)は次のように解釈されている。

① 気吹戸主(いぶきどぬし)

速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して

根の国・底の国に息吹を放つ

② 瀬織津比売(せおりつひめ)

もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す

③ 速佐須良比売(はやさすらひめ)

根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う

④ 速開都比売(はやあきつひめ)

海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む


祓戸大神を百嶋神社考古学は次のように解明する。


 ① 気吹戸主(金山彦)

 ② 瀬織津比売(櫛稲田姫)八十枉津日=市杵嶋姫という説もある。

 ③ 速佐須良比売(鴨玉依姫=神直日)

 ④ 速開都比売(万幡豊秋津姫)


これらの神々は豊玉彦を中心とした神々であることに特徴がある。

「百嶋神代系譜・素戔嗚尊・御年神・豊城入彦 神代系図(6)」を参照のこと。

伊弉諾命は九州北部沿岸の西部の国で何が原因で、咎(とが)められたのであろうか?


4.長髄彦と岐神

日本書紀における「長髄彦」の記述

日本書紀「神代下」第九段一書第二

「天に悪しき神あり。名を天津甕星(あまつみかほし)という。又の名は天香香背男(あめのかがせお)。請う、まずこの神を誅(ほろぼ)して、その後に下りて葦原中国を撥(おさ)めよう。」


長髄彦は「天の悪しき神。名を天津甕星」という。又の名は「天香香背男」という。

甕星は金星。香香背男は蛇。キリスト教聖書に出てくる「落ちた天使、明けの明星」金星と蛇のルシュファーと同じ表現である。


かくして、「長髄彦の反乱」の敗北結果、長髄彦とその奉斎氏族は東北地方に追いやられ、「岐(くなと)」、「来な人(くなと)」の人となった。西日本の勝者は長髄彦を東北の岐門の神と恐れたが、東北地方では善き荒神として歓迎された。時代が下がり、岐門の神は、いつしか、鬼門(きもん)の神に変えられ、丑寅方位の好まざる荒神に貶(おとし)められた。

これは「勝者の敗者に対する身勝手な言い分」にしか過ぎない。

勝者は敗者の歴史を封殺し、敗者は己の不名誉な記録を抹殺する。そして、真の歴史は消えて分からなくなり、勝者の歴史が残る。


5.荒神様こと素戔嗚尊

素戔嗚尊の荒神様については「No.6 荒神信仰の起源を探る」「7.三人の荒神様」で一部ふれている。

素戔嗚尊も荒ぶる神であり荒神さまである。古事記では天照大神をいたずらで困らせたり、八岐大蛇(やまたのおろち)退治でも有名であり、凶暴な一面、一転して英雄的な性格を持ち、荒神ぶりを発揮される。

私の田舎では家を建てる(設計)とき「鬼門避け」を考慮する。北東の角が鬼門構造にならないように、また、玄関、出入り口を避ける習慣がある。しかし、町中では道路が区画されていて、思うように間取りを取ることができない。どうしても鬼門構造にならざるをえないと云う。この災いを抑えてくれるのが荒神さま、こと素戔嗚尊であると云う。よって、町中・市街地となる都市部では、この鬼門を抑えるために素戔嗚尊を祀る祇園神社があるのだという。

結局、北東の鬼門の神・岐(くなと)神である長髄彦を抑えられるのは、父親である素戔嗚尊であるということになる。

三方荒神は素戔嗚尊(牛頭天王)、長髄彦(岐神)、瀛津世襲足姫(武内足尼)を指すことになり、牛荒神の名で信仰されている。筑後地方では、荒神様の神徳は「水神」、「農業神」「牛馬の守護神」、「火災防止の神」、「招福の神」であるが、一般的には「招福の神」と言えそうです。


また、荒神様・素戔嗚尊と絡めた、蘇民将来(そみんしょうらい)伝説については、「No.11くらおかみの神を祀る八龍神社」でふれた。

ことの経緯はヤマタノオロチの説話から始まる。

この説話は大山祗と金山彦との争いを説話化したものと云われている。

大山祗と金山彦との百年戦争と言われ、ヤマタノオロチの説話の材料にされ、金山彦夫妻が足名椎(あしなつち)夫妻、大山祗はオロチに例えられる。その争いを仲裁したのが素戔嗚尊である。

結果、大山祗は金山彦の妻・埴安姫を奪取、素戔嗚は金山彦の娘・櫛稲田姫と大山祗の娘・罔象女を得ることになる。

問題は、この後に起こる「蘇民将来巨旦将来」伝説である。

ことは素戔嗚尊が、わが姉・神俣姫(かみまたひめ)の処遇に腹を立てたのが発端である。

神俣姫は阿蘇の神様・神沼河耳命の妃であり、その間に天忍穂耳命の子があった。

神沼河耳命には兄の神八井耳命がいた。弟の神沼河耳命は高淤加美(タカオカミ)であり、巨旦将来(コタンショウライ)である。一方、兄の神八井耳命は蘇民将来とされる。

当時、大伯太子(神武天皇)の后は金山彦の姫・吾平津姫である。神武は后・吾平津姫を神沼河耳命に下賜され、間に生まれた子が建磐龍であり、吾平津姫は名を蒲池姫に変えられる。神沼河耳命は天皇家並の扱いとなる。そして、神俣姫は離縁され、丹生津姫と改められる。

元々、天王(てんのう)と云われた素戔嗚、神武天皇と同等の天子の資格を持つ出自の素戔嗚は姉・神俣姫の処遇に激怒した。

素戔嗚の激怒を知った天忍穂耳命の妻であり素戔嗚の娘である瀛津世襲足姫(オキツヨソタラシヒメ)は、夫に神沼河耳との親子を離縁して、兄・神八井耳命の養子になることを勧める。結果、天忍穂耳命は阿蘇の惣領を弟の建磐龍(阿蘇神社)に譲ってしまう。そして、名を彦八井耳とされる。

かくして、素戔嗚は武塔神となり、巨旦将来こと神沼河耳命の討伐となる。

「茅の輪」説話の裏舞台である。

素戔嗚の暴挙の結果、櫛稲田姫と罔象女は素戔嗚の妃の座を捨てて、豊玉彦のところに助けを求められる。素戔嗚のヤマタノオロチ紛争の仲裁が裏目に出てしまった。

「神武の失政」と言われるものである。

この状況下、父・素戔嗚、伯母・神俣姫の姿を見かねた息子・長髄彦がいた。素戔嗚と同様に怒りは心頭に達した。倭国大乱の前兆である。



スポット136(後)  No.17 長髄彦の反乱と鬼門荒神 (宮原誠一論文のご紹介)

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スポット136(後)  No.17 長髄彦の反乱と鬼門荒神 (宮原誠一論文のご紹介)

20171019

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


6.長髄彦の反乱

これからの話は、具体的に記述する史料もとぼしく、思考の探検になります。

長髄彦軍は筑豊で軍備を整え、福岡市の東、邪馬壹国(倭国諸国)連合軍と対戦する。また、佐賀県東背振では天皇軍・物部軍と対戦する。狗奴国の乱の場合と異なって、この戦乱は敵味方がはっきりしていること。「長髄彦・新羅軍」対「反新羅軍」の対立と云う分かり易い構図である。

戦乱地域は福岡県矢部川以北の北筑後から福岡市の東部一帯と推定する。

迎え打つ天皇軍は、大国主率いる匈奴・物部軍とニギハヤヒ率いる北筑後物部軍及び邪馬壹国連合軍である。その総指揮官が神武と共立された女王「ヒミコ」であった。

戦闘の激しさは、吉野ヶ里柵(遺跡公園)の西の墓地群を見れば、その激しさが分かる。

まだ遺跡が調査の段階で、私は発掘調査の途中経過報告会に出向いて、遺跡の西側に展開する死者の甕棺の数に驚いた。首のない甕棺もあった。

やがて、長髄軍は邪馬壹国連合軍に筑豊へ押し戻され、吉野ヶ里柵の長髄軍は孤立包囲されて、長髄軍の負けは見えてきた。

吉野ヶ里柵の南の外れの田手川の高地に立って、降伏勧告の交渉を待つ女王「ヒミコ」がいた。その姿は戦乱を戦い抜いた荒神の姿であった。後にここ、女王「ヒミコ」の荒魂・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつみたまあまさかるむかつひめ)を祀った田手大神宮が建立される。

結果、長髄彦は降伏し、配下氏族共々東北地方への配転と決まる。

吉野ヶ里柵は放棄され誰も住むことなく自然の荒れにまかせて朽ち果てていく。昭和の終わりに遺跡が発掘されるまで、その姿は土中に埋もれてしまうことになる。

戦後処理が終わっても、大国主配下氏族と長髄彦の子孫の対立は中国地方でも続くことになる。また、大国主率いる匈奴・北筑後物部軍は、長髄彦のいなくなった筑豊への移動展開となる。筑豊物部の誕生である。

しばらくして、長髄彦の姉・瀛津世襲足姫の子であり、本拠地を南九州におく建南方(たけみなかた)が北熊本から南筑後にかけて、狗奴国の乱を起こすのであるが、この時は熊襲軍、匈奴物部軍、ウマシマジ率いる高良物部軍が入り乱れ、兵の識別が分かりにくい乱戦となる。


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吉野ヶ里遺跡公園と田手神社


7.三月金神と金神信仰

荒神信仰とは別に金神信仰(こんじんしんこう)というものが、世間一般にひろまっている。

鬼門荒神信仰は北東の特定の方位の障りを恐れるものであるが、金神信仰は障りの方位が時期によって変化するという異質のものである。

一年によって「障り方位」が動く「大金神」と3ヶ月ごとに巡ってくる「三月金神(みつきこんじん)」がある。

特に世間に強く意識されているのが「三月金神」信仰である。

三月金神信仰は、三ヶ月毎に方角をかえる荒神であり、移転、新築、増改築、土木工事、開店等で、この荒神の方角に向かうと祟りがあると考えられている。

三月金神の回る方角は、三ヶ月間単位で同一方角に留まり、旧暦の1月から3月は東、4月から6月は南、7月から9月は西、10月から12月は北と方角が変わっていく。

私の村では、知らないで三月金神方位に増改築をしていれば、まわりの村人が注意し教えてくれる、という状況であり、生活に深く根付いている。

この金神信仰は北熊本から福岡県筑後地方にかけての地域に限定されるようであるが、調査していないので不確定性は残る。

思うに、この地域は「長髄彦の反」、「狗奴国の乱」の地域と重なるようである。この二つの「反と乱」が荒神信仰と金神信仰に直接間接に係わっているようだ。金神信仰の起源はやや時代が下がるようである。一般的には三月金神信仰が、いつ頃から始まったのかは不明とされているが、これも素戔嗚尊、長髄彦、瀛津世襲足姫、その数代後の子孫に関連している。


三月金神信仰はあまりにも生活に深く根付いて、生活・活動に障害を来たしている。

ここでは、金神信仰がどういうものであるかに留め、金神様とその起源については触れない。関心のある方は、最期に「百嶋神代系譜・素戔嗚尊神代系図(6)」を添付しているので、想像逞しく考えてみられてください。


8.それからの長髄彦について

長髄彦について、百嶋先生メモに次のようなことが書き留められている。

戦乱後の瀛津世襲足姫一家は、ヤマトタケル(孫)の働きにより順調に名誉を回復している。そして、日本の先人たちが日本を作るのに広い心をもって事に当ってきたことを述べておられる。


「長髄彦失政の折、長髄彦・瀛津世襲足姫の兄妹は豊玉彦の厄介になり、天足彦(彦坐王・瀛津世襲足姫の子)の一家は束になって、孝霊・孝元・開化天皇のお世話になりました。系譜処理上は開化天皇の子に・・・。天足彦の子・ヤマトタケル(孫)の働きにより、瀛津(おきつ)一家の名誉回復は順調に進みました。」


百嶋由一郎先生講演抜粋


呉の系統の神武天皇およびそのお姉さんであるアマテラスオオミカミ、その呉の系統の一番尊い方々に次ぐ尊いお方が素戔鳴尊です。それで、素戔鳴尊のご一統がどこにどのようにして住んでいらっしゃるかの一部を申し上げます。日本にもたくさん素戔鳴尊の子孫がいらっしゃいます。その証拠に、一番派手に、スサノヲ・スサノヲをやってる一番派手なお祭りは何処のお祭りですか?京都の祇園祭、博多の櫛田神社の祇園祭。博多の方が古いです。

最初に日本で天皇家に逆らったとてつもない有名人は、神武天皇とけんかなさった方、素戔鳴尊のお子さん長髄彦です。長髄彦が反を起こされた。その後、僅かの時間をおいて、狗奴国の乱が起こった。この二つの反と乱でもって魏志倭人伝にいう「倭国大い乱る」となった。この乱の終結の事務処理をしたのが、春日大神となっている。

神武天皇が天皇になる前に倭国大いに乱れるの時、福岡の方から避難して、宮崎の方、鹿児島の方に移動なさって、そこでなんとか話をまとめて、いつの間にか、ありもしないヤマタイ国ができあがった。ヤマタイ国はありませんよ。しかし、ヤマタイ連合はありますよ。

倭人伝にあるように、倭国乱る、倭国乱る、倭国乱る。何回も乱れましたけれども、何回も懲りないでまとまって、喧嘩してはまとまり、喧嘩してはまとまる、というように。

これが日本人の先祖の偉いところで、非常に優れた組織を持っていました。

悪いことをしたら罰する。罰するけれども、なるべく殺さないで、現役を引退してもらう。そしてその家族の財産は没収されますけれども、ほかのところに親戚のところに行って養って貰いなさいと就職斡旋をしてくれたのです。それくらいありがたい、日本の先人たちは日本を作るのに広い心をもって、国は狭いけれども心は広いということで何とか日本の国をまとめたのです。

