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スポット144(後) 三瀬村トレッキング現地リポート

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スポット144(後) 三瀬村トレッキング現地リポート

20171122

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


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移動スケジュール(あくまで予定)


 集合場所:やさい直売所マッちゃん

 若宮神社:午後に回すかもしれません。

 野波神社

 下ノ宮 

 休憩昼食場所:久保田医師別荘にて昼食(予定)佐賀市富士町下無津呂三本松1559

 宮地嶽神社


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移動にはこの地図を確認して下さい

資料

① 野波神社

所在地 佐賀県佐賀市三瀬村大字杠(ゆずりは、中谷) 1358-41

祭 神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比咩大神(淀姫神)

由 緒(要約) 西暦268年に創立。

社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地に寄られたと云う。明治43年村内の無格社が整理統合され、祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。

昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年1213日に遷座式を執行した。昭和2848日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。

② 下ノ宮

所在地 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口

祭 神 息長宿祢命・葛城之高額媛命 

由 緒(要約) 創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるが、本宮よりも上流に祀られ「下ノ宮」というが、息長足媛命が皇后になられてより、立場違いにより、後に「下宮」となったのであろう。

野波神社の例祭時、当宮との間に皇后の御神輿の上り下りの行事が行なわれている。資料・佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」HPから

 「三瀬村史」による野波神社

社号 野波大明神 祭 神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比咩大神(淀姫神)

應神天皇の御代、西暦268年に勧請された神社で当地では最も古く、棟木札銘(昭和28年焼失)には次のような記録が残されていた。

 文中2(1373)再興。長禄2(1458)再建。元亀2(1571)再々建。宝永元年(1704)再々々建。

 天保14(18433月、1575年祭施行。

今から1700余年前の古墳時代初期に勧請されたことになる。

社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地にもおいでになって、宇土の大石に腰をおろして休息せられる時、一帯の風光を眺められて「最も能き野奈美哉」と仰せられたので、この一帯を野波の里とよぶようになった。また、大石の前の河で御裾を麗がれたので、その地を渡瀬の手洗松と言い伝えられた。その御遺跡に御社を営み、古くから神埼佐賀七山の宗廟として崇め、上下の信仰が厚かった。七山というのは、杠・関屋・小副川・菖蒲・畑瀬・松瀬・名尾の七山である。

室町時代、嘉吉2年(1442)の初春には、阿波の国の住人杠日向守が下向して当地の領主となり、神田五町歩を寄進して年々の祭祀を盛んにした。その後、天正年間(15731591)の頃には、神田等多数の領主から寄進があって、年中盛大な神祭りが行なわれたという。降って江戸時代の延宝2年(16742月には、杠権右衛門尉藤原吉満が、「七山宗社」の額と「宝物」数種を寄進して祭祀を行なった。

近代になって、明治61031日村社に指定され、同431013日に神饌弊帛料供進の指定を受けた。また、同年には村内の無格社が整理統合され、それらの祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年1213日に遷座式を執行した。

昭和2848日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。このとき焼失したもの。

  「七山宗廟野波大明神」-拝殿入口の額

  「七山宗社」-弊殿入口の額「銚子」二、「瓶子」 三、何れも木製

  「表札」-神社の伝説口碑を記したもの

御神体は古来「グミの木」と言われていたが、陶器製のものだけが焼け残っていた。

昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。海や河川にかかわりの深い祭神淀姫神の霊示が具現されたのであろうか、ダム湖水を眼下に見おろす中谷山の現地に社地社殿が構築され、同年12月遷座式が盛大に執行された。

淡島明神 野波神社の境内には、別に淡島明神を祭った小社殿がある。土地の人は「あわしまさん」とよんでいる。何時の頃勧請されたかは明らかでないが、淡島信仰は和歌山市の淡島明神を中心として広まったと言われ、江戸時代中期の元禄年間ごろから、淡島願人とよばれる一種の物もらいが、諸国を巡歴して婦人病に効験あらたかな神として信仰をすすめた結果、民間に広く普及し、とくに花柳界の女性の間に広く信仰されるようになった。

和歌山市加太町にある加太神社が淡島明神として著名で、祭神は少彦名命・大己貴命(大国主命)・息長足媛命(神功皇后)の3柱で、婦人病に霊験あらたかとされ、縁結び・医薬・海上鎮護の神として信仰される。

野波神社の淡島明神も、もちろん婦人病に効験あらたかとされ、安産・長寿・海上河川鎮護の神として、山内山外の人々に信仰されてきたのである。 出典:三瀬村史p710

②「三瀬村史」による「下ノ宮」

社号 下ノ宮 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口

祭神 息長宿祢命・葛城之高額媛命

創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。下宮が本宮よりも上流に祀られているところに不可解な点もあるが、祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるので、上流に祀られていても不思議ではない。

野波神社の例祭のときには、現今でも当宮との間に御神輿の上り下りの行事が行なわれている。

出典:三瀬村史p712


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まず、神功皇后の母親(神)とされる葛城高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)ですが、三瀬村の東隣に脊振村があります(現佐賀県神埼市)。

ここに鹿路という集落があり(コミュニティ・バスのバス停は「桂木」)一言主神社までがあるのです。

実はこの地こそ故)百嶋由一郎氏が、“昔はここも「高良」と呼ばれていた九州王朝の重要な集落であり、初期の九州王朝の安全な中心地であった”と言われている場所なのです。

付近には、旧背振村永江(表記が長柄、永江、長江…だったか覚えていませんが)があり、そのまま、葛城長江曾都毘古(古事記)(カツラギノナガエソツヒコ)を思い起こさせます。

ソツヒコの「ソツ」は、佐賀県旧牛津町(現佐賀県小城市)の牛津(ソツ)かも知れません。

それだけに、その後裔である葛城高額比売命は旧脊振村、旧三瀬村一帯にいたと思われる葛城一族の後裔である可能性が否定できないのです。

一方、父親(神)の息長宿禰王(オキナガノスクネ)はひぼろぎ逍遥にリンクされておられる、「沖永氏は秋永氏である。」の顛末記というサイトにおいて書かれていますが、息長一族が現久留米市田主丸町一帯に拠点を持っていた事は確実で、その位置関係を考えると信憑性が極めて高いのです。

ここ十年程で、二、三度訪問した経験がありますが、当時は「神功皇后伝承」には関心がなく、野波神社、下ノ宮の事は承知していましたが、他の問題(米田良三氏が「長谷寺」で書かれた三瀬村に長谷寺があったという提起との関係も不明なまま)、棚上げ状態にしていました(古川)。

そもそも「源氏物語」にしてもそれは後世のパクリ文学でしかなく、その現場は九州北部であり、長谷寺も、現在の北山ダムに注ぐ初瀬川にちなんで付された長谷寺であり、その橋脚は現在の鏡神社にあったとされ(米田良三説)、その礎石もB29の爆撃目標探査用写真には見えるのです。

現在も長谷寺名の痕跡を留める寺が鏡神社の正面に長谷山観音寺が存在し、その梵鐘が知恩院の巨大梵鐘となったとの話があるのです。


米田氏は以下のように述べている。「『源氏物語』の舞台の中心は倭国の時代の九州であった。京は大宰府都城であり、京から出掛けた 〝初瀬の御寺〟 も奈良ではなく、九州北部にあったはずである。私は佐賀県神埼郡三瀬村にあったと考えている」

 この部分は私を大いに刺激し、生まれて始めて長谷寺を訪れるきっかけとなった。現在の長谷寺の本堂、観音様は517年に完成し、721年に現在地に移築されたという米田説を信じた上での訪問である。訪れた時の印象は 〝感動〟 の一語に尽きる。時のたつのも忘れ、1時間以上大悲閣前の舞台でボーっとしていた。もちろん、現地の解説ボードを信ずればこうはならない。観音像は今までに6回焼失し、現在のものは室町時代に作られた7代目であり、本堂は江戸時代のものであると記されている。巨大木造彫刻十一面観音像の制作年代の説明に約1000年の開きがあるのだ。

sp154-13その後も先の引用部分のことが心の隅に引っかかり、2002年8月、三瀬村の観光協会に「村で一番古いお寺は?」と問い合わせたところ、反田という集落に長谷山観音寺という寺があったが、昭和38年、子供の火遊びが原因で焼けてしまったということであった。

 ネーミングからすると、幻の長谷寺は昔ここに建っていたに違いないと思い、2007年11月、日帰り弾丸ツアーで現地を訪れ、地元のお年寄りに焼失前の寺の様子を聞いた。

 この長谷山観音寺の件と、その西にある「宿」という名の集落がじつは椿市ではないか、と米田氏に電話したのだが、当時、氏は幻の長谷寺発見については著作で述べている程には意欲的ではないようであった。これほどまでに著者にプッシュし続ける自分は日本のシュリーマンになったような気分であった。

 後でわかったことだが、この寺は1521年、神代大和守勝利と言う人が伝説の長谷寺に憧れ創ったものであるらしく、私の努力は空振りに終わった。

 しばらくして、米田氏から倭国長谷寺の所在地が同定できたと連絡が入った。国土地理院の地図を凝視しているうちに閃いたというのだ。そこは「源氏物語画帖」玉鬘の巻、『枕草子』、『住吉物語』の描写にぴったりマッチするというのだ。

 ここで混乱しないように言っておかねばならないのは、3作品ともオリジナルは倭国の時代のものであるということである。『源氏物語』は一昨年「千年紀」と大騒ぎしていたが、正確には、もう350年ほど遡り、現代の作家が江戸時代初期の物語をパクるようなことが平安時代に行われていたのだ。

倭国長谷寺跡の発見 - AB&JC PRESSによる


少なくとも、通説に沿って 神功皇后の出自を琵琶湖の周辺などと考え安心しきっている方々には、大きな波紋、ざわめきをもたらしたことになるかもしれませんが、九州王朝の本拠地であった九州島には、まだまだ残された痕跡があります。

 九州王朝論の立場から古代を探ろうとする方々は、現場を見て頂きたいと思うばかりです。

 ただ、畿内から関東の、ましてや、北海道の古代史ファンや九州王朝論者の方々にとっては、おいそれと九州の現場を拾う事が出来ない事も偽りのない現実でしょう。

 どのように考えても欠史8代の舞台は九州島なのです。

 その意味でも、九州の現場に可能な限り入って頂くことを希望して止みません。


520 僭越ながらも鹿児島の老古代史家からの照会にお答えして 所感 ④⑤

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520 僭越ながらも鹿児島の老古代史家からの照会にお答えして 所感 ④⑤

20170812


太宰府地名研究会 古川 清久


④  九州王朝と邪馬壱国の関係がわかりません。九州王朝の下に邪馬壱国があったのか、又は邪馬壱国の下に九州王朝があったのか、それとも同一なのか?

⑤ 九州邪馬壱国と東遷とをどうとらえるか?


 これも九州王朝論の外部におられる方には分かりづらい話であり、当然と言えば当然の質問になるでしょう。

 一般的な九州王朝論の立場から言えば、狭義の九州王朝とは「善記」以来の九州年号の期間(517701年)であり、3世紀を中心とする所謂邪馬台国の時代とは全く重なりません。

 ここには謎の56世紀の問題が横たわっている事があり、致し方ない部分はあるでしょう。ただ、考えれば直ぐに分かる事ですが、年号を打ち立て列島全域にそれを拡げる力を持っていた(全国から社寺の縁起や古文書に使用例が大量に見つかっている)権力でも王権でも政権でも…が517年と同時に突如出現したとは考え難く、当然、それ以前にも独自の年号を持たないとしても別の年号(大陸の年号)に依拠する権力が存在していたはずなのです。

これについては、中国南朝の冊封体制化にあったため独自の年号を使用しなかっただけであり、魏から援助を受けていた3世紀の邪馬台国以来、西晋、東晋、南朝(宋・斉・梁・陳)の時代から隋の登場直前まで中国と通交していた倭人~倭国が存在していたと考えられる事から、恐らく政権は変わったとしても、短期間の邪馬台国はもとより、それ以前も含めた全体を広義の九州王朝と考える事は不当ではないでしょう(勿論、特別に決められた法則などがある訳ではない)。

 このため④に関するお答えというか、現在の所感としては広義の九州王朝の一期間一地域に短期間成立したのが所謂「邪馬台国」であったと言えるでしょう。

この点は一般的な九州王朝論者にあっても考え方に大きな差はないと認識しています。

 ここで僭越ながら苦言を呈しておきたい事があります。所謂邪馬台国の性格についての理解であり考え方についての話です。エッセンスさえ伝えられれば何だって良いので版本については「紹興本」であれ「紹煕本」であれ拘りません。以下。


520-1による


 勝手ながら手っ取り早くネット上から採用させて頂きますが、


其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛


「その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大。夫婿なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。王と為りてより以来、見有る者少なし。婢千人を以(もち)い、おのずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。宮室、楼観、城柵が厳設され、常に、人有りて兵を持ち守衛す。」

 その国は、元々は、また(狗奴国と同じように)男子を王と為していた。居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。王となってから、まみえた者はわずかしかいない。侍女千人を用いるが(指示もなく)自律的に侍り、ただ、男子一人がいて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所に出入りしている。宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している。


その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。


倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。…とあるように、多くの勢力の連合体の中で、政争、戦乱を収拾するための鬼道呪術を買われて、便宜的かつ一時的に共立された臨時政権が卑弥呼の邪馬台国の役割だったと考えられる事です。

このため、邪馬台国探しとは、一時的に生じた臨時政権の所在を探るこでしかなく、それほど重要な意味を持ったものとは思えない上に、そんなものが、事実上鉄も絹も出土しない奈良の片田舎にあったなどとは凡そ考えられないのであって、九州島以外にその候補を見出すことができない事が確認できればそれで十分と考えています。

 現在、ゆるキャラ交じりで村興し町興し宜しくほとんど漫画のような「邪馬台国シンポジウム」や「邪馬台国サミット」なるものが繰り返され、全国通津浦々に幾つもの邪馬台国が出現していますが(これ自体が民間レベルでは圧倒的多数派である九州説に対して行政主導による学会通説派の巻き返しなのですが)、凡そこのような動きから列島の古代史を把握できるとは考えられず、邪馬台国研究に関しては古田武彦が「「邪馬台国」はなかった」を公刊した時代、昭和461971)年からしばらく続いた邪馬台国研究の時代から非常に後退しているという印象を拭えません。

 従って、列島の古代史探究とは紀元前後(できれば「三国志」の呉ではなく呉越同舟の呉の滅亡辺りから)から8世紀中頃までを九州の現場と九州への視点から探究する作業を行う事が要求されているのです。

 では、最もあさましい邪馬台国東遷説に触れることにしましょう。

 気分が悪くなるので概略しか申し上げたくありません。簡単に言えば邪馬台国東遷説なる物とは普通に考えれば北部九州としか考えようのない邪馬台国を筑後川北岸辺りに求めたうえで直ぐに畿内移動し、それがそのまま近畿大和朝廷に発展したと言った、言わば良いとこ取りした実質的な偽装通説でしかなく、大半は居心地の良い通説派と繋がりながら税金に集りつつ、民間レベルでは圧倒的多数派の邪馬台国九州説にも色目を使うと言った醜悪この上ない蝙蝠のような浅ましい立場を取ったものだったのです。

 特に、初期の段階でこの東遷説の中心的研究者であったY某は、初期三部作で圧倒的な支持者を得た古田武彦に色目を使い接触し連携を模索したのですが、故)古田武彦の姿勢が頑なだった事もあり、手のひらを返すように畿内説論者に鞍替えし、最後は「東日流外三郡誌」偽書捏造論で古田叩き=九州王朝論叩きを行ったのでした。詳しくは古田史学の会のHP「新古代学の扉」で内部検索を…。

 そのベースになっているのが神武東征説話なのです。

まあ、藤原が造った「記」「紀」を真に受けて古代を解明しようとする文献史学とは、所詮、藤原の手の上で踊らされているようなものでしかなく、始めから限界があったと言えばそれまでですが、元々、近畿大和朝廷の正統性を主張するために創られた「記紀」に依拠する限り、九州王朝説が支配的になる事を許すはずなどないのが道理なのです。

さて、ここからは皆さんが全く気付かれていない事に関して故)百嶋由一郎氏のお話に沿って幾つか指摘して見たいと思います。

突飛な話に聴こえるでしょうし、通説では全く理解不能だと思いますが、東夷伝倭人の条の中に神武天皇威徳天皇が出てくると考えているのです。

卑弥呼の王宮に神武が出入りしていたなど言えば、きちんと史書を読めとか、時代が全く異なるだろうなど笑い飛ばされるのが落ちでしょうが、このお二人の天皇とは、後に藤原によって神武天皇と威徳天皇とされた人物であり、天照=卑弥呼と腹違いの弟であり、卑弥呼の弟神武がアイラツヒメ(「日本書紀」には登場しない)の間で儲けた息子なのです。勿論、百嶋先生から直接聴いた話です。


年すでに長大。夫婿なく、①男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。王と為りてより以来、見有る者少なし。婢千人を以(もち)い、おのずから侍る。②ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。宮室、楼観、城柵が厳設され、常に、人有りて兵を持ち守衛す。


 が神武天皇(神倭伊波礼毘古命 幼名狭野尊)② が威徳天皇 卑弥呼=大日靈貴=後の天照大御神


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)          百嶋極秘系譜(部分)


 もう一つ東遷説絡みでお話ししておく必要があるのですが、東遷説が短絡し滑った最大の理由が、高良玉垂命と神功皇后のただの臣下でしかない崇神に銘じて行われた九州王朝の畿内への侵攻、進出をとんでもない昔の事績に見せ掛け、後の対唐外交との関係からか?あたかも始めから畿内に大和朝廷が自生したかの様に装う必要性(つまり唐に敵対した九州王朝とは別の国家と主張せんがため)があったのではないかと考えています。

 これが持て囃された神武東征神話の実態であり、ヤタガラスや海幸山幸が随行した話も実は本物の神武天皇(カンヤマトイワレヒコ)一行による神武巡行説話(北九州~安岐~福山~岡山の安仁神社…に痕跡あり)によるものなのです。

そして、神武東征とは藤原が第10代と格上げした崇神天皇(実はツヌガノアラシトその人=敦賀にやって来た安羅伽耶の男)そのもの、若しくは、代理者による侵攻でしかなかったのです。

 事実、九州島で活動した欠史8代の天皇を奈良周辺に探し回り一向に事績、伝承、痕跡がないとして架空であるとした馬鹿な学者がいたのですが、日本の歴史学会は今もこれを丸呑みにしているのです。

そんなものが畿内などにある訳がないのです。学会通説とは所詮その程度のものでしかないのです。

 欠史8代が畿内に発見できない事そのものが逆に九州王朝の実在を証明しているのです。


 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族


ただし、九州王朝も贈)崇神以降に東遷を行っているのです(これを神武東征とした?)。九州王朝最後の天皇の仁徳の時代における三次に亘る東遷(難波高津宮)で、百嶋先生は先行して九州王朝神霊東遷(安全を考え二手に分けて移動している)が行われていると言われていました。

