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545 火の君とは歴代の橘一族だった ① 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の白族

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545 火の君とは歴代の橘一族だった ① 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の白族”

20171224

太宰府地名研究会 古川 清久


 九州の古代史には火の君が横たわっています。

九州王朝を探索する者にとって、この火の国、火の君をどのように理解するかは極めて重要で、この解明無くしては全く前に進めないと言っても過言ではないものとさえされてきました。


545-1

ひのくに【肥の国(火の国)】古代の九州の地域名の一つ。のちの肥前国,肥後国,現在の熊本,佐賀,長崎の各県に当たる地域を指す。《古事記》国生みの段に筑紫島が身一つにして面(おも)四つありとするが,その一つに肥国が見える。《日本書紀》には,景行天皇の船が,夜暗くして着岸が困難であったとき,遥かに火の光を見て無事陸に着くことができたので,その地八代県(あがた)豊村を火の国と名づけたという地名由来伝承をのせる。また《肥前国風土記》には,肥君らの祖,健緒組が土蜘蛛(つちぐも)を討ったとき,不知火(しらぬい)が天から降ったため,火の国としたという伝承をのせている。

世界大百科事典 第2版の解説


 さて、太宰府地名研究会には色々な分野のエキスパートがおられますが、特に神社研究では熱心なメンバー集まっておられます。

 敗戦の結果からか、戦後は皇国神話でも荒唐無稽な(「記」「紀」の一部が偏重され「国史」でも何でもないのですが)を全否定する傾向が顕著となり、奇妙にも科学的と思い込まれた考古学的発掘調査と文献史学、特に海外史書への傾斜が高まり、神社研究(特に九州本土に於ける)が全くないがしろにされてきました。

 この全く見向きもされない神社研究(比較的まともな感性を残しておられる「九州王朝論」者の間でさえも、熊本、佐賀、大分などの神社研究など全く見向きもされていないのです)を愚直に継続してきた事から、ようやくこの「火の君」の正体が幾分かは理解できるようになってきました。

 これは多くのメンバーの研究が集められた結果分かってきた事でした。

 まず、①橘一族の後裔にあたる宮原氏(blog「橘氏の末裔」)による自らのルーツ研究がまさにこの一帯(熊本県氷川町)にあった事、②考古学や文献史学に精通した知識を持つ伊藤女史(blog「地図で知る」)によるこの氷川流域の古墳(野津古墳群外)形式の北上仮説による推定、③もう一人の宮原氏(blog「宮原誠一の神社見聞諜」)との氷川流域に於ける神社トレッキング共同作業、④当然にも65年に及ぶ故百嶋由一郎氏による神社考古学、⑤熊本県の女性メンバーF女史による氷川流域の重要性へのアドバイス、⑥古川による有明海を挟む対岸の佐賀県杵島山周辺の橘氏関連調査と火の君伝承、河童伝承への基礎的記憶…これらが総合的に結びつきようやく「火の君」の正体が見えて来たのでした。

 そして、今は、確信を持って言えます。博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の子であるヤタガラスの後裔こそ橘一族であり「火の君」の後裔だったのです。

 まず、この問題で最も遠い位置にあることから結果的に重要に見える佐賀県側の資料をご覧ください。


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佐賀県白石町稲佐神社県道傍の境内地に置かれた解説文


稲佐山累縁記により、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる


 お読みにもなれると思いますが、稲佐神社(佐賀県杵島郡白石町辺田2925)は直接的に百済の王族を祀る神社です。

 この神社の伝承として百済の聖明王の子である阿佐太子は“火ノ君を頼って”八隻の船で亡命しているのです。

 時代は有名な斯摩王こと武寧王(聖明王は武寧王の子)から聖明王の時代ですから6世紀に当たる訳で、まさに九州王朝の最盛期の時代に火ノ君は後の肥前、肥後を支配領域としていた事が分かるのでした。

 ところが、この孤立無縁と思われた伝承が、有明海を挟んで対岸の氷川流域~八代市に掛けて存在していたのでした。

蛇足ながら斯摩王が列島と半島の中間の加唐島で産まれたとの話がありますが、それは両国の学者の説を折半(予算消化に折り合い)しただけのものであり、当然、糸島半島の志摩に決まっているのです。

学者、教委、学芸員は使命感も研究心もない馬鹿か嘘つきか!?

 一つは、氷川町の北、旧小川町(現宇城市)の南海東の正しく泉地区にある霊符神社であり、もう一つが、有名な八代市の妙見宮に隣接する同じく霊符神社でした。


466

杵 島 ② 2/2

465

杵 島 ① 1/2

505

熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見

508

八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった


詳しくは、稲佐神社を ひぼろぎ逍遥の「杵島」を、二つの霊符神社については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の505508をお読み頂くとして(公開のタイムラグがあり、本稿オンエア時には、まだ、公開されていませんので必要な方は09062983254までご連絡下さい)、実に二つの霊符神社の由緒には、稲佐神社と非常に良く対応する内容が書かれていたのでした。


阿佐太子(あさたいし、アジャテジャ、6世紀末 - 7世紀前半頃)は、百済の王族出身画家で、威徳王の息子。日本に来て聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられる。生涯[編集]

『日本書紀』によれば、推古天皇5年(597年)4月に日本に渡って聖徳太子の肖像を描いたと言われる。奈良の法隆寺に伝来し、明治以降は御物となっている『聖徳太子二王子像』と呼ばれる絵は、日本で一番古い肖像画とされている。その形式は中央に太子が立ち、その左右に2人の王子(伝えられるところによれば、右側が山背大兄王、左側が殖栗王)を小さく配置した構成である。この配置は、仏教の三尊仏形式の影響を受けたとも考えられ、あるいは閻立本の作とされる初唐の『歴代帝王図巻』に見られる人物配置に似ることから、その頃の構図法に起因したものと解釈されることがある。

日本学界でも論議が多いこの像は、製作時期においても太子の冠の様式や太子及び王子の服飾から見て、8世紀(奈良時代)の作品だと見る説と、平安時代以降の模本と見る説が概して多い。

このように現在伝えられる聖徳太子像の作者および制作時期は、様式上の問題点と同時に、阿佐太子に対する記録が韓国側資料にはないという事実によって、未解決の課題である。

ウィキペディア(20171225 0114による

聖明王 朝鮮、百済(くだら)の第26代の王(在位523554)。『三国史記』『三国遺事』には聖王とある。武寧王の子である。中国の梁(りょう)によく通交して文物を得、「持節都督百済諸軍事綏東将軍(じせつととくくだらしょぐんじすいとうしょうぐん)百済王」に封ぜられた(524)。また欽明(きんめい)天皇の日本にも通交して仏教などを伝え、任那(みまな)の復興を図った。王は都を熊津(ゆうしん)(いまの公州)から泗(しひ)(扶余(ふよ))に移し、国号を南扶余とした(538)が、新羅(しらぎ)と争って戦死した。[浜田耕策]武寧王(462 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502 - 523年)

日本大百科全書(ニッポニカ)による


545-3

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霊符神社は八代の妙見宮に隣接する高い場所に置かれています。この只ならぬ関係は霊符神社と妙見宮と一体と言っても良いような同族性を感じさせますし、高い場所に祀られていること自体でも霊符神社の方の格式が上なのではないかとさえ思わせます。

 その霊符神社に火の君の記述(火の君こそがその時代その地域の支配者であったことを思わせる)があることから恐らく火の君と妙見宮それに九州王朝との濃厚な関係が存在したと考えられる百済系氏族(だからこそ九州王朝は白村江の闘いに突き進んだ)を受入れたのだろうと思われるのです。


545-5

兼川 晋       小松洋二

いずれも不知火書房092-781-6963の名著


そこで、故)百嶋由一郎氏の最終神代系譜をご覧頂きたいと思います。


545-7

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


そこで、良く知られた八代の妙見宮ですが、最近になって列島にとっても九州王朝にとっても最も重要な神社であった事がようやく分かってきました。

ここでは、通常話されるありきたりの内容から離れ最も重要な側面についてだけお話しさせて頂きます。

言うまでもなく、祭神である天御中主神と國常立神とは、白山姫と博多の櫛田神社で祀られている大幡主の二神です(「熊本県神社誌」省略)。

 この間、八代の妙見宮の重要性に関しては十分に理解していたつもりではあったのですが、大幡主~豊玉彦=ヤタガラスの一族(白族)は、直接、熊本に入っていると思っていた事から、八代の妙見は河童渡来(揚子江流域からの越族の移動)による後付だろうといった程度で考えていました。

 ところが、妙見宮に隣接する霊符神社の記述と、氷川の北宇城市小川町の霊符神社の記述が対応し、さらに佐賀県(肥前)の白石町(旧有明町)の稲佐神社(百済の王族を祀る神社)の境内地に百済の王族を火の君の世話で受入れたとの記述が相互に対応する事が判明し、肥前~肥後に掛けての領域を支配領域としていたのが火の君であり、妙見宮=天御中主命=白山姫を奉斎する白族(雲南省昆明からの列島への亡命民族)であった事が分かって来たのでした。

 実は、最終神代系譜(上)の鴨玉依姫こそが、表向き玉依姫を祭神としている京都の下賀茂大社に繋がっているのであり、豊玉彦(ヤタガラス)とは賀茂建角身命も鴨玉依姫の父神になるのです。


545-8

下鴨神社公式HPによる


もう十分にお分かり頂いたと思います。妙見宮こそ下上鴨神社のルーツであり、九州の古代史に於いて重要な位置を占める火の君とはこの下鴨神社に繋がる一族だったのです。

そこで、氷川の北に「豊」地名がかなり拾えることをお考えいただきたいと思います。


545-9

熊本県宇城市豊野町(旧豊野町)地理院地図


氷川町から宇城市に掛けては「豊」地名が拾えます。代表的なのが旧豊野町であり、旧松橋町にも豊福(現宇城市豊福)、豊川、豊崎…が拾えるのです。

一般的には秦の一族と豊国(大分県)ばかりが取り上げられますが、それ以前からこの一帯には豊玉彦の一族の居留地を思わせる初期の豊の国が存在した事を思わせるのです。

ついでに言えば、宇城市には「東海東」「西海東」という奇妙な地名があるのです。

これも主として百済系の人々が住み着いた半島系の人々の亡命地だったのではないかと考えています。

「海東諸国紀」は、李氏朝鮮の日本国と琉球国について記述された歴史書ですね。

とにかく不知火海北部の東岸は白族(妙見宮に象徴されるヤタガラスの一族)の国だったのです。


546 火の君とは歴代の橘一族だった ② 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “白族は雲南から

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546 火の君とは歴代の橘一族だった ② 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “白族は雲南から”

20171224

太宰府地名研究会 古川 清久


 この話に入ると正統派(現場に全く入ろうともしないただの文献史学派=邪馬台国本読みという程度の意味ですが)の九州王朝論者の方々から顰蹙を買う事は覚悟の上で申し上げます。

この天御中主命=白山姫の一族は雲南省昆明から入って来た白族であると故)百嶋由一郎は語っておりました。

blogはその話を次世代に引き継ぐ事を目的としていますので、可能な限り民俗学の手法=帰納演繹法によって証明して行こうと考えています。

文献史学派の方は眉を顰められるかも知れませんが、通説派であれ異端派の九州王朝論者であれ、九州王朝の現場にも入らずに「古事記」「日本書紀」…を喫架玉条の如く盲目的に論証されているだけであって、それが藤原によって作為が入っている事は不問にしているだけの事なのです(つまり、それを信じ込んで依拠しているだけの事なのです)。

 さてこのテーマに関しては、極力先行blogをお読み頂きたいのですが、この阿蘇の草部吉見の一族(黎族)と共に入って来た天御中主=白山姫を奉斎する一族とは雲南省の昆明から海南島を経由して入って来た白族だったのです

 この阿蘇氏(黎族の一派)と大幡主の一族(白族)もかつては中原にまで展開していたはずの主要民族(九黎族ほか)だったのですが、漢族、鮮卑族、清族、モンゴルなどに追われ、追われ、最終的には辺境山岳の少数民族地帯に逃れ、遂にはそこさえも失って、列島に新天地を求めて移動した人々だったのです。

 阿蘇氏は雲南省麗江からメコン川(瀾滄江)を降り、旧サイゴンから北上し海南島(南西部保亭リー族ミャオ族自治県・瓊中リー族ミャオ族自治県・白沙リー族自治県・陵水リー族自治県・昌江リー族自治県・楽東リー族自治県・東方リー族自治県…)へ、大幡主の一族は昆明からファン川(紅河)を降りベトナムのハノイ沖ハロン湾沖の海南島へ移動し、時期を見て列島へと進出した人々であったと考えられるのです。


ひぼろぎ逍遥 194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?


546-1

理由は不明ですが櫛田神社は熊野から移ってきているはずです



546-2どうやら、百嶋先生は、博多に雪崩れ込んだ、白族(ペイツー)のルーツは雲南省昆明に近い、謎の青銅器文明(漁労+水田稲作農耕)として知られる「滇国」を想定しておられたようです。

考えて見れば、昆明には白族がいましたし、「滇国」の本拠地である滇池もそこにあったのですから、「滇王」の印を貰った「滇国」の一部が博多の櫛田神社の主祭神の大幡主に繋がる事は理があることなのです。

ただ、それを結びつけられるところが、百嶋先生の凄いところだと改めて思うものです。


(てん、簡体字: , 拼音: Diān)は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国。歴史[編集]の将軍荘蹻が遠征した時に、によって帰郷できなくなり、やむなく建国したとされる。紀元前109前漢武帝の攻撃で属国になり、益州郡の統治下に入った。滇王之印滇王之印晋寧県の石寨(せきさい)山の遺跡(石寨山滇国王族墓)からはこの時代のものと思われる青銅器や「滇王之印中国語版)」と書かれた印鑑などが発掘されている。西嶋定生はこの滇王之印と日本の福岡県で出土した漢委奴国王印とが形式的に同一であることを指摘している。古滇国の歴代君主[編集]以下は黄懿陸の著『滇国史』から整理した。文字史料が不足しているため、大部分の滇王墓の主はその本名と年代を確認することができない。         ウィキペディア(20150331 12:00による)


白族は黎族(阿蘇氏)と併せ、日本人のかなり重要な部分を構成しているはずで、白族の起源の一部がが「滇国」にあったと考える事が可能であれば、多くの照葉樹林文化論者達(彼らは文化の伝播だけで逃げているのですが…)が主張している話とも符合する訳で、単に白族の一派が南ルートで渡来していると抽象的に考えるよりは、より具体性を帯びており、視界が広がった思いがしています。


雲南の二大王国


 現在の中華人民共和国最西南部、ベトナム、ラオス、ミャンマーと国境を接する地域で、北隣に四川省(しせん)、北東隣に貴州省(きしゅう)、北西隣にチベット自治区と接する雲南省(うんなん)。省都は昆明市(こんめい)であり、雲南という名は四川省と接する雲嶺山地(うんれい)の南にあることに由来する。現在は約39万平方キロメートルで、中国の行政区分別では8番目の広さである。漢民族以外にはイー族、ペー族、ミャオ族、チワン族など少数民族も多く存在する。中国古代王朝では、雲南・貴州のこうした漢民族以外の少数民族を西南夷(せいなんい)と呼んだ。

 歴史の上での雲南地方では、中国史における戦国時代B.C.403-B.C.221)にその黎明期があったとされている。戦国・(そ。?-B.C.223)の頃襄王(けいじょうおう。B.C.298-B.C.263)の時代(あるいは威王の時代か。いおう。B.C.339-B.C.329)にいた武将で、春秋五覇1人と数えられる楚の名君・荘王(そうおう。B.C.614-B.C.591)の子孫と伝えられた荘蹻(そうきょう。荘豪とも。そうごう。生没年不明)が、現在の昆明市西南に、同省最大の湖である"滇池(てんち)"付近に遠征を行い、同地を楚の支配下に入れたが、その遠征路を占領した王朝(しん。?-B.C.206)によって帰路を断たれた。そこで荘蹻は滇池を拠点に初代王(在位不明)となって王国"滇(てん)"を建国したとされるが、伝説的要素が濃く、建国年はB.C.5世紀からB.C.3世紀頃と確定には至らず、滅亡年も紀元前2世紀から紀元後2世紀の間で諸説ある。この滇国が雲南を拠点にした初の王国であるとされる。これに関し、その後の歴史を語る上で、雲南の異称として""が用いられることも多い。

 一方で夜郎(やろう。B.C.523?-B.C.27)という国家があった。 夜郎は滇より建国が古いとされるが、拠点は現在の貴州省で、雲南寄りにある畢節(ひっせつ)市の赫章(かくしょう)県にあったとされ、また一時的に楚の荘蹻に占領されたとも言われている。司馬遷(しばせん。B.C.145?/135?-B.C.86?)著の紀伝体正史『史記(しき)』の『西南夷伝』によると、夜郎は西南夷国家の中で最も強勢であったとされた。さらに、前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)時代、前漢からの遣使が滇王・嘗羌(しょうきょう。位B.C.123?-B.C.85)の会見機会があり、嘗羌が「自国と漢はどちらが強勢か」という、漢王朝からしてみれば愚問に値する内容を遣使に尋ねた。そして隣国の夜郎も王は同様の愚問に値する内容を尋ねた。こうした故事から、"夜郎自らを大なりとす"、すなわち"夜郎自大(やろうじだい。自身の力量や世間を知らず、自信過剰に威張ること)"の言葉が生まれたとされる。

HP「世界史の目」より


白族(櫛田神社大幡主の一族)は雲南省昆明から紅(ファン)河を下りハロン湾から海南島を経由し肥後にやって来た


546-3雲南省昆明(or大里?)

海南省(海南島)白砂黎族自治県(加茂村?)

隈本(熊本城のある千葉城町)

多くの隈地名の地(佐賀東部、博多、小郡、朝倉、日田)に北上し展開する。


 期を一にして入って来た阿蘇氏は天草下島の苓北町(この「苓」も黎族の「黎」と考えられます)を経由し阿蘇に進出します。

 こうして、恐らく紀元前後に中国の辺境から亡命してきた黎族(後の宇治族=多氏=阿蘇氏)と白族(後の櫛田神社の大幡主、熊野三山、下賀茂、上賀茂)という列島の最重要氏族の二つが形成され列島人の主要な勢力となって行ったと考えられるのです。


546-4

546-5

海南島南西部の黎族自治県には加茂という地区まであり、天御中主の後裔である下賀茂神社を思わせます

スポット180(前) 赤村の超巨大古墳 ③ 発見と列島の穴掘り考古学の未来 “福岡県赤村内田”

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スポット180(前) 赤村の超巨大古墳 ③ 発見と列島の穴掘り考古学の未来 “福岡県赤村内田”

20180517


太宰府地名研究会 古川 清久



 グーグル・アースでも容易に見いだせるのですが、今年の春以来、古墳としか見えようのない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、マスコミに地域を揚げて思惑が膨らんでいます。

場所は一般にはあまりご存じではない福岡県の筑豊地方、田川郡赤村の内田地区です。


sp180-1



sp180-2既に公開されてしまった事から申し上げますが、この古墳の存在については一部の九州王朝論者の間では以前からかなり知れ亘っていました。

また、信用できる研究者に対しては当方外からも秘密裏に情報を流してもおりました。

私がこの事実を知ってからしばらくして、元朝日新聞の記者であり(ミネルヴァ書房から「太宰府は日本の首都だった」外3著)考古学に詳しい内倉武久氏をお連れし、現地の筍(タケノコ)山などに入り、高坏の破片となどの土器片を拾い、地権者である筍栽培農家の方からも大量の土器片を入れた箱などを見せて貰っていました。そして、何とかオーバー・グランドに引き上げられないものかと工作を始めていたのでした。

そもそも古田系とは異なる傍流の九州王朝論者の一部には「豊前王朝論」なる概念も存在し、これまで九州王朝の連合国家、楕円国家論、分封制、分裂国家(九州王朝内部の南北朝ならぬ東西朝)といった様々な仮説が提出されていました。

 代表的なところでは大柴英雄の「豊前王朝」坂田 隆「邪馬壱国の歴史 (1975)」 邪馬台国九州説、田川市・京都郡、室伏志畔氏、佃収…など 主として傍系の九州王朝論者の一群になるのでしょう。 

この衝撃の事実を知って以来の私自身の個人的な考え方としては、始めから宣伝戦を行なうべきだというものでした。

それは、「邪馬台国畿内説」などといった大嘘の、唯一、最大の根拠とされてきたのが畿内の大型古墳群であって、近畿大和朝廷こそは邪馬台国の後継国家であるに違いないと言った単純な思い込みであって、九州などには巨大古墳は存在しないしあってはならないとするのが、利権集団としての考古学協会であり、その神輿に乗っている(その実使われている)考古学の京都学派なのでした。

そのため、「九州でどのように重要なものが出土しようが発見されようが蓋をし、重要なものほどコンクリートで固めてしまい発掘調査費のほとんどを畿内で独占しようとの思惑があるからと考えてきました。

これこそが、古田武彦や九州王朝論が無視され攻撃され、他愛もない邪馬台国九州説までもが相手にされず、お伽話風のご当地邪馬台国説だけが許容されてきたのでした。(簡単に言えば関西の解同利権)

つまり、教育委員会や学芸員は元より、京都学派に占拠された今の発掘調査の現場では本物ほど蓋をされ、畿内説を補強する発掘調査や中程度の重要性を持った物だけを自分たちの都合の良いものを独占的に調査し発表すると言う構造が存在していることから通常は絶対に蓋をされてしまう恐れがあるのです。

sp180-2このため考古学の発掘調査の現場に精通した内倉武久氏は、蓋をすることが絶対にできないレベルの何らかの物証(羨道など)を得るところまで進め、その後公表するべきであろうと考えられ、その意向に従ってきたのでした。

私自身は、通説派はどうせ蓋をするに決まっているし、潰される事は分かり切っているのだから、一早く公表し、畿内に先行する豊前一帯の巨大古墳の存在(実はまだまだあるのです)を明らかにし、原子力村同様の京都学派による考古学村ぶりを炙り出し暴露し世論に訴え京都学派に占拠された考古学村を炙りだしすべきであると考えてきたのでした。

勿論、内倉氏の考え方が正論なのですが、現在の文化財保護法は京都学派のイニシアの元に独占的に発掘の権利を付与する構造になっており、恐らく時間だけが失われる事にしかならないだろうと考えていたのでした。当然の事ながら、いずれはグーグル・アースによって誰かが発見するだろうと考えていました。

そして、それが現実のものとなるのです。そのブログが公表されたのは2018年の1月でした。以下。


sp180-3

画像はネット上で最初に公表し世間一般に知らしめられたsp180-4による(コダイアリーの本文は以前に公開したスポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”をお読み下さい)。

話が逸れますが、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)では、この古田史学の会系の石田泉城さんと4月からリンクを張っていますので、今後とも文献史学の立場から九州王朝論に迫られている掲載稿をお読み頂きたいと思います。さて、内倉氏と共に古墳を一周した際に、葺石の痕跡は実質的にはなかったものの、三段築成の跡や環濠の痕跡とも思える耕作放棄田やため池様のものも確認しており、実質的にそれを環濠と考えれば、二番手クラスの巨大古墳に成るとした内倉説の推定(可能性)は無視できない話になるのです。まずは平成筑豊鉄道田川線の内田駅周辺を検索される事から始めて頂きたいと思います。

ただ大変残念なことに、九州王朝論者など自称される方でさえ、実質的には現地を踏もうともされず、踏み薮を掻き分けて調べて見ようとされる方は極少数どころかほぼ皆無であって、大半は邪馬台国本読みの半通説紛いの方々ばかりと言った有様では京都学派の専横ぶりは今後とも続く事になるでしょう。

このような九州王朝論を標榜する団体も自ら九州王朝の存在の痕跡の残る現地を調べようなど
sp180-5とはせず、月例会の大半を通説派の学芸員の御高説を拝聴し平伏するありさまなのですから情けないばかりです。まあ、このような言わば
邪馬台国本を読む会、九州王朝論を楽しむ会では古田武彦が一生を掛けて切り開き将来を託した九州王朝論の未来は切り開けない事でしょうし、古田が残した九州王朝探究の任務はとん挫することでしょう。 しかし、“あんなところにそんな大きな古墳などがあるはずはないんですが…”と言わざるを得なかった京都学派のNダニ氏(元は奈良辺りの小学校の教員養成大学)の半ば引きつった記者会見は見ものでした。

今後どのようにしてこの巨大古墳(?)を無き物とされるかは興味深い上に、日本の考古学会の在り様を見据えて行きたいと思うものです。従って、今回はこの列島の考古学に関する話をしたいと思います。


sp180-6

九州などには巨大古墳は存在しないし、あってはならないとするのが、利権集団としての考古学協会であり、その神輿に乗っている(その実使われている)考古学の京都学派なのであって、「九州でどのように重要なものが出土しようが発見されようが、どうせ蓋をして重要なものほどコンクリートで固めてしまい、発掘調査費のほとんどを畿内で独占しようとの思惑があるからと考えてきました。  と前述しました。

 ここからは、何故、邪馬台国九州説、特に九州王朝論が何故敵視されるのかについてお話しします。

 ソフト面とハード面があるのですが、先に宣伝戦としてのソフト面からお話ししましょう。

 全国で行政主導による(つまり学会通説に沿った)古代史のシンポジウムとか古代史研究会と言ったものが花盛りです。この現象によって古代史ブームが再燃しているとか古代史研究が盛んになっているなどと考えるのはとんでもない誤りでしょう。

各地域に熱心な研究者が芽生えている訳でもなく、通説派の浸透によって次世代の研究者が育たず後継者の喪失から壊滅状況になっている各地の郷土史会、史談会、地名研究会、○○古代史の会…といったものが、ほぼ新たな研究者を失い、半ば教育委員会とか学芸員と言った通説、半通説の利権集団に救いを求めているのが実情なのです。

