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494天香香背男(アメノカガセオ)を祀る神社 佐賀県編 鹿島市三河内の三嶽神社

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天香香背男(アメノカガセオ)を祀る神社 佐賀県編 鹿島市三河内の三嶽神社

20170610

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


現段階で神武に逆らったとされる長脛彦を祀る神社と考えている神社が九州にも十社近くあるようです。

 それは、「神奈備」氏によるもので、「天香香背男」と「神奈備」とでも検索すれば、直ぐにそのデータが拾えます「天香香背男命を祀る神社一覧」…。

 九州では、これまで「岐神」(クナトノカミ)とか「長脛彦」(ナガスネヒコ)として探していた事から拾えなかったのですが、この「天香香背男」という北関東などを中心とする神名として無視していたもので、「天香香背男」検索すると、九州でもこの神名で存在する事に気付いたのでした。

 そこで、梅雨入り直後の佐賀県鹿島市に向かったのでした。


天香香背男命を祀る神社一覧(神奈備)


福岡県浮羽郡吉井町大字福益1358 熊野神社摂社三光神社「天照皇大神 配 月讀神、天加賀世男神」

佐賀県鹿島市大字三河内丙1 三嶽神社「廣國押建金日命 合 星神ほか」

熊本県阿蘇郡南小国町赤馬場2364 冠神社「阿蘇大神 合 大年神、星神」

大分県佐伯市大字鶴望2421番地 星宮神社「香香世男大神ほか」

大分県佐伯市大字守後浦44番地 産靈神社「天香香背男神」


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 鹿島市の中心部から西へ67キロも入ったかなり奥まった地区に三嶽神社が鎮座しています。


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純農村地帯と言ってもそれなりの山岳地帯(多良岳山系)に連続する領域への入口といった場所なのですが、付近には殷の鳥居を持つ八天神社があり、土穴(古代の溶鉱炉を意味する)という地区があるように製鉄の神、金属精錬の神が居たような場所であると言う印象は持っていました。

 実は、以前この地区で勤務していた事があるのですが、この神社にも仕事の合間を縫って参拝していた事がありました。

 ただ、社名と位置とが一致していなかった事から、直前までこの神社だとは思っても見ませんでした。

 神社に近づくにつれてあの神社じゃないかと思ったのですが、その通りでした。

 百嶋神代系譜によれば、イザナギとイザナミとの王子であるスサノウと金山彦と埴安姫の王女である櫛稲田姫との間に産れたスーパー・スターの長脛彦を奉斎する氏族=その後裔氏族がこの地に入り、製鉄を続けていたのではないかと考えるのです。

 これで、敬愛するHP「神奈備」氏のリストに基づいて全ての天香香背男を祭祀する神社を見た事になります。

 この外に鹿児島県南さつま市の坊津と出水市野田町で二つ確認していますので、7社を確認した事になりますが、それよりも福岡県飯塚市伊岐須の高宮八幡宮こそが本拠地だったのではないかとの感触を掴んでいますので、8つの祭祀があるように思います。

 これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 431 飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か? “鳥見の長脛彦は飯塚にいた”をお読みください。

 では、三嶽神社の由緒をご覧下さい。


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同社由緒記


水分神はスサノウのお妃である神大市姫=罔象女(ミズハノメ)

廣國押武金日神は継体天皇の子の安閑天皇とされる神

日本武尊はヤマトタケルですね

大山祗は説明不要ですが、長脛彦の祖父になると言えば分かりやすいですか?

菅原道真も説明不要ですが、実は長脛彦の後裔氏族でもあるのです。

星神こそ神武天皇に楯突いた逆賊とされる長脛彦です。

しかし、民族と民族の衝突なのですから逆賊でも何でもないのです。

 

 さて、上の4枚目の写真の鳥居の神額には蔵王宮(蔵王権現)と書かれていました。

 これこそが、長脛彦の祖父にあたる金山彦なのです。


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そして、その先には多良嶽山岳修験への道が延びていました。

 これを見たとき、確かに長脛彦を奉斎する修験集団が存在した事を確信したのでした。

 金属柵は猪除けです。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 研究目的で百嶋由一郎氏の音声CD、手書き資料スキャンニングDVD、神代系譜スキャンニングDVDを必要とされる方は09062983254までご連絡ください


スポット134 九州北部豪雨災害に於ける棄民とポルトガル内務相の辞任

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スポット134 九州北部豪雨災害に於ける棄民とポルトガル内務相の辞任

20171019

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


カリフォルニアの大火事も凄まじいのですが、ポルトガルでも今年二度目の大規模な森林火災によって、百人の死者を数えるに至っています。

ポルトガル(34.74%)とかスペイン(36.2%)イタリア(31.61%)といった国の森林面積は右の数値のとおりです。

まず、これをそのまま受け入れられるかと言った問題は残るのですが、ギリシャでさえ31.45%とされていることからこの統計は農耕地、住宅地、商工業地をそのまま数値化したものだろうと思います。

出典は<出典>WORLD BANK - Data Indicators ですが、ヨーロッパの感覚から言えば、灌木程度の山も森林に見えるのでしょう。

こんなものは森林ではないと言うのが私の感覚です。

そもそも地中海沿岸一帯は、降雨量が少なく、アジア・モンスーン帯に比べれば気温も低い為一端切った森は再生せず、従って保水力を失った山は水を保てず、さらに乾燥化が進み、イタリアの様に、実質的には水のない国になってしまうのです。

それは、ギリシャ、ポルトガル、スペイン…と言った、かつて海洋覇権を競った国は森林を叩き切って、三段櫂船(ガレー船)、無敵艦隊(アルマダ)などに変えて以来、森林が全く消え去っているのです。

実質的には、マルタやキプロスの数値(10%台)が正確ではないかと思うものです。

この点、切っても、切っても3040年程度で森が復活し、百年も経てば大森林が再生するという列島の有難さに改めて感動してしまいます。

話が逸れましたが、結果的にポルトガルも森の貴重な国である事は言うまでもなく、百人の死者を出すという二度の巨大森林火災森の責任を取って、女性の内務大臣が辞職すると言う騒ぎになっているのです。 

勿論、その理由は、管理の悪さを巡って追及されたものですが、それが普通に考えられるほど、責任の所在を明確にすると言う姿勢だけは評価できるのではないでしょうか?


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ポルトガル中部ペドロガン・グランデで17日に発生した山火事で、スペイン政府は18日、61人が死亡したと明らかにした。複数が行方不明のため、死者数は増えるおそれがある。政府は、3日間の服喪期間を発表した。消防士1600人態勢で消火活動にあたるものの、火はまだ鎮圧されていない。

ホルヘ・ゴメス内相によると、30人の遺体が幹線道路に向かう路上の車内で発見され、さらに17人が車両の横で発見された。犠牲者には幼い子供も4人含まれる。多くが、車で炎を逃れようとする途中、煙にまかれたり火傷を負ったりして死亡したもよう。火災が原因の交通事故で亡くなった人たちもいる。

11人が幹線道路沿いの村で死亡した。

負傷者は54人に上り、消防士4人もこの中に含まれる。

現場は首都リスボンから北東200キロの山間部で、火は156カ所にわたり燃え広がった。現在は11カ所で燃え続けているが、首相は「特に2カ所が心配だ」と話している。

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良く報道されていますので記事は省略します。

 では、皆さんは北部九州の豪雨災害と比べて、どちらが深刻だとお考えになるでしょうか?

 簡単に言えば、朝倉~日田に掛けての人工林崩壊による山林破壊の方が遥かに深刻なのです。



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朝倉市の「道目木」~「梅ケ谷」地区などの崩落現場と今後も続くはずの崩落危険地


 理由は簡単です、山火事の場合は土壌が失われておらず、むしろ焼却灰によって大量の肥料が撒かれた様なもので、日当たりも良くなり、雨さえあればたちどころに植物が再生し、徐々に森が回復するのです。

 ところが、植物にとって遥かに環境の良い列島ながら、千年単位で培われた土壌を喪失し岩盤が剝き出しになった傾斜地の崩落地が再生に向かうなどおいそれとは行かない事は明らかで、それよりもこの欠け始めた山腹の土壌が今後とも崩落していく可能性の方が遥かに大きいのです。

 皆さん、大した事の無いポルトガルの森林火災で内務大臣が辞任すると言う事実に対して、多くの死者を出し、千年単位で培われた貴重な土壌を流失させた農水省や林野庁の無様さとを考え合わせる時、如何に薄汚く情けない状態であるかがお分かり頂ける好例だった訳です。

 せめて、農林水産大臣とは言わないまでも林野庁長官の一人ぐらいは辞任させるとか、自ら責任を感じて辞任すると言った態度を示す人間は出てこないのでしょうか。

 政策の転換から正しい林野行政(今の状態ならばこんなものは寧ろない方が余程良い)など期待する事も出来ず、今後とも何度も人工林崩壊による洪水が大規模に頻発する事になり、結局、経済情勢によっては人口林を現場で焼却処分しなければならない所まで行くのではないかと思うものです。

 本来、林野庁長官ぐらいは、被害を出した朝倉の杉の木にでもぶら下がって、犠牲になった人々にお詫びをしても一向におかしくは無いのですが、自らの仕事に責任も能力も持っていない事が良く分かるような気がします。

 それどころか、今後とも有力なグリーン発電、リサイクル発電に天下りしようなどと考えているのが関の山といったところでしょう。


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モスクワ (スプートニク) - インテリア事務ポルトガルの大臣は、都市の Constança スーザは、ポルトガル語のテレビ チャンネルの報告 Tvi24、少なくとも 41 人の死を引き起こした森林火災によって辞表を提出しました。

「自治省大臣を紹介してくれた正式に辞任"Tvi24 によって引用された総理大臣、コスタ、アントニオは言った。

総理大臣は、「献身とコミットメントと国を務め「ウルバーノ ・ デ ・ ソウザを感謝しました。

辞任の理由は、41 人が死亡、70 の傷害の原因となった火災です。


 あまりにも酷い林野行政ですが、最後にこの林業と言う産業がどの程度国民経済の役に立っているかをご紹介しておきます。

 既に農林水産業の日本のGDPに於ける占有率が1パーセントに墜ちていますので、それ以下である事は明らかですが、害悪しかもたらしていない(ほとんど国産材の市場価値などないのですから)のならば即刻廃止し、自然林に戻していく事を考えた方が、災害復旧費を投入しないだけ遥かに益しである事は間違いがないのです。

 勿論、GDPに反映されている数字は金銭だけで、実際にはそれだけでは考えられないものがある事は十分承知していますが、害悪の方が大きくなれば、もはや産業ですらないのです。


林業      2,110÷5,305,452×1000.03977…%

農林水産業全体 (46,7072,1107,358)÷5,305,452×1001.0588…%


お分かりでしょうか、農林水産業自体が1パーセントでしかなく、林業はそのまた25分の1でしかないのです。

 この状態で、国土の保全にも何もなっていないのならば、林業だけは一部を除き(江戸時代の杣山程度)を残し即刻廃止し、もう少し役に立つ産業へと業種転換、就職斡旋へと動くべきではないかと思うものです。


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495 日向神峡を見下ろす神社 “福岡県八女市矢部の日向神社”

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495 日向神峡を見下ろす神社 “福岡県八女市矢部の日向神社”

20170612

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 筑後地方でも最も峻嶮な地形の場所に鎮座する神社と言えば、まず、八女市矢部の日向神社が頭に浮かびます。


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この北部九州最大の大峡谷に徹底的に景観を破壊する日向神ダム(重力式補助多目的ダム)が建設され始めたのは昭和28年(19531962)の事でした。

 集水域には農水省により大量の針葉樹が植えられたことから(拡大造林政策)大量の土砂が流れ込み続け、今や堆砂容量を越え膨大な土砂を抱え込んでいることでしょう。

 このため早晩ダム式発電は水路式発電と変わり果て、そのうち大地震も引き起こされる事でしょうから、無用の長物どころかダムの劣化により(既に着工から65年近くなっている)危険極まりない代物になっていることでしょう。

 ダムは千年持つなどと大ぼらを吹聴していたのはどこのどいつだったかを思い出して頂きたいと思います。

 この初期の企画で造られたダム建設用の付け替え道路(これ自体の改修も進められていますが)の脇に鎮座し、水没しなかったダム直下の峡谷を望む位置に鎮座するのが、今回とりあげる日向神社(ヒュウガミシャ)です。


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ニニギ、コノハナノサクヤはとりあえず理解できますが アマテラスとの組み合わせは奇妙です


 「福岡県神社誌」に記載がないと思い無格社一覧を見ると、下巻は425pにありましたが、祭神は由緒と一緒でした。

祭神のニニギ、コノハナノサクヤはとりあえず理解できるもののアマテラスとの組み合わせが奇妙ということから思考が中断し、いつも詳しく見ようと考えなかったのですが、参拝殿の脇からさらに上への参道があることに気付き、今回は落ち着いて見る事にしました。

ただ、夕暮れが迫っています。足早での下見に入りました。


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さらに上に置かれた祭祀であることから三神より偉い神様であろうと考えます。

 ニニギの父神であれば高木大神、コノハナノサクヤの父神であれば大山祗となるでしょうが、古い高木大神のエリアではあっても、あまり事例が無い事から大山祗とする方が無難な気がします。

 情報が足りない事から何か拾えないかと考えていると、


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参道 鳥居は明らかにこの山を意識して造られていました


参道方向の南にスガ岳があることに気付きました。参道はこの山を目掛けて鳥居も建てられているのです。


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ここでは、一応、アマテラス、ニニギ、コノハナノサクヤという祭神を受入れ、話を進めますが、実は

この一帯にも天孫降臨伝承があるのです。

 筑後の古代史に関心を持たれる方は目にされた方も多いと思いますが、千寿の楽しい歴史 というblog

があります。

 一~二度、直接お会いしてお話しした事もあるのですが、この日向神社に関してこのように書かれています。


千寿の楽しい歴史kusennjyu.exblog.jp


2016邪馬台国勉強会(日向神社・八女津媛神社)・千寿の楽しい歴史

邪馬台国勉強会
日向神社・八女津媛神社)
熊川猛司宅  平成28年6月9日
資料は講師の熊川猛司氏資料を借用しています。
奥八女に残る神話と伝説


高千穂峰や高千穂峡国周辺をはじめとして、天孫降臨地はいくつもあるが、奥八女にもまた日向神峡を中心として、黒木町・矢部村に天孫降臨が伝えられている。

 日向神社(黒木町)には『日向神本記』なる縁起が伝わっていたというが現存せず、『日向神案内助辨』(宝暦12年・1762年)に収載される逸文によって、その概要をうかがうことができる。

 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、この地に天降り、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を娶り彦火火出見尊(ほこほほでみのみこと)・火明尊(ほあかりのみこと)・火闌降尊(ほすせりのみこと)の三御子神を生む 火明尊を日向神に留め給いて日向神明神となし、彦火火出見尊と火闌降尊の二尊は日向国に遷し給う。


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といった内容が説かれる。また日向神峡の一帯には空室・古敷岩屋・湯ノ瀬・茅原・竹刀などの地名があって、産所・産衣を埋めた所・産湯を使った場所・産所の屋根を葺(ふ)いた茅(かや)を刈った所・臍胞を切った竹刀を埋めた場所などと、それぞれに天孫降臨伝説に連なる話が付会されている。
 日向神明神となった火明尊にまつわる話も、蹴穿岩(けほぎいわ)や蹴穿石として伝えられる。ちなみに日向神という地名については『北筑雑藁』などに、その昔、日向国から飛んできた神が住むところからついたと説かれている。
 日向神峡からさらに奥の矢部村一帯にかけては、八女津媛(やめつひめ)の伝説地でもある。
 『日本書記』景行天皇条には、丁酉、八女県(やめあがた)に到る。即(すなわ)ち藤山を越えて、以って南粟崎(あわさき)を望む。詔(みことのり)して日(もう)さく、其の山の峰岫(くき)重畳(かさな)りて、且 (か)つ美麗(うるわ)しきこと甚(はなはだ)し。
若し神其の山に在るか。時に水沼県主(みるぬまのあがたぬし)猿大海(さるのおおあま)奏して言(もう)さく。女神有り。名を八女津媛と日(い)う。常に山中に居ます。故に八女国の名、此れに由るりて起これり云々

『誰にも書けなかった邪馬台国』 村山健治著


 これを読むと、異質な「天孫降臨伝承」から無格社にされた事の意味が多少は見えてきました。

まず、本文によれば、日向神大明神は月足の集落が奉斎する神社である事、神社の脇には御手洗川という温泉の湧く川が注ぎ、川を望む黒岩という大岩塊からは汐井川(恐らくミネラルを多く含む)という川が注いでいた…といった事が読み取れます。

今後も調査は進めますが、山上の祭祀が如何なる神のものであるかが不明なためこの神社の古層も含め解析ができない状態にあります。

 考えを進める際に一つの手掛かりと考えているものに、「月足」という現地地名があります。

 「月田」(群馬が最大)も「月足」も肥後から筑後に目立つ地名であり氏名でもあるのですが、「月足」は、まずは、山鹿から八女に掛けて集中する姓氏と言えるでしょう。

 この「三日月」「月田」「月山」「月足」といった「月」に絡む姓氏、地名は大山祗系のトルコ系匈奴が持ち込んだものとの思いを深めています。


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何故かと言うとトルコ系匈奴の大山祗の姉の越智の姫と金山彦の間に産れたアイラツ姫(本物の神武のお妃)のアイラールがトルコ語の「月」"aylar"を意味しており(「ひぼろぎ逍遥」スポット055 吾平津姫をご存知ですか? “アイラツヒメとはトルコの月姫だった” 参照)、「月足」集落には大山祗、コノハナノサクヤとの関係が考えられるのです。

 このため、山上祭祀は大山祗ではないかと考えたのですが、この神社が正面を向く山がスガ(スガはスサノウの…の意味でしょう)岳と呼ばれる事も多少気になるのです。スサノウのお妃の一人の神大市姫(ミズハノメ)も大山祗の嫡女である事から、これまた大山祗を意識するのです。

スポット140 太宰府地名研究会の神社トレッキングに参加しませんか? “先行繰り上げ掲載”

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スポット140 太宰府地名研究会の神社トレッキングに参加しませんか? 

