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extra18 宇佐神宮とは何か? ⑱ “宇佐神宮の(仮称)中宮に鎮座する若宮神社とは何か?”

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extra18 宇佐神宮とは何か? ⑱ “宇佐神宮の(仮称)中宮に鎮座する若宮神社とは何か?

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150609

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


宇佐神宮の下宮から上宮へと向かう参拝道の中ほどに、その立ち位置から勝手に中宮と名付けている若宮神社が鎮座しています。

 神社の縁起書、由緒書きをそのまま真に受ける人はともかくとして、神社の性格を解明するには配置されている境内社、摂社を分析する事は極めて重要です。

 本来ならば、書かれているものをそのまま信じ込みたいのですが、いかなる時代に於いても、その時々の政情、時勢によって、多くの神社が本来の祭神を隠し、偽り、入れ替え、新たに加え、酷い場合は、全く異なる神々を祭りが自らを守る事さえあるのです。

 ただ、この日本と言う国の幸せな事は、容易に外敵に晒される事がなかったため、許容力、包容力が大きく(あくまでも相対的にですが)、完全に本来の神様が捨て去られ、埋められ、焼かれるなどと言う事はほとんど起こりません。

 従って、境内社、摂社、社殿の配置、類型の同種の神社などと併せ考えれば、本来の祭神が誰であったのかが類推、演繹することが可能な場合が多いのです。

 ただ、そのためには数年の努力では不可能であり、百嶋先生も、「四十、五十は鼻垂れ小僧…」(神社歴二十、三十年)と良く言われていました。

 あくまでも、当方の話も、神社探訪五~十年の鼻垂れ小僧の論としてお聴き頂きたいのですが、今回の宇佐神宮の訪問により、多少とも、真実、若しくは、真実への糸口を発見した思いがしましたので、乱暴ながら、一つの仮説を提出させて頂きたいと思うものです。

 その中宮ですが、誰が祀られているかについては以前から考えあぐねて来ました。


無題.png

大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)仁徳天皇他4神を祭る若宮神社


この「若宮神社」が筑後ばかりではなく九州全域に分布しています。

一般的に若宮という場合、大きな功績を残した大王の皇太子の意味であり、宇佐神宮の場合の若宮が応神天皇そのものを言うはずもなく、宇佐神宮にとっての若宮が誰かのイメージが全く湧いてこないのです。

そもそも、応神天皇自体が大きな業績を残した天皇などとは言えないのであって、父が仲哀天皇、母が神功皇后=息長足姫尊(オキナガタラシヒメミコト)とされることもあることから、応神自体は神功皇后の業績からして、辛うじて若宮の尊称を受ける資格がある程度なのですが本殿におられますね。

ここで、高良大社の現宮司から六年ほど前に直接聴いた話が思い起こされます。

もう、どのような話の流れで言われたのかを忘れてしまったのですが、ある年の大祭の折り、「若宮神社というのは全て高良大社の神社(のもの)なんだから…」と話されていたのを今でも鮮明に覚えています。

鹿児島県の薩摩半島でさえ若宮神社を見掛けていたことから、筑後に数多く分布する若宮神社が何であるかを強く意識していた時だけにその印象は鮮烈でした。

結論だけを言えば、今のところ若宮神社とは高良玉垂命の若宮を言うものと理解しています。

その前に、国東半島一帯(国東とは九州王朝の東の意!)では、宇佐神宮の直ぐ隣であるにも関わらず、石清水八幡系の神社が数多く存在し、その境内社として高良神社と若宮神社が祀られている例が数多く認められます(これについては別稿とします)。

そして、その若宮神社の多くが大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)仁徳天皇を祀っているのです。

当初、宇佐神宮の若宮神社にはあまり注意を払っておらず、全くもって本気では考えていませんでした。

ところが、今回、十度目の訪問でようやく気付いたのですが、この若宮が高良玉垂の命の若宮と考えれば整合性があるのではないかと思ったのでした。

これは、久留米の方は誰でもご存知なのですが、高良大社、高良山北側の膝元、山川町の高良大社への古参道に鎮座する高良皇子神社には高良玉垂命の九人の王子が祀られています。


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高良御子神社(久留米市山川町)

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この神社には地元郷土史会の研究による立派な神社縁起が置かれ、高良玉垂命の九人の皇子がずらりと並べられています。

重要なのは、この筆頭者の斯礼賀志命が誰なのかです。

 これについて迫った人は九州王朝論者でも極わずかであり、1998年に書かれた「稲員家と三種の神宝」(古田史学会報 1998年 6月10日 No.26)などで触れてあります。


さて、最後に玉垂命の末裔についてもう一つ判明したことを報告して本稿を締めくくろう。初代玉 垂命には九人の皇子がいたことは前号にて報告したが、次男朝日豊盛命の子孫が高良山を居所として累代続き(稲員家もその子孫)、長男の斯礼賀志命は朝廷に臣として仕えたとされているのだが、その朝廷が太宰府なのかどうか、今一つ判らなかった。それがようやく判明した。高良大社発行『高良玉 垂宮神秘書同紙背』所収の大善寺玉垂宮の解説に次の通り記されていた。
「神職の隈氏は旧玉垂宮大祝(大善寺玉垂宮の方。古賀注)。大友氏治下では高一揆衆であった。高良大菩薩の正統を継いで第一王子斯礼賀志命神の末孫であるという。」
 玉垂命の長男、斯礼賀志命の末裔が、三瀦の大善寺玉垂宮大祝職であった隈氏ということであれば、斯礼賀志命が行った朝廷とは当時の王都、三瀦だったのだ。すなわち、長男は都の三瀦で政治を行い、次男の家系は上宮(高良山)で神事を司ったのではあるまいか。


古賀達也氏は、『新・古代学』古田武彦とともに 第4集 1999年 新泉社 九州王朝の築後遷宮 玉垂命と九州王朝の都 に於いても以下の様に書いておられます。


玉垂宮史料によれば、初代玉垂命は仁徳七八年(三九〇)に没しているので、倭の五王最初の讃の直前の倭王に相当するようだ。『宋書』によれば倭王讃の朝貢記 事は永初二年(四二一)であり、『梁書』には「晋安帝の時、倭王賛有り」とあって、東晋の安帝(在位 三九六~四一八)の頃には即位していたと見られることも、この考えを支持する。
 さらに現地(高良山)記 録にもこのことと一致する記事がある。『高良社大祝旧記抜書』(元禄十五年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として 仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。この記事の示すところは、玉垂命の次男が跡目を継ぎ、その子孫が累 代相続しているということだが、玉垂命(初代)を倭王旨とすれば、その後を継いだ長男は倭王讃となり、讃の後を継いだのが弟の珍とする『宋書』の記事「讃 死して弟珍立つ」と一致するのだ。すなわち、玉垂命(旨)の長男斯礼賀志命が讃、その弟朝日豊盛命が珍で、珍の子孫がその後の倭王を継いでいったと考えら れる。この理解が正しいとすると、倭の五王こそ歴代の玉垂命とも考えられるのである。


この九人の皇子のうち、上位五人が正室の皇子であり、四人が側室の子であり、その筆頭の斯礼賀志命こそが仁徳天皇であり、事実上九州王朝の最後の天皇であった。”との衝撃的な話をされていたのが、例によって、神社考古学者の故百嶋由一郎先生でした。

神武―懿徳―孝霊―孝元―開化と続いた九州王朝の最後の天皇が仁徳であり、高良玉垂命(開化天皇)と神功皇后との間に生まれた五人の皇子の長男こそが仁徳天皇だったとされているのです。

そうです、高良玉垂命(第10代開化天皇)と神功皇后との間に生まれた正室の皇太子の長男=斯礼賀志命が藤原により第16代とされた仁徳天皇だったのです。

 九人の皇子とばかり考えて来たのでこれまで全く見落としてきたのですが、もしも、正室の五人の皇子が、この若宮神社に祀られている大鷦鷯尊=仁徳天皇以下四人に対応するとすれば、話は非常に上手く繋がるのであって、この若宮神社は宇佐神宮が高良大社にとって代わる八世紀半ば以来ずっとこの地に祀られていた可能性が高く、宇佐神宮が九州王朝の神宮だった事を示すものになるのかも知れません。

 勿論、応神天皇の子が仁徳天皇とされているのですから、容易に証明できるとは考えられませんが、現在、この若宮神社についてさらに調査を進めているところです。

 最後にもう一つの可能性を考えて見ましょう。仁徳は応神の第四皇子とされていますが、九躰皇子の側室の皇子の一人が応神天皇となったかも知れないのです。

 この背後には宇佐神宮の勢力地図を垣間見せてくれる北辰神社、春日神社、住吉神社を奉祭した氏族が関係している事でしょう。

 応神天皇には春日神社を奉祭する氏族(藤原氏)が背後についていたはずであり、その後の展開もそれを表しています。

 また、私達、百嶋神社考古学の立場からは、藤原氏が阿蘇氏の流れから生み出されたことも見て取れるのです。

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故)百嶋由一郎作成の基本神代系譜から切り出したもの


「高良玉垂宮神秘書」をじっくりお読み下さい。

通説では応神の子が仁徳とされていますが、これも大嘘でしょう。

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extra19 宇佐神宮とは何か? ⑲ “宇佐神宮の隣の国東に鎮座する八幡神社の境内社について”

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extra19 宇佐神宮とは何か? ⑲ “宇佐神宮の隣の国東に鎮座する八幡神社の境内社について

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150609

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


写真は国東半島国見町の岐部神社境内から見た岐部の集落です。


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伊美の別宮社、岐部神社、ケベス神社…には高良社、若宮社を境内摂社として持つものが多い

国東は一般にも、古来、紀氏の領域であったと言われてきました。

恐らく、岐部の「岐」も「紀」「姫」を置き換えたものなのです。一部の例外はあるものの、国東半島全域に宇佐とは異なる岩清水神社系の八幡神が勧請されてお り、境内社として頻繁に見かける若宮社もこの地では応神ではなく仁徳が祀られています(宇佐八幡宮の若宮も仁徳ですが…)。
そもそも、岩清水八幡は橘 諸兄の末裔が宇佐から勧請したもので、岩清水の正面には、今も、高良神社が鎮座しているように、この一帯にも高良社を祀っているものがかなりあります。
現在、国東といわず筑後以外に高良玉垂宮はほとんど確認されません(九州でも島原半島、武雄市、日田市、南さつま市などに数例がありますが)。
この伊美別宮、岩倉社、岐部神社…は、いずれも元は高良神社であった可能性があり、なお、半島全域の調査を続けています。
次の写真は大分県国東市国見町の伊美別宮八幡宮本殿に渡る美しい石積の参道です。
二〇一三年、姫島正面に向かうこの国東先端の地を探訪しましたが、一帯に鎮座する八幡宮の多くが、元々は高良玉垂命を祀る神社だったのではないかを探るためでした。
その当否については、ご自分の厳しい目による判断に待つこととしますが、この国東の地は紀氏の領域地だったのです。
その一つの象徴がこの伊美別宮であり、別宮とは京都の石清水八幡宮の別宮の意味なのです。
石清水八幡と言えば、吉田兼好が「徒然草」に
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「ごくらくじ・こうらなどをおがみて、かばかりとこころえてかえりにけり」…「すこしのことにも、せんだつはあらまほしきことなり」(58段)、“ある仁和寺の僧が、山上の石清水八幡宮には参拝せず、極楽寺、高良神社を拝んで帰ってしまった。”…

と、書いたことでも知られますが、石清水八幡宮の摂社に高良神社があるように、国東の一帯にも高良神社が境内社として置かれているのです。
それは石清水八幡を建てた一族が橘氏=姫氏であることと関係しているからでしょう。
そもそも、国東半島正面の島が姫島と呼ばれていることとも通底しています(姫=紀?)。さて、国東半島という名は不思議です。
ど のように考えても、畿内、大和の側から見た国の東でないことは明らかです。国東とは、九州本島=九州王朝直轄領域の東の地との意と考えるのですが、故百嶋 由一郎氏による、「国東半島に行きなさい。あそこには宇佐の隣であるにもかかわらず、系統の異なる石清水八幡が勧請されています」「九州王朝を最期まで守 ろうとしたのは橘氏の一族ですよ」との話が今になって分かるようになりました。
まさに、「せんだつはあらまほしきことなり」です。
次もその証拠の一つです。
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上の写真は、国東半島も姫島の正面に位置する伊美港に隣接する伊美別宮社にある石碑です。
同社は戦前に縣社に昇格したのですが、その時の記念碑です。普通は見過ごしてしまうものでしょう。
太宰府地名研究会は、昨年の12月に30人規模のトレッキングを行いましたが、そのテーマは、「国東半島に高良宮を探る!」でした。
事実、この別宮社にも、隣のケベス祭りで有名な磐倉社にも両脇には高良宮と仁徳天皇が若宮社として祀られています。
そもそも、この国東一帯には宇佐神宮とは別系統の石清水八幡が勧請され、何故か高良の神が祀られているのです。