つまり、戦後産みだされた真の古代史像を追求しようとする自由な思考を持った民間の研究者が、高齢化などによって最終的に失われつつあることを良い事に、予算を引出し肖ろうとする村興し町興し、果ては世界遺産登録と言った薄汚い税金への集りの構造に、かつて孤高を保っていた九州王朝論者の一群までもが浅ましくも靡き取り込まれ始めた事を意味しているのです。

 そこまではいかないものの、九州でも○○古代史の会といった、一時期、古田武彦をも乗り越えるとして活発に活動を展開していた団体までもが、自らは調査も研究もしようとはせずに、論文も生き残りの僅かな外部研究者に依存していたために調査研究への姿勢を一切失い、今や月例の研究会(たかだか年間8回程度)でさえも自前の研究を出す事も出来ずに通説派の学芸員の御高説を賜わり平伏すると言う悍ましい堕落を見せているのです。このような状態では、かつて古田武彦氏が保っていた孤高の研究への姿勢や佃 収、米田良三といった今も尚健在の九州王朝論に立つ研究者の姿勢がオーバー・ラップできない事は言うまでもないでしょう。そうするうちに古田武彦の三部作さえも読んだ事のない、通説派に汚染された新世代が内部に加わるに及んでは、かつて通説派を震撼せしめた九州王朝論者の研究会の影を見出す事など微塵もできなくなり、良くて「邪馬台国九州説」程度の大衆レベルの意識しか持たない無様な状態を晒しているのです。

 この傾向が続けば早晩、九州王朝論さえもかなぐり捨て、行政が垂れ流す調教用の予算と人材にのみ依存するどこにでもあるような郷土史会程度の醜悪な組織に変貌していく事だけは間違いないことでしょう。


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ただの思い込みと勘違いでしかない「邪馬台国畿内説」はどうしようもないとしても、他愛もない「邪馬台国九州説」や利権構造から通説派に擦り寄った醜悪この上ない「邪馬台国東遷説」とか、堕落した九州王朝論者の一群に、最早、古代史の深層を掘り下げることなど全くできない事が一層鮮明になりつつある現在、このような傾向をどのようなものとして取り上げるかだけは整理しておく必要性があるでしょう。

 まず、戦後の民間研究団体は、皇国史観が蔓延した事によって中国や北朝鮮のような塗り潰された文化的退廃からの解放として一気に勃興したものでした。

 つまり、大嘘一色になってしまえば、裾野なき孤高の研究者だけが、あたかも電信柱のように際立つわけで、平地に蠢く人々から見れば、一気に権威を再生できるとも言えるのです。

 所詮、○○古代サミット、○○古代史シンポジウムといったものは、学会通説派による国民の調教の範囲で許される(予算が貰える)ものであって、それに集り、肖り、有難がる人々とは、自らの頭で考え自らの手足を使って調べようとすることも忘れ、ゲージの中で調教の餌付けをされているようなものでしかないのです。このような状態が古代史ブームとか古代史への関心が高まっていると考える事が凡そ間違いで、まず、民間研究者による自由で独自的な研究に地域、行政がバック・アップするなどといった事は一切なく、もし、部分的にそういったものがあったとしても、「万葉集」研究とかいった普通の人があまり関心を持たない人畜無害のジャンルとか、「地名研究」など学会そのものも存在しないことから教育委員会関係者とか学芸員の御咎めが無い(いわば馬鹿にされたジャンル)ような範囲で許されているものでしかないのです。

この点、(YYなどが関与する疑似的官製的「邪馬台国シンポジウム」などは当然にも無視しますが)、我々も全面的にバック・アップした古田武彦講演と宮地嶽神社の筑紫舞を結びつけた800人の集会などとは比べようのないただの官製イベントだったことが分かるのです。


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スポット180(後) 赤村の超巨大古墳 ③ 発見と列島の穴掘り考古学の未来 “福岡県赤村内田”

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スポット180(後) 赤村の超巨大古墳 ③ 発見と列島の穴掘り考古学の未来 “福岡県赤村内田”

20180517

 

太宰府地名研究会 古川 清久


そもそも、市民レベルから文献史学の延長上に九州王朝を発掘した古田武彦九州王朝研究は、学会通説とは全く異なるもので、教育委員会や学芸員などが期待する官製研究が封殺してきたものでしかなかったのでした。

その延長上に未来を見通そうとする真実の古代史研究を意識する人々は、このような官製イベントから独立し、最低でも敬遠しようとする意志を持たなければならないはずなのです。

いずれにせよ、古代の真実を探索せんとする九州王朝研究とは市民レベルでしか行われないはずであり、全国の九州王朝を意識する古代史探究者の方々は、間違っても官製イベントから自らを分離するべきなのです。

sp180-9「九州王朝隠し」とは、事実上国体に関わる国政の鍵であり、藤原によって封殺された歴史である以上、官製の研究などから真実が発掘されるなどあり得ないのであって、それ以外の道など存在しえないのです。        

問題は九州王朝論者と自認する○○史学の会のメンバーでありながら、自らは文章の一つも書けないことから、ニシダニなどが監修した通説派の古代史パンフレットを無批判に配布したり、行政とタイアップして教育員会や学芸員さえも喜ぶような講演やシンポジウムを仕組み、“私にも講演させて下さい”とばかりに尾を振り行政に売り込もうとする浅ましくもさもしいK県K市K神社のY宮司などといった輩が○○史学の会の現役メンバーと言うのですから、さぞかし天国(ご本人は地獄と言われていましたが)の古田武彦も嘆いている事でしょう。

このように九州王朝論者の外側はもとより内側も腐り始めているのです(古田史学の会は除きますが)。

個人的にはこの醜悪極まりない古代史の世界から離脱し、神社研究から古代を探査する真実の神代史へへと移行し、全国化が進みつつあるグループ全体の25のブログのアクセス数が年間200250万件を楽に超えるところまで漕ぎ着けることがギリギリで間に合うところまできたのでした。さもしい人はいらない。

このように、そもそも「九州王朝論」とは国家が嫌がる禁断の歴史であり、本質的に権力に抵抗しつつも真実を探求しようとする気迫と情熱を持たずしては行えないものであって、行政に“私も講演に使っていただければ”とばかりに思いっきり尾を振って接近しようとするようなさもしい3K宮司のような輩には行えないのは自明の理なのであって、行政との関係は無視できないなどと開き直り、警察関係者や宮司といった権力の手先のような人間には、所詮、擦り寄る事しかできないものなのです。

こうして、良くある普通の堕落が生じるのであって、気付いて見れば村興し町興しの余興団体と何ら変わらなくなってしまうしかないのです。では、これからハード面の話に入りましょう。


九州王朝論は何故封殺され続けるのか


まず、「邪馬台国論争」なるものが登場して久しいのですが、この背後には”「邪馬台国畿内説」は全く信用できないものの「九州王朝論」には何がしかの真実があるのではないか?“といった予感をもっておられる古代史ファンは多々おられるのではないかと思います。

元々、あまりにもあからさまなデマというものは直ぐに信用されなくなるのは世の常であって、そのことについては、当の大嘘の発信元の「邪馬台国畿内説」論者ご自身も十分にご存じではないかと思います。

一方、当方に言わせれば笑い話ですが、専門家とかプロの発掘調査に携わる科学者などと言われる考古学関係者の方々がおられます。

なぜならば、全国の古代史の学者の99パーセント、穴掘り考古学の専門家と称せられている学芸員など考古学協会に集う人自体が、「邪馬台国畿内説」でなければ雇ってくれず、学芸員にもしてもらえない上に、間違っても将来とも大学の助教や准教授にもなれない事を十分に理解した上で、自ら生き残るために「畿内説」を採用しているという事実を十分に理解しているからこのような論争を避けているのです。

もちろん、そのようなものが学問などであるはずはなく、大政翼賛会とか肖りと集りの現代版翼賛組織の日本会議などと五十歩百歩であることは明らかでしょう。


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そもそも、現在の考古学会(某考古○○会など)とは、田中角栄の列島改造論以降の公共工事の乱発によって不可避となった発掘調査の下請け(公共事業費の調査費、移転補償費)機関として、“なんでも朝鮮半島からやってきた”とする奈文研のM..などが中心となって設立したものであり、その出生の経緯からして車輪ほどの意味はないものの、公共事業の一歯車として動いてきたものだったのです。

例えば、古墳の発掘調査とは基本的には墓の改葬に近いものであり、昔でいえば、寺男、墓堀さんの領分であったことから、実際の業務はその筋の手作業の人手を投入するものだったのです。

結果、奈良、京都、兵庫、大阪…を中心とする関西の解放同盟系の親方などとの関係が強くなり、実際の調査、測量、報告書の作成の大半は解放同盟系企業(土建業者)のコンサルタント会社が行い、学者とか学芸員といったものは確認のための判を押すだけという構造が形成されたのでした。

このため、その手下となって働く発掘調査のスタッフを大量に養成する事が必要となり、M..のイニシアチブの下に、単に大学の考古学関係の単位を取得していただけという人間が京都学派の特定の偏った大嘘イディオロギーの元に調教され後の学芸員として採用されていったのでした。

従って、本当に古代史に関心を持って考古学を志したものは極わずかでしかなく、あの公共事業乱発の最も就職しやすい時期に、“職にあぶれたから考古学の学芸員にでもしてもらおうか”とか“そのうち役所で雇ってくれるかも知れないから”…といっただけの喰うためだけの浅ましくもさもしい動機だけで考古学の道に入った人が多かったからなのです。

理工系でもなければ、文科系のそれも誰でも採れる民俗学や考古学の講座を取っただけの人が生きる(喰う)ために選んだのがこの手の職業だったのでした。

このため彼らに、あのヘンリー・シュリーマンや原田大六氏の精神や情熱が宿っているとは凡そ考えられるはずもないのです。

現在、なお、考古学関係の発掘調査費の大半が、奈良、京都、大阪、兵庫、滋賀…の関西で消費されていると聞きます。

そして、僅かな残りが東北や九州に廻され、畿内に比べてどんなに重要な遺跡が出て来てもコンクリートで蓋をしてしまうという話まで聴くのですが(酒を呑んだ勢いで、“九州で発掘調査をするととんでもないものが出てくるから俺はコンクリートで何度も蓋してきた”…大川でのニシダニ)、こうして、大半、畿内で消費される構造が常態化しているのです。

そして、そのまた大半が関西系の解放同盟系の企業によって回収され、学者とそれに連なる学芸員や考古学協会員はその予算の僅かなお零れを貰い「学問」とか「科学的」などと称しているのです。

そんなものが「学問」でも「科学」でもないことは凡そ明らかですが、だからこそ、鉄も絹も出ない纒向遺跡(初めて出て来ても古墳の玄室の土被りの中ならばいざ知らず、古墳の脇の溝の中なのであってお笑い草も良い所なのです)を卑弥呼の王城などととぼけた議論がまかり通っているのです。

その理由は、今後とも安定して発掘調査費(大半は畿内で配分され消費されている)を関西で独占したいと言う利権構造にあることは言うまでもありません。

そして、少しでも正しいことを主張しようものなら直ぐに排除され助手にも採用されず、将来は閉ざされてしまう事になるのです。

このように実際の発掘調査を行うノウハウと組織とを握っているのが解放同盟系の組織であり、彼らに睨まれるのを恐れ使われているだけなのが学芸員とか考古学協会の予備軍なのです。

それこそが「邪馬台国畿内説」というイカサマが存続し続けている唯一最大の理由であり、構造としては「原子力村」とか「火山予知連」とか「地震予知連」などと全く同じなのです。

さらに踏み込めば、邪馬台国九州説、九州王朝論が叩かれ続け、古田武彦が学会から無視され続け排除され続けた背景であり、本来、凄いものが幾つも埋まっている九州などに発掘調査費が傾斜配分されることへの警戒であり、吉野ケ里遺跡クラスの発掘調査が行われることを背後の関西系土建業者が絶対に許さないという背景があるからなのです。その手先となっているのが所謂理念なき京都学派なのです。

ましてや、九州王朝論に至っては、8世紀初頭まで九州が中心であったとする立場は、古墳だろうが、廃寺だろうが古代官道だろうが、調査費の多くを九州とその一帯に配分せざるを得なくなり、解放同盟系土建業に連動する考古○○会=邪馬台国畿内説論者にとっては存続に関わる大問題となるのです。

もはや、考古学者が土建業者に使われる構造が常態化した結果、学問が地に埋もれ、考古学と言う学問それ自体の発掘調査を行わなければ、調査報告書によっては真実が見えてこない状態に陥っているのです。

このような纏向遺跡に何かを期待して集まる人々とは、果たして科学的思考ができている方々なのかとあきれるばかりです。


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原子力村の大嘘つき学者どもに騙されてきたのと同様に、考古学村においても金儲けの道具のダシとして動員される愚かな考古学ファンを見る事ほど哀れなことはありません。

そして、それと連動してデマを流し続ける大手新聞社(A,Y)とは一体何なのか?戦前に発行部数の増大を目的に戦争を煽り国民に多大な惨禍を齎した反省を忘れてしまったかのようです。

ここまでお読み頂ければ、古田武彦が最後まで学会通説派から疎まれ続けた理由が少しはお分かりになったのではないでしょうか?

そもそも「列島改造論」が全国に鳴り響いたあの公共事業華やかなり時代においてすら、まともな就職先も見つけられないと言うのは凡そ勉強をしなかった人間であり、その時代には、今では就職し難い教育学部に行くのは成績の悪い連中でしかなく、ましてや受かりやすい文学部などに入って就職先も得られない連中(前述のニシダニも元々は小学校の先生学校)が、考古学の単位でも取って役場に採用して貰おうかなどとさもしい生き方を選択した連中だったのです。

地方では、優秀な人間は県庁から市町村職員に、少し落ちて地方銀行に更に落ちて農協職員に…といったコースが現実に存在していました。

その裏口入学の一つがこの考古学ルートだったのであり、大体、あの時代の最も成績の悪い奴らが選ぶのがこの道だったのです。

凡そどのような人物が雪崩れ込んでいるかの見当が着かれたと思いますが、これを既成の価値観に縛られない自由な思考をする文化的な人物と見るか、それとも型通りの受験勉強を怠った怠惰な劣等生と考えるかは読者の良識にお任せしたいと思います。

もしも、自由な思考ができる文化的な人物が“「邪馬台国論争」など興味などありませんよ”と言った顔をして、“我々は市井のそのような議論とは無関係に、ただただ忠実に発掘されたものを正確に記録しているだけです…”“素人さん達はどうか知れませんが、考古学協会には邪馬台国九州説論者など一人もいませんよ…”などと言えるとは思えないため、この考古学協会の性格は只の利権集団としか思えないのです。京都学派として知られた畿内説論者の権化のような門脇禎二でさえも死ぬ前には、“邪馬台国は九州にあったに決まっている”と言って死んだ…のですから推して知るべしと言うべきでしょう。

これらの構造が全国に押し並べて言えるかどうかの問題はあるのですが(利権構造が薄い九州などでは中央の解放同盟と考古学の強烈なスクラム構造の存在など理解できないでしょうが、それは只の田舎者と言うだけの事なのです)、個人的には列島の考古学が吐き気を催すものでしかないという思いは全く消せません。


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所詮、元特定非営利活動法人「東北旧石器文化研究所」副理事長で、旧石器捏造事件を引き起こした藤村 新一(フジムラシンイチ 195054日 )のような人間が、普通にゴロゴロいるのだろうと思っています(個人の感想ですから偏っていようともどうしようもありません。それほど腐り切っているのです)。

彼がまたぞろ顔を出し始めていますが、捏造発覚後、離婚・再婚し妻の苗字を名乗っているような人物なのです。凡そ3K宮司も含めこのような人物の集まりが考古○○会なのだろうと理解しています。

内部に入れば、考古○○会の腐敗構造も利権構造にも気付いていないのです。どちらにせよ、月に一度程度の月例会で好い加減な講演を右の耳から聴いて左の耳からそのまま流してしまい帰る頃には忘れてしまうような研究会(ドサ周りの地方小屋)で、仮に十年で最大100回程度聴いたとしても何の成果もなく消滅してしまう事にしかならないのです。

ただ邪馬台国本を何冊か読んだだけで分かったような話を聴いて満足している様な人達の集まりとは研究会などではなく、自ら現場を調べようとも古文書にも当ろうともせず、他人の調査を鵜呑みにしたただの古代史親睦会、自説の吹聴会(街角浄瑠璃の会)などと変わり映えしないものなのです。

研究会とは自分の頭を使い手足を動かし現場を踏み、写真を撮り、伝承を拾い記録を残し、文章を残し、更に解析を進める研究者の集まりなのであって、何の研究する意志も持たず、そこで講演する人間でさえも本も出さず記録も残さないような連中であるならば、研究会ではなく只の古代史ファンの集、良くて九州王朝論を楽しむ会(聴いてくれる人間がいないから集まっているただのカラオケ・クラブ)でしかないのです。

このため、彼らは全く訓練されておらず、資料は寄せ集めで作れるが、文章も書けず(作文=立論ができず)、自らの独創も主張もないのです。そんなものは何の業績も残さず歴史のゴミ箱に潰え去るのです。

私達が目指すのは、現場を調べる事であり、そこから得られた事象を整理し解析し古代の深層を探り、ネットに公開し続けているのです。最低でも、グループ全体でのアクセスは、年間、最低でも二〇〇~三〇〇万件(現在の水準で…当方の分だけでも五十万件)にはなるはずで、九州王朝研究に対して多少とも役割を果たし確実に後世へと繋ぎたいと思うものです。

一旦、この九州王朝論の一部にでも触れた人が、再び、間の抜けた「邪馬台国畿内説」などに戻るはずはなく、さらにそれを推し進めようとする人は、このようなたちの悪い通説派によって仕組まれた○○シンポジウムとか○○研究会などに色目を使うことなく、独立性を保ち自らの頭を使ってさらに深い層を探らなければならないのです。


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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

547(前) 火の君とは歴代の橘一族だった ③ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “橘一族と

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547(前) 火の君とは歴代の橘一族だった ③ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “橘一族とは白族!”

20171225

太宰府地名研究会 古川 清久


 さて、前blog②は受け入れられない方は多いでしょうが、ここからお話しする内容は九州で起こった話であって多少は信じて頂けるかも知れません。

 そもそも橘一族とは県犬養三千代(=アガタのイヌカイのミチヨ) 天智天皇4年(665年)の女官三千代以降のものとされていますが、ここで取り扱う意味としては、県犬養三千代以前、天御中主以降の大幡主系とも熊野系とも忌部とも呼ばれる人々の総称として使う場合もありますので、その点、多少は逸脱して使うことをお許し願いたいと思います。


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いずれにせよ石清水八幡とか賀茂神社の氏子の方々とか、橘姓、立花姓、白土姓、加計姓、宮原姓、別役姓…を始め、橘の家紋を使う家系の方々にも興味深い話にはなるでしょう。

 勿論、現在でも橘性の方はおられますが、藤原氏と何度も激突した橘一族の本流は徐々に名を変え、何とか生き延びようとした様に感じていました。

ただ、身贔屓と思われそうで気が引けるのですが、特に重要な橘一族の正統の直系とは「奈良麻呂の変」に於いて藤原氏と激突した橘氏の本流(全体の半分程度の印象ですが)であり、叛乱、クーデター(あくまで藤原による論理)で放逐された橘一族こそ本流に思えるのです。

その本流中の本流の一派が鎌倉期に佐賀県の武雄市橘町(明治の橘村の後継)に居を移した(実は故地に戻ってきた)の橘 公業(タチバナノキンナリ)の流れであり、それ故に今も杵島山の西側(九州王朝論者の間では良く知られた有名なおつぼやま神籠石の正面に奈良麻呂の変の立太子道祖王の墓が置かれているのです)。


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杵島山西麓に置かれた伝道祖王墓


詳しくは「ひぼろぎ逍遥」掲載の「杵島」以下のバック・ナンバーをお読み下さい。

和泉式部が何故辺鄙な肥前の国の杵島山の東西の麓から中央の橘 道貞(最初の夫)に嫁げたか、橘の諸兄を祀る潮見神社が存在するのか、何故、杵島山東麓に百済の王族が亡命してきたとの伝承が残り、和泉式部の生誕地伝承があるのかもお分かりになると思います。


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恐らく堤雄神は底筒男命(底筒男命=開化天皇=高良玉垂命)、丹生神は豊玉姫(ヤタガラスの娘=大幡主の孫)、稲佐神が不明ですが本来は大幡主ではないかと考えます。それは出雲の因佐神社が地元では、速玉(はやたま)さんと呼ばれている事でも分かります。ただし国譲りの結果、鹿島大神=武甕槌が覆い被さっているのかも知れません。「稲」は「因」の置換えで忌部、市杵島姫の本来「瀛」(イン)なのです。速玉さんは熊野速玉大社の大幡主(博多の櫛田神社の主神)ですね。


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杵 島 ② 2/2

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杵 島 ① 1/2

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佐賀県に橘 諸兄を祀る神社がある 潮見神社

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平安の歌人 和泉式部は肥前國の杵島山で産まれ育った! ②

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平安の歌人 和泉式部は肥前國の杵島山で産まれ育った! ①

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天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した”


橘奈良麻呂の乱

事件前史[編集]橘奈良麻呂の父の左大臣橘諸兄は、聖武天皇の治世に政権を担当していた。

743(天平15年)、難波行幸中の聖武天皇が病に倒れた時、奈良麻呂は佐伯全成に対し小野東人らと謀り、次期天皇に黄文王を擁立する旨の計画を漏らす。既に738(天平10年)の段階で、皇女の阿倍内親王が皇太子に立てられていたが、奈良麻呂が「皇嗣立てることなし」と皇太子が存在しないと述べている。当時の女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、1代限りで終わる阿倍内親王ではなく、男性の皇位継承者を求める動きが背景にあったと考えられている。

749(天平21/天平感宝元年/天平勝宝元年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王(孝謙天皇)が即位すると、天皇の母の光明皇太后に信任されていた藤原仲麻呂が皇太后のために新設された紫微中台の長官(紫微令)に任命される。仲麻呂は孝謙天皇からも寵愛深く、急速に台頭してゆく。一方、阿倍内親王の皇位継承に批判的と見られていた橘諸兄親子の勢力は次第に衰退することとなった。藤原氏の台頭に危機感を抱いた奈良麻呂は、11月の孝謙天皇即位大嘗祭の時、佐伯全成に再び謀反の計画を謀った。しかし全成が謀反への参加を拒絶したため謀反を実行することが出来なかった。

755(天平勝宝7年)、諸兄の従者佐味宮守から、諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したとの密告があった。聖武太上天皇はこれを問題としなかったが、翌756(天平勝宝8年)2月、これを恥じた諸兄は辞職した(2年後諸兄は失意のうちに75歳で死去)。

同年4月、聖武上皇不豫の際黄金を携えて陸奥より上京した佐伯全成に対して三度謀反の計画を謀った。このとき奈良麻呂は大伴古麻呂を誘い、大伴佐伯両氏族をもって黄文王擁立を告げるが佐伯大伴両氏はともにこれを拒絶した。同年52日、聖武太上天皇が崩御する。太上天皇の遺言により道祖王が立太子された757(天平宝字元年)4月、道祖王が孝謙天皇の不興を受けて廃され、代わって仲麻呂が推す大炊王(淳仁天皇)が立太子される。

陰謀の計画と発覚[編集]仲麻呂の専横に不満を持った奈良麻呂は、不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。同年6月287月22)、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している」と密告した。7月27月26)、孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発した。

しかし、その日の夜、中衛府の舎人上道斐太都から、前備前小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。仲麻呂はただちに孝謙天皇に報告して、中衛府の兵を動かして前皇太子道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。翌7月37月27)、右大臣藤原豊成中納言藤原永手らが小野東人を訊問。東人は無実を主張した。その報告を受けて、孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王安宿王黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に「謀反の企てがあるとの報告があるが自分は信じない」との宣命を読み上げた。

ところが同日事態は急変する。右大臣豊成が訊問から外され、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節(たほのちゅうせつ)らを拷問にかけた。東人らは一転して謀反を自白した。その内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。

ウィキペディア(20171225 0846による


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佐賀県の通称杵島山



 547(後) 火の君とは歴代の橘一族だった ③ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “橘一族

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 547(後) 火の君とは歴代の橘一族だった ③ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “橘一族とは白族!”

20171225

太宰府地名研究会 古川 清久


村興し町興し宜しく、和泉(好字令以前の人ですから本来は泉姓なのですが…)式部と言い道祖王と言い全国に幾つかの伝承地がある事は十分に承知しています。このためその話に刃向うつもりはありません。

 と言うよりも、それらの伝承地は当方のフィールド・ワークでも確認してはいるのです。

しかし、この肥前の火ノ君の領域の橘氏に関わる伝承には、八代の妙見宮と一衣帯水の文化圏と人の繋がりを感じるとともに、この杵島山周辺から有明海最奥部一帯に広がる濃厚な妙見(北辰)信仰、大幡主の子である龍王(=豊玉彦=ヤタガラス)龍神信仰を見る時、不知火海~有明海を大幡主系の支配領域と認識する事は十分に可能なのではないかと思うのです。


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杵島山は古代には島だったでしょう。その南の端、八代の妙見に向かった岬状地は今でも龍王崎と呼ばれており、その先端には海童神社が鎮座しています(龍宮海童ですね)。

そして、この境内には対馬の墓制を思わせる「龍王崎古墳群」(群集墓)が存在しているのです。

横穴式石室と思われるものもありますが、小さな石を使った小さな石室だけの物もあり、積み石型の墳墓はやはり大陸から朝鮮半島を経由して国内に広がっていますが、後には広く全国に広がり東西日本でも多くの石積みの古墳が見られます。この群集墓は古墳に発展する古墳時代の方墳や円墳、前方後円墳などの原型のように見えます。

この手の土の代わりに石を多用し岬に葬る古墳は対馬でも幾つか見たことがあります。

この点、大幡主=塩土老翁の子であるヤタガラスこそ対馬の海神神社or和多都美神社の主神=龍王と考える者としては、長崎県でも橘姓が集中する対馬には興味がひかれるのです。


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このヤタガラス=龍王(神仏混交風には八大龍王)説については、イヅノメ神=豊玉姫(通説とは異なる鴨玉依姫のこと)の解析が役に立つと思います。ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下を参考にして下さい。


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伊豆能売の神とは何か? ⑥ “伊豆能賣の中間調査を終えて思う事” 

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伊豆能売の神とは何か? ⑤ “伊豆能賣は 何故「イヅノメ」と呼ばれたのか?”

