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531(後) 但 馬 (上)

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531(後) 但 馬 (上)

20171014改訂稿(20120211

太宰府地名研究会 古川 清久


531-5

“宗像の主神は大国主命である”と教えてくれたのは、六十数年間神社を調べ続け近年亡くなられた八十四歳の百嶋 由一郎氏でした。氏は以前から、「神功皇后を主祭神として祀るとする宮地嶽神社に祀られるワカヤマトネコヒコが四王寺山に降臨し、いわゆる欠史八代として架空とされた九州王朝の第九代開化天皇として即位した。」(『高良山神宮秘書』から)とされています。

さて、この宗像大社の公式ホームページには、


高宮は、社家の説によると「第一神始めて降臨有し、辺津宮の旧址といふ、神代より天應元年(781)まではここに惣社の御座あり、旧社に社を立て下高宮といふ」との記録があり、宗像大神降臨の伝承地である宗像山・高宮を神奈備山・神奈備の杜と崇められて来ました。神奈備とは、「神々が降りてくる山や杜」を意味します。


と、書かれていますが、どう考えてもここにこそ本来の祭神が祀られているようなのです。同じく、


奈良時代以前は、神社には社殿が無く神奈備としての杜や山や島などを聖なる所と祀られていました。当大社では「昭和の大造営」の際に、この地を古神道の在り方を踏まえ社地・参道等を整備しました。今日では数少ない古神道の聖地として奈良の大神神社の神体山・三輪山などと共に広く知られて多くの崇敬を集めています。伊勢の神宮で執り行われる多くの祭儀が夜の御祭であることから分かる様に、古来の祭儀は浄闇の中執り行われたと考えられています。…中略…平成17年、宗像大社氏子青年会の結成による地域の協力体制も整ったことを期に「八女神事」を神奈備山・神奈備の杜と崇められて来た高宮で行われることから、神奈備祭とし、高宮祭場での祭祀を復活させました。」


と、あります。

出雲の佐田神社の神等去出(からさで)神事同様、神社にとってよほど大切な神事だったのです。

宗像大社の本来の祭神は大国主命ではないか?としましたが、もしそれが本当であれば、多少、符合することがあります。

それは、大国主を祭る出雲大社の沖に隠岐の島があり、宗像大社の沖にも表記はことなるものの、同じく沖ノ島があることです。

それはあたかも、この地に祭られているのは沖からやってきた渡来神であることを告げているかのようです。

さらに言えば兵庫県の但馬地方にも多くの大国主命を祀る神社が大量に存在します。

とすると、但馬の国も、大国主を祀る宗像大社が鎮座する田島から付された国名であることが見えて来るのですが、ここに、「但馬に集中する兵主神」というサイトがあります。


但馬国には、ヤマト政権が但馬を平定する以前から古い神社が存在していて、延喜式神名帳ではそれを否定はせず、あるいは政権側の祭神を配祀しているのでしょうか。但馬五社のうち、大国主以外の神社は天日槍(日矛)の出石神社のみですし、出石神社も古くは別の祭神であったとする説あるそうです。養父神社対岸にある水谷神社は、かつて大社であったとされるのにもかかわらず、どういう訳か但馬五社からはずされています。兵主神社(ひょうずじんじゃ)は、関西以西のしかも但馬国に集中しています。しかし、かつては同じ丹波國だった丹波・丹後には不思議と1社のみで、近江国と但馬国に集中して多いのです


[兵主神社一覧]
兵主神社一覧 平成祭礼CDから


青森県むつ市大湊上町337 兵主神社「伊弉諾命」

千葉県東葛飾郡沼南町手賀1418 兵主八幡両神社「經津主命、譽田別命」  

福井県丹生郡清水町山内 兵主神

滋賀県野洲郡中主町下提 下提神社

京都市伏見区中島鳥羽離宮町 城南宮摂社兵主神社「大國主命」

奈良市春日野町 春日大社摂社若宮社末社兵主社

兵庫県姫路市辻井4-4-3  行矢射楯兵主神社「射楯大神、兵主大神

兵庫県姫路市飾磨区阿成 早川神社「兵主神

兵庫県姫路市夢前町山之内戊549 兵主神社「大國主命

兵庫県西脇市黒田庄町岡字二ノ門 兵主神社「大穴貴命

兵庫県豊岡市竹野町芦谷小字芦谷155 兵主神社「須佐之男命、建御雷神、伊波比主命」

兵庫県美方郡香美町隼人字宮前195-1 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」

兵庫県美方郡香美町九斗字九斗152-2 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」

兵庫県美方郡浜坂町田井字村中448 兵主神社「?」

兵庫県美方郡浜坂町指杭字御城338 兵主神社「?」

兵庫県美方郡温泉町上岡 八幡神社摂社兵主神社「大己貴尊

兵庫県美方郡浜坂町久谷字宮谷 八幡神社摂社兵主神社「須佐ノ男命」

兵庫県佐用郡佐用町奧海 奧海神社摂社兵主神社「大名持命

兵庫県姫路市安富町三森平谷 安志姫神社「安志姫命」

島根県簸川郡斐川町大字学頭2830 兵主神社「大國玉命

岡山県岡山市阿津2783 兵主神社「素盞嗚命」

鹿児島県揖宿郡頴娃町別府6827 射楯兵主神社「素盞嗚命、宇氣母知命」

鹿児島県姶良郡姶良町脇元1818 兵主神社「素戔嗚尊」

兵庫県佐用郡佐用町奥海1281 奥海神社の兵主神社「大名持命

奈良市春日野町160 春日大社の兵主神社「大己貴命、奇稻田姫命」

香川県大川郡大川町富田中114 富田神社の兵主神社「大己貴命

福岡県筑後市大字津島1117 村上社の兵主神社「毘沙門天」

福岡県大川市大字北古賀字神前28 天満宮の兵主社「大己貴命


兵主(ひょうず)神社とは?


兵主とは、「つわものぬし」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。古事記・日本書紀では八千矛神とは大国主の別名です。スサノオの別名が八千矛神(多くの矛を持った神の意)である。葦原色許男神(あしはらしこのを)も大国主の別名で、「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表す。矛(ほこ)は武力の象徴で、武神としての性格を表しています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。但馬で別名のそれぞれの祭神を祀る神社を合わせると、最も多い神社です。田道間守や天日槍関係の神社を数える方が圧倒的に少ないのです。

大国主は多くの別名を持っています。

雲の大国主神でも触れましたが、大国主(オオクニヌシ・オオナムヂ)は日本神話の中で、出雲神話に登場する神です。天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する地神格です。また、大国主は多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。

  大国主神(オオクニヌシノカミ)=大國主 - 大国を治める帝王の意、あるいは、意宇国主。

すなわち意宇(オウ=旧出雲国東部の地名)の国の主という説もあります。

  大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命(オオナムチノミコト)-大国主の若い頃の名前

  大汝命(オオナムチノミコト)-『播磨国風土記』での呼称

  大名持神(オオナムチノミコト)

  八千矛神(ヤチホコノカミ) - 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す

  葦原醜男・葦原色許男神(アシハラシコノヲ) - 「シコノヲ」は強い男の意で、武神としての性格を表す

  大物主神(オオモノヌシ)

  大國魂大神(オホクニタマ)

  顕国玉神・宇都志国玉神(ウツシクニタマノカミ)

  国作大己貴命(クニツクリオオナムチノミコト)・伊和大神(イワオホカミ)伊和神社主神-『播播磨国風土記』での呼称

  所造天下大神(アメノシタツクラシシオホカミ) - 出雲国風土記における尊称

   国造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰され、また「大国」はダイコクとも読めることから、同じ音である大黒天(大黒様)と習合して民間信仰に浸透しています。子の事代主がえびすに習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになりました。

記紀神話をみると、天孫降臨と東遷という神話を持つ氏族が二つあります。大王家と物部氏である。大王家の神話では、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向に降臨し、それから四代後(その間に1,792,470余年が経過したという)磐余彦(いわれひこ)が大和へ東遷した。「神武紀」に明記されている物部氏の祖先伝承では、「祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと)が河内の河上の哮峯(いかるがのたけ)に降臨し、その後まもなく大和の鳥見の白庭山へ移った。」と記しています。哮は音読みで「コウ(カウ)」、訓読みで「たける、ほえる」、韓国語では「hyo」と発音します。


兵主は哮神


  国作大己貴命(くにつくりおほなむち)ですが、『播磨国風土記』では、その子が饒速日命(にぎはやひのみこと)


と、あります。兵主神は、もとは日本の神様ではなく、中国大陸の山東省の神様だそうです。延喜式神名帳で認められた式内社のみに現れる古社で、兵主神については色々と説があるそうですが、八千矛神(ヤチホコノカミ)だという説が有力です。延喜式神名帳には「兵主」と名の付く式内神社が18社記載されており、但馬各地に祀られた重要な神であったようです。

 

と、すると、出雲は言うまでもなく大国主の本拠地であったとされていることから(「出雲神話」大国主の国譲り)、玄界灘から日本海岸にかけて存在する田島地名は、宗像の「田島」と関係があるのではないかと考えることができるようです。

このことに付随するかのように、宗像三女神を祀る神社は鳥取県米子市宗像(事代主命を祀る美保神社の真北)を除き、日本海沿岸にはほぼ見つからなくなるのです。

 さすがに、隠岐の島には海士村大字布施に出雲の日御碕神社があり、天照大御神に合祭され、天忍穂耳命、天津日子根命、玉穂日命 活津日子根命、速須佐男命、熊野久須毘命 多紀理毘売命、市杵島比女命、多岐都比女命が祀られていますが、それも、隠岐の島が宗像大社の沖津宮が鎮座する国宝の島沖の島が置き換えられた地名だからなのです。では、他にも移動した地名があるのでしょうか。


 宗像一帯の海岸部には、西から、草崎、神湊、釣川、「鐘崎」(鐘ノ岬)、地島(チ、ヂノシマ)、「黒崎」(鼻)、波津、黒山、糠塚、芦屋、「遠賀」(古代の岡ノ湊)と言った地名が並んでいます。

北九州市八幡区の黒崎はこの黒崎(鼻)が最初に移動したものでしょう。

 一般的にこのような地名の移動を考えるときに、例えば、志賀島の「志賀」(鹿)が移動した地名として、佐世保市鹿町、石川県羽咋郡志賀町などが取り上げられますが、海洋民はあまり記録を残さないことから、宮地嶽神社に近い「手光」(てぴか)や「在自」(あらじ)「上八」(ジョウハチではなく何故かコウジョウと読むようです)といった滅多にない特殊地名ならば別ですが、単に同じ地名があるだけでは判断が難しい(事実上できない)のです。

 ただ、奉祭する神社が互に符合するとか、住民の姓氏名や地名が複数や順番に対応するとなると、やはり地名が持ち込まれたと考えていいのではないかと思います。

 こう考えてくると、はっきり言えそうな例として、敦賀があります。

福井県敦賀市の敦賀湾の湾奥、敦賀港の泊地に金ヶ崎町があります。戦国期、越前に侵攻した織田徳川連合軍が攻撃した金ヶ崎城(郡司朝倉景恒は織田信長に対し開城するも浅井長政が離反し近江海津に進出し挟撃戦となり信長は木下藤吉郎らを殿とし近江越えで京に撤退した)の「金ヶ崎」ですね。

ついでに言えば手前の若狭湾の入口にある巨大な半島の先端にも金ケ崎があります

また、角鹿(つぬが)町もあります。これは実は志賀島のことですが、ここでは、ふれません。その四~五キロほど北の敦賀街道8号線沿いに「黒崎」という岬があり、さらに二キロ北上すれば「岡崎」があるのです。 つまり、宗像海岸の西から東に向かって並ぶ「鐘崎」「黒崎」「遠賀」(古代の岡ノ湊)と同じ地名が敦賀にも順番に並んでいるのです。

 さらに、その「岡崎」から北に十キロ進むと海岸沿いに「糠」があります。これも恐らく、岡垣町の「糠塚」に対応するのでしょう。もはや、宗像の海士族が拡大するか、移動するか、一部が避退するかして持ち込んだ地名としか考えられません。

上の図を御覧下さい。金ケ崎城があり、順番に「鐘ケ崎」「黒崎」「岡崎」があるのがお判りいただけるでしょう。

 冒頭の宗像大社の地図にも、「鐘崎」「黒崎」「岡垣」「岡の湊」(後の「遠賀」)があり、完全な対応が認められます。

 右の図は、有名な敦賀の「気比の松原」が城崎温泉正面の「気比」からの移動であり、朝倉氏が運んだ地名であることが判ると思います。

そして、久留米の高良大社の初代宮司家の稲員が元は日下部を称していたと言われていますので、朝倉氏がもとは日下部氏と言われているとすると、九州王朝の一族である可能性が高いのです。


532 但 馬 (中)

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532 但 馬 (中)

20171014改訂稿(20120211

太宰府地名研究会 古川 清久


もう一つの例を考えましょう。佐用都姫の話です。

これも但馬の養父市の調査を終えた帰りの新幹線に乗る前の時間に見に行ったところです。

佐用都比賣神社


但馬ではありませんが、播磨の国に佐用町(たつの市の西)があり、佐用都比売神社があります。

神社縁起には、祭神を狭依毘売命(サヨツヒメ)として、ご祭神 狭依毘売命、又の御名市杵嶋姫命。相殿 素盞鳴大神・大国主大神・春日大神・八幡大神を合わせ祀。

創立は太古にて、続日本後記に『第五十四代仁明天皇嘉祥二年(紀元一五〇七年西紀八四七年)七月官社に預かる』と記されている。

更に延喜式内神明帳に『醍醐天皇の御世縁起式内社に預かる』と記されている。播磨風土記に讃容の郡と言う所以は大神妹背二柱、各競いて国を占めたまう時、妹、玉津日女命臥せる生鹿を捕えて其の腹を割きて、其の血を種とまく。

 忽ち一夜の間に苗生いぬ。即ち取り殖えしめきここに大神、汝妹は五月夜殖るかもと勅りたまい、他処に去りましき。故に、五月夜郷と号ふ。神の賛用都比売命、今讃容の町田に有り。と記されている。古来当地方の開祖佐用姫大明神といい、昔は御神領地が七町七反もあり、宮祭されていたものであるが、豊臣の兵火にてことごとく焼失し、衰微したが、農業・商業・武術・安産・縁結・鎮火の神として広く信仰されて来た。(以下略載古川)兵庫県佐用郡佐用町本位田甲261


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この宝珠の功徳により、佐用姫は不老不死となり、後に、竹生島へ赴き、弁天様(市杵島姫の別名でもあります)として祀られたのです。松浦にも「佐用姫伝説」がありますが、まず「万葉集」巻第五に五首


  松浦県佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ

       遠つ人松浦佐用姫夫恋ひに領巾振りしより負へる山の名

       山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上に領巾を振りけむ

       万代に語り継げしこの岳に領巾振りけらし松浦佐用姫

       海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫


恋人が船で去っていくのを、袖を振って見つめる姫が、そのうち石と化してしまった…。

肥前松浦で袖を振るといえば、「肥前国風土記」にこんな話しがあります。


褶振の峰 郡役所の東にある、とぶひのある場所の名を褶振の峰という。大伴狭手彦連が船出して任那に渡ったとき、弟日姫子はここに登って褶をもって振りながら別れを惜しんだ。そのことによって名付けて褶振の峰という。さて弟日姫子が狭手彦連と別れて五日たった後、ひとりの人があって、夜ごとに来て女とともに寝、暁になると早く帰った。顔かたちが狭手彦に似ていた。女はそれを不思議に思ってじっとしていることができず、ひそかにつむいだ麻の糸をもってその人の衣服の裾につなぎ、麻のまにまに尋ねて行くと、この峰の沼のほとりに来て寝ている蛇があった。身は人で沼の底に沈み、頭は蛇で沼の岸に臥していた。たちまちに人と化為って歌っていった。


これは佐用姫伝説です。播磨の佐用町、佐用津比売神社が、松浦佐用(代)姫と同一であり、佐用姫伝説を持ち込んだ氏族が、九州北岸をルーツとしていることは明瞭に思えます。なによりも、呼子の田島神社には佐用姫神社まであるのですから。ただ、現在の肥前の唐津の佐用姫伝説は後代のものです。

詳しく調べていないので良く分からないのですが、なぜか、宗像大社はもとより、田島神社に於いても、佐用姫を市杵島姫とは別扱いにしているようです。

ここにはなんらかの古代史の暗闘を感じるのですが、この点、播磨の佐用都媛神社では「佐用都媛の又の名を市杵島姫命」として表面に出しています。

播磨はともかくも、少なくとも但馬においては、その一国の名さえも左右するほどの規模で九州北岸の海人族が入り、他の地名から見ても北部九州の人々が大規模に入っているように見えるのです。ここで、本題の但馬に話を戻します。


養 父


「養父」と書き「ヤブ」と読みますが、養父と言えば、佐賀県鳥栖市の中心部に「養父」町があります。

「但馬に行きなさい。あそこには北部九州の地名がたくさんありますよ、それに、九州弁を話す人もいっぱいいますよ・・・」というアドバイスをしてくれたのは、前述の百嶋先生でした。

ただ、その一言だけに唆され、但馬に入ったのはちょうど一年前の暮れでした(2011年)。

この百嶋先生からの指示である但馬の調査と併せ、養父市の「天子」(宮)地名の調査に入ったのでした(養父の場合はアマコ、ゴと呼ばれていますが)。

新幹線を姫路で降り、たつの市在住の元古田史学の会メンバーのN氏の車に拾ってもらい一路但馬に向かいました。


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京都にも天使神社(天子の名を憚るとして変えたものか)があったようです。

現地も踏みましたが、今は五條天満宮とされています。

名古屋、千葉県、茨城県・・・他にもあるようですが、現地を踏んでいませんのでここではこれ以上のことは言えません。

現在まで佐賀県の五社を始め百十を超える天子宮、天子社、天子神社を確認しています。ここに上げたものはほんの一部ということになります。その後も調査が進んだことから、現在まで250300ほどの天子宮、天子神社、天子社…を確認しています。

次は養父市で最も重要と考えている御井神社です。


養父市大屋町の御井神社


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最初の目的地は兵庫県の養父市でした。

これは今なお続けているフィールド・ワークの「天子宮」調査のために同市八鹿町の「天子」という大字名から付された交差点を確認し、その正面にある屋岡神社(これも恐らく天子宮の一つだったのでしょう)を見るためのものでしたが(この「天子」は室町戦国大名の尼子氏に因んでか「あまご」と呼ばれますが)、まずは、肥前国養父郡の「養父」と但馬国の「養父」市を実感した瞬間でした。

そもそも、平成の大合併以前の佐賀県三養基郡の郡域は、旧肥前國三根(みね)養父(やぶ)基肄郡(きい)郡を起源としたものであり、この三郡を合併して三養基郡としたものだったのですが、当時も郡役所は鳥栖町に置かれ、郡名は三郡の頭文字を取ったものでした。このため、当時の郡域は、現在の鳥栖市全域も含んでおり、養父町はその痕跡ということになるのです。

養父市八鹿町の屋岡神社の調査も早々に、次に向かったのは養父市大屋町でした。かなり内陸部に入った山間の小平野といった趣の土地ですが、この地に鎮座するのが、何と御井神社です。 

久留米の人々にとって「御井」とは、高良山の麓の「御井」町であり、朝妻の湧水池で有名な味水御井神社の「御井」であり、天台の古刹の御井寺の「御井」が直ぐに頭に浮かんでくることでしょう。

もちろん、近江八景に詠まれた三井寺の鐘の音も、恐らく、久留米の御井寺の移動と考えていますが、ここではふれないことにします。

この御井神社は大屋町の中心地と思しき集落の背後の小山の上に鎮座していました。


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田野も宗像に近い手野(テノ、タノ)の地名移動ですね


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兵庫県養父市大屋町宮本の御井神社 これは福岡県の旧御井郡の地名移動と言えるでしょう


小型の四駆でもなければとても上がれそうもない急坂でしたので、雪の残る中、凍えながらもゆっくり参道を登りましたが、深い森の中に多くの社殿を持つ大社が鎮座していたのです。

後で地元の方に話を聴くと、“養父市、豊岡市一帯にある御井神社の中心の社”とのこと、まさに、御井の神の中枢に足を踏み入れたことを知ったのです(その後も数回訪問しています)。

そもそも、大屋という地名も、分家に対する本家、一族の中心の意味を持たされたものであり、まさに、大屋町とは御井の神が住む中心との意味を持たされているようです。

権威ある神様サイト「玄松子」にも、「大屋谷十二ヶ村、建屋谷十四ヶ村の総社として崇敬された神社で、岩井牛頭天王社とも称していた。」…


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御祭神 御井神

配祀  脚摩乳命 天穂日命 素盞嗚命 手摩乳命 熊野橡日命 田心姫命奇稲田命 天津彦根命 天忍穂耳命 市杵島姫命 活津彦根命 湍津姫命

配祀  大屋彦命 大屋姫命 抓津姫命(神社明細帳) とあります。


脚摩乳命はアシナヅチ=金山彦、手摩乳命はお妃の埴安姫、熊野橡日命はイザナギと別れた後のイザナミ、田心姫命は宗像三女神のお一人、天津彦根命は日子坐命、天忍穂耳命は草部吉見=武甕槌=鹿島大神、宗像三女神のお二人ですが、活津彦根命は活玉依姫の息子か夫神ではないかと思います。

ここにも宗像神、櫛田神社の神をはじめとして、九州でなじみの深い神々が出てきます。

もはや疑うことはできません。この「御井」と「養父」は九州からのものであり、但馬國も養父郡も他の要地の地名もそっくり持ち出されたものであることが分かってきたのでした。