そこで、この縣社昇格記念碑を見ると、なんと、揮毫した人物は当時の高良大社の矢田宮司だったのです。つまり、国東半島の八幡宮の本当の祭神は高良の神なのです。
石清水八幡宮とは九州王朝の中枢部を荷った紀氏(橘一族…)の僧侶によって創られたものです。
国東半島の調査は今後も続けますが、紀氏、橘一族、高良大社、九州王朝が国東の謎を解く鍵になりそうです。
紀氏は九州王朝系氏族として、何度も続く藤原王朝の中の弾圧にも生き延びますが、今でも国東には橘氏の紋章が数多く目につきます。
彼らは権力を理解し宇佐八幡を奉りつつ密かに高良の神々を守り続けたのです。
そうです。国東とは九州王朝直轄領域の東なのです。
最後にもう一つ、これは福永晋三氏が言われていることですが、大善寺玉垂宮の鬼夜と同じ祭りが、西の端、佐賀長崎の県境の観世音寺から、東の端の国東の天然寺で行われているのです。これも九州王朝の祭りの痕跡のようです。
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extra20 宇佐神宮とは何か? ⑳ “宇佐神宮の勅使井と百体神社”

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extra20 宇佐神宮とは何か? ⑳ “宇佐神宮の勅使井と百体神社


「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150610

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 宇佐神宮の呉橋一般公開に併せて上宮や神宮に隣接する大善寺を見て、少し離れた勅使道沿いに置かれた化粧井戸(私は勅使井戸と呼びますが)と百体神社を随行者の内倉武久氏、中野 某氏と一緒に見に行きました(初見)。

 つうじょうの参拝コースからは外れており、大尾神社、大元神社、鷹居社と同様に、一般にはまず訪れないところでしょう。

 化粧井戸とは言うものの、大富神社に置かれた勅使井戸同様、立派な設えの堂々たる石造りの掘抜き井戸でした。


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「百體殿」という名の通り、通常の神を崇め祀る神社ではなく、百人(恐らくそれ以上)の隼人を殺した祟りを鎮めるための霊廟というのが本質です。

従って、御利益を得るような神社ではなく、本来は賽銭箱も置かない(御利益はないから)ものであり、自らの悪業から祟りを恐れ鎮めるための廟に近いものなのです。

しかし、百體殿の「體」=体(旧字の体)は、戦前は使っていたのですが、久しぶりに実見しました。

現在は、中華民国(台湾)と一部の華僑圏しか使われない漢字ですが、それはともかく、重要なのは「松隈」という地名です。

既 に、「隈」地名が非常に重要である事はこれまでにも書いてきましたが、恐らく、「隈」地名は肥後の熊本(元は隈本と書かれ、加藤清正により熊本と変更さ れ、現在は千葉城と変更された)が起源であり、この地名を使った博多の櫛田神社の大幡主(オオハタヌシ)の一族が佐賀県東部から小郡、甘木、朝倉から日 田、そして、博多周辺に展開した白族が持ち込んだものなのです。

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この地名を使う人々こそ、九州王朝を支えた氏族=民族と考えていますが、かつてこの地に住んだ人々が隼人と共に葬り去られたのか、宇佐神宮と一緒になって隼人を征伐したのかが解りません。

 ただ、この謎を解く鍵と言えるようなものに気付きました。

 それは、この百體殿の造り方です。見てお分かりになるように、本殿の外側に蓋いを掛けて本殿を風雨から守ってあります。

 このような建築様式を通常「鞘(さや)殿」と呼び習わしていますが、筑後地方に異常に多く分布しており、私達は筑後物部の領域の建築様式と考えています。

 ただ、豊前地方にそれがないかと言うと、筑豊はもとより、豊前、中津、宇佐、国東でも散見されるもので、この様式の社殿があると、まずは筑後物部が展開した集落ではないかと考える事にしています。

 この様式を百體殿に見たとき、一般に隼人の乱とされるものの本質が多少とも見えた思いがしています。

 直ぐに結論に飛びつくのは乱暴なうえに、危険ですが、このような視点を持って、和間神社の放生会、宇佐神宮の本質、九州王朝から近畿大和朝廷への転換を今後とも考えて行きたいと思います。

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 どうやら、隼人の乱の鎮圧とは、単なる南方系蛮族の鎮圧などと言った創られたものでは全くなく、百済系、新羅系、秦系、高句麗系など渡来系氏族は元より、物部氏、九州王朝系氏族を巻き込んだ大規模な内乱、内戦だったようです。

217 阿蘇高森の草部吉見神(春日大神=建御雷之男神、武甕槌神)の御先祖の写真をお見せします

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217 阿蘇高森の草部吉見神(春日大神=建御雷之男神、武甕槌神)の御先祖の写真をお見せします

20150616

久留米地名研究会 古川 清久

百嶋神社考古学の真髄が残されていると考えている手書資料のスキャニング作業をしていると、比較的鮮明な多(オオ)大将軍の写真が出てきました。

これまで草部吉見神社に関して多くを書いていますが、画像がそれほどではなかったため保留してきましたが、今回、公開することにします。

阿蘇の草部吉見に象徴される“ミミ”という名を持つ人々、ヒコヤイミミ、カムヤイミミ、アメノオシホミミ、カムヌナカワミミ、タギシミミ…の人々は雲南省麗江から入って来た黎(レイ)族=ミミ族であり、海南島の南西岸などに一時身を置き、黒潮に乗って、天草の苓北(レイホク)、不知火海、有明海沿岸に入り、阿蘇に入って来た…と言う話をしてきました。

この多(オオ)大将軍の像は雲南省麗江にあるもので、百嶋先生は現地に何度も行かれ、現地伝承、文献を調べた上で、これが阿蘇氏のかなりの部分を形成したビルマ・タイ系の祖先であると判断されたようです。


217-1

現地には現在も三つの支那地名(雲南省に支那が2、ビルマに密支那=ミッチーナ、ミートキーナが1)が存在し、麗江市内にも支那城があるというのです。

 この、百嶋先生が撮影された写真を見ると次の事が分かります。

一般的に、北方騎馬民族の武器である剣(ケン)、雑穀堅果落葉樹民族の武器である戈(カ)に対して、照葉樹林帯に住む民族は動物を狩りする槍(ヤリ)の矛(ホコ)を使うと言われますが、どうやらこの武器も倭人の矛(ホコ)のようです。

三国志「魏志」東伝倭人条には「武器は矛、盾、木弓、竹矢…風俗は朱崖但耳(海南島)と同じ…」とあるのです。

また、馬にまたがっており、騎馬戦を得意とする戦闘集団であった事が伺えます。

阿蘇氏も、後に中央(近畿大和)に展開しますが、移動した分家の阿蘇氏は、「多」「宇治」を名乗り、本家は「阿蘇」を名乗ります。

 耳、支那、信濃、阿蘇、多、宇治は、阿蘇氏に関係があるものと一応考える価値があるものと思って下さい。

 信濃、甲斐と肥後が飛地のように納豆文化、馬肉食(馬刺)の文化が存在する事も気になっています。


217-2

雲南省麗江から阿蘇に入って来た黎族は、先住者であった高木大神(島原半島から阿蘇を経て高千穂三田井が中心領域)の傘下に入った事から草部(加耶ヤの部民=カヤカベ)の吉見と呼ばれたようです。


217-4

これまであまり公開していませんが、百嶋先生の手書き資料の中に入っている神代系譜であり、神代で

最も重要な神々(大国主、宗像三姫君、スサノウが書かれていませんが)が書かれています。神武と天照は弟姉ですから、天照=卑弥呼→豊受大神→卑弥呼宗女伊予と九州王朝大王との神聖政治が続いています。

218 最も良い温泉について? “地名研究会研修所そばにある塚田温泉から”

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218 最も良い温泉について? “地名研究会研修所そばにある塚田温泉から”

20150617

久留米地名研究会 古川 清久



久留米地名研究会天ケ瀬温泉五馬高原研修所がある大分県日田市の天瀬町五馬市地区から一キロほど南に塚田地区があります。

ここには塚田小学校があり隣に年中無休の共同浴場塚田温泉(200円)があるのですが、地場の野菜などの販売も行われていて、研修所で必要な野菜、特に大分県は大産地ですから原木栽培のシイタケ、地鶏のたまご…といったものが格安で手に入ります。



218-1

塚田温泉センター



当然、高原地帯のため寒暖の差が大きく、おいしいお米が採れると思った事から、番台に座る上品なご婦人にご相談したところ、別の農家の方を何人かご紹介頂き手持ちのお米を分けて頂くことができるようになりました。


218-2

塚田小学校前 田植えの終わった集落の風景(パノラマ撮影したもの)20150616 1300前後

今後は、漬物、味噌、醤油、こんにゃく、豆腐、お茶…と地場産品の購入の枠を広げ、極力、日田まで買い出しに行かずに済ませられる体制を創りたいと考えているところですが、さすがに、イリコ、食用油、鰹節、魚、肉…、香辛料、天然塩、カセット・コンロのボンベといったものは定期的に行われる研究会のついでに買って帰る事になります。

既に、すべての生活に必要なものが揃っており、消耗品だけを補充するだけなのですが、研修所故に、酒だコーヒーだ…ワインを…と贅沢な話にもなってきます。

と言いながらも、久留米大学の福山教授から公開講座の翌日壱岐の手前で魚を釣って来たとかいう事で貰いに行ったところ、54㎝の目の下一尺半の大鯛に35㎝オーバーキジハタで鱗とワタは落としてあったものの、二時間格闘して三枚に下ろし、刺身を取り、焼き物、煮ものへとへとへとになってしまいました。

専用の大デバ、柳包丁はもっているものの、まな板が小さ過ぎて、今後は小ぶり(キスとかメバルとかアラカブ=カサゴ…)の獲物を頂く事にしたいと思います。

まな板(イチョウは)も高いので物色していますが、まだ、良いものに出くわしません。

水道水が高原地帯の地下水汲み上げによる天然水であることによって、氷もお茶も、コーヒーも美味しく、その上に天然温泉に24時間入る事が出来るのですから、まさに桃源郷に住んでいる思いです。

特に、「ひぼろぎ逍遥」 166 留米地名研究会天ケ瀬温泉五馬市高原研修所周辺の神社 ① “塚田の阿蘇神社”で取上げた湧水の在る場所であり、古代の農耕(ここでは陸稲栽培ではなく水田稲作を想定していますので)はこのように安定した容易に水の得られる(湧水に限らず、山からの小河川が流れ込む)里山の裾野の小平野、小湿地で始められたと考え(られ)ています。

決して、洪水の危険があるような、大河川の周辺などでは始っていないのです。何故なら、大河川は制御するのが非常に難しく、水を引くに巨大な堰堤を築き、長延長の用水路を造らなければ水田稲作には到らなかったからです。

従って、豊富な湧水地を持つ山間の小平野とは、そのことだけからも、古代でも相当古い時代から開発された非常に古い集落である事が分かるのです。

湧水池がある塚田阿蘇神社も歩いて直ぐのところですので散歩がてらにでもご参拝下さい。


218-3

皆さんも、桃源郷の極上モール泉に入り、野菜を購入されたらいかがでしょう



良い温泉とは何か

温泉は白濁の硫黄泉が温泉らしくて良い、やっぱり食塩泉はさっぱりするから良い、炭酸泉は体がポカポカしてきてあったまるので最高だ、たまには強烈な硫酸泉も良い、青みがかった硫酸銅の温泉は幻想的だった…と温泉に関する好みは人それぞれですが、それは、一ヶ月に一度しか温泉に入らない人、良くても一週間に一度しか入らない人の話が大半であって、日常的に温泉を利用する人なら単純泉や重曹泉が利用しやすい事に気付いておられると思います。

食塩泉とは文字通り塩水であって、極端に表現すれば海水浴から上がってシャワーを浴びない事と同様ですし、特殊な石膏泉や鉱物泉は石鹸と反応して髪の毛がガチガチになる場合もあるのです。

また、温泉法による25度をギリギリにクリアしたような温泉とか、特殊な成分によって25度以下であっても温泉とされた鉱泉となると、冬場の加温用の燃料費が嵩み(勿論、水道水を沸かすよりはましなのですが)割高な温泉になってしまいます。

また、この温泉は濃度が濃く体に効く…といった温泉も、その成分によっては、頻繁に湯口、管路の掃除、点検に手間と経費が嵩み負担になってしまいます。

特に問題なのは、浅い井戸で汲み揚げる事ができた場合は良いのですが、千メートルも掘ってようやく温泉法をクリアしたような無理やり造った温泉(捏造温泉)は、成分によっては採湯用のパイプのスリットが詰まり、十年を待たずして、掘り直し、パイプの交換といった経費が掛ってくる事です。

藻が着きにくい泉質、硫黄泉、食塩泉、炭酸泉…も浴槽の掃除が楽で、プラスの要素になるかも知れません。全て、物事には功罪が付きまとう事になるものです。

これは、成分が濃いものほど頻度が上がり、成分が濃い良い温泉と言うのは利用する人間の場合だけになってくるのです。

では、自噴する百度の温泉が良いかと言うと、湯冷まし槽を造って管理せざるを得ないし、それが難しいとなると、勢い水を加え(酷い場合は水道水を加える)ざるを得なくなり、本来の温泉ではなくなってしまうのです。

結局、できるだけ真水に近いアルカリ性の単純泉で、湯口温度が50度、利用場所で434度の浅井戸の温泉が、毎日利用するには泡立ち=洗浄力も良く、最も便利で経費が掛らない良い温泉という事になるのです。

その点、この塚田温泉はPH8.2、泉温=46℃、井戸深=550メートル(ちょっと深い)加水なし、無味無臭の薄い炭酸水素塩泉(弱アルカリ性の低張性高温泉)であり、ほぼ、理想に近い温泉となるのです。

低張性温泉についてはあまりご存知でない方が多いと思いますので、簡単に説明すると、温泉でも長湯をすると指先の内側にシワが寄ることを経験されているでしょうが、温泉の成分が濃い場合は、浸透圧の関係で、体の細胞膜を通して水分が出て行くことになるのです。この割合が低いものが、低張性とか低張性温泉と表現されています。



「浸透圧」に注目!