20171027

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


現在、太宰府地名研究会では福岡、大分、熊本の三県に於いてトレッキングを行なっています。

 さすがに大雨ともなれば室内での勉強会に切替え延期にもしますが、小雨程度ならば傘を刺してでも可能な限り現場を踏むという方針で探査を続けています。

 このような、自らの頭と手足を使って調査をしようと言う姿勢なくしては古代の真実への扉を開けることはできないと考えているからです。

この点、古代史の多くが北部九州で起こっている…とする九州王朝論者にあっても、目と鼻の先にあるフィールドに一切出ようともせず、濃厚な伝承が残り重要な現場が存在するにも拘わらず一切調べようともせずに、薄っぺらな“邪馬台国本の読み比べ”を行っているようでは結果として九州の現場など見向きもしない大嘘つきの学会通説派の尻押し団体となっているだけの事なのです。

 もっとも、○○研究会といった人々も現場は見て廻っていると言う方はおられるでしょう。

 しかし、○○検定とかボランティア歴史ガイドなどと称して通説派の学芸員が造った型通りのコースを丸呑みし、それ以外は一切誤りだ!などと調教され強弁する輩が産みだされる構造を容認しているだけの古代史ポイントを見て廻るだけで、調査旅行と称する慰安会をやっているだけでは何も発見できるはずはないのです。

 所詮、自前の講演会を行ったとしても右から聴いて左に貫けるだけのような人々集まりではどうにもならないのであって、自らの目と手足を使って現場を探索する気概と意志を持ち続ける人にだけ古代は微笑み掛けるのです(意志あるところに道は開かれる)。


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特に、1119日に予定している 神功皇后の生育地を探る! トレッキング(佐賀県佐賀市三瀬村)では、神功皇后の両親である父 息長宿禰王(オキナガノスクネ)と母 葛城高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)が住んでいたと考えられる(神功皇后もそこで産まれた?)佐賀県の北山ダム周辺の神社とそこに注ぐ初瀬川一帯を訪ねます(勿論、このブログを公開する時点では終了していますが)。


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野波神社縁起


今も何がしかの真実を求め、例え一人であっても丹念かつ静かに神社を訪ねておられる多くの方がおられます。

これに対して、村興し町興し世界遺産登録に動員される情けない人々、また、かつては古田武彦九州王朝論に惹きつけられ通説から決別したと思い込んでいる方にあっても、自らは何も調べようともせず、後世に記録を書残そうともせず、当然、纏まった古代も描けぬまま、所謂、「邪馬台国本」を何の系統性もなく読み勝手に思い込み、「邪馬台国論議」だけで良しとしている恥ずべき人々もおられるのです。

このような人々に比し、経験はないものの若くも現場に入ろうと思う人の方が余程正しい軌道に乗っているものと思います。

勿論、神社ばかりではありませんが、肥前の東部から太宰府、久留米、八女、熊本、筑豊、豊前、豊後

…には多くの古代史の謎が封印されています。その一つにこの神功皇后の生育地もあるのです。

詳しくは、スポット131 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた!“宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”をお読み頂きたいと思います。

まず、神功皇后の母親(神)とされる葛城高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)ですが、三瀬村の東隣に脊振村があります(現佐賀県神埼市)。

ここには鹿路(ロクロ)という集落があり(コミュニティ・バスのバス停は「桂木」)一言主神社までがあるのです。

実はこの地こそ故)百嶋由一郎氏が、“昔はここも「高良」と呼ばれていた九州王朝の中心的な集落であり、初期の九州王朝の安全な中心地であった”と言われている場所なのです。

付近には、旧背振村永江(表記が長柄、永江、長江…だったか覚えていませんが)があり、そのまま、葛城長江曾都毘古(古事記)(カツラギノナガエソツヒコ)を思い起こさせます。

ソツヒコの「ソツ」は、佐賀県旧牛津町(現佐賀県小城市)の牛津(ソツ)かも知れません。

それだけに、その後裔である葛城高額比売命は旧脊振村、旧三瀬村一帯にいたと思われる葛城一族の後裔である可能性が否定できないのです。

sp140-6一方、父親(神)の息長宿禰王(オキナガノスクネ)はひぼろぎ逍遥にリンクされておられる、「沖永氏は秋永氏である。」の顛末記というサイトにおいて書かれていますが、息長一族が現久留米市田主丸町一帯に拠点を持っていた事は確実で、その位置関係を考えると信憑性が極めて高いのです。


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第一義的には宮原誠一の神社見聞牒 No.25 神功皇后生誕の地・佐賀背振の野波神社 をお読み頂きたいのですが、関連してひぼろぎ逍遥 066 葛城のナガエソツヒコは神埼市(旧脊振村)桂木にいた でも触れていますのでついでにお読み頂きたいと思います。

このように福岡市内から一時間ほどの場所にも古代史の重要なポイントが無造作に転がっているのです。

してみれば、馬鹿げた○○古代史の会といったところで通説派と変わり映えのしない話を聴くのは止めてトレッキングに参加されては如何でしょう。

オープン参加ですので直接参加もOKです。      当日の連絡先:09052892994 09062983254

496 賀茂族が守る子安神社 “佐賀県唐津市七山村桑原の子安神社”

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496 賀茂族が守る子安神社 “佐賀県唐津市七山村桑原の子安神社”

20170619

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 佐賀県の脊振山系と言ってもイメージが湧かないと思いますが、福岡市~糸島市の南側に聳える脊振山系の南麓に三瀬村、富士町(いずれも現佐賀市)、七山村(現唐津市)がありました。

 この旧富士町に子安神社、塩甞地蔵、淀姫神社、乳母神社が神水川(シオイガワ)の川沿い並んでいた事から(子安神社、塩甞地蔵は嘉瀬川ダムにより水没移転)、妊娠、出産、育児に絡む祭祀が集中している事から、長文の淀 姫(ヨドヒメ)を書き、太宰府地名研究会のHPにも掲載しましたが、今般、この妊娠、出産、育児に絡むプロジェクトが進んでいる事から、再度、子安神社に関して調べていると、旧七山村にも同名の子安神社があることに気付き急いで調べて見たのがこの神社でした。


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 富士町の下無津呂集落から峠を越え、桑原の集落に入ると子安神社は直ぐに見つかります。

 今回、子安神社の件で初めて入った所ですが、本当の隠れ里のような集落で山に囲まれ外敵の侵入から守りやすい地形をしています。



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始めに目についたのは同社の縁起でした。

 祭神は、神功皇后、応神天皇、仲哀天皇という八幡神社としては良くある祭神ですが、これが本来の祭神で無い事は一目で分かります。

 我々がいう所の偽装八幡の類なのですが、社殿は手入れが行き届き、集落の尊崇の念が伝わって来るようです。


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何故、そういえるかと言うと、以下の寄進者名を見たからでした。


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半数は加茂さんがおられるのです。

 加茂さんは、鴨とも賀茂とも書きますが、上賀茂、下賀茂神社を支えた人々であり、百嶋神社考古学では、中国の雲南省昆明から紅河を降りハロン湾沖の中国の海南島(現海南省)を経由し熊本から北上し筑後、肥前東部、日田、博多一帯に隈地名を持ち込んだ博多の櫛田神社の大幡主の一族=白族なのです。

 彼らは、熊野系とか出雲系とか言われる神々を祀るのが通例で、八幡神はいわば押付けられた神々でしかなく、多分、旧七山村にある賀茂神社の祭神が本来の祭神のはずなのです。

 クマノフスミ(イザナミ)、豊玉彦、アカルヒメ、大幡主、カミムスビ、崇神…あたりになるはずです。


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 海南島南西部に加茂という集落もありますが、黎族、白族が住むエリアです。


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加茂さんが数多くお住まいの桑原集落


 元々、桑原という地名は方々にあるもので、桑田、桑原、桑野、桑島、桑名…は桑を植え、蚕を養い、絹を作り、絹織物を持って財力を蓄えた秦氏か、後から入った秦人の太秦系の人々なのです。

 だからこそ、京都には繊維関係、染色関係の産業が存在し、上賀茂神社(崇神天皇系)、下賀茂神社(ヤタガラス系)が存在するのです。

 この桑原にもかつては桑の木が植えられ、蚕が変われていた事でしょう。

 以前はランダムに成立したものと考えていましたが、この桑原と加茂姓の密集を考えると、絹織物生産を支えたところは元々白族系の集落である事が見えて来ました。

 では、入れ替えられた祭神とは何だったのでしょうか?


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黒尾大明神は武内宿祢なのでしょうか?

497 研修所郊外にもバンがいた

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497 研修所郊外にもバンがいた

20170623

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥 463 延岡市郊外のバンの群れ というブログを書きましたが、この日田市天ケ瀬温泉五馬高原の一帯にもバンがいる事に気付きましたので画像だけを公開しようと思います。

その前に、延岡市郊外のバンの群れの一部をもう一度見て頂きましょう。

以下、…。

では、そのクイナの仲間をご覧ください。


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クイナの仲間ではバンと大バンが比較的良く見かけるのですが(と言ってもめったに見掛ける事はありません)、佐賀県では水田や蓮根田などで結構見掛けましたし、30年ほど前に佐賀市の隣町の三日月町(現佐賀市)に住んでいた頃には家の周りの用水路と言うか川と言うかに十羽ほどのバンが住み着いていたので直ぐにその類である事が分かったのでした。

有名なのは、ヤンバルクイナですが、バンは嘴の上が赤く、大バンは嘴が白いと思っていれば、だいたい見当が付くのではないでしょうか?

では、ご覧いただきましょう。

ちょっと分かり難いかも知れませんが、嘴が白い事から大バンで間違いないのです。

間違っても、アヒルとかカモではありません。


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川の中を見ると、百匹は数えられる大型のボラが鯉のように泳いでいました。

 しかし、巨大住宅団地の直ぐ傍にバンがいるとは思いもよりませんでした。


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車には、常時、望遠鏡と財)野鳥の会による図鑑を入れていますので、気付いた時には確認するようにしています。

 少しずつでも野鳥の種類が分かるようになっていくのは楽しいのですが、このように普通の住宅地で野鳥や魚が確認できる所はどんどん減っています。

 勿論、バンも大バンも、大阪のオバン(関西を中心に分布する豹柄や光物模様の済州島出身の総連系)同様に生活力、抵抗力の強い鳥で、決してひ弱な鳥ではないのですが、このような大都市近郊の住宅街で普通に見掛けられるのは稀であり、この地域の方達は幸せな方であると思わざるを得ません。

 既に、農水省、林野庁の全土を針葉樹林化させてしまうという愚かな行為によって、ミネラルが欠乏した上に、土壌流出、保水力の低下によって川に弾力性が失われ、林野庁の利権構造によってダムは土砂で埋め尽くされ、川は砂利の流出によって瀬も淵も失われた賽の河原が広がっています。

 戦後70年の間に、あれほどいた魚が身の回りからほとんど消えてしまいました。

 農水省のほ場整備事業によって、どこにでもいたドジョウやメダカやホタルは元より、フナ子やタナゴも全て消し去られ、密かに釣り具メーカー(口先では環境を守りましょうと言っているのですが…)がバス倶楽部などに補助金を流して増殖、移植が行われたブラック・バスが蔓延してしまいました。

 川は上から下までコンクリートの三面張りによって魚やホタルの生息域を失わせましたし、カエルさえも激減し、結果、蛇も珍しい動物に思われる時代になってしまいました。

 この連中は、国民経済のためにも、国土保全のためにも、国民のためにも全く働いていません。

 昭和30年代から始められた遅れた拡大造林政策によって売れもしない針葉樹が急傾斜地に放置され、崩壊と洪水、土石流の順番を待っている状態です。


 では、昨日見掛けたバンの画像をご覧頂きましょう。

 延岡市のバンの様にどうどうと歩くようには慣れていないようで、二羽が道路に飛び出してきて慌てて止めて写真を撮ったのですが、この程度のものしか撮れませんでした。

別に野鳥の会の会員などではないので責任は持ちませんが、多分オオバンではなくバンの雄だと思います。


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調べると、日本野鳥の会 大分県支部が2017528日(日)にバード・ウィーク探鳥会(日田地区)を行っているようですので、大分県にはまだ野鳥の会の会員が残っておられるようようです。

私には野鳥よりも野鳥の会の会員の生息調査をやらなければならないのではないかと思っていますが、環境が破壊され尽くし、バード・ウォッチングをやるような国民のゆとりも奪われ、もうしばらくすれば、土建屋と産廃業者と薄汚い議員どもにより野鳥が生息できる環境どころか、まっとうな生業で生きて行こうとする人々の生存環境さえも破壊され尽くされるであろうと思っています。

日本野鳥の会にしても環境省からだかの補助金が流れ込み、役人の天下り先となった中央の野鳥の会が、地方のダム建設や河川開発に反対する地元の野鳥の会を尻目に、他地域にも同種の鳥はいるからその程度の開発行為は許容範囲などと易々とGOサインを出すのですから、鵜やハシブト烏やアオサギや鳩だけが残り、他は消え去るだろうと思っています。

人間界でも同様に、金銭しか関心がない頭の悪い土建屋と産廃業者と薄汚い政治家連中だけが生き残り

国家を食い潰す事になることでしょう。

 もはや、書道教室、お茶、お花、バイオリン、ピアノ、三味線、詩吟…といった習い事、風雅、風流を支えたものも成立しなくなり、百円ショップとファースト・フードで生活するつまらない国に成り下がっているのです。

 それもこれも中曽根以来、小○竹○の国富のアメリカへの売り飛ばしであり、今また東芝やタカタが食い物にされ、それを薦めた通産官僚どもだけがアメリカから分け前をせしめているのです。

 こんな国家は早く潰れた方が良いのであって、日本列島(劣等)民族である事をやめるしかないのです。

 

スポット141 林野庁の照れ隠し “朝倉針葉樹林崩落の問題隠しとしての残木伐採”

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スポット141 林野庁の照れ隠し “朝倉針葉樹林崩落の問題隠しとしての残木伐採”

20180119

太宰府地名研究会 古川 清久


 2017年の初夏を襲った朝倉~日田に掛けての豪雨災害(九州北部豪雨)については、これまでにも多くを書いてきました。


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朝倉の崩落地の遠景


スポット112 朝倉~日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした!

スポット115 山に木がある方が安全だと思い込んでいる人に対して! 本当に豪雨が原因なのか?

スポット116 災害復旧に意味があるのか!