まとめ上げるその舞台裏は、それぞれ顔がばらばらです。民族が違うので、顔が違うのも当たり前、言葉も違います。日本列島に住む人々の共通の言葉は漢語です、中国語です。

従って、全員が漢語を媒介体として、「乱れては仲良くなる」を繰り返していたのです。とにかく喧嘩ときたら、言葉が通じないので、喧嘩するのは当たり前ですね。しかし、リーダーは偉いです。そう喧嘩したらいかんといって、皆を纏めたんですね。


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古川挿入 百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


研究目的で百嶋由一郎音声CD、手書きデータ、神代系譜(50種)…を必要とされる方は


09062983254まで(何時でも結構です)


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百嶋神代系譜・素戔嗚尊・御年神・豊城入彦 神代系図(6)


486 天香香背男(アメノカガセオ)を祀る神社 大分県編 ② 佐伯市大入島の産靈神社

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486 天香香背男(アメノカガセオ)を祀る神社 大分県編 ② 佐伯市大入島の産靈神社

20170506

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 佐伯湾の沖に大入島があります。

486-1この島があることから東に開いた佐伯湾は、ほとんどの風波を遮ることができ波静かな内湾となるのです。

このため戦前には佐伯海軍航空隊が置かれ、零式水偵などが配置されています。

また、真珠湾への攻撃を前提に連合艦隊はこの佐伯湾に集結し出師命令の元北の単冠(ヒトカップ)湾に向かって密かに出向して行ったのでした。

戦後はその跡地の一部に三菱系の興人(興国人絹パルプ)佐伯工場が進出し佐伯湾がヘドロの海ともなったのですが…こういった話も全て歴史のゴミ箱に放り込まれる時代になってきました。


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 この大入島でも佐伯の市街地に向かった守後浦に産靈(ウブタマorムスビ)神社が鎮座しているのです。

 今回は下見のつもりでしたから葛(カズラ)港から渡船(150円)で守後浦に渡りました。

 いずれ、大分県のメンバーと全島の神社調査(全島で10社足らず)を行いたいのですが、その場合はフェリーで石間に入る事になるでしょう。

 実は、この大入島には15年ほど前に入っています。

 目的は、一時期世間の注目を集めた大入島埋め立て反対運動の支援のためでした。

 八代の河童共和国大統領とともに訪れたのですが、この地元のおばちゃんたちの体を張った実力闘争によって現在まで埋立は止まっています。

関心をお持ちの方はひぼろぎ逍遥から侵入できる以下を探ってみて下さい。
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44 大入島埋立を許すな! "緊急アピール" 50 大入島埋立を許すな!②(現地レポートNo.1


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さて、あっと言う間に着いてしまった守後浦集落をご覧頂きましょう。


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社殿は至って綺麗でした。

恐らく急傾斜事業か旧運輸省の港湾修築事業(正式な事業名など調べる気にもならない)による道路拡幅の補償金で改築されたのでしょう。


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うっかりして参拝殿の写真を撮りそこないましたが、重要なのは鞘殿の中の神殿です。


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物部系の神社に多く認められる鞘殿ですが、これなら百年はもちそうです


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由緒はご覧のとおりですが、一夜星斗の影間あり…古妙見と稲へ祭祀す…としかありません


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境内から対岸の佐伯市街地を望む


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百嶋由一郎三宝荒神系譜


 佐伯の2社を実見しましたが、本当に天香香背男(アメノカガセオ)が長脛彦であるのかを含めて基礎調査は、まだまだ続きます。

 百嶋由一郎三宝荒神系譜を見て頂きましたが、この関係祭神などが神社を見る事によって確認できたり、推定が可能になってくれば断定できるのですが、まだまだ作業は続くようです。

 さて、足早な調査がを終え、帰りのフェリーを待っていると、手足の長い足長おじさんと遭遇しました。

 長脛彦が脛の長い男と言う意味かどうかは分かりませんが、もしそうならば、このような人だったのではないかと思うのです。

 実は、佐伯市に戻った後も市街地内でもう一人の足長おじさんに出くわしました。

 このような形質を持った方が結構おられるのではないかと思ってしまったのですが、思考の暴走は止まりません。


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本渡への渡船を待つ岸壁


 魚釣りに嵌っていた事から三十数年間九州を中心に多くの島嶼部を訪れましたが、この岸壁で珍しいものを見掛けました。


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皆さんは何だかお分かりになりますか?経済性もあり、実に良く考えて造られています。潮位の変化に合わせ高潮状態でも渡船に登れるステップなのです。普通は浮桟橋で対応するのですが、耐久性もあるため、最も簡便で実用性のあるものなのです。よほどの高潮位でなければ使う事はないでしょう。

487 安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト ①

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487 安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト ①

20170606

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 佐賀市と言っても遠方の方には“九州の佐賀県”と言わないとなかなか理解されないのですが、平成の大合併によって新たに佐賀市に編入された旧富士町の領域に子安神社という九州では珍しい名の神社があります。

 本来は美しい渓谷沿いに鎮座した神社ではあったのですが、例によってそれほど必要性もない嘉瀬川ダムの水没地となって移転を強いられ付け替え道路の傍に真新しい社殿を持つ神社として再建されています。

 この神社が、何故、子安神社と呼ばれていたかについての説明をする事は一応可能でしょう。

 簡単に言えば、大山祗の娘である木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)が、邇邇芸命(ニニギノミコト)と出会い身篭るのですが、ニニギは一夜で身ごもった事から国津神の子ではないかと疑います。 

そこで、この疑いを晴らすためコノハナノサクヤは誓を立て産屋に入り「天津神のニニギの子なら何があっても無事に産めるはず」と産屋に火を放ちその炎の中でホデリ(ホアカリ?)、ホスセリ、ホオリの三柱の子を産むとされているのです(「古事記」)。

この猛火の中でも多くの神々を出産したとの神話からコノハナノサクヤを祀る神社が安産の神様として信奉を集め子安神社が成立したと考えられます(特に北関東に多く分布を示す)。

 ただ、百嶋神社考古学はその一般的なストーリーの下に隠された古層の探究を目的としている事から、それで良いかと言うと単純には乗れないのです。

その話は後段に回すとして、まずは、この神社のご紹介から入ります。

あくまでも一般的にですが、最も有名な子安神社と言えば、伊勢の子安神社になるでしょうか?

それほど多くはないのですが、それなりに有名なものを拾い出して見ましょう。


子安神社 /三重県伊勢市宇治館町1    祭神=木花開耶姫神(コノハナノサクヤヒメ)

子安神社 /東京都八王子市明神町4-10-3 祭神=木花開耶姫命 天照大御神 素盞鳴尊 大山咋命  奇稲田姫命

杉田子安神社 /富士宮市杉田215       祭神=木花之開耶姫

櫻井子安大神 /千葉県旭市櫻井1264     祭神=木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメノミコト)、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)

…以下省略


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子安神社正面 カーナビ検索 佐賀市富士町大字栗並5861 


佐賀県の神社を調べるには、非常に使い難い「佐賀縣神社誌要」(大正15年)に頼らざるを得ないのですが、実はこれにはこの子安神社は搭載されていません。

また、佐賀県唐津市七山池原乙555にも同名の子安神社があることからこれも頭に入れておいて下さい。


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旧富士町栗並の子安神社から西にひと山越えた七山村桑原にもう一つの子安神社があります。


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外の資料を探すとしても容易ではないため、とりあえずネット検索を行うと、487-4

に以下の記述があります。

 二十年ほど前に「大和町史」は目を通していましたが「富士町史」はパスしていました。


祭神 大山祇神磐長姫命 保食神 源義経 安産の神

由緒 栗並地頭栗並因幡守子孫永久の大願で承久(121922)のころ勧請の由古老の口碑に伝え、神殿、拝殿ともその後の再建といわれている。

祭日 1月元旦祭、9月風祭、彼岸祭、刃の日祭、神宝 古刀1振、法螺貝

敷地面積 632坪。建物22坪。氏子 75

 本社は社名のとおり安産の神。ここの腹帯を妊婦が腹に巻くと安産と伝える。近くにある夫婦岩は良縁のシンボルといわれている。                      出典:富士町史下p.398


 改めてこの神社を考えると、この旧富士町の子安神社が本物中の本物の神社であり、東日本に偏在する子安神社の原型である可能性があるのではないかという印象を持ちます。

 まず、旧富士町の子安神社の祭神が大山祇神、磐長姫命…である事はお気づきになったでしょう。

 磐長姫命と言えば、天津神としての邇邇芸命に対して大山祇が木花開耶姫と共に妃として送ったものの醜かったことから返されたという曰くつきの嫌な話が伝わる女神様なのですが(木花開耶姫と共に有名な福岡県糸島市の細石神社の祭神)、その通説で大山祇の娘とされる磐長姫命が大山祇と共に祭神とされているのです。

 この背後にはかなり大きな謎があるのですが、ここでは後回しにして、まずは、社殿を見ましょう。


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前述の如く通説では木花之佐久夜毘売は、ホデリ(ホアカリ?)、ホスセリ、ホオリの三柱の子を産むとするのですが、百嶋神社考古学ではそれを認めません。

 また、磐長姫と木花之佐久夜毘売とが実の姉妹である事も認めません。

 ただし、無関係でもないと言うより、むしろ関係性の強い従妹のような関係なのです。



487-6

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)




487-7まず、百嶋神社考古学では、イザナミはイザナギと別れた(神話では黄泉の国で喧嘩別れした事になっていますが)後、博多の櫛田神社の大幡主のお妃となり、豊玉彦=豊国主=ヤタガラスとアカルヒメを産みます(これには多くの傍証がありますがここでは省略します)。

磐長姫は博多の櫛田神社の大幡主(白族)を父神として金山彦(瀛氏)の妹神であるクマノフスミ(イザナミの後の神名)を母神として生まれたアカルヒメ(スサノウのお妃で姫島に戻ってきた)とします。

一方、コノハナノサクヤヒメ大山祇(越智族)を父神として、博多の櫛田神社の大幡主の妹である埴安姫母神として産れた大国主命の妹とします。

このため妙な表現になりますが、父神も母神も異なるものの、アカルヒメの父神とコノハナノサクヤヒメの母神が兄妹であることから、腹違いで種違いの従姉妹といった関係にはなるのです。

これは勿論伏せられていますが、百嶋先生がこの事実を把握された事により、問題が鮮明になってくるのです。

これを神話では姉妹としていますが、アカルヒメことイワナガヒメを醜かったから返されたとする神話には、阿蘇氏の後裔としての藤原の作為が感じられ、金山彦系を貶める意図があるように思えるのです。

ただ、イワナガヒメの名誉のために申しあげておきますが、イワナガヒメ=アカルヒメは新羅の王子様であったスサノウから逃げて国東半島正面の姫島に上陸したとされているのであり、スサノウが但馬の出石に追いかけてきたほどの女神であったとすれば、とても醜かったなどとは思えないのです。


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ともあれ、旧富士町の子安神社が重要な神社であった事は言うまでもなく、恐らく、古くはコノハナノサクヤも祀っていたのではないかとも考えています。

 なぜならば、子安神社の主神が大山祇であり(事実神殿の千木は明らかに男神を示しているからです)、コノハナノサクヤヒメが祀られる方がより自然だからです。

 この醜いとされ返された磐長姫を祀る神社も子安神社同様に東日本に多いのですが、九州では、33番白銀(シロミ)神楽で著名で、かつ南朝方の菊池氏が最後に逃げ込んだ秘境中の秘境集落でもある宮崎県西都市の白銀神社の主神とされており、これも以前から抱え込んだ謎なのです。他にも兵庫県尼崎に磐長姫神社…などもあるのですが、自ら踏んでいないためここで留めます。

 さて、ここで、驚愕の事実に直面している事に気付きます。以前から、何故この地が富士町と呼ばれていたかについて謎を感じていました。一説として徐福の渡来地の一つである事と関係している…などといった話はあったのですが、この子安神社にイワナガヒメ、コノハナノサクヤヒメが祀られている可能性を再認識すると、コノハナノサクヤヒメを祀る富士山浅間神社に肖って富士と呼ばれたか、この脊振の一角から富士と言う地名が東日本に持ち出されたのではないかとまで思えるのです。

 この問題は、最低でも七山村の子安神社を訪問しないうちは結論など出せるはずがありません。

488 安産の里無津呂の神々 子安神社に隣接する鹽甞地蔵について ジネコ神社協賛プロジェクト ②

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488 安産の里無津呂の神々 子安神社に隣接する鹽甞地蔵について ジネコ神社協賛プロジェクト ②

 

20170606

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川清久

 

 

 

 実は、ひぼろぎ逍遥 487 この子安神社安産の里無津呂の神々 で取り上げた子安神社からそう遠くないところに塩甞(シオナメ)地蔵なる小さなお堂があります。


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 これもダム建設に伴い、谷底から移転したお堂ですが、ご覧の通り、撮影当日にも塩(食塩とミネラル補強塩)が無造作に二袋ほど奉納されていました。

 きっと、娘か孫かの妊娠、出産を前にしてお地蔵様に安産の祈願においでになった方がおられたのだと思います。では、何故、このような風習が残っているのでしょうか?