 本家が移転する時に墓をそのまま残していくとは考えられないはずで、筑後地方などの主要な墓が空っぽなのはその事と関係があり、恐らく阿蘇ピンク石石棺問題も関連していると考えています。

 これ以降は別稿とします。

521 有明海のど真ん中 湯島の神社探訪 “上天草市湯島の諏訪神社”

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521 有明海のど真ん中 湯島の神社探訪 “上天草市湯島の諏訪神社”

20170929

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 有明海の湯島と言えば天草島原の乱の談合島として知られていますが、一般にはほとんど知られておらず、“そんな島ってあったっけ?”…といった認識を持つ方も多いかも知れません。

 まずは場所を確認して頂きましょう。


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これまで、熊本では数十人単位の大規模なトレッキングを行っていましたが、最近は各自五月雨的に神社トレッキングを行い始めています。調査をする側としては少人数の方が動きやすく調査にもなるのです。

 熊本では女性メンバーが多く土日に休みに難い事があるため、今後は小規模トレッキングを連発した方が密度も上がり、機動的に動ける事から重複が避けられ(勿論、何度も行くことによってようやく分かる事もあるため必ずしも重複が良くない訳でもないのですが)平日に何度か行う方が良いのではないかと考えていました。

第一、何台もの(時として10台も超える)車で狭い神社に移動するのは大変な事なのですから。

今回は、三人で神社を訪問するという話があった事から急遽湯島諏訪神社を見に行くことにしました。

これは、以前、船着き場に上陸しただけの湯島に上り、湯島の諏訪神社を見たと言うだけの小規模トレッキングのリポートになります。


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この湯島には二十年近く前でしたが、一度だけ、舟釣り(タイ、カサゴ釣り)で波止着けした事がありました。

 それ以来、アコウと猫島としても知られた島をじっくり見たいと思ってきました。

 まさに、個人的には「渡りに船」だった訳で、神社と民俗と猫とアコウが一度に堪能できる「湯島」は一度は踏むべき島だったのです。

 天草島原の乱後、この島も徹底して弾圧が行われたはずで(何しろ反乱の武器である弾丸まで造っていた場所なのです)、キリシタンの痕跡は存在していないはずです。

 こういったところまでが湯島訪問までのイメージでしたが、30分足らずの船旅(渡船往復1200円)を楽しむ間もなく、直ぐに南側斜面に家並が密集する湯島の集落が見えて来ました。

 勿論、神社研究に於いてはそれほどの重要性はないのでしょうが、有明海の出口とも言っても良い神社は見ておく必要はあったのです。

 まず、「湯島」とは奇妙な名前です。この事が以前から気になっていました。特別温泉が出ている島でもないのに湯島とは…ですが、意識的に調べさえすれば自ずと理解できる幸運なケースでした。

 以下はネット上にあった有難い資料ですが、調べれば湯島(ユシマ)は石間(イシマ)だった事が書き留められていました。

 火山島だった時代の痕跡は、漁師や船乗りによって代々伝えられていたはずで…もしかしたら岩と岩の間の海底からもガスが沸き湯玉が上がっていた事が地名としても反映されていたのではないかと思うのです。


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明快ですね。普通は他説に容易には順応しないのですが、これは矛盾がなく、気になっていたことが払拭できました。もう一つは、東京の「湯島天神」との関係です。

「湯島」という名称はこれ以外には見当たらない事から、何らかの関係があるのではないかと考えるのは常識の範囲内です。何やらこの点から町興し村興し風にイベントも行われた事もあるらしいですが、諏訪神社とする湯島神社とは無関係ではないかと考えていました。

 しかし神社を見ると氷解しました。直接の関係があるかは不明ですが、とりあえずは基層に天神様に関係のある神様も祀られていた痕跡があったことからこの点に関しても、一応、関係が全くないとは言えない事が分かり安心しました。

今回は息抜きの意味もあったことから、神社さえ見れば、後は、アコウを見て廻り、猫を撫でて、魚でも食べて帰れば満足できそうですので、離島の旅としてはそれだけで完結するのでした。

 さて、「熊本県神社誌」には湯島神社は湯島諏訪神社として建御名方を祀るとそっけなく祭神が書かれているだけでした。

 島には天草五人衆(豊臣政権下の小西領の土豪)でもあった大矢野氏の居城跡もあることから、この建御名方神と言えども、後に大矢野氏が自ら祀ったものである可能性が高く、本来の神は別にあるのではないかと考えていました。

 そこで、神社を見ると思ったとおりで、やはり二つの摂社が境内に置かれていたのです。


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さて、境内には二つの摂社が置かれていました。

 社殿に向かって左に置かれたのが金刀毘羅神社で、右が祇園神社です。


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ここからは推定ですが、恐らく幕藩体制下には金刀毘羅神社が祀られていて、明治か戦後になって、島原の乱で天草が実質的な天領となる前に祀られていた諏訪神社に戻されたのではないかと考えています。

 では、祇園神社は何でしょうか?それこそが、最も古い祭祀であり、肥後3,500社中1,300社を占める菅原系神社がこの天草の離島にまで及んでいたのではないかと考えるものです。

 では、由緒書をご覧ください。「貞観十八年」の記事の通り、これが最も古い祭祀であり、湯島の人々が古来守り祀ってきた神様であろうと思うものです。

 所謂、金毘羅さんは、家康のフィクサーであった天海僧正によって流布された日吉神社=日枝神社の事であり、これは島原の乱後に持ち込まれたものなのでしょう。


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南方系の海岸性樹木であるアコウはイチジク科の木でしたか、イチジクのような実を着けることから磯ヒヨドリのような恰好の餌となり、糞と共に海岸に頻繁に種が撒かれます。

塩分を必要とするため海岸から遠く離れては生きていけないのですが、強い木であることから成長も早く右側の木でもほんの25年程度なのです。

そして驚くほどの根を張る事から、別名「絞殺しの木」とも言われ、波際の道路や敷地の護岸のために意図的に植えられる事もあるのです(劣化の激しいコンクリートなどよりよほど強いのです)。


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522 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… ① 兵庫県豊岡市 宇日、多久日の三宝荒神

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522 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… ① 兵庫県豊岡市 宇日、多久日の三宝荒神

20170902

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 最低気温が30℃というとんでもない暑さに恐れおののき遠征は控えていたのですが、涼しくなった途端、滋賀だか福井だか普段行かないところの調査に行きたいと下調べもないまま温泉旅行を兼ねて日本海を北上する事にしました。

 と言っても、8月もトレッキングは重ねていますし、盆明けにも薩摩の南端まで二度も遠征し随行者もあった事から、今回は計画を立てないで“上がったとこ勝負”(古今亭志ん生)、“行き当たりばったり”の温泉旅行とする事にしました。

 下調べをしない計画なしの調査旅行の方が反って成果が上がる事もあり、意外性に驚くことも多々あるのです。

 ともあれ、日田市を朝10時には出立し、関門橋だけを高速利用するもそれ以外は全て一般道利用で、夕方6時までには島根県益田市まで、夕食を済ませ夜10時までには浜田市まで進出しているのですからかなりのハイペースと言えそうです。

 それでも、今回、唯一目的としたところがありました。

 それは城崎温泉の北の竹野海岸(この名称で良いかは未確認)にある二つの三宝荒神を確認する事でした。

 以前と言っても15年も前ですが、せっかく通過しておきながら、あまりにも道が険しく駐車場もなさそうな集落だったためパスして以来、ずっと、気にしていたのでした。

 何も分からないだろうが、それでも良いから是非とも見てみたいと言う思いが募るばかりでした。

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同じく田久日集落


 今回は私の思い出の空白を埋めるだけが目的ですのであまり大した意味はありません。

 しかし、最後に少し学会通説に抵抗する事になりそうです。

 ともあれ、宇日の三宝荒神をご覧ください。


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小さな集落にしては立派な神社です


 次は田久日の三宝荒神です。宇日と異なり集落の中心部の通りに置かれていました。


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風雨を避けるための鞘殿か、始めから鞘殿を好んだかは不明 岬にある祠が三宝荒神かは不明


 中国地方全域に多い三宝荒神社ですが、神社庁管理化にないものが殆どで、権力の側からは神社の扱いをしないもの、荒神を奉斎する者から言えば独立した庇護を受けない神社となります。

 この背景には、古代の闇が関係しているのですが殆ど知られていません。

 まず、三宝荒神には神武天皇(僭称神武の崇神ではなく本物の神武)に逆らったとされる(あくまでも民族と民族衝突であり対立であることから善悪は一切関係がないのですが…逆賊とされ蔑まされているのです)。

 三宝荒神に関しては長文を一本書いていますが、それは良いとして、最近、とみに富のナガスネヒコに関する話を連載しています。

 まずは、ひぼろぎ逍遥 スポット 101 飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か? “鳥見の長脛彦は飯塚にいた” 


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天香香背男(アメノカガセオ)を祀る神社 大分県編 ② 佐伯市大入島の産靈神社

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天香香背男(アメノカガセオ)を祀る神社 大分県編 ① 佐伯市の星宮神社

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天香香背男(アメノカガセオ)を祀る神社 佐賀県編 鹿島市三河内の三嶽神社


 10本近く書いているのですがご紹介はここまでとします。

 城崎温泉はどうでも良いとして、京丹後に向かうべく東に進むと掲示板がありました。

 余部の平家の落人集落などと同様にこのような辺境の地には多くの敗残した人々が逃げ延び住み着いたものと思われます。それが」、神武の時代まで遡れるかはともかくとして、何度となく繰り返された政争の度に多くの人々が逃げ込み生きながらえてきたはずなのです。

 それらを全て平家とする傾向には疑問を感じますが、それはおくとして、クナトノカミについてです。


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まず、猿田彦が天八街で出迎えたという話からヤチマタヒコ、ヤチマタヒメを猿田彦、アメノウズメ(実は豊受大神=伊勢外宮=伏見稲荷=韓国息長大姫大目命)にしてしまっていますが、これは大間違いで、実はナガスネヒコとその妹のオキツヨソタラシヒメなのです。

従って、この旧竹野町の掲示板は、クナトノカミ(岐神=出雲井神社ほかの主神)とヤチマタヒコが重複しているのです。

そして無理して三宝荒神だから三神なのだろうとコジツケているのです。

仕方がないとは言え情けない限りです。

 神仏混合(混淆)された結果、仏教の三宝(仏・法・僧)を守護する荒ぶる神としているのであって、決して三人の神という意味ではないのです。

 クナトとは三叉路の意味であり、交通の要衝を押えた荒ぶる神の意味なのです。

 これまで、三宝荒神、三鳥居、殷の鳥居、長脛彦=ナガスネヒコ、カガセオ、三光神社、西浦三宝荒神…などと多くを書いてきましたが、ひぼろぎ逍遥 スポット 101 飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か? “鳥見の長脛彦は飯塚にいた”が臨場感を与えてくれるかも知れません。


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三宝荒神は結果的に三神を表しますが、金山彦(ナガスネヒコの父神)+ナガスネヒコ+タケウチタラシニ(菅原道真の一方の祖神)がそれなので、猿田彦への比定は誤りなのです。


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これは道すがら撮影した兵庫県新温泉町の穴見海岸



久々の穴見海岸? 豊岡市の北岸の海岸線は上天気もあり素晴らしいものでした。

 しかし、運転に集中せざるを得ず、落ち着いて堪能する事はできません。

 次は、この二つの集落のどこかに野営するなり、民宿に泊まるなどして、秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の影を探りたいと思います。

 製鉄神が、本来、このような険しい漁村の集落に祀られるはずはありません。

 敗残して持ち込まれたか、船釘を売るために入った商人が持ち込んだか、事情は分かりません。

 しかし、好んで住み着く様な場所ではない事は、現代でも言えそうですから古代には尚更です。

スポット175 中津市耶馬溪町金吉の土砂崩落はなぜ起きたのか! “雨も降っていないのに…?”

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スポット175 中津市耶馬溪町金吉の土砂崩落はなぜ起きたのか! “雨も降っていないのに…?”

20180412

太宰府地名研究会 古川 清久


 今回、江州伊吹山一帯から京丹後、丹後~丹波に掛けて十(車中)泊十一日の神社、古墳調査に入り戻ってくる途上において豊前の耶馬溪で晴天下の大崩落災害の情報が飛び込んできました。

 地名研究会の研修所がある大分県日田市天瀬町の隣町のようなところが耶馬溪町です。

 本来は遠回りでも宇佐経由で戻るつもりだったのですが、何故か山国川を右に入り耶馬溪町に向かう事になっていました。もしかしたらこのリポートを書いてくれと呼ばれた様な気がしないでもありません。


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金吉地区 カーナビ検索 大分県中津市耶馬溪町金吉(地番不詳)20180412午前の現地


 まだ、発生したばかりで情報が不足していますが、ネット・ニュースから幾つか拾ってみましょう。


11日午前3時50分ごろ、大分県中津市耶馬渓町金吉(かなよし)で「裏山が大規模に崩落し、家が土砂に埋まっている」と市消防本部に通報があった。県警や市などによると、山の斜面が幅約200メートルにわたって崩落。民家4棟が土砂にのまれ、3世帯の住民6人と連絡が取れなくなった。県は災害警戒本部を設置し、自衛隊に災害派遣を要請。自衛隊員や警察、消防など約600人態勢で救助活動を進めた。県警は午後1時すぎ、6人のうち会社員岩下義則さん(45)を現場から発見し、死亡を確認したと発表した。

 県警によると、義則さんの死因は圧死。残る5人の女性の安否は分かっていない。山崩れに巻き込まれた4棟のうち、1世帯4人は逃げ出すなどして無事だった。ほかにけが人や不明者の情報はないという。

 県によると、山崩れの規模は奥行き200メートル、幅200メートル、高さ約100メートル。近くを流れる金吉川に大量の土砂が達しているが、流れをせき止める状況ではないという。

 市は11日午前8時、被害拡大の恐れがあるとして、現場近くの同町金吉梶ケ原地区の8世帯19人に避難勧告を出した。住民らが近くの公民館に避難している。

 現場は、市中心部から南西約25キロにある山間部。金吉川を挟んで両側に山が迫り、川沿いに民家が点在している。県は昨年3月、土砂災害の危険があるとして、一帯を土砂災害防止法に基づく「土砂災害特別警戒区域」に指定していた。

 気象庁によると、中津市耶馬渓町では6日に4・5ミリ、7日に1・5ミリの雨が降ったが、8日以降は計測可能な0・5ミリ以上の降雨は観測されていない。

 消防庁を通じた大分県の要請を受けて11日、福岡県はパワーショベルを含む緊急消防援助隊24人を福岡市から現地に派遣した。熊本県や北九州市も救助隊を送った。

 大分県は12日から、金吉川沿いで土砂災害が発生する恐れのある危険箇所67地点について、目視による緊急点検を実施する。

2018/04/12付 西日本新聞朝刊=


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さてここから本題に入ります。

 この間、朝倉~日田に掛けての豪雨災害について書いてきました。これもその延長上の話になります。


スポット112 朝倉~日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした!

スポット115 山に木がある方が安全だと思い込んでいる人に対して! 本当に豪雨が原因なのか?

スポット116 災害復旧に意味があるのか!

スポット117 ヒート・アイランドを引き起こした無能な国土交通省 “熱 禍”

スポット122 大量の土壌流出と木材流出は今後も継続する“平野虎丸ブログのご紹介を兼ねて”

スポット123 筑後川の南から北の被災地を眺める 悲しい棄民国家の現実 “ここでも「災害地名」が意味を持っていた「道目木」「梅ケ谷」”

スポット125 朝倉から日田にかけての山々の行く末について

スポット128 林野庁が引き起こした九州北部豪雨災害によってとうとうJR日田彦山線までもが廃線に!

スポット141 林野庁の照れ隠し “朝倉針葉樹林崩落の問題隠しとしての残木伐採”


 何故だろうとお考えかも知れませんが、今回の青天の霹靂ならぬ星空の土砂崩落災害もこの針葉樹の人工林が原因なのです。トップの崩落現場写真の左右をご覧ください。危険極まりない人工林が急傾斜地に乗っかっているのです。しかし、もっと傾斜が急な山頂部に近い所の広葉樹はそのまま残り、人工林を中心に全体が落ちている事は一目瞭然にお分かり頂けるのではないでしょうか?


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崩落したものが針葉樹の人工林であることは剝き出しとなったマッチ棒状の樹木からも見て取れますね


雨も降っていないのに何故こんな災害が起こったのか?と、行政は元より御用学者もマスコミもほとんど理由が分からず気が付いておられないようです。

原因は、小泉竹中改革とかいう国民所得の半減政策によって在来工法による住宅需要が消失し、鉄とコンクリートとガラスとプラスティックに僅かな外材で造られるマンションによって需要が消えてしまったことから、全く売れずに放置された杉、桧の類が、樹齢が上がり重量を増す一方で急傾斜地に放置され崩落する順番待ちになっている事なのです。

針葉樹の人工林は腐葉土を生み出さない事から全く生物を育みません。このため人工林地は栄養を失い続け下草も生えず、同時に土壌を流出させて表土を失い続けているのです。結果、土被りが少ない上に根を張らない針葉樹が重量を増しながら崩落への条件を増大させ続けているのです。

そうした中、私は災害発生の数日前には京丹後辺りにいたのですが、災害発生の前日まで強い西風が二~三日間ほど吹きまくっていたのです。

直ぐに林業家で「森大学」のブロガーでもある平野虎丸氏に連絡を取りました。虎丸氏は開口一番、「昨日ブログに書きました」とのことでした。当方も雨でなければ風だろうと考えていましたが、予想が同方向で一致していたのでした。ひぼろぎ逍遥にもリンクを張っていますのでお読み頂きたいと思います。以下引用。


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2018041115:57                   カテゴリ九州山地の惨状防災


大分県中津耶馬渓 山崩れで4棟被害 5名不明 一人死亡

平野虎丸です。ご訪問ありがとうございます。

きょう、テレビニュースで大分県耶馬溪の土砂崩れを知り、ネットで写真を見てみましたが、案の定、成長したスギ山が崩落していました。

雨も降らないのに、なぜ?という声も聞かれます。

専門家と言われる人々は、地盤や地質、地下水のせいにしているようですが、私は、「今回は風」が原因だと思います。

大分県や熊本県では台風や強風による風倒木を経験しています。

挿し木スギは根が横に張り浅い為、大雨ばかりでなく、強風でも倒れやすくなっています。

浅い植木鉢に植えられた背丈の高い木ではよくあることです。

今回、西日本新聞の記事によれば、64歳の女性が、「竜巻のような突風で木が揺れていた。恐ろしかった」と言っています。

このような状況は今後、日本全国でどこでも起こり得ます。

原因は、

1、植林した場所が悪い。今回は30度の急傾斜地であり、土砂災害警戒区域であった。

2、根の浅い挿し木であり木が成長していた。

3、地質が悪い。

4、そこに突風が吹いた。

今後の土砂崩れ対策

1、急斜面にある人家の裏山の成長したスギは早めに伐採する。

2、今後、急斜面や沢沿いには植林しない。

3、素人が指導するお役所林業を廃止する。

土砂崩れがご心配な方は、ぜひ、私にご相談ください。

現場を見て土砂崩れ診断を行います。

電話は090-2082-6618です。


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崩落地横の左右 今後も大風程度で崩落する可能性有 この人工林が6人もの人命を奪った