スポット117 ヒート・アイランドを引き起こした無能な国土交通省 “熱 禍”

スポット122 大量の土壌流出と木材流出は今後も継続する“平野虎丸ブログのご紹介を兼ねて”

スポット123 筑後川の南から北の被災地を眺める 悲しい棄民国家の現実

 “ここでも「災害地名」が意味を持っていた「道目木」「梅ケ谷」”

スポット125 朝倉から日田にかけての山々の行く末について

スポット128 林野庁が引き起こした九州北部豪雨災害によってとうとうJR日田彦山線までもが廃線に!




sp141-2従って、今回の話はその続編となります。

 秋には気づいていましたが、多くの被害を引き起こした朝倉の山田パーキング辺りから杷木インター辺りに掛けての崩落地の多くが、いつの間にか北朝鮮の委員長のような頭に刈り上げられていることに気付きました。


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杷木インターに近い朝倉市杷木町の筑後川左岸から北を望む 黄枠は皆伐地です


口先では「針葉樹と広葉樹に保水力の差はない」とか「長期の保水力の調査を行ってみても針葉樹林地と広葉樹林地からの流出水量に差はない」(これは数百年千年と言う単位で培われた広葉樹林地を伐開して針葉樹林地とされた土地に針葉樹を植え管理したものを短期間調査したものであって、所詮、その土壌は広葉樹林が生み出したものだからでしかないのですが…つまり広葉樹林の遺産としての腐葉土の豊かな土壌のおかげなのです)などと言っておきながら、超伐期施業宜しく育成(実質放置)した506070年生の人工林地で崩落しないで留まった(今後崩れてくる予備軍)も含めて一気に伐採しているのです。

 安全だとか、伐開するよりも森がある方が余程安全だ!などと言ってきたのならば、残しておいた方が良いはずなのに、慌てて皆伐してしまっている事は、林野庁自身も今回の豪雨災害が、自らが引き起こしたものであり、針葉樹林そのものの害悪もさることながら最悪の超伐期施業による放置林が今後とも崩落し続ける事に気付いた事からこそ慌てて災害復旧事業として皆伐へと踏み切った事がはっきり丸分かりになってしまったのでした。


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恐らく地元では「今後も雨が降ればいつ崩れて来るか分かったものではない!」「このままではこの土地には住み続けられない」「今崩れているところの隣からどんどん崩れてくるに決まっている!」「災害復旧などしたって何の意味もない…」といった怒号が飛び交った事でしょう。

 まず林野庁の官僚どもとは、①針葉樹林が危険極まりないものである事を十分に分かっていながら、針葉樹を植え続けるべきだと言い続ける確信犯的な大嘘つきの売国奴なのか?②中国以外に売る事も出来ない針葉樹を植え続けるべきだと思い込んでいる本当の馬鹿なのか?③どんなに嘘をつこうが、自分さえ良ければ人はどうなっても良いという目先の利害しか関心のない連中なのか?と思っていましたが、いち早く刈上げ作業を行った事から考えれば、林野庁の政策決定を行った連中も、本当は①の国民を欺く確信犯的売国奴であった事が明らかになったようです。

 勿論、末端の小役人どもは、③のその場しのぎで何の考えもない人間なのでしょうが、一番始末におえないのが、県の林業課辺りに巣食い現場にも入らずに、大学だけで林学を齧った連中で、②の針葉樹の有用性を信じ込んでいる間の抜けた林学の徒なのでしょう。

 しかし、北朝鮮の将軍様の様に、今も上の方には超樹齢の売れない運べない大木が崩れる順番を待っている状況には変わりはありません。

このため、作業用仮設道路に水道ができ、今後もそこに雨水と土砂と倒木が流れ込み崩落が続く事になるでしょう。

 都市生活者とか業種の全く異なる人々にはほとんどお分かりならないと思いますが、当面、目先の危険性が一時的ながら回避されることにはなりました。しかし、問題は残っているのです。

 それは、今後も針葉樹の苗を植え、再び50年後60年後の大災害を準備するという計画だからなのです。

 その理由は、今回の大災害が“決して針葉樹が原因ではない”という事を言わんが為だけに、またもや誰も管理しなくなる、売れもしない危険極まりない針葉樹林を維持して行くという方針だからです。

 いずれ、5060年後には再び崩落すのですが、その頃にはその政策を決定した森林組合、市町村林業課、県林業課、林野庁の馬鹿の4乗、大嘘つきの4乗である関係者どもも、自らの無能さのせいで犠牲となった被災者を横目に天下りしてぬくぬくと人生を全うすると同時に、この無用な林業と言う何の価値もない利権構造を維持できる事になるのです。

 可愛そうなのは天下りの腐敗官僚とは全く別の人生を送る事になり、シミッタレタ義捐金しか貰えない被災者ばかりなのです。

 一応、ネット上には、まだ、この問題についての記事が残っていました。これほどの大問題でありながら、一般にはあまり理解されてはいないようですので、二本ほど読んで頂きましょう。




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林業の悪循環、防災に影 人工林管理、行き届かず

20170717 1604

上流域から根が付いたままの巨木が流れ、集落を襲った=12日、福岡県朝倉市杷木林田写真を見る写真を見る


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福岡県と大分県の豪雨水害は、土砂崩れによる大量の流木が被害を拡大した。被災した集落には根が付いたままの大木が広範囲に横たわり、人工林のもろさを印象づけた。

一帯は林業が盛んな地域。流木の原因をたどると、日本の林業が克服できていない課題に行き着く。

 福岡県朝倉市の杷木林田地区。安否不明者の捜索現場のそばに、流木が山積みになっている。5日の豪雨では、上流から流れてきた木々が橋桁や欄干に引っかかり、そこに土砂がたまって川があふれた。

 中には直径50センチ、長さ10メートルを超える大木もある。枝はなく、樹皮は剥がれている。土砂とともに流れる間にぶつかり合い、丸太になったとみられる。福岡県の推計によると、朝倉市と東峰村の流木は少なくとも20万トンを超える。

 なぜ、これほど大量の木々が流出したのか。地元の林業関係者や専門家は複合的な原因を指摘する。

 朝倉市や隣の東峰村の山あいは、地表の近くに花こう岩が風化した「まさ土」が堆積しており、大量の水を含むと崩れやすい。

 そこに植えられたのは、根を深く張らない針葉樹のスギやヒノキ。種子から成長する場合は深く密集した根を張るが、人工林は挿し木から育てるため、根は浅く、密度も低い。木を真っすぐに育てるにはある程度密集させるため、根は広がらない。

 今回は短時間に記録的な雨が降り注ぎ、地表面のもろい地層が木々と崩れ落ちる「表層崩壊」が同時多発的に発生した。面積の86%が山林で、スギの人工林が多い東峰村の渋谷博昭村長は「国策で植林したが、今は伸び放題。雨が降るたびにおびえなくてはならない」と苦境を訴える。

(自ら旗を振っていながら今さらなにを… 古川)


■    ■

 流木や倒木による災害は5年前の九州北部豪雨をはじめ、何度も起きている。その背景には、長く続く林業の悪循環がある。

 国は高度経済成長期の木材需要の高まりを受け、全国で植林を推進した。スギの人工林はその象徴だ。木材輸入の自由化、木造住宅の需要低下などの影響で、1980年代以降は国産材の価格が低迷。伐採期を迎えた木が半ば放置されている地域もある。

 今回の被災地の林業関係者も「木材の価格が安すぎる」と口をそろえる。スギ(中丸太)の価格は、1立方メートル(直径50センチの材木4メートル分)当たり1万円強。ピークだった80年の3割程度まで下がった。

 価格の低迷は、林業従事者の減少に拍車をかけた。国勢調査によると、60年は44万人だったが、2015年は5万人を割った。高齢化も進む。

 人工林は木が真っすぐ成長するように、数年おきに適正な間隔を空けるための間伐が必要だ。シダやササの下草が生えやすくなり、表土の流出を防ぎ、保水力を高める効果もある。だが林業従事者の減少で間伐が行き届かず、樹齢40年以上の木も残されている。

 人手不足を補う機械化に合わせ、森林に重機が通れる作業道が整備されたが、朝倉市の林業関係者は「雨水が作業道に流れ込んで川や滝のようになり、倒木や土砂崩れを引き起こす一因になった」とみている。

 林野庁は流木災害の構造や減災対策を探るチームを初めてつくり、近く現地を調査する。治山課は「被災地域は林業が盛んで、森林の手入れをしていたので、このくらいの被害で済んだとも言える」との見方を示し、流木を止めるくし状のダム(スリットダム)の設置などを検討する方針だ。

 東峰村の渋谷村長は、森林が下流域の水源を養い、川から海に栄養を与える機能があることを強調。「植林を推進した国は現状を改善する手だてを示してほしい」と要望する。


◇      ◇

●防災の観点で森林整備を

 九州大大学院の久保田哲也教授(森林保全学)の話 今回は樹齢40年を超えた大木が、豪雨に耐えられずに倒れて被害を拡大させた。一斉に植林すると、根の深さがそろってしまうので、根の下の地層が弱くなってしまう。

 いまさら拡大造林の失敗を指摘しても始まらない。国はこれを機に、産業としてではなく、防災の観点で森林整備に取り組むべきだ。伐採した後は自然林を育て、危険箇所には治山公園を設置するなどの対策が必要。そうしなければ同じ惨事を繰り返す。

この記事は20170717日付で、内容は当時のものです。


「いまさら拡大造林の失敗を指摘しても始まらない。」も御用学者の一流の言いまわしですね…自己保身だけはきっちり守っておられるようです。




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九州北部豪雨災害 間伐不足が被害拡大

森林、人工林の復活に間伐材の活用を多くが伐採の適期 経済性をどう取り戻す

九州北部を襲った豪雨災害では限られた地域に猛烈な雨が降り、福岡県朝倉市や東峰村山間部のいたるところで表層崩壊が発生、大量の流木が中小河川を塞き止め被害が拡大した。記録された雨量は24時間で500㍉を超え、「30年に一度」、「50年に一度」といった豪雨を前にすると、人間の社会活動が地球温暖化―異常気象の大きな原因となっているのは最早、疑いようがない。


(これは大笑いですね…CO2温暖化論をまだ信じておられる方がおられるのですね…、ただの原子力マフィアと組んだ国家によるデマでしかないのですが、それほどの豪雨ではなかった事は以下で書いていますのでお読み下さい!)


スポット112 朝倉~日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした!

スポット115 山に木がある方が安全だと思い込んでいる人に対して! 本当に豪雨が原因なのか?


同時に今回は、これまでの災害で見られなかった圧倒的な流木が被害を一層、大きくした。報道などによると、この地域の山間部は風化しやすい火山性の地質で、猛烈な雨により、いたるところで表層崩落が起きたのが原因とされ、間伐など手入れの行き届かない人工林の問題も改めて浮き彫りになった。

わが国は国土の67%が森林、うち約40%は人工林と言われる。温暖化の進行で豪雨は今後も起き、人工林の手入れが行き届かない現状では、特殊な地質でなくとも、同様の災害は避けられない。間伐材のバイオマスエネルギーへの活用など森林を復活させる取り組みが改めて急務となる。

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根が付いたまま流れ着いたスギの大木


九州山林管理局などの調査によると、土砂崩れは朝倉市と東峰村の山間部約300ヵ所で発生、大量の土砂と流木が10の河川に殺到。橋に引っかかる形で川をせき止め、あふれた濁流が地域を襲った。福岡県は流木の量を36万立法㍍、20万㌧としているが、土砂に埋まったままの流木や海に流された分は含まれず、実際の量はもっと多いと推測されている。
 朝倉市杷木地区で支援活動に取り組む日本財団メンバーによると、近く流れる寒水(そうず)川の長さ7~8㍍の若鳩橋周辺にも大量の流木が重なり、流されるうちに表皮がはがれ、根が付いたままの流木も多く、中には直径70㌢、長さ15㍍にも成長した巨木も目に付くという。この地域は林業もさかん、人工林からも大量のスギやヒノキが流出したと見られている。


▼建材として出荷までに70年


 全国森林組合連合会のWebサイトなどによると、人工林は戦後、全国的な造林運動として造成され、成長が早く、密集して植えることでまっすぐに育つ特性を持つスギやヒノキ、マツなど針葉樹が植えられた。最も多いスギの場合だと、最初に1㌶当たり3000本前後の苗木を植え、木の生長に合わせ数年ごとに間伐を繰り返しながら適正数を保ち、最終的に500600本まで間伐する。
最初の57年はつる草の除去など下刈り作業。810年頃から育ちの悪い木や邪魔になる広葉樹などを伐採し、10年過ぎから木を真っすぐに成長させるための枝打ち作業を進め、高級建材として最終的に出荷できるまでに70年近く掛かる。この間、15年目ぐらいから間伐材でも一定の商品価値が出るが、当初は何の価値もなく、ひたすら気の遠くなるような作業が続く。


▼80%以上が間伐実施せず


森林の70%以上は個人が所有する私有林。多くが植林後60~70年、伐採の適期を迎えているが、安価な外材に押されて値崩れし、建設ラッシュにもかかわらず、2000年の立木価格は20年前の34%まで落ち込んでいるという。かつて薪や木炭として使われた間伐材は石油やガスに代わり、一方で伐採に掛かる費用や苗木価格が上昇。人手不足もあって、同年の調査では、3ヘクタール以上の森林経営者のうち82・3%が間伐を実施していない、と答えているという。
森林は手入れを怠れば、葉が茂っている樹冠部分が重なって地面に光が射さず下草が生えない。結果、栄養を含んだ土は雨に流され、根が十分張らないため幹が太らない線香林が増え、風雪害で折れ、大雨で根こそぎ流される。針葉樹は広葉樹に比べ根が浅く、九州北部の豪雨災害では、崩れやすいこの地特有の地質も加わって、圧倒的な豪雨に耐えられなかったようだ。
 現状のままでは、森林、特に人工林の経済性は成り立たない。しかし森林の保水力や水質浄化力、さらには今回のような表層崩壊の防止力を見込めば、抜本的な森林対策、人口林対策を進めることで得られる価値は限りなく大きい。しかも「〇〇年に一度」といった豪雨は、今後も間違いなく頻繁に起きる。
間伐材をバイオエネルギーとして活用する試みも進んでいると聞く。東日本大震災での東電原発事故を受け、原子力エネルギーの活用が難しい情勢にある。間伐材を有効に活用する道は十分あるのではないか。そうすれば森林や人工林の手入れを復活させる道も開け、災害対策だけでなく地域おこしにもつながる。未曽有の豪雨被害を前にそんな思いを強くする。()


 “針葉樹林が豪雨災害の原因ではない”という事を言い続ける必要性があるというその一点だけで、今後とも将来の災害の原因を創る馬鹿げた再植林が行われることになるのですが、最早、元のような針葉樹林は再生しないであろうと考えています。

 本来、広葉樹の森が卓越する気候風土の地において植林を行い、一定の森にするためには、それ相当の継続した労力を投下する必要性があります。しかし、少子化と労働力の現象の中で、今時山に入り根気のいる下草払いや、危険な間伐作業を行う若者が出て来るとは凡そ考えられないのです。余程高性能で効率的な林業ロボットでも普及しない限り、列島での人工林の維持はおろか再生産など全く不可能だからです。

 既にこの半世紀の間に林業従事者は十分の一に減っています。

もうしばらくすると、高齢化によって現在の林業に携わっている世代が総崩れになるはずです。

筏流しもキンマも修羅も策道さえも知らない人々が中心になってしまうのです。

 こうして、林業従事者の組織的崩壊によって、せっかく植えた無駄な植林も、早晩、元の広葉樹の森へと戻って行くことになるでしょう。

 こうして、林業という馬鹿げた産業の世紀は百年程度で終わる事になるはずなのです。

 そのためには、まだまだ、第二の朝倉、日田が発生する必要があるのかも知れません。

 そして、林野庁は嘘をつき続ける事でしょう。

 彼らは国家のためにも、国民のためにも、国土のためにも、国民経済のためにも一切働いてはいないどころか、被災者の犠牲にも何一つためらいを抱く事も一切無く人生を終えることになるのです。

 実に素晴らしい価値ある人生と言えるでしょう。

498 大分市に高良社があるのをご存知ですか?

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498 大分市に高良社があるのをご存知ですか?

20170623

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 国東半島では表向きは八幡宮(と言っても紀氏の石清水八幡系ですが)ではあるものの、脇には摂社として高良神社(高良玉垂命=開化天皇)と若宮神社(高良玉垂命と神功皇后との長子仁徳天皇)を祀る祭祀を数多く見ていますが、大分市内に高良社がある事はつい最近まで気付きませんでした。

 これも大分県下でのトレッキングを行い始めた事からメンバーから教えて頂いたのですが、大分市の郊外と言っても良いような古国府(フルコウ)地区に高良社があります。


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改築された事から非常に綺麗で物足りなさを感じるほどでした。


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祭神こそ武内宿祢とされてはいるものの、古代の県庁(国衙)跡地である古国府にある上に、付近には若宮八幡神社がある事から、九州王朝の版図を示す痕跡としか思えません。

 こんなものをこれまで気付かず放置していたこと自体が不明の極みなのですが、理由は昭文社の道路地図(県別マップル)大分県2005年版にありました(いつもながら昭文社の地図は間違いが多いですね)。

 「高良社」を「高根神社」と書いている事からこれまで気付かなかっただけなのです。

 重要と思えるエリアについては必ず目を入れている訳で、事実、鉛筆で印を入れているのですから、高良社と書いていれば必ず現地踏査に入っているはずなのです。

 ともあれ、遅れ馳せながらも現地を踏みました。


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ご覧の通り高根神社こそが高良社だったのです(とにかく晶文社の道路地図は誤りが多い…)。


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由緒からは延暦24805)年に高良山からの勧請とのことですが、この時代には既に九州の宗廟を宇佐に渡している(749年)はずなのです(「高良玉垂宮神秘書」)。

近畿大和朝廷による支配が確立している時代に久留米から勧請したとは多少驚きます。

 古くは大分川沿いの小丘(古代のウォーター・フロント)に国衙、国府が存在したのですが、この高良社も川に突き出した岬状の土地の上に鎮座しているのです。

 高良玉垂命を武内宿祢とするのは藤原の偽装なのですが、実に感動的な一社でした。


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この神社の参拝殿最上部には木瓜紋が打たれていました。

 これは高良大社の本物の神紋ではなく(勿論、現在の高良大社も住吉の左三つ巴と併せて使用しているのですが…)これは金山彦の神紋で、本当の高良大社の神紋は内部に隠された門光=唐花紋なのです。


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そして、神殿にはその唐花が打たれていたのです。これが本当の九州王朝の神紋なのです。


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499 大分市古国府の高良社の真北に若宮八幡宮がある

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499 大分市古国府の高良社の真北に若宮八幡宮がある

20170624

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


498 大分市に高良社があるのをご存知ですか? の続編になります。

古国府~高良社の正確に真北600メートルほどのところの大分市の中心部に若宮八幡社があります。


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社伝では、建久7年(1196年)6月に大友氏初代当主大友能直が豊前・豊後二国の守護として下向した際、鶴岡八幡宮の分霊を勧請して建立したと伝えられるが、史実は不明である。当初は古河津留(現在の岩田町周辺)に建立されたが、大分川に近く水害に遭ったため、建仁元年(1201年)に現在地の東側に遷座した。中世の大友氏館から見て南西(裏鬼門)に位置しており、豊後国の国府が置かれた府内の鎮守として大友氏から代々崇敬を受けた。

ウィキペディア(20170624 08:59による


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祭神 帯中津比古命 品陀和気命 息長帯比賣命 大雀命 外神として善神王


今回は下調べをしていませんので資料がありません。勿論、「大分県神社誌」といった物も発行されていません。

勢い、ネット情報に頼る事になりますが、敬愛する499-3の資料から縁起を借用させて頂きました。当方の写真では読みにくいからですが、有難い限りです。


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祭神の帯中津比古命 品陀和気命 息長帯比賣命 は鶴岡八幡宮のスタイルですが、大雀命は、通常、仁徳天皇大鷦鷯(オオサザキ)命ですが、八幡三神に仁徳が並ぶのは珍しい形だと思います。