 若い人には、まず、お分かりにならないと思うのですが、百年と言わず、半世紀前までの山中に住む人にとって生活上最も重要な物資は「塩」でした。

もう、「焼き塩」のことを覚えておられる方はいないでしょうが、昔は笊に焼き塩を入れて吊るし、湿気を吸って垂れてくる汁は下で大切に集められて、自家製豆腐を作る時の苦汁として使われていました(かく言う私も昭和三十年代に亡くなった母の実家で見たことがあります)。

 交易が盛んになれば塩、味噌、醤油…を運ぶ人々が現れ、駄賃牛や駄賃馬の背に味噌樽や、塩袋を載せ山奥の集落でも手に入れる事が出来るようになったのですが(見てきたような話をしますが)、二千年前の山村での生活を考えて見て下さい。どうしても必要な塩を手に入れるために干椎茸や山菜や燻製肉などと交換していたと思います。

 ほんの七十年前の戦時中でさえ塩が不足した時があったそうで、“村から若い者が一週間ほど海に降り、村中で必要な塩を海岸に泊まり込みで造って持って帰った…“といった話を聴いたことがありました(筆者が佐賀県の嬉野市と鹿島市の境界に近い大野集落で二十年前に聴いた話)。

 ましてや、出産を控えた妊婦や乳呑児を抱えた婦人にとって塩の欠乏=ミネラルの欠乏が如何に危険な事であるかは言わずもがなであり、暫く前までは、出産祝いと称して、黒砂糖や、飴がたを贈る風習があったものです。

 以下、参考としてお読み下さい。



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【起源は紀元前!?

中国の文献によると、紀元前から作られている「飴」。日本でも承平年間(931年-938年)に書かれた「和名類聚抄」などに記述が残ることから、相当古くに伝えられたのではないかと考えられます。

「水飴」を主原料とするシンプルなお菓子「あめがた」もその一つで、古くは生活の節目を表す節供(せっく)にも、飴形節供(48日)という名称があったほどでした。

【素朴な健康食品】

そもそも、水飴はもち米に麦芽を入れて水で煮ることでできる甘味料。ビタミン類やミネラルなど、滋養に良い成分を含んでいます。

そんな水飴に空気を含ませながら引くことで、色も琥珀色から純白に変化し、口溶けも軽い「あめがた」ができます。

現在は、その飴生地の中に黒砂糖を挟んで「あめがた」とするのが一般的ですが、この黒砂糖もビタミン、ミネラルなどを多く含み、夏バテ防止や疲労回復などに効果があるとされる自然食品。

産後の母乳の出が良いとのいわれから「乳飴」との別名もあり、祝いの菓子として重宝されたほか、携帯食、保存食としても食され続ける背景には、添加物を一切使わない、素朴でひたむきな製法があるようです。

 

スポット137 緊急リポート 全国の九州王朝論者に告ぐ!“予算に群がる古代史研究会には研究者はい

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スポット137 緊急リポート 全国の九州王朝論者に告ぐ!“予算に群がる古代史研究会には研究者はいない”

20171021

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 全国で行政主導による(つまり学会通説に沿った)古代史のシンポジウムとか古代史研究会と言ったものが花盛りです。

 この現象によって古代史ブームが再燃しているとか古代史研究が盛んになっているなどと考えるのはとんでもない誤りでしょう。

各地域に熱心な研究者が芽生えている訳でもなく、壊滅状況になっている各地の郷土史会、史談会、地名研究会、○○古代史の会…といったものが、徐々に研究者を失い、半ば教育委員会とか学芸員と言った通説、半通説の利権集団に救いを求めているのが実情なのです。

つまり、戦後産みだされた真の古代史像を追求しようとする自由な思考を持った民間の研究者が最終的に失われつつあることを良い事に、予算を引出し肖ろうとする村興し町興し、果ては世界遺産登録と言った薄汚い税金への集りの構造に、かつて孤高を保っていた九州王朝論者の一群までもが浅ましくも靡き始めた事を意味しているのです。

 そこまではいかないものの、九州でも○○古代史の会といった、一時期、古田武彦をも乗り越えるとして活発に活動を展開していた団体までもが、今や自らは調査も研究もせず、生き残りの僅かな外部研究者に依存していたために研究への姿勢を一切失い、今や月例の研究会(年間8回程度)でさえも自前の研究を出す事も出来ずに、通説派の学芸員の御高説を賜わり平伏すると言う悍ましい堕落を見せているのです。

 このような傾向に、かつて古田武彦氏が保っていた孤高の研究への姿勢や佃 収、米田良三といった今も尚健在の九州王朝論に立つ研究者の姿勢がオーバー・ラップできない事は言うまでもないでしょう。

 そうするうちに古田武彦の三部作さえも読んだ事のない、通説派に汚染された新世代が加わるに及んで、かつて通説派を震撼せしめた九州王朝論者の研究会の影を見出す事など微塵もできなくなり、良くて「邪馬台国九州説」程度の大衆レベルの意識しか持たない無様な状態を晒しているのです。

 最早、九州王朝論さえもかなぐり捨て行政が垂れ流す調教用の予算と人材にのみ依存する醜悪な組織に変貌していく事だけは間違いないことでしょう。


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大嘘でしかない「邪馬台国畿内説」はどうしようもないとしても、他愛もない「邪馬台国九州説」や利権構造から通説派に擦り寄った醜悪この上ない「邪馬台国東遷説」とか、堕落した九州王朝論者の一群に、最早、古代史の深層を掘り下げることなど全くできない事がさらに一層鮮明になりつつある現在、このような傾向をどのようなものとして取り上げるかだけは整理しておく必要性があるでしょう。

 まず、戦後の民間研究団体は、皇国史観が蔓延した事によって中国や北朝鮮のような塗り潰された文化的退廃からの解放として一気に勃興したものでした。

 つまり、大嘘一色になってしまえば、裾野なき孤高の研究者だけがあたかも電信柱のように際立つわけで、平地に蠢く人々から見れば、一気に権威を再生できるとも言えるのです。

 所詮、○○古代サミット、○○古代史シンポジウムといったものは、学会通説派による調教の範囲で許されるものであって、それに集り、肖り、有難がる人々とは、自らの頭で考え自らの手足を使って調べようとすることも忘れ、ゲージの中で調教の餌付けをされているようなものでしかないのです。

 このような状態が古代史ブームとか古代史への関心が高まっていると考える事が凡そ間違いで、まず、民間研究者による独自の研究に地域、行政がバック・アップするなどといった事は一切なく、もし、部分的にそういったものがあったとしても、「万葉集」研究とかいった普通の人があまり関心を持たない人畜無害のジャンルとか、「地名研究」など学会そのものが存在しないことから教育委員会関係者とか学芸員の御咎めが無いような範囲で許されているものでしかないのです。

この点、我々も全面的にバック・アップした(YYなどが関与する疑似的官製的「邪馬台国シンポジウム」など当然にも無視しますが)古田武彦講演と宮地嶽神社の筑紫舞を結びつけた800人の集会などとは比べようのない官製イベントだったことが分かるのです。


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そもそも、市民レベルから文献史学から九州王朝を発掘した古田武彦九州王朝研究とは、学会通説とは全く異なるもので、教育委員会や学芸員などが期待する官製研究が封殺してきたものでしかなかったのでした。

その延長上に未来を見通そうとする真実の古代史研究を意識する人々は、このような官製イベントから決別し、最低でも敬遠しようとする意志を持たなければならないはずなのです。

いずれにせよ、古代の真実を探索せんとする九州王朝研究とは市民レベルでしか行われないはずであり、全国の九州王朝を意識する古代史探究者の方々は、間違っても官製イベントから独立するべきでしょう。

「九州王朝隠し」は国体に関わる国家の鍵であり、藤原によって封殺されたものである以上、官製の研究などから真実が発掘されるなどあり得ないのであり、それ以外の道など存在しないのです。

問題は九州王朝論者と自認する○○史学の会のメンバーでありながら、自らは文章の一つも書けないことから、ニシダニなどが監修した通説派の古代史パンフレットを無批判に配布したり、行政とタイアップして教育員会や学芸員さえも喜ぶような講演やシンポジウムを仕組み、“私にも講演させて下さい”とばかりに尾を振り行政に売り込もうとする浅ましくもさもしいK県K市K神社の宮司などといった輩が○○史学の会の現役メンバーと言うのですから、さぞかし天国(ご本人は地獄と言われていましたが)の古田武彦も嘆いている事でしょう。

sp137-3説明不要


このように九州王朝論者の外はもとより、内も腐りきっているのです。

個人的にはこの醜悪極まりない古代史の世界から離脱し、真実の神代史への探査を進め全国化が進みつつあるグループ全体の20のブログのアクセス数が年間百万件を楽に超えるところまで漕ぎ着けることがギリギリで間に合うところまできたのでした。

このようにそもそも九州王朝論とは国家が嫌がる禁断の歴史であり、本質的に権力に抵抗しつつも真実を探求しようとする気迫と情熱を持たずしては行えないものであって、行政に“私も講演に使っていただければ”とばかりに思いっきり尾を振って接近しようとするようなさもしい前述の3K宮司のような輩には行えないのは自明の理であり、警察関係者や宮司と言った権力の手先のような人間には、所詮、擦り寄る事しかできないものなのです。

こうして、良くある普通の堕落が生じるのであって、気付いて見れば村興し町興しの余興団体と何ら変わらなくなってしまうしかないのです。


九州王朝論は何故封殺され続けるのか


まず、「邪馬台国論争」なるものが存在して久しいのですが、この背後には”「邪馬台国畿内説」は全く信用できないが「九州王朝論」には何がしかの真実があるのではないか?“といった予感をもっておられる古代史ファンは多々おられるのではないかと思います。

元々、あまりにもあからさまなデマというものは直ぐに信用されなくなるのは世の常であり、そのことについては、当の大嘘の発信元の「邪馬台国畿内説」論者ご自身も十分にご存じではないかと思います。

一方、当方に言わせれば笑い話ですが、専門家とかプロの発掘調査に携わる科学者などと言われる考古学関係者の方々がおられます。

なぜならば、全国の古代史の学者の99パーセント、穴掘り考古学の専門家と称せられている学芸員などの考古学協会に集う人自体が、「邪馬台国畿内説」でなければ雇ってくれないし、学芸員にもしてもらえない上に、将来、大学の助教や准教授にもなれない事を十分に理解した上で、自ら生き残るために「畿内説」を採用しているという事実を十分に理解しているからなのです。

もちろん、そのようなものが学問などであるはずはなく、大政翼賛会とか日本会議などと五十歩百歩であることは明らかなのです。


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そもそも、現在の考古学会(某考古○○会など)とは、田中角栄の列島改造論以降の公共工事の乱発により不可避となった発掘調査の下請け(公共事業費の調査費、移転補償費)機関として、“なんでも朝鮮半島からやってきた”とする奈文研のMSなどが中心となって設立されたものであり、その出生の経緯からして車輪ほどの意味はないものの、公共事業の一歯車として動いてきたものだったのです。

例えば、古墳の発掘調査とは基本的には墓の改葬に近いものであり、昔でいえば、寺男、墓堀さんの領分であったことから、実際の業務はその筋の手作業の人手を投入するものだったのです。

結果、奈良、京都、兵庫、大阪…を中心とする関西の解放同盟系の親方などとの関係が強くなり、実際の調査、測量、報告書の作成の大半は解放同盟系企業(土建業者)のコンサルタント会社が行い、学者とか学芸員といったものは確認のための判を押すだけという構造が形成されたものだったのです。

このため、その手下となって働く発掘調査のスタッフを養成する事が必要となり、MSのイニシアチブの下に、単に大学の考古学関係の単位を取得していただけという人間が京都学派の特定のイディオロギーの元に調教され後の学芸員として採用されていったのでした。

従って、本当に古代史に関心を持って考古学を志したものは極わずかでしかなく、あの公共事業乱発の最も就職しやすい時期に、“職にあぶれたから考古学の学芸員にでもしてもらおうか”とか“そのうち役所で雇ってくれるかも知れないから”…といっただけの喰うためだけの動機で考古学の道に入った人が多かったからなのです。

理工系でもなければ、文科系のそれも誰でも採れる民俗学や考古学の講座を取っただけの人が生きる(喰う)ために選んだのがこの手の職業だったのでした。

このため彼らに、あのヘンリー・シュリーマンや原田大六氏の精神や情熱が宿っているとは凡そ考えられないのです。

現在、なお、考古学関係の発掘調査費の大半が、奈良、京都、大阪、兵庫、滋賀…の関西で消費されていると聞きます。

そして、僅かな残りが東北や九州に廻され、畿内に比べてどんなに重要な遺跡が出て来てもコンクリートで蓋をしてしまうという話まで聴くのですが(酒を呑んだ勢いで、“九州で発掘調査をするととんでもないものが出てくるから俺はコンクリートで何度も蓋してきた”…ニシダニ)、こうして、大半、畿内で消費される構造が常態化しているのです。

そして、そのまた大半が関西系の解放同盟系の企業によって回収され、学者とそれに連なる学芸員や協会員はその予算の僅かなお零れを貰い「学問」とか「科学的」などと称しているのです。

そんなものが「学問」でも「科学」でもないことは凡そ明らかですが、だからこそ、鉄も絹も出ない纒向遺跡(初めて出て来ても古墳の玄室の土被りの中ならばいざ知らず、古墳の脇の溝の中なのであってお笑い草も良い所なのです)を卑弥呼の王城などととぼけた議論がまかり通っているのです。

その理由は、今後とも安定して発掘調査費を関西で独占したいと言う利権構造にあることは言うまでもありません。

そして、少しでも正しいことを主張しようものなら直ぐに排除され助手にも採用されず、将来は閉ざされてしまう事になるのです。

このように実際の発掘調査を行うノウハウと組織とを握っているのが解放同盟系の組織であり、彼らに睨まれるのを恐れ使われているだけなのが学芸員とか考古学協会の予備軍なのです。

それこそが「邪馬台国畿内説」というイカサマが存続し続けている唯一最大の理由であり、構造としては「原子力村」とか「火山予知連」とか「地震予知連」などと全く同じなのです。

さらに踏み込めば、邪馬台国九州説、九州王朝論が叩かれ続け、古田武彦が学会から無視され続け排除され続けた背景であり、本来、凄いものが幾つも埋まっている九州などに発掘調査費が傾斜配分されることへの警戒であり、吉野ケ里遺跡クラスの発掘調査が行われることを背後の関西系土建業者が絶対に許さないという背景があるからなのです。

ましてや、九州王朝論に至っては、8世紀初頭まで九州が中心であったとする立場は、古墳だろうが、廃寺だろうが古代官道だろうが、調査費の多くを九州とその一帯に配分せざるを得なくなり、解放同盟系土建業に連動する考古○○会=邪馬台国畿内説論者にとっては存続に関わる大問題になるのです。

もはや、考古学者が土建業者に使われる構造が常態化した結果、学問が地に埋もれ、考古学と言う学問それ自体の発掘調査を行わなければ、調査報告書によっては真実が見えてこない状態に陥っているのです。

このような纏向遺跡に何かを期待して集まる人々とは、果たして科学的思考ができている方々なのかとあきれるばかりです。


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原子力村の大嘘つき学者どもに騙されてきたのと同様に、考古学村においても金儲けの道具のダシとして動員される愚かな考古学ファンを見る事ほど哀れなことはありません。

そして、それと連動してデマを流し続ける大手新聞社(A,Y)とは一体何なのか?

