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506二里の松原と虹の松原

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506二里の松原と虹の松原

2017071520110921)再編集

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


佐賀県の玄海灘側に位置する唐津市には日本三大松原、延長八~九キロにもなる松原があります。この松原を「虹の松原」と呼ぶのですが、藩政時代(寺沢氏時代)には「二里の松原」と呼ばれていました。もちろん、二里(約八キロ)はあったから名付けられたものなのでしょうが、これについては「街道をゆく」(肥前の諸街道)で、司馬遼太郎も、“夕日に映える海岸線が湾曲し虹のようにも見える”と言った表現を残しています。しかし、どうもそうではないような気がするのです。


もとは、「二里ノ松原」とよばれたらしい。秀吉の時代に大名にとりたてられた尾張人寺沢広高が、この唐津城主となって、城を築き防風林として松原をつくった。

   唐津城主は、寺沢氏のあと、徳川期には異姓の氏が頻繁に交替した。江戸中期までの記録には「二里ノ松原」とあるそうだから、江戸期のいつごろからか、唐津人が誰が言い変えるともなく「虹の松原」と言い習わすようになったらしい。


『街道をゆく』11 肥前の諸街道(司馬遼太郎)


「街道をゆく」を読んだ時は全く違和感がなかったのですが、敬愛する司馬氏の言といえども疑って掛かるのが古川定跡です。

根拠は極めて単純なものでした。佐賀県の西半分から長崎県に掛けてはRの発音がDの発音に入れ替わることが良くあるからです。

一例を上げると、リポートⅡに掲載した 63.“ハゼンダの海に湧く泉”にこのように書いています。


奇妙なタイトルですがそのうち分かってきます。JR長崎本線に沿って国道二〇七号線を諫早、長崎方面に向かって走り、太良町(佐賀県藤津郡)の中心を通り抜けると、右手に鉄橋が入江を渡っている所が見えてきます。波瀬の浦(太良町糸岐)です。

「波瀬の浦」とされていますが、地元では「ハゼンダ」としか呼んでいません。五キロほど先に同じく“カメンダ”(亀ノ浦)がありますので、“浦”を“ダー”呼んでいるのは間違いなく、“ラ”を“ダ““ダー”と発音しているのです。この地は長崎、佐賀の県界に近く、辺境からか、R音を嫌う古代の日本人の発音の一端が色濃く残ったものではないかと密かに考えています。


“二里”の松原から“虹”の松原への表記の変遷が、もしかしたら、ニリとニジ、NIRINIDINIZI)、つまりR音とD音の入れ替わりから来ているのではないかという事に気付いたのはつい最近のことでした。

そもそも、“ライオン”を“ダイオン”“ラッパ”を“ダッパ”などと発音するのは幼児語のように思われています。尻取り遊びでも分かるようにラ行の単語が少ないことは日本語の特徴ですが、それは、元々、ラ音を語頭に使用しなかった日本語の生理のようなものであり、ここ、唐津でも残ったものと考える事ができるのです。

もしも、私の推測が正しければ、藩政時代(唐津藩は寺沢氏=外様から大久保、松平、土井、水野、小笠原氏と譜代の五氏が入れ替わる)に、延長一〇キロに近い海岸線をもって“二里の松原”と呼ばれたものが、いつしか現地の人々の土着性によってR音を嫌う傾向が力を発揮し、いつしか、ニリがニヂ(ディ)と変わり、表記が“二里”から“虹”に変わったのではないかと考えるのです。もちろん、土地の人々は元から「ニディノマツバラ」と呼んでいただろう事は想像に難くありません。

最後に、私の推定では信用できないという向きには、高名な民俗学者の引用で答えたいと思います。


西日本殊に九州あたりの人々は正確にはR子音を発音し難く、漁師などには、リョウ又はリュウと発音している者は少なく、ジュウゴサンと謂って十五夜と混同して、月の十五日を祭日にしている所もある。


「龍王と水の神」(『定本柳田国男集』第二十七巻(筑摩書房)柳田国男


ついでに付け加えておきます。まず、博多んもん以外には全く分からないと思いますが、角(カド)のうどん屋のことを現地ではカロのウロン屋などと言います。R音とD音の入れ替わりの話をしましたので、この話をしないと片手落ちになります。ただ、ここでは逆にD音がR音に入れ替わっているのです。

余談ですが、ほんのしばらく前までの話ですが、博多駅の地下街には「カロ」と言う名の和風レストランまであります。確認してはいませんが、恐らくこれも角(カド)の意味だと思います。そして、実際に地下街の角にあるのです。


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※ その後、博多駅の地下街の「カロ」は同店を経営されている某酒造メーカーのブランド名「花の露」が「カロ」とも読める事から付けられたものと知りました。何度か利用していますが、私は饅頭党(甘露党)でカラ党では全くないために勝手な思い込みをしていたようです。こういうことが多々あるのが地名の世界なのかもしれません。


 と、ここまで書いた後に、佐賀新聞に松浦史談会の山田 洋氏による「江戸時代には二里の松原とも」という虹ノ松原の呼称に関する記事が掲載されました。 以下全文掲載↓


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2009年(平成21年)211日付け「佐賀新聞」


ここで、注目すべきは巡検使と名護屋の大庄屋松尾兵衛門とのやり取りです。

 巡検視から距離を尋ねられた兵衛門が「およそ一里四丁ございます」と答えたら、巡検使は不思議そうな顔をして「浜崎では二里と申したぞ」と聞き返してきた。これに対して兵衛門は「虹ノ松原を取り違え二里の松原とも申し候故、ふと二里の松原とも申し上げ候わん」と答えている。つまり「虹の松原のことを取り違えて(聞き間違えて)二里の松原と申す者もいるようなので、浜崎で答えた者も二里と取り違えていったのでしょう」(この部分も山田氏)と答えているというのである。

 おぼろげながらも、ここから分ることは、海人族の拠点とも言うべき名護屋組の大庄屋になったという兵衛門が“虹ノ松原が二里の松原と取り違えられた”という認識を持っていたようだという点です。

司馬氏が“江戸中期までの記録には「二里ノ松原」とあるそうだから、江戸期のいつごろからか、唐津人が誰が言い変えるともなく「虹の松原」と言い習わすようになったらしい。”と書いた根拠を探ることは困難ですが、虹が二里に変わり再び虹に戻ったものなのか、二里が虹に変わったのかは興味が尽きません。

もちろん、司馬は、それ以前もそうだったとしている訳ではないでしょうが、私には、司馬が書いたように、江戸中期までの「二里ノ松原」が「虹の松原」に変わったと考えることにも不安が残ります。

全国には、九十九里浜、七里ケ浜(鎌倉)、千里ケ浜(平戸)と里を含んだ海岸地名が散見されます。従って、江戸期以前から二里ノ松原と呼ばれていたという可能性は十分にあるでしょうが、このような海岸地名は、通常、地元の海洋民によって付されることが多いはずです。

ただし、言い過ぎかもしれませんが、古来、海洋民は学問とは縁が薄かったと思われることから、表記は、支配階級側(寺社、武家)で行なわれたと考えてしまうのです。

もしも、天領としての唐津が外来の支配に晒され続けてきた地と考えることが許されるなら、呼び手側と書き手側の発音と聴き取りの問題とも考えられそうです。

 確かにR音はD音より発音しにくい上に、元々、日本には語頭にR音が来る単語が少ないことは、尻取り遊びで、R音で行き詰ることでもお分かりになるでしょう。

 二里のR音「リ」が現地の人々によって好んで使われていたとは考えにくいことから、古来、「ニディ⇒ニジ」の松原と呼ばれていたのではないかとまでは思ってみたのですが、無論、決め手はありません。

 一方、朝鮮半島には「リ」と発音される里の付された地名が無数に存在することはご存知でしょう。漢音を基調とする官学たる儒学、朱子学が朝鮮半島からもたらされたことを考える時、R音は大陸、半島からもたらされ、それが、書き手に反映された可能性はあるかも知れません。

 しかし、そこまで言えば、半島と絶えず往来してきた倭人、海人族、松浦党の人々にそれが持ち込まれていないのも不思議と言えそうですが、半島の倭人の領域にはR音はなかったのかも知れません。皆さんは、どのようにお考えになるでしょうか?

 答えを出すつもりで書き始めたものの、返って混乱を深めてしまいました。

結局、「西日本殊に九州あたりの人々は正確にはR子音を発音し難く、漁師などには、リョウ又はリュウと発音している者は少なく、ジュウゴサンと謂って十五夜と混同して・・・」とする柳田説をそのまま受け入れるならば、江戸期に入り始めて二里ノ松原とお上から命名された「ニリ」ノ松原を苦心惨憺のうえ「ニディ」ノ松原と発音し、いつしか虹の松原と書き呼び慣わすようになった。としておけば、これ以上、不必要に思い悩む必要はないのかも知れません。恐らく、これが正しいのでしょう。


なお、冒頭に書いた「延長八~九キロにもなる松原」と兵衛門が「およそ一里四丁ございます」と答えたことに齟齬を感じられる方もおられるかも知れません。これは、山の針葉樹林化による土砂の流出の増大と不必要な埋め立て、堤防の建設の結果、海岸線が海側に出たことによるものと理解しています。


507 青長谷(アオバセ)“山陰の日本海岸に延びる青地名” 山口県編

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507 青長谷(アオバセ)“山陰の日本海岸に延びる青地名” 山口県編

2017071520110921)再編集

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


古代から中近世においても主として海の民が住み着いたところでは、実際に水葬が行われていたのではないか…として青地名を世に問うたのは民俗学者の谷川健一氏でしたが、この青地名は単に『日本の地名』(岩波新書)に書かれたいくつかのものだけではありません。

普通の道路地図ぐらいではなかなか分からないのですが、現地を踏み小字単位の調査を行うと多くの青地名を拾い出すことができるのです。

写真は青長谷(アオバセ)と呼ばれていますが、このことについては後にまわすとして、ここでは山陰の青地名について簡単にふれておきたいと思います。


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もちろん、青の付くものが全て青地名という訳ではありません。

典型的なのは青葉台、青山台といったもので、住宅分譲地に良く付けられるものです。

これらのものは排除するとしても、水葬はそもそも○○台や○○丘では行われないのであって、海岸部の島や岬を中心に、平地ではあっても古代の海や湖で汀線に近い土地、大河川の合流地、村境といった人の通常人の住まない辺鄙なところになるでしょう。また、近くに住吉、粟島…といった海人族が奉祭する神社があることも指標になるかもしれません。

安曇族が諏訪に入っているように、山中の川や湖にも散見されるのです。

いくつかのバリエーションがあります。青木、青山、青野、青島はもとより、粟生、阿保、安保…といった表記の違うものもありますが、やはり多いのは、直接、青が付くものです。

このことも何かを意味しているようですが、水葬が海岸部に集中していることから単純に青い海の色に引きずられているだけなのかも知れません。


山陰本線に沿って


単線でのんびりした旅ができる山陰本線は下関の北、幡生駅から分岐します。まず、川棚温泉駅の西、涌田漁港の先に真崎という岬が西に伸びていますが、そこに青井古墳群があります。ただの岩塊があるだけの土地であることから青井は水路とか言った物でない事は明らかです。どのように考えてもこの青井という意味は古墳群のことを青井と呼んでいるとしか思えません。

次に油谷湾に面して粟野駅があり粟野川が注いでいます。この一帯は農耕地に乏しく、上流に杣地という地名があるように川沿いに木材を流していたようにも思えます。当然、このような場所は候補になります。

あこがれの川尻岬のある向津具(ムカツク)半島の付け根に青村があります。日本海面した山の上の開拓集落だけに始めは無視していたのですが、海岸まで青村だと聴きつけて考えが変わりました。もともと海岸地名の青の上に入植が行われて青村と呼ばれたことが想像できたからです。

仙崎漁港の沖の青海島については既に別稿を書いていますのでここでは取り上げません。

長門市駅を過ぎると長門三隈に入ります。粟良ケ浜と大粟という岬が拾えますが調査はこれからです。

普通、長門から萩に移動するには国道191号線を利用されるでしょうが、山陰本線に沿って走る旧道の県道64号線に入ると三見駅と玉江駅の間に青長谷という地名を発見しました。6万分の1の道路地図では確認できませんが、カーナビで見つけました。踏切の名称が青長谷第2踏切、青長谷第3踏切という表示でも確認できます。長谷は当て字であり、地名の意味は恐らく青葉の瀬のはずです。

萩の市街地を抜けさらに東に進むと左手に嫁泣漁港が見えてきます。さらに進むと国道191号線が海岸を走り始める辺りに古くは汀線上と思えるところに夥しい墓が並んでいます。恐らく、かつては流すままに任せた流し墓を思わせるものが見られます。水葬が埋墓に移行する中間の形態のなごりではないかと思っています。

青長谷地名はこのような場所には青地名があってもおかしくはないはずだという見込みで入り実際に発見しただけに、個人的には喜びの大きいものでした。出雲半島北岸に多くの青木島を確認したことから、山口県の北岸にもある程度拾えるのではないかと考えたものでした。鳥取県の青谷上寺地遺跡などの存在と合わせ少なくとも山陰全域の海岸部には水葬が一般的であった時代が存在したのではないかと考えるのです。


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県道64号線萩市青長谷


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山陰本線玉江駅の西にも汀線ぎりぎりに密集した墓があります。


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今回は鳥取県の青谷上寺地遺跡背後地の巨大墓地に刺激を受け、山口県の日本海岸はどうかを探っただけのものでしたが、地図にない青長谷を発見し関門海峡から兵庫県の手前まで多くの青地名が確認できることが分かりました。海岸部を中心に見てきましたが、島根県に入ると、内陸部にも多くの青地名があります。次回、島根県編ではこれにもふれてみたいと思います。


谷川健一の「青」論


 詳しくは原書その他に当たられるとして、ここでは簡単に引用させて頂きます。


 …沖縄では青の島は死者の葬られた島につけられた名前である。習俗の中で葬制はもっとも変化しにくいものである。もし本土の海岸や湖沼に「青」を冠した地名があり、そこが埋葬地と関係があり、また、海人の生活をいとなんでいるならば、南方渡来の民族が移動して、本土の海辺部に定着した痕跡をたしかめる手がかりを得るのではないかと私は考えた。…


…たとえば鳥取市の西にあたる湖山池(こやま)の南岸には、青島が浮かんでいる。そこは縄文、弥生、古墳期にわたる遺物を出土している小島である。この湖山池には江戸時代に水が汚されるという理由から、火葬の灰を流すことを禁じた法令が出たといわれている。つまり、青島がかつては水葬の地であったことを暗示させる風習が江戸時代までつづいていた。湖山池より更に西の東郷池の浅津(あそうず)ではかつて墓のない村が八百戸もあり、火葬したのちに遺骨の一部を残して他の遺骨や灰を東郷池に捨てたという。田中新次郎はこれを水葬の名残と見ている。…


『日本の地名』(岩波新書)から“沖縄の青の島”


…対馬の西海岸にある青海(おうみ)という集落では、埋め墓は波打ち際にあり、詣り墓、供養する石塔は、すぐそばのお寺にある。したがって、死体そのものは波にさらわれていくのに任せるのである。…


新著『民俗学の愉楽』(現代書館)から“青の島とようどれ”


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私もこの地を踏むまでは、地名から考えて、かつては水葬が行われていた可能性があり、少なくとも川の合流部か古代の汀線辺りに何らかの痕跡を拾えるのではないかと思っていた程度でした。

しかし、最後に驚くべき光景を見てこの旅を終えることになるのですが、山陰はやはり青地名だらけであることに感慨を深くした旅でした。    

スポット146(前) ドライブ・レコーダーとICレコーダーは日本の「恥の文化」を蘇らせるか ②

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スポット146(前) ドライブ・レコーダーとICレコーダーは日本の「恥の文化」を蘇らせるか 

20171229

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


2018年頭に スポット135ドライブ・レコーダーは恥の国を蘇らせるか をオンエアさせて頂きました。

「このハゲー」の名台詞を収録したICレコーダーと東名高速に於ける煽り運転のI氏の動向を収録したドライブ・レコーダーが公になる事によって、この間徹底的に破壊され続けてきた(勿論、資本主義経済の発展が必要に迫られて破壊したのですが…)伝統的な列島の共同体と新たに拡散した車社会蔓延によって極限にまで衰退し壊滅した「恥の文化」が復活し、幾分かは日本列島(劣等)民族の伝統的な節度と自己規制、自己抑制と平衡的な関係性が復活するのではないかを仮想したものでした。


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しかし、同種の事件は続いています。どうせ議員も行政もろくなものではないのですが…。

 
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20171221日 07:20


威圧的言動の草島議員に改善要請 鶴岡市議会と市


sp146-3 鶴岡市議会の草島進一議員(52)が民間業者や市職員に威圧的な言動を繰り返したとして、市議会と市は20日、発言と行動に関する改善申し入れを行った。市職員への「人間のクズ」発言や、飲食店従業員が怒鳴られたことが原因で退職したことなどを問題視した対応。草島議員は「根拠なき作り話。現時点で謝罪はできない」と反論している。

斎藤久議長名の申し入れでは▽市職員が拒否しても無断で動画撮影し、フェイスブックで配信▽11日の本会議後、答弁した市幹部職員に対し「人間のクズ」と発言▽市役所内の民間食堂で提供されたコーヒーにクレームをつけ、対応した従業員が退職した―など7項目を上げて改善を求めた。

高橋健彦総務部長名の申し入れでは、市職員への侮辱的な発言や、会議出席中の職員への呼び出しの強要などが、不当要求行為に当たるとした。

庁内からの報告は約70件あるという。

草島議員は同日、2度記者会見を開き、最初は「クズ発言」について「言い過ぎた。謝りたい」と認めていたが、4時間後には「怒り心頭で興奮状態にあり、記憶があいまいで覚えていない」と撤回。食堂の件も「言い過ぎた」との発言から一転、「一方的な申し入れで証拠がない」とした。一方、「声が大きいので威圧と感じる人もいるので、その点は反省し、改善していきたい」と語った。

食堂関係者によると、草島議員は1024日に来店し「コーヒーがまずい。交換しろ」と声を荒らげ、女性従業員3人が謝罪したものの、「議会に報告してやる」と怒鳴ったという。女性の1人は震えが止まらず、仕事ができなくなり、病院で心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断を受け退職した。関係者は「従業員は大きな不安を感じていた。影響力があることを自覚してほしい」と話す。


そうです。相撲協会なる現状ヤクザ紛い組織の大騒動報道の合間に漏れてきた「人間のクズ」なる威圧議員報道も、実はICレコーダーで音声が収録されていたからこそマスコミでも取り上げられたのでした。

伝えられる同市議の経歴を見るにつけ、果たして草島市議が糞島市議なのか、議会なり鶴岡市自体が糞なのかは不明ですが、そういった正統性の有無は抜きにして、ここでもICレコーダーが働いていた事が確認できるのでした。

勿論、個人的には行政も住民のためには全く活動していない糞であり、それに同調する議員は元より、それを批判しつつ食いものにする議員も、使命感を持って議員を志す方も、結局はさもしい人物だと認識しています。

今の時代に議員となり政治を志そうとする事自体がさもしくもあさましくも最低の事なのです。

つまり、現状の見せ掛けだけの民主主義に乗って議員に成ろうとする(時流に乗って「希望の党」に擦り寄ったような)さもしい人物は、全てさもしい糞野郎だとしか思えないのです。

現状では、レーニンが否定した兄アレクサンドルのテロリズム(=天誅による恐怖政策)によって、不正を働く薄汚い人物は全て誰かによって処刑されると言う恐怖による正常化しかないのではないかと考えています。

全体主義国家では不正、賄賂、イカサマ…は表面的には消えてしまうのです。

勿論、それ自体を良い事だとは思ってはいないのですが…。


ペテルブルク大学理学部に在籍していた兄のアレクサンドル・ウリヤノフが、ロシア皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画に加わった容疑で絞首刑にされたのである。同じく疑いが掛けられた姉のアンナ・ウリヤノヴァは追放の処分を受けた。

ウィキペディア(20171229 11:57による


一方、長い年末は、相撲協会の幹部とそれに癒着した取巻き共(協会に尾を振る元NHKアナSとか今後も密着取材を続けたいだけで気を遣うスポーツ報道関係者とか薄汚い○坊=●暴と読め…評議委員会議長とか)を使ったお茶の間報道が連日垂れ流す“貴乃花親方バッシング”を見るにつけ、まさしく集団リンチでしかなかったただの不良外人力士による暴行事件そのものよりも、何故か貴乃花親方の言動(これについてはほぼ沈黙なのですから全て彼らの憶測ですが)振る舞いが問題だとでもするかのようなとんでもない風潮が意図的に作り上げられていたのです。


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これも日本の未来が縮図の様に暗示されているのですが、まさにグローバリズムが齎した文化的貧困の象徴と言えるでしょう。

そもそも、相撲が武道であるとか日本の文化だなどと言われていること自体がまず大錯覚の大笑いなのです。

相撲とは、元々は地方のゴロツキや地回りのヤクザどもがプロレスまがいのインチキ・イカサマ興業として仕切られてきた只の芸能=興業であって(だからこそ相撲取り=関西ではスモントリは裸芸者と呼ばれる程度の芸人扱いだったのです)、そんなことは、「水戸黄門」とか「遠山の金さん」とか言った低劣番組を見ておられるB層には良くお分かりの話ではないでしょうか?

これをあたかも日本文化であるかのように思わされたのは、敗戦後のマッカーサーによる占領政策の一環でしかなかったのです。

相撲とはこの占領軍による「武道禁止令」(柔道、剣道、空手道、少林寺拳法もでしたか…)の結果お目こぼしされた(つまりプロレス扱いの愚民化政策として推奨された)程度のものでしかなく、こんなものを有難がる連中の気が知れない限りで、いち早く消えて無く成れと永らく思い続けて来ました。


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従って、個人的には相撲協会がどうなろうが知った事ではないのですが、ただのヤクザ紛いの興業集団が公益法人とか公益財団法人などと持ち上げられ事自体がとんでもない思い違いであり、文化的貧困を表しているのです。

だからこそ悪質極まりない○坊(かつて関西でセミ・ヌード写真も公開していた「女○暴」と読め)何某なるヒステリックで非論理的な思考しかできない自民党の議員女(評議員会議長)が仕切っているように見えたのでした。

この「貴乃花騒動」は実に社会学的に興味深いものです。

この一点にしか価値がないのですが、この解析はそれだけで2010年代の列島文化を探る好材料とは言えるでしょう。

しかし、貴乃花の姿勢は実に日本的で潔く、敵が幾万ありとても挑んでいった楠正成や神風特攻隊を想わせる素晴らしいものと言えるでしょう。

単純に言えば、恐らく実際に八百長が行われているであろうモンゴル力士会=互助会(実際、モンゴル力士同士による優勝決定戦が不思議と行われていない…)に於いて、それに馴染まない(言う事を聴かない)一部の力士が吊し上げられたと言うだけの只の計画的集団リンチ事件であって、単純な暴行傷害事件でしかなかったのです。

それを、被害者側の親方が巡業部長として報告を怠ったことが問題だとして、逆に被害者方の親方を処分するなどと言うとんでもない暴挙を平然とやっているのが相撲協会とか評議員会なのです。

そもそも報告義務を果たさなかった…(どうせ握りつぶされるに決まっているのですが)という事で処分された貴乃花親方(勿論現場には居なかった)と暴行の現場に居た当事者の報告義務とどちらが優先されるべきなのでしょうか?