問題は仁徳にあります。応神天皇(ホンダワケ)の子であるなどとするのは、藤原による偽装であり、高良玉垂命(実は開化天皇)と仲哀無き後の神功皇后の間に産れた九州王朝の長子若宮こそが仁徳(シレカシノミコト)なのです。

 一応、当方の写真も掲載しておきます。


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当方で撮影した同社由緒


 この間、列島の全域、当方が確認した北限としては、栃木県那須の那須神社の境内社の高良神社、山梨県山梨市の大井俣窪八幡神社に非常に立派な高良神社、若宮神社があります (ひぼろぎ逍遥 433 勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”参照)。

 大分県下でも国東半島には全域で高良神社と若宮神社(若宮八幡宮などを含む)が共に、若しくは分離して祀られる祭祀形態が残っており、これは、九州王朝の高良玉垂命と仲哀死後の神功皇后の間に産れた長子仁徳天皇=シレカシノミコト以下、朝日豊盛命、朝日豊盛命…の痕跡であり、仮に分離されているとしても、以前は共に祀られていた可能性が高いのです。

 高良神社については四国でも4県に15社を確認しており若宮神社も確認しています。

中国地方でも数は少ないのですが、全域に高良神社、若宮神社を確認できますし、兵庫県から京都府でも数社を確認しています。

これらはひぼろぎ逍遥でも随時報告していますので確認を試みて下さい。

 なお、若宮八幡社由緒略記にある善神王は、菅原道真の父と認識しています。

 今後も大分県下での調査が進めば、まだ、まだ遭遇する事になる物と考えています。


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大分市内には若宮八幡がまだまだあるのです(未調査)

スポット142 神功皇后は三瀬村で産まれ育ったトレッキングと米田良三説「九州王朝の長谷寺」

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スポット142 神功皇后は三瀬村で産まれ育ったトレッキングと米田良三説「九州王朝の長谷寺」

20171029

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


スポット140 太宰府地名研究会の神社トレッキングに参加しませんか? において、神功皇后の生誕地、生育地を探るトレッキングを行なう事をお伝えしましたが、これはその続編になります。


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特に、1119日に予定している 神功皇后の生育地を探る! トレッキング(佐賀県佐賀市三瀬村)では、神功皇后の両親である父 息長宿禰王(オキナガノスクネ)と母 葛城高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)が住んでいたと考えられる(当然にも神功皇后もそこで産まれた?)佐賀県の北山ダム周辺の神社とそこに注ぐ初瀬川一帯を訪ねます。


勿論、神社ばかりではありませんが、肥前の東部から太宰府、久留米、八女、熊本、筑豊、豊前、豊後

…には多くの古代史の謎が封印されています。その一つにこの神功皇后の生育地もあるのです。

詳しくは、スポット131 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた!“宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”をお読み頂きたいと思います。

まず、神功皇后の母親(神)とされる葛城高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)ですが、この二神を主神とする神社がある上に三瀬村の東隣に脊振村があります。

そこに葛城一族の初期の拠点もあったように見えるのです(現佐賀県神埼市)。

ここには鹿路(ロクロ)という集落があり(コミュニティ・バスのバス停は「桂木」)一言主神社までがあるのです。


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実はこの地こそ故)百嶋由一郎氏が、“昔はここも「高良」と呼ばれていた九州王朝の中心的な集落であり、初期の九州王朝の安全な中心地であった(高良の表示も)”と言われている場所なのです。

付近には、旧背振村永江(表記が長柄ではなく小長江…だったと記憶していますが)があり、そのまま、葛城長江曾都毘古(古事記)(カツラギノナガエソツヒコ)を思い起こさせます。

ソツヒコの「ソツ」は、佐賀県旧牛津町(現佐賀県小城市)の牛津(ソツ)かも知れません。

それだけに、その後裔である葛城高額比売命は旧脊振村、旧三瀬村一帯にいたと思われる葛城一族の後裔である可能性が否定できないのです。

sp142-3一方、父親(神)の息長宿禰王(オキナガノスクネ)はひぼろぎ逍遥にリンクされておられる、「沖永氏は秋永氏である。」の顛末記というサイトにおいて書かれていますが、息長一族が現久留米市田主丸町一帯に拠点を持っていた事は確実で、その位置関係を考えると信憑性が極めて高いのです。


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野波神社縁起


勿論、神社ばかりではありませんが、肥前の東部から太宰府、久留米、八女、熊本、筑豊、豊前、豊後

…には多くの古代史の謎が封印されています。その一つにこの神功皇后の生育地もあるのです。

詳しくは、スポット131 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた!“宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”をお読み頂きたいと思います。

それだけに、その後裔である葛城高額比売命は旧脊振村、旧三瀬村一帯にいたと思われる葛城一族の後裔である可能性が否定できないのです。

一方、父親(神)の息長宿禰王(オキナガノスクネ)はひぼろぎ逍遥にリンクされておられる、「沖永氏は秋永氏である。」の顛末記というサイトにおいて書かれていますが、息長一族が現久留米市田主丸町一帯に拠点を持っていた事は確実で、その位置関係を考えると信憑性が極めて高いのです。

ここにお読み頂きたいサイトがあります。


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もう20年近く前に出された「法隆寺は移築された―大宰府から斑鳩へ」をご存じの方は多いと思いますが、九州王朝論者の中でも際立って異彩を放った米田良三氏は「長谷寺考」という実験稿を出されています。

「法隆寺は移築された…」にしても、同氏が東工大出身の建築の専門家であった事から非常に衝撃的で、その後も九州王朝の一部が畿内に移動して以降、徐々に自らの所有物である九州の多くの廃寺にが存在したはずの建造物を60年単位の改築に併せ随時移転して行ったのではないかと思わせるに十分な展開を描いたのでした。

米田氏は現在も建築の現場に関与されていると思いますが、十年ほど前から「長谷寺」さえもこの三瀬村と太宰府とを軸とした話であり、古典文学の再考を行う必要性があるのではないかとの一石を投入されたのでした。

その米田氏の応援サイトがAB&JC PRESSです。

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以下は米田良三の「長谷寺」などをネット上に宣伝している渡辺先生の引用ですが、ネット上にあるものからお知らせします。長谷寺があった場所の直ぐそばの下ノ宮、野波神社付近で神功皇后が産まれた可能性があるのです。

さて、倭国長谷寺の存在を証明する方法は色々あると思うが、いにしえの文学作品、絵巻の描写をもとに試みることができる。長谷寺参詣の話が登場するのは『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『蜻蛉日記』等があるが、後世の写本がテキストであるとか、現在の場所に移築してからの長谷寺を念頭においての記述もあることから、正確さに欠ける分は割り引く必要がある。
 『源氏物語』のなかで玉鬘が初瀬詣でに向かうのだが、倭国の京(大宰府)から歩いて4日目の巳の刻に椿市に到着し、旧知の右近と再会する。そして右近と三条の会話の中で観世音寺が話題となる。京(大宰府)を出発した場合は神埼郡三瀬村の椿市で自然だが、これまでの解釈では京都を出発し、奈良の初瀬で九州の観世音寺の情景が共通の話題として出ることは不自然といわざるを得ない。この件につき古文の教師をしている高校時代の同級生に意見を求めたところ、フィクションはあくまでフィクションと問題にしなかった。
 『枕草子』の「初瀬に詣でて」を読むと「いみじき心おこして参りしに、川の音などの恐ろしう、呉階をのぼるほどなど、おぼろげならず困(こう)じて、云々」とあり、すぐ近くに川が流れている回廊をのぼる描写である。『五木寛之の古寺巡礼 ガイド版』によると、登廊は1042年につくられ、紫式部、清少納言の頃には「本堂までの参道は、境内東側にある急な坂道だった」とある。(倭国)清少納言が随筆の中でありのままを描写しているとすると、(平安)清少納言はありもしない呉階をでっち上げていることになる。
 徳川美術館にある「源氏物語絵巻」には無い長谷寺の場面が
ハーヴァード大学が所有している「源氏物語画帖」にある。構図に雲を加える洗練された描写で斜め45度のスカイビューである。現在の長谷寺と決定的に異なる点は、舞台の床板と屋根付き通路がほぼ同じ平面に描かれており、通路は登廊ではなく、愛知万博のグローバルルーフのような空中回廊と判断できる。つまり、回廊は初瀬川をまたいで架けられているのだ。当初、私は「画帖」にある登廊が本堂の前を通過していない点を米田氏に指摘したところ、本堂と回廊が同じ平面にあるという事の方がポイントであるという前記の答えを得た。我ながら、いいところに目をつけたものと自信たっぷりであったが、プロの建築家のほうが一枚上手であった。
 その回廊は舞台の右手に向かった後、左に折れ、長めのアプローチが本堂に向かう。この「画帖」が倭国の時代に描かれたにしろ、後世に模写されたにしろ、この場面は移築説でしか説明できないであろう。ちなみに、江戸時代に土佐光則によって描かれたとされる長谷寺の場面は現在のそれに似ているものの周辺の描写に乏しい。
 
米田氏が作成した説明付きの地図を見ると、本堂が建っていた丘、杉神社、回廊のターンする所、雲井坂、蛇行する初瀬川等すべて「源氏物語画帖」にあり、地図上X点から南西を見れば、私の作ったコラージュのごとく各々の位置関係はピッタリ一致する。さらに北には「宿」という集落があり、そこが物語に出てくる「椿市」であろう。戦前は住人も多かったと地元の人が言っていた。一帯はスピリチュアルな雰囲気が強く感じられ、最近ブームのパワースポットとも聖地とも呼ばれそうなところである。
 源氏物語マニアは是非行くべきであり、そこが元祖 〝初瀬の御寺〟 の抜け殻スポットであると実感するであろう。それにしても、この一帯が全くと言っていいほど開発の波に洗われなかったことは奇跡であり、まだこの国にはツキが残っていると息長足姫尊に感謝したい気持ちである。
 以上が倭国長谷寺跡発見のあらましである。
 りょうぞう&しょうぞうは日本史の根本をひっくり返す発見をしたのである。マスコミが本気で報道するのか、4月1日付けのトンデモ記事でお茶を濁すのか、今後の展開はしばらく高みの見物である。

 さて、倭国長谷寺の存在を証明する方法は色々あると思うが、いにしえの文学作品、絵巻の描写をもとに試みることができる。長谷寺参詣の話が登場するのは『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『蜻蛉日記』等があるが、後世の写本がテキストであるとか、現在の場所に移築してからの長谷寺を念頭においての記述もあることから、正確さに欠ける分は割り引く必要がある。
 『源氏物語』のなかで玉鬘が初瀬詣でに向かうのだが、倭国の京(大宰府)から歩いて4日目の巳の刻に椿市に到着し、旧知の右近と再会する。そして右近と三条の会話の中で観世音寺が話題となる。京(大宰府)を出発した場合は神埼郡三瀬村の椿市で自然だが、これまでの解釈では京都を出発し、奈良の初瀬で九州の観世音寺の情景が共通の話題として出ることは不自然といわざるを得ない。この件につき古文の教師をしている高校時代の同級生に意見を求めたところ、フィクションはあくまでフィクションと問題にしなかった。
 『枕草子』の「初瀬に詣でて」を読むと「いみじき心おこして参りしに、川の音などの恐ろしう、呉階をのぼるほどなど、おぼろげならず困(こう)じて、云々」とあり、すぐ近くに川が流れている回廊をのぼる描写である。『五木寛之の古寺巡礼 ガイド版』によると、登廊は1042年につくられ、紫式部、清少納言の頃には「本堂までの参道は、境内東側にある急な坂道だった」とある。(倭国)清少納言が随筆の中でありのままを描写しているとすると、(平安)清少納言はありもしない呉階をでっち上げていることになる。
 徳川美術館にある「源氏物語絵巻」には無い長谷寺の場面が
ハーヴァード大学が所有している「源氏物語画帖」にある。構図に雲を加える洗練された描写で斜め45度のスカイビューである。現在の長谷寺と決定的に異なる点は、舞台の床板と屋根付き通路がほぼ同じ平面に描かれており、通路は登廊ではなく、愛知万博のグローバルルーフのような空中回廊と判断できる。つまり、回廊は初瀬川をまたいで架けられているのだ。当初、私は「画帖」にある登廊が本堂の前を通過していない点を米田氏に指摘したところ、本堂と回廊が同じ平面にあるという事の方がポイントであるという前記の答えを得た。我ながら、いいところに目をつけたものと自信たっぷりであったが、プロの建築家のほうが一枚上手であった。
 その回廊は舞台の右手に向かった後、左に折れ、長めのアプローチが本堂に向かう。この「画帖」が倭国の時代に描かれたにしろ、後世に模写されたにしろ、この場面は移築説でしか説明できないであろう。ちなみに、江戸時代に土佐光則によって描かれたとされる長谷寺の場面は現在のそれに似ているものの周辺の描写に乏しい。
 
米田氏が作成した説明付きの地図を見ると、本堂が建っていた丘、杉神社、回廊のターンする所、雲井坂、蛇行する初瀬川等すべて「源氏物語画帖」にあり、地図上X点から南西を見れば、私の作ったコラージュのごとく各々の位置関係はピッタリ一致する。さらに北には「宿」という集落があり、そこが物語に出てくる「椿市」であろう。戦前は住人も多かったと地元の人が言っていた。一帯はスピリチュアルな雰囲気が強く感じられ、最近ブームのパワースポットとも聖地とも呼ばれそうなところである。
 源氏物語マニアは是非行くべきであり、そこが元祖 〝初瀬の御寺〟 の抜け殻スポットであると実感するであろう。それにしても、この一帯が全くと言っていいほど開発の波に洗われなかったことは奇跡であり、まだこの国にはツキが残っていると息長足姫尊に感謝したい気持ちである。
 以上が倭国長谷寺跡発見のあらましである。
 りょうぞう&しょうぞうは日本史の根本をひっくり返す発見をしたのである。マスコミが本気で報道するのか、4月1日付けのトンデモ記事でお茶を濁すのか、今後の展開はしばらく高みの見物である。
 「法隆寺移築説」は支持されつつあるが、他の建築物については当然反論が予想される。しかし、n で言えることは n+1 でも言えるという「数学的帰納法」を思い起こせば、他の建築物にも疑わしいものもが数々ある。長谷寺のほかに薬師寺東塔と東院堂、東大寺南大門、平等院鳳凰堂、室生寺、興福寺の五重塔、知恩院の
鐘楼経蔵、東福寺三門、過日、解体修理が終了した唐招提寺金堂、何と桂離宮も移築されており室生寺、興福寺、東福寺、唐招提寺以外は元の所在地も見当がついていると言う。
 これだけ多くの日本(倭)国時代の世界文化遺産があることが公になれば、わが国に世界中から観光客が殺到するに違いない。のみならず、世界の人々のわが国を見る眼も変わるし、何より日本人のプライドが復活することが喜ばしい。
 昭和40年ごろ中央公論社から『日本の歴史』という全集が出版され、大ベストセラーとなった。古代の部分はあこがれのM.I.K.N.両教授の執筆であったが、彼らは唐による日本の占領があったという事実を知っていたのだろうか。知らなかったのなら随分怠慢であるし、知っていたのなら国民に大嘘をついていたことになり、いずれにせよひどい話ではある。父の遺品の雑誌にみつけたR.T.氏の文章(日本古代の都城)にある歴史観では外交面で中国に太刀打ちできるものではなく、本書のタイトルに 〝現代を解く〟 と付けた著者の意図が痛いほど理解できるのである。    (完)

三瀬 それは奇跡のパワースポット
 この界隈は全く開発されておらず、倭国長谷寺を偲ぶことができる夢のような聖地である。江戸時代には、
善正寺からは鐘楼が、萬福寺からは経蔵が京都知恩院に移築された。丘の上には長谷寺本堂があった。丘の上に礎石が並んでいることが確認されれば、この仮説は限りなく定説に近づく。しかし、どういうわけか丘に登るルートが定かではない。山門は謎が多いが、倭尺で作られておれば、この地にあったと考えられる。倭国時代の元祖 紫式部、清少納言はこの鐘の音を聞いていた。同じ音を現代人は知恩院で聞くことができる。
○ 三瀬村 再訪
 2014年11月2日、三瀬村を訪れました(3度目)。
 1度目は長谷山観音寺跡の調査。その時「宿」は直感的に椿市であろうと閃きました。
 2度目は倭国時代の長谷寺の所在地の見当がついたところで、確認のため、米田良三氏と訪れました。
 3度目の今回は友人5人と「大人の修学旅行」。私がガイドです。
 あらかじめ善正寺、萬福寺に『長谷寺考』を郵送しておき、住職にお会いするつもりでしたが、両寺とも住職は不在で、お庫裏さんとお話しました。お二人とも各々、「その昔、鐘楼とか、経蔵があったという言い伝えは聞いていない」とのこと。私は「今後、古代史に興味のある人たちが訪れる機会が増えると思うので、『長谷寺考』を読んでおいて下さいと伝えました。善正寺の階段を上がると、そのスペースは知恩院の鐘楼のサイズが(現在の建物を取り除いた場合)ちょうど載っかるイメージでした。石垣は学校で習う「城の石垣の変遷」と対比した場合、戦国末期から江戸初期のものと解釈したくなりますが、かなり緻密な石組みが、あのような山中にある事からして、石造文化の発達した倭国の時代のものと確信しました。
 ご存知のように、倭国長谷寺では本堂と経蔵が近接して建っていたと米田氏が解明しておりますが、大和長谷寺本堂の外周の石畳のデザイン、その石材の材質ならびにサイズ、柱・扉・礎石の形と質感を知恩院の経蔵のそれと比べてみてください。さしずめ、同一の工務店が工事を担当したという印象です。
 昼食はかつて玉鬘も歩いたという(旧)椿市のメインストリートに面した築150年の家屋を改築した「じゅげむ」という麺処でいただきました。紀貫之が「人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」と詠んだのもこの辺りであると思うと感無量のものがあります。
 この「宿」は街道に沿って紡錘形に発展した集落で、このお店以外にもしっかりした造りの古民家が並んでおり、大昔からの集落と考えられます。戦後しばらくの間、宿屋が数軒残っていたといいます。三瀬で宿泊する意昧がどこにあるのか現代の感覚では捕らえにくいのですが、倭国時代以来の門前町の伝統がかすかに残っていると考えます。集落の西の端に初瀬川が流れており、その辺りに船着場があって、椿の積み降ろしが行われていたのかもしれません。念入りに発掘すれば500年代の椿油の容器などが出てくるような気がします。