戦前に発行部数の増大を目的に戦争を煽り国民に多大な惨禍を齎した反省を忘れてしまったかのようです。

ここまでお読み頂ければ、古田武彦が最後まで学会通説派から疎まれ続けた理由が少しはお分かりになったのではないでしょうか?

そもそも「列島改造論」が全国に鳴り響いたあの公共事業華やかなり時代においてすら、まともな就職先も見つけられないと言うのは凡そ勉強をしなかった人間であり、その時代には、今では就職し難い教育学部に行くのは成績の悪い連中でしかなく、ましてや受かりやすい文学部などに入って就職先も得られない連中が、考古学の単位でも取って役場に採用して貰おうかなどとさもしい生き方を選択した連中だったのです。

地方では、優秀な人間は県庁から市町村職員に少し落ちて地方銀行に更に落ちて農協職員に…といったコースが現実に存在していました。

その裏口入学の一つがこの考古学ルートだったのであり、大体、あの時代の最も成績の悪い奴らが選ぶのがこの道だったのです。

凡そどのような人物が雪崩れ込んでいるかの見当が着かれたと思いますが、これを既成の価値観に縛られない自由な思考をする文化的な人物と見るか、それとも型通りの受験勉強を怠った怠惰な劣等生と考えるかは読者の良識にお任せしたいと思います。

もしも、自由な思考ができる文化的な人物が“「邪馬台国論争」など興味などありませんよ”と言った顔をして、“我々は市井のそのような議論とは無関係に、ただただ忠実に発掘されたものを正確に記録しているだけです…”“素人さん達はどうか知れませんが、考古学協会には邪馬台国九州説論者など一人もいませんよ…”などと言えるとは思えないため、この考古学協会の性格は只の利権集団としか判断できないのです。

京都学派として知られた畿内説論者の権化のような門脇 禎二でさえも死ぬ前には、“邪馬台国は九州にあったに決まっている”と言って死んだ…のですから推して知るべしと言うべきでしょう。

これらの構造が全国に押し並べて言えるかどうかの問題はあるのですが(利権構造が薄い九州などでは中央の解放同盟と考古学の強烈なスクラム構造の存在など理解できないでしょうが、それは只の田舎者と言うだけの事なのです)、個人的には列島の考古学が吐き気を催すものでしかないという思いは全く消せません。


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所詮、元特定非営利活動法人「東北旧石器文化研究所」副理事長で、旧石器捏造事件を引き起こした藤村 新一(フジムラシンイチ 195054日 )のような人間が、普通にいるのだろうと思っています。

彼がまたぞろ顔を出し始めていますが、捏造発覚後、離婚・再婚し妻の苗字を名乗っているような人物なのです。

凡そ3K宮司も含めこのような人物の集まりが考古○○会なのだろうと理解しています。

内部に入れば、考古○○会の腐敗構造も利権構造にも気付いていないのです。

どちらにせよ、月に一度程度の月例会で好い加減な講演を右の耳から聴いて左の耳からそのまま流してしまい帰る頃には忘れてしまうような研究会(ドサ周りの地方小屋)で、仮に十年で最大100回程度聴いたとしても何の成果もなく消滅してしまう事にしかならないのです。

ただ邪馬台国本を何冊か読んだだけで分かったような話を聴いて満足している様な人達の集まりとは研究会などではなく、自ら現場を調べようとも古文書にも当ろうともせず、他人の調査を鵜呑みにしたただの古代史親睦会、カラオケ・クラブなどと変わり映えしないものなのです。

研究会とは自分の頭を使い手足を動かし現場を踏み、写真を撮り、伝承を拾い、記録を残し、文章を残し、更に解析を進める研究者の集まりなのであって、何の研究する意志も持たず、そこで講演する人間でさえも本も出さず記録も残さないような連中であるならば、研究会ではなく只の古代史ファンの集いでしかないのです。

このため、彼らは全く訓練されておらず、文章も書けず(作文=立論ができず)、自らの独創も主張もないのです。

私達が目指すのは、現場を調べる事であり、そこから得られた事象を整理し解析し古代の深層を探り、ネットに公開し続けているのです。

最低でも、グループ全体でのアクセスは十年で最低でも一千~一千五百万件(現在の水準で)にはなるはずで、九州王朝研究に対して多少とも役割を果たし確実に後世へと繋ぎたいと思うものです。

一端、この九州王朝論の一部にでも触れた人が、再び、間の抜けた「邪馬台国畿内説」などに戻るはずはなく、さらにそれを推し進めようとする人は、このようなたちの悪い通説派によって仕組まれた○○シンポジウムとか○○研究会などに色目を使うことなく、独立性を保ち自らの頭を使ってさらに深い層を探らなければならないのです。

489 安産の里無津呂の神々 上無津呂の淀姫神社  ジネコ神社協賛プロジェクト ③

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489 安産の里無津呂の神々 上無津呂の淀姫神社  ジネコ神社協賛プロジェクト ③

20170607

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


佐賀県の古代の汀線は標高5メートルの貝塚線とほぼ一致する…と言われますが、この縄文の貝塚ラインが長崎自動車道と、大方一致するとされる事から、ほぼ、佐賀平野の大半が海の底であった事になるでしょう。

ただ、弥生時代の始まりという概念自体(一般的には水田稲作の開始)が500年から700年程度遡ってしまったことから、実際には紀元前千年程度の海岸線という事になるのかも知れません。

その意味では、佐賀大和ICの南側に、肥前国府跡や国分尼寺それにちなむ尼寺という地名が存在している事は古代を考える上で大きな指針となりそうです。

つまり、この一帯が通常言うところのウォーター・フロントであり、現在の川上の淀姫神社の辺りが紀元前後の一等地であったという理解も疑う余地がないようです。

この辺りの事は太宰府地名研究会のHPから「淀姫」を検索しお読み頂きたいと思います。

さて、佐賀の北側に存在する脊振山系を東西に分かち南流し有明海に注ぐのが嘉瀬川です。

肥前国(ここでは東半の佐賀県を念頭に置いているのですが)の神社と言えば、まず、淀姫神社が頭に浮かびます。

格式から言えば、大正十五年発行の「佐賀県神社誌要」でも筆頭に書かれる國幣中社田島神社(唐津市呼子町加部島)がありますが、その拡がりと浸透力から言えば、この河上の淀姫神社はより強い印象を与え、嘉瀬川の畔に鎮座しています。

この淀姫神社そのものに関しては、長文の「淀 姫」(ヨドヒメ)に譲るとして、今回はこの「淀姫神社」よりもさらに五十年遡る縁起(「古事記」を遥かに遡る1550年)を持つ旧富士町上無津呂の淀姫神社と下無津呂の乳母神社、さらには神水(オシオイ)川との関係を考えたいと思います。

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「佐賀県神社誌要」


佐賀の東西を分けるというのは多少大袈裟な表現かもしれませんが、かつては佐賀市の市街地を貫流していたものを江戸期に西に付け替えられた嘉瀬川の最上流部に「上無津呂」「下無津呂」「真名子」という非常に印象的な地名が並んでいます。

713年に所謂「好字令」が出されますが、以降、地名は基本的に二字の好字表記とされたと考えられています。このため、これらの三文字表記の地名は最低でも8世紀以前に遡る可能性があり、それだけでも佐賀の古代を云々する時には考慮に入れる必要があるほどの重要性を胚胎しているのです。


上無津呂の淀姫神社と神水川


この淀姫神社が何かを考えずして九州の古代を云々できないとの思いを深くしたのは、佐賀市に編入されたものの古湯温泉のさらに奥深く鎮座する古社 上無津呂の淀姫神社に遭遇し、さらに下無津呂の乳母神社の氏子でもある某産婦人科医師と知り合ったからでした。                  

“医は算術”とばかりに蓄財に走るものが多い中、福岡市内で産婦人科(麻酔科)医として水の問題を取り上げ、妊娠から出産そして育児までを水から考えるという正に良医の名に値する町医(開業医)ですが、その良医から「この淀姫神社の前に流れる川は、何故、神水川と書かれ、おしおい川と呼ばれるのか?また、下無津呂には乳母(めのと)神社が有るのか?・・・」と問われ、それに回答を出さねばならないとの思いだけで取組んだのが「淀 姫」(ヨドヒメ)だったのです。

神社自体の解読については既に「淀 姫」(ヨドヒメ)を書いていますので、ここでは踏み込みませんが、良く考えると、この上無津呂の淀姫神社は奇妙です。

まず、河上の淀姫神社は“淀姫”と、神名が伏さ(隠さ)れた“大明神”(百嶋神社考古学では河上猛と考えていますが)を祭神としています。

他の多くの淀姫神社も祭神を“淀姫”を祭神としている事から、この河上の淀姫より五十年も古い由緒を持つ上無津呂の淀姫神社が“淀姫”を祭神としていないとは考えられないのですが、実はそうはなっていないのです。

この理由としては、淀姫を別の神と読み替えたか“淀姫”が隠されたとしか考えようがないのです。



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淀姫神社としながらも祭神を豊玉姫、玉依姫…としている事に作為を感じない人はおられないでしょう


 通説の豊玉姫、玉依姫の説明は良いでしょうが、髙皇産霊神は高木大神の事で天孫ニニギの親神と言えばお分かりになるでしょう。

 猿田彦命のイメージはそれなりにお持ちでしょうが、百嶋神社考古学では天神ニギハヤヒ、山幸彦とします。

 句句之智命は火之迦具土神(ヒノカグツチ)軻遇突智(カグツチ)、火産霊(ホムスビ)とされる製鉄神=金山彦=火の神ですね。

 保食神も百嶋神社考古学では伏見稲荷=伊勢外宮=豊受大神=筑豊の韓国息長大姫大目命(筑豊の香春岳の主神)=天宇受賣命、天鈿女命(アメノウズメ)となります。


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「佐賀県神社誌要」


 では、何故本来祀られていたはずの“淀姫”が祀られていないのでしょうか?いくつか考えられます。

上無津呂の淀姫神社を念頭に書くこととしますが、①上無津呂、下無津呂に豊玉姫、玉依姫が祀られ、淀姫神社と乳母神社がある理由は、神代一族にとって自らこそが神武天皇の直系の一族であるとの思いが込められていることは、まず、間違いないでしょう。

では、淀姫が豊玉姫や玉依姫と言えるでしょうか?結論から言えばそれは全くないと思います。私見ではあくまで淀姫の古代の読みである豊(ユタ)姫(百嶋神代系図では玉姫とも記されている)が、豊玉姫、玉依姫と理解されたか、淀姫神社の祭神が入れ替えられたと考えています。

恐らく、それを行なったのは「佐賀県神社誌要」の上無津呂の淀姫神社にも顔を出す神代(クマシロ)勝利の一族そのものではないでしょうか?