さて、養父市、豊岡市を流れる円山川を少し下ると、志賀直哉の「城崎にて」で著名な城崎温泉がありますが、こうなるとこの「城崎」さえも肥前國の「基肄」郡から付されたものに見えてきます。そう思うのは、城崎温泉のロープウェーが掛かる山の裏側の谷に城崎町「今津」という地名までがあるからです。

もはや、思い込みは押しとどめることが出来なくなりました。福岡市西区「今津」の人々が遠い古代に移り住んだとしか思えないのです(糸島半島には、今宿、今山、今津が並んでいます)。

もちろん、これだけでは納得されないでしょうが、そこから少し遡れば同じ円山川左岸に「二見」(糸島半島に「二見ケ浦」がありますね)があり、さらに豊岡市の中心に近づけば「二日市」「八社宮」(はさみと読みますが、有田の南に長崎県「波佐見」町がありますね)という地名まで拾えるのです。

そして、中心部には、「千代田町」(旧三養基郡)、「若松」町(北九州市若松区)…があるのです。

532-8他にもありますが、豊岡市日高町に「浅倉」、「吉井」(吉井町)「佐野」(甘木市)「岩井」(これは九州では消されていますが)が、養父市にも八鹿町「朝倉」があります。

面白いのは、豊岡市でも京都に近い出石蕎麦で有名な出石方面には「荒木」(久留米に「荒木」がありますね)以外思い当たるところがありません。やはり、大国主の膝元ではないからなのでしょう。ここで、少し目先を変えます。

家紋サイトの一つ「武家家伝」によれば、「朝倉氏は開化天皇または孝徳天皇の後裔といわれている。はじめ日下部を姓としたが、平安時代末期に但馬国朝倉に居住し朝倉氏を称したことに始まるという。」とあります。また、九州王朝論の関東の拠点の一つ東京古田会の会報、NewsNo.84にも、


日本家紋総鑑は、物部氏には触れないが、ある興味深い記述がある。「木瓜紋を用いた代表的な氏族は日下部氏、伴氏、紀氏である。」高良大社のご神紋が木瓜紋で、水沼の皇都に君臨した天子の姓が紀氏とする福永仮説は、ここでも偶然とは言いがたい一致を見る。

さらに、「武家で?紋を最初に用いたのは越前国の朝倉氏で、『日下部系図』には朝倉太郎が白猪を退治して頼朝より木瓜紋を賜ったとある。…この使用氏を見ると当時、ほとんどが西国の諸豪であり、…織田氏が木瓜紋を用いたのも、朝倉氏から受け継いだものである。」(傍線は福永)


と、九州王朝論者の福永晋三氏(「神功皇后紀を読む会」主宰)を引用しています。

「朝倉」の地名を持ち込んだ九州の氏族から「浅井」、「朝倉」の戦国大名の一つが生まれたとすれば、相当に面白い話です。

ちなみに、朝倉氏の紋章は三つ盛木瓜であり、開化天皇の皇子彦坐命の子孫とする系図もあるようです。そして朝倉氏を滅ぼした織田家も木瓜紋でしたが、これは朝倉氏の家紋とは異なりますので付け加えておきます(後段の「武家家伝」朝倉氏を参照)。

延々と切がないですが、「小佐」川(福岡市に日佐がありますね)が流れる八鹿町の「米里」(めい)や「小城」も福岡市の「姪浜」や肥前の小城市の「小城」に思えます。後は自分で探されるとしても、前述の大屋町にも「城山」という山があるのです(この「城山」は「基山」の可能性もありますが、宗像市のJR赤間駅付近の「城山」かもしれません。)。但馬の内陸部も、播磨も、驚くほどの九州の地名が拾えますので、関心を持たれる方は試みてください。

播磨の地名を調べると異常に多い目立つ地名に「山田」があります。これも宗像市、唐津市、山田市の「山田」ではないかと思います。

また、「播磨」については、同じく九州王朝論の多元的古代研究会の福永信子氏(現在は退会)が“「播磨」には多くの地名対応があり、太宰府の南の「針摺」とその周辺の地名移動”との説を二十年前に書いておられます。

谷川健一はともかくも、安本美典の奈良の地名話などちゃちなものに見え影が薄くなってしまった方もおられるかも知れません。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

御井神社の祭神のほとんどがこの中にあります

百嶋由一郎氏の音声データ、手書きデータ、80枚近い神代系譜を必要とされる方は09062983254まで

533(前) 但 馬 (下)

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533(前) 但 馬 (下)

20171014改訂稿(20120211

太宰府地名研究会 古川 清久

 

皆さんは但馬國のすぐ隣の鳥取県岩美町に岩井温泉があることをご存知でしょうか。私も一度、三つの和風旅館が三層楼閣の軒を競い、湯かむりの奇習が伝わる名湯に入り花屋旅館だか岩井旅館だかに泊まったことがあるのですが、ここに御湯神社があります(写真は明石屋旅館)。


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その時は、山陰線の鈍行列車の旅だったためそれ以上は足を運びませんでしたが、この神社が実は御井神社だったことに気付いたのはつい先だってのことでした(古い原稿ですので実は6年も前の話です)。 

この御湯神社は弘仁二(八一一)年創建との縁起を持ち、温泉の神「御井神」などを祭る平安時代の「延喜式神名帳」にも記される温泉です。従って、「岩井」の地名が往古に遡ることは疑えません。頭にあるのは磐井の乱(実は継体の反乱)の磐井です。

まあ、御井の神が温泉の神というのは、この地に藤原が入っていることから、まず偽装ではないかと思うのですが、ここでは、祭神は御井神(大国主命の御子)、大己貴命(大国主命の別名)、八上姫命(御井神の母神)、猿田彦命とされています。

さて、ここには岩井寺があったとされています(岩井廃寺)。

九州も熊本県の浄水寺、陳内寺を始めとして、椿市廃寺など大分県に多く存在していますが、瀬戸内海沿岸の豊前、豊後から多くの寺院が解体され、米田良三氏が考えたように、筏に組まれて畿内に持ち去られたことでしょう。

ここに磐井の一族が入ったのではないかと思わせる岩井の地名があり、但馬に九州北部の地名が数多く存在することを考えると、山陰に数多く存在する白鳳寺院の中でも岩井寺は九州王朝にとって重要な拠点であったことを示しているように思えてきます。

ここでは予断を避け確認だけをしておくことにします。山陰山陽諸国の塔跡」というサイトには、


奈良時代前期の様式の方形柱座と2重式円孔をもつ心礎を残す。心礎は3.64m×2.36m×1mの凝灰岩で、一辺1.4mの方形柱座が造り出され、中央に径77.5cm深さ32,7cmの孔とその底に径20cm深さ14.2cmの孔を穿つ。土地の伝承では宇治長者が建立した弥勒寺跡と云う。基壇や礎石は残存しない。白鳳-平安初期の瓦を採取すると云う。心礎は岩井小学校校庭にあり。なお美濃岩井の岩井山延算寺本尊木造薬師如来立像(重文・平安初期)は平安期当寺から遷座したと伝えられる。薬師如来は、最澄が因幡国岩井郡の温泉(岩井温泉)の楠から彫り上げた三体の薬師如来像の一つであると伝える。つまりこの薬師は因幡岩井廃寺(弥勒寺)の薬師如来像であったと云う。「因幡岩井温泉誌」森永清畔編、岩井温泉組合事務所、明治45年より・・・」とあります。

話を戻します。少なくとも、伯耆國の東まで御井神社が広がっているとなると、まずは、宗像の海人族が入ったと思われる景勝地但馬海岸の地名を拾ってみる必要があります。

山陰と言えばベニズワイ蟹の水揚地が続きます。まず、新温泉町の居組港の沖には北九州の「白島」と同じ「白島」があります。その東の浜坂港と諸寄港との間には「城山」が、諸寄には「芦屋」が、山陰本線の余部鉄橋の余部には、「千畳敷」が、浜坂駅の東には「二日市」と「若松町」があります。

そもそも、兵庫県には「芦屋」が有りますよね。あの一帯は北部九州の海士族が大量に入っているようですが、人形浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」の播磨の「芦屋」も元は遠賀川河口の「芦屋」が起源なのでしょう。

この浜坂は温泉地としても有名でいくつか入りましたが、「七釜」温泉、「二日市」温泉があり、泉源がこの地区からのものであることから、どう見てもこの地名は太宰府周辺から持ち込まれたように思えます。「七ツ釜」も東松浦半島の景勝地ですね。

その東の香住港も山陰屈指の蟹の水揚げ港ですが、ここにも、「若松」と「一日市」(ひとかいち)が、そして面白いのは香住港の東にある峠の名が「花見」(福岡県古賀市)なのです。きっと、この地の人は宮地嶽神社の氏子だったことでしょう。さらに東に進めば、「竹野」港です。久留米に「竹野」(竹野旧郡は丹後にも移動しています)がありますね。

もう、これくらいにしましょう。内陸部にもびっくりするほどの北部九州の地名が拾えますので、後はご自分で探してください。

「こんなことはどこでも有りうること」と言われる方が必ずおられるはずですから、まずは、試しに自分でやってみれば良いでしょう。まず、無理でしょう。

どうも但馬を中心に兵庫県に特別に見られる現象のようなのです。そして、このことが「風土記」が九州から播磨に跳んでいることと関係があるような気がするのです。

いずれにせよ、地名が形成される時期に、大規模な氏族(民族)移動が起こったようですが、そして、それは地名の表記から考えて、「好字令」以後の時期のように思えるのです。


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これは古代史のテーマになってくるので、軽々に結論を出すという訳には行きません。ただ、前述の百嶋先生は、以前から「九州王朝が滅んだ後、その一族が橘氏の庇護のもとに但馬に入っている。」と言われているのです。当面、これは神社考古学からの判断でしかありませんが、地名の側からも補足できれば面白いと考えています。


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箕谷2号墳戊辰年銘大刀



次に、象嵌太刀として著名な箕谷2号墳戊辰年銘大刀(「戊辰年五月(中)」の6文字)の「箕谷」が気になります。

 意味は久留米の高良大社直下の御井神社であり、養父市一帯に分布する御井神社との関係が無視できないのです。


考古学的知見からも面白い話をご紹介します。これは兵庫県からも銘文入りの太刀が出ているという話を覚えていたことから思いついたのですが、どうやらこれも九州王朝のものに思えるのです。

ここに、「東アジアの銘文入り太刀」というサイトがあります。大変長くなり恐縮しますが、学問研究のためとお許しを頂き、全体の雰囲気を掴むために全文を引用し掲載させて頂きます。


http://www.city.yabu.hyogo.jp/www/contents/1210210303920/html/common/4d25008d026.htm


古代史の空白地帯


 戊辰年銘大刀の発見が報道された昭和59年1月の当時、次のような新聞記事がありました。『但馬の鉄刀の最大のナゾは、目立った遺跡のない但馬地方で、ごく平凡な古墳から出土した何の変哲もない刀に、「千に一つもでない」といわれるほど、極めて珍しい銘文が刻まれていたことである』。『それほど貴重な鉄刀がなぜ但馬の小さな古墳から出土したのか。箕谷古墳の銘文刀が投げかけた最も大きなナゾである。隣り合わせた丹波、丹後、因幡に比べると但馬は書かれた文献も少なく「古代史の空白地帯」だ』というものです。
 しかし5世紀中頃に全長 128mもある但馬最大の前方後円墳である池田古墳が朝来市和田山町に造られて以後、7世紀前半までには大型横穴式石室をそなえた養父市大薮の禁裡塚古墳や塚山古墳があります。古墳時代中期から後期における但馬は、考古学的に決して古代史の空白地帯ではなく、丹後・丹波・因幡に比べても優れた一面もあります。
 それはそれとして、なぜ小さな古墳から銘文入り鉄刀が出土したのか。また西暦608年にどんな出来事があって銘文入り鉄刀が作られたのか。さらにどんな理由があって貴重な銘文入り鉄刀が但馬にもたらされたのか、未解決の問題としてナゾは続いています。


東アジアの銘文刀剣一覧

 

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533(後) 但 馬 (下)

20171014改訂稿(20120211

太宰府地名研究会 古川 清久


533-8東アジアにおける銘文刀剣を一覧表でまとめてみました。一覧表には15本ありますが、刀剣の製作地を大胆に仮定し、1~4を中国大陸、5~7を朝鮮半島、8~15を日本列島の中の大和と推定しました。この中でみると1・2・3の大刀は後漢の年号をもつ鉄刀で、東アジアで最も古い一群を形成しています。大刀の刀背に金象嵌の文字を刻むことが特徴です。文字数は1527文字程度であり、2世紀代につくられた銘文鉄刀が漢の王朝文化として成立しているように見うけられます。奈良県東大寺山古墳から出土した漢中平年銘大刀も、後漢の基本的な銘文の象嵌方法にならっています。
 5世紀代になると日本各地で銘文刀剣の出土例が増加します。銘文刀に鉄剣の例(9・10) が表れ、文字数が増加(8・9) し、さらに銀象嵌(8・10)がみられるようになります。こうした変化は銘文刀剣の日本的な発展とみてもよいでしょう。また8・9・10の銘文には日本的な字句も使用されてきます。
 また東京国立博物館の有銘環頭大刀は銀象嵌であり、5世紀代の大陸でも銀象嵌が使われたことが確認できます。江田船山古墳例は銘文の象嵌が大刀の刀背に刻まれており、中国の伝統的な銘文大刀の象嵌の位置を守っています。
 6・7世紀になると直刀の表面に文字を刻む例が増加します。また7世紀になると文字数は6ないし4文字になり、極端に減少します。文字によって意味を示すと考えるよりも、特殊な記号のようになってきます。また箕谷2号墳のように銅象嵌が出現します。
 つまり2世紀代に中国で金象嵌が利用され、5世紀代に朝鮮半島と日本列島で金象嵌にくわえて銀象嵌も流行し、さらに7世紀代になって銅象嵌が出現します。つまり銘文刀剣にみられる金・銀・銅の区別は時代が下るにつれて増加しています。象嵌材料の金と銀と銅の区別が何による差なのか分かりませんが、象嵌文字の基本は金と銀です。
 5世紀・6世紀に作られた銘文をもつ刀剣類は、地域支配や政治的な権威をしめす威信財として利用されたものです。奈良時代のものだと推定される三寅剣(さんいんけん)銘小刀は護身剣とか個人的な宝剣という意味のものだと推定されています。しかし、江田船山古墳や稲荷山古墳の副葬品には朝鮮半島に系譜をもつ豪華な遺物が含まれています。銘文刀剣もこうした威信財群の一つとして、大和政権から各地の地方豪族に与えられた友好関係の証であり、地方豪族にとっては地域支配の正当性を示す一族の証となったと思われます。
 7世紀の銘文入り鉄刀
 7世紀代の銘文入り鉄刀は3本あります。箕谷2号墳と四天王寺と群馬県藤岡市の出土品です。箕谷2号墳の副葬品をみると金銅製の杏葉(ぎょうよう)や革金具などがみられますが、岡田山1号墳のように豪華な遺物が豊富にあるわけではありません。副葬品の点数をみると約50%が土器で、残りの約50%が鉄製品です。鏡や玉類はありません。馬具でも鞍や鐙・轡はみられません。副葬品にみられる畿内系の遺物は貧弱で、貴重な銘文入り鉄刀だけが副葬品群の中で単独で存在しています。また四天王寺の直刀は、柄(つか)よりの位置に、縦方向に丙子椒林(へいごしょうりん)の4文字の銘文をもちます。お寺の伝説では百済より貢進されたもので、聖徳太子の所持品だとしています。丙子椒林剣という名称で呼ばれていますが、切刃造の直刀です。さらに群馬県藤岡市出土品も丙子椒林剣と同じ位置に4文字を刻む切刃造の直刀です。銘文は金象嵌ですが、文字はよみとれません。これらの鉄刀の刀身の全長を並べてみると戊辰刀銘大刀(65cm) 、丙子椒林剣(65cm)、群馬県出土品(64cm)となっており、長さが同じです。また銘文の位置もほぼ同じ位置にあります。そして文字は6文字ないし4文字の限定した語句を入れています。5世紀代の江田船山古墳の74文字、稲荷山古墳の115文字はもちろん、6世紀代の岡田山1号墳の12文字のような多くの文字を刻むことはありません。こうしたことから7世紀代の銘文入り鉄刀は、刀身の柄よりの位置に4~6字程度の語句をいれる儀杖用大刀として成立していると考えられます。

官位12階を前提として成立した銘文刀

貴重な銘文入り鉄刀がなぜ但馬の小さな古墳から出土したのでしょうか。7世紀代の銘文入り鉄刀は、5・6世紀代のように有力な古墳の豪華な副葬品の中の貴重な遺物として取り扱われるのではなく、古墳の規模や副葬品のセット関係にも関わりなく、銘文入り鉄刀だけが単独で意味をもっていたと思われます。
 西暦 603年には官位12階が定められ、服装の色分けによって身分を明示しました。    この時期、古墳時代を代表する豪華な金銅製鞘をもつ大形の装飾大刀から、奈良時代に続くような黒漆塗りの地味な小形の直刀へ嗜好が変化してきます。こうした時代の変化は、官位12階を前提とした初期律令社会の成立によるものと考えられます。  

7世紀の銘文入り鉄刀は律令社会の要請によって小形化し、そして定型化しました。当初、箕谷2号墳の銘文が6文字しかなくて、少ない文字数が不思議でした。しかし丙子椒林剣や群馬県藤岡市出土品はいずれも4文字であり、箕谷2号墳の6文字は、この時期としては決して少なくありません。7世紀の銘文入り鉄刀は初期律令社会の中で特定個人に与えられる儀丈用大刀で、正倉院に伝世するような奈良時代の直刀の祖型になるものと考えられます。
 したがって箕谷2号墳の埋葬者が、戊辰年(西暦 608年)に奈良県の古代飛鳥において特別な功績によって銘文入り鉄刀を与えられたという推理も可能なのです。いずれにしても戊辰年銘大刀は飛鳥の地で作られ、それが但馬に持ち運ばれて箕谷古墳に持ち込まれたものと思われます。


学会通説に沿ったものの立派な見解だと思うのですが、干支(かんし)年号で戊辰年の最古の銅象嵌太刀、推古天皇一六年(六〇八)とされ、全国の古墳の実年代を考える基準資料ともされているのですから柄(つか)に「戊辰年五月()」の六文字が刻まれた国宝級の太刀が、なぜ、この地で出土したのか?通説に頼ればどうしても「古墳の埋葬者が、まともな鉄製品など出ない古代飛鳥において作られたとする銘文入り鉄刀を何らかの功 績によって与えられ、それを但馬に持ち帰ったか、征服したかして運び、箕谷古墳に持ち込んだ」といった解釈しか仕様がないはずなのです。

しかし、九州王朝の一族が辺鄙な但馬に安全を求めて避退したと考えれば、辻褄が合うのです。そうなのです。御井の神を祀るからこそ箕谷(御井)谷と呼ばれたのです。

そうでなければ、「東アジアの銘文入り太刀」氏も自問自答されているように、但馬の養父という僻陬の地の東西十二m、南北十四mの小さな円墳に、須恵器、金環三点、鉄鏃・馬具等の鉄製品、鉄刀など一〇三点の遺物が出土するはずはないのです。

ここまで、書いて、たつの市在住メンバーのN氏の意見を求めました。

それは、氏が二〇一一年夏の久留米大学の市民講座(九州王朝説)の講演において、この太刀についてふれておられたことを思い出したからでした。

穴掘考古学を関西系土建屋どもとの「考古学村」と決め付け、学者はもとより(邪馬台国畿内説論者の門脇貞二は退官後あんなものは九州に決まっているとした)、出世するために嘘をつき続けている全員が畿内説論者の考古学協会など全く信用していないものの、逆に彼らの矛盾した主張を事実をもって叩けるのではないかと思ったことが発端でした。


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してみると養父の冒頭において、「天子宮」調査のために養父市の八鹿町の「天子」という地名から付された交差点を確認し、その正面にある屋岡神社(これも天子宮の一つだったのでしょう)としたこととがつながってくるのです。

箕谷2号と粗末な名で呼ばれる小さな円墳こそ但馬に避退したとする我々が考える九州王朝の大王か滅び去ったラスト・エンペラーが眠る陵だったと思うのです。

さらに言えば、「き」「み」としか読まない字を付したことも、紀氏とも言われる“橘氏が但馬に九州王朝を匿った”とする百嶋神社考古学とも符合するのです。

やはり、これも「御井」の神を祀ったことを知っているからこそ、「御井」谷古墳の名を隠し、自らは「みいたに」(現地では多分「だに」とはしてないと思うのですが)と呼び習わしてきたのです。そうすると、消された九州王朝の大王だったからこそ手にすることができ、惜しげもなく古墳に納めることができたのであり、また、そうする必要があったのではないかと思うのです。

最後に面白いことに気付きました。

「天子」という凄まじい名を残す交差点のそばにある屋岡神社は、九州を中心に多くの痕跡を残す天子宮だったのではないかと考えていますが、まず、この古墳からは天子交差点を見透すことができるようです。

もちろん、実際には逆で、屋岡神社が天子宮とすると、古墳が見える場所にこの神社が創られたのでしょう。

このポイントと箕谷2号墳のために造られたであろう“つるぎが丘公園”の古墳のあるポイントとを線で繋ぐと、古墳に近いところに造られていることから菩提寺ではないかとにらんだ豊楽寺(養父市八鹿町一部一四二四)がこの線上にピタリと乗ってくるのです。