温泉分析書には「浸透圧」という欄がない場合もありますが、「低張性」「等張性」「高張性」と書かれていれば、それが浸透圧です。
 単純に考えると、高張性の方が濃い温泉で、低張性ほど薄いと言ってもよいでしょう。
しかし、これは体の細胞液の濃度を基準にした分類なので、等張性以上の濃度がない温泉が多く、低張性がほとんどですから、低張性が薄いのは、体の細胞液濃度と比較してのことだと思ってください。
 浸透圧の意味としては、高張性は温泉の成分が体に浸透しやすく、低張性は水分が体に浸透しやすいと考えればいいです。このことから、高張性の方が湯あたりしやすいとも言えます。

HP温泉ソムリエ協会より

実は、この塚田温泉センターには頻繁に通っているのですが、野菜を買い行くばかりで、実際には一度しかこの温泉には入っていません。

それは、考えれば当然で、研修所自体に同種の泉質と思われる温泉が文字通り湯水のように湧いているからです。

200円払って温泉に入るくらいならば、新鮮な本物の地鶏の卵を10個、生シイタケを買う方がましだと経済原則が働いてしまうのです。

ともあれ、良泉とは言え、単純泉の塚田温泉にも、もう一つの特徴があります。

それは、最初に入った時から気付いていましたが、茶褐色のお湯であり、もしかしたらモール泉ではないかと思っていました。

モールとは、ドイツ語で湿原(Moor)のこと。昭和初期には十勝川温泉を含め世界で2箇所しかないといわれていた。しかしその後、各地でモール泉が確認されている。

温泉法に基づくの療養泉の分類についての泉質とは全く別の概念である。温泉の分類上では単純温泉や塩化物泉などであり、効能などはそれぞれに準じる。

石炭の形成途上であり炭化が進んでいない泥炭や亜炭層から源泉を汲み上げるため、植物起源の有機質を多く含み、肌に触れるとツルツルとした感触があるのが特徴だが効能としては認められていない。湯色は飴 - コーラ色を呈し、黒湯のように透明度が極めて低い湯もある。

これらのうちの一部は、源泉が地下10m前後と極めて浅い層からでも得られること、湯温も30度前後と低いことなどから、地下に封入された化石水による温泉ではなく、自由水が泥炭中の有機物から生じる熱で暖められているのではないかという説がある。

ウィキペディア(20151017 13:00)による

成分分析表にはモール泉との表示はなかったのですが、地鶏の卵を売りにだされ番台も受け持っておられるOさんがモール泉ですと言われて、やはりと思ったところでした。

研修所のお湯も同種のもので、図らずも泉質がはっきりして温泉の名前を九州王朝古代の湯「泉」とでも付けようかと思っているところです。

「泉」は九州王朝の初期の本拠地、現佐賀県佐賀市久保泉の「泉」です。

久留米地名研究会の関係研究会の全てのメンバーが自由に利用できる天ケ瀬温泉五馬高原研修所の内湯は24時間源泉掛け流しの温泉に入る事ができますが、さすがにもったいないため常時流しっぱなしにしている訳ではありません。

冬場は高地故にフル・オープンでなければ泉温4245℃を維持できませんが、夏場はチョロチョロと流しているだけでも十分なために、頻繁に入る時や来客が多い時は掛け流しの状態にしています。

基本的には浴槽に藻が着きにくい性質ではあるのですが、一回入れば全ての湯を棄て、また、入れ直すことで、浴槽の表面から水分を消してしまうことにしています。当然、加温も加水もしていません。

これで、浴槽を洗剤で洗うなどの必要はないのですが、泊まり客が来る時などは、精神的(衛生性への錯覚)な面からか不必要と知りつつも、しかたなく、たまには洗浄もしています。

「五馬媛祭り」とか「ほたる祭」とか、いわゆる行政主導の村興しに熱心な地区ではありますが、しょせん行政の免罪符的なアリバイ作りに過ぎず、今後とも過疎化に歯止めは掛らない事でしょう。

かつて、社会学者の徳野貞雄(熊本大学)教授は過疎ではなく人口構成に根ざした適当な過疎=「適疎」を提案されましたが、人口構成の正常化(自然なピラミッド)は望むべくもなく、若者が定着できる社会的基礎は既に失われ、新たな共同体、高齢者同士、研究会であれ、宗教団体であれ、新たな共同体の再建なくしては過疎地の再建は困難ではないかと思うものです。

218-4

三人でも一緒に入ることができる研修所の内湯 混じりっけなし加温加水なし源泉掛け流しのモール泉



このタイプの茶褐色の温泉(モール泉)は、九州では福岡県大川市の大川温泉、鹿児島県湧水町の鶴丸温泉、特に後者は有名です。

それに熊本県八代市の日奈久温泉にも一部ある(日奈久のモールについては未確認)とのことですが、自分で入っている訳ではないため保留します。

 とにかく、この研修所の温泉には一日4回入ったこともありますが、夏には大活躍しそうです。

 夏場は、チョロチョロ流しにしてぬるま湯に何回も入り、扇風機に当たればエアコンなしでも過ごせそうです。点検のためにエアコンも動かしましたが、標高が高いために日が落ちるとけっこう寒くなりますのでほとんど使う必要はないようです。とにかく悪の温床である電力会社には金を渡さないように…。

 

なお、最近神社関係の記事が少ないと思われる方は、より、百嶋神社考古学にシフトした神様専門blogである「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 をご覧ください。

219  膳所(ゼゼ)“嘉麻市のぜぜ野と近江の膳所焼”

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219  膳所(ゼゼ)“嘉麻市のぜぜ野と近江の膳所焼”

20150618

久留米地名研究会 古川 清久




219-1

十年ほど前に琵琶湖の東南岸、東海道の「膳所(ゼゼ)焼」の窯元を訪ねた事がありました。

その時は、「膳所焼」とは奇妙な名称だな…程度の理解でした。

その後、「西日本古代紀行」神功皇后(河村哲夫)を読み、嘉麻市宮吉に「ぜぜ野」という地名がある(あった)事を知りました。今、日田市天瀬町にある久留米地名研究会天ケ瀬温泉五馬高原研修所から筑豊、豊前に頻繁に行き来するようになり、この宮吉を毎回通過するようになってきたのです。

豊後(日田)から筑豊(飯塚、田川)に移動する場合や田川郡から嘉麻郡へと移動する場合にも最短のルートが旧山田市(現嘉麻市山田町)の熊ケ畑辺りを抜け宮吉に抜けるルートで最も便利なルートなのです(古代においてもそうだったのでしょう)。

また、日田市内にも膳所医院とか大分市内にも膳所病院を発見し、膳所という地名、従って人名の震源地がこの一帯にありそうだという確信を抱くようになりました。

全国でも19件と非常に珍しい姓ですが、どう考えても震源地は福岡県から大分県に掛けてであり、こちらから東に移動した「姓名」であり地名、もしくはブランド銘のように思えます。

膳所焼(ぜぜやき)は、滋賀県 大津市 膳所にて焼かれる陶器 。茶陶として名高く、遠州七窯 の一つに数えられる。黒味を帯びた鉄釉が特色で、素朴でありながら繊細な意匠は遠州が掲げた「きれいさび」の精神が息づいている。


元和 7年(1621年 )膳所藩 主となった菅沼定芳 が、御用窯として始めたものを膳所焼(御庭焼)と言う[1] 。また、膳所藩領国内で安土桃山時代 から江戸時代 初期に焼かれた大江焼(瀬田大江(現大津市瀬田)の陶器、1620年 代には築窯されていたとされる。)・勢多焼・国分焼(石山)の3古窯と、膳所焼復興を目指した梅林焼・雀ケ谷焼・瀬田焼の総称としても用いられている。

ウィキペディア(20150618 10:00)による

実際、今日も、研修所から日田市内を抜け、日田彦山線の筑前夜明駅辺りから旧宝珠山村、旧小石原村と峠を越え、馬見山の東を嘉麻市の宮吉から田川市、香春町の南の川崎町へと移動するのですが、この「ぜぜ野」と東海道の「膳所焼」の話をしてみたいと思います。

219-02

以下は、現在書くのを中止しているHPアンビエンテ内に組込んだ「有明臨海日記」というエッセー集に出した小稿を2012716日に編集を加えてしていたものです。

 全ての発想は、膳所(ゼゼ゙)焼の窯元を訪れたことが始りでした。


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琵琶湖の畔、滋賀県の大津周辺を散策した事がありますが、その折、旧東海道沿いにある膳所(ゼゼ)焼の窯元を訪れたことがあります。

膳所焼の起源は古く、近江京の時代まで遡るのではないかとも言われていますが、窯元の若主人から聞いた「九州の高取焼きと似ている」という話が耳に残り消えません。

九州に帰る途中もこの話が気になっていたことを思い出します。

最近は架空の話だったと思うようになりましたが、滋賀県から福井県は、磐井の乱(実は継体の乱)の継体の拠点と考えられており、後の壬申の乱や近江朝の舞台になった土地でもあります。

近江散歩で書いた、石山寺や三井寺もこれらに関係するものだけに、興味は尽きません。そこで、「九州の高取焼と似ている」といった話を聞くと過剰反応してしまいます。

有明海沿岸の神功皇后伝承といったものを調べ始めていますが、「西日本古代紀行」神功皇后(河村哲夫)を読んでいると、ぜぜが出てきました。全文は掲載しませんが、一部をご紹介します。

 

   なおも遠賀川の上流へ上がっていくと、宮吉ミヤヨシ(嘉穂町)に出る。神功皇后がこの地を通過したとき、皇子の応神天皇がむずがって泣きやまなかった。それを見た農夫が柳の枝に団子をさして皇子に献上した。このため、この地を「ぜぜ野」と呼んだという。「ぜぜ」とは、この地方の古い言葉で、子供が駄々をこねるという意味である。

 宮吉には、応神天皇・神功皇后・玉依姫を祭神とする宮吉八幡宮があるが、別名「ぜぜ八幡宮」とも呼ばれたという。祭日には、村人たちが社殿の後で柳の枝に団子をさして食べるならわしがあった。

この地(福岡県嘉穂郡嘉穂町)を流れる遠賀川をニ十数キロも下れば直方市であり、そこにあるのが高取焼なのです。

九州王朝論というものがありますが、白村江の敗北以降の九州王朝による近江遷都、壬申の乱は有明海沿岸が舞台といった事が議論されています。磐井の乱(実は継体の乱)の際の継体軍の侵入コースが北九州から遠賀川を溯上するものだったと考えられていることから、その際に、戦利品として陶工が拉致されたとか、九州王朝の近江遷都の際に移住させられたといった可能性もあるのではないかと想像の冒険を重ねています。

以前書いたのはここまででしたが、旧宝珠山村から旧小石原村に掛けては宝珠焼、小石原焼、山を越えた日田の山奥には小鹿田(オンタ)焼…と並んでいます。

そして、筑前側の旧宝珠山村には高取焼宗家と称する窯元までがあるのです(写真)。


219-5

宝珠焼窯元

 確かに「ぜぜる」は筑豊の言葉の様です。肥前在住者だった私でも多少理解できますし、長野県の方言でも、「ぞーぜる」は子供が甘える事を言うそうです。

 勿論、百嶋神社考古学の立場からは、応神天皇が神功皇后の子であるなどとは露ほども考えてはいませんが、北部九州に山ほどの足跡を残す神功皇后伝承があることから、豊前、筑豊、豊後、筑前、筑後と移動していた事だけは間違いがないことでしょう。