436

伊豆能売の神とは何か? ④ “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した 

”遠賀町の伊豆神社“ 

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伊豆能売の神とは何か? ③ “遠賀川右岸の二つ目の伊豆神社の

元宮か?”久我神社 

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伊豆能売の神とは何か? ② “二つ目の伊豆神社” イヅノメの

神が少し分かってきました

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伊豆能売の神とは何か? ① “遠賀川河口の両岸に伊豆神社が並ぶ”


最後に、佐賀県南部の海岸線(干拓があまりにも延びていますが、古代の海岸線周辺も含めて)には多くの海神神社、海童神社、龍王神社があります。

普通の道路マップでも確認できますので、改めて「龍王」とか「八大龍王」とか「八龍神社」が何であるかをお考え頂きたいと思います。


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スポット182 赤村の超巨大古墳発見 ④ と古代史研究の未来について “福岡県赤村内田”

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スポット182 赤村の超巨大古墳発見 ④ と古代史研究の未来について “福岡県赤村内田”

20180517

太宰府地名研究会 古川 清久


 グーグル・アースでも容易に見いだせるのですが、今年の春以来、古墳としか見えようのない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、マスコミに地域を揚げて思惑が膨らんでいます。

場所は一般にはあまりご存じではない福岡県の筑豊地方、田川郡赤村の内田地区です。


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既に公開されてしまった事から申し上げていますが、この古墳の存在については一部の九州王朝論者の間では以前からかなり知れ亘っていました。

また、信用できる研究者に対しては当方外からも秘密裏に情報を流してもおりました。

私がこの事実を知ってからしばらくして、元朝日新聞の記者であり(ミネルヴァ書房から「太宰府は日本の首都だった」外3著)考古学に詳しい内倉武久氏をお連れし、現地の筍(タケノコ)山などに入り、高坏の破片となどの土器片を拾い、地権者である筍栽培農家の方からも大量の土器片を入れた箱などを見せて貰っていました。そして、何とかオーバー・グランドに引き上げられないものかと工作を始めていたのでした。

そもそも古田系とは異なる傍流の九州王朝論者の一部には「豊前王朝論」なる概念も存在し、これまで九州王朝の連合国家、楕円国家論、分封制、分裂国家(九州王朝内部の南北朝ならぬ東西朝)といった様々な仮説が提出されていました。

 代表的なところでは大柴英雄の「豊前王朝」坂田 隆「邪馬壱国の歴史 (1975)」 邪馬台国九州説、田川市・京都郡、室伏志畔氏、佃収…など 主として傍系の九州王朝論者の一群になるのでしょう。 

この衝撃の事実を知って以来の私自身の個人的な考え方としては、始めから宣伝戦を行なうべきだというものでした。

それは、「邪馬台国畿内説」などといった大嘘の、唯一、最大の根拠とされてきたのが畿内の大型古墳群であって、近畿大和朝廷こそは邪馬台国の後継国家であるに違いないと言った単純な思い込みであって、九州などには巨大古墳は存在しないしあってはならないとするのが、利権集団としての考古学協会であり、その神輿に乗っている(その実使われている)考古学の京都学派なのでした。

そのため、「九州でどのように重要なものが出土しようが発見されようが蓋をし、重要なものほどコンクリートで固めてしまい発掘調査費のほとんどを畿内で独占しようとの思惑があるからと考えてきました。

これこそが、古田武彦や九州王朝論が無視され攻撃され、他愛もない邪馬台国九州説までもが相手にされず、お伽話風のご当地邪馬台国説だけが許容されてきたのでした。(簡単に言えば関西の解同利権)

つまり、教育委員会や学芸員は元より、京都学派に占拠された今の発掘調査の現場では本物ほど蓋をされ、畿内説を補強する発掘調査や中程度の重要性を持った物だけを自分たちの都合の良いものを独占的に調査し発表すると言う構造が存在していることから通常は絶対に蓋をされてしまう恐れがあるのです。

このため考古学の発掘調査の現場に精通した内倉武久氏は、蓋をすることが絶対にできないレベルの何らかの物証(羨道など)を得るところまで進め、その後公表するべきであろうと考えられ、その意向に従ってきたのでした。

私自身、通説派はどうせ蓋をするに決まっているし、潰される事は分かり切っているのだから、一早く公表し、畿内に先行する豊前一帯の巨大古墳の存在(実はまだまだあるのです)を明らかにし、原子力村同様の京都学派による「考古学村」ぶりを炙り出し暴露し世論に訴え京都学派に占拠された考古学村を炙りだしすべきであると考えてきたのでした。

勿論、内倉氏の考え方が正論なのですが、現在の文化財保護法は京都学派のイニシアの元に独占的に発掘の権利を付与する構造になっており、恐らく時間だけが失われる事にしかならないだろうと考えていたのでした。当然の事ながら、いずれはグーグル・アースによって誰かが発見するだろうと考えていました。

そして、それが現実のものとなるのです。そのブログが公表されたのは2018年の1月でした。以下。


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ただ大変残念なことに、九州王朝論者など自称される方でさえ、実質的には現地を踏もうともされず、踏み薮を掻き分けて調べて見ようとされる方は極少数どころかほぼ皆無であって、大半は邪馬台国本読みの半通説紛いの方々ばかりと言った有様では京都学派の専横ぶりは今後とも続く事になるでしょう。

このような九州王朝論を標榜する団体も自ら九州王朝の存在の痕跡の残る現地を調べようなどとはせず、月例会の大半を通説派の学芸員の御高説を拝聴し平伏するありさまなのですから情けないばかりです。

まあ、このような言わば邪馬台国本を読む会、九州王朝論を楽しむ会では古田武彦が一生を掛けて切り開き将来を託した九州王朝論の未来は切り開けない事でしょうし、古田が残した九州王朝探究の任務はとん挫することでしょう。

しかし、“あんなところにそんな大きな古墳などがあるはずはないんですが…”と言わざるを得なかった京都学派のNダニ氏(元は奈良辺りの小学校の教員養成大学)の半ば引きつった記者会見は見ものでした。

今後どのようにしてこの巨大古墳(?)を無き物とされるかは興味深い上に、日本の古代史学会の在り様を見据えて行きたいと思うものです。従って、今回はこの列島の古代史研究に関する話をしたいと思います。


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九州などには巨大古墳は存在しないし、あってはならないとするのが、利権集団としての考古学協会であり、その神輿に乗っている(その実使われている)考古学の京都学派なのであって、「九州でどのように重要なものが出土しようが発見されようが、どうせ蓋をして重要なものほどコンクリートで固めてしまい、発掘調査費のほとんどを畿内で独占しようとの思惑があるからと考えてきました。  と前述しました。


列島の古代史研究と言った場合、官製研究はただ通説と師へのご追従(ツイショウ)研究だけであって、真面目に古代の真実へのメスを入れているのは、唯一、極一部の九州王朝論者だけなのです。ただし、文章も書かず、ブログも書かず、出版もせずに、講演もしない、できない…といったただの邪馬台国本読みの愛好会とか九州王朝論を楽しむ会…といった方々に古田武彦が託した残余の研究を継承する人が生み出される可能性などなどないのであって、古田史学の会系の人々、佃収グループ、米田良三から内倉武久周辺といった方々にしか期待できないのです。

かつて、古田武彦の初期三部作(最近のお若い方々はこれさえも読んでいない人が多いのですが)が公刊され、他愛もない邪馬台国本しか知らなかった古代史ファンが一気に、邪馬台国九州説~九州王朝論へとなだれ込み、新たな列島の古代史の深層を探究する動きが広がった時期がありました。

か古代史の研究者の数も一握りしかいない時代があたりまえのように続いていました。

その時代に、古田九州王朝論の洗礼を受けた在野の研究者達が市民の古代研究会などに集まり始め、コアの研究者が全国で数千人、購読者まで含めれば全体で万単位の通説から離脱した古代史ファンが産み出されたのでした。

 この時代、創価学会の池田大作氏さえもこの古田九州王朝論の熱烈なファンだったと言う話もある(その一端は私も参加した2015年の追悼式にも追悼文が寄せられていることでも分かります)のです。


二〇一五年十月十四日、古田武彦氏が亡くなられた。享年八九歳。…

 追悼会には全国各地からファンや研究者が参集された。次の方々からは追悼文が寄せられた)。古田氏生前の親交の一端をうかがわせるものである。


 荻上紘一氏(大妻女子大学学長)、池田大作氏(創価学会インターナショナル会長)、佐藤弘夫(東北大学教授、前・日本思想史学会々長)、高島忠平氏(学校法人旭学園理事長、考古学者)、中山千夏氏、桂米團治氏(落語家)、森嶋瑤子氏(故森嶋通夫ロンドン大学教授夫人) ※順不同。肩書きは当時のもの。


「戦後型皇国史観」に抗する学問(古賀達也)季報唯物論研究 第138号 ● 2017/2より掲載


 この他の有名人にも古田武彦ファンは多く、上岡龍太郎氏もそのお一人だったでしょう。

 ここで、もう時効だと思いますので古田史学の会の中枢部から聴いた話をお話しします。

従って、その範囲での話ですのでご判断は読者にお任せします。

この時代(自公連立政権の成立は20年も遡る昔の話になりますが、それ以前の中曽根政権下において)、池田大作サイドから古田武彦氏に対して、この新たに登場してきた日の出の勢いの「九州王朝論」への支援を行い古田武彦氏をしかるべき古代史の研究セクターの代表者として援助し大きな役割を果たさせたいが、市民の古代研究会の内部にいる全共闘系など左翼系の人々を切って欲しい…との話が持ち込まれたと言うのです。

在野の研究者でしかなかった故)古田武彦氏にとっては破格の条件であって、それなりに熟考されたと聴きますが、自らの説を信じ共に研究し九州王朝論の広宣流布(これは日蓮宗の用語=法華経の言葉ですが…)してくれている言わば同志を切り捨てる事はできないとして断ったという話だったのです。

これが、権力の側からの本物の毒まんじゅうだったのか?それとも考慮に値する戦術的チャンスだったのかは、今となっては永遠の謎でしかありません。

しかし、もしも、前者であったとしたならば、このような手段は生き馬の目を貫く様な世界では頻繁に起こりうる禁じ手であって、商社マンでも、外交官でも、自衛隊の武官に在っても…絶えず狙われる「ハニー・トラップ」の様なものであり、それほど古田九州王朝論の影響力も波及力も共に大きかったのでした。

 ここでお分かりになると思いますが、古田武彦氏の研究者としての姿勢でありあり潔癖性です。

往々にして起こる権力(もしかしたら別動隊)からの懐柔や甘い誘いなどに対して決然として自説と自己の研究姿勢を守るための自由と独立性の保持こそが真の研究者の資質である事です。

権力に尾を振る官製研究はどうでも良いとして、九州王朝論のように、国史とも言うべき「古事記」「日本書紀」をひっくり返すような国体に挑戦する研究を行うものにとっては、行政との関係、国家権力との関係において純血性を維持する事こそが生命線なのであって、それ無くしては、九州王朝論はおろか他愛もない邪馬台国九州説にさえも一歩も近づけないのです。

 このところ、町興し村興し宜しく果ては世界遺産登録に至るまで使えるものは何でも使って、意味のない人集め、単なる動員合戦、地元の売り込みキャンペーンが目に余るという声が聞こえてきます。

薄汚いゆるキャラ人形まで持ち出し、とにもかくにも何でも宣伝しようと言う浅ましくもさもしい傾向が行政からマスコミから民衆レベルまで蔓延しています。

いずれ、収まるとはとは思うのですが、この恥ずべき傾向の底流には善悪とか正誤とかいった事は二の次に、とにかく地元おこし地域振興と言った損得だけの価値基準によって馬鹿げた利益誘導に狂奔し、それに真面目な研究者までもが巻き込まれると言う馬鹿げた現象が起こっている事です。

この町興し村興し宜しく世界遺産登録問題に関しては、ひぼろぎ逍遥 から

スポット139(前~後) 内倉武久氏のブログ 「ウッチャン先生の古代史はおもろいで」のご紹介

スポット100 宗像沖ノ島世界遺産登録といった愚行が半潰れになって多少はほっとした!

他をお読み頂きたいと思います。

 要は、「真実はどうでも良いから地元が盛り上がる内容で話して欲しい…」「どうせそこらのおばさん達に達に話しても分かりはしないのだからこの土地だけの話にしてくれ…」といった要請の延長に自説を曲げる言わば行政の芸人、もっと酷いものでは自ら太鼓持ち、提灯持ちを買って出るような連中までが出て来てはいないかという問題なのです。

 このような変節漢は逆のケースもあって、元は邪馬台国畿内説論者として振る舞っておきながら、九州に来ると邪馬台国九州説に鞍替えするという好い加減な人間までもが出てくる始末なのです。

 飯塚市辺りで頻りに講演などを行っている某氏もこの一例で、居地によって自説を曲げるような人間の説を真に受けるなど、聴衆ももう少し物事を知るべきではないかと思うのですが、考古学の世界には門脇貞二を始めとしてこのような方が多いのです。

 この某氏も元は九州中央部の某国立大学で安保闘争、ベトナム反戦運動の先頭どころ某大学の社学同のキャップとして指導しておきながら季節が過ぎればたちどころに鞍替えし、華麗なる転身とばかりに奈文研に移るのですから変節もお手の物と言う訳です。裏切り者のユダの弁明も聴いて見たいものです。

彼を社青同と思い込んでいるさもしいばかりの3K馬鹿宮司がいましたが、運動場横の学内床屋の裏の通称ベト反に集った社青同(勿論ボロボロ窮乏化論で破産した馬鹿の集まりの向坂派や大田派は元より、強面の解放派でもないのですが)と言うよりもその前身というか一部を形成した「社学同(社会主義学生同盟)レフト」と俗に称された社会主義学生同盟(左翼反対派)青年インター派だったのです。

少しは労働戦線に身を落し泥まみれになるならいざ知らず、たちどころに手のひら返しをするような人物が、畿内説から九州説に転換し滔々と昔から九州説論者でもあったかのように話す人物の説を真に受ける古代史ファンとは一体何なのかを疑わざるを得ないのです。

 つまり、大陸の毎日嘘をついているような中国人や、日常的に裏切りと手のひら返しをするような朝鮮半島人のように自説を変える人物の古代史の話を拝聴する話などには何の価値もないはずなのです。

 まず、スポット180 赤村の超巨大古墳発見と列島の穴掘り考古学の未来 “福岡県赤村内田の前方後円墳?”でもふれたように、穴掘り考古学とは仮に現場で発掘調査を真面目に行っておられる報告が立派であっても京都学派のお偉いさんたちが通説に沿う形で纏め上げてしまうため、古代史を揺るがすような大発見であっても結局は畿内にとって都合の良いような解釈がされてしまうものなのです。

 どう見ても九州の方が古く、伝播のベクトルも西から東に向かっているとしか思えないものでも、「近畿大和朝廷が○○世紀の中頃に九州の豪族に下賜したもの…」といった具合になってしまうのです。

 これが、見え透いた手法である事は慣れて来れば分かるのですが、所謂、邪馬台国本を読む会、九州王朝論を楽しむ会(論じる会)の方々にはどうしようもない話になるのです。

 結局、列島の古代史探究に手を染め、僅かでも真実の古代史を知りたいと思う人とは、最低でも、近畿大和朝廷以来の国家が自分たちに都合の良い歴史を捏造しているのではないかとか、考古学者などと呼ばれて舞い上がっているただの劣等生起源の人々もその通説の補強のために作業をしているだけの国の手先でしかないはずだ…と言った視点を持たなければ真実には一歩どころか半歩も近づく事などできない事を知るべきなのです。

 従って、反権力とまでは言わないまでも、国家権力からの独立性を保てる人間によってしか古代史の真実、九州王朝論の深化といった課題には突き進みえないと言う事なのです。

 ましてや、「行政や教育委員会との関係は無視できない」とか言って自分もついでに売り込もうとするようなさもしい人物には何ら新しい発見も深化も引き出す事はできないのであって、凡そ警察関係者とか国家に奉仕する事を前提に認められた神官養成学校出身者とかイベント業者のような直ぐに権力に尾を振る人々には九州王朝論を探究する可能性は薄いのです。

 極論すれば、さもしい人間の話は信じるな…となるのですが、判断はご自由になさって下さい。

 邪馬台国本を読む会、九州王朝論を楽しむ会(論じる会)で手頃な老後の楽しみを見出すのも人生の一つとは言えるでしょう。勿論、何の価値もありませんが…。 列島の古代史も実はダビンチコードなみに凄い歴史がゴロゴロと転がっているのです。

 幾つかご紹介しておきます。一つが、福岡県久留米市の高良大社に祀られている高良玉垂命こそが藤原によって第9代とされた開化天皇(稚日本根子彦大日日天皇=ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト)であり、その正妃となった仲哀死後の神功皇后(皇宮皇后命)との間に産まれたのが第16代とされた仁徳天皇(大鷦鷯天皇=オホサザキノスメラミコト)になるのです。以下「高良玉垂宮神秘書」の一部。


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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

548 別役さんからのコメントを頂いて

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548 別役さんからのコメントを頂いて

20171226

太宰府地名研究会 古川 清久


 既に、ひぼろぎ逍遥の読者にはお気付きの方もおられるでしょうが、別役という姓をお持ちの方からコメントと言うよりも、情報交換のご提案を頂きました。

 四国島には過去三~四度ほど足を踏み入れていますが、山陰山陽に比べてどうしてもフィールド・ワークの絶対量が少なく、このようなご提案は有難い限りです。

 このような神社に精通された方が全国におられて、頻繁に情報を交換でき、尚且つ、互いにblogでも発表できるようになれば、お花畑とも思い込みとも言えないような暴論に近い地元賛美や、「記」「紀」だけを根拠に学会や決して公的機関でもない神社庁が推奨するような通説を強弁する方、村興し町興しから果ては世界遺産登録などと言った真実の古代史の探究からは遠く外れ、金儲けだけに狂奔するようなさもしい説はある程度排除できるのではないかと思うばかりです。

 さて、当然にも興味を持ったのは「別役」という奇妙かつ稀少な「姓」です。

 直ぐに感じるところがあり、例の如く「姓名分布&ランキング」という有難いサイトで分布状況を確認しました。


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全国でも200件程度の非常に少ない姓であることは予想していましたが、その分布に関しては、ほぼ高知県限定、しかも、香南市、高知市などに集中する「姓」であることが分かりました。

 このサイトを使ってもこれほど特徴的な分布を示す姓の方にはなかなかお目に掛かれないもので、それだけでも興味をそそられた事は言うまでもありません。

 しかし、このような事ばかりをやっているとそれなりの勘と言ったものが働く様になるもので、直ぐに、“もしかしたら大幡主系の白族ではないか”との考えが浮かんできました。

 と言うのも、別役には「役」という文字が使われていますが、この文字「役」がヤクと呼ばれるも、エン、イン、オン…と通底しており、忌部の「忌」(イン)、「伊美」(イミ)、「役小角」(エンノオズノ)の「役」、「疫」、後には「卜部」、「陰陽師」(オンミョウジ)の「陰」(オン)、それ以外にも、因幡の国の「因」、印旛沼の「印」、もしかしたら、出雲の国の「出雲」さえも(イズモ)ではなく(イン)と、忌部の、従って、大幡主~ヤタガラス~鴨玉依姫をシンボルとする白族を意味した文字である可能性を感じ取ったのでした。

 特に、土佐の高知となると、忌部の本拠地である讃岐、阿波、熊野(紀州)の放射が直ちに届く様な場所であり、どう考えてもこの橘一族に繋がる方ではないかと思ったのでした。

 すると、確かに高知県(高知市)にお住いの方だったのです。

 結果、私達が関心を持っている天御中主命~白川伯王~大幡主~豊玉彦=ヤタガラス~鴨玉依姫~橘一族…石清水八幡…にどこかで繋がる分流であることは明らかでした。

 まず、ネット検索により別役一族を検索すると、別役神社(竃戸神社)が出て来ます。

 これが竃神社と呼ばれている事から別役氏の基本的な性格が見て取れました。


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それは、竃戸神社とは鴨玉依姫と大山咋(佐田大神=断じて猿田彦ではない!)を祀る神社だからです。

 この事から考えると、この別役城に拠った別役一族とは、どうやら白族系でも阿蘇氏の影響が強まった上賀茂系の人々であることが見えたのでした。

 ただ、全ての別役家がそうであるかは、まだ、分かりません。

香美市香北町西川とは四国の物部川流域の地であり、それだけでも別役一族の性格が見えますが、ネット上には「別役一族の皆さん三月三日に別役神社に集まりましょう。別役家専用の駐車場が待っています。場所は高知県香美郡香北町西川 別役です。詳しいことは第二駐車場にお出かけ下さい。」と出ています。


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別役三吉郎義重????)~(????

山間部における長曽我部氏の重臣で、長宗我部元親に仕えた。

香美郡香北町西川の豪族で東川・西川別役城主。東川、西川に五百二十石の土地を領有する。

長宗我部氏の時代に功を成し大忍最大の土豪となったが、 山内一豊の入国により知行所(領地)は召し上げられ農民になった。

別役神社

香美郡香北町西川別役に別役家ゆかりの「聖神社」がある。

境内に三吉郎が豊後戸次川への出陣のさいに武運を祈って植えたと伝えられる杉尾の巨木が今も残る。

一族は今でも年に一度三月三日に神社に集まり先祖の霊を慰めるといわれている。


ネット上にはもう一つ「別役一族の歴史」があります。


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また、548-5氏は簡潔に以下のように書かれています。

現高知県である土佐国香美郡別役村が起源(ルーツ)である、古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏(あるいは在原氏)、香宗我部家に仕える臣下。 

まだ、継続して調べていますが、どうやら橘一族をルーツとしているかその臣下であった事だけは確認できる様です。

姓が別+役となっていることから、そのまま理解すれば、まずは、忌部の別れと言った印象を受けます。


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これまで高知県に入ったのは二度しかありませんが、最も入りたかったのがこの地域でした。ただ、日程の都合とか同行者の都合もあり、果たせませんでした。

 しかし、別役一族が橘氏の一部である事が分かって来た以上、次回はこの地域に絞り込んで調査を行いたいと思います。

 地名を見る限りこの一帯には上鴨系、下鴨系の氏族がおられるようで、実に興味深い所です。

 土佐山田には「山田」が…これは大山咋系(松尾=日吉=山王=日枝…)の地名ですし(上鴨系)、香北町白川は熊本の白川同様、白川伯王の白川を意味しています。

同じく大根木は阿蘇の草部吉見=ヒコヤイミミを意味しています(その子が大山咋なのです)。母神は勿論、宗像の瀛ツ島姫=市杵島姫です。

 物部氏の本隊を思わせる仁井田も香美市にあります。これはニギハヤヒ=山幸彦系ですし、調査は急務です。


なお、研究目的で百嶋由一郎氏が残した神代系譜、音声CD、手書き資料等を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。


549 岩戸神社に行かねばならない “阿蘇は立野大峡谷の南崖に鎮座する重要な一社”

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549 岩戸神社に行かねばならない “阿蘇は立野大峡谷の南崖に鎮座する重要な一社”

20171227

太宰府地名研究会 古川 清久


 通常、現地に訪れる事無くblogを書くなどあり得ない事(これまでにも例外が12ありますが)ですが、今回は逸る気持ちもあり下調べの意味もあることから未見の神社を書くことにしました。

 この神社にこれまで全く気付かなかった事は迂闊と言えば迂闊でした。阿蘇への進入路は熊本市側から入る通常のルートが4本程度あるのですが、そのいずれからも外れている上(江戸期まで南阿蘇に入る良く使われた「南郷往還」)にどこからも見えないようない岩肌に鎮座している神社だったからでした。

 この地がいかに重要かは、熊本大学の裏手に龍田山があり、立野の大峡谷が窄まっていることから、この地で西からの風が一気に風速を上げる場所だからであり、「日本書記」の“龍田の風を立野に祀る”という故事はこの地の事であって(古田史学の会の正木 裕が言う画期的な説)決して大風など吹かぬ辺鄙な奈良の話ではないのです。そして、風の神こそ支那都彦(シナツヒコ)草部吉見=ヒコヤイミミであり、雷神とは崇神(ヒコヤイと市杵島姫との間に産まれた大山咋と鴨玉依姫の子)の事なのです。


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創建は永正4年(1507年)室町期であり、大己貴神、少彦名神が祀られる(「熊本県神社誌」163p


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おごりは禁物です。私が知らないとしてもうちのメンバーには神社に精通した人が数多くいる訳で、訪ねると熊本のF女史はグループのメンバーを動員し、地元の大津町が整備する前に道つくりを行ない神社の整備をしていたと言っていましたし、福岡のI女史はグーグル・アースの古代祭祀線が線上に載ったため入口まで入ったものの、蛇が苦手で逃げ帰って来たとか…知らぬは私ばかりだった訳です。

 いずれにせよ、ここにも大国主命、少彦名命祭祀を確認できる訳で、熊本では見過ごす事の出来ない重要な一社なのです。

 駐車場は十分にあるものの、一キロ足らずを広葉樹の森抜けて歩く必要があり、最低でも片道20分余りの参拝になるようです。


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549-5関東のメンバーの常陸の国ふしぎ探検隊の方々からは、この神社が信州の戸隠に移動していると言ってきているので、この点に注目して調査を進めようと考えています。

 ただ、今のところあちらの金山彦祭祀は確認できていない事から(戸隠中社の思兼命は金山彦ですので)、

果たしてうまく繋がるかは現地に入って以降の事としたいと思います。

 年明け早々に、熊本のメンバー数人と現地に入る相談を進めているところです。
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奥社参道中程、萱葺・朱塗りの随神門

 戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社です。
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしています。
平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えました。
  江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきました。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めました。

明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至ります。

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戸隠には岩戸が飛んで行ったとの話がある訳で、当然、その投げられる元があるはずなのです


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)     必要とされる方は09062983254まで

スポット183(前) 赤村の超巨大古墳 ⑤ から内倉武久 朝倉市山田の巨大円墳「継体天皇陵」説を

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スポット183(前) 赤村の超巨大古墳 ⑤ から内倉武久 朝倉市山田の巨大円墳「継体天皇陵」説を考える

20180525

太宰府地名研究会 古川 清久


先に、スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”外をオンエアしています。今回は、報道はされていませんが、九州王朝論者の大御所のお一人である内倉武久氏が提案されている朝倉市山田の長田大塚古墳(継体天皇陵説)について「うっちゃん先生の古代史はおもろいで」登載ブログを転載するとともに、赤村の超巨大古墳を契機に九州島にこそ近畿大和王権に先行する権力が存在した土地であったことをお考えいただきたいと考えています。

再掲

現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。


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赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。

丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。

2018/03/20付 西日本新聞朝刊=


ブログ013 「継体天皇」の御陵は福岡にあった
2015-07-09 10:27:07

ブログ013「継体天皇」の御陵は福岡にあった ―杷木神籠石誕生に一役か―

  『古事記』『日本書紀』(『記紀』)に記す「継体天皇」と「磐井」の争いは、九州政権内の権力争いであろう、と考えている。 そうであれば「継体天皇の御陵」も九州のどこかにあるはずだ。というか、なくては筆者の考えは大間違い。「ただの妄想」と受けとられかねないだろう。この 件についてどうしても読者にお知らせしておかなければならないと思う。というのも、「継体天皇の御陵が福岡県朝倉市にあるのを発見した」のだ。「断定」とまではいかないが可能性としては極めて高いと思える。

 説?「継体陵は今城塚」に疑問も

現在『記紀』に言 う「継体天皇」の御陵として宮内庁は、大阪府茨木市の前方後円墳・大田茶臼山古墳を指定している。これに対して考古学研究者の多くは約2キロ東北の高槻市 安威(あい)の今城塚を本当の「継体陵」であろうとしている。両方とも『記紀』にいう「三嶋の藍(あい)」に相当する場所にあるからである。
 ただ宮内庁の指定 は研究が進んでいなかった江戸時代から明治時代にかけての国史学者らが「保存状態の良い立派な古墳だ」という理由だけで指定したものだった。これに対して 考古学界の意見は築造年代の研究や発掘調査によってほぼ確実な年代が抑えられ、ほとんどの研究者が賛同し、定説化している。
 ただ筆者は疑問点 として、内部に納められた石棺のうち一つが九州の阿蘇溶結凝灰岩製で、九
sp183-2州からはるばる運ばれた石棺であることや、付近の古墳から出土している短甲などが 南九州の地下式横穴墓の出土品と酷似していること、そして埴輪に九州の熊曾於(熊襲・隼人)族が持っていた相撲の風習を思わせる力士像があることから、こ の古墳群は熊曾於族、というか、九州から派遣された九州政権の官人の墓ではないかと疑問を呈しておいた。(注1)。『日本書紀』に記す「継体天皇」が全くの虚構でなければ「〝継体〟は二人いた」と。

「継体」の御陵について『古事記』は「三嶋の藍(あい)の御陵に葬(はぶ)る」と書き、『日本書紀』は「藍の(野)陵に葬る」とだけ記す。国名の表示はない。どこの「藍」なのか『書紀』にいたっては郡名の記載もない。

国史学者や考古学研究者らは『書紀』の記載にひきずられて「継体天皇」は大和で君臨した天皇だと思い込み、『記紀』に示す「三嶋の藍」は高槻市(摂津国)の「三嶋郡の安威」で間違いないと、まったく疑いも持っていない。


③ 継体天皇は九州年号の創始者


しかし、朝鮮の史書『東海諸国紀』に記す「継体天皇」は、その十六年壬寅(五二二年)、初めて「九州年号」を建元した天皇と記録されている。(写真=申淑舟著『海東諸国紀』継体天皇の部分。「善記」が「善化」に文字化けしている)

『二中歴』には「継体」年号が記され、他の「九州年号」を記録した諸本の使用例もすべて「継体の時代」からである。『二中歴』の「継体年号」は唯一の記録で、諡(いなみ=贈り名)を「年号」と誤って記録したものだと考えられている。
中国の『芸文類 聚』や『三国志・呉志』などの文章を拝借して作り、ほとんどが〝偽作〟である『書紀』の「継体紀」は別として、『古事記』や『筑後国風土記』(逸文)の記 載内容をみると、「磐井は臣下の礼をとらなかった」「百済、新羅の貢進物を得ていた」「官軍(継体軍)が急に攻めてきた」と記されている。「勝てば官軍」 である。『日本書紀』と同様、勝ち組がとんでもない〝逆転の歴史〟を記している疑いもある。
古田武彦氏はこれ らの記載からして「本来の王は磐井であり、継体は反逆者であろう」と喝破した。まさしくその通りであろうと筆者も考える。が、まして重要なのは彼は「九州 政権の年号を創始した天皇であろう」ということだ。ということは「継体天皇は九州の王であろう」と考えざるを得ないのである。
「継体天皇」は九州政権の王位をめぐる権力闘争の勝者だったと考えられるのだ。諡はその戦いに勝ち、政権を簒奪して「跡を継いだ」から「継体天皇」とされたのだろう。
さらに『書紀』と『記』では天皇の名前が違う。『書紀』では「男大迹(おほど)」だが、『記』では「袁本杼(えんほんじょ?)で、とても「おほど」とは読めない。別人と考えるほかない。

 和名抄』などに「九州の三島に藍」

では、「九州の継体天皇」はどこに本拠地を構えていたのか。これについては『記紀』も『風土記』も黙して語っていない。いずれにせよ「御陵」の近くであることは間違いなかろう。御陵の場所までうそをついたらとんでもない背信行為だ。
 そこで現在の地図を広げて調べてみたが、「三嶋」とか「藍」という地名は北部九州では見つからなかった。それでは、と『和名類聚抄(和名抄)』にあたってみた。するとそこにはっきりと「三島郷」が記されていたのだ。場所は福岡県南西部に位置する朝倉市である。

『日本地理志料・和名抄』はこう記録する。

【筑前国・上座郡】
 按ずるに上座は古本『神名式』訓じて加美都久良(かみつくら)・・・下座郡の例に準じて「上座」は加牟都安佐久良(かむつあさくら)すなわち上の朝倉なり・・・。


sp183-5【上座郡・三島郷】

越後の三島郡の例により、まさに美之萬(みしま)と読むべし。伊豆、下野、越中、長門に「三島郷」有り。『姓氏録』三嶋宿祢(みしまのすくね)は神魂命十六世孫、建日別命の後。豈その裔の居する所ならんか。『英彦山縁起』に西は上座郡三島郷を限りとす、と。筑紫氏の文明十一年文書に上座郡見島。伊藤氏曰く古毛村に三島の地、これその遺名・・・。
 今は地名から消えてしまっているが、平安時代までは「三嶋郡」はしっかりあったのだ。しかしそこには「あい」の地名はなかった。
 そこで「明治十五 年全国小字調べ」の福岡県分にあたってみた。するとなんとそこにはちゃんと大字「宮野」「大福」に小字「ミシマ」「三島ノ下」や「會(会=あい)」も記録 されていた。「會」は「あひ」とルビ付きで二か所ある。「合の坂」もあった(『福岡県史資料』第七集)。ここが『古事記』にいう「三島の藍」である可能性 も高い。国名の「筑紫」がカットされていた可能性が考えられた。
 旧朝倉町は筑後川中流域の北側に広がる街で、『書紀』には斉明〝天皇〟が白村江の戦い(六六二年)に参加するために中大兄皇子と滞在した「朝倉の宮」の所在地であると書く。東側には著名な「杷木(はき)神籠石城」のある杷木町がある。

④朝倉町に列島最大級巨大円墳

sp183-4ではこの付近に「御陵」にふさわしい古墳があるのだろうか。実はある。大字宮野から約三キロ東にある列島最大級の円墳・長田(ながた)大塚古墳である(写真)。直径八〇メートル。高さ三〇メートル前後ある。筑後川を見下ろす小高い場所にあり、堂々とした姿は一帯を威圧している。九州はもとより全国的にみてもそうそうない大円墳である。現状では埼玉県・埼玉古墳群の丸墓山(直径105メートル)に次ぐ規模である。発掘調査はされておらず、古墳の規模などについては違う見方もある。    
筆者は記録の上で はこの古墳があることは知っていたが、実見はしていなかった。今年(平成二七年)二月、この古墳を現地出身の書道家井上悦文氏に案内していただいた。氏は 筆者に「草書体」は「楷書体」に先行する書体であり、「魏志倭人伝」に記載される「投馬国」は草書体で書かれた写本の「殺馬国」を間違えて刻した「薩摩 国」のことであるとご教示をしていただいた方である。著書もある。

⑤宮内庁が保存を要求?

井上氏の話は実に 興味深かった。この古墳の斜面一面は柿の木畑になっている。氏がこの古墳を訪れた時、たまたま居合わせた土地所有者の一人が柿の木の手入れをしていた。氏 が「あなたはこの畑が古墳であることを知っているか」と尋ねたところ所有者は「もちろん知っている。宮内庁のおかげで土地を売れなくなった」と愚痴ったという。
近くを通る大分自 動車道・山田サービスエリアの予定地がこの古墳にかかっていた。所有者はこれで畑が売れると思い、喜んでいた。ところが「宮内庁」が「大事な古墳だから壊 してはいけない」と横やりを入れてきた。その結果、自動車道は北の方に急カーブし、路線変更となり畑は売れなくなった、という。
 最初この話を聞い たとき筆者は、この古墳が『古事記』に記す「継体天皇陵」であろうなどとは全く頭になかった。それで所有者が言う「宮内庁」は「文化庁」の誤りだろう、と 思った。しかしよく考えてみると、「文化庁」の誤りであるとしても直接所有者と交渉するのは県か市である。「文化庁」は顔を出さない。所有者は間違いなく 「宮内庁」と聞いている。

土地所有者の話が事実だとすると、宮内庁はどんなルートでこの古墳が破壊されそうになったのを知ったのか。そしてなぜこの古墳が陵墓を指定、管理する宮内庁 と関係があるのか。現在この古墳は宮内庁はもとより文化庁などの指定は全く受けていない。「無名」ともいえるこの古墳が宮内庁の興味を引いた理由は何なの か。

1 「熊襲は列島を席巻していた」(ミネルヴァ書房 2013年)参照


ブログ014 「継体天皇」の御陵は福岡にあった② 2015-07-12 23:41:48

ブログ014 「継体天皇」の御陵は福岡にあった② ―継体天皇も熊曾於族か― 


スポット183(後) 赤村の超巨大古墳 ⑤ から内倉武久 朝倉市山田の巨大円墳「継体天皇陵」説を

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スポット183(後) 赤村の超巨大古墳 ⑤ から内倉武久 朝倉市山田の巨大円墳「継体天皇陵」説を考える

20180525

太宰府地名研究会 古川 清久


⑥宮内庁、禁書「日本(旧)記」を秘蔵?

今回、「三島の藍の陵」の探求からなぞがひとつ消えた気がする。「宮内庁」はこの古墳が「継体天皇」の御陵であるという何らかのデータを持っていたのではないかと言うことだ「先刻ご承知」だったのではないか、と。
 「大和政権」が列島の支配権を奪還?し、初めて年号を建てる権利を得た八世紀。「歴史的偽書」である『日本書紀』を編纂するにあたって、藤原不比等政権は容赦のない「史書狩り」を行っている。『日本書紀』、『続日本紀』はさらりとこう書く。

『日本書紀』持統天皇五(691)年八月

 十八氏、大三輪、雀部・・・巨勢、膳部、大伴、紀伊、平群、羽田、阿部、・・・穂積、阿曇に詔し、その祖などの墓記を上進せしむ

『続日本紀』元明天皇和銅元(708)年

山沢に亡命し、禁書を挟蔵して百日自首せねば、また罪すること初めのごとくせよ

「亡命」は八逆の罪のうちもっとも重い罪で、死罪は免れない。要するに「禁書を提出しない者は殺す」と言っているのである。政権の必死さが伝わってくる。
 没収したこれら「墓記」や「禁書」≪おそらく九州倭(い)政権の史書『日本(旧)記』などであろう≫は今どこにあるのか。筆者はこれらの書物はまず間違いなく写本を重ね、宮内庁書陵部の書庫の奥深くに所蔵されているとみていた。
 「九州倭(い)政 権」がかしましく人々の口からでるご時世になった。「もう捨てておけない」と宮内庁の職員がこれら「没収書」を読んだ可能性を想像する。そこには「継体天 皇」の真実に近い話が書かれ、「陵墓」の所在地が「筑紫の三島の藍」とはっきり記載されていた。「宮内庁が横やりをいれた」背景にはそんな事情が隠されて いた可能性があるのではないか。

⑦近辺に「都」?の遺構も

「筑紫の三島」近 辺にはどんな古墳、遺構が発見されているのだろうか。まず指摘したいのは、この地域にもう一基「巨大円墳」があるらしいことだ。「長田大塚古墳」に勝ると も劣らない巨大な円墳だ。付近の人は「宮地嶽」と呼んでいる。墳丘?の頂上部が削られて宮地嶽神社の境内に造りかえられているようだ。
 「長田大塚古墳」 から約三・五キロ北西の烏集院(うすのいん)にその堂々たる姿でそびえている。ここは背後の丘陵とあわせて前方後円墳との見方もある。しかし、“前方後円 墳„の前方部にあたるところに小型の前方後円墳が造られ、大小の円墳約四十基がほとんど破壊された状態で放置されている。柿の木畑のあちこちに石室の石が 転がっている。
 朝倉市の西隣、筑前町にはこれも九州最大の前方後方墳・焼ノ峠古墳(全長約四〇メートル)もある。「宮地嶽」の周辺や筑前町、筑後川向かいのうきは市一帯は濃密な彩色、装飾古墳地帯でもある。

「長田大塚古墳」の東側、志波(しわ)地区では礎石建物を含む大規模な官庁街の遺 構が発見されている。「七世紀後半の謎の遺構」とされているが、九州の遺構についての放射性炭素による年代測定の結果から、九州の土器は近畿より二百年、 ないし三百年ほど古いことがわかっている。「七世紀後半」でなく「五世紀後半」の遺構であるとすれば「継体時代」にぴたりと重なる。「継体天皇の都」の遺 構である可能性はきわめて高い。

⑧杷木町町史の記述は実に興味深い。杷木神社の社伝についてこう記す。

「朝倉の宮」杷岐 神社社記によれば、「第二十六代、継体天皇の御宇、筑紫の磐井らが謀反を企て、異国の御貢物を奪い取る。朝廷詔旨を下し麁鹿火大連を大将とし官軍筑紫に進 発し、筑後国にて大連磐井と相戦う。三井郡にて官軍大いに利を得て、遂に磐井を討伐し、(物部)麁鹿火(あらかひ)即ち凱旋せり。然るに磐井が残党青人ら 土蜘蛛の余類と力をあわせ、心を均しうし豊前筑前の間に蜂起す・・(中略)・・然るに(継体側の)大将(田中)鷲丸謂らく、上座郡には大己貴命、武甕槌命 御座しますと聞く。彼の御神の冥助を頼み奉らんは如何にと云う。ここに池田の池と云う奇異なる池あり。その池の汀に高棚を構え、真榊を立て、端出縄を曳き、大幣を捧げて勝利を祈る。・・(中略)・・是によりて青人、土蜘蛛ら此処かしこに滅亡し両国立所に平定す。天皇大いに叡感・・(中略)・・杷木大明神に宇津志馬(うつしうま)二匹、弓箭幣帛を捧げられ、即ち物部宿祢高古を祭主とし朝敵退治の蟇目(ひきめ)の射法を勤めしむ。

恒例の祭祀は、この時から始まれり。大永二年(一五二二年)神坂源太夫藤原貞家 誌之

文の主役は「継体 天皇」である。文中の「池田」の地名は杷木神籠石城の西側一帯に今も残る。「高棚」はおそらく「高柵」の誤写であろう。「棚(たな)」では何のことか意味 不明だ。「柵(さく)」であればずばり「城柵」のことである。八世紀以降に大和政権が東北に設けたいくつかの城もそれぞれ「越国の淳足(ぬたり)柵」、 「都岐沙羅(ときさら)柵」「磐舟(いわふね)柵」と呼ばれた。佐賀県武雄市の「おつぼ山神籠石城」の発掘調査でも、土塁の前面にずらりと防御用の木柵を めぐらせていたことがわかっている。
 社伝の意味するところは「対磐井戦争のとき三島の継体大王が(神籠石)城柵を築き戦勝を祈願した」となるのだろうか。時は六世紀始めということになる。「継体天皇」が「筑紫の三島」にいた傍証と考えてよさそうだ。

⑨「継体天皇」は熊曾於族か


sp183-6ここで注意しなければならないのは『(新撰)姓氏録』の記載である。前に記したように

『「三嶋宿祢」は、神魂命十六世孫、建日別命の後(と記載されている)。あにその裔(子孫)の居する所ならんか。

と書く。「建日別(たけひわけ)は『古事記』国土生成の項に「熊襲国(の支配者)は建日別」とある。「筑紫の三島」にいた「三島の宿祢」とそのともがらは「熊曾於族」だというのだ。「継体天皇」はこの一族の居所で君臨していたことになる。
 確かに朝倉町内の彩色古墳や隣接の筑前町仙道古墳(国指定史跡)には石室の内部に鮮やかな朱色で「太陽」や三角文、矢入れ(ゆき=靫)などが描かれている。また杷木(杷岐)神社の鳥居に掲げられた神額は渦巻文を主体にした特異なデザインだ写真)。これらの文様は熊曾於族や紀氏の渡来元であった中国大陸にその淵源があることは民俗例でも明らかである。矢入れは弓矢をもっとも重要な狩りや戦闘の道具と位置付けた熊曾於族のシンボル的装飾だ。多くの装飾古墳に描かれている。
 また朝倉市の北端、十石峠付近の集落には熊曾於族が中国大陸の少数民族と共通して持つ「犬祖伝説」も伝えられている。「民族の祖先は犬と結婚した女性である」という話である。『新撰姓氏録』の記載通り、熊曾於(熊襲)族のにおいが濃い。
 ということは、『古事記』にいう「継体天皇・袁氏?」も熊曾於族の流れをくむ勢力の一人であった可能性がきわめて高い。

⑩「継体」勢力の源泉は鉱物資源?

井上氏は現地踏査 を繰り返すうち、さらに重要な「発見」をしている。付近一帯に数多くの銅鉱山、スズ鉱山があったことだ。明治以降は操業を停止しているため今はその存在を 知らない人ばかりだ。が、江戸時代まではそれぞれ操業していたらしい。鉱石を選別、洗浄した廃液を貯める調整池の後も残っている。
 銅鉱山は朝倉町字 (あざ)山後から城、鬼が城、矢野竹、上秋月まで点々と存在していたらしい。福岡市で地震があると、その二,三日後には必ず朝倉でも地震があることを不思 議に思っていた井上氏は、福岡市中心部にある警固(けご)断層が朝倉と連なっているのではないかと考えた。断層には鉱物資源が露出しているケースが多い。 そこで古老らに話を聞いて回り、鉱山群の存在を確認したのだ。
 もちろん、これらの鉱山群が五、六世紀に採掘されていたかどうかは今のところ不明である。ただ、上 秋月八幡神社・宮崎安雄宮司は神社の伝承として「景行天皇が弓削(ゆげ)の連(むらじ)という男を呼び、白銀(スズ)を採取させた」という話を『朝倉郷土 史研究会会誌』に書いている。「弓削連」は石古呂別命(いしころわけのみこと)饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖とする人という。この話と関連があると 思われる地名字「弓削」も近くにある。「景行天皇」は四世紀前半ごろの「天皇」と考えられ、管見では佐賀県鳥栖市周辺に都を置いていた大王だ(注2)。すでにこの頃から鉱山の利用が始まっていたということか。
 熊曾於族は弥生時 代前、中期ごろ、山東省や江蘇省北部から相次いで渡来(逃亡)してきた人々である。彼の地では鉱物の製錬、鍛冶技術は確立されており、この技術をしっかり 身に着けていたことは間違いなかろう。「旧体制をひっくり返して新しい体制を造った継体天皇」の力の源泉のひとつが鉱物資源の保有と活用、それと筑後川中 流域の支配権であったことは想像に難くない。川を制するということは、当時の交通路を制するということである。

⑪「継体」の出身地は筑紫の「福井」

余談に類するかも しれないが、『日本書紀』は「継体天皇」の出自を「越前の国」、すなわち現在の「福井県」であったと書いている。杷木の東側には宝珠山村(現東峰村)があ る。宝珠山村は明治二十二年ごろ「宝珠山村」と「福井村」が合併してできた。お隣は大分県日田市である。
 「福井」は「井戸から米が吹き出した」から「福井」というのだ(宝珠山村史)と説明されている。しかし、金属関係の研究者は「福」は「吹く」である例が多く、タタラに送る息や風を意味するという。「伊福部」など鉄生産に関連した氏族に「福」がついている。
 確かに「福井村」にも「鍛冶屋」という小字がある。鉄器を作る伝統が息づいていたのではなかろうか。村の西側には「赤い酸化鉄が多い村」を意味する「赤村」もある。

宝珠山村にはその名にちなむ「宝珠」(隕石であろうとされる)を御神体とする「岩屋権現」があり、この神や英彦山の神を招来したのは「継体天皇」であるという。
 ここが「古事記」にいう「袁本杼=継体天皇」の出身地かもしれない。そして大和政権が話をでっちあげるに際してその出身地を「越前福井」にしたのかもしれない。
 さらに「三島の宿祢」の進出先である茨木市にも「大字福井」があった。安威川の西側一帯がそうである。新しい居住地に故郷の地名をつけたのであろう。

注2 「景行」が九州巡行から帰って「遊んだ」のは鳥栖市西酒殿町の「酒殿の泉(温泉) で、景行の都は巨木に面した「纒向(真木に向かった)場所」、すなわち『記紀』や『肥前風土記』に記される筑後川下流域の巨木伝説に相対する場所にあった ことなどによる。注1参照。(二〇一五年七月)

 この項①②は東京「多元の会」、「九州古代史の会」の両会誌に掲載したものに加筆したものである。


今回は、内倉武久氏のご好意で「うっちゃん先生の古代史はおもろいで」のナンバー 013014 


013「継体天皇」の御陵は福岡にあった① ―杷木神籠石誕生に一役か―
014
「継体天皇」の御陵は福岡にあった②
 ―継体天皇も熊曾於族か― を転載させて頂きました。


 次は ひぼろぎ逍遥223224「内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について 」上下の問題を再度考えて見たいと思います。


sp108--13

本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。

550 2018年を前にして「里芋正月」を考える

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550 2018年を前にして「里芋正月」を考える

20171228

太宰府地名研究会 古川 清久


 今、550本目の「ひぼろぎ逍遥」の原稿を書いています(公開時点では610本目)。

「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)も510本台ですので、スポット版、ビアヘロ版と併せ、これまで1300本近いblogを書いてきた事になります(オンエアは1100本程度ですが、本に直せば2530冊にはなるでしょう)。

 正直言って、月間30本程度のblogを書き続ける事は容易ではないのですが、一面、自ら思っていること、考えていることを書き留め継続して公表できるという事は鬱積した思いを解消でき、多少とも将来の研究者、探索者への一助にはなるであろうと考えています。

 今期の年越しは歯の治療や研究会のスケジュールに追われ、なかなか長期の遠征調査に出る事が出来なかったため、懸案の土佐東部の物部川流域の調査や隠岐の島の神社調査も思い立てず、しばし募る思いを充填しているところです。

 これから新年を迎えるとしても百嶋神社考古学を軸とする神代史(実は本当の古代史)研究は研究者のネット・ワークを拡げ多くの発見を得られる予感もしています。

 さて、ここでは今後の研究テーマでも話そうかとも考えたのですが、先日、友人の研究者から大量の里芋を貰った事から里芋の話を書くことにしました。


550-1

幸いにも標高450メートルもの高地にある研修所は気温が低い為、カボチャや里芋のようなものは新聞紙にでも包んで日陰に置いておけば保存が効く為悪くなる気遣いは全くありません。

 とりあえず皮を剝いて多少水に晒してこんにゃく(しらたき=糸ごんにゃく)とかまぼこで炊いてしょうゆ味で食べましたが、念頭にあるのは北関東で良く食べられている秩父の「おなめ」(関東風大麦大豆味噌)を買ってきたまま使っていないため、次は無理してでも古風な芋田楽に仕立て食べる事にしようと思っているところです。


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ここで、少しおでんの話をしたいと思います。

 まず、「田楽」と「おでん」に関係があるとお考えの方はあまりおられないと思います。

 ご存じの通り、研修所は大分県日田市の天瀬町の五馬地区にありますが、阿蘇の外輪山の北の一部と言っても良いような高所にあり、阿蘇の味噌田楽も比較的に目にする所です。

 「おでん」とは「お田楽」の短縮形と考えられそうですが、では「田楽」とは何なのかと考えてしまいます。田植えの田楽舞からとの話はあるのですが、田楽舞から食べものへの展開が繋がらないのです。


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味噌田楽


勿論、囲炉裏(いろり、ゆるり)で味噌を付け焼きながら食べる郷土料理ですね。


50-4

おでん


 野田の醤油が普及するのは江戸の後期からですが、醤油をふんだんに使い作られるのがおでんですね。


「味噌おでん」~「おでん」へ


 まず、通常のおでんと味噌田楽に共通性はあるものの、形態は全く違う物である事は明らかです。

しかし、余った素材は元より、揚げ豆腐、コンニャク、椎茸、大根、里芋…とあらゆるものを味噌、醤油で食べることは共通しています。ただ、六十年ほど前までは、「おでん」と言えば「味噌田楽」が大半であった時代が存在していた様なのです。