 そう考えられる理由は神代氏の出自にあります。まず、肥前の名族神代氏は、後には鍋島の同族とまでなり維新まで生き延びますが、彼らは、戦国期は肥前山内(サンナイ)を拠点に龍造寺一族と覇を競った戦国武将であり、川上の淀姫神社(の庇護)を背にして一大決戦を行ったものの、裏切りもあり敗北し、無念にも上無津呂まで落ち延び、在地庄屋の一族の嘉村氏に匿われて生延びます。

この辺りの神代一族の大活躍については、ネット上にも「北肥戦誌」が公開されており労することなく読むことができることから試みて下さい。

 結果、神代氏にとって上無津呂の淀姫神社は一族の守護神になったはずなのです。

 事実、上無津呂に対し、現在県立博物館に収納されている大小の太刀と水田が寄進されています。

 この神代一族は、古くは「鏡山」と称し、高良大社の大祝職であった宮司家一族であり、高良玉垂命の、即ち神武天皇の直系、第七代孝元天皇の子彦太忍信命の子屋主忍信武雄心命の子武内宿禰の後裔と自認していたのです。

 従って、「高良玉垂宮神秘書」にある神功皇后の二人の妹の一人が「河上大明神トナリ玉フ」の記述を知らなかったとは考えられず、その後も続く龍造寺氏との一大決戦に際して、さらに遡る神武天皇の母(乳母)祖母神である二神を祀った(淀姫の庇護を受け闘い敗北したことから、逆に嘉村一族の側から申出したものかも知れない)のではないかと考えられそうです。

 むしろ、それまで淀姫を奉祭していたのは神代を匿った嘉村一族であったはずで、自らの氏神を淀姫(豊姫)としていたものと考えています。

 その上無津呂の淀姫神社正面の岐から神水(オシオイ)川が流れ下り、下無津呂の乳母神社の縁を洗い、さらに下流の子安神社の横を流れ下っていたのです。


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この落合の地で上無津呂川が手前の川頭川と合流し神水川が産まれているのです


さて、数年前「古事記」編纂千三百年が脚光を浴びたのですが、それをさらに二百年も遡る伝記を持ち、河上、與賀の両県社を五十年は上回る神社がこの上無津呂の地で千五百年祭を祝ったのでした。


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スポット138 今度はコベルコが標的にされた

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スポット138 今度はコベルコが標的にされた

20171024

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


神戸製鋼(KOBELCOsp137-1と言えば、明治以来の老舗鉄鋼メーカーとして知らぬ者のないトップ企業です。


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神戸製鋼、不正発覚を隠蔽 数社からコスト負担請求も


[東京 20日 ロイター] - 神戸製鋼所(5406.T)は20日、製品の性能データ改ざん問題で、不正行為が明らかになったにもかかわらず、自主点検や緊急監査の際に報告していなかった事案があったと発表した。一部管理職を含むグループ従業員が行っていたという。自主点検の信頼性にも疑問符が付きかねない状況だ。

 

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会見には、梅原尚人副社長、山本浩司常務執行役員、勝川四志彦常務執行役員が出席。川崎博也会長兼社長は、体調不良のため出席しなかった。会見に出席した3人は、一連の不正について「全く知らないし、関与していない」と述べた。

隠蔽(ぺい)は、10月8日にアルミ・銅事業のデータねつ造を発表した後も行われていた。検査妨害に関与した数人以外の人がどれだけ知っていたかは、現在調査中。

梅原副社長は「即座に、これまでの自主点検や緊急監査のやり方が無効とは思っていない。他部署が検査するのでそれなりの客観性、有効性はある」としながらも「今回の内容を分析して、今後のやり方を考えたい」と述べた。

同社では、社内に設置している「品質問題調査委員会」に代えて、複数の外部委員のみからなる外部調査委員会を設置するとした。



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皆さんは、これを単なる企業の不正と考えられますか?そうではないのです。

このトップ中のトップ・メーカーのコベルコが狙われたのです。これが、いつも少々の不正を知りながら泳がせながら時期を狙ってついでに脅し、金を巻き上げようとの動きなのです。

ブリジストンが掴まされたファイアストン社製タイヤのリコール問題から始まり、アメリカ進出の自動車メーカーは元より、タカタ、東芝、日産(日産の問題は問題にされるほどのものではなく、こんなものは旧通産相の官僚の権威を維持するために持ち込まれただけのもので目くじら立てるほどの問題ではないのですが…)、コベルコ…と、まだまだ狙われる事でしょう。

結局、アメリカの金融マフィア(ヤクザが暴力と脅しによって金を巻き上げる手口と同じで、それにマスコミ(官僚も…)が協力するのですから実にうまいビジネスになるわけです)が金を脅し取るための手段の可能性が高いのです。

注目してほしいのはこのコベルコが安倍晋三の最初に就職した(送り込まれた)企業である事です。

直感として浮かぶのはロッキード事件です。

どう考えても、森友、加計に続くコベルコのようであり、同時にこの間米国などの訴訟で金を捥ぎ取ってきた動きにも見えるのです。


安倍晋三首相 神戸製鋼入社は秘書の「政略就職」作戦だった

2015.05.29 16:00

「安倍家」「岸家」という名門政治家血族の取材を40年以上にわたって続けてきた政治ジャーナリスト・野上忠興氏が『週刊ポスト』でレポートしている安倍晋三首相に関するノンフィクション。安倍首相の「就職」にはいったいどんな背景があったのかを解説する。これは、米国留学から帰ってきたばかりの時の安倍氏の状況だ。(文中敬称略)

帰国した安倍には、「就職」という人生の岐路が待っていた。

当時、農林大臣や官房長官を歴任し飛ぶ鳥を落とす勢いだった大物政治家・晋太郎の息子とあって、企業からは引く手あまただった。

晋太郎は山口県人が経営する中堅商社で社会経験を──と考えていたが、最終的には地元・下関に長府製造所を置く神戸製鋼所に入社する。

安倍の37か月のサラリーマン生活をお膳立てしたのは、岸(信介・元首相=安倍の祖父)にも仕えた古参秘書Aだ。これには選挙区事情が絡んでいた。

中選挙区制時代、晋太郎の選挙区・旧山口1区(定数4)には、他に田中龍夫(元通産相)、林義郎(元蔵相。林芳正・現農水相の父)という自民党実力者がいた。晋太郎はトップ当選を続けていたものの、大票田の下関は地元のバス会社サンデン交通などを経営する林家の地盤で、食い込めずにいた。

Aは後継者の安倍を地元の大企業に入社させれば、「林王国」切り崩しにつながり晋太郎の選挙基盤も盤石になる──と安倍の就職を晋太郎の選挙戦略と結び付けて動き出す。言わば“政略就職”だったわけだ。

Aは事前に晋太郎や鉄鋼大手5社とパイプがあった岸の了承を取り付け、神戸製鋼側にも根回しして内堀と外堀を埋めたうえで本丸の安倍攻略にかかる。

「神戸製鋼に入ることを、おじいちゃん(岸)も喜んでいる」

安倍にとって「おじいちゃん」の名前は、殺し文句である。安倍が反対するはずもなかった。

だが、タイミングが悪かった。安倍が帰国した頃には、入社試験も入社式も終わっていたからだ。

国内には配属場所がなかったため、「会社からは、英語が話せるならニューヨーク事務所に1年ほど行ってほしいと申し出があった。翌年、日本に戻して他の新入社員同様、溶鉱炉の現場を経験させることになった」(A)。

同社の記録では、安倍の入社日は「197951日」となっている。留学を打ち切って帰国した直後である。

政略就職に無抵抗だった安倍だったが、皮肉にも待っていたのは留学に挫折した米国へのUターンだった。


 
sp138-6週刊ポスト201567日号 
による


安倍晋三総理が就職した神戸製鋼所と政界への道

…いまでも「財産だった」と語る製鋼所社員時代

帰国と就職の時期が微妙にズレていたこともあってか、安倍総理は就職してすぐ一年間はニューヨーク勤務だったそうです。その後、帰国して神戸製鋼所加古川製鉄所勤務となります。

安倍総理はこの加古川製鉄所の工程課厚板係に所属し、他の新入社員と同様に、溶鉱炉の現場を経験したそうです。20073月には、たっての希望で神戸製鋼所加古川製鉄所を訪問しています。

ここで約1時間にわたり、第3高炉、厚板工場を見学した後、なつかしさからか「みなさん、ご安全に。工程課厚板係の安倍晋三です。」と挨拶したそうです。また「ものづくりの誇りをもって頑張って」と激励し、訪問の記念に耐火煉瓦に「鋼の匠」と記したとのことです。

安倍総理はメールマガジンの第21号にも、この時のことを振り返り「私の社会人としての原点がここにあります。」と謳っています。

安倍総理は1979年から約3年間サラリーマン生活を経験したことになりますが、その後「日本の製造業の強さを体感できたのは財産だった」と語り、当時の同僚は安倍総理のことを「印象に残っているのは寛容な人だったということ」と語っているそうです。…


sp138-7による

神戸製鋼と安倍晋三との繋がりについては十分にお分かり頂けるでしょう。

当然、後に100億円からの原発の受注もあったのですから見返りもきちんと確保できている訳です。

コベルコと安倍の関係を知っている人であるならば、森友と加計に続きコベルコが狙われたと考えるのは自然な理解とまでは言えるでしょう。

では、何故、この時期にコベルコ問題が表面化したのでしょうか?

この手の醜聞というものは、同盟国とされる太平洋の向こうの国を中心に常時情報収集され準備され、必要な時には何時でも必要とする人物や企業を貶めるために準備されており(仕込まれており)、逆に権力にとって都合の悪い話が表面化される場合には、芸能人やタレントのようなどうでも良いような人物のスキャンダル(覚せい剤、大麻、交通事故、暴行、不倫…)が必要に応じて利用され大規模に報道されることによって世論操作が行われる事になるのです。

この手口は見え透いていますが常套手段ですので、間の抜けたB層には十分に有効なのです。

ただ、誤解がないように申し上げておきます。

マスコミと権力とは相互対立、相互依存の関係があります。

権力中枢がどのような勢力下にあるかにもよりますが、元々、戦後登場した大新聞、新興のテレビ局、勿論、NHKも含めて、マッカーサーの占領政策に協力する事を踏絵として存続を許されたのでした。

つまり、旧地主勢力、旧軍部、旧政権関係者、旧神社関係者…といった権力に協力した勢力を監視する事を目的に認められたもので、どことまでは申し上げませんが、後にはCIAの裏工作資金で直接造られた大手新聞社やTV局までもが今も圧倒的な影響力を行使し世論工作を行なわれているのです。

このため、米国に都合が悪い政権や政治家については殺人も含めた謀略が絶えず行われ、日本の独立を妨げ続けているのです。

それがロッキード事件であり、小沢裁判であり、宗雄ハウス問題であり、新井将敬偽装自殺であり、橋本龍太郎怪死であり、中川一郎…もうこれ以上は書きませんが、地方レベル、議員レベルも含めると、累々たる墓標と政治的墓標が立っているのです。

従ってマスコミとはその程度のものであり、その程度のものでしかないのです。

敗戦後の占領政策は現在も続いているのですが、お気付きになりませんか?

その上に不正選挙があり、代々木の某既成左翼(ポツダム左翼)の占領政策協力のための解放軍規定による社会主義革命の放棄(戦後、GHQを「解放軍」と位置づけ歓迎迎合し米軍に全面協力することを前提に活動が許された)もあり、日本は二重三重の裏切り者に満ち満ちているのです。

このような政治工作は世界中どこでも行われている事ですので、日本も対抗措置として対外謀略工作を行わなければならないのですが、平和感覚しかない間の抜けた国民しかいないようでは対抗措置も取れないのです。

この問題については多くを語らなければならなくなる事から別稿とせざるを得ませんが、今回の安倍降ろしの一環として出されてきたとしか考えようのない森友、加計疑惑に続き、安倍降ろしとしか見えないコベルコ問題にはどのように見ても裏があるようにしか見えないのです。

併せて訴訟なり恫喝なりと、外国勢力を中心に内部留保を巻き上げようと言う思惑まで見て取れるのです。

現在、衆議院選挙の報道を見ながら本稿も書いているのですが、この選挙戦の最中に既にコベルコ問題が出されていること自体、今後とも安倍降ろしを継続するというメッセジが送られている事が見え、安倍本人も十分に理解しているはずなのです。

ここには、例えば副島隆彦氏が主張する、来年四月にアメリカの国家的デフォルトと中国人民解放軍の北への侵攻(勿論中国経済の破綻から民衆の目を逸らすためのものでしょうが)と米国空軍海軍(地上軍なし)の北への攻撃の可能性といった情勢の激変に絡み、米国からの独立性の志向の強い安倍政権を引き擦り降ろすための工作である可能性も見ておくべきなのでしょう。

これは、まだまだ序章であり、裏がありアドバルーンなのかも知れません。


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今回の衆議院選挙についても書きたいことは多々ありますが、仮に政権が変わろうが、米国からの政治的独立が実現しなければ見せ掛けだけの変化しか享受できない上に、乱暴なアメリカからの国富の強奪から、日本の特権層による富の強奪に代わるだけの事なのです。それでも多少はましなのですが。

「どう考えても、森友、加計に続くコベルコのようであり、…」と前述しました。

関心がおありの方は以前に書いた


スポット113 盛り蕎麦と掛け蕎麦  “籠池氏と加計氏とはどのような人々なのか?”