 してみると、陶器に関しては全く知識を持ちませんが、古代からこの馬見山、彦山一帯において、高取焼という高貴なブランドを持つ皇室御用達のような窯元があり、それが九州王朝の一分派が移動したのに伴い、近江周辺に移動したとすることはあながちおかしな想定でもない様に思うのです。

 そもそも、琵琶湖の傍の三井寺(近江八景)にしても筑後の高良山の麓の御井の地名移動なのです。

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宮吉地区遠景

 膳所焼、高取焼、ぜぜ野、膳所姓、宝珠焼、高取焼宗家窯元と無理やり繋げた想像の冒険でしたが、他に有力な説がないならば、大手を振って薄い仮説を提出しておきたいと思います。

 玄海地名研究会に参加された方にも高取焼の窯元の方がおられましたので、何れ訪問し膳所焼との関係についてご教授願いたいと思っているところです。

 今後とも要望に答え、「ひぼろぎ逍遥」の方は、地名、民俗学、社会学…に関するものを連載して行きます。「ひぼろぎ逍遥」をお読みの方で、より神社考古学にシフトしたものをお読みになりたい方は、神様専門blog「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院をお勧めします。

220 地名研究会研修所のランディング・コストの安さについて

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220 地名研究会研修所のランディング・コストの安さについて

20150617

久留米地名研究会 古川 清久

久留米地名研究会天ケ瀬温泉五馬高原研修所が稼働してほぼ半年が経過しましたが、この研修所のランディング・コストの安さには驚いています。

まず、この手の別荘を購入すると、当然にも固定資産税が定期的に発生しますが、山奥の高原地帯の崖地のようなところですから、地価が安く、建物と併せ払ったとしても年間2万円程度でしかなく、共益費も年間8万円で、この中には温泉の再掘削積立金2万円が含まれています。

勿論、これらはオーナーのF先生が払われているのですが、共益費の半分程度は当方で補填するつもりです。

当然、共益費(水道、温泉使用料)は6万円(月額5000円)となるのですが、まず、深井戸の地下水汲み上げであるため塩素(次亜塩素酸ソーダ)臭さがなく氷も美味しく、お茶、コーヒーの味も文句なしです。

また、入れればそのまま入られる温泉があるため、プロパン・ガスや灯油などによる加温の必要がなく、設備としては加熱用のボイラーも整っていますが、現在のところ必要性がないため契約していません。

また、調理用に2基のIHヒーターが備えられていますが、電気による調理は極めて高くつくため極力使用せず、カセット・コンロで調理しています。

これだと一月10本もあれば済むため、多い月でも1000円もあれば十分です。

後は電気代だけですが、夏もエアコンはあるものの標高450メートルの高地のため風も通り、扇風機だけで良く、夏場で月間5000円前後でしかありません。

また、テレビはアンテナだけで十分ですし、どうせ地上波は、芸人、外人、ハーフ、おかま による馬鹿番組ですから見る必要もなく、山中とは言え、ワイファイでインターネットの動画まで利用できるため、地元日田のケーブル・ビジョンとも契約していません。

たまたまですが、この別荘が西側の崖地に建てられていたため、福岡方向からの電波が強かったのでした。

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温泉か太陽熱温水器があれば、都市ガス、プロパンガスの契約をやめてカセット・コンロで調理しよう!

インターネットも含めケーブルTVと契約すれば月額5000円は掛りますから、この点でも有利なのです。

新聞はどうせ政府の回覧板で嘘しか書いていませんので読む必要は一切ありませんし、実際の維持経費とは、ウッド・デッキ・テラスの塗装費用程度でしかなく、これも自分で塗っていますから、材料費だけになります。路上駐車が可能ですから車庫代も不要です。あとは二万円弱の火災保険だけで、それ以外は一切ありません。つまり、年間十二万円(月額一万円)に電気代程度になるのです。

ところが、久留米市内とか福岡市内となれば、まず、青天の駐車場代金だけで月額10000円、プロパンガスの基本料金だけで月額23000円、自治会費、共益費…に賃貸ならピンキリの家賃だけで月額35万円、ケーブル・ビジョン、インターネットで月額5000円と使用料に関係しない固定的支出だけで直ぐに7万円に上がってしまうのです。

良くこれで、生きていけると感心していますが、フル・タイムのパート労働という訳のわからない労働形態で何の希望も無く働かされ、夫婦共稼ぎができなくなれば直ぐに一家離散となりかねないのです。

若者が結婚できず、車も持てず、痛みを恐れて恋愛を自制し、良い人間はオタクか鬱になり、悪い人間だけ社会に適応できるという構造になってしまっているのです。

そして、真面目に勉強した理工系の学生にはパチンコ屋で働くしかなく、何の努力も勉強もしなかった土建屋の町議会(チョッカイ)議員のドラ息子と産廃業者の市議会(シッカイ)議員のドラ娘が、黒塗りのベンツやレクサスを乗り回すという愚かで、デタラメかつ不公正極まりない社会構造になっているのです。

早晩、日本の高度教育と技術水準も低落し、韓国の様な無様なユダヤ金融資本の食い物にされてしまうことでしょう。

何とか生き延び、官僚どもアメリカに売り飛ばしたこの国家が破産し滅び去るのを自分の目で見て、確認した上で、「ざまあみやがれ!」と嘯き、死にたいものだと思い続けています。

まず、プロパン・ガスの基本料金とは、最初の設備投資のために注ぎ込んだ資金の回収を目的に制度化され持ち込まれたものですが、それはとっくの昔に償還(回収)され、現実はボロ儲けになっており、契約戸数4000件程度の小規模な町のガス屋にしても毎月1000万円の程度の実質的不労所得が入り続けているのです。

この構造を知ると、基本契約を払う事がバカバカしくなり、研究会内部の人にも今やカセット・コンロで生活する人が増えているのです。

通常困るのは、風呂なのですが、研修所では24時間利用可能な温泉があるため、それが可能になるのです。

カセット・コンロで調理している当会のメンバーも、冬場は自宅に薪ストーブを設えて暖を取り、風呂は太陽光温水器を取りつけていて十分に賄えるため、プロパン・ガスや灯油の供給契約をする必要がないのです。

電気料金も不公正極まりない(再生可能エネルギー負担金など)のですが、今のところ電力を自分で創りだす効率が悪いため保留し、いやいやながら電気の供給契約をしていますが、既に家庭用の小型ボイラー(例えば調布製作所のボイラーなど)に小型の交流発電機を取り付けさえすれば、省エネ家電が普及した家庭用の電力など易々と供給できるはずなのです。

それを妨げているのは、唯一、電力会社と一部の企業、ビル、地域などに許されている発電の独占であって、全ての利権の温床になっている事から、これが一切許されていないだけなのです。

電力は既に現地で発電し現地で消費する事が十分に可能であり、送電線網全てを廃止できるはずなのですが、全ては薄汚い利権なのです。

一部に、自動車メーカーのホンダが造った小型の家庭用発電機(実質屋外レジャー用)、などが実販まで進みましたが、騒音もあり触手は動きませんでした。

後は、日産などの電気自動車で発電し家庭に持ち込む手はあるのですが、コスト(車両価格が高すぎる)が掛り過ぎてまだまだです。

勿論、太陽光発電などは最低の選択でしかなく、補助金があるから成立しているだけの物で、実は税金を懐に入れているという不正極まりないものなのです。

そもそも、太陽光発電のためには太陽電池を製造しなければならないのですが、その太陽電池を製造するためには大量の電力を投入しなければならないのです。

そして、その投入された電力を太陽電池の寿命(2530年)の間に回収(発電)できないのです。

それどころか、突風、竜巻、台風で吹き飛ばされるのが関の山なのです。30年と言えば人生の三分の一ですが、皆さんもその間には、二度、三度は超大型台風の洗礼を受けているはずです。

今のところ、“完全に車上生活に移行すれば電力会社への基本料金を払わなくて済むなあ”と考えているところです。

なお、太陽光発電などの腐敗構造については、何度か小規模な環境問題のサークルで講演などもやっていますが、そのために作成したパワー・ポイントのトップ・ページから最終150ページから4シートをご覧に入れておきます。

CO2温暖化論という大ウソ、大ペテンにひっかかり屋根の上に発電パネルを乗せた善意の間の抜けた人達はお気の毒というべきですが、いずれ、補助金は消える事でしょう。

反原発は当然としても、環境保護派の知的低水準は如何ともしがたく、まだ、CO2温暖化論などという大ウソを信じ込み、屋根に太陽光パネルを載せ続けているのです。太陽熱温水器や薪ストーブは効率的でOKですが、太陽熱発電は最悪の選択なのです。

ただでさえ、ユダヤ金融資本に盗まれているのですが、日本は今も食い物にされ続けているのです。

この研修所は夏でもエアコンなしで生活できる涼しさというか、寒さですから、夏は快適としても、冬はかなり十分に寒いことから、安い中古の薪ストーブでも手に入れれば、薪は幾らでも実家にありますから、灯油の購入もしないで生活できるのですが、当面、車上生活を増やすことで忌々しい電力会社の基本料金を忘れたいと思うものです。


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221 地名研究会研修所周辺の風景から “隣の塚田地区に観るある習俗”

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221 地名研究会研修所周辺の風景から “隣の塚田地区に観るある習俗”

20150621

久留米地名研究会 古川 清久

 始めに4枚の写真を見て頂きますが、多分“一体、何を言おうとしているんだろう”と思われることでしょう。

 何の変哲もない木材、竹竿に細長い屋根が掛けられているだけのものに見えると思います。

その通りなのですが、もちろん和風の農家での話しですが、一般的には床下に入れられていたり、家の脇や裏側の下屋に置かれるものなのです。

 これが、自宅からかなり離れた耕作地や通作路や排水路の脇などに平然と置かれているのです。

 「こんなものはどこにだってあるだろう…」と言われればその通りです。

 何も気に留めないでただ見ている場合は分からないのですが、意識して観ていればけっこう多く見掛けるものです。

 しかし、だからといって問題にする価値も無いものだ…とは言えないのです。

 それは、この習俗が平均してどの地域でも一定の割合で認められるものならば、個人的な好みの問題、その家の事情済まされるのですが、どうもそうとは言えない様なのです。


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この習俗をかなりはっきりと意識するようになったのは、もう二十年も前でしたが、頻繁に山陰地方を走っていると海岸部に近い農地や神社境内地などで良く見掛けました。

元々、三十年近く頻繁に魚釣りで九州各地の島嶼部を走り回っていた事から経験的に言える事であり、元より、学術的な統計資料があるはずも無く、単なる民俗学徒の蓄積された経験による観察以上のものではありません。

これは、恐らくこのような関心を持って観続けた人でなければ同意してもらえない概念、観点であり、理解してもらえないと思いながら書いていますが、経験的にはそうとしか思えないことなのです。

もちろん、それほど珍しいものでもなく、九州各地でもかなり見掛けるものです。

ただ、久留米地名研究会の研修所があるのは五馬市地区ですが、一キロ南にあるのが塚田地区で、そのまた南一キロにあるのが出口地区です。

この観点から言えば、五馬市地区と出口地区にはこの習俗はなく、三地区の中では塚田地区だけに認められるのです。


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これが、恐らく古い時代に持ち込まれた海人族によるものではないかという根拠は、どう考えてもここは海人族の集落だなと思えるところで色濃く認められるものである事からそう判断しているものであり、それ以上のものではありません。

まあ、分かって頂けなくても構わないと思って書いていますので、そうであっても一向に悲しくはないのですが、このような小さな、と、言うか、微妙な変化や差異を判別できる事が文化なのです。

良く「海外に行くと日本の習俗が海外と如何に異なっているかが分かり、海外を知る事は重要だ…」といったステロ・タイプの話をされる方がおられますが、それはそれで正しいとしても、そのような海外とのといった大きな差異を理解できることではなく、すぐ隣の集落との違いといった微妙かつ微細な変化を分別できる事こそが、実は民俗学が追求するものであり、それを文化的な事だと一人悦に入っている訳です。

では、何故、海人族にこのような習俗が生じたのかが次の疑問です。

元々、工具や運搬手段が普及していなかった時代においては、竹はともかくとして、加工された木材と言うものはそれ自体が非常に価値の高いものであり、管理しやすいと言うより安全な自宅の傍に置くのが普通だったと思うのです。

ところが、それを平然と耕作地の脇などに置いているのは何故でしょうか?