三瀬村は世界中の人々があっと驚くエリアです


『源氏物語』玉鬘の巻の舞台


『源氏物語』は通説より約350年昔、倭国の時代の京(大宰府)での出来事にフィクションを織り交ぜて書かれました。大和朝廷は邪馬台国に続く九州王朝を無かったものとして、ひそかに倭国の文明をパクって我がものとしています。平安時代の『源氏物語』はオリジナル『源氏物語』の改作であり、作者の紫式部も“成りすまし”です。
 早良街道が整備される以前の集落“宿”には、戦後しばらく数件の宿屋があり、このような山中での宿泊施設としての存在意義は分かりづらいのですが、倭国以来の伝統が残っていたのかもしれません。実はこのエリアは長谷寺の門前町である“椿市”なのです。この店の前を玉鬘のモデルとされる人物、紀貫之、清少納言(倭国時代の本物)が歩いていたのです。紀貫之は「人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」をこのあたりで詠んだものと思われます。
 長谷寺はどこにあったのでしょうか?
 驚いたことに、この「宿」と目と鼻の距離です。
 「宿」から南下すると右手に杉神社が現れます。此処を起点に地図を見ると理解しやすいでしょう。


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この一帯の面白さは、まず、初瀬川が北山ダムに注いでおり、その河畔に長谷寺があった可能性を米田氏が指摘しているのです。長谷寺は慣用句として「ハセデラ」と呼んでいるだけで、長谷は「ハセ」とは読みませんね。やはり「ナガタニノハツセガワ」なのです。

初瀬川の河畔に長谷寺への桟橋、回廊の橋脚があったならば、と、その礎石が存在していた可能性があったのではないかと十人足らずのパーティーで78年前に現地に入りましたが、残念なことに圃場整備などによって確認はできませんでした。しかし、国土地理院が公開していた米軍のB29による爆撃のために空撮された偵察写真などによれば礎石らしきものが白く映っていました。

山中にも入り掘立柱でない限り礎石があるのではないかと探しましたが確認できませんでした。

あるとしても、恐らく土に埋もれており確認には至らなかった事を記憶しています。

鏡神社の主神は神功皇后です。恐らく彼女は三瀬村にあった九州王朝の長谷寺を知っていたはずなのです。(古川)

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中央の丘の上にあった長谷寺本堂は721年奈良県に移築されています。現在の大和長谷寺については、室町時代の観音様が江戸時代の本堂に収まっているとされますが、大嘘で、共に517年に完成したオリジナルです。法隆寺より古いのです。
 本堂跡の南に、石垣の上に建つミニ寺 善正寺がありますが、倭国時代は、そこに長谷寺の鐘楼がありました。日本一古く、大きい鐘が江戸時代のはじめまでありました。現在の“ゆく年くる年”で有名な京都 知恩院の梵鐘です。1678年に移築されたのです。元祖 清少納言もあの鐘の音を聞いていたと思うとワクワクしませんか?
 本堂の北西の萬福寺エリアのどこかに経蔵が建っていました。1621年移築されて現在、知恩院の鐘楼の近くにあります。
 杉神社、鏡神社も相当古く517年の長谷寺の創建より古いものです。 想定される回廊の出発点としての三門跡は現在、石垣で一段高くなった畑となっています。
 上記スポットの間を蛇行して走る川の名は昔から初瀬川です。
 以上を裏付けるものとしてハーヴァード大学の所有する「源氏物語画帖」玉鬘があります。大和長谷寺ではマッチしない点が多々ありますが、三瀬村のバードビューでは各々の位置関係はピッタリと一致します。


 

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 まだまだ、九州には多くの謎がゴロゴロ転がっています。○○研究会とか、○○古代史の会の様にフィールドに出ない方には古代は探究できません。AB&JC PRESSを是非お読み頂きたいと思います。

500 小判が夢でションベンはホンマもんやった

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500 小判が夢でションベンはホンマもんやった

20170625

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 地震雲研究では九州大学の物理学の教授であった真鍋大覚が頭に浮かびます。

それ故に学会から追放まがいの不当な扱いを受けたのですが、三十年四十年経っても何一つ予知できない地震予知連の無様さからか今頃になってようやく地震雲に注目が集まっています。

 勿論、あくまでも民間のマニアックな方々によるものが中心です。

一部の学者も参入している事から怪しげとして貶めようとする評価は後を絶ちませんが、そもそも怪しげなのは無様な予知連の方であった事は認識を新たにしておいて頂きたいものです。

 本日、新たに長野で震度5強が伝えられましたが、620日、日田市天瀬町から玖珠を経由し宇佐市の院内、安心院へと向かっていると、正面に奇妙な雲が目に入ってきました。

 この程度のものではなくもっと強烈な地震雲らしきものに何度か遭遇しているのですが、それほど明瞭ではないものの、奇妙に横に延びる一群の雲を見たことから、とりあえず車を止め写真を撮りました。

もっと良く見えるポイントに移動し再度撮影しようと数分走り改めて撮影しようとすると半ば崩れていたことから地震雲ではない(地震雲は継続性が強いと言われています)と判断し仲間に連絡する事は止めたのですが、その夜大分市内で大雨の中車中泊してパソコンに向かいながらいつの間にか寝入ってしまいました。

本格的に寝込んでいたのですが、地震に逢い揺らされてこれはどうにかしなければと起きたという夢を見て飛び起きたのでした。そこで車のラジオを着けると大分市南数十キロの佐伯市沖を震源とする震度5強の地震が起きていたのでした。

 本当に地震の夢を見たのか、それともウトウトしていて地震も夢だと思ったのか、起きていて実際に揺らされた事を正確に認識できなかっただけなのか?未だに奇妙な感覚が残っています。


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深さ40キロですから、一応、人工地震ではないでしょうから、雲の延びる方向と言い、南海トラフに繋がる動きかも知れないのです。

素人が言おうが、専門家が40年掛かっても、大地震を一つとして予知できない学者の冷笑など気にしないで勝手にやろうではありませんか。

さて、今回はこのような不明瞭な地震の話をしようというのではありません。

地震には驚いたものの、起きて地震が実際に起きていた事を知った途端、頭に浮かんだのは桂米朝の「天狗裁き」でした。


上方落語「天狗裁き」

…温度でこれを解かそぉといぅ、ジャ~ジャ~ジャ~ジャ~小便を引っ掛けて氷を解かして小判を拾いあげて「やれ嬉しや」と思た途端に目が覚めてね、小判が夢でションベンはホンマもんやった、といぅよぉな。これがまぁ一番情けない夢でございますが。…中略…

★ん……、はぁ……、はじめ女房が聞きたがり、隣家の男が聞きたがり、家主から奉行まで聞きたがった夢の話。天狗はそのよぉなものは聞きとぉはない。素町人なぞと申すものはどのよぉな馬鹿げた夢を見るものか、そのほぉが「しゃべりたいッ」と言ぅのならば……、聞ぃてやってもよいが。■しゃべりたいことおまへんので、へぇ。ホンマに夢なんか見てしまへんので★ここはほかに聞く者もなき鞍馬の奥、僧正ケ谷。わしは人間ではない。「聞ぃてやってもよい」と申しておる。わしがこぉ申しておるあいだにしゃべったほぉがよかろぉ■脅かしたらあきまへん。ホンマにわては見てないんで、見てない話はしゃべりよぉがございません。

 


500-4名人 桂米朝


カキ氷を何杯も食って、気分良くオシッコものの、起きたらカキ氷は夢でオネショは本物だったという夢の経験はあるような気がしますが、今回、心地良い眠りは夢で、地震は本物だった事になるのでしょうか? Blog 500本目でちょっと休憩させて頂きました。

スポット143 鹿島、香取は有明海沿岸から東に向かった

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スポット143 鹿島、香取は有明海沿岸から東に向かった

20171121

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


これは只の作業仮説であり、本来、調査を重ねて公開すべきとは考えますが、重要なテーマでもある事から、一旦は公開し、誤りがあった場合は、再度、修正報告する事として、知りえた事を惜しまずお教えしようと思うものです。

まずは、「23・熊本県に於ける猿田彦命祭祀神社地名表」をご覧下さい。


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言うまでもなく、百嶋神社考古学では猿田彦を山幸彦=ニギハヤヒ=五十猛=香取神=荒穂神=布津主…とします。

お見せしたのは「熊本県神社誌」に基づき猿田彦を調べておられるサイトで、使用するに際して「熊本県神社誌」で裏取りをした事もあります。

大変ありがたい事に、データに関しては著作権とか、有償であるとか小賢しい事を言われる方が多い中(行政絡みも酷いです)、ご自由にお使いくださいとの事であり当方も重宝しているところです。

このような方こそ本当の研究者なのであり、学問が利権ではなく何であるかを良くご存じの方なのです。

直近では、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の大宮神社と猿田彦大神 ⑨ 外で取り上げています。


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ただし注意すべきは、このリストは「猿田彦」と書かれているものであり、祭神名が別の場合は拾えていない可能性はあるのです。

また、猿田彦を祀っている神社を拾っているものであって他の祭神との共同祭祀の場合も拾い出しをしている点です。

さて、ひぼろぎ逍遥 370外で千葉県の鹿島、香取、伊岐須の三社で知られる香取神社が山幸彦を祀る神社である事を書きました。


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この香取神社は山幸彦=猿田彦を祀るものであり、鹿島神社こそ阿蘇の草部吉見神社の主神である海幸彦=ヒコヤイミミを祀るものなのです。鹿島、香取は海幸、山幸を祀る神社なのです。

問題は何故香取神社と呼ばれていたかでした。

鹿島神社は、佐賀県鹿島市の鹿島、熊本県嘉島町の嘉島、鹿児島県薩摩川内市の甑島の鹿島町の鹿島で、いずれも関係があるのですが、剣豪塚原卜伝が奉斎した鹿島大神とは阿蘇の海幸彦=草部吉見であり、百嶋由一郎氏も言われていましたが、香取神社の経津(フツ)主も有明海沿岸の島原市布津(雲仙火砕流災害の被害地)辺りから出発した山幸彦ではないかと考えていました。

何故、そう考えるかと言うと、千葉県から茨城県に掛けての一帯の「常陸国風土記」の話があるのですが(例えば“杵島振り”武借間命による騙し討ち…)、それはご自分で調べて頂くとして、香取も当然に有明海沿岸から東に向かったのではないかと考えて来たのでした。

ただ、香取の地名や社名には遭遇せず、この間放置していたのですが、犬も歩けば棒に当たるの喩の通り、相次いで香取を発見したのでした。

“相次いで”と申し上げたのには理由があり、私が発見したのは熊本県天草市上天草市大矢野町の中心部に香取神社を見出したのでした。

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最終的に阿蘇氏の支配下に置かれた時期がある事から、祭神が武甕槌神外三神 推定 草部吉見=海幸彦とはなっていますが、当然にも山幸彦が主神として祀られていたからこそ香取神社の名が付されていたのであろうと考えるのです。

先に“相次いで香取を発見したのでした。”としたのは、「宮原誠一の神社見聞諜」sp143-5の宮原氏が“熊本県氷川町(旧宮原町)に百嶋先生が最重要の姫城(ヒメギ)がありますと言われていた「姫城」”を確認されたのでした。

その際の副産物として、香取神社を探し出しておられ、氷川を挟んで北側に鹿島神社が数社ある事が、もう一人の sp143-5blogを書かれている宮原秀範氏の資料の地図に書かれている事を確認されたのでした。こうして三人の共同研究、共同調査によって、謎が解けたのでした。

実は、メンバーの中には姫城(ヒメギ)を探しておられた方がもう一人おられました。女性のO氏でしたが、この朗報をいち早くお知らせしようと連絡した所、相前後して、こちらでも呉の太伯王の後裔が入って来たと考えている「姫城」を発見しておられたのでした。

こうしてメンバー4人による思い思いの調査が一つに結びついて行った瞬間でもあったのでした。

これについては、別途報告するとして、ここでは、香取神社のルーツは確信していますが、名称の起源さえも(呉の太伯の流れは姓を「姫」とする)この地だったのではないかとの提案をしておこうと思います(詳報別稿、宮原誠一氏が先行されるかも知れません)。

3月には、熊本県氷川町一帯のトレッキングを太宰府、熊本の両グループで行いたいと考えています。

では、天草の香取神社の社殿をご覧頂きましょう。


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最後に、幾つかの突拍子もない話をして次回に繋ぎたいと思います。

 房総半島は上総の国、下総の国と呼ばれています。


上総国

上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。


下総国

現在の千葉県北部と茨城県西部を主たる領域とする旧国名。北で常陸国と下野国、西で上野国と武蔵国、南で上総国、内海を挟んで相模国と接する。

『古語拾遺』によると、よき麻の生いたる土地というところより捄国(ふさのくに・総国)(ふさのくに)と称したとされる総国の北部にあたり、総国の分割によって建てられたとも言われている。古くは「之毛豆不佐(しもつふさ)」と呼び、これが(しもふさ)(しもうさ)に転じたという。

この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも都(近代以前の概念では畿内)に近いほうが「上」「前」と考えられている。上総国と下総国の場合、西国からの移住や開拓が黒潮にのって外房側からはじまり、そのため房総半島の南東側が都に近い上総となり、北西側が下総となった。また、毛野から分かれた上野・下野と同じく、「上」「下」を冠する形式をとることから、上総・下総の分割を6世紀中葉とみる説もある。

ウィキペディア(20171121 18:59

『古語拾遺』の調子はともかくとして、この鹿島、香取に関しては九州からの進出である事は確信しています。

何故そう考えるかと言うと、上総(カヅサ)とはどう考えても読めない表記の地名であり、元々「カヅサ」と呼ばれていたところに無理やり漢字表記が押付けられ振られたとしか思えないからでした。

この鹿島、香取のルーツが有明海沿岸であったとすると思い当たる事があるのです。


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有明海の西への出口 加津佐(上)口之津(下)をご紹介しましたが、海幸彦、山幸彦の震源地である有明海沿岸から瀬戸内海、勝浦、東海、房総へと進出するとした場合、口之津、加津佐に集結し、有明海からの海流を利用し自然に吸い出され対馬海流に乗るのが最上策であり、恐らく、玄海灘、関門、瀬戸内海、南紀、東海、房総へと進出したと考えています。

思えば口之津とは海員学校が置かれ、明治期から始まる初期の上海への石炭の積出し港として税関が置かれた国際貿易港でもあった場所であり、現在でも口之津港の湾奥には高良山神社が置かれているのです。

つまり、九州王朝の軍港であった可能性さえも考えられる場所なのであって、この西隣の加津佐が房総の地名として振られたのではないかと思うのです。

太宰府地名研究会のHPには「苧扱川(オコンゴウ)」を掲載していますが、これこそが九州王朝の最重要港湾であったと考えています。詳しくは「苧扱川」を読まれるとして、上の地図には野田浜という地名がある事にお気付き頂けると思います。

そうです。千葉と言えば野田の醤油ですね!上総=加津佐も、野田という地名も持ち出されたのです。


資料) 口之津は九州王朝の最重要港湾か? (2011年夏に久留米大学で講演した「苧扱川」の一部分)


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口之津港湾奥の小丘に鎮座まします高良山神社


皆さんは、口之津湾の湾奥に高良山神社があることをご存知でしょうか?