豊楽寺は、現在、曹洞禅の寺ですが、考えていた通り、祀られていたのは観世音菩薩でした。


安穏山天女峰豊楽寺(本尊如意輪観世音菩薩)は、西暦八三八年(承和五年)空慧上人が辨財天を祀って開基したことに始まる。九百年代の初め、小佐城主小佐三郎高重が伽藍を建て一大道場として有名になったが、戦乱による焼失や裏山の崩壊により、辨財天の小堂以外は全て無くなった。(同寺落慶法要資料より)


九州王朝、倭国と観世音菩薩がただならぬ関係にあることは、太宰府の観世音寺の存在からしても言うまでもないことですが、古田史学の会の古賀達也氏が「洛中洛外日記」二四六号「法隆寺の本尊と菩薩天子」として取り上げています。


釈迦三尊像が上宮法皇の「尺寸の王身」と光背銘に記されているように、そのモデルは倭国の菩薩天子、多利思北孤です。そして、釈迦像と顔がそっくりの夢殿の救世観音菩薩も、天平宝字五年(761)の『東院資財帳』に「上宮王等身観世音菩薩像」と記されているように、やはりモデルは多利思北孤と考えられるのです。これらのことから、法隆寺建立当初の本尊は、夢殿の救世観音像との考えに到達したのです。


もうひとつ思い当たることがあります。佐賀県の唐津市には玉島川が流れ、玉島神社があるのですが、豊楽寺の直ぐ隣りにも玉島神社があるのです。

これも玄界灘の民が玉島神社を持ち込んだように思えます。

なぜならば、玉島地名はこちらには見当たらないからです。

玉島川は神功皇后と鮎の川として知られていますが、山上憶良も「人皆の見らむ松浦の玉島を見ずてやわれはこひつゝをらむ」と詠っており、「記」「紀」でも神功皇后が戦運を占った場所とされているからです。

この、神功皇后が実際には九州王朝の大王の開化天皇の皇后であったとする百嶋説や、屋岡神社の縁起に開化が登場していることが多少腑に落ちる思いがします。
 ここで話を変えます。屋岡神社の前を流れる円山川を少し下ると「上小田」、「下小田」があります。これは天子宮調査をしていると頻繁に出くわす地名であり、例えば九州最大の天子宮である佐賀県江北町の天子社が鎮座するのも「上小田」なのです。

九百年代の初め、前述の豊楽寺を寄進した小佐の地頭小佐三郎高重も朝倉高清の弟小佐二郎大夫盛高の子、小佐新大夫頼重であったとされており、しかも、朝倉氏の別れであり、九州から避退した氏族の可能性が高いのです。

してみると、「小佐」は福岡市の「日佐」(おさ)が持ち込まれたものであることが推測できるのです。

「百嶋神社考古学」では“仲哀天皇と神功皇后との間は一年ほどで、開化天皇と神功皇后とは夫婦であったと”し、応神天皇は誉田別命の名にあるように別王でしかなく、本当の天皇ではないとするのです。

神功皇后はもちろん天皇ではないので、天子とは開化の子となるのですが?日子座王の曽孫船穂足尼命以下は・・・百嶋先生に聴くしか方法がありません。

今のところ電話での好い加減なやり取りでは、日子座王とは、開化よりはるかに歳上だが、長脛彦の事件で許しを請うために形式的な子となった一族の長との説明を頂いていますが、まだまだ分かりません。


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天子交差点の正面に鎮座する屋岡神社


ここで、消された九州王朝の大王の古墳がなぜ養父にあるのかについての推定をしておく必要があるかも知れません。

そもそも「考古学村」による戊辰年年号による六〇八年の評価が正しいのかと言う問題がある上に、畿内の古墳だから古いはずだという想定が良いかがあります。さらには、追葬や、太刀の場合は特に伝世の問題もあります。

百嶋神社考古学による想定は、“滅んだ九州王朝の王族が匿われた”としています。

また、移動した地名が好字令後のものであるように見えることがあります。

これが、六〇八年刀とそぐわないことの意味は、大和朝廷によって九州王朝の王族への圧力が高まった時期に但馬に逃げ込んだ際に九州から持ち込んだと考えれば一応の説明は付くのですが、そんな説明はこれまで「考古学村」がやってきたことでしかありません。

筑後川流域の古墳の多くが大和王朝によって暴かれているとの思いを持っていることから、それを恐れて改葬したとの想定に飛びつく前に、そもそも、干支年号の六〇八年想定、古墳の絶対年代、追葬の有無、九州王朝のどの大王なのかといった全てのことを洗い直すことが必要ではないかと思うものです。


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御井神社


では、御井神とは何なのでしょうか、「日本書紀」には記載がなく「古事記」によることになるのですが、HP「神奈備」には、「御井神は古事記によれば大穴牟遅神が八上比売に生ました子を木の俣にさしはさみ、木俣神亦の名を御井神と言うとある。延喜式注には御井、素盞嗚尊の子なり、母は稲葉八上姫とある」と書かれています。

一方、久留米の味水御井神社は祭神を水波能売命(スサノウのお妃となった大山祗の長女で豊受大神の母)としています。

言うまでもなく、大穴牟遅神とは大国主命であり、播磨の一の宮伊和神社の祭神も大穴牟遅神とされることから、当然にも伊和大神も大国主であり、その第一子が、木俣神となります。それで良いかは分かりませんが、延喜式注の御井、素盞嗚尊の子なりはどういうことなのでしょうか?意味が分かりません。


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屋岡神社縁起


もしも、大国主の子であるのならば、大国主命を九州王朝の親衛隊長とする百嶋説には符合するようです。

また、「少なくとも、伯耆國まで御井神社が広がっている。」と前述しました。

一つだけ、斐川の御井神社をご紹介しておきましょう。

鎮座地、島根県簸川郡斐川町直江町、祭神は木俣神(このまたのかみ)八上姫大神(やかみひめのおおかみ)とされています。木俣神は、大国主命の御子(八上姫との間にできた第一子)ですが、これは瀬高の釣殿神社などでも見かけます。大国主神の正妻「須勢理毘売(すせりびめ)」を畏れ、生まれた子を木の俣に押し込んで因幡国に帰ってしまった。と言うのですが。


地名と古代史


戦前までの文献史学は天皇制に奉仕する「皇国史観」と心中することをもって堕落の末破産しました。

そして、その反省の上から始まったとする戦後史学も、具体的な発掘物を系統だって分析する科学的知見と皇国史観から独立した文献史学が結びついたとしたものの、最終的には炭素14による年代測定めさえも受け入れることもできず、今や土器編年の破産直前のありさまで、大和朝廷と既存の支配構造に奉仕する御用学として確実に解体へと向かっているようです。

このような中、穴掘考古学に見切りをつけたのが早かったおかげで、たとえ、無自覚ではあったとしても、比較的自由な民俗学や地名研究、神社研究に漕ぎ出すことでき、どうやら古代の真実をも見透すことができるのではないかと思えるようになってきました。

そもそも、今回のテーマは、沖ノ島がなぜ二つあるのかという些細な疑問から始めたものでした。表記は異なるものの“日本海にも同じ名の島がかなり離れて存在するということは、同一の民族、氏族が、広がるか逃げるかした。”と、しか考えられないと思い至ったからでした。そして、その表記を考える時、隠岐の島よりも簡素な表記の沖ノ島が新しいはずはないと気付いたのでした。

あまり知られてはいませんが、出雲の北の海岸部には夥しい数の「青島」があります。これは、ほとんど漁港の浦々の沖に一つずつあるようなものです。

民俗学者の谷川健一は「青の会」を創ってまで、水葬から続く葬地としての青地名を表面に引き上げましたが、まさに出雲の北岸の青島の存在は、集落(浦)ごとの葬の島として定まっていたことの証左に思えましたが、このような場合、表記は同じになってしまいます。

と、すると、表記が異なることそのものに意味があると考え始めたのでした。

そして、宗像大社の社地が田島で、田島神社の表記はそれを移した物であることに気付いたとき、田島と但馬、沖と隠岐の関係が見えてきたのです。

 さらに、松浦佐用姫が播磨の佐用姫神社では堂々と市杵島姫とされているにもかかわらず、宗像大社では佐用姫など片鱗もなく、田島神社では祀られてはいるものの、別神扱いにされていることも分かってきました。

どうやら、宗像大社の本来の祭神が大国主命であるという「百嶋神社考古学」による示唆は、養父の御井神社の正体を解き明かしてくれそうな予感がしています。

田島にも出雲にも大国主命を祭る沖に沖ノ島、隠岐島があれば、但馬にも大国主命が祀られ、その上に御井神がいると見えてきたのでした。

播磨の佐用姫(市杵島姫)は但馬から内陸の播磨に引き、宗像大社では佐用姫など片鱗も出さず、市杵島姫他三女神を正面に据えることを持って大国主命を慎重にか、あるいは丁重にか、伏せおおしたように見えるのです。そして、その背後には御井神が高々と聳えているようなのです。

一方、梅原 猛に「神々の流竄」がありますが、“沖ノ島の祭祀に関わる人々(ウサギ)が、白江戦に敗れたことから列島に移る必要がでてきたが、そこで力を貸したのが九州の志賀ノ島を本拠とする阿曇族(ワニ)であった。「因幡の白兎」の物語はその移動を書き留めたものであり、その時に起こった部族間の衝突の記録だった“としている。この「白兎」の物語の舞台が、実はこの玄海灘だったと考えているのです。梅原氏によればこの話は「改竄された神々の物語」の一つであり、昔話としては白兎が、出雲の北の隠岐の島から、ワニの背中伝いに、因幡(鳥取県)の白兎海岸に渡る物語と理解されてはいるが、海を渡る時に兎がワニを騙していたため、それに気がついたワニがウサギを丸裸にしてしまうということになっているのです。
 そして、それは日本海の「隠岐の島」ではなく玄界灘の「沖ノ島」で起こったこととするのです。 

もしも、梅原説のようにこの玄界灘が「因幡の白兎」の話の舞台とすると、九州北岸に大国主がいなければなりません。宗像の本来の神を「大国主命」とする「百嶋神社考古学」の空恐ろしさを実感せざるを得なくなるのです。

今や「考古学村」「古代史村」と化した戦後歴史学を一切期待することなく、自らの目と足だけを頼りに古代を探らざるを得ない時代に入ったのかもしれません。

 買弁学者を一切信用することなく、嘲笑されようとも、頼りなくとも自ら頭で考えることだけが古代を解き明かしてくれるのではないかという気がしています。

 但馬の地名を見ると713年の好字令以降のもののように見えます。また、平安京成立(794年)により近畿大和朝廷が直ぐ隣に進出することになります。この期間、九州までの距離の倍に近い但馬は安全な場所であり、以前から開発が進んだ土地であった事から、この80年間に九州王朝の残存勢力が避退していたのではないかとの仮説を立てています。

スポット 147 阿蘇で雨宮さんにお会いしました

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スポット 147 阿蘇で雨宮さんにお会いしました

20171221

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


先に、ひぼろぎ逍遥(跡宮)“ビアヘロ030 において”阿蘇の11社の神社群は「πやφは元よりフィボナッチ数列を駆使するピラミッドの法則で造られていた”」を書きました。

その後、1221日 古代「火の国」の象徴 「炎のピラミッド」の発見(改訂再編集版:1500円)を紹介すると共に、著者である田尻宮司にお会いし、まずは10冊弱の著書を手に入れ、主だったメンバーに配布、販売するとともに、現在、追加も希望を取って購入を進める事にしています。

当日、宮司とお昼をご一緒し、阿蘇牛のステーキ・レストランでお話をしていると、たまたま隣の席に居られた男性とお知り合いになりました。

お名前は雨宮(アメミヤ)さんと言う方だったのですが、宮司とお別れする段階で、その雨宮さんから「私も神社に関心を持って調べている者ですが…」と声を掛けられ、以後、宮司と別れて所要を済ませた後に再度ご自宅にお伺いし長々とお話を致しました。

一応、雨宮は本名ながらフル・ネームは伏せておきますし、現在のご住所も阿蘇とだけ申し上げておきますが、私より多少は上の世代の方であり、関東地方でも神奈川県内の某市で歯科医師をされていた方なのです。ただ、3.11東京電力の福島第一の原発事故以降お仕事を辞められ、一旦は放射能を避け新潟県に移住されたのですが、さらに遠い鹿児島県の指宿市に移住され、その後も全国を放浪しつつ、三年ほど前に阿蘇に家を求めかつ造り(カーペンターもやられるようですので)、住み着かれたとの事でした。

この首都圏への放射能汚染の問題については、最近でも ひぼろぎ逍遥 スポット133 緊急提言 全国の将棋ファンの皆さんに! “放射性粉塵が首都圏を襲う”を公開していますのでお読み頂きたいと思います。

さて、お話は4時間を越え多岐に亘ったのですが、今回はこの手の話をするものではありません。

実際に雨宮さんという方にお会いし、雨宮という珍しい姓についてお話をした事をご紹介するとともにその意味について考えて見ようと思うものです。

この雨宮一族に関しては今後も色々とお聴きできるとは思うのですが、現時点に於いて当方に分かる範囲で多少の交通整理を試みようと思うものです。

まず、「雨宮」姓に関しては多少思い当たるものがあります。

これについては、以下をお読み頂きたいのですが、熊本県の旧相良村(現人吉市)にとどまらず、熊本県内にも幾つかの雨宮神社があり、雨宮姫という女神がおられるのです。

 
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ひぼろぎ逍遥(跡宮)


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


雨宮姓の分布に関しては山梨県のぶどう寺問題で10本ほどblogを書いた事から、以前から多少の見当は着いていました(これに関しては「ひぼろぎ逍遥」と「ぶどう寺」でダブル検索を…)。

雨宮姓は現在の分布で、山梨、長野、神奈川などに集中する一族なのです。

今回は、雨宮さんとお知り合いになったと言うただその一点だけの話になりますのでその点はご容赦を。

祭神の雨宮姫や母神である阿蘇津姫その父神である草部吉見神(ヒコヤイミミ)などについては過去何度も書いてきましたので触れない事にしますが、この富士山を中心に展開している雨宮姫の一族も阿蘇から移動している可能性があるのです(有名な「川中島の戦い」にも雨宮の渡=犀川が出て来ますね…これも豊後の「佐井」川なのです)。

まず、この雨宮姫の母神である阿蘇津姫ですが、後には寒川姫を経て杉山姫と名を変えているのです。

そこで考える価値があるのが、神奈川県を中心に分布している杉山神社であり、雨宮姫を奉斎する一族の移動と連動しているのではないかという想いが過るのです。一例ですが…。以下。


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杉山神社(すぎやまじんじゃ)は、主に五十猛神(スサノオの子)や日本武尊を主祭神とする神社である。旧武蔵国における式内社の一社とされるが、その論社とされる神社は現在の神奈川県横浜市を中心に川崎市、東京都町田市、稲城市などに数十社存在する。  ウィキペディア20180101 0209による

勿論、表面的な祭神は異なりますのでご注意を。


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百嶋由一郎杉山姫神代系譜(部分)

ひぼろぎ逍遥
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でも

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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この辺りを読まれれば、ぶどう寺に関連する甲斐の雨宮勘解由の話なり、信濃の雨宮一族…と九州との関係が多少はご理解頂けると思います。

特にぶどう寺に深い繋がりがあり、三階松の家紋を抱く三枝氏は阿蘇氏(草部吉見)と宗像一族(市杵島姫)の流れを持つ氏族(彦座王=天足彦)である可能性が高く、最後は裏紋として門光を使う武田信玄さえも九州王朝系の氏族である事が見えて来ると、武田氏にも組み込まれた○に上の家紋を使う雨宮一族が阿蘇の雨宮姫の流れを持った人々であることが見えて来るのでした。

詳しい説明は省きますが、熱心に読み解かれ自ら解明しようとされる方にはこの雨宮一族にも阿蘇氏の血が流れ込んでいる事が見えて来るのではないかと思うものです。


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さて、雨宮さんとのお話でも出てくるのですが、熊本にはと言うか、阿蘇には「甲斐」姓の方が沢山おられます。


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県別に検索されればより一層傾向が分かりますが、熊本県でも東部ですから阿蘇中心ですし、それに最も色濃い分布を示す宮崎県北部の延岡市、それに大分県は大分市が甲斐姓の分布の中心を示しており、甲斐の国(山梨)とはまさしく彼らの移動によって成立したのではないかとさえ思ってしまいます。

 当の長野県(信濃)、山梨県(甲斐)では少ないものの、長野の松本、諏訪などで確認できるのです。

 彼らは恐らく九州の中部以南(熊襲の領域)から東へ向かい北上し中央山地に蟠踞したのでしょう。

いずれにせよ、武田氏、三枝氏、雨宮氏(甲斐氏は恐らく名を変えていると思うのですが)、下の百嶋由一郎最終神代系譜に登場する、建南方(諏訪の建御名方)、天足彦、椎根津彦…と言った阿蘇系氏族の流れのどれかと各々関係があるのではないかと考えているところです。

 実は、最近になって武田信玄の武田氏さえも、もしかしたら阿蘇の周辺から移動したのではないかと考える様になりました。九州の武田姓が関東から熊本の南関に入っていると言う話は承知の上なのですが。

 それは、海援隊の武田鉄矢の母君は阿蘇周辺の名家の出であり(阿蘇の小国町北里=北里柴三郎の生地の北側の集落)、家の周りは全て大地主である武田家の土地だったと言われていたのです。

 裏紋として門光を使っていた武田信玄が九州王朝の後裔である可能性も含め今後とも注目したいと考えています。


熊本と言えば馬刺し しかし甲斐の国にも




sp147-11最後に、馬刺しの話をしておきましょう。

熊本に来たら有名な馬刺し(生食)を食べますね、山梨周辺も馬刺しが好まれるのです。納豆は元より、この特徴的な食文化が相互に全く無関係などとは凡そ考えられないため、阿蘇系氏族の一派が、東の中央山地に展開し甲州騎馬軍団になったのではないかと考えたいのです。


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534 「しつこい」と「ひつこい」

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534 「しつこい」と「ひつこい」

20171111

太宰府地名研究会 古川 清久


桂米朝全集に「堺飛脚」があります(特選!!米朝落語全集 第28 CD土橋万歳/堺飛脚/看板の一)。

とりたてて面白いという噺でもなくどちらかと言えば小噺の範疇に入るものですが、何度も聴いてようやく気付くこともあるものです。

落語ばかりではなく、自分ではそれなりに関西弁には慣れ親しんでいるつもりでいたのですが、関西では「しつこい」を「ひつこい」と言うことにようやく気付きました。

勿論、関東が「ひ」の発音を「し」としか発音しない(できない)という事は半ば常識ですが、聴いていると、やはり米朝師匠も「しつこい」を「ひつこい」と発音している事に遅れ馳せながらも改めて気づいたのでした(この点は九州と同じですね)。


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【上方落語メモ第5集】その211

堺  飛  脚

●何じゃこら? 死んでんのかいな? 生きてんのか? しっかりしなはれあんた。

 「はい」ヒョッと上げた顔が、目も鼻も口もなんにも無いノッペラボォ。

●ド狸、ヒツコイやっちゃなぁ……、えぇ、次は何やと思たらお前、女の白瓜みたいな化けもん。おいッ、高入道の次がノッペラボォ、古臭すぎるなぁ

おい、古いわい古いわい、出直せッ!

 パッと消えてしまう。

 「あいつらの考えることちゅうたら、だいたい相場が決まっとぉんねな、ちぃ~と変わったこと考えやがったらえぇのに……」なんか言ぅてるうちに、

もぉ狸も化けもんも諦めたのか、なんにも出ません。

 しょ~もない=つまらない。くだらない。仕様もないの訛化。

 高入道=大入道:からだの大きな、坊主頭の化け物。

 ヒツコイ=シツコイ:一つのことに執着して離れようとしない。執念深い。

   関西では「し」音がしばしば「ひ」となる。質、七(ヒチ)・失礼(ヒツ   レエ)・敷く(ヒク)

 音源:桂米朝 91/08/19 米朝落語全集(東芝)

【作成メモ】

 参 照 演 者:main=桂米朝 sub=*

 ●main高座記録日:1991/08/19  音  源  名:米朝落語全集(東芝)

 ファイル公開日:2000/06/04  江戸落語相当:*

 更  新  日:2008/12/07  リクエスト数:

 注 意 事 項:内容を削除、追加、改訂している部分があります。

          記録日のmain演者によるさげを採用しました。


あまり真面目に考えてはいなかったのですが、元々、「しつこい」という言葉はどうしても意味が分からず、何が語源なのかの見当が着かないでいたのですが、「しつこい」は明治以降に関東方言が標準化された事によって「しつこい」が普通の表現であるようになっただけのことで、いわば国民全てが錯覚している訳で、「ひつこい」が元であれば何でもなく容易に理解できることに気付いたのでした。

実際、何度も聴いていながら聴き飛ばしていただけで、米朝師匠も「ド狸、ヒツコイやっちゃなぁ」と語っておられた訳です。

さて、「ひつこい」をひっつきやすいから「ひっつこい」に転化して「ひつこい」が成立したとすれば容易に理解できる事になる訳なのです。


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「しつこい」が「ひっつきやすい」が語源なら分かり易い訳で、まず、「関西方言」という理解(東→西)そのものが誤りなのです。

そうすると「しつけ」(躾)さえも、もしかすれば「ひっつけ」が語源なのかも知れないのです。

元々、躾とは関東武士団の子弟の教育が起源なのですから(以下をご覧下さい)。

考えれば仕付糸も引っ付けるための物ですよね…。


【しつけの語源・由来】 ... 漢字の「躾」は、しつけの対象を礼儀作法に限定する武家礼式の用語として生まれた国字で、この頃から「仕付け」が別語と意識されるようになった。 「躾」には、身(体)を美しく飾る意味があり、「身」に「花」という漢字も作られた。

仕付け・躾(しつけ) - 語源由来辞典 gogen-allguide.com/si/shitsuke.html


火鉢が「シバチ」、と呼ばれ、七輪が「シチリン」と呼ばれるなど幾つも例がありますが、分かり易い例でお考えいただきましょう(以下をお読み下さい)。


1.本当の下町育ちは、「ひ」が発音できない。「潮干狩り」を「しおがり」と言う。(「コーシー(コーヒー)」も同じ) それを江戸弁と言う。特徴は「ひ」が発音できない事。例:「しがし(東)」 「冷たい」という意味の「冷やっこい」は「しゃっこい」。

「ひ」が発音できないと言うより「い」の段の発音がそもそもおかしい。特に「い」の段が連続するとさらにおかしな発音になる場合がある。例「ひしみとうがらし(七味唐辛子)

「ひ」と「し」が区別できない地域に「七味唐辛子」は存在しない「七色(なないろ)」と呼ぶ.