も併せてお読み頂きたいと思います。

490 安産の里無津呂の神々 下無津呂の乳母神社  ジネコ神社協賛プロジェクト ④

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490 安産の里無津呂の神々 下無津呂の乳母神社  ジネコ神社協賛プロジェクト ④

20170608

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


上無津呂(佐賀県佐賀市富士町)の淀姫神社から神水川沿いに一キロほど降ると乳母神社があります。


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青枠が淀姫神社、赤枠が乳母神社、それらを監視するのが如く鎮座するのが藤原の春日神社=実体は阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミ(壱岐真根子は阿蘇系ですね)


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良医久保田史郎が泳いだ神水川(冷たい水ながら川底からは温水も…)川へも容易に降りられる通路が


 乳母神社は間違いなく祭神も玉依姫大海祗命とあるのですが、不思議なことに千木は男神を意味しており、それを大海祇命(恐らく豊玉彦=ヤタガラス)と見れば対応はするのですが、これについては百嶋最終神代系譜の素晴らしさを実感して頂ければそれで良いでしょう。勿論、記紀が描く玉依姫は偽装されていますので真に受けないで下さい。


タマヨリビメ

綿津見大神(海神)の子で、豊玉姫の妹である。天孫降臨の段および鸕鶿草葺不合尊の段に登場する。トヨタマビメがホオリとの間にもうけた子であるウガヤフキアエズ(すなわちタマヨリビメの甥)を養育し、後にその妻となって、五瀬命(いつせ)、稲飯命(いなひ)、御毛沼命(みけぬ)、若御毛沼命(わかみけぬ)を産んだ。末子の若御毛沼命が、神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ、後の神武天皇)となる。

『古事記』および『日本書紀』の第三の一書では、トヨタマビメは元の姿に戻って子を産んでいる所をホオリに見られたのを恥じて海の国に戻ったが、御子を育てるために、歌を添えて妹のタマヨリビメを遣わした、とある。『日本書紀』本文では、出産のために海辺に向かう姉に付き添い、後にウガヤフキアエズの妻となった、とだけある。

第一の一書では、トヨタマビメが海の国へ帰る時に、御子を育てるために妹を留め置いた、とある。第四の一書では、一旦トヨタマビメは御子とともに海に帰ったが、天孫の御子を海の中に置くことはできず、タマヨリビメとともに陸に送り出した、とある

タマヨリビメ ウィキペディア(20170609 11:55による


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乳母神社 祭神  玉依姫命 大海祇命

創立年代不詳 元亀3(1572)3月神殿再建、貞享2(1682)5月拝殿再築の旨該社旧記に見ゆ、勧請の縁由等は不明なり。昭和9年火災により焼失、同年再建築。         出典:富士町史下p.399



490-5による


綿津見大神(海神)の子で豊玉姫の妹である。天孫降臨の段および鸕鶿草葺不合尊の段に登場する。トヨタマビメがホオリとの間にもうけた子であるウガヤフキアエズ…ここまでは正しいのですが、まず、百嶋神社考古学では、この玉依姫を豊玉彦(対馬の海神ワダツミ神社の主神)の子の鴨玉依姫とします。

 豊玉彦と櫛稲田姫(スサノウのお妃だった)との間に産れた白川伯王、天御中主~大幡主~豊玉姫の系統を引継ぐプリンセスと、豊玉姫と彦火々出見=山幸彦=ニギハヤヒの間に産れたウガヤフキアエズとの間に産れた安曇磯羅のお妃が実はヤマトタケルが誅伐した逆賊河上猛の妹の豊(ユタ)=淀姫となるのです。

 従って、百嶋神社考古学の立場からこの乳母神社の祭神を見ると、豊玉彦(大海祇命)とその娘である鴨玉依姫命を祀る神社であり、親神の大海祇命を祀る神社としての男千木が建てられているものと思われます。

 私達 九州王朝論者の目から見れば、上無津呂の淀姫神社の祭神が、通説の意識で解釈されているとしても、祭神そのものは、九州王朝それも大幡主系(白族)の神々であり、乳母神社と非常に良く対応する事が分かります。

ただ、子安神社はエリアが異なるからか、大山祇神 磐長姫命 保食神 源義経 安産の神という瀛氏、越智族系の神々が祀られているようです。

いずれにせよ、無津呂の領域は白族大幡主系の集落である事が、この乳母神社が存在する理由を証明する鍵となりますので頭に入れておいて頂きたいのです。


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スポット139(前) 内倉武久氏のブログ 「ウッチャン先生の古代史はおもろいで」のご紹介

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スポット139(前) 内倉武久氏のブログ 「ウッチャン先生の古代史はおもろいで」のご紹介

20171025

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本ブログをお読みの方ならば、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)の右手下にリンクを張っているsp139-1ブログがあることはご存じだと思います。

このブログをお書きの内倉武久氏は、元朝日新聞記者で「太宰府は日本の首都だった」外3著をミネルヴァ書房外から公刊されておられ、九州王朝論者の中では知らぬ人の無い、考古学に精通された研究者です。

 同氏は考古学を中心にフィールド・ワークを続けられ、現在も熊襲のルーツを探るとして列島の古代史を追求され続けておられます。


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 無論、同じ九州王朝論者とは言いながら、私と内倉先生との立場は異なります。

 先生は犬祖先伝説やその墓制などから熊襲を中国大陸でも南の少数民族地帯から入っているシェー族などとお考えですが、当方は、海南島を経由して雲南省の麗江から入った黎(リー)族と同じく雲南省昆明から入った白(ペー)族が阿蘇氏と熊野系ヤタガラスの一族になっており、熊襲は半島から流入したトルコ系匈奴と考えているのです。

誤りがあると申し訳がない為、詳細については内倉武久のブログをお読み頂くとして、本題に入りましょう。


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シェ族

シェ族(しぇぞく、畲族、あるいはショー族、シャ族)は中国の少数民族のひとつであり、中華人民共和国が公式に規定する漢族を含む56の民族のひとつである。

シェ族は福建省における最多の少数民族である。また、浙江省、江西省、広東省、安徽省にも居住している。

福建省・連江県には小滄シェ族郷があり、浙江省には景寧シェ族自治県がある。

シェ語はミャオ・ヤオ語族に属する。ただし、現在シェ族の大部分は近隣にいる客家と同じように中国語諸語の客家語を話す。独自の言語を保持する人々は広東省に数百人居るだけであるが、彼らは自分たちを「Hone」(中国語: 活聶 huóniè)と呼んでいる。

ウィキペディア(20171006 19:57による

 九州王朝論者である内倉武久氏も、決して古田武彦一辺倒といった方ではなく、強固な自説をお持ちながらも、通説から相当に外れた百嶋由一郎神社考古学にも部分的な関心を示しておられ、これから十年程の間に(亡くなられるまでに?)どちらが洗脳を受けるかは勝負と言ったところです。

 内倉氏とは過去10回ほど長期のトレッキングに遠征しており、旧知の関係ではあるのですが、最近の論考から転載するとともにご紹介したいと思います。

 ここではあの醜悪な宗像世界遺産登録に関してご紹介したいと思います。

以後、
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をごひいきに。


ブログNO.58 宗像の世界遺産登録はいいのだが…

2017-07-21 22:43:04


ブログNO.58

宗像の世界遺産登録はいいのだが…

◇やはりいかがわしさが満載

先日、「海の正倉院」とも言われる福岡県の宗像(むなかた)神社や古墳時代に海路の安全を祈願した場所である沖ノ島などが一括して世界遺産に登録された。全部で約八万点ともいう鏡や供え物など祭具が出土している。宗像大社は海路を守るという三女神が主祭神だ。

以前、沖ノ島の海岸でスッポンポンになって身を清め、巨岩の陰や岩上に設けられていた祭場をじっくり見学させていただいたことを思い出す。登録自体は良いことでもあるが、その根拠についてはいかがわしさが満載、といった状況だ。

 何が「いかがわしい」か、というと、朝鮮半島や中国に通う海路の安全や武勲を祈ったのは誰か、そしてそれはどういう「権力」だったのかという問題だ。

20161月に出された文化庁の「推薦書」を見たが、実に欺瞞に満ちた内容だった。文化庁はユネスコに対して英文の推薦書を提出。和訳したものを一般にも公開している。だが、英文と和訳の内容は、推薦する根拠についての記述がまったく異なっている。

 和訳には誰が祭りをしたかについて次のように述べている。

日本の古代国家は沖ノ島の神を非常に重要な交流の航路の守り神としたため、沖ノ島には当時の先進技術で作られた重要な船載品が数多く奉献された。この古代祭祀の変遷は、日本の中央集権国家形成期における東アジアの活発な対外交渉の実態を反映する。

 ここには従来のいかがわしい古代史を市民に説いている国史学者や考古学者がいう「大和朝廷」の文言はない。これならまあ何とか事実に近いことを述べていると言ってよい。問題は「日本の中央集権国家」とは何という「国家」なのかだ。

 英文ではこの疑問に対してはっきりと「Yamato court(大和朝廷)」と記している。そして「大和朝廷」は3世紀に列島の中央で誕生した。朝鮮半島の高句麗(こうくり)や新羅(しらぎ)、百済(くだら)と競い合った。・・・白村江の戦いを戦ったのは、大和朝廷と百済連合軍と唐、新羅の連合軍だ、などと記している。

この英文の記述が大ウソであることは『魏志』から『後漢書』、『晋書』、『宋書』、『隋書』、『旧唐書』など一連の中国史書を読めばはっきりわかる。これらの史書は、古来日本列島を支配していたのは「大和朝廷」であるとは一言も言っていない。

少なくとも7世紀終わりまで列島の盟主であったのは「倭(ヰ)」という国名の国であったと記している。そして『(旧)唐書』は、倭国は「伊都(倭奴)国」以来ずっと[t1] 列島の盟主であったことを記し、「大和朝廷」を表す「日本」は「倭国の別種」であったと記している。

唐は東アジアの盟主を自認していた。それに逆らって「対等」を言い出した「倭国」をつぶし、しっぽを振る「大和朝廷」への政権移譲を助けた国である。列島の内情はつぶさに知っている。

もちろんこの「倭」は中国の中華思想にもとづく卑字であるから、倭国自体は「倭」でなく、「一国」(ナンバーワンの国)とか「井(いい)国」、あるいは「伊国」みたいな字を使っていたのではないかと考えられる。

ちなみに「井(いい)」は、人の集まる所とか、掟(おきて)、易では、君子が徳を固く守っているさま、という意味もある。北部九州には今でも「井さん」がたくさん住んでおられ、神武天皇との関係が伝えられている。NHKの大河ドラマ「井伊直虎」の「井伊」もこの一族だ。10年ほど前中国・西安で見つかった墓誌に記された「井真成」ももちろんこの一族である。

「伊」は、「尹(いん)」にも通じ、治める人をも表す。日本列島を生んだという神話の主伊弉諾尊(いざなぎの命)、伊弉冉(いざなみの)尊の名前にもこの字が使われている。

◇使い分けして市民をだます

ちょっと脱線したが要するに、文化庁の「推薦書」は、何も知らない外国に対しては平気で大ウソのいかがわしい古代史を説き、多くの人が本当の古代史を認識しつつある国内向けには「大和朝廷一元論」を引っ込めた、ということだ。二枚舌である。

もし今頃、「大和朝廷一元論」を堂々と述べればどうなるか。それは目に見えている。「ウソつき」「市民をバカにするのもいいかげんにしろ」と罵声を浴び、信用はがた落ちになる。世界遺産登録どころではなくなる。裁判沙汰にもなるだろう。文化庁はそれが分かっているから「二枚舌」を使ったと思われる。市民は英文までは読まないだろう、と。

「二枚舌」に乗っかったかどうかはわからないが、僕が知る限り祭りを行っていたのは「大和政権」であると報じたのは地元の西日本新聞だけだ。この新聞社の文化財担当記者の程度の悪さがしのばれる。

◇祭りを主宰していたのは本当に宗像一族か?

当ブログを含め、これまでるる述べてきたように祭を主宰していたのは中国王朝との交流と朝鮮半島諸国への攻略を繰り返していた「九州倭(ヰ)政権」であることは間違いない。いかがわしい国史学者らは「九州年号」の存在にひたすら頬かむりを続け、一部の考古学者は「定説が疑われる様な遺跡にはコンクリで蓋をした」「定説に反する資料は出さない」などと言い、まさしく「詐欺行為」で市民をだまし、「定説」を守ってきた。

そんな「学者」らが「推薦」する世界遺産の意義をそのまま受け取られるだろうか。もちろん危うい。

宗像大社は古来三女神を祀ってきた、と「推薦書」は書いているが、本当だろうか。ある時点から現在はその通りである。しかし僕が知る限り、元来三女神を奉際していたのは大分県の国東半島の海部一族とか、筑後の水沼(みぬま=水瀦・水間)氏一族である。

『日本書紀』神代紀の一書に「即ち日神の生みませる三柱の女神をもって葦原の中国の宇佐の島に降ろしまさしめ給う。・・・これ筑紫水沼君が祭る神これなり」とある。

水沼君一族と宗像一族がどういう関係にあったかはよくわからない。

宗像郡については万葉集にこんな歌が掲載されている。

 大汝(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)の神こそは 名づけそめけめ名のみを名児山と負ひて

 吾が恋の千重の一重も慰めなくに

 (天平二年、冬11月大伴の坂上の郎女の筑前国宗形郡名児山を越えるとき作る歌一首=巻6 963番)

この歌から宗像大社は元来大己貴と少名彦を祭る神社だったのではないか、と考える人もいる。大己貴(大穴持=大国主?)や少名彦が元来いたのは山陰の出雲ではなく、北部九州の「出雲」であったらしいことを踏まえての考えだ。

日本の古代史はこれまで様々お知らせしてきたように、ウソと間違いにあふれている。ひょっとして8世紀初めに「九州倭政権」から「大和政権」への政権交代があったころ、伝統の神を祀る神社が変わったことも考えられないことではない。

いずれにせよ世界遺産への登録、という晴れがましい出来事が、いかがわしく事実とは違う古代史の糊塗に使われないよう、きびしく見守っていく必要がある。(20177月)


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スポット139(後) 内倉武久氏のブログ 「ウッチャン先生の古代史はおもろいで」のご紹介

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スポット139(後) 内倉武久氏のブログ 「ウッチャン先生の古代史はおもろいで」のご紹介

20171025

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この問題に関しては、ひぼろぎ逍遥の特番として、スポット100 宗像沖ノ島世界遺産登録といった愚行が半潰れになって多少はほっとした!20170512 を書いていますので関心をお持ちの方はお読み頂きたいと思います。

なお、内倉先生は“宗像の世界遺産登録はいいのだが…”とされていますが、当方は、宗像沖ノ島祭祀は九州王朝のものであり、決して宗像族のものではないとしており、併せて、ユネスコの世界遺産登録についても、何故、列島の文化財をユネスコといったヨーロッパの不良貴族共に委ねなければならないのかと考えていますので悪しからず。以下、一部を再掲際しておきます。



と、ここまでは見苦しいばかりの町興し、村興し、世界遺産登録…肖り運動の文化破壊、民族の誇りの放棄への危惧の話でしたが、ここからは各論としての宗像沖ノ島問題に踏み込むことになります。