冒頭の写真をご覧頂ければお分かりのとおり、崩れたのは針葉樹であり、多少とも歯止めになろうとした僅かに残された広葉樹ですが、皆伐して植林しているのですから崩れるための順番待ちになっているようなものなのです。

そもそも、このような脆い急傾斜地に杉を植えるのが間違いで、崩して下さいと主張しているようなものなのです。農水省も林野庁も県林業課から役場の林業係も森林組合も危険と分かって放置しているとしか言いようがありません(馬鹿の4乗~5乗)。

覆われている広葉樹と表土が破壊されれば崩れてくるのは当たり前の事なのです。

そのうち、全国でこのような崩落が始まれば、危険な人工林を処理しようと言う話も出て来ることでしょう。しかし、それまでには今後とも多くの人命が失われ奪われることになるでしょう。特に耶馬渓は危険な場所なのです。

それはともかく、今度は地名から説明して見ましょう。

まず、この谷の奥にはすっぽんの里としても知られた伊福温泉があります。

確か、十年も前に地名研究会の泊まり込みトレッキングで訪れた事がありましたが、当然にもテーマは製鉄でした。

sp175-6「伊福」自体が近江の「伊吹山」と同様の製鉄に絡むもので(谷川健一「白鳥伝説」)、今回崩落した地名が「金吉」地区なのです。それにここには「梶ケ原」という小字かしこ名(?)もあるのです。まだ、聴き取りもできていませんが、「金吉」はたたら製鉄で金儲けをした事を記念したものでしょうし、「梶ケ原」の「梶」は鍛冶屋の「鍛冶」の置換えであるはずなのです。

事実、福岡県うきは市には「伊福」姓の元鍛冶屋さんの一族もたくさんお住まいになっておられます。
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さて、当会のメンバーには現役の気象予報官がおられます。

この話をすると「崩落前の二日ほど強い西風が吹いていましたからね…」と言われていました。


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どうやら豪雨災害ばかりではなく大風が吹いても崩落してくるような状況を造り出した戦後の拡大造林政策(林野行政)には新たな悩みがでてきたようです。

普通の雨を史上存在しなかったような超豪雨災害の様に宣伝し、自らの責任を天災でごまかし逃げ回ってはいるのですが、そのうち財政が破綻すれば、周囲を伐採し自ら人工林に火を着け処分せざるを得なくなる事もありうるのです(経済的にはこちらの方が搬出もせず仮置きの必要もなく遥かに効率的なのです)。

末端の小役人どもは調教されていますので人工林の植林を良い事と信じ込んでいますが、悪行を承知のうえでやらせている中央の林野庁官僚どもは今後も言い逃れて退職金を懐に逃げおおせる事でしょう。

凡そ林野行政など学問でも産業でもないのです。その証左が再植林し数世代後の悲劇の準備をしている事です。彼らは国家のためにも国民のためにも国土のためにも国民経済のためにも働いていないのです。

念のために気象庁のアメダス・データで41011日風を確認しておきます。

耶馬渓も観測ポイントではあるのですが、風は出ていないため日田市を取りました。平野部ですので風はそれほどではない様に見えますが、耶馬渓のような谷地では風向により凝集される事は言うまでもありません。


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林野行政により犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈りします

スポット176 赤村の超巨大古墳発見の背景について“うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」の転載

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スポット176 赤村の超巨大古墳発見の背景について“うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」の転載”

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太宰府地名研究会 古川 清久


先に、スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”をオンエアしています。本稿はその続編になりますが、今回は九州王朝論者の大御所内倉武久氏のブログからの全面転載を行うとともに、同サイトの宣伝を行わせて頂きます。

その前に、当方のブログの冒頭も若干お読み頂きましょう。


現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。


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赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。

丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。

2018/03/20付 西日本新聞朝刊=

既に公開されてしまった事から申し上げますが、この古墳の存在については一部の九州王朝論者の間ではかなり知れ亘っていましたし、信用できる研究者に対しては秘密裏に情報を流してもおりました。

報道でも登場した福永晋三氏は五年ほど前から香春町講演を行っていますが、福永氏と私とが3~4年程前の香春町での講演の直前に川崎町のN某氏から“こんな映像が見れるんですが…”として、私のパソコンを引っ張り出してグーグル・アースの画面やらN氏の手持ちの画像で確認したのが事の発端でした。

その後しばらくして元朝日新聞の記者でありミネルヴァ書房から「太宰府は日本の首都だった」外3著を出しておられる内倉武久氏をお連れして、現地の筍(タケノコ)山などに入り、高坏の破片となどの土器片を拾い、地権者である筍栽培農家の方からも大量の土器片を入れた箱などを見せて貰った事から、何とかオーバー・グランドに引き上げられないものかと工作を始めたのでした。

sp176-2そもそも傍流の九州王朝論者の一部には「豊前王朝論」なる概念があり、九州王朝の連合国家、分封制、分裂国家(南北朝ならぬ東西朝)といった様々な仮説が提出されていました。

 代表的なところでは大柴英雄の「豊前王朝」、坂田 隆氏、室伏志畔氏、佃収…と言った主として傍系の九州王朝論者の一群になるのですが、発見以来、私自身の当初の考え方としては始めから宣伝戦を行なうべきだというものでした。

それは、邪馬台国畿内説の最大の根拠とされてきた畿内の大型古墳群に対して、九州などには巨大古墳は存在しないし、あってはならないとするのが、利権集団としての考古学協会であり、その神輿に乗っている(その実使われている)京都学派なのであって、九州でどのように重要なものが出土しようが発見されようが、どうせ蓋をして重要なものほどコンクリートで固めてしまい、発掘調査費のほとんどを畿内で独占しようとの思惑があるからと考えてきました。

これこそが、古田武彦や九州王朝論が無視され攻撃され、他愛もない邪馬台国九州説までもが相手にされず、お伽話風のご当地邪馬台国説だけが許容されてきたのでした。 …以下省略… 以降は内倉ブログ


ブログNO.78 福岡県赤村に超巨大古墳?
前方後円墳形、安閑天皇御陵の可能性も

2018-03-31 01:03:22 テーマ:ブログブログNO.78(取り換え用)


福岡県赤村に超巨大古墳? 前方後円墳形、安閑天皇御陵の可能性も


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320日の西日本新聞筑豊版に「福岡県田川郡赤村という所に超がつく巨大前方後円墳が発見された。邪馬壹()国の女王・卑弥呼の墓か」というニュースが掲載され、後日九州朝日放送(KBC)でも放送されたと聞く。

場所は当ブログNO.77でお伝えした「本当の神功皇后陵」のある福岡県京都郡みやこ町に近い田川郡赤村というところである。この超巨大前方後円墳?については小生も関係していたので知りえたデータをお伝えしておこう。

 グーグル・アースで計測すると全長は最大に見積もると470、あるいは465㍍ほど。後円部の直径は180㍍前後、前方部の幅は220㍍前後はある。日本一の巨大前方後円墳として知られる大阪府堺市の大仙古墳(仁徳陵古墳)が全長486㍍というからこれに次ぐ列島二番目の巨大古墳ということになる。

 この巨大前方後円墳?が地元で発見されたのは2014年ごろのことで古代史ファンの間ではよく知られていた。

小生が田川地区の南に位置する朝倉市に継体天皇、そして息子の安閑天皇が香春(かわら)町勾金(まがりかね)を含む大任町、赤村周辺に都を造り、継体天皇の本当の御陵候補として朝倉市菱野の列島最大の超大型円墳・長田古墳(直径130㍍=グーグルアース計測)をあげた(ブログNO.1315。このことで、同地区の機運は大いに盛り上がった。2015年のことだ。

小生ら数人でこの前方後円古墳形地形「仮称・赤村内田古墳」の調査をしてみた(写真・模式図参照)。

古墳であるとすると、この古墳は丘の一部を切り取って造ったいわゆる「丘尾切断型」の古墳である。

西側は丘と切り取った部分の間を環濠として利用しているらしく、現在ぐるっと墳丘を囲む形で田んぼになっている。南側の前方部?の端には現在も池が残っており、環濠の一部ではないかと考えられた。

後円部は中心から東側が大きく崩落しており、流れた土砂は平成筑豊田川線の線路を越えている。

後円部裾付近で土地所有者が土器(須恵器)を採集しており、見せていただいた(写真)。小型の壺か高坏の一部ではないかと思われるものもあった。おそらくいわゆる「祭祀用の造り出し部」が形成されていたのかもしれない。


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墳丘全体にいわゆる葺石らしいものはまったく見受けられなかった。

土地所有者・広瀬さんのおばあちゃん(現在死去)の許可を得て墳丘の様子を探った。頂上部付近の土を細かく調べたが、盛り土はきわめて細かい土砂で、石混じりのいわゆる山土とはまったく違っていた。土質に詳しい人は「さらさらにした土を盛っているようだ」と話していた。

盛り土を上から激しく踏みたたくとボンボンと空虚な音がした。中に空洞(横穴式石室)が設置されている可能性が考えられた。

もし古墳であるとすれば石室を築くための墓道(ぼどう)があるはずだ。資材の運び入れや後に追葬する折に使う道だ。墓道は後円部の右側に出入り口を設けるケースが多いのと、墳丘の東側に沿って御祓(みはらい)川が流れているのでそこから資材を運び込んだのではないかと考えた。

土地所有者の広瀬さん宅の西側に水がしみ出しているところがあり、そこに鉄棒を刺し込んで調べてみると固い地盤のなかに約5㍍幅で切れ込みがあることがわかった。中心部に向かっているらしい。墓道である可能性があると思った。

前方部?を歩いてみたが地表ではそれらしい構造物は発見できなかった。

その途中、広瀬さんの娘さん(現当主)が現れ、「何をしてるんですか」と激しい口調でなじられた。「古墳である可能性があるので、おばあちゃんの許可をとって調べさせてもらっています」と答えたが、「私は聞いていない。すぐに出ていってください」と申し渡された。地磁気探索による内部の透視作業も考えていたが、それ以上の調査はできなかった。

◇「卑弥呼の墓」の可能性はない

巨大な前方後円墳であると発表された折、「この古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓である」と発表したようだ。田川地区に知られていない数多くの前方後円墳がある、ということを一般にアピールするにはもってこいの発表の仕方かもしれない。しかし、基本的に古墳の裾から出土する土器や墳丘の形を見る限り、西暦247年前後に亡くなった卑弥呼の時代までさかのぼるとは思えない。邪馬台国田川説を唱える人もいてその著述も拝見したが、物証に乏しく、卑弥呼のことを記した『魏志倭人伝』を充分読みこなしているとは思えない。

解釈にも疑問が多い。一例をあげれば『魏志』の距離記載の問題だ。前後の時代の尺度と違い『魏志』は故古田武彦氏らの研究で判明している通り「短里」を使っている。「一里(300歩)=76㍍前後」だ。

この数値から「卑弥呼の墓」は「径100歩」と記録されているから直径25㍍前後の円墳、あるいは円墳に祭祀用の出っ張りをつけたホタテ貝式とか小規模の前方後円墳であろうと考えられる。「赤村内田古墳」とは桁違いに小さい古墳だ。

田川地区が通説とは全く違い、真実の古代史のキィを握る地域の一つであることは間違いないのだが…。

実は愛知県に住む古代史研究家・石田泉城氏がこの18日、同じグーグル・アースを使ってこの前方後円形地形を見つけ、インターネットブログ(「古代日記・コダイアリー)で公開している。そして「このことは多分私が初めて発見したことではないか」と述べている。

現地の人は最初に自分が発見したことを知らせようとして「卑弥呼の墓」として急遽発表したのではないかと思われる。

◇安閑天皇の陵墓の可能性も

もしこの古墳が間違いなく巨大な前方後円墳であるとすれば、誰が埋葬されているのだろうか。卑弥呼でないことは確実と思われる。もっとも確率の高い人は安閑天皇ではないだろうか。

当ブログNO.15でお伝えした通り、安閑天皇は当地に数多くの屯倉を設置し、その都は「勾の金の箸の宮」とされる。香春町勾金付近だ。この古墳形地形の脇を流れている御祓川の下流約15キロに安閑の都の一部と考えられる「浦松遺跡」がある。

父親の継体天皇が都した朝倉市から北に峠一つ越したところである。4世紀末ごろの神功皇后の本当の御陵(ブログNO.77参照)にも近い。

 安閑天皇の御陵について『記紀』は「河内の古市の高屋の丘」にあると書いている。「河内」は今大阪平野の海岸部を指すと考えられ、宮内庁が指定している御陵は大阪府羽曳野市にある。が、当地は「元祖・河内」である(ブログNO.59参照)。

 特に古墳のある場所付近は「本河内」と言っていたという。古墳近くに立てられている「圃場整備記念碑」にもしっかり記されている。

「高屋」は当地ではその地名を確認できないが、隣接の京都郡みやこ町には現存する。「古市」は行橋市の「椿市」を指しているのかもしれない。古くから「歌垣」も催されていたという市(いち)でもある。奈良県桜井市の「第二次・椿市」の本家に当たる場所だ(ブログNO.16参照)。

 安閑天皇は長らく継体天皇の補佐役として活動したが、治世わずか2年(『紀』は4年間)という〝短命〟天皇だったという。その理由がわかりそうだったので当ブログNO.56の後半部分に書いておいた。

 いずれにせよ、極めて短い治世の天皇で、その御陵には皇后の「春日の山田の皇女」と妹の神前(かむさき)皇女を合葬したという。もし当古墳が巨大な前方後円墳であるとしたらその石室も巨大であろう。奈良・飛鳥の見瀬丸山古墳(全長318㍍)をはるかにしのぐ石室(284㍍以上)が構築され、継体朝の文化を証明する数々の遺品が眠っていることだろう。

 報道では、この件に関して何も知らず、さらに「九州にそんなものはないはずだ」といういかがわしい通説だけを頼りにした「研究者」や「権威者」が「古墳ではない。前方後円墳に似た自然の地形だろう」とコメントしているらしい。

どちらが正しいか。磁気探査や発掘調査の実施が待たれる。これらの「研究者」は詐欺的手法を使って通説を守ろうとしていることは、このブログで繰り返し述べて来た。彼らは必死になって通説を守ろうとし、調査を拒むだろうが、市民の正しい歴史への理解のために徹底した調査を行う時期に来ている。(20183月)                                    以上引用部終了


皆さんも、まずは、平成筑豊鉄道田川線の内田駅周辺を検索される事から始めて頂きたいと思います。

ただ、残念なことに、九州王朝論者と自認する人々でさえ、現地を踏み薮を掻き分けて調べて見ようとされる方は極少数どころか事実上皆無であって、大半は邪馬台国本読みの半通説紛いの方々ばかりと言った有様では京都学派の専横ぶりは今後とも続く事でしょう。

しかし、“あんなところにそんな大きな古墳などがあるはずはないんですが…”と言わざるを得なかった京都学派のNダニ氏(元は小学校の教員養成大学)の半ば引きつった記者会見は見ものでした。

今後どのようにしてこの巨大古墳(?)を無き物とされるのかは興味深い上に、日本の考古学会の在り様を見据えて行きたいと思うものです。ただ、直ちに「卑弥呼の墓」などとするのは村興し町興しには使えるでしょうが(坂田先生の説…外)、内倉氏は第28代宣化天皇(センカ)陵墓説を提案されています。

なお、朝倉市には本物の継体天皇の陵墓(列島最大級の巨大円墳)があるようなのです(内倉説)。これは、また、別の機会にお話しする事としても既に一部はブログでご紹介しています(長田大塚古墳)。

思えば、「邪馬台国畿内説」なるトンデモ説の最大根拠は、列島の巨大古墳の大半が畿内に存在しており、その延長上に近畿大和朝廷が成立したとして、その前身のはずの邪馬台国も畿内にあったはずだと言った他愛もない戦前戦中以来の俗説でしかなく、その話に調教されてきたのが現京都学派でもあったのです。

今回の赤村の発見が本当に超大型古墳かどうかも分かりません。しかしの外にも豊前には多く大型古墳らしきものが放置されているのです。彼らには邪魔物でしかないこれらをどうするかを注目しましょう。

なお、グーグル・アースを使ってこの前方後円形地形を発見し、インターネット・ブログで公開された古代史研究家・石田泉城氏のブログsp176-5については、古田史学の会系の方であったことから直ちに「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)でのリンクを張っています。


sp176-6

本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。

523 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に…② 京都府京丹後市の地名に関して

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523 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に…② 京都府京丹後市の地名に関して

20170905

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に ①…兵庫県豊岡市 宇日、多久日の三宝荒神 で通過した兵庫県豊岡市北岸の穴見海岸を通過し、観光客が押し寄せる城崎温泉など見向きもせず、いち早く京丹後市に向かいました。

 今回で四度目ぐらいの訪問になるのですが、丹後半島東岸の浦島太郎を祀る宇良神社で確認したいことがあったのでした。

 その話は後回しにするとして、ここでは京丹後市で目立つ地名の問題を考える事にします。

 熊本在住の女性メンバーなどに電話を入れると、秋の京丹後と聞くだけで憧れの情念が湧きあがり、良いですね…、嫉妬させようとしてるんでしょう…、羨ましがらせようと掛けたんでしょう…といった反応ばかりでした。

 それほど、京都+丹後半島と言うネーミングはある種のイメージを醸成するもので、実に素晴らしい効果を産んでいるようです。


523-1

伊根と与謝野を除く丹後半島西半部が京丹後市になるのですが勿論2004年施行の新行政単位です


 京丹後市で最も見たい神社と言えば当然にも大宮売()神社(祭神:大宮売神+若宮売神)となります。

 この神社についても報告するつもりなのですが、今回、同社の鎮座地についてイメージが湧いてきましたので、報告とは別に取り上げて見たいと思います。


523-2

この神社の鎮座地の周枳(スキ)が気になるのです。枳はカラタチ。

 当然にも周防の国は「スオウ」と読みますが、普通は、周瑜、周期、歯周病、円周率…と「シュウ」と読む方が圧倒的なのです。

 こういった場合、周防の国の例があるように「スキ」と読むのは何らおかしくないと言う方が直ぐに出てこられるのですが、古くは「シュウキ」と呼んでいたから「周」の文字が当てられたのではないかと考えているのです。

 従って、「周防」も「周+防府」と呼ばれていたと思うのです。

 そして、この神社を守る一族には中国ナンバー・ワン「周」王朝の影を見てしまうのです。

 それは、以前から問題としていたお隣の与謝野町の「与謝野」という地名も同様の問題を孕んでいるからです。

 この「与謝野」も「ヨサノ」ではなく「ヨシャノ」と呼ばれていたから、注射器の「射」の字が当てられたと考えてきました。

 実は、北部九州の発音の特性に「サ、シ、ス、セ、ソ」を「シャ、シ、シュ、シェ、ショ」と「S」音を「」(インテグラルエス)音で代用する傾向が顕著に認められるのです。

 著しいのは北部九州でも筑豊地方で、市町村議員レベルは当然として、県議から国会議員まで、「政治決戦に勝利しよう!(シェイジケッシェンニショウリシヨウ)」「性生活(シェイシェイカツ)」「今からしようか?」を「今からシュウカ?」と言ってしまうのですから、どう考えても北部九州の物部軍団がこの地に大量に進出しているように思えるのです。