国道筋から数百メートルも入った目立たない所にあることから、地元でもこの界隈に住む方しかご存じの方がおられないようですが、今も高良山という小字が残る小丘に、立派な鳥居を持つ社が鎮座しているのです。もちろんご存じないのが道理ですが、大牟田市の西南部、有明海に鋭く突出した黒崎岬の先端や、私の住む武雄市花島地区のこれまた高良大社に向かって東に突出した小丘にも高良玉垂が祀られていることから、この口之津高良神社もそれらの一つであると考えられます。

京都や青森の五戸にもあることから、直ちに何かが分かるというものではありませんが、古来、有明海一帯を支配したはずの高良玉垂の威光を感じさせるものであることは言わずもがなのことであるはずなのです。

この場所は、現在、公園化されているポルトガル船の接岸泊地跡からさらに百メートル近く奥に入ったところに位置しています。さらに言えば、埋め立てが進んだ口之津湾の相当に古い時代の港湾跡の上にあたるようなのです。

遠い古代に於いて、外洋航海も含めた出船泊地であったとしか思えない場所なのです。

そして、そのことを証明するかのように、この岬の直下には「西潮入」という小字が残っています。

もはや疑う余地はありません。朝鮮半島から中国大陸への最後の安全な寄港地、停泊地

である口之津から、帆をいっぱいに張った外洋船が、遠く、中国、朝鮮に向けて出て行く姿が目に浮かんでくるようです。きっと彼らは、高良玉垂に航海の安全を願い外海に出て行ったと思うのです

長崎の最南端、野母崎(長崎半島)を廻ります。すると、自然と対馬海流に乗り、全く労することなく一気に壱岐、対馬、そして朝鮮へと、また、五島列島を経由し江南へと向かったことが想い描けるのです。

さらに思考の冒険を進めてみましょう。

何故、この地に苧扱川があるかです。繊維を採り布を作るとしても、単純に、服の生産などと考えるべきではないでしょう。恐らく古代に於いても、最も大きな布(繊維)の利用は、服などではなく、、船の帆ではなかったかと考えるのです。




sp143-9早崎の瀬戸の先端 瀬詰崎灯台、向こうは天草下島


一般的には、中央の目から、また、九州に於いても博多の目から、宗像、博多、唐津、呼子が強調され過ぎていますが、宗像はともかくも、博多から半島に向かうとしても、一旦は西航し、対馬海流に乗ったと言われるのですから、久留米、太宰府からも引き潮はもとより、有明海の左回りの海流を利用して口之津に出て、対馬海流を利用する方が遙かに安全で有利だったはずなのです。


苧扱川の苧麻布とは木綿以前の繊維


古代において、有明海の最奥部であったと考えられる久留米の市街地にオコンゴウと呼ばれる川、苧扱川(池町川)があり、西に開いた有明海のまさにその出口の一角に苧扱川と苧扱平という地名が三ケ所も残っています。

さて、この島原半島南端の良港、口之津にオコンゴ地名があることは象徴的ですらあります。始めはそれほどでもなかったのですが、今になって、このことの意味することが非常に重要であることに気づき、今さらながら戦慄をさえ覚えるほどです。

一つは、あまりにも強固な地名の遺存性についての感動であり、今ひとつは、有明海が西に開いていることと多くの伝承や物象が符合していることです。

まず、広辞苑を見ましょう。「【苧麻】ちょま〔植〕カラムシ(苧)の別称。」としています。カラムシ(苧)を見れば、かなり多くの記述あり、ここでは略載しますが「…木綿以前の代表的繊維(青苧(あおそ))…」などと書かれています。

重要なことは、もしも外回りの航路を採ったとすれば、口之津が大陸へ向けた本土最後の寄港地であることからして、この苧が衣服ばかりではなく、船の帆や綱として組織的に生産され、それが地名として今日まで痕跡をとどめたのではないかとも考えられるのです。

ここで、さらに視点を拡げます。実は、この苧、苧麻が皆さん誰もがご存知の、いわゆる『魏志倭人伝』(魏志東夷伝倭人条)に登場するのです。

もはや、写本のどれが正しいかといった議論は一切必要ありませんので、手っ取り早くネットから拾いますが、いきおい「苧」、「苧麻」が出ています。少なくとも有明海沿岸が倭人の国の候補地になることは間違いがないところでしょう。


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上総、下総の鹿島神社(海幸彦)、香取神社(山幸彦)、息栖神社(長脛彦=カガセオ)


 研究目的で百嶋神社考古学の音声CD、手書き資料(DVD)神代系譜等を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。

501 見た目に美しい八幡社二題 ① “杵築市の若宮八幡社” 

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501 見た目に美しい八幡社二題 ① “杵築市の若宮八幡社” 

20170625

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


501-1 今回は国東半島の付け根の杵築市、日出町の二つの若宮八幡社、若宮八幡神社を取り上げることにしました。

国東半島は紀氏の領域と心得ていますが、それとは別にというか(当然無関係などではないのですが)、そもそも、半島付け根の杵築市、日出町は、杉原家、木下家と秀吉の正室ねね オネ(高台院)の縁続きの一族が封じられた土地なのです。

この一族は三五桐紋を使うのですが、この紋章は高良玉垂命(開化)のお妃であった神功皇后(仲哀死後)の神紋なのです。そしてこの若宮とはこのお二人の長子なのです。

 

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若宮八幡神社 正面参道 カーナビ検索 大分県杵築市宮司336 ℡0978-62-3148


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501-7今回は美しすぎる社殿でもあることから一気に見て頂きました。

 中でも興味を引いたのは、この飛天というかアンヘル(エンジェル)風のデザインです。

 キリシタン大名の大伴宗麟のお膝元であり、イエズス会系の宣教師が闊歩していたからだろうと言えばそれまでですが、鶴の意匠と重ねたシルクロードの飛天のようなイメージも受けるのです。

 この唐破風屋根の構造も高良神社に特に集中して認められる様式で、龍骨を持つ構造船(船底)を裏返しにしたようなデザインで、これ自体が外洋船を駆使していた倭人を象徴するものではないかと考えられるのです。

 事実、久留米の高良大社に奇跡的に伝えられた「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)にもこの船底の龍骨を誇りとして残すという部分が出てくるのです。




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この装飾瓦は圧巻としか言いようがありません


 この玉(一個ですからまさか潮満つ玉潮干る玉ではないでしょうが)を持つ龍の瓦は素晴らしいの一言です。

 石でも投げられない様に何とかできないものかと思うのですが心配でなりません。

 これも「高良玉垂宮神秘書」に出てくる「黒龍紋」を意味しているのではないかと考えますが、これも思い付きだけの話です。


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502 見た目に美しい八幡社二題 ② “日出町の若宮八幡神社”

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502 見た目に美しい八幡社二題 ② “日出町の若宮八幡神社” 

20170625

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 勿論、社殿の美しさだけで取り上げているのではないのですが、この日出町の若宮八幡神社も見るだけで価値を感じる神社です。

 電信柱や神社の周りの無粋な電線や倉庫や標識…といったものが無かった時代には、それこそ絵にも描けない美しい風景だったと思えるものです。

 昔の旅行というより「旅」というものが、ほとんど寺参りや神社詣りであった事があながち間違いなかったと思えるのは、石工、宮大工、瓦職人、左官、建具大工、紺屋、庭師に至るまで、それこそ心血を注いで技を競い最先端のもので寺や神社が造り上げられ関連する文物がをの周りに集中していたからなのです。

 それこそほんの百年前まで、寺や神社は、現在、人々を集める郊外型大型商業施設以上の賑わいを見せていたものだったのです。

 しかし、この神社は見た目が美しいだけではないのです。

 その理由は「若宮八幡」の名を冠されたこの神社が、高良玉垂命と仲哀亡き後の神功皇后との間に産れた若宮=仁徳天皇=大雀命=シレカシノミコト(九躰皇子の筆頭)を主祭神として抱いている事にあるのです。これこそが九州王朝の痕跡なのですが、九州王朝論者とか言われる方もお気づきではないのです。


祭神 大雀命 足仲彦命 息長足姫命 誉田別命 大山守命 宇治皇子 市杵島姫命


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502-8由緒の祭神には大雀命 足仲彦命 息長足姫命 誉田別命 大山守命 宇治皇子 市杵島姫命とあり、神明神社に相当するものはありません。別社との認識なのでしょうが、恐らく天御中主を祀るものと理解しておきます。


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では、最後に境内摂社をご覧頂きましょう。


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503 代行参拝ならぬ代行調査で踏んだ神社 “岡山県井原市の縣主神社” 

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503 代行参拝ならぬ代行調査で踏んだ神社 “岡山県井原市の縣主神社” 

2017013

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 二十歳も年上の従姉弟がICUに入ったことから500キロ近い行程により山陽自動車道で一路倉敷市に向かいました。倉敷の巨大病院に一時間はいたのですが、どうする事もできません。

 帰りは、喧噪の山陽道から九州王朝の古代官道が通っていたと考えている総社市、矢掛町、井原市ルートで広島方面に向かいました。

 十年も前、この一帯の神社を数社見て回ったことがあったのですが、当時の目的は矢掛町の天子宮(武荅天子宮:小田郡矢掛町小田5634)でした。

 今回は始めに西隣の井原市の縣主神社に向かいました。


503-1

ご覧の通り ある時代には島か岬状の土地の先端に置かれた神社であり穀倉を睨むものだったようです


 この神社を参拝することにしたのには理由があります。

 それは連携サイト503-2のK氏から、「倉敷に行くのなら井原市の縣主神社に寄って欲しい」との依頼を受けたのでした。

 理由を聴くと、常陸の国ふしぎ探検隊のエリアである“茨城の「イバラ」は岡山の井原市の地名移動と考えられるから、まず、その中心地である井原市の縣主神社に寄って欲しい…”といった趣旨だったのでした。

 それには鼻から同意でした。矢掛町の武荅天子宮に訪れた時代から、ここから総社に掛けての一帯が古代岡山(吉備)の臨海部の中心地であった事を実感していたからでした。

 岡山県の井原(イバラ)市と茨城(イバラギ)県の中間には、大阪府の箕面市と高槻市に挟まれた茨城市があることを思い起こして下さい。

 恐らくこれこそが四道将軍の後裔の移動したルートであろうと考えているのですが、これは仮説も仮説の段階です。


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古代の一等地とも言うべき、岡山倉敷一帯には児島や水島に象徴される多くの島地名が拾えます。

海の後退によって最初の巨大穀倉となった場所が総社からこの一帯と考えていますが、この写真にも現れている様に、山辺に集落が成立し、古代の海か沼地だったところが水田に変わっているのです。


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掲示板には祭神 歴代縣守(あがたもり・あがたぬし)初代縣守鴨別命~8代縣守笠 三枚臣とあります


掲示板には祭神 歴代縣守(あがたもり・あがたぬし)初代縣守鴨別命~8代縣守笠 三枚臣とあります。

 上賀茂、下賀茂の大幡主系の県知事がいたことが良く分かります。


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鳥居の神額には「天照神」と書かれている様に見えるのですが保留します


縣主神社は岐阜県美濃加茂市(旧加茂郡太田町)や岐阜県加茂郡川辺町にもあるのですが、「縣主」の「主」(ヌシ)とは、そもそも天御中主、大幡主、大国主、大物主、経津主…と大幡主(白族)系の尊称が付されている事から、県知事に相当する人物に白族系の人物が送り込まれていた可能性を感じるのですが、どうでしょうか?

 多少急傾斜の参道階段を登りきると、山上地のため直ぐのところに参拝殿が置かれており、奥行きがないため自然と境内摂社に誘われます。

 右手には、まず、神殿と一体になった荒神社、次に参拝殿付の神殿を持つ厳島神社が、さらには小さな水分社が置かれていました。


503-6

創建年月日不詳だが、雄略天皇の御代に創まるという。口碑では祭神鴨別命が県守として居をこの地に占め給うたので、その徳を慕い県守大明神としたと伝えている。むかし、この地を県の郷と呼んでいる。明治四十四年無格社八幡神社を合祀した。大正九年五月神饌幣帛料供進神社に指定された。

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「無格社八幡神社を合祀した」とありますが、大きな境内摂社の八幡社は後付であることが分かります。


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地元のものと思われる 木之子の里の「縣主神社」にはかなり重要な情報が含まれています。


「鴨分命」伝承(写真上は神社前の「稲木川」情景) 雄略天皇の時代、鴨分命はこの地に居を構えて鳴尾に棲む虬(みずち)を退治して住民や旅人の難渋を救われた。その功績を頌え、仰ぎ慕って里人が神に祀った。

解説によれば雄略=1,500年前だとのこと。 縣主は「あがたもり」or「あがたぬし」の二通りの訓み方

があるが、現在では後者。鴨分命に始まり8世紀までの間、歴代の縣守を祀った神社である。鴨分命は吉備津 彦命と異母弟の若日子建吉備津日子命子孫、吉備武彦命の御子で足守で生まれる。応神天皇の吉備巡幸に従い加佐目山に狩をした時、天皇の風が吹き笠が飛んだ説話は有名。「波区芸縣」と「賀佐」(笠)臣の姓を賜はった(「姓氏録」にある笠臣の始まり)。明治44年の神社統合廃社の政府方針によって祭神に応神天皇など天皇家と由緒のある神々が列せられた。『日本書紀』仁徳天皇六十七年の条にある川嶋河の派(かわまた)の大虬退治の場所は木之子町字年行の「鳴尾の渕」である(稲木川の小田川への合流点)。

虬像は今も境内に在って鴨分命の紋章を彫った太鼓形の石を背負って建っている(蛟龍・明治40年代の奉納)


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鴨分命はこの地に居を構えて鳴尾に棲む虬(みずち)を退治…とありますが、先住者としての棲む虬(みずち)を征服し九州王朝系の氏族が進出し県知事に納まった行政の中枢がこの地であった事を思わせます。

「古事記」(上つ巻)にも「みずち」は出て来ますが、ここに祀られている神々こそがそれらの歴代県知事が奉斎した神であったことが想像できます(矢掛は金山彦系のような気がします)。

してみると、鳥居にあしらわれたオロチはミヅチと同族か敵対した別の氏族(民族)であったのかも知れません。

いずれにせよ、祀られている神々は全て九州の神様であり、西からやって来た神々のようなのです。


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ヤマタノオロチを思わせる注連縄はなかなかの出来で 底流にスサノウ系 金山彦系 の影を感じます


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スポット144 旧七山村トレッキングで見た鳥居は殷の鳥居ではないのか? ”佐賀県唐津市七山宗五郎

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スポット144 旧七山村トレッキングで見た鳥居は殷の鳥居ではないのか? ”佐賀県唐津市七山宗五郎神社”

20171218

太宰府地名研究会 古川 清久


 佐賀県は私自身の出身地でありながら、何故かそれ故にあまりフィールド・ワークの対象としてこなかった(いつでも見られるし、それよりも、むしろ遠くを知りたい…)という事から、逆に新鮮味を感じているこの頃ですが、今般、2018年元旦を挟んで1217日と128日のいずれも日曜日にトレッキングを行なう事としました。

 今回の目的地は佐賀県の玄海灘側、唐津市の東部の山間地の旧七山村、東に峠を越えれば佐賀県佐賀市になるという旧天領の東の果ての最奥部一帯でした。

 年末の最も忙しい時期であり、雪がパラツク(凍結もあり)中での高地でのトレッキングでしたので10人にも満たないものになりましたが、それでも集まって来られるような方々こそ私達が求めている人であって、あったかい中で独りよがりの好い加減な「邪馬台国九州説」風の話でお茶を濁すような研究会では何も残らない事から、より、精鋭の研究者の集団に切り替えて行く必要があるのです。


七山村(ななやまむら)は、佐賀県北部にあった村で、東松浦郡に属していた。1889年に町村制が施行されて以降、2006年に唐津市へ編入するまで存在した。

ウィキペディア(20171217 0915による


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勿論、山がちな土地である事は言うまでもなく、事実上の裏日本玄の海灘側である事から、実質的には、南国の九州でも山陰~北陸のようにかなりの雪が降る土地柄である事も認識しておくべきなのです。

 さて、所謂、「魏志倭人伝」では末盧(マツラ)国を想定し呼子だか唐津だかに上陸した後、伊都国に向かって陸路を通ったか、何故、海路を選択しなかったのかなどと言われているエリアになります。

 一般的には唐津市の桜馬場遺跡や伊都島市の夥しい王墓級遺跡群などから色々な事が議論されていますが、この一帯の神社研究など見向きもされた事などはなく、この地にどのような人々がいたのかなど誰一人考えておられない事は明らかです。

 ところが、私達、百嶋神社考古学を研究の軸に据える太宰府地名研究会の人々には、一般とは違った世界と特徴的な事実が見えてくるのです(青枠福岡県糸島市旧二丈町、赤枠佐賀県唐津市旧七山村)。

 簡略化して申し上げると、このエリアで行われている大半の祭祀とは白山姫を奉斎するものであり、この一帯に存在するのは、ほとんどが、白川伯王、白山姫=天御中主命、大幡主、豊玉彦=ヤタガラス…下賀茂、上賀茂系統の神社になるのです。

 今般、12月、1月、2月の三回を費やし、旧二丈町~旧七山村の1520社を実見する事としました。

 その理由は、熊本県八代市から氷川町の不知火海(八代湾)正面のエリア=古代日本の江南(揚子江流域)からの窓口が殆ど天御中主=白山姫=北辰=妙見宮…つまり大幡主、豊玉彦=ヤタガラス系白族(ペイツー)のエリアであった事が見えてきたからであり、少し時代が下がった時代の玄関口一帯がどのようなものであったのかを連続して探ろうとしたからでした。

 当然にも雨や雪もありますし、年末年始の繁忙期である事も考慮し、場合によっては休会も含め56ケ月を費やす事になるやも知れませんが、私達には俗に「魏志倭人伝」の本土上陸を受入れたのがどのような人々であったのが見えて来るのではないかと考えているのです。


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sp144-3半島から対馬、壱岐を経て東松浦半島に入った人々は、潮に乗って東の博多湾に向かうでしょうが、その一帯に住み着いていた人々が誰だったかを考えます。二丈町から七山村に掛けての一帯が大幡主系=豊玉彦(下賀茂神社)、崇神天皇系(上賀茂神社)系の人々が住み着いていた場所である事を確認するためのものでした。七山村については正月以降のトレッキングとしますが、古代の糸島~唐津に掛けての一帯がいかなる領域かを確認します。


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第二次七山トレッキン(新春三社詣り)は初詣でが収まった1月末に行ないます。①妙見神社、②賀茂神社、③白木神社、④武雄神社…外、大白木の探索などを行いますが、天候次第です。


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何故この地域に拘るかは、前述したとおり紀元前後から魏志倭人伝時代から九州王朝が滅亡する白村江の戦い(勿論戦ったのは九州王朝で田舎の奈良などではない)の全期間を通じて影響力を行使し続けたと考えられる白族(白川伯王の一族)系の神社が集中することが良く見えるからです。