白鳳など暴行現場に居合わせた連中は法外な給与の中から僅かな減俸程度で修められているのに対して、暴行現場に居た訳でもない犠牲者側の親方が不当かつ過大に処分される事があまりにも酷い事であって、簡略化して言えば犠牲になった善い側の人間が処分され、暴行を振るって制止もせずに放置した横綱など悪い連中が御咎めなしとされているのです。

これは、日本の社会現象でも最も悪質な部分を最も良く表していると言うべきで、不正不公正に満ちた日本の社会構造を良く表している様に思えます。

どちらにせよ、かつて、八百長どころか暴行から殺人事件まで引き起した相撲協会が公益財団法人と言うのですから、出来るだけ存続させ公益財団法人なるものがいかなるものであるかを表す恥さらしのための広告塔として残すのも良いのですが(個人的にはこちらがお奨めですが)、直ちに公益財団法人格を取り上げ法治の及ばぬヤクザ組織として警察の監視下に放置し、徹底して税金を巻き上げて糞議員とかヤクザの共同体論理に取り込まれた元検事などといった罪刑法定主義も無視するような連中を放逐して貰いたいものです。

正月場所以降相撲協会への批判は一層高まり、相撲への幻滅と興行(所詮興業なのです)減収は大きなうねりを呼び起こす事になるでしょう。

どちらにせよ、相撲など程度の低いイカサマ芸能でしかない事を再確認できる良い機会ではあった訳です。

個人的ながら、現状の列島の未来には全く希望は見えません。

日々の生活をゲート・ボールとパチンコ…で送られている方(所謂B層)などは何とも思っておられないでしょうが、多少とも世間の動きに目を凝らす力をお持ちの方には、どう見ても列島の未来など暗澹たるもので考えたくも無いはずなのです。

既に① 労働者は死の直前まで働き続けざるを得なくなり、社保庁の堕落など忘れ去られ年金はどんどん意味の無いものに変えられてしまう事になっています(できるだけ早く貰い、食えなくなったら早く死のう)

② 国民健康保険と日本の医療制度の現状は問題があるとしても、既に厚生労働省の内部では廃止の方向が決定されているとの話が内部から伝わっています。

この廃止の方向と歩調を併せ、体裁はどうするかは別にして外資に全面的に門戸を開き、いずれアヒルガーガー保険の様なアメリカ金融資本に食いものにされる事になるはずです(だから対ドル円安政策が取られ続けているのです…何故なら裏付けのないドルで日本の株式が格安で買い叩けるからです…日本が格安の旅行先である事からアジアの成金どもが押し寄せている事と同様なのです)。

結局、民間保険に加入できる金持ちだけが医療を受けられる事になってしまう事になってしまうのです。

当然ながら厚生労働省の腐敗幹部官僚だけはアメリカの金融マフィアから法外なキック・バックを受けて私腹をこやしている可能性が高いのです。

③ 既に、東芝、タカタ、コベルコ…とアメリカの特定勢力から嵌められ揺さぶられ、せっかく溜め込んできた内部留保をみすみす巻き上げられ、企業そのものも経営権から株式まで全てが巻き上げられ、今や東芝の社員は、昔なら易々とパスした銀行ローンも通らないとか、専業主婦で有閑マダムを決め込んでいたお嬢様ママが弁当屋でパートとして働かざるを得ない…状態になっているのです。

そうはと言っても、景気が良くなったと大嘘宣伝がなされているものの、非正規雇用は微増しており、今後とも子供食堂が必要な子供の貧困は目を覆うばかりの状況になって行く事でしょう。

 ④ 窮乏化は当然にも学力の低下を齎しますし、既に、劇的に進み始めた少子化の結果、日本の技術力を支えてきた高々度教育は目を覆うばかりの劣化が進むことになるでしょう。

 既にφやフィボナッチ数列の理解どころか、π=3.14159…さえも3としてしまうようでは、劣化は一気に進む事でしょう。

 ⑤ ましてや、世界最高水準の車を造りながら、小○竹○売国奴政権による国富の売り飛ばしの結果、巷では中古の軽自動車しか走っていない状態になっており、日本の自動車メーカーはアメリカの半分の年数で買い替えを行っていた事からアメリカの半分以下の人口ながらも対等に渡り合える自動車市場を一気に失い、アメリカと日本を併せても及ばないような通貨の乱発によって産みだされた贋金経済の中国元によってレクサスが中国で馬鹿嬉し続けていると言う馬鹿げた構造が常態化しているのです。

 アメリカの$自体は裏付けのないタヌキの葉っぱですが、中国Yuanはそれ以下の贋金でしかないのです(贋金検知器自体が偽物なのですからどうしようもない国なのです)。

にも拘わらず乱発され続ける(世界の半分の通貨を発行している)贋金通貨に圧倒され続けているのですから、アメリカの金融マフィアの代理人でしかない日銀による国富の垂れ流し構造はいずれ日本の株式市場の暴落によって修正せざるを得なくなるでしょう。

⑥ 世界最高水準と言えば、それこそ細やかながらも一時的な?復活が囁かれるソニーの4KTV(ブラビアでしたか)で、芸人とオカマと外人とハーフと“ばけもの”で安っぽく作られる世界最低水準の番組とアメリカの手先たるNHKの占領政策番組を見せ続けられるのですから、今後とも決して明るさは蘇らないのです。

まだまだ幾らもありますが、あまりにも気が滅入って来ますのでここらで止めておきましょう。

ある日、芸人とオカマと外人とハーフと“ばけもの”が登場するチャンネルを消し続けていると、NHKの教育も含めてどれ一つとして真面な番組が無いことに気付き、ケーブルとユーチューブしか見ることができない事に気付きました。

ましてや、それ以外の番組とて恥ずかしいばかりのA□B□□といったお遊戯集団が大流行りと言うのですから最早真面目に考える気も消え失せてしまうのです。

少しは日本のブルースとも言える盲目の瞽女(ごぜ)唄とか筑前、肥後琵琶でも聴いてもらいたいものです。


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今後とも、アメリカによる刈取りと金融植民地化(大手企業の株式の大半はアメリカ資本に握られている)は進み、愚民化政策は完了し米国金融マフィアの見込み通り安定する事でしょう。

そもそも、NHKも含めた朝日、読売、毎日といった大手マスコミは、GHQによる占領政策を認める限りに於いて存続を許されたものでした。

米国に許される範囲でしか報道してこなかったのであり、こんなものを報道の自由などと錯覚させられている事が異常なのです。

そもそも読売とか巨人軍の正力○太郎などは、戦前から特高警察のヘッドだったA級戦犯中のA級戦犯だったのですし、それはそれで人生の選択としても、戦後は手のひらを返すように米国の尻尾になったさもしくも見苦しい人物でしかなかったのでした。

終戦の詔勅後に特攻を決行した第五航空艦隊司令長官の宇垣 纒や、大艦巨砲主義に対していち早く究極のアウトレンジ戦法としての航空戦力による決戦を想定していたが、特攻の指揮官を引受され、816日に自決した大西瀧治郎のような高潔な人物でなかった事だけは明らかでしょう。


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スポット146(後) ドライブ・レコーダーとICレコーダーは日本の「恥の文化」を蘇らせるか ②

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スポット146(後) ドライブ・レコーダーとICレコーダーは日本の「恥の文化」を蘇らせるか 

20171229

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


いずれにせよ2018年は2017年よりもさらに一層過酷な年になるでしょう。

当然、多くの酷い事件と邂逅し、無実の罪や虚偽報道による犠牲も増えていくはずです。

幸いにも豊田真由子とI氏によって普及し始めたドライブ・レコーダーも、一旦車から離れてしまった人を守ってはくれません。

痴漢は元より、残忍かつ不当な上司、使命感のない役人、強権的で身勝手な警官、乱暴を働く教師、隠蔽体質の教育委員会、いじめを煽る同級生…と、酷い連中は山ほどいます。

その意味で、常時、撮影可能なペン型の音声と画像のレコーダーを胸に刺していれば自分を守れるものになるのではないかと考えています。歩行型ICレコーダー(ペン型、携帯型、バッチ型、アクセサリー型)(この黒のべた塗はこれらの事への対策を書いていますが、今は公表しません)。

元々、ドライブ・レコーダーも交通事故で死亡した息子の事故処理に際して証拠がない為泣き寝入りせざるを得なかった父親が開発したものでした。


私、店長照山がドライブレコーダーと関わりを持ったのは8年ほど前のことです。

当時、私は交通事故の調査会社に勤務しておりました。

勤務先と交友のある、交通事故の鑑定人をされていた

日本交通事故鑑識研究所代表の大慈彌雅弘氏より、交通事故の瞬間を

撮影するカメラを作ろうと思っていると言う話が出たのが発端でした。

当時、大慈彌氏は私の交通事故調査の師匠であり、

交通事故解析のお手伝いをしている間柄でした。

交通事故鑑定人という職業は、世間ではほとんど馴染みの無いものですが、

交通事故の世界では意外とポピュラーな存在だと思います。

個人はもとより、保険会社または弁護士からの依頼で、刑事・民事を問わず、

交通事故の裁判に関わる資料を作成するのが主な仕事ですが、

裁判所から嘱託で鑑定を行うことも多々あります。

裁判と言うからには、死亡事故、重度の後遺障害などの

ヘビーな案件を扱うことが日常茶飯事です。

そんな時、被害者の家族から求められることは異口同音に

“事故の真実が知りたい”という切実な願いでした。

被害者の家族にとって裁判の勝ち負けは二の次なのです。

例え、裁判で勝ったとしても、真実が明らかにされない限り、

安息の日々は訪れないのです。

そして、被害者のご家族より、

「交差点に定点カメラ(1)がついているのなら車にもつけられないか?」

という話が持ち上がりました。

飛行機にフライトレコーダーがあるように、車にドライブレコーダーがあっても

おかしくないのではないか?

これが民間主導による映像記録型ドライブレコーダー誕生の始まりでした。

そして大慈彌氏は持ち前のバイタリティーで手製の第1号試作機を作ったのです。

明日はこの試作機からドライブレコーダーが完成するまでをお送りします。…


十分お分かりになったと思います。

昔の日本は正直で責任感と人情のある常識ある人ばかりがいた社会だったのですが、今や毎日国ぐるみで嘘ばっかりついてる中国人と、毎日ころころ手のひら返しを繰り返しているような韓国人のような人が激増している社会なのですから、最低でも事業所や商店街での監視カメラはある意味救いとなるのかも知れません。

話がまとまりませんでしたが、年末の心が騒ぐ年越しへの夜としてお許しいただきたいと思うものです。




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最後に誤解がないように申し上げておきたい事があります。

そもそも胸糞悪くなるようなヤクザの興業でしかない相撲界がどうなろうと知った事ではないと申し上げています。

このことは、今は公益財団法人などと格上げされているものの、ただの民間の興業組織の生業の立て方の問題でしかなく、ガチンコの正統派として運営するのか?

それともつい最近も殺人事件が起こった江戸時代の富岡八幡宮の勧進相撲など、言わば創られた大衆剣劇同様の本物のぶつかり合いと錯覚させられた馬鹿な相撲ファンから金を巻き上げる集金マシーンとして運営する事もどちらも自由なのです。

このような大衆操作(森友加計問題など一気に吹き飛ばしたのですから)のイカサマ興業(プロレスもストリップも角兵衛獅子も蝦蟇の油売りも…全て同様)など無い方が良いのですから、その恥さらしな八角方針による八百長実態が暴露され瓦解する方が国家にとっては増しなのかも知れないのです。


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年末の慌ただしい中、源泉掛け流しの別荘地の静かな日差しを受けながら翌年を迎えるブログが書ける事を由とせざるを得ないでしょう。

ただし、スポット版を少し書き過ぎていますので公開は二月か三月になるでしょう。

今年は歯の治療と左足の捻挫によって年末年始の神社調査を諦めざるを得ませんでした。

皆さんも健康に留意され、アメリカに毟り取られる過酷な2018年を共に生きようと思います。



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508 雑餉隈(ザッショノクマ)“鴻艫館(コウロカン)に先行する古代饗応処への仮説”

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508 雑餉隈(ザッショノクマ)“鴻艫館(コウロカン)に先行する古代饗応処への仮説”







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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


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天拝山より雑餉隈を望む(写真提供:松尾紘一郎)


福岡市に雑餉隈(ザッショノクマ)という気になる地名があります。

 全国的にも全く類例がなく、地名研究者(地名採集家?)の間でも、出雲の十六島(ウップルイ)などとともに良く取り沙汰されているようです。

雑餉隈を考える前に、一応は“隈”地名についてふれておく必要があるでしょう。

福岡県(金隈、月隈、七隈、干隈、道隈・・・)、佐賀県(日の隈、鈴隈、早稲隈、山隈、帯隈・・・)を中心に、熊本県から九州全域で数多く確認できる地名です。

結論から言えば、隈とは、山から流れ込んだ小河川、海や湖や別の川や河などと出合うような邂逅部に付けられる地名であり、そこでは流速が落ちることから堆積が進み小平野が形成されます。九州では普通にあるもので、それほど珍しいものではありません。

このため、ここで「隈」について詳細に取り上げることは致しませんが、あまり問題にされない別の側面から重要な特徴についてふれておきたいと思います。

一般的に、このような隈地名が付される小平野は山からの水が小川として流れ込むため水を得易い(利用しやすい)く、そのことから稲作が最初に行われた可能性が高く、従って古代においても早い段階から人口の集積が認められた場所ではないかと考えます。

大河では巨大な取水堰を造ることが必要になり、その維持ともあわせ、後世にならなければ水を引くことができなかったのです。裏返して表現すれば、稲作は決して低地の大平野では開始されなかったのです。


クマという地名用語は、『岩波古語辞典』によれば、(1)湾曲しているものの曲  り目。(曲)(2)奥まったところ(隈)。(3)暗く陰になっているところ(山かげ、 阿)。・・・

『古代地名語源辞典』楠原佑介ほか編著


雑餉とは何か?


 さて、肝心の雑餉です。福岡市に隣接する大野城市に雑餉隈町(西鉄大牟田線の雑餉隈駅とJR鹿児島本線南福岡駅は福岡市)がありますが、「雑餉」については一般になじみのない言葉だと思いますので、多少の説明が必要になります。

私はこれまで佐賀県でも有明海沿岸で多く仕事をしてきました。このため、この地域の言葉と日常的に接してきたのですが、ここには、方言と言うよりも鎌倉時代や室町時代に通用していた言葉、さらに、それ以前から使われていたのではないかと思われる古語が数多く残っているのです。

そのひとつに“オザッショウ”がありました。現地で使われているのは“お御馳走”というほどの意味でしたが、仮に眼の下三尺の大鯛が手に入ったとしましょう。もちろん皆が話しているという意味ではありませんが、六十代以上では、現在でも「今日は“おざっしょう”たい(ばい)!」などと使う人が散見されるのです。


ざっ・しょう(・・しやう)

【雑掌】

 律令制下、諸官衙に属して雑務をつかさどった者。

(『大辞林』)

ざっ・しょう(・・シヤウ)

【雑餉】

もてなしのための酒や食物。雑掌。日葡辞書「ザッショウヲヲクル」


雑掌。が出てきましたので、「雑掌」も見てみますと、


ざっ・しょう(・・シヤウ)

【雑掌】

 古代・中世に、国衙(こくが)・荘園・公卿・幕府などに属して、種々の雑事を扱った役人。特に訴訟に従事したものを沙汰雑掌という。雑掌人。

 近世、公家の家司(けいし)の称。

 1872年(明治5)宮内省に設けられ、宮中の雑役をつかさどった判任官。86年廃止。

 雑餉(ざっしょう)に同じ。

(『広辞苑』)


現地の雑餉隈は“ザッショ”と呼ばれています。“ザッショウ”と“ザッショ”の違いはありますが、“ザッショ”は“ザッショウ”のウ音の脱落したものと考えてまず間違いないでしょう。さらに、“ザッショ”は“ザッショッ”のようにも聞こえますので、促音化も認められるようです。


貝原益軒の雑餉隈


雑餉隈については、貝原益軒の『筑前国続風土記』に記述があります。それほど踏み込んだものではないのですが、それなりに当時の雰囲気が伝わってきます。

この『筑前国続風土記』については、インターネット上に中村学園のサイトが公開されており、検索も可能な形で全文が読める上に印刷もできますので、まずは、皆さんも活用されることをお勧めします(昼休みに『筑前国続風土記』を…)。


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さすがに、敬愛やまぬ益軒先生は「品々酒食をあきなう太宰府官人の雑掌居たりし所なるか、いぶかし。…」とされているなど今更ながら感服します。

さて、大野城市雑餉隈町は御笠川と諸岡川に挟まれた低地の延長上にあります、さらに、水城の大堤の外側に位置しているのです。この点が重要だと考えています。

まず、雑餉隈の隈に多少の違和感を持ちます。

前述したように、隈は山からの小河川が海や湖とぶつかる、従ってその地に形成される小平地に付される地名です。金の隈、月隈を持ち出すまでもなく、小山と平地の境界に並んでいます。そう考えると、雑餉隈は御笠川と諸岡川という二つの河川に挟まれたところにあることからその縁とするべき小山がないのです(後で諸岡川は最近になって放水路として開削されたことが分かりましたが…)。つまり御笠川との後背地には水城しかないからです。

唯一、説明可能な考え方は、そこに古博多湾、後代には仮称板付湖ともいうべきものが存在していた思われることです。つまり、古博多湾にぶつかって形成された汀線内側の土地こそが雑餉隈であったとしか思えないのです。

説明する必要もないはずですが、板付は板付遺跡の一角を除き大半が浅い海か湿地帯でした。それは明治33年の陸軍測量部制作の地図にも集落が全く存在していなかったことからも推測できますし、半世紀前までは大雨が降ればこの一帯は文字通り海と化していた低湿地帯だったと話す人がいますので、古代(ここでは、一応、紀元前後を念頭においています)には直接に海が、後代にも最低でも巨大な汽水湖(潟湖)が広がっていたと考えられるのです。

確か九州大学の研究にこの古代の博多湾に関する研究があったと記憶していますが、ここでは、地名からのアプローチを行います。

その湖(古くは当然博多湾)における水平堆積によって形成された平地こそが、現在の福岡空港であり、大野城から水城までの平地なのです。

つまり、その大水(たいすい)に御笠川が直接注ぐ場所こそ雑餉隈だった、もしくは、そういう時代に成立したのが雑餉隈という地名だったと言えるのではないでしょうか。

もう一つ別の側面から考えてみましょう。まず、空港東の青木には北ノ浦池、月隈には浦田という字が、青木には雑餉隈の北、一〇〇〇メートルと離れない金隈の金隈遺跡辺りに、観音ケ浦池、持田ケ浦池、大浦池があり、乙金にも桑ノ浦公園というものまで拾えます。一見、これらは全て古博多湾の湾奥締切り型ため池に見えます。

さらに、県道水城臼井線に堤浦というバス停があるばかりか、御笠川左岸には痕跡島地名の仲島(市教委の資料参照)があり、最奥部の太宰府インター付近にも鉾ケ浦、光ケ浦が拾えます。これらの浦、島地名は湾から湖に変わっていく時代に形成されたものであることは、まず、間違いないでしょう。

良く知られる縄文海進期とは別に弥生の小海進期があったとされています。海水面が一メートル程度上がるものですが、その時代にもかなり奥まで波が洗っていたと考えます。 

それについては地探やボウリングによる海成粘土の分布などを調べれば分かるはずですが、既に存在しているはずの地質学的調査報告書を拾う必要があるでしょう。

話が拡散しますが、実は水城の内側、都府楼の背後にも安ノ浦、松ケ浦という二つのため池があります。言うまでもなく、『日本書紀』には「大堤を築き水を蓄えしむ…」と書かれています。

これが水城に水が蓄えられた結果成立した地名なのか、縄文海進期の湾奥なのか判別できずにいます。現状を水準測量するだけでもかなりのことが分かるはずなのですが興味は尽きません。嵩上げなど形状は変えられているものの、湾奥締め切り型ため池の標高は拾い出しを行うべきでしょう。

いずれにせよ、雑餉隈が、直接、古博多海湾に洗われていた時代があったことだけは間違いがないはずです。

そして、さらに奥へと延びる御笠川によって太宰府へと入っていったと考えます。


参考


仲畑地区と福岡市博多区井相田にまたがる弥生・古墳・奈良時代の集落遺跡である。昭和54年度から発掘調査が行われている。この遺跡から弥生土器・土師器・須恵器・木器などの日常生活用具、弥生時代の石器などが出土した。昭和55年度の調査では人面墨書土器、56年度には貨布、64年度には移動式竈が出土した。

   仲島遺跡の東端部、御笠川の氾濫原の砂の中から3点出土した。人面墨書土器は奈良時代から平安時代初めにかけて見られる宗教的な儀式に使用されたと考えられる土器で、最も多く出土するのは奈良時代の都である平城京であるが、九州では仲島遺跡以外には、佐賀市と大宰府の出土例が知られるのみである。疫病神を思わせる人面が墨で描かれ、底部には穴が開けられている。病気になった人が土器に息を吹き込み、川や溝に流して災いから身を守ったと考えられ、出土場所も川や溝の中といった水辺が多い。