まず、木切りは海人族という定式を考えています。

海人といえども最初から舟を持っていたはずはなく、運び出しやすい川筋の山に入り大木を切り倒し海や湖まで転がしたり、引っ張ったり、流したりして、加工しやすい場所まで運び舟を造ったことでしょう。

もちろん、小さな舟ならば、その場で刳り貫き半加工、半完成の状態で持ち出したはずです。

つまり、海人族とは筏を組み、川流しを行い、舟を造り、人員物資を運び、漁労も行った人々なのです。

当然にも、後に、彼らの一部は後に船大工、家大工、作治方、家具製造者…に転進したはずです。

専門的な技術を持った彼らは一般の農業者とは異なり、本業を離れて農業者として隷落したとしても、多少の木材を操る技術は持っていたはずで、木材を大切に扱い利用出来る術を持っていたはずなのです。

もちろん、木材は雨ざらし日ざらしにすれば傷みますし、脆くなります。

それ以上に、かつて彼らのご先祖様達が崇めた帆柱に対する思い入れの記憶が後を引いているとまで考えるのは無論思考の暴走かも知れません。

しかし、良く考えれば、夜明ダムが造られる昭和28年まで、旧大山町、旧天瀬町、旧日田市には多くの川流しの人々が住んでいました。現在もその末裔の方はおられる事でしょう。

恐らく太宰府国衙、政庁、都督府への木材は日田周辺の安楽寺領から切り出され送り込まれ続けていたはずなのです。


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信州の安曇野、近江の旧安曇川町に大量の海人族、海士族が移住していた事は有名です。

ましてや川流しの伝統がほんの六十年前まで残っていたこの地に海人族の痕跡を辿る事はそれほど荒唐無稽な話でもないのです。

そもそも、ここは日田市天瀬町です。天瀬とは海人族、海士族の地なのです。  

最低でも、この習俗を発見すると、ここには海人族が入っていた名残ではないかと考える事にしています。この手の習俗に墓の墓誌の有無…といったものもあるのですが、何れお話しましょう。

最後に、地名研究会のお抱え出版社とも言える不知火(シラヌイ)書房にも筑後川の川流しに関する良書、好著がありますのでご紹介しておきます。

お読みになりたい方は、直接、不知火書房(0927816962に電話をお掛けになれば、直ぐに郵送されます。


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222  永牟田さんからのお尋ねにお答えして

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222  永牟田さんからのお尋ねにお答えして

20150626

久留米地名研究会 古川 清久

 最近、久留米地名研究会はかなり知られるようになってきているようです。

 それは、一般の読者や新聞、放送局、行政機関なども含め、問い合わせや意見の照会などが来るようになっているからです。

 そのような中、宮崎県にお住まいの永牟田(ナガムタ)という姓の方から問い合わせを受けました。

 内容は、“永牟田という姓はどのようなものか?”“牟田は湿地で良いのか?”“新田原:ニュータバルは丹生地名か?”…といった多少バラつきのある問い合わせだったのですが、要は自らの「永牟田姓」の起源に関する問い合わせだったようです。

電話を頂いた当時は、某役場の教育長との面会も控えていた事から、とりあえず簡単なお答えをして、再度、お話をする事にしました。

 “永牟田姓はそれほど多いものではない…”という認識はありましたが、いつも使わせて頂いている「姓名分布&ランキング」を見ると、


222-1

確かに全国でも21件と非常に少ない姓で、ほとんど、宮崎、鹿児島が発信源と言った分布を示していました(東京は集団就職かも知れませんし、明治期に進出した士族の可能性もあります)。

宮崎県が最大の5件となっていますが、その内の4件が宮崎市、残りも高原町に分布していました。

隣の鹿児島県も全体で4件と多くはないのですが、同県の分布を見ると、考えた通り宮崎に近い大隅半島にはなく、ほとんど薩摩川内市などにピークがあり、同地域に発信源があるという様な分布を示していました。“考えた通り”としたのは、○○牟田地名が甑島の茅牟田や薩摩川内市となった旧祁答院町に藺牟田(イムタ)温泉など拾える事を知っていた(温泉に入っていた)からでした。

 連絡してこられた永牟田さんのお話にも“元は高原町に住んでいた”とありましたし、その高原町の位置からも、この永牟田姓は川内川を遡上し東の宮崎県に入って行った人々の様に見えるのです。

 一般的にはサンプル=個体数(絶対数)が少ないものは決め手に掛けるとも言われそうです。確かに生物学的にはそうかも知れませんが、人名、姓氏となると人為的要素がほとんどで、まずは、人々、家族、氏族の動きをそのまま表しているはずであり、むしろ分かり易い事例の様に思えます。

 逆に、ファクターが多過ぎるものは、かえって特徴が見えてこないのです。

222-2

まず、「牟田」についてですが、「牟田」という概念や地名が、ほぼ、九州限定といった分布を示しています。これは、「牟田」姓の分布からある程度推定ができます。

それは姓名だからだろうと思われる方は、試しにヤフーでもグーグルでも「牟田」と「郵便番号」をスペースを入れダブル検索を試みて下さい。検索結果は最初の百件でも九州関係のものしか出てこないはずです。


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これは「牟田」姓の分布ですが牟田さんが九州西岸域の人である事は明瞭ですね

東日本の方などにはなかなかお分かりになりにくいと思いますが、まず、「永牟田」姓の「牟田」とは九州で湿地を意味します。

一般的に、湿地帯をどのように表現するかを考えると、多くの地方名があります。九州の「ムタ」(なぜか高千穂では「ニタ」)から東に向かって、日本海側の「ニタ」、瀬戸内海側の「ヌタ」、四国から東海の「フケ」…、そして、東日本の「ヤツ」へと繋がっているようです。また、九州では食べ物に「酢ヌタ」があります。この各々に、多少のバリエーションがあり、例えば関東の世田谷、千駄ヶ谷、渋谷の「ヤツ」についても「ヤ」「ヤッ」「ヤチ」「ヤト」…があるようです。

この他にも、ケミ、アクド、シロ、シラ、オゼ、ジル、ジッタ、フケ、ヤジッタ(栃木)など、かなり拾えるのですが、アイヌ語(東北)のニタッ、トマムも考えるべきでしょうか。あくまでも一般的に言えばと言う程度で、実際には多くの言葉、地名があるのかも知れません。一例ですが、ご紹介しておきます。


222-4

「お電話の中ではアイヌ語でしょうか?」とも尋ねられました。

九州のアイヌ語地名については、「九州の先住民はアイヌ」根中 治 葦書房 (1983年刊)外がありますし、根中さんの説にしばらく嵌った事もあるため一概に否定するつもりはありませんが、「ムタ」が九州西岸起源の言葉であることは良いのではないかと思います。

アイヌ語かどうかの粗い検証はネットでもできますが、ご質問の根拠は、四万十川の「シマント」「シマムタ」が、アイヌ語の「とても美しい」と対応するという説があるからかと思います。

 「牟田口」(インパール作戦の牟田口蓮也…)という姓もありますが、「菅牟田」「茅牟田」「蒲牟田」「藺牟田」…と湿地と湿地に関係の深い植物との複合語の一つの永牟田(細長い湿地)で、牟田は地名の語尾としてとりあえずは理解できるのではないでしょうか。

 お電話を頂いたのは奥様からでしたので、ついでに、そちらの旧姓もお尋ねすると、「○○」との事でした。これについても非常に面白い話がありますが、ご迷惑をお掛けしますので公開する事を控えます。

 今回は、姓名と地名とが、どのような関係、配置になっているかを表す面白いケースであったことから公開する事にしました。

 この判断で良いかは責任持てませんが、さらに、ご両家の家紋や家伝などと併せ調べて行けば、ある程度の推定はできるのではないでしょうか?

 両方ともたまたま二百件前後の判断し易い姓であった事から分かり易かったのですが、そういつも上手く分かる場合ばかりがある訳ではないでしょう。


222-5

お話では元は高原町におられたとのことです。実はこの高原には極めて重要な神社として狭野神社があります。

 そして、その狭野神社の鎮座地が、「蒲牟田」(カマムタ:宮崎県西諸県郡 高原町蒲牟田117)なのです。

そもそも、初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)は幼名をサノノミコトと言いました。

 まだ、疑っていますが、この神社はやはりにせ神武こと崇神ではなく本物の神武の神社のように思います。

 これについては、さらに驚く地名の意味があるのですが、それは、「ひぼろぎ逍遥」211「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”⑧ で書いていますので、興味をお持ちの方はそちらと併せてお読み頂ければ面白いと思います。



222

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222


ブログNo222は当面公開を中止致します。

223(前) 内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ①

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223(前) 内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ①


「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共同掲載

20150627


久留米地名研究会 古川 清久


今年の久留米大学 公開講座九州古代史 2015 において、常連の内倉武久(元朝日新聞記者)が「南九州の考古学 熊襲を中心に」という講演が行われました。

ところがこの講演の最後で、最新情報として驚愕の仮説が提案されたのです。

元より、九州王朝論の中で磐井と継体の問題は極めて重要なテーマであり、北陸の出身とか言われる継体がわざわざ九州まで足を延ばして土豪とする磐井を征伐したという話も奇妙な上に、たった一つの屯倉の引き渡しで話が着いたというのも奇妙奇天烈です。

当初、磐井の乱ではなく継体の反乱ではないか?いや磐井の乱そのものはなかったのではないか!とか、利権構造に胡坐をかく畿内説論者の嘘つき学者どもは別として、古代史を真面目に追及する側でも混乱を重ねていました。

これについては、十年前ぐらいから、「筑紫王朝」に対して「豊前王朝」の兄弟王朝が、「近畿大和王朝」の前身として存在したという大芝英雄による「大和朝廷の前身 豊前王朝」(同時代社)、室伏志畔による「日本古代史の南船北馬」(同時代社) 楕円国家論、福永晋三氏も独自の視点から豊前王朝を提案する(後に真実の仁徳天皇」/不知火書房を後に出版する)など、九州王朝内部の内乱であったが故に、屯倉一つをやり取りするぐらいで手打ちが行われた“といった説が提出され、研究はさらに進められてきました。

一方、継体天皇陵については、考古学会が高槻市の今城塚古墳を、宮内庁が茨木市太田茶臼山古墳としています。


223-1

 長田大塚古墳 


223-2

俗に「磐井の乱」(石井)と言われる「継体の乱」を起こした継体の墓は、今回の集合場所である連水車の里あさくらの直ぐ北(山田パーキングエリア南)にある長田大塚古墳ではないかと言いだしたのです。

地名で言えば、御陵者三嶋之藍御陵也の「三嶋」も「藍」も地名としては揃っている。…


以下「古事記」…。


此之御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。天皇御年肆拾參歳。【丁未年四月九日崩也。】御陵者三嶋之藍御陵也


『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王 (彦山は直ぐ裏ですね… 古川)、母は垂仁天皇 7世孫の振媛(ふりひめ)である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀 』では省略されており、辛うじて鎌倉時代 の『釈日本紀 』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇)若野毛二俣王大郎子(一名意富富等王 乎非王 汙斯王(=彦主人王)乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。

「ウィキペディア」による。

その継体天皇陵については、現在、学会あげて今城塚古墳(郡家本町)としているのですが、宮内庁はいまだに太田茶臼山古墳(茨木市)=三嶋の藍の陵を継体天皇陵とし続けています。

223-3

下座(げざ)郡 甘木(あまぎ)市・三奈木(みなぎ) 上座(じょうざ)郡 朝倉町比良松(ひらまつ)・杷木(はき)町 御笠(みかさ)郡 大野城(おおのじょう)・四王寺(しおうじ)山

上座郡・下座郡は「和名抄」に次のように記録されています。
筑前国 下座(しもつあさくら)郡 

馬田(むまた)・青木・鍛饗(くはへ)、三城(みなき)・美嚢・城邊・立石
 同  上座(かむつあさくら)

      把伎、壬生(にぶ)・広瀬・柞田・長淵・河東(何東)・三嶋

「明治15年全国小字調査」によれば、大字藍野、藍の澤、藍…四股名レベルでも藍がある。


この場所で高速道路が不必要に曲げられているという印象は山田パーキング・エリアを利用している人(進入路がかなり無理な勾配になっている)は誰も持っていると思うのですが、現地の話では、何故か古墳を所管する文化庁ではなく、宮内庁からの横やりでコースが変更されたと言うのです。

恐らく、これが本物の、若しくは、引っ越した後(前)の継体天皇陵であることを知っているのではないかと思うのですが、たまたま、春に井上悦文氏の案内で同行した内倉、古川ともども考えているところです。

 もしも、この古墳が継体天皇を葬ったものとしたら、福井県(若狭)出身の応神天皇五世の孫が天皇になり、筑紫国造たる磐井を征伐したと言うトンチンカンな話も一気に真実味を帯びて来るのです。

 正しく、継体もこの周辺にいたのであり、まさに、九州王朝内部での覇権争い、若しくは下剋上であった可能性が出て来たのです。

 福井については、糸島半島の西の旧二丈町に福井、福井白山神社があり、以前から福井と言う地名も海士族が移動した際に持ち出した地名ではないかと考えていましたが、お膝元の福井は知ってはいたものの山中のため見過ごしていました。