 ただ、今回はこの問題には敢て踏込みません。その問題は別稿とする事として、この鳥居の配置をご覧下さい。

 手狭な境内に最大の合祀が行われ、参道に最大限配置された鳥居であるのならばそれで良いのですが、もしかしたらそうではないのかも知れないと考えたからです。詳しくは、以下の ひぼろぎ逍遥(跡宮)のバック・ナンバー外をお読み頂きたいのですが、

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国東半島の殷の鳥居(瀛の鳥居) “国東市国東町来浦の八坂神社”

ひぼろぎ逍遥 スポット110 三峯神社の殷の鳥居 ”金山彦系神社(埼玉県秩父市)”

これは、現地に殷の鳥居が存在した事の名残なのではないかと考えたのでした。

 この殷の鳥居についてはこれまでにも何度も触れましたのでご存じの方も多いでしょうが、この鳥居を使うのは主として金山彦(カグツチ)系の神社の祭祀を行う人々(金山彦系と白族とは姻戚関係を結んでいますので白族の一帯にもありうるのですが)の痕跡ではないかと思うのでした。


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世界遺産の殷墟博物館


最後に西日本の殷の鳥居をお見せしましょう


岐神(クナトノカミ)=出雲井神社の祭神=長脛彦(ナガスネヒコ)の祭祀をご覧頂きましょう。


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 劇的なまでの強烈な印象を受けますが、殷の鳥居が置かれています。

 今まで、長浜神社以外ではこの鳥居に遭遇した事は3社、4回しかありません。

 佐賀県嬉野市塩田町の八天神社、福岡県吉富町の八幡古表神社(二基)、国東市国東町来浦の八坂神社

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佐賀県嬉野市塩田町の八天神社

 

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勝手ながら、この岐神についても解説を省略します。関心をお持ちの方は、先行して以下をお読みください。

 このタイプの鳥居は三つ鳥居とも呼ばれますが、殷の鳥居とも呼ばれます。まだまだ遭遇していないものがあるとは思いますが、数は多くはありません。ヤマトタケル伝承が伝えられる三峯神社にしても、金山彦の後裔たるナガスネヒコ、オキツヨソタラシヒメの後裔にヤマトタケル、仲哀があるのですから当然と言えるでしょう。つまりカガセオの系統の神社なのであり、だからこそ殷の鳥居を持っているのです。


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504(前) 通古賀(トールコガ) 

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504(前) 通古賀(トールコガ) 

2017071520130930)再編集

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


福岡県の地名研究、古代史研究において避けて通ることができない幾つかの問題があります。

筑紫(チクシ/ツクシ)、太宰府/大宰府、安曇/安積、阿積…、古賀/古閑、久留米/久米/来目・・・といったものですが、その一つに、太宰府市の「通古賀」があります。


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そもそも、九州限定と言っても良い「古賀」(例外的に京都と滋賀県の安曇川沿いに古賀があります)地名の解明ができないまま、「通古賀」について書くなどありえないのですが、逆に言えばその見通しが多少とも付いたことから本稿が始まったとも言えるのです。

 まず、現在、教育委員会、行政はそろって太宰府市の「通古賀」を「トオノコガ」と読んでいるようです(確認される方は 市文化財課 092-921-2121へ)。

 少なくとも、彼らの扱いは住所表記が「トオノコガ」とされていることから、そうとしか答えないでしょう。

504-2太宰府市の公式サイトでも、民俗資料編の「地名の読み方と由来」として、大字 通古賀 とおのこが ここに筑前国衙があったから、といわれている。」 としています。

しかし、それは正しいのでしょうか?まずは、次の地図を見て頂きたいと思います。

明治三十三年に帝国陸軍測量部によって作られた地図ですが(前頁)、県立図書館など大きなところならどこでも普通に閲覧することができるものです。

少なくともこの頃(明治後期)までは「トオノコガ」とは全く呼ばれていなかったことが一目でお分かりになるでしょう。こんなことも知らないのか!


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少し見難いかもしれませんが、僅かに「トール」と仮名ルビが振られています。

では、明治の末期から戦後への数十年の間に呼称が変わったのでしょうか?

それとも、それこそ古い「トオノコガ」が、一旦は明治期に「トールコガ」に変わり、また、「トオノコガ」に戻ったとでも言うのでしょうか?

もう一つの資料をお見せしましょう

これは言わずと知れた貝原益軒の『筑前国続風土記』の見出しです(もちろん原本ではありませんが)。

どこに「トオノコガ」と書かれているでしょう?なんと「ホホルコガ」(ママ)とされているのです。

ところが、太宰府市の「通古賀」という地名は遠の御門、遠の国衙からきた「トオノコクガ」から転化した「トオノコガ」と読むべきだとする論が半ば定説化しているのです。

一例を見て頂きましょう。

ネット上にあった「西都太宰府」からのものですが、比較的正確に現状を伝えているものと思います。


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中村学園大学資料



長沼賢海によれば、通古賀が「コッカ」と呼ばれていたことに着目し、「コッカ」が国衙(古代の国の役所)に通じると考え、周辺の地名や字図の検証の結果、王城神社の周辺に筑前国衙が存在したという学説を発表しました。また、江戸時代に書かれた『筑前国続風土記拾遺』にも、通古賀に筑前国衙があったという記述も見られます。
 筑前国衙が本当に通古賀にあったかどうかは、現在もまだ確定しておらず、今後の考古学的成果に期待するほかはありませんが、国衙の存在を推定させるものとして、王城神社横の王城館の前に、礎石が残されています。大宰府政庁の礎石よりも一回り小さく、このあたりから出土したものとすれば、国衙のような役所が通古賀にあったのかもしれません。


王城神社と筑前国衙通古賀区『とおのこが風土記』より


この横行している「遠古賀」「遠の国衙説」の起源(発信元)は九大の長沼賢海教授なのですが、現地音と従来の読みとの齟齬、混乱は一般にも広がっているのです。

今度はそれもネット上から拾って確認しましょう。

これもよく整理されたもので、伝統的な感覚が良く表われています。


通古賀(とおのこが)と王城神社 [歴史]

「倭国とは何かⅡ」という本に、王城神社のことが書かれていました。菅原道真が住んだという榎社のすぐ近くですが、この本を読むまで知りませんでした。西鉄二日市の西側を北に線路沿いに行くと、右手に榎社が見えます。そこを左折すると王城神社があります。

「王城神社縁起(江戸時代寛政年間)によれば、神武天皇が四王寺山(王城山、大野山)に城を築いた際に、山中に武甕槌命(みかづちのみこと)と事代主命をまつったことに由来するとされる。その後665年、大野城築城に際し、現在の太宰府市通古賀の地に遷されたとされる。」とされます。『倭国とは何かⅡ』で「「王城神社縁起」の語るもの」(恵内慧瑞子)では次のように説明されています。

「今、玉城神社は、太宰府市大字通古賀1203 三番地(昭和一五年現在の地名は筑紫郡水城村 大字通古賀字扇屋敷)に通古賀区の村落神としてある。祭神は事代主命、氏子戸数は九六戸、境内神社に皇大神宮がある。また、早馬大明神の石体も別殿に合記されている。」

この辺りの地名は今も「通古賀」です。私は「とおりこが」と呼んでいましたが、いつだったか、「とおのこが」と知り、不思議に思っていました。恵内慧瑞子氏によれば、「通古賀は太宰府市の中でも山地が無い平坦地で、交通の要衝である。二日市から流れてくる鷺田川(天拝川)が町の中を流れ、落合で御笠川と合流している。 地名「通古賀」は、「とおのこが」と発音する。太宰府が「遠の朝廷」(とおみかど)と呼ばれたように、通古賀も「遠の国衙」(とおのこが)と呼ばれたいにしえの国衙ではないだろうか。『太宰府市史』には「筑前国衙」があったことから(氏神王城神社付近がその場所といわれている)、国衙が古賀に、大道にあったので通がつけられた」としている。最近の発掘調査でも市や官人の居住を
504-5思わせる
遺跡や遺物が数多く出土している。太宰府市教委の井上信正さんは「藤原京と同形式の、玉城神社を中心にした条坊制が敷かれている」と話される。ここは菅原道真の配所であった榎社にも近い。古い時代から開けた歴史、伝説に富む場所であることがわかる。」

   太宰府以前の行政機構との関連が示唆されています。玉城神社のすぐ傍には、古代官衙がありますし、200メートル外れた西鉄旧車庫の発掘で、鴻臚館と同じような接待の場があったという発掘結果も示されています。この本では、太宰府と大宰府の表記について、古代は大宰府だったとする通説に対して、古代にも太宰府という表記があったとしています。   

「とぜんなか通信」より



504(後) 通古賀(トールコガ) 

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504(後) 通古賀(トールコガ) 

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


九大教授(日本史)であった長沼賢海氏が遠の国衙=通国衙説の発信源であることは良く知られていますが、まず、新潟県出身の長沼教授にとって、「古賀」という姓も非常に珍しいものに思えたはずで、恐らく「古賀」という地名もある意味で難解な地名に思えたことでしょう。

 しかし、九州に住んでいる人にとって、「古賀」、「古閑」の違いはあっても、「コガ」と呼ばれる地名が広く分布していることは普通に理解されています。

ただ、『とおのこが風土記』の言う“「通古賀」が「コッカ」と呼ばれていたこと”についてですが、筑紫方言でも南部では促音化が盛んなことから、動詞語尾「る」が文中に来た場合だけでなく、「る、り、き、つ」で終わる語が文中で促音化する傾向があり、「通古賀」に近い「針摺」が「ハッズイ」になるなど、促音化の例は普通に見られるものです。

まず、「通古賀」が「コッカ」と呼ばれていたこと”という話そのものにも疑問を感じますが、長沼氏が「コッカ」と呼ばれていたから、国家、国衙へと連想したとしたのならば、それにも首をひねるのです。

つまり、九州方言の普通の傾向からは、「針摺」が「ハッズイ」になるように、「通古賀」が「トオッコガ」となりそうに思うからです。

さらに補足すれば、長沼教授の出身地の新潟県でも動詞語尾「る」が文中に来た場合に促音化する(あるだろうが「アッロ」)例もあることから、むしろ、“遠の国衙”ではなく、“通(トオリ、トオル)古賀と考えようとしなかったのか不思議に思えます。

そもそも、日本海側の海岸部は九州の海人族が古代に大量に移動し、地名や言語を運んでいるのですから、同じ言語特性が普通に認められるからです(一例ですが資料2を参照のこと)。


長沼賢海 ながぬま けんかい、18831980 日本史学者 新潟県出身 東京帝国大学 卒 東京府立第一中学校教諭 広島高等師範学校教授 1925九州帝国大学国史学科初代教授 のち香椎中学校久留米大学教授 「日本海事史研究」他著


まず、姓名の分布を調べると、全国で18,236件の古賀姓がある中で、福岡県に8,166件、佐賀県に3,028件、長崎県に1,151件と全体の6割が集中しており、ほぼ、北部九州に偏在する姓であると言えるでしょう(HP「姓名分布&ランキング」による)。

次に、地名の「古賀」ですが、これは拾い出しの作業が非常に難かしいため、正確な数字をお示しすることはできないのですが、当の太宰府市の「通古賀」周辺の古賀地名をいわゆる明治の全国小字調べ「明治十五年小字名調」によって拾い出しただけでも後段の表のようになります(資料1参照)。

結果は御笠郡だけの資料ではあるものの、大字を含めて10個の古賀地名が拾い出せる上に、距離的にも「通古賀」に近いものがあることから、凡そ「通古賀」は国衙があったから付されたもので遠の国衙である!」がいかに皮相な解釈、分析(ただの思い付き程度)であるかが改めて分るのです。

まさか、これらの全てが国衙の傍の地名であるとは誰も言わないと思いますが、遠の国衙説は、最早、非常に不明瞭で不可解極まりない怪物と化しています。

もちろん、「筑前国続風土記」や陸軍測量部による地図だけで証明したとは思っていませんが、「国衙があったから古賀だ!」「古賀はコッガと呼ぶものもいるから国衙だ!」は、ほとんど素人の論にしか思えないのです。

まず、第一に、一般の地図では古賀市の古賀や通古賀が目立つ程度で、それほどの数がないように見えますが、実際、大字、小字単位で調べれば、「古賀」地名は九州規模で大量に存在しているのです。

それらの「古賀」が、全て国衙があったと思える所に偏在しているならば別ですが、そのような事実は全くないのであって、全ての「古賀」地名が国衙と関係があるはずもなく、他の「古賀」地名は知らないが、「通古賀」だけは国衙と関係があると考えたのか、もしくは、そもそも、それほど「古賀」地名が存在しているという事実そのものも知らないで、立論しているとしか思えないのです。

恐らく後者が真相に近いと思うのですが、多くの古賀地名が存在する中で、一つの「通古賀」だけが遠の都と呼ばれる特別な理由があるとでも言うのでしょうか?叶いませんが、ご高説を伺いたいものです。

少なくともその後の定説化は、旧帝国大学の教授という権威に抗えなかった、もしくはあやかった、権威主義への拝祀がもたらしたものにしか見えないのです。

ただ、前掲の「とぜんなか通信」に出てくる「倭国とは何かⅡ」所収の恵内慧瑞子氏による“地名「通古賀」は、「とおのこが」と発音する。太宰府が「遠の朝廷」(とおみかど)と呼ばれたように、通古賀も「遠の国衙」(とおのこが)と呼ばれたいにしえの国衙ではないだろうか。”については、“私は「とおりこが」と呼んでいましたが、いつだったか、「とおのこが」と知り不思議に思っていました。”という、現地の人が把握できることをほとんど掴んでいないという権威に流されたものという印象は拭えません。

恵内氏があれほど学会通説に対して批判の目を持って見続けてきたと主張する九州王朝論者の九州古代史の会のメンバーであり、通説から独立した視点を追求するとしていただけに、「国衙があったから遠の国衙=通の古賀と考えたとしたならば情けない限りです(もっとも、現在の九州古代史の会は年8回の月例会のうち6回は、教育委員会や関係者や学芸員の通説、御高説を賜わる会に変質していますので馬脚を現したとしか思えません。かつては、九州王朝論の古田史学の会をも圧倒する研究会だったのですが情けない限りです。してみれば、長沼に尾を振るような説が出て来てもいたしかないでしょう)。

本稿は「通古賀」遠の国衙説に対する異議を提出することを目的としたもので、それ以上の内容を提出する意図はないのですが、当然ながら、では、「古賀」とは一体何なのかという大きな問題が横たわっています。

もちろん、「古賀」地名については、開拓開墾地を意味する空いた場所、「空閑」、クウガから派生したとする苦し紛れの通説があることは承知していますが、永井講演(古川と古賀/ユーチューブ版)を聴かれれば、この説への疑念はさらに深まるでしょう。

そもそも、「古賀」地名が中央に存在しないからか(例外的に京都の巨椋池周辺に一例ありますが、表記は「久我」とされコガと呼ばれます)、研究すら行なわれていないようです。

しかし、九州に偏在しこれほど大量に存在する地名を解明することは、単に我々素人の地名研究以上に重要で、九州の古代史解明にまで関係する重要な課題なのであり、地名研究としての本稿も実質的にはその導入部でしかないのです。

この「古賀」地名については、既に、永井正正範氏が「古川と古賀」という興味深い研究を提出しており、冒頭で「その見通しが付いたことから本稿が始まった」としたのは、このことを意味していたのです。

この論文については出版との関係があり、当面、ユーチューブによる音声での発表に留めることとしていることから、詳しくはそちら(仮題「古川と古賀」で近々にオンエア予定)を聴いていただくことにし、ここでは、その概略を紹介することにしたいと思います。


古賀地名とは何か?