 与謝野町の例を軸に考えていたのですが、京丹後でも最も重要な神社の一つの鎮座地の地名がそうであったのならば、複数の例で裏付けられたことになりそうで、まずは、密かにほくそ笑んでいたのでした。

 本気で調べれば、このような例は幾らも拾えるはずですが、そんな事をやったとしても、鼻であしらわれるのが関の山でしょうから、本気で追及するつもりはありません。

 まずは、言いっぱなしにしておくことが肝要で、真顔で本気に構えるべきではないでしょう。

 この傾向は日本海ルートで津軽半島を越え、下北半島まで到達しているようです。


下北弁

サ行の変化 「シャ、シ、シュ、シェ、ショ」と変化し発音されることが多い。例)「背中」が「シェなが」、「様々」が「しゃまジャま」「ジャ、ジ、ジュ、ジェ、ジョ」と変化し発音されることが多い。例)「膝」が「ひんジャ」、「風邪」が「かんジェ」…



523-420170906
 20:33 による


 ついでに初見ながら言いたいことを言っておけば、周枳(スキ)は渡来系氏族(民族)によって持ち込まれたもので、「白村江の戦い」のスキ=村、城塞都市、砦集落の「スキ」「サク」「スク」… であろうと考えています。


523-5

京丹後の中心部大宮町


「サ、シ、ス、セ、ソ」を「シャ、シ、シュ、シェ、ショ」と「S」音を「」(インテグラルエス)音で代用する傾向で一般にも分かりやすい例は、行政用語の鮭鱒(サケマス)漁に対して、庶民は鮭(シャケ)=実際は鱒ですが… 塩鮭(シャケ、ジャケ)と言っている事はどなたもご存じのとおりです。

 このような「∫」(インテグラルエス)音を好む傾向は、恐らく北部九州の海人族の移動によって海岸伝いに持ち込まれたものと考えています。

 さすがに鱒を「マシュ」とまでは言っていないようで、与謝野鉄幹のご先祖も古くは「ヨシャノ」と名乗っていた時代があったと思うものです。

 ただ、お酒は「オシャケ」とは言わないはずで、全てに演繹可能と言ったものではないので注意が必要です。

 いっぺんに申しあげても理解してもらえないためこれぐらいにしておきますが、畿内と言うか関西に来ると言葉の問題を強く意識します。

 まず、上方落語をこよなく愛するものとして、強い思いが湧いてくるのが、まず、「hi=ヒ」音と「si=シ」音との問題です。

 質屋は「シチヤ」ではなく「ヒチヤ」のはずだし、七「ヒチ」は「シチ」ではない。

 従って、西日本標準語を意識し、九州王朝標準語を意識するものとしては、七輪「ヒチリン」は「シチリン」ではないはず。と思うばかりです。

 まず、上方落語を聴いているものとしては、江戸落語の三遊亭円生だろうが、古今亭志ん生だろうが、例外なく「質屋」(シチヤ)と言っているものが、関西では「質屋」(ヒチヤ)としか言っていない事に気づくのです。

たまたま車中で聴いていた桂 米朝の「質屋蔵」でも「質屋」は「ヒチヤ、ヒッチャ」でしかない事を、再確認したのでした。


523-7

この「質屋蔵」でも故)米朝師匠は間違いなく「ヒチヤ」と発音しているのです。


桂 米朝の「質屋蔵」 演者と演出

大阪落語の「ひちやぐら」が古くから江戸に移されて演じられていました。

熊さんの大言壮語と、いざとなったときの腰抜けぶりの落差は、現桂歌丸で聞くとたまらないおかしさです。

六代目三遊亭円生は、戦後大阪の四代目桂文団治に教わって、得意にしていましたが、最後の天神の場面を古風に風格豊かに演じました。現在では、歌丸のほか、円生門下の三遊亭円弥、同生之助らが演じ、本家大阪では、やはり桂米朝のものです。

上方のオチは、番頭が「あ、流れる思うとる」と言ってサゲるやり方もありました


523-9による


 この「質屋蔵」という噺は地味ですが非常に面白く過去50回は聴いているはずですが、このCDでは前話にちょっとした小噺が入ります。

文字も書けない無筆(これも「ムシツ」ではなく「ムヒツ」ですよね…)の熊五郎が最近文字を習い始め、借りた羽織を返しに来て、棚の上に置いて帰るのですが、その伝言に習い始めた「借りた羽織は棚に置いた」の意味で「七」(ヒチ)に置いたと書いた事から、「何で勝手に質入れしたんだ…」と思っていると、たまたまやって来た熊五郎が羽織はそこの棚にあるじゃないか…となるわけです。

 でも、七に入れた(質入れした)と書いてあり、何で断りも無しに勝手に質入れしたのか…となるのですが、熊五郎は「お前字を知らんな、七は七夕の七でタナ=棚と読むんじゃ…」というオチになるのです。

 話が脱線しすぎましたので、これはここでおしまいにしておきます。

大宮売(め)神社(祭神:大宮売神+若宮売神)は話が流れましたので別稿とします。


上方の「質屋蔵」という噺は、「ヒチヤグラ」ではあっても決して「シチヤグラ」ではないことがお分かりいただけたのではないでしょうか?

当然、発音に関しては九州も同様で、明治以降東京の山の手方言をベースに標準語が創られたことから、七(ヒチ)は七(シチ)と読むのが正しいことになってしまったようなのです。

 実際は、「ヒ」の発音が苦手な東国の戎が「シ」と発音した言語特製の全国化が影響しているのです。

スポット174 赤村の超巨大古墳をグーグル・アースで発見された方とリンクしました 早速「淀姫命」

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スポット174 赤村の超巨大古墳をグーグル・アースで発見された方とリンクしました 早速「淀姫命」を転載します

20180327


太宰府地名研究会 古川 清久


既に前ブログ 536 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”

ご紹介したsp176-5とリンクを張る事になりました。

 「古田史学の会」系の九州王朝論者であり「東海の会」のメンバーでもある石田泉城氏は、本物の研究者中の研究者であることはブログのタイトルを見るだけでも分かります。

 特に「淀姫」に関して長文を書いている当方としてはコダイアリーに掲載されている「淀姫命」を掲載させて頂くことにしました。簡潔ですが必要な事は全て押えられており、どのようにして百嶋神社考古学の心臓部まで把握されているのか不明ですが、是非ともお読み頂きたいと思います。

 なお、当方の「淀姫」は太宰府地名研究会のHPから「淀姫」をお読み下さい。

では、コダイアリーの「淀姫命」をお読み下さい。以下。


「淀姫命」2017/8/31() 午後 10:44付け 石田泉城

これまで、高宮八幡宮の社伝、筑紫の磐余稚櫻宮や磐余池、磐瀬宮と朝倉橘広庭宮の関連、大津皇子の歌による筑紫の五十川村と曰佐村と譯語田舎、墨江中王に名などに関連して、第十七代履中が九州の天皇である可能性を探りました。

 さて、履中記の記事では、気になる地名が登場します。
 難波宮と石上神宮です。


 本坐難波宮之時、坐大嘗而爲豐明之時、於大御酒宇良宜而大御寢也。爾其弟墨江中王、欲取天皇、以火著大殿。於是、倭漢直之祖・阿知直、盜出而乘御馬令幸於倭。故到于多遲比野而寤、詔「此間者何處。」爾阿知直白「墨江中王、火著大殿。故率逃於倭。」爾天皇歌曰、・・・・・・<歌の関係部分を省略>・・・・・故、上幸坐石上神宮也。
                                       
         (『古事記』)


 履中は、即位してからは磐余稚櫻宮にいたはずですが、この記事の難波宮は、父の仁徳の皇居である難波高津宮のことと思われます。

 この難波高津宮は、通説では、浪速高津宮(こうづぐう)(高津神社、大阪府大阪市中央区)としますが、先述のとおり筑紫・難波にも高津(たかつ)神社(福岡県筑紫郡那珂川町山田359-3)があり、その本宮は伏見神社本宮(福岡県那珂川町山田)です。

 ただ、仁徳記には、この説話以前に「大雀命、坐難波之高津宮、治天下也」とあり、また仁徳紀にも「都難波、是謂高津宮」と記述され、すでに仁徳の皇居については高津宮とされていますので、この履中記の難波宮を、高津宮と理解してよいのか、やや疑問が残りますが、一応、筑紫・難波の高津宮の本宮である伏見神社本宮としましょう。
 以前にも述べたように、筑紫・難波の高津神社の御祭神は、伏見神社本宮から頓宮された豊宇気毘売神とある一方、伏見神社本宮の由緒書きには、御祭神は、淀姫命を筆頭に、須佐之男命、大山祇神、神功皇后、武内宿禰とあり、豊宇気毘売神はありません。さらに、由緒書きには「淀姫命は神功皇后の姉姫で千珠満珠を求め給う神徳の姫で欽明天皇二十五年十一月朔日佐賀の県に川上大明神として鎮座されたが託宣によって此の地に遷座され・・・」とあり「淀姫命は神功皇后の姉」と書かれています。

 また「佐賀の川上大明神」を遷座されたとも記されます。その佐賀の川上大明神は、川の守護神である與止日女(よどひめ)大明神とされ、佐賀県佐賀市大和町大字川上にある與止日女(よどひめ)神社に祀られています。この神社は、淀姫神社、河上神社とも言われます。ただし、與止日女神社の由緒書きでは、「淀姫は神功皇后の」とされ、伏見神社本宮の由緒書きとは姉とで違っており混乱しています。

 一方、高津神社の御祭神である豊宇気毘売神については、食物・穀物を司る女神で、後に稲荷神と習合し同一視されるようになったので、稲荷神社である高津神社には、豊宇気毘売神が祀られるのは当然ともいえましょう。ただし、豊宇気毘売神は、淀姫命と同一ではないはずなので、やはりどこかで混乱しているように思われます。

 これに関して、百嶋神社考古学の神代系図(以下、百嶋神代系図)では、彦火火出見尊である山幸彦を父、豊玉姫を母として、その子が鵜草葺不合命になりますが、豊玉姫は子育てを放棄して竜宮に帰ってしまい、その代わりに異母妹の()玉依姫が子育てをします。鵜草葺不合命は、その育ての母である玉依姫と婚姻し、安曇磯良(表筒男)をもうけています。その安曇磯良の妻が、同父の鵜草葺不合命と奈留多姫の間に生まれた娘である豊姫(ゆたひめ)であり、玉姫・淀姫でもあります。

 したがって、鵜草葺不合命からすれば、豊玉姫が実母であって、()玉依姫は、乳母であり妻です。安曇磯良からすると豊玉姫が祖母であり()玉依姫が実母になります。また、豊姫(玉姫・淀姫)からすれば、()玉依姫は叔母であり義理の母という関係にありますので、豊玉姫と玉依姫は異なる人物であり、また彼女らは、豊姫(玉姫・淀姫)とも異なる人物です。
 なお、記紀では、神倭伊波礼琵古命(神武天皇)は鵜草葺不合命の子ですが、百嶋神代系図では、神武の別名の彦火火出見尊が鵜草葺不合命の父となりますので親子関係が逆転しているようです。
 整理すると次のようになります。


sp174-1

ここに登場する姉の豊玉姫、妹の玉依姫は、それぞれ満珠、干珠に擬えられ、安曇族の海神豊玉彦の娘とされますので潮の干満に大いに関わりがあります。伏見神社本宮の由緒書きでは、その祭神の淀姫命は、「神功皇后の姉姫で千珠満珠を求め給う」と記されていますので、淀姫命を姉の豊玉姫に充てています。しかし、與止日女(よどひめ)神社の由緒書きでは、「淀姫は神功皇后の」とされ、伏見神社本宮の由緒書きとは姉と妹で違っています。いずれにしても「千珠満珠」の点では、淀姫命は、豊玉姫玉依姫の両方にかかわるようです。

 さらに、百嶋神代系図では、(ゆた)は、玉姫や淀姫と同一で、鵜草葺不合命の娘であって、河上タケルの妹(表筒男・安曇礒良の妻)に当たります。豊姫は、後に與止日女神社(川上神社)の河上大明神になりますので、豊姫淀姫とする百嶋神代系図と合致します。これに従えば、伏見神社本宮の御祭神の淀姫命は、豊姫と同一ということになります。

 一方、頓宮した高津神社では、その祭神を豊宇気毘売神とします。一説に、淀姫は豊玉姫であるともいいますので、本宮で祀る淀姫命豊玉姫とみなして、その豊玉姫と、豊受姫とを混乱しているのではないかと想像します。百嶋神代系図では、豊受姫は豊玉姫のいとこであり、豊受姫と豊玉姫は神としての役割も違うので同一人物とはいえません。また、海の神である豊玉姫と川の神である淀姫は同一とはいえませんが、時代の変遷とともに「千珠満珠」に関わる神として、豊玉姫は、淀姫へと移行・集約化してきたようです。

 以上を総合すると、淀姫命は、「千珠満珠」に関わり、大津波や洪水を防ぐ女神全般を包括する神を意味しているのではないかと思います。
 そして、淀姫命は、豊玉姫や玉依姫にも広くあてられる女神になり、百嶋氏が示すとおり、淀姫命は、豊姫や玉姫にあてられたのだと思います。

 さて、この玉依姫に「千珠満珠」を授けた山幸彦は、百嶋神代系図では、彦火火出見であり、また饒速日でもあるとされます。

 饒速日は、物部氏の祖であり、古くより天皇に関わっています。

 次回は、履中と物部の関係に焦点をあてます。

以上で引用部分終わり


いずれにせよ数年前まで全く知られていなかった百嶋神社考古学が多少とも浸透している事は驚きです。

 ここで、佐賀県のど真ん中を南に流れ降る嘉瀬川の畔に鎮座(嘉瀬川の上流の旧富士町上無津呂には河上の淀姫神社に50年先行する縁起を持つ淀姫神社がある)し、佐賀県西部から長崎県に数多く分布する淀姫神社は何故か京都の伏見に飛んでいるのです。

そして、淀姫の「淀」が新大阪駅の正面を流れる淀川の語源となっているのです。


sp174-2

敬愛する神奈備による  祭神 高皇産靈神、豐玉姫命、速秋津姫神


由緒

山城国乙訓郡の式内社。

元は桂川の対岸の水垂町に鎮座していたが、淀川改宗工事に際して淀城跡北の現在地に移転。

淀姫社、水垂社、大荒木神社とも呼ばれていた。

 『三代実録』に、貞観元年(859)に、正六位上与度神を従五位下の叙したとある。

 『寺院神社大事典山城編』には、旧鎮座地は『和名抄』の乙訓郡榎本郷の地であったと云われ、従って豪族榎本連の居住地と思われ、一族の祖神として祀られたとの説があるとしている。『姓氏録』によれば、左京神別に榎本連があり、道臣命十世孫佐弖彦之後也とある。大伴氏の系統だと高皇産靈神より発していることになる。

社伝によれば、応和年中(961~964)千観内供が肥前国佐賀郡の河上神を勧請したことに始まるとされている。祭神の一の豊玉姫の説明であろう。


殆どの淀姫神社を実際に踏んだものとしては、何故、東の伏見に一社だけ飛んでいるのかという事が気になります。

ただ、糸島半島の桜井神社には淀姫神社の神額が残っており、元は淀姫であった事を思わせます。

また、これは最近発見したのですが、島根県石見八幡宮(石見銀山にも近い太田市)にも立派な境内社が存在する事を確認した事から、東方にもまだ存在する可能性は否定できません。

ただ、この程度ではピースが少な過ぎて、如何なる氏族が如何なる意図で淀姫祭祀を持ち出したのかという問題は解明できないでしょう。

百嶋神社考古学ではオウスノミコトに誅殺された河上タケルの妹の淀姫(ヨド、ヨト、ユタ⇔「豊」)こそが豊姫とされ安曇礒羅=表筒男命となるのですが、ここで、底筒男命たる開化天皇のお妃が神功皇后であるとすると、表筒男命と底筒男命を兄弟と見做し、淀姫=豊姫(ユタヒメ=ユタカヒメ)を神功皇后の妹とか姉とかする混乱が生じているものと理解しています。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神社考古学に関する神代系譜、音声CD、手書きデータ・スキャンニングDVDを必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。


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なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。


524 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… ⑥ 宇良神社(伊根町)浦島神社再々訪

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524 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… ⑥ 宇良神社(伊根町)浦島神社再々訪

20170910

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 丹後半島東岸の伊根と言えば伊根の舟屋を思い出される方が多いでしょうが、我々が気にするのは浦島太郎を祀るとする宇良神社になります。


524-1

宇良神社 カーナビ検索
京都府与謝郡伊根町本庄浜191 ℡0772-33-0721

524-2

浦嶋(ウラシマ)神社は、京都府与謝郡伊根町本庄浜にある神社で浦嶋伝説が伝わり宇良(ウラ)神社とも呼ばれています。


524-3

今回は地元伊根町の町誌(史)をコピーしてきましたので現在検討中です。

 これに抵触する内容を書くのは残念ではありますが、書く方の都合もあり、とりあえずリポートを書くのを優先させました。

いずれこれについても書くことになるでしょう。

まず、浦島神社の手前(当然、天橋立方面から丹後半島反時計回りで北上していますが)で、かなり衝撃的なものを発見しました。

それは、「朝妻」という地名の発見でした。


524-4

久留米にお住まいの方はどなたもご存じですが久留米高良大社直下の「朝妻」の人々の移動に思えます


 今回三度目の訪問になりましたが、目的は、もう一度、浦島神社の浦の島子以外の祭神の確認にありました。

 勿論、インターネットでも確認できるのですが、神社を見る人間にはそれなりの目があり、一般の方には見当が着かない消された祭神まで想像が及ぶのです。

524-5 浦嶋神社の由緒書は興味深いものがありました。

 それは、大山祗(月読命)は把握していましたが、ネットでは発見できなかった祓戸神が祀られていた事でした。

 まず、始めに目についたのは参道(どちらかと言えば境内か?)宇良神社との石塔でした。

 これが元宮を表すものか、宇良神社への寄進もしくは単なる表示のための物かは不明です。

 まさか、祭神としての浦之嶋子が外に出されている訳ではないでしょうが、このようなところから解析して行かなければならないのです。

 社務所で年配の巫女さまにお尋ねした所、直接宮司から携帯にお答え頂き、元宮があった場所だそうです。それで、正面の神体山との参道線のラインのズレが多少解消された思いがしています。


524-6

社殿左手には浮島があり弁財天こと市杵島姫になりそうです。一方、社殿右手の森の中にも小さな祠があり「コノミヤ」とお聴きしました。

 これが宮津の籠(コノ)神社の意味か?胡の宮なのか判別がつきません。


524-7

一方、神殿(本殿)の一つの角だけに祠があり、何らかの謂れのあるものと見ました。

 普通は艮(ウシトラ)の鬼門封じに思うのですが、大体の方角が北東方向でありそれで良いようなのですが、社務所の女性(巫女とお呼びして良いか?)が「方角が一致しないので…」と言われたのを不思議に思っています。多少は社殿の向きが変わったのかも知れませんが何とも言えません。