「日比谷(ヒビヤ)」と「渋谷(シブヤ)」を区別できない。

外国のオーケストラが日比谷公会堂と渋谷公会堂にばらけて到着した事件があった。(呼び屋が江戸っ子だったらしい)

1から10の数え方を「いち、にい、さん、しー、ごう、ろく、しち、はち、くー、じゅう」と思ってました(ばーさまが江戸っ子だったので)


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535コノハナノサクヤヒメはサクラヒメだったのではないか ①

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535コノハナノサクヤヒメはサクラヒメだったのではないか ①

20171125

太宰府地名研究会 古川 清久


 熊本県では過去何回か3040人規模のトレッキングを行なった事があるのですが、最近は環境の変化か大規模なトレッキングを控えています。

 むしろ重複を避け小規模なトレッキングを繰り返す方がコーディネートに効率が良く、回数を増やしテーマごとの機動的なトレッキングを行なっています。

 22日も宮崎県椎葉村の栂尾神楽に来ている最中に、どうしても西都原第二古墳群の伝大山祗古墳正面の石貫神社を見たいとの乱暴な話が舞い込んだ事から、急遽案内をすることになり、翌朝10時まで続くはずの栂尾神楽を朝6時で切り上げ、早朝7時から集合場所の草部吉見神社正面の奥阿蘇物産館に向かい、9時から宮崎県西都市に向かいました。


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この古墳の正面にある石貫神社が大山祗を祀る神社である事は以前にもお伝えしました。

 事実、石貫神社は大山祗を祀る神社としていますし、付近にはコノハナノサクヤを祀る都萬神社もあるのです。このためここでは別の側面にふれてお話ししたいと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮) 340 旧石和町に物部神社があった “山梨県笛吹市春日居”の石尊神社 


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この石貫神社からは160数段の階段が伝大山祗古墳に向けて造られており、これほどの石段が寄進によって造られている事を考えれば、かつては整列して神社からこの陵に向けて参詣が行われていたものと思います。


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前方後円墳でも初期のものとされる柄鏡式型の伝大山祗古墳


 さて、この石貫神社からもそう遠くはないところにあるのがコノハナノサクヤヒメを祀る都萬(ツマ)神社です。

つまり、父は娘にあたる大山祗を祀る石貫神社とコノハナノサクヤを祀る都萬神社が揃っているのです。


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都萬神社 カーナビ検索 宮崎県西都市妻1 ℡ 0983-43-1238


 この石貫神社が熊本県玉名市の新幹線玉名駅正面の石貫と関係があり、実は、山口県光市の石城山神籠石の山上神社の祭神が大山祇神、雷神、高龗神である事とも通底しており、遠くシルクロードのタシクルガン(中国名「石城山」「石頭城」)を起源としている事にまで気付くのです。

 新疆ウイグルは勿論のことアフガニスタンにまで何度も入っておられたようで、このシルクロードの石頭城(タシコルガン、タシクルガン)石頭山が「石城」とされ列島まで持ち込まれていると考えておられたのです。ユーチューブで「タシュクルガンにある石頭城」など検索してください。

 これまでにも何度も申し上げていますが、百嶋神社考古学では大山祗命=月読命はトルコ系匈
535-6奴で金官伽耶の金越智(ウマシアイカビヒコヂ)と天御中主の間に産れた、トルコ系匈奴の血を引くものとします。

 ついでに言えば腹違いの伯母と姪の関係に当たる本当の神武天皇のお妃に当たるアイラツヒメも匈奴の血を曳いたトルコ系の女性だったのです。

 ちなみに、アイラールはトルコ語の「月」を意味し、アイラツヒメとは月子ちゃんであり、月姫だったのです。

 とすると、父の大山祗が月読命(百嶋由一郎説)と呼ばれている事の意味も多少は見えて来るのです。


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手書きデータ 百嶋神社考古学03 「014猿田彦から女木島」による

スポット148 2017年末を揺るがした大相撲の混乱と富岡八幡宮事件

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スポット148 2017年末を揺るがした大相撲の混乱と富岡八幡宮事件

20180104

太宰府地名研究会 古川 清久


2017年の歳末を驚かせた事件に大相撲の混乱と表面的には無関係であるかのような報道がされていますが、富岡八幡宮を巡る殺人事件でした。

あたかも貴乃花親方の個人的問題でもあるかのように報道されてはいますが、本質的には興業(決してスポーツでも武道でもないストリップとか大衆演劇と同様のもの)に於ける八百長とそれを維持するための金と暴力、神社の経営に絡む伝統的興業の姿を赤裸々な形で表したのでした。

大相撲興業と貴乃花親方問題に関しては、既にスポット146ドライブ・レコーダーは恥の国を蘇らせるか ② で概略触れていますが、富岡八幡宮事件によって江戸時代に始まる相撲興業に於ける腐敗した構造が良く見えてきますので少し考えて見たいと思うものです。

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が死亡するという最悪の歴史を刻むことになった。


以下はネット検索によりお読み頂きたいのですが、現在の大相撲の原型となる勧進相撲興業と神社との関係が良く分かります。


写真 左は今回の大相撲問題の良くご存じの関係者であり、右は殺された長子宮司(扱い)。

いずれにせよ、年末のお茶の間を騒がせた二つの集団暴行傷害事件、傷害殺人事件が同根である事が分かってくるのです。

大和(これも奈良の山の中のような近畿大和朝廷の話ではないのですが)に当麻蹶速(タイマノケハヤ)という強い男がいる事を知った垂仁天皇が、出雲から野見宿禰(ノミノスクネ)という人物を呼び寄せ、力比べをさせたという話があります。

この現場は熊本県芦北町と考えていますので関心をお持ちの方は ひぼろぎ逍遥180 大相撲の桟敷席とは何か? をお読み頂きたいと思います。

さて本題から逸れましたが、伝えられる富岡八幡宮の豪華な宮司宅(12,000万円)とかお抱え運転手付のレクサス(宮司車)と、元宮司(自殺した殺人犯)が退職後も年額一億円貰っていた…といった話からは、全国の滅び行く零細神社との落差、悲哀を強く意識せざるを得ません。


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そもそも興業とは演芸やスポーツを行い、入場料をとって客に見物させることでしかありませんので、言わば基本的には、プロレス興行、サーカス巡業、歌謡ショー、ストリップ・ショー…であって、金儲けの手段でしかありません。

要は只の金儲けでしかないのですが、これに何らかの神聖性、正統性を付与するために、神社の境内などで相撲を行なう事によって神前に供え、共にその上がりの一部を神社に奉納するとともに、多くの人を集めることから行政を含めた地域へのあがりの一部を寄進するという構造から全体が丸く収まる仕組みが形成されるのです。

これはただの博打でしかない競輪、競馬、競艇、オートレース…を人を集めて金儲けをさせて貰うために、国債を大量に購入します(そんなものは自分たちの債権であり財産にしているだけなのですが)とか役人どもにも多くの賄賂を贈ったのでしょうが、本来犯罪でしかない賭博紛いの賭場の開帳を許して貰うためにはあの手この手の手管を取って多くの税金を差し上げますから私達だけに旨い汁を吸わせて下さいという仕組みが作られたのです。

それが、あたかも神聖性を伴った公益財団法人にまでなって、高慢ちきな厚化粧の○坊(○暴と読め)

なる議員女にヤクザの親方衆の様な非論理的な論理を喋らせるに至っているのです。

凡そギャンブルや興行に群がるようなB層の方々が哀れと思うのは、ただの八百長でしかない大相撲(一部の重要な取組みが仕組まれた星の貸し借り売買であれば全体が腐ったものと思わざるを得ないのですから)を一喜一憂の思いで感激しているというのですからどうしようもないのです。

勿論、所詮はショー(見世物)でしかない物を見て喜び御捻りを奮発する事はその方々の自由ですから批判をするつもりは一切ありません。

ただし、それを公益性と神聖性を付与された純粋なスポーツとか国技として描く事は税金の一部免除も伴い税金が投入される事実上の国営放送であるNHKが多くの資金を使って放映されるのであれば、その背景に許しがたいものがあればその事実については明らかにしますよと申し上げているだけの事なのです。

ただし、何故、境内で殺人事件をさえ引き起こした富岡八幡宮がそれほどの収益性を持ったという背景には、百年間行われた勧進相撲の存在があり、現在の相撲協会の発展への前史を作った事が見えてくるのであって、相撲協会の腐敗と混乱と富岡八幡宮の事件の背景には、ヤクザ同様の興行主とか、暴力とか闇の部分が見えて来るのです。

そうでなければマフィアの総会のような相撲協会の理事会もないはずですし、その議事の決定方式に見る一門(ヤクザの一門親方衆)的体質を相撲協会に見るのですが、その延長上に二つの衝撃的な事件が起こっていると見たいのです。


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536 コノハナノサクヤヒメはサクラヒメだったのではないか ②

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536 コノハナノサクヤヒメはサクラヒメだったのではないか ②

20171125

太宰府地名研究会 古川 清久


 さて、コノハナノサクヤヒメを主神として祀る都萬神社の前にはきれいな川が流れています。

桜川と言いますが、桜川町まであります。


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コノハナノサクヤヒメが祀られている大山祗系神社には桜の紋章がふられていますし、ご覧の通り、本家本元の都萬神社の社務所にも桜が施されています。


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コノハナノサクヤヒメはコノハナノサクラヒメであったとさえ考えるのですが、列島人はR音(実際はL音)の発音さえ困難であったため、コノハナノサクヤと呼ばれたのではないかとさえ考えていますが、これについては確信が持てないため今のところ構想に留まっています。ただこの桜川と無関係でもないでしょう。と言うよりサクヤヒメが居たから桜川の名が残ったのではないかと思うのです。


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以下はネット上から拾った「樹木の文化誌」の一文ですが、サクヤヒメはサクラヒメだったのです。


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536-5これは百嶋先生が言われていた事ですが、晩年“関東に移動したコノハナノサクヤヒメは関東ではサクラヒメになっている…”つまり、関東ではサクラヒメと呼ばれている事が分かるのです。

例えば江戸落語の古今亭志ん生師匠の小噺で、男女の恋について語ったもの 小噺の概略を申し上げておきましょう。「どんな男でもご婦人には迷うものです。清水寺に清玄(せいげん)という立派なお坊さんがいたが、桜姫のために思い悩んだ。「どうか桜姫に会いたい、お姫に会いたい」とお姫ばかりを恋しがっていた。けれど会えなかった。これは会えないわけですな、こっちが坊主で向こうが桜だから坊主と桜がオチになっていますが、花札の坊主と桜の事で、志ん生の噺には方々に出て来ます。

勿論、コノハナノサクヤヒメの話としては語られてはいないのですが、関東のコノハナノサクヤヒメはサクラヒメと呼ばれていた事が反映されていた可能性が高いのです。

恐らく近畿大和朝廷に完全制圧された段階で本来のサクラヒメはサクヤヒメと呼ばれ書き留められ、晩年になって移動した結果、関東では原音が残ったのではないかと考えています。

 木花之佐久夜毘売、木花開耶姫と表記される以前の原音が「サクラヒメ」として残ったのではないでしょうか?


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今のところ仮説の仮説のような段階ですが、コノハナノサクヤヒメはサクラヒメと呼ばれていたからこそ桜をシンボルとしており、ニニギと別れたコノハナノサクヤは晩年に関東に移動し、富士山浅間神社に痕跡を残し関東の玉川=多摩川(ヤタガラス)の領域に移動したと考えています。

 ご覧の通り、コノハナノサクヤはオオナムチ=大国主命の妹なのです。

537 大分県玖珠町のトレッキングスケジュールに急遽取り入れた武内神社について

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537 大分県玖珠町のトレッキングスケジュールに急遽取り入れた武内神社について

20171126

太宰府地名研究会 古川 清久


 大分県でもトレッキングを行なっています。

1117日の佐賀県三瀬村でのトレッキングに続き、大分県玖珠町でもトレッキングを行ないました。

 三瀬村では20人規模でしたが、大分では初めて10人を上回る規模かと期待していましたが、骨折とか作業による疲労とかどたキャンが相次ぎ、急遽5人で細々と行うこととなりました。

 月にいくつものトレッキングを行なっていると、こういう事はある程度起こるもので覚悟しておかなければなりません。

 そうした中、メンバーの要請によって、急遽、玖珠の武内神社を訪問する事になりました。

 まず、大分県玖珠町をご存じないと思いますので、位置を把握して頂きますが、簡単に言えば、日田市


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と、由布市の中間の最も山がちな高原の町になります。

 ここで、玖珠町で武内神社とは聴いた事がなかったため、まずは場所探しと、これを
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というサイトで探すと、豊後森駅正面の商店街の一角にあると出ていました。

ところが、ここには歯科医院やら閉められた家具屋やらしかなく、表記の誤りか、付近の駅前には商店街の崖の上に稲荷神社があるだけで、全くの誤りである事が分かりました。


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そこで、別の検索を試みると、グーグル・マップで 武内神社 〒879-4404 大分県玖珠郡玖珠町森

と表示されました。こちらが正しかったのです。

 地番は書かれていませんが、書かれていたとしても山中故にほぼ意味を成しません。


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場所が分かったことから、車二台で現地まで行きましたが、既に集落による共同祭祀が衰退しており、鳥居に御幣が掛かるのみで、いずれ見捨てられる神社である事が明らかでした。

 メンバーが何故この神社に拘られたかが奇妙でしたが、神社調査にはこのような事は頻繁に起こります。

 場所は地元の古老にお尋ねし直ぐに分かりましたが、車を廃屋の空地に駐車し、少々ハードな参道を十分ほど掛けて境内に辿り着きました。


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結果的には、社殿の近くまで行ける林道があったのですが、舗装されている様子もなく、多少の雨もあり、落葉でスリップするとどうにもならなくなることから、おいそれと乗用車で行ける状態でもなく、歩くことにしました。

 それほど労する事もなく境内に上がりましたが、下の写真を見ればお分かりの通り、正面の杉が根こそぎ倒壊しており、枝の伸び具合から数年は経過している様に見えました。

 祭祀が生きており、参拝が頻繁に行われているならばこのような杉はたちどころに処分されているはずであり、放置されている事自体がこの神社の全てを表していたのでした。

 恐らく高齢化と過疎化により氏子組織は衰弱し、祭礼も宮司も参拝は元より神社への崇敬の念の一切が消失する極限まで進んでいるようです。

 このような現象は全国の至る所で生じているはずで、十年後、二十年後は考えたくもありません。


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社殿は思いのほか立派でした。

 一部は破れ、雨漏りから腐り始め倒壊寸前かと覚悟していたのですが、社殿その他はしっかりしており、愕きました。

半分、救われた気がしたのですが、しかし、良く考えると現在の社会情勢の恐ろしさを改めて再認識し、逆に悲しさ空しさが込み上げてきました。

空しさを感じたのは、江戸時代から明治~昭和に掛けての寺社建築が如何に堅ろうであったかがまざまざも浮き彫りになり、現在が如何にくだらないものしか造れない社会に墜ちているかという事を再認識したからでした。

実際、この時を経た社殿の在り様には感心せざるを得ませんでした。

祭祀が断絶し荒れる一方に見える神社ではあるのですが、実にしっかりとした立派な造りの神社であり、経年劣化の割には乱れがなくちょっと磨けばピカピカの神殿が蘇るはずなのですが、どうせ高望みにしかならないでしょう。

多くの社殿を見てきた者としては、この神社を普請、作事した石工、左官、宮大工…が如何に立派であったかが良く分かります。

今後手が入らなければ、いずれは倒壊へと向かうはずですが、彼らがやった仕事は今現在燦然と光り輝いています。

逆に言えば、それほどの技術と惜しみなく投入された財貨を考えると、昔の方が余程豊かであり、木造建築に関してはよほど優れていた事が良く分かるのでした。

それほどアメリカに占領されにより(国富を奪われ)続けて70年を経過した現在に比べて、惜しみなく投入された地域の力がどれほど大きかったかに考えが及ばざるを得なかったのでした。

もはや大工さんの仕事は消え、立派に建てられる技術も消失する直前にあるのです。

それもこれも小○竹○によって国民の所得が半減させられ、地域経済が決定的に衰退してしまった結果生じたのであり、昔の方が余程良いものが造られていると言った実感をもってしまいます。

それほど現在のものほど安普請であり、直ぐに狂いが生じる様な百円ショップ神社となっているのです。

現在、木造できちんとした神社を建てようとするとコンクリートの五倍から十倍は掛かる事になるでしょう。

それでも建て直しができるだけましな方であって、良くて昔の公衆便所まがいのコンクリート製の社殿で安っぽいコロニアル風の屋根とサッシの窓枠で造られることになるはずなのです。

本来は、祭神や神社が造られた背景、建てた氏族について話すべきですが、それは後に回すとして、


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では、そろそろ祭神の話に入りましょう。

 武内宿禰を祀る神社である事は武内神社と呼ばれている以上それで良いでしょう。

 参拝殿には一枚の由緒書が掲げられていました。

 大分県では善神王とか是善王とか是善神…といった祭祀に頻繁に遭遇します。

 

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この神社は明治期に、当たり障りのない武内神社となった可能性が高く、天明年間当時に平田山(平田は地名)善神王社として建立された事が書かれています。以前も触れましたので省略しますが、百嶋由一郎氏は善神王とは菅原道真の父を祭神としていると言われていました。


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ここの手水場の施工の狂いのなさにも驚きました正確な石柱によるものですが、今のコンクリート製とは雲泥の差があります。


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参道の手前の廃屋に車を駐車させて頂きましたが、このような廃屋が続出し氏子組織が日々壊滅し続けているのです。

スポット149 八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった

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スポット149 八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった

20171211

太宰府地名研究会 古川 清久


ここでは一般的に知られた妙見宮を描くことをせずにこの神社の本質を描くことにしたいと思います。


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妙見宮 カーナビ検索 熊本県八代市妙見町405 ℡0965-32-5350


まず、祭神ですが、天御中主神と國常立神とされています(境内、境外摂社は略載します)。

さて、良く知られた八代の妙見宮ですが、最近になって列島にとっても九州王朝にとっても最も重要な神社であった事がようやく分かってきました。ここでは、通常話されるありきたりの内容から離れ、最も重要な側面についてだけお話しさせて頂きます。言うまでもなく、祭神である天御中主神と國常立神とは、白山姫と博多の櫛田神社で祀られている大幡主の二神です(「熊本県神社誌」省略)。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


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この三つの縁起を全て見られた方は恐らくおられないでしょうが、有明海を挟む肥前肥後の両岸を支配していたのが火の君であり、九州王朝を根底で支えた重要氏族(熊本の白川の名=「白水」を付した白族)

でもあったのです。

 そのシンボルとなったのが白山姫、妙見宮、北辰神社であり熊野三山、博多の櫛田神社の大幡主であり、その後継たる豊玉彦=ヤタガラスだったのです。


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この間、八代の妙見宮の重要性に関してはある程度理解していたつもりではあったのですが、大幡主~豊玉彦=ヤタガラスの一族(白族)は、直接、熊本に入っていると考えていた事から、八代の妙見は河童渡来(揚子江流域からの越族の移動)による後付だろうと考えていました。

 ところが、妙見宮に隣接する霊符神社の記述と氷川の北、宇城市小川町の霊符神社の記述が対応し、さらに佐賀県(肥前)の白石町(旧有明町)の稲佐神社(百済の王族を祀る神社)の境内地に百済の王族を火の君の世話で受入れたとの記述が相互に対応する事が判明し、肥前~肥後に掛けての領域を支配領域としていたのが火の君(それを肥溜めの肥の国したのは当然にも近畿大和朝廷)であり、妙見宮=天御中主命=白山姫を奉斎する白族(雲南省昆明からの列島への亡命民族)であった事が分かって来たのでした。

 これについては、先行blogをお読み頂きたいのですが、この阿蘇の草部吉見の一族(黎族)と共に、海南島を経由して入って来た人々こそ天御中主=白山姫を奉斎する白族だったのです。

 この阿蘇氏(黎族の一派)と大幡主の一族(白族)は、かつては中原にまで展開していたはずの主要民族だったのはずなのですが(九黎族)、漢族、鮮卑族、清族、モンゴル…(今の中国人)に追われ、追われ辺境の少数民族地帯に逃れ、そこさえも失い列島に新天地を求めて進出してきた人々だったのです。

 阿蘇氏は雲南省麗江からメコン川(瀾滄江)を降り旧サイゴンから北上し海南島(南西部保亭リー族ミャオ族自治県・瓊中リー族ミャオ族自治県・白沙リー族自治県・陵水リー族自治県・昌江リー族自治県・楽東リー族自治県・東方リー族自治県…)へ、大幡主の一族は昆明からファン川(紅河)を降りベトナムのハノイ沖の海南島へ移動し、時期を見て列島へと進出した人々であったと考えられるのです。


ひぼろぎ逍遥 194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?