理由は簡単で、醤油は液体ですから味噌に比べて運び難く、車が普及するまでは、樽や一升徳利で運ぶとしても山奥の集落は塩さえも容易には調達できなかったことから山間地は元より、都市部を除き普通の農村部でも醤油はなかなか使えなかった時代が続いていたのです。


野田の醤油醸造 永禄年間に飯田市郎兵衛が甲斐武田氏に溜醤油(たまりじょうゆ)を納め、「川中島御用溜醤油」と称したのが最古とされる。1661年(寛文元年)に上花輪村名主であった髙梨兵左衛門が醤油醸造を開始し、翌年(1662) に茂木佐平治が味噌製造を開始した(茂木はその後醤油製造も手がける)。

その後、江戸の人口の増加と利根川水運の発達と共に野田の醤油醸造は拡大する。 1800年代中頃には、髙梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が幕府御用醬油の指定を受ける。

1887年(明治20年)に「野田醤油醸造組合」が結成された。1917年(大正6年)には茂木一族と髙梨一族の8家合同による「野田醤油株式会社」が設立され、これが後にキッコーマン株式会社となった。『亀甲萬』は茂木佐平治家が使っていたものである。このときに野田の醤油醸造業者のほとんどが合流しているが、キノエネ醤油のように別の道を選んだ醸造者もあった。

ウィキペディア(20171228 12:19による


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 この貴重この上ない醤油は、船で運ぶ事ができる範囲ではかなり普及しますが、大阪のような船便の発達した所でさえ、戦前までは醤油による関東風醤油「おでん」(関西では「カント炊き」=関東風おでん)は一般化していなかったのです。

このことを考えると、上方落語の名人中の名人だった故)桂 米朝師匠による噺をついつい思い出してしまいます。

この事実を現代に良く伝えているものに「カント炊き」の噺がありますのでご覧ください。


「味噌をつけて豆腐を焼いた豆腐の田楽は、全国的にもあまりなじみのないものになりましたが、昔の上方では、おでんと言えば田楽のことを言いました。京都南禅寺あたりでは、この豆腐の味噌田楽が名物として売られています。

関東風のダシで煮込んだおでんは、関東煮(関東だき、カント炊き)と言っていましたが、これもあまり言わなくなりました。」…


 正確な題名としては「馬の田楽」という噺でしたか…。「カント炊き」と言い、「常夜灯の南天さん」の話と言い、民俗学的話が凍結されています。味噌田楽が一般的だったが故に、関東風味噌田楽(おでん)を「カント炊き」として区別したのでした。


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まぁ今日はさっきもちょっと聞ぃていただきましたけども「田楽」といぅ噺「おでん」が近頃は関西でも「おでん」と言えば全部煮込みのおでんになりました。昔はあれ「関東煮(かんとだき)」言ぅたんですな。

 関西は全部味噌であしらいます。関東のほぉはとにかく煮込むんですな、煮込みのおでんといぅんですな。あれを関東式やちゅうんで「かんとだき、関東煮」とわたしら言ぃましたあれ。

 昭和二十年代やったと思います、新世界のほぉでね、カタカナで「カント煮(だき)」ちゅう店があった。東京の学生さんが「哲学風の店がある」感心して帰ったことがある。大阪の新世界は偉いとこやと思たでしょうなあれ。

 それから三十年代の、これみな古い話ですが、東京の銀座裏に「関西風関東煮」ちゅう店があった。これも面白い店でんなぁ、つまり味が関西風やといぅことなんですね。

 この頃は東京でもあの、うどんのダシ綺麗になりました。昔は真っ黒けの醤油のね、色そのままみたいな「あっちのうどん喰えんで」て、よくこっちの人言ぅた。近頃は東京もみな綺麗になりましたです。

 その時分はおでんのダシなんかでも、だいぶこっちと向こぉとは違ごたんですな、それを「関西風の味付けである」といぅんで「関西風関東煮」お初天神のところに「関西煮(だき)」ちゅう店がありましたな「常夜灯」いぅてね。

もぉ無くなったんですかな、ひょっとしたらもぉ無くなったかも、あそこあれ境内を改築しはるんでね、あの辺の店みな無くなったそぉでございます、あれも美味しぃおでん屋でございましたがな。

 まぁ、味噌をつけて焼くのが「おでん」でございます。そぉいぅその時代は子供の遊びなんかでも東西違ごたそぉでございましたし、何もかもが向こぉとこっちと大変に違ごたんです。そらその時代には大阪の落語を東京へ輸出できたんですな。

 ちょ~どヨーロッパの話をこっちへ持って来るぐらい、それが商売になった。あっちの話をこっちへ持って来るといぅ。子供のおもちゃ、駄菓子屋で流行ったちゅうとすぐ東京で真似をする。東京で流行った、こっち持って来たら商売になったといぅぐらいの、それぐらい東西が違ごてたよぉでございますが。

 あの、いま「常夜灯」で思い出しましたが、あすこの関西煮の店のオヤジさんがね、昔の売り声が自慢でした。南天さんといぅ方もよぉ知ってました。

森繁久彌さんが常夜灯のオッサンにいろいろ聞ぃてね、録音とったのがございます。

 そん中にこの「おでん屋の口上」といぅのがある。南天さんからわたし教えてもろたのと、それ聞き比べるとちょっと違ごとりましたがな、のんびりした時代やったんですな、みな夜その、味噌のほぉのおでんですな、それをこぉ、蒟蒻に味噌を塗って売る。甘いお味噌でしたな。

 こぉ荷車引っ張って、夜、ちょっと寒いよぉな時期ですわなぁ……

♪おでん屋の口上=おで~んさん、お前の出庄(でしょ~)はどこじゃいな、わたしの出庄は常陸の郡(くに)、水戸ぉさまの御領中山育ち、郷(くに)の中山出るときは、藁のべべ着て縄の帯しめ、鳥も通わぬ遠江灘

(とおとぉみなだ)いろいろ苦労をいたしまして、落ち着く先は大阪江戸堀三丁目、播磨屋さんの店にと落ち着いて、手厚いお世話になりまして、別嬪さんのおでんさんになろぉとて、朝から晩まで湯に入り、化粧(けしょ)してちょいと櫛差して、甘いお味噌のべべを着る、おでんさんの身請けは銭(ぜぜ)次第、おでん熱あつぅ~~ッ

 これでひと切りでんねん、これ聞ぃてからみな銭払ろて買ぉて帰ってきた。

そらのんびりしたもんでんなぁこれ。こんなこと言ぅておでんを売って歩いてた。

 こんな口上はわたしら知りませんが、やっぱりあの甘いドロッとした味噌のかかった蒟蒻、ホカホカ湯気が立って結構なもんでございましたがな。

【上方落語メモ第2集】その80 による


 南天さんの名調子は聴けませんが、米朝師匠の噺は今でも聴くことができます。実に有難い話です。

 今でも、その「おでん」を関東風と表示している好例がありますのでご覧下さい。


550-8



550-9現在でも明治のおでんの素のデザインには「関東煮」と書かれているのです。

 つまり、関東風の醤油おでんが簡単に作れるとの振れ込みであり、味噌おでんではありませんよとばかりに、今も主張し続けているのです。

 もはや、関東風と断る必要性もないほどまでに醤油によるおでんは一般化していますが、味噌田楽が串に刺されて囲炉裏で炙られていた事の延長上に、おそ松君のチビ太が持っていた串に刺されたオデンもあったのだと思うのです。

 醤油で炊かれたおでんは必ずしも串を刺す必要はないはずなのですが、もしかしたら炙って味噌味で食べたい人と、関東風おでんを食べたい人とが両方いた時代を反映していたのかも知れないのです(つまり、ネタの仕込みの問題ですが、焼き鳥屋などのおでんならそのまま味噌田楽は焼けるのですから)。

この移行形態と言うか中間形態の群馬の「味噌おでん」もあるのです。

 ともあれ、今日は「おなめ」をぬった里芋を炙って(逆ですかね)北関東風の味噌田楽を食べようと思っています。いずれにせよ、津々浦々まで醤油が普及するのは車が一般化する戦後の事なのです。

 それまでは囲炉裏が一般的な寒い地方や阿蘇などの高冷地(釜戸ではなく暖房と煮炊きを共用する文化圏)では味噌田楽が相対的に残り、今や全く別の食文化の様に理解されるようにさえなったのでした。

 さて、里芋正月の話に入りましょう。

 民俗学では良く知られたテーマですが、「芋名月」と併せ「里芋正月」という概念が存在します。

 このことについてふれようとしたら、あまりにも完璧で明瞭な解説がネット上に公開されており、恥ずかしくなり、書く意欲が全く失せてしまいました。しかし、JA愛知東のサイトには感服しました。

 奥三河の名倉村(現設楽町)を訪れる機会があった…と、「忘れられた日本人」には奥三河話が出て来ますが、宮本常一も強く意識していたようです。もう、これだけで十分でしょう。


550-9

日本では、イモと呼ぶのはサトイモをさす。現在栽培している芋類は、それぞれの固有名詞をつけ、サツマイモ、ジャガイモ、ヤマイモと呼び区別をする。固有名詞で呼ぶ理由は、サツマイモ、ジャガイモは、日本の江戸時代に伝来した作物であるからだ。民俗学書によると、東北地方は戦前までは、芋とはヤマイモをさし、サトイモは固有名詞をつけて呼んだという。サトイモは熱帯地方の原産で、寒冷地の東北にサトイモが普及したのは近世であり、それ以前はヤマイモが栽培されていたからだ。

祭祀や節句、正月の祝いで食べる食品を儀礼食という。この祝いの食品は、時代や地域、貧富の差によって大きく異なる。稲が日本に伝来した縄文時代の末期以後は、神事の祝いの食品は、米の三品、お神酒、餅、赤飯を食べる風習が広まった。この慣習は、稲作先進地のタイやカンボジアに発生し、中国で儀礼化されて日本に伝わった。


550-10

サトイモの田楽


正月や村の祭で神供するのは元来は、生物の野菜や魚類、木の実などで、祭典を終え調理して食べた。

近年の正月の「オセチ」料理は、事前に調理して神棚に供えるが、これは本来の正式な祀り方ではない。今も村祭の神事は、生野菜のダイコンやサトイモ、ヤマイモ、生魚らを供えて祝詞を奏上する。

神に供えた食物を食べると、人の体内に神の霊力が取り入れられ、病気を防ぎ、長寿になるとの信仰がある。私は現在の日本の儀礼食を考察して、稲作以前の畑作の作物も祝いの食品となっていると思う。

米の他の「儀礼食」に、サトイモ、ダイコンらも用いられるが、稲作農耕民は、サトイモとダイコンを軽蔑する。イモニイ、イモネエは野暮なことの差別語で、ダイコンは芸の下手な役者、ダイコン足はデブで不恰好な足への差別語である。

歯固めは正月と六月の年二回、固いものを食べ、歯を丈夫にして長寿を願う伝統行事である。正月に神供した鏡餅を乾燥させて保存し、六月一日に食べる。奥三河や信州は、正月に栗を茹でて乾燥させた勝栗、干柿、榧の実、豆などを煎って食う。栗とドングリは、縄文遺跡より大量に出土するが、採集生活時代の主要な食糧であった。正月の栗金団は、栗の料理品として古代からの高級な食糧であった。

全国には「餅なし正月」といい、正月に餅を食わず、サトイモやヤマイモや麺類など、特別な料理を作り、餅の代用をする地区が数百もあるという。そうした地区は、餅を全く食わないわけではなく、正月や小正月が終わってから食べている。正月に餅を食わない理由を下記のように説明する。

一、禁を破って密かに禁忌の餅を正月に食べたら、疫病が発生したので、以後は正月に餅を食べない。

二、祖先が戦いに破れ、逃れた日が正月であり、祖先の苦労を偲び、餅を食べない。奥三河には、この禁忌を守る家がある。

三、稲の価値を否定し、それ以前の焼畑の作物である栗、小豆、大豆、蕎麦などの価値を強調して、祝いの食品とする。この説は山深い地域に伝わる。

四、神祭に餅を供えず、芋を供える村が多々ある。民俗学者は、これを「稲作文化拒否派」と呼ぶが、明治政府が「稲穂の国」神話史観を国民へ懸命に浸透させようとしたが、食文化の自立制を崩すまでには至らなかったと指摘する説がある。

五、節句の祝いには、畑作物を特別に料理して祝う傾向があり、黍の団子やチマキ、オハギなどがある。

奥三河でよく知られた料理に田楽がある。田楽焼とは、元来は平安時代の貴族が豆腐を長方形に切り、串に刺して両面を焼き、さらに味噌を塗り、再び焼いて賞味したのが全国に普及したものをいう。奥三河では、芋田楽、串芋や蒟蒻田楽がよく知られている。江戸時代には、鳳来寺や東照宮の門前宿場では、五平餅と並んで名産品とされたという。

浜松市佐久間町芋掘の日月神社の秋祭は、参加者に芋田楽を提供する。奥三河の豊根村では、サトイモが祝いの行事で米と同等のように扱われる。サトイモはニューギニアやインドネシアではタロイモと呼ばれ、主食にする人々がいる。熱帯ではタロイモは、年中水田で栽培するが、栄養的にはデンプンが多く、高カロリーで、過食は肥満になりやすいという。

日本のヤマイモにあたるのはヤム芋だ。この芋は日本のスパートロロ種に類似し、ニューギニア人は、蒸し焼きにして食べる。日本人が正月に餅とともにサトイモを食べるのは、親芋と子芋の関係、つまり子孫繁栄の縁起品として食べるという。数の子も同様の意味合いから、正月の儀礼食になっている。

月見に「芋明月」といい、蓑にサトイモをのせて月に供えたり、盆にサトイモの葉に祖先への供物であるソウメンをのせ、黄泉に帰る祖霊の食糧として川に流す行事がある。サトイモは正月の神の供物以外に、様々な儀礼食である。


 もう文章を書くのはやめにして、里芋の皮でも向いてガメ煮の準備でもしようと思うものです。


550-11

550-12

国家の犠牲となり棄民とされた人々の正月を思えば敗残者の餅なしの里芋正月を考えざるを得ないのです

551(前) 淀 姫 ① 

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551(前) 淀 姫 ① 

20190723

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


本稿は、既に太宰府地名研究会のHPから発信しているものですが、安全性を考え複数の発信媒体からオンエアすべきと考え、また、現時点で再度読み易く加工したうえでオンエアに至ったものです。

このため、多少の改変を加えています。長文ですので関心をお持ちの方のみお読み頂きたいと思います。

 ただ、文体は元のデアル調で、デスマス調に変えてはいません。


551-1

淀 姫(ヨドヒメ)                 太宰府地名研究会(日田市)古川 清久

2013112220171227再編集)


 肥前国(ここでは東の佐賀県を念頭に置いている)の神社と言えば、まず、淀姫神社が頭に浮かぶ。

格式から言えば、大正十五年発行の「佐賀県神社誌要」でも筆頭に書かれる國幣中社田島神社(呼子町加部島)があるが、県南を中心にその拡がりと浸透力からか「淀姫」はより強い印象を与えている。


551-2

佐賀県佐賀市富士町上無津呂の淀姫神社      同社正面を洗う 神水(オシオイ)川

この淀姫神社が何であるかを考えずして九州の古代を云々できないとの思いを深くしたのは、佐賀市に編入されたが古湯温泉のさらに奥深く鎮座する古社、上無津呂の淀姫神社に遭遇し、下無津呂の乳母神社の氏子でもある某産婦人科医師と知り合ったからであった。                  

“医は算術”とばかりに蓄財に走るものが多い中、福岡市内で産婦人科(麻酔科)医として水の問題を取り上げ、妊娠から出産そして育児までを水から考えるという正に良医の名に値する町医(開業医)であるが、その良医から「この淀姫神社の前に流れる川は、何故、神水川と書かれ、おしおい川と呼ばれるのか?また、下無津呂には乳母(めのと)神社が有るのか?・・・」と問われ、それに回答を与えねばならぬとの使命感から取組んだのが今回の小稿である。

まず、淀姫神社と言えば佐賀川上峡の淀姫神社(河上神社)が著名であるが、実はその創起のみを見れば上無津呂の淀姫の方がさらに五十年も古い縁起を持つのである。


551-3

551-4

上無津呂の淀姫神社 は下無津呂の乳母神社


一般的には佐賀市大和町(旧大和町川上)の淀姫神社が著名であり、これ以外にはないと思っておられる方さえも多いのであるが、実際には有明海沿岸を中心に肥前(佐賀県下~長崎県下)にとどまらず、一部には福岡県みやま市(旧高田町)の一社を含め、かなりの祭祀領域を形成している。

まずは、次を見てもらおう。

これは、とりあえず把握できるものを中心に主なものだけを拾い出したのであり、全ての神社の拾い出しを行なったものであって、その範囲内でご理解を得たい。

事実、福岡県糸島市の桜井神社も元は淀姫を祀っていたようであり、事実それ伝える痕跡が残されている(後述)。

熊本県熊本市大津付近の淀姫神社も何故かの地に在るのかは未だに解決していない。

このため、今後も思わぬところで淀姫祭祀を確認する時が来るかも知れない。


淀姫神社の分布について


 河上神社(肥前一宮・與止日女神社)県社          (佐賀県神社誌要)10p

佐賀市大和町川上(旧河上村)

祭神:與止日女命神 大明神

神功皇后の御妹、また肥前風土記に世田姫海神と云う、年常(曰く鰐魚、鯰?)神名帳に豊姫、世田姫は蓋し豊玉姫命ならんか。(竜宮城の乙姫様)
創起:30代欽明天皇二十五年(564年)

※ 一宮記に曰く與止日女神 八幡叔母神功皇后の妹なりと(佐賀県神社誌要)。

※ 風土記に此川上に有石神名曰世田姫海神云々淀の訓、世止と世田と相通

 与賀神社(與賀神社)県社                (佐賀県神社誌要)7p
佐賀市与賀町
祭神:豊玉姫命(与止日女神)、彦火々出見命、沖津島姫命、市杵島姫命、綿津見命、応神天皇ほか
創起:30代欽明天皇二十五年(564年)勅願創立 川上の淀姫神社に同じ

 淀姫神社(上無津呂)郷社                (佐賀県神社誌要)68p

  小城郡北山村大字上無津呂(佐賀市)

  祭神:豊玉姫命 玉依姫 外7神 九郎社あり

  創起: 文久二年(1862)九月に千三百五十年祭の執行ありし記録(神社誌要)→512年?

  継体天皇御宇の勧請なり(どこからか書かれていない?)と察せられる 通常 継体は450から534

※神代勝利、長良親子を嘉村一族が匿う「北肥戦誌」

※九州年号の継体は517年から521年 神殿には高良大社の神紋左三つ巴と木瓜紋が確認できる

 淀姫神社(大川) 郷社                 (佐賀県神社誌要)80p

西松浦郡大川村大川野(伊万里市)

祭神:淀姫命 外16

創起:一千年以前・・・長久二年 

※十四神合祀

⑤ 豊姫神社(松浦町)村社                (佐賀県神社誌要)244P

西松浦郡松浦村大字山形(伊万里市)

祭神:豊姫神

豊姫又の御名は淀姫玉妃命とも唱へ、神功皇后の妹にして・・・(佐賀県神社誌要)

創起:記載なし

 淀姫神社(中野)村社                 (佐賀県神社誌要)248P

  朝日村中野(武雄市)

  祭神:淀姫命 外6

創起:天治元年四月勧請

※「がばいばあちゃん」の撮影ポイント

 淀姫神社(福富)村社                 (佐賀県神社誌要)116P

中川副村福富(白石町)

祭神:豊玉姫命 外3

創起:記載なし

 川上神社(多良)村社                 (佐賀県神社誌要)291P

  多良町多良(太良町)

祭神:淀姫命2

創起:記載なし 

 淀姫神社(古湯)村社                 (佐賀県神社誌要)184P

  南山村古湯(佐賀市)

祭神:豊玉姫命 海津見神 外11

創起:記載なし

※百嶋系図の安曇礒良と豊姫に対応か?

 松浦市淀姫神社 以下長崎県神社誌など未確認
長崎県松浦市志佐町浦免
祭神:12代景行天皇・淀姫命(神功皇后の妹)・豊玉姫命
創起:欽明天皇癸未二十四年(563年)

※ここでは神功皇后の妹「淀姫命」と豊玉姫命を別々祀っていることから当然にも別々の神と解釈されている。

⑪ 矢峰淀姫神社(佐世保市)現地未踏査

佐世保市松原町と矢峰町の鎮守神、祭神は海神大綿津見神の娘豊玉姫命とされる。「北松浦神社明細帳」に、創建は平安期で、長和二年(1013)とある。相浦谷一帯の開拓が進み、竹辺大宮姫神社の分霊を祀ったとの説もある(鹿児島の大宮姫伝承と関連か?)。

⑫ 平川淀姫神社(大津町平川)

祭神:淀姫神、竹内宿禰神、比咩御子神

以前、偶然に発見し宮司からお話をお聴きしたことがある(大津町平川236)。

「大津町史」にも以下の記載がある。


淀姫神社は佐賀県に多く分布し、淀姫(=与止日女・世田姫・豊玉姫)を祭神とする神社です。ここの淀姫神社は『菊池郡神社誌』によると、戦国時代に創建されたそうです。当時、この地域一帯は広く肥前の龍造寺勢力と豊後の大友勢力との対決の舞台となりました。伝説も、ここを舞台に肥前の勢力と豊後・阿蘇との関わりを示しています。9月の「願成祭」で子供相撲の奉納があります。11月の秋祭りには、平川合志神楽と浦安の舞が奉納されます。現在、地域の5つの地区が、交替で祭りのお世話をしています。また、一宇太鼓

がここを拠点に活動しています。

⑬ 與杼神社
京都市伏見区淀
豊玉姫命、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)

淀姫と言えば、直ぐに淀川が頭に浮かぶかもしれないが、淀川は佐賀からの地名移動と考えてまず間違いない。

與杼神社(淀姫さん) 京都市伏見区淀本町167

山城国乙訓郡の式内社。元は桂川の対岸の水垂町に鎮座していたが、淀川改宗工事に際して淀城跡北の現在地に移転。淀姫社、水垂社、大荒木神社とも呼ばれていた。『三代実録』に、貞観元年(859)に、正六位上与度神を従五位下の叙したとある。
 『寺院神社大事典山城編』には、旧鎮座地は『和名抄』の乙訓郡榎本郷の地であったと云われ、従って豪族榎本連の居住地と思われ、一族の祖神として祀られたとの説があるとしている。『姓氏録』によれば、左京神別に榎本連があり、道臣命十世孫佐弖彦之後也とある。大伴氏の系統だと高皇産靈神より発していることになる。社伝によれば、応和年中(961964)千観内供が肥前国佐賀郡の河上神を勧請したことに始まるとされている。祭神の一の豊玉姫の説明であろう。        
HP「神奈備」による


以上、各神社の祭神をみると、與止日女命には「豊玉姫命とする説」「神功皇后の妹とする説」、その他がある。この外にも淀姫らしきものを見掛ける。興味深い例として糸島市の桜井神社には「淀姫大明神」の神額が掛けられているが祭神にはないことから、元は淀姫を祀っていたのではないかと考えている。

桜井神社(糸島市桜井) 

祭神:神直日、大直日、八十枉津日


この里の藍園という所に與土姫明神の社がある。與土姫は社号で、神直日、大直日、八十枉津日の三神を祭っている所だ。社殿の後ろの小高い所に岩窟がある。・・・中略・・・この辺りにしては、壮麗を極めた造りだったので、数年かかって、寛永9年完成して、京都から吉田兵部少輔中臣治忠を招請して、社号を與土姫大明神として、あがめ奉った。                    

貝原益軒


551-5

桜井神社


※百嶋神代系図では神直日、大直日の二神は鴨玉依姫と大山咋命(の別名)としている。

かなり前に参詣したことはあるものの実質未確認であり判断ができないが、この三神は淀姫ではない。これに関して連携ブログ「ひもろぎ逍遥」の綾杉るな女史は、


楼門の扁額が表は「與土姫大明神」で、裏が「桜井神社」となっている件については、もともと、與土姫大明神だったのが明治二年に桜井神社に改称されているのが分かりました。與土姫大明神について考えました。この神社の名前がかつては與土姫大明神という事から、新左衛門の妻に懸かられた神が與土姫大明神ではないかと思いました。


551-6

昭文社 県別道路地図(福岡県)


としているが、なお不明瞭極まりない。

さらに、福岡市西区の今宿駅の東には鯰川が流れている。鯰は竜王からの遣いであることからして、淀姫神社の社家はもとより、氏子も、一切、鯰を食さないと言われることから、熊本市周辺など、鯰、鯰橋・・・と言った地名、また、淀姫神社とされていないものにも鯰の置物が置かれているところもあることから、西区今宿上ノ原叶町周辺にも淀姫を祀る人々がいた可能性はあるであろう。

今宿駅の東の鯰川の奥に叶町があり叶神社がある。叶、加納地名は外洋性(南方系)海洋民の付す地名と考えていることから(太宰府地名研究会HPの「田ノ浦」を参照されたし)、叶神社は淀姫を祀っているのかも知れない。なお、叶姓が最も集中するのが奄美大島であることも興味深い(「姓名分布&ランキング」)。

この外、志式神社などにも豊姫として淀姫と思われるものが祀られているものがあり、鯰に関連する神社を拾い出すと、阿蘇神社を筆頭に、星野町の麻生神社、久留米市田主丸の阿蘇神社、福岡市早良区の賀茂神社、那珂川町の伏見神社など淀姫神社だったのではないか思えるものがあるなど分り難い。このため、さらに簡略化した表を見て頂く。


淀姫神社


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豊玉姫を中心に祭神にバラつきがあることは明らかで、佐賀県嬉野市の豊玉姫神社ほかにも白なまずの置物があるなど、淀姫神社の主神が何かが確定できない中で神社の分布を云々するなど危険ではあるが、ここまで見てくると、淀姫神社が佐賀県の中部から長崎県本土の北半に分布が集中していることが分かる。

一般的に佐賀県の東西は弥生と縄文、北馬系と南船系、半島と江南の対抗が認められると言われるが、印象だけで言えば、このことが淀姫の分布に多少は関係しているかも知れない。また、その中枢域が嘉瀬川の川上、古湯、上無津呂の淀姫神社であったことは明らかで、上無津呂の淀姫から長野峠を越え糸島半島の淀姫の痕跡への繋がりも推察できる。



551(後) 淀 姫 ① 

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551(後) 淀 姫 ① 

20190723

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


淀姫とは何か?