 祭神問題については現在調査中ですので別稿とするとしても、神社縁起の相殿神の祓戸神についてはコメントを加えて来ましょう。


祓戸大神(はらえどのおおかみ)とは、神道において祓を司どる神である。祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味である。

神職が祭祀に先立って唱える祝詞である「祓詞」では「伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓給ひし時に生り坐せる 祓戸大神等」と言っており、祓戸大神とは、日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊邪那岐が禊をしたときに化成した神々の総称ということになる。

なお、この時に禍津日神、直毘神、少童三神、住吉三神、三貴子(天照大神・月夜見尊・素戔嗚尊)も誕生しているが、これらは祓戸大神には含めない。「祓詞」ではこの祓戸大神に対し「諸諸の禍事罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へ」と祈っている。

『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。

瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す

速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む

気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ

速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う

524-8速開都比売を除いてこれらの神の名は『記紀』には見られず、『記紀』のどの神に対応するかについては諸説あるが、上述の伊邪那岐の禊の際に化成した神に当てることが多い。

本居宣長は、瀬織津比売を八十禍津日神(やそまがつひ)に、速開都比売を伊豆能売(いづのめ)に、気吹戸主を神直日神(かむなおび)に当て、速佐須良比売は神名の類似や根の国にいるということから須勢理毘売命(すせりびめ)に当てている(当てているだけでその神と同一視されるほどのものではない)。『中臣祓訓解』『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』は伊勢神宮内宮荒祭宮祭神の別名として瀬織津姫、八十禍津日神を記している。  


祓戸大神を祀る主な神社

佐久奈度神社(滋賀県大津市)

日比谷神社(東京都港区)

浦嶋神社(京都府与謝郡伊根町) ウィキペディア(20170911 08:29による


浦嶋神社があったことから長々と引用しましたが、祓戸神についてはあまり遭遇しない事もあり、何故、浦嶋神社に祀られているかも不明です。

ただ、大祓に関係しており藤原が関係しているためその事を頭に入れて考えなければなりません。つまり、後付けの意味です。

ただ、ウィキペディアを見ようが実体は見えてこないでしょうから、頻繁に活用している百嶋由一郎最終神代系譜からご紹介しておきます。


524-9

まず、瀬織津比売からお話を始めましょう。この女神を追っておられる神社フリークの女性も散見しますが、実はスサノウのお妃となった櫛稲田姫の事なのです。

気吹戸は、勿論、瀬織津比売の父神である金山彦であり、母神は月読命=大山祗の娘である大市姫(アイラツ姫)ではなく、博多の櫛田神社の大幡の妹である埴安姫であり、この場合主の称号で気吹戸と称しているのです(神号と言うより尊称が一致していますね…同族なのです)。

 従って、本物の神武天皇のお妃となったアイラツヒメとスサノウのお妃となった櫛稲田姫とは腹違いの姉妹となるのです。

 速佐須良比売(鴨玉依姫)とは京都の下賀茂大社の主祭神です。

ヤタガラス=豊玉彦とスサノウと別れた後の櫛稲田姫との間に産まれたのがヤタガラスの後裔としての鴨玉依姫なのです。

しかし、スサノウとは…とお考えかも知れませんが、スサノウの子である長脛彦の問題があり、切り替えが起こっているようです。

速開都比売(豊秋ツ姫)はタクハタチヂヒメの姉にあたる高木大神=高御産巣日神、高皇産霊尊の長女となります。ただ、何故、祓戸神が祀られているかは不明です。

 さて、今回、浦島神社を訪ねた理由は、祀られている月読命の周辺を探る事が目的でした。

 浦島太郎と共に祀られる月読命とは一体何なのでしょうか?勿論、トルコ系匈奴の大山祗なのです。

 これについては、これまでのblogで何度か書いていますので丹念に読まれる方には浦島太郎が誰であり、山幸彦が誰の子であるか、鹿児島のタノカンサーが何者であるのか、そしてその協力者が誰であったのかの謎が解明するのです。

 まず、宮崎県の日南海岸でも有名なウガヤフキアエズを祀る鵜戸神宮の手前に野島神社と言う古社があります。そこは浦島太郎を祀る神社とされ塩土老翁=塩筒翁と猿田彦=ニギハヤヒ=山幸彦が祀られているのです。

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関心をお持ちの方は、以下をお読みください。


ひぼろぎ逍遥(跡宮) 278 梅雨明け直前 日南市にアイラツヒメを探るたった四人のトレッキング

271  田神社(タノカンサー)は朝倉郡を中心に50社近く存在した

083 タノカンサーの正体とは何か?“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市から”

301 日南海岸の野島神社の塩筒大神(塩槌翁)と猿田彦(白髭大明神)の複合が肥後にも…

ひぼろぎ逍遥 スポット070 海の山幸彦 “熊本神代史研究会(仮称)への胎動”      


 外にも幾つも書いていますが、まずはこれぐらいからお読み頂きたいと思います。

 藤原氏によって第3代天皇と祀り上げられただけですが、相当の実力者だったことは間違いがないはずで、以前から該当者を考えて来ました。安寧天皇とされた人物こそ浦島太郎の別名を持った塩土老翁こと博多の櫛田神社の主神の大幡主(当然、製塩業者、渡洋航海者、大帆船を操り貿易を行っていた)でありヤタガラスの父神であり山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦の父神にあたる人物なのです。

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いずれにせよ、丹後半島一帯には大量の月読命=大山祗命=トルコ系匈奴の一族が大量に入っているようです。その月読命=大山祗命と大幡主=浦島太郎とが擬神体=タッグを組んでいるのです。

525 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… ⑦ 竹野神社(京丹後市)初見

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525 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… ⑦ 竹野神社(京丹後市)初見

20170911

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 丹後半島を一周するとかつての經ケ御崎のタンカー座礁事故で流出した原油による汚染などが頭に過りました。

 初めて半島を一周したのは、問題のタンカーを目撃できた時期で道路もあまり整備されておらず、人が歩いていると思ったら何頭もの猿の群れだったり…と思い出深いものでした。

 あの頃からすると神秘性が失われ、その分落ち着いて考える事もできるようになってきました。


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この座礁したタンカーを目撃しただけにそのロケーションと言い強い印象は消えていません。

この経ヶ岬には航空自衛隊の分屯基地(京都府京丹後市袖志無番地 第35警戒隊)があり入間基地の分屯基地になるようです。

525-2まさに朝鮮半島と一衣帯水の地であり、多くの渡来系氏族(徐福=ジェオセフ?)が入ってくる地であることを再認識した次第です。特に朝鮮半島の東半部から船で出れば自ずと但馬から丹後辺りに漂着するのは理の当然であって、古来、百済系(半島南西岸)というよりも新羅系の人々が雪崩れ込む環境にあった事が理解されるのです。


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式内社 丹後國竹野郡 竹野神社 大 旧府社
御祭神 
天照皇大神 斎宮神社 竹野媛命 建豊波豆羅和氣命 日子坐王命


竹野神社 カーナビ検索 京都府京丹後市丹後町宮249 0772-75-0600


525-3

式内社 丹後國竹野郡 竹野神社 大 旧府社 御祭神 天照皇大神

斎宮神社 竹野媛命 建豊波豆羅和氣命 日子坐王命古くは「タカノ」と呼ばれていたが現在は「タケノ」。 社伝によると、丹波大県主由碁理の娘で、開化天皇の妃であった竹野媛が年老いて後、天照大神を祀ったのが当社の起源。本殿脇の摂社・斎宮神社の祭神は、開化天皇皇子で丹波道主命の父である日子坐王命、開化天皇皇子で丹波竹野別の祖・建豊波豆羅和氣命、そして竹野媛命。一説には建豊波豆羅和氣命ではなく、竹野媛命の皇子・彦湯産隅命。…

境内には幾つかの境内社があるが詳細はわからなかった。『明治神社誌料』には、斎宮神社、門斎神社、伊豆神社、稲荷神社、十二神社、野々宮神社、厳島神社、愛宕神社の名が記されている。『式内社調査報告』には、上記に加え、上神明神社、下神明神社、大社、矢崎神社の名が載っている。厳島神社は池の中の小祠だと思う。                               敬愛する玄松子による


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百嶋由一郎金神神代系譜


四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。

『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88?)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。なお、この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させて凱旋したとされている。なお、崇神天皇は3世紀から4世紀の人物とされている。

『古事記』では、4人をそれぞれ個別に記載した記事は存在するが、一括して取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていない。また、吉備津彦命は別名で記載されている。

また、『常陸国風土記』では武渟川別が、『丹後国風土記』では丹波道主命の父である彦坐王が記述されている。

四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。

大彦命は、孝元天皇の第1皇子で、母は皇后・鬱色謎命(うつしこめのみこと)。開化天皇の同母兄で、娘は崇神天皇皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと)、垂仁天皇の外祖父に当たる。舟津神社(福井県鯖江市)、敢国神社(三重県伊賀市)、伊佐須美神社(福島県会津美里町)、古四王神社(秋田県秋田市)等に祀られている。敢国神社の社伝によると同神社より北東1.5Kmの所に位置する御墓山古墳は大彦命の御陵とする。敢国神社の鎮座する三重県伊賀市は大彦命の子孫である阿閉臣(阿敢臣)の発祥の地とされる伝承も残されている。

武渟川別は、大彦命の子。阿倍朝臣等の祖と伝えられる。津神社(岐阜県岐阜市)、健田須賀神社(茨城県結城市)等に祀られている。

また『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされている。(会津の地名由来説話)。このときの両者の行軍経路を阿賀野川(大彦命)と鬼怒川(武渟川別)と推察する見解が哲学者の中路正恒から出されている。

吉備津彦は、孝霊天皇の皇子で、母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)。別名は五十狭芹彦(いさせりひこ)。吉備国を平定したために吉備津彦を名乗ったと考えられているが、古事記には吉備津彦の名は出てこない。桃太郎のモデルの一つであったとも言われている。吉備津神社、吉備津彦神社(岡山県岡山市)、田村神社(香川県高松市)等に祀られている。

丹波道主命は、古事記によると開化天皇の子、彦坐王の子。なお、古事記では彦坐王が丹波に派遣されたとある。母は息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)。娘は垂仁天皇皇后の日葉酢姫(ひばすひめ)。景行天皇の外祖父に当たる。神谷神社(京都府京丹後市)等に祀られている。



525-920170911 15:29による



525-10当然ながら四道将軍も近畿大和朝廷が送り込んだものなどとされていますが、とんでもない大嘘で、九州王朝の開化天皇=高良玉垂命が只の臣下でしかない崇神以下に命じて送り込んだもので、全て九州に縁のある将軍なのです。

 この竹野神社にもその一派たる丹波道主命の一族が入っているため開化の名が出てくるのです。

 従って、神殿の扉にも三五の桐紋が打たれており、この一族が天皇家と姻戚関係にある事を示しているのです。金神系譜を読み取る事から始めましょう。多分筑後の旧竹野郡(久留米市)と関係があるのです。


 研究目的で百嶋神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

526 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… ⑧ 京丹後周辺の「口石」類型地名について

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526 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… ⑧ 京丹後周辺の「口石」類型地名について

20170911

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



今回のシリーズの冒頭に周枳(スキ)という地名の話をしましたが、ここらで息抜きも兼ねて地名の話をしたいと思います。後半は後置修飾語の問題になってしまうでしょう。

 高速道路を使わない移動は多くの地名、人名、屋号に遭遇します。

 国道9号線で東に向かうと、島根県太田市の朝倉神社(ここにも朝山町朝倉があります)を通過し山陰本線のJR田儀(タギ)駅の手前に「口田儀」という地名が拾えます。

 この地名が田儀への入口に当たる地名で通常田儀口などと呼ばれるものであることは疑いありません。

 実は、長崎県佐世保市に口ノ尾町があります。

また、二十年前に、旧佐々町(現佐世保市)に口石免(免は長崎県北部に多数確認できる免租地の意味)がある事に気付き、「石」と表記された臼状地の入口の意味としても口が前に着く日本語としてはあまり存在しない地名である事を強く意識していました。

黒石も臼地名の一つで、付近には臼ノ浦など臼地名が目立つ場所でもあります。


526-1


この「口石」地名を石見の太田に「口田儀」として見出した時は強烈な印象を受けたのでした。

 すると、京丹後市の大宮売神社の鎮座地の付近に口大野というかなり大きな地名に気付き、どうも但馬、丹後、丹波、一帯に多くの口○○型地名が存在する事に気付いたのでした。

 奥大野という地名が口大野の傍にある訳で、よくよく考えれば、東大野、西大野も同様ではないかと言われてしまいそうです。

 ただ、通常は大野口と言われるものが口大野と呼ばれているだけの事になるのですが、どうもこの背後には前置修飾語と後置修飾語の問題が民族の衝突、共存の中で地名として結晶している事を考えてしまうのです。

 このような微妙な変化を理解できる事こそが文化的な事で、この際少し拾い出して見ることにしましょう。

 京丹後から但馬の豊岡市へと向かう県道2号線の峠近くに「口藤」があり、中藤があります。

 与謝野町(宮津市)には「滝」があり、手前に「口滝」があります。以下、地名のみ。

 京都府京丹後市 「馬地」(マヂ)&「口馬地」これは石見の「馬路」の物部地名移動ですね…。

 京都府京丹波町 「口八田」

 京都府京丹波市 「口塩久」(クチシオク)&「奥塩久」

 京都府福知山市 「小倉」(未確認)&「口小倉」

 兵庫県豊岡市出石町 「小野」&「口小野」

 兵庫県蚊香美町 「大谷」&「口大谷」


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 兵庫県朝来市 「米地」(メイジ)&「口米地」

 兵庫県朝来市 「田地」(トウジ)&「口田地」

 兵庫県朝来市 「八代口」(未確認)&「口八代」

 兵庫県養父市 「大江」(オオエ)&「口大江」

 兵庫県宍粟市神河町 「宮野」&「口宮野」…

まだまだ続きますが、後は関心をお持ちの方で試みて下さい。

 さて、話はこれからです。


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Mont Blanc


 写真は言うまでもなくヨーロッパ・アルプスのモン・ブランです。

 皆さんご存じの通りモン・ブランは白い山の意味ですが、山(モン=フランス革命のモンターニュ派=山岳党ですね)+ブラン(白 スペイン語「ブランカ」カサブランカ、イタリア語「ビヤンカ」カーザビアンカ)であり、英語で言えばホワイト・マウンテン(White Mountain)であり、「山白い」と思考している事が分かります。

 日本は、勿論(一応?)、白山姫(天御中主)ですね。「白い山」と考えるか「山白い」と考えるかは、ヨーロッパ系印欧語でも分列があるように、○○口地名と口○○地名を対等に考える価値があるのです。

 つまり、列島の古代に於いて、前置修飾語と後置修飾語は共存した時期があり、結果的に白い山型の前置修飾語が多数派になったのですが、この○○口地名と口○○地名を考えると面白い事が見えて来るのです。

 口は入口の意味ですが、谷口を考えると、谷も口も同じ名詞同志であり、どっちでも良い事になってしまうのです。

 もしも、谷の入口ですよの入口意味を強調した谷口と言いたいか?まだ入口でしかなく谷はずっと奥にあるという意味で口谷と言いたいかの問題もあるように思ってしまいます。

 ここで、ひぼろぎ逍遥(跡宮)350で取り上げた和風諡号から考えてみた をご覧に入れます。


 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

 綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

 安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)      大幡主=塩土翁(白族)

 懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

 孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)     阿蘇系=草部吉見(黎族)

 孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシシヒコクニオシヒトノスメラミコト)玉名半阿蘇系(黎族)

 孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

 孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

 開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

 垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

 景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

 成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

 仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

 応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

 仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統


例外なく彦の付く天皇の和風諡号は「彦」を後ろに持っていかれています。

 ところが考えて下さい。

 ウガヤフキアエズ命は日子波限建鵜草葺不合命 彦波瀲武盧茲草葺不合尊彦が前に置かれているのです。

 今回の丹波、丹後で有名なヒコイマスオウは日子坐王、彦坐王ですね。

「崇神紀」の関係者ですが、一般には神武天皇の皇后であるとされるヒメタタライスズノミコト 比売多多良伊須気余理比売 媛蹈鞴五十鈴媛命も姫が頭に着いています。百嶋神社考古学ではこれは崇神の妃でしかないのです(別名:富登多多良伊須須岐比売命)。


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これは京丹後市大宮町口大野の口大野公民館 奥大野もあります。ついでに口田儀もご覧ください。


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527 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… ⑫ 朝来市の赤淵神社の驚愕 上

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527 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… ⑫ 朝来市の赤淵神社の驚愕 上

20170912

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 話が前後しますが、九州王朝論の立場から考えてもあまりにも重要な問題である事から、急遽、大阪から内倉武久氏をお呼びし、最初に案内したのが兵庫県朝来市の二社、足鹿神社(既に ひぼろぎ逍遥 515 但馬に勅使門を持つ神社がある “兵庫県朝来市の粟鹿神社”で取り上げています)と赤淵神社でした。

 この二社の重要性は言い尽くせませんが、これから時間を掛けて徐々にご説明して行く事にします。

 今回はこの重要この上ない「勅使門」そのものの問題は後回しにし、まずは神社のリポートを先行したいと思います。ただし、緊急性もあることからこの「勅使門問題」については、スポットとしてひぼろぎ逍遥で簡単な報告を行いたいと考えています。


527-1

これも大きな山門ですが、まだ勅使門ではありません 



かなり狭い住宅地の中を抜けて行かなければ届かない神社でしたが、境内に入り驚きました。

 実に素晴らしい勅使門が残されていたのです。

私は前日に先行して見せて頂いていましたが、翌日、同行の内倉先生は思わず声を上げておられました。


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勿論、勅使門は天皇も使うのですが…書いてないという事は近畿大和朝廷のものではないのです


勅使門はともかく、惜しいですが読み取れません。

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右は「高良玉垂宮神秘書」


驚くことに、開化天皇の名が出て来ました。

実は高良玉垂命その人であり、仲哀亡き後の神功皇后はそのお妃なのです。

してみると、新羅への侵攻に併せ勅使が派遣されたとの話(九州王朝の勅使)も真実味が出て来ます。

全国の九州王朝論者の方に参詣して欲しい一社です。

粟鹿神社の分流との表現がありますので、粟鹿神社も忘れずにご訪問ください。

528 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… ⑬ 朝来市の赤淵神社の驚愕 下

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528 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… ⑬ 朝来市の赤淵神社の驚愕 下

20170914

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 結局、前blogでは勅使門に終始し、同社の祭神、神殿、摂社にまで話が進みませんでしたが、今回はこの話に進む事になります。


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境内には三重塔の芯礎が残されていました。

 仏教を早くから持ち込んでいた形跡を持つ九州王朝の一面を思わず考えてしまいましたが、淀江廃寺、岩井廃寺を始めとして山陰に多く認められる九州王朝系の国寺だったのではないかと思わせます。