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理由は不明ですが櫛田神社は一旦紀州に移動し熊野から戻ってきているはずです


どうやら、百嶋先生は、博多に雪崩れ込んだ、白族(ペイツー)のルーツは雲南省昆明に近い、謎の青銅器文明(漁労+水田稲作農耕)として知られる「滇国」を想定しておられたようです。

考えて見れば、昆明には白族がいましたし、「滇国」の本拠地である滇池もそこにあったのですから、「滇王」の印を貰った「滇国」の一部が博多の櫛田神社の主祭神の大幡主に繋がる事は理があることなのです。

ただ、それを結びつけられるところが、百嶋先生の凄いところだと改めて思うものです。




sp149-7(てん、簡体字: , 拼音: Diān)は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国。歴史[編集]の将軍荘蹻が遠征した時に、によって帰郷できなくなり、やむなく建国したとされる。紀元前109前漢武帝の攻撃で属国になり、益州郡の統治下に入った。滇王之印滇王之印晋寧県の石寨(せきさい)山の遺跡(石寨山滇国王族墓)からはこの時代のものと思われる青銅器や「滇王之印中国語版)」と書かれた印鑑などが発掘されている。西嶋定生はこの滇王之印と日本の福岡県で出土した漢委奴国王印とが形式的に同一であることを指摘している。古滇国の歴代君主[編集]以下は黄懿陸の著『滇国史』から整理した。文字史料が不足しているため、大部分の滇王墓の主はその本名と年代を確認することができない。                  ウィキペディア(20150331 12:00による)


白族は黎族(阿蘇氏)と併せ、日本人のかなり重要な部分を構成しているはずで、白族の起源の一部がが「滇国」にあったと考える事が可能であれば、多くの照葉樹林文化論者達が主張している話とも符合する訳で、単に白族の一派が南ルートで渡来していると抽象的に考えるよりは、より具体性を帯びており、視界が広がった思いがしています。


雲南の二大王国


 現在の中華人民共和国最西南部、ベトナム、ラオス、ミャンマーと国境を接する地域で、北隣に四川省(しせん)、北東隣に貴州省(きしゅう)、北西隣にチベット自治区と接する雲南省(うんなん)。省都は昆明市(こんめい)であり、雲南という名は四川省と接する雲嶺山地(うんれい)の南にあることに由来する。現在は約39万平方キロメートルで、中国の行政区分別では8番目の広さである。漢民族以外にはイー族、ペー族、ミャオ族、チワン族など少数民族も多く存在する。中国古代王朝では、雲南・貴州のこうした漢民族以外の少数民族を西南夷(せいなんい)と呼んだ。

 歴史の上での雲南地方では、中国史における戦国時代B.C.403-B.C.221)にその黎明期があったとされている。戦国・(そ。?-B.C.223)の頃襄王(けいじょうおう。B.C.298-B.C.263)の時代(あるいは威王の時代か。いおう。B.C.339-B.C.329)にいた武将で、春秋五覇1人と数えられる楚の名君・荘王(そうおう。B.C.614-B.C.591)の子孫と伝えられた荘蹻(そうきょう。荘豪とも。そうごう。生没年不明)が、現在の昆明市西南に、同省最大の湖である"滇池(てんち)"付近に遠征を行い、同地を楚の支配下に入れたが、その遠征路を占領した王朝(しん。?-B.C.206)によって帰路を断たれた。そこで荘蹻は滇池を拠点に初代王(在位不明)となって王国"滇(てん)"を建国したとされるが、伝説的要素が濃く、建国年はB.C.5世紀からB.C.3世紀頃と確定には至らず、滅亡年も紀元前2世紀から紀元後2世紀の間で諸説ある。この滇国が雲南を拠点にした初の王国であるとされる。これに関し、その後の歴史を語る上で、雲南の異称として""が用いられることも多い。

 一方で夜郎(やろう。B.C.523?-B.C.27)という国家があった。 夜郎は滇より建国が古いとされるが、拠点は現在の貴州省で、雲南寄りにある畢節(ひっせつ)市の赫章(かくしょう)県にあったとされ、また一時的に楚の荘蹻に占領されたとも言われている。司馬遷(しばせん。B.C.145?/135?-B.C.86?)著の紀伝体正史『史記(しき)』の『西南夷伝』によると、夜郎は西南夷国家の中で最も強勢であったとされた。さらに、前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)時代、前漢からの遣使が滇王・嘗羌(しょうきょう。位B.C.123?-B.C.85)の会見機会があり、嘗羌が「自国と漢はどちらが強勢か」という、漢王朝からしてみれば愚問に値する内容を遣使に尋ねた。そして隣国の夜郎も王は同様の愚問に値する内容を尋ねた。こうした故事から、"夜郎自らを大なりとす"、すなわち"夜郎自大(やろうじだい。自身の力量や世間を知らず、自信過剰に威張ること)"の言葉が生まれたとされる。

HP「世界史の目」より




sp149-8白族(櫛田神社大幡主の一族)は雲南省昆明から紅(ファン)河を下りハロン湾から海南島を経由し肥後にやって来た


雲南省昆明(or大里?)

海南省(海南島)白砂黎族自治県(加茂村?)

隈本(熊本城のある千葉城町)

多くの隈地名の地(佐賀東部、博多、小郡、朝倉、日田)に北上し展開する。


 期を一にして入って来た阿蘇氏は天草下島の苓北町(この「苓」も黎族の「黎」と考えられます)を経由し阿蘇に進出します(そもそも天草は苓州ですね)。

 こうして、恐らく紀元前後に中国の辺境から亡命してきた黎族(後の宇治族=多氏=阿蘇氏)と白族(後の櫛田神社の大幡主、熊野三山、下賀茂、上賀茂)という列島の最重要氏族の二つが形成され列島人の主要な勢力となって行ったと考えられるのです。


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海南島南西部の黎族自治県には加茂という地区まであり、天御中主の後裔である下賀茂神社を思わせます 

538 佐賀県唐津市浜玉町にも武雄神社がある

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538 佐賀県唐津市浜玉町にも武雄神社がある

20171126

太宰府地名研究会 古川 清久


 武雄神社と言えば武内宿禰の父神を祀る神社として良く知られ、武内宿禰そのものを祀るとする黒男神社などと併せ考えれば、宇佐神宮にも黒男神社としてあるように、九州島だけでも相当数の武内宿禰系神社が拾えます。

 この佐賀県武雄市にある武雄神社は、武内宿禰の母神にあたる山下影姫を単独で祀る黒尾神社が同市の黒尾地区を始め、武雄市武内町にも数社ある事から、まず、この地で武内宿禰が産まれた可能性も含め、濃厚な地域である事は間違いないでしょう。

 少なくとも、山下影姫を祀る神社は九州島(他には佐賀県基山町や福岡県など)にしかなく、母神を祀る神社全くない和歌山県が武内宿禰の出身地であると言う話は、「邪馬台国畿内説」などといった利権絡みの大嘘を信じる連中が創り出した偽装でしかなく、ほとんど漫画にしか思えません。

 “学会通説に沿った教育委員会関係者や学芸員の話だけを鵜呑みにせずにきちんと調べろ!”と思わず言いたくなってしまいます。ただし、百嶋神社考古学では武内宿祢は武雄心命ではなく孝元の子とします(これについては別稿とします)。

 さて、武内神社が島根県松江市にもあるのですが、この問題には踏み込まず、ここでは同名の武雄神社について触れてみたいと思います。


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実は、佐賀県でも玄界灘側の唐津市の七山村の西隣の浜玉町に武雄神社があります。

 この奇妙さは北部九州におられる方でなければお分かり頂けないとは思います。

初めてこの事実を知ったのは十五年程前だったのですが、2018年から福岡県旧二丈町~佐賀県旧七山村一帯の神社のトレッキングを行なう事から下調べをしていて思い出し、一応、ブログとして書き留めておこうと取り上げることにしたものです。


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境内に置かれた同社縁起


境内社として八天宮、秋葉社があるとのことですが、共に金山彦を祀る神社です。

近世の勧請神社である事から間違いないようです。

 では、百嶋神社考古学が武雄神社の主神の武雄心命を誰と考えているかをお話ししておきましょう。

 無論、通説とは異なります。


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百嶋由一郎金神神代系譜


話が混乱していますが、始めに申しあげた屋主忍男武雄心命と山下影姫との間に武内宿禰が産まれているという話はあくまでも通説によるものでしかありません。

百嶋神社考古学では第8代孝元天皇と山下影姫との間に産まれたのが大彦の弟の武内宿禰であって、武雄心命は長脛彦の流れをひいた甘美内宿禰の父なのです。

従って金山彦の子である長脛彦の流れをひいた武雄心命を祀る神社(この武内神社)に境内社として八天宮、秋葉社=金山彦がある事が良く分かるのです。

ただ、この辺りの問題は最も難しい部分で、百嶋先生は容易に書いておられるように見えますが、その背後には想像を絶する苦労がおありだったものと理解しています。

私達は全てをお聴きしている訳ではないため、可能な限りフィールド・ワークを行い裏どりをして少しずつ解決へのもつれた糸をほどいてはいますが、まだ全く到達していません。

スポット150 菅原道真公の御両親

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スポット150 菅原道真公の御両親

20180120

太宰府地名研究会 古川 清久


最近、「宮原誠一の神社見聞牒」の宮原誠一氏から同氏が作成された「重松家祖先之碑」という資料を頂きました。勿論、当方も含め、宮原氏自身は橘一族の後裔の末流と考えています。

今般、ご家族の方が重松家と関係ができたことから、菅原道真の本流の後裔と考えられる重松家についてまとめられたようです。

資料には道真公の流れが良く分かる系図が入っていましたのでご紹介しておきたいと思います。

 故)百嶋由一郎氏からは「道真公は大幡主~豊玉彦直系の御本家と長脛彦後裔の御本家同志の婚姻によってお生まれになっておられます…」「神武天皇に逆らった長脛彦では都合が悪い事から豊玉彦を先祖としているとされておられ、それが当たりました…」と言ったお話をお聴きしていました。


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百嶋由一郎鳥子系譜(部分)


この系譜自体は博多の櫛田神社の主神である大幡主の子の豊玉彦(ヤタガラス)の流れを汲む鳥子の一流の武夷鳥系の本家を示しているのですが、道真公の母方に当たる長脛彦後裔の本家の子女との間に産まれた一族である事を示唆しているのです。

ただ、その母君が誰なのかを知らなかったところ、この資料にその名(結果的には「姓」だけだったのですが)が出ていましたのでご紹介したいと思います。

その家系図自体は宮原氏がネット上から拾われたものでしかありません。

道真公からの系図は良く出ているのですが、それ以前の流れが書かれたものが無い為、今回、無断借用ながら利用させて頂いたのでした(以下)。

まず、当麻蹴速と相撲で争った野見宿禰こと天穂日命(ヤタガラス)の後裔から道真公の父方が産まれている事が分かります。母上は大伴とか伴とか言われてはいたのですが、系図としては初見でした。

また、菅原古人も比較的知られていますが、菅原を名乗った最初の人なのです。


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菅原 古人(すがわら の ふるひと、生年不詳 - 延暦4年(785年)?)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。氏姓は土師宿禰のち菅原宿禰、菅原朝臣。阿波守・土師宇庭の子。官位は従五位下・遠江介。

光仁朝末の宝亀10年(779年)外従五位下に叙せられる。

天応元年(781年)桓武天皇の即位後に従五位下・遠江介に叙任される。まもなく、古人や道長ら一族15名が以下の通り、居住地である大和国添下郡菅原邑にちなんで菅原姓(菅原宿祢)への改姓を願い出て、これを許される。

祖業を顧みると、吉凶相半ばして、天皇の葬礼においては葬儀を掌り、祭の日には祭儀を預かり、このように奉仕することはまことに世間の習慣にも合っていた。しかし、現在はそうではなく専ら葬儀のみ預かっていて、祖業を深く考慮すると本意ではない。そこで居住地にちなんで土師から菅原姓へ改姓したい。

死後の延暦4年(785年)侍読としての功労により、4人の子息に対して学業に努めさせるため衣服と食糧が支給されている。

儒学者として高名で、余人で並ぶ者はなかった。一方で、家に財産の余裕がなく、子息は窮乏に苦しんだという。


ウィキペディア(20180120 12:11による



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さて、系図には道真公の御両親に当たる是善=コレヨシ(父) 伴氏女(母)が書かれています。

是善(父)は後述するとして、伴氏女(母)伴氏の女(メ=ムスメ)と読むべきで、まさか、バンノウジメと読むことはないでしょう。これについては知識を持ちません。

そこで、「日本史人物列伝」を参考にさせて頂きました。

ところが、残念なことに(注)当サイト内にある記事・画像等の無断複写及び転載は固くお断りいたしますと書かれています。

諦めようかとも考えましたが、非常に重要な内容ですので、お叱りが来れば削除するとして公開することに致した次第です。

この中から、母君が金山彦の後裔たる長脛彦の末流にあるという要素が多少とも見出せるならばと考えているところです。

既に、九州島内にも十社ほどの長脛彦系祭祀を確認していますので(全て実踏していますが、まだあるはずです)、繋がりが見いだせるのではないかと考えます。


平安時代
菅原道真の母

菅原是善の室

伴氏(大伴氏

伴氏(菅原道真の母)の出自に関しては、正確な記録が残されておらず伴氏(大伴氏)出身以外は不明であり、伴氏が菅原是善の室となった時期も一切未詳である。

承和12845)年、伴氏は道真を出産。

幼少時の道真は、体が弱く、伴氏も苦労したが、道真が学問の道に進むように献身的に導き育てた。

貞観4(862)年には、道真は文章生となる。

やがて文章得業生となった道真は、貞観12870)年に、方略試を及第。道真の未来が、これから拓けようとする矢先の貞観14872)年正月に、伴氏は、その生涯を終える。

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菅原道真の母は、ただ「伴氏」と伝えられるだけで、はっきりとした系譜や経歴はおろか、名前さえ伝わっていない。菅原是善との婚姻時期も判明しない。また、道真は是善の三男であるが、道真の上の二人の兄の生母が、伴氏であったのか、どうかも、一切不明である。

是善の子供の内、ただ、伴氏が道真を出産したことがわかるのみである。

その出産場所は、一般に勘解由小路南にあった是善の屋敷とされるが、むしろ、平安京内の伴氏邸と考える方が自然である。誕生後から幼い頃の道真は、とても体が弱く、道真に死が目前まで迫ったこともあった。
けれども、伴氏は必死に観音を信心し、観音像造立の発願によって、道真の命が救われたと伝えられている。道真が元服した際に、伴氏が、ひさかたの 月の桂も 折るばかり 家の風をも 吹かせてしがな」
と詠んだ歌が『拾遺集』に残されている。「国家試験に合格し菅原家の学問の気風を立派に受け継ぐように」という母心である。この歌からは、単に優しいだけでなく、時には厳しく叱咤激励しながら、道真に対して、持てる全ての愛情を注ぎ込んだ伴氏の姿が窺える。なお、伴氏が、この歌の中で詠んだ「家の風」は、今日では「家風」という熟語として親しまれているもので、日本における「家風」の慣用は、この伴氏によって、始められたと言われる所以である。道真は、母の期待によく応え、文章生となる。

が、伴氏の幸せは、長く続かなかった。貞観8(866)年に『応天門の変』が起こり、事件の首謀者として、伴氏の一族の伴善男が、伊豆へ流罪となるのである。伴氏の実家は、ここに没落の一途を辿る。

また、『応天門の変』に連座し、伴氏の兄が八丈島へ流罪に処されたとする説もある等、この事件によって、伴氏が受けた心労は、計り知れないものがあったと思われる。

(注)当サイト内にある記事・画像等の無断複写及び転載は固くお断りいたします

悲しみに打ちひしがれる母を励ますかのように、道真は、文章得業生に進むと、やがて妻を迎え、遂には、
文武天皇朝以来、僅か60数人ほどしか合格者を出していない超難関の方略試に合格し、学者としての面目躍如を果たすのである。それは、伴氏にとって、人生最大の喜びの瞬間でもあった。
しかし、伴氏は、貞観14872)年に亡くなる。
『応天門の変』後、道真の立身出世が叶うことだけをひたすらに信じ、気力だけで生きて来た伴氏が、点し続けて来た命の灯火の静かに燃え尽きた瞬間だった。
伴氏が亡くなった当時、存問勃海客使の任にあった道真は、喪に服するため一年間、全ての官職を解かれるという当時の慣例に従い職を解任される。

しかし、僅か数ヵ月後の5月には、勅命によって、再び職に復帰し、貞観16874)年には、道真は遂に従五位下へ昇進を果たす。
朝廷において、道真の学識が、いかに高く評価されていたかを物語るものであり、伴氏の母として、ひたすらに道真を支え続けた努力が、花開いた結果でもあった。
現在、
北野天満宮の参道脇に伴氏社、そして、同じく北野天満宮隣の東向観音寺に伴氏廟が建てられているが、それこそは、あたかも没後に怨霊として誰からも畏怖された道真の荒ぶる魂を、ただひとり優しく包み込み静かに寄り添う絶対無二の母、伴氏の姿、そのものであろう。
時に厳しく、時に優しく、愛する我が子に持てる全てを注ぎ育んだ伴氏の姿は、「日本の母親」像の原点とも言える。




sp150-5による


一般的に伴氏が長脛彦の後裔であるという話は直接的には知らないのですが、愛知県の豊橋などに集中する氏族であり、木瓜を家紋とする名族であることから、金山彦の後裔である事が見えて来ます。

では、是善(父)はどうなのでしょうか?

これについては、九州でもかなり頻繁に見かけます。

九州に於いて最も有名なのが、大伴部博麻(ハカマ)顕彰碑の傍らに置かれた是善王社です。


ざっと1,300年前の出来事です。身を捨ててまで愛国の精神を実行した一兵士の物語です。

わが国で最古の史書「日本書紀」には古い時代の八女地方に関係する事件や事績が幾篇か記述されています。「八女」の地名の起こりは景行紀18年(神話の時代)に、「磐井の乱」は継体紀21年(527年)に、そして持統紀4年(690年)のくだりには憂国の一兵士の帰国と、その兵士の行動を天皇さまが一般に知らせた公文書が記されています。


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一兵士というのは大伴部(おおともべ)(はか)()のことで彼の事績は後述しますが、博麻は筑紫(ちくしの)国上陽(くにかみつやめの)(こおり)(旧八女郡の大半)の出身と記されています。因みに八女市上陽町の町名のおこりは上陽に由来しています。そして博麻の顕彰碑は上陽町北川内公園内に在ります。

以下、日本書紀など幾つかの歴史書を参考にして博麻の行動と当時の功績をまとめてみます。

37代斉明天皇7年(661年)韓半島の百済(くだら)(当時、我が国の友好国)が唐、新羅(しらぎ)連合軍の侵攻をうけ滅亡しました。天皇は百済王などからの救援要請をうけ日本軍を出兵させました。博麻も一兵卒として従軍しました。日本軍は韓半島南部の各地で唐、新羅連合軍と連戦しましたが連敗しました。博麻は661年、唐軍の捕虜となり、唐の都、長安(現在の西安)へ連行されました。そこにはすでに捕虜となっていた日本軍兵士4名がいました。数年後に彼らは唐人の計画(唐の日本侵攻計画か?)があることを知りました。5名はこの情報を一日も早く本朝(日本政府)へ報()らせねばと、じりじりしましたが肝心の帰国旅費がありません。そのとき博麻が言いました。『わしの体を唐人の奴隷として売る。その金(かね)で君らは帰国せよ』と。4名は博麻の計らいに従って帰国し本朝に急を告げたのでした。そのご博麻はひとり唐にとどまること30年、やっと前述のように690年に新羅の外交官に連れられて帰国したのでした。

持統天皇は公文書を発して博麻の行動を讃えられました。「博麻よ。お前は母国を思い、己を売ってまで忠誠を示してくれた。感謝する。それ故にお前を従7位下の位(役人の課長級か?)に就ける外(1)ふとぎぬ(絹織物)十反(2)真綿十屯(168キログラムか?)(3)布三十反(4)稲千束(ぞく)(一束は十にぎり)(5)水田四町は曾孫まで引き継げ(6)課税は父族、母族、妻族まで免じる」と褒美(ほうび)を贈ってその行動を顕彰されたのでした。写真は大伴部博麻の碑

八女市HPによる


sp150-7実は、この顕彰碑は福岡県八女市上陽町北川内の公園内の小高い山の上に置かれているのですが、この顕彰碑に隣接して善神王社=是善王社が置かれているのです。

大伴部博麻が部の民であって直接的には大伴氏ではなかったとしても、この配置を考える時、大伴氏が付近にいたことは間違いないのであり、そこに善神王社=是善王社が置かれているとすれば、これらの背景を十分に知った人々によって祀られている事が見えて来るのです。

実は、この上陽町から筑後川方面に直接抜ける耳納山越えのルートにも是善王社が置かれています。

してみると、この八女市の黒木、上陽の一帯に、金山彦系、大幡主系の人々が集中して住んでいた事が見えて来るのです。

しかし、情けない事に学会通説に尾を振る学芸員が書くと、この唐新羅連合軍と激突した白村江の戦いの結果捕虜となったのが、筑紫君=倭国王(決して背後で裏切った近畿大和朝廷の前身の奈良の日和見派ではない)薩野馬(サチヤマ)だったとは書いていないのです。