仲島遺跡 人面墨書土器(仲島遺跡出土) 市指定有形文化財


 貨布は中国「新」の時代に発行された青銅製貨幣で、長さ約5.8cm、最大幅2.3cmである。古代の農工具のひとつである鋤の形を現したもので、片面に篆書体で「貨」(右)と「布」(左)の文字を鋳出しているため貨布と呼ばれている。発掘調査での出土は大野城市の1例だけである。前漢末期、皇帝の親類に当る王莽は皇帝を暗殺し、天下の実権を奪い取り、国名を「新」と変え、元号も始建国元年と改めた。王莽は様々な経済改革を行ったが、その一つに新貨幣の発行がある。貨布・貨泉・大泉五十・小泉直一など全部で30 種近くもの貨幣を発行した。これらをまとめて王莽銭という。王莽の政策は古代国家を理想とした非現実的なもので、社会経済を混乱に陥れることになった。このため各地で反乱が起こり、23 年には王莽の「新」は滅んだ。仲島遺跡からは、この他にも青銅製鋤先や銅鏡などが見つかっていることから、一般的な集落ではない、権力を持った人々が存在する集落であったと考えられる。


「私たちの文化財」大野城市教育委員会


都市化し宅地化が進んだ現在を表す地図では昔の形状が掴めない


もちろん海図の作成は海軍水路部になりますが、明治33年に陸軍測量部(現国土地理院)によって作られた二万分の一の地図があります。

山岳地域は除外されていますし、必ずしも九州全土をカバーしたものではありませんが(散逸の可能性もありますが分かりません)、人口集積地を中心に作られており、当時のものとしては非常に貴重なものです。

現在、福岡県下の主な図書館(箱崎、小郡、久留米…)には保管されていますので、関心をお持ちの方は探されたらいかがでしょうか。

大変すばらしいことに、この地図には都市区画整理やほ場整備事業の河川、ため池、農地、水路、道路、集落などがそのまま表現されており、約百年前の形状が簡単に確認できるのです。

大規模に地形を変えることなど全くできなかった時代の地形がタイム・カプセルのように閉じ込められているもので、この多くの川や道は弥生時代にまで遡るものがあることは言うまでもありません。

誤解を恐れずに言えば、百年前の図面というものは、千年単位の古形が反映されているかもしれないのです。


鷺艫館のはるかに内陸側に雑餉隈がある


鴻艫館(こうろかん)を対外的(もちろん、中国、朝鮮、粛慎…を始めとする国際的な)迎賓館とするとき、さらに太宰府の懐近く内陸側に位置する雑餉隈という地名は、同じ性格を持ったもののように思えます。

そこで考えるのですが、鴻艫館(こうろかん)を百歩譲って、七~十一世紀のものだったとしても(通説では、『日本書紀』に、六八八年新羅からの外交使節を筑紫館/ちくしのむつろみ/に迎えたという記述が認められます)、さらに遡ぼる古代(仮に三~六、七世紀)においても、博多港(那ノ津)に入った中国や朝鮮からの賓客を受入れ饗応する迎賓館や役所があったはずで、仮に卑弥呼に謁見した中国側の使者を受け入れる施設が存在しなかったとは到底考えられないのです。

まず、危険がない程度まで武装解除することや、検疫の面からも、また、賓客自体を休養させ、疲れを癒して太宰府の高官と接見することからも、一旦、留め置き、安全を確認した上で許可が出され、後に古代の王都か最低でも副都であったはずの太宰府に入ったと考えるのが常識的でしょう。

もちろん、国賓クラスは別だったのかもしれません。いずれにせよ、使節団の中級クラスの要員のための公式の饗応所があったと考えることは不自然ではないように思えます。

ここで、重要になるのはその時期です。

邪馬壹国はもとより、八世紀まで大和政権に先行する独立した王権が存在したと考える人々が数多く存在することからすれば、『日本書紀』の記述は、そう書いてあるだけで、さらに遡ぼる古代(仮に三~六、七世紀)においても博多港(那ノ津)に入った中国や朝鮮からの賓客を受入れ饗応する迎賓館ないし役所があったはずなのです。

仮に倭の五王や卑弥呼に謁見した中国側の使者を受け入れる施設が存在しなかったとは到底考えられないのです。

もう、二~三十年前になりますか?福岡市市教委は当然にも鴻艫館の発掘調査を行っています。ただ、昨年、九州国立博物館において講演された内倉武久氏(『太宰府は日本の首都だった』『神武と卑弥呼が語る古代』ほか/ミネルバ書房の著者 朝日新聞記者として、奈良、京都、兵庫、島根、香川、和歌山、福岡などで取材活動。一九八七~九二年版『朝日年鑑』「文化財・考古学」欄出筆)の講演内容によると、市教委が発掘調査したもののなかで公表していないものに、鴻艫館のトイレットの最も底から発掘された用便用の木箆のC14調査データがあったというのです。その数値は実に四三〇年を示していたのです。 

一番の底から採取されたものだけに、この迎賓館が建設された当初のものである可能性が極めて高く、何でも『日本書紀』に刷り合わせをしなければ予算が確保できないことから、不正確なデータとして表に出さなかったもののように思われるのです(実際には隠している)。もちろん、都合が良いものは金科玉条のごとく扱うのですが、これが考古学界の実情なのです。

恐らく、鴻艫館は四三〇年前後の迎賓館だったのでしょう。してみると、大量の製鉄による急激な陸化が進む中で、沖合に移された鴻艫館に対し、水城の大堤に近い雑餉隈迎賓館(仮称)は三世紀の卑弥呼、さらには一般的に「漢の倭の奴…」と誤読される、後漢の光武帝の時代にまで遡るものであると想像することは理にかなったもののように思うのですが、雑餉隈から鴻艫館クラスの遺構が発掘されるなど特段の根拠があって申し上げているものでないことはいうまでもありません。

今後、時代ごとの陸化のデータや地層の断面などのデータを積み重ね、他に類例のない雑餉隈という地名をさらに浮かび上がらせたいと考えるものです。

最後になりましたが、菅原道真は九〇一年に大宰の権帥に左遷されます。道真はどこで船を下りたのでしょう。水城の傍に老松神社がありますが、縁起「老松神社由来」によると、

「…創建の由来は明らかではありませんが口伝によると菅原道真公が大宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷され九州にお下りになった時博多より御笠川を船で上られここ水城の渡しに上陸されついで水城の関を通り国分の衣掛天神の所で汚れた旅衣を改められ大宰府にお入りになったと伝えられています。その水城の渡しの跡が当社社殿裏に残っています。…」と書かれています。また、同じく大野城市中畑の仲島にも上陸伝承がありますので、雑餉隈辺りまで博多湾、もしくは巨大な汽水湖(仮称板付湖)が広がっていたものと考えています。


船員たちはどこに待機させられていたか?


では、最下級の水夫(カコ)、戦闘員などはどうだったのでしょうか?

私は今宿の女原(みょうばる)辺りではなかったかと考えますが、無論、特別の根拠があっての話ではありません。

 船上勤務という危険な仕事によるストレスからの解放、言葉が通じないことなど、船員の扱いは最も注意が必要になります。


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都府楼跡(写真提供 松尾 紘一郎)


余白がありましたので、テーマとは無関係ですが掲載しました。

都府楼の意味はこの地に都督が居住していた以外にはありません。

『宋書』によれば、倭の五王として最も著名な武は安東将軍倭国王を受け、「(武)詔して武を使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除す」と、都督を追認されているのです。この都督が置かれた場所こそ倭国の王都があった場所であり首都であったということは明白ではないでしょうか。

 

509 旦 過(タンガ)

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509
旦 過(タンガ)

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太宰府地名研究会 古川 清久


-良く知られていても、意味が知られていない地名があります。

 その一つが、小倉北区の旦過市場の「旦過」かも知れません。

 もちろん、仏教用語であることから、とりわけ禅宗僧侶は知っておられるとは思いますが、まずは、大辞淋を見てみます。


【旦過】

〔夕に来て早朝に去るの意〕

 禅宗で、行脚僧(あんぎゃそう)が宿泊すること。また、その宿泊所。

 禅宗で、長期の修行に来た僧を、数日定められた部屋で座禅させること。


と、あります。

良く知られてはいるものの、意味の分らない地名の代表のような「旦過」は、かなりの広がりを持っているのです。

島根県というよりも出雲の二ノ宮「佐陀神社」に近い松江市鹿島町北講部に「旦過」があります。

佐陀神社は真夜中の暗闇で行なわれる「カラサデ」神事で有名な神集まりの地ですが、佐陀神社や目の神様一畑薬師に参詣する多くの人々が通り過ぎていったことが考えられそうです。

近いところでは、福岡市西区今津の旦過、同じく姪浜にも旦過町が、東区志賀島にも旦過町などがあるのですが、このことについて詳しく書かれた本があります。九州大学大学院比較文化研究院教授(当時)の服部英雄教授による、『地名のたのしみ』角川ソフィア文庫です。


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旦過地名について25頁を割いておられますので、手に入れられる方はぜひ読んで頂きたいと思います。

禅宗に関する地名とはいえ、四国の遍路道にも数多く拾えるようですので、中世以降、人の動きが多くなるに従い、

字面通り、カプセル・ホテルのような、一夜の簡易宿泊所のような意味にも使われるようになり、そこに集まる人々への食料、衣料の供給場としての市場が現在まで繋がっていると考えれば、この商店街で買い物する楽しみが多少増すことは間違いないでしょう。

地図を見れば分りますが、紫川東岸の魚町、馬借、船場町、古船場町、鍛冶屋町、紺屋町という地名が集中する繁華の地だけに、多くの民衆、旅人、役人、商人、博労、遊女、僧侶、盗人、逃亡者、身障者、狂人、行倒れの不幸な人達が蠢く姿が、今でも眼前に浮んでくるようです。

 文庫本ですので、ぜひ、購入の上お読み下さい。


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509-4馬借、船場町という地名は、さながら現代版交通ターミナルセンターといったところでしょうが、「駄賃」という言葉が現代でも生きているように、馬借は、馬喰町、博労町と同様の地名と思われます。

 船場町は堆積による陸化の進展に伴い古船場町から、動き、前出しされたものでしょう。

紺屋(こうや)町も染色業者、衣料関係者の町ですので、鍛冶町など全てが揃ってますね。


 添付資料24葉(省略)

510 玉 来(タマライ)

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510 玉 来(タマライ)

再編集2008041320170716

太宰府地名研究会 古川 清久


なかなか気付かない地名ですが、黒川温泉がある熊本県の南小国町中原の南に延びた谷間に玉来(タマライ)という地名があります。

まず、何のことだか全く分からない地名の一つになるでしょう。

しかし、既に、明治時代に見当を付けていた人がいるのです。言うまでもありませんが、民俗学者の柳田國男です。

「豊後竹田町の西一里に玉来という町がある。湯桶訓(ゆとうよみ)の珍しい地名であるから、その後注意しているがいまだ同例を見ない。」(「地名の研究」)としています。

音訓混用ですから、まずは当て字と考えられますが、ここを流れる玉来川は産山村の湧水池から端を発し豊後への境を越え柳田が見た竹田の玉来に流れ下っているのです。

思うに、この川の名は流れ出す産山の湧水池辺りではなく、この玉来の地名から付されたもののようです。

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一般にはこの豊後竹田の隣駅「玉来」が知られているようです。

さらに南の波野村に「上玉来」があり、熊本市の南、天君ダムの上流、御船町の田代地区にも同様の地名があります。

どうやら、この地名は阿蘇外輪山の外縁部といった所に集中しているようです。

基本的に地名は固有名詞の類ですが、ここまで揃うと、やはり一つの地名群と考えざるをえません。

そうなれば、なんらかの共通の意味を持つことが推察され、普通名詞の性格も持たされたものと言っても良いことになります。


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結論を急げば、柳田は狩のために人が集まった場所「狩溜ライ」だと考えていたのです。そして、その弟子とする谷川健一も「列島縦断地名逍遥」において、やはり-狩りの集合地-としています。

狩のために集まる場所「狩溜ライ」です。「タマリ場」は普通に使われる言葉ですが、集まることをタマルと言い、この一帯では「リ」を「ライ」という音により、溜まる所と表現する向があったのでしょうか?

ともかくも「タマル」と言う動詞から「タマライ」が派生したのでしょう。

そして、地名が形成されるかなり古い時代、阿蘇外輪山の裾野では、狩のために集まる場所をタマラウ(タマル)ところ「タマライ」と呼び、いつしか「玉来」と表記されるようになったのです。

地図をご覧になれば、この地名は例外なく人里から離れたところ、しかも谷地であることが分かります。

豊後竹田の玉来駅は例外的に玉来町とも呼ばれ、今は人家が集まっていますが、一般的には人家も疎らというよりも全くないに等しい場所にこの地名があるのです。

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竹田市JR玉来駅

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高森の上玉来は、まさにそのような場所であり、国道57号線で外輪山を越え波野に入り、道の駅先の笹倉交差点を右折し大型の広域農道で高森の草壁吉見方面に向かい高森町に入ると「上玉来」に辺りに辿り着きます。

これなどは、まず、付近に人家が全くない場所であり、昔も芝刈りにさえ来ないような土地だけに、古来、狩以外では人が踏み入らない場所です。

近くに全く人家がないことからか非常に寂しい印象に残るところです。

 冒頭にあげた南小国町の玉来も、まさにその典型と言うべき土地だったのです。

以上、既に先達のある話でしたが、地名研究では比較的知られた話でもあり、あえて取り上げました。

では、他にはないのでしょうか?

以降は、既に地名研究会において話したものですが、そのままお読みいただきたいと思います。


玉 来(タマライ)

 

“旧宝珠山村小石原村の狩猟地名について”


日田彦山線の夜明駅から大行司を経由し、国道211号線で小石原焼の旧小石原村に向かうと、小石原村鼓(つづみ)辺りに桑鶴、蔵貴、黒谷、鶴、釜床といった地名が並んでいます。

恐らく鼓とは包み込まれた臼状の谷底のような地形を意味するものであり、一応は自然地名とすることができるでしょう。それは釜床という地名にも反映されていると思います。いわゆる、鍋、釜、臼(石、牛)地名です。さらに、喜楽来館という地名からふられたと思われる施設もあり、佐賀県の厳木などと同様、急傾斜地特有の教楽木(キュウラギ、キョウラギ)地名とも考えられますので、これについてはいずれ取上げます。

今回はこの朝倉郡東峰村という慣れない村名になりましたが、旧小石原村鼓の玉来という地名について考えましょう。

彦山に近いところだけに、宝珠、大日ヶ岳、釈迦ヶ岳、金剛野、医王寺、大行司(もしかしたら大肥も)といった仏教系の英彦山山岳修験の地名が多いようです。

今回の玉来は別系統の狩猟地名としていますが、重なっているかも知れません。

久留米地名研究会のホーム・ページや「アンビエンテ」内の地名サイト「地名は時間の化石」にも「玉来(タマライ)」を掲載しています。

ここでは、自然地名、修験地名、アイヌ語系地名、鉱山地名、渡来人系地名…と多くのバリエーションがある中で、狩猟系の地名も身近にあることをお知らせしておきたいと考えています。

重複になりますが、以前に書いた豊後竹田の玉来についてお読みください。



 

510-5 046 玉来(タマライ)


滝 廉太郎作曲の『荒城の月』の舞台、大分県の豊後竹田(タケタ)市に玉来(タマライ)と呼ばれる場所があります。JR豊肥線(阿蘇高原線)に玉来駅がありますので直ぐ分かります。この地はいくつかの谷が集まっている所で、何度行ってもよく道を間違えるのですが、過去、十数回は通っていますので、現地の地形や雰囲気などは一応把握しているつもりです。しかし、何度通ろうがこの地名の意味だけは見当がつきませんでした。ただ、谷川健一の『日本の地名』(岩波新書)を読み直してようやく分かりました。つくづく読んでいて読んでいないことに気付かされます。


・・・阿蘇山の周辺の村々には狩猟にちなむ地名が残されている。さきの下野に近い 一の宮町大字手野尾籠(おご)には狩集(かりたまらい)という地名がある。柳田国男は『地名の研究』の中で、狩集は狩猟のための集合場所で、もともと「狩溜らい」であったという。「溜る」の延言が「溜らい」である。また、阿蘇郡()(よう)町大野は通称玉来(たまらい)村であったと「肥後国誌」には記されている。これも狩集と同じ地名である。阿蘇外輪山の東にある大分県竹田市に玉来(たまらい)がある。柳田の『地名の研究』は、薩摩川辺郡加世田村大字津貫(つぬき)字狩集(加世田市)や肥後八代郡下(まつ)()()村字狩集(八代郡坂本村)の例もあげている。


 まず、谷川氏は薩摩川辺郡加世田村大字津貫字狩集(現南さつま市)の例も上げておられますが、この津貫は“ツヌキ”と呼ばれています。現地は加世田川本流の上流部分の谷の集まる場
所であり、狩集の場所であることは一目瞭然でしょう。さて、久留米地名研究会(準)の第三回研究会では“道目木”について取上げましたが、そこに、旧小石原村の玉来の上流に蔵貫(ゾウメキ)があったことを思い出して下さい。もしも津貫(ツヌキ)がヅヌキ(九州西岸では概して濁音が清音化する傾向が認められるため)であり、さらに古形のヅウヌキ、ヅウメキであったとも考えられるのです(ここでもO音がU音に置き換わる傾向も認められますので)。してみると、この津貫(ツヌキ)も道目木(ドウメキ)地名のバリエーションの一つと考えられそうです。このように道目木(ドウメキ)地名と狩集、玉来(タマライ)という狩猟地名がセットで発見できるということは、ドウメキという名が付くような谷の集まる場所、合川、落合、吐合、河合…こそ、狩の集合場所だったからに外なりません。

さらに面白いのは、阿蘇郡蘇陽町大野(幣立神社のある所)が通称玉来村であったという話ですが、その大野が加世田の津貫のそばにあることです。

私は大野と言えば直ぐに大野治長の一統の逃亡集落ではと考えてしまいますが、それはさておきこの大野までが加世田の津貫にあることです。なぜ、大野が付き纏うのか、これについても今後の課題としておきましょう。話が逸れましたので軌道にもどします。

狩集、玉来地名は柳田-谷川という民俗学の大家の言だけに説得力もあり、大変良く分かりますが、このままでは、私が書く意味は何もないことになりますので、谷川先生が著書でふれておられない、玉来を紹介して本稿を閉じたいと思います。

まず、大分県では旧天瀬町の日田市五馬に玉来神社があります。これなど、狩りの集合場所が神社になったのか、神社に狩り支度や山に入るための祈願で集まったものかと考えてしまいま510-6 す。『日本書紀』でしたか、五馬市は大和朝廷に逆らった五馬姫と言う土蜘蛛が立て篭もった場所とされています。いつもこの神社の前を通過するだけで詳しくは調べていませんので、次に訪問した時には玉来神社周辺の狩猟に関しても調べてみたいと思います。

その外にも、阿蘇外輪山の北側、黒川温泉で有名な南小国町の南側、阿蘇外輪山の北の駆け上がりにも玉来が、根子岳の東の高森町に上玉来が、熊本市の南、御船町の矢形川沿いの天君ダム上流にも玉来が、また、福岡県では、旧宝珠山村から焼き物で名高い小石原村に向かう国道211号線に玉来(現東峰村)があります。

今回は、既に書いていたものをフルに使いまわすだけの報告ですが、まず、間違いなく、この東峰村の玉来も“狩溜らい”であったことで
510-7 しょう。現地を踏むとそのことが良く分かります。

普通、狩を行なう場合は平地に集まり、その日の計画を立て配置を決めます。何やら見てきたような事を言いますが、さらなる興味をお持ちの方は柳田の本などをお読み下さい(『後狩詞記』ほか)。玉来は黒谷への山の登り口と小石原への登り口の合流部の小平地といったところであり、水田を持った山の入口といった所です。大肥川が平地に降り下り、多少流れが緩やかになり始める場所で、直ぐに川床に降りられるために獲物の解体にも適した場所なのです。

あとは、狩の風習がいつ頃まで残っていたか、本当にこの場所に集合していたのかといったことになるのですが、これについては、地元郷土史家などの協力を得なければ外部からはなかなか手が出せません。地元教育委員会辺りから背景調査を進めたいと思います。

 話は飛びますが、東峰村役場の少し上に、新たに戸有(トアリ)という地名があることに気付き途方に暮れています。今のところ全く見当が着きませんが、そのうち調べて見たいと思っています。

 最後に、平成十八年に人吉で行なわれた地名研究会設立推進シンポジウムにおいて、前田一洋氏が発表された「狩猟の誇示とその供養」に現東峰村の玉来に近いところに「千匹塚」があることが書かれています。 

…獲物に対して行なわれた供養のうち、その最たるものがいわゆる「千匹塚」であろう。…(中略)…民陶の「小鹿田(おんた)焼き」に行く途中の、大分県日田市小野市木には「千匹塚」が三基も並んで建っている。いずれも江戸時代の建立であるが、それぞれに猪・鹿を千三百余とか、千百六十などと刻んである。私も国東半島で実際に千百十一頭の鹿を仕留めた老猟師に会ったことがある。その人は最後の一頭を埋葬し、大分県知事に頼んで碑文を書いてもらい堂々たる碑を建立しておられた。…


510-8

これについてもいずれ確認する機会があるでしょう。

このように、かつて、東峰一帯にも多くの猟師や勢子が犇き、多くの獲物を仕留め、供養と称して誇り、玉来地名を残したことが言えるようです。

最後に、蛇足になりますが、一応、玉来地名は九州単位で考えても例えば玉羅位、珠来といった表記のバラツキがありません。これは玉来地名を生み出した背景に山の神を奉祭する一筋の修験者といった集団が拘わっていたことを思わせます。その方面の話をご存知の方はご連絡頂きたいと思います。

さて、最後に玉来の「タマル」という言葉について触れておこうと思います。

前述した、谷川健一の『日本の地名』(岩波新書)には


一の宮町大字手野尾籠(おご)には狩集(かりたまらい)という地名がある。・・・(中略)・・・柳田の『地名の研究』は、薩摩川辺郡加世田村大字津貫(つぬき)字狩集(加世田市)や肥後八代郡下(まつ)()()村字狩集(八代郡坂本村)の例もあげている。


と書かれていました。

集まると書いて、溜まる(タマル)と読んでいる現地地名をそのまま拾っているのです。

現実の表記例を挙げているのですから、意味を理解した上での表記がなされているということなのですが、『漢字源』にも、「トドマル」の意味はありますが、「タマル」の意味は載っていないのです。