 この宗像、沖ノ島世界遺産登録への運動を推進したのは言うまでもなく宗像市と宗像大社でした。

 それは、宗像市のHPをご覧になればお分かりになるでしょう(後段に一部を掲載)。

それも大風呂敷を広げ、福津市や古賀市などもダシに使い無理やり巻き込みながら、おらが町の振興のためとばかりになりふり構わず突き進んだのでした。まさに、宗像主導でついでにお零れを回すので協力しろと言わんばかりの印象を受けたのは当方ばかりではなかったでしょう。

このため、宮地嶽神社の巨大円墳の被葬者も宗像徳善君とかその縁続きの人物であり、宮地嶽神社も宗像の君の配下の一族なのだ!などと言ったとんでもない大嘘が垂れ流される始末だったのです(○ダニとその一部エピゴーネン)。

そもそも、現在、沖ノ島がみあれ祭として宗像族、宗像大社が中心となり行なわれているとしても、これが沖ノ島の深層としての古代祭祀まで遡るという証拠は一切ないのであって、事実、初期段階から沖ノ島の発掘調査を行ってきた小田富士雄氏は近年その見解を修正しているのです。

まずは、沖ノ島祭祀について小田富士夫氏の修整説を見て頂きましょう。

記事の内容は専門的で俄かには分かりづらいのですが、岩上祭祀から岩陰祭祀、半岩陰半露天、露天へと変遷してきた古代祭祀において、最も重要な後期の岩上祭祀に当たる沖ノ島21号祭祀遺跡の遺物と同時期の大首長墓(大王級)大型古墳である福津市勝浦峰の畑古墳(100m超前方後円墳)との間に対応が認められるとの見解が提出されているのです(20121026日西日本新聞)。


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このことは、長らく元九大(実は国士舘)の○ダニ氏などが主張してきたところの(最近修整せざるを得なくなったようですが)、沖ノ島古代祭祀だろうが、宮地嶽巨大古墳だろうが、何でも「近畿大和朝廷の傘下=影響下にあった地元土豪(ここでは後の宗像徳善の君に繋がる一族)が関係している」などといったほとんどデマに近い非常に怪しげなものであったことが鮮明になった瞬間でもあったのです。

古来、最低でも福津市のエリア(本来は神湊以南)は志賀島の安曇族のエリアと言われており、相島も含め、新原・奴山古墳群(津屋崎古墳群)に宮地嶽巨大古墳、さらには、昨年馬具一式が発掘され話題となった古賀市の船原古墳なども、全て宗像徳善の君に繋がる一族などのものではなく、安曇族を支配下に置いていた一族のものであるという(安曇族の大王の配下といった話もありますが、逆に陸軍に支配された海軍陸戦隊にさえ見えるのです)地元に通用する普通の考え方が再考できることになってきたのでした。

福津市勝浦峰の畑古墳(100m超前方後円墳)との間に対応が認められるとの見解が提出されている事は極めて衝撃的で、沖ノ島の古代祭祀は福津市、古賀市から福岡市にかけての人々が祭祀を行っていた、少なくとも志賀島側の海人族(安曇族)が関与していた可能性を示すものだったのであり、既に鼻息の粗かった沖ノ島宗像族祭祀(権)圏説が早くも崩れ去っていたのでした(実際は沖ノ島は九州王朝の宝物庫だったのです)。


世界遺産登録活動

 「沖ノ島を世界遺産に」という声は2002年に行われた沖ノ島物語実行委員会による「宗像大社大国宝展」をはじめとする市民の活動から高まり始め、世界遺産登録を目指す動きへつながりました。そして沖ノ島(宗像大社沖津宮)、沖津宮遙拝所、宗像大社中津宮、宗像大社辺津宮、新原・奴山古墳群から構成される「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は20091月にユネスコの世界遺産暫定リストに記載されました。

現在、宗像市、福岡県、福津市、市民団体、経済団体、文化・教育団体等で構成する「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議を設立し、地域の人々によって受け継がれてきた遺産を人類共通の遺産として未来の世代に引き継いでいくことを目的に世界遺産登録活動に取り組んでいます。


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 そもそも、このような怪しげで根拠薄弱な背景の元動いていたのが宗像大社と宗像沖ノ島祭祀だったのですが、これに関する疑問は既に当方のグループばかりではなくネット上には飛び交っており、当然ながら諮問する側も多くの情報は収集しているはずで、ささやかながらも当方の見解も拾っているはずなのです。もしそうでなければ、表面の風評しか拾えない無能なウォッチャー、アナライザーとしか言いようがないのです。

恐らくこれらの事が文化庁、ユネスコにも多少は伝わったはずであり、当然、ダシとして利用されただけの形の古賀市、福津市の不満も伝わっていたはずなのです。

こうして、危うい事を避ける官僚の自己保身が働いたか…無難な沖ノ島祭祀のみの登録へと動いた可能性も考えられるのです。

ただ、IOCやFIFAのように一旦は脅しを掛け、結果、賄賂をよこせと言うメッセジである可能性も否定できない事から、最後まで、どんでん返しも考えておく必要はあるでしょう。

所詮は日本の伝統も文化も知らない、ましてや、列島の王権引いては古代史など一切知らない外国勢力の格付けやアドバイスなどどうでも良い事なのです。

冒頭で述べた如く、日本古来の文化伝統とその物証としての歴史的遺産をユネスコ如きのキリシタン伴天連の不良貴族の末裔どもに認定して頂くと言う奴隷根性は置くとしても、沖ノ島に限定された認定勧告は常識的な落としどころといったところで(本当はこんなくだらないミシュランまがいの格付けなど辞めるべきなのですが)、今のところ、表面的にはFIFAやIOCの様な賄賂話はなかったことから比較的クリーンな決着といった事になるのかも知れません(繰り返しになりますが、まさか賄賂をよこせと言うメッセジではないでしょうから…くれぐれも…両者の動きに注目し監視を続けようではありませんか)。

なお、これまで何度となく書いていますが、宗像大社の本来の祭神は大国主命であり、近畿大和朝廷(藤原)が捏造した現出雲は九州からの国譲りの結果成立した新出雲としてのテーマ・パークでしかないのです。

だからこそ、志賀島、宗像の沖に沖ノ島があり、現出雲の沖に隠岐の島があるのです。

これらの話については、ひぼろぎ逍遥 177 大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越ながらも…他多くを書いていますので内部検索を行い拾い読みして下さい。

なお、ネット上の中にかなり重要な証拠に近いものが発表されています。I女史作成のパワー・ポイントデータからご覧いただきましょう。


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「万葉集」に証拠が残っていたのです


坂上郎女は京に帰るとき宗像の神(おおなむち・少彦名)に祈りに立ち寄った。

この歌からわかるのは、ここでは宗像神は三女神ではないこと、勝浦まで船で来たこと(道に上がり)、名児山は昔からその名がついていたこと、その名児山と聞いても自分が我子を思う心は深く何の慰めにもならないと歌い上げていること。(伊藤)


大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ、生没年不詳)は、『万葉集』の代表的歌人。大伴安麻呂と石川内命婦の娘。大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母で姑でもある。『万葉集』には、長歌短歌合わせて84首が収録され、額田王以後最大の女性歌人である。

13歳頃に穂積皇子に嫁ぐが霊亀元年(715)に死別。一説に宮廷に留まり命婦として仕えた。この頃首皇子(聖武天皇)と親交を持ったらしく、後年個人的に歌を奉げている。 その後に藤原麻呂の恋人となる。しかし、麻呂とも早くに死別し、養老末年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢坂上二嬢を産んだ。しかし、彼とも33歳頃に死別したと思われる。その後は、任地の大宰府で妻を亡くした大伴旅人のもとに赴き、大伴家持大伴書持を養育したといわれる。帰京後は佐保邸に留まり、大伴氏の刀自(主婦)として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切ったのだろう。その作風は多分に技巧的でありながらも、豊かな叙情性をも兼ね備えている。しかし、彼女の数多い男性との相聞歌は、恋の歌になぞらえて、彼らへの親しみを表したものであったり、実体験ではないのではないかとも言われている。

坂上郎女の通称は坂上の里(現奈良市法蓮町北町)に住んだためという。 ウィキペディア」による

 大友坂上郎女という重要人物の証言だけに非常に重い資料と言えるでしょう。最低でも、宗像大社の祭神は三女神などではなく出雲神話の神とされる「大国主命」「少彦名命」だったのです。

 出雲神話の舞台は九州だったのではないか?とした仮説は俄かに信憑性が高まってきました。

 きっかけは飯塚市桂川町に「出雲」という交差点があることに気付き、凡そ出雲神話など縁がないはずの九州各地に多くの大国主祭祀が拾えたからでしたが、さらに、日向の一の宮である都濃神社の主祭神が大国主であることや、宗像市、筑前町、熊本市、日置市、鹿児島市…にも大国主命を主神とする神社が存在している事を確認して行ったからでした。どうやら、「出雲」隠し「九州王朝」隠しの入口に入ってきたようです。今後とも、出雲神話の痕跡を探ることになりそうです。

491 安産の里無津呂の神々 下無津呂の乳母神社(中) ジネコ神社協賛プロジェクト ⑤

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491 安産の里無津呂の神々 下無津呂の乳母神社(中) ジネコ神社協賛プロジェクト ⑤

20170609

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 通説、百嶋神社考古学を問わず、この上下無津呂地区が白族系の集落である事がその祭神からある程度まで推定できます。

 そこで、乳母神社が存在している意味を考えたいのですが、前述の白族でも、橘氏=紀氏とは豊玉彦(ヤタガラス)の後裔を意味しており、この橘一族こそ九州王朝の妃を輩出する一族であり、彼等こそが命婦(ミョウブ)制を敷き乳母制度を置いていたものと考えられるのです。

 まず、古くは中国の周王朝にまで遡る命婦制から考えて見ましょう。


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県犬養三千代の子が葛城王から改名した橘 諸兄


橘氏 

姓の代表的なものの一つとして源氏・平氏・藤原氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称されている。

飛鳥時代末、県犬養三千代が元明天皇から「橘宿禰(たちばなのすくね)」の氏姓を賜ったことに始まる。その子・葛城王が橘諸兄へ改名した後、諸兄の子孫は橘氏を称した。諸兄は初め「橘宿禰」の姓を受け、その後「橘朝臣」の姓を賜与された。平安時代に入ると、橘氏の多くは「橘朝臣」を称した。

平安時代中期まで代々公卿を輩出したが、その後は橘氏公卿が絶え、以後振るわなかっ橘氏は、県犬養三千代(橘三千代)が姓を賜ったのち、子の葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)も橘宿禰の姓を賜ったことに始まる。

県犬養三千代は天武朝から命婦として仕えたほか文武天皇の乳母を務めたともされ、後宮の実力者として皇室と深い関係にあった。三千代は初め美努王の妻となり、葛城王や佐為王を生んだ。694年に美努王が大宰帥として九州へ赴任すると、代わって藤原不比等の夫人となり、藤原光明子(光明皇后)らを生んだ。和銅元年(708年)1125日、元明天皇の大嘗祭に際して、天武天皇治世期から永く仕えてきた三千代の功績が称えられ、橘の浮かんだ杯とともに「橘宿禰」の氏姓が賜与された。

橘三千代が天平5年(733年)に没すると、同8年(736年)1111日に三千代の子の葛城王と佐為王が橘宿禰の氏姓継承を朝廷へ申請し、同月17日に許された。葛城王は橘諸兄と改名し、佐為王は橘佐為を称した。諸兄は既に天平3年(731年)から参議に就いて議政官(公卿)を勤めていたが、天平9年(737年)には大納言へのぼると、翌10年(738年)には右大臣へ、同15年(743年)には左大臣へ昇進し、聖武・孝謙両天皇の治世期に太政官首班として政治に当たった。天平勝宝2年(750年)正月16日には朝臣の姓を賜り、これ以降、諸兄は「橘朝臣」を称した。橘氏の歴史の中で最も権勢を誇ったのがこの諸兄の時期である。

ウィキペディア(20170609 17:14による


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神水川と書き「オシオイ川」と呼びます


この乳母神社を考える時、①この制度を知っていた人々が古来住んでいた事から(もしかしたら九州王朝の皇統を守るための皇子の養育所が存在していた…という意味での)この地に乳母神社が存在していたのか?それとも、②神代勝利(九州王朝の後裔久留米の現高良大社の大祝職であった旧鏡山家)の一族が深い縁故を持ったことから命婦制に近いものが置かれ、乳母神社が創られたのか?という問題に突き当たります。

これについては容易には結論が得られないのですが、この問題がどちらに転ぼうとも神水川が注ぎ、乳母神社、子安神社に塩甞地蔵までが複合的に存在するという事実は、この地に何らかの妊娠~出産~養育への組織立った機構が存在していた様に思えるのです。

 筑豊の飯塚に大分八幡宮(福岡県飯塚市大分1272)があります。

この地は「ダイブ」と読まれています(恐らくこれが大分県の語源とも考えていますが…)。“我々九州王朝論者にとってはこれを倭王武の上表文と結び付け、九州王朝説の根拠の一つとなっている。 文中に「窃かに自ら開府儀同三司を仮し」とあり、これを三公三司(太師・太傅・太保)に倣ったと考える。魏は「師」の字を忌避して「太宰」と改めたから、太宰府市・飯塚市大分・小郡市大保をこれに充てる。”大分八幡宮の口コミ」(ある九州王朝論者のコメント)

宇佐八幡宮の元宮の一つとされ、博多の箱崎八幡宮自体は大分八幡宮の本社(本家)移転なのであり、箱崎は単なる御汐井(オシオイ)汲みのところだったのですが、この大分宮も妊娠~出産~子育に関わる場所だったはずなのです。