まず、淀姫、世田姫、豊姫、豊玉姫、さらには、神功皇后の妹説、海神の娘説とバラつきがあるが、九州王朝論の側からは卑弥呼宗女壹與説、さらに現地の底流には微かながらもヤマトオグナの熊襲征伐譚で知られる河上タケルの妹説も存在している。


① 卑弥呼宗女壹與説

よみがえる壹與 佐賀県「與止姫伝説」の分析

(市民の古代第11集 1989年 市民の古代研究会編)


その人物は『肥前国風土記』に「世田姫」と記され、同逸文では「與止姫(よとひめ)」あるいは「豊姫(ゆたひめ)」「淀姫(よどひめ)」とも記されている。現在も佐賀県では與止姫伝説として語り継がれ、肥前国一宮として有名な河上神社(與止日女神社)の祭神でもある。ちなみに、近畿の大河淀川の名はこの與止姫神を平安初期に勧請(3) したことに由来しているという。
 このように、『肥前国風土記』や地方伝承に現われた與止姫に比定した人物は、卑弥呼の宗女で邪馬壹国の女王に即位した壹與、その人である。『魏志倭人伝』に記された倭国の二人の女王。


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その一人、卑弥呼が『風土記』に甕依姫として伝えられているのなら、今一人の女王壹與が『風土記』に記されていたとしても不思議ではない。幸いなことに、今回壹與に比定を試みた與止姫は現在も地方伝承として、あるいは後代史料に少なからず登場する。これらの史料批判を通して論証をすすめたのが本稿である。(・・・中略・・・)

  『古事記』『日本書紀』にある「神功皇后の三韓征伐」譚は史実としては疑問視されているが、多元史観によれば、これも本来九州王朝の伝承であったものを大和朝廷側が盗作した可能性が強い。ところが『記紀』とは少し異なった「干珠満珠型三韓征伐」譚というものが存在する。そこでは、神功皇后に二人の妹、宝満と河上(與止姫)がいて皇后を助け、その際に海神からもらった干珠と満珠により海を干上がらせたり、潮を満ちさせたりして敵兵を溺れさせるといった説話である。文献としての初見は十二世紀に成立した『水鏡(前田家本)』が最も古いようであるが、他にも十四世紀の『八幡愚童訓』や『河上神社文書』にも記されている。
 この説話で注目されるのが神功の二人の妹、宝満と河上(與止姫)の存在である(ただし、『水鏡』では香椎と河上となっている)。中でも河上は海神から干珠・満珠をもらう時の使者であり、戦闘場面では珠を海に投げ入れて活躍している。そして干珠・満珠は河上神社に納められたとあり、この説話の中心人物的存在とさえ言えるのである。この説話が指し示すことは次のような点である。まず、この説話は本来、宝満・河上とされた二人の女性の活躍説話であったものを、『記紀』の「神功皇后の三韓征伐」譚に結びつけたものと考えられる。更に論究するならば、神功皇后と同時代の説話としてとらえられている可能性があろう。たとえば『日本書紀』の神功紀に『魏志倭人伝』の卑弥呼と壹與の記事が神功皇后の事績として記されていることは有名である。要するに、神功皇后と卑弥呼等とが同時代の人物であったと、『日本書紀』の編者達には理解されていたのである。(6) とすれば、同様に、宝満・河上なる人物も神功皇后と同時代に活躍していたという認識の上で、この説話は語られていることになる。このことはとりもなおさず、宝満と河上(與止姫)は卑弥呼と同時代の人物であることをも指し示す。
 こうして、もう一つの與止姫伝説「干珠満珠型三韓征伐」から支持する説話であることが明らかとなったのである。また、この論証は宝満=卑弥呼の可能性をも暗示するのだが、こちらは今後の課題としておきたい。(7)                      


以下省略するも、HP「新古代学の扉」で読むことができる。

② 神功皇后の妹説

神功皇后の妹説についても謎が深い。肥前国ミステリー「與止日女命」與止日女命をめぐる古代浪漫 というサイトでもこれを問題としている。以下 淀姫研究「豊玉姫」の消滅と「神功皇后の妹」の登場淀姫研究より


 「豊玉姫」の消滅と「神功皇后の妹」の登場

大和町與止日女神社とほぼ同時期に創建されたと思われる佐賀市の與賀神社。

こちらの御祭神は與止日女神で、=豊玉姫命です。この神社には乙宮神(宗像三女神)が

配祀されており、與止日女が海神と縁の深い神様であったことがうかがえます。
末廬国河上大明神(伊万里市淀姫神社)も元々、乙宮神を配祀してありました。(900年ほど

前に現在の牛津郡に移されたようですが。)與止日女さんと、乙宮さんは、縁があるようです。古くは「海の神」と認識されていた豊玉姫はいつのころから「川の神」になったのか。
祭神の認識の変化とともに見ていきます。

京都市伏見区淀の「與杼神社」の由緒を見てみると、この神社は肥前一ノ宮與止日女神社か

らの勧請ですが、「応和年間(961年~963)に肥前国佐賀郡河上村に鎮座の與止日女神社より、淀大明神として勧請したのに始まる(神社自体はそれ以前に鎮座しており、主祭神がいたと思われる)」とあり、祭神は豊玉姫命、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)です。
 平安後期の頃の肥前一宮與止日女神社の祭神は豊玉姫と認識されていたということになります。
 そして、河上神社文書の建久4年(1193103日付在庁官人署名在判の書状に「当宮は一国無雙の霊神、三韓征伐の尊社なり」と記されてあり、このころから「神功皇后の三韓征伐」との関連が見られ始めます。ただし、神功皇后の三韓征伐の際に御利益があったという意味と思われ、「神功皇后の妹」の存在はまだ出てきていません。
また、和歌山県辺市上秋津にある川上神社では、1547年頃に肥前国佐賀郡より勧請された神が祀られているが、祭神は瀬織津姫(セオリツヒメ)。
 肥前国佐賀郡(與止日女神社と思われる)から勧請された神は瀬織津姫となっており、豊玉姫の存在がなくなってしまっています。
   「
川上神社と肥前国一之宮──瀬織津姫神の勧請
 瀬織津姫といえば川の流れの神。與止日女神社が佐嘉川の川上にあったためか、ついに、豊玉姫(與止日女)が川の神であると認識されるようなったようです。
さらに、大和町川上の実相院尊純僧正が佐嘉藩主鍋島勝茂に差出した「河上由緒差出書」(1609年)によれば「一、当社の祭神は与止日女大明神である。神功皇后の御妹で、三韓征伐の昔、旱珠・満珠の両顆を以て異賊を征伐された後、今この地におとどまりになった。
二、当社の創建は、欽明天皇二十五年(564)甲申歳である。[後略]」
とあり、この時ようやく、「神功皇后の妹」が登場します。
 この間にいったい何があったのか?
 わかりやすく、與止日女の認識を順番に並べると・・・
740
年   世田姫(ヨタヒメ)    『肥前国風土記』
901
年   豫等比咩神(ヨトヒメ)  『三代実録』
927
年   與止日女(ヨトヒメ)    『延喜式神名帳』
961
年   豊玉姫(トヨタマヒメ)  『與杼神社由緒』
1193
年   「当宮(與止日女神社)は一国無雙の霊神、三韓征伐の尊社なり」

『河上神社文書』

1503年   「豊姫一名淀姫は八幡宗廟(応神天皇)の叔母、神功皇后の妹也

『神名帳頭註』

1547年   瀬織津姫(川の神)     『川上神社由緒』
1609
年 與止日女大明神は神功皇后の御妹 『河上由緒差出諸』
明治期    淀姫命 (ヨドヒメ)『特撰神名牒』(延喜式神名帳の注釈書)
      與止比女神(ヨドヒメ)  『明治神社誌料』
「神功皇后の妹説」が出てきたのは、1503年の『神名帳頭注』以降ということになります。
『神名帳頭注』は、1503吉田兼俱により著された「延喜式神名帳」についての注釈書。「延喜式神名帳」というのは、927年に完成した『延喜式』巻九・十のことで、律令体制下、神祇官また諸国国司のまつるべき3132座の神社名を記した巻のことをいいます。『神名帳頭注』は頭註という名の示すように、はじめその上欄に吉田兼俱が注記していたものを,後人がその注記のみを現在みられるように1巻にまとめたもの。
 著者の吉田兼俱は吉田神道(唯一宗源神道,卜部神道)の大成者。   

叓叓吉田兼倶こそが、與止日女命(豊玉姫)を、神功皇后の妹「淀姫」と解釈してしまった張本人です。
 それまでは與止姫命がぼんやり豊玉姫と認識されていたものが、有力な神道家・吉田兼倶の解釈によって「與止日女命=神功皇后の妹」となりました。
 
風土記に曰はく、人皇卅代欽明天皇の廾五年、甲申の年、冬十一月朔日、甲子の日、肥前の国佐嘉の郡、與止姫の神、鎮座あり。一[また]の名は豊姫、一の名は淀姫なり。
(『神名帳頭註』吉田兼倶)
 トヨタマヒメがヨタヒメ(世田姫)と肥前国風土記に表記され、世田姫から、ヨタヒメ、ヨダヒメ、ヨドヒメと、変化し、『延喜式神名帳』(927年)にて「與止日女」の文字が登場。
 信仰の対象も「海」から「川」へと変化し、海の神「豊玉姫」は忘れ去られ、川の神「ヨドヒメ」へと置き換わっていく。この頃はまさに、国司による一宮参拝が盛んにおこなわれていたころで、『延喜式神名帳』の存在もあったため、肥前国の神=ヨドヒメの認識が肥前国内はもとより、全国に知られることとなったのでしょう。
 吉田兼倶の『神明帳頭注』によって浮上した「與止日女命=神功皇后の妹」説であるが、その説の発端となったと思われる神社が、松浦市
淀姫神社です。松浦市淀姫神社の祭神は、景行天皇・淀姫命(=神功皇后の妹)・豊玉姫命であり、唯一、淀姫と豊玉姫を別々に祀っている神社であり、吉田兼倶が全国の神社をどこまで把握していたかはわかりませんが、「淀姫(神功皇后の妹)=豊玉姫」習合思想の発端となった神社と思われます。


と、している。

しかし、淀姫が豊姫と呼ばれ、神功皇后の二人の妹の一人であったとする重要な文書がある。

してみると、肥前国ミステリー「與止日女命」神功皇后の妹説 氏に反しかなり古く遡ることになる。 

「高良玉垂宮神秘書」(17p)では、神功皇后の妹が淀姫神社の祭神、淀姫=豊(ユタ)姫としている(前々頁)。

③ 私見 世田姫と豊姫と淀姫

古文書を中心に時系列的に考察する文献史学に対し、民俗学、地名研究、神社考古学は面的に、また、機能演繹的に考察する。当然ながら、これに時間軸を加えた立体的な視野が望ましいことは論を待たない。

ここで、淀姫の「淀」という表記を分解すれば、YODO YOTO YOTAとなり、『肥前國風土記』の世田(ヨタ)姫とも通底している。

ただ、その原型は伊万里市松浦町山形の豊姫神社が豊姫神としているように、TOYOと読むのは誤りで豊(YUTA)姫という女性ではなかったかと考えている(事実「肥前国風土記」に世田姫と書かれ、同逸文でも與止姫=よとひめ 豊姫=ゆたひめ 淀姫=よどひめ とも記されている)。

後に、それが淀姫や世田姫と呼び習わされ、あるいは、豊(ユタ→トヨ)から卑弥呼宗女壹與=豊與と解され、あるいは豊玉姫とする混同が生じたかと考えている。

恐らく、その背景には八世紀以降の権力の移動(九州王権から近畿王権へ)が関係しているのであろう。


九州方言の際立った特徴の一つに、O音がU音になる傾向がある(実は逆にU音からO音となった)。


一般的に、「大事しでかした」を「ウーごとしでかした」とか、「頬たびら」を「フーたびら」と言う傾向は、単に方言の枠を越え、「栂」が「ツガ」「トガ」としても全国化したように、上代から神代にも遡る古い時代の標準語が九州方言に名残を留めているように見える。

ここで最新の方言研究(福岡教育大学:杉村孝夫から一例を示しておきたい。ユタがヨタ、ヨドに転化した背景が見えてくるかも知れない(ただ、私見ながら、この現象は方言ではなく標準語の発信源が九州から畿内へそして関東へと移動したものと考えている)。


551-8

5.2)「 オ列長音の開合」に対応する音声


これは,室町末期の京都語の開合に対応するもので,現在の九州方言では(むろん高年層で)開音は[o:] と発音され,合音は[u:] と発音される。

 [au] に由来する開音は[o:] 例えば [to:ʥi](湯治)

[ou] に由来する合音は[u:] 例えば [ɸu:ʣuki](ほおずき)

 [eu] [iu] を経て[ju:] となる。例えば[kju:](今日)「ふうずき」と,実際に文字で書かれることもある。

次の写真は,今から13 年ほど前に佐賀県の三瀬村の売店で撮影したものである。

福岡教育大学紀要,第59号,第1分冊,49 642010九州方言音声の諸相

551-9Aspects of phonetic features in Kyushu dialect杉村孝夫


この傾向が上代、神代に遡る可能性があったこと、淀姫が古くは豊(ユタ)姫と呼ばれていたことを知る手がかりになるのではないだろうか?

我々百嶋神社考古学を継承せんとするものにとっては、『古事記』『日本書紀』が現在の天皇家=藤原王朝を支えるために創られた最大級の偽書であると考えているばかりではなく、高良玉垂宮神秘書』(以下「宮神秘書」グウジンヒショ と表記)を読み解き、残された北部九州の神社を調べ尽くせば、まだまだ、同書とのかなりの整合性が確認できると考えているが、唯一真実に近いものを伝える宮神秘書」を最重要であるとしても(事実そう考えているが)、淀姫が神功皇后の二人の妹の一人(もう一人は宝満山の大祝=実は鴨玉依姫)とする説には容易に飛び乗ることができないでいる。

それは、百嶋氏が残した神代系図の中でも最終版ともいうべきものには、豊姫=玉姫=淀姫が河上タケルの妹(同時に表筒男命=安曇礒良の妻)として記されているからである。

百嶋神代系図はまだ全面的に公開できる情況にはないが、その一部を掲載しておきたい。

これについては、全面公開に先行し音声データを文字化し、連携する「牛島稔太のブログ」で一部掲載を始めている。今後も随時百嶋語録を公開して行きたいと考えている。

ともあれ、「宮神秘書」では神功皇后の二人の妹の一人が「河上大明神トナリ玉フ」としている。百嶋神代系図にもその河上大明神が河上タケルの妹として、豊(ユタ)姫=玉姫=淀(ヨド)姫として書いている。古賀達也氏は卑弥呼宗女壹與としているが、百嶋神代系図では壹與(クワシヒメ)と淀姫は二十歳違いの別人として描いている。どちらが正しいかは今のところ判断がつかない。


551-10

スポット191(前) 日本版ニューオーリンズと化した倉敷市真備町の全町水没

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スポット191(前) 日本版ニューオーリンズと化した倉敷市真備町の全町水没

20180710

太宰府地名研究会 古川 清久


sp191-1岡山県倉敷市の北部を東に流れる小田川流域の真備町(倉敷市に編入)の29%が水没しています。

私も総社市~真備町~旧矢掛町に掛けても何度か入っていますが、山陰道に比べてフィールド・ワークが薄い山陽道でも比較的神社を見て廻った地域ではないでしょうか。

まず、真備(マビ)町とは奇妙な町名ですが、当然にも筑前守、肥前守にもなった(左遷なのですが)吉備真備(キビノマキビ)にちなんで付された町名なのでしょう(彼は矢掛町の出身なのですが…)。

まず、神社研究に於いては、湯原や中山は別にすれば、岡山市、総社市、井原市の一帯は岡山県でも最も重要なエリアになるのです。

古代史に多少とも関係する者としては、以前から、この小田川に沿って古代の官道が通っていたのではないかと考えていました。勿論、我々にとっては九州王朝の古代官道になるのですが、それはともかくも、相当に広い平坦地が続く一帯で穏やかに東流する小田川が印象深い土地と言えそうです。


sp191-2

 まず、東の総社市には吉備津神社、吉備津彦神社、総社宮…と重要な神社が揃い踏みしています。

 十五年以上前でしたが、天子宮調査のために真備町の西隣、矢掛町小田の武荅天子宮(ムトウテンシグウ)に足を運び、その後も何度か周辺の神社を探訪しています。

 このため一帯の地形は今でもある程度頭に入っているのですが、当時の印象もこの一帯は古代に於いては汀線だったのではないか…、最低でも海岸に近い湿地帯か沼地だったのではないかといったものでした。

 まず、倉敷と言えば児島湾干拓の児島が頭に浮かびますが、岡山から倉敷には海起源の非常に大きな平地が隅々まで広がっているのです。その延長と言えば良いのでしょうか?この小田川流域にも長閑な平地が続いているのでした。しかし、今回は神社の話をする訳ではありません。

 既に災害報道によって良くご存じの通りですが、矢掛町と併せ倉敷市に編入された真備町の話です。

この町の平坦部が水没しているのですが、平坦地とは事実上の中心地でもあることから、どうやら中心部が壊滅的な被害を受け、町としての機能も麻痺してしまっているのです。

 では、どうしてこのような事が起こってしまったのでしょうか?

 勿論、西日本全域と同様に、数十年に一度のような豪雨によるものとか、高梁川からの逆流とか、真砂土の堆積…、それに何故か小声ながらも流木が堰き止めたからなどと言われていますが、まずは、決堤(堤防決壊)こそが最大の原因である事は間違いがありません。

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真備町の冠水地域


 これが、最も重要なポイントなのですが、あまりにも大きな豪雨による災害という宣伝=情報操作に誤魔化されたからか、マスコミも含めて(彼らは知っていて黙ります)殆ど議論さえされていないようです。

 そもそも、溢流(オーバー・フロー)と決堤とでは意味が全く異なります。雲泥の比があるのです。

 溢流の場合は、水が入ったとしても徐々に水位が上がるだけで、仮に水浸しになったとしても破壊力はそれほど大きくありません。

 考えて見れば分かる事ですが、一人暮らしの在宅介護の老人の移動とか言った問題を無視すれば、単にじわじわと水位が上がるだけで、通常はそれなりの対応も可能でしょうし、真夜中に急に人命が失われる事までは発展しないでしょう。

 しかし、堤防決壊となると全く話は異なります。一気に大量の土砂や昨今急増している放置された人工林の杉や桧などが雪崩れ込む事から、当然にも桁違いの破壊がもたらされる上に、その後も大量の水が間断なく襲い続けるのです。

 今回の三~四ケ所(実際にはもっと増えるでしょう)の決堤のポイントは、詳細には確認していませんが、風化花崗岩真砂土中心の土質である事を考えると当然にも天井川でしょうし(真砂土の場合は粒子が大きい為天井川になりやすいのです)それだけでも影響は大きかったはずです。

確か私が訪れたのは三~四回程度ですが、どの当時(妙な表現ですが)も河川改修工事は行わ
sp191-4れていたと記憶していますが、


倉敷・真備の堤防3カ所決壊確認 豪雨浸水被害で国交省調査団

“…調査団の福島雅紀・国交省国土技術総合政策研究所河川研究室長は「堤防ができた当時に想定していた水位を超えた」と指摘。増水した水が堤防上部からあふれ、川の外側から堤防の土を削って崩壊させた可能性があるとみて、決壊の原因を詳しく調べる。…

…小田川では別にもう1カ所決壊しているとの情報を得ているとした上で「現地で見て被害の大きさに改めて驚かされた。この規模の河川で堤防の上部まで水が達することはめったになく、降雨が
sp191-5いかに激しかったかがうかがえる」と話した。”



と、一ケ所で百メートルの決堤を引き起こしたにも拘わらず、豪雨の責任にすることについてだけはしっかりと怠りないようです。

 まず、これだけ破壊的な洪水を引き起こしておきながら自らの責任など全く考えていないのであり、国土交通省は、堤防決壊による被害の責任は一切被災者持ちで、自らは全く何の責任もないと考えているのです。実に酷い話です。哀れなのは棄民化された被災者のみと言う訳です。

 戦後70年もの間、大規模な予算を使い継続的に河川改修を続けておきながら、一体この後何十年経ったら責任を取るつもりなのでしょうか?これでは膨大な予算を引出し土建屋どもに配り続ける事だけが仕事であって、自分達だけはその余禄と言うか甘い汁を吸い続けているだけになっているのです。

 “小田川では、昭和477月洪水、昭和519月洪水により、大規模な内水氾濫が発生し、昭和49年~平成11年にかけて沿川11箇所において排水機場が整備され、合計約26m3/sの排水ポンプが増強されました。”(国土交通省)

 幕藩体制下でも河川改修の指揮をとった普請方の役人が堤防決壊の責任を取って切腹した話は方々に残っているし、皆さんも幾つかは聴かれた事があるはずです。

つまり、国家のためにも国民のためにも国土のためにも国民経済のためにも一切働かず、天下りと高額年金と退職金の事しか考えていない連中ばかりがいるのが国土交通省なのです。

まあ、農水省所管の林野庁が暴走させた拡大造林の放置が保水力を喪失させ、大量の雨水どころか土壌流出と人工林の大規模崩落を齎している事ははっきりしていますが、両省ともこの失策は全て経験した事もない大豪雨のせいにすれば良いとでも考えているのでしょう。

それはともかくも、まさか、鬼怒川水害の時の様に指揮拠点となるべき行政官庁は元より、警察署や消防署などは水没してはいないでしょうが、ここまで行くと馬鹿さ加減だけが見えて来るのです。

 地元なのにそんなことも分からないのか…と言いたくなるのですが、こういうものは、本来、丘陵地にこそ置かれるべきなのです。それが不可能なら最低でも全てを高床式にすべきですが、結局は車が移動できなければどうしようもないのです。まさかとは思いましたが調べると案の定でした。

 話では合併によって支所はハザード・マップの水没エリアにあるとの事、関心があったのは予算の問題と土地取得の問題だけで、長期的視野を持たなければいざと言う時に行政機関そのものが救援の対象(助けてくれとばかりに手を振る事は無かったでしょうが…)になりかねないのです。

 
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sp191-7倉敷市、実態把握遅れ対策後手に 真備支所の水没響く

…最大の要因は真備支所の水没とみられる。市地域防災計画では、市本庁舎への災害対策本部の設置に伴い各支所に地区本部を置き、各地区本部は現地の災害情報や活動状況を災害対策本部に報告することとしている。真備町地区でも5日夜の災害対策本部の設置後、地区本部を開設したが、7日未明に小田川の河川堤防が越水すると、3階建ての真備支所は2階まで冠水。災害対策本部と連絡が取れなくなった。…


同じような記事ですが、何故かNNNの記事は削除なのか開けません。削除依頼か自主規制なのか情報操作とも考えました、多分勘繰り過ぎでしょう。


【豪雨】堤防決壊42人死亡 倉敷市真備町 | NNNニュースwww.tvkanazawa.co.jp/nnn/news890177299.html

3 日前 - 市役所の真備支所では給水車が置かれて被災した住民への給水活動が行われている。真備支所は本来なら災害対応の拠点となる施設。しかし、堤防の決壊で水没したため、その役目を果たせていない。り災証明書の発行など被災者の支援 ...