もちろん、現地の地名表記ですからそれで良いのですが、一般には例外的な読みであることは否定できません。

念のために、掲載されているのが岩波新書ですから、『広辞苑』で「たまる」を見ると、「たま・る」【溜まる】として、②集まりとどまる。つもる。源氏物語(総角)「かひなを枕にて寝給えるに、御ぐしの―・りたる程などありがたくうつくしげなるを」。「雪が―・る」の例が書かれていました。

してみると、単なる方言ではなく、辺境に残った古語であったことが分ります。

日本には、かつて、集まる(アツマル)、集う(ツドウ)の他に、集まる(タマル)という言葉があったことが分るのです。

以前から、方言の全てとまでは言いませんが、同じことを複数の言葉で表現する日本語のバリエーションの多さには、列島形成より渡来してきた多くの民族の言葉が反映されているのではないかという思いを持っていました。

510-9 当然、九州の南半に色濃く残るこの古語の源流がどこにあるのかに思いを馳せるのですが、この「集まる」ことを「タマル」と言う方言現象については、多少、思い当たることがあります。

一九九六年一月に三一書房から出された「日本語はなかった」“私説 日本語の起源“という本があります。

日本には南方系言語(フィリッピン、台湾、西インドネシア、泰語、苗語)、北方系言語(ロロ語、韓国語、アルタイ語)が入っているというもので、多くの具体例を出されています。

この一つに今回のタマライが出てくるのです。


25)タム(集まる)                ムルト語

 

コタ・キナバルの北のベルードの市場=タムではババイたちが自家製の手工芸品や野菜を持って集まり、午前中、物交の商売をしている。ここは聖山ァキナバルへの入口である。市場=タム(、、)は集る(ア・ツマ)、溜り場、泊る所である。ジャワ東部のスラバヤの駐車場にはタマリと書いてあった。インドネシア語では、友トモ=仲間。ポリネシア語では、伴う(ともな)である。タムが語源である。


同氏によると、ババイもババヤンもインドネシア語ではおばあさんのことと書いておられます。                               (古川注)

してみると、玉来地名の分布領域には古い時代に、マライ・ポリネシア系の言語を話す人々が入っていたのではないかと言うことまでは言っても良いのではないかと思うのです。

著者の渡辺光敏氏は一九一四年生まれの日本民族学会会員で、韓国国立公州大学校客員、百済文化研究所客員という経歴の持ち主ですが、他に「辰王天皇家の渡来史」「日本の中の東南アジア」「古代天皇渡来史」「日本天皇渡来史」などを出されています。

スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”

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スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”

20180321

太宰府地名研究会 古川 清久


 現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。


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赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。

丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。

2018/03/20付 西日本新聞朝刊=


既に公開されてしまった事から申し上げますが、この古墳の存在については一部の九州王朝論者の間ではかなり知れ亘っていましたし、信用できる研究者に対しては秘密裏に情報を流してもおりました。

報道でも登場した福永晋三氏は五年ほど前から香春町講演を行っていますが、福永氏と私とが3~4年程前の香春町での講演の直前に川崎町のN某氏から“こんな映像が見れるんですが…”として、私のパソコンを引っ張り出してグーグル・アースの画面やらN氏の手持ちの画像で確認したのが事の発端でした。

その後しばらくして元朝日新聞の記者でありミネルヴァ書房から「太宰府は日本の首都だった」外3著を出しておられる内倉武久氏をお連れして、現地の筍(タケノコ)山などに入り、高坏の破片となどの土器片を拾い、地権者である筍栽培農家の方からも大量の土器片を入れた箱などを見せて貰った事から、何とかオーバー・グランドに引き上げられないものかと工作を始めたのでした。

sp151-2そもそも傍流の九州王朝論者の一部には「豊前王朝論」なる概念があり、九州王朝の連合国家、分封制、分裂国家(南北朝ならぬ東西朝)といった様々な仮説が提出されていました。

 代表的なところでは大柴英雄の「豊前王朝」、坂田 隆氏、室伏志畔氏、佃収…と言った主として傍系の九州王朝論者の一群になるのですが、発見以来、私自身の当初の考え方としては始めから宣伝戦を行なうべきだというものでした。

それは、邪馬台国畿内説の最大の根拠とされてきた畿内の大型古墳群に対して、九州などには巨大古墳は存在しないし、あってはならないとするのが、利権集団としての考古学協会であり、その神輿に乗っている(その実使われている)京都学派なのであって、九州でどのように重要なものが出土しようが発見されようが、どうせ蓋をして重要なものほどコンクリートで固めてしまい、発掘調査費のほとんどを畿内で独占しようとの思惑があるからと考えてきました。

これこそが、古田武彦や九州王朝論が無視され攻撃され、他愛もない邪馬台国九州説までもが相手にされず、お伽話風のご当地邪馬台国説だけが許容されてきたのでした。

つまり、教育委員会や学芸員は元より、京都学派に占拠された今の発掘調査の現場では本物は蓋をされ、畿内説を補強する発掘調査や中程度の重要性を持った物だけを自分たちの都合で独占的に調査すると言う構造が存在し、通常は絶対に蓋をされてしまう恐れがあるのです。このため考古学の発掘調査の現場に精通した内倉武久氏は、蓋をすることが絶対にできないレベルの何らかの物証(羨道など)を得るところまで進め、その後公表するべきであろうと考えられ、その指導に従ってきたのでした。

私自身は、通説派はどうせ蓋をするに決まっているし、潰される事は決まっているのだから、一早く公表し、畿内に先行する豊前一帯の巨大古墳の存在(実はまだまだあるのです)を明らかにして、原子力村同様の京都学派による考古学村ぶりを炙り出し暴露すべきであると言ってきたのでした。

勿論、内倉氏の考え方が正論なのですが、現在の文化財保護法は京都学派のイニシアの元に独占的に発掘の権利を付与する構造になっており、時間だけが失われるだろうと考えていたのでした。当然にもN某氏に続き、いずれはグーグル・アースによって誰かが発見するだろうと思っていました。

そして、それが現実のものとなるのです。そのブログが公表されたのは2018年の1月でした。以下。


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古田史学の会系の名古屋の「東海の会」の石田さんによるものですが、その201818日付で公開された「福岡県田川郡赤村 巨大古墳地形」です(その続編もオンエアされていますので探して見て下さい)。

この第一発見者は、確かにN某氏でしたが、結果的にネット上に公表されたのは石田さんが最初だったのでした。当然、いずれは誰かが発見する事になったはずですし、いずれはAIの発達も含め、最終的には無視しひた隠しにしようとする通説の京都学派の横腹に風穴を空けて行く事に成るでしょう。

思えば、邪馬台国畿内説論者であり京都学派として大和説を主張した大御所の故)門脇貞二氏も、死ぬ間際には年来の持論である大和説と訣別し、「地域王国論」の立場から北九州説を主張したのでした。

彼によれば、邪馬台国の時代は、大和も吉備や出雲や筑紫など各地にあった王国の一つであって、それらの王国が競合しながら雄略朝前後に大和を中心に纏まったといった国家形成史を主張していたのです。

ただ、身内には“邪馬台国は九州にあったに決まっている…”と言っていたと言われていますので、所詮、京都学派とは利権によって形成されているだけのものである事が見えるのです。それはさておき、公開されたブログをお読み下さい。


福岡県田川郡赤村巨大古墳地形

 先に紹介した宮原遺跡は古墳と認められていないようですので私はこれを宮原古墳地形と称したいと思います。

 この宮原古墳地形の南方の福岡県田川郡赤村内田小柳において朱色を施した横穴式石室があったことが記録されており「小柳古墳」と名付けられています。しかし、香春町との境界付近に位置する低丘陵上に位置する古墳とされるのみで詳細は不明です。

(赤村文化財調査委員会編1976『郷土我鹿文化財を訪ねて』、赤村教育委員会編2008『赤村史』)

 福岡県田川市WEBサイトの筑豊地区埋蔵文化財発掘調査の記録(田川地域編)には、「遺跡調査リスト3」に「小柳古墳周辺」として、次のよくわからない写真が掲載されています。
http://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/kiji0034837/3_4837_2363_up_w08gdxpb.pdf


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福岡県田川市WEBサイトの筑豊地区埋蔵文化財発掘調査の記録(田川地域編)より


 この写真は、東側から撮ったところと思います。

 そこで、私は平成筑豊鉄道の田川線の内田駅の北西辺りをGooglemapで眺めてみました。すると、方円墳(前方後円墳)と思われる地形が認められます。たぶん、これを前方後円墳状の地形として見つけたのは、私が初めてではないかと思います。



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<西からの鳥瞰>


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先の発掘調査の記録では、前方後円墳とは記されていませんが、航空写真で見る限り方円墳の形状が認められます。私が写真上で計測すると、350m程度の大きさと思われます。

宮内庁では仁徳天皇陵について、大阪府堺市堺区大仙町にある大仙陵古墳(大山古墳)を「百舌鳥耳原中陵」として治定されており、これが日本最大の墳丘長486mとされます。次いで誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)の425m、さらに石津ヶ丘古墳(履中天皇陵)の365mとされることから、もし、小柳古墳が方円墳であるとしたならば、これらに次いで全国で3番手クラスの大きさと考えられます。
 また、実は小柳古墳の東にも、同程度の方円墳らしき形状が見られますが、こちらは全く調査されていないようです。開発がらみでないと調査されませんから致し方ないところです。


確かにグーグル・アースによって古墳を探ると言う手法は民間人ならではのものであって、N某氏の作業は他の行橋市内から豊前一帯までの古墳群に帯びており、その意味で先鞭を付けたものだったでしょう。

しかし、ネット上で公表して世間一般に知らしめたのは、結果でしかありませんが石田ブログとなり、ネット上の第一発見者は石田さんとなった訳です。既に意見が一致しており4月からリンクの予定です。

勿論、“自分が最初の発見者の栄誉に浴したい”などといったさもしいお考えは毛頭ないはずですが…。

ただ、350m程度の大きさというのは現地を踏み、付帯施設である環濠の問題などを考慮する必要性があり、直ちに二番目、三番目とは決めつけられない要素があって当面は保留する必要があるでしょう。

事実、内倉氏やN某氏と共に古墳を一周した際に、葺石の痕跡は実質的にはなかったものの、三段築成の跡や環濠の痕跡とも思える耕作放棄田やため池様のものも確認しており、実質的にそれを環濠と考えれば、二番手クラスの巨大古墳に成るとした内倉説の推定(可能性)は無視できない事になるのです。

皆さんも、まずは、平成筑豊鉄道田川線の内田駅周辺を検索される事から始めて頂きたいと思います。

ただ、残念なことに、九州王朝論者と自認する人々でさえ、現地を踏み薮を掻き分けて調べて見ようとされる方は極少数どころか皆無であって、大半は邪馬台国本読みの半通説紛いの方々ばかりと言った有様では京都学派の専横ぶりは今後とも続く事でしょう。

しかし、“あんなところにそんな大きな古墳などがあるはずはないんですが…”と言わざるを得なかった京都学派のNダニ氏(元は小学校の教員養成大学)の半ば引きつった記者会見は見ものでした。

今後どのようにしてこの巨大古墳(?)を無き物とされるのかは興味深い上に、日本の考古学会の在り様を見据えて行きたいと思うものです。ただ、直ちに「卑弥呼の墓」などとするのは村興し町興しには使えるのですが(坂田先生の説…外)、内倉氏は第28代宣化天皇(センカ)陵墓説を提案されています。

なお、朝倉市には本物の継体天皇の陵墓(巨大円墳)と思われるものがあるのですが(内倉説)、これは、また、別の機会にお話しする事にしましょう。既に一部はブログでご紹介しています(長田大塚古墳)。

最後に、赤村と言っても九州島内におられる方でもご存じない方が多いと思いますので、場所をお知らせしておくことにします。宇佐神宮への鏡を造った採銅所とか、有名な香春神社からも至って近い場所です。


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511 鳥取県に二つ目の高良神社を発見した “鳥取県八頭町の高良神社”

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511 鳥取県に二つ目の高良神社を発見した “鳥取県八頭町の高良神社”

20170806

太宰府地名研究会 古川 清久


 ブログ原稿のストックは来年の5月分まであることから、盆前には取材を兼ねて東に向かいたいと思っていました。

最近、百嶋神社考古学研究会のフィールド・ワーカーの女性メンバーから兵庫県の但馬から播磨(宍粟市)の神社調査資料を貰ったからでした。

このため、盆前に但馬に入ろうと45日の1600キロ行程で鳥取市から八頭町、若桜町を経由し養父市、朝来市に入る事にしました。

 普通は9号線で養父市から朝来市へと向かうのが一般的ですが、今回は別ルートでした。

別ルートを通るとそれなりに新たなものに遭遇するもので、今回は鳥取県でも辺境で発見した高良神社をお知らせする事にします。

 四国には数年前までに3回ほど入り4県で15社(玉垂宮、高良社、高良宮)を確認していますが、中国地方では、まだ10社を越えてはいません。

 京都府や兵庫県にもあるのですが鳥取県は少なく、これまで、米子市の郊外で1社(鳥取県米子市兼久114)を現認したのみです。


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地図は八頭町の隣の県境の町若桜(ワカサ)町を表しています


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場所の表示はネット上に二つ出て来ます。どちらが正しいかは不明ですので併記しておきます。


高良神社 鳥取県八頭郡八頭町大門98

高良神社 鳥取県八頭郡八頭町皆原239番地


下の地図は皆原239番地を表しているようです。地図は現地と一致している事からこちらが間違いないと思いますが、大門98番は古い表示なのかも知れません。

 今回は情報が全く無い事から画像と地図だけの報告となります。


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高良神社は役場からもそう遠くはない田んぼのど真ん中にありました。


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鞘殿様式は筑後物部氏のそれなのだが


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による


 八束という八頭、日下部、徳丸、遠見山という地名からも粗方の見当がつくのですが、この地には阿蘇系氏族、大幡主(ヤタガラス)系氏族が進出しているようです。

 事実、高良神社の南にある鳥取県八頭郡八頭町三山口42番 には阿蘇神社があり、九州からの進出が考えられそうです。

 社殿も覆屋工法の鞘殿様式であり、筑後物部のそれを感じさせます。

512 兵庫県養父市~朝来市に掛けての若宮神社群 “兵庫県養父市大屋町の若宮神社”

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512 兵庫県養父市~朝来市に掛けての若宮神社群 “兵庫県養父市大屋町の若宮神社”

20170806

太宰府地名研究会 古川 清久


 この辺りの話についてはあまり展開していないのですが、生前、百嶋先生は“九州王朝は但馬に移動している”と言われていました。この話を聴いて以来、ここ七~八年の間何度となく但馬に入って来ました。

不完全ながらもこれを伝えなければ後世に残せないことから重い腰をあげて少しずつでも始めようと思うものです。

 白村江の戦での敗北による九州王朝の衰退は古代史ファンの最大の関心事であり、それを切っ掛けとして倭国と日本国の時代が登場し九州王朝倭国が消失していっただろう事は多くの九州王朝論者の間でも認識が深まっていると考えています。

 九州年号の観点からは701年(712年の「大長」説あり)辺りまで、宗教的権威としては九州の宗廟を宇佐に譲る749年(「高良玉垂宮神秘書」)まで九州王朝の痕跡が浚えるのですが、その間、南九州の頴娃辺りに避退した九州王朝の残存抵抗勢力の痕跡が最大720年頃まで確認できるようです。


『続日本紀』文武天皇四年条(西暦七〇〇)に、次のような記事がある。

薩摩の比売・久米・波豆、衣評督の衣君県、同じく助督弖自美、また肝衝の難波、これに従う肥人らが、武器を持って、覓国使刑部真木らをおどして物を奪おうとした。そこで、竺紫の惣領に勅して、犯罪の場合と同様に扱って罰を決めた。

最後の九州王朝 鹿児島県「大宮姫伝説」の分析 古賀達也


これに対して、“兵庫県但馬地方に九州王朝系氏族が大量に逃げ込んでいる!”といった想定をされていたようなのです。

 そもそも、一國の地名である但馬地方とは宗像大社の鎮座地である大字田島(佐賀県唐津市呼子沖の壁島に鎮座する田島神社)の置換えであり、この避退(一応、「追放」or「避退」不明なのですが…)に宗像族が関与していただろう事はある程度想像が可能です。

 百嶋先生も但馬に入り多くの神社を見られていたようです。

九州にしかいないはずの神々がごっそりと持ち込まれている事、九州の特殊な神が主神として祀られている事などから祭神の背後に居たであろう氏族が見えておられたのです。

 先生は「九州の地名もごっそり持って来ていますし、九州の言葉で話しています…」とも言われており、これについては、養父市や朝来市だけでも、養父市は佐賀県鳥栖市の市役所の所在地である養父(現三養基郡、古代の肥前国養父郡)ですし、朝来市は福岡県朝倉市の朝倉(朝来)地名の移動であり、そもそも兵庫県養父市の市庁舎の傍の大字が朝倉である事は明らかでしょう。

 旧但馬國には、もう一つ城崎温泉の豊岡市があるのですが、これも北部九州の豊の国の岡(遠賀)の地名移動です。

肥前、筑前、筑後、豊…の人々が移動していると考えれば非常に分かり易いのではないでしょうか。

 それ以外にも大字単位、小字単位で見れば驚くほどの対応が認められますので、関心をお持ちの方は試みて見られては如何でしょうか。

 考えれば船による侵攻しかできなかった時代、畿内からは九州への倍の距離にもなる航路を安全に移動できなければ届かない但馬地方は、畿内大和から最も遠く、かつ九州から最も近い避退地だったのです。

 我々が想定している時代は、平城京(710)平安京の開発が始まる700年代の末(794)までの間であり、京都が中心になれば但馬は逆に危険になったのです。

512-1 地名を見る限り「好字令」が出された以降の好字二字表記のものであることから713年以降であることは理解しやすく、九州王朝の祭祀権が宇佐に奪われる749年(「高良玉垂宮神秘書」)以降、794年(平安京成立)までの時期に九州王朝の中枢部の一部が避退したのではないかと考えています。


 前置きが長くなりましたが、この問題については、いずれ、「但馬」として書く事として、本題に入りましょう。

 今回、鳥取市の南の八頭町、若桜町から養父市大屋町に入ったのですが、この大屋町も過去5回は入り神社を見て廻っています。

 特に重要なのは御井神社で養父を中心に56社(実際には鳥取県の岩美町や島根県にもあり10社ぐらいはありそうですが)が確認でき、その中心的な神社がこの大屋にあるようなのです。


512-2

これについては以下を読んで頂く事として、ここでは若宮神社について触れたいと思います。


ひぼろぎ逍遥 131 兵庫県養父市大屋町の御井神社 “ 突然始まった周防から丹後の神社調査 ④ ”


養父市大屋町由良に若宮神社がありますが、実は朝来市にも二社あり、今回はこの三社を中心に見て廻ったのでした。


養父市大屋町の若宮神社


 この間何度も入って来た養父市ですが、御井神社の調査に重点を置いていた事から若宮神社はパスしてきました。

 しかし、若宮神社が高良玉垂命を祀る高良神社(玉垂宮、高良社、高良宮…)とセットで祀られる九州王朝の最期の天皇である仁徳天皇を祀るものであるとの確信を得たことから、改めて但馬における分布を確認する作業に入ったものです。

 勿論、これを応神とするのは宇佐の権威が広く及んで以降の祭神の入替に違いなく、事実、この若宮もそのように扱われているはずです。本物の応神なら無格社扱いにはなっていないでしょう。


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若宮神社 カーナビ検索 兵庫県養父市大屋町中358


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スポット152 鹿島、香取は有明海沿岸から東に向かった

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スポット152 鹿島、香取は有明海沿岸から東に向かった

20171121

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


これは只の作業仮説であり、本来、調査を重ねて公開すべきとは考えますが、重要なテーマでもある事から、一旦は公開し誤りがあった場合は、再度、修正報告する事として、知りえた事を惜しまずお教えしようと思うものです。

まずは、「23・熊本県に於ける猿田彦命祭祀神社地名表」をご覧下さい。


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言うまでもなく、百嶋神社考古学では猿田彦を山幸彦=ニギハヤヒ=五十猛=香取神=荒穂神=布津主…とします。

お見せしたのは「熊本県神社誌」に基づき猿田彦を調べておられるサイトで、使用するに際して「熊本県神社誌」で裏取りをした事もあります。

大変ありがたい事に、データに関しては著作権とか、有償であるとか小賢しい事を言われる方が多い中(行政絡みも酷いです)、ご自由にお使いくださいとの事であり当方も重宝しているところです。

このような方こそ本当の研究者なのであり、学問が利権ではなく何であるかを良くご存じの方なのです。

直近では、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の大宮神社と猿田彦大神 ⑨ 外で取り上げています。


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ただし注意すべきは、このリストは「猿田彦」と書かれているものであり、祭神名が別の場合は拾えていない可能性はあるのです。

ちなみに、百嶋神社考古学では猿田彦=山幸彦=五十猛=布津主=ニギハヤヒ…と多くの別名があるのです。

また、猿田彦を祀っている神社を拾っているものであって他の祭神との共同祭祀の場合も拾い出しをしている点です。

さて、ひぼろぎ逍遥 370外で千葉県の鹿島、香取、伊岐須の三社で知られる香取神社が山幸彦を祀る神社である事を書きました。


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この香取神社は山幸彦=猿田彦を祀るものであり、鹿島神社こそ阿蘇の草部吉見神社の主神である海幸彦=ヒコヤイミミを祀るものなのです(つまり、鹿島、香取は海幸、山幸を祀る神社なのです)。

問題は何故香取神社と呼ばれていたかでした。

鹿島神社は、佐賀県鹿島市の鹿島、熊本県嘉島町の嘉島、鹿児島県薩摩川内市の甑島の鹿島町の鹿島で、いずれも関係があるのです。さらに言えば、剣豪塚原卜伝が奉斎した鹿島大神とは阿蘇の海幸彦=草部吉見であり、百嶋由一郎氏も言われていましたが、香取神社の経津(フツ)主も有明海沿岸の島原市布津(雲仙火砕流災害の被害地)辺りから出発した山幸彦ではないかと考えていました。