 筑後川を挟んだ反対側に磐井の領域があったことになりますし、その福井も杷木町の裏、現東峰村(旧法珠山村)の中心部に福井があるという事まで揃っているのです(日田市の入口にも石井集落あり)。

 磐井の乱も、実際には九州王朝内部の内ゲバに近いものであったようなのです。

 なお、現地には謎解きの手助けになりそうなある墓がありますので、皆さんに是非見て頂きたいと思います。

 また、蛇足ながら、井上悦文氏(久留米地名研究会)の説では、山田は邪馬台国の中心地になります(「草書体で解く 邪馬台国の謎 書道家が読む魏志倭人伝」梓書院刊)


※画像クリックで拡大表示されます
223-4

今のところ、古地名だけの符合ですが、学会通説にしても、所詮、決め手は地名程度のものなのです


※画像クリックで拡大表示されます
223-5

彦山の南麓、旧宝珠山村の中心地が福井地区福井 三島 藍と三つ揃う所はそうはない

223(後) 内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ①

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223(後) 内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ①


これで長年不思議に思っていた九州年号の冒頭が「継体」(「二中歴」系)とされている事ですが、漢風諡号が8世紀の淡海三船による一括の撰進だったとしても、内部争い後の継体という漢風諡号の採用はそれなりの意味があった様に見えて来るのです。

 もしかしたら、この時代から倭の五王とされる九州王朝内の政権転換が行われた可能性も考えられそうです。

 最後になりますが、山田パーキングのとなりが杷木インター・チェンジです。この直ぐそばに杷木神社があるのです。 

杷木町杷木神社  カーナビ検索 杷木郵便局(朝倉市 杷木池田542-1

この神社縁起をお読みください、最低でも、継体側の急襲=不意打ち(「筑後国風土記」には「官軍が急に攻めてきた」…)は、筑後川右岸(勿論河道は異なるはずですが)を拠点として、渡河作戦の上に行われた様に見えるのです。


この神社縁起をお読みください、最低でも、継体側の急襲=不意打ち(「筑後国風土記」には「官軍が急に攻めてきた」…)は、筑後川右岸(勿論河道は異なるはずですが)を拠点として、渡河作戦の上に行われた様に見えるのです。


223-6

この杷木神社が磐井側ではなく、継体天皇側に立っていた事が神社縁起から読み取れますが、千五百年もの長きに亘り継承されて来た事(この事自体が驚くべきことですが…)は、余程、誇るべき名誉な事と理解していた事が想像できます。

まず、大己貴命が、何故祀られているのかに疑問を持たれる方は多いと思いますので、まず、筑前町に堂々たる大己貴神社があることを思い出して下さい。


筑前国続風土記に依れば、大神大明神は弥永村にあり、<延喜式神名帳>に「夜須郡於保奈牟智神社小一座とあるはこれなり。祭るところの神は大己貴命なり。今は大神大明神と称す。御社は南に向かえり。東の間に天照大神、西の間に春日大明神を合わせて祭る。宮所神さびて境地ことに勝れたり」<日本書紀>に「仲哀天皇9年庚午己卯、神功皇后諸国に令して船舶を集めて、兵甲を練らんとせし時、軍卒集い難し。皇后曰く必ず神の心ならんとて、大三輪社を立て、刀矛を奉りたまいしかば、軍衆自ら聚る」とあり、9月23日(旧暦ゆえ現在の10月)祭礼ありてこの日神輿御幸あり。御旅所は村の西10町ばかりの処にさやのもとというところあり、これなり。その他、年中の祭礼たびたび有りしとか。いまはかかる儀式も絶えはてぬ。然れども夜須郡の惣社なれば、その敷地広く、産子(氏子のこと)殊に多くして、人の尊敬浅からず」との記載がみられる。

三輪町教育委員会


他にも、林田の美奈宜神社には大己貴命(大黒神)が祀られており、この地は大己貴命と言うより博多の櫛田神社の大幡主のエリアだった事が見えてきます。

まず、大己貴命を出雲の人であるという「古事記」が造り上げた固定観念を棄てる事から考え直す必要があるでしょう。


美奈宜神社朝倉市林田210  素戔嗚尊(祇園神)大己貴命(大黒神)事代主命(恵比須神)の出雲三神

美奈宜神社朝倉市荷原2421  天照皇大神配祀 住吉大神春日大神 相殿 神功皇后武内宿禰


 もう一つ、杷木町で重要な点は、菊池氏の家紋である日足紋が打たれている事です。

223-7

冒頭の長田大塚古墳=継体の陵説を提出した内倉武久氏が、この神社を一目見た瞬間、熊襲じゃないか!と叫んだのが印象的でした。

この神額の文様が渦巻き紋だからです。地名の面からも、佐賀県東部から小郡、甘木、朝倉、日田に掛けては「隈」地名が広く分布している事は良く知られています。


223-8

これも旧朝倉町のエリアですが、桂川=葛城(飯塚の桂川町には出雲交差点がありますね)が流れ、湯隈神社(さらに上には宮地嶽神社もあります)があり、烏集院(ウスイン)があるのです。

百嶋神代系譜では、ヤタガラスの父が博多の大幡主(隈地名の土地の支配者)であり、大国主(オオナムチ神社のある地名も隈江ですね…)もその臣下なのです。

この一帯の人々は皆、列島大率家からの要請で熊本から北上して来たのです。だから、朝倉は益城町の朝来山の、甘木は益城の置き換えであり、この一帯には○○木地名が多いのです。

また、話が跳んでしまいました。まだまだ、検討する余地は幾らもありますが、畿内からのこのこ出て来た近畿大和朝廷の大王が筑紫の磐井を亡ぼしたなどと言うのはとんでもない大嘘であることだけは間違いないようです。

 くれぐれも大嘘ばかり書いている「古事記」は元より、「日本書紀」という藤原の仕組んだトラップに落ちないようにして下さい。

224 雨に濡れながらの6.27太宰府地名研究会トレッキンング “長田大塚古墳=継体陵説を探る”

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224 雨に濡れながらの6.27太宰府地名研究会トレッキンング “長田大塚古墳=継体陵説を探る”

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共同掲載

20150627

久留米地名研究会 古川 清久



224-1

627日、梅雨の切れ間を狙った太宰府地名研究会トレッキング“長田大塚古墳=継体陵説を探る”を決行しました。

 当日午前11時大分自動車道山田パーキング南の福岡県朝倉市杷木町の三連水車の里あさくら に30人ほどの人間が集まりました。

 前日の天気予報(朝倉市)で降水確率10パーセントで最低でも昼からは曇りという事で、トレッキングに支障はないものと判断していましたが、逆に10時半ぐらいから雨が降り出し、結局、終了まで雨に打たれっぱなしのトレッキングとなってしまいました。


224-2

とりあえずは目と鼻の先の長田大塚古墳の見学を行い、三連水車の里あさくらで昼食を取る間に天気が回復するのを待つ事にしましたが、昼から雨足が多少収まったことから、結局、皆さんの続行の希望を入れ決行し、雨に打たれ続ける中でのトレッキングとなりました。

 そもそも、地震、火山爆発同様、予測などできないものを予測できるとして金をせしめているのが、予報屋とその手の学者と役人どもなのですが、前日の天気予報は完全な丸外れで、“ざまあない”と言いたいところですが、逆に“そんなものを信じたおまえらこそざまあない“と言われるのがオチでしょう。

当然ながら、天気予報を信じる事自体が全くの間違いであり、どうかしているのですが、結論的には開始30分前に振り出したところで中止(延期)すべきだったのでしょう。

ともあれ、30人もの人が最後までトレッキングに参加され、皆さんの熱意に押し流されたといったところでした。

写真は、山田パーキング・エリアと農協の大型販売拠点である三連水車の里あさくらの間にある長田大塚古墳の遥拝所もしくは、古代の祭礼所が置かれた場所ではないかと思えるところです。

地名研究会の考古学関係の顧問である内倉武久氏が言われていましたが、古墳として登録はされているものの、まだ、測量もされていないことから図面も何もない、三段築成かも知れないが今のところは分からない、ただ、埼玉県行田市の稲荷山古墳に次ぐ大型円墳であることは間違いないようです。

何よりも、高速道路建設に際して宮内庁からストップが掛った事は重要で、どうやら私達も古代史の重要な部分に踏み込み始めた様です。

まず、あれほどの巨大円墳ですから、古代においても必ず祭礼が行われた場所があるはずなのです。

もしも祭礼を行うとすれば、皆さんだったらどこに場所を求めますか?

前方後円墳の場合は造り出しがあるのですが、ここは円墳なのです。

古代においても、朝から昼にかけて準備をして宴は夕方から夜に掛けて行われたはずです。

そう考えれば、分かるはずですが、日が陰ってもできるだけ永く明るさが得られる西側に祭りの場所が置かれるはずなのです。

そう考えて現地を見ると、その地にどのように考えても古代から続く豪族、それも相当上のクラスの名家と思える一族の墓地があるのです。

 これについては、予め一族の御了解を得て入ったものではありませんし、先方とも全く接触していない事から軽々にはお話をできません。

 しかも、磐井の乱の継体天皇に関わる一族と考えられる○○家のものであるだけに、以後は、はっきりした事が分かりご許可を得られるまで公開しないことに致します。

 内々ではメンバー内部からも色々な意見が飛び出してきており、記録にとどめ、皆さんにもお知らせしたいいところなのですが、当面の間凍結する事とします。

 そうした中、豊の国古代史研究会のN氏から、あれは円墳に見えるが前方後円墳ではないかとの情報が寄せられました。

 とにかく長田大塚古墳との名称だけ付され、全く調査も手つかずの上に図面さえも作られていないのですから言わば凍結されているのです(ただしその意味は未盗掘であるとも古墳であるとも確定している訳ではありませんのでご注意を…古墳型地形でしかありません)。



224-3

車8台30人の雨中行軍でしたが、なんとか事故も無く5ポイントを巡るトレッキングは終わりました。


※画像クリックで拡大表示されます


224-9

225 内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ②

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225 内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ②


「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共同掲載

20150707

久留米地名研究会 古川 清久


 内倉武久氏による朝倉市杷木町山田の長田大塚古墳が継体天皇の墓ではないかという驚愕すべき提案(2015年久留米大学公開講座での講演外、多元的古代研究会や九州古代史の会の会報等)は、彼が朝日新聞の記者として全国の古墳を見て回り、「太宰府は日本の首都だった」(ミネルヴァ書房)外三著を出し、なお、blog「うっちゃん先生の古代史はおもろいで」において考古学への小稿を書き続けている穴掘り考古学全般に精通した人だけに説得力があり、九州王朝論者にとっても新鮮で、勢いのある風を起こしています。

 それは、雨の中での太宰府地名研究会主催のトレッキングに多くの参加者が集まった事にも反映されているのかも知れません。

 トレッキングから一週間後、今度は熊本から4人のグループが訪れ、再び私が案内する事になりましたが、今回は同じコースを廻るにしても、新たに継体天皇の出身地と言われる福井を加えたのです。

 今回はこの福井の話です。

そもそも、「紀」では、三国の坂中井(福井県)に…とあるだけで、福井県とされているのも全ては推定なのです。

 父親の彦主人王にしても彦山は直ぐ傍ですし、三国もこの朝倉からそう遠くない所(朝倉市の隣の小郡市)に揃っているからです。

 まずは、継体を福井県の誇りとしているサイトからご紹介しましょう。


  継体大王を知ることができる書物は少なく、『古事記』『日本書紀』『上宮記』の三書のみでそれ以外は伝承や考古学的な資料のみである。
 『日本書紀』によると、「父・彦主人王は母・振媛が顔きらきらして、大変美しい人であることを聞いて三国(みくに)の坂中井(さかない)(福井県坂井市)へ使いを送り、近江国高島郡三尾(みお)(滋賀県高島市)の別業(なりどころ)(別荘)に召し入れてお妃(きさき)とした。」と書かれている。2人は、滋賀県高島市の三尾で結婚し、その後に生まれたのが男大迹王(おほどのおう)(後の継体大王)である。
 男大迹王が生まれて間もなく、彦主人王は亡くなってしまう。そこで振媛は「私は今遠く故郷を離れてしまいました。ここには親類縁者もなく、私一人では養育することができません。越前国高向(たかむく、坂井市丸岡町高田付近か)に帰って親の面倒を見ながらお育てしたい。」と言い、幼い男大迹王を連れて高向に帰った。
 坂井市丸岡町高田には高向神社が建てられており、この付近に高向の宮があったと推定される。
 継体大王は、『日本書紀』によると西暦507年に58歳で即位したとあるので、逆算すると西暦450年前後に越の国(福井県)に入り、即位するまでの50年余りを過ごしたことになる。



225-1



 元々内倉想定は、“九州王朝説の立場からは、継体天皇が三島の藍に葬られた…とされているとしたらそれは、今城塚でも大田茶臼山でもないであろう。”“もし仮にそうだとしても、それは九州王朝系同氏の争いの表現であり、後に九州王朝系豪族の多くが畿内に進出した結果、分骨、改葬の結果によるものではないか”としたことによるものであり、本来は北部九州のどこかに彼を葬る塚があるはずであり、それがどこなのかを考えたのだろうと思うのです。

 まさしく、古田武彦氏が「磐井の乱はなかった」という奇妙な後退(撤退)を行っている中、九州王朝説の最先端の議論を行っている事になるのです。

 思えば、磐井の乱から1500年が近付く中、久留米一帯の人々にとっても最も注目すべき問題なのです。


此之御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。天皇御年肆拾參歳。【丁未年四月九日崩也。】御陵者三嶋之藍御陵也。        「古事記」


まず、朝倉市山田の長田大塚古墳は、三嶋之藍にピッタリ符合します。

なにしろ、正面の三連水車の隣の二連水車の地がまさしく三嶋の藍なのですから。


225-2

そして、三国も福井も揃っているのです。


朝倉市の西隣、小郡市の三国=赤円、長田大塚古墳=黄円


朝倉市の東端、杷木町の福井集落=小青円、東隣、東峰村の福井=大青円、長田大塚古墳=黄円


継体天皇(袁本杼 男大迹)がこの一帯に居たという確たる証拠はないものの、居たとしておかしくないような地名が揃っている事だけはお分かりになるのではないでしょうか?