 


スポット191(後) 日本版ニューオーリンズと化した倉敷市真備町の全町水没

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スポット191(後) 日本版ニューオーリンズと化した倉敷市真備町の全町水没

20180710

太宰府地名研究会 古川 清久



彼らは、庁舎の発注をどの業者にするのか、キック・バックが幾らになるか、と言った事しか関心が無いのかも知れません。もはや使命感も長期的視点もないのです。

 災害が起こっても、その責任は豪雨をもたらした自然のせいにし、想定を超えた水量…などと繰り返しているのですから、知識も技術もない上に誇りも使命感もないと言う事から日本も終わりなのです。

 市町村も県もやたら責任逃れのために警報を乱発するだけで(オオカミ少年)、気象庁も線上降水帯などと言った新造語を持ち出し、何やらとんでもない大雨が降ったかのように説明しているのです。

 では、今回の豪雨も本当にありえないような水量だったのでしょうか。

 最近の傾向ですが、豪雨災害の責任回避のためには24時間では足らなかったと見えて48時間どころかとうとう72時間降雨量が軒並み600㎜を超え、前後を併せると1,000㎜にもなるなどと大騒ぎをしていますが、単純に比較はできませんが、この程度の大雨はそれほど珍しいものではなく、事実、昭和32年の諫早大水害では南高来郡瑞穂村西郷(現・雲仙市)の24時間降水量が1,109mmという遥かに凌駕する降水量を記録しているのです。

 たかだか60年程度の前にもこの程度の雨は降っているのであって、想定外などとは到底言えるはずなどないのです(調べれば直ぐに分かるはずです)。

 こんなことは、顔だけで多用されるお天気お姉さんなどのお母さんさえも産まれていない記憶を持たない時代の事であって、経験した事もない大雨…と大騒ぎする事になっているのです(意図的でも)。

 所謂、陰謀論扱いされる気象兵器HAARP(ハープ)云々…といった話も巷では潜行どころか公然と飛び交っていますが、それは置くとしても、局所的であった昨年の九州北部号災害の五倍どころか、西日本全体で考えれば十倍を超える規模の大災害の常態化している事になっているのです(朝倉、伊勢、鬼怒川…)。

 東では福島県と言う日本で三番目の大県を東日本大震災と原子力災害によって潰し(潰され?)、「熊本人工地震」から今回の西日本豪雨災害によって、どうやらこの国も災害に対する国家の弾力性が奪われ、容易には立ち直れない所にまで追い込まれているかのように見えてきます。

 今回も熊本、朝倉、日田と同様に、頼りはボランティアと自衛隊だけ…行政は災害復旧工事の発注だけといったところでしょう。

 もはや、議員は元より、行政の首長の大半が土建屋と産廃業者といった連中なのですから最早救いようがないのです(彼らだけは災害復旧費と言う打ち出の小槌を手にして内心は将来まで大喜びなのです)。

 かなり話が逸れましたので軌道修正しますが(どうなろうが自由のはずですから修整はしませんので…)、

 そもそも、この小田川流域とは、本来、人が住み着くべきところではなかったはずなのです。

 現地を見れば一目瞭然ですが、低平地が広がっている所とは、そもそも、湖など水中で水平堆積が起こるような湖か沼のようなところだったのであって、こういう場所には、元々住めないどころか住んではならないのが当たり前で、まともなと言うのは失礼でしょうが、古くから住み着いておられる家系の方々は、自らと一族の安全だけを考えて水が得られる程度の緩傾斜地に住み着いてきたはずなのです。

 その理由は、前述したように風化花崗岩真砂土は堆積しやすい事から天井川になり易いうえに、元々、古代の湾奥か低湿地の沼地や湖のような排水がされ難い土地を農地や水源地として利用するならいざ知らず、間違っても住宅地や工業団地などとして利用する事は愚かな行為だったのです。

 そもそも、小田川の小田とは九州の人間には直ぐ分かるのですが、小田(オダ)は元々「ウダ」「ウーダ」と呼ばれていたはずなのです。これは九州から人が入っているとの地名や神社の考察からは十分わかるのです。まず、通説派は決して認めようとはしませんが、九州方言とは古代の標準語だったのです。

 九州では、つい最近まで「大事(オーゴト)をしでかした」を「ウーゴトヲバシデカシタ」と発音していました。

 従って、小田とは小さな田んぼの意味ではなく、非常に大きな田んぼが広がる土地という意味なのです。

 つまり、水害さえなければ、大きな田んぼが広がる夢のような穀倉の意味であって(あくまでも歳年の条件が良ければですが)、旧小田郡とは巨大穀倉地の意味だったはずなのです。

この事だけからも、本来、覚悟を持った人以外は田んぼには住んではいけなかったのでした。

 従って、古くからこの地に住み着いている人々は南に面した北側の丘陵地に住み着いているのであって、

自分たちは安全な土地に住みながら、“他所からやって来た地元の事を知らない人はああいう土地に家を建てるもんな…昔は一雨降れば水が引かない「海」(沼の意味ですが)だった”などと嘯いておられるはずなのです。

 その実、このように自分はそこには住まないと言う人も、往々にして先代、先々代がその湿田を売って土地成金になっているからこそ高みの見物をしているのですが、ここまでくると、土地は値段を見て買うのではなく、きちんと標高や付近の河川それに地形を見て購入すべきであることが分かるのです。

 後は、知識や経験が得られないならば、地元の古老などに聴きこむ事が必要(どうせ不動産屋も行政もグルですから“堤防は近年改修されていますから大丈夫でしょう”などとその場凌ぎの事しか言うはずはないのです)になるのです。

 結局、戦後復興期に瀬戸内海の水島コンビナート(倉敷市)などがだるま船などで大量に採取された瀬戸内海の砂で海立てられどんどん造成されるようになり人口が急増してくると、少しでも工場に近く交通の便が良い安い土地を求めて殺到した事から、本質的に危険で、藩政時代などは鶴の一声で“この地には住み着いてはならぬ!”で実質的な遊水池にされた土地だったところなのですが、戦後の農地解放から愚かな民主主義の時代になると、金儲けのために農地を金に換えようとする輩が続出するようになるのです。

 こんな時代に“ここは低い土地で水没しやすいから止めておいた方が良いですよ”などと少しでも本当の事でも言おうものなら、地域振興だけに狂奔する行政も巻き込んで、金が欲しい地権者などから寄って集って袋叩きにされたはずなのです。その時代にハザード・マップなど作ればそれこそこぞって叩かれた事でしょう。結局、人々が大量に住み着いたからこそ作られることになっただけの事なのです。

 こうして、何時の時代でも貧乏人は犠牲の上に犠牲を強いられ、世代を重ねていくことになるのです。

 今になって考えれば、少子化によって造成地もバリバリのマンションも中古住宅もダブついているので、このような今後も水没を続ける様な土地にしがみつく必要などないのですが、ローンで縛られた低所得層は市役所支所と運命を共にせざるを得ないのです。何やら羽柴秀吉による備中高松城の水攻めを思い出してしまいますが、役所がアホやけ野球がでけへんが次の連想でした。建物が真新しいので支所の選定は地域を知らない倉敷市主導だったのかも知れませんが、またもや鬼怒川大水害と同様の結果となったようです。

 仮に利便性だけを考えてこの地に住み着いた金持ちが水没したとしても、岡山などの高級マンションを購入し直ぐに快適な暮らしを始めるはずで、復旧が終わった頃、元々の家を移転する事になるのです。

 くだらないのはハザード・マップで、始めから分かっているならば、建築確認申請を降ろさないとか、そもそも都市計画法に基づく規制措置などを被せるべきなのですが、そんなこともできやせずに、結局、国交省、県の河川局などの技術系の役人どもが退職する時に、天下り先になっているコンサルタント会社などに持参金同様の手土産として発注されることになるだけなのです。

 表向きはどうであれ、要は、水没すると言う事は始めから分かっていましたし、こんなところに住む事は自己責任です。…とばかりに、自らの自己保身のために作られているだけであって、予算の切出しの中で、定期的に国交省系のファミリー企業に仕事をさせるだけのお仕事でしかないのです。

 結局、ハザード・マップなど何の役にも立たないのであって、もっとこれを周知させるべきだなどと騒ぐ半端な方々がおられますが、実情を知らないとしか言いようがないのです。

さて、岡山県の一級河川は、東から吉井川、旭川、高梁川の三河川とされています。

どうせ高梁川に西から直角にと言うより鋭角に合流する小田川の上流にもダムが造られていると思っていたのですが、小田川は、珍しくも高梁川に合流するまでダムの無い自然な川でした。

そうでなくても、岡山県と言えば、史上最悪の公共事業といわれた苫田ダムの事が頭に浮かんで来ます。

NHKが全国ラインで特集を組んだ事から高校生の私もしっかりと記憶していますが、当時の岡山県知事長野某がどんなにひどい反対運動潰しをやったかだけは鮮明に記憶しています。

この当時から行政とは汚い事をやる連中だと刷り込まれたのでした。

ここでは、おだやかに書かれているもので一応ご説明申し上げますが(当方が書いた文章をお出ししても良いのですが…実は「ひぼろぎ逍遥」で苫田ダムとダブル検索されれば出てくるはずです)、それほど長野某は本当に汚い手を使い酷い仕打ちをし続けたのでした。

あの時代にこれほど酷い事をやった岡山県ですから何だってやったのだろうと思ってしまいます。


苫田ダムは計画段階で激しい反対運動が行われていた事で知られています。

ダムの建設により、水中に沈んでしまった地域は旧奥津町(現・鏡野町)ですが、そもそも奥津町は、ダムに反対の三村(苫田、奥津、羽出)が合併して誕生した町です。

反対運動は38年もの長期に及びました。

その間、対話を進めて住民の理解を得た上での着工とされていますが、反対を譲らない町に対して、県は補助金や起債の手続きを故意に遅らせる等、いわゆる【圧迫行政】を行ったと言われています。

1990年にダムの受け入れを表明しますが、その直前となる1986年~1989年の間で、3名の町長が任期途中で交代しています。

ダムに賛成する町長が出ない限り、奥津町は圧迫され続けたのです。

一方では住民に対し、移住までの資金として多額の現金を支払う事でダムに賛成するように根回しをし、やがて奥津町は追い込まれた末に、計画を受入れざるを得なくなったのです。

当時の県知事は、地方自治の神様とまで評された長野士郎さんでした。

よくも悪くも、やり方を良く心得ていたのです。

sp191-8による

当方の辛辣な文章がお好みの方はひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下を検索してください。


386

2016年真夏の津山の神社探訪 ④ “悪名高い苫田ダム建設で犠牲となった久田神社”(下)

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2016年真夏の津山の神社探訪 ③ “悪名高い苫田ダム建設で犠牲となった久田神社”(上)


このことからもダムがないというだけで小田川には愛着を持ってしまいます。しかしダムを造りたくてしかたがない河川局のダム屋共は、この間ダムが絞られている事からも河川工事を疎かにし、少々の洪水を起こしてでも“だからダムを造るべき”として早期のダム建設に持っていこうとしているのです。

一方、高梁川という北の中国山地から流れ降る大河川の水圧に阻まれ、古くから沼沢地だったはずなのです。

もともと小田川流域は中国山地の備中高梁方面から一気に流れ降る一級河川の高梁川の勢いに押し返され排水し難い川だった事は間違いないでしょう。

水系指定によって国交省河川局の直轄工事で高梁川の河川改修工事が行われると、流速が上がり当然水位も上がって、小田川からの水がさらに一層水が吐けない構造が造られたのです。

 

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西日本豪雨で大きな被害を受けた岡山県倉敷市真備町、被害の発生前と後の様子を撮影した人
sp191-9工衛星の画像データからは、川の氾濫や浸水は少なくとも東西およそ7キロにわたっている様子がわかりました。専門家は「浸水が市のハザードマップに近い形で広がっている。こうした想定をしっかり周知する必要性を感じる」と話しています。


国土交通省のHPにはこの高梁川と小田川の合流部については、計画が立てられています。

これが完成するまで、また完成したとしても小田川流域には何度となく水没災害が襲でしょう。


sp191-11河川整備基本方針及び河川整備計画の策定


 平成9年の河川法改正を受け、平成198月には、今までの河川整備の基本となる計画であった工事実施基本計画に代わり、治水・利水・環境の総合的な河川の整備を目指し、河川整備基本方針を策定しました。河川整備基本方針における小田川の治水対策は、柳井原貯水池(旧西高梁川)を河道化し、小田川と高梁川の合流点を下流に移動させることにより、小田川水位の低下と高梁川酒津周辺への負担軽減を図るものとなっています。
 平成2210月には、今後概ね30年間に行う河川の具体的な整備目標や実施内容を示した「高梁川水系河川整備計画【国管理区間】」を策定し、河川整備が進められています。
 その後、進捗点検をを踏まえ、、①高潮堤の整備延長延伸、②施設能力を上回る洪水への対応 (危機管理型ハード対策)、③広域防災対策等を追加し、平成296月に高梁川水系河川整備整備計画【国管理区間】を変更しました。右は
高梁川水系河川整備計画


愛媛の野村ダムにしても中国並みにデタラメですし、国土交通省は酷土復元省とでも変え今までやって来たデタラメを元に戻させるために解体再編させるべき時代になってきたのではないでしょうか?

いずれにせよ水没され人生を失った方々には言葉もありません。

スポット192(前) 行政が引き起こした列島のヒート・アイランド化によって豪雨災害と灼熱地獄が発

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スポット192(前) 行政が引き起こした列島のヒート・アイランド化によって豪雨災害と灼熱地獄が発生した ① 

20180710

太宰府地名研究会 古川 清久


昨年、スポット112 朝倉~日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした! 以下連続して色々な側面から同種のblog を10本ほど発信しました。以下はその一本目の一部の再掲載です。

再掲載(画像抜き)…以前読まれた方は2pほど飛ばして下さい。


20177月の九州北部豪雨では、福岡県朝倉市~大分県日田市に掛けての多くの山沿いの集落が悲惨な状況に陥っています。

しかし、本流の筑後川の堤防は決壊(決堤)、溢流(オーバー・フロー)もしていませんし、単に大雨が降って流れただけならば泣く人も全くいなかったはずなのです。


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画像は一例ですが、良く知られた場所の朝倉市杷木町の杷木ICの西側の被災地です。

今のところどこが最も酷い災害地なのかが分からない状態ですが、まず、筑後川北岸(右岸)の朝倉から日田にかけての山間部を中心に局所的に被害が出ているようです。

実は、この局所的と言う認識が重要なのです。

一般的には朝倉市から日田市に掛けた全域で大規模な雨が降っているといった印象をお持ちの方が多いかも知れませんが(そういった発表がされているので当然でしょう)、メンバーにはブロガーでもある元気象庁の上級職員もおられ、等しくこの一帯に住む者として“全くそうではない”という話をしています。

大規模な災害が頻発した前後、私自身は日田市でも東の標高450メートルの阿蘇の外輪山の延長の様な所にいたからかも知れませんが、それほど大規模な大雨が降ったと言った印象はありませんでした。

あくまでも、被害は山崩れが起こった地域に集中しており、この人工林地の崩落が起こっていない場所では被害と言う被害は全く認められないのです。

問題は人工林地の崩落であり、テレビ報道を見続け確認を続けましたが、その崩落地の大半がと言うよりも殆ど全てが杉、檜(まあ大体は伐期35年のはずの杉林なのですが)の人工林地だったのです。

その前に気になる事があるので先に触れておかなければなりません。

それは、「線上降水帯」とか48時間降水量(見せかけ上これまでにない大雨が降った印象を与える)で550と言った新表現によって過度に大規模な大雨が降っているといった印象を植え付けようとしている(印象操作)ように思える事です。

それに連動して、“焼け跡に焼夷弾”と言った感のある責任逃れのためのメールがやたらと乱発されているのです。

こういった事を奇妙に思っていると、武田邦彦教授がユーチューブ上で十分納得できる話を早々と出しおられました。


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少なくとも私に関しては、行政や気象庁や大手マスコミは信用するに値せず、全くの嘘に近い情報を発信しているものと確信しています。

まずは、僭越ながらも武田教授の話を一つでもお聴き頂きたいと思いご紹介申し上げます。

今回の大雨報道、洪水報道の異常さについては武田教授が十分に話しておられますので付け加える必要などありません。

これも教授が指摘されていることですが、1957年の諫早大水害の降水量は、24時間(決して48時間ではないのです)1,109なのであり、遥かに多い(今回の4倍程度)降水量が確認されているのです。

つまり、この程度の雨(普通の大雨で来年でも今年でも再び起きる)はこれまでにも何度となく降っていたのであって、それ以上に大きな問題が背後に隠れている事に気付かなければならないのです。


諫早豪雨

諫早豪雨(いさはやごうう)は、1957725日から728日にかけて長崎県の諫早市を中心とした地域に発生した集中豪雨およびその影響による災害のこと。

諫早豪雨は気象庁が正式に命名したわけではないが、広く使われている呼称である。地元自治体やマスコミなどは諫早大水害(いさはやだいすいがい)の呼称も用いている。

以下の記述では、市町村合併によりすでに消滅している自治体もあるが、原則として豪雨発生当時の自治体名で示す。

南高来郡瑞穂村西郷では24時間降水量が1,109mmという驚異的な降水量を記録し、6時間降水量と12時間降水量では日本歴代最高記録を記録している。


ウィキペディア(20170713 21:26による


長崎大水害(ながさきだいすいがい)は、1982年(昭和57年)723日から翌24日未明にかけて、長崎県長崎市を中心とした地域に発生した集中豪雨、およびその影響による災害である。

気象庁は長崎県を中心にした723日から25日の大雨を「昭和577月豪雨」、長崎県は「7.23長崎大水害」(7.23ながさきだいすいがい)と命名したが、本項では降雨・災害双方を区別しない通称の「長崎大水害」を項目名とした。

以下の記述では、市町村合併によりすでに消滅している自治体もあるが、原則として豪雨発生当時の自治体名で示す。

長崎市の北に位置する西彼杵郡長与町では23日午後8時までの1時間に187mmの雨量を観測。これは日本における時間雨量の歴代最高記録となっている。また西彼杵郡外海町では23日午後8時までの2時間に286mmの雨量を観測し、こちらも歴代最高記録となっている。…

…時間雨量では長与町役場に設置された雨量計で2320時までの1時間に187mmと、1時間降水量の日本記録となる値を観測。長浦岳の雨量計(アメダス)では19時までの1時間に153mm、同8時までに118mmの雨量を観測した。また、外海町役場に設置された雨量計で2320時までの2時間に286mmと、2時間降水量の日本記録を記録している。降り始めからの24時間雨量は長崎海洋気象台で527mmを観測した。

ウィキペディア(20170719 11:18による


299人の死者を出した長崎豪雨災害は527㎜であり、48時間で550㎜などと倍の嵩下駄を履いた朝倉は24時間に置き換えれば、その半分の規模でしかなかったのです。

今回の豪雨災害(一応豪雨としておきますが…)の特徴はどなたが見ても歴然とする杉、檜の流木の異常な多さで、どのように考えても売れもしない人工林を無理に植えさせ、売れないまま放置させていることから、急斜面に50年生、60年生といった通常の伐期を越えた大重量の危険な木材が崩れ落ちるのを待っていた事にあったのです(これを追認したのが「長伐期施業」という事実上の棚上げ政策です)。

これこそが拡大造林政策の付け回しによる負の遺産であり、今後、国民生活を脅かす危険な時限爆弾と言えるものなのです。

恐らく今回の災害復旧が完了する前後には再び別の豪雨災害が追い打ちをかけ、今回被災を免れた場所や復興したばかりの場所さえもが再び抜ける事になるでしょう。

事実、日田市の山国川流域では五年前の災害復旧の途上の場所が、またもや新たな洪水被害を受けている様なのです(まだ、現地に入れないため確認できないでいます)。


さて、話はここから始まります。

2018年の全域を襲った西日本豪雨災害(200人近い死者50人近い行方不明者…未確定)が終わると、

一転して35度どころか38度に昇るカンカン照りが続いています。

まずは、と言っても長文ですが、打ち水大作戦の大間抜け 古川清久/太宰府地名研究会なり① ひぼろぎ逍遥 スポット001 この耐え難い「ヒート・アイランド現象は国土交通省、農水省…が引き起こした!を読んで頂きたいと思ってしまいます。

勿論、このくそ暑い時にそんなものを読んでいられるか!とお思いの方は、水ぶろにでも入って本でも読まれた方が余程ましですので、間違っても無理に草むしりして熱中症で心肺停止に至るよりは、ペンギンのような生活の方が余程良いに決まっています。

事実、私もエアコンはあるものの水風呂と濡れたバス・タオルを背負って扇風機に当たりながらこのブログを書いている訳です。

生ぬるいエアコンよりは扇風機で濡れた皮膚に風を送れば気化熱(潜熱)によって皮膚の温度が下がることからそれなりに快適なのです(エアコンが無い時代田舎の婆さんなどが濡れタオルを背中に掛けていた事を懐かしく思い越しています)。

どうせ、死ぬまでにあの懐かしい四季のある古き良き日本列島や夕立の風情が戻るとは思えませんので、来世はペンギンに生まれ変わりたいと思うばかりです。

石原莞爾排除後の現代版関東軍とも言える国土交通省と、格下ながらも農水省の二省庁が列島に巨大なヒート・アイランド現象を引き起こし、大豪雨と軒並み35度を超える(室内では体温を上回る40度)カンカン照りが続く国土(酷土破壊)を齎したことはもはや疑う余地がありません。

彼らは、今尚、開発と称し利権構造を維持しながら、自分達だけはのうのうと天下りし甘い汁を吸い続けているのです。

まさしく国家のためにも国土のためにも国民のためにも国民経済のためにも働かない寄生虫とも言うべき国賊なのです。

この中で、数十万の直接的な犠牲者が産み出され、人生を失った国民が死ぬまで働かされようとしているのです。


 ひぼろぎ逍遥 スポット001 

この耐え難い「ヒート・アイランド現象は国土交通省、農水省…が引き起こした!

 打ち水大作戦の大間抜け 古川清久/太宰府地名研究会

 熱 禍 (打ち水するより、コンクリートを引っ剥がせ!)アンビエンテ


これから今回の原因であるヒート・アイランドの話を書きますが、余程気に障ったと見えて、槌田エントロピー理論の槌田敦教授と近藤邦明氏が継続している「環境問題を考える」“その科学的根拠を論じる”というサイトのサブ・サイトとして10年以上前ですが「アンビエンテ」内にヒート・アイランド問題を書いたアンビエンテⅣの56本が、アクセスできない様になっています。

どうせ金で雇われた国交省かどこかの別動隊でしょうが、不都合な記事をネットから消して廻っているようですので、こちらも対抗措置としてこれからも乱発したいと思っています。幸いにも今のところは上の三本は系統が異なるからか生きていますのでお読み頂きたいと思います。ただ、「打ち水大作戦の大間抜け」は相当の長文ですので覚悟してお読み下さい。



スポット192(後) 行政が引き起こした列島のヒート・アイランド化によって豪雨災害と灼熱地獄が発

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スポット192(後) 行政が引き起こした列島のヒート・アイランド化によって豪雨災害と灼熱地獄が発生した ① 

20180710

太宰府地名研究会 古川 清久


雨はどうして降ってくるのか


sp192-3このような表現が地球物理学的に正しいかどうかは一先ずおくとして、単なる公務員上がりの初老人間の話として聴いて頂きたいと思います。

まず、湿った大気が移動し山にぶつかることによって高空に押し上げられた水蒸気は高空の冷たい大気で冷やされ雨や氷に変わり、大半は雨となって山で降りそれが急流となって里の田畑を潤すというのが列島の伝統的な気象現象でした。

しかし、このような湿った大気が横に移動する事によって押し上げられ降ってくるばかりではなく、単に上下に移動するだけでも雨は降って来ていたのです。夕立です。

夏の炎天下で温められた水は水蒸気となって空に上がって行きます。

当然、気圧が下り断熱膨張して温度が下がり細かい水滴として上昇気流の雲の中で浮かんでいるです。

しかし、いつかは飽和し上空に留まる事ができなくなって落ちてくるのですが、それが雨となって一気に降って来るのが夕立だったのです(もはや自分でも過去形で書いているのが情けないですね…)。

これで、日中に熱せられた地表は急速に冷やされ、なんとか快適に寝られる温度となったのでした。

夕立は瞬く間に乾燥した地面に吸い取られました。昔は草むしりをしたくないからとか、蚊が湧かない様にといってコンクリートで固めたりなどされていませんでしたから、地表には土も溝(これも死語になりつつありますが)や家庭菜園があり、それなりの保水力があって実際にも地表にも水があったのでした。

sp192-4翌朝、再び太陽が昇ってくると、この夕立を受け止めた広い大地から再び多くの水が水蒸気となって高空に上がって行きます。

まず、地表の水が水蒸気となって上空に上がって行く時に、地表の水を蒸気と変え地表から多くの熱を奪う事によって地表の温度を下げますし、上空に持ち上げられた水蒸気が冷やされた水となって落ちて来て地表の温度を下げることによって人々は、「ここらで一雨降らないか…」と夕立を待っていたのでした。


駆逐艦 夕立(帝国海軍は伝統的に「万葉集」なみに優雅な艦名を付けるのです)


フィリピンのリンガエン湾上陸作戦からガダルカナル島、そして第三次ソロモン海海戦まで大東亜戦の緒戦から激戦を闘い抜き最期はソロモン海で海没した白露型の4番艦


こうした水循環によって地表の水は空と往復し、同時に熱循環が起こり、室温4045℃などといった気違いじみた部屋で独居老人が孤独死する事など全くなかったのが江戸、大阪の町屋の風景だったのです。

一方、村では方々に堀が残り、ゴミなど一切ない(あったとしてもプラスチックではないため自然に分解するものだったのです)美しい水路が張り巡らされメダカやタガメなど多くの水棲生物がいたのでした。

勿論、山も戦前までは人工林地は非常に限られた地域に管理された一部の杣山だけがあっただけで、大半は広葉樹の森が広がっていました。このため日本の山は多くの水を含んで保水力が豊かであったことからその面積の大きさからも全体としての列島の気候を穏やかに保っていたのでした。

こうして、この最も暑い時期には田んぼには水が入れられており、夕立の材料となる水はふんだんにあることから、毎夕方決まって雨が降って来たのでした。

このように海辺も街も村も山も間断なく穏やかな雨が降る事によって美しい風土と穏やかな気候と豊かな人情と国土が保たれていたのでした。

簡略化して言えば夏のカンカン照りは地表の水を上空に運び、再び夕立として地表に戻し、翌朝、新たに雲(夏の場合は入道雲ですが)となるという水のキャッチ・ボールのような循環によって、実は同時に熱のキャッチ・ボールも行なわれていたのでした。

この機能を戦後70年掛かって徹底的に破壊したのが国土交通省であり農林水産省だったのです。

そして、一層問題なのは二組織ともこの重要な事実に全く気付いていない事なのです。

勿論、いくら頭の悪い土木系とは言いながらも、高級官庁には賢い人間もいるのですから、当然にも知っていて口を噤んでいる人もいるはずでしょう。しかし、本当の事を口走ろうものなら、当然にも出世が出来なくなるとか、天下り先にも煙たがられるだろうからと口を噤んでいるはずで、組織だった発言、評価に至らないために表面的には気付いていないとしか言えないのです。

つまり、大東亜戦末期に“本当は連戦連敗”と言えなかったと同じ構造の空気に支配されているのです。

都市部は当然ながら農村地帯から山岳地帯まで保水力が事実上存在しない国土と化しているという事実については前述の三本を読んで頂くなりする事にしますが、一応、概略だけを述べておきましょう。


 都市部のヒート・アイランド

まず、都市部ですが、昔の河川は表面が覆われているのは橋の下だけで、今の様に全面伏流化した暗渠になっているような事はありませんでした。

その上に重要なのは、炊事から風呂場に至るまでほとんどの水が下水道とか大型地下水道として浄水場はおろか海に直接捨てられることによって地表には事実上水が消えてしまっていることなのです。

僅かに残された公園も管理が簡単なコンクリートで固められたヨーロッパ式(風)の庭園と化し殆ど水はありません。

仮に雨が降ったとしても三面張りの水路でたちどころに地下(下水道の意味)に吸い込まれ、土の地面は鎮守の森に僅かに残された猫の額ほどの小さなものしかなく、ラーメン屋の駐車場から大店舗の駐車場までもがアスファルトで固められ地表に水がある所を探すのが非常に難しいのです。

もしあるとしたら、小泉竹中改革によって国民所得が半減させられ、瞬く間に後進国並みとなってしまった結果、低開発国並みの比較的安い(OECD最下位の一人当たり国民所得)観光地として多くの外国人が押し寄せる事となった結果、韓国人と中国人と在日が立小便する程度しか地表に水が存在しなくなっている事なのです(こいつらは京都の御所や寺や神社でさえ立小便する)。

熱物理学など分からないのか、国土交通省も農水省もただただ河川を直線化し大型化させ、雨が降ったら一刻も早く海に押し流す事しか考えていないのです。

こうして、都市部は全て水循環が切断され、地表が受け取った太陽熱は蓄積される一方となったのでした。もし違うと言うなら出て来て文句を言え!