永井研究の発端は、「古賀」地名がかなりの頻度で「古川」地名の傍に存在すると言う現象をフィールドから発見したことでした。

まず、筑後川流域だけでも小字単位では古川地名(フルコ、フルコウ、フルカワ…)は軽く50件以上は拾えるようです(小郡地名研究会による報告/小郡市史参照)。

言うまでもなく、古川地名とは三日月湖に象徴されますが、蛇行を繰り返す低平地域の氾濫残存河川周辺に付くものです。

目立つところでは、筑後川温泉の旧古川村、久留米市の長門石付近、浮羽から田主丸付近、佐賀県江北町の六角川流域に三日月湖状の古川地名が存在します。

古代に於いては現代以上に数多く頻発したであろうこの「古川」の発生に対し、それを埋めて住居地や流された田畑の代替地として復旧したいとする要望が出てくることは極めて自然な現象であったと推定できます。

現在のバングラディシュと同様に、古代に於いては強固な堤防を造ることができなかったために、河川の幅は現在の三倍から五倍はあったと考えられています。

まさしく、筑後平野はそのような巨大氾濫域に造り出されたものだったのです。

この想定に進むと、何時の時代においても土地の取り合いによる争いを回避するには、大きな権威としての行政や宗教勢力が関与し、一定の調整が行なわれたと想定することには十分な理由があるでしょう。

その際、「古川」を「古河」として表記した可能性があるのではないかと考えるのです。

筑後川という巨大河川の河口域はまさしく海とも川とも入江とも判別ができない一帯であり、エゴ(江湖、江川)という言葉が今なお生きる土地なのです。

もしも、「古河」が「古賀」と表記が変えられたとすると、九州にしか存在しない「古賀」地名の存在が非常に鮮明に浮き上がってくるのです。

中央の権威に縛られる人々は別として、古代史ばかりではなく、地名研究、言語研究にも九州王朝論を援用できる立場にあるものにとって、この「古河」の「古賀」への転化という仮説は非常に魅力的なものであり、恐らく学会通説を崇め奉り尾を振る郷土史会などの人々には絶対に考えることのできないものでしょう。

言うまでもなく、筑後平野、佐賀平野、熊本平野は、阿蘇の火山灰を起源とする非常に粒子の細かい土砂が絶えず送り込まれる地域であり、有明海による運搬作用による水平堆積によって、現在もなお低平な土地が今なお拡大し続けているのです。

このような場所では、川は蛇がのた打ち回る様に絶えず流路を変えることになるため、「古川」という言葉が自然発生的に発生し、それに行政(九州王朝)が関与することによって「古河」(恐らく熊本の「古閑」も)と呼ばれ(表記され)その後、好字令(713)によって「古賀」へと変えられた可能性を否定できないのです。

特に、いわゆる倭の五王の時代は中国風の読み、表記を好んでいることが読み取れることから、この時代に「古川」から「古河」への表記が形成されたように見え、「古賀」は想定する九州王朝の時代以前に成立した「古河」であると思われるのです。

さらに進めれば、肥後の「古閑」、玖珠の「古後」、山口の「久珂」、京都大阪の「久我」=久我(こがなわて)、そして常陸の国の「古河」(茨城県古河市=これもコガと呼ばれる)は、九州王朝の最大版図に広がる行政用語であった可能性が高まってきたのです。

低地の蛇行する大河の周りに分布する「古川」地名と「古川」を音読みで置き換えたものこそ「古賀」であり、他の多くのコガ(古川→古河→古賀、古閑、…)地名なのです。

問題はその論証なのですが、試験的な仮説でしかないため、永井氏も、今のところ肥後の「古閑」、常陸の国の「古河」(コガ)、京都の久我(コガ)」は可能性を指摘していますが、それ以外、豊後玖珠の「古後」(コゴ)、山口の久珂(クガ、クカ)、畿内の「久我」(クガ)までは言及されていません。

しかし、内部ではこれらも同一起源の地名ではないかという議論を行っているのですが、当面保留されていることから当方も抑制しています。

永井氏による「八女と矢部」(M音K音問題)「洞の海」(H音K音問題)、『「年輪年代法」と法隆寺「西院伽藍」』…などが広く普及しないもどかしさはあるのですが、ユーチューブの活用によって、これも徐々に解消されて行くことでしょう。

まずは、ユーチューブの「古川と古賀」をお聴きください。

その優れた永井研究も本も出さずネットにも公開しない様では存在していないのと同義であり、ただのカラオケ愛好会のようななばかりの研究会で拍手を貰うだけでいずれ潰え去る事になるはずです。


資料1


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資料2


宗像周辺の地名が日本海沿いに東に移動している。


宗像一帯の海岸部には、西から、草崎、神湊、釣川、「鐘崎」(鐘ノ岬)

地島(ちのしま)、「黒崎」(鼻)、波津、黒山、糠塚、芦屋、「遠賀」(古代の岡ノ湊)と言った地名が並んでいます。これはほんの一例ですが、まだまだあります。

北九州市八幡区の黒崎はこの黒崎(鼻)が最初に移動したものでしょう。

 一般的にこのような地名の移動を考えるときに、例えば、志賀島の「志賀」(鹿)が移動した地名として、佐世保市鹿町、石川県羽咋郡志賀町などが取り上げられますが、海洋民はあまり記録を残さないことから、宮地嶽神社に近い「手光」(てぴか)や「在自」(あらじ)「上八」(じょうはちではなくなぜかこうじょうと読むようです)といった滅多にない特殊地名ならば別ですが、単に同じ地名があるだけでは判断が難しいのです。しかし奉祭する神社が互いに符合するとか、住民の姓氏名や地名が複数や順番に対応するとなると、やはり地名が持ち込まれたと考えて良いいのではないかと思います。こう考えてくると、はっきり言えそうな例として、敦賀があります。

 福井県敦賀市の敦賀湾の湾奥、敦賀港の泊地に金ヶ崎町があります。戦国期、越前に侵攻した織田徳川連合軍が朝倉景恒攻撃した金ヶ崎城の「金ヶ崎」ですね(そもそもこの朝倉氏は但馬の養父から本拠地を移し敦賀に入っているのです。そして高良大社と同じモッコウ紋を使っているのです)。ついでに言えば手前の若狭湾の入口にある巨大な半島の先端にも金ケ崎があります。 また、角鹿(つぬが)町もあります。これは実は志賀島のことですが、ここでは、ふれません。その四~五キロほど北の敦賀街道8号線沿いに「黒崎」という岬があり、さらに二キロ北上すれば「岡崎」があるのです。 つまり、宗像海岸の西から東に向かって並ぶ「鐘崎」「黒崎」「遠賀」(古代の岡ノ湊)と同じ地名が敦賀にも順番に並んでいるのです。さらに、その「岡崎」から北に十キロ進むと海岸沿いに「糠」があります。これも恐らく、岡垣町の「糠塚」に対応するのでしょう。もはや、宗像の海士族が拡大するか、移動するか、一部が避退するかして持ち込んだ地名としか考えられません。上の図を御覧下さい。金ケ崎城があり、順番に「金ケ崎」「黒崎」「岡崎」があるのがお判りいただけるでしょう。   

まず、完全な対応が認められます。 




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スポット145 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝論研究の未来のために”

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スポット145 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝論研究の未来のために”

 

20171011

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

 

 

 九州王朝論を象徴する古田武彦が鬼籍に入って数年が経ちましたが、いよいよ九州王朝論を継承するとする団体が古田も驚くばかりの堕落への一途を辿っているようです。

 

 現在、九州王朝論者と言った時、必ずしも古田武彦を意味すると言った単純な構造には無い事は言うまでもありません。

 

 私自身も含め、ここ五年ほどで佃 収 九州王朝論の引力に惹き付けられ続けており、いずれ完全に佃収惑星の軌道を周回する極小衛星になってしまうと考えています。

 

 それほど佃収氏のフィールド・ワークに裏付けられた論証は精緻であり、かつ、その著作の厚みも、既に十冊を越えているのです。それでなくても米田良三研究や内倉武久研究もあるのですから。

 

新参の方はともかくとして、古参の九州王朝論者の組織のメンバーがこの内容も知らずに九州王朝論を云々している状況には情けない限りであり、それだけでも悲しい話です。

 

 一方、私達は既に百嶋由一郎と言う稀代の神社考古学者が描く神代史(実際には古代史の少し前の九州王朝前夜の世界なのですが)に移行しており、無関係とまでは言わないまでも既存の九州王朝論やそれらの団体からは独立した世界に入っており、既にどうでも良いと言えば良いのですが、古田亡き後の九州王朝論系の団体が総崩れ状態となっている事に驚きと興味を持って見物しているところです。

 

 か、と言って、古代史ファンなる者が「邪馬台国畿内説」(こんなものは只の利権に根差したデマ)やその安物の亜流でしかない「邪馬台国東遷論」とかに収斂されているかと言うとそうではなく、古代史への一般的な関心の高まりとか探究心それ自体が消失して行っている(全体としての劣化)事を感じているのです。


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このため、古代史関係の学者と考古学協会系の利権集団も真面目に調査も研究もやっていないのであり、それは「邪馬台国畿内説」の立場からのブログやHPなどが花盛りでない事からもお分かりになる通り、説得力を持って勢力を拡大させているといった状況にもないのです。

そこにあるのは、自ら研究する意欲も時間も資源も失った只の団塊の世代以降の中年の古代史ファンが蠢いているだけで、仕方がなく既存の村興し町興しといった教育委員会とか学芸員と言った既存の学会通説に尾を振り奉仕する官製研究に動員され、とうとう九州王朝論者のメンバーまでもが絡め取られつつあるという惨状を呈しているのです。

 情けないのは、十年前までは自らの頭で考え研究や調査や記録をする民間研究者がギリギリ残って居たのですが、彼らが引退するに至ると、自らは何も調べようとはせず、現場に行こうともせず、ただ単に所謂「邪馬台国本」を読み齧り、良くて九州王朝論者の書いた本を読んで、さも分かったかのように吹聴し、学会通説に基づく情報も知っておくべしとして、教育委員会関係者や学芸員と称する怪しげな連中のデマ情報を拝聴するばかりか真に受け、それも自らのメンバーからの研究発表など出せない事から、年八回の講演でさえも半分以上も外部の通説派(教育委員会関係者や学芸員)に平伏し心服して拝聴しようとしているのですから、その為体は情けないばかりです。

 こういう方針を打ち出しているのが元ブントの阿呆ネイチャン(bundは元々大衆レベルの思考しかできない)と自らは何の発表もできない商売人会長なのですから、いっそ九州王朝研究など止めてしまう方が恥を晒さずに良いのではないかと思うばかりです。

 要は、現場に入り汗を流して調査をしないような方々が他人の研究を齧りとってくだらない談話をしているだけでは、どこにでもある通説派の郷土史会などと何の変わり映えしないものであり、業績を残す事も九州王朝論を深化させることもできずに、いずれ従容として消え失せて行く事にしかならないはずです。

 今から35年も前でしたか、古田武彦全盛の九州王朝研究が熱心に行われていた時代だったと思いますが、別件で福岡市の公共施設に行った事がありました。

たまたま、部屋を間違えてある部屋に入るとどうも九州王朝論の研究者が集まっておられたのです。

既に古田武彦の初期三部作はもとより、「古代は輝いていた」の三部作などを読んでいた時期だった事から、「私も古田九州王朝論に魅了されている一人です…」とお話しして意気投合した事もあったのですが、元より別の集まりへの参加が目的であった事から連絡先だけメモして、それ以降二十年経った後に別団体の「古田史学の会」に入ったことを記憶しています。

ただ、当時の現場を重視する姿勢、自らも九州王朝論研究の一翼を荷おうと熱心に活動されていた現場を目撃していたのでした。

当時は、文献史学はもとより、九州王朝の中心部である九州島というというポジションを生かしたフィールド・ワークを怠らない姿勢どころか、自ら高額の職を捨て韓国にまで渡り数年生活する中で自らの研究を求めた人物さえ生み出したのですから、それに伍す人々=研究者が集まっている事が感じられたのでした。

最早、昔日の面影など全く認められない只の親睦団体に堕し、調査旅行と称して型通りの観光地見学でお茶を濁すのですから嘆かわしい限りです。

最早、このような人々から注目すべき新たな研究など決して生まれないどころか、そのうち学会通説に奉仕し教育委員会に利用されるだけの団体に成り下がる事でしょう。

問題は、この間入れ替わってきたメンバーであり、既に古田武彦の本も満足に読んだこともないようなただの古代史ファンといった若手が過半数を占める様な状態になっている事です。

既に、九州王朝論研究の進展が全く見込めないというレベルにある事は言うまでもなく、それらから離脱できた神代史研究のものだけは今後とも現場を解読し古代を見通す事が出来るのかも知れません。

このような九州王朝研究団体から離脱できて本当に良かったと思っていますが、このような話は元よりどこからか伝わって来るもので、「もうこんな研究体ではだめだ…」「自分では何も調べないし文章も書けないくせに会だけを運営している」「方針を出しているやつ自身が投げ出して辞めたいと思っているくせに、議論をさせようとする姿勢も何もない…」「学芸員とか教育委員会関係者の話ばかりでヘヘーと心服しているんですからどうにもなりませんね…」と複数の人から話を聴くと、既に古田武彦が一生を賭して切り開いた「九州王朝論」など忘れきって、自らも感動を忘れた人々の集まりに堕している事が今さらながらに分かるのです。

これらの人々(○○古代史の会…外)が十年前までは古田武彦九州王朝論はだめで自らはそれを乗り越えると息巻いていたのですから昔日の感があります。まさに恥を知れ!でしょう。

最早、研究者による研究会、最低でも著述者、記録者、年代記録者、映像記録者、伝承収録者、ブロガー、取材者、広い目でいう所のフィールド・ワーカーによる連合体、情報調整機関として再建すべき時代が来ている事に気付くべきなのです。

九州王朝論の本拠地であるべき九州に於いてこの有様なのですから、古田武彦という独立性の強い稀代の研究者が存在した時代にだけ「九州王朝論」が花開き、古田武彦亡き後、その著作が凍結された形で残されたのだと理解しています。そして、個人的には佃収九州王朝論と百嶋由一郎神社考古学との整合性を追求する作業に入ろうとするものです。

既に、百嶋由一郎の影響を受けた神社研究者は全国に二十五人を数え(とりあえずブロガーだけの数字ですが、アクセス数だけでも年間百五十万になるでしょう)、ただ利権に乗っただけの通説派の学芸員の話を拝聴し翌日には忘れてしまうような好い加減な邪馬台国本読者ではなく、自ら調査を行いブログを書く行動する研究者の連合体が形成されつつあるのです。

 人の話を真に受け拝聴するだけの人々はそのソースが換えられれば、そのまま同調する人々でしかなく、研究者でも探査者でも解析者でも記録者でもないのです。

 個人的には古代史の世界から離脱できたことから一切悩みが無くなったのですが、既存の「古代史」には国家、現体制に繋がる嘘がまかり通っているという事を理解し、既存の情報を一切信じる事無く一から調べて深層を探る事無くしては真実に辿り着けない事だけは確実なのです。


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当時全力で取り組んだ宮地嶽神社の筑紫舞講演と併せて行われた講演中の古田武彦と800人の聴衆

  

505 “うわばみ“ の謎が解けた?

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505 “うわばみ“ の謎が解けた?

2017071520100409)再編集

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

蟒 蛇(ウワバミ) “うわばみ”の謎が解けた?


古典落語に“うわばみ”(大蛇)が出てくる噺があります。「夏の医者」、「そば清」…といったものですが、皆さんも、多少は人を丸呑み込みする大蛇のことは聞かれたことがあるでしょう。ただ、“うわばみ”を、なぜ“うわばみ”というのか?ということについては気になり続けていました。

噺のほうも謎は謎だったらしく、「昔、“うわ”というものがおったが…それが“はむ”のじゃな…」などと“うわばみ”の語源を解説するものまであります。

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 写真は朝倉郡筑前町の東端に鎮座する大貴巳神社


蟒 蛇(ウワバミ) “うわばみ”の謎が解けた?


古典落語に“うわばみ”(大蛇)が出てくる噺があります。「夏の医者」、「そば清」…といったものですが、皆さんも、多少は人を丸呑み込みする大蛇のことは聞かれたことがあるでしょう。ただ、“うわばみ”を、なぜ“うわばみ”というのか?ということについては気になり続けていました。

噺のほうも謎は謎だったらしく、「昔、“うわ”というものがおったが…それが“はむ”のじゃな…」などと“うわばみ”の語源を解説するものまであります。

 私自身も、実際、“食む(はむ)”という言葉に引きずられ、最後には、“うわ”とは何か?とまで考えていたのですが、結局は分らずじまいで投げ出していました。

 ところが、最近になって、ようやくこれが解決したのです。きっかけは永井正範氏の発表テーマが「八女と矢部」になったことでした。

 氏は報告の骨子としてM音とB音の入れ替わり現象を取り上げておられます。

恐らく、八女と矢部が実は全く同じものなのだと説明されることになると思うのですが、この現象は比較的知られています。再度考え直すとこれまで悩んでいた“うわばみ”の謎がなんとか解けるのです。

言語学の世界で、今の日本語のH音が、古くはF音、さらに古くはP音で発音されていたという話は有名です。沖縄の先島諸島では花が“ぱな”と呼ばれることでも分かります。

まず、ヘビが東北地方の一部(岩手、青森の古老の慣用)では“ファビ”とf音で発音されます。また、沖縄のハブ(ファブ)にf音が残っていることは、ヘビが、かつては、ファビもしくはファブに近い音で発音されていたことを容易に想像させます。

では、ここで、ファビ、ファブのB音をM音に置き換えてみましょう。きれいにファミ、ファムになるのです。問題として残ったのはウワですが、一応、南島から九州西岸部で顕著なO音とU音の入れ替わり現象と考え(オオゴト→ウウゴト)、大きいの意味のオオ、がウウ→ウワ、ウハと転化したものとして理解しています。これでウワバミとは大きな蛇のことということでなんとか収まったのです。

と、ここまで話を進めたところ、永井氏から、そもそも、「ヘビ」の古語として「ヘミ」(広辞苑)があるのだから、そんなにまわりくどい説明をする必要はないでしょう。単にM音とB音の入れ替わり現象だけで説明は可能なのです。とのコメントを貰いました。

「ヘミ」の古語がH音の古形としてのF音に、M音をB音に変えれば、“うわばみ”の「バミ」であることが分かるのです。実はなんでもないことでした。

では、M音とB音はどちらが古い形かと問われれば、簡単ではありません。

「へみ」が「へび」の古語とされていることから「ヘミ」が古く、従って、八女が古い地名であり、五條家が進出した(九州の南から入った)矢部と呼ばれたのでしょうか?

まず、そうとも言えないことは、辺境も辺境の沖縄の八重山にまで「ハブ」が流通していることでも反証となりそうです。

また、「さむらい」の古語が「さぶらい」とされていることもあり、この入れ替わり現象がそれほど多くなく気まぐれであることから、今のところ、八女の一部であった矢部が、いつの時代にか矢部と呼ばれるようになったように思えるのですが、あまりあせらずに八女と矢部にはこの問題が関係しているのではないか?とまでしておきたいと思います。


へみ【蛇】

へびの古称。仏足石歌「四つの―五つのものの集まれる穢き身なれば」。(和名抄(19))

 

 うわ・ばみ(ウハ・・)【蟒蛇

(ハミはヘミ・ヘビと同源)

 大蛇(だいじゃ)。特に熱帯産のニシキヘビ・王蛇などを指す。<日葡>

 大酒飲みの喩え。

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大巳貴神社(筑前町)

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