つまり、郷土史家以下の水準でしか無い事が分かるのです。


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なお、大分県下には数十社に上る善神王社=是善王社があるのですが、地元の郷土史家を含めほとんど理解しておられない様なのです。

ただ、大分県下にこの系統の神社が集中する理由は、道真公の母君の系統が大伴宗麟とどのような関係になっているかを考えて見る価値も出て来たようです。

大分県下の善神王社=是善王社についてもご紹介しておきましょう。


国東市国見町赤根で 1年ごと畑地区・一円坊地区の山神社で行う祭礼で、社はないが、旗がよりしろとなっている。

善神王祭り

赤根地区で行われるぜんじょう祭りは、ちょっと変わった祭りである。赤根地区の二つのお宮で隔年ごとに祭礼が行われるが祭神の善神王はこの社の中には祀られていない。畑の古幡社・一円坊の赤根社のなかの赤根社に石祠はあるがその前での神事は行われない。

神の依代は当場の家の前に立てられている幟である。当場は年々交替するので、当場の神事が
sp150-6終了すると、幟は神社に移転する。

祭典当日の夕方、当場に当たった家の中で神事を行い神楽を舞う、それより行列を組んでお宮に至り、大松明を建てる。この松明建てが勇壮で、地区の男衆だけでは手が足りず、元気な見物客に加勢を頼む。音頭取りの指図に合わせて徐々に立ちあげていく。長い竹悼で力一杯に突き上げていく、巧みにバランスを取りながら立てる様は壮観である゛竹樟に支えられ、立ち上がった大松明はお宮の森を明々と照らしながら炎は幟の旗とともに揺れ動く。善神王は武内宿禰のことだそうだが、武内宿禰は四世紀頃の人物で伝承によると300年も生きていたそうだが多分、宿禰とは当時の階位で親子何代ものひとが宿禰の地位にあったことから長生きしたように伝えられたものだろう。

武内宿禰を祀った社は久留米の高良大社で、神功皇后が朝鮮に出兵したとき、高良の神の威力で新羅を降伏させたので、この神を祀ったと言われている。

八幡宮では脇官として祀られているが、別宮社でも、本殿に向かって右の社に祀られている。神功皇后を助け応神天皇の臣下として補弼の任に当たり、その功績により全国の八幡宮に祀られているようだ。

赤根の善神王は江戸時代にこの地区の人達が大分の賀来神社から勧請したものだが、その賀来神社は古代豊後の一宮で大分の由原宮(杵原宮)とか賀来宮とか呼ばれて賀来荘の中心になっていた。近世になって杵原八幡と賀来社とにわかれたが、いずれも八幡社として地域の人々に厚く信仰されている。その八幡宮のなかの善神王だけが赤根地区に勧請したものかよく分からない。町内に善神王を祀ったところは、龍神社、伊美崎社、城山社、小高島の山神社、伊美金久の観音堂などがある。


この大松明も国東半島に顕著なものですが、久留米の大善寺玉垂宮の鬼夜と関係が深いものと理解しています。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 と、ここまで書いた後、故)百嶋先生の資料を見ていると、伴氏女が書かれた前掲系図とほぼ同じものにメモが残されていました。当然、十分にご存じだったのでしょう。伴氏は大伴氏を起源にしていますし、大伴宗麟に繋がるかどうかは知りませんが、大分県に是善王社、善神王社が異常に多い事から関係なしとはしないでしょう。恐らく、このメモが薩摩川内の藤川天神に逃げ都から妻と娘を呼び寄せたとか、大分県玖珠町菅原の二系統の子孫の存在といった話と関係があるのだろうと思っています。


この藤川天神の話としては、ひぼろぎ逍遥 019 で取り上げています。


19

道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った!


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研究目的で百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

539 鏡神社は何故?鏡神社なのか? “佐賀県佐賀市三瀬村の鏡神社”

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539 鏡神社は何故?鏡神社なのか? “佐賀県佐賀市三瀬村の鏡神社”

20171128

太宰府地名研究会 古川 清久


既に、ひぼろぎ逍遥 スポット144 三瀬村トレッキング現地リポート(20171122) に於いて、神功皇后の生誕生育地を探るというトレッキングを行ないましたが、最初の訪問地は鏡神社でした。

 勿論、唐津市の鏡山山頂に鎮座する鏡神社ではありません(以下)。


 1119日に行った太宰府地名研究会主催の“神功皇后の生誕生育地を探るトレッキング”は20人規模で行われました。

実際、朝十時集合夕方解散となるとかなりハードなスケジュールになります。

特に、集合が佐賀と福岡の県境の領域であり、その場所に向かうだけでも12時間は掛かる事から、天候や駐車スペース、トイレット、弁当購入…と色々な要素を考慮したうえで、なお、気を遣わなければならず、企画から連絡から資料作成へと相当いハードなイベントになります。

しかも、標高500メートルを越えることから午前10時でも、5度前後の上に風が強かった事から手袋が欲しくなるトレッキングとなりました。

これを福岡~熊本~大分において各々異なる企画で随時行っていますので、継ぎ接ぎのコピー・ペーストで学会通説まがいの怪しげな九州王朝論とも邪馬台国九州説とも分からぬ話でお茶を濁し、何の業績も残せないまま、十年でもたかだか百回も続けられないような研究会で満足しているような既存の研究会とは集まってきている人間の意識性とか気迫というものがまず違う事になるでしょう。

単に所謂「邪馬台国本」を齧っただけ、九州王朝論の幾つかの本を読んだだけといった状態で、通説まがいの話をされている、史談会、郷土史会同様の○○研究会の方々と、実際に現地に足を運んで自らの頭を使って現場から何がしかの真実を探ろうとする意志を持った人々の集まりとでは雲泥の差がある事を認識するのです。


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今回はこの佐賀県佐賀市に編入された旧三瀬村の杠(ユヅリハ)地区一帯の神社調査です。

 さて、「コモリク」という言葉をご存じでしょうか?

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言うまでもなく奈良の大和の国の話とされているのですが、本当の、(隠り口)コモリクとは佐賀市に編入された旧大和町の上流の旧三瀬村の初瀬川一帯の隠れ里の事だったのです。

九州王朝論者の皆さんも古田九州王朝論から少し自由になり新たな発想をする必要があるのではないでしょうか?

この旧三瀬村には初瀬川が流れており、だからこそ想定古代九州王朝の長谷寺も存在したのでした。


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539-6九州山口にしか痕跡も伝承のない神功皇后ですが、何故か出身地は畿内だろうなどとされています。この間懸案とされてきた神功皇后ですが、今般久々にスポットを当て、
神功皇后の生育地を探る!トレッキング(佐賀県佐賀市三瀬村)を行います。そこで、神功皇后の両親である父 息長宿禰王(オキナガノスクネ)と母 葛城高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)が住んでいたと考えられる(神功皇后もそこで産まれた?)佐賀県の北山ダム周辺の神社とそこに注ぐ初瀬川一帯を訪ねます。なお百嶋神社考古学では開化天皇の妃は神功皇后です。    




539-8 20171119日 日曜日
玄海、太宰府地名研究会トレッキング「神功皇后の生育地を探る!」  


中島 茂 宮原 誠一「神功皇后の生育地を探る!トレッキング」


20171119日 日曜日 午前1000 集合~出発 連絡は中島まで 090-5289-2994

三瀬村(佐賀市)やさい直売所マッちゃん
佐賀県佐賀市三瀬村杠246-1 0952-56-2705

 駐車場に集合!                     緊急連絡 ℡:09062983254

大雨の場合は中止! ※参加費(資料代)500円 各自、弁当、お賽銭、傘持参の事…

 

5397

現在、百嶋神代史研究会グループ全体の年間アクセス数は恐らく5070万件になるでしょう…

トレッキング注意事項 玄海、太宰府合同地名研究会(トレッキング)実際には55ポイントを巡りますが、どなたもどこかの神社には心惹かれるものがあると思います。最近は神社の祭事、経営が非常に難しくなっています。お賽銭を準備の上安全に留意され参拝して下さい。神社に関して何かご質問があれば09062983254 古川までご連絡下さい。参加申込等:090-52892994(中島)




今回はこの神功皇后の生誕生育地をするものではありません。

 この鏡神社が鏡神社と呼ばれている理由に注目して頂きたい事から、敢て一稿を費やす事としたものです。

 以前、ひぼろぎ逍遥 257 日田市の「加々鶴」地名について “「カカ」を「蛇」とする民俗学者吉野裕子説から” 392佐賀県唐津市の鏡山はカカ(蛇)を見る山だった などでもふれましたが、ここでも民俗学者の吉野裕子 の研究が生きているのでお知らせしたいと思うものです。

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鏡神社 カーナビ検索 佐賀市富士町大字下合瀬654


 この境内に向かう正面方向から西90度の方向に綺麗なお鏡餅に見える三角形の山(雷山なのか井原山なのかそれとも手前の名もない小峰なのかは不明ですが…)こそが民俗学者の故)吉野裕子のカカ+巳=鏡山である事が分かるのです(詳しくは先行ブログの二本をお読み頂きたいと思います)。


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鏡神社参道正面からほぼ直角の西方に見えるカカ+巳=鏡山(民俗学者吉野裕子説)


 何故、鏡神社と呼ばれているかがお分かり頂けたのではないでしょうか?


太宰府地名研究会の天ケ瀬温泉五馬高原研修所にいる事が多くなると、大分県日田市から久留米市や筑豊に向かう事が非常に多くなります。

そうなると、決まって、国道210号線の加々鶴(カカヅル)トンネルを抜け夜明ダム上流の夜明橋付近を頻繁に通過する事になります。

 以前から気にはしていたのですが、ようやく意味が分かりました。

今回は、この奇妙な「加々鶴」(カカヅル)という地名の話です。


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国道210号(現386号)線の加々鶴バス停



もう亡くなられて久しいのですが、吉野裕子という民俗学者がおられました。

 その著書の一つに非常に知られた「蛇」があります。


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この論旨を我流に要約すれば、案山子(カカシ)とは田んぼの収穫を荒らすネズミや雀を追い払う蛇を擬制したものであり、「カカシ」の「カカ」が蛇の古語で、「シ」は人を意味している。

 それの説明として、正月の「鏡餅」の「カガミ」も「カカ」+「ミ」(巳)であり、蛇がトグロを巻いているものを、豊穣のシンボルとして、感謝を表したもの…になり、蛇の一種として「ヤマカガシ」があることも蛇が「カカ」と呼ばれていた痕跡となるのです。 以下、ネット上から参考…


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日本原始の祭りは、蛇神と、これを祀る女性(蛇巫=へびふ)を中心に展開する。
1.女性蛇巫(へびふ)が神蛇と交わること
蛇に見立てられた円錐形の山の神、または蛇の形に似た樹木、蒲葵(ピロウ=ヤシ科の常緑高木)、石柱などの代用神や代用物と交合の擬(もど)きをすること。今も沖縄および南の島々に、祭祀形態として残る
2.神蛇を生むこと
蛇を捕らえてくること
3.蛇を捕らえ、飼養し、祀ること
縄文土器にはたくさんの蛇の文様が登場する。縄文人の蛇に寄せる思いは、次の2点である。これらの相乗効果をもって、蛇を祖先神にまで崇(あが)めていった。
1.その形態が男性のシンボルを連想させること
2.毒蛇・蝮(まむし)などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃で倒す強さ
埴輪の巫女が身につけている連続三角紋、装飾古墳の壁に描かれる連続三角紋・同心円・渦巻紋も、蛇の象徴であると推測される。
稲作の発達につれて弥生人を苦しめたのは、山野に跳梁(ちょうりょう)する野ネズミだった。ネズミの天敵は蛇である。弥生人は、ネズミをとる蛇を「田を守る神」として信仰したと思われる。
日本人は、蛇がトグロを巻いているところを円錐形の山として捉えてきた。それが円錐形の山に対する信仰につながる。三輪山はその名称がすでに神蛇のトグロの輪を意味し、神輪(みわ)山の意がこめられている。


日本の蛇信仰(吉野裕子著) - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」
より



お分かり頂けたでしょうか?

この吉野裕子の「かかし」=蛇説については、以前から気にはしていたのですが、加々鶴トンネルの上の高井岳にそれらしき形状(「おかがみ」山)を発見できなかった事から(ただし、一キロほど上流から見ると「おかがみ」山のように見えるため高井岳も可能姓はありそうです)、それっきりにしていたもののです。ただ、良く考えると、国道210号(現386)線から嘉麻峠へと向かう211号線の夜明鉄橋北側の小山が、まさしく「おかがみ」山だったのです(次の写真)。

この一帯は夜明ダムが完成する昭和28年頃まで、筑後川流域の旧安楽寺領(太宰府天満宮の前身)などのそま山から切り出された木材が、古くは太宰府まで持ち込まれるために筏に編成されて下流に送られる中継地だったのです。

右岸からは彦山方面から大肥川が流れ込み、筏流しを行う海人族により多くの木材が編成される場所だったのです。そのような場所だからこそ変則的な交差点には志賀島の志賀海神社が祀られているのです。

あとは、グーグル・アースや国土地理院による地図閲覧システムなどで、現地をご自分で検証してご判断下されることをお勧め致します。


ひぼろぎ逍遥 257 日田市の「加々鶴」地名について “「カカ」を「蛇」とする民俗学者吉野裕子説から” 部分切出ししたもの。

 

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筑後川はこの夜明けダムの付近で蛇のトグロのような大蛇行を見せています。

これを知る海人族(筏流しの人々は元々海人族でだからこそ夜明駅の傍に志賀神社があるのです)は川を蛇と見立て「カカヅル」と呼んだのです。

540 南阿蘇に急造された新興パワー・スポット “高森町の上色見熊野座神社”

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540 南阿蘇に急造された新興パワー・スポット “高森町の上色見熊野座神社”

20171129

太宰府地名研究会 古川 清久


 最近、阿蘇周辺に於いて、観光バスまでが入り参拝者が急増した神社があります。

南阿蘇高森の上色見熊野座(カミシキミクマノニイマス)神社です。

 恐らくこれも創られ仕掛けられたパワー・スポット・ブームによるものとは思うのですが、人工的なブームとは永く続くことはありませんし、所詮は、村興し、町興し、果ては世界遺産登録と言った真実の歴史を無視した官製プロジェクトに絡め取られていくだけのものでしかないでしょう。

ただ、ここではそういった思いを抑え、極力この神社に向き合い、熊本には阿蘇系神社しかない…などと思い込まされている方々をも含め、多少とも正確な神社のアウトラインを描いてみたいと思います。


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この上色見熊野座神社は265線という九州山地を南から北のど真ん中を貫くハードな国道の東側にあり、南郷谷(南阿蘇)と阿蘇谷を繋ぐ阿蘇五峰の東麓に鎮座している一社です。

 この神社には長い石段と多くの灯籠群に、穿たれた磐座や穿たれた池…とそれなりに人を惹き付ける魅力があります。この手の話にはプロの手によって創られたホーム・ページなどがありますのでそちらを…。


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これは「熊本県神社誌」の同社に関する記述の一部分です。概して同神社誌はあまりにも簡略に書かれ過ぎていますが、同社の祭神はイザナミノミコトである事が書き留められています。残る三社が同社の摂社です。ただ、何故、夫神とされるイザナギが書かれていないのでしょうか?実は、イザナミはイザナギと早い段階で分かれクマノフスミと名を変えているのです。同様に色見熊野座神社もイザナミを祭神としており、色見地区でも菅原を祭神とする摂社が多い事から、同様の傾向が見て取れます。

 まず、熊野座神社と言えば、熊野本宮大社(実はスサノウのお妃となるも姫島に移ったアカルヒメであり=大幡主の子である豊玉彦=ヤタガラスの姉)、熊野速玉大社(速玉大神=実は博多櫛田神社の大幡主を主祭神)、熊野那智大社(実はイザナギと別れて大幡主の妃となったイザナミ=クマノフスミを祀る)に象徴される和歌山県(紀州)に鎮座する神社の一つであり、熊野三山とは神仏混合を残す熊野系神社の総本社を意味しています。

 では、何故、阿蘇神社ばかりと考えられているこの地に紀州熊野の神社があるのでしょうか?ただ、肥後3500社の内、菅原神社が1300社ある事もほとんど知られていません。勿論、熊野系は全国に3000社もあるのですから、この神社もその一つでしかないであろうと考える事は十分に可能かもしれません。

 ただ、山上の磐座やそれ以外にも山岳修験を感じさせるものもある事から(説明省略)、南北朝争乱期に宮方として連絡を取り合っていた(勿論、熊野と九州の宮方の菊池、阿蘇、旧矢部村五条家)関係によるものであるかも知れません(神社縁起にはそれなりの起源は書かれてはいるのですが…)。

 通常、熊野座神社とはアカルヒメを主神とする熊野本宮大社を意味する事から、百嶋神社考古学から要約すればヤタガラスの姉(市杵=瀛ツ島姫姫の母)を祀る神社となるのです。


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まず、「見」「美」…という地名語尾がキー・ワードになります。

有名な伊勢の二見ケ浦から、熱海、温見、江見、伊見、宇美、尾身、鳥海(トノミ)、久美、古見、佐見、住江、能見(能見の宿祢の能見)、氷見…と全国に多くの事例が拾えます。

その大半が海岸部に集中しており、当然にも、表記が異なる式見が長崎市にもありますね。


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式見は古代から大幡主の船団が有明海から対馬海流を利用し半島や大陸への寄港地だったはずです。


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「見」「美」…という地名語尾について考えて見たい方は、ひぼろぎ逍遥の045 という古いブログがあります。これら全てが実は博多の櫛田神社の大幡主(ヤタガラスの父神)の領域になるのです。


ひぼろぎ逍遥 バック・ナンバー 045 「花見潟墓地」の衝撃  20140310 をご案内しておきます。


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


鳥取県東伯郡琴海町に「花見潟墓地」と呼ばれる印象的な海岸性墓地があります。

この存在については以前から知っていましたし、類型墓については山陰の方々で出くわしていましたが、なぜか花見潟についてだけは何度付近を通っても通り過ぎ、これまで見る機会を持ちませんでした。

しかし、今回、長期の北陸遠征を試みたものの3月の大雪に阻まれ、すごすごと引き返す道すがら、ようやく思い立ち、無料の高速道路に乗らず、初めて、現地を踏むことができました。

予備知識は持っていたものの、現物を眼前にするとさすがに驚きました。… 以下省略。


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鳥取県東伯郡琴浦町赤碕 JR赤碕駅より徒歩約10


 これまでにも何度も申し上げてきた通り、博多の櫛田神社の大幡主とは神産巣日神、神皇産霊尊、神魂(カモス)と書かれる列島神話の最重要神の一人であり、大きな武装商船団を組んで列島、半島、大陸、南方とも交易を行なってきた本当の意味での八幡(正八幡)神であり、八幡とは多くの大きな帆=八幡でもあるのです(ユダヤのヤファエでもあるのですが…ここでは触れません)。

 この阿蘇の上色見、色見とは熊本(実際には熊本城がある千葉城町の旧地名が隈本でありこれらが北上し日田の月隈とか佐賀の帯熊とか朝倉の隈江とか福岡の雑餉隈…といった多くの隈地名が派生したのです)に一旦拠点を確保した大幡主の一族が大半博多など北に向かうのです。しかし、東に向かった人々が阿蘇の南郷谷、特に高森一帯に拠点を築いたと考えれば、この熊野座神社は相当に古い起源を持った物である可能性が高く、系統は異なるものの旧白水村(現南阿蘇村)の八坂(祇園)神社、西宮神社(高木大神系の高御産巣日神、高皇産霊尊)などと併せ考える必要性があるのではないでしょうか。

 驚かれるでしょうが、この大幡主の一族こそ雲南省の昆明から海南島を経由し熊本に入って来た中国大陸の白族=ペイツー=ペイホー族であり、天御中主=白山姫=ヤタガラス=熊野の父神の一族なのです。


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だからこそ熊本市内のど真ん中を流れる川が白川で白水村があり、その白川の流れ出しがこの上色見であり、色見から流れ出しているのが色見川なのです(色見の本家集落が上色見)。


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旧白水(だからこそ白水水源や白川吉見神社もあるのですが)=現白川


 一方、雲南省麗江からメコン(瀾滄江)川を降り、海南島を経由して天草の苓北から阿蘇へと入ったのが、大陸で黎(リー)族と呼ばれた阿蘇氏=多氏=宇治族=耳族のヒコヤイミミ、カミヤイミミ、カミヌナカワミミ、キスミミ…の一族なのです。

 この黎族こそ本当の意味での阿蘇(高森の草部吉見神社)氏です。現在の阿蘇神社の阿蘇氏は、ヒコヤイミミらを受入れた高木大神の母系の一族であり、東に進出した阿蘇氏は(例えば鹿島大神=武甕槌=狭義の春日大神)その後藤原氏となり列島の支配的氏族に成長して行くのです。

 熊野の話からかなり逸れましたが、博多に拠点を置いた大幡主の一族は、阿波(徳島)、讃岐(香川)、紀(和歌山)を本拠地として、本家が移動し、再度、出戻り新山として博多に戻っていると言われたのも、故)百嶋由一郎氏でした。

「熊」は「隈」であり、隈地名が集中する九州の北半部こそ、現熊野と併せ大幡主~ヤタガラス系の裏天皇の系統=白川伯王家に象徴される一族なのです。本物のヤタガラスの一族は博多に戻っているのです。

 「記」「紀」に縛られる方々のお考えは単調でほとんど漫画でしかありません。哀れとしか言えません。


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研究目的で百嶋由一郎神社考古学関係資料を必要とされる方は(09062983254)まで


541(前) 忘れ去られた明治の北白川宮能久親王の石碑について ”熊本県山都町長崎”