 では、東峰村の福井と福井神社をご覧いただきましょう。

 彦山の南麓に位置する旧宝珠山村(現東峰村)に大字福井があります。

最近、豊後(日田)から筑豊、筑豊(田川周辺)に頻繁に移動している事からこの福井を通過していた事になりますが、内倉想定が提出される前まで継体天皇との関係では全く考えてはいませんでした。

 まず、重要なのは、三国、福井、三嶋、藍…といった地名がいつの時代まで遡れるのかが問題です。

 一般的に地名研究が馬鹿にされ素人扱いされるのは、それがいつの時代のものかが特定できない事にあります。

 しかし、「三国」は肥前、筑前、筑後の国境に因む地名であろうことは間違いなく、分国令(=六十六分国も九州王朝によるものかも知れませんので…)、前後のかなり古い地名である事はある程度想定できます。

 三嶋も藍も遣唐使船が入ったとか、斉明天皇が舟に乗ったとか言われているだけに詳しくは調べていませんが、これもかなり古い地名である事は間違いがなさそうです。

 問題は「福井」ですが、以前から福井県の福井は玄界灘側の糸島市福井にあり、「福井白山神社」があることから、安曇族の移動により持ち込まれた地名ではないかと考えていました。

 今回、継体との関係で「福井」を再考した時、福井神社があることを思い出しました。

 以前も何度か訪れていますが、「神社誌」も調べていませんでしたし(現在、「福岡県神社誌」上中下は国立国会図書館デジタル・コレクションで全て読むことができます)、これといった特徴も無い事から印象が薄かったのですが、今回は驚きました。

225-6

福井神社 カーナビ検索 福岡県朝倉郡東峰村大字福井9251


 彦山の周辺は高木神社が卓越し、そのほとんどが大行事社と重なるため、この福井神社もその一つと考えていましたが、高木大神系の神社ではありません。

イザナギ尊+速玉男尊+事解男尊という組合せもあまりありませんが、一目、古い神様の揃い踏みと言ったものに見えます。

伊弉諾神 伊邪那岐命は良いとして、速玉男尊+事解男尊は分かりにくいかと思います。

結論を急げば、速玉男尊は博多の櫛田神社の主祭神の大幡主(オオハタヌシ)であり、事解男尊は一般的には加具土(カグツチ)命としてしられていますが金山彦のことであり製鉄の神様です。

そして、百嶋神社考古学においては九州王朝の初期を支えた重要な氏族(民族)なのです。

 今回は、山田の長田大塚古墳の御背後地の福井地名を確認してもらいましたが、重要なのはどうみても長田大塚古墳の西側好地に置かれた墓の所有者の一族=安部家との関係ですね。

 現在、その線に沿って調査を進めているところです。

 どうみてもこの筑後川の両岸は古代においても最も住み良い領域であり、多くの勢力が鬩ぎ合った場所だったように思えるのです。


225-6


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福井神社から50メートルほどのところに福の井がありました。なんと、井戸の上に社が置かれ、久留米水天宮も祀られているようです。八世紀初頭に活躍した役行者の話は佐賀県にも濃厚な伝承がありますが、福井神社、福の井の起源を探る上では重要な指標になります。直ぐ目の前は大肥川でもあり、どうやら自噴(吹井)の噴水井戸この福井の地名の起源の様です。




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226 モンゴル高原のユダヤ人

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226 モンゴル高原のユダヤ人

20150703

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


百嶋神社考古学勉強会は順調に滑り出しましたし、熊本の神社研究グループとの連携も進んでいます。

また、遠方の百嶋神社考古学研究者も徐々に増え始めているようです。

百嶋先生は多くの手書き資料を残しておられますが、一方では(片手間ですが)そのスキャンニング作業を続けています。

百嶋先生の話には日ユ同祖論でもかなり深部に向かった調査をされていたようです。

このため、私達もユダヤ・イスラエル系、ヘブライ系、アーリヤ系、トルコ系…といった表現を余儀なくされています。

このため学者風の話をされる方達や一般の方達からも色眼鏡で見られる事を甘受しなければならないのですが、それはどうでも良いとしても、この壁をなんとか食い破る方法はないものかと考えていました。

そうした中で、百嶋先生の文字データの中に分かりやすい例がありましたのでご紹介する事にしました。

現地の写真やパンフレットや地図といったものが僅かなコメントを加えて送られています。

これもその断片のようなものですが、きっと現地を踏まれ、現地の人から聴き取りをされていたのでしょう。

ナンダデヴィのユダヤ系モンゴル人、モンゴル系ユダヤ人?もその一つです。ガンジス川源流の彼らは六芒星を使っているのです。
これも、百嶋先生が現地で撮られた多少ピンボケの写真です。
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この辺りまでユダヤ人が入っているのならば、中国、朝鮮半島を経て列島にユダヤ系、イスラエル系の人々が入って来ていても一向におかしくはないのですが、この話に持ち込むと皆さんが顔をしかめることになるのです。

 中国には今もユダヤ人街=ゲットーがあると言いますし、大量のユダヤ、イスラエル系の人々が入っているはずなのです。

 2012年公開の映画ピラミッドでも中国には巨大なピラミッドが存在している事が明らかになりましたし、少しは偏見を取り除いてもらいたいものです。

無題.png

百嶋由一郎手書き資料から


「山の娘」というだけありパールヴァティーはヒマラヤ近く標高3500m近い地域の聖なる山ナンダデヴィに住むと言う。ナンダは「祝福された」「デヴィ」は「女神」の意味の語。

クスムカングルKusum Kanguruクワンデ(コンデリ)KwangdeクーンビラKhumbila

HP「エベレスト街道」より


面白いのは、金毘羅神社の「金毘羅」の意味ですが、ヒマラヤの一峰「KwangdeクーンビラKhumbila

が語源と考えられていたようです。

 つい最近もトレッキングでかなり本格的な朝倉市杷木町の志波の宝満宮(付随金毘羅神社)を30人規模と10人規模で訪問しましたが、コンピラの意味を考えていただけに、何も納得の行く説明がない中では、百嶋先生の金毘羅=クーンビラ説には吸い寄せられてしまいそうです。

 金毘羅神社の祭神については諸説ありますが、百嶋船も金毘羅にも色々なバリエーションがあるものの最終的には崇神天皇を奉祭する一族が大山咋神=佐田大神を祀っているとお考えになっていたようです。

 大山咋神は阿蘇の草部吉見神と宗像の市杵島姫の間に産まれた、いわば、雲南~海南島コネクション=黎族=白族のシンボル的なものです。

 それが保元の乱の一方の負組のようでもあるのですが、白族がヘブライ系であることを考えれば、彼らが通過して来た故地であるヒマラヤのク―ンビラを奉祭したとしてもおかしくはないと思うものです。

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グゲ王国または古格王国(842 - 1630)は、吐蕃の王族の一部が西チベットで建国した王国。

グゲ王は荒廃した仏教再興の為、当時の仏教先進地域カシミールへ留学僧を派遣。カシミール様式の寺院 建築、壁画などを導入した。

建国期

吐蕃ティソン・デツェン(在位755-797)が没すると、吐蕃は急速に衰えていった。ラン・ダルマ王の息子ウースン中国語版ツァンを支配していたが、ウースンの子ペルコル・ツェン: 貝考贊)が暗殺されるとその子(: 吉德尼瑪袞)は西チベットに逃れ、ガリーマルユルMaryul of Mnah-ris)、プラン、グゲといった谷に住み着いた。

10世紀、グゲの首都ツァパラン英語版は石灰質の岸壁に守られた要塞都市であり、仏教の中心のひとつとなった。当時の王コレは王位を捨てて仏門に入っている[1]。なおツァパランは要塞都市なので、中心都市は18km東にある道沿いの都市トリン(現ツァンダ)である[3])。

分裂

グゲ王国は11世紀には分裂して衰えるが、1042にインドのヴィクラマシーラ大学の高僧アティーシャを招聘。 アティーシャの教えはカダム派英語版を生み現在のゲルク派の源流となった。こうした活動により、再びチベット仏教が栄え、ピヤントンガ石窟群が築かれた。現在も、グゲ王国の中心的都市として繁栄したツァンダ付近には石窟壁画が残っており、北インドの影響が見てとれる。

14世紀にはマンナン(トリンの南約15km)を都として復興されている。15世紀にはナムギェル・デが王となり、ツァパラン語版に王宮を造って再び首都をこの地に戻した。現在残っているグゲ遺跡のほとんどはこの時のものである。             

ウィキペディア(20150708 8:30

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ピアン遺跡全景

「世界の屋根」と呼ばれるヒマラヤ山脈を有するチベット。その中でも西チベット・ンガリ地区は標高4,000m5,000mの荒涼とした地です。尊い雪山を意味する「カン・リンポチェ」とも呼ばれる聖山カイラース山(6,656m)、11世紀にチベット仏教の復興を果たしたリンチェンサンポやインドからチベットへと渡った高僧アティーシャゆかりのツァンダ近郊に位置するトリン寺、グゲ遺跡(グゲ王国の故城)もこの西チベットに位置しています。


トンガ遺跡

トンガ村から400m離れた岩壁にあり、東西に大きく3区に分かれています。1区には50個の石窟があり、1号窟から3号窟までは極彩色の曼荼羅が描かれています。

トンガ1区1号窟は、正方形の木組みを組み合わせる中央アジア起原のラテルネンデッキ(三角隅持ち送り形式)の建築手法。天井の植物模様や二頭の獅子、向かい合った白い象、そして四方の壁面には多種多様の曼荼羅が描かれています。

曼荼羅の側面には垂直五段の十一面、蓮華、水瓶、数珠を持つ六臂、十一面観音像が描かれています。両脇の二女尊はインドから伝来したターラーなどといわれています。

2号窟は四層からなる円心円状ドーム構造。全体で法界語自在マンダラを表現しているといわれています。四方の壁面は一面、千仏で埋め尽くされています。中央に仏塔の基盤が残りますが、現在上部は破損しています。

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227 菊水史談会福永晋三講演会

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227 菊水史談会福永晋三講演会

20150707

久留米地名研究会 古川 清久

 2015年から久留米大学の公開講座(古代史=九州王朝論)が年間30セッションに拡大する事になり、年間10セッション程度行ってきた久留米地名研究会が同じ久留米エリアで別個に研究会を行う事が困難になった事はこれまでにも何回かお話してきました。

 それは、地名研究会という名であるものの、実際には古代史のそれも九州王朝論に基づく研究会を七年に亘って行ってきた当会は、久留米大学の公開講座(古代史=九州王朝論)と物理的、心情的に競合することができなかったのです。

 結果、いまどき珍しい最大80人程度の人を集めるまでに成長した中核的な久留米地名研究会は実質的に休会状態になってしまいました。

 しかし、その三倍の回数と二~三倍の動員力を持つ公開講座の常設化は、九州王朝論と九州王朝研究の大きな拠点となったのですから、喜ぶべき事なのでしょう。

 勿論、久留米地名研究会の中枢メンバーが雲散霧消した訳ではなく、公開講座や他の地名研究会には参加される事になるはずですから、ただ、活動形態が変化しただけの事なのです。

 今後は、公開講座が打ち切りになったり、講座が継続したとしても九州王朝論が放棄された場合には、いつでも、地下から久留米地名研究会が復活する事をお約束して、別の展開=新天地を求める事にしました。

 その換わりと言ってはおかしいのですが、6月から豊前、筑豊地方を中心とした豊の国古代史研究会が活動を開始しました。

 さらには、地名研究会内部で最もインパクトのある研究対象である百嶋神社考古学の継承へ向けた勉強会として、新たに「百嶋神社考古学勉強会」を平日を前提にスタートさせることにしました。

 個人的には、例え小規模であってもこの勉強会が最も大きな重要な任務を負っているのではないかと考えています。


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懸案だった筑豊、豊前のエリアに新たな研究会が活動を開始しました。

一方、この間連携を深めて来た熊本県和水町の菊水史談会も、「納音九州年号対照表」の発見を切っ掛けとして、古田史学の会編集長の古賀達也氏の講演を昨年、今年と取り組まれたばかりか、非古田系、反古田系の九州王朝論者の福永晋三氏の講演も取り組まれ、11月にも個人的に最も関心を寄せている非古田系の九州王朝論者 佃 収 氏の講演会を準備されているのです。


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佃 収先生もHPをお持ちですが、こちらのサイトが分かり易いと思いますのでまずは、こちらからお読み下さい。


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佃収先生の出版物はこれでも半分以下です。

久留米地名研究会連合の今後の活動は、菊池(川流域)地名研究会の月例会化を基礎に、豊の国古代史研究会の支援、玄海地名研究会、太宰府地名研究会(トレッキング)の強化に重点を移して行く事になりそうです。

 ただ、それだけではなく、新たな任務、新たな展開を求められているのではないかとも考えています。

 それは、不安定な人を集めての研究会から離脱する良い機会を与えられたとして、全国展開のためにネット上に放送局を創ってゆくことではないかと考えているこの頃です。

228 豊の国古代史研究会が活動を始めました!