何故、そう考えるかと言うと、千葉県から茨城県に掛けての一帯の「常陸国風土記」の話があるのです(例えば“杵島振り”武借間命による騙し討ち…)。

それはご自分で調べて頂くとして、香取も当然に有明海沿岸から東に向かったのではないかと考えて来たのでした。

ただ、香取の地名や社名には遭遇せず、この間放置していたのですが、犬も歩けば棒に当たるの喩の通り、相次いで香取を発見したのでした。

“相次いで”と申し上げたのには理由があり、私が発見したのは熊本県天草市上天草市大矢野町の中心部に香取神社を見出したのでした。


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 香取神社 カーナビ検索

熊本県上天草市大矢野町登戸1238


祭神:武甕槌神外三神 推定 草部吉見=海幸彦

   山幸彦…


この一帯も、最終的には阿蘇氏の支配下に置かれた時期がある事から、祭神が武甕槌神外三神 推定 草部吉見=海幸彦とはなっていますが、当然にも山幸彦が主神として祀られていたからこそ香取神社の名が付されていたのであろうと考えるのです。

先に“相次いで香取を発見したのでした。”としたのは、「宮原誠一の神社見聞諜」sp152-6の宮原氏が“熊本県氷川町(旧宮原町)に百嶋先生が最重要の姫城(ヒメギ)がありますと言われていた「姫城」”を確認されたのでした。

その際の副産物として、香取神社を探し出し、氷川を挟んで北側に鹿島神社が数社ある事が、もう一人のsp152-7blogを書かれている宮原秀範氏の資料の地図に書かれている事を確認されたのでした。こうして三人の共同研究、共同調査によって、謎が解けたのでした。

実は、メンバーの中には姫城(ヒメギ)を探しておられた方がもう一人おられました。

女性のO氏でしたが、この朗報をいち早くお知らせしようと連絡した所、相前後して、こちらでも呉の太伯王の後裔が入って来たと考えている「姫城」を発見しておられたのでした。

こうしてメンバー4人による思い思いの調査が一つに結びついて行った瞬間でもあったのでした。

これについては、別途報告するとして、ここでは、香取神社のルーツは確信していますが、名称の起源さえも(呉の太伯の流れは姓を「姫」とする)この地だったのではないかとの提案をしておこうと思います(詳報別稿、宮原誠一氏が先行されるかも知れません)。

5月には、熊本県氷川町一帯のトレッキングを太宰府、熊本の両グループで行いたいと考えています。

では、天草の香取神社の社殿をご覧頂きましょう。


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最後に、幾つかの突拍子もない話をして次回に繋ぎたいと思います。

 房総半島は上総の国、下総の国と呼ばれています。


上総国

上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。


下総国

現在の千葉県北部と茨城県西部を主たる領域とする旧国名。北で常陸国と下野国、西で上野国と武蔵国、南で上総国、内海を挟んで相模国と接する。

『古語拾遺』によると、よき麻の生いたる土地というところより捄国(ふさのくに・総国)(ふさのくに)と称したとされる総国の北部にあたり、総国の分割によって建てられたとも言われている。古くは「之毛豆不佐(しもつふさ)」と呼び、これが(しもふさ)(しもうさ)に転じたという。

この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも都(近代以前の概念では畿内)に近いほうが「上」「前」と考えられている。上総国と下総国の場合、西国からの移住や開拓が黒潮にのって外房側からはじまり、そのため房総半島の南東側が都に近い上総となり、北西側が下総となった。また、毛野から分かれた上野・下野と同じく、「上」「下」を冠する形式をとることから、上総・下総の分割を6世紀中葉とみる説もある。

ウィキペディア(20171121 18:59

『古語拾遺』の調子はともかくとして、この鹿島、香取は九州からの進出である事は確信しています。

何故そう考えるかと言うと、上総(カヅサ)とはどう考えても読めない表記の地名であり、元々「カヅサ」と呼ばれていたところに無理やり漢字表記が押付けられ振られたとしか思えないからでした。

この鹿島、香取のルーツが有明海沿岸であったとすると思い当たる事があるのです。


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有明海の西への出口 加津佐(上)口之津(下)をご紹介しましたが、海幸彦、山幸彦の震源地である有明海沿岸から瀬戸内海、勝浦、東海、房総へと進出するとした場合、口之津、加津佐に集結し、有明海からの海流を利用し自然に吸い出され対馬海流に乗るのが最上策であり、恐らく、玄海灘、関門、瀬戸内海、南紀、東海、房総へと進出したと考えています。

思えば口之津とは海員学校が置かれ、明治期から始まる初期の上海への石炭の積出し港として税関が置かれた国際貿易港でもあった場所であり、現在でも口之津港の湾奥には高良山神社が置かれているのです。

つまり、九州王朝の軍港であった可能性さえも考えられる場所なのであって、この西隣の加津佐が房総の地名として振られたのではないかと思うのです。

太宰府地名研究会のHPには「苧扱川(オコンゴウ)」を掲載していますが、これこそが九州王朝の最重要港湾であったと考えています。詳しくは「苧扱川」を読まれるとして、上の地図には野田浜という地名がある事にお気付き頂けると思います。

そうです。千葉と言えば野田の醤油ですね!上総=加津佐も、野田という地名も持ち出されたのです。


資料) 口之津は九州王朝の最重要港湾か? (2011年夏に久留米大学で講演した「苧扱川」の一部分)


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口之津港湾奥の小丘に鎮座まします高良山神社


皆さんは、口之津湾の湾奥に高良山神社があることをご存知でしょうか?

国道筋から数百メートルも入った目立たない所にあることから、地元でもこの界隈に住む方しかご存じの方がおられないようですが、今も高良山という小字が残る小丘に、立派な鳥居を持つ社が鎮座しているのです。もちろんご存じないのが道理ですが、大牟田市の西南部、有明海に鋭く突出した黒崎岬の先端や、私の住む武雄市花島地区のこれまた高良大社に向かって東に突出した小丘にも高良玉垂が祀られていることから、この口之津高良神社もそれらの一つであると考えられます。

京都や青森の五戸にもあることから、直ちに何かが分かるというものではありませんが、古来、有明海一帯を支配したはずの高良玉垂の威光を感じさせるものであることは言わずもがなのことであるはずなのです。

この場所は、現在、公園化されているポルトガル船の接岸泊地跡からさらに百メートル近く奥に入ったところに位置しています。さらに言えば、埋め立てが進んだ口之津湾の相当に古い時代の港湾跡の上にあたるようなのです。

遠い古代に於いて、外洋航海も含めた出船泊地であったとしか思えない場所なのです。

そして、そのことを証明するかのように、この岬の直下には「西潮入」という小字が残っています。

もはや疑う余地はありません。朝鮮半島から中国大陸への最後の安全な寄港地、停泊地

である口之津から、帆をいっぱいに張った外洋船が、遠く、中国、朝鮮に向けて出て行く姿が目に浮かんでくるようです。きっと彼らは、高良玉垂に航海の安全を願い外海に出て行ったと思うのです

長崎の最南端、野母崎(長崎半島)を廻ります。すると、自然と対馬海流に乗り、全く労することなく一気に壱岐、対馬、そして朝鮮へと、また、五島列島を経由し江南へと向かったことが想い描けるのです。

さらに思考の冒険を進めてみましょう。

何故、この地に苧扱川があるかです。繊維を採り布を作るとしても、単純に、服の生産などと考えるべきではないでしょう。恐らく古代に於いても、最も大きな布(繊維)の利用は、服などではなく、、船の帆ではなかったかと考えるのです。

 

sp152-11早崎の瀬戸の先端 瀬詰崎灯台、向こうは天草下島


一般的には、中央の目から、また、九州に於いても博多の目から、宗像、博多、唐津、呼子が強調され過ぎていますが、宗像はともかくも、博多から半島に向かうとしても、一旦は西航し、対馬海流に乗ったと言われるのですから、久留米、太宰府からも引き潮はもとより、有明海の左回りの海流を利用して口之津に出て、対馬海流を利用する方が遙かに安全で有利だったはずなのです。


苧扱川の苧麻布とは木綿以前の繊維


古代において、有明海の最奥部であったと考えられる久留米の市街地にオコンゴウと呼ばれる川、苧扱川(池町川)があり、西に開いた有明海のまさにその出口の一角に苧扱川と苧扱平という地名が三ケ所も残っています。

さて、この島原半島南端の良港、口之津にオコンゴ地名があることは象徴的ですらあります。始めはそれほどでもなかったのですが、今になって、このことの意味することが非常に重要であることに気づき、今さらながら戦慄をさえ覚えるほどです。

一つは、あまりにも強固な地名の遺存性についての感動であり、今ひとつは、有明海が西に開いていることと多くの伝承や物象が符合していることです。

まず、広辞苑を見ましょう。「【苧麻】ちょま〔植〕カラムシ(苧)の別称。」としています。カラムシ(苧)を見れば、かなり多くの記述あり、ここでは略載しますが「…木綿以前の代表的繊維(青苧(あおそ))…」などと書かれています。

重要なことは、もしも外回りの航路を採ったとすれば、口之津が大陸へ向けた本土最後の寄港地であることからして、この苧が衣服ばかりではなく、船の帆や綱として組織的に生産され、それが地名として今日まで痕跡をとどめたのではないかとも考えられるのです。

ここで、さらに視点を拡げます。実は、この苧、苧麻が皆さん誰もがご存知の、いわゆる『魏志倭人伝』(魏志東夷伝倭人条)に登場するのです。

もはや、写本のどれが正しいかといった議論は一切必要ありませんので、手っ取り早くネットから拾いますが、いきおい「苧」、「苧麻」が出ています。少なくとも有明海沿岸が倭人の国の候補地になることは間違いがないところでしょう。


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上総、下総の鹿島神社(海幸彦)、香取神社(山幸彦)、息栖神社(長脛彦=カガセオ)



 研究目的で百嶋神社考古学の音声CD、手書き資料(DVD)神代系譜等を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。

513 朝来市を望む標高800メートルの山上神社 “兵庫県朝来市の青倉神社”

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513 朝来市を望む標高800メートルの山上神社 “兵庫県朝来市の青倉神社”

20170807

太宰府地名研究会 古川 清久


 何度も足を運んでいる但馬地方ですが、今回は朝来市を中心に神社を見て廻っています。

 その中で天空の城ならぬ天空の神社を見ようと林道を登り始めました。

 この神社が如何なるものであるかは、現地に入るまで、また、社殿に入って以降も良く分かりませんでした。

しかし一から分からない神社を解読するのも面白いもので、当然の避けて通れぬ任務と考えています。

 その神社とは朝来市伊由市場から伊由谷川沿いに登って行く右手の高峰青倉山の山頂に近い所に鎮座する青倉神社です。


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山上神社の入口にはかなりの広さを持つ駐車場がありました。

既にお二人の参拝者がおられ、開口一番「佐賀から来られたのですか?」(車両ナンバーは佐賀ですので)と不思議に思われたのでしょう。関西の某大手家電メーカーのOBで新しい会社を興された方(社長)達で同社の発展を祈願しての訪問だったようです。

初対面の短い話ですのでそれ以上の事は分かりません。しかし、大阪からおいでになったのですから、それなりに名の通った神社として理解する必要はあるでしょう。

さて敬愛するHP「玄松子」氏はこのように書かれています。


兵庫県朝来市にある。播但線・青倉駅の東5Kmほどの青倉山(811m)中腹に鎮座。青倉駅前の交差点に、当社の大鳥居が立っている。参拝が午前中だったため、西向きの鳥居の写真が、逆光になってしまった。その鳥居から、伊由谷川に沿って526号線を東へ。川上あたりに青倉山へ通じる林道入口があるので林道をそのまま登っていくと当社前の駐車場に到着する。駐車場脇にも鳥居が建っており、参道を歩いていくと境内に到着。社殿は階段の上にあり、階段途中には青倉山登山口があるが、登山は嫌いなので無視。階段を上りつめると大きな社殿。社殿内に入ると、正面には岩肌があるだけ。左右にある階段を上ると神殿。階下に見えた岩の上に神殿があり、神殿の奥には岩の上部がある。つまり当社の社殿は、御神体であろ巨石に寄り添うように立っている。社殿の右手には、御神体の裏から湧き出る霊水があり目の神様として信仰されている。創祀年代は不詳。納座にある善隆寺の奥の院とされている。一説に、伊由市場鎮座の伊由神社の分霊を祀るという。が、位置的には、伊由神社の奥宮に相当するのではないだろうか。
あるいは、伊由市場の伊由神社が、当社の遥拝所や里宮なのかもしれない。
そんな印象。御神体の巨石から沸き出す霊水への崇拝から「
和久産果神」を御祭神とし湯(伊由)という社号を残すことになったのではないだろうか。善隆寺の奥の院とされているためか著名な神社なのに 『兵庫県神社誌』 には当社の記載がない。ただし、伊由神社の項には「特選神名牒」の式内社・伊由神社の説明として「今按式内神社道志流倍に此社能座村小手巻社又青倉明神など云とも當らず市場村と山内村の間なる大森明神なる事疑なし」と記載されている。この青倉明神が当社で、大森明神は現・伊由神社つまり、当社を式内社・伊由神社とする説があったようだ。 御神体の巨石は、横から見るとモアイ像に良く似ている。参拝者は、モアイ像の後頭部を拝んでいる感じを想像すると、ちょっと面白い。巨石の横には幾つかの祠があるが詳細は不明。


青倉山からの水を受ける伊由谷川河畔に伊由神社があり、青倉神社の祭神が分からないとしても伊由神社との関係を考える事には合理性があるでしょう。この点玄松子氏の説に全面的に賛成せざるを得ません。

青倉神社を踏むと直ぐに天照大御神が祀っている事が確認できました。

しかし、これは後世(恐らく明治以降)の付会と考えるため採りません。と、言うよりも青倉神社とは伊由神社の上宮と考える方がよほど分かり易いのです。

青倉神社に於ける祭神が不明な以上当面この線上に祭神を考える以外に方法はないようです。「兵庫県神社誌」に同社の記載がない以上そうせざるを得ないのです。伊由神社正面にある播但線の駅名も「青倉」です。新たな事実が把握できれば、その時には軌道修正する事にしたいと思います。

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伊由神社境内に置かれた青倉神社への案内板


 では、伊由神社の祭神を考える事にしましょう。

今回は手掛かりが全くない事から敬愛するHP「玄松子」氏のサイトに多くを依存して祭神の解読を行っていますが、この朝来一帯の神社の分布状況から考えてもそれほど大きく外れてはいないはずです。

実は、もう一つの手掛かりを現地で手に入れました。


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これは青倉神社の境内で見つけた瓦の欠片ですが、これだけでこの神社の性格の一部が見えて来ます。それは亀甲紋章を使う氏族の奉斎する神社である事です。

一般的にといっても一人二人が言いだして広がった俗説でしかないのですが、この亀甲紋章は大国主命=出雲大社が起源であるといった話が今尚大手を振って広がっています。

これはとんでもない誤りで、大国主命とは大山祗(トルコ系匈奴)の子(母神は大幡主の妹)であり、亀甲紋章とは、この大幡主系、天御中主系氏族のシンボルなのです。

天御中主命~大幡主命(博多の櫛田神社の主神)~大国主命(経津主…)へと「主」という尊称が継承され通底している事でもお分かり頂けるでしょう。

この瓦の欠片の亀甲の内側のデザインは見たことがないのですが、亀甲紋は大幡主系を意味しており、その線上に祭神を探る事ができるのです。では再び玄松子氏に依拠しますが伊由神社を考えましょう。


式内社 但馬國朝來郡 伊由神社 旧村社

御祭神 稚産霊命 あるいは 少彦名命


兵庫県朝来市にある。播但線・青倉駅の南東1Kmほどの伊由市場に鎮座。青倉駅から円山川を越え、312号線を超えて526号線を進むと道路の南側に境内がある。

木製鳥居の脇には「式内 伊由神社」と刻まれた筆のような変わった形の社号標。鳥居をくぐると境内の奥に塚のような場所がありその上に社殿が並んでいる。中央には、覆屋に納まった本殿。その左右には、同じく覆屋に納まった境内社がある。本殿は「こけら葺」で、扁額には「正一位大森大明神」とある。創祀年代は不詳。 式内社・伊由神社の論社となっている古社。扁額にある通り、大森大明神とも呼ばれているようだ。

祭神は稚産霊命。一説には、「伊由」は「湯」の意味であり湯神社が変形したものと考え、各地の温泉を祀った神社が、大名持命・少彦名命を祀っているように当社の祭神も、少彦名命を祭神とする説もある。

境内社については詳細は不明。左手の覆屋には、小祠が2つ。右手の覆屋には、小祠が2つと石が祀られている。『兵庫県神社誌』には金比羅神社と寿賀神社の名が記載されており『平成祭データ』には、加えて護国の宮の名が載っている。…


和久産巣日神 わくむすびのかみ別名稚産霊神:わくむすびのかみ……

『古事記』では、伊邪那美神が火の神迦具土神を生んで陰所を焼き病床に伏せていたおり、尿より化生した弥都波能売神の次に生れた神が和久産巣日神。和久産巣日神は、伊勢皇太神宮の外宮の主祭神である豊受媛神を生んだ神とされている。字義からいうと和久は稚・若の意味で、産巣は生成の義であり、総じて穀物の生育を司る神。 糞尿の次に生まれたことは、肥料によって生まれたという意味だろう。

『日本書紀』では、伊邪那美神が火の神迦具土神を生んだ後、埴山姫と罔象女の神を生み、 埴山姫が軻遇突智(火神)と結婚して生れた神が稚産霊神。稚産霊神の頭から蚕と桑、臍から五穀が生じ、五穀起源の神話となっている。 火と土から生まれたことは、焼畑農業を意味しているのだろうか。


仮説)伊由神社の和久産巣日神とは何か


玄松子氏は“祭神は稚産霊命。一説には、「伊由」は「湯」の意味であり湯神社が変形したものと考え、各地の温泉を祀った神社が、大名持命・少彦名命を祀っているように当社の祭神も、少彦名命を祭神とする説もある。”とされています。

 確かに御湯神社に少彦名命を祭神とするものがあることは承知していますが、付近にはこれといった温泉もないことから、これについては保留します(というより採用しません)。

もちろん、少彦名命も大幡主の傘下で活動していた神様ではあるのですが…。

 勢い、和久産巣日神に目が向きます。「古事記」に於いて、“伊邪那美神が火の神迦具土神を生んで陰所を焼き病床に伏せていたおり、尿より化生した弥都波能売神の次に生れた神が和久産巣日神。和久産巣日神は、伊勢皇太神宮の外宮の主祭神である豊受媛神を生んだ神とされている。「日本書記」に於いても、“伊邪那美神が火の神迦具土神を生んだ後、埴山姫と罔象女の神を生み、埴山姫が軻遇突智(火神)と結婚して生れた神が稚産霊神。”とあります。


 百嶋由一郎神社考古学は「記」「紀」を聖典とはしませんので(百嶋由一郎氏は「古事記」の95%は嘘と言っていました)、もとより「記」「紀」と整合しない事に負い目はありません。

 しかし、重要なヒントは残されている訳で、これからある程度の解析ができそうに思えます。

 弥都波能売神の次に生れた神が和久産巣日神 とすれば、その周辺その世代を考えるべきでしょう。

 伊勢皇太神宮の外宮の主祭神である豊受媛神を生んだ神 とすれば、弥都波能売そのものになります。

 埴山姫が軻遇突智(火神)と結婚して生れた神が稚産霊神 とすれば、櫛稲田姫=スサノウの妃神になります。

 伊邪那美神が火の神迦具土神を生んだ後とありますが、伊邪那美は迦具土神=金山彦の母神ではなく妹神なのです。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)赤枠は 弥都波能売神


また、「稚産霊神の頭から蚕と桑、臍から五穀が生じ、五穀起源の神話となっている。」ともされていますが、そこで頭に浮かぶのはオオゲツヒメです。

「古事記」におけるオオゲツヒメ、「日本書紀」におけるウケモチのような食物起源の神とされているとすれば、百嶋由一郎027系譜にオオケツヒメが出て来ます。そうですスサノウが追ったアカルヒメです。

和久産果神が誰であるかを考える時、今のところこのアカルヒメではないかと考えています。

 大幡主の子であり、豊玉彦=ヤタガラスの姉にあたるアカルヒメこそスサノウと別れて新羅から但馬に逃げ、後に姫島から宇佐に入ったと考えられる神であり、それを追ってきたアメノヒボコ=後のスサノウであり、そのスサノウを祀る神社こそ、但馬(豊岡市)の出石蕎麦で有名な出石神社なのです。


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514 朝来市の二つの若宮神社 “兵庫県朝来市の宮内と久田和の若宮神社”

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514 朝来市の二つの若宮神社 “兵庫県朝来市の宮内と久田和の若宮神社”

20170808

太宰府地名研究会 古川 清久


514-1朝来市に入り、殊更、若宮神社を見ようと言う思いが、九州王朝論者の中でもお分かりにならない方は多いと思いますが、九州王朝の本拠地の一つと考えている久留米市の高良大社(勿論、750年以降は近畿大和朝廷の支配下にあり、その系統の人々が送り込まれ続けているはずです)に残された「高良玉垂宮神秘書」の立場から古代の解読を進められた故)百嶋由一郎氏からは、最後の九州王朝系の天皇が高良玉垂命(実は第9代開化天皇)と仲哀死後の神功皇后との間に五人の皇子が産れその筆頭長子が仁徳天皇=大鷦鷯尊=実は九躰皇子の筆頭 斯礼賀志(シレカシ)命と聴いているのです(右「高良玉垂宮神秘書」)。

 残る4人は神功皇后の連子の可能性あり(古川注)

〔高良玉垂命と九人の皇子(九躰皇子)〕
高良玉垂命(初代)―――― 斯礼賀志命(しれかし)→隈氏(大善寺玉垂宮神職)へ続く物部保連(やすつら)|
           |―
朝日豊盛命(あさひとよもり →草壁(稲員)氏へ続く
           |――
暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
           |――渕志命(ふちし)
           |――渓上命(たにがみ)
           |――那男美命(なをみ)
           |――坂本命(さかもと)
           |――安志奇命(あしき)
           |――安楽應寳秘命(あらをほひめ) 

※読みは「草壁氏系図(松延本)」によった。

九州王朝の築後遷宮 玉垂命と九州王朝の都 古賀達也『新・古代学』古田武彦とともに 第4集 1999年 新泉社


勿論、九州王朝論の本流の方々はそのような事は全く考えておられません。

 あくまでも仁徳は近畿大和朝廷の天皇と考えておられるはずですが、「高良玉垂宮神秘書」を重視する百嶋神社考古学の立場からは、仁徳を祀る若宮神社には何らかの九州王朝の痕跡が保存されている可能性を見ているのです。

 先に養父市大屋町の若宮神社をご紹介しましたが、今度は朝来市の二つの若宮神社です。

 結果から先に言えば特別な発見はありませんでした。ここでは存在を知って頂くだけに留め、今後の展開に繋ぎたいと思います。

 兵庫県朝来市宮内(地番不詳)養父駅に近い高田公民館前(外見は八幡宮)