祭神については、大海龍王神、赤渕足尼神、表米宿彌神の三神とされており、恐らく大海龍王神とは豊玉彦=ヤタガラス(対馬海神神社、和多都見美神社の主神)でこの神社鎮座地の朝来市和田山とも対応します。赤渕足尼神とその後裔と考えられる表米宿彌神は前blogで取り上げた神紋で判断できそうです。

金山彦、スサノウ、長脛彦の後裔の武内足尼であり、菅原道真の先祖神と考えられそうでます。


研究目的で百嶋神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)上 金神神代系譜 下 長脛彦=珍(ウヅ)彦 


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五七桐紋に併せ木瓜紋が打たれています 金山彦を意味していると考えますが一応保留します


この金山彦の神紋である木瓜から金山彦の孫にあたるオキツヨソ足姫が赤渕足尼神であろうと考えられます。


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赤淵神社

 赤淵神社の祭神は、大海龍王神、赤渕足尼神、表米宿彌神の三神です。赤渕足尼命 は表米宿彌命の祖神です。

 神社略記によると大化元年(六四五)、表 米宿彌命が丹後、白糸の浜に来襲した新羅 の賊を討伐した際、沈没しかけた命の船が、 海中から浮かび上がった無数のアワビに助 けられたので、命はそのアワビを持ち帰り、 赤淵神社に祭ったとされています。大海龍 王は海神で、アワビを使い難を救う神で ある といわれています。

 その後、赤淵神社の祭礼にはアワビの 神事が行われ、近隣では今でもアワビを 食べない風習が残っています。

赤淵神社由来記

仰 赤淵大明神 人皇始以来第九代開化天皇御代也 是時皇子四道将軍祀彦坐王  是粟鹿大社之流也 彦坐王為但馬國造子孫代々國造而 司神事執行政務開 拓國土劃治水振興農業以愛民生偉業烈烈恩澤普及 自是營一祠祀歴代國造赤淵 大明神是也

號日下部表米宿禰命 赤淵宿禰五世孫而忠功有奉聞 丹後丹波但州三箇國可為 守賜宣使本國也

因在所窮見給枚田郷内高山麓淵有之淵尋赤淵云 平城守東向赤淵大明神奉祝之 宮也 赤淵神社合祀久世田庄勘納岡表米明神奉祝 然而惣名日下部姓始祖神表 米御子在所分附給 朝倉 絲井 奈佐 日下 八木 本山 太田垣 宿南 姓 是也 属者尊崇殊厚是皆在所名也 日下部表米流丙与繼為子孫不依上下男女可奉 仰 昭和四十五年三月二十七日赤淵神社為國重要文化財 枚田郷赤淵神宮司佐 宗氏同郷地頭枚田氏始氏子連之厚思奉謝 茲来裔氏旌考證家傳祈念之建碑傳永 世者也

敬愛する「玄松子」による


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青枠の「常色元年」が九州年号である事がお分かり頂けますね…従ってこの時代に使われた九州王朝の天皇の一族とその勅使だけが使える門であることがわかるのです。

なお、勅使門の問題には踏み込んでおられませんが、古田史学の会の古賀達也氏により、この赤淵神社の九州年号「常色」についてブログ数本で詳細な検討を加えておられます。

1. 636 2013/12/21 1ドルの『邪馬壱国の証明』の邂逅 791話 2014/09/24 所功『年号の歴史』を読んで(3)697 2014/04/22 『古代に真実を求めて』17集の採用稿 第690話 2014/04/06 朝来市「赤淵神社」へのドライブ 古賀達也の洛中洛外日記 '14  以上。

摂社についても触れたいのですが紙面がありません。

秋葉神社=金山彦、三宝荒神…と金山彦、スサノウ系が顕著です。


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彦座王は筑豊の添田町の彦山の意味と考えており、彦山大行事社周辺に、後裔と考えられる天野姓(ノーベル賞受賞者もおられましたね)の方もおられます。

スポット159 百嶋神社考古学からは九州王朝の別の姿が見えてくる

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スポット159 百嶋神社考古学からは九州王朝の別の姿が見えてくる

20180210


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


太宰府地名研究会は熊本、大分も含め、現地のフィールド・ワークを続けていますが、同会のHPには多くのblogがリンクされています。当方が運営するものも、古代史、地名研究、民俗学を対象とする「ひぼろぎ逍遥」
sp159-1と神社研究に特化した「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)という二本立のblogによって月間2030本程度を配信し始めて5年目に入りましたが、既にネット上には1200本(6,0008,000p)程度の記事が踊っています。勿論、主要なテーマは九州王朝の探究ですが、現在、二本立てのblogだけでも日量10001200件(=年間45万件)程度のアクセスがあるのです。当面、年間50万件を目標としています。それ以上に連携するサイトの規模を考えてもグループ全体としては凡そ年間150200万件を軽く超えているものと考えています。この点、質が全く異なるハイ・レベルこの上ない格調高い古田史学の会の「新古代学の扉」が年間10万件=累計150万件程度であることを考える時、我々の下世話なサイトもそれなりに健闘している事がお分かり頂けるかも知れません。

当方の場合その背骨を支えてきたものは大学時代から読み始めた古田武彦3部作でしたが、後期三部作も含め、徐々に非古田、反古田系の九州王
sp159-2朝論にも目を向けるようになり、今や、佃収、内倉武久、米田良三…から神代史研究の第一人者であった百嶋由一郎神社考古学に焦点を絞った九州王朝論をも取り込み、blog連携を全国化しつつあります(次葉参照)。現在、当方のHP「太宰府地名研究会」「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)には25を超えるblogHPがリンクされています。このほとんどが多少の差はあれ、久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)をベースとした百嶋神代史研究の影響を受けており、今のところ主力は北部九州にありますが、北は青森~東関東、北関東、愛知、南は四国の高知県に百嶋九州王朝研究の立場から神社、古墳…を調べる文献史学派も含めた研究者、記録者、伝承回収者、映像収集家…のネット・ワークが急速に広がりつつあります。最低でも25人の研究者(只のブロガーじゃねいか…と言われそうですが、それでも恥をかかないようにと皆さん頑張って書かれておられるのです)が集まっておられるのであって、自らは何も調べようともせずに、他人の話を右から聴いて左に貫けて行くような只の「邪馬台国本」読みの愛好者ではないのです。勿論、最近スタートしたばかりの方もおられますし、休眠中だったものを復活させた方もおられます。しかし、最低、日量300件のアクセスでも年間では10万件にはなるのです。当然、全体では楽に年間150万件になると申し上げたのも極めて控えめな推計です。当方の二本立てと「常陸の国探検隊」に連動する「宮古の縁側日記」が先行していますが、この4本だけでも軽く7080万件のアクセスにはなるのですから、実際には年間200万件でも決しておかしくはないのです。ブロガーとは自分で調べ記録を残し後世に残そうとしているのですから、若者が目も向けない本を出したり、100部程度、多くても500部程の会報を出すよりも余程効率の良い媒体となっているのです。ところが、○○研究会とか○○地名研究会などと名乗っていても、所謂「邪馬台国本」を齧っているだけとか、研究会とか称する団体に入って仲間内の研究と称する講演でも学会通説派が作成したパンフレットをコメントなしで無批判に配り、インターネットから引っ張り出した資料の継ぎ接ぎによるコピーで熱弁を振るう仲間内の講演も右から聴いて左に貫け、貰った資料さえもいつしか置いた場所も分からなくなってしまうようなものを研究会と思うかどうかの問題でしかないのです。凡そこのような団体では10年を待たずして何の成果も残すことなく潰え去る事にしかならないのです。ましてや、会計報告はやっても編集会議はおろか会報も出さないような団体では研究会でもなければ、外部にしか研究者もいない事になるのです。つまりカラオケ・クラブ同様の親睦会でしかないのです。今時、本も出さずblogHPも持たない者は研究者としては存在していない事と同義であり、研究者亡き研究会でしかないのです。しかしそれでも研究者とはいるものです。ただ、彼らは群れないからこそ研究者であって、孤立しているからこそ独自の研究や発見ができるのです。このように研究者とは、親睦会紛いの何々研究会の傘の中の裾野に産まれ成長するのではなく、あたかも電信柱の様に散らばっているのです。してみると、その電信柱のネット・ワークにこそ価値があるのです。ましてや、私達は百嶋由一郎という稀代の神社研究者の存在を知ったのですから、それを何とか後世に引き継ぎ、嘘で固められた「古事記」「日本書紀」、それを批判するとして、その延長上に組み立てられた九州王朝論も通説の臍の緒を引き摺っている事に警鐘を鳴らすものです。その意味で百嶋研究は本当の意味での九州王朝論に近接する強力なレーザー・メスなのかも知れません。このため、どのような障害も抵抗も排除し後世に引き継ぐ任務まさにミッションを帯びているのです。そのような何の情念も持たない九州王朝論では、いずれ、たあいもない「邪馬台国九州説」に後退し、ほどなく通説派に取り込まれていくことになるでしょう。


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青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の25

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げて独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。


なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

スポット177 新たに「事代主のブログ」氏が加わられました

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スポット177 新たに「事代主のブログ」氏が加わられました

20180423

太宰府地名研究会 古川 清久


我々のような神社研究の新参者、新興勢力ではなく、全国区の神社研究者でありブロガーである「事代主のブログ」氏が当方のグループに加わって頂くことになりました。

神社研究、神社ウォッチャーとしても目立つ存在の「事代主のブログ」氏は当方も羨望の眼差しで見ていたのですが、意外と近い所におられる事が分かり、最近、五~六人で会合を持ち参加して頂くことにしました。お話によると福岡市の近辺にお住いの様で、強力な研究者が加わられた事になるのです。

我々のようなローカル神社探訪者ではなく研究豊富な方だけに、グループ全体としても研究に厚みが増して行くものと考えています。


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連携の成立から和多都美神社①をご紹介させて頂きます。

まず、このサイトの像の美しさに心を奪われます。

対馬であることから被写体自体の良さはあるのですが、まずは映像家として才能に羨望を感じます。

15年程前になりますが、私自身も永留久恵の大著「天神と海神」を小脇に抱え三泊四日で対馬の30社程度を見たことがありました。

それ以来踏んでいませんが、いつかゆっくりとう留し、小祠まで併せれば3000社はあるとも言われた対馬の神社を再度確認したいと思っています。

ただ、韓国人、中国人が一晩中騒ぎ喚き、ゴルフをやるような状況では気分が滅入ってしまいそうですが、そのうち彼らが神社に進出してくる日も近いでしょう。

4月に近江と丹波、丹後の調査を行いましたが、城崎温泉付近で早朝から丹前を着込んだ若いインド人夫婦が外湯巡りをされている風情に驚きもしたものです。

sp177-4インド人の丹前にも驚きましたが、そのうち神社参拝にも帽子を被り煙草を咥えポテト・チップス手に大声で喚き散らす韓国人、中国人の参拝客を甘受せざるを得ないのかも知れません。

とにかく、対馬は博多よりソウルに近いのですから始末に負えません。

しかし、九州の式内社のかなりの数が存在する対馬は無視できない事から彼らを搔き分けてでも再訪したいと思っています。

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「わたつみのいろこの宮」 青木繁。豊玉比売の下に見えるのがこの井戸です。さて、ヤマサチが潮の流れの中を進んで行ってみると、本当にシオツチノカミの言ったとおりの場所に着きました。そこで、ヤマサチは、神聖な桂の木の上に登って座りました。
 すると、ワタツミノカミの娘のトヨタマヒメ(豊玉比売)の侍女(じじょ=高貴な人に仕える女性)が、美しい瓶(かめ)で井戸の水を酌(く)もうとしたところ、井戸の水面(みなも)に人影が映りました。ふと後ろを振(ふ)り返ると、とても麗(うるわ)しい美少年が木の上に座っているではありませんか。しかし、見なれない男性であったので、すこし不思議(ふしぎ)に思いました。すると、ヤマサチが、
「娘さん、水をください。」
とたのんだので、その侍女は、水を酌んで、瓶に入れて差し上げました。しかし、ヤマサチは、その水は飲まずに、首飾りの玉をとって口に含むと、その瓶の中に吐き出しました。すると、その玉が瓶にくっついてとれなくなってしまったので、そのままトヨタマヒメに差し出しました。トヨタマヒメは、その玉を見て、侍女にたずねました。
「だれか、門の外に人がいるの。」
侍女は、これに答えて言いました。
「井戸のそばの桂の木の上に人がいました。それはそれは、とてもうるわしい素敵(すてき)な男性でした。わがワタツミノカミにも益(ま)してたいへん貴(とうと)いお方です。その方は、水を欲しがるので差し上げたところ、その水は飲まないで、この玉を吐き入れました。ところが、この玉がどうしても取れないため、入ったままお持ちしたのです。」
 トヨタマヒメは、不思議に思い、外に出てその美少年を見たところ、一目(ひとめ)で好きになってしまいました。そこで、お父さんのワタツミノカミに
「私たちの宮殿の門にとてもすてきな男性がいらっしゃいました。」
と申し上げたところ、ワタツミノカミは、自分でも外に出て見てみたところ、
「この人は、アマテラスオオミカミの子孫であるソラツヒコ(虚空津日高。ソラ=空。天と地上の間に存在する神)さまであるぞ。」
と言って、ヤマサチを宮殿の中に案内し、アシカの皮で作った敷物を何枚も重ねて、また絹(きぬ)の敷物も何枚も重ねた上にヤマサチを座らせました。そして、たくさんの品々を貢(みつ)ぎ、ごちそうをふるまって、娘のトヨタマヒメとの結婚式を挙(あ)げたのでした。
 こうして、ヤマサチは、それから三年の間、海底の国に住みました。


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529 早朝に遭遇した湧水の神社 “宮崎県宮崎市の今泉神社”

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529 早朝に遭遇した湧水の神社 “宮崎県宮崎市の今泉神社”

20171005

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 内倉武久氏と共に宮崎県の宮崎市(日南海岸)から日南市の神社の調査に入ったのですが、宮崎市の中心部にお住いのK氏(古田史学の会会員)と三人で宴会した後、内倉先生まで野営にお誘いする事にしました。

 始めはビジネス・ホテルに泊まると言われていたのですが、どうせ寝るだけだし、夕方五時には佐土原温泉に入っていましたので金を払うだけバカバカしいと悪の道に誘い込み、私は車中泊、内倉先生は私が持参した超簡易式テントで寝て頂くことにしました。

 私だけならばどこでも良いのですが、内倉先生をお連れする以上はまともな場所を選ぶこととして、宮崎ICから一区間も走らず、清武パーキング・エリアを車中泊地に選びました。

 車中泊を行う場合、最も気を遣うのは場所の選定です。

 安全で、水やトイレや飲料などが手に入れやすい場所が最適となります。

 このような場所は高速のパーキング・エリアが最適の候補地で安全性も文句有りません。

 何故なら、犯罪の問題も監視カメラや車両ナンバーの読み撮り装置によって予防されているからです。

 ともあれ、翌朝、6時には出発の準備を行い、最初に遭遇したのが今泉神社でした。


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ICからも宮崎大学医学部からも近く、住宅街の一角とも農村部の一角とも言えそうな場所ですが、今泉の名の通り、豊かな水の溢れる神社でした。

 このような、意識せず遭遇した神社は探す必要もなく先入観もない事から、概してしばしば成果が上がるものなのです。

 一般的に、宮崎県、鹿児島県の神社に関しては明治維新によって相当に祭神がいじられているようで、神社誌を買う気もなく、どうせ、記紀に沿って改竄がされているだろうと言った思いが走ります。

 ともあれ、宮崎県では、非常に参考になるサイトがあり、必ず見る様にしている「宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~」運営:宮崎県神道青年会 というものがあります(以下)。


創建はつまびらかではないが、口伝えによると、神代の昔、天御中主神が清武町円目岳に降臨したことにより当地に祀ったと伝える。後陽成天皇の慶長十一年(1606)十月七日、すなわち領主藤原朝臣祐慶(第二台飫肥藩主)の時に、大宮司川越源八郎は円目岳が険阻にして参拝に不便であったため、領主の命により現在地に移したという。

なお今泉神社については次のような社伝がある。

清武村の今泉を流れて清武川の上使橋付近に落ちる支流を水無川という。

小春日和のある日、今泉の里の婆さんが水無川で塩漬けにする大根を山と積んで洗っていた。その時川下から土手をつたって、白衣の老人が杖を便りに歩いて来た。

老人は足を止めて、「私にその大根を一本恵んで下され。」といった。人声に驚いて後を振り向いた婆さんは「これは漬物にするので、人にやる為に作ったのではない。」と無愛想に答えた。老人は「その小さいのでもよい。」といって婆さんの足もとに転がっているのを指した。そして「私は三日三晩何も食わずにいる。」と付け足した。しかし婆さんは「自業自得だ、私の知ったことではない。」と言いながらごしごしと大根を洗っていた。「この水が無くなっても宜しいか。」と老人が怒り気味でいったが婆さんはとり合わなかった。

老人は木のこんもりと茂っている処へ辿りつき、何か口の中で唱えながら、川の中に自分の枝に突きさした。川底に穴が空いて水はどんどん地下にしみこんでしまった。「これが報いだ。」老人はこういって川上へ歩いていった。

清武村の西南に一際目立って高い円目山がある。その山の南側に妙見様が祀ってあった。清武村、特にその今泉の人達は深く信仰していて、夏の日照りの雨乞いには必ずここにお祈りした。しかしその人々の中に塩の漬物を持っていくものがあったら、その人は必ず腹痛を起こして一人ではとても下山が出来ない程になる。そこでいつしか「あの川の水を無くしたのは妙見様だろう。」と言い伝えるようになった。そして「あんな辺鄙な山奥に祀ったのでは、もったいない。」といい、今泉の人達が主となって地区から五、六町の西南方に神社を建てて祀ることになった。これが今の今泉神社で、付近の農民の崇拝の的となっている。

御祭神 天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)旧村社


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今泉神社 カーナビ検索 宮崎県宮崎市清武町今泉丙1525



御祭神を 天御中主神(アメノミナカヌシ)とする旧村社というだけで一つのイメージが湧いてきます。

 なかなかないのですが、一社、一殿、一神というシンプルな神社であり、祭神の入れ替わりも起こっていないはずで、まずは、鹿児島、宮崎では特に珍しい神社と言えるでしょう。

 では、百嶋由一郎氏による最終神代系譜からこの神様がどのような方であるかをご確認頂きましょう。

 近畿大和朝廷以降通説派に奉伺し続けて来た神社関係の学者が良く言う話ですが、“天照大御神を祀る神社などどこにも存在しない…従ってこのような神様はもとより架空に過ぎない…”などと良く調べもせずに言う連中がいるのですが(こいつらは何も調べずに好い加減な話をしているだけなんです)、この神社も目に入らなかったのでしょう。

 勿論、私自身も初見の神社であり偉そうなことは言えないのですが、最低でも、福岡県那珂川町の一角、那珂川の畔に天御中主神社が実在性を帯びて存在している事を承知しており、この神社は嬉しい発見になった訳です。