最低でも都市部のヒート・アイランド現象が国土交通省以下の行政によって引き起こされた事がお分かり頂けたと思います。最低でも疑問を持っていただければ幸いです。

ただ、CO2温暖化論という国際的な国家的なデマの問題があるのですが、そもそも定点観測が行われている土地の周りがヒート・アイランド化によって軒並み(全国どころか全世界規模で)気温上昇しているのです。つまり、現在の観測網では本来の大気現象が把握できていない可能性があるのです。


 農村部のヒート・アイランド

農村部は大丈夫と思われている方は多いかも知れませんがこれも全く違うのです。

農村部でも地方都市は下水道化が多少遅れているとは言いながらも基本的な構造は大都市と全く同じですので、中小河川と農耕地を考える事になります。

実は、ほぼ二十年前に大半が完了した圃(ほ)場整備事業によって、田圃の構造が大きく変わっているのです。

昔の水田地帯は曲がりくねった水路の端々に沼地や湿田や葦原が広がり多くの生物が棲みかとしていました。

しかし、伝統的な湿地帯から小河川扱いの沼地は色々な方法で地区内に取り込まれ、大半の湿田は消えましたし、公有水面(原則国有地)とされていた面積は数字のマジックによりかなりが失われた上に、二面張りの直線的な水路と化してしまいました。

その上に、田畑の切り替えやハウス栽培などといったものへの転換が可能なように、何時でも仮に隣であっても田畑が切り替えられるようにと、昔は段々畑状に上から下へと水が送られていた水田が各々取水し各々排水できる構造に変えられてしまったのでした。

この結果、ひとたび大雨ともなると雨は土壌丸ごと排水路に流し込まれ土も水も失うことになってしまったのでした。

結果、昔は平地にも見られた上の田植えが終わらないと水が下まで来ないとかいった関係が消えてしまったのでした。いずれにせよゴルフ場のような雨が降れば直接排水路に流し込まれ河川に入る事となってしまったのでした。

斑状に水田、畑、ハウス、駐車場、倉庫…などが相当に増えている上に、数年前まで強力に推進されてきた減反政策によっても全国の水田としての作付面積(夏季に水が入れられる水張面積)は半減しヒート・アイランドへの道をひた走っているのです。

従って、都市部だけではなく、地方でも急速に夕立が降らなくなっている事はどなたも経験的にお分かりになっていると思います。


 山間地のヒート・アイランド

この話は林業による人工林地の実態を把握されていないと全く理解できない話なのですが、山に入らない都市に住む方々には中々理解できない事かも知れません。

まず、戦後の農林省による拡大造林政策の発動とは、本当に必要な時には全く間に合わなかった用材林地(大半は杉と桧)の造成でしたが、平坦地はそれこそ米作推進の真っただ中だったため、大半は工業地帯から外れた兵庫、愛媛、福岡、佐賀、熊本、宮崎(何やら今回の西日本の災害地に重なりませんか?)…などが林野庁から狙われた結果(農家に民有林としての人工林育成を勧めた)、大量の杉山、桧山が急増したのでした。

結果、どうなったでしょうか、既に、少子化、無産化、人口減少(これだけでも住宅は余り続けているのです)の上に所得の半減化によって住宅の需要が激減した上に、相対的に所得を維持している都市住民の住居はマンションと化し鉄とコンクリートとプラスティックスとガラスと僅かな外材(米松)で建てられているのです。

こうして凡そ阪神大震災の頃から需要を失った国産材は急増したパネル工法に取って代わられる傾向が顕著となり、実質的に拡大造林政策以来の人工林は放置されたのでした。

結果、通常の伐期である4045年を大幅に超える人工林地が急増したのでした。

元々、針葉樹は広葉樹に比較して根を張らない上に、腐葉土を全く造らず土地が痩せ続ける上に、木材が売れない事から間伐、枝打ちがされずに間伐したとしても現場の急傾斜地に危険な倒木が放置(売れないからですが)される上に、間伐されない事から陽が入らず昼なお暗い中で下草も生えずに、剝き出しの土壌が一方的に雨に打たれて夥しい土壌が流出し続けているのです。

このため売れない木材が急傾斜地に放置され、年々、体積と重量を増した危険な人工林が支える土壌を失いながら崩れる順番を待っている状態とになっているのです。

また、山の奥までコンクリート構造物が造られ、三面張りの水路で水が奪われている事も山のヒート・アイランド化の大きな原因である事は言うまでもありません。

こうして、人工林の中も著しい乾燥化が進み、かつての広葉樹林の森に見られたスポンジのようなふわふわした腐葉土は全て押し流され保水力のない瓦礫のような砂漠地が広がっているのです。

瓦礫の砂漠からは蒸気は持ち上げられる事無く山にも雨が降らなくなっているのです。

これが山に造られるダムにも水が溜まらなくなっている理由の一つなのです(最近は関東地方のダムに水が無いと言う話は頻繁に聴かれるようになりましたね)。

これで、山岳地帯から里山まで人工林化された山地でもヒート・アイランド化している事が多少はお分かり頂けたと思います。

こうして、列島の全体が乾燥化しヒート・アイランド現象が進んでいる事がお分かり頂けたと思います。


 猛夏とも言うべき列島の高温化傾向は、国土交通省が地表から水を消し去った事によって発生しており、殆ど認識されていない農村から山林に掛けても農林水産省が地表から水を奪った結果発生しているのです。

 この熱物理学を全く理解していない国交、農水の二省を中心に戦後70年掛けて伝統的な列島が破壊され続けて来たことがお分かりになったと思います(詳細は前述の三本を中心にお読み下さい)。

問題はこの列島全体を覆う人為的なヒート・アイランド現象でしかないものを、なにやら亜熱帯から熱帯化している(これは全体の現象の一面の表面だけを見たものでしかありませんが…)とか、CO2温暖化による史上経験した事もない異常な豪雨の頻発と高温化によるものであり、とんでもない異常気象によるものであるとする大嘘にあります(史上経験した事もないような…と馬鹿騒ぎしていますが、気象庁や予報官も実はアメダス導入以来のほんの20年間程度の話を大騒ぎしているのです)。

その一部であるCO2温暖化論といった大嘘は、行政とそれに連動する気象庁などでは今も小声で主張する傾向はあるのですが、35度を超える様なこれほどの高温化傾向が出現しているにもかかわらず、今年は何故か比較的おとなしいのは、ホッケー・スティック捏造以来、CO2温暖化論が国家的な大嘘である事が一般にも理解され、小役人などよほどの大間抜け以外は、この大嘘を真顔で信じている人がかなり減っているからでしょう。

ここではこの問題についてはふれませんが、敬愛する武田邦彦教授が脚光を浴びる前、つまり二十年も前から、エントロピー理論の槌田敦と近藤邦明氏らによってCO2温暖化論が国際的、国家的デマであるという事を主張され続けて来ました。

私は、「有明海異変」を出した後(15年も前の役所にいた頃ですが)彼らと連携し、この「環境問題を考える」“環境問題の科学的根拠を論じる”というHPのサブ・サイトとして下世話な公共事業を取り上げる「アンビエンテ」として足掛け五年程書き続けました。

 このため、CO2温暖化論がデマであることについては…大型サイトの「環境問題を考える」“環境問題の科学的根拠を論じる”をお読み頂きたいと思います。


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川についてはsp192-6人工林についてはsp192-7

人工林問題については平野虎丸氏のサイトをお読み下さい。

552 淀 姫 ②(前) 

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552 淀 姫 ②(前) 

20190723

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


④ 河上タケル異伝

私的には「宮神秘書」の神功皇后妹説よりも、百嶋神代系図の河上タケルの妹説に惹かれるのだが、まず、ヤマトタケルの熊襲征伐譚があまねく広がりを見せる中、河上タケルが肥前にいたと考える人はまずいないことだろう。

ところが、佐賀市に編入された現地には、旧「大和町」、「川上峡」という地名にとどまらず、それなりの伝承が残っているのである。

これについては、別添の故平野雅廣(日+廣)氏の「異説河上タケル」に併せ「松野連系図」(国会図書館所蔵)を読んで頂くとして、今も河上タケルが酒宴を行なっていたとする伝承と墓石(墓標)があったというものが現地の真言宗御室派の健福寺に残されている(別添)。


ここでも近畿王権に都合の良い改竄があると考えるのであるが、「松野連系図」と併せ考えると、熊襲の勢力は薩摩とか大隅の辺境どころか、この一帯から、糸島半島、甘木の一帯まで広がっており、その内部での抗争を近畿からやってきたヤマトタケル(オウス)が征伐したとの神話に仕立てていることが見えてくるのである。

 豊玉姫説について

では、豊玉姫説は成り立つのであろうか。既に、「ゆたか」と読む豊(ユタ)姫が淀(ヨド)姫に転化した可能性は指摘したが、その豊姫が豊玉姫と読み替えられたことも想定できる。

まず、通説による神武系図によれば、ニニギの子であるホオリ=山幸彦の妃がトヨタマヒメであり、その子がウガヤになるのだが、豊玉姫は子育を放棄し竜宮に帰ってしまう。その代わりに送られてきたのが妹のタマヨリヒメで、その育ての母とウガヤが結婚し生まれたのがカムヤマトイワレヒコ=神武天皇である(前頁の通説系図参照)。

従って、神武天皇から見れば豊玉姫は祖母にあたり(大分熊本県境に聳える祖母山の名はその裾野にその祖母を奉祭する大神一族がいたことから付された)、玉依姫は乳母と言えないこともないのである。

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宮崎県の可愛山陵掲示板

ここからは、上無津呂の淀姫神社を念頭に書くこととするが、上無津呂、下無津呂に豊玉姫、玉依姫が祀られ、淀姫神社と乳母神社がある理由は、自らが神武天皇の直系の一族であるとの思いが込められていることは、まず、間違いないであろう。

では、淀姫が豊玉姫や玉依姫と言えるのであろうか?結論から言えばそれは全くないと考える。私見ではあくまで淀姫の古代の読みである豊(ユタ)姫(百嶋神代系図では玉姫とも記されている)が、豊玉姫、玉依姫と理解された、もしくは、淀姫神社の祭神が入れ替えられたと考えている。

恐らく、それを行なったのは「佐賀県神社誌要」の上無津呂の淀姫神社にも顔を出す神代(クマシロ)勝利の一族ではないだろうか?

 そう考えられる理由は神代氏の出自にある。まず、肥前の名族神代氏は、後には鍋島の同族とまでなり維新まで生き延びるが、戦国期は肥前山内(サンナイ)を拠点に龍造寺一族と覇を競った戦国武将であり、川上の淀姫神社(の庇護)を背にして一大決戦を行ったが、裏切りがあり敗北し無念にも上無津呂まで落ち延びたが、在地庄屋の嘉村一族に匿われている。この辺りの神代一族の大活躍については、ネット上にも北肥戦誌が公開されており労することなく読むことができる。

 結果、神代氏にとって上無津呂の淀姫神社は一族の守護神になったのである。

 事実、上無津呂に対し現在県立博物館に収納されている大小の太刀と水田が寄進されている。

 この神代一族は、古くは「鏡山」と称し高良大社の大祝職であった宮司家一族であり、高良玉垂命の、即ち神武天皇の直系、第七代孝元天皇の子彦太忍信命の子屋主忍信武雄心命の子武内宿禰の後裔と自認していたのである。

 従って、「宮神秘書」にある神功皇后の二人の妹の一人が「河上大明神トナリ玉フ」の記述を知らなかったとは考えられず、その後も続く龍造寺氏との一大決戦に際し、さらに遡る神武天皇の母(乳母)祖母神である二神を祀った(淀姫の庇護を受け闘い敗北したことから、逆に嘉村一族の側から申出したものかも知れない)のではないかと考えている。

その証拠に、社殿の欄干には今も高良大社の神紋左三つ巴と木瓜紋が確認できる。

 むしろ、それまで淀姫を奉祭していたのは神代を匿った嘉村一族であったはずで、自らの氏神を淀姫(豊姫)としていたものと考えられる。

ただ、その淀姫が神功皇后の妹か、河上タケルの妹かについては今のところ決め手がない。

しかし、実は両方とも正しく、ある時代は地域の安定のために誅殺された逆賊川上タケルと安曇磯良の妃となったその妹豊(ユタ)姫が祀られ、神功皇后が主役の時代には神功皇后の二人の妹が祀られ、近畿王権の時代には掻き消され、室町、戦国期を向かえ、江戸期の仏教上位の時代を向かえたのではないだろうか?そして、明治以降現在まで続くある種の偏った神道を受け入れなければならなくなったのではないだろうか?

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淀姫神社 カーナビ検索 佐賀市富士町上無津呂

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肥前一ノ宮河上の淀姫神社とは何か?

「佐賀県神社誌要」により、祭神は與止日神と大明神の二神と分るが、かつて、国府が置かれ多くの勢力が犇き、交通の要衝でもあることから、二十近い境内社も合わせ祀られている。

 式内社であり、肥前一の宮ともされる淀姫神社(元寇以降田島神社から淀姫神社が一の宮とされた)の祭神が誤記であるはずはないことから、二神が祀られていることは間違いがないであろう。

しかし、大明神とは誰のことであろうか?

 百嶋神代系図では、河上タケルとその妹豊姫と明瞭であるが、その痕跡が留められているとすれば興味深い。

事実、主神は逆賊河上タケルと、表筒男命=安曇磯良の妃となったその妹淀姫を意味するかのように、河上の淀姫神社本殿の千木は男神であることを示している。

神功皇后の二人の妹の内の一人を祀るとする「宮神秘書」の記述もあり謎は深まるばかりであるが、神名帳に言う「與止日女神有鎮座一名豊姫」とあり、千四百五十年前には、一神が祀られ、後に名誉回復された河上タケルが合祀されたのではないかと考えたい。

一方、古湯の淀姫も海津見神と二神が祀られており、こちらは百島神代系図により淀姫の夫となった表筒男命ではないかと考えている。

  神水川(オシオイ)川

上無津呂の淀姫神社の前には神水川(オシオイ)川が流れ、下流の下無津呂には乳母(メノト)神社が置かれている(上無津呂川とも呼ばれ下無津呂からが神水川か?)。


552 淀 姫 ②(中) 

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552 淀 姫 ②(中) 

20190723

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


まず、「佐賀県神社誌要」には乳母神社が書かれていないことから、表向きは、豊玉姫と玉依姫を祀る上無津呂の淀姫神社の分(姉妹)社というより、同格の別宮として両方に二神が祀られているものと考えている(これについては、後日、玉依姫と大海神と確認)。

さて、山奥の小集落に、なぜ、佐賀の一宮を上回る起源を持つ神社があり、乳母神社までが置かれているかを不思議に思う向きがある。

乳母神社は、上を豊玉姫社、下を玉依姫社、従って乳母神社であるとしたものであろうことから、当然、各々二神が祀られているのであろう。

このため乳母神社の呼称は、一応、愛称と理解している。

奇しくも「古事記」編纂千三百年の年であるが、それをさらに二百年も遡る伝記を持ち、河上、與賀の両県社を五十年は上回る神社が、今年、この地で千五百年祭を迎えるのである。

A)  神社でも寺でも一般の理解とは逆に山奥の方が社格も寺格も上であることが多い。

それは、奈良仏教(南都六宗派)、平安仏教(天台、真言)で、より、顕著であり、また、農地の発展とも対応している。

つまり、水田稲作は大平野から始まったのではなく、水を利用しやすい山間地の小平野や佐賀県にも多く認められる隈と付された山裾の奥まった湧水が利用しやすい場所から最初の水田稲作が始まったからである。

『古事記』にスサノウが馬の首を神殿に投込み、田の畦を切ったとしてアマテラスが悲しむ部分があるが、畦を切るのが大罪なのは、それが山間の棚田であったからで、棚田の畦の崩壊は連鎖的な山体崩壊さえも引き起こす危険な行為なのである。

従って、古い先住者ほど安全で水の得やすい山奥の集落に住んでいたはずで、干拓地や特に関東平野のような川底が深く管理できない大河川流域では水田の開発が遅れ、人口が増え大堤防や井関や超延長の用水路が造れるようになって、始めて平地での開発が始まったのである。

それ以上のことは言えないが、平地は子孫である分家筋が住み着いたのであり、その時代には、既に浄土教、法華経、禅宗が流行していたのである。

大平野部は浄土真宗や曹洞禅だらけという意味はこのような背景があるのである。

B)  御塩井汲神事というものがある。箱崎八幡宮の御塩井汲みは知られているが、元は大分八幡宮の潮汲みの場でしかなかった。

しかし、御潮井汲みは古代においてこそ重要で、山奥の集落では子孫の繁栄のためには、産前産後を通し母子には安定したミネラルを供給する必要があったのである。

塩井汲みは神の皇子の妊娠、出産、育児、即ち王権の維持継承のために欠くことのできない重要な神事だったのである。

-552-2当然ながら山奥にある王宮ほど生まれた子の生存率を上げ、従って王統、皇統を維持するためにも、想像以上に頻繁に海に潮を汲みに行く必要があったはずで、塩井の名はそれを今に伝えている。

C)  そもそも車が普及していなかった時代には、つまり、つい最近の戦時中においてさえ、佐賀県で言えば、嬉野市と鹿島市の境の山上集落(春日、大野)では泊り込みで塩造りのための若者組の部隊を海まで送り出していたという話を聴いたことがある。

D)  一般に、肉食動物は内臓を捕食することによりミネラルを確保できるが、草食動物は岩の隙間から染み出す鉱泉や温泉の場所を知っており、それなくしては生きて行くことはできない。このため猟師はそのような場所を子孫に伝え、効率的に待ち伏せし獲物を得ていたのである。

E) このことから、温泉や鉱泉の効能や安産が結び付けられるのであり、この神水川の水系のどこかにそのような場所があり、海まで行かずとも十分なミネラルが得られていたのかも知れない。

F)  さて、ここからはさらなる思考の冒険になる。淀姫神社でも豊玉姫、玉依姫をセットで祀るのは上無津呂だけであり、なお、際立った異彩を放っている。

   百嶋神社考古学を知るものからは、通説による神武系図のニニギ、ウガヤフキアエズの流れは、確かに豊玉姫、玉依姫(実は鴨カモ玉依姫)と関係があるとするのだが、百嶋神代系図によれば、神武の本当の母親である神カム玉依姫とは別人であり、豊玉姫は神武とは無関係なのである。

   また、河上タケルの妹である豊(トヨ)姫=淀姫の夫となった安曇磯良=表筒男命の母=ウガヤフキアエズの妻である鴨カモ玉依姫は、同時に大山咋=佐田大神=松尾神社=日吉神社との間に活ハエ玉依姫や中筒男命=贈崇神天皇を生んでおり、その流れから『日本書紀』に登場する武内宿禰の身代わりとなった壱岐真根子が出てくることから、上、下両無津呂の隣の集落が麻那古(麻那古と真根子を直接繋ぐ根拠はない)であることと併せ考えると、既に神代には真実の系譜が忘れられていたか、もしくは、神代一族とそれを総帥と祀り上げた三瀬氏(野田周防守大江清秀の一族)を含めた政治的な配慮がなされて豊玉姫+玉依姫が奉祭されたかのいずれかであろう。

 延喜式神名帳

平安時代中期に編纂された格式律令の施行細則)『延喜式神名帳』には、肥前國として、大社11社(名神大社)・小社33社の計44社が記載されている。

 あくまでも比定であるが、松浦郡に2座 田島神社(田島坐神社)唐津市呼子町加部島、

志々伎神社志志伎神社)長崎県平戸市野子町、基肄 1荒穂神社三養基郡基山町宮浦、佐嘉郡 1與止日女神社与止日女神社)佐賀市大和町川上 とする。

ただし、現在の淀姫神社から嘉瀬川を一キロほど遡った左岸、現在の肥前大和巨石パークの中に造化大明神という大石が有り世田姫が祀られているが、この地を与止日女神社の上宮として明治まで祭礼を行なっていたとも聴く。

巨石信仰と龍王の遣いとして鯰がのぼる淀姫とは繋がりにくいが、淀姫が何かを探るには必要な作業となる。

 もう一人の豊姫?

淀姫神社の祭神を探る中、ユタ(ヨタ)姫が豊姫、世田姫などと記され、

後にヨト(ヨド)姫と呼ばれ、淀姫との表記が定着したのではないかと仮定したが、実は、筑後地方にもう一つの豊姫が認められるのである。

 筑後国の『延喜式神名帳』には、大社11社・小社54社の計65社が記載されているが、三井郡には豊姫を祀る豊姫神社、八幡神社(豊比咩神社)がある。

いくつかの比定地が推定されてはいるが、実は「豊姫神社」がどこにあったかは分かっていない。

ただ、久留米市北野町赤司の赤司八幡宮の可能性が高いと考えるので、以下、これを中心に筑後の豊姫を考えることとする。

赤司八幡宮は高良玉垂命の後裔と言われる稲数家が高良玉垂宮の祭祀権を奪われ、領地を与えられ移り住んだと言われる稲数地区の直ぐ隣に鎮座している。

以前、宮司の宮崎氏(高良山研究の第一人者古賀 寿氏の弟子にあたる)から直接資料を頂き御説明を賜わったが、伝えられる縁起には確かに神功皇后の妹豊姫の名が登場するのである。

 これについては、貴重極まりない「赤司八幡宮文書」がネット上に公開されているので、その一部を紹介したい。 

 

元大城小学校教諭 野口治七郎氏編著 北野町教育委員会作成 第四章 豊姫縁起


豊姫神社の起源は天照大神の神勅によって宇佐・宇像・道中の三ヶ所に降られた三女神のうちの道之中というのは ここである。「汝三神宣降居道中奉助天孫而為天孫所祭也」(神代巻) とある道中は河北荘道中である。「今在海 北道中號白道主貴(ミチスキ)此筑紫水沼君(ミヌマノキミ)等祭神也」(神代巻)とあるが「海北」とあるのは「河北」の書誤りである。

のち景行天皇が筑紫を巡狩されるや、当社の祭神田心姫命(タゴリヒメ)荒魂(アラミタマ)八止女津媛(ヤメツヒメ)となって現れたが、 水沼県主(ミヌマノアガタヌシ)大海(オオミ) に神告がありましたので天皇は当社に行幸されて田心姫命を道主貴として崇められました。
 神霊の至すところ、 九州が平定したので、御子国乳別(クニチワキ)皇子を長く、祭祀の御手代(ミテシロ)としてとどめられました。成務天皇のとき、筑紫道之中に勅して御井郡を当社道主貴の神部とし、稲置(イナギ)・楯矛をもってそのしるしとされました。稲置の居跡は後に稲数村と いい、楯矛等をおさめる兵庫の遺跡を陣屋村というようになりました。
 やがて三潴郡も国乳別皇子の領所として永く筑紫道之中の藩屏とされましたが、水沼君こそはこの国乳別の子孫であり、 赤司大宮司も水沼君の末裔として今日に至るまで懈怠なく神に仕え、河北惣大宮司として相続したわけです。
 神功皇后が西征の途に於て中ツ海(ナカツウミ)(有明海~当時の筑紫平野)を渡られるに際しては、 水沼君は軍船をととのえて有明海を渡し、蚊田行宮(稲数村)を建ててこれに迎えました。皇后三韓退治後ふたたび蚊田行宮に入らるるや 水沼君はこれを迎え、軍船の名残をとどめてその記念とした。遺卯の御船といって後世長くのこされたのはこれなのです。
 皇后は蚊田宮に応神天皇を分娩されるに際しては、水沼君は高天原よりうつしたという潟の渟名(ヌナ)井の霊水 を産湯として奉った。潟の渟名井は道中の神井として神聖を保った霊泉でした。    

皇后は縁故ふかい道中の当社に妹豊姫命を 道主貴としてととめられ、長く西海の鎮護として重要視されました。そのために当社を豊姫之宮と稱するようになったが、 神名帳には止誉比咩神社とあります。


と書いている。

前述のように「宮神秘書」においても神功皇后の二人の妹の一人である豊姫が「河上大明神トナリ玉フ」としており、通常、複数の別の資料によって裏付けられるものは事実であったとするのが常道であり、それに従えば、ある時期には高良山の神功皇后を中心に、豊満大祝、河上祝が戦略的に配されていたのかも知れない。

その時期とは、当然にも神功皇后が高良山にいた時代、つまり、高良玉垂命=第九代開化天皇が高良山にいた時代となる。

なぜならば、通説では神功皇后の夫は仲哀天皇とされるが、「宮神秘書」では「高良玉垂命と神功皇后とは夫婦となった」としているからである。


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