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228 豊の国古代史研究会が活動を始めました!

20150808

久留米地名研究会 古川 清久


冒頭の写真は、去る712日に25人程度の参加者によってスタートした豊の国古代史研究会ですが、次は内倉武久氏に代わって福永晋三氏による講演が行われる予定で準備中です。

 25人程度の参加で侮られそうですが、久留米地名研究会が8年前に活動を開始した時には、20人を超えるのに半年以上を要した事を考えれば、まずは上々の滑り出しと言うべきで、既に50人が収容できる会場を用意しているそうです。

 久留米地名研究会が、久留米大学の公開講座(年間30セッション)の拡大によって単独では休会せざるを得なくなった埋め合わせを十分すぎるほどやってくれたようです。

 これまで、「九州王朝研究」というものが、どちらかと言うと筑前に偏重した調査研究しか行ってこなかった事に対して、肥後に目を向け、菊池(川流域)地名研究会を生み出し、菊水史談会との連携もできてきたのですが、空白となっていた筑豊、豊前に新たな研究拠点を得た事は、小さな点と細い線を繋ぐ稚拙な体制から北部九州全域をカバーできる面の研究体制が整えられたことになるのではないかと喜んでいるところです。

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第一回目は会場が手狭だったためこれ以上の参加を呼びかけられませんでしたが、82日の第二回目の会場は、50人は収容できる所である上に、香春町中央公民館で行われた講演には70人を超す参加を得ており、単独開催でもかなりの充実した研究会になるのではないかと考えています。

福永先生は、半月の間、肥後、筑前、筑豊、豊前を飛び歩いておられますが、今夏5ケ所の講演で300人を集める事になりそうです。

829日に予定されていた久留米大学の公開講座(特別枠)古代史九州王朝論が10月から11月に延期された事から、夏の終わりに筑後地区で久留米地名研究会をスポット的に入れようかとも考えているところです。

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25人参加の第1回豊の国古代史研究会活動開始

6月にも、久留米地名研究会メンバーであり、草書体で解く「邪馬台国の謎」の著者である井上悦文氏が主催する古代史の研究会を中心に内倉武久氏の講演会が行われましたが、それに連動して一気に豊の国古代史研究会が赤村、大任町、川崎町、香春町、田川市などをエリアに活動を開始しました。

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229 久留米地名研究会から豊の国古代史研究会へ

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229 久留米地名研究会から豊の国古代史研究会へ

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久留米地名研究会 古川 清久

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81日 100人参加の2015年第二回菊水史談会


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82日 45人参加の第2回豊の国古代史研究会

今年の夏は福永晋三先生の講演だけでも15日間で、5回=5ヶ所で行われ、福岡、熊本の両県を飛び回る忙しさでした。

この他にも当面口外出来ない重要なプロジェクトも抱えており、自分のフィールド・ワークや読書はもとより、もう一つのブログのスタートなど懸案事項がかなり棚上げ状態になっています。

それにしても、豊の国古代史研究会の活動開始は頼もしい限りです。

必ずしも九州王朝説に限定せず、広く古代史一般に切り込んで行きたいとの方針にも自信が感じられ、今後の展開が興味深いところです。

久留米大学の公開講座が年間30セッションに拡大したことから、単独での久留米地名研究会の開催は実質的できなくなったのですが、それを十分にカバーできるほどの順調な滑り出しを見せてくれています。

 公開講座の30セッションは実質的に研究会3つ分に相当し、この体制が継続できれば、これだけでも九州王朝論に基づく研究体制は盤石と言えるでしょう。

また、菊水史談会も年間4回の九州王朝論を意識した延べ500人規模の研究体制を築いて頂いています。

菊池地名研究会の月例会化と併せ、肥後から豊前にまで伸びた研究体制が確立できたのではないかと考えています。

 久留米地名研究会は、しばらくの間、連絡調整機関に徹し、インターネット上での活動や研究者の養成へと、別の形での九州王朝論の普及に努める必要があるのではないかと考えているところです。

 一方、久留米地名研究会のサブ研究会として活動を開始した百嶋神社考古学勉強会も順調に回を重ねており、実はこちらの方がもっと大きな成果ではないかとも考えるこの頃です。

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夏も直ぐ終わることでしょう。

暑いと言うより熱い夏も終わり、9月になれば、太宰府地名研究会のトレッキングや久留米大学の公開講座、宮地嶽神社の筑紫舞奉納見学会(1022 1300~)、恒例となった宮崎県椎葉村栂尾神楽の奉納見学会(112223 18001100)、菊水史談会主宰の佃収講演会…とビッグ・イベントが目白押しです。

それまでの間しばらく休養し、頭を鍛える時間が必要なのかも知れません。

230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

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230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150418

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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百嶋由一郎先生から“飯塚市鹿毛馬の某神社が白川伯王の流れを汲む本家であり、厳島神社の元宮、白川伯王家の源流の一族の神社である”と聞かされていました。

 正面の鹿毛馬(カケノマ)神籠石については、過去何度か訪れていましたが、神籠石の踏査などをやると大抵はくたびれ果ててしまい、目の前の神社でさえ見に行こうなどとは中々思わないものです。

 また、飯塚市の中心部からもそれほど遠いところではないため、何時でも行けるとなると意外と足が向かわなかったのでした。とは言え何時かは時が訪れるものです。

今回は、筑豊でも香春神社(縁起式内社)の再撮影など田川郡内を走り回っていたのですが、急に思い立ってカーナビで距離を測ると、山越えルートで移動すれば15キロ、20分もあれば行ける事に気付き、天気も良い事から課題であったその某神社(百嶋先生は最後まで公表されませんでしたので)に向かう事にしました。

以前も触れた事がありますが、「白川神道」など聴いた事もないという方のためにも、学者の権威を無視するためにも、敢えて彼らが無視するウィキペディア(20150417 2030から紹介させて頂きます。


白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇 の皇孫の延信王 清仁親王 の王子)から始まり、古代 からの神祇官 に伝えられた伝統 を受け継いだ公家 である。皇室 祭祀 を司っていた伯家神道 (白川流神道)の家元

白川家(しらかわけ)は花山源氏 を出自とする堂上家 である。花山天皇 の皇孫の延信王 (のぶざねおう)が源姓 を賜り臣籍降下 して神祇官 長官 である神祇伯 に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲 するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯に就任してからは王氏 に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた。


白川伯王家の成立


白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「 」を名乗られたことである。「王」の身位 天皇 との血縁関係で決まり、本来は官職 に付随する性質のものではない。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。

…中略…

吉田家との地位逆転


室町時代 になると、代々神祇大副 (神祇官の次官 )を世襲していた卜部氏 吉田兼倶 吉田神道 を確立し、神祇管領長上 を称して吉田家 が全国の神社 の大部分を支配するようになり、白川家の権威 は衰退した。江戸時代 に白川家は伯家神道 を称して吉田家に対抗するも、寺社法度 の制定以降は吉田家の優位が続いた。


家格は半家 、代々の当主は近衛中将 を経て神祇伯になった。


江戸時代 の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。



王号返上と家系断絶


明治時代 になると王号を返上し、白川家の当主の資訓 子爵 に叙せられた。資訓の後を継いだ資長 には実子がなく、伯爵 上野正雄 北白川宮能久親王 庶子 )の男子の久雄 養子 に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶となる。


白川伯王が何かついては、既にひぼろぎ逍遥 159 秦の始皇帝と市杵島姫、173博多の櫛田神社の祭神とは何か? で説明していますので詳しい説明は省きます。

  ただ、簡略化して言えば、秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の一族が、始皇帝の姓である「臝」を許され「瀛」(イン)を名乗り、その一族と強固な姻戚関 係で結ばれた白族(白川伯王→博多櫛田神社の主祭神大幡主→豊玉彦=豊玉主=ヤタガラス)を含め強固な「瀛一族」が形成されたのです。

 この「瀛」という姓を名乗ることが許された神代の有名な人物に、宗像三女神の一人である市杵島姫=津島姫があるのですが、古代の社格について言えば、本当は宗像大社よりも上位の神社だったのです。

 その証拠に、九州王朝の巨大山城である鹿毛馬神籠石の正面に鎮座しているではないですか。

 ともあれ、社殿をご紹介致しましょう。

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神社縁起はご覧の通り宗像同様の配神(三女神)ですが、むしろ、宗像大社が、この厳島神社と同様だと表現する方が正しいはずなのです。ただ、これだけではこの神社の重要性は言い尽せない様に思います。

なお、牧野神社についても、もしかしたら百済の目支(マキ)国を意味しているかも知れません。

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筑前国総鎮守-櫛田神社

博多祇園山笠で有名な櫛田神社の神紋は上の通りです。勿論、祇園山笠の祇園は右の五花木瓜紋ですが、主祭神である大幡主は六角形の三盛り亀甲に五三桐をシンボルとしています。

 ここで、鹿毛馬の厳島神社神紋を見て頂きましょう。

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千木は女神である事を表していますが、三盛亀甲(これは剣付き唐花)


これだけでもこの厳島神社が大幡主の傘下にあったことが分かります。宗像も確認しましょう。

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楢紋は、宗像大社の神紋。大社の御神木である楢の木から。
 『神社名鑑』には、梶紋とあるが、電話で確認したら楢であるとのこと。 
「玄松子の記憶」より

これだけでは何とも…と言われる方は多いでしょう。その向きには次の写真をご覧いただきましょう。

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厳島神社の宮司家が「白土」を姓としている事が分かります、しかし、何故か土に「、」点が付いています


この厳島神社にも数軒の白土さんがおられる事が境内の氏子の名を見ても分かります。点のある白土さん、点の無い白土さんがおられるのですが、宮司家は明らかに点付きの「白土」様です。

 無論、点付きの「土」という文字はない訳で、普通ならこの理由は全く分からないはずです。

 しかし、百嶋先生は十分お分かりだったようで、明治期に当時の神祇官→神祇庁(原子力発電 地球温暖化 の原因となる温室効果ガス を排出しないため環境破壊に当たらない」[これ自体がデマであることは当方が20年前から繰り返し言ってきたところですが] として原発建設を支持表明し山口県の上関原発においても四代八幡宮を排斥した現在の伊勢の神社本庁の前身団体)が同社に押し掛け、千年以上続いた「白王」姓をけしからんとして変名を迫った結果であるとされていました。結果、白川伯王の「王」の横一棒を抜いた「土」へと変更したという歴史を留めるために痕跡としての「、」を残されたのです。 

川伯→白(土+)へと。 ※「、」は、栄えある王の横一文字を削らされた印ですね。

この「点」についての謂れを、ちょうど境内の掃除をされていた宮司(90歳)の息子さんにお尋ねしたところ、“五代前の宮司からそのように聴いています”とのお答えを頂きました。

白川伯王家の本流、源流であり御本家であるという意味がお分かり頂けたと思います。

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231 自ら観光資源を破壊する鹿児島県

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231 自ら観光資源を破壊する鹿児島県


ブログ231は後日公開させていただきます。


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