それを物語るかのように、参道入り口の道路の反対側を流れる側溝は今でも汐井川と呼ばれているのです。

 そうです。「太傅府」とは、古代の九州王朝の皇統を守るために準備された妊婦を受入れ、出産させ、養育する場所だったのであり、それ故に「御汐井汲み」が必要な場所だったのです。


高良玉垂命(開化)の後に神功皇后は九州王朝の天皇であった可能性もあり、神功皇后伝承が色濃く残るこの地に九州王朝の養育機関が存在し、8世紀、近畿大和朝廷の時代となり単なる八幡宮に変わった可能性が高く、それ以前はと考えると、やはりこの富士町の無津呂にあった可能性を捨てられないのです。

 九州王朝の後裔の一氏族である神代勝利が高良山の奪回を思い、山内(サンナイ)に立て籠もり龍造寺と一大決戦を行ったのですが、彼らも紀氏=橘一族であったことから、一族の記憶としオシオイ川に「神水川」という表記を充て、乳母神社を置いた可能性もあるのですが、彼らが山内に立て籠もった時期が、16世紀であったことを考えると、それ以前(といっても七世紀以前の話ですが)に既に養育機関が存在した痕跡を考えざるを得ないのです。


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ここにも古代九州王朝の養育所があったのです


大分八幡宮 カーナビ検索 福岡県飯塚市大分1272 ℡0948-72-0621


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大分八幡宮参道正面に残る汐井川の痕跡

492 安産の里無津呂の神々 下無津呂の乳母神社(下) ジネコ神社協賛プロジェクト ⑥

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492 安産の里無津呂の神々 下無津呂の乳母神社(下) ジネコ神社協賛プロジェクト ⑥

20170609

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


基本的に「肉食動物は内臓を捕食することによりミネラルを確保できますが、草食動物は岩の隙間から染み出す鉱泉や温泉の場所を知っていなければ生きて行くことはできません。

このため猟師はそのような場所を子孫に伝え、効率的に待ち伏せして獲物を得ていたのです。

このことから、温泉や鉱泉の効能や安産が結び付けられるのであり、この神水川の水系のどこかにそのような場所があり、海まで行かなくても十分なミネラルが得られていたのかも知れないのです。


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乳母神社参拝殿に置かれた昭和10年撮影の同社遠景


 この淀姫神社周辺に於いて、良医久保田史郎氏から「何故、神水川と書き、“オシオイ川”と呼ばれているのか、さらには、何故、乳母神社があるのか?」と問われた時に、この山間僻地での塩(必ずしも食塩の意味ではない)の重要さと、妊娠、出産、育児にかかわるミネラル塩の重要さが直ぐに頭に過りはしましたが、古湯温泉からさらに十キロ以上も奥に入ったこの地の辺りに具体的な古い鉱泉場の存在を知る由もなくそれ以上は思考が伸びませんでした。

 もちろん、通常の知られた温泉場ばかりではなく、梅毒、淋病が横行した時代には、方々に瘡湯(かさゆ)があったし(淫売買って鼻が落ちる…)、古くは、子宝が授かるお堂の水とか、沸かし湯に遊女まがいのものを置いた怪しげなものまでが至る所に存在していました。

 もちろん、それらの全てに科学的(医学的)な効能があったはずはないのですが、太古より長年培われ、土着の経験によって淘汰された効能といったものが確実に存在していたと考えられるのでした。

しかし、明治以後、ヨーロッパ流の保健衛生の導入と温泉法(S23)によるある種の仮定に基づいた線引きによって需要を奪われ、それらのものから排除され零れ落ちていった冷泉、鉱泉(ここでは法的な意味ではない)といったものも数多く存在していたのでした。

無論、これらの存在についての知識は土地のものでなければ解らないのですが、古老というものは実に有難いもので、今でも十人ほどに聴けば、まだ、彼らが子供の頃、彼らの祖父母辺りから聞いた話といった百数十年前まであたりの記憶が回収できるものなのです。

従って、そうした地域の知識を持たない者が限られた土地を云々することの危うさは、この一事でも明らかですが、子安神社、神水(オシオイ)川、乳母神社、塩甞め地蔵の三~四点セットは、それだけで、ミネラルを意識させるには十分過ぎるものでした。

始め、この点に関する聴き取りをしたものの、限られた範囲でしかなかったことから分からなかったのは当然でしたが、その後、上無津呂の淀姫の千五百年祭、下無津呂の乳母神社のお祭りの注連縄造りから直会の準備にまで参加し色々な聴き取りをしてくるうちに、ようやくその核心に近づくことができました。

 それは、例の良医先生に”乳母神社の前で泳いでいたか?”と問うたことから始まりました。

およそ半世紀前の下無津呂に、海などというものは一日掛けて泊まり込みでもめったには行けないものであり、泳ぐと言えば川以外にはないのでしたが、あれほど冷たい川の中で、熱水とは言わないまでも”多少とも暖かく感じる湯水が沸くところがあった”と話しはじめられたのでした。

”おいおい、そんな話はもっと早く言ってもらえば…”というのが本音でしたが、このミネラルの話はそれなりの関心を持っていないと思い至らないのが当然であり、まずは、核心に迫るには場数が必要という良い例だったのです。

 当然ながら、ほんの五十年前までは、ここでも牛か馬で田を起こしていたでしょうが、馬や牛を飼うにも塩が必要で、古代に於ける海岸部の官牧(かんまき)などは問題ないとしても、それなりのミネラル塩が染み出すような岩盤の割れ目とか、塩気のある沼地といったものがなければ牛馬の繁殖などはできないのが道理でした。

 このようなことは一般の知識からは既に消え失せていますが、地区に、神水川、オシオイ川、乳母神社の三点セットがある以上、そのような場所が地区のどこかにあった可能性はかなり高いはずなのです。

 試みてはいないが、まずは、小字名などを調べれば、水場、宇土手、潮、塩浸し…といった類のものが拾えるのかもしれません。

 話によると、現在の神水川には乳母神社本殿の裏にそれほど大きくはないものの渕があり、そこが隣の真那古集落も含めた水場だったようです。

泳いでいると直ぐに分かるのですが、温水が沸いていたというのでした。当然ながら、それ以外にもそういう場所があると考え、祭りの準備をしていた氏子の数人に話を聞いて見ました。

“雪の日にここだけは早く融けるとか、霜が降らないとかいった場所はなかったか?”と問うと、間髪入れず、川向うのテニス・コート(久保田医師のご本家)のところ…との答えが返ってきた。

 まだ、このような知識が保持されているということは、水田にした時の米の収量に直結する重要な情報であるからであり、もしかしたら大昔はこの辺りからかなりの高温泉も、出ていたのかも知れないのです。

 嘉瀬川は花崗岩質の岩盤を切り裂いて佐賀平野に流れ下っています。今でも下から、川上峡温泉、熊の川温泉、古湯温泉が多くの湯客を集めています。

 もちろん、川のそばに泉源が集中しているのですが、ここに限らず、筑後川水系においても、川のそばに温泉が集中していることは、原鶴、筑後川、日田、天瀬、杖立を持ち出すまでもないでしょう。

 温泉の形成には色々なケースがありますが、多いものは地殻の割れ目に雨水が流れ込み、地下のマグマと地下水となった水が接触するものです。

そもそも、地表にある川も地殻の割れ目(大地の罅割れ)に雨水が流れ込んだものですし、川沿いに温泉が多いのはそのためなのです。

こうして、地下のマグマと接触することにより地表に現れることになった金属を含む多くのミネラルが、山間に住む草食動物や僻地に生きる人間にも供給されるのです。

温泉やミネラルを含んだ冷鉱泉は、まさに、山に住む人生にとってこそ霊泉となったのです。


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淀姫神社の注連縄作り藻塩のなごりか?


現在、明確な形では確認できないものの、この真那古から無津呂に掛けての一帯には、日常の食生活に必要な食塩はともかくも、人間と家畜の再生産に関わるミネラル塩の供給には有利な土地であったのかも知れません。

七一三年に所謂「好字令」が出され、以後、地名には好字二字とするとされることになりますが、どのように見ても「真那古」「無津呂」は、それ以前に成立した古い集落に思えます。

これは、同時に、上無津呂の淀姫神社の創起が一五〇〇年前に遡ることの信憑性をある程度示しています。

最低でも、あの集落の水を飲んでさえいれば、「子宝に恵まれ、安産で、丈夫な子が育つ…」ぐらいの話は、積み重ねられた経験によって確認され、本当に優れた水であったならば、産婆(取り上げ婆)のネット・ワークによって肥前一国ぐらいには直ちに広がっていたことは間違いないでしょう。

祭りの準備をしていて色々と気付いたこともありました。それは、民俗学的テーマとなることからここでは避けますが、もう一つ、海水を入れた竹筒に海藻を被せたものが準備されていました。

それは、まさしくこの乳母神社意味を強く象徴しているものだったのです。

海水と藻となると、直ぐに思い浮かぶのは、藻塩(モジオ)意外にはありません。

「万葉集」に限らず、古今、新古今などにも多くの焼塩が登場します。まずは、身近なところから(3278


「志賀の海女は藻()刈り塩焼き暇(いとま)なみ櫛笥(くしげ)の小櫛取りも見なくに」


「志賀島の海女は海藻を刈り、塩を焼き休みなしに働いていることから櫛箱の櫛を取り出して身繕いする暇もない」


 このように、海から海藻を採り、天日で乾かし()に積み上げ、何度も何度も海水を汲み上げては、掛け、塩の濃度を上げて火で焼く作業を「藻塩焼く」という、古代の山村の集落においては、いかに、藻塩が重要であり貴重であったかが分かる瞬間でもあったのです。

ベージュ色の藻煎りの塩は、ヨウ素を含み、より一層生体の維持に重要な資源であったことが分かりますが、ヨードをはじめ、カルシウム、カリウム、マグネシウムと海藻に溶け込んだ豊富なミネラルをいかに山村の民が求め、長野峠を通じ、山内への塩の供給路の中継地としての無津呂の地の重要性、もしくは支配性が見えたのでした。


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乳母神社の神殿への通路 塩井汲みの竹筒と海藻が残されていますね

493 みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について

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493 みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について

20170610

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 五年ほど前に淀 姫(ヨドヒメ)という長文をネット上に公開していますが、これを公開した後に、福岡県みやま市の旧高田町江ノ浦に淀姫神社があることに気付きました。

 最近でも、みやま市山川町甲田1949 に未踏の淀姫神社を見出だしたことから、改めて調査をやり直す必要を感じているところです。

 この背景には、佐賀県の嘉瀬川以西が淀姫神社のエリアであるとの思い込みがあったからです。

思えば、京都の伏見に與杼(ヨド)神社(京都市伏見区淀本町167 075-631-2061)があり、それにちなんで新大阪の横を流れる川が淀川と呼ばれているのですから、酷い思い込みであった事を思い直しているところです。一応、伏見の淀姫神社も確認のため掲載しておきます。


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與杼神社由緒

與杼(よど)神社は、淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神として鎮座しています。

祭神は、中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)向かって右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)向かって左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱であります。

この神社は、僧の千観内供が応和年間(961年~963)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まるとある。しかし、延喜式(901年~)9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。

元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。(当時は、ここを乙訓郡水垂村といった)



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桂川河川敷の拡幅工事が実施されることになったので、本殿以下の建物は、明治33524日付の神社移転許可により、明治347月移転工事に着工、翌年5月完成、明治35621日、神社のすべてが現在の淀城址内に遷座されました。

なかでも本殿・拝殿は明治年間に移築・遷座が行われたにも拘らず、良く当初の建築様式を保存していたので、昭和46622(同年326日内定)に本殿(本殿内の木造狛犬一対を含む)と拝殿の二棟が国の重要文化財に指定されました。

しかし、残念ながら本殿は、昭和5085日午後430分頃、未成年者達の花火(飛翔性花火)遊びにより国指定の貴重な重要文化財は全焼してしまいました。             同社HPによる

高田町の淀姫神社です。


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祭神ですが、ここでも淀姫が見当たりません。社名に「淀姫神社」とあることから、昔は淀姫さんが祀られていたのではないか…?といっただけの事になりそうです。

ただ、この神社の強烈な個性といった物が一向に見えてこないのです。

上の「福岡県神社誌」(下巻115p)をご覧ください。明治6年に村社となった時点で祭神が変えられたのではないかと思うのですが、宮司にヒアリングも試みていない事から軽々には言えません。

 祭神は、豊玉毘賣命(豊玉姫)と天兒屋根命(阿蘇高森草部吉見)に住吉三神底、中、表(高良玉垂命、贈る崇神、ウガヤフキアエズ)となっており、淀姫神社の一般的な祭神である淀姫や玉依姫は片鱗も認められません。

淀姫神社の名だけは残っている事から、明治の村社昇格前かもっと古い段階で淀姫は隠されたのではないかと考えられます。では、元はどのような祭祀形態だったのでしょうか?

境内神社として稲荷神社(天宇受賣)、八釼神社(建速須佐之男命)、高良神社(高良玉垂=開化)、大日神社(大日孁貴」)があります。

少しバラつきが大きくて見当が付きません。

ただ、ここでも社殿の造り方から元は高良神社だったのではないかと考えてしまいます。

この結論を出すのは、同一エリアのみやま市山川町甲田1949 の未踏の淀姫神社を確認した上で再評価させて抱きます。現段階では、ファクトが少な過ぎて、全く絞り込みができないのです。


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しかし、社殿、境内は豪華そのものの造りであり、みやま市瀬高町河内の玉垂宮併設現仁神社を彷彿とさせます。


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