 勿論、古代、神代に於いては全くの田舎でしかなかった奈良の山の中などにこの神代でも大元のような神様が祀られているはずもなく、今泉神社という名の通り、天御中主神社の派生神社の一つである可能性はあるのではないかと思います。

 何故ならば、この「泉」という地名は九州王朝の初期から全期間を通じて支え続けた白族系の拠点を意味する地名である事を知っていることから(佐賀県佐賀市久保泉、熊本県氷川町泉…)、この中心氏族の新たな展開地と考えられるからです。

 従って、湧水はあるものの、この今泉の泉の意味は、明らかに湧水の意味ではなく地名としてのニュー泉の事の様に思えるのです。泉佐野、泉大野、泉大津も同様の意味で一族の展開地だと考えます。


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古代には潮が上がっていたはずの感潮域を目の前に山の麓で湧水が噴き出す農耕最適地に鎮座しています


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毎度使わせて頂く「姓名分布&ランキング」ですがまさに宮崎に展開した白族系の神官なのでしょう


 社殿向かって左には稲荷神社置かれています。

豊受大神も一族ですので当然ですが、奥に摂社が見えます。祭神が書いていないため不明ですが、天御中主命の関係者となると、夫神たるウマシアシカビヒコヂではないかと早とちりしてしまいました。

勿論可能性はあるのですが、右側にも同等の摂社が置かれており、単純には決めつけられません。

これについては宮司にお尋ねするより方法がありません。

 一般的にはこのような天地開闢神を祀る氏族は少ないのですが、中国大陸に留まった白族も他の民族との混血を好まず初期の血統を維持しようとする傾向がありそれがこの白族の特徴と考えています。


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今泉神社

「当神社の祭神は天御中主の大神を奉祀し、神社記録に依れば天古神代大字今泉字圓目小字圓目岳に臨御し賜。後陽成天皇紀元二二六六年(西暦一六〇六年)慶長十一年十月七日領主藤原朝臣祐慶公御代大宮司川越源八郎の代、圓目岳険阻にして詣拝不便其の他種々の事由に依り領主の命にて現所に奉御遷座諸殿を新築し、明暦三年九月十五日領主藤原朝臣祐久公御代大宮司川越佐兵衛藤原忠次の御代神殿舞殿拝殿其の他の属社に修繕を加え、元禄十三年三月十六日領主藤原朝臣祐實公御代大宮司川越加兵衛の代に至り各殿属社の大修繕を行い文化十年九月十六日川越和泉諸殿を修繕し、明治十二年一月宮司川越字平の御代各殿を修復し、更に其の他諸殿を新築し、大正十五年十一月十日宮司川越直良の代神殿を新築し、昭和十六年拝殿の改修社務所の移転其の他神苑の美化を行い現在に至り、本年御遷宮より三百七十年と現在の御神殿改築が五十周年に当るので、宮司川越實の御代氏子崇敬者と相謀り神社基金の一部と氏子の浄財と特別寄附金を以て正面階段の改修及び駐車場の新設並に公園の造成其の他神苑の美化を行い、昭和五十二年十月末完成する依て神社の大要を刻し後世に之を伝え御神徳の高揚と敬神の念を養い併せて氏子崇敬者の憩の場所とするため此の碑を建立する」

昭和五十二年十月十七日

宮司選


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 博多の櫛田神社の主神である大幡主=ヤタガラスの父神にとって天御中主命は伯母さんにあたります。

 裏天皇との話も飛び交っていますが、彼らは同族婚を好むのかも知れません。


研究目的で百嶋由一郎最終神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。

530 日南市の駒宮神社で日南の吾田(ワガタ)神社が吾田(アタ)神社であると分かった

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530 日南市の駒宮神社で日南の吾田(ワガタ)神社が吾田(アタ)神社であると分かった

20171006

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 過去三度は入っている日南市、油津ですが、今回は熊本の美人霊能者グループではなく、元朝日新聞記者で「太宰府は日本の首都だった」外3著をミネルヴァ書房外から公刊されている内倉武久氏をご案内しています。もうかれこれ10回近く同行取材調査を行っているでしょう。

 本ブログをお読みの方なら右の下の方にという内倉氏によるブログがある事はご存じでしょう。

 同氏は考古学を中心にフィールド・ワークを続けられ、現在も熊襲を中心に列島の古代史を追求され続けておられます。


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無論、同じ九州王朝論者とは言え、私と内倉先生との立場は異なります。

 先生は犬祖先伝説やその墓制などから熊襲を中国大陸でも南の少数民族地帯から入っているシェー族などとお考えですが、当方は、海南島を経由して雲南省の麗江から入った黎(リー)族と同じく雲南省昆明から入った白(ペー)族が阿蘇氏と熊野系ヤタガラスの一族になっており、熊襲は半島から流入したトルコ系匈奴と考えているのです。誤りがあると申し訳がない為、詳細については内倉武久のブログをお読み頂くとして、本題に入りましょう。


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シェ族

シェ族(しぇぞく、畲族、あるいはショー族、シャ族)は中国の少数民族のひとつであり、中華人民共和国が公式に規定する漢族を含む56の民族のひとつである。

シェ族は福建省における最多の少数民族である。また、浙江省、江西省、広東省、安徽省にも居住している。

福建省・連江県には小滄シェ族郷があり、浙江省には景寧シェ族自治県がある。

シェ語はミャオ・ヤオ語族に属する。ただし、現在シェ族の大部分は近隣にいる客家と同じように中国語諸語の客家語を話す。独自の言語を保持する人々は広東省に数百人居るだけであるが、彼らは自分たちを「Hone」(中国語: 活聶 huóniè)と呼んでいる。

ウィキペディア(20171006 19:57による


 そろそろ本題に入りましょう。日南市の市街地から東に数キロの所に駒宮神社があります。

 前回、前々回の調査の時から気になっていたのですが、過去数回は多くても四人程度のトレッキングでしたから訪ねれば良かっただけの事なのですが、同行の方の考えを優先するなどしてこれまでこの神社を訪問する機会がありませんでした。

 しかし、機会とは自ずと訪れるもので、内倉先生の探究心は貪欲この上なく、眠いから行くのは止そうとか、次に回そうといった素振りが微塵もありません。

 フィールド・ワーカーとして朝日新聞の記者としての習性のなせる業でしょうが、満を持して訪問の機会を得ました。


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駒宮神社 カーナビ検索 宮崎県日南市平山1095 ℡0987-23-8520

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今回のテーマはこの三社です。鹿児島、宮崎は、ほぼ、明治期の改竄によってインチキ神社と考えていますが、高原町の狭野神社と併せ、この三社には何らかの真実が閉じ込められている様に思います。

 その理由は、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)は日向におられた時に、阿多の小椅君の妹で、阿比良比売(アヒラヒメ)をお妃としておられ、我々百嶋神社考古学の者は、第4代とされる懿徳天皇(オオヤマトヒコスギトモノスメラミコト)を身ごもったことから神武巡幸に随行しなかったのではないかと考えていますが、「古事記」では多芸志美美命(タギシミミ)と岐須美美命(キスミミ)の二柱の神が生まれたとしています。

 この多芸志美美命は阿蘇の健磐龍の事であり、阿蘇氏をルーツとする藤原による改竄の可能性が極めて高いのです。

 岐須美美命も耳という称号とも尊称とも思える名称が付いており、阿蘇氏の格上げを狙った仕掛けが見えるのです。

 阿蘇のカムヤイミミ、ヒコヤイミミ(阿蘇高森の草部吉見=春日大神=鹿島大神=健甕槌命…)、カムヌナカワミミ…と阿蘇系の神々にはミミが付されるのです。

 ともあれ、吾平津姫命という本当のお妃が祀られている吾平津神社があり、ハツクニシラススメラミコト=神武僭称贈)崇神天皇ではなく本物の神武天皇や神武巡行伝承(美々津からの東征伝承は九州王朝の指示による贈る崇神によるもの)が残る駒宮神社には何がしかの真実が封印されている様に思えるのです。

 この問題は重要なテーマですので、もう少し詳しく調べて別稿とするつもりですのでここで止めておきます。大嘘つきの「日本書紀」は媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)…と。

 ただ、駒宮神社には吾田(ワガタ)神社の吾田を「ワガタ」ではなく、やはり「アタ」と読んでいる事が確認でき、阿多隼人の阿多との関連が確認でき、薩摩半島の南端の阿多と油津の吾田との対抗を確認したのです。


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研究目的で百嶋由一郎氏の資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

スポット178 四国の高良神社“見えてきた大宝元年の神社再編”( 高知市 別役政光 )

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スポット178 四国の高良神社“見えてきた大宝元年の神社再編”( 高知市 別役政光 )

20180423

太宰府地名研究会 古川 清久


 本稿は古田史学の会の会報(20182月)に掲載されたものですが、全国の高良神社(これに加えて若宮神社…なども)を追い求める当方の立場に近接するものであり、今般、特にお願いして掲載頂いたものです。

 書かれた別役氏は高知市在住の若手研究者ですが、今後も掲載の機会が増えて来るものと考えています。

 僭越ながら、四国の高良神社に関しては私も現地を踏んで15社を確認しており、ひぼろぎ逍遥(跡宮)にブログとして15本を掲載しています(以下のものはその一部です)。


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別役氏は正統派らしく軸足を文献史学に重点を置いたフィールド・ワークを行っておられますので。

このため、当方などに比して寄り緻密、稠密、細密なリポートを書かれています。

 本稿は元々縦書きで作成されたものを掲載上の都合で横書きにしていますので、不具合があるかも知れません。その場合は、改訂版を出させて頂く事として、読みやすく理解しやすくするために地図、写真等についてはこちらの責任で添付させて頂きました。

 まずは、簡潔明瞭な「四国の高良神社」をお読み頂きたいと思います。

 なお、今回はグーグル・アースから地図と画像を採らせて頂きました。それは、読者ご自身でも検索され地番からストリート・ビュー等で周辺検索を試みて頂きたいと思った次第です。


四国の高良神社 見えてきた大宝元年の神社再編                 201821

高知市 別役政光


福岡県久留米市御井町の高良大社(筑後国の一宮)の祭神は高良玉垂命といい、倭の五王との深いつながりがあることを古田史学会の代表・古賀達也氏が指摘(『新・古代学』古田武彦とともに 第四集、一九九九年)している。高良神社の分布を見ると筑後地方に最も集中しているが、西日本を中心に広がり、遠くは青森県を含む東日本にも所々に散見される。インターネットの検索にかかるものに関しては、ホームページ「検索で調べた高良大社の分祀」の地図が分かりやすいが、境内社や小さいところなど、漏れているものも多いと思われる。倭国・九州王朝の勢力圏と関連があるかどうかは多方面からの検証が必要であるが、四国における高良神社の存在を追ってみて、明らかになったことを報告しておきたい。


愛媛・徳島・香川の高良神社

久留米地名研究会・古川清久氏が四国へも足を運び、高良神社を訪れたことが、ブログ『ひぼろぎ逍遥』の中で紹介されているが、愛媛県の高良神社は西条市の石岡八幡宮の摂社としてかろうじて残されていた。他に松山市北斎院町の高家八幡神社、同市高岡町の生石八幡神社、南宇和郡愛南町の八幡神社等いずれも境内社ではあるが、探すほどに数が増え、単立の神社として存在していないことがかえって、九州王朝との関係性の深さを象徴しているようでもある。それに対して、徳島県の高良神社四社は比較的よく残されているという印象を受けた。所在地には「高良」という地名も残っている。香川県では四国八十八か所の案内などにも名前が出る七十番札所・本山寺に隣接する三豊市豊中町の高良神社(祭神・玉垂命)が有名であり、その近辺の財田川水系に数社集中しているが、大半は八幡宮境内社となっている。他に高松市香西南町の高良神社(祭神・武内宿禰命)は香西本町の宇佐八幡神社のお旅所(境外末社)とされており、同社境内の白峰神社には高良神社を含む境内神社五社が大正十二年に合祀されたと記録されている。他にも二〇一四年に一社が廃社になったと聞く。


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高知の高良神社

さて、高知県ではどうだろうか。東の端、安芸郡東洋町に甲浦八幡宮摂社としての高良神社(祭神・高良玉垂命)と、県西部の四万十市蕨岡に高良神社(祭神・武内宿禰命)の二社がすぐに確認できた。前者は京都府の石清水八幡宮摂社・高良神社(『徒然草』五二段に登場)と同型の祀られ方のように思える。逆に言うと、八幡神社の摂社や境内社を探すことによって高良神社が見つかることが多いということが経験則として分かってきた。他県で調査される場合にも参考にしてほしい。

後者については、いくつかの謎がある。まずは鳥居横の案内板を見ると「上分字天皇山にあり、祭神は大夫天皇、武内宿弥命である。~(中略)~天皇という小字や、瓦が菊の紋であることや、周辺の状況などから、承久の変(一二二一年)によって土佐に配流された土御門上皇の御住所ではなかったかという説があり、研究が進められている」とある。

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大夫天皇(大武天皇)とは何者か

この大夫天皇とは何者なのか。『中村市史 続編』(中村市史編纂委員会、一九八四年)を見ると「高良神社 村社 蕨岡字天皇山 祭神 武内宿禰命。上分沖組の産土神でもと大武天皇。明治元年改称 神社牒には大夫天皇とあり。土佐州郡志には天皇 南路志では大夫権現」といった内容が書かれており、かつては「大武天皇」とも呼ばれていたことが分かる。倭→大倭の変化と同じように尊称を込めて倭の五王・武が大武と呼ばれるようになったのではとの想像も浮かんだが、他に類例はないか探してみた。すると大阪府豊能郡豊能町に天武天皇宮と呼ばれる場所があり、同町観光ボランティアの会のホームページには「遊仙寺の墓地奥に続く森の奥に残された祠。ここに宮があったとされる。神祭は天武天皇で、創立年代は不明。柏尾宮とか大武(ダイブ)天王宮とも呼んでいたという。明治四十年に走落神社へ合併された。『大婦天皇御宝前、正徳元年九月吉日』と刻された石灯籠が走落神社の境内へ移されている」と紹介されている。

天武→大武→大婦と変化したというのだ。しかしこの説は受け入れがたい。尊称の付加や好字への変化はありうるかもしれないが、大和朝廷の天皇その人に対して公式的な呼称以外の表現をあえて用いるであろうか。多元史観に立ってみれば、天皇家とは関係のない偉大な人物が天皇と結び付けられて祀られているという可能性が見えてくる。漢字表記は変化しているが「だいぶ」という音に意味があるのではないだろうか。そう考えると、福岡県飯塚市の大分(だいぶ)八幡宮との関わりが感じられてくる。


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八幡宮のはじまりは大分八幡宮とされ、そこから宇佐八幡宮や筥崎宮が分霊されていった。『八幡宇佐宮託宣集』にも筥崎宮の神託を引いて「我が宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあるが、筥崎宮へ遷座した後も九州五所別宮の第一社として篤く信仰されていたという。中国では、周代に太師・太傅(たいふ)・太保が三公と呼ばれ、天子を助け導き国政に参与する職であったとされる。その太傅、すなわち天子の養育に携わる府が置かれていた場所が大分宮であるとの説もあるくらいだ。「大夫」「大婦」をどう読むかは定かではないが、「たいふ」の音に通じる。「大夫天皇」が天子を補佐した人物というイメージが浮き上がってくる。それゆえに高良神社の祭神が武内宿禰(神宮皇后の後見)と結び付けられることが多いのも一理あるかもしれない。


県下に残る高良神社の痕跡

いずれにしても、一つの事例だけで結論を下すのはデータ不足である。高知県内の他の場所には高良神社はないのだろうか。長岡郡大豊町に高羅大夫社が見えるが、祭神は不明である。高良神社としては、八幡神社の摂社または末社として数社見つかった。安芸郡東洋町野根の野根八幡宮(九州宇佐神宮の分社で鎌倉時代の創建と伝承される)の脇宮二社として左側が高良玉垂神社、右側が若宮神社。四万十市不破の不破八幡宮の境内社。また『皆山集1』(松野尾章行、一八三六~一九〇二年)には、南国市岡豊山にあった豊岡八幡宮の末社として、高良・若宮社など十数社が記されている。

地名遺称として高良神社に関連がありそうなのは、「白皇神社:山奈村山田字宮ノコウラ」「天王:枝川村コウラカ峯」「天王社:梅木村カウラ」など。山奈村(現・宿毛市)の白皇神社は弘仁(八一〇~八二四)年中の勧請とも言われる。他は「~天王」が祭られている旧地名が「コウラ」となっていることは、それ以前において高良神社があったか、ある時点で名称変更がなされたといった可能性が見えてくる。神社の社地がある場所の地名として、神社名あるいは祭神名がつけられていることが多いことは、『長宗我部地検帳』(十六世紀末)などでも確認できる。よって四万十市蕨岡の「字天皇山」も大夫天皇が祭られていたことによる地名と考える方が順当で、土御門上皇の御住所云々という可能性は低いであろう。


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先出の「天王社:梅木村カウラ」は、現在は高知市鏡梅ノ木の八坂神社(祭神:素盞鳴命)が建っている場所である。秋の大祭(十一月五日)で神社に集っておられた地元のご婦人に聞いたところ、神社の川向を指して「その辺りをコウラと言っていました」とのこと。明治以前は大宝天王宮、大坊天王社、天王とも称していた。天正五年(一五七七)の棟札の記録もあり、その歴史は古く、『神社明細帳』には「神体記云、天王社神躰木工神九躰」とある。まさか高良御子神社(久留米市山川町)の九躰皇子(高良玉垂命の九人の皇子)を祭っていたのではないかとさえ思えてきた。かつては隣村との村境の峠、ホウテン(宝殿か?)という場所に祭られていたとも伝えられており、高良御子神社における古宝殿との相似性が見えてくる。近くの小浜神社は明治元年まで大房天王、大房天皇であり、八社河内神社についても、「神体記云」として「神躰木工神九躰」とある。


大宝元年の神社再編

この「大宝天王」についても滋賀県に類例が見られる。栗東市の大宝神社(旧:大宝天王宮)の由緒として「当神社は、七〇一年疫病流行の時、小平井村信濃堂(シナンド)(現在の栗東市小平井)に鎮座された素盞鳴命(スサノヲノミコト)と稲田姫命を霊仙寺村(栗東市霊仙寺)経由綣村(栗東市綣)の地先、追来神社境内に四月八日にご鎮座。これにより疫病が鎮まったと伝えられる。同年五月一日社名を大宝天王宮と勧請、正一位とされた」とある。一方、追来(オフキ)神社(祭神:多々美彦命)の由緒には「地主の神として大宝年間以前よりこの綣の地に鎮座されている。~(中略)~中世には、若宮権現とも呼ばれ現在も通称その名で呼んでいる。~(中略)~地主神でありながら大宝神社本殿が主祭神となっているため、無理に境内社としての位置付けになり、若宮でありまた、社名変更を余儀なくされていると推測される」とある。