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541(前) 忘れ去られた明治の北白川宮能久親王の石碑について ”熊本県山都町長崎”

20171212

太宰府地名研究会 古川 清久


思えば、列島の歴史においても明治とは大激震期でした。


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日清戦争から台湾+澎湖島の併合(植民地化ではなく列島と同等の扱いをする)前後の話になります。

北白川宮などといった聴きなれない話は本ブログの対象でも、精通したジャンルでもないのですが、問い合わせが来れば、「分かりません」とお断りするためにもそれなりの調べはしなければならないため、今回、思考の片隅にある範囲でお話しする事にしたものです。


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北白川宮(きたしらかわのみや)は、明治の初期に伏見宮邦家親王の第十三王子智成親王が創設した宮家。智成親王が兄宮嘉言親王から継承した聖護院宮(しょうごいんのみや)を改称したもの。

聖護院宮嘉言親王[編集]

先代嘉言親王は、1821年(文政4年)に誕生。天保2年出家し雄仁法親王を名乗った。同年光格天皇の猶子となり、天保3年に親王宣下。慶応4年還俗し聖護院宮を名乗るが、同年に薨去。聖護院宮は弟宮で元は同じ聖護院預かりとなっていた智成親王が継承した。

聖護院宮→北白川宮智成親王[編集]

初代智成親王は、1856年(安政3年)に誕生。慶応2年に親王宣下。聖護院に入る。出家し信仁入道親王と称した。明治維新によって還俗。照高院宮と名乗ったが、その後、兄宮嘉言親王から聖護院宮を譲られる。そののち、北白川宮に改称した。 1872年(明治5年)、17歳で薨去。兄の能久(よしひさ)親王を後嗣とするよう遺言した。

北白川宮能久親王[編集]

2代能久親王は伏見宮邦家親王の第9王子で、嘉言親王の弟宮、智成親王の兄宮に当たる。1848年(弘化4年)に誕生。1858年(安政5年)に仁孝天皇の猶子として11歳で親王宣下。上野の輪王寺に入寺得度し、公現入道親王と名乗る。戊辰戦争の時、幕府側に附く。彰義隊に担がれて上野戦争に巻き込まれ、その後 奥羽列藩同盟に擁立され仙台に赴いた(東武皇帝として即位したとする説あり)。維新後、蟄居・伏見宮家預りとなる。

1869年(明治2年)に許されて伏見宮に復帰する。1870年(明治3年)にドイツに留学。1872年に北白川宮を相続し、1877年(明治10年)に帰国した。帰国後は陸軍に勤務。 陸軍中将にまで進む。日清戦争では近衛師団長として出征。戦後、台湾守備の命令を受け、台湾征討軍の指揮にあたったが、1895年(明治28年)、現地で戦病死した。享年49。…

ウィキペディア(20171214 0945による


まず、何故、この地に北白川の宮の顕彰碑が存在しているのかと言う事からご説明させて頂きます。


明治26年(1893)馬見原町長崎で実施された陸軍第六師団の軍事演習で、検閲を行っていた北白川宮能久親王がこの松の枝に上着を掛けたとして検閲を行っていた北白川宮能久親王がこの松の枝に上着を掛けられたことに由来し、「服掛」という。

山都町指定文化財一覧による


要は、明治26年(日清戦争を想定した一年前)の陸軍の阿蘇での演習を北白川宮が閲兵した事実を後世に伝えようとした顕彰碑なのです。

ただし、我々、百嶋由一郎神社考古学の立場から言えば、「北白川」「聖護院」「奥羽列藩同盟」…といったフレーズからは、“南朝革命”(表向き現天皇家は南朝系とはしていませんが、戦時下でも皇居前の楠正成のブロンズ像が潰されなかった事や、帝国議会での南朝を正統とする天皇の裁可があったことなどから北朝系でないことは推察が着きます)を体現した明治天皇制と消えた(消された?)宮家が「北白川」家という話はそれだけで興味をもつものです。

始めから脱線を覚悟で話しておきますが、何故、①熊本市内を貫流する大河が白川なのか?②京都の下賀茂=ヤタガラスの一族を奉斎する神社のルーツが八代の妙見神社~氷川町の火の国一帯であった…という事…③明治維新によって敗残した徳川幕府自体も概略三つ葉葵の紋章を使う下賀茂の流れを汲む人々(雲南省昆明~海南島~氷川~熊本~博多に入った白族=ペイツー)であった事を考えてしまいますが、それはこれまで書いてきた1200本のblogを読んで頂けなければご理解頂けないでしょう。

その話はしばらくおくとして…もうすこし、この北白川宮について考えて見ましょう。まず、場所です。

お分かり頂けると思いますが、宮崎県五ヶ瀬町に近接する文字通りの阿蘇の最奥部になります。


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北白川の宮とは何か?


さて、ある程度歴史に精通した方であれば、「明治天皇すり替え説」についてはどなたもご存じだと思います(これを知らない人は歴史を知らない事と同義)。この事を知らない方は当ブログにはアクセスされていないと思いますが、一般的にはとんでも説とか、歴史を知らない輩として排斥される類の話になります。

まず、教育委員会とか神社庁(これとて公的機関ではなくただの民間団体でしかないのですが)とか学芸員とかいった利権絡みの方々は、真実の一端を感じてはいても避けて通る話であり、中には声高に排斥し権力に尾を振り忠誠を示すと言うさもしい振る舞いをする方も多々見掛ける事もあるのです。

まず、訳も分からず騒ぐだけの安物のさもしい宮司輩などは、鼻から知識が無いだけの方ですので相手にする必要もないでしょうが…。

さて、明治天皇すり替え説については、鹿島 昇の「裏切られた三人の天皇」で良く知られていますが、今や明治天皇=大室寅之介説は知らぬ人のない話として広く流布され、今や裸の王様状態になっています。


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特にユーチューブ上に公開されている、鬼塚英明氏の多くの話が全くの捏造とは思えず、最低でも、この「日本の真相」1 明治天皇すりかえ…以下十数本程度は は見られるべきで、その上で、ご自分の判断に任されるべきでしょう。

 ロスチャイルドに操られた明治維新の裏の姿が一気に浮き上がり、日清、日露を経て、第一世界大戦の火事場泥棒から、大東亜の敗戦も仕組まれ、今尚、日本の富がユダヤ金融マフィアに回収され続けている事、小○竹○偽「改革」以来、日本の国富の大半が米国金融資本に持ち出され続けている(最近のタカタ、東芝から、次はコベルコ…)背景が分かるでしょう。


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541(後) 忘れ去られた明治の北白川宮能久親王の石碑について ”熊本県山都町長崎”

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541(後) 忘れ去られた明治の北白川宮能久親王の石碑について ”熊本県山都町長崎”

20171212

太宰府地名研究会 古川 清久


この外にも多くの情報がオンエアされていますので、ご自分の判断で真相を把握されるべきでしょう。

そもそも西欧金融資本の援助を受け明治維新を実行した討幕派とは色々な思惑を持った野合勢力でしたが、最も不思議な事とされている薩長連合の成立(蛤御門の変では長州と会津、薩摩は敵味方になったのですから)の背景に“次の天皇は南朝方から出す…”という長州の木戸孝允(桂小五郎)の提案に薩摩の西郷隆盛が乗ったという有名な話があるのです。

一般的に西郷は島津の下級藩士の指導者と思われていますが、南朝方として数世紀を闘いぬいた肥後の菊池氏、阿蘇氏、五条家…でも西郷の系統は菊池氏の早い段階での則隆の別れの後裔であり、現在でも熊本県菊池市七城町に西郷(熊本県菊池市七城町砂田西郷)があり、西郷隆盛の先祖の出身地とされているのです(右→写真)。

菊池氏は後に北朝方に追い落とされ、逃城としていた宮崎県西都市の東米良、西米良村一帯に生延び(白銀神社)、後に島津の傘下に入ったものと考えられます。

事実、安政の大獄に絡んで西郷隆盛は、勤皇僧の月照と共に錦江湾に身を投じた(これはどう考えてもおかしいですね)とされていますが、何故か蘇生し鹿児島の島津藩27代斉興の裁量によって幕府に対しては死亡したとの報告が行われ、菊池源吾と変名し奄美大島の龍郷に潜伏をしているのです。

このように薩長連合が成立した背景には、西郷に対して桂とか岩倉が“我々はこの南朝の御正系を立て王政復古する”と持ち掛けた事によって、本質的に南朝方であった西郷(菊池源吾)は賛同し、一気に薩摩が尊皇討幕に動いたと言われているのです。

一応、明治天皇はその名を睦仁親王といい孝明天皇の第二皇子として生まれているとされています。

ところが、この睦仁親王が殺され、代わりに長州(萩だか多布施だかにいた)で囲い込まれていた南朝系の大室寅之祐と挿げ替えられたとの話が明治天皇すり替え説なのです(表天皇と裏天皇とが入れ替わったとの話もあるのですが)。

このように、幕末までは、南朝、北朝を問わず、実質的にないがしろにされていたのですが、北朝系の天皇家(孝明天皇~睦仁親王)である孝明天皇が消され、宮家や公家さえも一から創られ、鹿鳴館でワルツを踊っていた華族も大半急造された旧藩の名士だったりしたのであり、それらを隠すためにも皇居を京都から東京へと移し明治天皇も写真を撮らせなかったと言うのです。

事実、明治天皇のお妃であるはずの一条美子も、何故か昭憲「皇后」ではなく昭憲「皇太后」と呼ばれているのです。この事も睦仁親王が始めの明治天皇となり後に消されたため先の天皇の妃を「皇太后」と呼ぶ習わしが生きているのです(先の天皇のお妃が「皇太后」なのです)。

そこで、明治期には消された①明治天皇(睦仁親王)、続く②明治天皇(大室寅之祐)がいた事になるのですが、実はもう一人天皇を名乗った人がいたようなのです。それが、北白川宮能久親王なのです。

しかし、明治政府で親王として活躍されているではないか…と言われるかも知れません。


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そこで少し長い為恐縮ではありますが、「驚愕の日本史②北白川宮家の悲劇・幕末天皇は三人いた。伯家神道の予言。3.11の隠された意味 日本の滅亡 をお読み頂きたいと思います。


そのひとつは幕末 京都明治天皇が弑逆されたあと 東京明治天皇の他に擁立された天皇があったことです。輪王寺の宮 ⇒ 東武天皇です。このとき東北独立北日本政府独立の動きがあったのです。

結局 会津降伏の東京明治天皇側と和解が成立し 北白川能久親王 となられるのですが 日本政府は突然戦死を発表 息子の 成久王 は事故死 そのお子の 永久王 も事故死 このおふたりの死もとても奇妙です。そして北白川能久親王と永久王が靖国神社の最高のご祭神なのです。

靖国神社の謎については過去記事をごらんください。⇒ こちら

悲劇の北白川家

北白川宮能久(よしひさ)親王は幕末時の皇族である。幕末時に孝明天皇が急逝(殺されたとの説がある)、睦仁親王が擁立された。睦仁親王も間もなく急逝せしめられたとの説があり、長州が「成り代わりの睦仁親王」を明治天皇として即位させ、薩長同盟はこの明治天皇の朝儀を錦の御旗に掲げつつ幕末内戦に突入した。これについては大室寅之祐→明治天皇考で考察している。.....彰義隊は、「孝明天皇を殺して擁立した『成り代わり偽者の睦仁親王→京都明治天皇』などに従えるか」と反発して、輪王寺の宮(公現法親王)を擁立し東武天皇として押し立て対抗したことになる。これを輪王寺の宮から見れば、1868(慶応4).6.15日、 輪王寺宮公現法親王は、諱(い みな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東武皇 帝」に即位。この日を以て、「大政」元年と改元。東北決戦に於ける会津降伏の際に、「成り代わり偽者の睦仁親王」と輪王寺の宮が講和を結び、

睦仁親王が明治天皇になること、2・輪王寺の宮が還俗して北白川能久親王となることで生命及び身分が保障される、との条件で和睦した。

1870(明治3)年、輪王寺の宮は、還俗(げんぞく)して伏見宮に御復帰、能久親王として軍籍に就く。同年勅命によりプロシヤ国留学を命ぜられ、同国歩兵・砲兵聯隊、参謀学校等で兵学を学ぶ。1872(明治5)年、留学中、北白川宮を相続する。
 1894(明治28).1月、還俗していた北白川能久親王が近衛師団長に親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出征、台湾植民地化に赴いた。同10.28日、日本政府が突然「マラリヤにより台南に於て薨去した(享年49歳)」と発表した。表向きは「風土病で死んだ」とされたが、現地情報では、生番義民軍のゲリラによって負傷し、その後出血多量で戦死した、とされている。これは日本皇族の最初の海外戦死だった。

成久王は明治20(1887)年に誕生。わずか8歳で父宮の死去によって宮家を相続。成久王は陸軍閥の北白川宮家の伝統にのっとり、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。陸軍砲兵少佐となり、大正 6年には大勲位に叙せられた。しかし同12年、視察のために訪れていたパリで自動車事故により死亡。37歳の宮さまざかりであった。

 北白川宮第四代永久王は成久王の王子として明治43(1910)年に誕生、大正12年父宮の死去により宮家を相続。父宮 と同様に陸軍士官学校、陸軍大学校と進み、これまた父宮と同じ砲兵少佐の任に就いた。この間、ホ○ナベ元帥と交友を深める。昭和10年、尾張徳川の裔、男爵徳川義恕(よしくみ)の娘祥子(さちこ)と結婚。幸福な人生を歩むかに思われた。昭和なって蒙古へ参謀として派遣される。昭和15年、現地の日本軍が歓迎の閲兵(えっぺい)分列していた時、デモ飛行機の曲乗り中に故障して操縦士の操作が誤り臨席していた宮様にぶつかり死亡せしめられた(享年31歳)。「蒙彊方面で演習中、不時着した飛行機にひっかけられて死亡」とされている。父永久王の跡を継いだ第五代道久王は昭和22年、臣籍降下。北白川道久を名乗り、ここに宮家としての歴史を閉じる。道久王はその後東芝に勤めた。引用(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/sengodemocracy_yasukuni._goshintai.htm)




541-6による

私達にとっては、以下の方が興味深くこの白川伯王家こそが下賀茂上賀茂に繋がる大幡主、豊玉彦(ヤタガラス)の裏天皇とも言われる一族なのです。


②伯家神道の予言 白川伯王家とは?

白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の孫の延信王から始まり、古代からの神祇伯に伝えられた伝統を受け継いだ家柄である。 天皇家の祭祀を司どっていた伯家神道(白川流神道)の家元。 なお、花山天皇の子孫の源氏である花山源氏(かざんげんじ)に該当するのは、この白川伯王家のみであるため、両者は事実上同一のものである。 花山源氏と白川家 白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上家。花山天皇の孫延信王(のぶざねおう)が源氏となり神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を独占。神祇伯に就任してからは王氏に復することとなっていたために、別名「王家」も称される。 しかし、室町時代になって吉田兼倶が吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して神職の世界を支配するようになると白川家の権威は衰退。江戸時代に伯家神道を称するも、寺社法度が制定されて以降吉田家の優位は動かなかった。 家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった。 江戸時代の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。明治時代には王氏を称することを止められ、子爵。 白川家の成立 白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、伯就任とともに「王」を名乗れたことである。「王」の呼称の権利は天皇との血縁関係で決まり、本来役職に付随する性質のものではない(詳しくは皇族参照)。臣下でありながら、王姓の世襲を行えるのは白川家にのみ見られる現象であり、特異なことである以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。 万寿二年(1024)に花山天皇の孫である延信王が臣籍に下り、源姓を賜った後、永承元年(1046)に神祇伯に任ぜられた。白川家はこの延信王に端を発していると言われている。当時の呼称は「源」または「王」であり、「白川家」や「伯家」「伯王家」と呼ばれるのはもっと時代が下ってからである。神祇とは神を祭ることで、その責任者は天皇であるほどの、朝廷にとって最も重要な行為であった。神祇伯は神祇官の長であり、最上位の官職であるとともに、奉幣使としても重要な職務である。

神祇伯家学則にある神道の大要 「神道というものは、古今を通じて変わらない根本原則であり、いずれの国においても通用する大道であり、神道と武道(相撲を含む)は一つであり、身を修め、家を整え、国を治める といったことの要領も、古事記・日本書紀・古語拾遺等の皇典を研鑚するうちにわかる。」とある。

伯家神道は今でもあるの?

白川家は明治に入ってから途絶えた。代々口頭で教えを伝えてきたため、伯家神道も一家とともに失われたことになる。だが その教えは平田篤胤など、伯家神道の影響を受けた学者や神道の教団があるので、彼らを通じて現代にまで伝わっていると言える。どうして伯家神道が話題になるの?

2012年に日本が滅びる」という予言があるから。「伯家に伝えられた祝の神事を授けられない天皇の御世が百年続くと、日本の国体が滅亡してしまう」というもの。「祝の神事」とは伯家が代々の天皇に伝授する行法のこと。最後にこの「祝の神事」を受けたのが明治天皇で、大正天皇が即位した1912年から100年後が2012年にあたる。引用終了


これで、分かって良い部分の話の概略はお分かり頂けたと思います。

しかし、これ以上の浅酌は薄汚い偽権力の逆鱗に触れる恐れもありますので注意してお調べいただきたいと思います。

世の中には大嘘がまかり通っています。どうでも良いような「邪馬台国畿内説」などと言った嘘は元より、たあいもない九州説も許容範囲なのですが、本当の歴史はいつの時代でも封殺され続けるのです。


541-7



541-9百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 白川伯王家とは八代の妙見宮(天御中主命)氷川の火の国に端を発し、白川伯王を継承する博多の櫛田神社の大幡主、豊玉彦(ヤタガラス)と続く雲南省昆明から列島へと進出した白族を意味した熊野三山、下賀茂、上賀茂の一族であり、熊本市の白川、白川水源、高森町の上色見熊野座神社、色見熊野座神社…に通じる天皇家に匹敵する大族なのです。

 今はこの宮家は消されました。期を一にするかのように明治まで天皇家の宮廷祭事を取り仕切ってきた白川神道も明治維新と共に表面的には消え去りました。

 奥羽列藩同盟に担がれたもう一人の明治天皇がこの北白川の宮だったのです。

 今は、これら百数十年前に起こった歴史の一齣も全く理解されない時代となってしまいました。いずれにせよ、北白川宮も翌年の日清戦争から台湾併合の激動の中で消されて行ったのでした。

 個人的には裏天皇として血筋は保たれていると思うのですが…。


541-8

542 旧七山村の三つの鳥居は殷の鳥居ではないのか? ”佐賀県唐津市七山馬川神社”

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542 旧七山村の三つの鳥居は殷の鳥居ではないのか? ”佐賀県唐津市七山馬川神社”

20171218

太宰府地名研究会 古川 清久


 佐賀県は私自身の出身地でありながら、何故かそれ故にフィールド・ワークの対象としてこなかった(いつでも見られるし、それよりも、むしろ遠くを知りたい…)という事から、逆に新鮮味を感じているこの頃ですが、今般、2018年元旦を挟んで1217日と128日のいずれも日曜日にトレッキングを行なう事としました。

 今回の目的地は佐賀県の玄海灘側、唐津市の東部の山間地の旧七山村、東に峠を越えれば佐賀県佐賀市になるという旧天領の東の果ての最奥部一帯でした。

 年末の最も忙しい時期であり、雪がパラツク(凍結もあり)中での高地でのトレッキングでしたので10人にも満たないものになりましたが、それでも集まって来られるような方々こそ私達が求めている人であって、あったかい中で独りよがりの好い加減な「邪馬台国九州説」風の話でお茶を濁すような研究会では何も残らない事から、より、精鋭の研究者の集団に切り替えて行く必要があるのです。


七山村(ななやまむら)は、佐賀県北部にあった村で、東松浦郡に属していた。1889年に町村制が施行されて以降、2006年に唐津市へ編入するまで存在した。

ウィキペディア(20171217 0915による


542-1

勿論、山がちな土地である事は言うまでもなく、事実上の裏日本玄の海灘側である事から、実質的には、南国の九州でも山陰~北陸のようにかなりの雪が降る土地柄である事も認識しておくべきなのです。

 さて、所謂、「魏志倭人伝」では末盧(マツラ)国を想定し呼子だか唐津だかに上陸した後、伊都国に向かって陸路を通ったか、何故、海路を選択しなかったのかなどと言われているエリアになります。

 一般的には唐津市の桜馬場遺跡や伊都島市の夥しい王墓級遺跡群などから色々な事が議論されていますが、この一帯の神社研究など見向きもされた事などはなく、この地にどのような人々がいたのかなど誰一人考えていない事は明らかです。

 ところが、私達、百嶋神社考古学を研究の軸に据える太宰府地名研究会の人々には、一般とは違った世界と特徴的な事実が見えてくるのです(青枠福岡県糸島市旧二丈町、赤枠佐賀県唐津市旧七山村)。

 簡略化して申し上げると、このエリアで行われている大半の祭祀が白山姫が対象であり、この一帯に存在するのは、白川伯王、白山姫=天御中主命、大幡主、豊玉彦=ヤタガラス…下賀茂、上賀茂系統の神社になるのです。

 今般、12月、1月、2月の三回を費やし、旧二丈町~旧七山村の1520社を実見する事としたのです。

 その理由は、熊本県八代市から氷川町の不知火海(八代湾)正面のエリア=古代日本の江南(揚子江流域)からの窓口が殆ど天御中主=白山姫=北辰=妙見宮…つまり大幡主、豊玉彦=ヤタガラス系白族(ペイツー)のエリアであった事が見えてきたからであり、少し時代が下がった時代の玄関口一帯がどのようなものであったのかを連続して探ろうとしたからでした。