 兵庫県朝来市和田山町久田和444

 実はこれ以外にも朝来市内には二つの若宮神社があります。

 兵庫県朝来市山東町柴3の若宮神社です。

 朝来市和田山町高生田656の若宮神社です。

今回こちらは確認できませんでしたので次に回す事なります。


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百嶋由一郎極秘系譜(部分)


  兵庫県朝来市宮内(地番不詳)の若宮神社 養父駅に近い高田公民館前(外見は八幡宮)

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ご覧の通り表看板は八幡宮です 祭神の入れ替えが容易に起こる事が分かりますね


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514-7社殿を見る限り八幡の痕跡はありませんでした。

若宮に限らず養父市から朝来市に掛けて多くの社殿を見て来ましたが、我々が鞘殿と呼ぶ覆屋工法が多い事に気付きます。

この鞘殿は筑後物部の特徴と見ているもので、養父から朝来に掛けて展開した氏族の性格が垣間見えるものでした。


  兵庫県朝来市和田山町久田和444番 の若宮神社


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これも鞘殿様式ですね 境内には矢崎稲荷大明神も


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515 但馬に勅使門を持つ神社がある “兵庫県朝来市の粟鹿神社”

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515 但馬に勅使門を持つ神社がある “兵庫県朝来市の粟鹿神社”

20170808

太宰府地名研究会 古川 清久


 今回の但馬遠征の最大の目的はこの粟鹿神社を見る事でした。

 以前から何度も行こうと思いながらも養父の調査に重点を置いていた事からこれまで果たせなかったのですが、ようやく叶いました。しかし、ここから大きな疑問が湧いて来ることになったのです。


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粟鹿神社 カーナビ検索 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152 ℡079-676-2465


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当勝(マサカツ)神社は正勝吾勝勝速日天忍穂耳命を祀る神社のようで粟鹿神社と同類の神社のようです


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一説ではこの神社の歴史は2000年以上あるとも言われていて、『古事記』や『日本書紀』よりも古い和銅元年(708)に記された『粟鹿大明神元記』には大国主命を祖とする神直が当社の祭祀を執り行ったとことなどが記されているという。

粟鹿神社は『延喜式』式内社のなかでも社格の高い名神大社(みょうじんたいしゃ)のひとつで、朝廷の信頼厚く、国家の大難に対して4度の勅使参向があったことが記録に残っているそうだ。上の画像は勅使門で、朝来市指定文化財となっている。

「しばやんの日々」による


 文中の「大国主命を祖とする神直が当社の祭祀を執り行った」は少し疑問があり、「神直が」は「神直日が」が正しいのではないかと思ってしまいます。しかし、HP玄松子氏も採用されており、誤植と言ったものとは考えられず、ここでは神直(カミノアタイ)が何か?と保留しておきます。

神直日は知られていませんが、故)百嶋由一郎氏作成の神代系譜によれば以下のようです。


直毘神

直毘神(なおびのかみ、なほびのかみ)は神道の神である。穢れを払い、禍(まが)を直す神とされる。

日本神話の神産みにおいて、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに、その穢れから禍津日神が生まれた。この禍津日神がもたらす禍を直すために生まれたのが直毘神である。『古事記』では八十禍津日神・大禍津日神が成った後に神直毘神(かみなほびのかみ)、大直毘神(おほなほびのかみ)と伊豆能売の三柱が成ったとしている。『日本書紀』第五段第六の一書では八十枉津日神が成った後に神直日神(かみなほひのかみ)大直日神(おほなほひのかみ)の二柱の神が成ったとしている。同段第十の一書では少し異なっており、イザナギが禊の際に大直日神を生み、その後に大綾津日神(大禍津日神と同一神格)を生んだとしている。

ナホは禍を直すという意味である。ビは神霊を意味するクシビのビとも、「直ぶ」の名詞形「直び」であるともいう。いずれにしても、直毘神は凶事を吉事に直す神ということである。ナホ(直)はマガ(禍、曲)と対になる言葉であり、折口信夫はナホビの神はマガツヒの神との対句として発生した表裏一体の神であるとしている。また、直毘神は穢れを祓う神事を行う際の祭主であり、伊豆能売は巫女であるとも考えられる。

ウィキペディア(20170808 18:02による


515-4

百嶋由一郎 008イヨ系譜(部分) 神直日を確認して下さい

 朝来市和田山の赤淵神社にも勅使門があるのですが、寺院に比べて神社の勅使門は非常に少なく、勅使殿とか勅使館はあるとしても、これまで宇佐神宮(宇佐市)、薦神社(中津市)以外見たことがありませんでした。


515-5

御祭神 彦火々出見尊、あるいは日子坐王(玄松子による)


百嶋神社考古学では、彦火々出見尊=山幸彦とは、猿田彦でありニギハヤヒでもあるのですが、もしも主神が彦火々出見尊であるとすると、摂社の猿田彦が何なのか?という問題があるのです。

多分、彦火々出見尊=山幸彦が猿田彦は別神としているからなのでしょうが、その点、日子坐王説は受け入れやすい所です。


515-6

菊と抱茗荷の合神紋に男千木

粟鹿神社

御祭神 彦火々出見尊、あるいは日子坐王

兵庫県朝来市(旧山東町)にある。梁瀬駅から、427号線を南東に2Km。そこから南へ1Km弱、粟鹿川の南、粟鹿にある。道路の西側に白い鳥居が立ち、参道をあるくと、土塀に囲まれた境内。北側に勅使門、南側に日の出門がある。勅使門は、神功皇后が新羅から凱旋して当社に参拝したことに因むものという。日の出門をくぐると、境内北側には南向きの社殿。

境内社は、南側に天満宮(菅原道真公)。西側の池の中に厳島神社(市杵島姫命)。その後方、丘の上に稲荷神社(保食神)。丘の麓に、茗荷神社(草野姫命)と床浦神社(大己貴命)がある。また、社殿の東側に馬舎のような猿田彦神社(猿田彦神)。 創祀年代は不詳。一説には、崇神天皇の御代、粟鹿山の麓に創立されたといい、また、景行天皇十二年、天皇が筑紫の熊襲を征圧した時に勅して天皇の祖を祀ったとも。神功皇后三韓征伐の際に神助ありて凱旋後に奉幣使を立てたという。天正九年(737)の『但馬国正税帳』(正倉院文書)にも「朝来郡粟鹿神戸祖代六十六束二把」とある古社。粟鹿の名は、昔、粟鹿山の洞穴に住む一頭の鹿が、粟三束をくわえ、村に現われ、人々に農耕を教えたという。その鹿を祀ったのが、当社であるという。また、粟鹿山の荒ぶる神を祀ったとも。 但馬国一の宮。 祭神は彦火々出見尊。

以前は上社、中社、下社とわかれていたらしく、上社に彦火々出見尊、中社に龗神、下社に玉依姫を祀ったとも。あるいは、四道将軍の一人であり、日下部連の祖、丹波道主の日子坐王とする説もある。

本殿裏側のこんもりとした丘が、日子坐王の墳墓という伝承も。

さらに、粟鹿の社号から、伊和大神の妹・阿和加比売命を祀るという説もある。

近年発見された『粟鹿大明神元記』和銅元年(708)八月に、大国主命を祖とする神直が当社の祭祀を執り行ったとある。神紋は、茗荷と菊の合せ紋。茗荷紋は、境内社・茗荷神社に由来するらしい。

敬愛するHP玄松子による


515-7

稲荷=保食神とは実は豊受大神でありアメノウズメ 言わずと知れた市杵島姫は播磨の佐用津姫なのです


由緒 当社は但馬国最古の社として国土開発 の神と称す。国内はもちろん、付近の数国に わたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。人皇第一〇代崇神天皇の時、第九代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、 丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。粟鹿山麓粟鹿郷は、王 薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である。 旧県社。-『全國神社名鑑』-


515-8九州王朝論者の皆さんに対して、嘘つき畿内説論者や愚かな東遷論者など相手にせず、是非とも知って頂きたいのは、この第九代開化天皇こそ久留米市の高良大社の高良玉垂命なのであり、四道将軍を送り込んだのも九州王朝そのものであるという事です。

 すると藤棚がある事も、日子坐王が祀られている事も、勅使門がある事もすんなり理解できるのです。右は「高良玉垂宮神秘書」のほんの一部です。

 勅使門は、神功皇后が新羅から凱旋して当社に参拝したことに因むものという。話一つにしても、高良玉垂命と神功皇后が夫婦であったとの話を理解するならば理解できる事であり、捏造の書でしかない「記」「紀」を真に受けて議論する事から離脱されるべきではないかと思うものです。

遠く九州を廻らなくても畿内の一部の但馬にも播磨にも九州王朝を垣間見ることができる現場はあるのですから少しは文献から解き放たれ現場を重視して欲しいものです。


515-9

百嶋由一郎038重要系譜裏

516 道中貴命とは何か? “兵庫県朝来市新井の足鹿神社”

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516 道中貴命とは何か? “兵庫県朝来市新井の足鹿神社”

20170809

太宰府地名研究会 古川 清久


 播但線、但馬街道を北から南に登って行くと、JR新井(ニイ)駅があり播但連絡道の朝来ICがあります。

 朝来市でも播磨との国境いに近い奥まった場所ですが、ここに式内社の足鹿神社があります。


516-1

足鹿神社 カーナビ検索兵庫県朝来市八代字宮山229


朝来市でも市役所が置かれた和田山から丸山川、播但線、但馬街道を南に上り詰める最も奥まった安全な場所に生野銀山などがあり、物部、新井というその系統の地名が拾え、左手に朝来山がそびえています。

この物部氏が住み着いたとしか思えない場所に足鹿(アシカ)神社があるのです。

 始めから予断した話はすべきではありませんが、「アシキ」という響きに思い当たる事があり今回足を向けることにしたものです。

516-2

足鹿神社略記に依る限り祭神は 道中貴命 となります しかし如何なる神であるかは分からないのです


516-3

この神社の本殿も我々が筑後物部の「鞘殿」と呼ぶ覆屋の社殿様式を示しています


社殿の右手に境内社があります。迦具土神、奥津日子神、奥津比売命の三神です。


516-4

516-5

百嶋由一郎三宝荒神系譜


迦具土神は金山彦であり、この地に初期の九州王朝を支えた金属精錬の民があり、生野銀山とも底流で繋がっているものと考えています。

 ただし、中国地方に多い三宝荒神が後付で持ち込まれたものか、本来の祭神であったものが、道主貴命が進出し覆い被さったものかの判断は今のところできません。

交通の要衝に置かれた式内社であり、最低でも1000年の歴史を持つ神社ですが、さて、最も重要な祭神の「道中貴命」です。“平安時代初期に天皇の命により、都か らこの地方に派遣せられ、この地において政務にあたるなど、功績のあった人”(神とはされていませんね)として祀られたものと伝えられているのです。

勿論、これを真に受けるつもりが無い事は言うまでもありません。

 ただ、九州王朝論者にとって「アシカ」「アシキ」と言った語感は多少思い当たる事があるのです。

 九州王朝の本拠地である高良大社の麓の高良皇子神社=王子宮、坂本宮の神々に、九人の皇子があり五人の正室(高良玉垂命と神功皇后)の皇子と四人の皇子がいたのですが、その中に安志奇ノ命神(アシキ)命が出てくるのです。


斯礼賀志ノ命神(シレガシ)

朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)

暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)  

渕志ノ命神(フチシ)

谿上ノ命神(タニガミ)、

那男美ノ命神(ナオミ)

坂本ノ命神(サカモト)  

安志奇ノ命神(アシキ) 

安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)


高良御子神社祭神は高良玉垂命の御子にて命に九躰の皇子あり、人皇二十代允恭天皇の御宇(412453)、高良の神の御託宣により阿志岐山上に九躰の社を、大宮司孝成造立す。(古宝殿) 四八代称徳天皇神護景雲二年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮された。…山川区郷土研究会

高良皇子神社縁起


 この「安志奇」は筑後川を挟んだ対岸の太宰府側にも同一の地名があり、太宰府を防衛する宮地岳の神籠石のある一帯が「阿志岐」と呼ばれているのです。

 また、もう一つ気になるのが、「貴」(ムチ)と言われる尊称or称号(恐らく)と思われる「道中貴命」の「貴」に通じている様に思えるのです。

 当然、天照大神=大日霊貴神(オオヒルメノムチ)や大己貴神(オオナムチ)=大国主命の「貴」ムチ、モチも同じものでしょうし、久留米の高良大社と太宰府との中間の現筑後川の北岸に赤司八幡宮(最近は神功皇后の妹豊姫を祀るとするも「福岡県神社誌」に依れば、ただの石清水八幡系八幡神社)があるのです。この縁起にも気になるものがあるのです。

たまには綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」からお読み頂きましょう。


赤司八幡神社のいにしえの姿「止誉比咩神社」とはどのようなものでしょうか。

この筑後平野のど真ん中にどうして宗像三女神が祭られているのでしょうか。

ここに縁起があるので、「楢原猛夫本」を口語訳します。

筑後の国・止誉比咩神社の本跡の縁起の序をしるす。

筑後の国の御井郡(みいぐん)惣廟(そうびょう)である赤司八幡大神宮は太宰別府で、もともと三女神が降臨した本跡で、誉田(ほむだ)天皇が降誕された霊地であり、筑紫中津宮である。

いわゆる日の神から生まれた三女神を筑紫の洲(くに)に降臨させた時に、日の神が「そなたたち三神は道の中に降居して天孫を助けて天孫のために祭られなさい。」と教えられた。こうして今、河北の道の中にあって、道主貴(みちぬしのむち)と言う。これは筑紫の水沼の君らが祭る神である。

天孫が降臨する時、天の真名井の一元の水を降ろし、蚊田(かだ)の渟名井(ぬない)に遷して、その水を供えた。大足彦(おおたらしひこ)天皇が来られて祭壇をたてて国乳別皇子(くにちわけのみこ)を天皇の代行者とした。この方が河北(こうこた)の惣大宮司・水沼の君の始祖である。

気長足姫(おきながたらしひめ)尊(神功皇后)は豊姫を神形代(みかたしろ)に立てられた。このために後の人は止誉比咩神社と呼んだ。神名帳に官社として載っている。

醍醐天皇の御代に誉田の神霊と武内の神霊と住吉の神霊を相殿に遷座して御井郡の惣廟となって初めて放生会を執り行った。  (後略)


道主貴(ミチヌシノムチ)という筑紫の水沼の君らが祭る神が、足鹿神社の道中貴命と同一ではないとしても同種の称号に見えませんか? 今後とも調査を継続します。


516-6

最後にこの間注目している吉田一氣の熊本霊ラインにもヒントがありそうなのでご紹介しておきます。


516-7

武内宿禰や蘇我氏に繋がる須賀社 続編 No166 2010-09-25 01:36:56 | 日記


いくつか蘇我氏に繋がる須賀社をこのブログでも記載しているが式内社 但馬國二方郡 式内社須賀神社は もともとが菅神という謎の神霊を祭祀しているが後述するようにこれは蘇我氏に繋がる神社だと思える。

玄松子の記帳 式内社 但馬國二方郡 須賀神社この方のコメントで「須賀社でダントツに多いのは、福岡県に130社だが、 高知県29社、千葉県24社、茨城県23社、 山口県21社、静岡県20社、東京都19社と続くことから兵庫県と福岡県の多さが目立つ。

出雲そのものより、東と西へ少し離れた場所に点在するのは面白い。」そう書かれているが、 理由は須賀社が武内宿禰がらみの神社だからだと筆者は判断している。ちなみにこの式内社須賀神社から直線で10km程度のところに武内宿禰を祭る宇倍神社がある。またこの須賀神社で菅神としての候補される道中貴命という人物であるが八代大明神とも呼ばれておりこの八代は同じく祭神が道中貴命の但馬國朝來郡の足鹿神社が参考になるが八代という言葉はその地方の地名と川の名前にもなっている。

これは熊本の八代でも考察しているが武内宿禰と羽田八代と八大龍王神に通じる。

ちなみに菅=スガ(菅・須我)は菅=スゲという植物同じと辞書に出ているが足鹿=アシカは奈良時代には「みち」と呼ばれていたそうである。

それで道中貴命は足鹿神社と繫がることになる語源は「葦鹿」で「葦(アシ)の生えているところにいるシカ」の意味であるという。

つまりアシもスゲでありアシカも須我に通じる言葉ということになる。


須賀社⇒菅神⇒八代大明神⇒道中貴命⇒足鹿神社

菅と八代から蘇我氏系の神社であると推察される。


516-7

517 僭越ながらも鹿児島の老古代史家からの照会にお答えして 所感 ①

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517 僭越ながらも鹿児島の老古代史家からの照会にお答えして 所感 ①

20170809

太宰府地名研究会 古川 清久


既にネット上のひぼろぎ逍遥(跡宮)に「高良」を公開していますが、当時、この調査報告を書く際に協力して頂いた鹿児島県では知られた某郷土史家、古代史研究者からお手紙を頂きました。


517-1

「九州王朝と川辺町」というタイトルで講演会を行なうとのご計画もお持ちの様ですが、今般、五つほどの質問を頂きました。以下は原文の通りです。


 神籠石からすると九州王朝は民族的には半島系でしょうか。

 倭の五王も一文字で倭人でないように感じますが?

 高良も「コーライ」がなまったもののように感じますが?

 九州王朝と邪馬壱国の関係がわかりません。

九州王朝の下に邪馬壱国があったのか、又は邪馬壱国の下に九州王朝があったのか、それとも同一なのか?

 九州邪馬壱国と東遷とをどうとらえるか?


いずれも容易にお答えできる内容ではありませんし、そもそも私にお答えできる力があるとも、そういう立場であるとも考えておりません。

と言うよりも、全国の九州王朝論者が各々の視点、問題意識から取り組んでいる最大の関心事なのです。このため紙面との関係もあり、ここではある程度論証を省略し、私自身がどのように想像(思い描いて)しているかといった観点から現在のところの所感を申し上げることにします。

実は、もう一つ問題があります。

大学に入った時点で故)古田武彦の「「邪馬台国」はなかった」を読み、以降、数十年に亘り、初期~中期~後記の三部作など古田系の主なものに目を通し、古田史学の会外幾つかの研究団体にも触れてきました。勿論、大嘘つきの「邪馬台国畿内説」はもとより、「初期東遷説」といった他愛もない実質的な畿内説は一切考慮に値するものとは考えていないものの、九州王朝論の主流派である故)古田武彦氏の説からも何時しか離脱(なお、古田系研究団体の会員ではあるのですが)してしましました。

結果、現在は佃収説に共鳴しつつ、自身としては神社研究から古代史に迫る特殊な百嶋神社考古学に移行しています。このため、その観点から古代史像を描くようになり、既に一般的な九州王朝論者の範疇にはギリギリ留まっているとは思うものの、「古事記」の95%が虚構であるとする特異な立場からして、伝統的な九州王朝論者からの見解からも大きく逸脱している事から、その範囲内で理解して頂きたいと思うものです。

それを前提にこの問題に踏み込むことにしたいのですが、これを論証はおろか説明しようとするにも、既に公開している1300本(70009000ページ)近いblogをお読み頂く必要もあり、直ちにご説明できるとは凡そ考えられません。事実上不可能です。

そのように理解して頂いた上で、それでも参考にしたいとお考えになった場合、多少はお役に立てると考えコメントを加えさせて頂くことに致しました。

このため絶対に説明すべきことを省くことは予めご了承いただきたいと考えています。

では、厄介な話から踏み込むことにしましょう。


① 神籠石からすると九州王朝は民族的には半島系でしょうか


この質問には、今や利権集団と化した考古学○会やパターン化された内容で調教された学芸員によって流布された宣伝が支配的になっているという忌々しき傾向が見て取れます。

ここ二十年ほどの間に“神籠石を畿内周辺に造られた粗雑な朝鮮式山城の一部である”と見なす学説(こんなものが学説とは大笑いですが)がある事から、“神籠石なら朝鮮式だろう”と思い込まされた立場からの質問に聴こえ、そもそもそこから議論する必要があります。


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画像は太宰府地名研究会メンバーI女史の「地図を楽しむ・古代史の謎」による


太宰府の裏を防衛する筑紫野市の阿志岐山城とされる宮地岳神籠石ですが、この施工方法は地震や洪水による圧力にも耐えるものである事はお分かり頂けるでしょう。


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白村江の敗戦以降の政治情勢の変化に対応し造られたとする朝鮮式山城は神籠石

より時代を降るものの造りが雑で完成度が低いことはお分かり頂けるでしょう


まず、古代の列島に住み着いた人間は全て渡来人であったはずで、新石器~縄文を経て極僅かな土着の人間が居たとしても、それは同化、掃討、避退の道しかなかったはずです。

この事は神社を調べると良く分かるのですが、列島の神々は全てが渡来神なのであり、それ以外の神は認められないのです。

例えば、南九州のタノカンサーは土着神であろうと思われているかもしれませんが、これ自体が博多の櫛田神社の大幡主=田神と大山祗=山神の混合神=犠神体なのです(共に渡来神)。




517-4



写真は福岡県朝倉市甘木公園の田神社(朝倉市に40社の無格社あり)


従って、近畿大和朝廷であろうが、九州王朝であろうが邪馬台国であろうが、全て渡来系民族によって成立している訳で、渡来系か否かを議論しても、ほぼ、意味は無いのです。

多少、意味を持たせるとすれば、どちらが早いかという程度と、朝鮮半島を経由して入って来たかどうかといった観点だけで、質問をその点に絞って言えば、①江南(呉越)から、直接、薩摩川内、天草苓北、五島列島、有明海へと入った人々 主要には紀元前四~五世紀、呉越同舟の呉越の民の渡来(倭は呉の太伯の末)呉、越、楚…は列島の国名、地名にも痕跡を留めていますね。 ②マレイ・ポリネシア系海洋民は先島~沖縄~奄美ルートで南九州、四国東岸、紀州に入っているでしょう。 ③昭和24年に串間市の「王の山古墳」から発見された玉壁が南越王墓出土の玉壁と酷似している事から、秦滅亡後の南越国、若しくはそれに類する王族の列島への移動があったであろう事も垣間見ることができます。しかし、これが半島を経由しているとは考え難く、これも江南から直接南九州に入っているものと考えられます。 ④半島経由の渡来人には、百済滅亡後、白村江の敗北以降も何派にも亘って百済系氏族が入り、それ以降も新羅滅亡、高句麗滅亡によって多くの半島系民族氏族が入っている事は言うまでもありません。 ⑤時代は前三世紀に大きく遡りますが、特に重要なのは秦の支配を嫌って半島に逃げた(万里の長城建設の労役)秦の臣民、秦自体の滅亡によって逃亡した秦の王族(当然、官僚、軍属、学者…も)、大量の臣民も半島から豊の国に入っている事です。後に彼らが京都に入り平安京に移動した近畿大和朝廷を支えている事はどなたもご存じの通りです。 ⑥これ以外にもペルシャ系、隋、唐の鮮卑系、モンゴル系まで入っている事も想像できそうです。 ⑦ここまで見てくると、大陸や半島の政変により敗残した王族、官僚、貴族、技術者、軍属の優秀な人々が皆殺しを避け大量に入り続けた事が見えて来ます。