関東最古の八幡様とされる茨城県下妻市の大宝八幡宮は七〇一年の勧請、三重県尾鷲市の尾鷲神社(大宝天王社)も大宝年間(七〇一~七〇三年)の勧請とされ、神社名鑑によると大宝天王社、大宝社、あるいは大宝神社は全国に九社のみとされるが、明治元年の名称変更以前は高知県の例(いの町:大宝天皇→大森神社、高知市:大宝神社と日吉神社の合祀→大日神社など)から推し量っても、かなり多かったのではないかと予想される。

明治維新の折に、神仏分離令(太政官布告一九六号)で神社の名称変更の達しがなされたように、九州王朝から大和朝廷への政権交代の節目である七〇一年の大宝律令が出された際にも大きな改変があったと推測される。実際に大宝元年の勧請と伝えられる神社は、八坂神社(滋賀県甲賀市)、松尾大社(京都市)、白鳥神社(長崎県上五島町)、久麻久神社(愛知県西尾市、旧:荒川大宝天王宮)など数多く見られる。大和朝廷と無縁の神々を祭る神社に対して名称変更のみならず、主祭神の交替等の再編成がなされていったのではないだろうか。


   論理が指し示す結論

十分に調べ尽くしたわけではないが、高良神社は決して少なくはなかったと思われる。四国を見渡すと半数以上が八幡宮の境内社となっているものの、かつては高良神社が広く分布していた可能性が見えてきた。明治時代末から大正時代にかけて全国の神社の統廃合が進められ、神社数は六割程度に減少したとされる。高良神社をはじめ存続が困難になった小社は、この段階で境内社となったり、合祀されたものもあるだろう。高知県に関しては一社を除き、それ以前すでに境内社となっていることが確認できる。古くは、大宝年間にその存在を消されてしまったものがあったのではないかとの仮説も浮かび上がってきた。「コウラ」という場所に建つ八坂神社――以前は大宝天王と呼ばれており、『神社明細帳』には「神社牒云カウラ、天王社 一ニコウラ天王」との記述も見つかった。本来は高良神社であったかもしれないものが、伝承が不明確なため、名称変更の時点で牛頭天皇→八坂神社の例に倣い、大宝天王も八坂神社となったと考えられる。

四万十市の高良神社の祭神問題に立ち返ると、「大夫天皇」というのは元来「大宝天皇」であったと考える方が最もつじつまが合うような気がしてきた。「大宝」の漢字表記は「大房」「大坊」などいくつかの変化が見られる。「大夫」「大武」もその一変形ではないだろうか。『神社明細帳』によると、「元ト大武天皇ト称ス明治元年辰三月改称ノ達ニヨリ高良神社ト改称ス」とあり、それまでは主祭神が大夫天皇(大宝天皇)に置き換えられてきたが、伝承に基づき、本来の高良神社(祭神・武内宿禰命)に戻ったと解釈するべきではないだろうか。改称のルールに従えば天皇→八坂神社に名称変更されていたかも知れないと思うと、高良神社が復活したことは真に幸運だったと言えよう。

多元史観による神社再考が望まれる。日本全土には『日本書紀』や『古事記』に登場しない神々が数多く存在したはずである。その原初的な姿を明らかにしてこそ、生きた歴史が見えてくるのではないだろうか。


力作でしたが、今後とも掲載をお願いしたいと考えています。

併せて「四国の高良神社一覧」と「四国の高良神社分布図」を頂きましたので併せて掲載させて頂きます。当方は二~三回に分けて15社を確認しましたが、さすがに現地の在住者は詳細に調べておられます。

これで、また、調査に行かなければならなくなったようです。

それとも、四国は別役さんにお任せし、他のエリアを優先すべきでしょうか?今年中に、秋田の赤神社と文中にも出てきた青森の高良神社を確認する作業に入ろうと思っています。協力頂ける方、情報を頂ける方はご連絡ください。09062983254まで。(古川)


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スポット179 「 天 皇 」 と 「 元 号 」~自立王朝の創始宣言~ 金澤 弘毅(札幌市)

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スポット179 「 天 皇 」 と 「 元 号 」~自立王朝の創始宣言~

金澤 弘毅(札幌市)


 二〇一九年四月に現在の天皇が退位され、翌五月に皇太子が新しい天皇に即位されることになりました。これに伴いこれまでの「平成」の元号も改められ、新しい元号(年号)となります。

 長い年月に培われ継続されてきたことゆえ、それでよしとするとしても、「天皇」という称号と地位や「元号」の始まりなど、その成りたちが全くわかりません。いつの時代に、どんな事情で、なにに由来して、誰が決めたのか、公式記録もなく公式見解もないまま定着してしまったようです。〝既成事実〟だけが何となく居座ってしまうこの国特有の風土なのでしょうか。昨今の政治問題にもみられる決定と進行の不透明さとよく似ています。

 この「天皇」と「元号」の出自の曖昧さにも、私は大和王朝に先行する王朝が存在した〝影〟を感じとることができます。


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▼王者の称号としての「天皇」

 中国の神話では、天地開闢には盤古という神が、人間創生には女媧という神が登場します。そして『十八史略』には、この天地開闢と人間創生の時代に人間世界を治める帝王として、天皇氏・地皇氏・人皇氏がいて、住居を作った有巣氏と火を使って食事をすることを発明した燧人氏が人間生活を進化させたと書いています。このあと帝王は三皇(伏羲・神農・黄帝)から五帝(少昊・顓頊・帝嚳・帝堯・帝舜)へと神話伝説の時代が続きます。


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盤古            神農           舜帝


 歴史時代に入って「夏」「商(殷)」「周」の各王朝の王者は、権力の象徴である鉞(まさかり)の象形文字「王」を名のります。そしてこれらの王者は、天帝から地上を治める使命を与えられた者として「天子」と呼ばれます。

 最初に「皇帝」の称号を創造した秦の政王は、自ら三皇五帝を超えるものとして「始皇帝」と称しました。紀元前三世紀晩期のことです。

 「天皇」という日本列島での最高位の称号は、その漢風な字態からして出典が中国に由縁すると推測できますが、その動機も意義も始めた時期も全くわかりません。天皇家の大和王朝史である『古事記』『日本書紀』『続日本紀』も、この件については何も語ってくれません。この列島を代表する王者の称号なのにです。

 恐らく天地と人間の創生期の帝王のひとり、天皇氏に因んだものではないかと推測できますが、あるいは倭国の王者が阿毎(あま=天)氏を名のっていることにも関係するのかもしれません。いずれにしても中国の皇帝(天子)に対等を主張するに等しい「天皇」を称することは、内外に波紋を投ずる重大な国家意思の表明です。自立王朝の創始を宣言する行事が催されて当然のことで、天神地袛を祀る国家祭祀が行われ盛大な典礼が挙行されて、正史に記録されるべきことです。それが大和朝廷の記録にないのです。

 もし「天皇」の称号が、近畿ヤマト政権の創造で大和朝廷だけの固有の称号だとするならば、その意義と由来、創始の時期の記録がないことなど考えられず、不思議でおかしな現象というべきことです。当家に記録がないということは、その発祥創成に関与しておらず他からの継承か奪取によるものではないか、と疑われもしかたがないことです。ということは、大和王朝の王者の称号として「天皇」が定着する前に、既に別な権力者が「天皇」を称していた可能性は排除できないことになります。

 私はここにも、前王朝(九州王朝・倭国)が存在した〝影〟を認めることができるのです。これは多元的史観による複眼的観察者としては当然の帰結で、最近の政権が質問封じに使う〝印象操作〟などという言葉では片づけられるものではありません。


▼「天子」ということ

 私が軍国教育を受けた小学校(国民学校初等科)三年までの幼少期、天皇陛下は「天子さま」でした。敗戦とともに昭和天皇が「人間宣言」をされ、新しい憲法で「象徴天皇」という位置づけになりました。戦中戦前の天皇は神さま同然だったのです。

「天子」とは「天帝の子」の意味で、天帝から地上を治める使命(天命)を授けられた王者のことです。王者に徳がなく治政が乱れると天命が革(か)えられ、王者は別な王者に変えられて王朝も交代します。これが「革命」の語源です。

 六〇七年に隋王朝に遣使をした倭国王の多利思比孤は、自分のことを「日出ずる処の天子」と称し隋の皇帝を「日没する処の天子」と表現して、隋の煬帝の機嫌を損ねました。しかしこれは倭王の単なる強がりなどではなく、立派に理由のあることだったのです。この時の倭国は既に自立して中国王朝の支配下になかったからです。

 三一六年に晋王朝は北方の異族に侵入され亡びます。王族が南遷して東晋を建国しますが、中原から北部一帯は五胡十六国の乱世を経て北朝が形成され、六世紀末まで南北朝時代が続きます。倭国は南朝を正統として六世紀初頭まで臣属してきますが、五一七年に独自の元号を建てて自立します。五八九年に北朝の隋が南朝を亡ぼして中国の統一王朝となりますが、倭国は南朝の帝業を継ぐ者としての大義名分の立場から、隋王朝に対等の地位を主張したのが「日出ずる処の天子…」の国書(外交文書)だったのです。

 こうした歴史の流れをみると、「天子」を自称した倭国の王者が中国の皇帝に対抗できる「天皇」を公称していた可能性があります。ところで「天子」を称したこの倭王が妻妾をもつ男性であるのに、この時の近畿ヤマト王権の王者は豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ=推古)という女性でした。ここから隋に使臣を遣わした倭国王が近畿ヤマト王権の王者ではないことが明らかになります。同時に何世紀も日本列島を代表してきた倭国がヤマト政権とは別な権力中枢であったことにもなります。従って「遣隋使は小野妹子」としてヤマト政権の実績としてきた史学界の〝定説〟など吹き飛んでしまいます。


▼「元号(年号)」のこと

 二〇一九年五月に新天皇の即位に伴い改元され、年号も新しくなります。

 これに関連する報道や解説・論評の全てが、わが国の最初の年号は六四五年の「大化」であるとしています。『日本書紀』に最初に登場した年号というだけが根拠のようです。そこには他の文献との照合・検証・公開論議の跡がみられません。

 年号には次のような意味があります。

(1)建元(元号を建てること)は中国の帝王(天子)の専権でした。時間と暦を支配統御することを意味します。

(2)臣属国や縁辺国が独自の年号をもつと、討伐の理由にされる恐れがありました。

(3)独自の年号をもつことは、その国が中国王朝の支配を離れ、自立して独自の王朝体制となったことを宣言したものとみなされます。

(4)王朝創始により建元された年号が断絶することなく続くことで、その王朝の継続が確認されます。

 もし六四五年の「大化」が本当に最初の年号であるならば、次の三点の疑問に納得できる解答ができなければなりません。

 その前後に、王朝創始と建元の詔勅やその儀式典礼の記録が全くないこと。

 七〇一年の「大宝」までの間に無年号の時代が長期間あること。

 六〇七年に倭国王は既に「日出ずる処の天子」を自称していますが、自立王朝の証しである年号がヤマト政権の記録にはなかったこと。

 鎌倉時代編纂の古文書『二中歴(掌中歴・懐中歴)』に「九州年号」と呼ばれる年代歴があります。五一七年の「継体」から六九五~七〇〇年の「大化」までの間、31個の年号が切れ目なく続き、七〇一年の大和王朝の年号「大宝」へとつながります。

 「九州年号」が九州王朝倭国が施行したものとするならば、前の三点の疑問も解けてきます。①は、倭国での記録が滅亡に際して亡佚したか、後継の大和王朝により抹殺(七〇八年の〝禁書刈り〟)された可能性があります。②は、倭国滅亡による〝政権交代〟まで切れ目なく年号が続いています。③の六〇七年は九州年号の「光元」年間で、『書紀』の六四五年からの「大化」は九州年号の「命長」から「常色」年間に当たります。「天子」に対応する年号は、九州倭国では施行されていたことになります。

 日本列島で最初に施行された年号は五一七年の「継体」です。中国南朝の帝業を引き継ぐ自負と誇りが伝わります。史学界の〝定説〟よりも一二〇年以上も昔です。


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九州年号 二中歴(掌中歴と懐中歴)


▼「天皇」という称号も「元号(年号)」も中国王朝との関係から理解しなければなりません。いずれも中国王朝の支配から自立して、独自の王朝体制を宣言する用語であったのです。当時の東アジアの国際情勢の中で、とても重要な意味をもつ政治的用語でもあったわけです。

 こうして考察を進めると、「天皇」も「元号(年号)」も大和王朝の創造ではないことが推断されます。別なところの別な王者の創造と施行、と考えられるのです。倭国(九州王朝)は、七世紀後期に介入した朝鮮半島の戦争に大敗して衰弱滅亡します。隠蔽されてきた「九州年号」が〝真実の歴史〟を証言しています。

 「天皇」の称号は六世紀に九州倭国の王者が創始して、七世紀末期か八世紀初頭に大和朝廷が〝政権交代〟によりこれを引き継いだものだろう、と多くの研究者が考えています。私もそのひとりです。従って、長い間地方政権のひとつだった近畿ヤマト王権の始祖王まで遡り、神武天皇、仁徳天皇、雄略天皇などとその時代にはなかった「天皇」号を、全ての王者につけて平気な顔をしている史学界、教育界、言論界の見識の低さに、私は失望しています。


 わが国の〝歴史認識〟は、近隣国に難癖をつけられるまでもなく、まだまだ未熟なようです。


 「天皇」と「元号」~自立王朝の創始宣言~  金澤 弘毅(札幌市)の掲載について


「ひぼろぎ逍遥」編集員 古川清久


今般、北海道の金澤さんから原稿を頂きました。

と、言うよりも、当方からお願いして掲載をお勧めしたのですが、

金澤さんとは当方のフィールド・ワークの過程でひょんなことからお知り合いになったのですが、まだ、福津市の宮地嶽神社でお会いしただけの関係でしかありません。

当然ながら、北海道という土地柄から、所謂、文献史学派の研究者のお一人と言う事になるでしょう。

さすがに、北海道から九州王朝の現場の探訪など頻繁に行えるはずはなく、勢い文献史学に向かわざるを得なくなることは必然的で、厳冬期に家の中に閉じこもらざるを得ない北の国の方のこと、それだけ文献に向かい合う情熱は高まり知識を蓄えられている事と思います。

以前、同じく九州王朝を探究する仲間として、ご著書を頂いてもおります。

まだ、通販で手に入れることは可能のようですので興味をお持ちの方は試みて頂きたいと思います。


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異説古代史疑 平成私本書紀


先方のご意向にもよりますが、今後も論文掲載をお受けできるのではないかと考えています。

今回は、本原稿の縦書きを横書きに変更して掲載する事にしましたので、原文尊重の意味からPDF版で同文をそのまま掲載しています。

531(前) 但 馬 (上)

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531(前) 但 馬 (上)

20171014改訂稿(20120211

太宰府地名研究会 古川 清久


宗像大社の辺津宮は宗像市大字田島にあります。地図を見ると深田にあるようにも見えるのですが、同神社の公式のホームページを見ても、「 福岡県宗像市田島2331 」と出てきますので、やはり田島で良いのです。

本稿は五~六年前に書いたもののこれまで非公開のままにしていたものです。

その後何度となく但馬に入り長期間の調査を経てようやく公開できるところまで漕ぎ着けました。

当時、本稿を故)百嶋由一郎氏にお見せし、多くの付箋を頂き添削を受けましたが、それを理解できるまで時間を要したのでした。今般、新たに編集を加え公開する事にしたものです)。

このため、初期の原稿にかなりの手を入れたものになりましたが、基本的なエッセンスは変わりません。

まず、宗像大社周辺の地図を見て頂きますが、鐘崎、黒崎、岡垣、田島という地名が確認できます。


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地図は昭文社の「アクセルA4九州道路地図」一九九〇年


現在、普通に参拝している宗像大社の辺津宮は海岸から二キロほど後退した場所にありますが、それは、陸化が進んだからであって、この神社が成立した時代には相当奥まで海が入っていたはずです。

つまり、田島と呼ばれる沖の小島の形状もあり、そこに宗像大社の原形が存在していた可能性はあるのです(ただ、呼子の田島神社が起源かも知れません…)。

ここで玄界灘沿いに西に目を転じると佐賀県の東松浦半島に呼子(唐津市)があります。

秀吉の朝鮮出兵のための出船基地であり背後の台地に名護屋城が築かれたことで良く知られていますが、この呼子の港に壁のように蓋をし、湾内を穏やかに鎮めている加部島(これも恐らく壁の意味でしょうが)に鎮座するのが、式内社(旧国幣中社)の田島(田嶋)神社(たしまじんじゃ)です。

確認するまでもないことでしょうが、祭神は田心姫尊、市杵島姫尊、湍津姫尊であり、宗像大社に祀られる沖津宮の田心姫神、中津宮の湍津姫神、辺津宮の市杵島姫神と完全に対応することから、この田島神社の名は宗像大社の辺津宮が鎮座する宗像市田島から付されたものであることが容易に推察できます。

ついでに言えば、唐津市の「湊」「岡」も呼子の田島神社から船で行けば直ぐのところですから、宗像の「神湊」から付されたものの可能性なしとはしないでしょう(ベクトルが宗像⇔呼子はなお不明)。


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地図は昭文社の「アクセルA4九州道路地図」一九九〇年


引き続き福井県敦賀市の地図をご覧頂きたいと思います。

宗像市の「鐘ケ崎」という地名が、朝倉氏の居城金ヶ崎城があった敦賀市の金ヶ崎になっており、付近の「黒崎」や「岡」という地名が、宗像から敦賀にも移動し順番に並んでいる事がお分かりになったと思います。

 してみれば、その中間地点の兵庫県の但馬地方の「但馬」も呼子の壁島の田島神社の「田島」や宗像大社の大字「田島」が地名移動(当然にもその一族も移動しているのですが)したものである事が分かると思います。甘木朝倉周辺の地名が奈良に移動しているなどと騒いだ学者がいましたが、それどころではないのです。この、大字、小字レベルではなく、「但馬」という旧国の地名にまで高まっている事は、その事だけで、安曇族(鐘ケ崎は宗像族ではなく安曇族であるため)、宗像族という九州王朝の海軍を支えた人々が大挙して日本海沿いに移動している事がご理解いただけるのではないでしょうか?

 お疑いになる方もおられると思いますので、もう少し申し上げれば、兵庫県養父市の市役所の傍には「朝倉」という大字が残り、「朝倉」という交差点までがあります。

さらに山に向かえば、「天空の城」で知られた朝来市がありますが、これも朝倉氏にちなむ地名であり、事実、養父市では朝倉氏が弟の日佐氏に養父一帯を渡し東の敦賀に進出した拠点であったとされています。

 どうも、安曇族、宗像族を海軍とすれば、この「朝倉」地名を持ち込んだ人々こそ九州王朝の陸軍を支えた氏族だったのではないかと考えています。


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さて、あまり知られてはいませんが、宗像大社には奥ノ院ともいうべき高宮(これも福岡市高宮と関係があるでしょう)がありますが、ここには出雲大社同様、稀人の間のような扱いを受けたものがあり、百嶋由一郎氏からは本当の祭神としては大国主命が祀られているとお聴きました。


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事実、隣の岡垣町手野(国造神社がある阿蘇と播磨にも手野=テノ、タノという地名があります)には大国主神社がありますが、参拝殿が西(つまり宗像大社の方角)を向いていたのが印象的でした。


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