 当然にも雨や雪もありますし、年末年始の繁忙期である事も考慮し、場合によっては休会も含め56ケ月を費やす事になるやも知れませんが、私達には俗に「魏志倭人伝」の魏使の本土上陸を受入れたのがどのような人々であったのが見えて来るのではないかと考えているのです。


542-2



542-3半島から対馬、壱岐を経て東松浦半島に入った人々は、潮に乗って東の博多湾に向かうでしょうが、その一帯に住み着いていた人々が誰だったかを考えます。二丈町から七山村に掛けての一帯が大幡主系=豊玉彦(下賀茂神社)、崇神天皇系(上賀茂神社)系の人々が住み着いていた場所である事を確認するためのものでした。七山村については正月以降のトレッキングとしますが、古代の糸島~唐津に掛けての一帯がいかなる領域かを確認します。


542-52017
1217日 日曜日玄海、太宰府地名研究会トレッキング二丈七山の生白山宮を探る!」①


2018 128日 日曜日玄海、太宰府地名研究会トレッキング二丈七山の生白山宮を探る!」②


「七山村の白山宮を探る!トレッキング」


20171217日 日曜日 午前1000 集合~出発 連絡は中島まで 090-5289-2994

二丈町(糸島市)有)ふくの里 
福岡県糸島市二丈福井6333 092-326-6886

 駐車場に集合!                     緊急連絡 ℡:09062983254

大雨の場合は中止! ※参加費(資料代)500円 各自、弁当、お賽銭、傘持参の事…

訪問予定の神社集合場所:唐津市七山村 鳴神の庄 佐賀県唐津市七山滝川1048-3 0955-58-2077


訪問予定の神社


 仁部の上下岩屋神社 ② 桑原の子安神社(賀茂族が祀る) ③馬川の宗五郎神社(八面権現)

④ 加茂神社 外… 

542-4中島)09052892994 参加費、資料代500

09062983254古川までご連絡下さい。参加申込等:090-52892994(中島)



第二次七山トレッキン(新春三社詣り)は初詣でが収まった1月末に行ないます。①妙見神社、②賀茂神社、③白木神社、④武雄神社…外、大白木の探索などを行いますが、天候次第です。


542-6

何故この地域に拘るかは、前述したとおり紀元前後から魏志倭人伝時代から九州王朝が滅亡する白村江の戦い(勿論戦ったのは九州王朝で田舎の奈良などではない)の全期間を通じて影響力を行使し続けたと考えられる白族(白川伯王の一族)系の神社が集中することが良く見えるからです。

 ただ、今回はこの問題には敢て踏込みません。その問題は別稿とする事として、この鳥居の配置をご覧下さい。

 手狭な境内に最大の合祀が行われ、参道に最大限配置された鳥居であるのならばそれで良いのですが、もしかしたらそうではないのかも知れないと考えたからです。詳しくは、以下の ひぼろぎ逍遥(跡宮)のバック・ナンバー外をお読み頂きたいのですが、

383

国東半島の殷の鳥居(瀛の鳥居) 

“国東市国東町来浦の八坂神社”

ひぼろぎ逍遥 スポット110 三峯神社の殷の鳥居 ”金山彦系神社(埼玉県秩父市)”

これは、現地に殷の鳥居が存在した事の名残なのではないかと考えたのでした。

 この殷の鳥居についてはこれまでにも何度も触れましたのでご存じの方も多いでしょうが、この鳥居を使うのは主として金山彦(カグツチ)系の神社の祭祀を行う人々(金山彦系と白族とは姻戚関係を結んでいますので白族の一帯にもありうるのですが)の痕跡ではないかと思うのでした。


542-7

世界遺産の殷墟博物館


最後に西日本の殷の鳥居をお見せしましょう


岐神(クナトノカミ)=出雲井神社の祭神=長脛彦(ナガスネヒコ)の祭祀をご覧頂きましょう。


542-8

劇的なまでの強烈な印象を受けますが、殷の鳥居が置かれています。

 今まで、長浜神社以外ではこの鳥居に遭遇した事は3社、4回しかありません。

 佐賀県嬉野市塩田町の八天神社、福岡県吉富町の八幡古表神社(二基)、国東市国東町来浦の八坂神社


542-9

佐賀県嬉野市塩田町の八天神社


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勝手ながら、この岐神についても解説を省略します。関心をお持ちの方は、先行して以下をお読みください。

 このタイプの鳥居は三つ鳥居とも呼ばれますが、殷の鳥居とも呼ばれます。まだまだ遭遇していないものがあるとは思いますが、数は多くはありません。ヤマトタケル伝承が伝えられる三峯神社にしても、金山彦の後裔たるナガスネヒコ、オキツヨソタラシヒメの後裔にヤマトタケル、仲哀があるのですから当然と言えるでしょう。つまりカガセオの系統の神社なのであり、だからこそ殷の鳥居を持っているのです。


542-11

542-13

542-14

配列順(向かって左→右)


八面神社は九州では大分県中津市で確認していますが金山彦で良いと思います。

中山神社も吉備の中山で有名な吉備津彦神社ですが、神武僭称崇神が覆い被さっており、本体は金山彦大神で良いと思います。

祭神 大吉備津彦命(大吉備津日子大神)御子吉備津彦命

相 殿 孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇、日子刺肩別命、天足彦國押人命、大倭迹々日百襲比賣命、大倭迹々日稚屋比賣命、金山彦大神、大山咋大神

 問題は如意大明神ですが、完全に仏教化されていて判別不能です。

しかし、如意大明神は摂津の「大寺縁起」(勧請の三神ハ、国常立尊、正八幡宮、春日大明神、神功皇后、玉依姫およひ如意大明神、蛭子命、八祖明神、大神宮の内外なり。 今しはらく影向の三社のおほむねをあくれは、往時大明神託し給ひて、吾ハ是都率の内院、第三の高貴徳王大菩薩なりと)などに確認できるためもう少し考えさせて頂きます。

543 国境の寂れ行く神社について “宮崎県五ヶ瀬町波帰の波帰之瀬三代小波三郎水神神社”

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543 国境の寂れ行く神社について “宮崎県五ヶ瀬町波帰の波帰之瀬三代小波三郎水神神社”

20171221

太宰府地名研究会 古川 清久


 以前から宮崎県(五ヶ瀬町)と熊本県(山都町)との境界を成す五ヶ瀬川の大峡谷を横断し通り抜けたいと思っていました。

 熊本県高森町、山都町と宮崎県五ヶ瀬町、高千穂町などの境界が鬩ぎあうエリアは文字通りの秘境であり僻陬の地です。

 今まで二~三度熊本県側から谷底に降りたことはあったのですが、橋を渡り宮崎県側に抜けたいという思いは続いていました。


543-1

この日向と肥後を繋ぐ国境の関所のような所にも神社があるのです。

昔はこの辺りしか渡河できなかったようですから、橋もあり、店もあったようですが、今や大峡谷を跨ぐ橋が造られ、一日に百台ほどの車しか通わない場所になっているのです。

今や九州電力の水路式発電所があるだけで、その管理要員と道路工事関係者だけが通過する打ち捨てられた様な谷底の地がここなのです。


543-2

(川)の窟に住んだ。その後、今の草部吉見神社のところにあった池を欲し宮居を定め土族を平らげたとされますが(草部吉見神社の伝承外)、その川走川こそ地図に出てくる川なのです。

まあ、滝のように迸る急流だったのでしょう。


543-3

この谷底の宮崎県側にあるのが今回の神社です


543-4

道路から数百メートル降ると小さな神社がありました


もはや祭祀を引き継ぐ人も絶えたのでしょう。実質的には、廃社と言ってもおかしくない状態になっていました。


543-5

ギリギリ雨は凌げそうでしたが、既に床は落ち始めていましたしどう見ても後五年で破れる事は間違いないでしょう。

しかし、藩政時代から引き継がれたと思われる御神体が残っていました。

私が来る前にはどれほど前に参拝者が来ただろうかと思ってしまいましたが、今後、この様な神社が激増する時代に入って行く事でしょう。

一体誰が祀られているのか?男神なのか女神なのか、夫婦神なのか親子神なのか…誰も知らない時代が目と鼻の先に控える時代になっているのです。

大都会で跡目争いが起こるような恵まれた時代に殺傷事件が起こるありさまです。藩政時代まで神社での殺傷は死罪となる大罪だったのですが、それを宮司家が引き起こすようでは如何ともしがたい話です。

波帰や吐の瀬と言った地名は嘔吐の吐であるはずで、水が吐き出し、吹き出し流れ合う場所が吐合、落合、流合、川会、河合で問題はありません。

三代小波三郎水神神社の「三郎」は草部吉見神社の祭神に三郎が出て来ますが、これは宮崎県側の神様ですから単純には乗れません。


旧郷社 御祭神

一の宮 日子八井命 二の宮 比咩御子命 三の宮 天彦命 四の宮 天比咩命=三郎神社の祭神

五の宮 阿蘇都彦命 六の宮 阿蘇都比咩命 七の宮 新彦命 八の宮 彌比咩命

九の宮 速瓶玉命 十の宮 若彦命 十一の宮 新比咩命 十二の宮 彦御子命


 社殿を見ると、「波帰之瀬龍王水神」と書かれたお札が残されていました。これで何とか見当が着きました。


543-6

「八大」は仏教の概念の八仏ですが、龍王、龍神は実は豊玉彦=ヤタガラスなのです。

 それは、地名にも反映されています。

 この波帰集落(と言っても人家は僅かです)の裏山には「烏岳」があり、「桑野内」地名も蚕を飼い生糸を生産し、絹織物を作る民が住む所に付くのが桑田、桑野、桑原…といった地名なのです。

 その生糸で絹織物を生産し莫大な富を築いたのが秦氏、太秦であり、後の京都の繊維産業の基礎を形成するのですが、彼らは、大陸から豊前などに大量に入って来た秦氏(秦の始皇帝の一族、秦の臣民、万里

 地名の小半田(読みはコハンダでしたかね…)しかし、本来は「半田」、「羽田」、「八田」(ハッタ、ヤタガラス)、畑、波多と同様の意味なのです。

 どちらにしても「烏岳」だけで見当が粗方着くのです。


543-7

高千穂観光では脚光を浴びる神社なのですから、同じ神様を粗末にするのは如何かと思うばかりです。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)にはイヅノメ(ヤタガラスの娘)を取り上げ6本ほど書いています。

 これをお読み頂ただければ竜王の正体がお分かり頂けれでしょう。

 山幸が釣針を失い困っていると塩土翁がやって来て龍王のところに行く事を薦めますが、その塩土翁こそヤタガラスの父神である大幡主なのです。


438

伊豆能売の神とは何か? ⑥ “伊豆能賣の中間調査を

終えて思う事” 

437

伊豆能売の神とは何か? ⑤ “伊豆能賣は 何故「イヅノメ」

と呼ばれたのか?”

436

伊豆能売の神とは何か? ④ “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した 

”遠賀町の伊豆神社“ 

435

伊豆能売の神とは何か? ③ “遠賀川右岸の二つ目の

伊豆神社の元宮か?”久我神社 

434

伊豆能売の神とは何か? ② “二つ目の伊豆神社” 

イヅノメの神が少し分かってきました

433

伊豆能売の神とは何か? ① “遠賀川河口の両岸に

伊豆神社が並ぶ”


543-8

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 ついでに申し上げておきますが、五ヶ瀬町は神武高兄五瀬命もこの五ヶ瀬町、五ヶ瀬川から付された名なのです。それに、スサノウもスサノウの姉神のクラオカミ(神俣姫)もいたのです(五ヶ瀬町鞍岡の祇園山の麓)。その話は、蘇民将来、巨胆将来の話になりますので、これもバック・ナンバーをお読み頂きたいと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

371

蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 ④ 宮崎県五ヶ瀬町

鞍岡の祇園神社の更に深部へ

370

蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 ③ 分離先行トレッキング

361

蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 ② 鳥瞰

346

蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜

ひぼろぎ逍遥

118

蘇民将来(ソミンショウライ)巨旦将来(コタンショウライ)

117

どうせ行くなら涼しい神社へ



543-9 さて、今回はもう少しで消えて無くなるような神社をご紹介しました。

 恐らくこの神社は、藩政時代に通商路であったところに神社を置き、お賽銭を集め、教化を図ったものと思われますが、これを支えた地元も何時しか過疎化が進み、信仰を失うに至ったものと思われます。

 時代の流れにより致し方ないのかも知れませんが、現在、道路建設が進められており、この地にも大橋梁が建設されるものと思われます。

 しかし、この谷底の神社が再建されるとは思えません。

 肥後人を出迎える龍王水神がヤタガラスである事は書き留めておきたいと思います。

544 阿蘇の神社群はπやφは元よりフィボナッチ数列を駆使するピラミッドの法則で造られていた

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544 阿蘇の神社群はπやφは元よりフィボナッチ数列を駆使するピラミッドの法則で造られていた

20171221

太宰府地名研究会 古川 清久


神社のパワー・スポット・ブーム(ぱあ・スポット?)とは、ほとんど人為的に創り出されたものでしかありません。

当然、大手マスコミ(新聞、TV)や「トランプ報道」、「不正選挙」も世論操作がなされたものでしかなく、戦後のマッカーサー~GHQの占領政策以来、ほとんど全ての情報が管理されていると思うべきでしょう(米国金融マフィアが持ち込んだ3S政策は完全に成功しているようです)。

今は極限まで愚民化政策が完了しており、世界最高水準の8Kテレビジョンを創る国家に於いて、芸人、オカマ、ハーフ、外人による安物番組ばかりという世界最低水準の番組を享受しているのが我が日本列島(劣等)民族の成れの果てと言えるでしょう。最早何をか言わんと言うばかりの様相を呈しているのです。


544-1

神社のパワー・スポット・ブーム(ぱあ・スポット?)に関しては一部仕掛けられた形でこの阿蘇でも起こっているのですが、この本物中の本物と言えるパワー・スポットと言えるものがあるのです。

実は、阿蘇の神社群とピラミッドを形成する“南阿蘇村の八坂神社は、殆ど知られる事もなく、現在も静かに鎮座しているのです。この事については、以前にも何度かお伝えしています。


ひぼろぎ逍遥

92

阿蘇の神社群とピラミッド “南阿蘇村の八坂神社を

訪ねてみよう”

181

南阿蘇村八坂神社の炎のピラミッド ①


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

90

驚愕の“炎のピラミッド” 004 図26-1,2 “八坂神社両神社の、

境内地の具体的な対称性”

89

驚愕の“炎のピラミッド” 003 図24-2  “草部吉見神社と神域」

(本境内地面積1,900㎡)”

88

驚愕の“炎のピラミッド” 002 はじめに “阿蘇南北の大地の

形成を考える”


などに於いて、何度かとり上げていますが、阿蘇の神社配列 阿蘇郡内8社と郡外の3社、甲佐神社(甲佐町)、健軍神社(熊本市)、郡浦神社(宇土市三角町)は各々標高も全く異なるのですが、非常に正確に三次元的な阿蘇を中心とするピラミッドの一部を形成する様に配列され、しかも、参道、参拝殿、神殿配置から境内地の形状さえもが計算され尽くされて造られているのです。

この驚愕の事実は既に平成9年の地理情報学会(通常は東京大学)に於いて、「古代火の国の『ピラミッド状の神社配置の謎と意味(炎のピラミッド)』について」として田尻盛永八坂神社宮司(℡0967-62-9611)阿蘇郡南阿蘇村一関660より発表されています。


544-2

一関八坂神社(祇園社)


再掲載


092 阿蘇の神社群とピラミッド “南阿蘇村の八坂神社を訪ねてみよう”

20140603


 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



阿蘇の神社と言えば、健磐龍命(たけいわたつのみこと)を祀る一の宮町の阿蘇神社と相場が決まっているようですが、密かに湧きあがりつつある神社ブームの中で、それ以外の重要な神社にも目が向けられつつあるようです。

 参拝者増加に当会も関係している草壁(草部)吉見神社、決してクニノミヤツコなどと間の抜けた呼び方をなさらないようにして頂きたいのですが、北宮 阿蘇国造(コクゾウ)神社、境内に入られた方だけならば最も多いはずの、白川水源の白川吉見神社、遠く離れて小国町の両神社(小国神社)や御船町の甲佐神社など、徐々に参拝者が増加しているような気がしています。

 ところが、自分自身の認識も遅れていたのですが、非常に重要で無視できない神社があったのです。

 それが、これからお知らせする、ど偉い神社 八坂神社です。

 まず、阿蘇に八坂神社があるのか?と、お思いの方が多いと思います。


 最低でも、ご紹介したblog五本を読まれれば驚愕の事実に直面し、それこそパー・スポット・ブームなど吹き飛ぶような問題に思考が狂わされるような事になるでしょう。


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左から、この神額が非常に珍しいことから、まずは、実見となったものです。もしかしたらメノーラかも知れません。社殿はこの階段を上がります。見た目は小さな砦ですね。社殿は至って穏やかでした。


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本殿上の紋章


本殿の紋章は丸に花沢瀉(オモダカ)のようですが、今のところ保留します。

これは、神紋ではなく同社を庇護した一族の家紋ではないでしょうか?


 当然ながら、祇園神社とか出雲系とか評価が一般的ですので、阿蘇に?となるのは自然な成り行きかも知れません。

 少なくとも、祭神を考えれば、:素戔嗚尊、櫛稲田姫命、その子(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)となるのですから仕方がないのかも知れません。

 ただ、太宰府地名研究会の神社考古学班としては、スサノウとアマテラスの衝突も九州を舞台にして起こったこととして探索を進めており、事実、メンバーの数名は、結局、「出雲神話」の舞台は九州だったといった話を日常的にやっています。

 このような話をするとご迷惑をかける向きもありますし研究途上の話でもあることから、通常はオオッピラには申しあげておりません。

 ただ、今回、ご紹介したいのは、国造神社を中軸に阿蘇神社と霜神社が、阿蘇山を挟み寸分たがわず、八坂神社と竜王社に対して配置されているということと、他の重要な神社も正確に配置されているという事実であり、その具体的事実を発見されたのが八坂神社の宮司であるということです。

 この手の話は安本美典による奈良の地名の話などと同様なものと考えられるかもしれませんが、大雑把な地名対応程度の話ではなく、最低でも古代の正確な測量技術を浮かび上がらせるものだったのです。

 宮司は2008年に『古代「火の国」の象徴「炎のピラミッド」の発見』田尻盛永/著(熊本出版文化会館)\4500.-として公刊されています(百冊程度の残部あり)。冒頭から、ほんの一部をご紹介しましょう。


…こうした火の国全土に亘る神社群配置の中心は、阿蘇谷と南郷谷とに「対」にして奉祭されている「阿蘇神社と八坂神社」にあるが、この2社に、それぞれ補完社である「霜神社と竜王社」を加えて4社。この4社を結ぶと「北北西22.7度」(2242分)に傾いた「性格無比な細長い平行四辺形」が浮上してくる。…


 当然にも、この重要性にいち早く気づいた地理情報システム学会において、平成91997)年「古代火の国の『ピラミッド状の神社配置の謎と意味(炎のピラミッド)』について」を発表されています(於:工学院大学/事務局:東大)。


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参拝殿横にもこの図面が金属板で掲示されています


著書には高等数学に基づく多くの数式と図が配されていますが、全てをお知らせする事は不可能で、著書を購入されるなり、論文を入手されるなり、お近くの方は、直接、神社に訪問され著書を入手されたい方は購入できると思いますのでご参拝頂きたいと思います。

差し障りないと考えますので、住所連絡先をお知らせします。なお、詳報は別稿とします。

869-1504 熊本県南阿蘇村一660 八坂神社 ℡0967-62-9611


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風光明媚な南阿蘇、白川沿いに社殿、宮司宅はあります。南阿蘇鉄道の中松駅付近とお考えください。


さて、2012年公開の映画「ピラミッド5000年の嘘」をご覧になった方は多いと思います。

DVDも販売はもとより、レンタルも行われていしたので、かなりご存知の方はおられるでしょう。

本編の中でも、ギザのピラミッドが4面体ではなく8面体だったとか、メートル法、円周率π、黄金分割、フィボナッチ数列といった数式を駆使してピラミッドが造られていたといった高等数学のオンパレードでしたが、あの時代にピラミッドが黄金分割などの言わば秘法が駆使して造られたものだったという衝撃的な事実が明確になったのでした。映画を見られた方は是非…。


そして、これと同じ構造が阿蘇の神社群にも適用されているといった話になってくるのですが、それはまたにして、まずは、南阿蘇の八坂神社におでかけ頂きたいと思います。神社の維持には多額の資金が必要ですので、お賽銭はお忘れなきようお願いします。詳しくは神社にお尋ねください。


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さて、以前の御著書は4,500円と多少高めでしたが(勿論、立派な装丁ではあったのですが)、改訂版はコンパクトにまとめられ1,500円と求め易くなっています。


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田尻盛永八坂神社宮司(℡0967-62-9611)阿蘇郡南阿蘇村一関660


 に直接お問い合わせされれば早めに手にする事ができるでしょう。


阿蘇小国両神社と八坂神社の対称性を考えると、両方の神社の性格を改めて考えざるを得なくなります。


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11の神社群が正確無比な対称性とピラミッドの配置になっている事には脅威をすら感じますが、これらが、宮司の想定では6世紀前後に全て成立していると言われるのですから、最低でもピラミッドを造った人々が入って来ているぐらいの話は必要になるのです。

ぱあ・スポットを追い求める方は、せめて、同社を訪れ、驚愕の事実を知るべきではないでしょうか?

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