まさに列島とは対馬海峡を堀とした大陸や半島からの逃亡地、亡命地、避退地であり続けたのです。

恐らく、周を筆頭に、秦、漢、魏、呉、蜀、三韓、高句麗…の王族クラスも大量に入っているはずです。

 ⑧最後に誰も問題にしていない話であり、故)百嶋由一郎氏が発見された驚愕の仮説です。

倭人+日本人=列島人の主要部を形成した民族の列島への渡来について取り上げます。

A 恐らく紀元前後に雲南省麗江から阿蘇氏(黎族)と雲南省昆明から賀茂氏(白族)が海南島を経由し海路、南九州の薩摩川内辺りから天草~熊本に、

B これも紀元前後でしょうが、土車、土舎(トゥチャ)族=楚か?が入っているという記録があります。

「熊本県玉名郡誌」の一部で、「土車の里」(土車の荘)以降には、新幹線玉名駅正面の玉名大神宮、玉依姫(この玉依姫は鴨玉依姫か?)に関わる「此所を土車の里と云石を…」という話が書かれています。では、「土車」とは一体何のことなのでしょうか?土車族(土家、土家族とも)をご紹介しましょう。


517-5

実質800万人以上とも言うトゥチャを少数民族と言うかは疑問ですが、伝統的な衣装を着たトゥチャ族とミャオ族とペー族の女性(恐らく白い服を着たのが白=ペー族)。


トゥチャ族(中国語:土家族 ビジ語:ビジカ)は中華人民共和国が公認した55少数民族のひとつで、主に湖南省湖北省重慶直轄市(旧四川省)の交界地帯に住む。

人口約600万人、中国の民族の中で8番目多い。言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属する。長く漢族と交わって暮らしてきたため、現在ではトゥチャ語(ビジ語とモンズ語)を母語とする者は10万人未満程度とされ、ほとんどが中国語を母語としている。このように、民族の総人口と比較して母語人口が極端に少ない民族として、他に満州族(1000万人超えの民族であり、満州語を話せるのは5人以下)シェ族(総人口約80万人、シェ語を話せるのは1000人程度)が挙げられる。湖南省湘西土家族苗族自治州、湖北省恩施土家族苗族自治州が設置されている。なお、例えば、彝族の事を彝家などと呼ぶ事もある事から分かるように、「家」には「族」の意味も含まれている。そのため本来、土家でトゥチャ族の意味をなしており、これに族を加えるのは重複した表現である。しかし、西北に住むモンゴル系民族である土族と区別するためにも、重複した表現ではあるが土族ではなく、土家族を正式な民族名としている。

ウィキペディア(Wikipedia20160519 20:30による


ひぼろぎ逍遥(跡宮) 265 熊本県玉名市(旧玉名村)は「土車(トゥチャ)の里」だった! 参照

C これも紀元前に遡ると思いますが、半島経由で東西分裂後、さらに南北分裂し漢の傭兵と化した南匈奴(トルコ系)の一派(王昭君後裔)が南九州に入っていると考えています。

これこそが越智族=大山祗を奉斎する一族と考えています。

これらのように、紀元前後の九州島には、既に多くの民族が入っており、異なった民族の衝突がおこっているのです。コノハナノサクヤとニニギの出会い…スサノウとクシナダヒメの出会い…山幸彦と海幸彦の衝突…これらの神話から見えて来る多くの民族、異なった民族間で政略結婚が繰り返され、衝突の緩和が試みられた事が見えて来ます。コノハナノサクヤとイワナガヒメの話…。等々。


517-6

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


大山祗の墓といわれるものが宮崎県西都市の西都原第2古墳群にあり、正面には大山祗とコノハナノサクヤを祀る石貫神社、都万神社があります。

ついでに言えば日向一之宮都農神社(写真右)の主神は出雲神話のスターである大国主命であり、阿多の吹上浜には大汝牟遅神社(写真左)まであるのです。

通説派の大家の方々や出雲王朝論者といった方々にお尋ねしたいのですが、何故、南九州に出雲神話のスターである大国主祭祀が数多く存在するのか?勿論、北部九州の福岡県筑前町や熊本市北区にも大己貴神社があるのです。また、南九州には南方神社も多いのですが、これも大国主の子とされる(あくまでもされるであって子ではないのですが)国譲りに反対した建御名方を祀るものなのです。


517-7

一方、北部九州には呉の太伯(周王朝後裔)の一族が越人=倭人=スラベシと共に入っているはずで、その南には、高千穂の三田井~長崎の南北高木郡に高木大神系許氏が展開し、阿蘇氏=多氏=黎族はこの高木大神への入婿となり混血後の高木系は現阿蘇氏として引き続き蟠踞し、東に向かったヒコヤイミミの一族(草壁、草部吉見系氏族)が中央の多氏として後の中臣氏→藤原氏と拡大し近畿大和朝廷の権力を支える中枢氏族になるのです。

 これらの氏族、民族が絶えず入れ替わり争いながら8世紀初頭まで存続していたのが、一時期邪馬台国を経由した九州王朝なのです。


517-8

最も重要な以下の問題に関しては別稿として書いても良いのですが、当面、既に書いているもので代行します。

倭人+日本人=列島人の主要部を形成した民族の列島への渡来について取り上げます。

A 恐らく紀元前後に雲南省麗江から阿蘇氏(黎族)と雲南省昆明から賀茂氏(白族)が海南島を経由し海路、南九州の薩摩川内辺りから天草~熊本に…


ひぼろぎ逍遥

194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?

159 秦の始皇帝と市杵島姫

042 阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? ⑩ “肥後人は支那人だった!?”

033 阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  支 那


ひぼろぎ逍遥(跡宮)


264 博多の大幡主の一族は雲南省昆明から海南島を経由してやって来た

209 阿蘇の草部吉見と博多の大幡主の御先祖がおられた海南島について“コピーペーストも活用しよう”

208 天草下島の都呂々神社で阿蘇の草部吉見とトロロ芋を考える “熊本県苓北町都呂々神社”

119 草部吉見と豊玉彦(ヤタガラス)のご先祖が雲南省から入って来たルートについて

064 博多の櫛田神社の祭神とは何か?

007 草部吉見神は、甑島(薩摩川内市)鹿島町の鹿島神社を通過したか?


これらをお読み頂ければ概略はお分かり頂けると思います。


研究目的で百嶋由一郎氏の音声、手書き、神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

スポット153 2018年を前にして「里芋正月」を考える

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スポット153 2018年を前にして「里芋正月」を考える

20171228

太宰府地名研究会 古川 清久


 今、550本目の「ひぼろぎ逍遥」の原稿を書いています。

「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)も510本台ですので、スポット版、ビアヘロ版と併せ、これまで1300本近いblogを書いてきた事になります(オンエアは1100本程度ですが、本に直せば2530冊にはなるでしょう)。

 正直言って、月間30本程度のblogを書き続ける事は容易ではないのですが、一面、自ら思っていること、考えていることを書き留め継続して公表できるという事は鬱積した思いを解消でき、多少とも将来の研究者、探索者への一助にはなるであろうとの達成感も感じられ、ゲート・ボールやパチンコで余生を過す人々に比べれば意味のある作業を行えているのかも知れません。

 今期の年越しはたまたま十五年程持ちこたえていた差し歯などが相次で劣化し歯の治療に追われ、研究会のスケジュールにも追われ、なかなか長期の遠征調査に出る事が出来なかったため、懸案の土佐東部の物部川流域の調査や隠岐の島の神社調査も思い立てず、しばし募る思いを充填しているところです(有難いことにブログを公開するオンエア時点では歯の治療はほぼ完了しましたが)。

 これから新年を迎えるとしても百嶋神社考古学を軸とする神代史(実は本当の古代史)研究はさらに研究者のネット・ワークを拡げられ多くの発見を得られる予感もしています。

 さて、ここでは今後の研究テーマでも話そうかとも考えたのですが、先日、友人の研究仲間から大量の里芋を貰った事から里芋の話を書くことにしました。


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幸いにも標高450メートルもの高地にある研修所は気温が低い為、カボチャや里芋のようなものは新聞紙にでも包んで日陰に置いておけば保存が効く為悪くなる気遣いは全くありません。

 とりあえず皮を剝いて多少水に晒してこんにゃく(しらたき=糸ごんにゃく)とかまぼこで炊いてしょうゆ味で食べましたが、念頭にあるのは北関東で良く食べられている秩父の「おなめ」(関東風大麦大豆味噌)を買ってきたまま使ってなかったため、次は無理してでも古風な芋田楽に仕立て食べる事にしようと思っているところです。

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ここで、季節柄、少しおでんの話をしたいと思います。

 まず、「田楽」と「おでん」に関係があるとお考えの方はあまりおられないと思います。

 ご存じの通り、研修所は大分県日田市の天瀬町の五馬地区にありますが、阿蘇の外輪山の北の一部と言っても良いような高所にあり、阿蘇の味噌田楽も比較的に目にする所なのです。


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味噌田楽


勿論、囲炉裏(いろり、ゆるり)で味噌を付け焼きながら食べる郷土料理ですね。


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おでん


 野田の醤油が普及するのは江戸の後期からですが、醤油をふんだんに使って作られるのがおでんですね。


「味噌おでん」~「おでん」へ


 まず、通常のおでんと味噌田楽に共通性はあるものの形態は全く違う物である事は明らかです。

しかし、余った素材は元より、揚げ豆腐、コンニャク、椎茸、大根、里芋…とあらゆるものを味噌、醤油で食べることは共通しています。ただ、六十年ほど前までは、「おでん」と言えば「味噌田楽」が大半であった時代が存在していたのです。

理由は簡単で、醤油は液体ですから味噌に比べて運び難く、車が普及するまでは、樽や一升徳利で運ぶとしても山奥の集落は塩さえも容易には調達できなかったことから山間地は元より、都市部を除き普通の農村部でも醤油はなかなか使えなかった時代が続いていたのです。


野田の醤油醸造 永禄年間に飯田市郎兵衛が甲斐武田氏に溜醤油(たまりじょうゆ)を納め、「川中島御用溜醤油」と称したのが最古とされる。1661年(寛文元年)に上花輪村名主であった髙梨兵左衛門が醤油醸造を開始し、翌年(1662) に茂木佐平治が味噌製造を開始した(茂木はその後醤油製造も手がける)。

その後、江戸の人口の増加と利根川水運の発達と共に野田の醤油醸造は拡大する。 1800年代中頃には、髙梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が幕府御用醬油の指定を受ける。

1887年(明治20年)に「野田醤油醸造組合」が結成された。1917年(大正6年)には茂木一族と髙梨一族の8家合同による「野田醤油株式会社」が設立され、これが後にキッコーマン株式会社となった。『亀甲萬』は茂木佐平治家が使っていたものである。このときに野田の醤油醸造業者のほとんどが合流しているが、キノエネ醤油のように別の道を選んだ醸造者もあった。

ウィキペディア(20171228 12:19による


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この貴重この上ない醤油は、船で運ぶ事ができる範囲ではかなり普及しますが、大阪のような船便の発達した所でさえ、戦前までは醤油による関東風醤油「おでん」(関西では「カント炊き」=関東風おでん)は一般化していなかったのです。

このことを考えると、上方落語の名人中の名人だった故)桂 米朝師匠による噺をついつい思い出してしまいます。

この事実を現代に良く伝えているものに「カント炊き」の噺がありますのでご覧ください。


「味噌をつけて豆腐を焼いた豆腐の田楽は、全国的にもあまりなじみのないものになりましたが、昔の上方では、おでんと言えば田楽のことを言いました。京都南禅寺あたりでは、この豆腐の味噌田楽が名物として売られています。

関東風のダシで煮込んだおでんは、関東煮(関東だき、カント炊き)と言っていましたが、これもあまり言わなくなりました。」…


 正確な題名としては「馬の田楽」という噺でしたか…。「カント炊き」と言い、「常夜灯の南天さん」の話と言い、民俗学的話が凍結されています。味噌田楽が一般的だったが故に、関東風味噌田楽(おでん)を「カント炊き」として区別したのでした。


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まぁ今日はさっきもちょっと聞ぃていただきましたけども「田楽」といぅ噺「おでん」が近頃は関西でも「おでん」と言えば全部煮込みのおでんになりました。昔はあれ「関東煮(かんとだき)」言ぅたんですな。

 関西は全部味噌であしらいます。関東のほぉはとにかく煮込むんですな、煮込みのおでんといぅんですな。あれを関東式やちゅうんで「かんとだき、関東煮」とわたしら言ぃましたあれ。

 昭和二十年代やったと思います、新世界のほぉでね、カタカナで「カント煮(だき)」ちゅう店があった。東京の学生さんが「哲学風の店がある」感心して帰ったことがある。大阪の新世界は偉いとこやと思たでしょうなあれ。

 それから三十年代の、これみな古い話ですが、東京の銀座裏に「関西風関東煮」ちゅう店があった。これも面白い店でんなぁ、つまり味が関西風やといぅことなんですね。

 この頃は東京でもあの、うどんのダシ綺麗になりました。昔は真っ黒けの醤油のね、色そのままみたいな「あっちのうどん喰えんで」て、よくこっちの人言ぅた。近頃は東京もみな綺麗になりましたです。

 その時分はおでんのダシなんかでも、だいぶこっちと向こぉとは違ごたんですな、それを「関西風の味付けである」といぅんで「関西風関東煮」お初天神のところに「関西煮(だき)」ちゅう店がありましたな「常夜灯」いぅてね。

もぉ無くなったんですかな、ひょっとしたらもぉ無くなったかも、あそこあれ境内を改築しはるんでね、あの辺の店みな無くなったそぉでございます、あれも美味しぃおでん屋でございましたがな。

 まぁ、味噌をつけて焼くのが「おでん」でございます。そぉいぅその時代は子供の遊びなんかでも東西違ごたそぉでございましたし、何もかもが向こぉとこっちと大変に違ごたんです。そらその時代には大阪の落語を東京へ輸出できたんですな。

 ちょ~どヨーロッパの話をこっちへ持って来るぐらい、それが商売になった。あっちの話をこっちへ持って来るといぅ。子供のおもちゃ、駄菓子屋で流行ったちゅうとすぐ東京で真似をする。東京で流行った、こっち持って来たら商売になったといぅぐらいの、それぐらい東西が違ごてたよぉでございますが。

 あの、いま「常夜灯」で思い出しましたが、あすこの関西煮の店のオヤジさんがね、昔の売り声が自慢でした。南天さんといぅ方もよぉ知ってました。

森繁久彌さんが常夜灯のオッサンにいろいろ聞ぃてね、録音とったのがございます。

 そん中にこの「おでん屋の口上」といぅのがある。南天さんからわたし教えてもろたのと、それ聞き比べるとちょっと違ごとりましたがな、のんびりした時代やったんですな、みな夜その、味噌のほぉのおでんですな、それをこぉ、蒟蒻に味噌を塗って売る。甘いお味噌でしたな。

 こぉ荷車引っ張って、夜、ちょっと寒いよぉな時期ですわなぁ……

♪おでん屋の口上=おで~んさん、お前の出庄(でしょ~)はどこじゃいな、わたしの出庄は常陸の郡(くに)、水戸ぉさまの御領中山育ち、郷(くに)の中山出るときは、藁のべべ着て縄の帯しめ、鳥も通わぬ遠江灘

(とおとぉみなだ)いろいろ苦労をいたしまして、落ち着く先は大阪江戸堀三丁目、播磨屋さんの店にと落ち着いて、手厚いお世話になりまして、別嬪さんのおでんさんになろぉとて、朝から晩まで湯に入り、化粧(けしょ)してちょいと櫛差して、甘いお味噌のべべを着る、おでんさんの身請けは銭(ぜぜ)次第、おでん熱あつぅ~~ッ

 これでひと切りでんねん、これ聞ぃてからみな銭払ろて買ぉて帰ってきた。

そらのんびりしたもんでんなぁこれ。こんなこと言ぅておでんを売って歩いてた。

 こんな口上はわたしら知りませんが、やっぱりあの甘いドロッとした味噌のかかった蒟蒻、ホカホカ湯気が立って結構なもんでございましたがな。

【上方落語メモ第2集】その80 による


 南天さんの名調子は聴けませんが、米朝師匠の噺は今でも聴くことができます。実に有難い話です。

 今でも、その「おでん」を関東風と表示している好例がありますのでご覧下さい。


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sp153-8現在でも「明治のおでんの素」のデザインには「関東煮」と書かれているのです。

 つまり、関東風の醤油おでんが簡単に作れるとの振れ込みであり、味噌おでんではありませんよとばかりに、今も主張し続けているのです。

 もはや、関東風と断る必要性もないほどまでに醤油によるおでんは一般化していますが、味噌田楽が串に刺されて囲炉裏で炙られていた事の延長上に、おそ松君のチビ太が持っていた串に刺されたオデンもあったのだと思うのです。

 醤油で炊いたおでんは必ずしも串を刺す必要はないはずなのですが、もしかしたら炙って味噌味で食べたい人と、関東風おでんを食べたい人とが両方いた時代を反映していたのかも知れないのです(つまり、ネタの仕込みの問題ですが、焼き鳥屋などのおでんならそのまま味噌田楽は焼けるのですから)。

この移行形態と言うか中間形態に群馬の「味噌おでん」もあるのです。

 ともあれ、今日は「おなめ」をぬった里芋を炙って(逆ですかね)北関東風の味噌田楽を食べようと思っています。いずれにせよ、津々浦々まで醤油が普及するのは車が一般化する戦後の事なのです。

 それまでは囲炉裏が一般的な寒い地方や阿蘇などの高冷地(釜戸ではなく暖房と煮炊きを共用する文化圏)では味噌田楽が相対的に残り、今や全く別の食文化の様に理解されるようにさえなったのでした。

 さて、里芋正月の話に入りましょう。

 民俗学では良く知られたテーマですが、「芋名月」と併せ「里芋正月」という概念が存在します。

 このことについてふれようとしたら、あまりにも完璧で明瞭な解説がネット上に公開されており、恥ずかしくなり、書く意欲が全く失せてしまいました。しかし、JA愛知東のサイトには感服しました。

 奥三河の名倉村(現設楽町)を訪れる機会があった…と、確か「忘れられた日本人」には奥三河話が出て来ますが、宮本常一も強く意識していたようです。もう、これだけで十分でしょう。

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日本では、イモと呼ぶのはサトイモをさす。現在栽培している芋類は、それぞれの固有名詞をつけ、サツマイモ、ジャガイモ、ヤマイモと呼び区別をする。固有名詞で呼ぶ理由は、サツマイモ、ジャガイモは、日本の江戸時代に伝来した作物であるからだ。民俗学書によると、東北地方は戦前までは、芋とはヤマイモをさし、サトイモは固有名詞をつけて呼んだという。サトイモは熱帯地方の原産で、寒冷地の東北にサトイモが普及したのは近世であり、それ以前はヤマイモが栽培されていたからだ。

祭祀や節句、正月の祝いで食べる食品を儀礼食という。この祝いの食品は、時代や地域、貧富の差によって大きく異なる。稲が日本に伝来した縄文時代の末期以後は、神事の祝いの食品は、米の三品、お神酒、餅、赤飯を食べる風習が広まった。この慣習は、稲作先進地のタイやカンボジアに発生し、中国で儀礼化されて日本に伝わった。

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サトイモの田楽


正月や村の祭で神供するのは元来は、生物の野菜や魚類、木の実などで、祭典を終え調理して食べた。

近年の正月の「オセチ」料理は、事前に調理して神棚に供えるが、これは本来の正式な祀り方ではない。今も村祭の神事は、生野菜のダイコンやサトイモ、ヤマイモ、生魚らを供えて祝詞を奏上する。

神に供えた食物を食べると、人の体内に神の霊力が取り入れられ、病気を防ぎ、長寿になるとの信仰がある。私は現在の日本の儀礼食を考察して、稲作以前の畑作の作物も祝いの食品となっていると思う。

米の他の「儀礼食」に、サトイモ、ダイコンらも用いられるが、稲作農耕民は、サトイモとダイコンを軽蔑する。イモニイ、イモネエは野暮なことの差別語で、ダイコンは芸の下手な役者、ダイコン足はデブで不恰好な足への差別語である。

歯固めは正月と六月の年二回、固いものを食べ、歯を丈夫にして長寿を願う伝統行事である。正月に神供した鏡餅を乾燥させて保存し、六月一日に食べる。奥三河や信州は、正月に栗を茹でて乾燥させた勝栗、干柿、榧の実、豆などを煎って食う。栗とドングリは、縄文遺跡より大量に出土するが、採集生活時代の主要な食糧であった。正月の栗金団は、栗の料理品として古代からの高級な食糧であった。

全国には「餅なし正月」といい、正月に餅を食わず、サトイモやヤマイモや麺類など、特別な料理を作り、餅の代用をする地区が数百もあるという。そうした地区は、餅を全く食わないわけではなく、正月や小正月が終わってから食べている。正月に餅を食わない理由を下記のように説明する。

一、禁を破って密かに禁忌の餅を正月に食べたら、疫病が発生したので、以後は正月に餅を食べない。

二、祖先が戦いに破れ、逃れた日が正月であり、祖先の苦労を偲び、餅を食べない。奥三河には、この禁忌を守る家がある。

三、稲の価値を否定し、それ以前の焼畑の作物である栗、小豆、大豆、蕎麦などの価値を強調して、祝いの食品とする。この説は山深い地域に伝わる。

四、神祭に餅を供えず、芋を供える村が多々ある。民俗学者は、これを「稲作文化拒否派」と呼ぶが、明治政府が「稲穂の国」神話史観を国民へ懸命に浸透させようとしたが、食文化の自立制を崩すまでには至らなかったと指摘する説がある。

五、節句の祝いには、畑作物を特別に料理して祝う傾向があり、黍の団子やチマキ、オハギなどがある。

奥三河でよく知られた料理に田楽がある。田楽焼とは、元来は平安時代の貴族が豆腐を長方形に切り、串に刺して両面を焼き、さらに味噌を塗り、再び焼いて賞味したのが全国に普及したものをいう。奥三河では、芋田楽、串芋や蒟蒻田楽がよく知られている。江戸時代には、鳳来寺や東照宮の門前宿場では、五平餅と並んで名産品とされたという。

浜松市佐久間町芋掘の日月神社の秋祭は、参加者に芋田楽を提供する。奥三河の豊根村では、サトイモが祝いの行事で米と同等のように扱われる。サトイモはニューギニアやインドネシアではタロイモと呼ばれ、主食にする人々がいる。熱帯ではタロイモは、年中水田で栽培するが、栄養的にはデンプンが多く、高カロリーで、過食は肥満になりやすいという。

日本のヤマイモにあたるのはヤム芋だ。この芋は日本のスパートロロ種に類似し、ニューギニア人は、蒸し焼きにして食べる。日本人が正月に餅とともにサトイモを食べるのは、親芋と子芋の関係、つまり子孫繁栄の縁起品として食べるという。数の子も同様の意味合いから、正月の儀礼食になっている。

月見に「芋明月」といい、蓑にサトイモをのせて月に供えたり、盆にサトイモの葉に祖先への供物であるソウメンをのせ、黄泉に帰る祖霊の食糧として川に流す行事がある。サトイモは正月の神の供物以外に、様々な儀礼食である。


 もう文章を書くのはやめにして、里芋の皮でも向いてガメ煮の準備でもしようと思うものです。

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国家の犠牲となり棄民とされた人々の正月を思えば敗残者の餅なしの里芋正月を考えざるを得ないのです

518 僭越ながらも鹿児島の老古代史家からの照会にお答えして 所感 ②

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518 僭越ながらも鹿児島の老古代史家からの照会にお答えして 所感 ②

20170809

太宰府地名研究会 古川 清久


② 倭の五王も一文字で倭人でないように感じますが?


 これも九州王朝論者が追及している重要かつ難解なテーマの一つと言えるでしょう。

 この辺りの問題については十年ほど前に、故)古田武彦氏の講演(久留米大学公開講座)でも話されたのを直接聴いてもいますが、現在この部分に関して最も精通しておられるのは佃収先生(「古代文化を考える」主宰)ではないかと考えています。

佃説では九州年号の分裂(九州年号には複数の系統がある事は知られていますが)から南北朝期の分裂にも似た九州王朝の分裂さえも探られているのです。

できれば、多くの九州王朝論者に佃収研究を知って頂きたいと考えているところです。


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手っ取り早くはネット上の佃収関連支援サイト「倭国通史」をお読み頂ければ佃収九州王朝論の全貌は把握できます。


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まず、分かり易いように要点だけ書きますが、…


大業三年其王多利思比孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日沒處天子無恙云云帝覽之不*謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞…


「隋書」(俀タイ国伝)に登場するタリシヒコ(原文に忠実でない私は「ホコ」ではなく「ヒコ」とします)が登場します。この人が誰かが重要なのですが、開皇二十(600)年、倭王あり、姓は阿毎(アメ、アマ)字は多利思比孤(タリシヒコ)、阿輩キ弥(オオキミ)と号す。使を遣わして闕に詣る。上、所司をしてその風俗を訪わしむ。使者言う、「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して座し、日出ずれば便ち理務を停め、いう我が弟に委ねんと」と。高祖いわく、「これ大いに義理なし」と。ここにおいて訓えてこれを改めしむ。王の妻は雞弥と号す。後宮に女六、七百人あり。太子を名づけて利歌弥多弗利(ワカミタヒラ、リカミタフリ)となす。城郭なし。

以降、「隋書」俀国伝には大業三(607)年の記事があります。最近消されつつある「日出ずる処天子、書を日没する処の天子に致す 恙なきや」という国書です。

この時代、日本の天皇は推古女帝です。ところが多利思比孤には妻がいたのですから普通は男でしょう。

大業三年は推古15年(607)とされています。


有阿蘇山其石無故火起接天者俗以為異因行禱祭有如意寶珠其色靑大如雞卵夜則有光云魚眼精也新羅百濟皆以俀為大國多珎物並敬仰之恒通使往來…


「阿蘇山有りその石は訳なくして火おこり天にとどく人々はわけのわからないこととして祈り祭る如意宝珠ありその色青くニワトリの卵ほど夜になり光る魚のひとみと言う新羅百済はいずれも倭は大国にして珍物多きと考え敬い見上げる常に使者を通わせて往来する…


まさに良く書き留めてくれたと思うばかりですが、「西遊記」に登場する火焔山以外火を吹く山などない中国のことよほど珍しいものだったと見えます。

 これらの有名な話だけでも近畿大和朝廷(こんなものは高々八世紀以降なのですから当然ですが)の話でない事は明らかですし、阿蘇山が登場する以上九州島の話である事は明らかでしょう。

 従って遣隋使も九州王朝が送ったものである事を思わせますし、当時の九州王朝がその中心を肥後に置いていた可能性をも想像させるに十分です。

 さて、大きな問題ですので、百嶋神社考古学から倭の五王についてどのように考えるかという事に絞り込んでお話しする事にします。

 初期の倭国=九州王朝とは金山彦と手を組んだ白族に担がれた連合政権だったように見えます。

 この連合政権とは高木大神系のニニギや多氏(決して阿蘇氏と同一ではない)にも支えられていたように見えます。


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大幡主とはヤタガラス=豊玉彦の父神であり、大幡の意味の通り、博多を拠点に大きな幡(具体的には帆)を持った外洋船(武装商船隊)を駆使して大陸、半島との交易を行っていたと考えています。

 この時代はバイキング並みの海の航路を支配した人々=つまり倭人の勢力が強く政権の主力となっていたのです。

 ところが、既に前千年辺りから徐々に持ち込まれていた稲作の拡大と人口増加の結果、兵馬による内陸部の支配が重要になってくると、江南系海人族=倭人(海軍陸戦隊)と兵馬を駆使する(陸軍海戦隊)との衝突は、最終的には陸上を支配する人々が徐々に強くなり力関係が逆転したのではないかと考えています。

今のところ、これこそが邪馬台国(九州王朝論者は邪馬壱国とするのが分水嶺とお考えの方が多いようですがそのようには考えていません)と狗奴国の戦いで最終的に狗奴国側の勝利となり、陸上戦を得意とする人々が海路を支配する人々を圧倒するという政治的転換を齎したのではないかと考えています。

これが、倭の五王も一文字で倭人でないように感じますが?…云々に関係しているように思います。

 なお、「一文字で」という表現は島津らしい方言なのですが、「直接的に」「直ちに」…といった意味です。ちなみに鹿児島県では三叉路を「三文字」、十字路を「十文字」と表現します。

 この点、百嶋由一郎氏は初期の九州王朝を支えたのは金山彦にあらせられ、次の時代の九州王朝を支えたのは大山祗と大幡主(海人族のリーダー)の妹の埴安姫=草野姫(カヤノヒメ=恐らく伽耶の姫)の間に産まれた大国主命であったと言われています。

 ここで、多少、筋違いの話に持ち込みますが、連携blogの「太宰府は日本の首都だった」外3著の内倉武久氏の最近の文書からご紹介しましょう。

Blog NO.56 『書紀』継体紀のなぞに解決の糸口 ―「九州年号」記載「入来院家文書」に―


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詳細は内倉blogの「入来院文書」に関する部分を読んで頂きたいのですが、当然、「古事記」にも近似の記事があり、今回は、「入来院文書」から百嶋神社考古学で言うところの大山祗の息子が大国主であった事を確認して頂きましょう。


 鹿児島県で見つかっている「九州年号」を記した古文書『入来院(いりきいん)家文書・日本帝皇年代記』について検討したところ、『書紀』継体紀に記されたふたつの死亡記事や「二人の神武天皇」のなぞが明快に解決することになりそうだ。『文書』の実態と「なぞ」について報告しよう。…

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②「天神」に地元の神?

問題の「九州年号」は年代記の「第二九番」に記されている。天神七代~地神五代から始まる系図の様式をとっている。

天神七代の名は『古事記』(以下『記』)と少し違い、「国常立尊(くにのとこたちのみこと)」から始まるが、第二神を「国狭槌(くにのさづち)の尊」(『記』は「豊雲野神」)、第三神は「豊斟渟(とよのくむぬ)の尊」(同・宇比地邇、須比智邇の神夫婦)、第四神を「泥土瓊(うひじに)、沙土瓊(すひちに)の尊」夫婦(同・角杙(つのくひ)、活杙神夫婦神)。

第五、六、七神は、使った漢字は違うものの『記』と同じでそれぞれ「大戸之道之尊、大戸間邊の尊」、「面足(おもだる)、惶根(かしこね)の尊」夫婦。「伊弉諾(いざなぎ)、「伊弉册(いざなみ)の尊」夫婦となっている。

興味深いのは第二神の「国狭槌尊」で、『記』では「天神」ではなく山の神「大山津見」と「鹿屋の比売」夫婦の子として登場する。薩摩ではこの夫婦は「地元の神」としてとらえられていたのだろう。「大山津見」の娘でニニギと結婚したという「阿多の姫」(神阿多都比売、別名木の花の咲くや姫)には薩摩半島南端を表す「阿多」という地名が付けられ、「阿多の姫」の母親「鹿屋の姫」の名も現在もある大隅半島の中心都市・鹿屋市として残っているからだ。


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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


百嶋由一郎極秘神代系譜によれば、百嶋神社考古学が国狭槌尊を大国主命として認識している事を確認して頂いたと思います。

 なお、内倉先生は百嶋先生の読みの草野姫(カヤノヒメ)を旧帝国海軍航空隊第五航空艦隊の鹿屋との関連でお考えですが、草野表記は阿蘇の草部吉見同様、伽耶の姫と考えており、朝鮮半島の金官伽耶=大山祗の父神である宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂ)がいた“伽耶の”の置換えが草野と考えています。蛇足になりますが、鹿屋市の鹿屋は東海大学の茂在寅雄教授「日本語大漂流」外~佛教大学黄 當時教授の「悲劇の好字」によるカウ+ヌイ(ポリネシア語の大きな舟)のカヌーの意味と考えています。 なお、内倉先生は、


その下段には「震旦」(オーロラ。中国のこと)として、「盤古首王元 一万八千歳」とある。「盤古」は「犬祖伝説」にも出てくる中国の少数民族の始祖犬の名前でもある。鹿児島は中国沿海部から渡来した熊曾於族の日本列島における故地であるからわざわざ書いているのかもしれない。さらに「黄帝有熊氏」「堯」「舜」「禹」など神話上の名も連ねている。


と書かれ、熊襲の起源を「犬祖伝説」の「盤古」という中国の少数民族の始祖犬から大陸に求められています。

当方は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(トルコ系匈奴)~大山祗~大国主命の線上に熊襲を復元しようとしているのです。アプローチは異なるものの、共に目指している方向は一致しているものと考えています。

 最後に、内倉先生と共に文字通り発見した倭五玉宮(倭の五王に関連する王墓ではないかと考えている群集墓)を持つ極秘の神社紹介しておきます。

詳しくは、ひぼろぎ逍遥 043 驚愕の倭五玉宮  “九州王朝 「松野連系図」所載の夜須評督の聖地か?”をお読み下さい。場所については諸般の事情から公開しない事としています。ご協力を…。


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シルクロード経由で飛鳥にペルシャ系民族が入っている事は知られていますが、何故かトルコ系匈奴(東西分裂後の東匈奴の再分裂南下から半島=伽耶への避退)の列島への侵入については一切伏せられているようです。

 それが何故かはずっと疑問でしたが、最近になってようやく理由だけは分かってきました。

 それは、彼らが熊襲であり最後まで朝廷に従わなかった朝敵だったから消されたのです。


南匈奴

48年、東匈奴が南北に分裂した後、後漢に服属した。五胡の一つとして華北に進出。

 匈奴の分裂によって生まれた東匈奴は、後漢に服属していたが、後継者争いとイナゴの害によって危機を迎えた。後漢からの独立を志向する蒲奴単于が北匈奴として分離したのに対して、後漢との和親を求めるグループは呼韓邪単于(東匈奴初代の単于)の孫を擁して、48年にふたたび呼韓邪を名乗らせた。これが南匈奴である。南匈奴は五胡の一つの「匈奴」として傭兵となり、中国の各王朝との関わりを深めて行く。

 南匈奴の単于の後裔劉淵は晋の部将であったが八王の乱の混乱に乗じて304年に独立し、漢(前趙)を建国した。劉淵は匈奴の系統であったが、漢王室を再興すると称して劉氏を名乗った。これが、五胡十六国の始まりであった。

HP世界史の窓による


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研究目的で百嶋由一郎氏の音声、手書き、神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

519 僭越ながらも鹿児島の老古代史家からの照会にお答えして 所感 ③

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519 僭越ながらも鹿児島の老古代史家からの照会にお答えして 所感 ③

20170811

太宰府地名研究会 古川 清久


③ 高良も「コーライ」がなまったもののように感じますが?


 これについては失礼ながらお答えする意欲が湧いてこない質問で無視したいのが本音でしたが、そのような傲慢な姿勢ではあの利権まみれの薄汚い畿内説論者と一緒になってしまいます。

 まず、高麗は918年に王建によって建国され、936年に朝鮮半島の新羅、後百済、泰封の三国鼎立時代を経て統一し1392年まで続いた国家であり、九州王朝の存続期とは全く重なっていません(紀元後~517年以降~701年=九州年号の期間)。

 ただ、高麗は高句麗の後期の国名でもあり、日本でも高句麗を高麗と呼んでいた形跡もある(高句麗は長寿王の代から高麗とも称された)事から高句麗との関係を議論する事になります。

 勿論「コリア」(Korea)の語源は高麗と関係があるでしょう。

 皆さんご存じの通り、唐と激突した中国東方の巨大帝国高句麗(コグリョ)は668年に滅亡します。

 この時期に、高句麗の王族、軍属、官僚などがごっそり列島に入っていると言われます。


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「♪渡来の民の(高麗)若光王 原野を拓き 巾着田ひがん花咲く里山はいにしえしのぶこま神社(高句麗神社)♪」と鉄道唱歌に歌われた如く、敗残した高句麗は北関東に入っているのです。


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高麗神社 カーナビ検索 埼玉県日高市新堀833 ℡ 042-989-1403


勿論、高麗(コマ)だけではないのですが、全国には多くの高句麗系と思われる地名があります。


東京都狛江(こまえ)市・・・市内にある亀塚古墳を高句麗式とする説もあり

京都府木津川市山代町上狛 京都府相良郡精華町下狛 奈良県桜井市狛 山梨県南巨摩(みなみこま)郡 埼玉県日高市高麗本郷 神奈川県中郡大磯町高麗 京都府乙訓郡大山崎町大山崎高麗田 大阪府大阪市中央区高麗橋 徳島県鳴門市大麻町桧高麗 鹿児島県鹿児島市高麗町



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地名から考えた場合、九州にはこの手の地名が拾えない事からも高句麗は山梨以北、以東に入っていると言う認識しか持っていませんでしたし、高良大社との関係は一度も考えたことがありませんでした。

勿論、このような思い込みは最も避けるべき事で、逆に言えば高良とは何かについては何も分かっていないのです。

 滅び去った高句麗の中枢部は捕縛され唐に連行されていますので、半島経由で僅かに逃げ延びた一部が列島に退避したはずで、それを受入れた九州王朝も、自らにとって危険とも考えたのか、遠い山梨~埼玉の未開地へと送り込んだものと思われます。


 高句麗

高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は 他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。

最盛期は5世紀の「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。

若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があります。

『続日本紀』文武天皇大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われます。

 高麗郡建郡と高麗神社

若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯です。

高麗神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目になります。

高麗郡は明治29年(1896年)入間郡に合併されましたが、当社はその後も広く崇敬を受けてまいりました。特に浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、平沼騏一郎、鳩山一郎らが当社参拝後相次いで総理大臣となったことから「出世明神」と広く知られるようにもなりました。現在は年間約40万人の参拝があります。

第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられました。将軍標は平成17年に大韓民国民団中央本部によって奉納されたものです。                                   高麗神社HPによる


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最後に気になる事があるので仮説段階ですが書き留めておくことにします。かなり古い話になりますが、埼玉の高麗神社の女性宮司K..氏が八代~球磨川~人吉に来られた際に、人吉の秘密結社(菊池氏で言えば菊池会)が総力で出迎えたという話を故)百嶋由一郎から聞かされています。これまで球磨川の「球磨」は「隈」、クマ農業のクマと考えていたのですが、もしかしたら、これも後に「高麗」と表記されたクマではないかと思うようになりました。九州(豊を除く)では沖縄の三母音の影響から、オーゴト(大事)をウーゴトと発音します。O音→U音で考えれば、球磨(クマ)は高麗(コマ)である可能性を否定できないのです。半島には熊津(ユーシン)都督府がありましたよね!「熊」とは熊トーテムの神、「偉大な」とか高貴なといった言葉なのです。「球磨川流域の人々は全てヘブライ系…」と話していたのも百嶋先生でした。球磨川流域の人々は半島から先行して入っていた同族であった可能性はあるのです。

スポット144 三瀬村トレッキング現地リポート

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スポット144 三瀬村トレッキング現地リポート

20171122

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 1119日に行った太宰府地名研究会主催の“神功皇后の生誕生育地を探るトレッキング”は20人規模で行われました。

実際、朝十時集合夕方解散となるとかなりハードなスケジュールになります。

特に、集合が佐賀と福岡の県境の領域であり、その場所に向かうだけでも12時間は掛かる事から、天候や駐車スペース、トイレット、弁当購入…と色々な要素を考慮したうえで、なお、気を遣わなければならず、企画から連絡から資料作成へと相当にハードなイベントになります。

しかも、標高500メートルを越えることから午前10時でも、5度前後の上に風が強かった事から手袋が欲しくなるトレッキングとなりました。

これを福岡~熊本~大分において各々異なる企画で随時行っていますので、継ぎ接ぎのコピー・ペーストで学会通説まがいの怪しげな九州王朝論とも邪馬台国九州説とも分からぬ話でお茶を濁し、何の業績も残せないまま、十年でもたかだか百回も続けられないような内容で満足しているような既存の研究会とは集まってきている人間の意識性とか気迫というものがまず違う事になるでしょう。

単に所謂「邪馬台国本」を齧っただけ、九州王朝論の幾つかの本を読んだだけといった状態で、通説まがいの話をされている史談会、郷土史会同様の○○研究会の方々と、実際に現地に足を運んで自らの頭を使って現場から何がしかの真実を探ろうとする意志を持った人々の集まりとでは雲泥の差がある事を認識せざるを得ないのです。


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今回はこの佐賀県佐賀市に編入された旧三瀬村の杠(ユヅリハ)地区一帯の神社調査です。

 さて、「コモリク」という言葉をご存じでしょうか?

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言うまでもなく奈良の大和の国の話とされているのですが、本当の、(隠り口)コモリクとは、近年、佐賀市に編入された旧大和町の上流の旧三瀬村の初瀬川一帯の隠れ里の事だったのです。

九州王朝論者の皆さんも古田九州王朝論から少し自由になり、新たな発想をする必要があるのではないでしょうか?

この旧三瀬村には初瀬川が流れており、だからこそ想定古代九州王朝の長谷寺も存在したのでした。


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sp154-7九州山口にしか痕跡も伝承のない神功皇后ですが、何故か出身地は畿内だろうなどとされています。この間懸案とされてきた神功皇后ですが、今般久々にスポットを当て、 神功皇后の生育地を探る!トレッキング(佐賀県佐賀市三瀬村)を行います。そこで、神功皇后の両親である父 息長宿禰王(オキナガノスクネ)と母 葛城高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)が住んでいたと考えられる(神功皇后もそこで産まれた?)佐賀県の北山ダム周辺の神社とそこに注ぐ初瀬川一帯を訪ねます。なお百嶋神社考古学では開化天皇の妃は神功皇后です。  


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まずは通説を考えて見ましょう。


神功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40 - 神功皇后69417日)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。

三韓征伐を指揮した逸話で知られる。

夫:第十四代天皇 仲哀天皇。皇子:誉田天皇、第十五代天皇 応神天皇。

皇子:誉屋別皇子(日本書紀では弟媛の子)。

日本書紀』などによれば、神功元年から神功69年まで政事を執り行なった。夫の仲哀天皇香椎宮にて急死(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。その後に熊襲を討伐した。それから住吉大神神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、[3]戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。

sp154-9渡海の際は、お腹に月延石鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市月讀神社京都市西京区月読神福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。その帰路、筑紫宇美応神天を出産し志免でお紙目を代えたと伝えられている。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。

神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰武振熊命の働きによりこれを平定したという。

武家社会の神である八幡神の母にあたる神であり、数多くの武人が神功皇后を崇拝していた。有名なのが八幡太郎こと源義家である。

また八幡神と同じく、その言い伝えは九州はもとより関東から近畿の大津や京都や奈良や大阪の住吉大社、瀬戸内海を挟んで広島や岡山、四国と、日本中に数多く存在する。

今でも全国各地で神功皇后の三韓征伐を祝うための山車が存在しており、その業績をたたえる祭りが多い。


新唐書』列伝第145 東夷 倭日本[4]に「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」、『宋史』列伝第250 外国7 日本国[5]に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」とあるが、『新唐書』が編纂されたのは10世紀であり、唐時代に日本からの留学生・留学僧が伝えた内容が掲載されたと考えられる。

明治時代以前は、神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして、第15代の帝とした史書が多数あった。 1926(大正15年)10月の詔書により、歴代天皇から外された[要出典]

明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられており、大日本帝国による朝鮮半島支配の象徴・根拠として[要出典]も関連付けられ、有名人であり偉人であった。 現在では実在説と非実在説が並存している。

日本書紀』において、巻九に神功皇后摂政66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」として、晋書の女王についての記述が引用されている。このため、江戸時代までは、卑弥呼が神功皇后であると考えられていた。しかし、この年は西暦266年であり、卑弥呼は既に死去しており、この倭の女王は台与の可能性が高いとされている(ヤマト王権の項など参照)。

また、これとは別に、直木孝次郎は、斉明天皇持統天皇が神功皇后のモデルではないか、との説を唱えている。

 
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